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日記
2025年・7月

  31日





   はぁ……。


   ……。


   ……かわ、いた。


   ……!


   くち、が……かわ、いた。


   口の中が乾いているのですね、分かりました。
   直ぐに、用意致します。少々、お待ち下さい。


   ……はぁ。


   ……。


   ……う。


   動いては、いけません。
   あなたの躰は未だ、動けるような状態ではないのです。


   ……どうでも、いい。


   良くありません。


   ……。


   あなたは丸二日、酷い熱で意識を失っていたのです。
   生死の境を彷徨っていたと言っても、過言ではないのですよ。


   ……たいしたことでは、ない。


   大したこと、あります。
   あなたの熱は、毒によるものかも知れないのです。


   なんでも、いい……ころがるむくろがひとつ、ふえるだけだ。


   あなたは未だ、生きています。
   毒を其の躰に受けても、尚。


   ……ほうっておけば、


   どうして、放っておけるのでしょうか。
   そんなこと、私には出来ません。


   ……おれ、ひとりに、むだでしかない。


   お願いです……無理に、躰を動かそうとしないで下さい。
   傷……今は、縫い合わせていますが……塞がっては、いないのです。


   ……むりでは、ない。


   無理です。
   熱だって高いままで、未だに下がってはいないのです。


   だから……なんだ。


   無理をすれば、命に係わります。
   ですので、あなたが今すべきことは……?


   ……は。


   ……。


   いのち、など……もう、どうでもいい。


   全くもって、どうでも良くありません。


   ……ごうじょう、だな。


   兎に角、動いては駄目です。
   せめて熱が下がるまでは、安静にしていて下さい。


   ……めいれい、か。


   いえ……此れは、ただのお願いです。


   ……。


   私は、役に立たないかも知れない……けれど、出来ることはしたいのです。


   ……おまえ、なぞ。


   聞いて、呉れなければ……此の命を懸けてでも、行かせないだけです。


   ……は?


   私は、私の務めを果たす為に、此処に居るのです。


   ……おれでは、なく。


   いいえ、私はあなたの傍に付いているよう、あなたの隊長から強く命令されています。
   我が師長も、其れを認めました。ですから、私はあなたから離れるつもりはありません。
   仮令、此の命を落とそうとも。あなたを、行かせるわけにはいかない。


   ……。


   冷たいお水が欲しいのかも知れませんが、今は、此れで我慢して下さい。


   ……これ、は。


   薬湯です。


   ……いらぬ。


   ただの白湯です。


   ……。


   程良く冷めていますから、火傷はしない筈です。
   でも、一気には飲まず、ゆっくりと飲んで下さい。
   喉に詰まらせぬよう、お腹を驚かさぬよう。


   ……どちら、なんだ。


   はい?


   ……ほんとうに、さゆか。


   白湯ですよ、ただの。
   けれど、味覚異常を起こしている場合は苦く感じるかも知れません。


   ……いら


   どうか、我慢して下さい。


   ……。


   あなたの躰は此れからも大量の汗をかく筈ですから、どうしたって水分が必要なんです。
   水分を取らなければ、脱水症状に陥ってしまいますから。


   ……だっすい。


   つまり、水分を取らないと躰……いえ、命が持たないのです。


   は……それは、いい。


   いいえ、ちっとも良くありません。


   ……なんなのだ、おまえは。


   私は……私は、ただのしがない医生のたまごです。


   いつぞや、も……。


   ……。


   ……そう、いつぞやも。


   憶えていて、下さったのですね。


   ……いままで、わすれてた。


   構いません、思い出して呉れたのですから。


   ……どうせ、またわすれる。


   其れでも、良いのです。
   私のことなぞ、すっかり忘れて下さい。


   ……おまえは、おぼえているのだろう。


   出来れば、然うしたいと思っています。


   ……。


   ……だけど、此処では憶えておける自信がない。


   いい……おれのことなぞ、さっさとわすれろ。


   ……。


   どうせ、しぬ……さきもりなんぞ、おぼえておくだけ、むだだ。


   ……死なないで下さい。


   は……?


   ……難しいかも知れませんが、出来るだけ、死なないで下さい。


   おまえ……ばかか?


   ……莫迦です。


   ……。


   拙い知識があったところで……ひとつも役に立たない、何も出来ない、誰も救えない。


   やくにたとうと、おもうな……。


   ……私は、医生のたまごです。


   そんなのは……ここでは、どうでもいい。


   ……今は、看護しか出来ずとも。


   できることを、すればいい……たとえ、だれかのやくにたたなかろうと。


   ……其れでは。


   おまえこそ……むだに、しぬな。


   ……。


   いせいの、たまごならば……いきて、だれかをたすけろ。


   ……あなたは。


   あた……おれは、いい。


   私は。


   ……。


   あなたを……生かしたい。


   ……さきもりは、しんでこそ、だ。


   知りません。


   ……かわりは、いくらでも、いる。


   居ません。


   ……。


   あなたの代わりは、何処にも居ません。


   ……ならば、なぜ、しねという。


   ……。


   それは……かわりが、いるからだろう。


   防人として見た場合は、然うなのかも知れません。


   ……ほら、みろ。


   だけれど、其れは間違った考え方です。


   ……。


   防人である前に、あなたはひとりのひとのこです。
   故に、あなたというひとのこの代わりは居ないのです。


   ……おれに。


   ひとのこは、死ぬ為に生まれて来たわけではない……生きる為に、生まれてきたの。


   ……それで、ころしあいを、する。


   然う……こんなことは、本当は、間違っているんです。


   ……いきるために、ころす。


   ……。


   それも、また……ひとのこ、だ。


   ……だと、しても。


   おまえは……おのれが、いきのこることだけを、かんがえればいい。
   いきるために、うまれてきたというのなら……な。


   ……あなたも。


   それよりも……。


   ……なんでしょう。


   いつ、のませるきだ……。


   ……あ。


   ……。


   ……ごめんなさい、直ぐに。


   いい……じぶんで。


   動いては、駄目です。


   ……どうやって、のめと。


   此の水差しを使います。


   ……い


   大丈夫です、心配しないで下さい。
   痛くはありませんから。


   ……。


   もう何度かしていて、初めてではないのです。
   あなたは、憶えていないかも知れませんが。


   ……おもいだしたくも、ないな。


   飲んで下さった時は……本当に、嬉しかった。


   ……おれが、はじめてではないだろうが。


   然うですね……あなたが、初めてではありません。
   だけど……いきていて、くれたのは。


   ……はなしは、いい。


   はい、早く口の中を潤したいですよね。


   ……ちょうしが、くるう。


   此の白湯は、湧き水を一度煮沸していますので


   だから、いい。


   ……ごめんなさい。


   はぁ……つかれるな。


   其れは、いけません。
   飲んだら、また休んで下さい。


   ……なぁ。


   はい、なんでしょう。


   ……なんでもない。


   何か、ご要望があれば


   ほうって


   無理です。


   ……はやく、のませてくれ。


   はい、失礼します。


   ……おい。


   こうしなければ、飲ませることが出来ませんから。


   ……おまえの、ほそいうでで。


   こう見えても、力がないわけではないのです。
   私は、医生のたまごですから。


   ……あぁ、そうかい。


   ですので、安心して委ねて下さい。


   ……むりだ。


   ん……。


   ……やっぱり、


   躰に力を入れては、駄目です。


   ……。


   分かりますよ。


   ……はらだったら、


   絶対に、駄目です。
   お腹にだって、傷を負っているんです。


   ……。


   じっとしていて下さいね……。


   ……。


   よい、しょ……。


   ……おれそうだ。


   此れを、後ろに……。


   ……。


   ……うん、此れで良し。


   もう……いいのか。


   はい、どうぞ楽な姿勢で寄り掛かって下さい。
   良いですか、寄り掛かるんですよ。


   ……おせっかい、だな。


   躰に、痛みはませんか。
   何処か、苦しくはありませんか。


   ……。


   苦しいですか……?


   ……いいから、はやくのませてくれ。


   はい、ただいま。


   ……。


   ゆっくりと、飲んで下さいね。


   ……どうせ、いっきにはのめないさ。


   ……。


   いまの、おれでは……な。


   然う、ですね……。


   ……。


   ……では。


   あぁ……。


   ……。


   ……ん。


   ……。


   ……すくなすぎる、もうすこしよこせ。


   いいえ……。


   ……めんどう、だな。


   万が一、気道にでも入ってしまったら……今のあなただと、肺炎になってしまうかも知れません。


   ……。


   所謂、変なところに入ってしまったら、大変なことになるかも知れないのです。


   ……そのまえに、むせる。


   咽ても、全ては出しきれないこともあります……機能が鈍っていたら、余計に。


   ……わかったから、つぎをよこせ。


   はい……。


   ……。


   ……大分、飲めるようになりましたね。


   こんな、すこしで……。


   ……はい、こんな少しでも。


   ……。


   本当に、良かった……。


   ……たった、ひとり。


   たったひとりでも、大切なんです……。


   ……いしきが、ないあいだ。


   直接、飲ませるわけにはいきませんから。


   ……。


   唇を、湿らせていました……湿らせた布で。


   ……それくらい、で。


   どうにかなるなんて、思わなかった……。


   ……。


   ……だから。


   おい……。


   ……。


   ……みずが、もったいないぞ。


   水……?


   ……めから、みず。


   あぁ……涙と言うんですよ。


   ……それくらい、しってるよ。


   ふふ、然うですよね……。


   ……。


   ……ごめんなさい、こんな弱気な姿を見せてしまって。


   べつに……。


   ……ありがとうございます。


   ……。


   あの……お腹は、空いていませんよね。


   なにか、あるのか。


   ……え。


   なにか、あるのなら……。


   ……食べられそうなのですか。


   わるいか。


   いいえ、いいえ、悪くはありません。


   ……ならば。


   ……。


   ん……なんだ。


   ……熱は未だ、下がっていない。


   こんなねつ……たいしたことない。


   ……いえ、油断は大敵です。


   おまえ……ほんとうに、めんどうくさいな。


   ……。


   くわさないのか……。


   ……分かりました。


   なにが……。


   少しずつ食べると、約束して下さい。


   ……あ?


   一気に食べずに


   むりだ。


   ……。


   ……すこしずつでいいよ、なにかくわせてくれ。


   待っていて下さい。


   ……またされて、ばかりだ。


   ……。


   ……ほそい、な。


   お待たせしました。


   ……これは、なんだ。


   山芋を摺ったものです。


   ……こんなもの、よく。


   山芋ならば、消化に良いので、今のあなたでも


   あー……わかった、くえるならなんでもいい。


   ……食べさせても、良いですか。


   もう、すきにしろ……。


   ……。


   ん……なんだ。


   ……こんなに、お話出来るなんて。


   どうせ、わすれるんだ……。


   ……然うだとしても。


   ……。


   ……少しずつ、食べましょうね。


   わかってるよ……。


   ……其れでは、いただきます。


   ……。


   ……ん、なんです?


   どうして、おまえがいうんだ……。


   ……おかしい、ですか。


   おまえも、くうのか……。


   いいえ……此れは、あなたの分です。


   ……。


   おかしい、でしょうか……?


   ……べつに、おまえならおかしくない。


   ……。


   ……いただきます。


   はい……どうぞ。    


  30日





   ……。


   ……まことさんの、背中。


   ん。


   ……。


   なんだい、大夫。
   何か、言ったかい。


   ……まことさんの背中、好きだなぁって。


   背中?


   ……はい。


   大きいだろう、あたしの背中は。


   ……でも、女性らしい丸みも感じます。


   然うかな……筋肉ばかりで、硬いと思うけれど。


   ううん……あなたの背中は、とてもしなやかですよ。


   ……おまけに、傷まであって。


   其れが、何の問題になるのでしょうか……。


   醜い傷ものだ……決して、綺麗なものではない。


   ……美醜の基準は、ひと其々ですから。


   ひとそれぞれ、か……。


   ひとつひとつ、数えるんです……そして、痛まぬように。


   ……大夫は、あたしの背中が本当に好きだね。


   はい……好きです。


   ……物好きだ。


   あら、然うですか……?


   ……こんな背中を持つ、あたしに惚れて呉れるなんてさ。


   背中だけではありません。


   ……。


   私が、好きなのは。


   ……やっぱり、物好きだ。


   あなたは、此の世で生きる誰よりも素敵なひと。


   ……。


   お返しです。


   はは……こいつは、やられた。


   ……たまには、良いでしょう?


   たまに、かい……?


   ええ……たまに、です。


   ……まぁ、大夫が然う言うのなら。


   あなたよりは、少ない……。


   ……然ういうことに、しておこう。


   本当のことなのに……。


   ……指先で、なぞられると。


   ……。


   其れはもう、くすぐったくてさ。


   ……耳元で、囁くように笑う声も好きです。


   堪えているんだよ、あれでも。


   ……堪え切れずに、漏れ出す息も好きですよ。


   ……。


   ……甘い、溜息のようで。


   敵わないな……。


   ……早くまた、触りたいと。


   ……。


   ……指先が、恋しく思っているの。


   早くまた、触って欲しいと思う。


   ……くすぐったいのに?


   今日の大夫は、少し意地が悪いな。


   ……然ういう時も、ありますよ。


   ゆっくりと、確かめるようになぞられる……。


   ……。


   あの時間もまた……たまらなく、好きなんだ。


   ……背中だけでは、ありません。


   ん?


   ……私が、触りたいのは。


   あぁ……よぉく、分かっている。


   ……首から、肩にかけて。


   腹……腰も、然うか。


   腕、太腿……其れ以外も。


   ……。


   全て……触りたい。


   ……手加減は、して欲しい。


   さぁ、どうでしょうか……特に今は、ずっと、触れていませんから。


   ……其れは、あたしも。


   ならば、分かって呉れますよね……?


   ……。


   私の、気持ち。


   ……あぁ、とても分かるよ。


   ふふ……。


   ……はは。


   ね、まことさん……。


   ……なんだい、大夫。


   今は、何を作っているのですか……・


   其れは、また……話が、大分変わったね。


   ……気になってはいたの。


   今はね……大根粥を作っているんだ。


   ……お大根。


   然う……大夫が好きな、大根粥。


   ……。


   ん……大夫、起きるのかい?


   はい……また暫くの間、躰を起こしていようと思って。


   然うか。


   横になってばかりだったので、いい加減、躰が鈍ってしまいました。


   其れはまぁ、仕方がないな。元気になったら、少しずつ取り戻せば良いさ。
   あたしも、手伝うから。と言うより、手伝いたい。手伝わせて欲しい。


   ふふ……はい、其の時はお願いしますね。


   うん、任せて呉れ。


   ……。


   手は……。


   ありがとうございます……でも、大丈夫です。


   ……。


   ……ふぅ。


   うん……大分、すんなりと躰を起こせるようになったね。


   はい……大分。


   ……良かった。


   躰は未だ少し重いのですが、其れでも疲労を感じることがなくなったので、其れが大きいと思います。


   あぁ、何よりだ。


   まことさんのお蔭で、起きていられるようにもなりました。


   あたしは、当たり前のことをしているだけだよ。
   大夫こそ、良く辛抱して、頑張ったと思う。


   ……其れも、まことさんのお蔭です。


   こうなると、一緒に眠れる夜も近いかな。


   其れは……未だ、分かりません。


   む、然うか。


   ……私としては、早く一緒に眠りたいのですが。


   あたしの躰に触る為に……?


   ……確認する為に、です。


   確認か……物は言いようだ。


   ……ぅ。


   大夫、どうした?


   躰が硬くなっているせいか……少し、腰が痛くて。


   腰……か。


   寝返りは打てるのですが……其れでも、躰を解すには足りませんから。


   大夫。


   はい。


   動けるようならば、少し、此方に来ないかい。


   ……いえ、其方には未だ。


   ん……然うか、未だ早いか。


   ……早く、一緒に食べたいですね。


   うん……早く一緒に食べたいな。


   ……。


   大夫、良かったら後で腰を揉み解そう。


   ……お願いします。


   ん。


   ……。


   ……。


   ……まことさんは。


   うん?


   まことさんは、何処か躰の不調を感じたりはしませんか。


   あたしは、大丈夫だ。
   熱もないし、怠くもない、疲れやすくもないし、食欲だってある。


   何か不調を感じたら……些細なことであっても、直ぐに言って下さいね。


   ん、直ぐに言うよ。


   ……今の私なら、診られると思いますから。


   うん……。


   ……。


   ……然うだ、大夫。


   はい……。


   つい先刻、短箋の返事が来たんだ。


   お返事、ですか。


   返事は不要と書いたのだけれど、律儀に返して呉れた。
   美奈の代筆で。


   ……なんと、書かれていたのですか。


   未だ、読んではいないんだ。
   ふたりで読もうと思っていたから。


   ……。


   ごはんの前に読もうか、それとも、ごはんの後にしようか。
   或いは、今直ぐが良いかい?


   ……ごはんの前にしましょう。


   ん、分かった。


   ……お味噌汁も作ったのですか。


   あぁ、具は塩抜きした山菜だ。


   山菜……お昼も、ご馳走ですね。


   ふふ、然うだろう?
   夜にもまた食べられるようにと、多く作っているんだ。


   ありがとうございます……まことさん。


   どういたしまして、大夫。
   たんと食べて、


   少しでも早く、元気になりますね。


   ……うん。


   ……。


   お腹、空いてきたかい?


   空腹は、未だ……でも、食欲は感じます。


   あはっ、其れは良かった。


   ……外は、今日も雪が降っているんですよね。


   うん、今日も朝から降っているよ。
   けど、今日はそこまで多くはないかな。


   ……春は、近いのでしょうか。


   然うだな、もうそこまでは遠くないかも知れない。


   ……雪が解け始めたら、山菜取りに行ってみたいです。


   山菜取りに?


   はい……連れて行って、貰えませんか。


   勿論、一緒に行こう。


   ……其れまでには、必ず、良くなりますので。


   そして、ある程度で良いから、体力を取り戻しておこうか。
   山菜を取りに行くのなら、体力も必要になるからさ。


   ……はい、頑張ります。


   あたしと、ね。


   ふふ……はい。


   さて……大根粥が、出来た。


   ……。


   もう、よそっても良いかい?
   其方に持って行くよ。


   ……やっぱり。


   うん、なに?


   ……一緒に、食べたいです。


   大夫……。


   ……私が、決めたことなのに。


   一緒には、食べられないが。


   ……。


   あたしはいつだって、食べる大夫の傍に居た。
   今度も、また。


   ……まことさん。


   然うだ、良かったら其処から見ていて呉れないかい?


   ……まことさんが、食べているところをですか。


   うん……其れで、他愛ない話をするんだ。


   ……。


   ……どうだろう、大夫。


   まことさんが……其れが、良いのなら。


   ……あぁ、其れが良い。


   ……。


   隣に居なくても……大夫は、其処に居る。
   其処に居て、話が出来るのなら……ひとりで、食べることにはならない。


   まことさん……。


   ……ひとりで食べるごはんは、寂しい。


   ……。


   大夫は、ちゃんと居るのに……。


   ……まことさんが、先に食べて下さい。


   え……?


   ……私は未だ、大丈夫ですから。


   ……。


   でも、お腹が空いていないのなら……。


   ……食べようかな。


   ……。


   食べても、良いかい……?


   はい……どうぞ、食べて下さい。


   うん……なら、然うしよう。


   ……。


   先ずは、お茶を淹れようか。
   大夫は、どうする? ごはんと一緒の方が良いかい?


   ……はい、食事と一緒に頂こうと思います。


   ん、分かった。


   ……。


   ……。


   ……?
   まことさん……?


   ……あたしが淹れた、薬湯。


   ……。


   ちゃんと、効いて呉れて良かった……。


   ……。


   熱冷ましのものしか、淹れることは出来なかったけれど……其れでも。


   ……十分ですよ、まことさん。


   ……。


   私に、あなたが居て呉れて……本当に、良かった。
   でなければ……私は今頃、あの診療所でひとり。


   ……あたしは、大夫に一目惚れしたんだ。


   ……。


   だから……大夫は、ひとりにはならない。
   迷惑だと思われようが……あたしは、弱っている大夫をひとりにはしない。
   仮令、後でなんと言われようが……それこそ嫌われようが、大夫が居なくなってしまうよりはずっと良い。


   ……私は、あなたに甘えてばかり。


   ……。


   あなたが、親切にして呉れたあの日から……。


   ……甘えて、欲しい。


   ……。


   此れからも。


   ……まことさんも、どうか。


   ……。


   ……甘えて、下さい。


   甘えているよ……。


   ……。


   ……甘えている。


   ねぇ……まことさん。


   ……なに。


   私……ごはんを作っている時の、あなたの背中が好きです。


   ……。


   正しくは……も、なんですが。


   ……こんな背中で良ければ、幾らでも見て欲しい。


   こんなでは、ありませんよ……私の素敵な背中です。


   あ、うん……。


   ……今は未だ、届かない。


   ……。


   だけど……また。


   ……。


   ……え?


   大夫。


   は、はい。


   触って欲しい。


   え、でも。


   ……隙間から、手を伸ばして。


   あ。


   其の為に、あたしは脱ぐ。


   ま、まことさん。


   ……。


   待って下さい、そんな。


   ……此方に来なければ良いと言うだけならば。


   あ、待って。


   あたしが、其方に行っても


   こ、此のままで。


   ……。


   此処から……手を、伸ばします。


   ……然う、か。


   ……。


   直ぐに、脱ぐ。


   あの……脱がなくても。


   其の方が、手っ取り早い故。


   ですが、脱いだら寒い……。


   はぁ……む。


   ……。


   ふぅ……うん、此れで良い。


   ……良いのでしょうか。


   では、大夫。
   心行くまで、触って欲しい。


   は、はい……ありがとう、ございます?


   ……うん、どうした?


   あ、いえ……少し、届かないです。


   然うか、ならばもう少し寄ろう。


   ……。


   此れで、どうだろうか。


   ……ん。


   ……。


   ……冷たい、ですか。


   いや、問題ない。


   ……手は、相変わらず、冷たいままで。


   構わない。


   ……。


   其のまま……好きなだけ、触って。


   ……はい、まことさん。


   ……。


   ……はぁ。


   ……。


   やっぱり……まことさんの背中は、素敵です。


   ……大夫が、然う思って呉れるのなら。


   古傷は、痛みませんか……。


   あぁ……今の所、大丈夫だ。


   ……痛みを感じたら、言って下さい。


   直ぐに、言うよ……。


   ……。


   ……は、ぁ。


   あ……もう、止めておきましょうか。


   いや……良い。


   ……けれど。


   集中、している……。


   ……集中?


   あたしに触れる、大夫の手の平、指先……其れを、感じる為に。


   ……くすぐったくは、ないですか。


   くすぐったいけれど……心地好い。


   ……。


   ……あたしも、大夫の背中に触りたい。


   背中だけ、ですか……。


   ……柔らかなむ


   まことさん。


   ……へ。


   ……。


   あ……えと。


   ……私の胸の、何処が良いのですか。


   何処って……其れは、何度も言っていると思うけど。


   ……やっぱり、


   柔らかくて……甘い、良い匂いがして……。


   もう、良いです。


   う。


   ……。


   き、聞いたのは、大夫なのに……。


   ……熱が、また、出てきてしまうかも知れないから。


   え。


   ……だから。


   わ、分かった、もう言わない。


   ……。


   ……。


   ……肩甲骨の形、いつ触れても綺麗です。


   そ、然うか……。


   ……。


   ……あの、大夫。


   まことさん……ありがとう。


   ……。


   躰を冷やしてしまう前に……衣を、着て下さい。


  29日





   うん、此れで良い。


   ……直せたのですか。


   あぁ、見て呉れ。


   ……。


   すっかり元通りとは、言えないが。
   被れないわけでは、ないだろう?


   破けていた箇所が、きれいに修繕されていて……此れならば、問題なく被ることが出来るでしょう。


   雪には、負けないだろうか。


   はい、耐えて呉れると思います。


   せめて、彼らの村に着くまで。


   ……屹度、十分だと思いますよ。


   ん……其れなら、良い。


   ……。


   大夫、もうひとつ良いかい。


   はい……なんでしょう。


   草鞋も、見て貰っても良いかな。


   ……草鞋の修繕も、していたのですが?


   いや、新しく編んだ……もう、ぼろぼろになっていたから。


   ……いつ、編んだのですか。


   笠を、修繕する前に。


   ……そして、私が眠っている間にですね。


   ん……思っていたよりも、早く編めたんだ。


   ……まことさんは、なんでも出来るのですね。


   幼い頃は、靴ではなく草鞋を履いていてね。
   物心が着いた頃には、自分で修繕したり編んだりしていたんだ。
   とは言え、未だ編めるとは思わなんだが。


   ……幼い頃に身に着けたことは、大人になっても残っているものです。


   あぁ、然うみたいだ。
   頭で考えるよりも先に、指が動いて呉れた。


   ……。


   其れで、見て貰えるかい?


   はい……私で良ければ、見ましょう。


   うん、ありがとう。


   草鞋は、あまり見たことがないので……お役に立てるか、分かりませんが。


   大夫ほど、頼りになるひとは居ないと思っている。


   ……私にだって、限度はあります。


   分かってはいる、が。


   が……なんです?


   実物はあまり見たことがないかも知れないが、書物では見たことがあるのだろうと。


   ……。


   然う、勝手に思っているんだけど……どうだろう?


   ……ないわけでは、ありません。


   ふふ、やっぱり。


   ……其れで、どれでしょうか。


   あぁ、此れなんだが……。


   ……然ういえば、藁はどうしたのですか。


   有る家に、分けて貰った。
   わけを話したら、快く、分けて呉れたよ。


   あぁ、其れは有り難いことですね……後日、改めてお礼を言わないと。


   ……大夫の為ならばと。


   私の……?


   ……然うだよ。


   ですが、今回は……。


   大夫を訪ねてきて、大夫が其のひとらを救ったのなら……もう、誰も無関係ではないんだ。


   ……。


   大夫は、此の村の者だからね……皆で助けるのは、当然のことなんだよ。


   其れは……まことさんの、おかげで。


   あたしの力なんて、些末なものだ。
   ほとんどは、大夫の力によるものだよ。


   ……若しも。


   ん……?


   若しも、私が……あの人達を、見捨てていたら。


   いや、大夫はそんなことしないだろう?


   ……あ。


   大夫は、自分を頼ってきた者のことは決して見捨てない。
   だからこそ、皆の信用を得られたのだとあたしは思っている。


   ……。


   大夫……済まない、重荷だろうか。


   ……え。


   大夫からしてみれば、大層勝手な話に聞こえるかも知れないから。


   ……いえ、重くはありません。


   不要ならば、直ぐに言って欲しい。


   ……私ひとりでは、助けられません。


   うん……?


   ……今回のような場合は、皆さんの協力がなければ。


   ……。


   だから……お礼を、伝えたいと。


   ならば……良くなったら、伝えよう。


   はい……まことさん。


   あたしも、一緒に居ても良いだろうか。


   勿論です……傍に居て下さい。


   相分かった……。


   ……。


   ……ん、また昔の言葉が。


   ふふ……まことさんと話していると時折、都の大伯(おじいさん)を思い出します。


   お、おじい……?


   まことさんのような言葉遣いのひとが、居たので……。


   ……むぅ。


   まことさんは、好かれるかも知れませんね……。


   いや、其れは……まぁ、迷惑ではないが。


   ……複雑ですが?


   あたしは……己(おれ)は、ひとと話すのが、苦手だ。


   ……ふ。


   此れでも、好かれると思うか?


   女らしい言葉を遣えと……窘められてしまうかも知れません、が。


   ……が?


   気に入るひとも、居るかと。


   然うか……物好きも居るものだな。


   ……まことさんも、ひとのことは言えません。


   己……あたしも?


   ……私のような女に、惚れて呉れたのですから。


   何度も言う。


   ……ん。


   大夫は、此の世で最も素敵なひとだ。


   ……。


   あたしには、勿体ないくらいの……?


   ……こほっ、こほっ。


   え。


   ……もぅ、あなたがそんなことを言うからですよ。


   そ、然うなのか……。


   ……然うです。


   そ、其れは、済まな……ん。


   ……昔、使っていた言葉では、なく。


   あー……ごめん。


   ……もう、言いませんか。


   今は、言わない。


   ……今は。


   大夫が、私のようなと言ったら、直ぐに言う。


   ……。


   其の時は、必ず。


   ……気を付けます。


   うん。


   ……草鞋を、見るのでしたね。


   あぁ、然うだった。


   ……草鞋の大きさは、どう測ったのですか。


   古いものと比べて……ぼろぼろではあるが、凡その大きさは分かったんだ。


   ……私には、本来の大きさは分かりませんが。


   取り敢えず、編み目はおかしくないだろうか。


   ……おかしなところは、見当たりません。


   左右の大きさは合っているかな。
   合っていないと、どうにも歩き辛いだろうから。


   ……然う、ですね。


   ん……大夫?


   ……。


   ……。


   ん……まことさん。


   ……ごめんよ、泣かせてしまったみたいだ。


   少し、涙が零れただけ……問題は、ありません。


   ……然うかい?


   はい……然うです。


   ……然うか。


   其れよりも、今は草鞋を……。


   ん……引き続き、お願いするよ。


   はい……。


   ……。


   ん……左の方が、若干小さいでしょうか。


   左……然うか、ならば。


   でも、待って下さい。


   ……ん?


   若しかしたら……此れで、良いのかも知れません。


   大きさが、違うのに?


   ……はい。


   理由を、聞いても良いかい?


   足の大きさは、左右、全く同じとは限りません……。
   実際、左右に差がある方は多く居て……珍しいことでは、ないのです。


   はぁ、然うなんだ……。


   とは言え、其の差は僅かなので、意識しなければ気が付くことはないと……。


   あたしも、然うなのかな。


   ……まことさんは。


   うん。


   左の方が……若干、大きいと思います。


   左?


   恐らくは、左利きによるものだとは思うのですが……左に重心をかけることが、右よりも多いのだと。


   じゅうしん……。


   日頃から、左に力を込めることが多いのではありませんか……?
   恐らくは、無意識だと思うのですが……。


   ん、あぁ、左の方が多いかも知れない。
   右でも出来なくはないが、矢張り、左の方が踏ん張りが利くんだ。


   其の積み重ねで……左の方が、若干大きくなったのだと思います。


   では、此の草鞋の持ち主は。


   右に、力を込めることが多いのでしょう……故に、左の方が若干小さいのかも知れません。


   ……。


   歩き方や寝相、噛み癖などの日々の習慣……或いは、病や傷が要因という場合もあります。


   ……病?


   病、又は傷によって、躰の姿勢が崩され……重心、つまり躰の重さの中心からずれてしまっても、左右の大きさに違いが出来てしまうのです。


   ……若しも。


   はい……。


   差が大きく広がってしまったら……やっぱり、歩き辛くはなるのだろうか。


   初めのうちは、違和感を覚えると聞きます……。


   ……違和感。


   其れと、草鞋や靴の大きさが合わなければ、足を傷めてしまう原因にもなるので……歩き辛いとは思います。


   ……足を、引き摺るほどの。


   ないとは、言えません……。


   ……見たところ、左足を微かに引き摺っていたように見えた。


   ……。


   足を痛めているのかも知れない……此処まで、歩いてきて。


   ……いえ、あれは加齢によるものだと思われます。


   加齢……?


   ……然ういった意味では、加齢による痛みだと言えますが。


   大夫……若しかして、診たのかい?


   ……見えたのです。


   見えた……?


   ……詳しくは、また。


   あぁ……分かった。


   ……。


   大夫は、どちらの足が小さいんだい?


   私は……左の方が、若干。


   大夫は、左か……今度、良く。


   足は、見なくても良いですからね……。


   ……では、靴を。


   若干なので、分からないと思います……。


   ……なんなら、今直ぐにでも。


   もぅ、まことさん……?


   ……ん。


   笠は兎も角、草鞋は良く確認した方が良いかと……。


   ん、然うだな……然うしよう。


   ……はぁ。


   疲れただろう……もう、休んだ方が。


   いいえ……もう少しだけ。


   咳は、治まっているが……呼吸は、未だ。


   ……。


   大夫……?


   ……雪は、降っていますか。


   いや……今日は、珍しく止んでいるよ。


   ……然う。


   外が、見たいのかい……?


   いえ……こんな躰ですし、冷たい外気を吸うのは良くありませんから。


   ……少しも、駄目だろうか。


   ……。


   いや……止めておこう。
   折角、良くなってきているんだ……。


   ……冷たい空気は、肺を冷やし、咳を呼び起こします。


   ……。


   ……でも。


   新鮮な空気が、吸いたいのだろう……?


   ……いけませんね、医生である私がこんなことを言っては。


   大夫だって、ひとのこだよ……。


   ……。


   躰を冷やさぬよう、温かくして……。


   ……新鮮な空気を吸うことは、つまり、冷たい外気を吸うことと同じ。


   ……。


   矢張り、止めておきます……ありがとう、まことさん。


   ……雪だけを、見るのはどうだろうか。


   雪だけを……?


   ……待っていて。


   あ……。


   直ぐに、戻る。


   まことさん……。


   ……雪なんて、見たところで。


   ……。


   ……あぁ、また降ってきたか。


   においが、する……。


   ……此れならば、新しいものを。


   雪の……。


   いや……待っては、いられない。


   ……外に。


   上は新しいだろう……此れくらいで、良いか。


   ……あなたと、出たい。


   ……。


   でも、だめ……良くなるまで……もう少しの、辛抱よ。


   大夫。


   ……まことさん。


   今、戻ったよ。


   はい、おかえりなさい……どちらに行っていたのですか。


   雪を、取りに。


   ……。


   上の雪を、手で掬ってきた。


   ……冷たくなってしまいます。


   大丈夫だ……大夫に見せたら、外に投げてくるから。


   ……。


   どうだい……白いだろう?


   ……真っ白ですね。


   また、降ってきたんだ……だから、積もったばかりの雪だよ。


   ……。


   大夫……?


   ……外の空気を、感じる。


   外の……?


   ……雪から。


   ……。


   少し、触ってみても……。


   ……指先だけならば、良いと思う。


   指先だけ……。


   ……後で、あたしが温めるよ。


   ……。


   さぁ、融けてしまう前に……。


   ……ん。


   ……。


   ふふ……冷たい。


   はは、なんせ雪だからね……。


   ……。


   ねぇ、大夫……。


   ……はい、なんでしょう。


   ふたりで、雪の結晶を見たね……。


   ……また、見たいです。


   うん……また、見よう。


   ……はい、私の躰が良くなったら。


   ……。


   ……本当にありがとう、まことさん。


   ん……もう、良いのかい。


   ……はい。


   然うか……なら。


   わざわざ、外に投げなくても……土間で、良いと思います。


   ん……然うしよう。


   ……。


   ……咳は、大丈夫そうだね。


   雪を、見ていただけですから……。


   ……。


   ……少し、休みます。


   うん、分かった……。


   ……右手を。


   あぁ……温かくなるまで、握っているよ。


   ……。


   ……おやすみ、大夫。


   おやすみなさい……まことさん。


  28日





  -誠心(パラレル)






   ……。


   こほっ……こほっ。


   ……大夫。


   はぁ……。


   ……。


   ……まこと、さん。


   ん……どうした?


   ……わた、し。


   苦しいかい……?


   いえ……だいじょうぶ、です。


   喉が未だ、辛そうだ……其れに、咳も。


   ……だいぶ、おさまってきましたから。


   ……。


   せなか……ありがとうございます。


   ……少しでも、楽になれるように。


   こほっ、こほっ……んんっ。


   ……大夫、此処に。


   ……。


   ……。


   ……ごめんなさい。


   何がだい……。


   ごめいわくを……おかけして。


   ……迷惑だなんて、思っていないよ。


   ……。


   だから……もう、謝らないで欲しい。


   ……でも。


   今は、良くなることだけを……ただ、其れだけを。


   ……ごめん、なさい。


   本当に良いんだよ……大夫。


   ……わたしが、もらってきてしまったから。


   大夫は、好きで貰ってきたわけではない……然うだろう?


   ……こんな、こと。


   医生と雖も、ひとのこに過ぎない……だから、大夫は謝る必要なんてないんだ。


   ……あっては、ならぬことなのに。


   ならぬことであろうとも、どうしようも出来ないことは幾らでもあるさ……。


   ん……。


   大夫はただ、己の務めを果たそうとして……そして。


   ……まことさん。


   あの子は、峠を無事に越えることが出来た。
   大夫は医生としての務めを、ちゃんと果たしたんだ。


   ……あのこは、まだ。


   雪はもう暫く降り止まぬと思うし、何よりも背負われる体力が戻っていない。
   故に、己の村には未だ帰れそうにはないが、いずれは帰れる日が来るだろう。
   其の日が来るまで、美奈の家に置いて呉れる……心配はもう、要らない。


   そう、ですか……よかった。


   大夫の熱も、下がった……此れで、ぶり返すようなことがなければ。


   ……わたしは、あのこほどでは。


   其れでも……だよ。


   ……あなたに、もしも、うつしてしまったら。


   あたしは、大丈夫だ……誰よりも丈夫で頑健、治るのだって人一倍早いのだから。


   ……だと、しても。


   さぁ……涙を流すと其の分、体力を消耗してしまうよ。


   まことさん……。


   ……どうか、謝らないで欲しい。


   ……。


   苦しいのは大夫なんだ……あたしでは、ないんだ。


   ……ひとばん、じゅう。


   あたしが其れを苦だと思うことなぞ、決してない。


   ……ほとんど、ねむらずに。


   心配は要らない……大夫が眠っている間に、あたしも休んでいたから。


   ……。


   だから、大夫……。


   ……あまり、ちかくに。


   あぁ……だから、此れ以上は。


   ……。


   どうか、気に病むことなく……今は、自分のことだけを。


   ……あなたと、ねむりたい。


   ……。


   ……ひとりは、こころぼそい。


   大夫……。


   ……すこしでもはやく、げんきになって。


   元気になったら……また、あたしと。


   ……は、い。


   うん……。


   ……。


   大夫……何か、食べられそうかい?


   ……なにか、つくってくれたのですね。


   うん……葱入りの味噌粥を。


   ……おみその。


   鼻は未だ、利かない……?


   ……はい、まだ。


   然うか……でも良い、熱は下がって呉れたから。


   ……まことさんが、そばにいてくれたから。


   あたしは……あたしが出来ることを、力の限り、したいと思ったんだ。


   ……。


   ……連れ合いである大夫を、放っておくことなんて出来ない。


   つれあいで、なかったら……。


   言い直す……心から惚れているひとを見捨てることなんて、あたしには出来ない。


   ……ぅ。


   熱は下がったけれど……無理は未だ、駄目だよ。


   ……はい、まことさん。


   ん。


   ……まことさんは。


   ん?


   ごはん……ちゃんと、たべていますか。


   うん……食べているよ、ちゃんと。
   食べないと……大夫の傍に居られなくなってしまうかも知れないからね。


   ……。


   今は、冬だから……ずっと、大夫の傍に居られる。
   初めてだ……冬で良かったと、思ったのは。


   ……ゆきかき、は。


   大夫が良くなるまで……他の者が、あたしの分を担って呉れている。


   ……。


   迷惑を掛けているなんて、思ってはいけないよ……此れは、お互い様なのだから。


   ……もしも、ふゆでなかったら。


   冬でなかったら……其れでも、大夫の傍に居たと思う。


   ……はたけしごとは、どうするのですか。


   ……。


   わたしなら、だいじょうぶですから……。


   ……其れは、あたしが判断する。


   あ……。


   ……どうしてもやらなければいけないことだけ、大夫が眠っている間に。


   ……。


   さっさと終わらせて、そして……直ぐに、戻ってくる。


   ……あぁ。


   あたしが居ない間は……若しかしたら、レイに頼むかも知れないが。


   ……ひとりでも。


   美奈やうさぎちゃんには、流石に頼めないだろう?


   ……だめです、それは。


   だから……レイに頼む。
   レイなら屹度、快く引き受けて呉れるだろうから。


   ……。


   言っておくけれど……ご迷惑をお掛けして、などと、レイには決して言ってはいけないよ。
   真顔で、小言を言われてしまうからね……四半刻程。


   ……まことさんが、ですよね。


   然う……あたしが。


   ……。


   小言が、説教になるかも知れない。


   ……きをつけます。


   うん……然うして欲しい。


   ……ふぅ。


   ごめんよ……喉が未だ、万全ではないのに。


   ううん、だいじょうぶです……。


   ……もう、静かにする。


   まって……。


   ……。


   あなたとおはなしができて、うれしいの……。


   ……大夫。


   あなたも、そうだったら……うれしい。


   ……あたしも、嬉しいよ。


   ほんとう……?


   あぁ……本当だよ、大夫。


   ……よかった。


   何かして欲しいことは、あるかい……?


   ……して、ほしいこと。


   何でも言って欲しい……出来得る限り、叶えるから。


   ……あの、まことさん。


   なんだい……?


   ……なにか、のむものをもらえたら。


   飲むもの……?


   ……のどに、うるおいがほしい。


   あぁ、分かった……直ぐに、用意しよう。


   ……それ、と。


   其れと……?


   ……おみその、おかゆを。


   ……。


   ……すこしだけでもいいから、たべたいと。


   お腹に、入れられそうかい……?


   ……はきけはおさまっているので、だいじょうぶだとおもいます。


   空腹は……未だ、感じない?


   ……はい、まだ。


   然うか……。


   ……だけど、しょくよくはもどってきてくれたようですから。


   うん……其れだけでも、一安心だ。


   ……からだ、おこしてもらってもいいですか。


   其れは、構わないが……ごはんの支度がすっかり済んでからの方が良くないか?
   躰を起こしていたら、負担が掛かってしまうだろう……?


   あぁ……そうですよね。


   直ぐに、支度をするから。
   なに、味噌粥はもう出来ていて椀によそるだけだし、飲みものは……温かいお茶で、良いかい?


   ……はい、おねがいします。


   湯は沸いているから、お茶も直ぐに淹れられる……そんなには、待たせない。


   ……。


   汗をかいたろう……食べ終わったら、躰を少し拭こうか。
   勿論、無理をしない程度に……本当は、着替えられたら良いのだろうが。


   ……ねぇ。


   未だ、早いかい……?


   ……てを。


   手……?


   ……わたしに。


   ……。


   ごめんなさい、まことさん……。


   ……どうしてだい。


   あまり、ちかくには……と、いったのに。


   ……手ぐらい、良いさ。


   ……。


   額の手拭いを替える為に、何度も傍に寄せているのだから……。


   ……ほかに。


   ん……?


   ……ほかに、なにかしてくれませんでしたか。


   他に……。


   ……。


   然う、だな……眠っていることを確認する為に、頬をそっと撫でたりもした。


   ……あぁ、やっぱり。


   済まない……勝手なことをして。


   ううん……そうだと、おもっていたの。


   ……ごめん。


   あやまらないで……。


   ……。


   ……あやまらないで、まことさん。


   分かった……謝らない。


   ……。


   大夫……手を、大夫のどこにやれば良い?


   ……わたしの。


   ん……。


   ……ほほに。


   分かった……頬だね。


   ……


   此れで、良いかい……?


   ……うん。


   ……。


   ……はじめてでは、ないのに。


   ないのに……?


   こう、されると……とても、うれしくおもえるの。


   初めてでは、なくても。


   ……。


   嬉しい時は……嬉しいものだよ。


   ……はい、そうでした。


   ……。


   ……まことさんのて、あたたかいです。


   冷やして呉れば、良かったかな……。


   ううん……ひやさなくて、いいです。


   ……冬でも、あたしの手はあったかいんだ。


   はい……しってます。


   ……。


   ……こきゅうが、らくになったような。


   ……。


   そんなしゅんかんが、あったの……。


   ……然うか。


   ……。


   此の手が、少しでも役に立てたのなら……。


   ……ありがとうございます、まことさん。


   ん……もう、良いのかい?


   ……。


   大夫……若しも、足りぬのなら。


   ……また、あとで。


   ……。


   また、あとで……なでてもらっても、いいですか。


   あぁ……幾らでも。


   ……。


   ……では、ごはんの支度をしよう。


   おねがい、します……。


   ……ん。


   ……。


   見ているかい……?


   ……みていても、いいですか?


   あたしは、構わないよ。


   ……なら、みていますね。


   うん……。


   ……。


   ねぇ、大夫。


   ……はい、なんでしょう。


   返事は要らぬから……ただ、聞いていて欲しい。


   ……。


   子の親が、大夫に其れはもう感謝をしていた……あの子はもう助からないものだと、思っていたらしい。


   ……。


   貧しい故に、医生に診せる金などなく……薬も、高くて買えぬ。
   然うこうしているうちに、子は弱ってゆき……もう、駄目だと。


   ……よくきてくれたと、おもいます。


   ……。


   そして……よく、もってくれたと。


   ……あぁ、本当に。


   ……。


   親は大夫に、直接お礼をしたいと言っていたのだが……断った。


   ……。


   何か出来ることがあればとも、言って呉れたが……今は、子の傍にと。


   ……あなたのはんだんは、ただしいです。


   ……。


   ……。


   ……親から、大夫への短箋を預かった。


   ……。


   どうやら、美奈が代筆したらしい。


   ……。


   ……後で。


   よんで、きかせてくれますか……。


   ……。


   ……きかせてください、まことさん。


   あぁ、分かった……。


   ……。


   ……大夫、ひとつ確認しても良いだろうか。


   おかねは、いりません……。


   ……。


   あらためて……そう、おつたえください。


   ……言伝を頼もうと思う。


   ことづて……?


   ……明日、美奈の家から使いが来る筈だから。


   ……。


   其れとも、あたしが直接伝えた方が良いだろうか……。


   ……わたしの、かわりに。


   分かった……ならば、明日に。


   ……たんせん、を。


   ……。


   だいひつ、してください……。


   ……けれど、あたしでは。


   かいて、まことさん……。


   ……あたしで、良いのだろうか。


   わたしのつれあいである、あなたでなければ……わたしのかわりは、つとまらないと。


   ……。


   ……ごめんなさい、かってなことをいって。


   いや……然ういうことならば、引き受けた。


   ……。


   上手に、書けないかも知れないが……。


   ……ていねい、に。


   うん……丁寧に書こうと思う。


   ……おねがいしますね、まことさん。


   あぁ……任せて呉れ。


   ……。


   ……さぁ、出来た。


   ……。


   大夫。


   ……おこせると、おもったのですが。


   無理はだめだ。


   ……ささえてもらっても、いいですか。


   あぁ……喜んで。


   ……。


   大丈夫かい……大夫。


   ……はい、だいじょうぶです。


   ……。


   ……ふふ。


   大夫……?


   おかゆ……たのしみ、です。


  27日





   マーキュリー、飯出来たぞー。


   あぁ、然う。
   ならもう、用は済んだでしょう。帰って。


   お前ひとりでは、此の量は食い切れないと思うんだ。
   今はほれ、メルも出ていて居ないだろう?


   今頃、ユゥと楽しく食事をしているところでしょうね。


   昨日さ、乾酪飯の作り方をメルに教えてやったんだ。
   今日は休息日だし、早速、作ってるかも知れないな。


   朝からそわそわしていて、落ち着きがなかった。


   ふぅん、朝からか。
   相変わらず、メルは可愛いな。


   そのうち、帰ってくるわ。
   帰ってくるように、言ってあるから。


   まぁ、お前が帰ってこいと言ったのなら、そのうち帰ってくるだろう。
   でも、今直ぐには帰って来ないだろう? 今頃、ちびと美味しく飯を食ってるんだろうから。


   帰ってきたら、温めて食べるでしょう。


   なぁ、マーキュリー。


   さぁ、さっさと帰って。


   いつ、メルに豆乳の作り方を教えるんだい?


   いつだって良いでしょう、あなたには関係ないわ。


   いや、大いにある。


   ない。


   楽しみなんだ、メルが作る豆乳が。


   今は教えるつもりはないわ。


   其れは、どうしてだい?
   酪と乾酪の作り方は教えたのに。


   教えたのはいつかのマーキュリーであって、私自身は、あの子に何も教えていない。


   言葉では、だろう?
   素直じゃないなぁ。


   いい加減、嫌いになって呉れないかしら。
   こんな素直ではない私のことなんて。


   いや、ちっともならない。
   素直になれないお前もまた、可愛いから。


   触らないで。


   たまの休みだ、ふたりで飯を食おう。


   お休みでなくても、食べているでしょう。


   四人でな。
   ふたりは、久しぶりだ。


   然うでもない。


   あたしにとっては、久しぶりなんだ。


   久しぶりだと感じる間隔が短いのよ、あなた。


   お前は、間隔が長いよなぁ。


   あなたに合わせる気はないの。


   だから、その間を取っているつもりなんだ。


   どこが。


   今回も、然うだと思っている。


   全く、違うわね。


   マーキュリー、飲むのは薄荷水で良いか?
   今回の飯は、大蒜を使っているからさ。


   飲むにしても、自分で作る。
   余計な


   お前は、炭酸が苦手なんだよなぁ。
   メルは、飲めるみたいだけど。


   ジュピター。


   炭酸が苦手なのに、ちび達とあたしの為に


   あなたの為では、決してないわ。


   其れなら其れで、一向に構わないさ。
   あたしが飲めなくなるわけではない、お前はちゃんとあたしにも使わせて呉れるしな。


   あなたが勝手に使っているだけよ。


   薄荷水は、甘めが良いかい?


   あくまでも、帰らないつもりなのね。


   最初から、ふたりで飯を食うつもりだったからな。
   あたしを中に入れた、お前が


   は?


   まぁ、実際はあたしが勝手に入ったんだけど。


   はぁ。


   で、どうする?


   薄荷の、炭酸水で。


   ん?


   甘みも要らないわ。


   良いのか?
   お前、薄荷水は甘い方が


   悪いの?


   いや、悪くはない。
   悪くはないが、炭酸も苦手だろう?


   別に、飲めないわけではないもの。


   其れは、知ってる。が、あまり好きではない。
   若しも、無理をして飲むと言うのなら、


   大蒜には、甘くない方が良いと気付いたのよ。


   いつ。


   いつだって、良いでしょう。


   若しかして、誰かの影響か。


   いいえ、違うわ。


   ……あたしか?


   はぁ?


   いや、でも、ちび達は甘めの方が好きだしな。


   ……。


   マーキュリー?


   どうでも良いでしょう、そんなこと。
   兎に角、甘みは要らない。


   応、分かった。
   取り敢えず、甘みはなしで作る。


   取り敢えず?


   どうしても口に合わなかった時は言って呉れ。
   お前の好きな味に、直ぐに作り直すから。


   仮令、口に合わなかったとしても。


   ……お、と。


   私は、飲むわ。


   然う決めたから、か?


   分かっているのなら。


   分かったよ、マーキュリー。
   今回は、あたしと同じものを


   あなたのものは、甘くして。


   え、どうして。


   豆黒汁は甘くするでしょう。


   豆黒汁は甘いのが好きだけど、薄荷水は甘くない方が良いんだ。


   私の言うことが聞けないと言うの。


   いや、聞いても良いが、だけどなんでそんなことを。


   嫌だから。


   あー、何が嫌?


   あなたと全く同じものが、私は嫌。


   ふむ、然ういうことか。


   わざとらしい。


   分かった、ならばほんの少しだけ甘くする。
   其れで、


   ……。


   其れで、勘弁して下さい。
   お願いします。


   ……はぁ。


   良いか……?


   ……良いわ、其れで。


   あー、良かった。


   甘いのが好きなくせに。


   どういうわけだか、薄荷水はあまり甘くない方が好きなんだよな。
   特に、しゅわしゅわしてるのは。


   変な好みね。


   ははは、其れも面白くて良いだろう?


   別に、何も面白くはないわ。


   良し、其れじゃあ飯にするか。
   冷めないうちに、食って欲しいんだ。


   食べるにしても、あなたと一緒に食べるとは言っていない。


   ん、若しかして堂々巡りか?


   堂々巡りにもなっていないわ。
   私は初めから、あなたとふたりで食べるとは言っていないのだから。


   ん、然うだったか?


   ええ、然うよ。


   なら、言って呉れ。


   言うわけないでしょう、ばかなの。


   な、どれくらい食う?
   お代わりの分もあるからな、食えるだけ食って呉れ。


   どうしても、帰るつもりはないのね。


   お前とふたりで食いたいから。


   量が多いと言うのならば、持って帰って呉れても良いのよ。


   いや、持って帰らない。若しも残ったら、メルと食べて呉れ。
   乾酪飯とは被らない、煮込み飯を作ったから。


   此れは、教えたの?


   あ?


   あの子に。


   いや、未だだ。
   また今度、教えようと思ってる。


   ふぅん、然う。


   最後の豆乳で作った、とても単純な煮込み飯。


   ……ユゥが作るものとは、少し違う。


   お前さ、あたしが作った此れが好きだろう?


   だから?


   だから、ちびに教えるつもりはないんだ。


   あの子には教えるのに?


   メルとちびは、違う。


   あぁ、然う。


   ちびも気に入ると思うんだ、メルが作ったものならば。


   つまり、ユゥに作ってあげようという気持ちすらもないのね。


   多分、あいつにはずっと作らない。


   どうして?


   お前の好物だからだ。


   意味が分からない。


   どういうわけだか、嫌なんだよな。
   こうさ、心の中がもやっとするような気がするんだよ。


   良いわ、然うしたら私があの子に


   頼む、マーキュリー。


   何が。


   メルならば、良い。
   でも、お前は止めて呉れ。


   ……。


   作るなら、あたしに。


   嫌よ。


   ……だよな。


   はぁ、もう良いわ。


   なぁ、マーキュリー。


   何、ジュピター。


   ふたりで、食べよう。
   どうか、あたしと食べて欲しい。


   ……。


   お前とふたりで食べたいんだ。


   ……話していても、埒が明かない。


   うん。


   食べたら、帰って。


   少し、休んだらで良いか。


   ……。


   分かった……食ったら、さっさと。


   良いわ。


   ……ん。


   其の少しが、どれくらいか……私が、決める。


   あぁ……其れで、良いよ。


   ……あなたに、拒否権はないわ。


   応……。


   ……。


   マーキュリー……?


   ……あまり調子が良くないのよ。


   は……。


   ……どうせ、気付かれるだろうから。


   だ、大丈夫か……?


   大丈夫よ……問題ないわ。


   いや、調子が良くないのは……ん。


   ……食べないつもりだったけれど。


   腹に、入れない方が良いのか……其の方が、良いのなら。


   ……此れならば、食べられる。


   ……。


   こんなことで……嘘など、私が吐くわけないでしょう。


   分かってる……が。


   ……少し、疲れているだけ。


   ……。


   だから、早く帰ってと言ったのよ。


   ……マーキュリー。


   そんな辛気臭い顔をしないで、気が滅入るから。
   私は未だ、大丈夫よ。


   なぁ、マーキュリー……良かったら。


   ……止めて。


   どうして。


   ……あの子に、勘付かれるから。


   別に、良いじゃないか。


   いいえ、良くないわ。


   ……どうしてだ。


   私はあの子にとって、先生でありマーキュリーだからよ。


   そんなことは、分かってる。
   が、そんなことで。


   あなただったら、どう?


   あたしだったら?


   あの子に、己の不調を知られたい?


   ……。


   苦い顔ね、つまりは然ういうことよ。


   ……本当に、大丈夫なのか。


   ええ、大丈夫……休んでいれば、回復するわ。


   其の為に、あたしが毎日、


   止めてと言ったでしょう?


   なら、ちびを寄越す。
   其れなら、良いだろう?


   ……其れでも。


   あいつは、気付かないよ。


   ……そんなへまはしないわ。


   あぁ、然うだ。だから、ちびを寄越す。
   お前の躰が、回復するまで。


   ……メルは、どうするの。


   気付かせないさ。


   ……どうやって。


   あいつは毎日、メルにごはんを作ってあげたいと思っているからな。


   だから、何。


   ちびがはしゃげばはしゃぐ程、メルはちびに気を取られて、多分、気が付かない。


   ……何よ、其れ。


   四人で楽しく食いたいと言えば、尚のこと。
   まだまだ可愛いよな、メルは。


   ……。


   食欲は、全くないわけではないんだろう?


   ……全くないわけではないわ。


   然うか、良かったよ。


   ……。


   大丈夫か、そっちに持って行った方が良いか。
   いや、持って行こう。


   あなたは、どうするの。


   あたしは、何か


   少し動くくらいなら、なんでもないわ。


   ……でも。


   あの子には、未だ、気付かれていない。


   ……。


   つまり、そこまで酷いわけではないの。


   ……分かったよ、マーキュリー。


   然う、なら良いけれど。


   だから、なのか?


   何が。


   甘い薄荷水が、飲みたくないのは。


   ……其れは、あまり関係ないわ。


   ……。


   気が向いただけ、よ。


   ……然うか。


   良い匂いね。


   だろう?


   ……。


   食べられるだけで良いから……ゆっくりと、食べて呉れ。


   ……言われなくても。


   ……。


   ……ジュピター。


   出来れば……言って欲しかったよ、マーキュリー。


   ……あなたは、心配性だから。


   ……。


   そんな顔、しないで。
   私は未だ、大丈夫よ。


   ……うん。


   はぁ……だから、帰って欲しかったのに。


   帰らなくて、良かった。


   ……まぁ、然うなるでしょうね。


   ……。


   ん……ジュピター。


   ……顔色は、そこまで悪くないな。


   化粧をしているもの。


   ……。


   ぼんくら。


   ……本当に、してるか。


   ええ、うっすらとね。


   ……もっと、近くで見て良いか。


   だめに決まっているでしょう?


   ……。


   ジュピター。


   ……いや、してないだろう。


   ええ、してないわよ。


   ……。


   調子も、どこも悪くない。


   ……マーキュリ―、お前。


   怒った?


   ……あまり、心配させないで呉れ。


   あなたが勝手にしているだけ。


   ……。


   ん……ジュピター。


   ……食欲があまりないのは、本当のことだろう。


   ……。


   ちびを寄越す……ちびについて、あたしも来る。


   ……鬱陶しがられるわよ。


   構わないさ……其れも、面白いんだ。


   ……ばかね、あなた。


   あぁ……あたしも、愛しているよ。


   ……。


   ……さぁ、食べようか。


   ええ……仕方ないから、食べてあげるわ。


   ……ありがとう、マーキュリー。


   別に……お礼を言われることではないわ。


   ……。


   ……。


   其れじゃ……遠慮なく食って呉れ、マーキュリー。


   ……いただきます。


   応、召し上がれ。


   ……。


   ……。


   ……見ていないで、あなたも食べたら?


   然うだな……んじゃ、いただきます。


   ……。


   ……ん、今回も美味しく出来たな。


   ……。


   どうだい……マーキュリー。


   ……悪くないわ。


   ふふ、然うか……良かった。


   ……。


   ……。


   ……聞かれたら、教えようと思っているの。


   聞かれたら……?


   ……其れまでは、教えない。


   ……。


   ……指南書は、残すから。


   マーキュリー。


   ……何。


   若しも聞かれたら、ちゃんと教えるんだろう?


   ……其のつもりよ。


   其の時は、ちびも一緒かも知れない。


   ……あの子も?


   ふたりでなら、と。


   ……あぁ。


   どうか、宜しく頼む。


   ……あなたもね。


   ん、あたし?


   ……豆糖の作り方、あの子に教えたの?


   あ。


   ……やっぱり、忘れていた。


   然ういや、然うだった。


   ……本当、ばか。


   まぁ、こっちも聞きに来たらで良いか。


   精々、宜しくね。


   あぁ、任せて呉れ。


   ……。


   なぁ、マーキュリー。


   ……なに、ジュピター。


   伝えることって、存外、楽しいものだな。


   ……然うかしら。


   お前も、本当は楽しいと思っているんだろう?


   ……さぁ、どうかしらね。


   然うさ。


   ……なぁに、其の自信は?


   伝えることで、あたし達の知識や知恵、経験すらもあいつらの中で生き続けることになる。
   其れは、月の奴らにはないものだ。こんなに楽しいことって、あるか?


   ……ふ。


   然うやって、次に繋がってゆく。
   あたし達に、繋がってきたように。


   ……うっかり、途切れるところだったけれど。


   日記を書くのが趣味で良かったよ、あたしの先代は。


   ……此方も、記録魔で。


   分かっていたわけでは、ないんだろうけどな。


   でも、感じるものはあるから。


   あぁ……然うだな。


   ……ねぇ。


   ん……?


   ……これ、また作って。


   あぁ……何度でも。


   ……。


   ……はは。


   なに……。


   ……薄荷水、糖を入れようか?


   ……。


   其れとも……あたしのを、飲むかい?


   ……要らないわ。 


  26日





   ふふ~~~。


   ……。


   ごはん~ごはんの時間だ~。


   ……ユゥ。


   なぁに、メル。


   もう少しだけ、待っていてね……あとちょっとで、出来るから。


   うん、幾らでも待ってるよ!


   ……そんなには、待たせない。


   ん?


   ……あんまり待たせたら、ユゥのお腹と背中がくっついてしまうかも知れないから。


   お腹は空いてるけど、大丈夫、まだくっつきそうにないよ。


   ……あと、最後の仕上げだけなの。


   前掛けをしているメルは、すごく良いなぁ。
   前から見ても良いけど、後ろから見てもとても良い……特に、首筋。


   ……。


   いつまでも、見ていられる……。


   ……もぅ。


   えへへ。


   それ、さっきも言っていたわ。


   うん、言ったかも。


   かも、じゃなくて、言ったの。


   ふふ、そっかぁ。


   ……どこが良いのか、私には分からない。


   勿体ないなぁ。


   ……分からないことが?


   自分のことは分からないものだけれど、さ。


   ……私の前掛け姿のどこが良いのか、私にはちっとも分からない。


   メルはさ、あたしの前掛け姿をどう思ってる?


   ……ユゥの?


   うん……どう、見える?


   ……どうって。


   何とも、思ってない?


   ……。


   そっか……。


   ……素敵だと、思ってる。


   本当っ?


   ……本当。


   ありがとう、すごく嬉しい!


   ……うん。


   だけどね、あたしはどこが良いのかちっとも分からないんだ。
   前掛けなんて、ごはんを作る為にしているだけのものだから。


   ……。


   ね、然ういうことだよ。


   ……然うよね、知ってる。


   ふふ、だよね。


   ……あの、一度だけで良いから。


   一度だけ?


   ……料理、一度につき。


   ……。


   何度も言われると……やっぱり、恥ずかしいの。


   ……そんなに、恥ずかしい?


   ん……。


   ……。


   ねぇ、ユゥ……お願い、約束して。


   分かった……約束するよ、メル。


   ……守ってね。


   うん、守る。


   ……忘れないでね。


   ん、忘れない。
   メルとした約束は。


   ……。


   料理一度につき、メルの前掛け姿が良いって言って良いのは一度だけ。


   ……ねぇ、ユゥ。


   なぁに、メル。
   あ、もう三度言ったから、言わないよ。


   ……うん。


   んー……ふふ、乾酪と大蒜の良い匂い。
   乾酪ごはんって、どんなだろ……楽しみ。


   ……ん、出来た。


   出来た?


   あとは、器によそるだけ。


   見せて、見せて。


   ん……良い、けど。


   やった。


   酪ごはんと、あまり変わらないと思うの。


   匂いが違うよ。


   ……見た目は、あまり変わらないから。


   あぁ、溶けている乾酪が美味しそうだなぁ。
   流石、あたしのメル。


   ね……味見、してもらっても良い?


   味見?


   ん……だめ?


   勿論、良いよ。


   ……じゃあ、お願い。


   うん、任せて。


   ……。


   どれどれ……。


   ……熱いから、気を付けてね。


   うん、気を付ける!


   ……。


   ……。


   ……どう?


   んー……ふふっ。


   ……ユゥ?


   思ってた通りだ!


   ……あまり、美味しくな


   とっても、美味しい!


   ……。


   豆乳酪とは違った美味しさだよ、メル。


   ……本当に、美味しい?


   うん、本当にすっごく美味しい。
   大蒜と溶けた乾酪が上手い具合に合っていてさ、早くお腹いっぱい食べたいって思うくらいだよ。


   ……味、手直ししなくても良い?


   うん、あたしはこの味が良いな。
   でも、メルはどうだろう?


   ……私は。


   ……。


   ユゥ……何をしているの?


   メルも、味見してみて?


   ……え。


   はい、あーん。


   あの……するなら、自分で。


   大丈夫、熱くないよ。
   ちゃんとふぅふぅしたから。


   ……然うじゃ、なくて。


   さぁさ、メル。
   遠慮、しないで?


   ……もぉ。


   あーん。


   ……。


   ……。


   ……ん。


   ね、どう?


   うん……悪くないと、思う。


   美味しいだろ?


   ……多分。


   美味しいよ、メル。


   ……う、ん。


   ふふ。


   ……。


   あたし、飲みものを用意するね。
   メルは何が良い?


   えと……冷たい薄荷水が、良い。


   冷たい薄荷水かぁ、良いね。


   ……大蒜には、すっきりした薄荷水が合うから。


   分かる。
   あたしも、冷たい薄荷水にしようっと。


   ね、いっぱい食べるでしょう?


   うん、いっぱい食べる!


   ……お代わりの分も、あるから。


   うん、おかわりもする!


   ……。


   さぁ、メルとごはんの時間だ~~。


   ……ふふ。


   ん、なに?


   ユゥが、ずっと楽しそうだから。


   うん、とっても楽しいよ。


   お腹を空かせている筈なのに。


   もうじき、食べられるから!
   メルと、ふたりで!


   ……。


   薄荷氷、出来てるかな……ん、出来てる!


   ……取り敢えず、ユゥの分はこれくらい。


   メル、しゅわしゅわ水の方が良い?
   それとも、しゅわしゅわしてない方が良い?


   私は、どちらでも構わないわ。
   ユゥはどちらにするの?


   あたしは、メルと同じものをって思ってたけど……メルがどちらでも良いのなら、しゅわしゅわ水にしようかな。


   じゃあ、私はユゥと同じものにする。


   しゅわしゅわで良いの?


   うん。


   ん、分かった。


   ……私の分は。


   しゅわしゅわ、しゅわしゅわ。
   ふふ、先生が作ったしゅわしゅわ機、いつやっても楽しいなぁ。


   ……。


   ね、それだと少なくない?


   ……見てた?


   見えた。


   ……足りなかったら、お代わりすれば良いから。


   ね、メル。


   ……なぁに。


   足りなかったら、ちゃんとお代わりしてね。


   ……うん、ちゃんとする。


   約束。


   ん……約束。


   良し、出来た。
   しゅわしゅわ薄荷水。


   こちらも、用意出来たわ。


   さぁ食べよ、ふたりで食べよう。


   うん。


   あぁ、やっぱり美味しそうだなぁ。
   もうね、見た目が良い。特に色が良い。匂いも良い。味も良かった。


   あの、ユゥ?
   少し落ち着いて?


   あたし、落ち着いてない?


   今日は、特に。


   んー、だめだなぁ。
   なんだか、そわそわしちゃって。


   ユゥはたまに、とってもご機嫌な時があるけれど。


   今日はその日みたい。
   へへ!


   あ、あぁ。


   鬱陶しい?


   ううん、平気よ。でも、落ち着いて食べてね。
   喉に詰まらせたら、大変だから。


   はぁい!


   ……大丈夫かな。


   じゃあ、いただきまっす!


   ……まっす?


   ……。


   ユゥ、ゆっくりね?


   ……ん!


   ユゥ、大丈夫?
   若しかして、早速詰まらせた?


   ……。


   待ってて、ユゥ。
   今、


   ……返事と。


   え、なに?
   話せるの?


   美味しいの、ん!


   ……は?


   メルのゆっくりね、に対しての返事と、美味しいのふたつの意味を込めた、ん!


   ……。


   美味しいよ、メル。
   メルも、食べよう?


   う……うん。


   ……。


   ……今日のユゥ、どこか。


   メル……食べないの?


   あ、ううん、食べるわ。


   ふふ、良かった。


   いただきます。


   はい、召し上がれ。
   て、あたしが作ったわけじゃないんだけど!


   ……。


   ね、美味しいだろ?


   ……うん、美味しいと思う。


   美味しいよ。


   ……然うね、美味しいわ。


   酪ごはんも好きだけど、乾酪ごはんも好きだ。
   メルはすごいな、こんなに美味しく作れるなんて。


   ……あのね、ユゥ。


   なぁに、メル。


   乾酪ごはんは、お師匠さんに


   教えてもらったんだろ?
   知ってるよ。


   そ、然う。


   師匠はこっそり教えているつもりみたいだけど!


   ……ね。


   なに?


   お師匠さんに作ってもらったこと、ある?


   ないよ。


   ないの?


   うん、ない。


   ……然う。


   これで、豆乳があったらな。


   ……豆乳焼きごはん?


   うん……屹度、美味しい。


   ……ごめんね。


   え、どうして?


   ……豆乳がある時に、作っていれば。


   だけど、教わったのは豆乳がなくなってからなんだろう?


   ……どうして、分かるの?


   若しも豆乳がなくなる前に教わっていたら、メルは作って呉れたと思うから。


   ……。


   ね、然うだろ?


   ……うん、作ったと思う。


   また今度、作ってよ。
   先生がまた、豆乳を作って呉れたら。


   うん……ちゃんと憶えておくね。


   あたしも、ちゃんと憶えとく!


   ……ふぁ。


   ん、メル?


   ……口の中が、しゅわしゅわする。


   ふふ、すっきりするよね。


   ……でも、ちょっとびっくりするの。


   はは、メルは可愛いなぁ。


   ……どうして然うなるの?


   しゅわしゅわにびっくりしてるメルは可愛いんだ。


   ……ユゥの基準は、良く分からないわ。


   基準?


   ……良いと思う、物差し。


   んー……。


   ……。


   ごはんを食べてるメルも可愛い。


   ……ユゥ、ごはんを食べている時は止めて?


   だめ?


   ……だめ。


   えー。


   落ち着かないから。


   あ、はい。


   ……。


   ……ん、しゅわしゅわ。


   ……。


   ん、なに?


   ……ユゥの方が、可愛い。


   え、なんで?


   なんでも。


   どこが?


   しゅわしゅわにびっくりしているところ。


   あたしは、ただびっくりしただけだよ。


   私だって、びっくりしただけなの。


   ……。


   ……。


   ……へへ。


   ふふ……。


   ね、メル。
   ごはん、とても美味しいよ。


   ん……良かった、美味しく作れて。


   また、食べたいな。


   うん……また、作るね。


   へへ、やった。


   ……。


   これで、乾酪もなくなっちゃったね。


   ん……今度はいつ、食べられるか。


   早く気が向いて欲しいなぁ。


   ねぇ、ユゥ。


   ん、なに?


   私ね、豆乳の作り方を先生に教わろうと思っているの。


   え、然うなの?


   本当のことを言えば、自分の力だけでなんとかしたい、どんなことでも覚えたいと思っていた。
   先生が、然うだったから。


   ……。


   先生は、ひとりで……。


   ……ひとりだけど、ひとりじゃないと思う。


   ……。


   師匠が、居たよ。
   マーキュリーのことを学ぶには、役に立たなかったと思うけど。


   ……支え。


   然う、支え。


   ……。


   師匠もひとりだったけど、先生が居て呉れたからがんばれたって。


   ……。


   ね、教わることは悪いことではないよ。
   お勉強だってさ、先生に教わっているんだもの。


   ……それは、分かっているの。


   あたし達は、伝えていくんだ。
   月の民とは、違って。


   ……あ。


   ずっと、ずっとね。


   ……連綿と。


   だからさ、先生だって喜んで教えて呉れるさ。
   メルが教えて欲しいと言えば、屹度。


   ……先生は、いつだって私を試している。


   試して?


   私に出来るかどうか……自分の力だけで、どうにか出来るかどうか。


   ……。


   与えた……ううん、伝えた知識や知恵をちゃんと活かせるかどうか……小さい頃からずっと、見ているの。


   それは、メルの先生だからだよ。


   ……。


   メルのことが可愛いんだ、だから見ているんだよ。


   ……可愛い?


   然うだよ。


   ……いえ、然うではなくて。


   メルが頑張っている姿を見ているのが、先生は好きなんだ。


   ……。


   メルが大きくなるのが、嬉しいんだよ。


   ……ユゥは、どうして然う思うの。


   師匠が然うだから。


   ……お師匠さんが。


   お前、でかくなったなって。


   ……。


   笑いながら、あたしの頭を撫でるんだ。
   その時だけは、ばかにされているような気がしないんだ。


   ……いつも、ばかにしているわけでは。


   先生も、同じだと思う。


   ……。


   実際ね、メルに聞かれて教えている時の先生はとても嬉しそうに見えるんだ。


   ……ユゥには、然う見えるの?


   うん、見える。


   ……。


   まぁ、たまには自分の力でなんとかしなさいって言うかも知れないけど、でも、大体は教えて呉れる。
   特に、メルが自分の力でなんとかしようと頑張っているのを見ていた時なんかは、特に。


   ……。


   あれ、あたし今、特にを二回言った?


   うん……言った。


   ん、だめだな。
   話す分には良いけれど、文章では気を付けなさいって先生に言われてるんだった。


   ……ユゥ。


   ん、なんだい?


   ……豆乳の作り方、ふたりで先生に。


   ふたりで、聞こうか。


   ……良い?


   勿論さ。


   ……然うしたら、ね。


   うん。


   お師匠さんにも、豆糖の作り方を教われば良いと思うの。


   豆糖の?


   ……いや?


   え、と。


   ……ふたりでなら。


   メルと一緒なら、教わっても良い。
   ううん、教わろうと思う。


   ……。


   豆乳と豆糖の作り方を、先生と師匠にふたりで教わろう、メル。


   うん、ユゥ。


   豆乳酪と乾酪の作り方も。


   あ、それは知っているの。


   ……へ?


   だから、今度作ってみようと思って。


   メル……知ってるの?


   ……。


   メル……?


   ……これ見よがしに、作り方が書かれた書物が私の机の上に。


   ……。


   そんな書物、何処にも見当たらなかったのに……屹度、私に作らせようと思って。


   ね、それあたしにも見せて。


   ……それが。


   ないの?


   ……先生が、持っているのだと思う。


   なら、先生に言って見せてもらう。


   ……。


   屹度、見せて呉れる。


   ……ユゥは、素直。


   あたし?


   だから……先生は、ユゥのことが可愛いと。


   メルのことも、可愛いと思っているよ。
   それこそ、あたし以上に。


   ……。


   絶対。


   ……私には、分からない。


   分からないものなんじゃないかなぁ。
   あたしだって、師匠に可愛いなんて思われてるとは思えないし。


   お師匠さんは、ユゥのこと。


   ね?


   ……。


   自分じゃ、分からないんだ。
   だから、見てて呉れるひとに教わるんだと思う。


   ……あぁ。


   あ、ごはん、食べないと。
   折角の美味しいごはんが冷めちゃう。


   ……ありがとう、ユゥ。


   ん?


   ……冷めないうちに、食べないとね。


   ね……先生と師匠も、何か食べてるかな。


   ……屹度、お師匠さんが作ったものをふたりで。


  25日





   豆黒汁と豆乳、同じ量を入れるんだね。


   うん……私は、これで丁度良いの。


   え、と……。


   ……ユゥ?


   同じ量だから……比率で言うと、1:1だよね。


   ……。


   あ、違った?


   ううん……正解。


   へへ、やった。
   あたしさ、比率はわりと得意なんだ。


   お料理でも、使うものね。


   比率を覚えたら、分量が分かりやすくなったんだ。
   6:4とか、7:3とか。ね、良いだろう?


   ふふ、とても良いと思う。


   あとね、得意なものと結び付けて考えると覚えやすいことにも気が付いたんだ。


   すごいわ、ユゥ。
   まさに、その通りだと思う。


   へへ……うん!


   ねぇ、ユゥ。


   なぁに、メル。


   200の量を、6:4に分けるとしたら?


   簡単だよ。
   200×0.6で120、200×0.4で80、答えは120と80だ。
   或いは、200を10で割ると20。20を6と4で掛けると、やっぱり答えは120と80になる。


   あぁ。


   どうだろう?


   正解よ、ユゥ。


   ふふ、やったぁ。


   計算がとても早くて、且つ、正確だわ。


   メルと先生が丁寧に教えて呉れたからだよ、ありがとう。


   じゃあ、お芋が六つ、果実が九つ、蕃茄が五つ、それぞれの比率は?


   ……え?


   まずは、比にしてみて。


   ええと……六つと九つと五つだから……6:9:5、かな。


   正解。
   次に、全体の合計は?


   6+9+5、だから……15……20!


   では、お芋の百分率は?


   えと……芋は六つだから……6÷20……。


   ……もう、ひとつ。


   もうひとつ……然うだ、百分率だから100を掛けるんだ。


   ……ん。


   だから……6÷20×100で……ええ、と。


   ……ここに、計算式を書いて。


   あ、うん、ありがとう。


   ……。


   ……0.3……100を掛けて、30……答えは、30!


   ふふ、正解。


   やったぁ。


   ユゥは比率になると、小数点の計算がすらすらと出来るの。


   うん、食べ物の数にすると分かりやすいんだ。
   やっぱり、好きだからかな。


   得意なものや好きなものを絡めているから、覚えやすいんだと思う。
   若しも、他の小数点の計算にも活かすことが出来れば……。


   ……。


   ユゥ……?


   ……数だけ出されると、良く分かんなくなっちゃうんだ。


   ……。


   なんでかな……。


   ……ねぇ、ユゥ。


   なぁに……。


   ユゥは……お料理の比率の計算だったら、お師匠さんにだって負けない気がするの。


   そ、然うかな。


   うん、屹度然う。


   メルが言うなら……へへ、然うかも。


   自信を持って、ユゥ。


   ……自信?


   ユゥなら必ず、すらすらと解けるようになるから。


   ……なるかな。


   なるわ。
   だけど、その為には。


   うん、がんばってメルとお勉強する。


   ん……。


   だから……教えてね、メル。


   うん……勿論。


   ふふ……。


   ……ふふ。


   大好きだ……メル。


   ……うん、私も。


   ……。


   ……。


   ね……。


   ……なぁに。


   然ういえば、豆乳入りの豆黒汁を淹れている途中だったよね……。


   ふふ……然ういえば、然うだったわ。


   へへへ……。


   ね……ユゥは、どれくらい入れる?


   あたしは……あたしも、メルと同じ量にする。


   私と同じで、良いの?


   うん、同じのが飲みたい。
   だめかな。


   ううん……だめではないけど。


   メルはこれで丁度良いと言ったけれど、色々試してみたの?


   試してみて……少ないよりも、そして、多いよりも。


   同じ量が、丁度良かった。


   だからね……少なめからでも良いと思うの。


   ……。


   どうする?


   ……やっぱり、同じ量が良いな。


   ……。


   同じ量でも、あたしには苦いかも知れないし。


   じゃあ……そこから、増やしていく?


   うん、然うしたい。


   然う……分かったわ。


   ね、あたしのも作って呉れる?


   ん……私で良ければ。


   あたしじゃ、上手く作れないと思うから。


   ユゥなら、これくらい……お料理だと、考えれば。


   正直なことを言うと、メルが作って呉れたのが飲みたいんだ。


   ……。


   だから作って、メル。


   ……ん、分かったわ。


   ありがとう。


   初めてだし……取り敢えず、量は少なめに作る?


   うん、少なめが良いな。
   一口飲んでみて、飲めそうだったら。


   改めて、作るね。


   うん。


   それじゃあ……。


   うーん……いつ見ても、黒いや。


   黒汁だから……ね。


   ……これ、初めて飲んだひとはどうして飲もうと思ったんだろう。


   それを知るには、大分昔に遡らないと……。


   ……あたしだったら思わないなぁ、香りは悪くないんだけど。


   若しかしたら、始まりはお薬だったのかも……。


   ……薬?


   うん……お薬ならと、飲むひとは居たと思うの。


   確かに、苦いし……薬だと思えば、あたしも飲むかも知れないな。


   ……実際ね。


   うん、なに……?


   ……豆黒汁は、お腹のお薬にもなるの。


   え、然うなの?
   こんな苦いのが?


   ……まぁ、お薬だし。


   あ、そっか……。


   ……食欲不振、或いは、膨満感に効くと。


   食欲不振は分かるけど、ぼうまんかん? って、なに?


   胃腸……お腹が膨らんで、圧迫されているように感じること。


   えと……食べ過ぎて、お腹がいっぱいってこと?


   それは、満腹感。
   膨満感は確かに食べ過ぎでもなるけれど、満腹でなくてもなるの。


   満腹でないのに、お腹が膨らむの?


   例えば……お腹の詰まり。


   つまり……?


   ……少量なら、詰まりにも効くの。


   つまり……。


   ……ごめんなさい、ユゥ。


   うん?


   ……不要なものは、躰の外に出さなくてはいけないでしょう?


   ……。


   ……若しも、詰まってしまったら。


   あ。


   ……飲む前に、こんなことを話してごめんね。


   ううん、良いんだ。
   まだ、飲んでいないし。


   ……豆黒汁を飲むと、お腹の中の酸の分泌を促進したり、お腹の動きが活発になるの。


   さん……ぶんぴつ……かっぱつ……。


   取り敢えず、豆黒汁は膨満感に効くとだけ覚えておいて?


   ん、分かった。
   豆黒汁は、詰まりに効く。


   ……うん、まぁ、それでも良いけれど。


   ふぅん、然うなんだな……あたしは、なったことがないから分からないけど。


   ただ。


   ……ただ?


   当たり前だけれど、飲み過ぎはだめ。余計に詰まってしまうかも知れないから。
   あと胃の……お腹の中の酸が多いひとも、特に食事の前は飲み過ぎない方が良いの。


   それは、どうして?


   豆黒汁には利尿作用……。


   ……。


   ……本当にごめんなさい。


   ん、別に良いよ。
   メルが嫌でなければ、続けて。


   ……つまり、水分を躰から出す作用もあるから、余計に詰まってしまう可能性があるの。


   それは困るなぁ。


   あと、お腹の酸が多い状態で飲むと、お腹が痛くなってしまうかも知れない。


   うーん、どっちもやだな。
   そんなことになったら、ごはんが食べられない。


   だから、飲み過ぎはだめ。


   うん、分かった。
   豆黒汁に限らず、どんなものでも食べ過ぎ飲み過ぎはだめだもんね。


   うん……然ういうこと。


   薬なら、尚のことだ。
   適量を、守らないと。


   ……うん。


   だけど今は、薬としては飲まれていないんだろう?


   うん、今はあくまでも嗜好品として飲まれているみたい。


   薬が、普段の飲みものになるなんて……何があったんだろう。


   ……単純に、美味しいと感じるひとが出てきたのかも。


   薬を、美味しい……?


   味覚は、ひとそれぞれだし……それで、そんなひとが増えて。


   お薬では、なくなった?


   ……一部のひとを除いて、忘れてしまったと言った方が正しいかも知れない。


   それは……。


   ……月の民は、知識や知恵を誰かに伝えることをあまりしないから。


   伝えることを、しない……。


   ……長い時の中で、いつしか忘れてしまう。


   メルがあたしに教えて呉れたように、誰かに伝えておけば、その誰かは憶えているかも知れないのに。


   ……月の民の中には、然ういう考えがないの。


   面白いのにな……色々、知れると。


   ……。


   ん……メル?


   ……本当、ユゥの言う通りだわ。


   ね、メル。


   ……なに。


   若しかしたら、薬茶を美味しいと感じるひとも居るのかな。


   ……。


   普段から、飲んだりするかな。


   ……あくまでも、お薬だから。


   でも、豆黒汁のような例もあるし……分からないよ。


   月の民はそもそも、お薬をあまり必要としない……加護が、あるから。


   ……だからこそ、普段の飲みものに変わるんじゃないかな。


   ……。


   始まりは薬だったけど、美味しいと感じるひとが出てきて……尚且つ、薬があまり必要ないのなら。


   あぁ……然うね、然うよね。


   ……あたしには、無理だけど。


   私も……薬茶は、ちょっと。


   あれは……美味しいとは、思えないよね。
   糖も、入れることが出来ないし……入れたら入れたで、複雑な味になりそうで。


   ……お薬だから、飲めるのであって。


   なんでもない時に、進んで飲みたいとは思わないなぁ……。


   ……豆黒汁も、好むひとが出てくるまでは然うだったのかも知れないわ。


   うん、然うだね……。


   ……先生は、好んで飲んでいるけれど。


   うん……さっきも、飲んでた。


   ……先々代は、苦手だったみたい。


   先々代……マーキュリー?


   ん……同じマーキュリーでも、好みは違うの。


   そりゃあ、然うさ……だって、同じではないんだから。


   ……細胞群は、同一なのに。


   だけど、心は同じではない……心が同じではないのだから、好みだって当たり前のように違う。


   ……ジュピターの先々代は、好きだったみたい。


   え。


   ……好んで、飲んでいたと。


   豆黒汁を……?


   ……日記の中に、然ういった記述がたまに出てくるの。


   あんな苦いものを……若しかして、豆乳を入れて?


   ううん……糖すら、入れなかったみたい。


   えー……。


   先生と、全く同じ飲み方……つまりは、嗜好品として。


   はぁ……やっぱり、違うんだなぁ。


   先々代は苦いものの他に、酸っぱいものも好きだったみたい。


   酸っぱいものかぁ……あたしは、苦手だ。


   お師匠さんも、苦手よね?


   うん、苦手。


   先生も、どちらかと言うと苦手みたい。


   メルは?


   私は……果実なら。


   果実……?


   ……甘酸っぱいものなら、好き。


   あぁ、甘酸っぱいのならあたしも好きだ。
   薄麦餅に包んだり、のせたり、そのまま食べても。


   ……美味しいの。


   うん、美味しい。


   お師匠さんも、好きみたい。


   先生もね。


   ん。


   はぁ……面白いなぁ、好みって。


   ユゥ。


   ん?


   ……どうぞ、飲んでみて。


   あ。


   糖も少し入れたけれど、苦かったら言ってね。


   ん、分かった。
   ありがとう。


   ……無理は、しないでね。


   うん、しないよ。


   ……。


   じゃあ、いただきます。


   ……はい。


   ……。


   ……。


   ……ん?


   あ、未だ苦い?


   んー……少し苦いけど、飲めなくはないかも。


   ……。


   メルの言う通りだ……苦味が、まろやかになってる。


   ……飲めそう?


   うん、これなら飲めると思う。


   なら、


   でも。


   ……でも?


   もっと甘い方が良いかな……。


   ……。


   へ、へへ。


   ……ふふ、良いと思う。


   良いかな。


   ユゥ、私のを。


   え?


   先に作った、私のを飲んでみて?


   良いの、飲んでも。


   ん、試しに飲んでみて欲しいの。


   分かった。


   ……。


   ……んっ。


   どう……?


   ……甘い。


   ふふ、然うよね。


   甘くて苦味がまろやかで、あたし、これ好きだ。
   これなら、もっと飲みたい。


   ……じゃあ、同じように作っても良い?


   うん、同じように作って。
   あたし、これが飲みたい。


   ……良かったら、それを飲んで。


   あ、ごめん。


   ……え?


   メルの分なのに、結構飲んじゃって。


   ううん、気にしないで。
   また、作れば良いのだし……それとも、新しく作ったものの方が良い?


   ううん、これで良い。


   ……ん。


   これなら、二杯くらいは飲めそうだ。


   あまり飲むと、お腹を壊すかも知れないから。


   え……お腹、壊れるの?


   飲み過ぎると、ね?


   あ、うん、そっか。


   ……ユゥのお腹なら、二杯くらいなら大丈夫だとは思うけど。


   え、なに?


   大丈夫だとは思っていても、だめなこともあるから。


   うん、然うだよね。


   ……。


   ね、これは冷たいのでも美味しいんだよね。


   ……ん、美味しいわ。


   次は、冷たいのを飲んでみたいなぁ。


   然うしたら……先生がまた、豆乳を作って呉れた時に。


   ……。


   ……?
   ユゥ……。


   ……もう、あまりないんだっけ。


   うん……もう、あまり。


   ……先生、今度はいつ気が向いて呉れるかなぁ。


   直ぐには、難しいかも……。


   然うだよね……先生、忙しいもんな。


   ……主に、自分のことで。


   豆黒汁も、もうないみたいだし……。


   ……最後の分を分けて呉れたの。


   ……。


   ……お師匠さんと、先生。


   お前に飲めるのかって、師匠に笑いながら言われたけどさ。


   ……ユゥは、飲めた。


   うん、美味しく飲めた。


   ……ね。


   ん?


   ……本当に、美味しい?


   うん、美味しいよ。


   ……無理、してない?


   全然、してない。
   あたしの顔が無理しているように見えるかい?


   ……ごめんなさい、見えない。


   ふふ、だろう?


   ……また。


   また、一緒に飲もう。


   ……。


   ね、メル。


   ……ん、ユゥ。


  24日





   ふふ~。


   ……。


   麦の粉と~糖を入れて~~良く掻き混~ぜ~る~~~~よぉく混ざったら~~~~。


   ……豆乳を入れるの?


   あ、メル。


   ……これを、全部?


   ううん、まずは三分の一くらい。


   ……三分の一。


   入れたら、またよぉく掻き混ぜるんだ。


   ……残りの豆乳はどこで使うの?


   その前に、味見してみるかい?


   ……え?


   ここに、試しに焼いてみたのがあるんだ。


   ……ユゥは、味見したの?


   うん、した。
   それでね、なかなか美味しかったからもっと焼こうと思って。


   ……食べてみても、良い?


   うん、食べてみて。


   ……いただきます。


   はい、どうぞ!


   ……。


   ……どうだい?


   ん……いつもの薄麦餅とは違うわ。


   どう違う?


   しっとりとしていて……仄かに甘い。


   ふふ、だろう?


   甘いのは、糖が入っているから?


   どちらかと言うと、豆乳の甘みだよ。
   糖はほんの少ししか入れてないから。


   豆乳の……。


   ね、美味しいかい?


   うん……これも、美味しい。
   いつもの薄麦餅とは違うけど、私、これも好きだわ。


   ふふ、良かった。


   ……先生も、好きだと思う。


   本当?


   ……ん。


   あ、でも、先生はもう食べたことがあるかも。


   ……。


   と言うのもさ、師匠に豆乳を入れてみろって言われたんだ。
   だから、師匠が作ったのを食べたことがあるんじゃないかな。


   ……何度も、あるかも。


   豆乳を入れろなんてさ、最初は何を言ってんだって思ったんだけど、入れてみたら思いの外美味しくて。
   師匠、あたしに教えてないことがまだあるんだなって。


   ……。


   自分の頭で考えて、思い付け。
   師匠は然う言うんだけど……だけどさ、豆乳がないとこんなこと思い付かないよ。
   まぁ、それでももっと良く考えろって言われるんだけど。


   ……。


   メル?


   ……え、なに。


   どうしたの?
   ぼんやり、してるみたいだけど。


   あ、ううん、な、なんでない。


   んー?


   えと……それで、残りの豆乳はいつ。


   良かったら、もっと味見しても良いよ。


   ……ううん、良いの。


   良いの?


   ……ん。


   そっか。


   ……ねぇ、ユゥ。


   考えてみれば、次に食べるのは焼き立ての方が良いか。
   味見用のは、少し冷めちゃってるもんね。


   う、ううん、そんなことない。
   少し冷めていても、美味しいわ。


   然う?


   う、うん。


   けどやっぱり、焼き立てを味見して欲しいからちょっと待ってて。
   直ぐに焼いちゃうからさ。焼き立てだと、やっぱり違うんだよ。


   ……あの、ユゥ。


   ん?


   味見用に焼いたのは、どうするの?


   あたしが食べる。


   ……これを、全部?


   大丈夫、絶対に残さないよ。


   だけど、焼き立てのものを食べられなくなってしまうかも知れないわ。


   んー、その時はその時かな。


   ……。


   メルと先生には、焼き立てを食べて欲しいんだ。


   ……だめ。


   ん、メル?


   ………ユゥにも、焼き立てのものを食べて欲しい。


   あたしはもう、食べたんだ。


   だけどそれは、味見用のものでしょう?
   今作っているものとは、違うかも知れない……ううん、屹度違う。


   それにさ、こっちも味見するつもりだし。
   あたしは、それで


   だめ。


   ……メル。


   ねぇ、ユゥ。


   な、なに?


   もう少しだけ、食べても良い?


   良い、けど……焼き立ての、食べられる?


   大丈夫……そんなには食べないから。


   味見用はさ……師匠にあげても、良いんだ。


   お師匠さんにも、焼き立てのものを……。


   ……実際、もっと食ってやっても良いって。


   ……。


   さっき、味見をしに来たんだ……師匠。


   ……然うなの。


   うん、然うなんだ。
   しかも、止めなければ、全部食べられちゃうところだった。


   ……全部って。


   メルが来て呉れたら味見してもらおうと思っていたからさ、全部は食うなって止めたんだ。
   然うしたらお前はメルにこんなものを食わせる気かって言うからさ……うるさい食い意地ばかって言い返しそうになってさ。


   そ、然うだったのね……良かった、こんなところで手合せにならないで。


   なったらなったで、外に出たけど……そんなことになったら、ごはんを作るのが遅くなっちゃうからさ。


   ……本当に、良かった。


   だからね、メルは気にしないで良いんだよ。
   師匠は多分、また戻ってくると思うし、残っていたら食べるだろうから。


   お師匠さんは……先生のところかしら。


   んー、どうだろ。
   メルは会わなかったんだよね。


   うん……会ってない。


   なら、外に居るかも知れない。
   腹をもっと減らす為に、躰を動かしているのかも。


   ……。


   師匠は味見用のも、焼き立てのも、どっちも食べるつもりでいるんだ。
   寧ろ、味見用のを食べなきゃ、足りないかも知れない。


   ……だったら、食べない方が良いかしら。


   んーん、少しくらいなら。
   メルが食べたいと思って呉れるなら、食べて欲しい。


   ……。


   でね、残りの豆乳のことなんだけど。


   あ、うん。
   どうするの?


   これはね、ここに入れる。


   掻き混ぜたものに?


   然う。
   あと、豆乳酪も入れる。


   豆乳酪も……。


   入れたらまた、よぉく掻き混ぜる。


   兎に角、良く掻き混ぜるのね。


   やってみるかい?


   ……良い?


   ん、勿論。


   ありがとう、ユゥ。


   こちらこそありがとう、手伝って呉れて。


   ……。


   そのつもりで、来て呉れたんだろう?


   ……何か出来たらと、思って。


   ふふ、嬉しいな。
   だけど、お勉強は大丈夫かい?


   ん、大丈夫。
   今はお休み中だから。


   そっか、お休みも大事だもんね。


   ……ん。


   やっぱり、メルの手付きは丁寧だなぁ。


   ……ユゥの方が。


   動きがしなやかで、きれいなんだ。


   ……ユゥは、力強くて。


   うん?


   それでいて、とても丁寧なの。


   然うかな。


   ……今は、お師匠さんに敵わないとしても。


   む……。


   ……でもいつか必ず、お師匠さん以上のひとになるって。


   あ。


   私……ずっと、然う思っているの。


   メル……うん、必ず師匠以上になるよ。


   ……ユゥなら屹度、なれるわ。


   なるんだ、必ず。


   ……混ぜたら、焼くのよね。


   うん、揚焼鍋に豆乳酪を引いてからね。


   ……油ではないの?


   然う、油ではないんだ。


   ……あぁ、だから。


   ん?


   ……入って来た時、部屋の中も薄麦餅と同じように、豆乳の甘い香りがしたの。


   確かに……油とは、違うにおいかな。


   うん……違う。


   匂いに釣られて、来てやった。


   それ……。


   良い匂いが、師匠を呼び寄せちゃった。


   ……お師匠さんが、然う言ったの?


   然うだよ。
   ね、偉そうだと思わない?


   ふふ……お師匠さんらしいわ。


   本当に食い意地が張ってるんだ、師匠は。


   ……ふふふ。


   ははは。


   ……ね、どう?


   うん、良いね。


   ……焼くのも。


   一度、あたしが焼くのを見せるからさ。


   ん……分かった。


   良く見ててね、メル。


   うん、良く見ているわ……ユゥ。


   ん!


   ……。


   まずは、鍋に酪を引いて……十分に温まったら、これを流して。


   ……。


   鍋を回して、薄く広げる。


   ……薄く。


   縁に色が付いてきたら……裏に返して、少し焼く。


   ……。


   はい、出来上がり。


   ……これで、出来上がり?


   薄麦餅よりも更に薄いから、焼き上がるのが早いんだ。


   ……然ういえば、捏ねないのね。


   うん、これは捏ねない。
   だから、食感も違っただろう?


   ん、違ったわ。


   早速、やってみるかい?


   うん、やってみたい。


   分かった、そしたら火傷にはくれぐれも気を付けて。


   はい。


   お。


   ……まずは、酪を引いて。


   うん……それくらいだ。


   ……温まったら、これをお玉ですくって流す。


   丁度、一杯分くらいに……。


   ……鍋を回して、薄く広げる。


   然う……良いぞ、メル。


   ……ん。


   あ、大丈夫かい?


   ん……平気。


   ……。


   そして……縁に色が付いたら、裏に返すのよね?


   ……うん、然うだよ。


   破れて、しまわないように……。


   ……んん。


   えい。


   ……お。


   少し、破れてしまった……?


   ううん、これなら上出来だよ、メル。


   ……本当?


   うん、本当。
   ね、メルが焼いたのを食べてみても良い?


   え。


   良いかな。


   ……味見?


   味見と言うより、メルが作ったのをただ食べたい、食べてみたい。


   ……。


   あ、だめ?


   ……お師匠さんのこと、言えないかも。


   え。


   ……うん、焼けた。


   おー。


   ……どうぞ、ユゥ。


   へ。


   食べてみて?


   良いのかい、食べても。


   ん、食べてみて。


   やった。


   上手く焼けていなかったら……。


   いただきます!


   ……あ。


   ん……んー、美味しい!


   ……。


   メル、メルが焼いたの、とっても美味しいよ。


   う、うん……良かった。


   へへ……。


   ……ユゥ。


   ん、なに?


   もう一枚、焼いてみても良い?


   勿論だよ。


   若しも、他に作るものがあるのなら……私、薄麦餅を焼くわ。


   ありがとう、メル。


   ……ううん。


   然うしたら、生野菜と果実の用意をしようかな。


   果実も?


   果実を包んで食べても美味しいんだってさ。


   それは……美味しいと思う。


   それから、煮豆の様子を見て……あとは、汁を火にかけて。


   ……。


   然うだ、汁の味見もしてもらっても良いかい?


   ん……勿論。


   へへ、ありがと。


   ふふ、どういたしまして。


   ……。


   ……。


   ……ね、メル。


   なぁに、ユゥ。


   ふたりでごはんを作るのって、楽しいね。


   ……うん、楽しい。


   また、作ろうね。


   ん……何度でも。


   うん、何度でも。


   ……。


   メル、すごいや。
   さっきよりももっと上手になってる。


   ……ユゥの教え方が上手だから。


   メルは骨を掴むのが上手なんだ。


   ……。


   はぁ……良い匂いだなぁ。


   ね……お汁の具は、なぁに?


   今日はね、葉物ときのこだよ……豆乳で作ったんだ。


   ……美味しそう。


   お代わり、して欲しいな。


   ……出来たら、したい。


   うん……出来たらで、良いよ。


   ……。


   ……あぁ、美味しそうだなぁ。


   これ、全部焼いても良い?


   良いよ……疲れたら、いつでも代わるからね。


   出来るところまで、やりたい。


   ん、分かった……じゃあ、メルにお任せする。


   ふふ……ありがとう。


   ……。


   ……本当に、楽しい。


   うん……すっごく、楽しい。


   ……こんな日々が、ずっと。


   ん……?


   ……ずっと、ずっと、続いていけば良いのに。


   メル……。


   ……ユゥとお師匠さん、先生、それから私。


   ……。


   四人で……ここで、ずっと。


   ……。


   ……ごめんなさい。


   謝らないで良いよ。


   ……ユゥ、私。


   あたしも、然う思っているから。


   ……お師匠さんと先生には、言えない。


   うん……言えない。


   ……言ったら。


   あたし達の、存在価値が……なくなってしまうから。


   ……。


   ……。


   ……でも、思わずにはいられないの。


   あぁ……。


   ……どうしても。


   あたしもだよ……メル。


   ……。


   ……一度だけ。


   え……?


   ……メルだけでなく、先生と師匠も守れるようになりたいって。


   お師匠さんに……。


   ううん、先生に……師匠に言っても、鼻で笑われるだけだと思ったから。


   ……先生の、答えは。


   まずは、自分。


   ……自分?


   自分を守れるようになりなさいって。
   決して……使命なんかの為に、命を捨てることはないように。


   ……。


   それから、あの子……メルを。


   ……自分達のことは。


   薄く、笑って……その話は、それきり。


   ……。


   ……メル、焦げちゃう。


   あ……っ。


   ……。


   ……あぁ。


   大丈夫だよ、これくらい。


   ……ごめんなさい、ユゥ。


   それ、食べても良い?


   ううん……焦げているから。


   真っ黒じゃないし、食べられるよ。


   だったら、私が……あ。


   いただきます。


   ユ、ユゥ。


   ……香ばしくて、これはこれで良いかも。


   ……。


   今は、ごはん作りに集中しようか。


   ……ごめんね、ユゥ。


   ううん、良いんだよ。
   さぁ、メル。残りを焼いてもらっても良いかい?


   ……うん、任せて。   


  23日





   ……ふぁぁ。


   ユゥ、お疲れさま。


   ……メルゥ。


   大丈夫……。


   ……じゃ、あんまりないかも。


   進み具合は……ううん、ここで一休みしない?


   休む、休みたい……休んでも、良い?


   疲れているのなら、少し休んだ方が良いと思うの。
   お茶を持ってきたのだけれど……飲む?


   飲む!


   ん。


   ね、メルも飲むんだよね。
   茶呑、ふたつ持ってるし。


   ……一緒に飲んでも良い?


   勿論、メルと一緒に飲みたい。


   ……うん。


   えへへ。


   どうぞ、ユゥ。


   ありがとう、メル。
   ふふ、今日のお茶はなんだろう。


   ……。


   ん……いつもより、白く濁っているような。


   ……緑のお茶と。


   緑のお茶と……若しかして、豆乳が入ってる?


   うん、先生がたまに混ぜて飲んでいるの。


   へぇ……ん、良い香り。


   結構、美味しいの。


   メルも飲んだことあるんだ?


   ん……少しだけ、糖を入れて。


   緑茶に糖……若しかして、このままだと苦い?


   豆黒汁のような苦みはないわ。
   糖を入れるのは、ただの私の好みなの。


   ふぅん、そっか。


   ……先生は入れないわ。


   先生は入れないと思うけど、師匠なら入れるかな。


   ……お師匠さん?


   師匠は豆乳は甘い方が好きだから、これにも入れると思うんだ。
   と言うより、入れてもう飲んでるかも。先生と一緒に、さ。


   ……。


   師匠は昔から、先生が飲んでいるものを飲みたがるらしいんだ。


   ……あまり好きでないものは、どうするの?


   あまり好きではないものでも、例えば糖を入れたりして、飲めるように工夫する。
   師匠としては、ふたりで同じものが飲めたらそれで満足みたいだよ。


   ……でも、全く同じではないのね。


   うん、然うなんだ。


   全く同じものでなくても良いの?


   良いみたいだよ。
   拘り? 然ういうのはないんだって。


   ……だけど、同じものは飲みたい。


   糖を入れるかどうかは小さなことで、先生と同じものが飲めればそれで良いんだってさ。
   取り敢えず、お茶ならお茶、薄荷水なら薄荷水、豆黒汁なら豆黒汁……。


   ……先生は、そのまま豆乳緑茶と呼んでる。


   豆乳緑茶なら、豆乳緑茶。
   曰く、同じものを飲んで、楽しめたらそれで良い。


   ……。


   ん、メル?
   どうした?


   ……こどもねって、言われないかしら。


   師匠?


   ……うん。


   どうして、こどもなの?


   ……豆黒汁も豆乳緑茶も、糖を入れて飲むから。


   んー……良く分からないけど、師匠だったら喜ぶんじゃないかな。


   ……喜ぶ?


   先生に、こどもねって言われたら。


   ……。


   皮肉って言うのかな。
   然ういうのにも鈍いんだよ、師匠は。


   ……こどもと言われて、お師匠さんは喜ぶの。


   うん、先生に言われたらね。
   あたしが言ったら、頭ぐりぐりされると思うけど。


   ……つまり、先生だけなのね。


   メルが言ったら、どうだろう。


   え、私?


   なんとなく、怒らないような気がするんだよ。
   頭もぐりぐりしない。


   ……。


   怒るどころか、にやにやしそうだな……うん、腹立つな。


   ……こどもである私に言われたら、流石のお師匠さんでも。


   いやぁ、メルだったら怒らないと思う……然うだ。
   ねぇ、メル、


   ……言わない。


   え。


   言ってみてって、言おうとしたでしょう。


   う、うん……した。


   言わない。


   あ、はい。


   ……そんなこと、お師匠さんに言えない。


   喜ぶと思うんだけどな……。


   ユゥは良いの?


   へ。


   お師匠さんが、その、私のことでにやにやしても。


   やだ。


   なら、言わない。


   うん、言わないで良いよ。


   ……絶対に、言わないから。


   ん、絶対に言わないで。


   ……。


   ねぇ、メル……。


   ……ねぇ、ユゥ。


   なぁに、メル?


   ……ユゥから先に。


   ううん、メルから先に。


   ……。


   メル。


   私……こども?


   ……え。


   こども、よね。


   ……え、と。


   豆黒汁にも豆乳緑茶にも、糖を入れて飲むし。


   メルは、甘いのが好きなんだろう?


   ……豆黒汁は、甘くしないと飲めない。


   別に、好きに飲んだら良いと思うよ。
   工夫してさ、美味しく飲めるのなら、それで良いじゃないか。


   ……ユゥ。


   それで、どうしてこども?
   誰かに……あ、師匠にでも言われた?
   若し、然うなら


   ううん……言われてない。


   若しかして、先生に?


   ……先生にも、言われてない。


   え、じゃああたし?


   ……ふ。


   んん?


   ……ユゥにだって言われたことないし、ユゥはそんなこと言わない。


   そ、そっか、良かった。
   言ったことを、うっかり忘れてるのかと思った。


   ……ひとりで勝手に気にしすぎだとは、思うの。


   んー……?


   ……でも、どうしても。


   元々は味覚の話、だよね?


   ……味覚。


   メルは甘いのが好き、師匠も甘いのが好き、先生は甘いのは好きだけど、豆黒汁と豆乳緑茶に糖は入れない。
   ただ、それだけのことだろう? こどもとか、然ういうのは関係ないと思うんだけど。


   ……。


   あれ……違う?


   ……ううん、違わない。


   あぁ、良かった。


   ……ね、ユゥ。


   ん、なに?


   味覚って、変わるのよね。


   うん、変わるらしいよ。
   師匠は、あんまり変わってないみた、あ、然うでもない。


   うん?


   師匠ね、昔は苦いものが本当に駄目だったらしいんだ。


   ……今も、あまり得意ではないわよね?


   今も苦手だけれど、逃げ出すほどではなくなったって。


   に、逃げ出す?
   お師匠さんが?


   然う、あの師匠が。
   薬茶なんか見せられると、横になってても逃げ腰になったって。


   ……お師匠さんが、逃げ腰。


   仕方ないから、少し甘くして飲ませたって……先生が、言ってた。


   ……屹度、強引に。


   食べ物でも、苦いものが苦手だったみたいでさ。
   今は大分、食べられるようになったんだってさ。


   ……ユゥと、良く似てる。


   え、なに?


   ユゥも、薬茶が苦手だから。


   それは……だって、苦いから。


   ……苦い食べ物も、苦手よね。


   それも……苦いから。
   でも、逃げ出す程じゃないよ。


   ……。


   ちゃんと食べるし……一応。


   ……私も苦手だから、ふたりのことは言えない。


   え……?


   ……苦いものって、美味しいものではないわよね。


   然う、然うなんだ。
   苦くて美味しいって、あたしには意味が分からない。


   ……でも、先生は美味しいらしいの。


   ……。


   ……私も、いつか。


   メルは先生のように、苦いものを美味しく飲めるようになりたいの?


   ……変?


   ううん、変じゃないよ。
   良いんじゃないかな。


   ……。


   だけどさ、今は好みで決めれば良いと思うんだ。
   無理して飲んで本当に嫌いになっちゃったら、もう二度と飲もうと思わなくなっちゃうかも知れないから。


   ……。


   あ、でも、慣れる為には少しずつでも飲んだ方が良いのかな。


   ……若しも私が、挑戦したいと言ったら。


   あたしに出来ることがあれば、


   一緒に、飲んで呉れる?


   ……へ。


   飲んで呉れる?


   う、うん、飲むよ。


   本当?


   ほ、ほんと。
   薬茶だって、飲むよ。


   薬茶は、元気な時は飲んでは駄目だから。


   じゃあ、豆黒汁。


   ……。


   挑戦したくなったら、言ってね。
   い、一緒に、飲むから。


   ……ふふ。


   ん、メル?


   無理してる。


   し、して


   る?


   ……うん、してる。


   ありがとう、ユゥ。


   ……メル。


   今は、好きなように飲むわ。


   う、うん、それが良いと思う。


   ……ユゥは、何が言いたかったの?


   あたしは……もう、良いんだ。


   ……良いの?


   メルが、何か言いたそうだったから……。


   ……。


   聞けたから……だから、もう良いんだ。


   ユゥ……ありがとう、聞いて呉れて。


   ……うん、メル。


   あのね、ユゥ。


   なぁに。


   糖も持ってきたの。
   良かったら、ユゥの好みで入れて?


   ありがとう、メル。


   ……ん。


   取り敢えず、まずは一口、入れないで飲んでみる。


   ……試しに?


   初めて飲むものだから、どんなものか知りたいんだ。


   ふふ……うん。


   じゃあ、いただきまーす。


   どうぞ、まだ少し熱いかも知れないから気を付けてね。


   ん。


   ……。


   ……んっ。


   どう……?


   苦くは、ないけど……あたしも、糖が欲しい。


   ……あまり、美味しくない?


   美味しくないわけじゃないんだ。
   ただ、糖が入っていた方がもっと美味しいかなって。


   じゃあ、次は糖を入れて。


   うん、入れて飲んでみる。
   ね、メルはどれくらい入れるの?


   小匙に、これくらい。


   少し山盛り?


   ……多いかしら。


   ううん、それでメルが美味しいと感じるのならそれで良いと思う。


   ユゥはどれくらい入れる?


   あたしも、メルと同じくらい入れてみようかな。


   ……少しずつでなくても良いの?


   うん、メルと同じものが飲みたい。


   ……ユゥには少し、甘いかも。


   今のあたしには少しくらい甘い方が良いんだ。


   ……。


   お勉強をして、頭が疲れているから。


   あぁ……確かに、少し甘い方が良いかも。


   ふふ、だろ?


   ん。


   ね、入れてもらっても良い?


   ん、良いわ。


   へへ、ありがと。


   ……はい。


   良く掻き混ぜた方が良いよね。


   ん、良く掻き混ぜて。


   ……。


   ……真剣。


   ん、なに?


   ……お勉強、どこまで進んだの?


   あぁ……多分、半分くらい。


   半分……。


   ……計算に、時間がかかってしまって。


   二桁の計算よね。


   うん……終わらなかったら持って帰って、明日までにちゃんとやるよ。


   ……。


   飲んだら、もうひと頑張り……。


   ……分からないことは、ない?


   ん、と……。


   ……あったら、聞いて。


   ……。


   なくても……その。


   ……教えてもらっても、良い?


   あ……。


   ……文章問題を読み解いて、式を立てるのが難しくて。


   ……。


   一応、何問か解いたんだけれど……合ってるか、全然分からないんだ。
   だから今は、単純な計算問題だけ解いてて……それでも、時間がかかって。


   ……良かったら、今夜は泊って。


   え……?


   分からないものを持って帰るよりも……私と、一緒に。


   い、良いの?


   ユゥさえ、良ければ……先生に、許可をもらってくるわ。


   そ、然うしたい。


   ん、分かった……なら、聞いてくるね。


   あ、待って。


   ……うん?


   先に、飲もう?


   ……あ。


   一緒に。


   ……うん。


   ね、ちゃんと掻き混ざったかな。


   ……ん、大丈夫だと思う。


   うん……それじゃあ、改めて。


   ……。


   ……ん!


   どう?


   うん、甘くて美味しい。
   ね、メルも飲んで。


   うん……。


   ……。


   ……ふふ、美味しい。


   緑茶と豆乳って合うんだね。


   あのね、ユゥが好きなお茶でも合うの。


   え、然うなの?


   今度……明日の朝、飲んでみる?


   飲んでみる、飲んでみたい。


   なら、明日ね。


   うん、明日。
   ふふ、楽しみだなぁ。


   ……私も。


   然うだ、明日の朝ごはんはあたしが作るよ。
   お勉強を教わるお礼。


   お礼なんて。


   ね、作らせて。


   ……先生に。


   先生にも、聞いて欲しい。


   ……聞かなくても、答えは分かっているけど。


   明日の朝、何が食べたいか。


   ……。


   ん?


   ううん……多分、ユゥが作るものならなんでも良いと思う。


   なんでも、か……ん、まずは豆乳と芋の汁を作ろうかな。


   ん……良いと思う。


   あとは……んー。


   あの、ユゥ?


   うん、何か食べたいのある?


   取り敢えず、今夜はお勉強に集中……。


   ……。


   ね……?


   ……はい。


   ……。


   ……メル。


   なぁに……?


   ……これ、また飲みたい。


   ん……じゃあ、また今度ね。


  22日






   ……。


   ……ん。


   ……。


   ユゥ……?


   ……あ。


   どうしたの……?


   うん……ちょっと。


   ……おちょうず?


   んーん、違うよ……。


   ……どこか、わるい?


   どこも、悪くない……。


   ……のど。


   へへ……。


   ……もしかして、おなかがすいた?


   ……。


   ……そうなの?


   うん……少し。


   ……こばら?


   目が覚めて、メルの顔を見てたら。


   ……。


   小腹が、空いてきちゃった……夕ごはん、ちゃんと食べたのにね。


   ……まだ、煮込みが残っているから。


   うん……だから、ちょっとだけ食べようと思うんだ。


   ……ちょっとだけで、足りるの?


   食べたら、また寝るつもりだから……それで、足らす。


   ……。


   メルは、空いてないよね?


   ……ん、空いてないけど。


   あたしのことは気にしないで、寝てて。


   ……でも。


   食べ終わったら、直ぐに戻るから。


   ……。


   起こしちゃって、ごめんね。


   ……それは、良いの。


   あ、メル……。


   お腹は、空いていないけれど……私も、起きる。


   ……良いの?


   少し、喉が乾いたみたいだから。


   喉……あ、何が良い?
   お茶、今なら薄荷水もあるよ。


   ……然う、ね。


   それとも、他のが良い?
   となると、お水か白湯になるけど……ね、どれが良い?


   ……甘い、豆黒汁。


   は……。


   ……豆乳が、入った。


   分かった、甘い豆黒汁だね。直ぐに用意するよ。
   師匠が飲むのが、少し残ってるんだ。


   ……ごめんなさい、ユゥ。


   へ……?


   ……やっぱり、薄荷水が良い。


   薄荷水……?


   ……少し薄めにして呉れたら、嬉しい。


   ん、分かった。
   でも、豆黒汁でなくて本当に良いのかい?


   また眠るのに……豆黒汁は、ね。


   ……?


   ……眠れなくなってしまうかも、知れないから。


   あ、そっか、眠れなくなっちゃうんだっけ。


   それに……お師匠さんが飲む分だし。


   師匠のことなら、気にしないで良いよ。どうせ師匠もあんまり好きじゃないんだ、苦いから。
   ただ、先生が飲んでるから自分も飲むってだけでさ。ひとりだと、飲むことはまずないんだ。


   あまり好きではなくても、先生と一緒に飲みたいと思っているのなら……やっぱり、私が飲んでしまうわけにはいかないわ。


   メルなら飲んでも良いって、師匠なら言うと思うんだ。


   ううん、それでもだめ。
   お師匠さんの楽しみを奪うようなことはしたくないの。


   師匠の……。


   ……若しかしたら、ふたりの。


   楽しみ……。


   ユゥだって、そんなことはしたくないでしょう?


   ……あたしは。


   若しも、同じことをされたら……。


   メルと先生なら、構わないよ。


   ……だけど、私と一緒に飲もうと思っていたものがなくなってしまったら、がっかりするでしょう?


   しないよ。


   本当に、しない?


   うん、しない……。


   少しも?


   ……少しは、するかも。


   私は……するわ。


   メル……?


   ……ふたりで楽しみにしていたものが、なくなってしまったら。


   ……。


   仮令、自分の分でなくても……。


   ……ひとりではなく。


   ……。


   メルとふたりで楽しみにしていたものだったら……あたしも、がっかりすると思う。


   ……だから、ね?


   うん……ごめん、メル。


   ううん、分かって呉れたらそれで良いの。


   ね、メル。


   なぁに、ユゥ。


   若しも、師匠のじゃなかったら……飲みたかった?


   ううん……さっきも言ったけれど、眠れなくなってしまうから。


   ……寝不足になっちゃう?


   明日は、朝から鍛錬だし……お寝坊はしたくないの。


   ……若しかして、言ってみたかっただけ?


   ん……ごめんなさい。


   ううん、良いよ。


   ……。


   ね、明日の鍛錬って、朝早いんだっけ。


   ん、いつもより。


   じゃあ食べ終わったら、さっさと寝ないと。


   ……忘れていた?


   うん、忘れてた。


   そ、然う。


   ありがとう、メル。
   メルが居なかったら、いつも通り起きるところだったよ。


   ユゥは元々、早起きだし……忘れていても、問題はなかったかも。


   今夜は、メルと一緒だからさ……。


   ……。


   明日の朝はちょっとゆっくりって、思ってたんだ……。


   ……私が、居なければ。


   居て呉れて、嬉しい。


   ……ん。


   メル……。


   ……ユゥ。


   ……。


   ……だめ。


   む。


   ……煮込み、温めるね。


   え……あ。


   ……ユゥは、飲みものを。


   あたしが食べるんだから、あたしがあっためるよ。メルは、座っていて。
   薄めの薄荷水だったよね、直ぐに入れるからさ。


   ありがとう……でも、温めさせて。


   な、なんだったら、冷めてても良いんだ。
   お腹に入れば、それで。


   ううん、煮込みは温かい方が美味しいわ。
   ね、然うでしょう?


   ……然う、だけど。


   器に一杯?


   ……半分くらい。


   半分くらいね……ん、分かった。


   待ってメル、やっぱり自分で。


   やらせて?


   ……う。


   ね。


   ……躰、大丈夫?


   ん、大丈夫よ……。


   ……疲れてない?


   平気……今夜は、そこまでしつこくなかったから。


   ……しつこ?


   ……。


   メル、今夜はしつこくなかったって……それって、いつもは。


   ……いつもでは、ないのだけれど。


   う、うん……。


   ……やっぱり、教えない。


   えぇ。


   ……待っててね、ユゥ。


   あ、あぁ。


   ……。


   ……あたし、しつこいのかな。


   ね、ユゥ。


   な、なに?


   甘瓜の車厘、明日の朝に食べるのよね。


   う、うん、そのつもりだよ。
   明日になれば、固まっていると思うから。


   朝から甘車厘が食べられるなんて。


   豆乳があると、良いよね。


   ん、本当に。


   メル、薄荷水入れたけど、どうする?


   ありがとう……置いておいて。


   う、ん……。


   ……ユゥは、何を飲むの?


   あたしも、薄荷水にする……。


   ……然う。


   ……。


   ……ねぇ。


   なに……。


   ……私のこと、見てる?


   うん……見てる。


   ……あまり、見ないで。


   見たいんだ……。


   ……。


   寒くないかい……?


   ……大丈夫、ユゥの上衣を羽織っているから。


   あたしのは、大きいから……。


   ……膝に届きそうなの。


   大きくて、良かった……。


   ……私は、もう少し大きくなりたいわ。


   先生くらい……?


   ……最低でも。


   最低、か……。


   ……先生は、マーキュリーの中でも特に小柄みたい。


   先生の躰、細いもんな……力を入れたら、折れてしまいそうで。


   ……それでも、ましになったと。


   師匠……?


   ……出逢った頃は、今の私よりも小さくて、骨と皮だけのようだったと。


   骨と皮……。


   ……先生は目覚めた時、私と違って、ひとりだった。


   それは……師匠もだ。


   ……誰も、傍に居ないなんて。


   全く居ないわけではなかったらしいけど……。


   ……だけど、心を許せる者では決してなかった。


   師匠達の前……あたし達から見たら、なんて言うんだっけ。


   ……先々代。


   その先々代が、もう居なかったらしいんだ。
   だから、どんなひと達だったかも……日記ぐらいでしか、知らないって。


   ……居たら、どうだったのかしら。


   ……。


   居ても……私達のようには。


   ……育てられたことも、育てたこともないから。


   ……。


   良く分からないまま、ここまで来たって……師匠が、言ってたような気がする。


   ……ふたりはどうして、私達を育てようと。


   ひまつぶし。


   ……暇潰し?


   無駄に、時間があるからって。


   ……無駄にと言っても、いつ壊れてしまうか分からないのに。


   あたし、思うんだけどさ。


   ……なに。


   いつ壊れてしまうか分からないから、じゃないかな。
   だから、あたし達を育ててみようと思ったんじゃないかな。


   ……。


   ……あたしは、然う思うんだ。


   何かを育てるということ……守護神にあっては、本来ならば有り得ないこと。


   ……。


   引継ぎは、ある……けど、養育という意味では。


   ……前例が、ない?


   全くないわけではないけれど……こんなに長い期間は。


   ……先生と師匠が、初めてなのかな。


   記録には残されていない……ううん、消されているだけで、若しかしたら残されていたかも知れないけれど。


   ……消されて?


   然う……。


   記録が消されるなんてこと、あるの?


   ……先生は、あると言っているわ。


   ……。


   ……先生は、そんなくだらない嘘はつかないと思うの。


   うん……あたしも、然う思う。


   ……お師匠さんからは、何か聞いてる?


   いや、師匠は記録とかあまり良く分からないみたいだから。


   ……ユゥの前では、分からないふりをしているだけなのかも。


   ふり?
   どうして、そんなこと?


   ……私達がまだ、こどもだから。


   こどもでも、いつかは。


   ……知らせる時期を見ているのだと思うの。


   時期……?


   ……自分達には、然ういうものがなかったから。


   ……。


   ……ただの、想像だけれど。


   先生と師匠のこどもの頃って……あったのかな。


   ……分からない。


   いつか、話して呉れるかな……。


   ……ユゥは、知りたい?


   知りたい……ふたりがこどもの頃のこと。


   ……こどもの頃が、なかったら。


   然うしたら……ふたりが初めて逢った時のこと。


   ……。


   なんとなく、想像はつくけど……聞いてみたい。


   ……私も、聞けるならば聞いてみたい。


   ふたりで、聞けたら良いね。


   ん……然うね。


   ……いいにおい。


   そろそろ……。


   ……好きだよ、メル。


   ……。


   煮込みを温めている、メルも。


   ……あまり見ないでって言ったのに。


   へへへ……。


   ……もぅ。


   ……。


   ……ユゥは、他の守護神の話を聞いたことはある?


   あったかな……あったとしても、憶えてない。


   ……今と、先代。


   ……。


   ……やっぱり、少し違うみたい。


   然うなんだ……。


   ……。


   ……ね、メル。


   なに……。


   ……余瓜の甘車厘、一口だけ食べてみようか。


   え……?


   ……味見、してみようよ。


   味見……て。


   ……一口だけ。


   でも……。


   ……全部は、食べないよ。


   それは、然うだけれど……。


   ……食べない?


   食べたいの……?


   ……うん、一口だけ。


   ……。


   ……だけど、メルが食べないのなら。


   一口だけなら。


   ……。


   ……それで、良い?


   うん、良い。


   ……。


   今、出すね。


   ……ん。


   ……。


   ……どう、固まっていそう?


   うん……大丈夫そうだ。


   ……。


   見て、メル。
   大丈夫そうだろう?


   ん……少し、柔らかそうではあるけれど。


   柔らかいのも、美味しいと思うんだ……。


   ……煮込みも、温まったわ。


   うん……然うみたいだね。


   今、器に……本当に、半分で良いの?


   ん、良いんだ……甘車厘も味見するからさ。


   ……食べ終わったら。


   ん……?


   直ぐには横にならないで……食休みをしてからにしましょう。


  21日





   うん、きれいに取れてる。
   次は一口大に切って、なめらかになるまで潰してもらっても良い?


   ん……皮を取り除きながら、潰すのよね。


   うん。


   ……わたは?


   今回は、豆乳に入れて汁にするよ。


   ……種は、今回も。


   炒って食べると美味しいんだ。
   だから、これが終わったら外に持っていって干そうと思ってる。


   ……。


   メル?


   ……食べやすくて美味しいから、後を引くの。


   はは、分かる。
   ついつい、食べちゃうんだよね。


   ……甘車厘にのせたり、わたの汁に浮かべても良いし。


   取り敢えず、種は甘車厘にのせたいと思ってるんだ。


   ……食べ過ぎないように、気を付けるね。


   ふふ、あたしも気を付けなきゃだ。


   ……んしょ。


   疲れたら、変わるからね。


   ありがとう……だけど、まだ平気。


   ん、そっか。


   ……。


   ……ねぇ、メル。


   あ、大きかった?


   ううん、大丈夫だよ。


   ……何か、いけなかった?


   ううん、何も。


   ……。


   ちょっと、固い?


   ……大丈夫。


   指、気を付けてね。


   ……うん。


   ……。


   ……。


   ……切り終わるまで。


   ……。


   ……。


   ふぅ……切れたわ。


   ……うん、丁度良い大きさだ。


   次は……。


   代わるよ、メル。


   ……え。


   潰すの。


   ……でも、まだ平気よ。


   あたしもやりたいんだ。


   ……。


   やらせて?


   ……なら、せめて皮を取り除かせて。


   ん、お願い。


   ……。


   ……もう、良いかな。


   ねぇ、ユゥ……。


   ん、なに?


   さっきから、何か言いたそうなのだけれど……。


   ……分かった?


   なんとなく。


   ……。


   なぁに、ユゥ。


   あのさ……豆汁と言えばさ。


   え、豆汁?


   先生がたまに飲んでる、あの苦い豆黒汁。


   ……それが、どうかした?


   あれは乳ではなく、汁だよなぁって。


   ……。


   豆黒汁はとろっとしてないから、汁なのかな?
   ありがとう、代わるよ。


   ん……お豆から抽出するという点は、同じなのだけれど。


   豆が違うから、成分も違うのかな。


   ……過程も、違うわ。


   かてい?


   豆黒汁のお豆は、汁を抽出する前に焙煎させるから。


   ばいせん……。


   ……生のお豆を、油や水を使わずに煎ること。


   あぁ、炒ることか。


   ……少し違うのだけれど、それはまた。


   ん、なに?


   ううん……先生が飲む豆黒汁のお豆は、お師匠さんがたまに煎っているでしょう?


   うん、たまにやってる。
   あれは、あたしにはやらせて呉れないんだ。


   ……先生の為、だから。


   豆乳の豆は、ばいせん、しないんだっけ。


   しないわ。
   豆乳のお豆はお水に浸して、大きく膨らんだものを潰すから。


   そっか、かていも豆乳とは違うのか。
   だから、乳じゃないんだ。


   ……あんな苦いもの。


   ん?


   ……子に飲ませるとは、思えない。


   ……。


   ……ユゥ、すごい顔をしてる。


   あんな苦い汁で、育てられたら……あたし、どうなってたかなって。


   然ういうものだと思って、飲み続けるか……飲まずに吐き出して、育たなかったか。


   ……うぇぇ。


   そもそも、躰を作る栄養素はないみたいだから。
   お師匠さんも、飲ませないと思うわ。


   先生も、飲ませないよね。


   先生は……分からない。


   え。


   ……私の心を育てるのが、それはもう、下手だったようだから。


   あ、や、でもさ?
   躰はちゃんと、大きくなってたんだろ?


   ……まぁ、一応は。


   だったら、先生だって飲ませない、と言うより飲ませなかったんだよ。
   ちゃんと躰が大きくなるものを、ほら、先生は師匠よりも栄養に詳しいからさ?
   栄養があって美味しいものを、メルに食べさせて……先生だって、その気になればごはんは作れるし、ちゃんと美味しいし。


   ……然うとは、限らない。


   メ、メル……?


   ……実験と称して、苦い豆黒汁を。


   そ、そんなことしないよ。
   流石の先生だって、しないって。


   ……お師匠さんが居なかったら、私はどうなっていたのかしら。


   え、えぇ……。


   ……はぁ。


   ね、ねぇ。


   ……なに。


   し、師匠だけ?


   ……え?


   あ、あたしは、居なくても良かった?


   ……そんなこと、言ってない。


   い、言わないってことは……言うまでも、ないと言うか。


   ……。


   あ、あたしが居なくても……。


   ……ユゥが居なかったら、私の心はここまで育たなかった。


   あ……。


   ……もぅ、ばか。


   あ、ご、ごめん……。


   ……。


   メル……あの。


   ……あの苦味が、美味しいらしいのだけれど。


   え……?


   ……豆黒汁。


   あ、あぁ……あたしには、分からないや。


   ……私も未だ、分からないわ。


   だけどメルは、豆黒汁に豆乳を入れて飲んだりするよね。


   ん……豆乳を多めに入れれば、苦味がまろやかになって軽減されるから。


   あたしは、豆乳を入れても駄目だな……まろやかになっても、苦いものはやっぱり苦いや。


   糖を入れたら、また違うと思う。


   糖?


   ……私も、入れているし。


   然ういえば、入れているかも。


   豆乳を多めに……それから、糖も少し多めに入れて甘くすれば。


   あたしでも、飲めるかな。


   分からないけど……一度、試してみたら良いと思うの。


   うん、試してみる。


   ……若しも、飲めなくても。


   良いかな。


   ……良いし、残したら私が飲むわ。


   え、メルが?


   ……ユゥは、私が残すと食べて呉れるでしょう?


   食べる、けど……。


   ……だから、ね。


   あ、や……。


   ……ユゥ?


   む、無理はしないで?


   ……無理?


   そ、然う……。


   無理なんてしないわ。


   ……あたしが残したのを、飲むなんて。


   別に、無理ではないわ。
   残したものを食べてもらうだけでなく、はんぶんこだってしているし。


   然う、なんだけど……。


   ……どうしたの?


   あ、う、うん……。


   ……若しかして、嫌?


   い、いやでは、ないよ……いやでは、ないんだ。


   ……だけど、嫌そうに見えるわ。


   ……。


   ……分かった、ユゥが残しても飲まないわ。


   あ……。


   ……ごめんなさい、ユゥ。


   ち、違うんだ。


   ……ううん、違わない。


   き、聞いてメル、本当に違うんだ。


   ……何が違うの。


   あたしは、メルが残したのを食べているだろう……?


   ……うん。


   それは、ごはんが勿体ないからで……。


   体調が悪い時以外は、出来るだけ残さない……お師匠さんの教えよね。


   そ、それも、あるんだけど……。


   ……それも?


   ……。


   ユゥ……?


   ……あたしが食べないと師匠が食べることになるんだ、先生はそんなに食べられないから。


   まぁ……それは、然うよね。


   い、いやなんだ。


   ……。


   メルが、残したのを……師匠が、食べるのは。


   ……それは、分かっていたけれど。


   えっ。


   ……ユゥは、分かりやすいから。


   ……。


   お師匠さんも、先生も、それは分かっていると思うわ。


   そ……然う、なんだ。


   だから、お師匠さんは揶揄いはするけれど、ユゥから取り上げて食べようとはしないでしょう?


   ……あれ、揶揄いなの?


   え、本気だと思っていたの……?


   だ、だって、器ごと取ろうとするし、あたしが持っているのに横から取ろうとするし。


   ねぇ、ユゥ。


   な、なに。


   お師匠さんが、本気を出したら……ユゥは屹度、食べられないと思うの。
   だから、あくまでも揶揄っているだけ……現に、先生も呆れながら見ているだけだし。


   ……別に、師匠が本気を出したって。


   ううん、今のユゥでは未だお師匠さんには敵わないわ……。


   ……。


   悔しいとは、思うけれど……。


   ……もっと、がんばるんだ。


   ……。


   師匠の本気に、負けないように。


   ……大丈夫、ユゥなら屹度。


   うん、メル。


   ……それで、どうして渋るの。


   え。


   私が、ユゥの残したものを……。


   ……あの、ね。


   どうしても、嫌なら……。


   ……なんか、恥ずかしくて。


   恥ずかしい……?


   ……あたしは、残さないから。


   慣れていないということ……?


   ……たぶん。


   ……。


   ……でも、飲んでもらうならメルが良い。


   ふふ……。


   ……メル?


   ユゥが、嫌でなければ。


   うん……いやでは、ないよ。


   ……良かった。


   メル……。


   ……若しも、ね。


   うん……。


   若しもお師匠さんが、ユゥから取り上げて食べようとしたら……先生に、冷たく止められると思うの。


   ……先生に?


   それはもう、冷たく……感情の籠っていないような、声で。


   ……。


   ね……ユゥも、然う思わない?


   ……おも、う。


   ユゥ……?


   ……声もだけど、目も怖いんだ。


   ……。


   い、一度だけ、見たことある……見た瞬間、体中に寒気が走って。


   ……酷薄なマーキュリー。


   こく、はく……?


   ……先生は、宮殿では然う呼ばれているみたい。


   こくはくって、誰に……?


   誰かに、何かを告げる……ユゥが言っているのは、それよね?


   う、うん……違うの?


   うん……その告白ではないの。


   じゃあ、なに……?


   私が言っているのは……酷く薄いと書いて、酷薄。


   ひどく、うすい……。


   ……残酷で薄情、惨くて思いやりがない。


   先生が……?


   ……然う。


   先生は、そんなんじゃないよ。
   先生は、優しいし、あったかいし、怒ると怖いかも知れないけど、でも、師匠が大体悪いんだし。


   ……先生が本気で怒ると、酷薄さの一端が出る。


   それは……師匠、にも?


   ……癖みたいなものなんだって。


   癖……?


   ……私が言ったら、お師匠さん、笑いながら然う言ったの。


   ……。


   あいつが本当に本気を出したら……あんなもんじゃ、済まされないとも。


   ……どう、なるのかな。


   曰く、全てが凍り付く……って。


   ……。


   だから、ほんの少し見えたところで……未だ、なんでもないって。


   ……はぁ。


   ユゥ……?


   や、なんか……なんか、すごいなって。


   ……すごい?


   先生と、師匠……。


   ……何がすごいの?


   本当に、長い時間をずっと一緒に生きてきたんだ。
   だから……あたし達が怖いと感じても、宮殿でなんと呼ばれようとも、師匠は全然気にしないんだ。


   ……。


   ……あたしも、然うなりたい。


   私……怖い?


   メルは、怖くないよ。
   こくはく、でもないし。


   ……。


   あたしが言っているのは……えと、なんて言うかな。


   ……ううん、言わないで。


   あ。


   ……。


   お、怒った……?


   ……怒る理由なんて、どこにもない。


   け、けど……。


   どんな私でも。


   ……。


   ……ユゥは、受け入れて呉れるということだろうから。


   あぁ、うん、それだ。


   ……。


   それだよ、メル。


   うん……ユゥ。


   ふふ。


   ね……そろそろ、豆乳を入れても良い?


   ん、ちょっと待って……今、火に移すから。


   ……。


   うん、良いよ。


   ……ゆっくりと。


   うん……ゆっくりと。


   ……。


   ね、メルは少し柔らかい方が良い?


   私は……どちらでも、良いわ。


   そっか。


   ……ユゥの、好きな方に。


   なら、柔らかめにしよう。


   ……。


   もう少し、入れてもらっても良い?


   ……うん。


   ……。


   良いと、言ってね……。


   ……もう、良いよ。


   ん。


   ……うん、丁度良いかな。


   入れすぎなかった……?


   ん……大丈夫。


   ……。


   あとは、とろみがつくまで煮詰め……ん?


   ……?


   んー……。


   ……やっぱり、多かった?


   ねぇ、メル……これも、あんだよね。


   ……え?


   甘瓜の、あん。


   ……あぁ。


   とろみをつけた汁は、あん。
   今作ってるのは甘瓜の、あん。


   ……あんは元々、詰め物という意味だったらしいの。


   詰め物?


   ん……何かしらに詰めて食べるもの、例えば麦餅。


   麦餅だと、色んなものを詰めるよね。
   このあんだけなく、甘い豆辛い豆、あとは野菜を煮詰めたものとか。


   それは全て、あんと言うの。


   じゃあ、汁のあんは?


   それは……とろみのある汁を何かしらにかける時、それはあんかけって言うでしょう?


   あんかけ……うん、言うね。
   あんをかけるから、あんかけ。


   あんを中には入れず、上からかけた。


   ……ん?


   上からかけたとしても、元々は中に詰めるものだったから、名前は変わらずに、あんのまま。


   ……。


   ……あんには、二種類の意味があると思えば。


   とろみのある汁を、麦餅に入れる……具だくさんで、漏れないようにすれば美味しいかも。


   ……。


   て、あれ……それって若しかして、師匠がたまに作って呉れるやつ?


   ……あんについては、お師匠さんに教わったの。


   師匠に?


   ……然うしたら、然ういうもんだと思っとけって。


   い、いい加減……。


   ……。


   先生には聞かなかったの?


   ……聞いてない。


   そ、そっか……。


   ……。


   うーん……。


   ……ユゥ、そろそろ。


   あっ。


   ……。


   危なかった、うっかり焦がすところだった。
   ありがとう、メル。


   ううん……良かった、焦がさなくて。


   どうだろう、美味しそうかな。


   ん……とても。


   麦餅に詰めても良いけど、薄麦餅に塗っても美味しいよ。


   今日は、然うしましょう。


   うん、然うしよう。


   ……ねぇ、ユゥ。


   なぁに、メル。


   甘いものには……苦い豆黒汁。


   えっ。


   ……合うらしいの。


   あ、あたしは、お茶で良いかな。


   ふふ……然うよね。


   メルは……。


   ……私も、お茶が良い。


  20日





  -Bohnen und Aufrichtigkeit(前世・少年期)





   ふふふ。


   ……ユゥ、嬉しそう。


   うん、久しぶりだからとっても嬉しい。


   ……好きだものね。


   うん、大好きだ。
   ほんのりと甘くて、つるんとしていてさ。


   ……それから、ひんやりと冷たくて。


   すっごく、美味しいんだ。
   メルも、好きだよね?


   ……うん、私も好き。


   あたし達が育てた果実ものせたからさ、美味しいに決まってるんだ。


   ……一口だけ味見したけれど、さっぱりとした甘さだから合うと思うの。


   うん、絶対ね。


   ん。


   へへへ。


   ……ふふ。


   これは先生が豆乳を作って呉れた時にしか食べられないからさ、固まる前から楽しみでさ。


   待ち切れなくて、飲もうとしていたものね。


   少し固まっていたから、良いかなって。


   ううん、だめよ。
   あのままだと、少し固まっただけの豆乳だもの。


   ふふ、そっか。


   豆乳さえあれば、簡単に作れるのに……先生ったら、気が向いた時にしか作って呉れないから。


   それを言うんだったら、師匠もだよ。
   師匠がもっと、豆乳を固める豆糖(まめとう)を作って呉れたら良いのにさ。
   これは、豆乳だけでは作れないんだから。


   ……今回はたまたま、ふたりの気が向いたのよね。


   あたしが思うに。


   ……なに。


   自分達が、食べたくなったからじゃないかな。


   ……。


   若しかしたら、先生が久しぶりに食べたいと言ったのかも知れない。


   ……強ち、間違ってはいないかも。


   先生に言われると、単純な師匠はほいほい作っちゃうからさ。


   ……たまには聞かなくても良いのに。


   でもね、メルがお願いしても師匠は作ると思うんだよ。


   ……私?


   メルがお願いして作って呉れなかったこと、一度だってある?


   ……ない、ような。


   だからさ……今度は、メルがお願いしてみても良いと思うんだ。


   だけど、豆糖は手間がかかるし……。


   いや、先生やメルにお願いされた師匠の心の中に、手間という文字はないよ。


   ……先生だけでなく、私でも?


   然う、メルでも。
   だって、にこにこしながら作ってるから。


   ……。


   メルはたまにしか、師匠にお願いを言わないだろ?


   ……だって、言えない。


   メルにお願いされた時の師匠の機嫌は、先生にお願いされた時と同じくらいに良いんだよ。
   にこにこしてるだけでなく、鼻歌まで歌っちゃってさ。あたしのことも無駄に褒めるし、もう、気持ち悪いくらいなんだ。


   ……褒められるのは、ユゥがちゃんとやっているからではないの。


   久しぶりにメルがお願いして呉れたーって、それはもう舞い上がってるんだ。
   メルも師匠のあの姿を見れば、直ぐに分かると思う。


   ……。


   師匠は、本当に分かりやすいんだ。


   ……ユゥと、良く似てる。


   え?


   ううん……なんでもない。


   本当に、なんでもない?
   なんとなく、何かと似てるって聞こえたような気がするんだけど。


   ……本当は、聞こえた?


   ううん、聞こえない。
   ね、何が似てるの?


   ……えと。


   メル?


   ……豆乳でお野菜を煮込むと、美味しいのよねって。


   へ。


   似てると煮込む、どことなく似ているでしょう?


   然う、かな……「に」、しか、あってないような。


   「る」と「む」は、同じ音でしょう?


   ……る……む……あ、同じ音だ。


   だからね、聞き間違えたんだと思うの。


   じゃあ、どうしてなんでもないって言ったの?
   別に、言って呉れても良かったと思うんだけど。


   それ、は……。


   ……それは?


   その……食い意地が張っているように、聞こえてしまうかも知れないから。


   食い意地?


   ……ともすれば、食べたいとお願いしているように。


   お願い……。


   でも、違うの……お願いしているわけでは、決してないの。


   良し、作ろう。


   ……。


   メルが好きな、野菜の豆乳煮込み。


   ……あぁ。


   豆乳があればさ、甘車厘だけでなく、煮込みも作れるからさ。


   ……お野菜と煮込むと、本当に美味しいのよね。


   薄麦餅と一緒に食べるのが好きなんだよね、メルは。


   ん……好き。


   豆乳があれば、酪も、乾酪も作れる。


   ……酪と乾酪があれば、ごはんの幅が広がるのよね。


   然うなんだ、だから楽しみにしていてね。豆乳の煮込み以外のものも、必ず作るからさ。
   あ、若しも食べたいものがあったら直ぐに言って、それも作るから。


   あの……私も作りたいわ。


   メルも?


   ……ユゥに、作ってもらうばかりでは。


   なら、一緒に作ろ。
   まずは、野菜の豆乳煮込み。


   ……うん。


   野菜の豆乳煮込み以外も、作る?


   ん、作りたい。


   やった。


   ……やった?


   メルが作るごはん、どれも美味しいから大好きなんだけど、豆乳を使ったのだとあれが特に好きなんだ。


   あれ……どれ?


   米を豆乳酪で炒めたの。


   ……。


   それだけでも十分に美味しくて、何杯でも食べられるんだ。


   ……酪ごはんで良ければ、何度でも作るわ。


   待って、話には続きがあるんだ。


   ……なに?


   野菜をやっぱり豆乳酪で炒めてから、麦の粉と豆乳を加えて、とろみが出るまで良く混ぜたのを酪ごはんにかけて、


   ……。


   おまけに乾酪をのせて、天火でじっくり焼いたの。


   ……豆乳焼きごはん?


   それ、それが一番好き。他のも好きだけど、特にそれが食べたい。
   熱々で、豆乳がほんのり甘くて、乾酪にほんの少し焦げ目があって……あぁ、食べたくなってきた。


   その料理は……ユゥに教わったの。


   あたしは師匠に教わったけど、今じゃ、あたしと師匠が作るのよりも美味しいんだ。
   師匠も然う言ってる。屹度、師匠も食べたいんじゃないかな。あんまり食べさせたくないけど。


   ……なら、作る。


   やったぁ。


   ……。


   あのね、メル。
   先生も、好きみたいだよ。


   ……先生も?


   悪くないわって、言ってたんだ。


   ……屹度、食べられなくもないという意味だから。


   先生の悪くないわ、は、美味しいって意味なんだって。
   師匠が言ってたんだ。先生は素直ではないから、美味しいってなかなか言えないって。


   ……確かに先生は皮肉屋で、素直ではないけど。


   先生って滅多におかわりしないけど、メルが作るとするよね。


   ……たまたまだと思う。


   いや、たまたまではないと思うな。
   メルのごはんを食べている時の先生は、機嫌が良さそうに見えるから。


   ……ユゥが作ったごはんを食べている時の方が良いわ。


   先生ってさ、美味しいごはんを食べるのは好きなんだと思うんだ。


   ……。


   ただ、食べることに時間を使うのが億劫なだけなんだ。


   ……改めて、面倒なひとだと思う。


   面倒で捻くれているからこそ、ずっと一緒に居ても飽きない。
   なんなら惚れ直してばかりで楽しい、従順じゃ、つまらない。


   ……お師匠さん?


   先生曰く、師匠は物好きで鬱陶しい。


   ……。


   そんな先生がメルのごはんを素直におかわりするってことは、美味しいからだよ。


   ……そんなことよりも。


   ん?


   ……食べないで、良いの?


   あ。


   ……温くなってしまうと思うけど。


   え、と……食べよっか。


   ……良かった。


   え、何が?


   にこにこしているのに話すばかりで、食べようとしないから。


   だって、食べたらなくなっちゃうからさ。
   なんか、勿体なくて。


   豆乳と豆糖は未だあるんだもの……また、作れば良いわ。


   師匠、久しぶりだからって全部食べたり飲んだりしちゃわないかな、大丈夫かな。


   お師匠さんでも、流石に全部は食べたり飲んだりはしないと思う。
   今回は、多めに作ったみたいだし……それに全部食べてしまったら、他のごはんが作れなくなってしまうでしょう?


   うん、作れなくなっちゃう。
   じゃあ、大丈夫かな。


   ……先生も、そこまでは食べないと思うし。


   うん、先生は大丈夫だ。
   師匠みたいに、沢山食べないし。


   ……ねぇ、ユゥ。


   うん、食べよう。


   ……ん。


   いただきます!


   ……いただきます。


   あー……。


   ……。


   ……ん、……んーーーっ。


   美味しい……?


   美味しいっ。


   ……。


   メルも、食べて食べて。
   甘くて、冷たくて、つるんとして、とっても美味しいよ。


   ん……。


   ……。


   ……うん。


   どう? どう?


   ……美味しいわ。


   久しぶりだから、余計に美味しいと思わない?


   ん……思う。


   ふふ、もう一口。


   ……。


   ……あー、美味しいなぁ。


   ねぇ、ユゥ。


   なに、メル。


   良かったら、私の


   だめだよ、メル。


   ……でも。


   それは、メルの分だよ。


   ……。


   メルがお腹いっぱいでどうしても食べられないと言うのなら、代わりに食べるけど、然うでなければだめだよ。


   ……また作れば良いし。


   然う、また作れば良いんだ。
   だから、食べて。ね?


   ……ん、分かった。


   ありがとう、メル。


   ……ユゥ。


   大好きだ。


   ……私も。


   ね、師匠達も食べているかな。


   ……屹度。


   ふふ、そっか。


   ……。


   今回はさ、熟れた果実をのせたけど、甘く煮た豆をのせても良いよね。


   うん……甘く煮たお豆も、合うから。


   じゃあ、次は甘く煮た豆をのせよう。
   あぁ、豆乳があると良いなぁ。


   ……ね、ユゥ。


   なんだい、メル。


   ユゥは、豆乳がどうして豆乳と呼ばれているのか、お師匠さんに聞いたことはある?


   ……え?


   お豆を水に浸してすり潰し、煮詰めた汁を濾す……然うして出来たのが、豆乳。


   うん、何度か先生に見せてもらったことがある。
   今回は、見られなかったけど。


   ね、乳ってなに?


   にゅ、にゅう?


   豆乳の、乳。
   ユゥはなんだと思う?


   …………なんだろう?


   ずっと、気になっていたの。
   お豆の汁なら、豆汁でも良いでしょう?


   ……。


   ユゥ?


   汁は、汁なんだけど……なんか、違うような。


   どう違うの?


   え、と……汁よりもちょっと、とろっとしてない?


   でも、汁にもとろみはつけられるわ。
   それは、あんと呼んでいるけれど。


   ……。


   とろみのついた汁のことは、あんとは言えど、乳とは言わないわよね?


   ……だけど、豆乳はあんとも違うと思うんだ。


   どう違うの?


   豆乳は、麦の粉を入れてとろみをつけているわけではないし……出来た時点で、とろっとしているだろ?


   つまり、豆乳には何も入れていないから違うと。


   うん。


   ……。


   メルは、答えを知っているの?


   ねぇユゥ、油と水は混ざり合わないでしょう?


   え……?


   混ぜようとしても、水は油を弾いてしまって、どうしたって混ざり合わない。


   う、うん、然うだね。


   けれど、水と油が均一に混ざり合うことがあるの。
   それを、乳化と言うのだけれど。


   にゅ、か?


   乳化。


   ……先生に教わったような。


   教わったわ、ふたりで。


   ちょっと待って、今思い出すから。


   うん。


   んー……。


   ……。


   ……んーー?


   思い出せない……?


   思い出した。


   ……。


   本当だよ。


   ……豆乳は、乳化したものではないでしょう?


   うん、違う。豆乳は最初から豆乳だ。
   何かと何かが混ざり合って、出来たわけじゃない。


   で、あるならば……どうして、豆乳は豆乳と言うのかしら。


   メル、若しかして答えを知らない……?


   ……ひとつ、気になることがあって。


   なに……?


   ……乳。


   ち、ち……?


   ……青い星には、牛という動物が居るらしいのだけれど。


   う、うん……。


   牛に限らず……子を産んだ雌の膨らんだ胸からは、乳という液体が出るらしいの。


   ……。


   ユゥ……すごい顔をしているわ。


   いや、だって……なんで、豆乳?
   豆乳は、胸からは出てこないよ……?


   ……雌の乳については、いつか、実物を見てみたいと思っているの。


   え、見たいの?


   ……本当に胸から出るものなのか、確認したくて。


   そ、そっか……?


   ……その時は、ユゥ。


   い、行くよ、一緒に。


   ……本当?


   あたしも、見てみたいから。


   ……牛の乳は、牛の仔だけでなく、ひとのこも飲むそうよ。


   えっ、飲めるの?!


   ええ、興味深いことに……なんなら、雌は仔に乳を、母乳と言うらしいのだけれど、飲ませながら育てるみたい。


   お、美味しいのかな……。


   ……お師匠さん曰く、牛の乳は美味しいらしいわ。


   な、なんで師匠が知っているの?


   ……青い星で、飲んだことがあるみたい。


   そんな……し、知らなかった。


   ……それを使った酪や乾酪も美味しいらしいの。


   そ、それも、師匠から……?


   ……先生からも。


   せ、先生も飲んだこと、食べたこともあるんだ……。


   ……豆乳のそれとは、味が違うみたい。


   味は違うんだけど、美味しいんだ……。


   ……ユゥも、飲んでみたい?


   あ、あたし……?


   ……甘車厘も、作れるみたいなのだけれど。


   ……。


   ……ユゥ?


   た、食べてみたい……し、飲んでみたい。


   ……。


   師匠と、先生が、飲めたのなら……あたしも、飲める。
   ふたりが美味しいと言ったのなら……多分、あたしも美味しい。


   ……。


   でも、メルは無理しないで。


   ううん、私もユゥと飲んでみたい。


   ……メル。


   ふたりでなら……大丈夫だと思うの。


   う、うん……ふたりなら、大丈夫だ。


   ……。


   ……ね、メル。


   なに……ユゥ。


   豆乳の乳って……若しかしたら、青い星の。


   ……私も、然う考えてる。


   ……。


   ユゥは……。


   ……あたしも、然う考える。


   ……。


   どちらが先か……いや、若しかしたら、青い星の乳の方が先かも知れない。
   そこから取って、豆乳にしたのかも……。


   ……。


   動物の乳から作った、甘車厘……どんな味なんだろう、楽しみだな。


   ……楽しみ?


   うん、楽しみ……だから、美味しかったら良いな。


   ……ふふふ。


   ん……メル?


   ……ユゥが傍に居て呉れたら大丈夫だと、改めて思えたの。


   ……。


   ……ね。


   なに……。


   ……ごめんなさい、手を止めてしまって。


   手……あ。


   ……。


   へへ……。


   ……あのね、ユゥ。


   なぁに、メル……。


   ……はい。


   へ……。


   ……お詫びに、一口。


   や、で、でも……。


   ……食べて?


   あ……。


   ……いや?


   い、いやじゃない……。


   なら……はい、あーん。


   ……あー、


   ……。


   ん……はぁ、美味しい。


   ふふ、良かった。


   ……ありがと、メル。


   ううん……。


   ……あの、メル。


   ユゥの分は全部、ユゥが食べて……ね。


  19日





   ……ふぅ。


   今は、休憩中かしら?


   うん?


   ジュピター。


   マーキュリー、来て呉れたのかい?


   今朝、行くと伝えておいた筈だけれど?


   うん、ちゃんと憶えてる。
   だけど、今日も忙しそうだったから。


   忙しくしていたのは、此の時間を作る為よ。


   あ。


   鈍いわね。


   へへ、そっか。


   其れで、どう?


   うん……芽吹いて呉れた子達は、なかなか順調に育って呉れていると思うんだ。


   其れは何より。


   ね……マーキュリーから見たら、どうだろう?


   まぁ、今の所は良さそうね。
   小振りではあるけれど、実もちゃんと熟して呉れているようだし。


   そっか……取り敢えず、一安心だな。


   幾つかの種は、芽吹かなかったのよね。


   ん……残念だけど。


   まぁ、仕方がないわ……初めての種を、育てているんだもの。
   思うようには、いかないものよ。


   ……実はね。


   うん?


   折角、芽吹いて呉れたのに……途中で成長が止まってしまって、其のまま。


   ……ええ、知っているわ。


   ……。


   私も、確認はしていたから。


   ……ありがとう、マーキュリー。


   あなたとの畑仕事もまた、私がするべき仕事のひとつだもの。


   ……守護神の仕事では、ないのに。


   今更。


   ……。


   何を言っているの?


   ……うん。


   其れに、畑を眺めるのは息抜きにもなるのよ。


   ……息抜き?


   息抜きは、大事。
   あなたも、然う思うでしょう?


   ふふ……うん、とても大事だと思う。


   ね、幾つか収穫はしたの?


   うん、良さそうなのを幾つか。


   其れで、食べてみた?


   いや、未だ食べていないんだ。


   収穫したばかりなの?


   ううん、収穫して少し経ってる。


   なら、今日のお夕飯にでもするつもり?


   ねぇ、マーキュリー。


   なに?


   お昼は、もう食べたかい?


   生憎、未だよ。


   忙しくて?


   然う、忙しくて。


   忘れていたわけではなく?


   一応、記憶の片隅にはあったわ。
   だけど、此の時間を作る為には仕方がなかったの。


   良かった、忘れてない。


   食事のことになると、誰かさんが五月蠅いから。


   ね、マーキュリー。


   なに、ジュピター。


   良かったら、此処で一緒に食べない?


   一緒に?


   うん、一緒に。


   お昼を?


   然う、お昼を。


   あなたも、食べていないの?


   未だ食べてない、若しかしたらマーキュリーが来て呉れるかも知れないって思っていたから。


   お昼の時間は、大分過ぎているけれど。


   え、そんなに過ぎてる?


   確認していないの?


   うん、してない。
   あたしもちょっと、忙しかったから。


   何よ、私のこと言えないじゃない。


   たまには、そんなこともあるよ。


   若しも、来なかったら。


   お腹を空かせて、マーキュリーのところに行ったかも。


   ……。


   今だと、夕ごはんの方が近い?


   どちらかと言うとね。


   ん、そっか。
   どうりで、お腹が空いているわけだ。


   空いているのなら、食べれば良いのに。


   今、気が付いたんだ。


   は?


   お腹が空いていること。


   ……私のこと、全く言えないじゃない。


   其れだけ、マーキュリーと一緒に食べたかったんだよ。


   ならいっそのこと、来れば良かったでしょう。


   然うなんだけど……擦れ違いになったら嫌だし。


   だから、待っていたの?


   うん、待ってた。


   あぁ、然う……来られて、良かったわ。


   其れで、食べる?


   用意してあるのでしょう?


   うん、してある。


   私の分も。


   うん、マーキュリーの分も。


   ならば、食べるしかないじゃない。


   若しも、食べたくないのなら、


   私も、空腹ではあるのよ。


   然うなの?


   だって、食べないで仕事をしていたんだもの。


   ふふ、そっか。


   仕事をしていれば、感じないのにね。


   どうぞ座って、マーキュリー。


   あなたの隣に?


   嫌かい?


   別に、嫌ではないわ。


   なら、どうぞ。


   ええ。


   ふふ。


   今日のお昼は何を用意して呉れたの、ジュピター。


   まずは、薄麦餅。
   其れから、煮豆と野菜。


   野菜は……黄瓜と蕃茄と、萵苣かしら。
   いつもどおりだけれど、今日も美味しそうね。


   未だ、あるんだ。


   未だ?


   赤い薬味。


   ……作ったの?


   うん、収穫して直ぐに。


   其れで、忙しかった?


   どうしても、マーキュリーとお昼に食べたかったんだ。


   けれど、短時間で作れるものではなかった筈よね。


   だから、今回は怠惰な薬味と呼ばれている方を作った。


   怠惰?


   一口大に切った野菜と調味料を器に入れて、一気に焼きあげるんだ。


   へぇ……確かに其れは、正当な作り方と比べたら怠惰ね。


   だけどね、結構美味しいんだよ。


   然うでしょうね。


   ん?


   でなければ、あなたはそんな作り方はしないでしょうから。


   ……この子達が収穫出来たら、正当な作り方で赤い薬味を作ってみようと思う。


   其の時は手伝ってあげても良いわ。


   え、本当?


   まぁ、時間があったらだけれどね。


   うん、其れで良いよ。
   ありがとう、マーキュリー。


   お礼は、手伝った時に言って。


   ふふ……うん、分かった。


   確か、ひとつひとつ皮を剥くのよね。


   うん、真っ黒になるまで焼いてからね。


   真っ黒に焦げるまで焼くなんて、最初は考えられなかったけれど。


   然うした方が、此の子の甘みが増すらしいんだ。
   だけど焦げた部分が残ってしまうと焦げ臭くなってしまうから、残さないように丁寧に剥かないといけない。


   手間よね。


   おまけに、皮を剝きやすくする為に一晩置かなければならないから、時間も掛かる。


   実際、置いた方が剥きやすいのでしょう?


   然うなんだ。
   でもまぁ、剥けないこともないよ。


   手間と時間は、掛かりそうだけれど。


   皮を剥きながら、他愛ない話をするんだ。


   ……。


   其れがまた楽しくて、気付けば終わってる。


   然う……あなたは話しながら、剝いていたのね。


   え。


   青い星の民と。


   ……然うだったかな。


   然うなのでしょう?
   でなければ、楽しくてなんて言わない筈よ。


   ……多分、然うだったと思う。


   もう、あまり思い出せない?


   ……何かを話しながら剥いたような、そんな憶えはある。


   余程、楽しかったのね。


   ……然うかも知れない。


   屹度、然うだと思うわ。


   ……だからね、マーキュリーと皮を剥くのが今から楽しみなんだ。


   私と話しながら剥いても、あまり楽しくないかも知れないわよ。


   ううん、楽しいよ。


   私は青い星の民と違って、


   あたしは、マーキュリーと何かをするのが好きなんだ。


   ……。


   マーキュリーも然うだったら、嬉しい。


   ……好きでなければ、やらないわ。


   本当?


   ……無駄な時間は、過ごしたくないの。


   あたしとの時間は、無駄ではない?


   ……教えない。


   あれ。


   ……今は、察して。


   ん……分かった。


   ……何か、飲むものはあるの?


   勿論、あるよ。


   ……何?


   マーキュリーが好きなお茶。


   ……あぁ。


   発酵乳の飲みものは用意出来ないけれど、マーキュリーの好きなお茶なら用意出来る。


   ……あなたの好きなお茶でなくて良かったの?


   マーキュリーが好きなお茶は、あたしも好きだから。


   ……知ってる、けど。


   豆と野菜を薄麦餅で包んでしまう前に、赤い薬味を掛けよう。


   薄麦餅に塗るのではなくて?


   塗っても良いと思う。
   マーキュリーは、好きな方で。


   私は直接、薄麦餅に塗るわ。


   うん、良いと思う。


   ……。


   味見、してみる?


   ……寧ろ、あなたがしたいのでしょう?


   うん、したい。


   あなたなら、ふたつ食べられそうだけど。


   ふたつめは、より美味しかった方にするんだ。


   ……より、ね。


   どっちが美味しいかな、多分、どっちも美味しいと思うけど。


   ふふ、何よ其れ。


   あはは。


   ……。


   ん、マーキュリー?


   ……報告書、悪くなかったわ。


   本当……?


   ……やっぱり、青い星の民との話は興味深い。


   役に立ちそう……?


   ……私を楽しませるという意味でね。


   ふふ……そっか。


   ……。


   ……マーキュリー。


   幾つか、気になる点があった。


   其れは……どういう?


   ……探りでは、得られなかった情報。


   そんなの、あった……?


   ……ほとんどは世間話、或いは与太話だったけれど、其の中に幾つか。


   ……。


   ……矢張り、民草の視点も重要ね。


   良かった……憶えておいて。


   ……ええ、助かるわ。


   あたしが情報収集でマーキュリーを助けられるなんて……こんな時ぐらいだからさ。


   ……そんなことはないわ。


   ……。


   そんなこと、ないの。


   ……うん、マーキュリー。


   ……。


   じゃあ、食べようか。
   お腹、空いちゃった。


   ……ええ、食べましょう。


   マーキュリーは台を使って。
   あたしは


   あなたも使って、零してしまったら勿体ないから。


   ……うん、然うする。


   匙、先に使っても?


   先に使って、あたしは薄麦餅に野菜と豆を乗せるから。


   ん。


   ……よ、と。


   ……。


   ……丁寧だなぁ。


   何が?


   塗り方。


   ……普通にしているだけなのだけれど。


   普通が、丁寧なんだ。


   ……あなたもね。


   あたし?


   ……とても丁寧。


   あたし達は、似た者だね。


   ……然うね。


   ……。


   ……ん、此れで良いわ。


   匙、良い?


   ええ、どうぞ。


   ありがとう。


   ……此れだけでも、食べられそうね。


   食べられるとは思うけれど、野菜と豆も食べて欲しいな。


   ……勿論、食べるわ。


   ……。


   ……。


   ……ん、出来た。


   私も、出来たわ。


   ふふ、美味しそうかな。


   とてもね。


   ん……其れじゃあ。


   いただきます。


   召し上がれ。


   あなたも。


   うん、いただきます。


   ……。


   ……。


   ……うん。


   此れは此れで、悪くない。


   ……此方もよ。


   時間を掛けたものと比べたら、少し旨味が薄いけれど。


   でも、時間がない時は此れでも十分に美味しいわ。


   ……。


   食べる?


   良い?


   ええ、どうぞ。
   零さないようにね。


   マーキュリーも、あたしのを。


   ん、ありがとう。


   ……。


   ……。


   ……ん、こっちも美味しいな。


   うん……悪くない、美味しいわ。


   結論。


   どちらでも、美味しい。


   気分で、食べ方を変えれば良いかな。


   ええ、其れで良いと思うわ。


   ……。


   ……。


   なんか、さ。


   ……発酵乳が、欲しくなるわね。


   マーキュリーも?


   ……豆乳を、発酵乳の味に近付けることが出来たら。


   ……。


   ……。


   ……お茶、飲むかい?


   うん……貰うわ。


   ……。


   ……ねぇ、ジュピター。


   ん……なに。


   ……やっぱり、私はあなたが作ったものが一番美味しいわ。


   発酵乳は、ないけど……。


   ……なくても。


   ……。


   ん……ジュピター。


   ……ごはんのにおいがする。


   もう、当たり前でしょう……。


   ……ほっぺたなのにね。


   食べているのだから……。


   ……。


   ……ジュピター?


   あのひと、どうしているかな。


   ……あ。


   自由に、暮らしていると良いな。


   ジュピター……あなた。


   ……。


   憶えて……。


   ……え、なに?


   は……。


   ……あたし、何か言った?


   ……。


   ん……マーキュリー。


   私の頬に、口付けをした。


   ……。


   食べているのに。


   えと……ごめん。


   ……。


   ……ん。


   ……。


   ……マーキュリー。


   ばか。


   ……マーキュリーも?


   私は、ただのお返しだから。


   ……そっか。


   ……。


   ……美味しいね。


   ええ……とても。


   ……他の子達も、此のまま育って欲しいな。


   屹度、育って呉れるわ……。


   ……。


   ……あなたと私で、大切に育てているのだから。


  18日





   ご馳走様でした。


   ……ご馳走様でした。


   此の……え、と。


   バニツァ。


   今日で食べ納めだ、本当に美味しかったなぁ。


   あなたでは、ないけれど。


   うん?


   牛か、山羊か……或いは、羊か。


   月にも居れば良いのに?


   乳汁は、そのまま飲んでも美味しいし。


   加工すれば、乾酪、牛酪、そして発酵乳になる。
   此れらがあれば、料理の幅がうんと広がる。


   バニツァの作り方も教わったのよね。


   うん、教えてもらった。だけど、どうしたって月では作ることが出来ない。
   必要なものがどれもないからさ。麦の粉は、あるんだけどね。


   材料さえ揃えることが出来れば、月でも食べられるのに。


   マーキュリーも然う思う?


   思うわ、材料があれば屹度あなたが作って呉れるもの。


   だったら、どうにかして。


   けれど、どうしようも出来ない。
   歴代のマーキュリー、先代ですら変えることが出来なかったんだもの。


   今のマーキュリーでも、難しい?


   残念だけれど、不可能に近いわね。


   どうしてなのかなぁ、こんなに美味しいのに。


   まずひとつに。


   ……。


   動物の病気、或いは動物からひとに感染する病気の侵入を防ぐ為。
   銀水晶の加護があるとは言え、穢れているものを月に持ち込むわけにはいかない。


   うん。


   ふたつめに、食に興味がある者が兎に角少ない。
   故に、動物の肉を食すという概念が存在しない。


   マーズにもないもんなぁ。
   ヴィーにはあるみたいだけど。


   みっつめに、生き物には必ず生き死にが係わる。
   其の生き物が家畜ならば、其れは殺生にもなる。


   其れが一番大きいかな。


   死は不浄なものとして、月では忌み嫌われているわ。
   わざわざ、「壊れ」と言い換えるくらいに。


   けれど月の民だって不死ではないよ、ただ躰が老いないだけだ。


   だからこそ、でしょうね。


   遠ざけたところで、おしまいは必ず訪れるのに。


   其れまでは見たくもないのよ。


   見えないところではさんざ、命を駒にされているのになぁ。


   自分達に関係ないものは、見ようとしない。
   見えないものは、存在しないに等しい。


   勝手な話だなぁ、何度聞いても。


   勝手だという認識すらも持っていないの。


   でもさ、乳汁なら……寧ろ、生かさないといけないから。


   其れでも、ずっと生きているわけではないわ。最後には必ず、死が訪れる。
   其れを処分する者は……まぁ、マーキュリーかジュピターの下に居る者達になるでしょうけど。


   不浄なる存在に、不浄なる始末をさせる。


   然う。


   あたしはまぁ、別に構わないけど。
   命が終わったら、食肉にすれば良いだけだし。


   あなたは構わなくても、あなたの民達が嫌がるかも知れないでしょう?


   いや、割りと平気だと思うよ。
   死を、不浄なものとは思っていない筈だから。


   青い星の生き物には、慣れていない。


   今は慣れていないけれど、触れていればそのうち慣れるさ。
   なんせ、あたしの民達なんだ。あっさり、受け入れるかも知れない。


   心強いわね。


   マーキュリーの民達も心強いよ。
   不浄なものに慣れているとは言わないけれど。


   ……此方も、其れなりに死には触れているから。


   ならば屹度、大丈夫だ。


   ……。


   だろう?


   ……然うね、然うかも知れないわ。


   うん。


   ……解剖を望む者すら現れるかも知れない。


   かいぼう?


   生物体の正常な形態と構造を知る為に……とても簡単に言ってしまえば、躰を切り開いて調べるのよ。


   うぁ。


   若しも、然うなったら……食用肉に回せるかも知れないから、其の時は任せるわ。


   ……形は、残る?


   部分によっては……多分。


   ……。


   ……まぁ、なんとも言えないわね。


   うん……然うだよね。


   ……どのみち、叶うことはないけれど。


   月の民は死だけでなく、血も嫌うからなぁ。
   やっぱり、無理かなぁ。


   ……死と血に係わるなんてことになれば、根深い差別がより深くなるでしょうしね。


   係わる者は、表を歩けなくなるかも知れない……か。


   ……歴代のマーキュリー達が踏み出せなかったのは、此処にも要因があると思うの。


   ジュピター達も屹度然うだ……でなければあんなに美味しいもの、ずうっと放っておくわけがない。


   ……。


   あたし達でも、無理かなぁ。


   ……いっそ、滅んで呉れれば。


   ……。


   然うすれば……一から、作り直せる。


   ……マーキュリー。


   戯言よ、聞かなかったことにして。


   其れは出来ないけど……誰にも、言わない。


   ……。


   ……あたしも、同じことを


   ジュピター。


   ……考えを共有させたいんだ。


   言葉にしなくても良い……分かっているつもりだから。


   ……でも、マーキュリーは言葉にしたよ。


   ……。


   ……滅んだら、あたし達の場所を作ろう。


   私達の……?


   ……一から、新しく。


   ……。


   どうだろう……?


   ……聞かなかったことには、しない。


   うん……しないで。


   ……。


   ……話を、戻そうか。


   ええ……戻しましょう。


   ん。


   ねぇ、ジュピター。


   なんだい、マーキュリー。


   私、此の組み合わせが最も好きだったかも知れないわ。


   此の組み合わせ?


   バニツァと発酵乳飲料、食べやすくて。


   あぁ、朝ごはんには丁度良いよね。


   あなたには少し、物足りないでしょうけれどね。


   あたしは此れに、ちょっとしたものが付いていれば良いな。


   卵料理?


   そうそう、卵料理。


   あとは、発酵乳入りの汁物かしら。


   どちらも朝ごはんに良いだろう?
   汁物は鶏肉が入っているけれど、発酵乳のおかげでさっぱりしているし。


   ええ、然うね。
   あまり多いと、私は食べ切れないけれど。


   どちらも、最後に作れて良かったよ。


   どちらも、とても美味しかったわ。


   酒精用のあれも、ね。


   ふふ、大蒜入りのものを試せて良かったわ。


   薬茶よりは、美味しい?


   あなたは、どう思った?


   あたしは、まぁ、薬茶よりは美味しいと思う。


   実際、薬茶よりもずっと美味しいと思うわ。
   比べ物にもならない。


   大蒜入りだと味は少し濃くなるけれど、あたしは入っていた方が良いなぁ。


   けど、朝食にはあまり食べたくないわ。


   うん、其れは然うかも。


   あと、眠る前も。


   眠る前?


   然う、誰かさんと一緒に眠る前。


   ……あー。


   私は、遠慮するわ。


   あたしも、遠慮しようかな。


   良いわよ、食べたら一緒に眠らないだけだから。


   一緒に眠りたいから、なしにする。


   然う、残念だわ。


   はは。


   ……。


   ……。


   ……色々、食べたわね。


   うん……色々、食べた。


   ……チェシキの種のことなのだけれど。


   持って帰れそう……?


   ……調べたら、以前に同じ申請が出ていたの。


   以前に……若しかして、先代?
   それとも、其れよりも前?


   ……先代マーキュリーの名で。


   然うか、師匠達も……て、ん?


   ……許可が下りなかった。


   ……。


   理由は、記されていない。


   ……今回は。


   一応、通ったわ。


   ……師匠達の時は、どうして。


   分からない……却下としか、書かれていなかったから。


   ……其の申請は、いつ。


   今の御代になってから……其の前は、比較的緩やかだった。


   ……。


   チェシキの種だけじゃない、ほとんどの申請が却下されていたわ。


   ……若しかしたら、だけれど。


   ……。


   ……まぁ、不良だったし。


   然ういうことにしておきましょう……。


   ……十中八九、嫌がらせだと思うけど。


   ……。


   ……取り敢えず、今回は通ったみたいだから。


   いつ、取り消されるか……持って帰ったところで、廃棄を命じられるかも知れない。


   ……何が面白いんだろう。


   暇潰しに丁度良いのでしょうね。


   ……無駄に長く生きるものじゃないな。


   ……。


   はぁ……。


   ……ごめんなさいね。


   え、どうして?


   折角、美味しい朝食だったのに。


   いや、別に良いよ。
   美味しかったのは、変わらない。


   ……食材は全部、使い切ったのよね。


   うん、使い切った。


   最後の会談が終わったら、帰途に就くから。


   ん、分かってる。


   ……。


   ん、なに?


   ……いいえ、なんでもないわ。


   然う?


   其れより、親しくなった者達にお別れの挨拶は済ませたの?


   うん、済ませたよ。


   然う、其れならば良いわ。


   月に持って帰れるよう、発酵乳と牛酪を用意して呉れていたんだ。


   ……残念だけど。


   だから、改めてお礼を言ったよ。


   ……心を込めて?


   うん、心を込めて。


   ……さぞかし、別れを惜しまれたのでしょうね。


   然うなのかな。


   ……やっぱり、鈍い。


   う。


   ……けれど、良かったわ。


   う?


   ……あなたが、鈍くて。


   ……。


   ……でなければ、また。


   また……?


   ……ねぇ、ジュピター。


   なに……?


   ……あれから、話は出なかったの。


   話……なんのだい?


   ……出なかったのなら、良いの。


   マーキュリー……?


   ……消えて呉れたのなら。


   えと……。


   ……。


   マーキュリー……大丈夫かい?


   ……大丈夫よ、問題ないわ。


   だけど、顔色が急に……何か、心配なことでもあるの?


   ……たった今、なくなったわ。


   たった今……?


   ……然う、たった今。


   そっか……なら、良かったよ。


   ……ところで、帰る支度は終わっているのよね。


   あぁ、終わっているよ。
   ゆうべのうちに、済ませたから。


   念の為、確認しておいて。
   些細なものであっても、忘れ物をしていくわけにはいかないから。


   ん、分かった。


   ……さて。


   今日は何を話すんだい?


   大したことではないわ。
   ただ、別れを交わすだけだから。


   ん、そっか。


   其の際、此の辺りで不審な動きはないか改めて探りを入れる。


   ……。


   だから……あなたは離れず、私の傍に居て。


   あぁ、居るよ。


   ……。


   最後まで、気は抜かない。


   ……ええ、然うして。


   ……。


   ……ジュピター。


   此度も、何事もなく。


   ……。


   ……帰ろう、マーキュリー。


   ええ……ジュピター。


   帰ったら、早速チェシキの種を植えようと思うんだ。
   マーキュリーも


   廃棄処分にならないことを祈っているわ。


   なったら……なったで、気にしない。


   ……。


   面白がられるのは、ごめんだ。


   ……種を、植える時は。


   来て呉れる?


   ……ええ、良いわ。


   やった。


   私なりに、調べたの。


   え?


   ……此の辺りの土壌を。


   ……。


   あなたは、育て方を教わったでしょうけど。


   ありがとう、マーキュリー。


   ……。


   屹度、上手く育って呉れるよ。


   ……然うだと、良いわね。


   育ったら、ふたりで食べよう。


   ……勿論。


   まずは、赤い薬味かな。


   ……薄麦餅に塗って食べたいわ。


   ふふ、じゃあ然うしよう。


   ……。


   ん、マーキュリー?


   ……忘れることが出来るのが、ジュピターの取り柄。


   ……。


   ……でないと、心優しいジュピターの心は。


   ジュピターは、マーキュリー以外には薄情だから。


   ……。


   優しくなんて、ないよ。
   多分、優しそうに見えるだけだ。


   ……其れは、誰に。


   誰にも、言われていない。


   ……。


   と、思う。


   ……余計なことばかり。


   マーキュリー。


   ……帰ったら、報告書を出してね。


   え。


   当然でしょう。


   ……何を、報告すれば。


   青い星の民との交流?


   え、えぇ。


   期待しているわ。


   だけど、忘れて


   憶えていることだけで良いわ。


   ……食べ物のことなら、忘れないと思うけど。


   其れなら、其れで。


   ……そんな報告書、必要?


   ええ、私個人で楽しむ為に。


   ……。


   楽しみにしているわ。


   ……うん、分かった。


   ……。


   そろそろ?


   ……最後に。


   最後に?


   お茶のお代わりが欲しいわ。


   分かった、直ぐに淹れるよ。


   ありがとう。


   どういたしまして。


   ……。


   もう一日くらい、居ても良かったな。


   名残惜しい?


   ごはんが美味しかったから。


   ふ。


   でもまぁ、良いや。


   私はやっぱり、あなたが作るごはんが一番好きよ。


   ……。


   どんなに美味しいものを食べたとしても、ね。


   ……今日の夜は、食べる暇はない?


   いいえ……作るわ。


   ……ん。


   ……。


   どうぞ、マーキュリー。


   ……ありがとう、ジュピター。


  17日





   ……ねぇ。


   なに……。


   ……なまえを、よんで。


   ……。


   きれいなこえで……。


   ……綺麗かどうか、私には未だに分からないわ。


   マーキュリーの声は、きれいだよ……。


   ……私には然う思えないの、子供の頃から。


   子供の頃から……何度も、伝えているよ。


   ……あなたは、然う言って呉れるけれど。


   自分と他人、聞こえ方が違うというのもあるのかな……。


   ……私の場合は、其れだけではないわ。


   自信が、ない……。


   ……或いは、素直ではない。


   ……。


   ……綺麗な声でなくても、良いのなら。


   あたしは、きれいだと思っているから……誰の、どんな声よりも。


   ……。


   ねぇ、マーキュリー……今一度、「あたし」の名前を呼んで。


   ……ユゥ。


   ……。


   ユゥ……ユピテル。


   ……ありがとう。


   今夜は、特別よ……。


   ……うん、分かってる。


   ……。


   ……卵料理、美味しかったね。


   ええ……美味しかったわ。


   ……もう一度くらいは、食べたいな。


   卵、未だ残っているのでしょう……?


   うん……あと、みっつ。


   ……ふたつ、食べても良いわよ。


   ううん……ひとつとはんぶんこにしたい。


   ……卵も好きでしょう?


   好きだけど……。


   ……月に帰ったらまた暫くの間、食べられなくなるわよ。


   其れは、マーキュリーもだよ……。


   ……私は。


   マーキュリーも好きだろう……卵。


   ……私は、見ているだけで満足だから。


   見て……?


   ……ジュピターが満足そうに食べている姿。


   ……。


   子供の頃から、ちっとも変わっていないの……。


   ……そんなに変わっていない?


   ええ……変わっていないわ。


   ……どうすれば、変われるだろう。


   変わりたいの……?


   ……マーキュリーにもっと、好かれたい。


   ふふ……ばかね。


   ……う。


   私は……あなたの子供っぽい姿を、好ましく思っているわ。


   ……。


   ……守護神で居なければならない場では、其の限りではないけれど。


   あたしは、ちゃんと出来ている……?


   ……及第点、かしら。


   ぎりぎり……?


   ……まぁ、然うね。


   ……。


   本来ならば、向き不向きというものがあるのだけれど……私達の場合は、然うも言っていられないから。


   ……マーキュリーは、凄いな。


   別に、凄くなんてないわ……。


   ……ぅ。


   凄くなんて、ないの……。


   ……。


   だって、あなたが居て呉れなければ……ぁ。


   ……メル。


   もう、だめよ……。


   ……マーキュリー。


   未だ、憶えている……?


   ……大分、消えてきた。


   消えてきた……ということは、未だ残っているわね。


   ……其れでも、明日になれば。


   眠れそう……?


   ……眠れると思う、マーキュリーが傍に居て呉れるなら。


   何処にも、行かないわ……。


   ……うん、行かないで。


   ……。


   ね……明日は早く起きて、残した仕事を片付けるんだよね。


   ……其のつもりよ。


   ごめんね……マーキュリー。


   ……別に、謝らなくても良いわ。


   ん……。


   ……弱っているあなたを放置する方が問題だもの。


   どうして……?


   ……万全ではないジュピターを放置した結果、いざと言う時に使い物にならない事態が発生するかも知れない。


   ……。


   其れは、私にとっては不利益でしかないから。


   ……ふりえき。


   と、マーキュリーならば然う言わなくてはならない。


   ……マーキュリーでなければ。


   好きなひとを、心配してはいけない?


   ……。


   仕事よりも、優先してはいけないかしら……?


   ……ううん、良いと思う。


   ん……ジュピター。


   ……今夜だけ。


   ……。


   明日になれば……あたしは、大丈夫だから。


   ……ねぇ、ジュピター。


   ん、なに……?


   ……青い星の民とはもう、必要以上に関わらない方が良いと思うの。


   ……。


   今回のようなことが、今後、起こらないとは限らないわ。
   いいえ……確実に、起こるでしょう。


   其れは、然うかも知れないけど……でも、どうせ直ぐに忘れてしまうから。


   忘れるまでの、時間。
   例えば、月の民が壊れる時の状況とは全く異なる。


   ……。


   印象が強い程……心から消えるのに、時間が掛かる。
   いい加減、気が付いているのでしょう?


   ……。


   少なくとも、身の上を聞くようなことはしない方が良い……感情が、勘違いするから。


   ……勘違いって。


   情が湧く、ということよ。


   ……良く、分からない。


   私に抱いているような


   其れだけはないよ、有り得ない。


   ……心に湧く情は、其れだけではないのよ。


   今回は、話して呉れたから……あたしから、聞いたわけではないんだ。


   其れは、あなたが話しやすいからよ……私だったら、然うはならない。


   ……そんなこと。


   あなたは確かに、月の民ではあるけれど……月の民が持っていないものを、あなたは持っているの。


   ……あたしは、別に。


   あなたの青い星の民に向ける感情は、いつだって温かくて……決して、見下すことがない。
   常に柔らかくて、対等で、優しくて……冷たい態度も取らないから、どうしたって惹き付けてしまうの。


   ……其れは、マーキュリーだって。


   知っているでしょう……?


   ……。


   私は……対外用に作っているだけ、演じているだけ。
   どんな相手であろうとも、其れを崩すことはしない。


   ……。


   そんな私に下女が寄ってくることは、仕事以外ではない。
   自分でも分かっているの、月特有の冷たいものが此の身から滲み出ていることは。
   勿論、身分というものを弁えているからでもあるのだろうけれど……。


   ……マーキュリーに、冷たいものなんてないよ。


   簡単に言ってしまえば、私には気安さがないの。
   だから、どうしたって近付き難い。下女から見れば、尚更ね。


   ……話してみれば、分かるのに。


   ならば、私から話し掛けてみれば良い?


   ……え。


   でも、何を話せば良いかしら。
   私には話題がないの、何一つね。


   ……え、と。


   あなたには、他にも……然う、ひと懐こさもあるのよね。
   其れが結果的に、ひとたらしに繋がるのだけれど。


   ……あたしには、そんな気は全くないんだ。


   知っているわ。あなたはただ、自然体にしているだけ。
   其れが、守護神……月の民らしくないというだけ。


   ……。


   思えば、先代も然うだったのかも知れないわね……。


   ……師匠と、あたしは。


   そして、どちらも鈍い。


   ……師匠、ほどでは。


   若しも、あなたが……ううん、止めておくわ。


   ……うん、言わないで良いよ。


   分かるの……?


   ……なんとなく、分かる気がする。


   ……。


   あたしは、ひとたらしだから……其の気になれば、食い放題だって。


   ……は?


   相手が月の者ならば、後腐れもない……マーキュリーだけなのが、勿体ないって。


   ……待って。


   え……?


   何よ、其れ……初めて、聞いたのだけれど。


   ……うん、言ってなかった。


   そんなこと、誰が……あぁ、良いわ。
   大体、分かるから……其れにしたって、そんな言い様。


   ……あいつは、其れが楽しい話題だと思っているみたいだよ。


   ジュピター。


   ん……なに。


   私は……其処までは、言わない。


   ……そこまでは。


   あ、然うではなくて……あぁもう、だから。


   ……ふふ。


   ん……ジュピター。


   ……莫迦みたいに、一途で良かった。


   ……。


   で、なければ……たったひとりだけを愛することなんて、出来なかったと思うから。
   一途だからこそ、たったひとりだけを大切に想うことが出来るのだから……。


   ……一途だからと言って、然うとは限らないと思うけれど。


   たったひとりだけを想うことって、そんなに面白くないことなのかなぁ……。


   ……ひとによっては、面白くないのでしょうね。


   だけど、あたしは……ん。


   ……もう忘れて良いわよ、そんなくだらないことは。


   マーキュリー……?


   ……と言うより、今直ぐ忘れて。


   あ、うん……もう、忘れる。


   ……いつ言われたのか、知らないけれど。


   えと……ちょっと前に。


   ちょっと前……ね。


   ……青い星に来る前。


   どうして直ぐに言わなかったの……?


   ……忙しそうだったから。


   忙しそうでも……。


   ……直ぐに忘れると、思っていたんだ。


   ……。


   でも……少し、残っていたみたい。


   引っ掛かっていたのだと思うわ……私に、話さないから。


   ……然う、なのかな。


   然うよ……だから、次は直ぐに話してね。


   ……うん、分かった。


   なければ、良いけれど……ないとは、絶対に言えない。


   ……マーキュリー、怒ってる?


   ええ、彼女にね。


   ……。


   はぁ……全く。


   ……あのね、マーキュリー。


   なぁに……ジュピター。


   ……青い星の民と話すと、面白いんだ。


   其れは、月の民にはないものを持っているから?


   うん……色々なひとのこが居るんだ、女王の人形(ひとかた)のような月の民と違って。


   同じような存在が居ないから……其れがまた、面白く感じるのでしょうね。


   青い星の民は、当たり前のようにひとりひとりが違う存在なんだ。
   感情も、豊かだし。知識も知恵も、話題だって、ひとそれぞれで。


   ……感情、ね。


   だけど、一番はマーキュリーだよ。


   良いわよ、其処は素直に言って呉れても……分からないわけでは、ないから。


   素直に言うと……あたしは、マーキュリーが一番なんだ。


   ……新鮮味がないと思うのよ。


   新鮮味……?


   ……子供の頃から、だから。


   良く分からないけれど……マーキュリーと一緒に居るのが一番楽しいし、安心するし、面白いんだ。


   ……私が一番だと言うのなら、青い星の民との関わりは今後一切止めて。


   分かった、止める。


   ……。


   今後はもう、


   冗談よ。


   ……。


   ……あなたが持って帰ってくる話は、私にとっても興味深いものが多いから。


   其れは、マーキュリーとして……それとも。


   ……本当の名、としても。


   ……。


   けれど……ありがとう、其の心が嬉しいわ。


   あ……。


   ……叶うならば、ずっと私だけを。


   ずっと、マーキュリーだけだ……。


   ……でも、重荷に感じるようになったら。


   ならないよ。


   ……。


   ならない。


   ……ぁ。


   マーキュリー……若しも、あたしが。


   ならないわ……。


   ……。


   ……寧ろ、何処にも行かないように抑えつけておいて。


   そんなこと……ううん、分かった。


   ……もう、だめ。


   形を、確認させて。


   ……もう、したでしょう。


   もう一度だけ、マーキュリーの……メルの、形を。


   ……此れ以上は。


   起きられない……?


   ……起きられるわ、けれど。


   疲れが、残る……。


   ……隙を見せるわけにはいかないの。


   寝不足であろうとも……マーキュリーは、隙なんて見せないだろう。


   ……。


   だけど……何事も、万全な状態で臨んだ方が良い。


   ……分かっているのなら。


   名残惜しいけれど……。


   ……数え切れない程しているのに、未だそんな風に思うのね。


   思うさ……数え切れない程、したって。


   ……ん。


   マーキュリーは……思わない?


   ……私は。


   もう、思わない……?


   ……ばか。


   あ……。


   ……言わせようとしないで。


   ん……ごめん。


   ……思うに、決まっているでしょう。


   ……。


   ……なに。


   月に、帰ったら……。


   ……暫くは、忙しいから。


   じゃあ、帰る前に……。


   ……特別なのは、今夜だけよ。


   ……。


   ……。


   ……明日の朝ごはん、なんだろうね。


   何が良いの……?


   ……マーキュリーと、ふたりで美味しく食べられるものなら。


   ……。


   マーキュリーは……?


   ……お肉で、なければ。


  16日





   ……マーキュリー。


   ジュピター。


   ……ただいま。


   お帰りなさい、早かったわね。


   ……うん。


   其れで、どうだったの?
   教わることは、出来た?


   ……。


   どうしたの。


   ……会えなかったよ。


   然う、其れは残念だったわね。
   何処かに、お使いにでも出されていた?


   いや……。


   ……?
   ジュピター?


   ……もう、此処には居ないらしい。


   居ない?


   部屋には、何も……居た形跡すら、残されていないって。


   ……然う。


   マーキュリーは、何も聞いていない?


   ……聞いていたなら、あなたに何も伝えないで行かせると思う?


   思わない……かな。


   ……形跡すら残されていないのなら、使いではなさそうね。


   うん……同じ部屋の者も、居なくなったことに気が付かなかったらしい。


   ……ゆうべ、何か変わったことはなかったの。


   なかったみたいだ、あくまでもいつもどおりの夜で……。


   ……全く、なかったと?


   いつもと、違うことがあるとすれば。


   ……すれば?


   あたしと少しでも話せたこと、あたしに山羊の発酵乳をあげられたことを、喜んでいたと。
   なんでもさ、月の民と話すことが願いだったらしいんだ……そんな願い、あるんだね。


   ……貧しい庶民が其の願いを叶えることは、ほぼ無いに等しいから。


   うん……だから、とても喜んでいたらしい。
   重ねた手を胸に当てて、一生の思い出になると……。


   ……一生。


   若しも、あたしに……山羊の発酵乳をあげたことが、


   其のことを、罰せられたわけではないと思うわ。


   ……どうして、然う思う?


   勝手なことをして、罰せられるのならば……大体は、見せしめにされる。
   残された者達が勝手なことをしないように……見せしめ程、分かりやすいものはないから。


   ……見せしめにされたのなら、マーキュリーの耳にも届いた?


   恐らくは。


   然うか……なら、違うかな。


   ……他に何か、聞けたことはあるの?


   いや、何も……詳しいことは何ひとつ、聞かされていないみたいだ。


   ……。


   だけど、赤い薬味の作り方は聞けたよ。
   山羊の発酵乳を呉れたひとが、最も上手な作り手だったことも。


   ……下女の代わりは、幾らでも居る。


   ……。


   此処に居る下女には、年季というものがあるらしいわ。


   ……ねんき?


   予め定められた年限のこと。


   ……其れが、何?


   其れが明けることで初めて、其の躰は自由になれるらしいの。


   ……自由に。


   下女達の中には、借金の担保に連れて来られた者も居る。
   中には、金目当ての親に売り飛ばされた者も。子は時に、売り物になるから。


   ……あのひとは己の意思で、望んで来たと。


   そんなことも、聞いたの?


   ……。


   ジュピター……あなた。


   自分が此処で尽くすことで、故郷に居る親きょうだいを助けることが出来ると……笑って、話して呉れた。


   ……直接、聞いてしまったのね。


   あのひとは、年季が明けたんだろうか。


   其の可能性は……ないわけでは、ないわ。


   然うか……だったら、良いな。


   ……ジュピター。


   ん、大丈夫だ……どうせまた、直ぐに忘れるよ。
   其れが、あたしの……ジュピターの、取り柄のひとつなのだから。


   ……。


   マーキュリー、改めて今日もお疲れ様。


   ……あなたも。


   体調はどうだい?


   ……大丈夫よ、ありがとう。


   疲れたろう?
   今日も早めに休もう。


   ……然うね。


   未だ、やることはある?


   ……もう少しね。


   食事はもう、済んでいるけれど……良かったら、夜食に何か作ろうか。


   ありがとう……でも、私は良いわ。


   ……そっか。


   小腹が空いているようならば、私のことは気にしないで。


   ……ううん、今日はもう良いや。


   ねぇ、ジュピター。


   ……ん?


   先に休んで。
   今夜は待っていないで。


   ……待ってるよ、もう少しなんだろう?


   ……。


   待っていたい。


   ……休みたくなったら、いつでも休んで良いから。


   ひとりで、眠りたくないんだ。


   ……。


   ……だから、待っていたい。


   出来るだけ、早く終わらせるから。


   ……急がないで良いよ、いつまでも待っているから。


   言ったでしょう……あともう少しだと。


   ん……然うだった。


   ……。


   ねぇ、マーキュリー。


   ……なに。


   此れ、気になる?


   ……また、貰ってきたの?


   ううん……帰りに市に寄って。


   ……何を。


   卵と牛酪、それから発酵乳……山羊のものはなかったから、牛の。


   ……山羊の発酵乳は高価だから、庶民達の市に並ぶことは滅多にないでしょうね。


   それから……赤い粉。


   赤い粉って……一体、何の粉なの。


   なんだったかな……。


   ……聞き慣れない音?


   うん、多分此処の言葉だと思う。


   ……。


   赤い粉だけ、分けて貰った。
   要らないと、言ったんだけど……あたしに、渡したかったらしくて。


   ……オリーブとは、違うのよね?


   うん、違う。
   でも大丈夫だよ、ちゃんとした食べ物だから。


   ……いいえ、だめよ。


   マーキュリー……。


   ……原料を、はっきりさせないと。


   原料……。


   ……昨日食べた赤い薬味と、何か関係ある?


   赤い薬味と……?


   共通点は、色。
   ただ、それだけだけれど。


   ……。


   あなたのことだから、ちゃんと聞いたと思うの。
   でなければ赤い粉なんて怪しいもの、あなたは貰ってこない。


   ……あぁ、然うだ。


   思い出した?


   赤い薬味の中に入っている野菜が原料だと言ってた。
   手に入れやすくて……此の辺りでは良く食べられている野菜なのだと、だからあたしは貰ってきたんだ。


   ……。


   分かる、マーキュリー?


   ……だとすれば、其れはチェシキだわ。


   ち、ちぇ……?


   ……此の辺りの特産物で、良く食べられている筈。


   発酵乳だけではないんだ……。


   畑に、形が奇妙な赤い実が生っていたのは憶えている?


   赤い実……あぁ、あの変わった形の?
   あれが、然うなの?


   ええ。


   ……月にはあんな形の野菜はない。


   種……持って帰りたい?


   うん、叶うなら。
   其れを上手く育てることが出来たら、月でも赤い薬味が作れる。


   期待はしないで。


   分かった。


   ……蕃茄だと、思っていたけれど。


   あたしも、思ってた……赤い野菜と言えば、蕃茄だから。


   ……でも、蕃茄も入っていたと思うのよ。


   うん、入っていたと思う……確かに、其の味がしたから。


   ……。


   ……。


   ……其れで、何を作るつもりなの?


   ん……実は、教わったものがもうひとつあってさ。


   ……卵を使うのね。


   然うなんだ……曰く、とても美味しいらしい。


   ……明日、作って。


   明日?


   ……明日でなくても良いのだけど。


   ううん、卵が傷んでしまう前に作りたい……。


   ……材料は卵と牛酪と発酵乳、それからチェシキの粉だけなの?


   あと、大蒜と蒔蘿。
   このふたつは、昨日の分が未だ残っているから。


   ……。


   卵と発酵乳、何処に置いておこう。


   作ってみて。


   ……え?


   今、作ってみて。


   今……だけど。


   夜食に。


   ……食べられるの?


   はんぶんこにしましょう。


   ……はんぶんこ。


   其れならば……食べられなくもない。


   ……。


   だけど、あなたが食べたくないのなら。


   ううん……マーキュリーとはんぶんこなら、食べたい。


   ……。


   はんぶんこなら、食べられると思うから。


   ……作って呉れる?


   うん、作るよ。
   そんなに時間は掛からないんだ。


   ……何か手伝えることは?


   マーキュリーは仕事をして欲しい。
   食休みをしたら、直ぐに一緒に眠れるように。


   ……分かった。


   うん……じゃあ、また後で。


   ……どうやって作るか。


   え……?


   ……話しながら、作って。


   ……。


   ……出来る範囲で良いから。


   マーキュリーも、知りたい?


   ……知りたい。


   でも、仕事の邪魔にならない?


   ……邪魔にはならない。


   ……。


   私が、知りたいと思っているのだから。


   ……邪魔だと思ったら、直ぐに言ってね。


   ええ……言うわ。


   ……。


   ……。


   ……先ずは手を良く洗って、お湯を沸かす。


   お湯なら。


   うん……もう、沸いているね。


   あなたが帰ってきたら、美味しいお茶を淹れて貰おうと思っていたの。


   ふふ、そっか。


   ……どうぞ、使って。


   ありがとう、マーキュリー。


   ……どういたしまして。


   然うしたら、此のお湯を鍋に移して……こっちにはお茶を飲む為に、水を足しておこう。


   ……弱火で良いの?


   うん、強火では駄目らしい。


   お湯をどう使うの?


   其の前に、先ずは卵を容器に割る。


   ……。


   其れからお湯に酢を入れて掻き混ぜて、渦を作るんだ。


   ……渦?


   此処では然う言うんだって、面白いよね。


   渦を作って、どうするの?


   此の中心に、卵を静かに落とす。


   ……殻を割ったものを、其のまま入れるのね。


   うん……此れでもちゃんと茹でられるんだって。


   ……興味深いわ。


   ん、マーキュリー?


   明日の朝、早く起きれば良い。


   ……。


   続けて。


   ……最初から、其のつもりだった?


   考えは、変わるものよ。


   ……。


   ね、然うでしょう?


   ……うん、然うだった。


   入れて、茹るのを待つのね。


   其の間に、大蒜を摺り下ろす。


   ……。


   手が臭くなってしまうけど、ちゃんと洗うから。


   ……ええ、然うして。


   ふふ……うん。


   ……。


   ……摺り下ろしたら。


   手際が良いわね。


   ん、然う?


   好きよ。


   ……。


   ……其れで、どうするの?


   え、と……摺り下ろしたものを塩と一緒に発酵乳に入れて、良く掻き混ぜる。


   やらせて。


   ……。


   良いでしょう?


   ん……じゃあ、お願い。


   ん。


   じゃあ、あたしは蒔蘿を刻んで……鉄鍋を温めよう。


   ……。


   ……丁寧だ。


   なに。


   好きだよ。


   あぁ……然う。


   ……。


   ……。


   ……良し、蒔蘿は此れで良いかな。


   ジュピター。


   ……ん?


   見て。


   どれ……うん、良く混ざってる。


   ……。


   あとは、卵が茹で上がるまでに鉄鍋で焦がし牛酪を作る……。


   ……卵が固まったら、取り出すのよね。


   うん、然うだよ。


   ……完全に?


   黄身は、半熟の方が美味しいらしいんだ。


   ……ならば、そんなに掛からないわね。


   けど、衛生面のことを考えると。


   ……心配ならば、良く茹でた方が良いわ。


   うん。


   ……。


   ……ねぇ、マーキュリー。


   なぁに……ジュピター。


   ……赤い粉を、鉄鍋に入れて貰っても良い?


   ええ……良いわよ。


   ……。


   どれくらい……?


   ……匙に、ほんの少し。


   ……。


   ……。


   ……此れくらい?


   ん……ぴったりだ。


   ……此れを入れれば良いのね。


   うん……。


   ……。


   ……ん、赤くなった。


   良い匂いね……。


   ……あぁ、良い匂いだ。


   ……。


   ……後で。


   ん……なに?


   後で……抱き締めても良い?


   ……今でなくて?


   今は……火を使っているから。


   ……。


   ……忘れるまで。


   となると……明日まで、かしら。


   ……。


   ……然うなると、今だけでは足りないわね。


   良い、かな……。


   ……考えておくわ。


   うん……ありがと。


   ……期待は。


   しないで、おくよ。


   ……しても、良いわよ。


   ……。


   ……良い方向に考えておくから。


   うん……マーキュリー。


   ……。


   ……卵、そろそろ良いかな。


   然うね……良いのではないかしら。


   ……発酵乳を、器に敷いて貰っても良い?


   敷く……?


   其の上に、茹でた卵を乗せるんだ。


   ……成程。


   ……。


   此れで、良いかしら。


   うん……とても良いよ。


   ……。


   卵を掬って……よ、と。


   ……其れで、此の焦がし牛酪を掛ける?


   掛けて呉れる?


   ……ええ。


   ……。


   ……どうかしら。


   うん……とても美味しそうだ。


   ……蒔蘿は。


   此の上に散らす……うん、完成だ。


   ……。


   どうだろう?


   ……此れを、教わったのね。


   うん……マーキュリーが良くなったら、ふたりで食べて欲しいと。


   ……。


   叶うならば、ふたりに作ってあげたいけれど……其れは、主の許可なしでは出来ないから。


   ……。


   取り敢えず、出来たことだし……食べてみようか、マーキュリー。


   ええ……食べてみましょう、ジュピター。


   ……はんぶんこ?


   もっと、食べたいのなら。


   ……ううん、はんぶんこが良い。


   ……。


   ……。


   ねぇ……ジュピター。


   ……ん、なに?


   お茶を、お願いしても良いかしら。


   ……若しかして、喉が乾いている?


   ……。


   ん、分かった……直ぐに淹れるね。


   ……ありがとう。


  15日





   あたしは、米を山羊の乳で煮込んだものが好きだな。


   乳粥ね。


   然う、乳粥。


   乳粥自体は珍しいものではないけれど、大抵は牛の乳を使うのよね。


   此処の乳粥はほんのり甘くて、その加減がとても美味しかった。
   月に山羊が居れば、是非とも作ってみたいと思う料理のひとつになったよ。


   豆乳は山羊の乳の代用品にはならないかしら。


   うーん、味がどうしたって違うからなぁ。
   牛の乳とも違うし。


   まぁ、同じ味にはならないわね。


   豆の青臭さがなければ、美味しくなるとは思うんだ。
   現に、豆の甘煮と合わせて食べても美味しいし。


   帰ったら、試しに作ってみる?


   うん、作ってみようと思う。
   米も未だ、残っているしね。


   ねぇ、ジュピター。


   ん、なに?


   今まではどうして作ってみようと思わなかったの?
   乳粥は何度か食べたことがあるのに。その中には甘いものもあったわ。


   今までは、そんなに美味しいと感じたことがなかったんだ。
   だから、わざわざ作ってみたいとも思わなかった。


   若しも、月に牛が居たら?


   食べたものよりも美味しい乳粥を作ってみようと、少しは考えたかも知れない。
   でも月には牛は居ないし、豆乳では牛の乳の代わりにはならないから。


   若しも、私が食べたいと言っていたら。


   然うしたら、豆乳で作っていたと思うよ。
   牛の乳粥のような味にはならなくても、美味しく食べられるように工夫してさ。


   ……然う。


   若しかして、食べたかった?


   いいえ、そこまで食べたいとは思わなかったわ。


   ん、そっか。


   ただ、あなたが作ればもっと美味しいものになるかも知れないと、然う考えたことはあったわね。


   え、然うなの?


   ええ。


   それは、いつ?


   ……ずっと前。


   ずっと前……。


   ……あの時の乳粥は、どうにも甘過ぎて。


   甘過ぎて……あ。


   乳粥は、何処のものも大抵甘い味付けではあったけれど……あそこまで、甘いものは。


   然ういえばあったなぁ、甘過ぎる乳粥。
   どう考えても、糖の入れ過ぎの。


   ……あと、味気ない乳粥。


   味気ない……乳の風味しかしない乳粥だね。


   ……あれはあまり好みではないわ、どうにも乳臭くて。


   うん、あれはあたしもあまり好きではないかな。
   どことなく、獣臭くて。


   あれらを食べて……自分が作れば、という考えにはならなかったのね。


   うん、全くならなかった。
   だけど若しも、マーキュリーが一言でも言って呉れれば。


   ……私が、言うと思う?


   うーん……思わないかな。


   ……でしょう。


   何度も言っているけれど、牛か山羊、どちらかだけでも月に連れていくことが出来たなら。
   此処で食べたものよりも美味しい乳粥を作れるかも知れないのになぁ。


   ……乳粥だけでなく。


   乳だけでなく、肉も美味しいからさ。
   乳粥以外の料理も作ってみたい。肉料理を加えたい。


   ……あと、鶏?


   然う、鶏。あれは良いよ、乳は出ないけれど卵を毎日産んで呉れる。
   肉も美味しいけど特に卵、卵が欲しい。


   お肉よりも、卵なの?


   肉も勿論良いのだけれど、卵はひとつあるだけで料理の幅が広がる。それがとても良いんだ。
   白身と黄身、白身だけ、黄身だけ。そんな風にも使い分けることが出来るだろう?


   ……卵で調味料を作ることも出来るわね。


   兎に角、色々な料理に使えるのが卵の魅力なんだ。
   だからね、鶏だけでも……。


   無理ね。


   あと豚、あの肉も美味しい。
   焼いても揚げても、煮ても良い。


   ……。


   猪は臭みがあるけれど、あれも美味しいな。
   特に煮込み……味噌と言ったか、あれで煮込んだものは美味しかった。


   ……ねぇ、ジュピター。


   ん、何?


   食べて欲しいとは言わないのね。


   え。


   私も、山羊の乳粥は美味しかったと思っているのだけれど。


   ……。


   ……。


   ……美味しく出来たら、食べて呉れる?


   若しかして、自信がないの?


   ないわけではないんだけど……マーキュリーに食べて貰うんだったら、美味しい方が良いから。


   美味しいんじゃない?


   ……。


   だって、あなたが作るんだもの。


   ……使うのは豆乳、だけど。


   小さい頃から今に至るまで、ずっと然うだった。


   ……。


   だから、豆乳粥も屹度美味しく出来ると思うの。


   ……マーキュリー。


   なぁに、ジュピター。


   豆乳粥、作ったら一緒に食べよう。


   ええ、良いわよ。


   うん。


   口に合わなかったら、残すと思うけれど。


   大丈夫、ちゃんと口に合うように作るから。


   ふふ、期待しているわ。


   うん、期待していて。


   然ういえば、お粥の上に乾燥させた果物が乗っていたわよね。


   あぁ、うん、乗っていたね。


   果物ならば、月にもあなたが育てているものがあるから。


   あたしは、乾燥させなくても美味しいと思うんだ。


   だったら、どちらも作ってみれば良いと思うわ。


   うん、然うするよ。


   帰ったら、直ぐに作るつもりなの?


   ん、作ろうと思う。
   味を忘れてしまわないうちにね。


   味のことなら忘れないと思うけれど、だけど今回の場合は忘れた方が良いんじゃない?


   え、なんで?


   だって、どうしたって同じ味にはならないもの。
   だったら一度忘れて、新しい味を作った方が良いと思うわ。


   うん、マーキュリーの言う通りだ、
   すっぱり忘れて、新しく美味しいものを作ろう。


   どうして豆乳粥を作ったのか、それは忘れないでね。


   ……。


   忘れそうね。


   ……マーキュリーが、憶えていて。


   私が食べたいと言ったの。
   それなら?


   忘れない。


   然う、なら忘れないで。


   うん、絶対に忘れない。


   ……。


   ん?


   ご馳走様、ジュピター。


   あ、食べ終わった?


   ええ、すっかりと。


   残しても、良かったんだよ。


   薬だと思って、食べたわ。


   薬……そっか。


   味は、悪くなかった。
   寧ろ、薬よりはずっと美味しい。


   まぁ、薬と比べたらね。


   食欲がない時に食べても良いかも知れないわ。
   その時は、あれを入れて。


   大蒜?


   本来は、入れるのでしょう?


   然うみたいだ。


   だったら、大蒜入りのものも一度くらいは食べておきたいわね。


   薬のひとつの形として?


   ええ、然うよ。


   だけど、月では作れないしなぁ。
   発酵乳がないからさ。


   豆乳を発酵させることは出来るわよ。


   あ。


   乳粥と同様、同じ味には決してならないと思うけれど、試してみる価値はあると思うのよね。


   成程……豆の発酵乳か。


   ……美味しくなくても、薬だと思えば食べられるだろうし。


   ……。


   あなたにその気があればだけれど、どうかしら?


   ……作ってみようかな。


   薬として?


   いや、あくまでもごはんとして。


   然う……なら。


   なら?


   帰る前に機会があれば、今度は大蒜入りのものを作ってみて欲しいの。


   分かった、また作ってみるよ。


   うん。


   ……。


   ん……なに。


   大分、調子が戻ってきた。


   ……ええ、お蔭様で。


   明日まで、残らないかな。


   ……多分、残らないと思うわ。


   そっか、良かったよ……。


   ……。


   そろそろ、休む……?


   ……食べたばかりだし、もう少しお腹を休めたいわ。


   大丈夫……?


   ……大丈夫よ。


   なら……もう少し、美味しかったものの話をしようか。


   ……。


   ……違う話の方が良い?


   いいえ……良いわよ。


   ……ん。


   聞かせて……ジュピター。


   ……うん、マーキュリー。


   ……。


   あたしは山羊の乳粥が美味しかったけど……マーキュリーは何が美味しかった?


   ……私なの?


   うん……マーキュリーの話も聞きたい。


   ……。


   だめ……?


   ……仕方がないわね。


   ふふ、やった……。


   私は……山羊の発酵乳に、瑞々しい果物が入っている料理が特に美味しかったわ。


   あぁ……あれも美味しかったね。


   さっぱりとして、食べやすかったの。
   果物の甘みも、程良くて。


   うん、分かるよ。
   肉を食べた後にそれを食べると、口の中がすっきりとしてさ。


   あなたは、お肉が好きだから。


   月では、食べられないから……つい。


   ねぇ、お肉で美味しかったものはないの?


   あるよ、勿論ある。


   どれ?


   どれも美味しかったけど、特に発酵乳を掛けた肉の塊が美味しかったかな。
   二種類あったけれど、どちらも美味しかったよ。片方は発酵乳が辛くて、もう片方はさっぱりとしていて。
   多分だけれど、さっぱりしている方には大蒜が入っていなかったんじゃないかな。においもしなかったし。


   お肉の塊?
   丸焼きのものはなかったと思うけれど。


   こう、肉を丸めたような。


   あぁ、挽き肉の料理のことね。


   そうそう、挽き肉の。


   あれは、確かに好きそうね。


   マーキュリーも食べたかい?


   ええ、少しだけれど。


   どうだった?


   どちらも悪くないと思ったけれど。


   マーキュリーは、さっぱりとしている方が好み?


   お肉はさっぱりしている方が食べやすいの。


   くどくて脂っこいのは苦手だもんね。


   どうしても、お腹が凭れてしまうから。


   月では食べる機会がないし、屹度お腹が慣れないんだ。


   あなたは慣れていない筈なのに、幾ら食べても平気なのよね。


   然うなんだよね、なんでかな。


   お腹の造りが然うなっている、或いは然ういう風に造られている。
   然う言ってしまえば、それまでなのだけれど。


   然ういや、師匠も平気だったって聞いたな。
   ジュピターは酒は飲めないけれど、肉には強いのかも知れない。


   まぁ、然うなのでしょうね。
   羨ましいわ。


   羨ましいだなんて、本当に然う思っている?


   思っていない。


   だと思った。


   そもそも私は美味しくお腹に収まればそれで良いから。


   美味しく?


   有限な時間を使って収めるのならば、美味しい方が良いわ。


   うん、其の考えはとても良いと思う。
   なんでも良いわけではないよね。


   まぁ、いざとなったらなんでも良いけれど。
   有害なものさえ、入っていなければ。


   あたしが傍にいる時は、美味しいものを作るよ。


   居ない時は?


   保存食を作り溜めしておくから、忘れずに食べてね。


   それでも、限りはあるけれど。


   取り敢えず、食べることを忘れないで居て欲しい。


   調理しなくても、食べられるものはあるし?


   畑から好きなものを好きなだけ持って行って食べて良いからね。


   気が向けば、作るから。


   マーキュリーが作るごはんは、子供の頃から美味しいんだ。


   ……。


   ……?
   マーキュリー……?


   保存食と言えば、あれが美味しかったわ。


   え、何。


   お野菜の薬味。


   え、と。


   見た目は赤くて辛そうなのに全く辛くなくて、お野菜の旨味が詰まっていた。


   ……。


   あなたの好きなお肉の塊にも掛かっていたわ。


   肉に……あっ、あれか。
   確かに、あれも美味しかった。辛そうなのに、全然辛くなくて。


   なんでも、此の辺りの保存食だそうよ。


   保存食、か。


   気が向いたら、作り方を教わってみたら?
   あなたなら、直ぐに教えて貰えると思うわよ。


   月でも食べたいと思う?


   食べられるのなら。
   薄麦餅に付けて食べても良いでしょうし。


   保存食になるのなら、あたしが居なくても食べられる。
   分かった、明日にでも教わっておくよ。


   ……明日、ね。


   山羊の発酵乳を呉れたひとなら、屹度、教えて呉れるだろう。


   ……忘れなければ良いけれど。


   忘れないよ、マーキュリーに食べて貰うんだから。


   ……月にあるもので作れたら良いわね。


   足りないものがあったら、工夫するよ。
   でも多分、なんとかなると思う。


   勘?


   味に、動物性のものは含まれていなかったと思うんだ。


   ……油が入っているように思えたけれど。


   多分、植物性だ。


   どうして然う思うの?


   動物のにおいがしなかったから。
   あと、マーキュリーが美味しいと言ったから。


   ……。


   動物性の油だったら、然うは言わないと思うんだ。


   ……教わらなくても、作れそうね。


   作れないこともないかな、だけど一応、教わっておくよ。


   ……。


   ん、マーキュリー?


   ……なんでもないわ。


   本当に?


   ……青い星の民と、あまり親しくしないで。


   しないよ、あたしは教わるだけだから。


   ……相手は然う思わないかも知れない。


   どう思われようとも、あたしは何も思わない。


   ……。


   大丈夫だよ、マーキュリー。


   ……どんな罰を与えられるか、分からないわ。


   罰?


   ……掟を破ると。


   掟……。


   ……青い星の民と通じてはならない。


   あぁ。


   ……だから。


   有り得ないよ。


   ……だと、良いけれど。


   あたしにはマーキュリーが居る。
   マーキュリー以外、要らないんだ。


   ……。


   安心した?


   ……別に。


   ふふ、そっか。


   ……。


   お腹、大丈夫そうかい?
   そろそろ、寝台で休もうか。


   ……片付け。


   さっさと済ませて、直ぐに寝台に行くよ。


   ……そんなの、明日でも。


   ん、なんだい?


   ……。


   どうした……?


   ……待っているわ。


   ……。


   ……だから、直ぐに来て。


   マーキュリー……うん、直ぐに行くよ。


   ……。


   ……やっぱり、明日でも良いかな。


   ジュピター。


   ……うん?


   早く。


   ……うん。


   ……。


   ……。


   ……自分で、言っておいて。


  14日





  -Alles Liebe(前世)





   ……。


   ……。


   ……お。


   ジュピター……。


   マーキュリー、起きてきて大丈夫なのかい?


   ……あまり、大丈夫ではないわ。


   なら、寝台に……連れて行ってあげるよ。


   ……良い、暫くこのままで居させて。


   でも、未だ気分が良くないのだろう……?


   ……其れでも、随分と良くなったの。


   然うは、見えないけどな……。


   ……そもそも、見えていないでしょう。


   声で分かるんだ……未だ、辛そうだってこと。


   ……何を、作っているの。


   あ……うん、少しでも楽になれないかなと思って。


   ……気持ちは嬉しいけれど、食欲が湧かないの。


   然うか……然うだよね。


   ……はぁ、あなたのにおいがする。


   臭い……?


   ……いいえ、安心する。


   ごめん……傍に、居なくて。


   ううん、良いの……私のことを想って、何かを作って呉れていたのでしょうから。


   ……作り終わったら、直ぐに戻るつもりだった。


   分かっているわ……。


   ……。


   ……あんなに強いとは、思わなかったの。


   マーキュリーが見誤るなんて……。


   ……普段、飲まないから。


   無理をせずに……一口で、飲むを止めておけば。


   ……仕方がないわ、あなたが飲めないのだから。


   ごめんよ……あたしが、少しでも飲むことが出来れば。


   ……。


   然うすれば、マーキュリーはあたしの分まで……。


   ……あなたが居て呉れて、良かった。


   けど、あたしが居たから余計に……。


   ……でなければ、もっと無理をしていたかも知れない。


   マーキュリー……。


   ……本当に良かった、あなたが付いてきて呉れて。


   うん……良かった、付いてきて。


   ……う。


   あ、気持ちが悪いかい?


   ……だいじょうぶ、なんでもないわ。


   寝台で、横になっていた方が。


   ……それよりも、こうしていたいの。


   ……。


   ごめんなさい……我侭を言って。


   ……良いんだ、もっと言って欲しい。


   ……。


   ね、喉は乾いていないかい……?
   こういう時は水を多く飲んで、酒精を躰の外へ出してしまった方が良いのだろう……?


   ……分かっては、いるのだけれど。


   うーん、そっか……無理は、良くないしな。


   ……此れでも、大分追い出したのよ。


   ……。


   でも……どうしても、幾らか残っていて。


   ……いつもは飲まないし、そもそも強くないから。


   やっぱり、少し飲んだ方が良いのかしらね……慣らす為に。


   だけど……頭の動きが鈍くなるから、好きではないんだろ?
   あと、酩酊状態も……体質に合う合わないもあるし、さ。


   ……。


   あ、大丈夫……?


   ……だいじょう、ぶ。


   直ぐ、寝台に……。


   ……横に、なっていても。


   ……。


   で、あるならば……あなたの、そばに。


   ……傍に、居るよ。


   だけど……未だ、作っている途中なのでしょう。


   然うだけど……後でまた、作っても良いから。


   ……材料が、勿体ないわ。


   材料よりも、マーキュリーの方が……。


   ……ねぇ。


   なんだい……。


   ……何を、作っていたの。


   気になる……?


   ……気になるわ。


   此れはね……発酵乳の汁物だよ。


   ……発酵乳?


   然う……此の辺りではね、酔い覚ましに此れを食べると良いらしいんだ。


   ……また、誰かに聞いたの。


   うん、給仕の女のひとに教えて貰った。


   ……本当、たらしね。


   あたしには、そんなつもりはちっともないんだ。


   ……分かってる、けど。


   其れで、山羊の発酵乳を分けて貰った。


   山羊……牛ではなくて?


   うん、今日のご馳走の余りらしい。


   余りなんて……下女が、貰っても良いものなの。ましてや、山羊の発酵乳なんて特別だと聞いたわ。
   主からは、ちゃんと許可が出ているのかしら……若しも後日、罰せられたりなんてしたら。


   今日は特別だと言い渡されているみたいだ。
   年に一度は、然ういった日があるらしい。


   ……其れが本当なら、良いのだけれど。


   山羊の発酵乳は牛のものよりも美味しくて、おまけに腹を壊しづらいらしい。


   ……其の山羊の発酵乳で、どんな汁物を。


   ……。


   ……食べられるかは、分からないけれど。


   其れでも、良いよ……興味を持って呉れたのが、嬉しい。


   ……癪なだけよ。


   え、なに?


   ……なんでもない。


   本当に?


   ……其れよりも、見てみても良い?


   ん……勿論。


   ……。


   ……山羊の発酵乳の中に、細かく刻んだ黄瓜と炒った胡桃が入っているんだ。


   此れは……入っていないの?


   其れも入れるらしいのだけど、少し、迷ってる。


   ……どうして?


   においが独特で、尚且つ、強いだろう?
   今のマーキュリーの状態では、受け付けないかも知れないと……然う、思って。


   ……此の葉は蒔蘿かしら。


   然う、蒔蘿。
   此の辺りでは、イノンドと言うらしい。


   ……此の辺りの料理には、生薬を入れるものが多いわよね。


   味付けや香り付けにも良いらしいんだ。
   先人の知恵とも言っていたよ。


   先人の……同じなのね。


   うん、あたし達と同じだ。


   ただひとつ、違うとすれば……彼らは、遺伝的に同一な細胞群ではないこと。


   同一ではないのに、受け継いでいるだなんてさ。
   あたし達でも絶対ではないのに。


   まるきり別の個体が残した知恵を知識として受け継いで、矢張り別の個体である次代へ繋いでゆく……月では、考えられないことだわ。 


   しかも其の知識がひとつの個体だけでなく、他の個体にも広がって更に多くの個体へ繋がっていくのも凄いと思うよ。


   ……。


   マーキュリー?


   ……改めて、脅威だわ。


   脅威?


   ……ええ。


   改めて、其れはどうしてだい……?


   ……多くの者が先人から受け継いだ知恵や知識を持っているからよ。


   ……。


   勿論、全てではないけれど……でも。


   ……受け継ぐのは、何も知識や知恵だけではない。


   ……。


   ……月への、悪感情も。


   なんにせよ……警戒するに、越したことはない。


   ……然う思っているのが、マーキュリーとあたしだけと言うのが。


   いいえ……マーズも居るわ。


   あぁ、然うだった……。


   ……若しかしたら、ヴィーナスも。


   然うだと、良いけど……。


   ……あれは、腹の中を見せない。


   ……。


   繋がっているのは、分かっているのだけれど……。


   ……そちらも、要警戒だな。


   ええ……。


   ……。


   ……。


   ……ふふ。


   なに……?


   いや……頭が大分、回るようになったなって。


   ……休んでいたからよ。


   良かったよ……マーキュリー。


   ……あ。


   横に来て呉れたから……抱き締められる。


   ……後ろに居れば、良かった。


   後ろから、抱き付かれているのも良かったけれど……。


   ……。


   ……マーキュリーの、においだ。


   あまり……嗅がないで。


   ……酒のにおいは、しないよ。


   嘘……。


   ……微かに、果実の甘いにおいがするけれど。


   ……。


   呼吸を止めなくても良いのに……。


   ……好きではないんだもの。


   どちらかと言うと、嫌いだよね……。


   ……あんなもの、どうして好んで飲むのかしら。


   うーん……美味しいと言うのもあるんだろうけれど、其れ以上に気持ち良くなれるからじゃないかな。


   ……ちっとも、気持ち良くなんてならないわ。


   体質に合っていないとね……。


   ……そろそろ、離して。


   えぇ、もう……?


   ……十分でしょう。


   未だ、十分じゃないよ……。


   ……どうせ。


   どうせ……?


   ……後で、一緒に眠るのだから。


   ……。


   ……眠らないのなら。


   眠る……眠りたい。


   ……ならば、今は離れて。


   ん……分かった。


   ……。


   ……。


   ……ん、ジュピター。


   額に、だから……。


   ……もぅ。


   へへ……。


   ……。


   寝台に、行く……?


   ……其の前に。


   ん……?


   ……少しだけならば、食べてみたいわ。


   え。


   ……なんとなく、食べられそうな気がするの。


   其れは、本当かい?


   ……うん。


   分かった、直ぐに仕上げる。


   ……急がなくても、良いわよ。


   あと、味を整えるだけなんだ。
   整えたら、蒔蘿を浮かべて完成。


   ……此れは、どうするの?


   あ、然うだった。


   ……私は、どちらでも良いけれど。


   食べられそうかい……?


   ……。


   別に、入れなくても良いみたいなんだ。


   ……入れた方が、効き目は増しそうだけれど。


   無理はしないで欲しい。


   ……今回は、入れないで。


   分かった、入れない。


   ……あなたは、食べるの?


   うん、食べてみようと思う。


   ……あなたの分には。


   あたしも、入れないで良いや。


   ……良いの、本当に?


   また、別の機会にね。
   他の料理に使っても良いし。


   ……まぁ、あなたが其れで良いのなら。


   ん。


   ……。


   じゃあ、少しだけ待っていてね。


   ……ええ、待っているわ。


   良かったら、椅子に座って。


   ううん、此処で待ってる。


   そっか……分かった。


   ……。


   味見、してみるかい?


   ……ううん、あなたの舌を信じているから。


   其れは……なかなか責任重大だな。


   ふふ……然うよ。


   はは……。


   ……お塩と。


   其れと、此の油……。


   ……。


   えと……なんの油だっけな。


   ……オリーブと言っていたわ。


   然う、其の実から作った油。


   ……香りが、悪くないのよね。


   うん、良いよね。


   ……。


   此のふたつを……少しずつ。


   ……ね、若しかしてだけど。


   うん?


   ……細かく切った蒔蘿も入っている?


   流石、マーキュリー……蒔蘿は飾るだけではないんだ。


   ……。


   ……マーキュリー?


   まるで、薬のようね……。


   ……薬?


   然う……薬。


   ……。


   ジュピター……?


   ……医食同源?


   ……。


   だっけ……?


   ……良く、覚えていたわね。


   うん、マーキュリーに習ったことだからね。


   ……此の地域に暮らすひとのこは、普段から、此れを食べているのね。


   然うみたいだよ……興味深いかい?


   ……学びは、尽きないわ。


   ふふ、そっか……。


   ……。


   さて、味見を……と。


   ……。


   ……ん、……んー?


   美味しくない?


   ……いや、悪くはない。


   でも……?


   ……塩気は、薄い方が良い?


   あまり、濃くない方が良いわ。


   ……なら、塩は此れくらいで。


   ……。


   もうちょっと、油を……ん、此れで。


   ……。


   ……。


   ……どう?


   ん……此れで、良い。


   ……。


   出来たよ、マーキュリー。


   然う……良かったわ。


   さぁ、ふたりで食べよう。


   ……。


   ん、マーキュリー?


   ……連れて行って貰っても、良い?


   あぁ、勿論さ。


   ……ごめんなさい。


   謝らなくても良いよ。


   ……。


   ……少し、足元がふらついているね。


   今夜、ゆっくり休めば……あなたが作って呉れた発酵乳の汁物を食べてね。


   ……効けば、良いな。


   期待しているわ……。


   ……何か、飲むかい?


   然うね……薄荷水を。


   薄荷水……薄めが良い?


   ……ん、薄めで。


   分かった……直ぐに用意する。


   ……ありがとう、ジュピター。


   どういたしまして……マーキュリー。


   ……。


   ……顔色、さっきよりは良くなったね。


   ふふ……でしょう?


  13日





   水野さん、ごはん出来たよ。


   ……ん。


   あ、寝てた?


   いいえ……少し、うとうととしていただけ。


   今日も暑かったもんねぇ。
   何もしなくても、体力が削られる。


   ……あなたは、相も変わらず、元気だけれど。


   夏の暑さは、嫌いじゃないんだ。


   そういう問題?


   まぁ、体温くらいになったら流石に無理だと思うけどね。


   それで……結局、何にしたの。


   鯖のサンドイッチと、ガスパチョ。


   ……ガスパチョ?


   知らない?


   知ってる。


   だよね。


   サンドイッチの具は、鯖なの。


   缶詰のものを使えば簡単に出来るって書いてあったから、作ってみたくて。
   鯖の他にも胡瓜と生姜が入っているよ。


   胡瓜が入っているのなら、食感が良さそうね。


   鯖の臭みも生姜でばっちり、だ。


   まぁ、おいしいかどうかは食べてみないと分からないけれど。


   パンに塗るのはバターとマヨネーズで迷って、結局、両方用意したんだ。
   是非とも、食べ比べて欲しいな。


   食べられたらね。


   ガスパチョには、今日特売だった茄子をのせてみました。


   茄子を?


   うん、焼き茄子。


   ふぅん……今日はなかなか贅沢ね。


   夏バテ対策にはやっぱり、バランスよくちゃんと食べることかなって。


   ……お財布は、大丈夫なの?


   ん、大丈夫。
   材料はみんな、特売で買ったものだし、ガスパチョは明日も食べられるくらいに作ったから。


   確か、一晩置いた方がおいしいのよね。


   そうなんだ、だから明日も食べてね。


   食べるわよ、なんだったら朝食はガスパチョだけでいいわ。


   水野さんは同じものが続いても、残り物でも文句ひとつ言わないから、大好きだ。


   あーそう、嬉しいわ。


   ははは。


   私は、食べられればそれでいいんだもの。


   あたしと、ふたりで?


   ひとりでも、いいわ。


   でも、ふたりの方がおいしいよね。


   はいはい、そうね。


   飲みものは、ミント水でいい?
   それとも、麦茶がいい?


   ……麦茶で。


   ん、分かった。


   ……。


   今度さ。


   ……なに。


   グヤーシュを作ってみたいと思ってるんだ。


   グヤーシュ?
   今度は、どこの料理?


   ハンガリー。


   ハンガリー……。


   ハンガリーってさ、パプリカが有名なんだって。


   つまり、グヤーシュはパプリカを使った料理なのね。


   ふふ、うん。


   それで、グヤーシュとはどんな料理なの。


   簡単に言えば、お肉の赤パプリカ煮込み。
   赤いパプリカパウダーも入れるから、スープは赤いんだ。


   そのままね、お肉は何を使うの?


   本場は牛肉らしい、けど。


   豚肉でも鶏肉でも、どれでも構わないわ。
   その日に安く買えたお肉で。


   ありがとう。
   だけど、牛肉でも作ってみたいんだ。


   なら、安い日を狙わないとだめね。


   シチュー用のお肉でいいみたいだから、安かったら買いに行きたい。
   良かったら、水野さんも付き合って欲しいな。


   都合が合えばね。


   うん。


   お肉の量は、そんなに多くなくてもいいわ。
   たくさんは、食べられないから。


   どちらかと言うと、野菜を多めにしようと思ってるんだ。


   そう。


   それで、ね。


   なに。


   本格的に作ろうと思うと、色々材料が必要になってしまって。


   例えば?


   キャラウェイとか、ローリエとか。


   スパイスね。
   どうせ、他の料理でも使うのでしょう?


   ……使うと、思う。


   思うということは、使うわね。
   パプリカパウダーもだけれど、あなたなら無駄にはしないでしょうし。


   いいかな。


   現にバジルは使っているし、キャラウェイとローリエが増えたところでなんでもないわ。
   但し、無駄にしてしまうかも知れないと少しでも思っているのならそれ抜きで作って。
   食材もだけれど、お金も勿体ないから。


   無駄には、絶対にしない。


   そう、ならいいわ。


   やった。


   安く買えるといいわね。


   たまに安く売ってることがあるんだ。


   チラシを見るの、手が空いていたら手伝ってあげるわ。


   ありがとう、水野さん。
   大好きだ。


   はいはい、私も好きよ。


   ……。


   それは、だめ。


   ……はい。


   今日のお夕飯は、ガスパチョだったわね。


   うん、冷たいガスパチョ。
   あと、鯖のサンドイッチ。


   鯖にした理由は、夏バテ対策も含まれている?


   水野さんも知っている通り、鯖にはエイコサペンタエン酸とビタミンB2、カリウムがたっぷり含まれているから夏バテにはいいんだって。
   家庭科の先生と話している時にそれを聞いてさ、今の水野さんに丁度いいかもと思ったんだよね。


   家庭科の先生とは良く話しているものね。


   良くでもないけど、比較的話しやすいんだ。
   聞いたら、すぐに教えてくれるし。


   好み?


   え?


   顔。


   いや、別に違うけど。


   なら、声?


   いや、それも別に。


   なら、どこが?


   話しやすいところ、かな。
   だけど、別に好みではないよ。


   ふぅん。


   あたしの好みは、水野さんだからね。


   あぁ、そう。


   水野さんのようなひとは、どこを探したっていないんだ。


   そっくりさんは世界に何人かいると言うけれど。


   外見ばかり似ていたって、だめなんだよ。
   中身も、同じでないと。


   物好き。


   他の奴らがぼんくらで良かった。


   ぼんくら?


   見る目がなくて。


   ……。


   さ、ごはんにしようか。


   私にそっくりなひとは、確かにいないかもしれない。


   ……え?


   マーキュリーの生まれ変わりではない限り、ね。


   ……水野さん。


   そもそも、生まれつき髪が青い人間なんていない。
   染めない限り、この色にはならない。


   その話は


   木野さんが言ったのよ。


   ……。


   私のようなひとは、どこを探したって


   それは。


   ……それは?


   あたしにとっての水野さんのようなひと、という意味だよ。


   ……。


   他にはいないんだ。


   ……ごはんにしましょう。


   今、麦茶の用意をするね。


   ……ええ。


   ……。


   ……木野さん。


   なんだい?


   ……なんでもない。


   そっか。


   ……。


   あたしのようなひとも、いないと思うんだ。


   ……自分で、言うの?


   うん、言っちゃった。


   ……ふ。


   今、笑った?


   ええ、笑った。


   ふふ、良かった。


   何がいいの?


   水野さんが、笑ったこと。


   意味が分からないわ。


   はは。


   ……これが、鯖のサンドイッチ?


   うん、どうだろう?


   ……見た目は、悪くないわね。


   胡瓜と生姜ね、白だしで和えてあるんだ。


   白だし?


   少し、味を付けようと思って。
   味見をしたけど、悪くなかったよ。


   ……便利ね、白だし。


   ふふ、だろう?
   水野さんの口にも合えばいいな。


   ……きっと、合うでしょうね。


   ん、そうかな。


   これだけ同じものを食べていれば、嫌でも合ってくるわ。


   ふふ、そっかぁ。


   緩んでる。


   へ?


   顔が。


   だって、嬉しいから。


   ……。


   水野さんは好き嫌いが、ほとんどないからさ。


   ……拘りもなければ、家の味もない。


   あ。


   ……。


   あ、えと……。


   ……私にとって、木野さんの味が家の味なのかもね。


   へ……。


   まぁ、それは言い過ぎだけれど。


   い、いいんじゃないかな。


   ……は。


   い、いいと、思うよ。


   ……なら、それで。


   うん、それで。


   ……。


   サンドイッチ、今回は鯖の水煮缶を使ったけど、焼き鯖でもおいしいらしいんだ。


   作ってみたいのね。


   うん、作ってみたい。


   作ったら、食べてあげるわ。
   だから、おいしく作って。


   うん、もちろん。


   ……味噌煮でも作れるのかしら。


   興味ある?
   作ってみようか?


   食いつきが早い。


   いや、だってさ。
   あたしも同じことを思っていたから。


   あなたは、作れると思っているの?


   思ってる、水気さえ気を付ければ。


   あと、味。


   うん、そこは工夫するよ。
   味噌はわりと色んなものと合うからさ。


   まぁ、期待しているわ。


   うん、してて。


   ……。


   それじゃ、食べようか。


   ……ふふ。


   え、今度はなに。


   なんでも


   いや、あるよね?
   なに、教えて欲しいな。


   急に思い出しただけ。


   何を?


   さぁ?


   えぇ。


   だって、本当に急なんだもの。
   どうして、このタイミングで思い出したのか。


   なんだろう、気になるよ。


   ……。


   ねぇ、水野さん。


   今日、ふたりで大笑いしたこと。


   今日、ふたりで?


   お買い物から帰ってきたら。


   ……。


   あなたのポニーテールに


   ふっ。


   思い出した?


   せ、せっかく、忘れてたのに。


   だから、なんでもないと言おうと思ったのに。


   まさか、小さな蝉があたしの頭にくっついているなんてさ……水野さんがびっくりしているから、何事かと思ったんだけど。


   全然、気が付いていなかったわよね。


   最初は、何がなんだか分からなくて……水野さんが取ってくれて、そこでようやく気が付いたんだ。


   どうして気が付かなかったのかしら。


   あたしも、分からない。
   あの子、どこからくっついてきたのかな。


   公園から、かしら。


   やっぱり、そうかなぁ。


   良かったわね、鳴かれなくて。


   いっそ鳴いてくれたら、気が付いたのに。


   アブラゼミでなくて、良かったわね。


   いや、どの蝉でも遠慮したいかな。


   ……。


   ……。


   ……ふふふ。


   ははは……。


   本当、なんで気が付かないのかしら。


   水野さんも早く気が付いてくれればいいのに。
   うっかり、部屋まで連れてきちゃったよ。


   木野さんが気が付かないのに、私が気が付くわけないわ。


   でもほら、飛んできたところを


   無理ね。


   はは、だよね。


   ……。


   ……。


   ……良かったわね、蝉に好かれて。


   ふはっ。


   ……メスだけど。


   も、もう、やめて。


   オスの方が


   どっちも、遠慮するよ。
   あたしは、水野さんに好かれたいんだ。


   私と蝉を同じにしないでくれるかしら。


   もっと、水野さんに好かれたい。
   なんだったら、後ろからぎゅうっとして欲しい。


   何を言っているの?


   頭に止まるのは、無理だろうから。


   無理に決まっているでしょう。


   うん、真顔。


   ……。


   ……。


   ……ふ、本当にばかね。


   えと……食べようか。


   ……。


   いただきます。


   ……いただきます。


   あの……蝉の話は、もういいからね?


   ……。


   食べている時は……ね?


   ……ふふ、今はしないわ。


   今は……。


   ……。


   ……。


   ……うん、悪くない。


   悪くない……おいしい?


   臭みがなくて、味のバランスもいい……薄めに塗ったバターも、悪くないわ。


   マヨネーズは……。


   ……。


   ……。


   ……どちらかと言うと。


   言うと……?


   ……私はマヨネーズ、かしら。


  12日





   うん、とても良く似合っているよ。


   ……然うかしら。


   似合うと思ったんだ、水野さんに。


   ……私は、然うは思わないけれど。


   可愛い。


   ……ただ、あなたの好みというだけではないの。


   実用性もあるよ。
   強い日差しや紫外線を防ぐことが出来る。


   ……太陽はもう、沈みかけているのだけれど。


   それでも、あった方が良いと思うんだ。
   昼間ほどではないけれど、ゼロになるわけでもないから。


   ……そもそも、こんなものをいつ。


   この間、ひとりで集落に行った時に露店で見つけたんだ。
   おじいさんの手作りなのだけれど、貰えそうになかったから、交換してきた。
   勿論、出来る限りは値切ったよ。


   ……それからずっと、隠していたのね。


   うん、この日の為に。
   見つかっちゃうかなって思ってたんだけど。


   お互いの場所は勝手に見ない、約束事のひとつ。


   うん。


   はぁ……いっそ、沈み切ってから。


   それも良いけれど、然うすると今度は暗くて見辛くないかな。
   あたしとしては、星を見ながらふたりでお散歩も嬉しいけど。


   ……。


   あと、風通しも良い。
   ね、良いだろう?


   ……まぁ、良いけれど。


   なんだっけ、なんとかって言うのが良いんだよね。


   なんとかって、何。


   えーと、確か……麦わら?


   そのままね。


   なんか、名称があったと思うんだ。
   それがなんだったか、思い出せない。


   恐らくは、麦稈真田。


   ばっかん?


   麦稈は麦わらのこと、真田は真田紐のこと。
   真田紐のように麦わらを編んだことから、麦稈真田と呼ばれたらしいわ。


   そうそう、それだ。
   真田昌幸が内職で作って売っていたという話もあるんだよね。


   みたいね。


   然う、その麦稈真田が良いんだ。
   日差しを防いで、尚且つ、風通しが良い、まさに夏にぴったりな帽子。


   あなたの麦わら帽子はないの。
   外に行くことが多いあなたにこそ、ぴったりでしょうに。


   あたしのはね、手に入らなかった。


   これ。


   ううん、それは水野さんのだよ。
   あたしには、似合わない。


   実用性があれば、それで十分でしょう。


   水野さんに被って欲しいんだ。


   私は中に居ることが多いから。


   それでも。


   ならば、私が被らない時はあなたが被れば良い。


   駄目だよ、汗やなんかで汚れてしまうから。
   汗臭くもなってしまうと思うし。


   洗えば問題ないわ。


   出来なくはないけど、やっぱり水野さん専用の方が良いよ。


   麦わら帽子なんて、


   要らないなんて、言わないで欲しい。


   ……。


   中に居ることが多いと言っても、全く外に出ないわけではないんだ。
   今も、外に出ようとしているだろう?


   最も厳しい時間帯は避けているわ、それに日がもう沈む。
   完全に沈んでしまえば、帽子は必要ない。


   夜になれば、月の光がある。


   ……。


   太陽ほどではなくても。


   ……考え過ぎよ。


   然うかも知れない。


   ……。


   兎に角、その帽子は水野さんのものだよ。


   ……言い出したら、本当に聞かないわね。


   それは、お互い様だと思うな。


   ……私が譲る方が多いと思うわ。


   え?


   ……何。


   いや、然うかな……と、思いまして。


   然うよ。


   あー。


   はぁ。


   今度、見つけてくるよ。


   ……何を。


   あたしの、帽子。


   ……然うして。


   ん。


   それで、ユピテル。


   なんだい、水野……じゃなくて、メルクリウス。


   日が沈む前に、出たいのだけれど。


   改めて良く似合っているよ、メル。


   ……メルクリウス。


   外では、本来の名は呼ばない。
   気を付けないと……ねぇ、メル?


   だから、メルクリウス。


   もう少し、短くならない?


   ならない。


   ……さりげなく、呼び続ければ。


   定着するとでも?


   ……しないかな。


   させない。


   ……はい。


   はぁ……行くわよ。


   うん、行こう。
   だけど、その前に。


   ……。


   ……八回目、だ。


   ばかね……本当に。


   ……ふふ。


   ……。


   ん……麦わら帽子が。


   あなたが被せたのよ。


   少し、失礼して。


   ……。


   ……それでは行こうか、メルクリウス。


   ……。


   ん……どうした?


   ……はぁ、最悪ね。


   え、何が?
   若しかしてキス、キスが最悪だった?


   ……雨。


   へ、雨?


   ……微かに、雨のにおいがする。


   におい……。


   ……雷の気配は?


   今のところ、しないけど……。


   ……だったら、雨だけかも知れないわね。


   家の、周辺だけだったら。


   ……。


   だけど、それだけでは物足りないよね。


   ……良いわ、それでも。


   ……。


   連れ出して、ユピテル。


   分かった、メルクリウス。


   時間は、30分。


   30分か、だったら。


   取り敢えず、


   畑を見て欲しい。


   ええ、見せて。


   蝉取りは、また今度に。


   最初から、そのつもりだったから。
   今日のところは、他の生き物が見られたらそれで良いわ。


   蜻蛉でも、飛んでいれば良いな。


   ……。


   ん、メル?
   どうした?


   何でもない……あと、メルクリウス。


   夕焼けが眩しい?
   眼鏡を持って来ようか。


   大丈夫……これくらいならば、なんでもないわ。


   日差しはきつくない?


   心配しないで。


   ……。


   その為の麦わら帽子でしょう?
   さぁ、雨雲が来てしまう前に。


   ……暑くはない?


   帰ってきたら、ミント入りの冷たい麦茶が飲みたいわ。


   ……分かった。


   ……。


   今日も、良い天気だったよ。


   知ってる……中から、見えていたから。


   暫く晴れの日が続いていたから、雨が降って呉れると助かる。


   ……蜻蛉。


   え、飛んでる?


   ……。


   そんなわけ、ないか。


   ……今頃だと、ナツアカネだけれど。


   今年も見ないんだ。


   取り敢えず、土の状態だけでも。


   うん、見て欲しい。


   生育具合は悪くないのよね。


   あぁ、悪くない。特にトマトが良いかな。
   スープパスタにするぐらいには、瑞々しくて。


   サラダにしても良いわね。


   うん、少し酸っぱいけれど美味しく食べられる。


   少し、小ぶりではあるけれど。


   順調と言っても良いんじゃないかな。


   害虫も居ないに等しいから、その心配もしなくて良い。


   虫害がないのは助かるんだけど、受粉して呉れる虫も居ないのがね。


   それは仕方ないわ。
   木野……


   ん?


   ユピテルは、然ういうのも得意でしょう。


   うん、苦手ではないかな。
   結構、楽しいんだ。


   ……。


   まぁ、然ういう時もあるさ。


   ……。


   そんな、難しい顔をしなくても。
   あたしなんて、ちょいちょい間違えるし。


   ……ユピテル。


   うん?


   ……少し、動かないで。


   ……。


   ……。


   ……メル、あたしの後ろに。


   違う……然うじゃない。


   ……あたしは、何も感じない。


   然うじゃないのよ……ユピテル。


   ……メルクリウス、指示を。


   見て。


   ……何処。


   私が指す方向。


   指す……。


   黄昏時で、見えにくいとは思うけれど。


   ……あ。


   恐らくは。


   蜻蛉っ。


   ……。


   蜻蛉だ、メル。


   然う……見間違いではなかったのね。


   他には……あの蜻蛉、一匹だけか。


   ……他に、見える?


   ……。


   ……。


   だめだ……残念だけど、見当たらない。


   ……然う。


   はぁ……久しぶりに、見た。


   ……。


   良かった、戻ってきたんだ。


   ……然うとは、未だ言い切れない。


   一匹だけだとしても、何処かに親が居た筈。


   ……その親が、何処に居たのか。


   迷い込んだだけだとしても……でも、何処かには居た。


   ……一匹だけでは、繁殖出来ないわ。


   あいつは、子孫を残せなくても……何処かに居るあいつの兄弟が、残すかも知れない。


   ……。


   ……メル。


   勝手に、略さないで。


   あ、ごめん……つい。


   ……。


   ……メルクリウスと見られて、良かった。


   捕まえることが、出来れば……。


   ……。


   ……でも、今日は良いわ。


   うん……。


   ……。


   ……ねぇ、メルクリウス。


   なに……ユピテル。


   今日の夕ごはん、どうしようか。


   ……どうして、そんな話題になるのかしら。


   帰ってからでも良かったんだけど。


   ……あなたが作って呉れるものなら、なんでも良いわ。


   なんでも、か……お昼のスープパスタは美味しかったな。


   ……。


   今日、収穫出来る分はしちゃったし……。


   ……少し、良い?


   ん、なんだい?


   畑の土を採取したいのだけれど。


   あぁ……やろうか。


   ううん、自分でするわ。
   私が欲しかったのは、あなたの許可。


   許可なんて、要らないのに。


   ……一応、よ。


   ん、そっか。


   ……あなたが大事にしている畑だから。


   ……。


   ……。


   花が咲くと、嬉しいんだ。


   ……然うでしょうね。


   いつか、食べられるものだけでなく。


   ……その頃には、受粉して呉れる虫が戻ってきているかも知れないわ。


   然うだと、良いなぁ。


   ……。


   ん、もう良いのかい?


   ええ……今日は、これくらいで。


   ……。


   ……。


   植物園とまでは、言わないけれど……たくさんの花を育てて、水野さんと見たいな。


   ……その為には、長く生きないといけないわね。


   付き合って、呉れるかい……?


   ……。


   ……。


   ……私を、飽きさせないでね。


   うん……約束する。


   ……。


   ヒグラシが鳴いて呉れたら、情緒溢れる時間になるんだけどなぁ。


   ……人間だけでなく。


   ……。


   ……自然も、浄化すれば良いのに。


   中途半端なんだ、力が。


   ……。


   土だって……なんとなかったのは、この辺りまでだ。


   ……豊かとは言い難い。


   人間が汚したのならば、人間がきれいにしないと。


   ……或いは、滅びれば良い。


   然うすれば、きれいになる?


   ……星の、自浄作用が働いて。


   自浄作用……。


   ……その方が、手っ取り早いでしょう。


   人間は、この星にとって……。


   ……木野さん。


   ……。


   ……今は、わざとよ。


   水野さん。


   ……。


   わざとだよ。


   ……分かってる。


   ……。


   ……雨が、来るわ。


   え、もう?


   ……雨のにおいが、近付いてきている。


   雷は……やっぱり、感じないな。


   ……それと、お夕飯のことだけれど。


   何か食べたいもの、ある?


   ……ガスパチョ。


   ガスパチョ?


   ……パンが少し、残っているから。


   それで、お昼のトマトと一緒に?


   ……胡瓜も未だ、あるわ。


   うん……なら、ガスパチョにしようか。


   ……バルサミコ酢は、切らしているけれど。


   ワインビネガーもないなぁ。


   ……オリーブオイルも、ないわ。


   まぁ、米酢でも美味しく作れるから。


   ……作れるのよね、米酢でも。


   スペイン人は納得しないかも知れないけどね。


   ……私達は、スペイン人ではないから。


   ふふ。


   ……何。


   もう、国なんて何処にもないのになって。


   ……然うね、あるのはただ。


   ……。


   ……。


   家に帰ろうか、メル。


   ……帰ると言っても直ぐそこだけれどね、ユゥ。


   うん……ん?


   ……茄子が、あれば。


   メル、今なんて?


   ……茄子があれば。


   その前。


   帰ると言っても、直ぐそこだけれど。


   その他に、何か。


   さぁ、帰りましょう。


   あ。


   ……麦わら帽子、悪くはないわね。


   ねぇ、水野……


   ……。


   メルクリウス、教えて欲しい。


   言った通りよ、他にはないわ。


   ユゥて、言わなかった?


   言ったとしたら?


   あたしの聞き間違えではなかった?


   空耳かも知れないけれど。


   空耳……。


   ガスパチョ、多めに作って明日の朝食にしても良いかも知れないわね。


   ……。


   ユピテル、ぼんやりしているようなら置いていくわよ。


   待って。


   ……ん。


   雷の気配が、し始めた。


   ……。


   嵐が来るよ。


   ……鈍い。


   ごめん、髪の毛が短いとどうにも調子が出ないみたいだ。
   楽で、良いんだけれど。


   早く、慣れて。


   はい。


   今夜はもう、外に出ない方が良いわね。


   よっぽどのことがない限り、ね。


   ……。


   ……メル。


   続きは、家の中で。


   ……。


   雨に濡れるのは嫌いではないけれど、今の私の躰はそれを許して呉れないと思うから。


   うん……帰ろう。


   ……。


   帰ったら、ガスパチョを明日の分まで作るよ。


   ……美味しい、ね。


   うん、美味しいガスパチョだ。


   ……。


   大蒜か赤パプリカがあればなぁ、もっと味に深みが出せるのに。


   ……茄子なら、もう少しだったわ。


   茄子は、焼き茄子にして……かけてものせても、美味しいんだ。


   ……あのまま、育って呉れると良いわね。


   うん……あともう少しだから、どうか育って欲しい。


   ……。


   赤パプリカもいつか、育ててみたいと思ってるんだ。
   ついでに、黄色いパプリカも育てたい。


   ……その前に、ピーマンが先かも知れないけれど。


   あと大蒜も、種用のものが手に入れば育てたいな。


   ……次は、私も行くわ。


   うん?


   ……集落。


   ……。


   ……連れて行って呉れるでしょう?


   体調。


   ……。


   ……ちゃんと、整えておかないとね。


   言われなくても……分かってる。


  11日





   ……自分が作ったごはんを、誰かが食べて呉れると嬉しい。


   少し違うわ……自分が作った食事を誰かと一緒に食べられるのが嬉しい、でしょう。


   ……だけど、食べてもらえるだけでも嬉しかったんだ。


   今も……?


   ……今も、少し残ってる。


   誰かの為に作って、食べてもらえなかった時……。


   ……少しでも期待していた自分が悪いのだと、思い込むんだ。


   然うすれば……寂しく、ないから。


   ……でも、実際は違う。


   寂しくないなんて、嘘……我慢すればするほど、それは心に蓄積されてゆく。


   ……その重みで、心がゆっくりとひずんでゆく。


   そしていつしか、誰かに期待するのを止めてしまう……。


   最初から、期待なんてしなければ……叶わなかった時に、傷付かずに済むから。


   ……その代わり叶うこともないの、決して。


   それでも、良いと……。


   ……ひとりで生きて、ひとりで死んでゆくのなら。


   ひとは所詮、ひとりだ……ずっと、然う思っていた。


   ……今は、違うのね。


   あたしは、何の為に生きて……いや、何の為にひとりだけ生き残ったのか、何度も考えたよ。


   ……答えは。


   水野さんに出逢う為。


   ……そんなもの。


   水野さんに出逢って、あたしの世界は劇的に変わった。


   ……私に、期待してしまったのね。


   うん……しても叶わないかも知れないのに、それでもせずにはいられなかった。


   ……あなたは、強引だったわ。


   必死だったんだ……どうにか振り向いて欲しくて、あたしだけを見て欲しくて。


   ……嫌っても、良かったのに。


   嫌われても、おかしくはなかった……ファーストキスも、酷いものだったし。


   ……あったわね、そんなことも。


   嫌われなくて、本当に良かった……。


   ……あの時嫌いになっていれば、今、こうしていることもなかったかも知れない。


   ん……水野さん。


   ……もう、数え切れないほどしたわ。


   流石の水野さんでも、数え切れなかった……?


   ……だから、一緒に居る時間を数えることにしたの。


   一緒に、誕生日を祝った数とか……?


   ……ええ、然うよ。


   ふふ……そっか。


   ……いつだってあなたは、大袈裟なくらいにお祝いして呉れる。


   水野さんのお誕生日は、あたしにとって、とても大切な日だからね……。


   ……誕生日なんて。


   だって、大切なひとが生まれてきて呉れた日だもの……。


   ……生まれてなんか、きたくなかったのに。


   今でも……。


   ……思わなくなることは、生きている限り、屹度ないわ。


   でも、限りなく少なくなった……?


   ……さぁ、どうかしらね。


   あの頃に、比べたら……。


   ……然うだと、良いけれど。


   ……。


   ……仕方ないじゃない、これが私の性質なんだもの。


   今は、例えば、どんな時に……。


   ……知りたいの?


   教えて、もらえれば……でも、無理には聞かない。


   ……。


   ……水野さん。


   例えば、前世からの使命を押し付けられた時。


   ……。


   生まれてきてしまったことへの深い恨みと共に……私という存在を、壊したくなるの。


   ……壊すのなら、前世からの使命の方だ。


   ……。


   水野さんではないよ。


   ……あなたが、然う言うから。


   だって、然うだろう? 前世からの使命なんて、理不尽でしかないじゃないか。
   あたし達は今を生きるだけで、精一杯なんだ。前世なんて構っている余裕はどこにもない。


   ……だから。


   いつか……いつか、生まれてきたことを。


   ……ここまで、生きてこられた。


   む……。


   ……本当、数え切れないほど。


   水野さん……。


   ……して良いとは、言っていない。


   だめかい……?


   ……だめよ。


   ……。


   だから……だめ。


   ごめん……つい、引き寄せられて。


   ……いつ、飽きるのかしら。


   飽きないよ……ずっと。


   ……ん。


   水野さんは、飽きる……?


   ……今のところ、その予定はないわ。


   ずっとないと良いな……。


   ……ずっととは、言えない。


   ……。


   ……あの女と、関わることもなくなった。


   ……。


   それだけで……大分、違うの。


   ……うん。


   親子だからって……必ずしも、その関係性が良好なわけじゃない。


   ……親子だからこそ、拗れて厄介なものになってしまうのだろう。


   もう、二度と……会いたくないわ。


   ……会うことも、ないよ。


   ……。


   ……水野さん。


   熱いわね……躰。


   ……熱が未だ、籠っているみたいだ。


   引かなかったら、水を浴びた方が良いかもね……。


   ……今直ぐでなくても、良いだろう?


   あなたが浴びたいのなら、今直ぐでも良いけれど……。


   ……浴びたくない。


   ……。


   もう少し、様子を見るよ……。


   ……ん、だめ。


   ごめん……。


   ……。


   ……怒った?


   別に……いつものことだもの。


   ……気を付けるよ。


   それ、何度も聞いたわ……。


   ……どうしても、触りたくなってしまって。


   熱を、込めないで。


   ……熱?


   然う……熱。


   ……熱、か。


   今は……特に。


   ……不調では、ないけれど。


   寝込んで欲しいのなら……好きにすれば、良い。


   ……絶対に、しない。


   ……。


   ……キスも、だめだよね。


   軽く、触れるだけなら。


   ……。


   でも……調子には、乗らないで。


   ……うん、乗らない。


   ……。


   ……ふふ。


   好きね……。


   ……大好きだから、一日十回はしたい。


   十回?


   ……あわよくば、もっと。


   ……。


   ……流石に、鬱陶しいよね。


   してるわよ、あなたは。


   ……え。


   今ので……今日、五回目。


   ……おはようの。


   そこで、既に三回。


   ……行ってきますの。


   一回。


   ……そして、今?


   合わせて、五回。


   ……昼までに、半分。


   おやすみに、三回はして呉れるでしょうから。


   ……あと、二回?


   しない自信は?


   ……全然、ない。


   でしょうね。


   ……数えるのは止めたと言っていなかった?


   出逢ってからの合計はね。


   ……。


   今だって、一回で済むとは思っていないわ。
   なんだかんだ言いながら……あと、二回はするでしょうから。


   ……しても、良い?


   軽く触れるだけのものなら、ね。


   ……ごめん、二回で済まないかも。


   あくまでも、軽く触れるだけにして。


   ……うん、寝込ませたくないし。


   作業が未だ、残っているのよ。


   ……しなければ、ならない?


   勉強も、したいし。


   ……勉強も。


   あなたもするでしょう?


   ……しようかな。


   かな?


   ……する。


   何の勉強をするの?


   然うだな……生物にしようかな。
   植物について、ちょっと見直したい。


   生物ね、良いと思うわ。


   水野さんは。


   私も生物にしようかしら……。


   ……ん、みずのさん。


   ひとの、骨格について……。


   ……それは、誘ってる?


   まさか。


   ……だけど、指の動きが。


   なぞっているだけ……それ以上の意味は、ないわ。


   ……ね。


   なにかしら……。


   ……触診、して欲しい。


   触診……?


   ……どこか、悪いところはないか。


   ……。


   水野先生に、診て欲しいんだ……。


   ……私は、医師ではないわ。


   免許を持っていないだけ……知識は、十分だ。


   ……。


   それに、今のこの世界に……医師免許なんて。


   ……必要、ない。


   ……。


   医師と呼べる存在も、もう居ない……。


   ……だけどそれは、浄化を受けた者だけだ。


   ……。


   受けていない者は……今でも、病気になる。


   ……あなたは、ならない筈よ。


   けれど、不完全なんだ……水野さんと、同じように。


   ……。


   ……無駄に、寿命は伸びたようだけれど。


   本当、嫌になる。


   ……。


   ……後で、診てあげるわ。


   うん……お願いします。


   ……。


   ……嬉しかったな。


   何が……。


   ……水野さんが、あたしが作ったごはんを食べて呉れた時。


   ……。


   食べて、もらえるだなんて……。


   ……強引だったくせに。


   うん……。


   ……私は、一度も食べてもらえなかった。


   ……。


   ……怪我をしていても、気にもされなかった。


   あたしは……ん。


   ……知ってる。


   ……。


   ……幼子というのは、本当にか弱い生き物ね。


   それは……仕方がないと、思う。


   ……幼体ではなく、初めから成体だったなら。


   ……。


   然うすれば……さっさと、断ち切ることが出来たのに。


   ……然うしたら、あたしみたいな餓鬼は見てもらえなかったかも知れない。


   それは……どうかしらね。


   ……見てもらえた?


   あなたは、強引だから。


   ……。


   ……屹度、自分を見てもらうまで。


   諦めることは、ないと思う。


   ……やっぱり、厄介だわ。


   ん……ごめん。


   ……別に良いわ、そんなあなたが好きなんだもの。


   ……。


   だから、きっと……歳の差があろうとも、私はあなたのことを好きになっていたと。


   ……大人の水野さんはきっと忙しいだろうから、あたしがおうちのことをするんだ。


   上がり込んで?


   然う、上がり込んで……取り敢えず、ごはんのことは任せて。


   ……今とあまり変わらないわね。


   今とは、ちょっと違うんじゃないかなぁ……。


   ……。


   水野さん……?


   ……追い掛けても無駄だと、分かっていたのに。


   ……。


   それでも、追い掛けずにはいられない……子供は、厄介だわ。


   ……あたしは、水野さんがごはんを作って呉れたら、とっても嬉しい。


   ……。


   自分が作ったごはんを、誰かが食べて呉れると嬉しい。
   だけど、誰かが自分にごはんを作って呉れるのも、嬉しい。


   ……。


   あたしが作ったごはんを、水野さんとふたりで食べることが出来たら、すごく嬉しい。
   水野さんが、あたしにごはんを作って呉れて……ふたりで食べられたら、とても倖せ。


   ……私が作ったものなんて誰も食べない、食べて呉れない。


   ……。


   でも……違ったのよね。


   ……うん、違ったよ。


   ……。


   ……包丁は、一朝一夕で扱えるものじゃない。


   もう、持つことはないと……役に立つことなんて、ないと。
   いいえ……もう二度と、触りたくないと。


   ……水野さんがごはんを作っている姿、あたしは好きなんだ。


   私は、あまり見られたくないのに……。


   ……。


   ん……六回目。


   ……楽しいね。


   楽しい、かしら……。


   ……ね、躰が良くなったら。


   したいのでしょうね。


   ……う。


   たまっていそうだもの。


   ……え、えと。


   ……。


   ……良くなるまでは、求めない。


   もう少し、待って。


   ……もう少し?


   然う……もう少し。


   ……幾らでも、待つ。


   ……。


   待つよ……水野さん。


   ……七回目。


  10日





   ただいまー。


   ……。


   えと、ただいま?


   もう、帰って来たの?


   うん、帰って来たよ……ただいま。


   お帰りなさい、未だ帰ってこなくても良かったのに。


   ごめん……もう、帰ってきちゃった。


   はぁ。


   また、出掛けた方が良いかな。


   帰ってきてしまったのなら仕方がないわ、手を洗ってきて。
   うがいも忘れずにね。


   うん。


   本当は出来上がった後に、帰ってきて欲しかったのだけれど。


   外で待ってようか。


   然ういう無駄なことはしなくて良いわ。


   じゃあ、直ぐに戻ってくるね。


   直ぐでなくても良いわよ、未だ出来上がっていないのだから。


   座って、待ってたい。


   見られていると、鬱陶しいのだけれど。


   素敵だね。


   何が。


   エプロン姿。


   嫌味として、受け取っておくわ。


   素直に受け取って欲しいな。
   あたしは嫌味を言うのは苦手だから。


   いつになったら、飽きて呉れるのかしらね。


   ずっと、飽きないと思うよ。
   いつだって、素敵だからさ。


   外は暑い?


   んー、結構暑いかな。
   焼き魚の気分になる程ではないけど。


   良かったら、水を浴びてきても良いわよ。


   頭だけなら、外で浴びてきた。


   なら、髪の毛を乾かして。


   一応、ちゃんと拭いたつもり。


   それは、ちゃんとではないわね。


   大丈夫、これだけ暑ければ放っておいても勝手に乾くよ。


   痛んでも知らないわよ。


   今更、だしなぁ。


   きれいな栗色の髪が、私は好きなのに。


   取り敢えず、拭き直します。


   ええ、然うして。


   ……。


   ……何。


   やっぱり素敵だなぁって。


   それはもう、良いわ。
   早く、行ってきて。


   はーい。


   ……全く。


   お昼、今日は一緒に食べられる。


   朝と夜は一緒に食べているでしょう。


   然うだけど、お昼はまた気分が違うんだ。


   大して変わらない。


   んー、良い匂いだなぁ。
   楽しみ


   言葉には、しないで。


   ……。


   心の中に、留めておいて。
   言葉になると、重荷になるから。


   ……そろそろ、良いと思うんだけどな。


   ……。


   自信を持っても。


   ……そんなもの、必要ないわ。


   ……。


   ……お腹は、空いているの?


   ん……空いてる。


   ……然う。


   メルクリウスは?


   ……まぁ、食べられないことはないわ。


   そっか。


   ……。


   躰の調子はどうだい?


   ……不調ではないわ、あなたは?


   あたしも、悪くない。


   ……あなたはいつだって、無駄に元気だものね。


   体力には自信があるんだ。


   ……そのままで、居てね。


   そのまま?


   ……弱らないで、そんなあなたは見たくないから。


   ……。


   ……ん、なに。


   どこか、悪い?


   ……言ったでしょう、不調ではないと。


   最近、暑気中り気味だろう?
   食欲も、あまりないし。


   ……でも、不調と言うほどではないわ。


   少し、熱いか……。


   ……これくらい、なんでもない。


   作るの、代わるよ。


   ……いいえ、その必要はないわ。


   だけど。


   ……もう、出来るから。


   メルクリウス……。


   ……心配しないで、ユピテル。


   ……。


   ところで、手洗いとうがいは済ませたの?


   うん……済ませたよ。


   聞こえなかったけれど……まぁ、信じるわ。


   ……飲みものを用意するけど、何が良い?


   然うね……。


   ……あったかいのでも、冷たいのでも。


   ならば……温かい、ミントティーを。


   分かった、ミントティーだね。
   甘みはあった方が良いかい?


   ……あまり、甘過ぎない程度に。


   なら、ほんのりと。


   ……あなたは?


   あたしも、同じものを


   あなたは冷たい方が良いと思うわ。


   うん?


   躰に外気の熱が籠っていそうだから……冷ました方が、良い。


   なら……お水に、ミント氷を入れようかな。
   ほんのり、甘みがあるの。


   ん……良いと思うわ。


   ……。


   ふぅ……うん、出来た。


   ……あぁ、美味しそうだ。


   然うでもないわよ。


   ううん、然うでもあるよ。


   ……器を取って。


   うん。


   ……。


   スープパスタにしたんだね。


   ……トマトが、瑞々しかったから。


   あたしでも、然うするな。
   素材を活かしたい。


   ……念の為、味を見てみて。


   分かった。


   ……はい。


   ん。


   ……。


   ……ん。


   薄い?


   いや、丁度良い。


   物足りないのなら、はっきりと言って。


   物足りなくはないよ。


   もう少し、濃くしても良いわ。
   あなたは、肉体労働をしてきたのだから。


   ううん、これで十分だ。


   ……なんだったら、手直しして呉れても。


   しないよ、だって十二分に美味しいもの。
   あたしが余計なことをして、台無しにしたくない。


   ……。


   ね、お代わりしても良いかな。


   ……どうぞ、残さず食べて。


   ふふ……うん。


   ……盛り付けるから。


   あたしは、飲みものの準備を。


   ……。


   お腹空いたなぁ、早く食べたいな。


   ……ねぇ、ユピテル。


   ん、なに?


   ……今日も、外は静かね。


   あぁ……今日も、鳴いてないんだ。


   ……静かなのは、良いけれど。


   夏とは、思えない。


   ……やっぱり、生態系に影響が出始めているのかも知れないわね。


   ここまで鳴かないと、然う言わざるを得ないかも知れない。


   ……居ないわけではないのでしょう。


   うん、何匹かは見掛けた。


   ……今度、何匹か捕まえてきて呉れるかしら。


   良いけど……種類は、どれでも良い?
   あまり高いところに居るのは、ちょっと難しいから。


   ええ、良いわ。
   手の届く範囲で捕まえてきて。


   ん、分かった。
   食べ終わったら、行ってくるよ。


   今日でなくても。


   早い方が良いだろう?


   ……。


   大丈夫、まだ動けるよ。
   体力には、


   自信があると言えど、無理はして欲しくないの。


   ……。


   食べたら、休んで。


   ……メルクリウスと一緒に?


   私は、作業に戻るわ。


   メルクリウスも休んだ方が良い。
   午前中はずっと、作業していたのだろうから。


   ……気晴らしは、したから。


   気晴らし?


   ……食事の用意。


   ……。


   まさか、料理をすることが気晴らしになるだなんてね。


   ふふ……良いだろう、料理をするのは。


   ……ま、悪くはないわ。


   盛り付けたの、テーブルに持って行くよ。


   ありがとう。


   胡瓜の色みもきれいだね。


   サラダ感覚になってしまうかも知れないけど。


   大丈夫、お腹にはちゃんとたまる。


   ……まぁ、全部食べればね。


   ん、これで良し。


   ……。


   メルクリウスは、先に座っていて。


   片付けを


   片付けなら、あたしがするから。


   料理は、片付けまでやって


   やらせて欲しいんだ。


   ……。


   さぁ、メル。


   ……メル?


   ずっと思っていたんだけど、やっぱり長いなって。


   ……略さないで。


   だめ?


   ……だめ。


   ん……そっか。


   ……。


   ……。


   ……ユピテル。


   ん、なに?


   ……呼んでみただけ。


   呼んでみたかっただけ?


   ……そんなことは、言っていない。


   ミントティー、どうぞ。


   ……ありがとう。


   ……。


   あなたも、座って……ユピテル。


   ……うん。


   ……。


   それじゃあ。


   食べましょう。


   うん、いただきます。


   ……いただきます。


   ……。


   ……。


   ……うん、美味しい。


   然う……良かったわ。


   ミントティー、甘くない?


   ええ……丁度良い。


   ん、良かった。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、ユピテル。


   ん……なに?


   ……蝉取り、私も行こうと思うのだけれど。


   え。


   ……たまには、外に出ようと思うの。


   良いと思うけど……外に出ても、大丈夫かい?


   ……大丈夫だと思う。


   ……。


   心配しないで……無理はしないから。


   させない。


   ……。


   させないよ……水野さん。


   ……。


   ごめん……つい。


   ……つい、ね。


   ……。


   ……木野さん。


   ん……。


   ……久しぶりに図書館にも行きたいわ。


   図書館……か。


   ……だから、自転車の後ろに乗せて。


   任せて。
   でも、良いのかい?


   ……何が?


   自転車の二人乗りは道交法違反、なんだろう?


   ……かつての世界ではね。


   今は。


   ……若しかしたら、違反のままかも知れないけれど。


   気にしない?


   ……捕まっても面倒だから、途中までの方が良いかしら。


   じゃあ、様子を見ながら行こう。
   まずいかなと感じたら、そこからは降りて押せば良いさ。


   ……。


   帰りにアイスでも買って、はんぶんこにしよう。


   ……ふたつに割れるアイス、もうないのよね。


   若しかしたら、この間はたまたまなかっただけかも。


   ……ソーダでもコーヒーでも、どちらでも良いわ。


   うん、どっちでも良い。
   水野……メルクリウスと、はんぶんこに出来たら。


   ……。


   ……然うだ。


   何……。


   青いライチのシロップがあったら、貰ってこよう。


   ……そんなもの、私達が貰えるかしら。


   身分証があれば、貰えると思う。


   ……身分証、ね。


   図書館に行くのにも必要だし、探しておかないと。
   この間使って、どこに仕舞ったっけな。


   私のは、直ぐに見つかるわよ。


   ……え。


   あなたのもね。


   ……水野さん。


   戻ってる。


   放っておいたわけじゃないんだ、でも、あまり使わないかなって。


   はいはい、然うね。


   ……ありがとう、助かる。


   どういたしまして。


   ……キス、しても良い?


   どうして然うなるの。


   ……お礼、かな。


   要らないわ。


   ……はい。


   ……。


   ね……。


   ……なに。


   水……メルクリウス


   今は。


   ……。


   水野で、良いわ。


   ……水野さんのことが、あたしは大好きだ。


   ……。


   ……作って呉れたパスタ、美味しいな。


   木野さん。


   ……なに、水野さん。


   食べ終わったら……。


   ……ふたりで、少しお休みしよう。


   ……。


   お茶でも、飲みながらね……。


   ……話が、したいわ。


   話……?


   ……他愛のない、話を。


  9日





   ふふ~~。


   ……。


   うん、良く冷えてる。
   暑い夏には、良く冷えてるトマトがおいしいってね。


   ……はぁ。


   帰ってきてから冷蔵庫に入れたけど、オクラもそこそこ冷えているかな。
   オクラは湯がく時間が短くて、味も独特でないから使い勝手がいい。
   まぁ、へたを切り落とす作業はあるけど、多くなければそこまで手はかからないし。


   ……お湯を沸かしている間に、下処理を終わらせる。


   今回はトマトとオクラ、大葉にしたけれど、ツナでもいいかもしれない。
   ツナならくどくないし、夏バテ気味でも食べやすいだろうし。
   あと、大葉をバジルに変えてもいいかも。次は、そうしてみようかな。


   ……本当、無駄に元気。


   味付けは、めんつゆにしたけど……和風と考えるのなら、ポン酢でもおいしいかもしれない。さっぱりとしているし。
   でも、ポン酢だと酸っぱいかな……となると、何か混ぜるか、それとも別のものを使うか……しょうゆ……酢……ごま油……。


   ……まだ、食べてもいないのに。


   しょうが……にんにく……白だし?
   白だし……あ、いいかもしれない。


   ……勉強も、それくらい。


   冷やしたらおいしい夏野菜と言えば、胡瓜もだな。
   トマトと胡瓜の組み合わせも、意外といいかもしれない。サラダ感覚で食べられる、かも。


   ……それでも、手はちゃんと動いているのよね。


   夏は茄子も、おいしいよなぁ。
   トマトと茄子とツナなんて、とても良さそうだ。


   ……ふぅ。


   水野さん。


   ……何。


   味は、薄めの方がいいかい?


   ……出来れば、薄めで。


   ん、了解。


   ……。


   ね。


   ……なに。


   少しは、落ち着いた?


   ……あなたには、そう見えるの。


   ごめん、見てない。


   ……おかげさまで、いまだにぐったりしているわ。


   そ、そっか。ごめん。


   ……謝るくらいなら、聞かなければいいのに。


   そろそろ、出来るから……聞いておこうと思って。


   ……起きられないと言ったら、どうしてくれるの。


   そうしたら……ベッドのそばまで、持って行くよ。


   ……起きられないのに、どうやって食べろと?


   あたしが、躰を起こして……それで。


   ……まるで、介護ね。


   起きられない、かな……。


   ……スパゲッティがテーブルに並べられたら、起きるわ。


   ……。


   心配しないで……別に、起きられないわけではないから。


   ……ただ、からだが重たい?


   あなたのせいで。


   ……ごめんなさい。


   そわそわどころでは、なかったわ。


   ……え、と。


   下心。


   ……。


   すっきり、した?
   最近、たまっていたのでしょう?


   ……あの、水野さん。


   なぁに、木野さん。


   ……とても、かわいかった。


   は?


   あ、いや……ありがとう。


   ……。


   もう少しで、出来るよ。


   ……悪いけれど、私は何もしないわ。


   全然悪くないよ、そのまま涼んでいて。
   全部揃ったら、また呼ぶから。


   ……別に、呼ばなくてもいいわ。


   え、でも。


   ……見ているから。


   ……。


   あなたが楽しそうに作っているところも、ここから全部見てた。


   ん……そっか。


   なぁに、まさか照れているの?


   ……あたしがひとりで言っていたことも、聞いてた?


   ええ、全て聞いていたわ。
   と言うより、あの声の大きさで聞こえない方がおかしい。


   ……。


   独り言のつもりだった?


   ……ううん、聞いていてくれて嬉しい。


   聞かせてくれていた。


   ……。


   そう、思っていたのだけど。


   ……うん、実はそうなんだ。


   ……。


   うるさかった?
   迷惑、だったかな。


   迷惑だったら、はっきり言うわ。


   ……。


   本当、飽きない。


   ……うん。


   ……。


   あの、ね。


   ……なぁに。


   その……うれしかった。


   ……なにが。


   ん……いろいろ。


   ……お風呂。


   え?


   ……次の掃除も、あなたがしてね。


   うん、分かった。


   ……。


   夜風が、気持ちいいね。


   ……分かるの?


   ん、たまにこっちまで来るんだ。


   ……そう。


   飲みものは、何がいい?


   ……。


   水野さん?


   ……ほんのり甘い、ミント水。


   ……。


   そうでなければ……ミント入りの麦茶で。


   ……一杯分くらいなら、まだ残っているから。


   ……。


   また明日飲めるように、後で作っておくよ。


   ……疲れてはいないの?


   ん、平気。
   体力には自信があるんだ。


   ……私が、作るわ。


   ……。


   作らせて。


   なら、明日お願いしてもいいかな?
   今日は、あたしが作るから。


   ……私が、ほとんど。


   さっぱりしているから、飲みやすいよね。
   麦茶と交互に飲めば、飽きないし。


   ……。


   麦茶は……明日で、いいかな。


   ……麦茶も、作る。


   麦茶も?


   ……。


   分かった……じゃあ、お願いするね。


   ……ん。


   ……。


   ……。


   よし、完成。
   見て、水野さん。


   ……。


   きれいに、盛り付けられたと思うんだ。


   ……ここからだと、良く見えないわ。


   あ、そうか。


   ……


   水野さん、起きるの?


   ええ……起きる。


   ……。


   大丈夫、ひとりで起きられるわ。


   ……けど。


   木野さんは、食べる準備を進めておいて。


   ……。


   シャツは、このまま借りていても。


   ん……いいよ。


   ……ふふ。


   ……?


   ……。


   水野さん……?


   ……なんでもない。


   躰の、どこか……。


   なんでもないわ、心配しないで。


   ……久しぶり、だったから。


   ……。


   ベッドでは、なかったし……。


   ……本当に、心配しないで。


   ……。


   あまり、言いたくないの。


   ……言いたくない?


   察して。


   ……。


   久しぶり、だったのだから。


   ……あ。


   言わないで。


   ……うん、言わない。


   何かあったら、言うから。


   ん、分かった。
   その時は、すぐに言ってね。


   ん。


   ……。


   まだ、何か?


   ……白い足が、眩しいなって。


   ばか。


   ……はい。


   全く。


   ……はは。


   よいしょ……。


   ……。


   ……ふぅん、おいしそうね。


   だろ……?


   ……うん、見た目は悪くないわ。


   味も、悪くないと思うんだ。


   ……そうだと、いいけれど。


   どうぞ座って、水野さん。


   ……ありがとう、木野さん。


   今、ミント水を入れるね。


   ……木野さんは。


   あたしは、ミント入りの麦茶にするよ。


   ……。


   ミント、いっぱいあるからさ。
   はい、どうぞ。


   ありがとう……スパゲッティには使えないかしら。


   ミントを?


   ……彩りくらいには、なると思うけれど。


   ……。


   ……流石に、難しいわよね。


   いや、そんなことはないかもしれない。


   ……バジルの代わり?


   バジルの代わり……にも、使えると思う。


   ……とりあえず、木野さんも座って。


   あ、うん。


   ……。


   ミント、ミントか……うん、出来なくはないかもしれない。
   今度、試して……いや、料理の本も見てみよう。大葉やバジルとは使い勝手が違うかもしれない。


   ……。


   あ、それじゃあ食べようか。


   ……ええ。


   いただきます。


   ……いただきます。


   ……。


   ……本当に、冷たい。


   大葉の香りと、さっぱりした味わい……うん。


   ……木野さん、どこに。


   えと、ミントを摘みに。


   入れてみるの?


   食べ比べてみようと思って。


   ……。


   止めておいた方が、いいかな。


   ……試してみたいのならば、試してみればいい。


   ……。


   私は、止めないわ。
   だけど……このスパゲッティは、大葉に合わせているのではないの?


   ……うん、そうだった。


   ……。


   今日は、やめとく。
   せっかくおいしく作れたんだもの、このまま食べよう。


   ……そう。


   で、どうかな。


   ……そうね。


   やっぱり、あったかい方がいい?


   これはこれで、悪くはないわ。
   夏に食べるのなら……特に夏バテ気味なら、冷たい方が食べやすい。


   うん。


   肝心の味、なのだけれど。


   うん……。


   ……。


   ……どう、かな。


   こういうものだと思えば、おいしいわ。


   ……。


   味付けがめんつゆだから、どことなくおそばやおうどんのようではあるけれど。
   和風のスパゲッティだと思えば、ちゃんとおいしく思える。


   ……また、食べたいと思う?


   思う。次に作る時は、あなたが言っていた通り、めんつゆをポン酢にしてもいいかもしれないわね。
   白だしも、試してみると面白いかもしれない。木野さんが作れば、多分、食べられないものにはならないでしょうし。


   じゃあ、また作ってみてもいい?


   ええ、作ってみて。
   作ってくれたら、食べてあげるわ。


   ありがとう、水野さん。


   どうして、木野さんがお礼を言うの?
   作ってもらうのは、私なのに。


   言いたくなったんだ。


   ふぅん。


   ……。


   私も、作ってみようかしら。


   ……え?


   冷たいスパゲッティ。
   気が向いたら、だけど。


   作ってくれたら、喜んで食べる。


   おいしくなくても?


   おいしいものしか、水野さんは作らない。


   買い被り。


   例えば、水野さんがおいしくないと思うものが出来てしまったとして。
   それをあたしに食べさせるのは、水野さんのプライドが許さないと思うんだ。


   ……。


   わりと完璧を求めるからさ、水野さんは。


   ……つまり、私は失敗することもある。


   え。


   で、あるならば……私はおいしいものしか作らない、とは、決して言えない。


   いや、それは、あくまでも例えであって……。


   ええ、私だって失敗することぐらいあるわ。
   料理なんて、ろくにしてこなかったんだもの。


   ……。


   私がしているのは……そう、木野さんの真似。


   あたしの?


   私、真似をするくらいの器用さはあるみたい。


   ううん、それだけではないと思う。


   いいえ……それだけ、よ。


   包丁の持ち方を見れば分かるんだ。
   包丁は、一朝一夕で扱えるものではないから。


   ……。


   水野さんは、全くやってこなかったわけじゃない。


   ……調理実習ぐらいよ。


   そうとも、思えない。


   ……。


   水野さ


   今は、食べることに集中したい。


   ……。


   ……でないと、もったいないじゃない。


   もったいない?


   ……せっかく、おいしいのに。


   ……。


   ……良かったわね。


   え……?


   ……おいしくなかったら、後悔するところだったから。


   こうかい……。


   ……一緒に入ったこと。


   あっ。


   ……鈍い。


   あ、や……。


   ……それとも、欲がすっかり満たされてしまったから忘れてた?


   そ、そういうわけじゃ……。


   ……まぁ、いいけれど。


   ……。


   ……そんな顔、しなくていいわよ。


   良かった……おいしくて。


   ……自信たっぷりだったくせに。


   ……。


   ……ねぇ、木野さん。


   なに……水野さん。


   ……一応、言っておくけれど。


   う、うん……。


   ……欲が満たされたのは、何も、あなただけではないから。


   ……。


   ……それだけ。


   みずの、さん……。


   ……ミント水。


   もう、ないから……麦茶、飲む?


   ……甘いわね。


  8日




   ……よっ。


   ……。


   お、今回は上手く割れたかも。
   見て、水野さん。比較的、きれいに割れたと思わない?


   ……そうかもね。


   きれいに割れると嬉しいよねぇ。
   と言うわけで、どっちがいい?


   ……じゃあ、小さい方で。


   あまり変わらないけど……はい、どうぞ。


   ……大きくない?


   同じくらいだよ。


   ……そっちで。


   はい。


   ……。


   改めてどうぞ、水野さん。


   ……ありがとう、木野さん。


   こんなに暑いと、早く食べないと融けちゃうよね。


   ……夕方になって、少しは涼しくなったけれど。


   それでも、他の季節よりは暑いから。


   ……落としたこと、あったわよね。


   あったあった、あの時は悲しかったな。


   ……呆然としていたわ。


   アイスをうっかり落としちゃった時の悲しみはさ、本当、言葉にならないんだ。
   落とす前に時を戻せるのなら、戻したいくらい。


   アイスぐらいで、大袈裟。


   と言いながら、分けてくれたよね。


   そうだったかしら。


   ちゃんと憶えてる。


   あ、そう。


   水野さんは優しい。


   ……どうでもいい。


   なんて、話している間にも融け始めてる。


   ……ん。


   冷たい?


   ……アイスなのだから、当たり前でしょう。


   はは、そりゃそうだ。


   ……。


   このアイス、ふたりで分けて食べられるのがいいよね。


   ……悪くはないわ。


   ひとつずつの方が良かった?


   ……そんなこと、一言も言ってない。


   ん。


   ……私には、ひとつだと多いのよ。


   結構、大きいもんね。


   ……木野さんなら、なんでもないんでしょうけど。


   食べられるけど、今のあたしははんぶんこ出来るアイスの方がお気に入り。
   ふたりで分け合う楽しさとおいしさがあって、ひとつずつでは味わえないからさ。


   ……そもそも、木野さんと付き合うことになるまで食べたこともなかったし。


   ん、そうだったね。


   ……早く食べないと、地面に食べられてしまうわよ。


   おっと、そうだった。


   ……。


   ん、冷た。
   夏はやっぱり、ソーダ味だ。


   ……コーヒーのアイスも悪くないけど。


   コーヒーもいいよね、次はコーヒーにしよう。


   ……あれなら、融け落ちることもないし。


   融けちゃっても、飲めるし。


   ……温いと甘ったるくて、かえって喉が乾くけど。


   大丈夫、その前に食べちゃうから。


   ……食べ終わって、空になったものを咥えている木野さんは行儀が悪い。


   いや、まだ残っているかなって。


   どう見ても、残ってない。


   ……咥えないようにします。


   別に、いいけど。


   ……いいの?


   行儀が悪いとは思うけど、嫌いではないから。


   ん……難しいな。


   嫌いではないのだから、それでいいんじゃないの。


   いいのかな。


   ただし、いつまでも咥えているのは


   残ってないのを確認したら、さっさと捨てます。


   ええ、そうして。


   ……気を付けよう。


   ……。


   ん……風が、涼しい。


   ……どこかで、雨が降ったんだわ。


   夕立ち?


   ……ええ。


   こっちには、来そう?


   ……多分、来ないわ。


   じゃ、急いで帰らなくても大丈夫そうかな。


   若しも、来てしまったら……どこかで、雨宿りすればいいだけよ。


   んー……ここから、うちまでだと。


   雨宿りする場所がなければ、濡れて帰ってもいいわ……涼しくなるでしょうから。


   涼しくはなるだろうけど、風邪を引いてしまうかもしれない。


   ……シャワーを浴びれば、問題ない。


   だとしても。


   ……ん。


   夏風邪は、厄介だからさ。


   ……引かなければ、いいだけよ。


   その為にも、びしょ濡れになるのは避けよう。


   ……気持ちいいのに。


   分かるけどね。


   ……。


   ん、ヒグラシが鳴いてる……。


   ……アブラゼミやミンミンゼミよりはいいわ。


   やかましいよねぇ、アブラゼミとミンミンゼミ。
   特にアブラゼミ。網戸で鳴かれたあかつきには、追い払いたくなっちゃう。


   実際、追い払うのだけど。


   だって、やかましいんだ。
   暑い上にやかましいのは、流石に二重苦と言ってもいいと思うよ。


   地表に出てからは短い命だから、必死なのよね。


   それは、まぁ、そうなんだろうけど。


   私も、それくらいの命だったら。


   ……。


   良かっ


   良くない。


   ……。


   ……良くないよ、水野さん。


   木野さん……触らないで、熱いわ。


   ……ごめん。


   ……。


   ……もう、言わないで欲しい。


   もう、言わないわ……木野さんの手が、熱いから。


   ……。


   ……ソーダ味。


   ん……。


   ……夏に食べると、おいしいわね。


   だろ……?


   ……緑のソーダ水も、好きよ。


   メロンソーダかな……うん、おいしいよね。


   ……あなたの瞳と、同じ色。


   ……。


   ……また、飲みたいわ。


   うん……また、飲もう。


   ……。


   アイスが浮かんでいるのがいいかな。


   ……浮かんでいてもいいけれど、濁ってしまうのはいや。


   なら、なしで。


   ……木野さんが頭痛をこらえてさっさと食べてくれれば、問題ないわ。


   それだと、味が分からないから……やっぱり、なしで。


   そう。


   ね。


   ……なに。


   青いソーダ水もあるんだよ。


   ……ソーダアイスは、青いわ。


   ソーダアイスは青と言うより水色だろう?
   青いソーダ水は、深い青色で……そう、水野さんの


   ブルーハワイなら、飲みたくない。


   大丈夫、ブルーハワイではないから。


   ……他にあると言うの。


   ライチの青いシロップ。


   ライチ……果物の?


   そう、果物の。


   ……どうせ、名ばかりのものではないの。


   ただ青いだけでなく、ちゃんとライチの果汁も入っているんだよ。


   ……飲んだこと、


   は、ないんだけどね。


   ……なら、どうして入っていると言えるの。


   そういうシロップが、本当にあるんだ。


   ……ライチの色は、青ではないわ。


   うん……ライチそのものは、青くない。
   だけど、ライチの青いシロップはブルーハワイとは違うんだ。


   ……でも、着色料の青なのでしょう。


   それを言ったら、メロンソーダもそうだよ。


   ……。


   とても、きれいな青だったんだ。


   ……そんなにきれいだったの。


   うん……だからいつか、水野さんと飲んでみたい。


   ……いつかって。


   今は無理でも、大人になれば。


   ……ふ。


   水野さん。


   ……あなたといると、本当に飽きないわ。


   あ。


   ……大人になる前に、飲めるかもしれないわよ。


   うん、そうだったらいいな。


   ……。


   ……アイス、食べ終わっちゃったね。


   食べ始めれば、食べ終わるものだから。


   ……。


   なに。


   もう、水野さんは。


   当たり前のことを言っただけよ。


   ふふ、そうだね。


   楽しそうね。


   楽しいよ、水野さんといると本当に飽きないんだ。


   ……帰りましょう。


   うん、帰ろう。


   ……。


   ね、水野さん。


   ……なに、木野さん。


   勉強、捗って良かったね。


   私は、木野さんの部屋でも捗ったと思うわ。


   躰、冷え過ぎなかった?


   ……一枚、持って行ってから。


   うん。


   ……。


   夕飯、どうしようか。
   お昼は炒飯だったから……。


   ……トマト。


   え、トマト?


   ……冷蔵庫に入れておいた。


   あぁ、冷たいトマト?
   ふふ、いいね。


   ……それだけで、


   いや、それだけではだめだよ?


   ……アイスも食べたし。


   それだけだと、夏バテが酷くなってしまうから。


   ……お昼に炒飯も食べた。


   一口?


   ……。


   多くて、茶碗に半分くらい。


   ……それでも、食べたことにはなるわ。


   うん、全く食べないよりはずっといい。


   ……。


   無理に食べさせるつもりはないよ。


   ……そもそも、食べない。


   何が、いいかなぁ。


   ……。


   冷たいものの方が、食べやすいかな……おそば、うどん、素麺……あ。


   ……。


   冷たいスパゲッティなんて、どうだろう?


   ……冷たい?


   ほら、スパゲッティサラダってあるだろ?
   ナポリタンの。


   ……あるけど、それを作るとでも?


   ううん、ナポリタンにはしない。
   冷やしたトマトは使うけど。


   ……。


   おそばとうどんに冷たいのがあるなら、スパゲッティにも冷たいのがあってもいいと思うんだ。


   いいとは思うけれど……それは、おいしいの?


   おいしく作ればいい。


   ……。


   まずは麺を茹でて、それから、おそばとうどんのように水で洗う……スパゲッティにもぬめりがあるから、それを取らないと。
   具は、トマトと……うーん、何がいいかな。冷蔵庫の中を見て、決めてもいいけど。


   ……オクラが、残っていたわ。


   オクラ、オクラか。
   うん、いいかも。


   ……いいのかしら。


   あとは大葉があったよね、薬味用の。


   ええ、あるけど。


   トマトとオクラと、そして、大葉。
   味付けは……めんつゆは、流石にちょっと違うかな。


   ……意外と、合うかもしれないわ。


   うん?


   和風だと思えば。
   具に、オクラと大葉を使うのだし。


   あぁ、なるほど。
   和風だと思えば、確かに合うかもしれない。


   ……。


   それに、オリーブオイルを少しだけかければ……うん、さっぱりとしておいしいスパゲッティが出来るかも。
   いや、出来る、必ずおいしく作ってみせる。


   ……ひとりで盛り上がっているけれど、お夕飯はスパゲッティで決まりなのね。


   あ、違うのがいいなら。


   いいわ、冷たいスパゲッティで。


   ……食べられそう?


   おいしく作ってくれるのでしょう?


   うん、おいしく作る。


   なら、食べられるんじゃないかしら。


   必ず、おいしく作るから。


   期待しているわ。


   うん!


   ……お昼に清掃活動をしたというのに、元気ね。


   そうと決まれば、ゆっくり帰ろ。


   ……ゆっくり帰るの?


   夕涼みをしながらね。
   せっかく、風が気持ちいいんだし。


   別にいいけど……本当に、元気ね。


   ……で、さ。


   シャワーは、ひとりで。


   ……。


   何、その顔。


   ……どうして分かったのかなって。


   分かるわよ。


   ……そっか。


   ……。


   ……水風呂。


   洗濯機を回してしまってもいいわね。


   ……うん、そうだね。


   私が干すわ。


   ん、ありがと。


   ……。


   ……残念。


   木野さん。


   ……なに。


   暑苦しい。


   ……夏は、どうしてもね。


   ……。


   ……はぁ、うちにも冷房があればなぁ。


   冷たいスパゲッティが、おいしかったら。


   ……うん?


   考えてあげてもいいわ。


   ほ、本当?


   冗談。


   ……あー。


   ふふ。


   ……はは。


   ……。


   ……まぁ、いいか。


   いいの?


   ……え。


   考えてあげてもいいと、少しだけ思ったのだけれど。


   か、考えてくれると、嬉しいけど。


   今回は冗談ではないわ。


   ……。


   本当。


   ……水野さん。


   期待は、しないで。


   ……ちょっと、難しいかも。


   がっかりするのは、あなたよ。


   ……そうなんだけど。


   ……。


   ……下心が、そわそわしてる。


   ばかね、木野さんって。


   ……あたしも、そう思う。


   ……。


   はぁ……風が気持ちいいな。


   ……冷えて、良かった。


   ん?


   ……頭と、躰。


   あぁ……うん、すっかり冷えたよ。


   ……。


   帰ったら……また、冷やすね。


   ……そわそわしてる下心を?


   うん、まぁ。


   ……。


   ……ヒグラシ、まだ鳴いてる。


   いいわ。


   ……。


   一緒に、入ってあげても。


   ……えと、冗談?


   その方が、いい?


   よ、良くない。


   なら。


   でも、こんな早く?
   まだ、作ってもいないのに。


   いけなかった?


   い、いけなくなくない。


   日本語がおかしい。


   やった……やった。


   気が変わらないことを、祈っていて。


   うん、全力で。


   ……。


   冷たいスパゲッティ、おいしく作るからね。


   ……ええ、精々おいしく作って。


  7日





  -Their kitchen(現世3)





   ……。


   ……。


   ……あぁ。


   木野さん。


   ……はい。


   食べないの。


   ……食べる、けど。


   けど、なに。


   ……。


   食べたくないのなら、そう言えばいい。


   食べたくないわけない、すっごく食べたい。


   だったら、早く食べて。


   食べたら、なくなってしまうから……。


   ばかなの。


   だって水野さんが、あたしの為に炒飯を……。


   それ、何度目?


   ……お昼に、こんなおいしそうな炒飯を作っておいてくれるだなんて。


   ごはんが残っていたから作ってみただけだと、二度は言った筈よ。


   うん……また言ってくれて、ありがとう。


   ……そんなに感動することかしら、今更じゃない。


   卵と、ツナ……あと、かまぼこも入っている。


   あったから、入れただけ。
   具無しの方が良かったのなら、


   あぁ……とても、おいしそうだ。


   ……はぁ。


   ……。


   食べないのなら、片付けるわ。


   あ、待って。


   食べるの、食べないの。


   食べる、食べるよ。


   なら、さっさと食べて。


   はい、いただきます。


   ……食べ終わったら、片付けておいてね。


   うん、勿論。


   ……。


   ね、水野さんはお昼食べたの?


   ……食べたけど。


   炒飯?


   ……。


   そっか、良かった。


   ……何が。


   ちゃんと食べることが出来て。


   ……いつもちゃんと食べているでしょう。


   最近、夏バテ気味みたいだからさ。


   ……じゃ、私は勉強に戻るから。


   なんの?


   ……数学。


   数学かぁ……あたしも、しないとなぁ。


   ……。


   そうだ、いいことを思いついた。


   ……大したことなさそうね。


   ね、食べ終わったら、図書館に行かない?
   この部屋だと、暑くて集中出来ないと思うし。


   ……別に、しようと思えば出来るわ。


   図書館の方が涼しくて、快適だと思うんだ。


   ……あなたはね。


   あんまり、効いていないところなら……。


   ……それだと、あなたが暑いでしょう。


   この部屋よりは、ましだと思うんだ。


   ……そんなに暑いの。


   うん……暑い。


   ……なら、炒飯なんか食べたくないわね。


   え、どうして?


   ……冷たいものの方が良かったでしょうから。


   労働の後の炒飯はとってもおいしいよ。


   ……暑かったでしょう、外は。


   うん、途中で目玉焼きの気分になっちゃった。


   目玉焼き?


   焼き魚でもいいかも。


   つまり?


   上からも下からも焼かれて、白目になるところだった。


   ……やっぱり、冷たいものの方が。


   躰を動かした後だから、ごはんがいい。
   素麺でもいいけど、今のあたしにはちょっと物足りないかな。


   ……ふぅん。


   本当だよ。


   ……折角だから、冷たい麦茶でも入れてあげるわ。


   わぁ、ありがとう。


   ……あなたが作った麦茶だけれどね。


   ううん、水野さんがいれてくれるだけで嬉しい。


   ……ついでよ。


   ついで?


   自分の分。


   あぁ、これだけ暑いと喉が渇くもんねぇ。


   ……。


   ん……お。


   ……熱いわね。


   うん、躰に熱がこもっているみたいだ。


   ……分かった。


   ん、水野さん?


   食べ終わったら、図書館に行きましょう。


   え、ほんと?


   行きたいのでしょう。


   水野さんが行きたくないのなら、


   行ってあげるわ。


   無理、してない?
   本当は行きたくないのに


   行きたくないのなら、言わない。


   ……。


   とりあえず、ゆっくり食べて。


   ……うん、ゆっくり味わって食べる。


   味わう必要はないわ。


   えー。


   えーじゃない。


   うー。


   鬱陶しい。


   ……。


   全く。


   ね、水野さん。


   なに。


   ミント、入れよう。


   ミント?


   麦茶に。


   あぁ。


   爽やか麦茶。


   はいはい、そうね。


   へへ。


   待って。


   へ?


   私が摘むから、木野さんは食べて。


   ……でも。


   いいから。


   ……ん。


   ……。


   ん……おいし。


   ……暑さで、脳がとろけているみたい。


   え、なに?


   少し冷やした方がいいわ、あなた。


   え、と……あたしを、冷やす?


   頭と、躰。
   恐らく、今のあなたはあまり良い状態ではない。


   え、そうなの。


   意識はしっかりしているみたいだから、救急車を呼ぶほどではないと思うけれど。


   きゅ、救急車っ?


   暑さってね、莫迦に出来ないのよ。


   ばかには、してないけど……ひとつ間違ったら、救急車のお世話になっちゃう?


   ええ、なるわ。
   日射病若しくは熱射病、聞いたことぐらいならあるでしょう。


   日射病は、あるかな。
   日射病にならない為に、外に行く時は帽子をかぶれって昔言われたような気がする。


   どちらも状態が悪いともれなく救急車、何故なら命に係わるから。


   そ、それはやだなぁ。


   図書館まで、歩いて行ける?


   行けると、思うけど……。


   良かったら、自転車で先に


   後ろに乗る?


   乗らない。


   ……乗ろう?


   いやよ。


   歩くよりも涼しいよ?


   二人乗りは違反。


   そ、そうだけど……少しくらいなら、いいんじゃないかな。


   い、や。


   ……はい。


   自転車で、先に行ってて。


   ……。


   木野さん。


   ……やだ。


   は?


   水野さんが後ろに乗ってくれなきゃ、やだ。


   我侭を言わないで。
   自転車の二人乗りは道交法違反なのよ。


   ……なら、水野さんと歩いて行く。


   小学生なの。


   ……数年前までは、小学生だった。


   今は違うでしょう。


   ……二、三年くらいで、ひとはそんなに成長しない。


   ……。


   ……身長は伸びたけど。


   はい、麦茶。


   ……ありがとう。


   ……。


   ……。


   ……までよ。


   なに?


   ……途中までよ。


   途中?


   ……それでいいのなら、乗ってあげるわ。


   うん、それでいいよ。


   ……。


   ふふ。


   ……子供。


   そうだよ。


   ……炒飯。


   おいしい。


   ……それは、良かったわ。


   うん。


   ……今度の。


   うん?


   ……町内会の清掃活動には、私が行くわ。


   水野さんが?


   ……とにかく、行くから。


   じゃあ、一緒に行こうか。


   ……木野さんは行かなくてもいいわ。


   ううん、行くよ。


   ……どうして。


   どうしてって。


   ……私も、この部屋に住んでいるわ。


   そうだけど。


   ……世間の目があるから?


   そんなのは、どうでもいい。


   ……じゃあ、どうして。


   んー……。


   ……何が問題なの。


   面倒なのが、いるんだ。


   ……面倒?


   うちのことを、根掘り葉掘り聞いてくる。
   まぁ、うちだけではないんだけど。


   ……。


   中学生がひとり暮らしをしているなんて、格好の話の種みたいでさ。


   ……私、多分、そのひとを知っているわ。


   え。


   木野さんがいない時に、声をかけられたことがあるの。


   いつ?


   最近。


   なんて?


   良く遊びに来ているみたいだけれど、木野さんとはお友達なのかと。


   それで、なんて答えたんだい?


   あなたには関係ありません。


   ……は。


   そう、答えたわ。


   ……。


   間違ってはいないでしょう。


   ……間違っては、いないけど。


   それとも、ご近所付き合いだと割り切った方が良かったかしら?


   ……それ以上のことは。


   勿論、言わせなかったわ。


   そ、そう。


   話した方が良かった?


   いや、話さなくていいよ。


   木野さんに。


   あたしに?


   どうでもいいことだと思って、話さなかったのだけれど。


   あぁ……うん、出来れば聞いておきたかった。


   そう、なら次からは話すようにするわ。


   ん、お願い。


   面倒ね……ご近所付き合いって。


   ……だからか。


   ……?


   ……。


   だから?
   だからって、なに?


   いや、さ。


   私のことで、何か言われたの。


   今日もあのお友達が遊びに来ているみたいだけれど、本当に仲がいいのねって。


   ……心の底から、余計なお世話だわ。


   悪気があるわけじゃないんだろうけどね……ただの、聞きたがりってだけで。


   悪気がなければ、なんでも聞いて良いということにはならないわ。
   ましてや話の種にされるなんて、まっぴらごめんよ。


   ……あたしも、それは思っているよ。


   それで、どうしたの。
   なんて、答えたの?


   そうですけど、悪いですか?


   ……。


   そう答えたら、別に悪くはないわって言いながら自分の持ち場に戻っていった。
   もっと絡まれるかと思ってたから、あっさり引き下がってくれて良かったよ。


   それきり?


   うん、それきり来なかった。
   終わった後にまた、来るかと思ってたんだけど。


   ……。


   何か、言われるかな。


   ……言われても、私は気にしない。


   あたしも、気にしないよ。


   ……。


   水野さん。


   ……なに、木野さん。


   ごちそうさま、本当においしかったよ。
   炒飯も、ミント入り麦茶も。


   ……。


   ちゃんと味わって食べたから、ね?


   ……いいって言ったのに。


   勿体ないからさ。


   ……また作ってあげるわ。


   ん、楽しみに


   しないで。


   はーい。


   ……。


   少し休んでから、行こうか。


   ……ええ。


   扇風機の風、生温いね。


   ……ないよりは、いいわ。


   まぁ、そうだね。


   ……。


   ……ねぇ、水野さん。


   図書館に行く準備をする。


   その前に。


   ……。


   ……ごめん、手熱い?


   熱い。


   ……。


   ……でも、いいわ。


   うん……すぐに離すから。


   ……それで。


   エプロン、した?


   …………は?


   炒飯を作る時。


   ……それを聞いて、どうするの。


   したのなら……見たかったなって。


   意味が分からない。


   あ。


   ……やっぱり、暑さで脳がとろけているんだわ。


   はは、そうかも。


   ……。


   気にしないでいいからね。


   ……何を。


   ご近所さんのこと。


   ……。


   何を言われても、あたしは気にしない。


   ……若しも、通報されたら。


   その時は……。


   ……あの女に連絡が行くわ。


   あぁ……そうか。


   ……。


   そうなったら……帰される?


   ……帰されても。


   迎えに行くよ。


   ……。


   行くから、絶対に。


   ……厄介ごとに。


   あたしは、水野さんがいない方がいやなんだ。


   ……。


   だから。


   ……私も、気を付けるわ。


   え?


   ……ご近所さんへの受け答え。


   ……。


   ……これでも私、優等生だったんだもの。


   ふ……。


   ……何よ。


   そうだったなって。


   ……。


   わ。


   ばか。


   え、ごめん。


   ……ばか。


   水野さん……。


   ……暑い。


   うん……。


   ……汗臭い。


   ごめん、すぐに離れる。


   ……でも。


   あ……。


   ……少しだけなら。


   ……。


   ……やっぱり、暑い。


   水野さんは、夏でも体温が低いね……。


   ……うるさい、ばか。


   ん、ごめんなさい……。


   ……シャワー。


   どうせまた、汗をかくと思うけど……。


   ……着替えて。


   ん……そうする。


   ……。


   ね……一緒に。


   私は、図書館に行く準備をするから。


   ……はい。


   ……。


   じゃあ……帰ってきたら。


   ……片付けは、しておいてあげるから。


   ……。


   今は……シャワーに行って。


  6日





   マーキュリー。


   ……ジュピター。


   起きていて、大丈夫なのかい?


   ええ、今日はやっぱり気分だけでなく躰の調子も良いみたいなの。


   目覚めも悪くないって、言っていたね。


   何か懐かしい夢を見たような気はするのだけれどね。


   内容が思い出せなくても、悪夢でなければ良いと思うんだ。


   魘されては、いなかったでしょう?


   あぁ、あたしが見た時はすやすやと良く眠っていたよ。


   わざわざ、確認して呉れたのよね?


   念の為、だよ。


   心配性なんだから。


   お互い様、かな。


   私は、あなた程ではないと思うけど?


   じゃあ、今は然ういうことにしておこう。


   今は?


   然う、今だけ。


   ……ん。


   良かったよ。


   うん……何が。


   起きていても、顔が青白くないから。


   ……悪くないでしょう?


   うん……悪くない。


   ……ありがとう、心配して呉れて。


   あたしは、心配性だからね……。


   ……ふふ。


   ……。


   それは、だめ。


   ……あ、やっぱり。


   取り敢えず、離れて?


   はい。


   ねぇ。


   ん、もっと触っても良い?


   だめ。


   キス


   だーめ。


   ……はい。


   全く、どうして然うなるんだか。


   ……はは。


   ……。


   それで、なんだい?


   ……。


   えと……ごめんね?


   はぁ。


   ……ごめん。


   頬になら、良いわ。


   ……え?


   キス。


   良いの?


   ええ、どうぞ。


   ……。


   ……しないの?


   ううん……する。


   ……。


   ……赤みと温もりが戻ってきた、本当に良かった。


   うん……ありがとう。


   ……。


   ……確認、出来た?


   うん、出来た……ありがとう。


   ……午後からの仕事も、ちゃんと集中してね。


   はい……します。


   ……宜しい。


   ……。


   ふぅ……。


   ……疲れた?


   ううん……平気。


   ……。


   ね、ジュピター。


   ……なんだい。


   眠っていると思った?


   ……眠ってはいなくても、横になっていると思った。


   心配しないで……無理は、決してしないから。


   ……うん。


   ふふ……。


   声が明るい。


   ……声?


   元気になってきている証拠かな。


   ……然うかもね。


   でも。


   無理は、禁物。
   言ったでしょう、無理はしないって。


   ん、ちゃんと聞いた。


   ねぇ、座って。


   その前に。


   なに?


   マグの中、空だろう?


   ……うん、空。


   喉、乾いてない?


   ……少し、乾いているかも。


   何か用意するよ。


   ……ありがとう。


   何が良いかな。


   私は、なんでも良いけれど……ジュピターも飲むのよね?


   うん、一緒に飲もうと思う。


   ジュピターは、何を飲むつもりなの?


   あたしは、苦いもの以外ならなんでも良いんだ。


   苦いもの?


   今は然ういう気分じゃなくて。


   なら、甘いもの?


   甘いものでも、まぁ、良いかな。
   マーキュリーは、本当になんでも良い?


   私は……然うね。


   うん。


   やっぱり、いつものお茶が良いかも。


   良いのかい、いつもので。


   今は、その方が落ち着くから。


   分かった、待ってて。


   ジュピターは……。


   マーキュリーと、同じものにする。


   ……。


   はは。


   ……もぅ。


   冷たいのと、あったかいの、どちらが良い?


   ……冷たいの、かしら。


   マーキュリー。


   ……なに。


   喉、乾いているね?


   ……忘れていたわけでは、ないのよ。


   然う願っているよ。


   ……本当なのに。


   ところで、何を読んでいたんだい?


   ……。


   報告書?


   うん……ちょっと、ね。


   ちょっと……口には出せないもの?


   もぅ、そんなものではないわ。
   久しぶりに、漢方の本を読んでいたのよ。


   漢方の?
   それはまた、なんでだい?


   知識をもう一度、深める為。


   ……。


   目覚めてからずっと、読んでいなかったから。


   ……ぼんやり、してる?


   大分、思い出してきてはいるのだけれど……より確実なものにしたくて。


   ……そっか。


   ただの暇潰しだと思った?


   それも、少しはあるかなって。


   まぁ、全くないとは言わないわ。
   報告書は全部、目を通してしまったし。


   ……流石。


   今はあなたの報告書を待っているのよ、ジュピター。


   早めに提出させて頂きます。


   楽しみに待っているわ。


   しかし、漢方か。
   学生の頃、勉強していたよね。


   ええ、漢方の知識も大事だから。


   西洋医学だけでは治療が難しい症状などに効果が期待される、だっけ。
   実際、日常診療にも使われていたんだよね。


   然う、どの診療科でも……て、憶えていたの?


   亜美ちゃん……いや、マーキュリーの話をちゃんと聞いていたからだと思う。


   ……耳に胼胝が出来るまで、聞かせたから。


   楽しそうに話すマーキュリーが、今でも好きなんだ。


   ……。


   あ、嬉しそう。


   ……先人が残して呉れた知恵は、今を生きるひと達を生かして呉れる。


   ……。


   読んでいると、それをしみじみと感じるの。


   料理も然うだよ。
   特に毒があるものとかさ、良く食べられるようにして呉れたなぁって。


   ふふ、然うね。


   砂糖は、要る?


   ほんの少しだけ。


   ん、あたしもほんの少し入れよう。


   ……相変わらず?


   ん?


   ミント。


   あぁ……もう、わさわさしているよ。
   やっぱり、生命力が強い。生き残っていただけある。


   ふふ、然う。


   だから、お茶も飲み放題だ。
   と言うわけで、はい、お待たせ。


   ありがとう、ジュピター。


   いつものだけれど、ね。


   いつものだから、良いのよ。


   あたしは、たまには違うお茶が飲みたいなぁ。


   ドクダミ?


   うーん、ドクダミのお茶も美味しいけど。


   ドクダミの生命力も強いから。


   あー、紅茶が恋しいなぁ。


   そんな、全く飲めないわけではないじゃない。


   然うだけど、もっと気軽に飲めるようになって欲しい。


   紅茶はまだまだ、高級品だもの。


   はぁ、アールグレイにミントを入れて飲みたいな。


   ミルクを入れても、美味しいわよね。


   うん、とても美味しい。
   あと、果物を浮かべても美味しい。


   オレンジ?


   良いねぇ、オレンジの香りとミントの爽やかさが堪らないんだ。


   オレンジが入っていたら、お砂糖は要らないわね。


   うん、オレンジの甘みだけで十分だ。


   お茶ではないけれど、ブルーベリーとミントを合わせたジャムも美味しいわよね。


   あぁ、あれも美味しいよねぇ。


   トーストに塗っても、ヨーグルトと合わせても、炭酸水に入れて飲んでも美味しいの。


   そうそう、然うなんだ。
   あぁ、食べたくなくなってきたぁ。


   ベリーと言えば、生育状況はどう?
   順調?


   それがね、喜ばしいことに悪くないんだ。
   このまま育って呉れれば、そこそこ収穫出来るかも知れない。


   それは、楽しみね。


   うん、とってもね。
   収穫出来たらさ、まずはジャムを作ろうと思うんだ。


   ん、良いと思う。


   ふふ。


   ね、私も見たいわ。


   うん?


   ベリー。


   なら、お茶を飲んだら見に行くかい?


   ん、行きたい。


   だけど、躰を動かしても大丈夫?
   此処から、少し離れているけれど。


   少しくらいは動かないと。


   痛みは、もう引いているんだっけ。


   ええ、もうすっかりね。


   熱は……。


   ……ん。


   うん……高くは、ないかな。


   ……さっき、確認したのに。


   改めて……ね。


   ……少しくらいなら、大丈夫よ。


   いざとなったら、抱っこして戻ってくれば良い?


   そんなことしてもらわなくたって、大丈夫です。


   ふふ、そっか。
   だけど、若しもの時は抱っこするからね。


   ……。


   ん、耳が赤い?


   ……誰かに見られたら、冷やかされるわ。


   あたし達のことなんて、今更なのに?


   ……今日もあのふたりは、いちゃついているって。


   んー、仲が悪いと言われるよりは良いと思うな。


   然ういう問題ではないの。


   あ、はい。


   ……。


   砂糖の加減は如何でしょうか、水星のお姫様。


   ……悪くはありませんわ、木星の。


   ……。


   ジュピター、自分で言っておいて。


   ん……ごめん。


   全く……甘みは丁度良いわ、ジュピター。


   うん、良かったです。


   ……もぉ。


   はは……。


   ……ミント氷って、便利ね。


   だろ……?


   ……食事は、済ませたの?


   ううん、未だ。


   ……もうお昼は過ぎているわよ。


   お昼よりも、マーキュリーとお茶が飲みたくて。


   ……お腹、空いているのでしょう。


   ん……まぁ、少し。


   ミントティーだけでは、お腹は膨れないわ。
   食べられる時に、食べておかないと。


   ……マーキュリーは。


   私は……まぁ。


   まぁ、何?


   ……朝食が、遅かったし。


   遅くないよ、あたしと同じだったんだから。


   ……。


   スープの作り置きはあるけど……何か、作ろうか?


   ……でも。


   作るよ。


   ……あなたが作って呉れたスープが、あるし。


   そして、一緒に食べよう。


   ……。


   ね。


   ……それが、一番の目的?


   実は、然うなんだ。


   ……ふ。


   ん?


   ……然うだろうとは、思っていた。


   だろう?


   何を作るの?


   何を作ろうかなぁ。


   何も考えてなかったの?


   作り置きがあるし。


   なら、わざわざ作らなくても。


   でも、何か作りたい。
   簡単なものでも。


   簡単なもの……。


   ……然うだ、パンが残っていたよね。


   残っているけれど……若しかして。


   サンドイッチを、作る。


   ……簡単なものではないと思うわ。


   胡瓜のサンドイッチなら、火を使わないから。


   ……あぁ。


   どうだろう?


   ……ん、食べたいわ。


   良し、それじゃあ飲んだら作ろう。


   待って。


   ……ん?


   ゆっくり、飲んで。


   ゆっくり?


   折角のお茶なんですもの。


   ……。


   ね?


   また、淹れるけど……。


   ……。


   分かった……ゆっくり飲むよ。


   ……うん。


   ね。


   ……なぁに。


   今だけは……名前で。


   ……。


   ……亜美ちゃん。


   うん……まこちゃん。   


  5日





   んー……。


   ……。


   ……と。


   なにを、しているの……。


   ちょっと、小腹が空いてしまって。


   ……なにを、つくるつもりなの。


   素麺を、少しね。


   ……そうめん。


   亜美ちゃんも、良かったら食べるかい?


   ……。


   食べたくない?


   ……たべる。


   ん、分かった。


   ……。


   何が良い?


   ……なにがって?


   冷たいの?
   それとも、あったかいの?


   ……まこちゃんは、どちらがいいの。


   あたしは、どっちでも良いかな。


   ……ひとりでたべるのなら、どちらだったの。


   冷たいのにしようと思ってた。


   ……なら、つめたいのでいい。


   分かった、あったかいのにしよう。


   ……なんで?


   なんとなく、然う思ったから。


   ……わざわざきいたのは、なんのため。


   亜美ちゃんの答えを聞いた上で、その方が良いかなって思ったんだ。
   でも、冷たいのが良いのなら、然うする。


   ……つめたいので、いいわ。


   そっか、なら冷たいのにするね。


   ……やくみも、いらない。


   葱を切ろうと思ったんだけど。


   ……まこちゃんがたべたいのなら、きればいいわ。


   亜美ちゃんは、要らない?


   ……そのままで、いい。


   ん、そっか。


   ……。


   ね、生姜は?


   ……いらない。


   茗荷……は、なかったな。


   ……わさびも、いらない。


   本当に、そのまま?


   ……のどごしがよければ、それでいい。


   あぁ、なるほど……確かに、それで十分かも。


   ……ねぇ。


   ん、なんだい?


   ……じゃまではないの。


   邪魔ではないよ。


   ……くっついているのに。


   今は、包丁も使ってないしね。


   ……やくみは、どうするの?


   まぁ、なくても良いかなって。


   ……もしも、わたしに。


   気は遣ってないよ、あたしもそれで良いと思ったんだ。


   ……はなれなくても、いいの。


   良いよ、と言いたいところなのだけれど。
   そろそろ、お湯が沸きそうなんだ。


   ……じゃまだと、いって。


   邪魔なんて、言わないよ。


   ……なら、はなれないわ。


   うーん、そっか。


   ……じゃまだと、いえばいいの。


   邪魔だとは、言いたくないんだ。


   ……でも、おゆがわくのでしょう。


   うん。


   ……わいたら、おそうめんをいれるのでしょう。


   んー……然うだ。


   ……なに。


   素麺を鍋に入れる時に熱湯が跳ねて火傷してしまうかも知れないから、少しだけ離れていて呉れたら嬉しいな。


   ……じゃま?


   とは、言わない。


   ……。


   火傷は痛いし、痕になるかも知れないから。
   だから少しの間だけで良い、離れていて。


   ……わかった、はなれる。


   ん、ありがとう。


   ……。


   シャツ、着て呉れたんだね。


   ……枕元に、置いてあったから。


   うん。


   ……着ていた服は。


   洗濯機に。


   ……回しているの?


   ごめん、だめだったかな。


   ……ううん、良いわ。


   ん、良かった。


   ……。


   一人前では、多いかな。


   ……その半分で良い。


   となると……これくらいかな。


   ……それだと、一人前だわ。


   はんぶんこにしよう。


   ……。


   ん?


   ……それで、まこちゃんは足りるの?


   うん、空いたのは小腹だからね。
   そんなには要らないんだ。


   ……。


   だから良かったよ、亜美ちゃんが起きて呉れて。


   ……起こして呉れれば良かったのに。


   良く、眠っていたから。


   ……それで、ベッドに移して呉れたの?


   うん、眠るのならベッドの方が良いから。


   ……ソファは。


   大丈夫、心配しないで。


   ……ばか。


   ごめん。


   ……はぁ。


   良いよ、またくっついても。


   ……くっつかない。


   素麺を茹でている間なら。


   ……未だ、くっつかない。


   ん、未だ?


   ……素麺をお鍋からざるに移す時、また離れないといけなくなるもの。


   でも、素麺をざるに移してしまったら、あとは氷水で締めるだけだから、くっついている時間はないよ。


   ……。


   ね、亜美ちゃん。


   ……もう、良い。


   あ。


   ……。


   待って。


   ……向こうで、待ってる。


   ……。


   だから……離して、まこちゃん。


   ……分かった。


   ……。


   今更だけど……躰、大丈夫かい。


   ……平気よ。


   ……。


   ……。


   ねぇ。


   ……なに。


   やっぱり、あったかいのにしようか。


   ……どうして。


   温めた方が、良いかなと思って。


   ……何を。


   亜美ちゃんの躰を。


   ……。


   だから、


   まこちゃんが、居ないから。


   ……。


   ……まこちゃんが、私の傍に居なかったから。


   ごめんよ……未だだと、思っていたんだ。


   ……最近、周期が短いの。


   うん、言っていたね……。


   ……また、早まったのだと思う。


   ね、亜美ちゃん……一度、お医者さんに。


   ……。


   専門のお医者さんに診てもらった方が良いんじゃないかな。


   ……いや。


   亜美ちゃん……でも。


   ……ひとりで、行きたくない。


   ……。


   ……良い歳をして、みっともないわよね。


   最初から、一緒に行こうと思ってた。


   ……。


   あたしだって、ひとりで行くのは抵抗があるよ。
   だから、みっともなくなんてない。


   ……まこちゃん。


   一緒に行くよ、亜美ちゃん。


   ……直ぐに行った方が良いと思う?


   出来るだけ早い方が良いとは思う。
   診てもらってなんでもなければそれで良いし、若しも何かあったとしても対処が早ければ……。


   ……。


   なんて、あたしが言わなくても分かってるよね。


   ……ううん、分かっていないの。


   え。


   ……自分のことは。


   ……。


   ……付いてきて、まこちゃん。


   あぁ……一緒に行くよ、亜美ちゃん。


   ……ありがとう。


   ……。


   ねぇ……もう、良いんじゃない?


   ん、あたしも然う思ってたところ。


   ……ごめんなさい、余計なことを。


   はは、余計なことなんかじゃないさ。


   ……何にするの。


   ん?


   ……温かいの。


   んー、然うだなぁ。
   付け汁をあったかいのにするか、それともあったかい掛け汁にするか。


   ……私は、どちらでも。


   生姜入りの、かきたま素麺。


   ……。


   なんて、どうだろう?


   ……つまり、温かい掛け汁?


   うん。


   ……付け汁が温かいのでも、私は良いけれど。


   ……。


   でも、然うね……麺も、温かい方が良いから。


   かきたまで、良いかい?


   ……今から他の具を用意して、煮ている時間もないものね。


   なくは、ないけど。


   ううん……良いわ、それが食べたい。


   なら、直ぐに掛け汁を作るね。


   ……。


   めんつゆを、水で割って……火にかける。


   ……。


   それから、卵と生姜の用意……生姜は、少しで良いかな。
   摺ろうか、刻もうか……亜美ちゃんは、生姜は刻んだ方が良い?
   それとも、擦った方が良いかな。


   ……刻んだもので、


   ん、分かった。


   ……。


   包丁を、と。


   ……ねぇ。


   ん、なんだい。


   ……話し掛けたら、邪魔?


   大丈夫だよ、だけど返事の反応が遅かったらごめんね。


   ……。


   それで、なに?


   ……素麺、半分で本当に足りる?


   足りるよ。


   ……未だ、小腹のまま?


   うん、未だ小腹のまま。


   ……若しも食べたかったら、私の分から。


   それは、亜美ちゃんが残した時に考えるよ。


   ……。


   うん、生姜はこれで良し。


   ……手際が良い。


   素麺を入れるのは……未だ少し、早いかな。


   ……。


   うーん……まぁ、良いや。


   ……たまに、大雑把。


   これに刻んだ生姜を入れて、ひと煮立ち。


   ……だけど、美味しい。


   亜美ちゃん、何をひとりで言っているんだい?


   ただの独り言よ。


   話し掛けて欲しいな。


   今は、特にないもの。


   ないの?


   ええ、まこちゃんに話したいことはないわ。


   ん、そっか。


   ……。


   あと、少し……少し。


   ……母との夕食のことだけれど。


   え、なに?


   ……なんでもない。


   ごめん、汁を見てたんだ。
   決して、無視をしたわけでは。


   分かっているわ。


   ね、もう一度言って。


   ……大したことではないから。


   それでも、聞きたいんだ。
   ね、お願いだよ。亜美ちゃん。


   ……卵、そろそろ入れても良いんじゃない?


   あ。


   ……どう?


   うん、そろそろだ。


   ……なら、卵を入れてからね。


   分かった。


   ……。


   溶き卵を……と。


   卵はふんわり?
   それとも、固め?


   それ、今まさにあたしが聞こうとしてたことなんだけどな。


   私は……どちらでも構わないわ。


   なら……ふんわりにしよう。


   ……ふふ。


   もう直ぐ、出来るよ。


   ……ん。


   それで、亜美ちゃん。


   ……食べながらでも、良いのだけれど。


   聞かせて欲しい。


   ……。


   ね。


   ……やっぱり、サンドイッチで良いと思うの。


   サンドイッチ……具は、何が良いかな。


   ……なんの話をしているのか、分かるの?


   亜美ちゃんのお母さんが訪ねてくる日の夕食の話、だろ?


   ……。


   サンドイッチは、決まりとして。
   問題は、挟む具だ。胡瓜とレタス、あとは何が良いかな。


   ……まこちゃんが作ったものならば、なんでも。


   なんでも?


   たまごでも、ツナでも、ローストビーフでも。


   ……トマトとベーコン、でも?


   母は、なんでも喜ぶと思う。


   ……亜美ちゃん。


   誤解しないで、いい加減なことを言っているわけではないの。


   ん……分かってる。


   飲みものは、私達がいつも飲んでいる紅茶で。


   お酒は用意しなくても良いかな。


   良いわ。
   コーヒーでなくても良い。


   ……。


   母は……多分、いつも通りの私達が見たいだけなのだと思うから。


   いつも通りの、あたし達?


   ……然う、いつも通りの。


   なら……いつも亜美ちゃんに作ってあげるサンドイッチを用意しようかな。


   ……ね、ひとつだけ良い?


   ひとつと言わず、幾つでも。


   フルーツサンドを作って欲しいの。


   フルーツサンド?


   果物は、何でも良い。


   だったら、旬のものが良いかな。
   だけど、どうしてフルーツサンド?


   母が、好きなの。


   へぇ、然うなんだ。


   健康診断の前にうっかり食べ過ぎて、一時的に血糖値が上がってしまったなんてこともあったくらい。


   え、そんなことがあったの?


   私が小学生くらいの時かしら。
   健康診断の結果を見て、笑っていたわ。


   わ、笑うところ?


   あれでも、医者だからね。原因が分かっていれば、対処も出来る。
   そして、やる時は徹底してやる。結果、正常値に戻った。


   はぁ……やっぱり、すごいな。


   偏っているようで、どこかでバランスを取っているのよね。


   今は、どうなの?


   年齢もあるし、どこかしら引っ掛かっているところはあると思うけれど。


   それは、あたしには聞けないからなぁ。


   別に、聞いても良いと思うわよ。


   え、流石に聞けないよ。


   然う?


   然うだよ、あたしは実の娘じゃないんだし。


   実の娘よりもまこちゃんの方が話しやすいかも知れないわ。


   え、なんで。


   私は、まぁ……ね。


   亜美ちゃん?


   心配よりも、小言が先になると思うから。


   ……。


   それより、まこちゃん。
   素麺、大丈夫?


   あ、と。


   ……。


   ごめん、亜美ちゃん。


   卵、固くなってしまった?


   素麺も、柔らかくなってしまったかも。


   ふふ、別に構わないわ。
   柔らかい方が、お腹には優しいもの。


   ……。


   ね、気にしないで?


   ……次は、美味しく作るから。


   何を言っているの?


   ……え?


   美味しくないわけ、ないじゃない。


   ……。


   まこちゃん。


   ……ん、亜美ちゃん。


   器を用意するわ。


   あ、然うだった。


   ……。


   亜美ちゃん……。


   ……それは、だめ。


   ん……。


   ……もっと、伸びてしまうから。


   あ、あぁ……然うだよね。


   ……だから。


   だから……。


   ……また、後でね。


  4日





   んー……。


   ……ごめんなさい、まこちゃん。


   んぉ?


   ……母が、いつも迷惑をかけて。


   大丈夫だよ、亜美ちゃん。
   あたしは迷惑だとは思っていないから。


   でも、困っているわよね。
   メールが来てからずっと、考え込んでいるようだし。


   困っているわけではないんだ。
   ただ、どうしようかなって。


   ……やっぱり、困ってる。


   ここはひとつ、亜美ちゃんに聞いた方が良いかな。


   分かった、断るのね。


   へ。


   どう考えても突然過ぎるし、今回こそはきちんと断った方が良いと思う。
   でなければ、あのひとはずっと分からないままだから。


   いや、


   私達にだって、都合はあるわ。
   母の都合にばかり合わせてはいられない。


   亜美ちゃ


   断るのは、私に任せて。
   まこちゃんは何にも心配しなくて良いから。


   待った待った、然うじゃなくて。


   ……違うの?


   うん、違う。
   ごめんね。


   ……然う。


   あのさ、亜美ちゃん。


   ……なに。


   何を作れば、亜美ちゃんのお母さんは喜んで呉れる?


   ……何って。


   食べられないものはある? 好き嫌いは、あるよね。
   あと食物アレルギーなんてあったら、教えて欲しい。


   ……アレルギーは、聞いたことないけど。


   亜美ちゃんのお母さんが行くようなお店の料理は作れないけど、折角、訪ねてきて呉れるんだ。
   出来るだけ好きなものを作って、おもてなしをしたいと思ってる……あ、飲みものは何が良いだろう。
   やっぱり、お酒かな。それとも、コーヒー? でも、良い珈琲豆はうちにはないし……買いに行くの、付き合って呉れる?


   あのね、まこちゃん。


   なに?


   おもてなしなんて、しなくても良いのよ。
   それこそ……然う、カップラーメンにお水でも。


   いや、それは流石に……。


   ……母も好きよ、カップラーメン。


   それは、然うなんだろうけど……お客さん、ましてや亜美ちゃんのお母さんにカップラーメンを出すのは。


   ……最近は、辛いものを好んで食べているみたい。


   辛いものか……となると。


   ……特に担々麺がお気に入りらしいわ。


   たんたんめん……。


   ……冷えたごはんを入れると、二度美味しいと。


   わ、分からなくもないけど……そればかりだと、栄養のバランスが偏ってしまって宜しくないなぁ。


   大丈夫、お野菜はサンドイッチで取っているみたいだから。


   えと……出来れば主食で取るのではなく、サラダかなんかで取って欲しいかな。


   サンドイッチってね、やっぱりバランスが良いと思うの。
   お野菜にお肉、お魚だって食べることが出来るでしょう?
   然う、果物だって。


   そ、それは、然うなんだけど……て、これ、学生の頃に話したような。


   でも然うね、母は同じものばかり食べ続ける傾向にあるから、そこは改善して然るべきだと思う。
   と言っても、本人にやる気がなければどうしようもないのだけれど。


   ……やっぱり、亜美ちゃんのお母さんなんだなぁ。


   ……。


   あ。


   私……あそこまで、酷くはないわ。


   ……。


   私は同じものばかり、食べ続けたりなんてしないもの。


   ……あー。


   私は……母とは、違う。


   うん……然うだよね、ごめんね。


   ……どうして遠い目をしているの?


   確かに、サンドイッチの具は毎日違っていたなぁって。


   でしょう? 母の場合は具も同じなのよ。
   たまごならたまご、ツナならツナ、ローストビーフならローストビーフって、毎日同じものを食べるの。


   ……ろーすとびーふを、毎日。


   それが食べたいと言うより、考えるのが億劫で面倒なのよ。
   基本、お腹に収まればそれで良いと考えているひとだから。


   ……そっか。


   あ、然うだわ。


   うん?


   サンドイッチで、良いんじゃないかしら。


   サンドイッチ?
   となると、具は何が良いかな。


   具は……胡瓜で良いと思う。


   いや、亜美ちゃん? お母さんのことになると途端に適当な感じになるよね?
   ほんの少しだけでも良いから、真剣に考えて呉れると嬉しいな?


   ……だって、母だもの。


   確かにね、胡瓜も美味しい。爽やかなキューカンバーサンドは、夏にぴったり。
   だけど、胡瓜だけではさ? 他にもあるだろう? それこそ、たまごとか。


   ……じゃあ、レタス。


   れ、レタス……うん、レタスもシャキシャキして美味しいね。
   じゃあさ、レタスと一緒に挟むのは何が良いと思う……?
   チーズとか、トマトとか、ハムとか……。


   ……マヨネーズと粒マスタード。


   うーん、それは調味料かなぁ?


   ……それだけでも、十分に美味しいわ。


   然うだね、美味しいよね。分かる、確かに美味しい。シンプルイズザベストってやつだ。
   だけど、胡瓜とレタスだけでは、あまりにも緑緑していると言うかね?


   ……大丈夫、母は胡瓜とレタスが好きだと思うから。


   そっかぁ、大丈夫かぁ……て、今、思うって言った?
   確定ではないの?


   ……食べているのだから、嫌いではないと思うわ。


   お、おう……。


   ……。


   亜美ちゃん……?
   若しかしてだけど、不貞腐れて


   ない。


   あ、はい。


   ……ただ。


   た、だた?


   ……母のせいで、まこちゃんがこんなに考え込むことになって。


   あたしは、考え込んでいるつもりではなかったんだけど……。


   ……でも、母のことで頭がいっぱいだったでしょう。


   亜美ちゃんのお母さんのことでと言うより、喜んでもらう為に何を作れば良いかなぁって。


   ……やっぱり、母のことじゃない。


   えーと……。


   ……お構いなくと言っていたのだから、そこまで考えなくても良いと思うの。


   そこまで仰々しくするわけじゃないよ。
   だけど、


   ……折角の、お休みだったのに。


   あ。


   ……。


   亜美ちゃん。


   ……兎に角、私はなんでも良いと思う。


   分かった。


   ……何が。


   亜美ちゃんは、何が食べたい?


   ……私?


   亜美ちゃんが食べたいのを作ろうと思う。
   だから、教えて。


   ……でも、それでは。


   取り敢えず、言ってみて?


   ……別に、ないわ。


   本当に?


   ……。


   本当に、ない?


   ……急に、そんなことを言われても。


   う、それは確かに。


   ……今は、思い付かない。


   それじゃあ……今度の休み、あたしとふたりで食べるとしたら、何が食べたい?


   ……。


   あ、やっぱり思い付かないかな。


   ……わ。


   え、なに?


   ……ずるいわ。


   ずるい?


   ……ずるい。


   お……。


   ……。


   ……亜美ちゃん。


   まこちゃんと、ふたりで食べるとしたらなんて……。


   ……ごめんね、ずるくて。


   ……。


   もう、考えてた……?


   ……久しぶりに、まこちゃんが作ったミートローフが食べたいって。


   ミートローフか……然ういや、作ってないな。


   ……あと、チェリーパイ。


   チェリーパイ……うん、良いかも。


   でも……でも、それでは、面白くないの。


   ……。


   これは、嫉妬じゃない……でも、胸の奥がざわざわするの。


   ……そっか。


   こんな感情を、母に抱くなんて……酷く子供染みていて、莫迦らしい。


   ……莫迦らしくはないさ。


   莫迦って、言って。


   ……言われたいの?


   言われた方が、楽なの。


   ……でも、言わないよ。


   どうして。


   ……言いたくないから。


   私は、言われたいの。
   言われた方が、未だ。


   絶対に、言わない。


   ……ぁ。


   亜美ちゃん。


   ……。


   言わないよ、あたしは。
   分かるような気がするから、絶対に言わない。


   ……まこちゃん、は。


   うん……。


   ……母のこと、好き?


   好きだよ。


   ……それは、どうして。


   亜美ちゃんのお母さんだからだよ。


   ……私の母だから?


   然う、亜美ちゃんのお母さんだから。


   ……私の母ではなかったら。


   そもそも、知り合うこともないんじゃないかな。


   ……若しも、知り合えたら。


   然うしたら……別に、なんとも思わない。


   ……。


   亜美ちゃんのお母さんだから、あたしは好きなんだ。
   良いところを見せたいし、叶うなら、あたしのことを気に入ってもらいたい。


   ……母は、もう。


   何より、亜美ちゃんの……生涯のパートナーとして、あたしのことを認めて欲しい。


   ……。


   分かっているよ、亜美ちゃんはあたし達のことをお母さんに認められなくても良いと思っていること。
   いざとなったら……お母さんとは縁を切って、あたしとふたりで生きていこうと考えていること。


   ……でも、まこちゃんは。


   あたしは……出来れば、縁を切って欲しくない。
   お母さんのことが、心から嫌いだと言うのなら、仕方がないと思うけど。


   ……。


   世の中には、離れた方が良い親子も居ると思う……だけど、亜美ちゃんと亜美ちゃんのお母さんはどうしてもそんな風には見えないんだ。
   でもこれは、あたしの勝手な思い込みに過ぎなくて……だから、亜美ちゃんがどうしても離れたいと言うのなら、あたしはそれを受け入れる。


   ……若しもよ。


   うん。


   ……母のせいで、私と別れることになったら。


   その選択肢だけは、あたしの中にないんだ。


   ……まこちゃん。


   親が原因で別れるなんて、そんなのは嫌だ。
   あたしは亜美ちゃんのお母さんになんて言われようと、嫌われようとも、亜美ちゃんと別れる気は一切ない。
   若しも亜美ちゃんが許して呉れるなら、何処かに逃げたって良い。


   ……。


   あたし、我侭なんだ。一度掴んだものは、出来れば離したくないんだ。
   それが亜美ちゃんだったら、尚のこと、離したくない。離したら、あたし……心が、死んでしまうかも知れない。


   ……。


   大袈裟に聞こえると思う……だけど、あたしはそれだけ本気で。


   ……逃げるのは、嫌。


   ん……亜美ちゃん。


   ……離さないでね、絶対。


   うん……離さないよ、絶対。


   だったら、逃げないで……堂々と、ふたりで生きて行けば良い。


   ……。


   何処かに行くことになっても、それは逃げじゃない。
   ふたりにとって必要だから、然うするだけ。駆け落ちは決して、逃走なんかではないの。


   ……うん。


   ……。


   亜美ちゃん……む。


   ……ただの、夕食の話だったのに。


   なんか、壮大に話が逸れちゃったね……?


   ……私達の都合を考えない母が、全部悪い。


   全部……。


   ……私のまこちゃんなのに。


   ……。


   ん……まこちゃん。


   ……キス、したい。


   ……。


   ね……あたしは、亜美ちゃんだけのあたしだよ。


   ……もぅ。


   だめ、かな……。


   ……ばか。


   うん……大好きだ。


   ……ん。


   ……。


   ……まこ、


   ……。


   ん……だめ。


   ……だめ?


   何を、考えているの……?


   ……亜美ちゃんだけのあたしを、今直ぐあげたくて。


   キスだけでは、ないの……。


   ……。


   ……今で、なくても。


   要らない……?


   母との、夕食の話は……どうするの。


   それは……また、後で。


   後……あ。


   ……。


   まこ、ちゃん……。


   ……もらって、呉れる?


   ……。


   ね……もらって、欲しいんだ。


   ……なんで、こんなことに。


   ……。


   ん……あ。


   ……ソファでも、良い?


   手、が……。


   ……ベッドの方が、良いのなら。


   ……。


   ね、亜美ちゃん……言って、今ならまだ間に合うから。


   ……。


   ……でない、と。


   電気……。


   ……。


   ……電気を、消して。


   ……。


   でなければ……いや。


   ……分かった、待ってて。


   ……。


   直ぐに。


   ……は、ぁ。


   ……。


   ほんとう……なんで、こんなことに。


   ……お待たせ、亜美ちゃん。


   ん……まこ、ちゃん。


   ……良かった、待ってて呉れた。


   どこにも、行かないわ……。


   ……うれしい。


   ……。


   ……改めて。


   ……。


   もらって、くれる……?


   ……う、ん。


  3日





   んー。


   ……。


   うん、なかなか良い焼き具合だ。


   ……美味しそうね。


   ん、あれ、亜美ちゃん?


   ……準備は未だ、終わっていないのだけれど。


   まさか、匂いに釣られて?


   ……。


   なんて、そんなことないか。


   ……然うだと言ったら、笑う?


   え?


   ……私も、お腹が空いているみたい。


   ……。


   ……ね、笑う?


   別に、笑わないよ。


   ……顔が、笑っているわ。


   可笑しくて笑っているのではなくて、嬉しくて笑っているんだよ。


   ……。


   ね、折角だし、此処に居てよ。


   ……私に何か出来ること、ある?


   じゃあ、ごはんをよそってもらっても良いかい?
   そろそろ、出来るからさ。


   ええ……良いわ。


   ん、ありがとう。


   ……ごめんなさい。


   何がだい?


   ……準備、未だ終わっていないのに。


   準備は、ごはんを食べてからでも良いさ。
   先ずは、空腹を満たそう。


   ……。


   ね、美味しそうに焼けているだろう?


   ……ん、とても。


   生姜焼きって、匂いも美味しそうだよね。


   ……お醤油と生姜の匂いが、空腹感をこれでもかってくらいに刺激してくるの。


   はは、分かる。


   ……お弁当の分も焼いているのよね?


   良いかい、お昼も生姜焼きで。


   ん、勿論。


   ふふ、良かった。


   ……まこちゃんが作った生姜焼きは、時間が経っても美味しいから。


   ごはんにのせようと思っているんだ。
   然うすれば、汁漏れの心配が減るからさ。


   ん、良いと思う。
   保冷剤を用意するわ。


   ん、お願いします。


   ……はぁ。


   早く食べたい?


   ……私が、そんな風に思うなんて。


   良いんじゃないかな、食欲は生きる為に必要なものだし。


   ……世界がこんな風になって、しみじみと感じるようになったの。


   何をだい?


   食べられる時にしっかりと食べておかなければならない……何故なら、食べられることは当たり前のことではないのだから。


   ……。


   ……頭では、分かっていたつもりなのだけれど。


   まぁ、ね。
   こうなる前は、なんでもある世界だったから。


   ……この生姜焼きだって。


   たまたま豚に近い生物が群れを成していて、捕まえて試してみたら、味まで豚に近かった。
   あの時は、嬉しかったなぁ。これでお肉の心配をしなくても良くなるかも知れない、ってさ。


   彼らの先祖が、まさに豚だったから。


   だから、彼らは豚と名付けられた。


   その方が、分かりやすいでしょうしね。


   うん、とても分かりやすい。


   旧世界の豚とも掛け合わせることが出来るから、いずれは、細かな品種改良も出来るようになるかも知れない。
   何より、生産が軌道に乗って呉れれば……少なくとも、豚のお肉は安定した供給が出来るようになるわ。
   勿論、豚インフルエンザなどの感染症についても考えてなくてはいけないけれど。


   供給が安定して呉れたら、とても助かるし、嬉しい。


   繁殖期も豚とほぼ同じだし、仔も沢山産んで呉れる。
   食肉用として考えると、今のところ、こんなに助かる動物は他に居ないわ。


   しかししぶといよねぇ、豚。
   生き残って、何百年も命を繋いでいたとはさ。


   人間の為では、ないのだけれどね。


   ……うん、然うだね。


   雑食だったことも、生き残る為の強みになったのかも知れない。


   今でも、雑食だし……もう、豚様々だよ。


   ふふ、然うね。


   豚肉の次は、鶏肉かなぁ。
   丁度良く、旧世界のような鶏肉……ではなく、鶏に近い鳥が居て呉れたら。


   然う、都合良くは……ね。


   然うだよなぁ、そんな都合の良い話はないよなぁ。


   取り敢えず、旧世界の鶏が漸く卵を産んで呉れるようになったから。
   上手く育てて殖やすことが出来るようになれば、此方もいずれは安定して呉れると思う。


   牛は、難しいよね。


   牛は……豚に比べると肥育効率が悪いから、今は未だ難しいわ。


   ん、然うだよね……。


   でも、成る可く絶やさないようにはするから。


   あたしにも出来るようなことがあったら、直ぐに言ってね。


   うん、直ぐに言うわ。


   頼りになれるよう、頑張るからさ。


   あなたほど、私が頼りにしているひとは居ない。


   本当?


   ん、本当。
   こんな世界になっても、あなたはなんでも出来るんですもの。


   なんでも、ではないけど……でも、ふふ、やっぱり亜美ちゃんに褒められると嬉しいなぁ。


   あ、まこちゃん。


   お、っと。


   大丈夫?


   ん、大丈夫。
   さぁ、出来たよ。


   お皿を。


   ありがと。


   ……。


   お肉は、二枚ずつ。
   もう一枚欲しいのなら、あたしのを


   ううん、二枚ずつで。


   ん、分かった。


   ジュピターには活躍してもらう予定なんだもの、ちゃんと食べてもらわなきゃ。


   ふふ、そっか。
   じゃ、しっかりと食べよう。


   ん。


   ね、亜美ちゃん。


   なぁに?


   豚肉と一緒に炒めた野菜は、なんだと思う?


   ……。


   さぁ、なんでしょう?


   ふふ……簡単だわ。


   お。


   大根、よね。


   ん、当たり。


   味が染みて、とても美味しそう。


   美味しいよ、今回も自信があるんだ。


   ふふ、食べるのが楽しみね。


   ははは。


   付け合わせは、大根のサラダ?


   うん、生姜焼きの大根と被ってしまうけど。


   全然、構わないわ。
   だって、美味しいもの。


   ふぅ、良かった。


   食べられることに、感謝を。


   うん、感謝を。


   ね、テーブルに運んでも良いかしら。


   ん、お願い。


   はい。


   ……。


   ……。


   ……今も、悪くないな。


   え、なぁに?


   うきうきとテーブルに運んで呉れる亜美ちゃんは可愛いなって。


   絶対に、違うと思う。


   あれ。


   そんな顔ではなかったもの。


   見てた?


   観察眼を磨くことも、マーキュリーの仕事のひとつだから。


   あぁ。


   それで、なんて言ったの?


   ただの独り言なんだけど。


   言いたくない?


   今も悪くない、と。


   ……。


   不便なことばかりだけれど……それでも、亜美ちゃんはあたしの前で笑って呉れる。
   作ったものではなくて……本当の笑顔を、見せて呉れる。


   ……だから、悪くない?


   うん……悪くない。


   ……。


   亜美ちゃんは……。


   ……今は今で、楽しいわ。


   楽しい?


   やるべきことや、知るべきことが……兎に角、多くて。
   飽きている暇なんて、全くないの。


   ……あぁ。


   広がる世界を前にして、途方に呉れてしまうことは確かにある……女王のことも、考えなくてはいけない。
   私達は未来を知っているけれど、何もやらなければその未来は違うものになってしまうかも知れない。
   変わってしまうかも知れない。


   ……うん。


   正直、楽しいことばかりではないけれど……だけど、変わらず。


   ……変わらず?


   変わらず、まこちゃんは私の傍に居て呉れる。
   私だけを見て、私だけを……


   愛している。


   ……もぅ。


   ごめん、言いたかった?


   ……テーブルに並び終えたら、ごはんにしましょう。


   うん、然うしよう。


   ……。


   ……知っている未来と、同じものにはならないかも知れないけど。


   全く同じにならなくても良い……人類がまた、生きられる世界になって呉れれば。
   私は、それでも構わないと。


   ……ん、あたしも亜美ちゃんと同じ考えだ。


   あと、ね。


   あと?


   女王……うさぎちゃんが、泣かなくても良いように。
   いつまでも笑っていられるような、世界に。


   ……。


   うさぎちゃんが……私達のしあわせを願って、望んで呉れているように。
   ううん、私達だけじゃない……。


   ……うさぎちゃんは、昔のセレニティとは違う。


   ……。


   だから……あたし達は。


   ……私達も、昔とは違うけれど。


   でも、時々思っていたんだ。


   ……何を。


   何かがひとつでも、違っていたら……昔のセレニティに、近かったら。


   ……。


   あたし達は……うさぎちゃんから離れていた可能性も、あったかも知れないと。


   ……まこちゃんも、思うことがあったのね。


   亜美ちゃんもかい……?


   ……どうしても、昔のことが残っているから。


   ……。


   若しも、うさぎちゃんが……あ。


   ……ん?


   ……。


   亜美ちゃん……どうした?


   ……。


   亜美ちゃん……?


   ……なんでも、ない。


   ……。


   朝ごはんに……しましょう。


   うん……然うだね。


   ……。


   えと、亜美ちゃん……若しかして。


   言わないで。


   分かった、言わない。


   ……笑わないで。


   この場合、どんな顔をしていたら正解なんだろう。


   ……知らない。


   うぅ、だめだ。
   やっぱり、口元が緩んでしまう。


   まこちゃん。


   ごめん、でも。


   ……私だって、ただのひとのこだもの。


   うん、知っているよ。
   だから、あたしは笑わない。


   ……。


   ね、亜美ちゃん。


   ……なに。


   楽しい朝ごはんの時間にしよう。


   ……楽しい?


   然う、楽しい。


   ……良く、分からないけれど。


   今日もきっと、忙しくなる。
   お昼も、駆け足になってしまうかも知れない。


   ……だから。


   朝ごはんは、楽しく食べよう。


   ……。


   どうだろう?


   ……分からないけれど、分かったわ。


   はは、うん。


   ……。


   お箸を、と。
   うん、完璧だ。


   ねぇ、まこちゃん。


   ん、なんだい?


   分かったような気がするわ。


   うん?


   ううん、思い出した。


   え、と。


   あなたと、楽しい食事の時間を。


   ……。


   ね、然うでしょう?


   うん……然うだよ、亜美ちゃん。


   ふふ。


   ……。


   飲みものは、お水で良いかしら。


   うん、ありがとう。


   ん。


   持つよ。


   ありがとう。


   さぁ、座ろう。


   座って、ごはんを食べましょう。


   楽しく、ね。


   そして、美味しくね。


   うん、それも大事だ。


   ふふふ。


   と言うわけで、さぁ、どうぞ。


   そんなこと、しなくても良いのに。


   したかったんだ。


   ……ありがとう、まこちゃん。


   うん、どういたしまして。


   まこちゃんも。


   うん、直ぐに。


   ……。


   ……それでは、亜美ちゃん。


   うん……まこちゃん。


   いただきます。


   ……いただきます。


  2日





   ……。


   ……おはよう、ジュピター。


   ん……おはよう、マーキュリー。


   ……今朝も、早いわね。


   マーキュリーもね。


   ……。


   ……さて、どうして呉れようかな。


   出来ることを、ひとつずつ……然うしていくしか、手はないわ。


   まぁ、然うなんだよね。


   ……ある程度の範囲は、銀水晶の力で。


   でも、頼ってばかりはいられない。
   うさぎちゃん……いや、女王の命が削られてしまうから。


   ……私達の力も、無限ではないし。


   いつまで、支えられるか……。


   ……。


   ……。


   ……今日は、曇りみたいね。


   うん、然うみたいだ……雨、降るかな。


   ……降った方が良い?


   出来れば、降らない方が良い。
   マーキュリーは?


   私も、出来れば降って欲しくないわ。


   まぁ、晴れてくるかも知れないし。


   ……晴れると、今度は日差しがね。


   然うなんだよなぁ……難しいよね。


   ……我侭と言われれば、それまでなのだけれど。


   ただの我侭なら……どれ程、良いか。


   ……。


   マーキュリー……改めて、今日の予定は?


   ……今日も、付き合ってもらっても良い?


   勿論さ……今日は、何処を見に行くんだい?


   ……昨日とは、反対を行こうと思う。


   反対か……ん、分かった。


   ……見たこともない生物が、跋扈しているかも知れない。


   それは……その時は、守るよ。


   ……ありがとう、頼りにしているわ。


   うん……。


   ……。


   いつ見ても、圧倒されてしまって……途方に、呉れるんだ。


   ……分かるわ。


   若しも、うさぎちゃ……。


   ……。


   ……女王が居なかったら。


   人類は……あの時、滅びていたかも知れない。


   ……。


   未だ、体調が戻らないの。


   ……無理もないさ、あれ程の力を使ったんだ。


   今も、尚……。


   ……少しでも早く、負担を減らしてあげなければ。


   その為にも決して焦らず……確実に、事を成していかなければならない。


   兎に角、あたしはあたしが出来ることを頑張るよ。


   ええ……私も、然うする。


   ……。


   ……未だ、多くの人類が眠ったまま。


   未だ、起こせない……起こしたところで、こんな世界では。


   ……いっそ、起こしてしまうのも手かも知れない。


   ……。


   然うすれば……純粋に、手が増える。


   ……生きられる?


   ……。


   女王は、決して見捨てないよ。
   ただでさえ……全ては、無理だったのだから。


   ……ひとは、そこまでか弱いものではないわ。


   ひとの順応性に、賭ける……?


   ……どうにもならなくなってしまう前に、それもひとつの手段として。


   ……。


   一応、考えておいて。


   ……分かった。


   出来れば、私と。


   ……ん?


   考えて、欲しい。


   ……マーキュリーと?


   ひとりだと、どうしても行き詰まってしまうの。
   堂々巡りに、陥ることだって。


   ……。


   ……ごめんなさい、私がこんなことでは。


   あたし達は……生涯のパートナーだ。


   ……ジュピター。


   だから……ふたりで、考えよう。


   ……ありがとう、心強いわ。


   と言うか、さ。


   ……ん、なに。


   あたしは最初から、そのつもりだったんだけど……マーキュリーは、違ったの?


   ……。


   ん?


   ……だめね、私。


   だめでは、ないよ。


   ……。


   ん……マーキュリー。


   ……私には、あなたが居る。


   うん……ずっと、居るよ。


   ……あなたには、私が居る。


   うん……ずっと、居て欲しい。


   ……はぁ。


   思い出した……?


   ……眠り過ぎはやっぱり良くないわ、記憶がぼやけてしまって。


   うん、分かる……あたしも未だに、躰の感覚が元に戻っていないんだ。


   こちらも、少しずつ取り戻していくしかないわね。


   ん、ふたりでね。


   ……うん。


   ね、マーキュリー。


   ……なに。


   朝ごはん、食べようか。
   お腹、空いたろ?


   ……朝ごはんをちゃんと食べないと、仕事も出来ない。


   はは、その通りだ。


   今朝は、どうしましょうか。


   ん、どうしようかな。
   今日は何処まで行く予定なんだい?


   あまり遠くへは行かない。


   特定範囲の探索?


   ええ。


   然うか……だけど、体力を使うことは間違いないから。


   ……。


   やっぱり、お肉かな。


   ……お肉?


   生姜焼きでも作ろう。


   それは、力がつきそうね。


   ふふ、然うだろう?
   ね、お弁当は要るかな。


   ……出来れば、用意してもらえると。


   ん、了解。


   私も作るわ。


   マーキュリーは、探索の準備をお願い。
   未開の地に、軽装で行くわけにはいかないだろうからさ。


   ……。


   食は、あたしに任せて。


   ……ありがとう、お願いするわ。


   その代わり、あたしの探索の準備も。


   私に任せて。


   うん、ありがとう。
   とっても心強いよ。


   それじゃあ、早速始めましょうか。


   うん、然うしよう。


   ……。


   ん、マーキュリー?
   どうかした?


   ……なんでもない。


   なんでもない?


   ……。


   マーキュリー。


   ……なに、ジュピター。


   キス、しても良いかな。


   ……だめ。


   そっか……然うだよね、ごめん。


   ……したいの?


   うん、あたしはしたいと思ってる。


   ……どうしても?


   出来たら……。


   ……そんな消極的な気持ちなの?


   なら……どうしても。


   然う……なら、仕方ない。


   しても、良い……?


   ……しても、良いわ。


   ……。


   ……気が変わった?


   ううん、変わってない……全然、変わってないよ。


   ……なら、私の気が変わる前に。


   ん……分かった。


   ……。


   マーキュリー……む。


   ……ね。


   やっぱり、だめかい……?


   ……なんだか、落ち着かない。


   落ち着かない……?


   ……名前。


   ……。


   ……今だけは。


   亜美ちゃん。


   ……。


   ……落ち着いた?


   知らない……。


   ……亜美ちゃんも。


   ……。


   呼んで呉れると、嬉しい……。


   ……まこちゃん。


   ……。


   ……顔が、さっきまでとは大違い。


   どう、違う……?


   ……教えない。


   教えて欲しいな……。


   ……しないの?


   するよ……するけど。


   ……しないのなら。


   ……。


   ん……。


   ……。


   ……良かった。


   何が、良かった……?


   ……あなたが、木野まことで。


   え、と……。


   ……さぁ、もう良いでしょう?


   ひとつだけ。


   ……なぁに?


   キス……良かった?


   ……知りたい?


   知りたい……とても。


   ……。


   ねぇ、亜美ちゃん……教えて。


   ……ごめんなさい、教えない。


   あー……。


   ……ふふ。


   亜美ちゃんも、さっきまでとは違う顔をしているね……。


   ……どう、違う?


   それは……。


   教えない?


   ……表情が、柔らかい。


   ……


   本来の名前を呼ぶまでは、マーキュリーの厳しい顔をしていたと思う。


   ……然う。


   でも、今は亜美ちゃんの顔をしてる……。


   ……だって、私は水野亜美だもの。


   うん……然うだよね。


   ……。


   まぁ……良いか。


   ……まこちゃんは、ジュピターとあまり変わらない。


   え……。


   でも……それでも、やっぱりどこか違うの。


   どっちが、良い……?


   ……選ばせないで。


   あ……。


   ……どちらも、私の。


   ごめん……。


   ……でも、前世のジュピターだったら直ぐに選べるわ。


   ……。


   ……悩む余地なんて、全くないの。


   やー……悩まれたら、嫌だな。


   ……然うよね、私も嫌。


   ……。


   ……ふふ。


   はは……。


   ……じゃあ、また後でね。


   うん……ごはんが出来たら、亜美ちゃんって呼ぶから。


   ……分かったわ、まこちゃん。


   ……。


   ……。


   良し……それじゃ、張り切って朝ごはんを作ろうか。


   ……夜に、また。


   ん、何か言ったかい?


   ううん、なんでもないわ。


   何も、言わなかった?


   独り言だから、気にしないで。


   独り言?


   然う、ただの独り言。


   ん、そっか。


   然ういえばね。


   うん?


   ごめんなさい、また後でと言ったのに。


   良いよ、聞かせて。
   明るい話なら、幾らでも聞きたい。


   分かるの?


   亜美ちゃんの表情でね。
   それで、なんだい?


   ……家畜の繁殖が、上手くいっているみたい。


   え、本当かい?


   ええ、本当。


   然うなんだ。それは、ありがたいな。
   おかげで、お肉が食べられる。


   これも、女王が残して呉れたから。


   本当に頑張ったよね、うさぎちゃん。


   ……。


   お、と……だめだな、うっかりして。


   ……此処だけの、だからね?


   うん、分かっているよ。


   ……本人は、本来の名前で呼ばれたがっているけれど。


   威厳というのが、今は大事だから。


   ……。


   けど、どこかで息抜きをさせてあげたいな。


   それは、私も考えているの。
   このままだと、本格的に息が詰まってしまうだろうから。


   ルナはなんて言ってる?


   女王らしくしなさいとは言っているみたいだけど……内心は心配しているみたい。


   んー……。


   ……まこちゃん?


   お茶会が出来たら、良いな。


   お茶会?


   最近、お誕生日だったろう?
   でも、なんだかんだで皆忙しくて、お祝いどころじゃなかったからさ。


   ……あぁ。


   それで、好きなものを作ってあげられたらと思っているんだけど……難しいかな。


   ……調整、してみるわ。


   うん……あたしも、出来るだけのことはするよ。


   ん……お願い。


   ケーキは、何が良いかな。


   ……まこちゃんが作ったケーキなら、うさぎちゃんはなんでも好きだけど。


   チーズケーキでも、作ってみようか。


   チーズケーキ?


   ぱっと頭に浮かんだんだ。
   どうだろう?


   ん、良いと思うわ。
   チーズケーキも、とても美味しいし。


   ん、なら然うしよう。


   ……。


   ちびうさちゃんは、何が良いだろう。
   今、離乳食なんだよね。


   然うね……柔らかいジュレなんて、良いと思うのだけど。


   ジュレか……なるほど。


   りんごは、どうかしら。
   砂糖を使わないで、りんごの甘さを活かすの。


   あぁ、良いね。
   出来れば、味見をして呉れると嬉しいな。


   私が?


   試しに作ってみるから。
   だめかな。


   私で、良ければ。


   では、宜しくお願いします。


   はい、分かりました。


   ん、なんか責任重大だ。


   ふふ、本当ね。


   ……。


   ……。


   ……出来ると、良いね。


   然うね……仮令、何も用意出来なかったとしても。


   ほんの少しだけでも良い……気晴らしに、なって呉れたら。


   ……ええ。


   ……。


   ……。


   家畜小屋……今度、見に行ってみようかな。


   一緒に行く?
   今度、視察に行くつもりなのだけれど。


   良いのかい、一緒に行っても。


   ええ、勿論。
   まこ……いえ、ジュピターの意見も欲しいから。


   然うか……なら一緒に行く、行きたい。


   じゃあ、近くなったら声を掛けるわね。


   うん、待ってるよ。


   ……。


   ……あ。


   どうしたの?


   お腹が、鳴った。


   ……。


   良かった、聞こえなくて。


   ……聞こえたと、言ったら?


   え。


   ふふ……冗談よ。


  1日





   さぁ、召し上がれ。
   熱いから気を付けてね。


   うん……いただきます。


   あたしも、いただきます。


   ……。


   ……。


   ……枝豆、美味しいわ。


   枝豆っておつまみのイメージが強いけど、こんな風に肉と炒めても美味しいんだよね。
   きれいな緑も、ちょっとしたアクセントになるし。


   同じ緑のお豆でも、グリーンピースだと好みが分かれるのよね。


   グリーンピースは食感が大分違って青臭いものもあるから、嫌いなひとから見れば枝豆よりも主張がかなり強めなんだと思う。


   枝豆のように、お肉と炒めても結構美味しいと思うのに。


   あたしのお勧めは、ポークチャップかな。
   ごはんが進む味で、さっと手軽に作れるのもまた良いんだ。


   色合いも、きれいよね。
   ケチャップの赤とグリーンピースの緑で。


   やっぱりね、色合いも大事だからさ。


   ふふ……然うね。


   ごはんと別にしても良いけど、ごはんに直接のせて食べても美味しいんだ。


   お弁当にも入れて呉れたわ。


   うん、亜美ちゃんが気に入って呉れたからさ。


   だって、美味しいんだもの。


   ふふ、だったらまた作っちゃおうかな。


   作って呉れたら、嬉しいわ。


   よし、それじゃあ作ろう。
   豚肉は、疲労回復にも良いからね。


   ……ん。


   ……。


   ……。


   ね、亜美ちゃん。


   ……うん?


   良かったら、あたしの分も食べるかい?


   え?


   枝豆。


   ありがとう……だけど、気持ちだけで。


   然うかい?


   まこちゃんも、ちゃんと食べないとだめよ。
   明日も忙しくなるのだから。


   はい、分かりました。


   ……。


   ねぇ。


   ……なに?


   ごめんね、食べるのを邪魔しちゃって。


   ううん、良いわ。
   それで、なぁに?


   改めて、思ったんだけどさ。


   うん。


   亜美ちゃんって、お箸の持ち方がきれいだよね。
   枝豆も、難なくつまむことが出来るし。


   ありがとう、まこちゃんの持ち方もきれいよ。
   お豆だって、問題なく食べているし。


   亜美ちゃんは、お箸を持つ手もきれいだ。


   ありがとう、まこちゃんの手もきれいよ。


   ん、あっさり。


   言いたかったのは寧ろ、それ?


   んー……どちらも、かな。


   まこちゃんは、お箸の持ち方は誰に教わったの?


   あたしは、両親。
   特にお父さんは、だめな持ち方まで見せて呉れてさ。


   ふふ、楽しそう。


   うん、楽しかったと思う。
   厳しくされたことは、一度もなかったし。


   ……やっぱり、羨ましい。


   ……。


   聞いておいて……ごめんなさい。


   ううん……良いよ。


   ……。


   亜美ちゃんは、誰に教わったんだい?


   ……私は多分、通っていた保育園で教わったのだと思うの。


   多分?


   両親に教わった記憶はないから。


   ……然うなんだ。


   そうそう、私ね。


   ん、なんだい?


   保育園で出されるおやつがあまり好きではなくて。


   例えば、どんなおやつが出たんだい?


   憶えているのは、真ん中にチーズが入っているお煎餅。


   んー、チーズおかきかな。


   確か、然うだったと思う。


   あたしも食べたことあるよ。
   やっぱり、おやつの時間に出たような気がする。


   その頃の私はチーズのにおいが苦手でね。周りのお煎餅は食べられるのだけれど、チーズはなかなか食べ進めることが出来なくて。
   お煎餅と一緒に食べてしまえば良かったのでしょうけど、一口で食べるには大きくて、かと言って二口で食べようとすると、チーズを中途半端に食べることになってしまう。
   だから結局、チーズのところだけいつも残ってしまうの。


   でさ、お煎餅と一緒に食べたところで、チーズの風味の方が強いしね。


   然う、然うなの。


   チーズって独特のにおいがするからさ、小さい頃に苦手なのは分かるんだ。


   まこちゃんは、どうだった?


   あたしはにおいだけでなく、味も苦手だったかな。


   あぁ……分かるわ。


   チーズケーキならいつだって、美味しく食べられたんだけどね。


   ふふ……お義母さまが作って呉れた?


   然う、お母さんの手作りチーズケーキ。
   あたしが喜んで頬張っていると、三時の妖精さんが笑いながら見てるんだ。


   ……今では、まこちゃんが作って呉れる。


   ……。


   ……とても、美味しくて。


   好きかい……?


   ……ええ、好きよ。


   ありがと……お母さんも、喜んでるよ。


   ……然うだったら、嬉しい。


   なんだったら、お父さんもね。


   ……お義父さまも?


   お父さんも、お母さんのチーズケーキが大好きだったから。
   亜美ちゃんも好きだと知ったら……?


   ……私。


   亜美ちゃん……?


   ……まこちゃんの、ご両親と。


   娘がふたりになって、両親は喜んでる。


   ……あ。


   屹度、ううん、絶対にね。


   ……う、ん。


   ん……。


   ……。


   ……チーズ。


   ……。


   今では、サンドイッチの具に欠かせないもののひとつだよね。


   ……ん、然うね。


   でも、チーズおかきのチーズはパンに合わないかも知れない。


   ……。


   ん、亜美ちゃん?


   ……確かに、あのチーズは合わないかも知れないわ。


   そんな真顔で。


   ……チーズにも色んな種類があるものね。


   うん、沢山あるよね。


   だけと、私……あのチーズだけは、未だに食べたいと思わない。


   あぁ……うん、然うだろうと思う。


   ……。


   ところで、そこまで苦手だったのに残すことはしなかったのかい?


   ええ……残してはいけないとされていたから。


   それは、厳しいなぁ。
   食べられない子だって居たろう?


   うん……然ういう子は、食べ終わるまでお部屋の隅に。
   あ、でも、それは給食だったかも。


   どっちにしろ、厳しいよ。
   そんなことをしたら、食べることが嫌いになってしまうかも知れないじゃないか。


   ……それ。


   うん?


   当時の私は、保育園で出される給食があまり好きではなかったの。


   あー……まぁ、然うなるよね。


   土曜日のお弁当だけはちゃんと食べていたけど。


   ご両親が作って呉れたの?


   ううん、お店で買ったもの。
   サンドイッチが多かったわ。


   そっか。


   後になって、母から聞いたのだけれどね。


   うん。


   同じものばかりではなくもっと違うものも食べさせるようにって、先生に言われたんですって。
   だけど私は、その頃からサンドイッチが好きだったから、両親は敢えて持たせていたみたい。
   土曜のお昼が毎週同じだとしても、他が同じだとは限らないから。


   寧ろ、一週間のご褒美みたいで良いと思うな。


   ご褒美……?


   然う、一週間を頑張ったご褒美。
   若しかしたら、本当に然うだったかも知れないよ。


   ん、どうかしら……でも、然うかも。


   ともあれ、然ういう日もなくちゃね。


   お弁当、或いは家での食事なら……無理して食べる必要がなかったから、意識せずに食べられたの。


   だから、食べることを嫌いにはならなかったんだね。


   ……好きにも、ならなかったのだけれどね。


   出逢った頃の亜美ちゃんは、ごはんを食べることよりもお勉強する方が好きだったもんな。
   ふふ、今となっては懐かしいや。


   そんな保育園だったから、お箸の使い方も園児に教えたかも知れないわ。


   ご両親には言われなかったんだね。


   父は兎も角、母に言われたことはないわ。


   マナーは?


   マナーは少し。
   私が、外で恥をかかない程度に。


   ……。


   まこちゃん?


   お義母さんと食事に行く時、慣れないうちは緊張してたなって。
   マナーとか、服装とか。なんせ、行ったことがないようなお店ばかりだったからさ。


   あぁ……母はいつも突然で、まこちゃんを困らせてばかりいたわね。


   困ってはいないんだけど、どきどきはしてたかな。
   慣れたら……いや、やっぱり完全にはなくならなかったかも。


   それを困らせていると言うの。


   ふふ、はい。


   ……まこちゃんはすっかり、母に気に入られて。


   亜美ちゃんがお義母さんに大事にされていたことが分かって、本当に嬉しかった。


   ……。


   ごめん、いい加減食べることに集中しようか。


   ……然うね。


   ……。


   ……日が暮れていくわね。


   うん……もう直ぐ、沈むよ。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   なんだい?


   ほんの少しだけ、部屋の明かりを消してみない?


   え?


   この一瞬の空の色を見る為に。


   あぁ……良いね。


   ……それから。


   それから……?


   ……ううん。


   そっか……明かり、消すよ。


   ……うん。


   ……。


   ……。


   どうだい?


   ……きれい、ね。


   どれ、あたしも……あぁ、きれいだ。


   ……お昼が、夜に溶けてゆく。


   あぁ……もう直ぐ、夜に染まる。


   ……外で、見たいわ。


   外……?


   ……窓枠に、遮られることなく。


   行ってみるかい……と、言いたいところだけれど。


   うん、分かってる……それは、治ってから。


   ……ごはんも食べ終わってないしね。


   ん……。


   ……。


   ……あぁ。


   ……?


   ……。


   亜美ちゃん……?


   ね……まこちゃん、見て。


   どこ……?


   町の、明かり。


   ……あ。


   まだまだ、暗いけれど……でも、それでも。


   ……こちらも、きれいだ。


   うん……本当に。


   ……これも、見たかったのかい?


   ……。


   ……そっか。


   この光を……もっと。


   ……然うだね。


   ……。


   漸く、夜の町に明かりが灯るところまで来た。


   ……これで、安定して呉れれば。


   あともう少しとは、未だ言えないけれど……。


   ……でも屹度、必ず。


   うん……必ず。


   ……。


   ……。


   ……スリープから目覚めた時、目の前にある世界はかつての姿と全く違うものになっていた。


   発電所なんて、当然、なくなっていて。


   ……話には、聞いていたけれど。


   まさに、人類の文明が滅びた後だったね。


   ええ……人類が居ないと、この星はこうなるのだと。


   寧ろ、本来の姿に戻っただけなんだ。


   ん、然うね……緑が、何処までも広がっていて。


   ……昔の地球を、思い出したよ。


   昔……前世。


   ……緑が溢れる星だった。


   ……。


   良かったのか、分からないけれど……。


   ……私達がすべきことは、今の人類がまた、この星で生きていけるように。


   少しでも、手を尽くすこと……女王と共に。


   ……。


   ……。


   ……明かり、そろそろ。


   もう、良いかい?


   ……ん、ありがとう。


   どういたしまして。


   ……。


   ……素麺、すっかり伸びてしまったかな。


   ごめんなさい……私が余計なことを言ったから。


   ううん、あたしも話しかけていたし……おあいこだよ。


   ……鶏肉、香ばしくて美味しいわ。


   皮、上手く焼けたと思うんだ。


   うん……上手に焼けてる。


   ふふ、良かった。


   ……。


   ……亜美ちゃん、食べたら。


   うん……お薬を飲んで、休むわ。


   ……ん、分かった。


   ……。


   蝉、いつの間にか静かになったね。


   ……さっきまで、鳴いていたのに。


   明日になれば、また鳴くさ。


   ……喧しいくらいに?


   まさに、蝉時雨。


   ……ふふ。


   早く、亜美ちゃんと外に行けるように。


   ……。


   行けるようになったら……夕方、ヒグラシの声を聞きに行こう。
   そして夕焼けと、夜に染まる空を見よう。


   ……ミンミンゼミとアブラゼミは?


   それは……暑くない日に。


   ……そんな日、ある?


   多分、ないと思う。


   ……なら、日陰で。


   あと、日傘も必須かな。


   ……帽子も?


   うん、帽子も。


   なら……まこちゃんに貰った緑の帽子を被っていこうかしら。


   うん、あの帽子を?


   ……前のは、無くなってしまったけれど。


   ……。


   新しいのを、貰ったから。