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日記
2025年・4月

  30日





   痒みを伴う赤い斑点だったものが、今朝起きると水疱になっており、刺すような鋭い痛みを感じるようになっていたと。


   ……。


   症状とお話を伺った限り、此の発疹は帯状疱疹のものだと思われます。
   今は未だ拡がっていないようですが、放っておくと躰の片側の神経……躰の中には神経というものが走っているのですが、其れに沿って発疹が帯状のように拡がっていきます。


   ……此れが、拡がるのか。


   水疱はおよそ二週間程で瘡蓋になり、更に一ヶ月程で正常な皮膚に戻ります。
   然し、発疹が拡がってしまうとその分治りは遅くなり、其の痛みで生活に支障を来してしまうようになります。
   眠ることすら、困難に為り得るのです。


   ……眠れぬ程の痛みは、きついな。


   頭部から顔面、頸部……首から腕、腕から胸や背中、お腹、腰からお尻、そして足……程度や進行には個人差があります。
   皮膚の痛みだけでなく、頭痛や発熱、倦怠感など全身症状を生じる場合もあり、場所によっては合併症を引き起こしてしまう可能性もあります。
   また、先程申し上げた通り、発疹は神経に沿って拡がりますので、神経痛が発症する場合もあります。


   ……倦怠感。


   保護の為、患部に綿紗を当てさせて頂きますね。
   替えをお渡ししますので、綺麗な水で患部を洗い流してから取り替えて下さい。
   水洗いは手間だとは思いますが、毎日行って下さい。その方が治りが速いですので。
   水疱はくれぐれも、潰してしまわぬように。


   ……。


   帯状疱疹は、皮膚の症状が治まった後も長期間にわたって痛みが続くことがあります。
   帯状疱疹後神経痛と言うのですが、此れは神経が傷付いたことによって引き起こされるもので、軽く触れただけでも痛みを感じることがあります。


   ……大夫。


   帯状疱疹は、水痘……水疱瘡に罹ったことがないひとにうつる可能性があります。
   特に子供にうつることが多いのですが……ご家族に、水疱瘡に罹ったことがないひとは居ますか居らっしゃいますか?


   ……気怠いと、言っていたが。


   然うですか……でしたら、子供には気を付けるようにしてあげて下さい。
   はい、診せて下さったのが拡がってしまう前だったので良かったと思います。
   神経痛の症状も未だ、見受けられないので……本当に、良かったです。


   ……。


   お薬は炎症を鎮め、浮腫を抑える為に余分な水分を躰の外に出して呉れるものになります。
   食間、若しくは食事前に飲んで……はい、忘れずに飲んで下さい。それと、お酒は治るまで控えて下さい。


   ……。


   暫くは痒みや痛みが続くかと思います。
   どうかご無理はなさらず、疲れも良くありませんので……はい、お大事になさって下さいね。


   ……。


   此れにて、今日の診療は終了となります。
   まことさん。


   ん……終わりかい?


   はい。


   分かった。


   三日後、また診せて下さい。
   良かったら、往診にも参りますので。


   途中まで送ろう。
   あぁ、気にしないで良い。


   はい、どういたしまして。
   どうぞ、お大事に。


   では行ってくるよ、大夫。


   はい、お願いします。
   行ってらっしゃい、まことさん。


   うん。


   あ、まことさん。


   うん?


   患部にはくれぐれも、触れることがないように。
   綿紗を当てているので、そのようなことはないと思うのですが。


   あぁ、分かった。
   気を付けよう。


   はい。


   良し、行こうか。
   あぁ、急がないで良い。ゆっくり行こう。


   ……。


   家族は、どうしている?
   然うか……取り敢えず、酷くないようで何よりだ。


   ……ふぅ。


   此処には真っ直ぐ来たのかい?
   診療所には……あたしと歩いていたのを見掛けた?
   そ、然うか……。


   ……消毒を、しないと。


   ん、此処で良いのか。
   もう少し、付いて行くが……うん?


   ……。


   あぁ、お迎えか。
   ならば、其方の方が良いな。


   ……まことさんは、大丈夫ですよね。


   水膨れには触れぬよう、大夫が言っていた。
   だから、くれぐれも気を付けてやって呉れ。
   うん、また。どうか、お大事に。


   ……水疱瘡は、子供の頃に罹ることが多いですし。


   良し、帰るか。
   帰ったら、朝餉の続きを。


   ……一応、聞いておかなければ。


   然し、あたしの家に真っ直ぐ来たとは……何処で、見られていたんだろう。
   まぁ、結果的には良かったが……うん、良かった。


   ……。


   たいじょうほうしん、だったか……大夫は、大丈夫なんだろうか。
   水疱瘡になっていれば、うつらないと言っていたが……。


   念の為、美奈子ちゃんやうさぎちゃんにも確認しておいた方が良いかも知れない。
   ううん……しておかないと。


   ……。


   ……。


   ……大夫、気怠いと言っていたな。


   まことさん……。


   ……。


   ……。


   大夫。


   ……あ。


   ただいま、今戻ったよ。


   お帰りなさい、早かったですね。


   うん、連れ合いが迎えに来ていたんだ。
   心配そうな顔をして、立っていた。


   連れ合いの方が……それならば、安心したことでしょう。


   と言うより、待っていたのだと思う。


   待って?


   うん、多分だけれどね。


   ……中で、待っていて下されば。


   恐らく、付いて来るなと言われたのだろう。
   うつしてしまうかも知れないと、考えて……大夫、念の為、手は念入りに洗った方が良いだろうか。


   接触はしていないので大丈夫だとは思うのですが、念の為、洗っておきましょう。


   然うか、ならばちょっと行ってくるよ。


   私も参ります。


   あぁ、一緒に行こう。


   戻ってきたら、改めて消毒をしますね。


   消毒?


   はい、帯状疱疹も伝染症疾患には変わりないので。


   然うか、分かった。
   あたしに出来るようなことがあれば言って欲しい。


   ありがとうございます。


   ……。


   ……。


   ……道具と薬、持って来ておいて良かった。


   はい……。


   然し、たいじょうほうしんか……水膨れが躰中に拡がったら、大変そうだ。


   とても大変です……。


   痛みで、眠れないのだろう?


   ……酷くなってしまうと、のたうち回る程の痛みを伴います。


   のたうち、回る……。


   神経痛が数ヶ月から、長いと10年以上残ってしまったり……。


   10年以上は……長いな。


   合併症も、とても恐ろしく。


   ……例えば、どんな合併症があるんだい?


   視力の低下や失明、耳鳴りや難聴、顔面麻痺、腕の麻痺、排尿障害など……。


   ……。


   神経を、傷付けてしまうので……。


   ……神経とは、大事なものなのだな。


   はい……とても。


   ……あれ以上、酷くならないと良い。


   診せて下さったのが、比較的早かったので……帯状疱疹は早めに医生に罹った方が良いのです。
   まぁ、帯状疱疹に限った話ではないですか……。


   ……。


   ……まことさん?


   ねぇ、大夫。


   はい。


   倦怠感があると言っていたけれど……大夫は。


   ……私は、帯状疱疹ではないと思います。


   思う……。


   ……今の所、痒みも痛みも赤い斑点もないので。


   なら、良いが……。


   ……まことさんは、水痘には罹っていますよね。


   え?


   子供の頃に……。


   ……どうだったかな。


   まさか、罹っていない……?


   ……赤いぶつぶつが出来たような憶えはあるが。


   赤いぶつぶつ……それは、痒かったですか。


   ……。


   まことさん……。


   小さい頃……躰が痒くて、掻いていたような気がする。


   汗疹ではなく……?


   あれは……汗疹ではないと思う。


   ……医生には。


   いや……診せてはいない。


   ……。


   それでも、わりと早く治ったと思う。あたし、小さい頃から治りが早くてさ。
   傷でも熱でも、ひとよりも早く治ってしまうんだよ。


   ……然うだとしても。


   ……。


   私には、診せて下さいね。


   ん……分かっているよ。


   ……。


   取り敢えず、あたしは大丈夫だ。
   それよりも、大夫は……。


   ……私は、幼い頃に水疱瘡に罹っているので。


   然うか……なら、大丈夫だな。


   ……ただ、うつらないだけなのです。


   え……。


   水痘菌は水痘が治った後も、躰の中に潜んでいて……加齢や疲労によって、帯状疱疹として発症すると言われています。


   そ、然うなのか……。


   ……はい。


   や、厄介だな……。


   ……本当に厄介ですよね。


   ……。


   ……取り敢えず、良く食べて良く寝て、疲労を溜め込まないにしましょう。


   わ、分かった……然うしよう。


   ……。


   ……。


   ……あの、まことさん。


   え……なに。


   ……あまり考え過ぎないで下さいね。


   う、うん……。


   ……。


   ……。


   ……私は、大丈夫ですから。


   だ、大夫。


   ……なんでしょう。


   体力を、つけよう。


   ……。


   そ、それで、どうにかなるわけではないと思うが……。


   ……ふふ、然うですね。


   ……。


   今は、取り敢えず。


   ……うん。


   手を洗って、朝餉を食べましょう。


   ……うん、然うだね。


   ……。


   ……ねぇ、大夫。


   はい……まことさん。


   大夫は、その……都で、色んな病を見てきたんだよね。


   ……見てきただけで、私なぞはまだまだ若輩者です。


   ……。


   知識だけで、実際に診たことがない病はまだまだあります。
   だから……だからもっと、学ばなければなりません。
   学び続けなければ、ならないのdす。


   ……それは、経験も含まれているおnだろうか。


   はい、然うですね……。


   ……けれど、経験を積むということは。


   それだけ、多くの患者さんと接するということです……。


   ……。


   私では手に負えない……然ういった方と接っすることも、当然のことながら、あるでしょう。


   ……大変な仕事だ。


   どんな仕事も、大変ですから……。


   ……けれど、医生はひとの命と向き合わなければいけない。


   それは……然うですね。


   ……昔のあたしとは、正反対だ。


   ……。


   ……。


   ……戦時中以外にも。


   ……。


   助からなかった命を、老若男女問わず、何度も見てきました。病や傷の他にも……例えば、出産で命を落としてしまう女性。
   妊娠中、どんなに元気であろうとも……出産は、母体に重い負担を掛けてしまう……いえ、妊娠だって、決して軽いものではないのです。


   ……妊娠と出産は、いつの世でも命懸けと言うから。


   はい……まさに、その通りです。


   ……小さな子供は。


   小さな子供は……救えないことが、未だ多いです。


   ……子供は、躰が未だ出来ていないからね。


   いつか……小さな子供が、命を落としてしまうことがないように。
   勿論、小さな子供だけでなく……誰しもが、寿命を全うすることが出来るように。


   ……やっぱり、大違いだ。


   ……。


   あたしとは……。


   ……仮令然うだとしても、まことさんだから守れた命はあった筈です。


   ……。


   まことさん達、防人が命を懸けて戦って呉れたから……今も、此の国はあるのです。


   ……国なんか。


   国がなくとも……ひとのこは、生きていけるでしょう。
   けれど……侵略を許したことで奪われる命は、確実にあるのです。
   数え切れない程の命が、粗末に扱われるかも知れない……。


   ……。


   此の村も……私もどうなっていたか、分かりません。


   ……大夫。


   けれど……けれど、そのせいで、防人の方は……その心に、大きな負担を背負ったと。


   ……。


   ……心を壊した防人の方を、何人も見掛けました。


   酷いもの、だったかい……。


   ……。


   ……然うか。


   まことさん。


   ……。


   こんなこと、言ってはならないかも知れませんが……あなたが生きていて呉れて、此の村に居て呉れて、良かったと。


   ……あたしでも、生きていて良かったのだろうか。


   良いと……思わせて下さい。


   ……。


   ……まことさん。


   抱き締めるのは……手を洗ってからに、しよう。


   ……。


   ……良いだろうか。


   はい……その時は、抱き締めて下さい。


   ……ん、ありがとう。


  29日





   ……はぁ。


   ……。


   ……お水が、冷たい。


   大夫。


   ……え?


   どうぞ、顔拭きを。


   ありがとうございます……だけど、どうして。


   待ち切れずに、迎えに来てしまった。


   ……お魚から目を離して、大丈夫ですか。


   あぁ、大丈夫だ。
   じっくり焼き終わって、今は冷めない程度に火から離してあるから。


   ……あの、まことさん。


   なんだい?


   お魚を焼くのには、一刻くらい掛かるのですよね。


   それくらい掛かる時もあるけれど、今日はそこまで掛かっていないんだ。


   お魚は、畑作業を終えてから獲りに行ったのですか。


   うん、畑を早めに切り上げてね。


   収穫したお野菜は……。


   一度家に戻って置いてから、それから川に。


   ……。


   今日は菠薐草を収穫したから、味噌汁には大根の他に菠薐草も入っているよ。


   菠薐草……。


   あまり好きではないかい?


   いいえ……好きです。


   ん、然うか。


   菠薐草も干すのですか?


   あぁ、干す。
   菠薐草も干しておけば、大根と同じように、冬籠り中でも食べられるからね。


   大事な食糧になるのですね。


   然うなんだ。


   お大根は冬の間、土の中に埋めておく分もあるのですよね。


   あぁ、春になったら食べられるように。勿論、冬籠り中に取り出して食べても良い。
   寒い時期の大根は甘みが増して、煮物にすると美味しいんだ。
   因みに大夫に初めて贈った大根は春の味なんだよ。


   春の味、ですか?


   冬の大根と比べて、春の大根は辛みが少し強いけれど、瑞々しいんだ。


   ……夏は、春のものより辛いのですよね。


   然う、だから辛いのは夏の味。
   味が変われば、料理の仕方も変わってくるんだ。


   ……とても興味深いです。


   然うかい?


   ……もっと、教えて呉れますか?


   あ、あぁ、勿論。


   ……ありがとうございます。


   い、いやぁ……そうそう、菠薐草なんだけれどね。


   ……はい。


   今年は、多めに育てたんだ。


   ……然うなのですか?


   うん……今年は、大夫の分も干すつもりでいるんだ。


   ……私の。


   だから、その……どうか、受け取って欲しい。


   ありがとうございます……お言葉に甘えさせて頂きます。


   う、うん。


   ……。


   大夫?


   ……今日も良いお天気ですね。


   あぁ……然うだねぇ、今日も良い天気だ。


   ……。


   秋から冬の空に変わってきていると思うんだ。


   ……更に高くなってきているのでしょうか。


   それもあるけれど、色が薄くなってきている。


   ……色が。


   夏に比べると大分、ぼんやりと薄く。


   ……あぁ。


   雪が降り始めれば、青い空とは暫くの間会えなくなる。
   だから、今のうちに良く見ておくんだ。春にまた、会えるように。


   ……ならば、私も見ておくことにします。


   うん。


   けれど、今は。


   うん?


   家に戻りましょうか。


   あぁ……ん、然うだね。


   顔拭きは、此処に掛けておけば良かったんですよね。


   うん、其処に。
   然うすれば、乾くから。


   はい。


   ところで大夫、躰は大丈夫そうかい?


   はい、大丈夫だとは思うのですが……。


   ど、どこか悪いかい?


   ……少々、気怠く感じます。


   気怠く……それは、どんな病に当て嵌まるんだい?


   然うですね……躰の気怠さは、風邪の初期症状でもありますが。


   風邪……ゆうべ、躰を冷やしてしまったのだろうか。


   ……けれど、此れは風邪ではありません。


   風邪ではない……?


   ……此の気怠さは、屹度。


   大夫、今日は休んでいた方が……良かったら、あたしの家で。


   ……まことさんは、なんともありませんか?


   あたし?


   はい……躰が重く感じるなんてことはないですか。


   んー……あたしは、ないな。


   起きた時から普段通りでしたか?


   あぁ、普段通りだったと思う。


   疲れも、此れと言ってなく?


   あぁ、此れと言ってないかな。


   ……然うですか。


   大夫……あたしに、何か気になることでも。


   いえ……まことさんは、元気だなぁと。


   ……え。


   体力が、私と違う……矢張り、畑作業をしているからでしょうか。


   え、えと……まぁ、大夫よりはあるかも知れないけれど。


   私も本格的に、躰を動かすようにしないといけませんね。


   んん?


   体操が良いのでしょうか。それとも、お散歩でしょうか。
   始めるとしたら、まことさんはどちらが良いと思いますか。


   そ、然うだなぁ……散歩は、どうだろうか。


   お散歩ですか……因みに、どうして然う思うのですか。


   体操でも、良いと思うが……散歩は、村の中を歩くことになるだろう?


   はい、然うなるかと思います。


   村の中を歩けば……然う、皆と会う機会が増えると思う。
   大夫は往診に行くことはあるけれど、皆の日頃の様子を見ることはあまりないと思うんだ。


   然うですね、あまりないかも知れません。


   皆の様子を見れば……その、なんと言うか。


   はい。


   然う、調子、皆の調子も見ることが出来る。


   調子……ですか。


   散歩を続ければ、大夫ならば、皆の調子の変化に気付くかも知れない。
   然うすれば、例えば、調子を崩してしまわぬように助言が出来ると思うんだ。


   成程……それは、良いかも知れませんね。


   雨の日は体操で良いと思う。が、晴れや曇りの日は外で散歩するのが良いと思う。
   外の空気を吸えるし、風に当たることも出来る。気分を変えることだって出来るかも知れない。


   ……。


   だ、駄目だろうか。


   ……問題はお散歩の間、診療所を空けてしまうということです。


   あ。


   自分で、お散歩と言っておきながら……あぁ、でも。


   で、出来そうな時にすれば良いと思う。
   あたしと、一緒に。


   ……まことさんと?


   い、いつもは無理かも知れないが……。


   ……まことさんと。


   あ、朝でも、昼でも、いつでも良い。


   ……。


   ど、どうだろうか。


   ……思いつきました。


   え。


   お散歩に行けそうな時は、まことさんに会いに行けば良いのです。


   あ、あたしに?


   まことさんの畑と診療所を往復することは、距離も時間も丁度良いと思うのです。
   ね、まことさんも然う思いませんか?


   あ、あぁ……まぁ、良いと思う。


   然うすれば……往診の帰り以外でも、あなたに会うことが出来ます。


   ……。


   いつも、まことさんに来て貰ってばかりだから……私からも、会いに行きたいと。


   い……。


   ……嫌でしょうか。


   い、いつでも、来て欲しいっ。


   ……。


   そ、それで、少しあたしと歩こう。


   ……ふふ。


   あ、そ、それはだめかな。


   ……どうしても、私とお散歩がしたいのですね。


   し、したい。
   一緒に歩きたい。


   ならば……お散歩が出来そうな時は、一緒に。


   お、応。


   ……。


   ……大夫と、散歩。


   考えてみれば。


   ……ん?


   私、今は診療所に居ないんですよね。


   ……然う、だね。


   まことさんの家に居ると、張り紙をして……。


   ……。


   ……今まで、たまたま、誰も来ることはありませんでしたが。


   あぁ……。


   ……夜に、患者さんが来るようなことがあれば。


   あたしに構わず、診てあげて欲しい。


   その時は……若しかしたら、まことさんを起こしてしまうかも知れません。


   そんなことは、問題ではないよ。大事なのは、患者さんを診てあげることだ。
   あたしに出来ることはあまりないだろうが、出来ることがあれば、何でも言って欲しい。
   診療所に必要なものがあるのならば、夜中だろうが、走って取って来よう。


   ……。


   大夫は医生なんだ。
   その務めを果たさなければ。


   まことさん……。


   その為に、あたしが妨げになってはいけない。


   ……あなたで、良かった。


   大夫……。


   ……。


   ……大夫、足元に気を付けて。


   はい……まことさん。


   ……。


   ……あぁ、朝餉の良い香り。


   うん……。


   ……ねぇ、まことさん。


   なんだい……?


   ……私は、寝坊をしてしまったけれど。


   ……。


   それでも……良い朝だと、思っても良いでしょうか。


   あぁ、勿論だよ……。


   ……。


   本当に、良い朝だ……。


   ……はい、とても。


   さぁ、座って……大夫。


   ……はい。


   ……。


   ……お魚。


   良く焼けているだろう……?


   良く焼けていて……とても美味しそうです。


   ん……。


   ……二匹、獲れたのですね。


   あぁ、都合良くね……。


   ……下拵えは。


   二匹だから、なんてことはないさ……大夫、先ずはお粥を。


   はい、ありがとうございます……。


   ……それから、味噌汁。


   はい……。


   そして……漬物。


   ……はい。


   魚は皮ごと食べられるけれど、好きなように食べて欲しい。


   ……分かりました。


   今、お茶を淹れる……先に、食べていて。


   いえ……待っています。


   ……。


   あなたと、いただきますをしたいから。


   大夫……ん、分かった。


   ……。


   ……はぁ。


   まことさん……?


   や……本当に良いなぁって。


   ……。


   大夫が居る朝……大夫と過ごす朝……とても、しあわせな時間だ。


   ……私も、然う思います。


   ありがとう……大夫。


   ……どうしてですか。


   しあわせを分かち合えているようで、嬉しいと思ったから。


   ……。


   然う言えば、大夫。


   ……なんでしょう。


   体調は、大丈夫なのかい?
   気怠いと言っていたけれど……。


   ……大丈夫と言えば、大丈夫です。


   それは……大丈夫なのかい?


   ……。


   大夫……体調が良くないのなら、無理はしない方が。


   ……平たく言えば、疲れが残っているだけです。


   疲れ……?


   ……ゆうべの。


   ……。


   ……。


   ……あぁっ。


   ですので……大丈夫です。


   あ、あの……済まない、やり過ぎて。


   ……まことさんの分を、よそっても良いですか。


   え、あたしの……?


   ……いけませんか。


   い、いけなくはない、お願いするよ。


   ……では。


   ……。


   ……私が、望んだ結果だから。


   望んだ……?


   ……だから、謝らないで。


   ……。


   ……でも、暫くは控えたいと思います。


   あ、うん……。


   ……。


   ……はい、大夫。


   ありがとうございます……此方も終わりました。


   ん……ありがとう。


   ……ふふふ。


   な、なんだい?


   まことさん……なんとも言えない顔をしているので。


   あー……はは。


   ……まことさんは、残っていないんですものね。


   そ、然うなんだ……。


   ……違うものなのでしょうか。


   な、何がだい……?


   ……。


   だ、大夫……?


   ……体力。


   た、体力……?


   ……。


   え、と……今日は、散歩は。


   ……今日は、ちょっと。


   そ、然うか……まぁ、然うだよね。


   ……。


   た、食べようか。


   ……はい、食べましょう。


   い、いただきます。


   ……いただきます。


   ……。


   ……。


   ……体力は、躰を動かしていれば、自ずとついてくるものだから。


   ……。


   そ、そんなに、気にしないでも良いと思うんだ……。


   然うですよね……成る可く、続けたいと思います。


   ……。


   ……ん、今朝も美味しいです。


   ん……良かった。


  28日





   ……


   ……。


   はぁ……。


   ……。


   ……ん?


   ……。


   なんの、においかしら……なにかが、やけるような。


   ……。


   ねぇ、まことさん……まことさん?


   ……大夫?


   え……。


   目が覚めた?


   ……まことさん、どうして。


   そろそろ声を掛けようと思って、様子を見に来たんだけれど……起きているようで、良かった。


   ……。


   お早う、大夫。
   着替えは、枕元にたたんで……。


   ……どうして。


   うん、なんだい?


   ……わたし。


   若しかして……体調が、良くない?


   ……ううん。


   起きられそうかい……?


   ……。


   若しも、起きられそうにないのなら……今日は、此処で。


   わたしは、へいき……それよりも。


   うん……?


   このにおいは、なぁに……?


   ……におい?


   このにおいで、めがさめたの……。


   あぁ……此のにおいは。


   ……なにか、やいているような。


   大夫……今朝は、焼き魚だよ。


   ……やきざかな?


   昨日仕掛けておいた筌に、石斑魚が入っていたんだ。
   今、塩焼きにしているから、起きて支度が済んだら茶の間においで。


   ……あぁ、だから。


   今日の朝餉は、石斑魚の塩焼きと大根粥、大根の漬物、それから大根の味噌汁。
   石斑魚が獲れるなんて、なかなか運が良い。おかげで朝からご馳走だ。


   ……うぐい。


   大夫が居て呉れたから、獲れたのかも知れない。


   ……。


   えと……大夫は、石斑魚は知っているかい?


   ……きいたことは。


   食べたことは、あるかい?


   ……ないと、おもいます。


   然うか……ならば、楽しみにしていて欲しい。


   ……おいしいのですね。


   これがまた、とても美味しい。


   うぐいは……いまが、しゅんなのですか。


   石斑魚は一年中獲れるのだけれど、今頃の時期から春にかけて獲れる奴は脂が乗っているから、特に美味しいんだ。


   ……なつにとれる、うぐいは。


   夏あたりに獲れる奴は、食えるけど少し泥臭い。
   子供らは、嫌がるかな。鼻がとても敏感なんだよ。


   ……。


   大夫……?


   ……やきざかなの、いいにおいがします。


   はは、だろう?
   あたしは、石斑魚は塩焼きにするのが一番好きなんだ。


   ふふ……そうなのですね。


   大夫も気に入って呉れたら、嬉しいと思う。


   ……きっと。


   屹度……?


   ……気に入ると、思います。


   うん……然うだと、良いな。


   ……ん、まことさん。


   大夫……診療所には、朝餉を食べてから行くのだろう?


   ……はい、そのつもりです。


   ん、分かった……行く時は、送ろう。


   ……ありがとうございます。


   うん……。


   ……。


   あぁ、良い朝だな……。


   ……あさ。


   こんな朝が、ずっと……。


   ……。


   ん……石斑魚も、良い塩梅に焼けてきたみたいだ。


   ……あっ。


   えっ?


   あ、あぁ……。


   ど、どうした?


   わ、わたし……。


   大夫?


   ……つくると、いったのに。


   あ、若しかして、起こした方が良かったかい?
   未だ、時間はあると思ったのだけれど……。


   あさごはん。


   ……え?


   わたし……ゆうべ……つくると。


   あ、あぁ……なんだ。


   ごめんなさい、まことさん。


   良いよ、気にしないで。


   だ、だめです、良くはありません。


   大夫、今朝は良く眠っているようだったからさ。


   それでも、起きなければいけなかったんです。


   ……。


   いけなかったのに……。


   ……ゆうべは。


   ……。


   その……やりすぎて、しまった気がするから。
   だから……声を、掛けられなかったんだ。


   それならば、まことさんだって……。


   あたしは……起きられたから。


   ……無理を、したのでは。


   いや、無理はしていない。
   いつものように起きて、支度をしたから。


   ……いつもの、ように。


   本当に良いんだよ、大夫。


   ……。


   今朝はあたしが作ったけれど……次は、大夫が作って呉れるかも知れないだろう?


   ……がっかり、しませんでしたか。


   がっかり?


   畑から、帰って来て……何も、支度されていなくて。


   ……がっかりなんか、していないさ。


   次は、必ず作ります……。


   大夫……。


   ……でも、今朝も作りたかったんです。


   そんなに……。


   ごめんなさい、まことさん……まことさんは早くから起きて、畑作業をしているのに……私ときたら……お布団の中で……眠りこけていて……。


   ……。


   ……まことさんが、居ないことに。


   大夫。


   ん……まことさん。


   ……気持ち良さそうに眠っている大夫を見ていたら、とてもしあわせな気持ちになった。


   ……。


   だから……謝らないで欲しい。


   ……でも。


   畑に出掛ける前、今みたいにそっと大夫の頬に触れたんだ……そしたら、か細い声が小さな唇から漏れてね。
   起こしてしまったかと思って、慌てたのだけれど……また、寝息を立て始めて。


   ……その時に、目が覚めていたら。


   その様が……本当に、愛おしくて。離れ難いと、心から思った。
   布団に戻りたいとさえ、思ったんだ。


   ……せめて、行ってらっしゃいと言えたら。


   大丈夫……ちゃんと、聞こえていたよ。


   ……そんなわけ、ありません。


   あたしの耳には、ちゃんと聞こえたんだ……。


   ……ん。


   だから……眠る耳元にそっと唇を寄せて、行ってきますと返したんだ。


   ……。


   ねぇ、大夫……どうか、自分を責めないで欲しい。
   あたし達の朝は……何も、今日だけではないのだから。


   ……然うだとしても。


   こ、此れからも、共に迎える朝はある……。
   それも、何度も……そ、然うだろう?


   ……けれど、今日は今日しかありません。


   然うだけれど……。


   ……。


   然うだ、今日はあたしの番だったということにしておかないかい?


   ……番?


   今朝の朝餉は、あたしが作る番。
   それで、次の朝は……。


   ……私の、番。


   然う……大夫の番だ。


   ……それで、あなたは良いのですか。


   あぁ、良いよ。


   ……若しも、次の朝も。


   その時は……その時だよ。


   ……そんなの、だめです。


   だめかな……。


   ……お願いです、私を起こして下さい。


   起こす……?


   自分で起きなければいけないことは、分かっています……でも、若しも、起きない時は。


   折角良く眠っているのに、起こすのは……忍びない、と。


   ……行ってらっしゃいと、お見送りしたいの。


   あたしは、大夫が家に居て呉れるだけで十分なんだ。
   家に帰れば、大夫が居て呉れる……然う、思うだけで。


   ……どうしても、したいのです。


   ありがとう、大夫。
   あたしはその気持ちだけで


   あと。


   ……。


   あなたが居ないお布団で……ひとりで、目覚めるのは嫌なの。


   ……あ。


   だから……お願い、起こして。


   ……分かった、次は声を掛けるよ。


   掛けるだけでなく……。


   ……。


   ……。


   ……?
   大夫……?


   ……ごめん、なさい。


   え、どうしてだい……?


   今の私……我侭を、言っていますよね。


   いや、我侭なんか言っていないよ。


   起きなかった自分のこと棚に上げて……聞き分けのない、ことを。


   ……。


   ……ごめんなさい……ごめんなさい……。


   ねぇ、大夫。


   ……こんな、私。


   ごはんを、食べよう。


   ……ごはん?


   支度をして……あたしと、ごはんを食べよう。
   そして、今日を始めよう。


   ……。


   先ずは、着替えて……それから、顔を洗って。
   その間にあたしは、朝餉の支度を進めておくから。


   ……。


   さぁ、大夫……。


   ……お願いが、あるんです。


   お願い……?


   ……此の期に及んで、と、自分でも思います。


   構わない……言ってみて。


   ……。


   なんだい、大夫……。


   ……名前で、呼んで。


   名前で……?


   ……どうか、名前で。


   うん……亜美さん。


   ……。


   お願い……他にはあるかい?


   ……もう。


   あるのなら、言って欲しい……。


   ……。


   聞きたいんだ……。


   ……抱き締めて。


   ……。


   ……抱き締めて、下さい。


   分かった……抱き締める。


   ……。


   ……改めてお早う、亜美さん。


   お早うございます……まことさん。


   ……。


   ……それから、お帰りなさい。


   うん……ただいま。


   ……。


   ……。


   ……ありがとうございます。


   ん……もう、良いのかい?


   はい……起きて、朝の支度を始めないと。


   然うか……。


   ……それと。


   ん……?


   ……お魚、大丈夫ですか?


   あぁ……大丈夫だよ。


   ……焦げませんか。


   塩を塗して、熾火で焼いているから大丈夫だ。


   ……熾火。


   ゆうべ、熾火を作っておいて良かった。
   おかげで、直ぐに取り掛かることが出来たよ。


   ……熾火で、お魚も焼けるのですね。


   うん、焼ける。


   ……熾火だと、焦がすことはないんですか。


   まぁ、塩も塗してあるし、直ぐに焦げるようなことはない。


   ……はい?


   なので、そろそろ戻ろうかと思う。
   大夫を見に来る前に引っ繰り返したから、大丈夫だとは思うが。


   ……矢張り、そのままだと焦げてしまうのですね。


   ずっとそのままだと、焼き過ぎてしまうことはあるかな。


   ふふ……ならばどうぞ、戻って下さい。


   あぁ、然うしよう。
   と言っても、直ぐ隣なのだけれどね。


   支度を済ませたら、直ぐに行きますね。


   うん、待っているよ。


   ……はい、まことさん。


   良し、それじゃあ。


   ……ね、まことさん。


   ん?


   ……若しも、熾火がなかったら。


   火を熾すところから始めなければいけなかった。
   あれは、なかなかの手間なんだ。


   ……あれは、手間ですよね。


   大夫も、やらかしたことがあるかい?


   ……慣れない頃に、何度か。


   ふふ、然うか。


   ……今でも、たまに。


   慣れるには、もう少し掛かるかも知れないね。


   ……自分でも然う思います。


   まぁ、仕方ないさ。
   都での暮らしの方が長いし、全く違うのだろうから。


   ……。


   だけど、若しも。


   ……?
   若しも……?


   若しも、あたしとふたりで暮らすようになれば。


   ……あなたと、ふたりで。


   然ういうことは……減るかも、知れない。


   ……熾火を絶やすこと、ですか。


   うん……。


   ……まことさんにして貰うばかりになりそうです。


   あたしとの暮らしが、長くなれば。


   ……。


   大夫なら、大丈夫だ……寧ろ、あたしがして貰うばかりになってしまうかも知れない。


   ……そんな、こと。


   ないとは、言えない。
   ゆうべだって、大夫が気にして呉れただろう?


   ……。


   それじゃあ……大夫。


   ……はい、引き留めてしまってごめんなさい。


   ううん、良いんだ。


   ……。


   さ、お茶を淹れる支度でもしようか。


  27日





   ……ご馳走様でした。


   もう、良いのかい……?


   ……はい。


   お茶のお代わりは、どうする……?


   ありがとうございます……けれど、もう。


   ん、然うか……分かった。


   ……まことさんは、良いのですか。


   あたしも、もう良い……腹が鳴ることも、朝までないだろう。


   ……朝。


   朝になれば、また腹は減る……。


   ……朝餉は、早朝の畑作業の後に食べているんですよね。


   あぁ、然うだよ……起きたら支度をして、先ずは畑に行くんだ。
   朝餉は、戻って来てから食べる……食べ終わったら、次の作業に備えて休むんだ。


   ……ずっと、然うして来たのですよね。


   然ういうものだとして、生きて来たからね……此れからも、それは変わらないだろう。


   思っていたのですが……作業中に、お腹は空かないものなのですか。


   いいや、少しは空くものだよ。


   ……。


   けれど、躰が慣れてしまっていてさ……少しくらいなら、全く苦にならないんだ。
   作業が一段落した時に、あぁ今日も腹が減ったなぁって改めて思うくらいかな。


   ……少しでは、なかったら。


   そんな時は無理をしない、一旦作業を止めて家に戻る……が、今は然ういうことはほとんどないよ。


   ……ほとんどと言うことは、たまにはあるのですよね。


   まぁ、本当にたまにだけれどね。
   年に一度、あるかないかくらいかな。


   ……帰って来てから、朝餉の支度をするのは大変ではありませんか。


   んー、然うだなぁ……それも朝の流れのひとつとして馴染んでしまっているから、大変だとは思わないかな。


   ……積み重ね、でしょうか。


   まぁ、然うだね……長年やっていると、躰がすっかり然ういうものになってしまうんだ。


   ……防人、だった頃は。


   ……。


   ……ごめんなさい。


   いや……防人だった頃は、食える時に食っていた。


   ……。


   朝も、昼も、夜も……兎に角、食える時に食っておく。
   ひとたび戦に出てしまうと、三度食えることは先ず有り得ないとされていたんだ。
   実際、まともな糧食にありつけたことなんて、ほぼなかったな。


   ……戦に、出ていない時は。


   あたしが防人だった頃に、そんな時はほぼなかった。
   あたし達防人は、戦の為の駒に過ぎなかったからね。


   ……。


   ……あの戦は、長く続いたろう。


   はい……とても。


   ……。


   まことさん……?


   ……食うものは基本、現地調達とされていた。


   現地調達……。


   ……分かりやすく言えば、掠奪だよ。


   ……。


   とは言え……掠奪出来る程蓄えがある場所なんて、然うあるものではなかった。
   なんせ、奪われた領地を取り返しに行くことの方が多かったから……相手方に蓄えがなければ、どうしようもないんだ。
   民のものは、奪えない……奪っては、ならない。


   ……聞いたことが、あります。


   なんて……?


   ……。


   大夫……?


   ……食べるものがなくて、共に戦った者の。


   あぁ……然ういうことも、あったみたいだな。


   ……まことさんは。


   あたしは……。


   ……。


   ……あたしは、食わなかった。


   然う、ですか……。


   ……。


   ……ごめんなさい。


   いや……良いさ。
   大夫も、大変だったろうから……。


   ……私は。


   衛生部隊も、食うに困っていると……そんな話を、耳に挟んだことがある。


   ……それでも、現地調達ではありませんでしたから。


   ……。


   ……少なくとも、掠奪は行われませんでした。


   あぁ……。


   ……。


   大夫……聞きたいことが、あるのだけれど。


   ……何でしょうか。


   ……。


   まことさん……。


   ……いや、止めておく。


   ……。


   それより……話を、今に戻そう。
   良いかい……?


   ……はい。


   朝餉のことなのだけれど……馴染んでいるとは言え、それでもたまに作るのが億劫な時があるんだ。


   ……そんな時は、どうするのですか?


   取り敢えず、大根があれば大根を齧る。


   ……お大根を?


   生で食えるからね。
   但し、そのまま食べると皮が苦い。


   何か、付けるのですか?


   いや、そのまま齧る。
   塩も味噌も、何も付けずに。


   ……はぁ。


   はは、驚いているね。


   ……いえ。


   大根を生で齧りながら、暫く休んでいると……さて、やるかなって、思えるようになるんだ。


   ……思えるように、ならなかったら。


   それが不思議なことに、思えなかったことがないんだ。


   ……お大根が、なかったら。


   漬物を齧る。


   ……漬物。


   漬物はまぁ、年中あるから。


   ……。


   漬物を齧ると、飯が食いたくなる。
   それで、やろうかなと思える。


   ……はぁ。


   はは、先刻と同じ反応だ。


   ……体調が良くない時は、どうするのですか。


   そんな時は、ほぼないが……あったとしたら、寝ているだろう。


   ……何も、食べずに。


   まぁ、大根粥くらいは作れるから。


   ……。


   大丈夫だ……あたしが、倒れることなんてないよ。


   ……私に、出来ること。


   うん……?


   ……取り敢えず、あなたの朝ごはんを作っても良いでしょうか。


   え……。


   ……あなたの家に泊った、次の朝の。


   それは……嬉しい、けれど。


   あなたが畑から戻って来た頃に、食べられるように。
   成る可く、成る可く、支度を整えておきます。


   そ、そんなことをして貰っても、本当に良いのかい……?


   したいと、思ったんです。


   けれど、大夫も朝は忙しいだろう?
   診療所に戻って、診療の支度もしないといけないし。


   診療の支度の中には、朝餉も含まれています。


   然う、なのか……。


   然うです。
   私も……たまに抜くことはありますが、


   ちょっと待った。


   ……はい?


   今、たまに抜くことがあると言ったね?


   ……。


   それは、朝餉のことで違いない?


   ……違いません。


   それは、良くない。


   ……抜くと言っても、たまにですから。


   朝餉を食わなくては、一日の活力は生まれない。


   此れでも、都に居る頃よりは食べるようになったんです。
   まことさんから、お野菜を頂くようになって……。


   どれくらいの頻度で抜くことがあるんだい?


   今は、私のことではなく、


   いや、大事なことだ。


   今はまことさんの、


   亜美さんの朝餉も大事だ。


   ……。


   あたしの朝餉よりも、先ずは自分の……?


   ……。


   大夫……?


   ……今、亜美さんと。


   え?


   ……名前で、呼んで呉れましたね。


   ……。


   ……お布団の、外で。


   呼んだ、が……。


   ……あまり、外で呼んで呉れることがないので。


   そ、それは……。


   ……。


   そ、それより……。


   明日の朝餉は、何が良いですか。


   あ、や……。


   ……まことさんのようには、作れないけれど、それでも。


   だ、大夫が作って呉れるものは、どれも美味しいよ……。


   ……。


   じゃ、じゃあ、粥を……。


   ……お粥ですね。


   あ、あとは、然うだな……味噌汁を、お願いしても良いかな。


   分かりました。
   お粥の味は、何が良いでしょうか。


   えと……味噌汁があるならば、塩で。


   ……。


   あ、あの、忙しかったら……。


   ……作って、待っています。


   あ。


   ……まことさんの、お帰りを。


   ……っ。


   此の家で、待っていますから。


   あ、亜美さん……っ。


   ん……まことさん。


   た、楽しみに、してる……や、しても、良いだろうか。


   ……はい、していて下さい。


   う、うん……。


   ……少しずつ。


   亜美さん……。


   少しずつ……あなたに、返して行きたい。


   ……。


   私が出来ることを、探して……ひとつでも、多く。


   ……ありがとう。


   ……。


   ありがとう、亜美さん……。


   ……あの、まことさん。


   なんだい……。


   ……返して行きたいと言った傍から、なのですが。


   うん……。


   ……お料理を習っても、良いでしょうか。


   え……?


   ……あまりお料理をしてこなかったので、その、作れるものがあまり。


   ……。


   あ、でも、お粥とお味噌汁くらいなら……?


   ……ふはっ。


   ……。


   分かった、あたしが教えられるものなら……。


   ……お願いします。


   う、うん……。


   ……もぅ、そんなに笑わなくても。


   ごめん……大夫が可愛くて、つい。


   ……。


   ……?
   大夫……?


   ……名前で良いのに。


   うん……なんだい?


   ……なんでもないです。


   然うかい……?


   ……はい。


   んー……。


   ……何ですか。


   そろそろ、良いかなって。


   ……何が、ですか。


   後ろから、抱き締めても。


   ……。


   良いかい……?


   ……良いですよ。


   ん……それなら。


   ……。


   ……よいしょ、と。


   ……。


   それから……布団を。


   ……。


   大夫……寄り掛かって。


   ……。


   さぁ……。


   ……ん。


   ……。


   ……。


   ……ん、此れで良い。


   まことさん……寒くはありませんか。


   あたしは、大丈夫だ……大夫は?


   ……私も大丈夫、とても暖かいです。


   お腹は、どうだい……?


   ……お腹?


   食べたものは、落ち着いてきたかい……?


   ……はい、大分。


   然うか……矢張り、粥は良いな。


   ……まことさんは、どうですか。


   あたしも、大分。


   ……然うですか。


   熾火……未だ、眺めていたいかい?


   いえ……もう大分、眺めていましたから。


   ……ならば、もう少しこうして。


   ……。


   それから……。


   ……まことさん、熾火に灰を掛けても良いでしょうか。


   ん、良いけれど……。


   ……ねぇ、まことさん。


   ん……?


   ……そろそろ、戻りましょう。


   ……。


   お布団に……。


   ……けれど、もう少しこうして。


   戻りたいんです……。


   ……。


   戻って……続きを。


   ……。


   ぁ……。


   ……しよう、大夫。


   ……。


   ……。


   ん……此処では、だめ。


   ……分かってる。


   だめ……まことさん。


   ……。


   ……や。


   ……からだが、あつい。


   まことさんの、手の方が……。


   ……熾火みたいだ。


   おき、び……。


   ……触れると、とても熱くて。


   あ……あぁ。


   ……中は、赤々としている。


   まこと、さん……。


   ……もっと。


   おふとん、に……。


   ……。


   ここ、では……。


   ……あぁ、行こう。


   ……。


   行って……続きを。


  26日





   ……。


   ん……此れくらいで良いだろう。


   ……。


   はい、大夫。


   ……ん。


   熱いから、気を付けて。


   ……ありがとうございます、まことさん。


   未だ、残っているから……足りないようだったら、遠慮なく、言って欲しい。


   寝るお腹ですから……此れくらいで、十分だと思います。
   淹れて下さったお茶も、ありますし……。


   ……然うか。


   お気遣い、いつもありがとうございます。


   なに、あたしは当たり前のことをしているだけだから。


   ……お大根の葉が、きれいですね。


   きれいだけでなく、味も美味いだろう……?


   ふふ……はい。


   ……大根の葉を。


   ……?
   まことさん……?


   ……大根の葉をきれいだと言って呉れたのは、大夫が初めてだ。


   あ……。


   漬物やら、嵩増しやら……食うことしか、考えていなかったからさ。


   ごめんなさい、私……。


   ん……どうして、謝るんだい?


   ……若しかしたら、無神経だったかも知れないと。


   謝らないで欲しい……あたしは、嬉しかったのだから。


   ……。


   己が育てた大根が、きれいだと……想いびとに、言って貰えて。


   ……まことさん。


   それに……都の大根よりも、美味しいとも。


   はい……味も色も、全く違うと思います。


   はは……嬉しいなぁ。


   ……。


   さぁ、どうぞ……大夫。


   はい……頂きます。


   うん……。


   ……良い匂い。


   さて、あたしも。


   ……。


   と……危ない、零すところだった。


   ……ん、美味しい。


   美味しいかい?


   ……はい、とても。


   塩の加減は、どうだろう?


   ……丁度良いです。


   然うか、良かった。


   ……まことさんのお大根はお粥にしても、美味しいです。


   ありがとう……嬉しいよ。


   ふふ……はい。


   残った米と大根、それと大根の葉……塩で味付けて、粥にする。
   手軽だけれど、寝るだけの腹には丁度良いんだ……。


   ……。


   大夫……?


   ……ねぇ、まことさん。


   なんだい……?


   ……こんなことを言ったら、可笑しいと思われてしまうかも知れませんが。


   思わないよ。


   ……。


   思わないから……言って欲しい。


   ……夜の、お勉強の合間に。


   うん……うん?


   皆は……何かしら、食べていると。


   ……お勉強って。


   あ、ごめんなさい……私が未だ、学生だった頃の話です。


   あぁ、然うか。


   ……ほとんどの学生は、お勉強の合間にお粥やおにぎりなどを良く食べていたそうです。


   大夫は、食べていなかったのかい……?


   はい……時間が惜しいと、いつだって思っていたので。


   ……時間、か。


   考えてみれば、皆には、作って呉れるひとが居たから……然う、出来たのかも知れないと。
   自分で作るとなると、お勉強の時間を削らなくてはいけませんし……食べるにも、時間が必要で。


   ……大夫。


   羨ましいと言うわけではないのです……私はそもそも、食べなくても平気でしたから。


   ……けれど、どんな時でも腹は減るものだよ。


   然うなのですよね……気が付くといつも、空腹状態になっていました。


   ……腹が減っては勉強も出来ぬ、だ。


   然うなんです……ふらふらになってしまうと、お勉強どころではなくて。


   ……空腹であれ、倒れてしまったら、何も出来なくなってしまうだろう。


   ……。


   若しかして……倒れたことが、あるのかい?


   はい……何度か、あります。


   何度か……。


   ……それでも、私は考えを改めませんでした。


   ……。


   ……思えば、贅沢な話なんです。


   贅沢……?


   ……私は、食べようと思えば食べられる環境に身を置いていたのですから。


   ……。


   作るのが手間ならば、買いに行けば良い……けれど、それすらも惜しんで。


   ……買いに行くのも、手間だと。


   兎に角、時間が惜しくて……私には、お勉強しかなかったから。


   ……。


   医生になった、今でも……。


   ……いや、今は違う。


   ……。


   今は、お勉強だけではない……あたしは、然う思っている。


   まことさん……。


   ……粥が食べたければ、遠慮などせずに言って欲しい。


   ……。


   粥は夜、何かしらの合間に食べても丁度良いと思う……いや、丁度良いから、皆は食べていたのだろう。


   ……小腹が空いた時などに、軽く食べられるのが良いそうです。


   食べ過ぎなければ、腹が重くなることもない……良かったら、いつでも作ろう。


   ……いつでも、だなんて。


   いつでも、作る……勉強の合間でも、読書の合間でも。
   夜でなくても良い……それこそ、診療の合間にだって。


   ……。


   味は、塩が良いかい……?


   ……お塩。


   他にも、味噌があるが……。


   ……お塩も、美味しいです。


   ……。


   だけど……お味噌のお粥も、美味しいんです。


   ならば……塩か味噌か、今宵はどちらが良いかと聞いてから、作ることにしよう。


   ……。


   大夫はもう、ひとりではないよ。


   ……はい、まことさん。


   うん……。


   ……まことさんが作って呉れるお粥は、いつだって優しい味がします。


   ありがとう……大夫。


   ……私の方こそ。


   ねぇ、大夫……。


   ……はい。


   粥以外のものも、作ろうと思うのだけれど……何が良い?


   ……お粥以外、ですか。


   粥以外だと、皆は何を食べていたんだい……?


   然うですね……お粥以外だと矢張り、おにぎりでしょうか。


   おにぎり……握り飯か。
   他は、何かあるかい……?


   あとは……烏冬。


   う……ごめん、もう一度良いかい?


   烏冬……です。


   ……う、どん?


   はい……温かい烏冬に、唐辛子の粉を入れて食べるそうです。


   うどん……あぁ、烏冬か。
   昔、何度か食ったことがあるな……。


   柔らかくなるまで、茹でると……お夜食に、丁度良いそうで。


   確かに、あれは良い……腹にも、優しかった気がする。


   ……此の村では、食べられていませんよね。


   此の村では、食べないな。
   食べたことがある者も、あまり居ないだろう。


   ……。


   食べたいかい……?


   ……いえ。


   若し良かったら、作ってみようか。


   ……え。


   防人の頃に……所属していた隊の隊長が、何度か作って呉れたことがある。
   その時に、作り方を教わった……と言うより、手伝わされたんだ。
   だから、作ろうと思えば作れるかも知れない。


   防人の頃に……。


   材料は……確か。


   ……面粉です。


   然う、面粉。町に行かなければ手に入らないが、冬が終わって春になればまた行商が来る。
   持って来ていないか、聞いてみよう。持って来ていたら、その時は分けて貰おう。


   ……。


   上手く作れるかは、分からないが……作れなかったら、申し訳ない。


   ……あの、若し良かったら。


   ん?


   ……水団、を。


   すい、と……?


   ……面粉にお水を入れて捏ねて、お団子のように丸くして。


   団子……。


   ……お野菜やきのこなどと一緒に汁に入れて、煮たものです。


   因みに、汁の味付けはなんだい……?


   お塩やお味噌、お醤油などがあります。


   ……。


   恐らく……烏冬よりは、手軽だと。


   ……それも昔、食ったような。


   あ、作るのに手軽も何もありませんよね……ごめんなさい。


   いや……多分、丸める方が手軽だと思う。


   ……。


   烏冬は捏ねたものを伸ばして適当な太さに、しかも均等に切らなければならない……が、団子ならば。
   適当な大きさに丸めれば良いだけだ。それならば、初めてでも失敗することはないだろう。
   いや、初めてではないな……やっぱり、隊長に手伝わされたような覚えがある。


   ……隊長さんは、お料理が出来る方なのですね。


   戦の糧食としか思っていなかったけれど……今思えば、然うなのかも知れない。


   ……隊長さんは、どんな。


   ねぇ、大夫。


   あ、はい……。


   すいとん……作ったら、食べて呉れるかい?


   ……はい、まことさんと一緒に。


   あたしと……?


   ……まことさんと、食べたいです。


   ……っ、そ、然うか。


   はい……。


   ……良し、早く来い行商。


   ふふ……。


   ……ん?


   先ずは、無事に冬を越さないといけませんね。


   ならば……無事に冬が終わって、早く春になれ。
   此れなら、どうだろう?


   ……。


   気が早いことには、変わりないか。


   ……ふふ。


   ははは。


   なんだか、楽しいお話になってしまいました。


   ごめんよ、逸れてしまったかな。


   ううん……寧ろ、良かったです。


   大夫……うん、それならば良い。


   ……雲呑。


   わ……。


   ……も、お夜食として好まれていたみたいです。


   ごめん、もう一度良いかい?


   雲呑、です。


   わん……たん。


   面粉で作った皮に少量の肉、或いは海老のすり身、刻み葱などを入れ鬼灯形に包んだものです。
   お湯で茹でてから煮汁に入れて食べるのですが、葉物などのお野菜を入れても良いですし、雲呑だけでも良いです。


   それは……知らない。


   でしたら、まことさん。


   ……え。


   いつか、町に行くことがあれば……ふたりで、食べてみませんか。


   だ、大夫と、町に……。


   ……お嫌で、なければ。


   い、嫌ではない、嫌ではないよ。
   とても、行きたいと思う。


   ……本当に。


   た、楽しみだ……すごく。


   ……。


   大夫は……。


   ……私も、とても楽しみです。


   ……。


   ……。


   大夫……。


   ……まことさ


   あ。


   ……。


   ……どうして、今。


   ふふふ……。


   は、はは……。


   今はお粥を食べましょう、まことさん。


   そ、然うだね……ははは。


   ……。


   ……はぁ。


   まさか。


   ……。


   ……まさか、お腹が空くなんて。


   あぁ……思ってもいなかった。


   ……。


   だけど、考えてみれば、帰って来て何も腹に入れていなかったんだ。
   大夫の家でお茶をご馳走になったきりで……そりゃあ、腹も鳴る。


   ……まさに思い出したかのように、でしたね。


   はは、違いない……。


   ……私の家で、何か食べていれば。


   あたしが、言ったんだ……あたしの家で食べようと。


   ……でも、丁度良かったのかも知れませんね。


   丁度……?


   ……新しい熾火が、作れましたし。


   あぁ……確かに。


   ……お腹が空いては、お勉強以外のことも出来ません。


   ……。


   ですよね……?


   ……うん、然うだ。


   ふふ……ふふ。


   ……寒くはないかい?


   はい……大丈夫です。


   食べ終わったら……。


   ……。


   あ、いや……少し、休もう。
   その時に、後ろから抱き締める……抱き締めたい。


   ……はい、抱き締めて下さい。


   ……。


   ちゃんと食べ終わってからですよ……?


   う、うん……分かっている。


   ……急いで食べては駄目ですよ。


   ……。


   柔らかく煮えているとは言え、ちゃんと噛んで食べて下さいね。


   ……はい、大夫。


   ……。


   ……大夫。


   薪が燃え尽きて、熾火になるんですよね……。


   ……然うだよ。


   灰を掛けて……然うすれば。


   ……朝まで、残って呉れるだろう。


   全部……まことさんに、教わったこと。


   ……都の家には、囲炉裏はなかったんだよね。


   はい、ありませんでした……。


   ……都の大夫の家は、どんな家だったんだい?


   都では……囲炉裏の代わりに、「温突」が一般的でした。


   おんとつ……?


   私の家には、その為の炉があり……管理する者が置かれていました。


   ……おんとつとは、どんなものなんだい?


   囲炉裏は、書物で見たことがあるだけで……。


   え……?


   本物を見たことは、なかったんです……けれど、まことさんが居て呉れたから。


   え、と……。


   ……。


   あの……大夫。


   はい……なんでしょう。


   ……熾火を見つめるのは、構わないのだけれど。


   はい……。


   ……粥も、食べて欲しい。


   あぁ……然うでした。


   出来れば、話もして欲しい……。


   ……。


   大夫……聞こえている……?


   ……え?


   え……?


   ……ごめんなさい、何でしょうか?


   あ、あぁ……。


   ……。


   だ、大夫……。


   ……お大根のお粥、温かくて美味しいです。


   あ、うん……良かった。


   ……。


   ……。


   ……大丈夫ですよ、まことさん。


   な、何が……。


   ……ちゃんと、まことさんとお話しますから。


   ……。


   温突のことでしたね……。


   う、うん……それは、どんなものなんだい?


   温突は……床から寝所を温めて呉れる暖房器具のことです。


   ……しんじょ。


   寝間のことです……。


   ……他の部屋は、暖かくないのかい?


   暖炉がある家もあります……。


   ……暖炉。


   思えば、暖炉でも熾火を……。


   ……。


   ……ごめんなさい、まことさん。


   うん……? 何がだい……?


   ……此の話は、また今度でも良いですか。


   あぁ……うん、良いよ。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、まことさん。


   なんだい……大夫。


   ……こういった合間でも、良いですよね。


   こういった……?


   ……お粥を、食べても。


   ……。


   ……今後、こういったことがないとは言い切れません。


   ……。


   ……分かりませんか。


   ま、間違っていなければ……。


   ……。


   ……今夜のことのような、ということ?


   ……。


   ち、違う……?


   ……もぅ、知りません。


   あー……。


   ……。


   ね……今度は、何が食べたい?


   ……だから、知りません。


   次は……味噌にしてみようと思うのだけれど。


   ……。


   ど、どうだろう……?


   ……お味噌で。


   ん……じゃあ、次は味噌で。


  25日





   ……ん。


   大夫……。


   ……はい。


   何を、考えているんだい……。


   ……囲炉裏の、熾火のことを。


   熾火……?


   ……。


   見たいのかい……?


   ……いいえ、今は。


   然うか……。


   ……明日の朝まで、果たして残って呉れるかと。


   ……。


   ……ぼんやりと、そんなことを考えていたのです。


   言われてみれば、帰って来てからは見ていないな……後で様子を見ておこう。


   ……ご一緒しても、良いでしょうか。


   あぁ、勿論だよ……ただ。


   ……ただ?


   布団の外の空気は冷たいだろうから、躰を冷やしてしまわぬようにしないと。


   それは……然うなのですが。


   うん……?
   何か、気になることでもあるのかい……?


   気になると、言いますか……着物は、どうなっているのかと。


   あぁ……着物はまぁ、たたんでいないだけで、手が届く場所にはある筈。


   ……散らかしては、いないと思うのですが。


   うん、まぁ、然うだと思いたい……。


   ……まことさん?


   あたしは、勢いで、脱いでしまったから……若しかしたら、放り投げてしまったかも知れないと。


   然うだとしたら……まことさんの着物は、お布団から少し離れてしまっているかも知れませんね。


   ……まぁ、部屋の中にはあるさ。


   ふふ……然うですね。


   ……様子を見るのは、もう少し後でも良いかい?


   はい……大丈夫だと思います。


   ……うん?


   うっかり、眠ってしまうことも……多分、未だないと。


   ……ふふ、然うか。


   でも、どうでしょう……此れだけ暖かくて、居心地が良いと、眠たくなってしまうかも知れません。


   それは……ないとは、言えないな。


   ……気付いたら、朝になっていたなんてことも。


   ならば、もっと話をしよう……然うすれば屹度、大丈夫だ。


   ……。


   まぁ、気になるようだったら、今直ぐ様子を見に行っても良いけれど……。


   ……ねぇ。


   ん……?


   若しも……若しもそのまま、熾火を眺めたいと言ったら。


   然うだな……躰を冷やしてしまわぬようにして、ふたりで眺めれば良い。


   ……眺めても、良いのですか。


   あぁ……大夫が、眺めたいのなら。


   ……けれど、まことさんは。


   まさか、朝まで眺めていたいと言うわけではないだろう?


   ……それは、ないです。


   であるならば……ふたりで暫し、熾火を眺めるのも悪くない……会話があれば、もっと良い。


   ……はい。


   後ろから、抱き締めよう……然うすれば、冷えることはないと思うから。


   ……あなたの後ろは。


   何……布団でも、掛ければ良いさ。


   ……お布団、ですか。


   頭から被っても良いかも知れない……然うすれば、大夫も暖かい筈だ。


   ……。


   ……良い考えだろう?


   ふふ……。


   ん……可笑しかったかい?


   ……いいえ、それも良いと。


   ならば……然うしてみようか。


   ……けれど、やっぱり。


   ……。


   もう少し、此のままが良いと……。


   ……ではもう少し、此のままで。


   はい……まことさん。


   ……うん。


   ……。


   ……。


   ん……。


   ……良い匂いだ。


   まことさんは……ほのかに土の匂いがします。


   ……う。


   ……?
   どうかしましたか……?


   ……臭かった、かな。


   臭い……?


   ……躰を拭く余裕が、今夜は全くなかったから。


   いいえ……土の良い香りがします。


   ……土臭くは、ない?


   はい……臭くはありませんよ。


   ……然う、か。


   まことさんは、いつも自然の香りがします……。


   ……自然の?


   土だけでなく、緑や木々、そしてお花の香り……時には、おひさまの匂いも。


   おひさま……。


   ……どれも、都では感じられないものです。


   その……好き、かい?


   はい……とても、安らぎます。


   ……。


   私こそ、薬臭くはありませんか……?


   ……薬のにおいは、微かにする。


   ……。


   けれど……臭くはない。


   ……無理はしないで下さいね。


   無理……?


   ……臭いようだったら、離れますので。


   離さない。


   ……。


   ……言ったろう、良い匂いだと。


   言われました……。


   ……だから、離れるなんて言わないで欲しい。


   無理を、しているわけでは……。


   ……全く、していないよ。


   ……。


   ……においにも、相性はあるのだろうか。


   相性……ですか。


   聞いた話なのだが……ひとのこには、色々な相性があるらしい。


   性格だけではない、ということなのでしょうか……?


   ……どうやら、然うらしい。


   それは……。


   名は、出さないでおく。


   分かりました……ならば、聞きません。


   ……。


   ……。


   大夫の髪は、柔らかいな……触り心地が、とても良い。


   ……ふふ。


   ん……くすぐったいかい?


   それも、ありますが……。


   うん……?


   ……お布団を敷くまことさんの姿を、ふと思い出して。


   あぁ……それはまた、急だね。


   さっき、お布団の話をしたからかも知れません……。


   それなら……分かるかな。


   ……気ばかりが、急いているような。


   実際に、急いていた……。


   ……


   早く……早く、大夫を此の腕に抱(いだ)きたくて。


   ……早足に、なっていましたね。


   早足……?


   途中まではお話をしたり、星を眺めたり……家の傍に来るまでは、普段通りだと思っていたのに。


   ……。


   最後は、無言になって……ふたり、駆け込むようにして。


   ……然うだった。


   ……。


   足は、大丈夫だったろうか……引っ張って、しまっただろうから。


   足は、大丈夫でしたが……息は、切れてしまいました。


   済まない……気ばかりが、急いてしまって。


   ……私も、同じでしたから。


   ……。


   ……あんなに狂おしい口付けは、初めて。


   早く、欲しくて……堪らなかったんだ。


   抱き上げて、そのままと思っていたら……きちんと、お布団を敷いて呉れて。


   それ、は……板の上では、背中が痛かろうと。
   畳の上であれば、また、違うのだろうが……。


   ……欲の熱に浮かされながらも、私に優しくして呉れる。


   それでも、際どかったと思う……いや、際どかった。


   ……お布団を敷き終わって、少し、間がありましたね。


   あっただろうか……。


   ……今思えば、ほんの僅かな間で。


   ……。


   けれど……敷き終わったら、直ぐに抱き締められるものだと、思っていたから。
   とても、長く感じて……若しかしたら、頭が冷めてしまったのかと。


   ……そんなわけ、ない。


   あ……ん。


   ……実際、全く冷めていなかったろう?


   はい……冷めていませんでした。


   ……大夫に拒絶されなければ、あたしは。


   ん……ぁ。


   ……今も、未だ。


   手が……熱い。


   ……不快、だろうか。


   いいえ……ちっとも。


   で、あるならば……もう一度、良いだろうか。


   ……あ、ぁ。


   大夫……亜美さん。


   ……て。


   ごめん……聞こえない。


   ……まって。


   ……。


   もう、少しだけ……。


   ……あぁ、分かった。


   待たせたら……。


   ……ん?


   冷めて、しまう……?


   ……まさか。


   本当に……?


   ……本当だ。


   ん……まことさん。


   ……大事にしたい。


   ……。


   それに……明日起きられなかったら、大変だと思うから。


   それは……困ります。


   ……。


   腰に力が入らなくて……まことさんに、診療所まで背負って貰うなんてことになってしまったら。


   あたしは、全く構わない……なんだったら、喜んで。


   ……だめです。


   いや、本当にあたしは……それでも、良いと。


   ……まことさんの朝は、忙しいのですから。


   問題は、ないさ……早朝の畑を終えてから、行くのだから。


   ……あります。


   何処にも、ないよ……あたしが言うのだから、間違いない。


   ……誰に、見られているか。


   ……。


   ……また、遊ばれてしまいますよ。


   つ、連れ合いになって呉れるかも知れないひとを。


   ……え。


   そんなひとを背負って、歩く……誰に見られようが、あたしは構わない。
   誰に何を言われようとも……あたしは気にしない。


   ……。


   けれど、大夫が嫌だと思うのならば……。


   ……だって、朝だから。


   朝……?


   ……気にしすぎかも、知れませんが。


   ……。


   名前は、出しません……。


   ……あぁ、出さなくて良い。


   ……。


   然うか……然うだな。
   それは、冷やかしの……遊びの対象になり得るな。


   話の種にも……必ず、なります。


   ……。


   ……。


   ……然うするのは、連れ合いになってからの方が良いだろうか。


   もぅ……然ういう問題ではありません。


   あ、そ、然うか……。


   ……。


   ……大夫、気を悪くさせてしまった?


   連れ合いだと、しても。


   ……うん?


   恥ずかしいと……思います。


   ……恥ずかしい。


   ……。


   分かった……朝は、連れ合いになれたとしても止めておこう。


   もぅ……まことさんは。


   うん、然ういうことでもない……?


   ……して呉れたのでは、ないのですか。


   え……?


   ……同じ道を共に歩むと、決めたあの朝に。


   ……。


   ……私は、あなたの連れ合いに。


   ……。


   ん……まことさん。


   ……大夫は、あたしの連れ合いだ。


   ……。


   大夫……そろそろ、良いかい。


   ……ねぇ、まことさん。


   なんだい……大夫。


   ……その前に、熾火の様子を。


   ……。


   でないと……屹度、眠ってしまうから。


   ……さっと、見に行こう。


   さっと……ですか。


   ……と言っても、確りと見るから。


   ……。


   だ、だめだろうか……。


   ……もぅ、まことさんは。


   だ、だめか……。


   さっとではなく……確りと、様子を見て下さいね。


   あ、あぁ、分かった……。


   ……。


   今、大夫の着物を取る……待っていて。


   ……自分で。


   いや、あたしが……うん、届いた。


   ……。


   はい、大夫。


   ……まことさんの着物は。


   やっぱり、少し離れているみたいだ。
   探ってみたが、それらしきものには触れられなかった。


   ……ならば、私が取りましょう。


   いや、大丈夫だ……見当は、付いている。


   ……でも。


   暗がりで、見辛いだろう?
   あたしが自分の着物を取る間に、大夫は着物を着ていて欲しい。


   ……分かりました。


   うん。


   ……。


   さて……う。


   ……直ぐに、取って。


   ……。


   でないと……着ません。


   わ……分かっ、た。


   ……。


   直ぐに、取るから……そのまま、待っていて。


  24日





  -煌命(パラレル)





   ……。


   大夫……?


   ……ん。


   居る……?


   ……はい、居ますよ。


   あ。


   ……こんにちは、まことさん。


   こ、こんにちは………。


   ……どうされたのですか?


   あ、いや、今、大丈夫かい……?


   はい……大丈夫です。


   患者さんは……。


   ……皆さん、お帰りになられたところです。


   そ、然うか。


   まことさん。


   な、なんだい?


   今日は、どうされましたか?


   あ、いや……その、別にどうもしないんだけれど。


   ……然うですか。


   ち、違う。


   ……はい?


   だ、大夫に、会いに来たんだ。


   ……私に。


   ご、ごめん、こんな理由で……昼も、会ったのに。


   いいえ……来て下さって、ありがとうございます。


   大夫……。


   どうぞ、お上がり下さい。


   うん……お邪魔します。


   今、お茶を淹れますね。


   ありがとう、大夫。


   ……はい。


   その……大夫。


   ……はい、何でしょうか。


   大夫は、何をしていたんだい?


   ……私、ですか。


   患者さんが居る時は、忙しいだろうから……休んでいた?
   それとも、書物を読んでいた……?


   ……私は。


   あたしが来たことで、邪魔をして……。


   ……囲炉裏の中の熾火を、眺めていました。


   熾火を……?


   ……はい、ぼんやりと。


   大夫が、ぼんやり……。


   ……まことさんは、熾火をただぼんやりと眺めることなんて、しませんか?


   あたしは……。


   ……しませんよね。


   いや……あたしもするよ。


   ……まことさんも?


   たまにだけれど……夜、ぼんやりと囲炉裏の火を眺めてしまう時がある。


   ……火、ですか。


   夜は、灯りがない場所は当たり前だけれど、暗く影になっているだろう……?


   ……ともすれば、飲み込まれてしまいそうな。


   だからかな……まるで吸い寄せられるようにして、眺めてしまう時があるんだ。


   ……分かります。


   何を考えるわけでもなく、眺めているだけなんだけれど……。


   ……唐突に、我に返ることはありませんか?


   あぁ、あるよ。急にはっとして、視界が明瞭になるとでも言うのかな、囲炉裏以外のものが突然目に飛び込んで来るんだ。
   そんな時は決まって、自分は何をしていたのか……と、思ったりもするかな。うっすらと、徐々に返る時は然うでもないのだけれど。


   ふふ……然うなのですよね。


   火を眺めていると、どういうわけだか、心の中が静かになるんだ。
   凪のように、静かで……まぁ、ただ単に、頭の中が空っぽになっているだけなのかも知れないが。


   ……火の揺らめきには、心を癒す効果があるそうです。


   へぇ……然うなのか。


   ……熾火にそれがあるのかは、分かりませんが。


   熾火、か……。


   ……。


   熾火はじんわりと、暖めて呉れて……熱も、保って呉れる。
   熾火で料理をすればじっくりと、且つ均等に火を通して呉れるから……斑(むら)になることも、滅多にない。
   囲炉裏の熾火は一年中欠かせないものだが、特に冬……寒い朝に、熾火がちゃんと残っていて呉れるとほっとするんだ。


   ……寒い朝。


   あぁ……冬の朝は、殊更、冷え込むからね。


   ……もうじき、ですね。


   ん……もうじきだ。


   ……。


   熾火を見ていると、心穏やかになれるというのは……あたしは、分かるような気がするよ。


   ……熾火自体は、とても熱いものなのに。


   あぁ、然うだ……素手で触ると、とんでもないことになる。


   それなのに……炎も煙も上がることなく、ただひたすら、赤々と燃えている。


   うん……?


   その様が、どことなく……命の煌めきにも、似ているような気がして。


   ……命の、煌めき。


   放っておくと、消えてしまう……。


   ……。


   ……火とは、不思議なものですね。


   火も不思議だが……あたしは、水も不思議だと思っているよ。


   ……水も?


   穏やかな流れを眺めていると、心が落ち着く……流れる音もまた、良い。


   ……まことさん。


   うん……?


   ……どうぞ、熱いので気を付けて。


   あぁ……ありがとう、大夫。


   いえ……大したおもてなしも出来ず。


   そんなこと、ないさ。


   ……ですが。


   大夫が淹れて呉れるお茶は、いつだって美味しい。
   あたしには十分すぎるもてなしだよ。


   ……。


   では、頂きます。


   ……あ、待って。


   あっ、つ……っ。


   まことさん。


   ……。


   大丈夫ですか?


   良かった……湯呑を、倒さずに済んだ。


   湯呑は、どうでも良いのです。
   手は大丈夫ですか?


   あ、あぁ、大丈夫だ……少し吃驚しただけで、大したことはないよ。


   念の為、診せて下さい。


   ほ、本当に


   お願いします、まことさん。


   あ、あぁ……。


   ……。


   ……。


   幸い、火傷はしていないようですが……取り敢えず、お水で冷やしましょう。


   ……済まない。


   いいえ、お気になさらず。


   次は、き、気を付ける。


   私こそ、ごめんなさい。


   いや、大夫は何も悪くない。


   ……けれど。


   何も、悪くない。
   あたしが迂闊だっただけだよ。


   ……。


   大夫。


   ……はい。


   あたしは……大夫が居て呉れれば、それで十分なんだ。


   ……まことさん。


   大夫さえ、居て呉れれば……それだけで。


   ……。


   ……正直なことを言うと、狙って来たんだ。


   狙って……ですか?


   今日は天気があまり良くないし、なんだったら、今にも崩れそうだ。
   だから……今頃ならば、若しかしたら、誰も居ないかも知れないと。


   ……。


   詰まりは……下心、だよ。


   ……あぁ、然う言うこと。


   め、迷惑だったら、言って欲しい……直ぐに、戻るから。


   ……畑は、大丈夫なのですか?


   あ、あぁ……大丈夫だ。


   でしたら……どうぞ、此処に居て下さい。


。  い、居ても……。


   ……今日はもう、誰も来ないかも知れませんから。


   も、若しも、来たら……。


   ……それでも、まことさんさえ良ければ。


   い、居させて、呉れるかい……?


   ……居て下さい。


   な、ならば、居よう……いや、居させて欲しい。


   ……はい。


   ……。


   ……まことさん、お水を。


   あ、ありがとう。


   ……どういたしまして。


   ……。


   ……熾火を眺めながら、考えていたんです。


   何をだい……?


   ……此の囲炉裏は、私が此の村に来る前に、まことさんが整えて呉れたものなのだと。


   ……。


   ……今日、美奈子ちゃんから。


   あいつめ……余計なことを。


   私……村に来る前から、まことさんにご迷惑を。


   迷惑では、ないよ。


   ……ですが、まことさんにはまことさんの営みがあるのに。


   確かに、聊か面倒だとは思ったが……でも、迷惑ではなかったから。


   ……此の家は暫く、使われていなかったのですよね。


   曰く、ひとりで暮らしていた女が行商の男に見初められて道を共にした……それきりだったらしい。


   ……囲炉裏だけでなく、家の修繕や掃除もまことさんがして下さったのだと。


   大夫……都の医生がこんな山奥の村に来る、であるならば、ちゃんとした家を用意しなければと。


   ……それは、美奈子ちゃんが。


   いや、美奈だけではない……あたしも、然う思った。
   関わることは、ほぼないだろうが……それでも、医生は重要だと思ったんだ。


   ……。


   だけど、まさか……一目惚れをするとは、思わなんだ。
   家を整えてしまえば、あたしの役目はそれで仕舞いだと……。


   ……私、まことさんに何もお返しが出来ていません。


   お返し……?


   ……ただただ、良くして貰うばかりで。


   お返しなんて、要らないさ……。


   ……まことさんは、私に望むことはありませんか。


   大夫に……?


   ……私に何か、出来ることがあるならば。


   ……。


   何か、欲しいものがあるならば……ん。


   ……思うように、生きていて欲しい。


   思う、ように……?


   あぁ……大夫の、思うように。


   ……それでは、お返しに。


   大夫が思うように生きていて呉れること……それが、あたしの望みなんだ。


   ……まことさんは、それで良いのですか。


   あぁ……十分だ。


   ……。


   大夫……?


   ……私が、あなたの傍から、居なくなっても。


   ……。


   それでも……同じことが、言えるのですか。


   ……大夫が、あたしの傍から居なくなったら。


   私が、私の思うように生きてさえいれば……あなたは。


   ……大事なことを、忘れていた。


   ……。


   あたしの傍で、思うように生きていて欲しい。


   ……。


   ずっと、あたしの傍で……。


   ……忘れないで。


   大夫……。


   ……もっと、言って下さい。


   ん……。


   ……私は、あなたに必要とされたいのです。


   ……。


   同じ道を、歩む為に……その為に、あなたにお返しがしたい。


   ……もう。


   ん……まことさん。


   ……もう、沢山貰っている。


   そんなこと……。


   ……然う、今だって。


   あ……。


   ……大夫。


   まこと、さ……ん。


   ……。


   ……。


   ……甘い。


   こんなこと、だけで……。


   ……大夫にとっては、こんなことかも知れない。


   う……。


   ……けれど、あたしにとっては、何ものにも代え難いことなんだ。


   ……。


   此れからも……あたしの傍で、生きていて欲しい。


   ……また、忘れています。


   うん……?


   ……ただ、生きているだけで良いのですか。


   ……。


   ……あなたを愛しながら、ではないのですか。


   あたしを……あたしだけを愛しながら、あたしの傍で。


   ……。


   ……大夫、今夜は。


   連れて行って、下さい……。


   ……あぁ、連れて行くよ。


   ……。


   ……今直ぐにでも。


   それは……。


   ……気が、早いか。


   はい……もう少し、待っていて下さい。


   あぁ……大夫が淹れて呉れたお茶を飲みながら、待っていよう。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、まことさん。


   ん……なんだい?


   此の囲炉裏……どのようにして、整えたのですか?


   ん、然うだな……先ずは、古い炭を掻き出した。


   ……炭を?


   ずっと、使っていないものだったからね……新しいものに替える必要があったんだ。


   ……。


   中も、確認した。


   ……中?


   炭の下は、石組みに粘土を隙間に詰めたものなのだが……そこが駄目になっていないか、確認したんだ。


   ……大丈夫だったのですか。


   いや、少し駄目になっていたから補修したよ……。


   ……新しい炭は。


   皆の家から分けて貰ったものを入れた。


   ……まことさんの家の囲炉裏からも。


   あぁ……勿論。


   ……。


   畑の合間に進めたのだけれど……間に合って良かったと、心から思う。


   ……あなたが、此の家を。


   あたしだけではないさ……必要な材料があれば、皆に集めて貰ったのだから。


   ……。


   大夫……どうした?


   ……改めて、此の村に来て良かったと。


   然う、思って呉れると……とても、嬉しく思う。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、まことさん。


   なんだい……大夫。


   ……手を、もう一度診せて下さい。


   うん、分かった……。


   ……。


   ……どうだろうか。


   はい……赤みも引きましたし、問題ありません。


   ……然うか。


   ……。


   ん……大夫。


   ……私。


   うん……。


   ……後で。


   ……?


   ……後で、言います。


   後で……かい?


   ……あなたの家、で。


   分かった……ならば、あたしの家で。


  23日





   ……畑に居るって、言っていたけれど。


   ~~♪


   何処にも居ない……。


   ……ん?


   家の中かしら……。


   あっ。


   ……とりあえず。


   メル!


   ……え。


   あたしはここだよ、メル!


   ……ユゥ?


   上!


   ……上?


   今行くよ!


   あ……。


   待ってて!!


   どうして、そんなところに……。


   よっ、


   え……きゃっ。


   ……と。


   ユ、ユゥ……。


   うん、着地成功。


   ……。


   いらっしゃい、メル。
   待ってたよ。


   う、うん……。


   本当のことを言えば、迎えに行きたかったけど。


   ……畑が、あるから。


   ん、だから終わらせて待ってた。


   ……もう、良いの。


   うん、午前のお世話はもう終わったから。


   ……。


   へへっ。


   上から、飛び下りて……足、大丈夫?


   ん、大丈夫だよ。
   ほら見て。全然、問題ない。


   ……上で、何をしていたの?


   畑を見てたんだ、上からだと全体が良く見えるから。


   ……あぁ。


   でも、そろそろ下りようと思ってた。
   そしたら丁度、メルが来て呉れたんだ。


   ……。


   入って、メル。
   鍛錬までまだ時間あるから、一緒にお茶を飲もう。


   ……ねぇ、ユゥ。


   なに、メル。


   ……。


   メル?


   ……私も、見てみたい。


   何を?


   ……上から、畑を。


   あぁ!
   なら、一緒に見てみるかい?


   良い?


   うん、良いよ!


   ありがとう、ユゥ。


   あたしもメルと見てみたいと思ってたんだ。
   だから、メルが然う言って呉れて嬉しい。


   ユゥ……うん。


   それじゃあ、早速行こう。


   えと……梯子は。


   ないよ。


   え、外してしまったの?


   うん、今は外してある。


   じゃあ、何処から上がれば……え。


   あたしに任せて!


   きゃっ。


   えへへ、メルはやっぱり軽いなぁ。
   ふわふわだ。


   ま、任せてって、何をするつもりなの?


   メルを抱えて、上に上がる!


   そ、そんなこと、出来るの?


   今のあたしなら、出来る。
   さっきも然うやって、上に上がったんだ。


   さっきもって……どうやって。


   確り、しがみ付いてて。


   ……しがみ?


   さぁメル、あたしの首に腕を回して。


   ……それは、良いんだけれど。


   早く、早く。


   う、うん……こう?


   うん、そのまま離さないでね。
   あたしも、絶対に離さないけど。


   ねぇユゥ、これだと両手が塞がっていて手が使えないと思うの。
   梯子を立てかけることだって出来ないわ。


   だから、足を使うんだ。
   師匠みたいに、ね。


   足……?


   師匠みたいに跳ぶんだ、だから梯子なんて要らない。


   跳ぶって……この高さを、私を抱えたまま?


   踏み台を使えば、あたしでも十分届く。
   師匠は、踏み台なんて使わないけど。


   踏み台……。


   あれ。


   ……あれ?


   然う、あれ。


   ……どれ。


   あれを踏み台にして、上に跳ぶ。


   ……もしかして、あの台のこと?


   うん。


   待って、ユゥ。


   うん?


   ユゥひとりなら跳べると思うけれど、私を抱えては


   大丈夫、跳べる。


   だめよ、ユゥ。
   若しも届かなかったら、怪我を


   若しも届かなくても、メルに痛い思いは絶対にさせないから。


   私よりも


   それじゃ行くよ、メル。


   ちょ、ちょっと、待っ……きゃっ。


   ……うん、準備良し。


   ユ、ユゥ……本当、に。


   今、あたし跳べてたろ?


   と、跳べていたけど、でも


   大丈夫、あたしを信じて。


   し、信じてはいるけれど……。


   行くよ、メルっ。


   待っ……ぁっ。


   ……。


   あ……あぁ。


   よっ、


   ……っ。


   ……しょいぃっ。


   ……、……。


   ……と。


   ……。


   ん……ばっちり。


   ……。


   着いたよ、メル。
   ね、大丈夫だったろう?


   ……あ、あぁ。


   ん……?


   ……ユゥの、ばか。


   え、え?


   ……は、ぁ。


   メ、メル、大丈夫?


   ……大丈夫じゃ、ない。


   ど、どこかぶつけた?
   あ、若しかして、あたしの力が強かった?


   ……ユゥ。


   な、なに……。


   ……とりあえ、ず。


   と、とりあえず……?


   ……下ろして、貰っても。


   お、下ろしても、大丈夫……?


   ……うん、下ろして。


   わ、分かった。


   ……。


   ……立てる?


   少し……難しいかも。


   ん、分かった……なら。


   ……。


   ……これで、どう?


   ん……ありがとう、ユゥ。


   ううん……。


   ……。


   メル……大丈夫?


   ……ふ。


   ふ……?


   ……ふふふ。


   あ。


   ……一瞬、息が止まったわ。


   息……。


   それに、足……あまりにも吃驚しすぎて、少し震えているような気がする。


   ご、ごめん、吃驚させて。


   ふふ……ふふ……。


   ……メル?


   はぁ、吃驚した……まだ、胸の奥がどきどきしてるわ。


   ……。


   まさかユゥにして貰うなんて、思っていなかった。


   ……うん?


   小さかった頃、お師匠さんにも同じことをされたことがあるの。
   お師匠さんの場合は、おんぶだったけれど。


   ……それ、あたしも師匠にして貰った?


   うん、ユゥもして貰ったわ。
   とても楽しそうだった。


   ……あー。


   はぁ……。


   ……落ち着いてきた?


   ん……まだ。


   そ、そっか……。


   でも、畑を見ていれば落ち着くと思うから。


   ……ん。


   ……。


   ……見える?


   うん、座っていても良く見える……。


   ……良かった。


   緑が、きれい……。


   ……きらきら、してるだろ?


   ええ……とても。


   ……。


   ……ユゥ。


   な、なに……。


   ……跳べるまでに元気になって、本当に良かった。


   う、うん……メルと先生が、傍に居て呉れたから。


   ……帰って来たお師匠さんも。


   師匠は……。


   ……ユゥの為に、美味しいごはんを作って呉れたわ。


   まぁ、美味しかったけど……。


   ……。


   ……。


   ……ね、ユゥ。


   なに……メル。


   お師匠さんの手記……未だ、先生に返していないのよね。


   うん、未だ返してない……読み返しているんだ、何度も。


   ……私もまた、読みたい。


   なら……鍛錬が終わったら、一緒に読もう。


   うん……。


   ……。


   ……。


   ……最近、師匠さ。


   ……。


   何か、書いているみたいなんだ。


   ……何か?


   うん。


   ……日記では、なくて?


   うん、日記じゃないって。


   ……聞いたの?


   うん、聞いた。
   でも、何を書いてるまでは教えて呉れなかった。


   ……。


   ね、メルも気になるよね?


   ……若しも、先生への手紙だったら。


   先生?


   ふたりで聞いたところで、やっぱり教えて呉れないと思うの。


   そっか……それも有り得るのか。


   お師匠さんは先生に手紙を送るのが好きみたいだから、久しぶりに書いているのかも知れない。


   でもさ、ここのところずっと書いているみたいなんだ。
   手紙を書くのに、そんなに掛かるものなのかな。


   言葉を丁寧に選んで、想いを綴っているのなら、時間は掛かると思う。


   うーん、そっか。


   ユゥは。


   あたし?


   私に手紙を書く時……直ぐに、書けるもの?


   ……。


   ……書ける?


   ううん……書けない。


   それは、どうして?


   ……大切に書きたいから。


   大切……?


   いい加減に書きたくないんだ。
   然うなると、直ぐには書けない。書けるわけがない。


   ……屹度、お師匠さんも同じなのだと思う。


   そっか……。


   ……。


   ……けどさ。


   けど……?


   今は遠く離れているわけではないんだから、会おうと思えば直ぐに会えるだろ?
   話したいことや伝えたいことがあるのなら、直接会えば良いと思うんだ。
   その方が……触れることも、出来るし。


   ……言葉を綴るから、良いのかも。


   言葉を、綴る?


   口では伝え切れない、伝え切れなかったことを大切に綴って、相手に届けるの。
   送られた方も、手紙ならば、何度でも読み返せるし……大切に、取っておける。


   ……あたしも、大切にしてる。


   うん?


   ……メルから送られた手紙。


   私も……ユゥから送られた手紙、とても大切にしているわ。


   ……久しぶりに、書こうかな。


   ……。


   書いたら……届けても良い?


   ……うん、待ってる。


   メルも、あたしに送って呉れる……?


   ……お返事を書くわ。


   なら……まずは、あたしが書かないとだね。


   ……ん。


   何を、書こうかな……。


   ……。


   ん……メル?


   ……緑が、きれいね。


   ん……今日もみんな、元気だ。


   ……たまには、良いかも。


   たまには……?


   ……ユゥとふたりで、ここから畑を眺めること。


   なら……たまに、ここから見よう。


   ……うん。


   お茶を飲みながらでも、楽しいかも知れない。


   ……けど、ここまで持って来るのは難しいわ。


   梯子だと手が塞がってしまうし……跳んだら、お茶まで飛んじゃうかな。


   ……何処かに、行ってしまうかも。


   それは大変だ。


   ……階段を作れたら。


   階段?


   それなら、持って来られると思う。


   階段、階段か。


   けど、そんなに簡単ではないと思うから。
   適当な材料もないだろうし。


   師匠に相談してみるよ。
   何か良い考えが浮かぶかも知れない。


   ……。


   若しかしたら、作れるかも。


   ……作れたら、素敵ね。


   うん、素敵だ……。


   ……ユゥ。


   メル……。


   ……だめ。


   ……。


   ……お師匠さんの声がする。


   師匠……。


   ……そろそろ、下りないと。


   はぁ……。


   ……ユゥ?


   ん……分かってる。


   ……それで、ね。


   大丈夫、抱えて下りるよ。


   ……然うなるわよね。


   それにしても……もう少し、だったのに。


   ……あの、ユゥ。


   なんだい……メル。


   その……そっと、下りてね。


   うん……そっと下りるよ。


   ……。


   ……抱き上げても、良い?


   ん……お願いします。


   うん、任せて。


   ……。


   ……確り、掴まっていて。


   ん……。


   ……。


   ……。


   ……行くよ、メル。


   うん……ユゥ。


   ……よ、


   ……。


   ……と。


   ……。


   着いたよ……メル。


   ……はぁ。


   大丈夫だった……?


   ……ん、吃驚しなかった。


   ん……良かった。


   ……ユゥ。


   今日も、いいにおい……。


   ……下ろして。


   もう少し……。


   ……お師匠さんに、見られてしまうから。


   別に、構わない……。


   ……だめ、構って。


   ……。


   ……ね。


   はい……。


   ……。


   ……下ろすよ、メル。


   うん……。


   ……。


   ……ありがとう、ユゥ。


   うん……メル。


   ……。


   メル……?


   ……快癒して、本当に良かった。


   ……。


   体力も……。


   ……うん、もう大丈夫だ。


   ん……ユゥ。


   ……いつでも、一緒に眠れるよ。


   もぅ……ユゥは。


   ……へへ。


   ……。


   ん、メル……。


   ……待ってる。


   ……っ。


   ……。


   ……今夜、良い?


   今夜は……だめ。


   ……いつなら、良い?


   今は、はっきりと言えない……。


   ……そっか、然うだよね。


   だけど……そんなには、待たせないから。


   ……。


   ……待ってて、ユゥ。


   うん……待ってる。


   ……


   ……。


   ……お師匠さんが、呼んでいるわ。


   ん……行こう。


  22日





   ……はぁ。


   ……。


   ……あまり、かまわないで。


   やっぱり、きれいだな……と、思って。


   ……どれも、同じよ。


   いや、同じじゃないさ……。


   ……大した差なんてないわ。


   お前が然う言うから、確かめてみたんだ……。


   ……あの子の髪に触ったの。


   改めて……な。


   ……それで。


   やっぱり、同じじゃなかったよ……メルの方がほんの少し、癖が強い。
   それがまた、可愛いんだ……ちびが夢中になるのも、頷ける。


   ……いつまでも、気安く触らないで欲しいわね。


   別に、嫌がられなかったぞ……?


   ……然ういう問題じゃない。


   お前が、嫌なのか……?


   ……。


   え、本当に然うなのか……?


   ……然うだと言ったら、あの子に気安く触ることを金輪際止めて呉れるの。


   然うだとしたら……止める、もう触らない。


   なら、触らないで。


   応、分かった。


   私は、別に嫌ではないけれど。


   それは……話が変わってくるな?


   ……。


   もう少し、良いだろう……まだ、子供なんだ。


   ……然う言って、最後まで続けそうだけれど。


   お前こそ、うちのちびで遊んでいるだろう……?


   ……あの子は少し、鈍いから。


   それは、分かる。


   ……私の気配が読めないようでは、話にならない。


   いや、お前の気配を読むのはかなり難しいぞ……なんせ、四守護神の中で一番だからな。


   ……皆が鈍いなだけよ。


   や、待てよ……お前の気配が読めるようになれば、ちびは一番になれるかも知れないな。


   ……それはないわね。


   あー、やっぱりないか。


   ……あなたが一番ではないように。


   二番なら、どうだ?
   それくらいならば、あいつでも


   正直、四守護神の中での順位付けなんてどうでも良いわ。
   それ以上の、それこそ専門としている存在が他に居るのだから。


   ……まぁ、然うなんだけどな。


   ……。


   ……う。


   触りすぎ。


   ……抓らなくても。


   調子に乗っているようだから。


   ……嫌いではないだろうに。


   好きでもないわ。


   ……じゃあ、また後で。


   ……。


   ……良し。


   ないわよ。


   ……やっぱり、ないか。


   ……。


   ……。


   ……然う言えば。


   あ……。


   ……。


   あー……と。


   手が、動いているようだけれど。


   や、別に何かしようとしたわけでは……。


   ……何をしようとしたの?


   ちょっと……何処かに、触れられたら良いなって。


   ……何処かって?


   ぐ、具体的には……。


   ……。


   頬とか、耳とか……唇とか。


   あぁ、然う……。


   ……しまっとく。


   ええ、然うして。


   ……それで、なんだい?


   あの子の枕の下に、置いておいたから。


   然うか……って、何を?


   あなたの手記。


   あたしの……?


   いつか、書いたもの。


   いつか……て、若しかして。


   あら、憶えているの?


   あの手記か。


   どの手記?


   土と肥料について、適当に書いた……。


   ……。


   ……冒頭に、お前への想いを綴った、あの手記か。


   ええ、その手記。


   お前……なんでまた、あの手記を。


   食事をしている時に、あの子が肥料についてもっと知りたいと話していたから。
   あなたも、聞いていたでしょう?


   ……然うだったか。


   あれなら、丁度良いと判断したの。


   丁度良いか……あれ。


   ええ、丁度良いわ。


   だけどあれは、あくまでもお前に書いたもので……お前以外に見せるつもりは、今でもあたしにはないんだけど。


   少なくとも、あなたがその口で説明するよりはずっと良い。
   あの子には分かりづらいのよ、あなたの話し方は。


   ……書いたの、随分と前だぞ。


   然うだけれど、月に関して言えば問題ない。
   あの頃と、大して変わっていないから。


   月は良いが、青い星は


   何より、青い星のことが書いてあるから。


   ……当時と変わってなければ、良いが。


   勿論、変わっているわよ。
   けれど、当時の資料として参考くらいにはなるでしょう。


   ……あとは、興味か。


   私から見れば大したことのないものでも、あの子達から見れば興味深いものかも知れないから。
   昔ではなく、とても身近な存在が書いた青い星の記述なんて、なかなか見られないでしょう?


   ……お前が書いたものを、見せてやれば。


   今は未だ、早いわ。


   な、ちゃんと返して貰うんだろう……?
   まさか、呉れてやったわけではないよな……?


   呉れてあげても、良いけれど。


   あれは、お前にやったんだ。
   出来れば、お前にずっと持っていて欲しい。


   どうしようかしら。


   頼むよ、マーキュリー。


   ……必死ね?


   どうしても、お前に持っていて欲しいんだ。


   ……ふぅん、然う。


   な……必ず、返して貰って呉れ。


   私がわざわざ返却を求めなくても、あの子達はちゃんと返して呉れるわ。


   メルは分かるが、ちびは


   私の教育が良いから。


   ……ふはっ。


   汚い。


   い、いや、お、お前……きょういきが、良いって。


   きょういきって、何。


   きょ……教育が良いって。


   間違いは、言っていないわ。


   間違いは、言っていないが。


   いないが、何。


   お前がそんなことを言うとは、思わなんだ。


   気が変わったの。


   そ、然ういうものか。


   とは言え、滅多には言わないわ。
   あの子に関しては、あなた達が居なければまた、行き詰まってしまうでしょうから。


   別に言って呉れても構わないが……うん?


   ユゥには私が、メルにはあなたが。


   ……。


   何。


   それって、詰まり……あたしの教育が


   良い時ばかりではないから、ユゥが必要なの。


   ……帰って来て、改めて思ったことがある。


   聞くわ。


   あたしに対してのちびの物言いが、いよいよお前に似てきた。


   ふふ、然うでしょうね。


   楽し……いや、嬉しそうだな。


   ええ、愉快だわ。


   なぁ、メルはあたしの物言いに


   似ていないわね。


   ……今は似ていなくても、似てくるかも知れない。


   まぁ、それも悪くはないけれど。


   然うだよな……え、然うなのか。


   物言いくらいなら構わないわ、頭の中身が似なければそれで良いの。


   ……頭の中身は、大丈夫だろう。


   それから、肝魂。


   ……。


   生まれ持ったものではあるけれど……出来れば、似て欲しくないわ。


   ……それも、大丈夫だろう。


   然うだと、良いけれど。


   ……仮令、少しばかり小さかったとしても。


   ……。


   ……な、ちびの肝魂は小さいと見るか?


   いえ、見ないわ。


   ……なら、大丈夫だ。


   ……。


   なんだ、心配なのか?


   ……悪い?


   悪いわけ、ないな。


   ……ともあれ、あなたの手記はちゃんと返ってくる。


   お前の教育が良いから、な。


   ……然うよ。


   だけどお前は、借りたまま返さないことが結構あったよな。
   資料とか、書物とか、資料とか、その他色々。


   どれも、必要だったからよ。


   返すのが面倒……。


   ……。


   ……いや、そんな暇がなかったというのもあるんだろうが。


   「マーキュリー」が必要としているのだから、必要でなくなるまで、持っているのは当然のことでしょう?


   ……何度も聞いたな、それ。


   何度も言わせないで。


   ……何度も、あたしが片付けたしな。


   頼んでもいないのにね。


   ……結局、全部返したのか。


   今はもう、要らないもの。


   ……。


   だから全部、置いてきた。


   ……返してきた、では、ないのな。


   同じようなものでしょう。


   ……ま、然うだな。


   実際、彼処に居る時は必要だったのよ。


   ……。


   だから、返せなかった。
   そんな暇もなかったけれど。


   ……あぁ。


   で、なければ……要らないわ、何れも此れも。


   ……今はもう、要らないか。


   だから、然う言ってる。


   ……。


   それに、必要なものはもう入っているから。


   ……入って?


   此処に。


   ……お前の頭、優秀だもんなぁ。


   ええ、然うよ。
   あなたとは造りが違うの。


   はは、違いない。


   ……。


   ……残してやるのか、ちび達に。


   でなければ、何の為の講義なの。
   暇潰し? それとも、道楽?


   ……ん、確かに。


   ……。


   ちびがどんなジュピターになるか……楽しみだな。


   ……私は、楽しみではないわ。


   言葉の綾だよ。


   ……どこが。


   なぁ、マーキュリー……。


   ……もう、ニロではないのね。


   未だ、然う呼んでも良いのか……?


   ……ならば、マーキュリーで。


   なぁ、ニロ……今夜はもう、おしまいか。


   ……二度も、楽しませてあげたのだから。


   お前は、楽しめなかったか……。


   ……さぁ、どうかしらね。


   良ければ……三度目も。


   ……それは、ないわ。


   ん……流石に、ないか。


   ……もう、眠って。


   分かった……然うする。


   ……。


   ……やっぱり、お前の隣が一番だ。


   ……。


   お喋りも、おしまいか……。


   ……あなたの、手記。


   ん……?


   ……暫くは、返って来ない。


   構わないさ……いずれは、返って来るのだろうから。


   ……あなたは話すよりも、書く方が良い。


   ん……?


   ……向いているんだわ、書くことに。


   それ、初めて言われたな……。


   ……報告書や戦闘詳報は、話にならなかったもの。


   それは、向いているのか……?


   ……そもそも、好きではないでしょう。


   ……。


   書類を書くのは。


   ……あぁ、堅苦しくて好きじゃない。


   それに比べて、個人的な手記や日記、及び手紙は、思う通りに書くことが出来る。
   あなたの言葉で、あなたの想いを、あなたの好きなように、思うが侭に形にして、記すことが出来る……。


   ……誰だって、然うじゃないのか。


   誰にでも出来ることではないわ。


   ……お前でも?


   曰く、面白味がない。


   ……それは、誰に。


   あなたに。


   あぁ……?


   ……癪だったわ。


   いや、いつそんなこと言った……?


   ……私のことなら、忘れないのではなかったの。


   そ、然うなんだけど……あたし、本当にそんなこと言ったか?


   私の記憶違いとでも言いたいの?


   い、言わないよ。


   ……言われたのよ。


   そ、然うか……ちょっと待て、思い出すから。


   思い出さなくて良い。


   え、でも。


   二度も、聞きたくない。


   ……あ。


   ……。


   ご、ごめんな……?


   ……別に良いわ、本当のことだったから。


   それでも、あたしに言われたら……面白く、なかったろう?


   ……あなたでなければ、もっと。


   ニロ……。


   ……まぁ、面白くはなかったけれど。


   そ、然うだよな……。


   ……私にはないものが、あなたにはある。


   ……。


   あの時……初めて、然う思ったのよ。


   ……良かった、のか?


   さぁ……良かったんじゃないの。


   ……。


   ……とても、癪だけれど。


   また、書いてみるかな……。


   ……何を。


   畑についての、手記。


   ……書きたいと思うのならば、書いてみれば良い。


   書いたら……読んで呉れるか。


   ……読んであげても、良いわ。


   受け取って、呉れるか……?


   ……仕方ないから、受け取ってあげる。


   で、ちび達に読ませると……。


   ……当たり前でしょう?


   まぁ、良いけどな……。


   ……。


   また、お前への想いでも綴るか……初めに。


   ……恥ずかしくないの?


   恥ずかしくは、ないな……お前への、正直な気持ちだから。


   ……あの子達に見られても?


   それは……やっぱり、止めようかな。


   書いて?


   ……お前。


   楽しみにしておいてあげるから。


   ……応、分かった。


   ふふ……。


   ……可愛いな。


   寝て?


   ……応。


   ……。


   今夜は良かったよ……おやすみ、ニロ。


   ……おやすみなさい、ハリヨ。


   ……。


   ……ん、なに。


   ほんとに、おやすみなんだな……て。


   ……然うだけれど。


   だけれど、なんだ……?


   ……また明日、ジュピター。


   応……マーキュリー。


   ……。


   ……起きたら。


   最初に見るのは、お前だ……。


   ……。


   ……真っ先に、おはようの口付けを。


   ばかね。


   ……。


   ……日記は、見せないから。


   あぁ……出来れば、然うして欲しい。


   ……。


   ……。


   ……早く寝て。


   寝る前に……これだけ。


   ……。


   ……あたしも、愛してる。   


  21日





   ふぅ……。


   ……おかえり、メル。


   ユゥ……うん、ただいま。


   湯浴み、気持ち良かった……?


   ん……とても。


   そっか……良かった。


   お師匠さんに、改めて湯浴みのお礼がしたいと思ったのだけれど……見当たらないの。


   明日で良いと思うよ……今夜はもう、先生のことしか頭にないだろうから。


   ……何処かに行ったわけではない?


   行くわけない……なんだったら、先生と湯浴みしたいと思ってるんじゃないかな。


   ……あぁ。


   多分、だめだろうけど。


   ……何処に居るのかしら、お師匠さん。


   今、先生は?


   ……湯浴みをしているけれど、湯浴み場の近くにお師匠さんは居ないようだったわ。


   うん、やっぱり駄目だった。


   ここには来ていない?


   来てないよ。


   ……。


   先生の部屋には?
   居なかった?


   ……先生の部屋には、行ってないの。


   そっか……となると、先生の部屋かな。


   ……だとすれば、見当たらないのは分かるのだけれど。


   先生の部屋で大人しく待っているのかも知れない。
   あ、でも、先生が居ないのに部屋に入れて貰えるかなぁ。


   ……今日くらいは、良いと思うの。


   今日くらい?


   帰って来たばかりなのに、ごはんを作って貰って……湯浴みの支度までして貰ったのだから。


   うーん、どうだろ……あたし達も、家と畑をメルと先生に見て貰ってたからなぁ。
   それくらいするのは、当たり前だと思うよ。そもそも、帰って来ない師匠が悪いのだし。


   ……何か、理由があったのかも。


   先生は、知ってるんじゃないかな。
   知ってて、師匠にやって貰ってるんだと思う。


   ……。


   そんな気がするんだ、師匠、喜んでやってたし。


   ……若しも、先生の部屋に居なかったら。


   なんにせよ、近くには居るよ。
   師匠はもう、何処にも行かないさ。


   ……うん、然うよね。


   ね、メル。


   ……なに?


   ほっぺたに、触ってみて。


   ……ほっぺた?


   あたしのほっぺた。


   ……。


   ん。


   ……どう?


   ふふ……指のお腹が、ほかほかだ。


   ……冷たくない?


   ん……冷たくない。


   ……。


   ね……起きてて、吃驚した?


   ううん……若しかしたら起きてるかなって、思っていたから。


   へへ、そっか……。


   ……ひとりで、退屈ではなかった?


   ん、平気だよ……これを、読んでいたから。


   これは……手記?


   うん……ごはんから戻ってきたら、枕の下にあったんだ。
   頭を乗せたら、なんか違和感を感じてさ……退かしてみたら、これがあった。


   何が書かれているの?


   畑と緑のこと。


   畑と緑……若しかして、肥料のことも?


   うん、書いてある……あと、土のことも。


   土……土壌?


   しかも、月の土だけでなく、青い星の土のことまで書いてあるんだ。
   青い星は地域によって土の特性が違うから、場所によって育てられるものが変わってくるって。


   ……青い星は、気候にも地域性がある筈。


   それも、少しだけれど、書いてある。土と気候、このふたつが青い星ではとても重要なんだって。
   あれだけ大きい星だから、ここに書かれていることは大まかなのだろうけど、それでも十分に面白いんだ。


   ……。


   ね……メルも興味、あるだろう?


   ……うん、読んでみたいわ。


   なら、一緒に読もう……。


   ……でもどうして、そんな手記が枕の下に。


   屹度、先生じゃないかな……あたしがごはんを食べている時に話したから、それで。


   先生だとは、思うのだけれど……それにしても、用意するのが早すぎるわ。
   食事中は、皆揃っていたし……いつ、置いたのかしら。


   ごちそうさまをして、四人で少しお喋りをした後に、それぞれがばらばらに動いてた時があったろ……?
   師匠は片付けをして、あたしは先生が煎れて呉れた薬茶を少しずつ飲んで、メルはあたしに寄り添って呉れて、それからふたりで取っておいた琥珀糖を食べて。
   て、あたし達はばらばらじゃないや。


   ……然う言えば、先生は居なかったわ。


   その時だと思うんだ。
   先生はそっと抜け出すのが上手だから。


   ……。


   師匠よりもずっと気配を殺すのが上手くてさ……水のように、さらっと居なくなるんだ。


   ……それで、いつの間にか背後に居て。


   何度もされているんだけど、いまだに慣れなくて吃驚しちゃうんだよなぁ。
   後ろからひんやりした指先でさ、首とかほっぺたとかをなぞられたりすると、つい、大きな声を出しちゃうんだ。


   ……。


   先生の気配が読めるようになれば……師匠は、読めるみたいだけど。


   ……ユゥは、首と頬なのよね。


   え?


   ……なぞられるの。


   然うだけど……メルも、されるよね?


   ……最近は、耳が多いの。


   耳……メルの、耳……。


   ……止めて下さいって、言っているのに。


   あたしは、気配を読む鍛錬になるから……止めなくても、良いんだけど。


   ……嬉しいからじゃなくて?


   そ、それも、ないわけではないけど……た、鍛錬にも、ちゃんとなっているから。


   ……ふぅん。


   ほ、ほんとだよ。


   ……分かってるけど。


   メルの方が、早いかも。


   ……何が?


   先生の気配を読めるようになるの。


   ……どうして然う思うの?


   メルがマーキュリーのたまご、だからかな。


   ……。


   な、なんて……だめ?


   ……早く読めるようになるわ。


   う、うん、メルなら……。


   ……ところで、この手記を書いたのは。


   え。


   この手記は、いつのジュピターが書いたものなの?
   装丁を見るに、そこまで古いものではないと思うのだけれど……。


   ……。


   お師匠さんの先代……若しくは、先々代のジュピターかしら。


   ……やっぱり、ジュピターのものだと思う?


   畑と緑、肥料、月と青い星の土壌、そして気候……然ういったことを書き記すのは、ジュピターぐらいだと思うの。
   マーキュリーと共同で、ということもあるかも知れないけれど……。


   ……それがさ。


   詳しくは、分からない……若しくは、ジュピターのものではない?


   ううん……ジュピターの、だよ。


   ……?
   ユゥ……?


   この手記……多分、師匠が書いたものだ。


   お師匠さんが?


   見て……相変わらず、なんとも言えない字。


   ……あぁ、これはお師匠さんの字だわ。


   だろ……?


   でも……きれいにまとめられていて、読みやすそう。


   それが、読みやすいんだ。
   師匠でも、こんな風に書けるんだって……思わず、感心しちゃったくらい。


   ……いつ頃、書いたものかは。


   最近では、ないと思う。


   ……もう少し、見せて貰っても良い?


   ん……。


   ……。


   ……どうかな、分かりそう?


   そこまで、昔ではないと思うけれど……。


   ……こんなの、いつ書いたんだろう。


   お師匠さん、日記を付けているのよね?


   うん、付けてるよ……見せて貰ったことは、ないけど。


   ……それとは別に、こんな手記も。


   メルは師匠の日記、読んでみたい……?


   ……え?


   師匠がどんな日記を付けているか……。


   ……興味は、あるけれど。


   メルになら、見せて呉れるかも知れない……そしたら、この手記のことも分かるかも。


   ううん……屹度、私にも見せて呉れないわ。


   然うかなぁ……メルにお願いされたら、あっさり見せて呉れそうな気がするけど。


   ……お師匠さんって、恥ずかしがりだと思うの。


   え……?


   ……ユゥは、気付いてない?


   師匠の、どこが恥ずかしがりなの……?


   ……。


   メル……?


   ……お師匠さんの為に、これ以上は言わないでおく。


   え、えぇ……。


   ……ユゥが気が付く、その時まで。


   気が付くかなぁ……今のところ、全然分からないけど。


   ……気が付かないのなら、それで良いと思う。


   んー……。


   ……。


   ……まぁ、いっか。


   良いの……?


   うん、今は良いや。


   ……然う。


   それより、この手記……先生が持っていたのは、なんでかな。


   ……先生、だからだと思う。


   うん……?


   お師匠さん……先生になら、見せると思うから。


   ……で、そのまま渡した?


   ん……。


   ……。


   ……恐らく、そんなに深い理由はないと思うの。


   うん……あたしも今、然う思った。


   ……。


   まぁ、いっか……面白いし。


   ……。


   ところでさ、メル。


   ……なぁに?


   今日のお勉強……どうだった?


   ん……また、色々覚えないといけないことが増えて。


   そっか……。


   ねぇ、ユゥ……ちょっと、聞いても良い?


   うん、良いよ。


   ユゥは、「ハリヨ」という言葉を聞いたことはある?


   はり、よ……?


   うん……「緑」と言う意味らしいのだけれど。


   うーん……ごめん、聞いたことないと思う。


   ……然う。


   ごめんね、メル。


   ううん、良いの。
   私こそ、ごめんなさい。


   先生なら、聞いたことあるんじゃないかな。


   ……先生には、聞けないの。


   え、どうして?


   ……どうしても。


   若しかして、今日の課題……?


   ……うん。


   そっか……じゃあ、もう言わない。
   あたしも、先生には聞かないよ。


   ……ありがとう、ユゥ。


   でも、ハリヨか……随分と変わった音だね。
   そんな言葉も月にあるんだ。


   ……ううん、月の言葉ではないの。


   え、然うなの?


   ……どうやら、青い星の言葉らしいの。


   青い星の?


   ……。


   メルでも、知らない言葉……あ、然うだ。


   ……うん?


   全然、関係ないんだけど……良い?


   ん、良いわ。
   なぁに、ユゥ。


   手記の……ここ。


   冒頭……?


   何度読んでも、意味が分からなくて。
   メルなら、分かるかなって。


   読んで貰っても良い?


   うん、ちょっと待ってて……え、と。


   ……。


   とても美しいもの、それは、ニロ。


   ……ニロ?


   それは、緑を生かす。


   ……。


   これからもずっと、ニロと共に。


   ニロは……緑を、生かす。


   ここだけ、何度読んでも良く分からないんだ。


   ニロ……緑……。


   ねぇメル、ニロってなんだろう……?
   ニロが緑を生かすって書いてあるけど……土と肥料のことではないと思うし。


   ……若しかして。


   ニロの意味が分かれば、若しかしたら……。


   ……ハリヨ。


   はりよ……?


   ねぇ、ユゥ……土や肥料以外で緑を生かすものと言えば、何?


   土や肥料以外だと……水、かな。


   ……水。


   うん、水は大事なんだ。
   あとは、光。


   ……光。


   この手記には、書かれていないけど。
   当たり前すぎて、省略したのかも知れない。


   ……ううん、違う。


   え、違うの……。


   ……青。


   青……?


   ……水は透明だけれど、青でもあるから。


   う、うん……?


   ……青い星の「青」は海と呼ばれているもの、詰まりは、水。


   メル、何を言っているの……?


   ……だから、恐らく。


   え、えと……。


   ユゥ……ニロを青に置き換えて、もう一度読んでみて。


   う、うん、分かった。


   ……。


   とても美しいもの、それは、青。
   それは、緑を生かす。
   これからもずっと、青と共に。


   ……青と緑を、先生とお師匠さんに。


   先生と師匠に……?


   ……取り敢えず、意味は分かる筈。


   青と緑……先生と師匠……マーキュリーと、ジュピター……あ。


   ……海の水は塩が混じっているから、実際は、緑を生かさないのだけれど。


   師匠は……そんなことは、どうでも良いんだ。


   ……。


   ね、メル……ニロって、若しかして。


   この文言は……お師匠さんから、先生へ送られたものだとしたら。


   ……。


   この手記は……初めから、先生に渡すつもりで。


   あー……。


   ……。


   なんか……なんか、恥ずかしくなってきた……。


   ……遠征先から送られた手紙も、然うだったけれど。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、メル。


   なぁに……ユゥ。


   今日ね……すごく、楽しかった。


   ……私も、楽しかった。


   メルも……?


   ……うん。


   そっか……。


   ……手記の続きは、明日読む?


   うん、明日にする……今はちょっと、恥ずかして読めそうにない。


   ……。


   はぁ……顔が熱い。


   ……眠れそう?


   ん……冷えれば、大丈夫だと思う。


   ……。


   だけど、まだ眠りたくない。
   出来れば、もう少しだけ起きていたい。


   ……なら、顔の熱が冷めるまで。


   ね……付き合って、呉れる?


   ……ん、勿論。


   良かった……。


   ……ねぇ、ユゥ。


   ん、なに……?


   ……先生がね。


   先生が、どうしたの……?


   ……添い寝をするくらいなら、構わないと。


   そいね……?


   ……昼に共寝をして、なんでもなかったのならば。


   あ……。


   ……ユゥは、どうしたい?


   あ、あたしは……添い寝、して貰いたい。


   ……。


   メ、メルは……?


   ……私は。


   い、いやなら……。


   ……添い寝、だけなら。


   し、して呉れる……?


   ……でも、ユゥ。


   え……?


   ……あくまでも、添い寝だけ。


   ……。


   それ以上のことは……まだ、だめ。


   ……うん、分かってる。


   ……。


   あたしは、ただ、メルと眠りたい……今夜は、それだけだよ。


   ん……なら、一緒に。


   や、やった……。


   ……。


   ね、もう……?


   ……入っても、良い?


   う、うん……おいで、メル。


   ……ん。


   ……。


   ……。


   ……メル、狭くない?


   ん、平気……。


   ……メル。


   ユゥ……。


   ……ほかほかして、あったかい。


   ユゥも……。


   ……熱じゃ、ないよね。


   ん……違うと思う。


   はぁ……良かった。


   ……ん、ユゥ。


   いいにおい……。


   ……湯浴み、したから。


   ……。


   ……ユゥ?


   なんだか……眠たくなってきちゃった……。


   ……。


   きゅうに、おかしいな……ねむたくなんか、なかったのに……。


   ……疲れが、出たのかも知れない。


   そう、かな……。


   ……きっと。


   ううん……メルと、いっしょだから……。


   ……一緒じゃない方が。


   やだ……いっしょが、いい……。


   ……。


   あぁ……まだ、ねむりたくないのに……。


   ……明日の朝、早く起きて。


   ん……メル。


   ……一緒に、お師匠さんの手記を。


   あぁ……うん……。


   ……私は、ちゃんと居るから。


   メ、ル……。


   ……あなたが、目覚めた時。


   ……。


   ……あなたの、すぐ傍に。


   いて……メル……。


   ……居るわ、ユゥ。


   ……。


   ……約束。


   ん……やくそく。


   ……。


   ……。


   ……おやすみなさい、ユゥ。


   う……ん……。   


  20日





   ……まぁまぁ、だったわね。


   ん、なんだい……?


   別に……なんでも。


   何か、言ったろ……?


   言ったとしても、他愛のないことだから。


   あたしに関係がないと言わないのなら、聞かせて欲しい。


   ……。


   なぁ……。


   ……ん、ジュピター。


   聞かせて呉れ……マーキュリー。


   ……熱い、離れて。


   良いだろう……?


   ……良くない、離れて。


   分かった……離れるから、聞かせて呉れ。


   そんなに聞きたいの……?


   ……聞きたい。


   ちょっと……。


   お前の……此の柔らかな唇から紡がれる言葉ならば、どんなことでも。


   ……気障ったらしい。


   思っていることを、言葉にしただけなんだけどな……。


   ……離れるのでは、なかったの?


   聞かせて呉れたら……離れる。


   条件が変わってるのだけれど……?


   ……大した違いはないだろう?


   あるわよ……大違いだわ。


   ……離れたくないんだ。


   なら、言わない……。


   ……。


   ん……ジュピター。


   ……いいにおいだな。


   もう、興味がないのね……。


   ……興味はあるし、聞きたいけれど、それ以上に離れたくない。


   私は離れて欲しいわ……熱いから。


   ……マーキュリー。


   そんな声……出さないで。


   ……どんな声だった?


   分かっているくせに……。


   ……自分では、分からないものなんだよ。


   ……。


   なぁ、マーキュリー……もっと、欲しいんだ。


   ……もう、だめよ。


   一度だけでは、足りない……。


   ……私は、一度だけで十分よ。


   う……。


   ……さぁ、大人しく眠って。


   眠れない……眠れないよ、マーキュリー。


   ……駄々を捏ねないで。


   だって、久しぶりじゃないか……。


   ……然うさせたのは、他ならぬ、あなた自身でしょう。


   躰の中の熱が、まだ、冷めそうにないんだ……。


   ……雷気が暴発しなければ、それで良い。


   然うならないとは、限らない……。


   ん……しつこい。


   ……一度しか、していないのに。


   一度でもしたのだから、良いでしょう……あなたの欲を、私に押し付けないで。


   な……これもちょっとした駆け引きなんだろう?


   ……駆け引きですって?


   いつも然うやって、あたしにつれない態度を取るんだ……。


   ……然ういう時も、あるかも知れないけれど。


   今夜も、然うなんだろう……。


   ……今夜はもう、するつもりはないわ。


   マーキュリー……そんなこと、言わないで呉れよ。


   ……あの子達は、大人しく眠っていると言うのに。


   本当に、大人しく眠っていると思うか……?


   ……あの子達が、欲に身を任せているとでも?


   分からないだろう……なんせ、あいつらも久しぶりなのだろうから。


   生憎……あの子達はあなたのように愚かではないの。


   その強い衝動に、どうしても抗うことが出来ず……愚かかも知れないが、然ういう時だって生きてりゃあるものさ。


   躾がされていない獣の子とはもう違うわ……同じにしないで。


   ……躾が、されていようとも。


   ん……。


   ……求める心を抑え切れない時は、誰にだって、必ずある。


   今夜は……理性が、勝つわ。


   ……今夜は?


   無理をすれば……また。


   ……ゆっくり、やれば良い。


   高熱を出してしまうかも知れない……。


   ……出さないかも、知れないだろう?


   高熱は、出さずとも。


   ……だったら。


   やっと安定してきた体温を、再び、不安定にさせる可能性はある……それも、高い確率で。


   それは……ないとは、言い切れないな。


   ……それを、あの子はちゃんと分かっているの。


   で、あるならば……。


   あの子はそれを望まない……決して、ね。


   ……あいつは。


   あなたと違って、真面目だから。


   ……まだまだ、獣の子だぞ。


   けれど、欠陥品ではないわ……。


   ……どうせ、あたしは不真面目な欠陥品だよ。


   然うね……。


   ……だからこそ、お前と相性が合っているんだけどな。


   は、どこが……。


   ……躰も。


   もうだめだと、言っているでしょう……?


   ……言うことを聞かないのは、お前の躾の失敗だ。


   あなたが……ん、不良品なだけよ……。


   ……お似合いだ、不良品同士。


   同じに、しないで……。


   ……やっぱりやらかいなぁ、お前の胸は。


   はぁ……。


   ……左腕が、あればなぁ。


   ……。


   な……気持ち良いだろ?


   ……望んでいない時の行為ほど、気持ちが悪いものはないわ。


   ……。


   ……ジュピター。


   分かったよ……調子に乗って、悪かった。


   ……。


   もう、しまいにする……だから、怒らないで呉れ。


   ……怒っては、いない。


   なら……此処に居ても、良いか?


   ……床が良いのなら、勝手にどうぞ。


   嫌だ……お前の隣が良い。


   ……なら、居れば良い。


   応……。


   ……。


   な……抱き締めるくらいなら、良いだろう?


   ……それで、済むのなら。


   あぁ……大丈夫だ、躾がされているからな。


   ……なら、取り消して。


   あ……?


   ……私は、失敗などしていないわ。


   あぁ……取り消すよ。


   ……。


   ……なぁ、マーキュリー。


   何……。


   ……飯、どうだった?


   言ったと、思うけれど……。


   ……味は悪くない、とは言われた。


   それ以上、何を求めるの……?


   ……。


   ジュピター……?


   ……四人で食うと、やっぱり良いな。


   然うかしら……私は静かに食べたいわ。


   ……お前は、素直じゃないから。


   あの子とふたりだと、本当に静かで……。


   ……メルが、気の毒だ。


   は……?


   ……あの子はお前と楽しく食べたいと、然う思っているだろうに。


   私と……?


   ……然うだよ。


   あの子はそんなこと、思っていないわ……。


   ……本当に、然う思っているのか。


   悪い……?


   ……悪いよ。


   悪いとしても……私にはあの子を楽しくさせることなんか出来ないわ。


   ……お前は、素直でない上に不器用だからなぁ。


   それが、私なの……。


   ……。


   ……今更、どうしようもない。


   然うでもないさ……ひとは、変われるものだからな。


   ……今更。


   少しだけでも良いから、楽しくしてやれ……素直になれとは、言わないから。


   ……無理。


   それもまた、心を育てることになる……然うだろう?


   ……私がせずとも、あの子の心は育っているわ。


   お前だって、育てているよ……ちゃんと、な。


   ……出しゃばり。


   はは……。


   ……あの子は、私と話しても楽しくないのよ。


   は……?


   ……一応、話しかけてはいるの。


   お前……。


   ……何。


   気にしているのなら、早くあたしに言えよ……。


   ……別に、気にしてなどいないわ。


   いや、気にしてるだろ……お前は、いつも然うなんだ。


   ……それでも、私は楽しいから。


   や、お前だけが楽しくても……いや、本当に楽しいのか。


   ……楽しいわよ。


   無理してないか……?


   ……していないわ。


   まぁ、確かに楽しんでいるようには見えるが……。


   ……だから、楽しんでいるのよ。


   零すということは……全く、気にしていないわけではない。


   ……気にしてどうするの、時間の無駄だわ。


   はぁ……お前って奴は、本当に。


   ……五月蠅い、早く寝て。


   寝る前に、少し話そうか……。


   ……話さない。


   聞いて欲しいんだろう……?


   ……あなたが勝手に然う思っているだけよ。


   な、マーキュリー……あいつらは、あたしとふたりで育てているんだ。
   だから


   例えば。


   お……。


   私が、あなたに話したいと思っていたとして。


   お、応……


   あなた、居なかったわよね。


   ……お。


   今日まで、帰って来なかったわよね。
   私に、ふたりを任せて。


   あ、あー……。


   なのに、どの口がそんなことを言っているのかしら。


   こ、此の口、かな……。


   あなたが居ない間、私があのふたりを見ていたの。
   ひとりは重傷、ひとりは心此処に在らず。此れがどういうことか、分かる?


   そ、然うだな……確かに、然うだ。


   何が然うなの。
   私は、分かるかと聞いているの。


   わ、分かる……とは、言えない。


   ええ、然うでしょうね。


   た、大変だった、よな……?


   重傷の方はどうにかなるにしても、心此処に在らずの方は、ね。
   ひとつ間違えれば、どうなっていたか。折角、あそこまで育ってきたと言うのに……ねぇ。


   あ、あぁ……。


   あなたの家に毎日通って、部屋を整えて、空気が濁らないように管理し、おまけに畑の世話もして。
   勿論、あの子の身の回りのお世話もして貰ったわ……何かをさせていなければ、あの子は心を保てなかったかも知れないから。


   ……。


   あなたが居れば、幾分かは、ましだったかも知れないけれど。
   とは言え、分からないわね……あの子にどんな顔をして良いのか、分からないあなたでは。


   ……。


   結局、あの子はあなたのことなんて気にしていなかったし、だからこそ、あの子が作ったごはんをあなたは食べられた。
   まぁ、別の意味では気にしていたかも知れないけれど。


   ……別の。


   子供に心配させて、楽しい?


   た……楽しく、ないです。


   然う……それで、あなたは、何をしていたの?
   何処かに行ったまま一度も帰らず、何をしていたと言うの?


   ……ごめんなさい。


   謝れと言っているわけではないわ。


   そ、それでも、悪かった……も、もう、帰って来ないなんてことは、しないから。


   何処で、何を、していたの?


   ……あの、畑で。


   あの畑で?


   ずっと、緑と……あと、鍛錬。


   ……食事は。


   く、食ってはいた……けど。


   ……けど、料理はしなかった。


   だ、だからな……メルの作った飯が、本当に美味そうで。


   はぁ……然うだろうとは、思っていたけれど。


   ……。


   ジュピター。


   ……はい。


   行きたいのなら、何処にでも行けば良い。帰って来なくても良い。
   但し、あの子を連れて。私では、無理だから。


   そ、それは、あいつが……。


   連れて行って、然うして、あの子から引き離せば良い。


   それは、出来ない。あいつらは、ふたりだから良いんだ。
   それを無理に離したりなんかしたら、心が不安定になってしまうかも知れない。
   いや、必ずなる。


   ええ、然うでしょうね。


   そんなことは、出来ない。
   お前だって、分かっているだろう?


   ええ、分かっているわ。
   分かっている上で、言っているんだもの。


   う。


   それこそ……痛いほどに、ね。


   ……。


   ……あなたの肝魂が小さいのなんて、疾うの昔から知ってる。
   だからこそ……私から離れるなと、私は言っているのよ。


   か、帰って来る……帰って、来るろ……。


   来るろって、何。


   く、来るよ……お、お前から、もう、離れない……。


   ……そもそも、離れたくなんてなかったのでしょう。


   ……。


   本当に、救いようのない莫迦ね。


   ひとりにさせて……本当に、申し訳なかった……。


   ……はぁ。


   マ、マーキュリー……。


   ……どうしてこんな話になっているのかしら。


   あ、あの……。


   何、ジュピター。


   ……改めて、ごめんなさい。


   ……。


   ……。


   ……二度と、同じことはしないと誓えるのなら。


   誓う……もう二度と、こんなことはしない。


   ……。


   ……う。


   私ひとりでは……あの子達を、あの子達の心を育てることなんて、出来ない。


   ……あぁ。


   勿論、あなたひとりでも。


   ……お前の、言う通りだ。


   そして……あの子達だけでも。


   ……偏って、しまうから。


   ……。


   ……。


   ねぇ、ジュピター。


   ……はい、マーキュリー。


   この話は、しまいよ。


   は、はい……え。


   ……今夜は、もう。


   え、えと……ということは。


   ……。


   ね、寝た方が、良いか……?


   寝て。


   お、応……。


   ……。


   ……おやすみ、マー


   まぁまぁ、だったわ。


   ……え。


   四人での食事。


   ……あたしは、楽しかったよ。


   あぁ、然う。
   それは、良かったわね。


   ……お前が作った薄麦餅も、とても美味かった。


   ……。


   今夜は……離れない。


   ……それ、食事とは全く関係ない。


   うん……ごめん。


   ……今夜だけではないわ。


   ……。


   ……だからって、毎夜共寝をするわけではないわよ。


   わ、分かってる……。


   ……腕。


   う、腕……?


   ……。


   あ、分かった……。


   ……遅い。


   ……。


   ……はぁ、なんだか疲れたわ。


   ゆっくり、休もう……。


   ……然うしたいわね。


   ……。


   ゆっくり休みたいのだけれど。


   ……抱き締める、だけ。


   腕が、足りない。


   ……一本だけでも。


   それは、枕に……ん。


   ……足りないかも知れないが。


   足りないわ……。


   ……あたしも、足りない。


   ……。


   それでも……ないよりは、ましだろ?


   ……長さが足りていない腕でも?


   応……。


   ……。


   なぁ、マーキュリー……。


   ……なに。


   一度だけでも……優しくして呉れて、ありがとうな。


   ……何を言うのかと思えば。


   ほ、本音を言えば、二度……。


   ……。


   ん……?


   ……ユゥに何かあったら、起きないといけないの。


   然うか……然う、だよな。


   ……あの子が、傍に居たとしても。


   メルはずっと、居て呉れたのか……。


   ……それが、あの子の為でもあったから。


   何か、作ってやりたいな……。


   ……あの子の、好きなものをね。


   あぁ……幾らでも、作ろう。


   ……。


   お前にも、作るよ……豆の甘煮以外で、何が良い?


   ……琥珀糖。


   琥珀糖?


   ……明日にでも、作って。


   分かった……明日、作ろう。


   ……緑が良いわ。


   緑……。


   ……ねぇ、ハリヨ?


   ……。


   ……。


   ニロ……。


   ……だめよ。


   む……。


   ……。


   ……な、明日は美味しいお茶が飲みたいな。


   勿論、あなたが淹れて呉れるんでしょうね……。


   ……四人で、飲めると良い。


   ……。


   ……。


   ふ……。


   ……可笑しいか。


   ええ……可笑しいわ。


   ……可愛いな。


   意味が分からない……。


   ……可愛いに、他の意味なんてないさ。


   ……。


   いい加減、寝ないとな……おやすみ、マーキュリー。


   ええ……お休みなさい、ジュピター。


   ……。


   ……。


   ……ぅ。


   ……。


   マーキュ……。


   ……。


   ……素直に、応じても良いか。


   何に、応じるの……。


   ……お前の、誘いに。


   誘ってなど……いないわ。


   ……違うのか。


   いない、けれど……。


   マーキュリー……メル。


   ……ニロ、で。


   けれど、なんだい……ニロ。


   ……付き合ってあげても、良い。


   何に……。


   ……聞くの?


   野暮、だな……。


   ……気が変わってしまうわよ。


   それは、いけない……。


   ……ぁ。


   気が、変わってしまう前に……。


   ……直ぐ、変わるわ。


   その前に……。


   ……。


   ……大好きだ、ニロ。


   私は……。


   ……もう一度、優しくして呉れ。


   もう、十分に……。


   ……。


   はぁ……仕方ないわね。


   ……あぁ、仕方ないんだ。


   自分で、言わないで。


   ……。


   ……。


   ……。


   ……ハリヨの、ばか。


   あぁ……。


   ……ん、かまないで。


   好きだ……大好きだ……メル……。


   ……だか、ら。


   ……。


   あぁ……もぅ。


   ……。


   ……つよくは、かまないで。


   あぁ……やくそく、する……。   


  19日





   ユゥ?


   ……ん、メル。


   ごめんなさい、待たせてしまって。


   ううん、大丈夫だよ。


   若しかして、眠ってた?


   ううん、起きてた。


   ……。


   お湯、作って呉れてありがとう。


   水だと……躰を、冷やしてしまうから。


   ……?


   ……。


   メル、どうしたの?


   ……先生、来てた?


   先生?


   ……来てた?


   うん、メルが来るちょっと前までここに居て呉れたよ。
   ふたりでお話して、琥珀糖を食べたんだ。


   琥珀糖を?


   師匠が作った琥珀糖だよ。


   まさか、帰って来たばかりのお師匠さんに作らせたというの?


   ううん、保存容器に入れておいたんだって。


   ……本当に。


   見て、メル。


   ……でも、然うかも知れない。


   メルと同じ、とってもきれいな青。


   ……うん、きれいね。


   ね。


   ……先生と、同じ青。


   でね、これはメルの分。


   ……私の?


   ん。


   ありがとう、ユゥ。
   先生にも、後でお礼を言っておくね。


   うん。


   ……。


   ね、メル。


   ……なぁに?


   琥珀糖、今度あたしも作ってみようと思うんだ。
   そしたら、食べて呉れる?


   ……ん、食べたいわ。


   師匠みたいな、きれいな琥珀糖は作れないと思うけど……それでも、良い?


   私は、ユゥが作って呉れる琥珀糖も好きよ。


   形が、悪くても?


   形が、悪くても。


   色に、斑があっても?


   色に、斑があっても。
   ユゥが作る琥珀糖の優しい甘みが好きなの。


   そ、そしたら、メルと同じ色にするね。


   私……。


   あ、違う色の方が良い……?


   ……ユゥの瞳と同じ色のものが、特に好き。


   あたしの……緑?


   ……とても、きれいだから。


   な、なら、青と緑の琥珀糖を作る……。


   両方なんて……手間じゃない?


   て、手間じゃないよ。


   ……。


   手間じゃないから……。


   ……ユゥ。


   青も緑も、出来るだけ、きれいに作る……作りたい。


   ……斑があるのも、私は好きよ。


   ……。


   濃淡があって……それも、きれいだと思うから。


   メル……。


   ね……ユゥ。


   ……なぁに、メル。


   ……。


   あ……もう、拭いて呉れる?


   ……色々、聞かれた?


   え?


   お散歩のこと。


   あぁ……ん、聞かれた。


   ……ちゃんと報告したのに。


   先生、あたしとも話したかったんじゃないかな。
   ほら、躰のこともあるしさ。疲れとか、違和感とか。あと、熱とかも。


   ……然うよね、ユゥの躰のことはユゥでなければ分からないものね。


   然うだ。
   メル、聞いて。


   ……なに?


   あたしね、先生に褒められたんだ。


   ……何を褒められたの?


   げんごか、出来たこと。


   言語化?


   うん。


   何を言語化出来たの?


   あたしの、鈍いところ。


   ……鈍いって?


   あたし、痛みとか、疲れとか、自分の躰なのに気が付かないことが多いだろう?
   今日のお散歩でも、メルが気が付いて呉れなかったら、分からないまま進んでいたと思うんだ。


   ……。


   メルが休もうって言って呉れなかったら、あたし、今頃熱を出していたかも……メル?


   ……痛みや疲れに、鈍いままだったら。


   メル、どうしたの……?


   ……それらを、言葉にすることは出来ないまま。


   メ、メル……?


   だけど確かに、自分の鈍さを自覚してそれを言葉に出来たのなら……先生は、それを褒めたのね。


   ど、どうしたの……?


   ねぇ、ユゥ。


   な、なに……。


   先生に褒められて、嬉しかった?


   う、うん、嬉しかった……けど。


   けど?


   ……メル、若しかして怒ってる?


   ううん、怒ってはいないわ。
   どうしてそんなことを聞くの?


   怒ってはいないけど……何か、思ってる?


   何かって?


   その……どう言って良いか、分からないけど。


   言語化、出来ない?


   な、なんて言って良いか、分からない……。


   ……。


   メル……怒っては、いないんだよね?


   ユゥ。


   な、なに。


   先生、私に何か言っていなかった?


   メ、メルに?


   然う、私に。
   伝言か、何か。


   えーと……。


   何も言っていないのなら、それで良いの。


   あ、然うだ。
   あたしの躰を拭いたら、講義を始めるって。


   それだけ?


   う、うん、それだけだったと思う。


   然う。


   ……あの、メル?


   ユゥ、躰を拭くから。


   あ。


   取り敢えず、上衣を脱いで貰っても良い?


   え、う、うん、分かった。


   でも、その前に。


   ……へ。


   部屋の中、寒くはない?


   んー……うん、寒くはないよ。


   ……やっぱり、脱がなくて良いわ。


   え、良いの?


   ん……着たままでも、拭けるから。


   でも、脱いだ方が拭きやすくない……?


   ユゥは、脱ぎたいの?


   ぬ、脱ぎたいってわけではないけど……。


   ……。


   拭いて貰うなら……脱いだ方が、良いと思うから。
   その方が、メルは拭きやすいと思うから……。


   ……別に、私はどちらでも。


   メル……若しも、若しもね。


   ……。


   何か思っていることがあるなら、言って欲しい。


   ……どうして。


   今のメルを見ていると、そんな気がするんだ……。


   ……。


   違ってたら、ごめん……。


   ……ごめんなさい、ユゥ。


   え、ど、どうして……?


   ……。


   メル……どうして、謝るの?


   ……私ね。


   うん……。


   ……ユゥと先生がふたりきりになるのが、嫌なの。


   え……。


   ……胸の奥がざわざわして、落ち着かなくなるの。


   胸の奥……心?


   ……感情が、上手く抑えられなくなるの。


   それって……。


   ……それが何か、分かってはいるのだけれど、今は未だ言葉にはしたくない。


   わ、分かった、なら聞かない。


   ……ごめんなさい。


   良いよ、謝らないで。


   だけど、ユゥを困らせて……私、意地の悪いことをしていると思うの。


   そんなこと……。


   ……本当に、ごめんなさい。


   ……。


   その……出来るだけ、抑えられるようになるから。
   もっと、冷静に……考えられる、ように。


   ねぇ、メル。


   ……。


   胸の奥がざわざわすること、あたしにもあるよ。


   ……ユゥにも?


   メルが師匠と話している時、あと、メルが師匠の話を嬉しそうにして呉れる時も。


   ……。


   なんかね、胸の奥の……心がざわざわってして、面白くないんだ。


   ……ユゥはそれが何なのか、分かっているの?


   面白くないってことだけは、分かってる。


   ……。


   ごめんね、メル。


   ……ううん、謝らないで。


   なら、メルも謝らないで。


   ……。


   メルが怒ってないなら、あたしはそれで良いんだ。


   ……ユゥ。


   あ、いや、良くないかも。
   メルの心がざわざわしないように、あたしは何をすれば良いんだろう。


   ……ね、ユゥ。


   どうすれば、良いかな……。


   ユゥは……私だけ、なんだよね。


   ……メルだけ?


   その……抱き締めたく、なるのは。


   うん、然うだよ。
   メルだけなんだ、あたしが抱き締めたいのは。


   ……先生のことは?


   抱き締めたいとは、思わない。


   ……けど、抱き締められたら、嬉しい?


   え。


   ……嬉しい、よね?


   そ、それは……そのぅ。


   ……ふふ。


   ご、ごめんね……?


   ……ううん、良いの。


   い、良い……?


   ……私も、お師匠さんに頭を撫でられると嬉しくなるし。


   は。


   ……先生に、撫でられても。


   メ、メル、師匠に頭を撫でられると嬉しいの?


   ……うん、嬉しい。


   じゃ、じゃあ、あたしに撫でられるのは?


   ユゥに?


   師匠よりも、嬉しい?


   ……然う、ね。


   う、嬉しくない?


   ……嬉しくないわけでは、ないけれど。


   ない、けれど……?


   ……そんな機会、あまりないし。


   そ、然うだったっけ……?


   ……それに、ユゥに頭を撫でられる時って。


   じゃ、じゃあ、これからはもっと撫でる。


   ……いつ、撫でて呉れるの?


   い、いつだって、あたしは構わないよ。
   メルが、撫でて欲しい時に……その、幾らでも。


   ……普段は、あまりないかも。


   な、ないの?


   私がお師匠さんに頭を撫でられる時って、大抵、褒められる時だし……。


   あ、あたしも、褒める。


   ……。


   あたしもメルのこと、褒めて、それで。


   ……それも、嬉しいけど。


   け、けど、何?


   ……。


   お、教えて……呉れない?


   ……今は、言えない。


   い、今は……?


   ……だって、言葉にしたら。


   し、したら……?


   ……言わない。


   え……えぇ。


   ……。


   ね、ねぇ、例えば、今だったらどうかな……?


   ……今?


   メルの頭を……。


   ……今は、そんな気分ではないから。


   き、気分……??


   ……。


   き、気分が、あるんだ……いや、ある、かも。
   うん、ある……気分は、あるよね……うん、あるよ……あるんだ、気分。


   ……ふふふ。


   うぇ……?


   ……撫でて、呉れる?


   え、今……?


   ……だめ?


   だ、だめじゃないけど、良いの……?
   き、気分は……?


   ……変わったの。


   そ、然うなの……?


   ……うん、然うなの。


   じゃ、じゃあ……あ、頭を。


   ……こう?


   う、うん……。


   ……。


   な、撫でるね……?


   ……ん。


   こう、かな……。


   ……。


   それとも……こう。


   ……ふふ、ユゥったら。


   あ、だめだった?


   ……ううん、だめじゃないわ。


   ほ、本当に……?


   ……。


   えと……もう、止めた方が良い?


   ……ふたりで、眠る時に。


   うん……?


   ……撫でられるのが、一番好き。


   ふたりで、ねむるとき……。


   ……。


   ……あ。


   ……。


   メ、ル……。


   ……そろそろ。


   そ、そろそろ……?


   躰を、拭こうと思うのだけれど……良い?


   ……へ。


   お湯が、冷めてしまう前に……。


   あ、うん、然うだった……えと、脱いだ方が良い?


   ……どちらでも。


   な、なら……脱ぐ。


   ん……なら、直ぐに拭いてしまうわ。
   躰が、冷えてしまう前に……。


   ……。


   ……。


   ……お願いします、メル。


   ん……任せて、ユゥ。


   ……。


   ……痛かったら、言ってね。


   うん……多分、痛くなんてないだろうけど。


   ……。


   ……ね、メル。


   なぁに……。


   師匠……今、何してるか知ってる?


   お師匠さん……?


   先生は、ごはんの支度をしてると言ってたけど……。


   ……ごめんなさい、お師匠さんのことは見ていないの。


   そっか……。


   ……だけど、先生が然う言っていたのなら、然うなのだと思う。


   ……。


   ……言っていた通りに、なるかしら。


   屹度、なると思う……。


   ……。


   嬉しい……?


   ……うん、とても。


   ……。


   ……四人が揃うのは、久しぶりだから。


   然うだね……本当に、久しぶりだ。


   ……ユゥは?


   あたし……?


   ……嬉しい?


   うん……とても、嬉しい。


   ……良かった。


   楽しみだね……ごはん。


   ……うん、楽しみ。


   ……。


   ……。


   ……あぁ、気持ち良いなぁ。


   ね、ユゥ……。


   ……ん?


   少し、良い……?


   うん……良いよ。


   ……。


   ……琥珀糖?


   ごめんなさい……拭いている時に。


   良いよ……食べて。


   ……。


   ……ん?


   ユゥ……。


   ……メル?


   ごめんなさい……。


   ……ぁ。


   少しだけ、だから……。


   ……


   ……。


   ……あまい。


   突然……ごめんなさい。


   ……。


   ん……ユゥ。


   ……もう一度、良い?


   あ……ん。


   ……。


   ……ユ、ゥ。


   うん……やっぱり、甘い。


   ……この時も、好き。


   この時……?


   ……そっと、撫でて呉れるから。


   そっと……あぁ。


   ごめんなさい……急に、こんなことをして。


   ……ううん、嬉しいから。


   ……。


   ……ね、またする?


   もう、しない……。


   ……そっか。


   今は……躰を、拭かないと。


   なら、拭き終わってから……メルが、講義に行く前に。


   ……。


   だめ、かな……。


   ……考え、させて。


   ん、分かった……。


  18日





   お帰りなさい、ユゥ。


   ん……メル?


   残念ながら、私はあなたのメルではないわ。


   あ、先生……。


   今、話しても良いかしら。


   うん、良いよ。
   丁度ぼんやりしているところだったから、先生とお話したい。


   ふふ、ならお話しましょうか。


   へへ、うん。


   先ずは確認から。


   はい、先生。


   うん、良い返事ね。
   それでは、今現在の躰の調子はどう?


   動かしたからかな、少し軽くなったような気がするよ。


   歩いていて、違和感はなかった?


   歩くのは遅かったけど、どこも違和感はなかったよ。


   途中で、疲れてしまわなかった?


   あたしは、そんなに感じてはいなかったんだけど、メルが気が付いて呉れて。
   それで、ふたりでお休みしたんだ。


   何処で休んだの?


   家の近く、畑が見え始めるところ。


   其処まで来たら、あなた達の家はもう直ぐだったわね。


   うん、然うなんだ。


   ユゥとしては、疲れは感じていなかったのよね?
   休まずに行きたいとは思わなかったの?


   ……。


   ユゥ?


   あたしは、早く家に行きたいって思った。
   休んでいたら、それだけ遅くなってしまうから。


   それなのに、どうして?
   あの子が言ったから?


   ……メルが言ったからと言うのは確かにあるけれど。


   けれど、何?


   それ以上にメルの気付きは、あたしにとって、とても大事なものなんだ。


   それは、どうして?


   あたし、どこか鈍いみたいなんだ。


   鈍いとは?


   痛みとか、疲れとか、自分の躰なのに気が付かないことがあるんだ。
   それは詰まり、あたしが鈍いからなのかなって。


   今回も、あの子に言われるまで、気付いていなかった。


   うん。だからね、メルが止めて呉れて良かったと思ってるんだ。
   気付かずに無理をしていたら、また、熱を出していたかも知れない。
   先生との約束も、守れなかったから。


   ……。


   先生?


   言語化出来るようになったのね。


   げんごか?


   自分の言葉にすること。
   今回は、己の鈍さについて。


   ……それって、良いこと?


   ええ、とてもね。
   あなたにとっても、あの子にとっても。


   へへ、そっか。


   今は、どう?


   今?


   疲れてはいない?


   今はもう、大丈夫だよ。
   帰って来た時は少し疲れてたけど、お休みしたから。


   気分は? 悪くない?


   うん、悪くない。


   然う、良かったわ。


   ねぇ、先生。
   あたしからも、良い?


   何かしら?


   ただいま、先生。


   ……。


   ちゃんと返してなかったから。


   あぁ、然うだったわね。


   メルと散歩に行かせて呉れてありがとう、先生。
   とっても、楽しかったよ。


   ちゃんと帰って来られたようで、何より。


   ふふ、うん。


   だけれど、今日はもう休養。
   明日まで躰を休めること。良いわね?


   はぁい。


   ……。


   ん……先生。


   ……ほんの少し、熱いわね。


   気持ち良い……。


   ……お腹は、どう?


   お腹……?


   違和感は、ない?


   んー……違和感は、ないけど。


   空いた?


   うん、少し……多分、躰を動かしたからだと思う。


   ……順調に、機能回復しているようね。


   あの、先生……。


   少しならば、食べても良いわよ。


   え、良いの?


   ええ、少しならばね。


   やった。


   今直ぐ、食べたい?
   それとも、夕食まで我慢出来る?


   夕食まで我慢出来るよ。
   あと、もう少しだし。


   ならば、此れを。


   うん?


   此れくらいならば、問題ないわ。


   これ……こはくとう?


   然う、琥珀糖。


   きれいな青だ……師匠が、作ったの?


   ええ、然うよ。


   今、作ったの?


   いいえ、保存容器に入れて取っておいたの。
   あのひとなら今、今夜の食事の支度をしているわ。


   ……。


   どうしたの?
   琥珀糖では、お気に召さないかしら?


   ……これ、本当にあたしが食べても良いの?


   ええ、良いわよ。


   でも、先生が食べる為に取っておいたんだよね?


   然うだけれど、構わないわ。


   ……また、作って貰う?


   然う、また作らせるから。
   あなたは何も気にしないで良いの。


   ……。


   安心した?


   うん……した。


   然う……なら、どうぞ。
   ふたつくらいなら、大丈夫よ。


   ありがとう、先生。


   どういたしまして、ユゥ。


   えへへ……いただきます。


   どうぞ、召し上がれ。


   ……ん、あまぁい。


   美味しい?


   うん……おいしい。


   ……。


   師匠が作る琥珀糖……いっつもきれいで、あたしもこんな風に作れるようになりたいな。


   あなたなら、作れるようになるわ。


   然うかな、なれるかな。


   作れるようになりたいと努力を重ね続ければ、あなたならいずれ、作れるようになる。


   努力することを止めたら。


   当然、作れるようにはならないわね。
   止めてしまったら、そこでおしまい。


   師匠も、きれいに作れるように努力したのかな。


   したかも知れないし、していないかも知れない。


   えと、どういうこと?


   あのひとは、然ういう姿を私には見せなかったの。


   ふぅん……然うなんだ。


   あのひとが作れるんだもの、あなたが作れないわけない。
   私は、然う思っているけれど。


   ね、ねぇ、先生。


   なに?


   上手に作れるようになったら、食べて呉れる?


   食べさせて呉れるのなら、食べたいわ。


   良し、頑張ろう。


   だけどね、ユゥ。


   や、やっぱり、食べたくない?


   然うではなくて。


   ん。


   今のあなたが作る琥珀糖も、私は好きよ。


   ……あ。


   屹度、あの子もね。


   でも、形が……色も均等でなくて、斑(むら)があるし。


   それでも、味は悪くないわ。


   ……師匠の琥珀糖の方が、美味しいよ。


   然うかしら。


   ……先生?


   私はどちらも美味しいと思うわ。


   ……。


   さぁ、もうひとつ。


   ……うん。


   はい。


   ……へ。


   あーん?


   じ、自分で、た、食べられるよ。


   今ならあの子も居ないし、ね。


   え、えぇ?


   はい、ユゥ。
   あーん。


   あ、あー……。


   ……。


   ……ん。


   どう、美味しい?


   ……う、うん、おいしい。


   然う……良かったわ。


   ……師匠のは、程良く甘いんだ。


   あなたのは、甘過ぎなくて美味しいわよ。


   ……へへ。


   ふ……。


   ……あ、然うだ。


   うん?


   先生、ありがとう。


   琥珀糖?


   琥珀糖もだけど、畑の世話と家の管理、それからあたしの寝台を整えて呉れて。


   あぁ……寝台も、見たのね。


   うん、見た。
   枕当てと敷布が新しくなってて、毛布もふかふかで、吃驚しちゃった。


   勝手に取り替えてしまって、ごめんなさいね。


   ううん、メルと先生ならあたしは全然構わないんだ。


   新しい枕当てと敷布は、気に入って貰えたかしら?


   うん、とっても。気に入らない理由なんて、どこを探したって見つからないよ。
   これからはあんなにきれいな枕当てと敷布で眠れるんだって思ったら、すっごく嬉しくて。


   然う……然う思って貰えるのならば、新しいものを用意した甲斐があったわね。


   改めてありがとう、先生。
   枕当てと敷布は、ずっとずっと大事にするよ。


   ねぇ、ユゥ。


   なぁに、先生。


   新しい枕当てと敷布、あの子と一緒に眠るのにも良いでしょう?


   うん、だから寝ちゃったんだ。


   ふぅん、然うなの。


   寝転がったら、とても気持ちが良くてね。


   あの子も、気持ちが良くて?


   然うなんだ、メルもすごく気持ちが良くて


   久しぶりだものね、あの子を抱き締めて眠るのは。


   うん、久しぶり……うん?


   早速、あの子と共寝をしたと。


   ……とも、ね?


   違うの?


   ……っ、ち、違うよ……!


   けれど、直ぐに眠ってしまったのでしょう?
   あなたの寝台で、あの子と。


   そ、然うだけど、そ、然うじゃなくて、その、お、お昼寝……。


   お昼寝も、共寝に違いないと思うけれど。


   ……あ。


   あ?


   や、その……。


   どうしたの、ユゥ?
   何を慌てているのかしら。


   あ、あの、あのね、先生……。


   取り敢えず、落ち着きましょうか。


   た、確かに、メルと寝ちゃったけど、


   抱き締めて?


   だ、抱き締めた、けど、た、ただの、お昼寝で……。


   ただのお昼寝で、なぁに?


   い、いつもじゃ、な、ないんだ。
   こ、今回は、た、たまたま……然う、たまたまなんだ。


   偶々?


   そ、然う、たまたま……い、一緒に、寝転がったから、だから。


   それで偶々、あの子を抱き締めてしまったの?


   そ、それは……た、たまたまじゃ、ない。


   うん、どういうこと?


   だ、抱き締めたくて……だ、だから。


   だから、なぁに?


   ……だから、その。


   あの子は、嫌がってなかったのでしょう?


   ……いやがっては、なかったと思う。


   然う、なら良いわ。


   ……。


   顔が真っ赤になっているわね、また熱が出てきたのかしら。


   ……からだはあついけど、その熱ではないと思う。


   然うかしら……。


   ……ぅ。


   ふふ……可愛いわね。


   ……せんせ。


   兎に角、喜んで貰えて嬉しいわ……ユゥ。


   ……う、ん。


   どうぞ……あの子と、楽しんでね。


   ……っ。


   どう楽しむのかは、知らないけれど。


   あ、あうぅ……。


   ……ふふ、此の辺にしておきましょうか。


   ……。


   この後、あの子に躰を拭いて貰うのでしょう?


   ……。


   ユゥ?
   聞こえてる?


   ……先生、あたしね。


   何かしら?


   あたし……メルのこと、大好きなんだ。


   ええ、知っているわ。


   ……。


   見ていれば、分かるもの。


   ……いつから、知ってたの?


   あなたが、言葉を未だ喋れない頃から。


   そ、そんな?


   ええ、そんな前から。


   ……。


   ねぇ、ユゥ。


   ……な、に。


   あの子を好きになって呉れて、ありがとう。


   ……え。


   私とふたりでは、屹度、宿ることはなかった。
   所詮、同じもの同士では駄目なのだと、足りないのだと。


   ……先生?


   あなたが来て呉れたから、あの子の胸の奥に心が宿ったの。


   ……。


   ……少し触るわよ、ユゥ。


   え、あ、う、うん。


   ……。


   ……此の奥に、心は在るんだよね。


   然う……此の奥に、心は在る。


   ……此処は、心の在り処。


   あなたも、然ういうのね。


   ……師匠が、然う教えて呉れたんだ。


   私にも然う言って、聞かないの。


   ……師匠が、先生の言うことを聞かないの?


   然う、聞かないの。


   ……先生は、心は何処に在ると思っているの?


   そもそも、心なんて目に見えないものが本当に在るのか。
   それすらも、疑わしい。


   心は、ないと思っているの?


   だって、形がないでしょう? 形がないのだから、触ることも出来ないでしょう?
   視認も触手も出来ないそれは、果たして、在ると言えるのかしら。


   心は、在るよ。そして、その形は、ひとによって違うんだ。
   見えなくて、触ることも出来ないけど、ちゃんと在るんだよ。


   証明、出来る?


   しょうめい?


   在ると、私に示すことが出来る?


   それは……。


   あのひとに、然う教わったから?
   疑いもせずに、あなたは心の存在を信じているの?


   ……師匠はいい加減だけれど、嘘は吐かない。


   それだけ?


   それにね、メルを好きだと思うたびに、此の奥が熱くなるんだ。
   屹度、心が反応して熱くなっているんだって、あたしは思ってるんだ。


   それだけでは、証明した事には到底ならない。


   ……先生は、此の奥が熱くなることはないの。


   あるわ。


   ……あるの?


   残念ながら、ね。


   ……。


   だから……癪だけれど、完全に否定することは出来ないの。


   ……それって。


   本当、嫌になるわ。


   否定はしないってことは……心は在ると思ってる?


   在るとは、言い切れない……けれど、在るのではないかしら。


   う、うん……?


   あれだけ……それこそ、何百年も言われ続けたらね。


   なんびゃくねん……。


   ……気が遠くなる?


   分かんないけど……すごいなって。


   しつこいのよ、心のことを言い出したら本当に聞かないの。


   ……ごめんね、先生。


   うん、どうしてあなたが謝るの?


   師匠が、しつこいから。


   あなたが謝ることではないわ、ユゥ。


   ……。


   ねぇ、ユゥ……心を保つには、糧が必要なのよ。


   かて……?


   然う……心の、糧。


   心の糧って、なに?
   何をすれば良いの?


   それは、教わっていないの?


   うん、初めて聞いた。


   ……いい加減ね。


   いい加減なんだ、師匠は。


   毎日の食事のことを、青い星では、日々の糧とも言う。


   ひびのかて……ということは、心のごはん?


   ごはんと言うより、もっと大きな意味……然う、生きる為に必要なものと考えた方が適切なのかも知れない。


   生きる為に必要なもの……。


   確かに、食糧は躰を保つ為に、命を繋げる為に必要なものよ。
   それが足りなくなれば、ひとのこは、飢えて死んでしまうから。


   ……うえて、しぬ。


   月で生きている人形には、一生、分からない……理解し得ぬ、事柄。


   ……あたしは、少しだけ分かるかも知れない。


   どう、分かるの……?


   お腹が、あまりにも空き過ぎると……どこか、躰が弱っていくような気がするんだ。


   ……。


   そのままずっと、食べないでいたら……あたしも、飢えて死んでしまうんだよね。


   ……ええ、確実に死んでしまうわ。


   心も、然うなんだね。


   ……。


   心の糧が足りないと……心も飢えて、死んでしまう。


   ……己の心の糧は、何か。


   ……。


   そして……大切だと思うひとの、心の糧は何か。


   ……メル。


   己の糧は、分かるかも知れないけれど……他者の糧は、分かりづらい。


   先生も、分かりづらい?


   ……。


   先生……?


   ……あのひとが、分かりづらいと思う?


   あ。


   ……。


   師匠は、分かりやすい。


   ……それでもね。


   え、違うの?


   違わない……だけど、それでも、私がただ居るだけでは足りない時もある。


   先生だけでは、足りない……。


   ……心は、厄介なもの。


   ……。


   けれど……今更、なくしたいと思わない。


   ……なくさないで、欲しい。


   ……。


   ずっと、なくさないで欲しい……先生も、メルも。


   ……あの子が心をなくさないでいるには、保つには、どうしたって糧が必要になってくる。


   メルの、心の糧は……。


   ……。


   う。


   ……あの子の瞳の、心の光を絶やさぬように。


   絶やさぬ為に……。


   ……考えて、ユゥ。


   あたしが、出来ること……。


   ……傷を癒すだけでなく、飢えさせぬように。


   先生……あたし。


   ……ん、そろそろね。


   そろそろ……?


   ……躰を拭く支度が、出来た頃。


   メルが、来て呉れる……?


   許可はしたけれど……躰を、冷やしてしまわぬように。


   メルが拭いて呉れるのなら、大丈夫だよ。


   ……然う?


   うん……メルなら、大丈夫。


   ……それも、また。


   うん?


   ……いいえ、なんでもないわ。


   ……。


   あの子に伝えておいて。
   ユゥの躰を拭き終わったら、今日の講義を始めると。


   ん、分かった。


   では、また後でね。


   先生、琥珀糖美味しかった。


   それ、あのひとにも言ってあげたら?


   ……。


   喜ぶわよ。


   ……後で、言えたら言う。


   言えたら、ね。


   ……。


   まぁ、それでも良いわ。
   無理をしない程度に、ね。


   ……多分、言えると思う。


   ……。


   あーでも、屹度にやにやするよなぁ……。


   ……ふ。


   ……?
   先生……?


   私は言わないけど、って、思っただけ。


   ……ふはっ。


   あら。


   ふふ、先生らしいや。


   だって、癪なんだもの。


   分かる、癪だよね。


   然う、あの顔をされるのは癪なの。


   ふふ、すんごい分かる。


   ……だけど。


   あう。


   たまには喜ばせてあげるのも、良いかもね。


   ……糧?


   然う、糧。


   じゃあ、言ってあげようかな。


   適当に、ね。


   うん、適当に。


   ……。


   先生……?


   ……折角だから、置いて行くわ。


   メルの分……?


   ……食べなかったら、あなたに。


   屹度、食べると思う。


   ……それなら、それで。


   うん。


   じゃあ、また後でね……ユゥ。


   うん、また後で……先生。


  17日





   何をしているの。


   小腹が空いたから、飯を食ってる。


   あの子達は?


   もうじき、帰って来る。
   仲良く、手を繋いでな。


   それで?


   あいつは大丈夫だったよ。


   何が大丈夫なの。


   歩みはゆっくりしたもので決して速いと言えるものではなかったが、それでも足取りは鈍いものではなかった。
   詰まり、あたしの手は必要なかった。


   それは、結果。


   道中、ちび達は一度だけ休みを取ったんだ。
   どうやらメルが敷物を持って来ていたみたいでさ、それを丁寧に敷いて、ふたりで仲良く座って休んでいたよ。


   何処で。


   畑が見え始める辺り、あそこまで行けばうちは目と鼻の先だが、ちびの体力は残念ながら持たなかったみたいだ。


   初日でそこまで行ければ十分だわ。


   計算通り、か。


   続きを。


   ちびの動きが少しずつ鈍くなってきていることに、メルは気が付いたんだろう。
   でなければ、あんな家の手前で休みを取ることはない。少なくとも、ちびは進むことを望んでいたように見えた。
   そりゃ然うだ。あいつの頭の中は、少しでも早く家に着いて、メルと


   詰まり、あの子に疲労の自覚はなかったのね。


   あぁ、ちびは気が付いていなかっただろうな。いや、そもそも気付こうともしないさ。
   ただ単に躰が鈍っているだけ、体力が落ちているだけだと、然う思い込んでいるから。
   無理はするなと言われているが、どこからが無理なのかは、あいつにはまだ分からないんだよ。


   ……。


   彼処で休みを取ったのは、賢明な判断だ。
   でなければ、あたしの手が必要になったかも知れない。


   時間は?


   四半刻、くらいか。ふたりで仲良く座って、何かを……恐らくは、おまえが苦手な甘い白湯だな、それをふたりでゆっくりと飲んでいたよ。
   それから程なくしてちびがうとうととし始めたようだが、メルが優しく起こしていた。此処で眠っては躰を冷やしてしまうと考えたのだろう。
   まさにその通りで、どこまでも賢明な判断だ。敷物と温かい飲みものを持って来て呉れたことも、含めてな。


   それくらいは当然であって、賢明でもなんでもないわ。


   お前には当然かも知れんが、あたしには、あの子の判断はどれも賢明だったと思っているよ。


   あの子にとっても、それは当たり前のことに過ぎない。


   む。


   寧ろ、それくらい出来なければ、今まで何をしていたのか、何を私から学び取ったのか。
   何もしていないのであれば、学び取っていないのであれば、それはただただ、無為に時を過ごしていただけ。
   有用な時間を、ひたすら、無駄にしていただけ。そんなことは、私達には許されない。


   マーキュリーは、厳しいなぁ。


   命が掛かっているのよ、当然でしょう。


   まぁ、確かに。


   駒には、過ぎないけれど……それでも、壊さずに済むのならそれに越したことはないのよ。


   うん、お前の言う通りだ。
   お前はやっぱり、優しいマー


   それで。


   まぁ……どこからが無理だったかを身を以って知って欲しくはあったが、それは今でなくても良い。


   今は、必要ないわ。


   あぁ、然うだ。だから、メルが居て呉れて良かったと強く思う。
   あいつにはやっぱり、メルが必要だ。あたしに、お前が必要なように。


   ……。


   甘い白湯は、お前か?


   私は許可しただけよ。


   然うか、ありがとう。


   あれの何処が良いのか、全く分からない。


   お前にとっては、具合が悪い時の味だからなぁ。そりゃ、何処が良いのか分からないよな。
   わざわざ糖を混ぜなくても甘く感じるって言うんだから、厄介な話だ。


   喉の奥に甘ったるさが残って、余計に気分が悪くなるのよ。


   あたし達にとっては飲みやすい、爽やかな甘みなんだ。


   全く、爽やかなんかではないわ。


   造りが違うと、こうも違うものなんだな。


   いっそのこと、苦い方がまだましだわ。


   あたしは、苦いのはやだなぁ。
   糖が入ってない白湯は喉の奥に苦味が残って、苦味が残らない薬茶の方がまだましだと思える。


   甘ったるいのも十分、嫌よ。


   豆の甘煮は好物なのに。


   全然、違う。


   ま、一緒にされても嫌だけど。


   私は不愉快だわ。


   お。


   あなたのその顔も不愉快、引っ込めて。


   ……応。


   ……。


   然ういや、メルも甘く感じるのか?


   所詮、造りは同じだもの。


   が、嫌そうには見えなかったな。
   今回は糖入りの白湯だったからか?


   全然、違うものだから。


   ん、そんなに違うものか?


   違うわ、けれど私は飲みたいと思わない。


   詰まりは、好みの問題か。


   然うよ。


   造りが、同じなのにか?


   個体差。


   となると、あたしとちびも違うものなのかな。


   あなた達は、ほぼ同じでしょう。


   あたしの方が苦く感じるとか。


   あの子も十分、苦そうよ。


   いや、あたしの方が苦く感じているな。


   どうでも良い。


   然うか、然うだな。


   ……あの子は甘ったるく感じないらしいわ。


   あ?


   ……。


   まぁ、良いか。
   然ういや、


   二回目。


   然ういや?


   三回目。


   お前の場合は、あの渋くて苦い薬茶が


   美味しいとは、言っていない。
   甘ったるい白湯よりはましで、飲めなくはないと言うだけよ。


   あぁ、然うだった。
   でも、それを言うのなら、あたしも飲めなくはないぞ。


   駄々を、ユゥよりも捏ねるけれど。


   いやぁ、少しは捏ねるだろ。
   だって、すごく渋くて苦いんだぞ?


   やっぱり、個体差ね。


   あん?


   あの子の方が、あなたよりもずっと。


   ちび、か?


   躰はね。


   心も、だろ?


   肝魂は小さいくせに。


   それは……言わないで呉れ。


   ……。


   今、は。


   ……はぁ。


   いや、溜息。


   ふたりは、家に着いてからは?


   あぁ、また寝てた。


   ……。


   寝台の上にふたりで転がって、余程気持ちが良かったんだろう。
   特にちびはメルにしがみついて、安心しきった顔ですやすやと眠っていたよ。


   近くで見たのね。


   あぁ、近くで見た。


   外からではなく、中で。


   その為に、入った。


   莫迦ね。


   今回ばかりは、な。


   ……メルは?


   分かるだろう、言わなくても。


   少しは、隠そうとは思わないの。


   思わない、どうせ直ぐに気付かれるだろうし。
   であるならば、さっさと白状した方が良い。


   話したの。


   少し、な。


   あの子とは?


   言ったろ、ちびはすやすや眠っていたと。
   緩み切った……然う、しあわせそうな顔で、な。


   ……。


   まずかったか?


   ……いいえ。


   然うか、良かった。


   ……特段驚くこともなかったでしょう、あの子は。


   あぁ、全く驚いていなかった。
   それどころか、分かっているようだったよ。


   ……それで良い。


   メルには内緒にして呉れ、と言ったんだ。


   意味をなさないわね。


   自分で言いたかったんだ。


   あ、そ。
   ところで、どれだけ食べるの。


   ん、あと一杯。
   今のあたしの腹に丁度良いんだ。


   ……全部食べてしまったら、恨まれるわよ。


   流石に全部は食わないさ、食い物の恨みは怖いからな。


   特に、今は。


   然う、今は。
   だから、ちゃんと残しておくよ。


   ……然うして。


   あぁ……然うする。


   ……。


   ……実は、あまり食ってなかったんだ。


   私を誰だと思っているの。


   ……あたしのマーキュリー。


   あたしの、は、余計。


   ……。


   気付かないわけ、ないでしょう。


   ……あたしは、お前のジュピターだから。


   ……。


   気付いて呉れるのだと……今だけは、然う思わせて呉れ。


   ……今だけではないくせに。


   美味いな、メルが作ったの……優しい味がするよ。


   それは、結構なことね。
   あなたの為に作ったものではないけれど。


   ……お前が、作ったのが。


   言ったら、赦さないわ。


   ……。


   あの子が作ったものをさんざ、食べておきながら。


   ……言わないよ。


   ……。


   ……言わないが、思うのは勝手だろう。


   気が、向いたら。


   ……。


   期待は、しないで。


   ……ん、分かった。


   ……。


   で……お前は家に残って、何をしていたんだ?


   部屋に籠って、ひとりの時間を満喫していたの。
   もう暫し、出来ると思っていたのに。


   ……大丈夫だと判断したから、出て来たんだな。


   何。


   いや、そのまま部屋に籠っていれば、ちび達が帰ってくるまでは満喫出来たんじゃないかと。


   それで、良かったの?


   あ?


   あなたを、放っておいても。


   ……。


   それで良いのなら、戻るけれど。


   ……いや、戻らないで呉れ。


   詰まり……?


   ……構って呉れて、嬉しい。


   はぁ……。


   いや、また溜息。


   ……。


   ん……マーキュリー。


   ……少し、熱いわね。


   然うか……?


   ……食事を済ませたら、さっさと横になって。


   それは、夜だろう?


   眠る前に、薬茶を飲んで貰うわ。


   えぇ……。


   飲まないのなら、


   ちゃんと飲みます。


   ……食べ終わったら。


   飯を、作りたい。


   ……私の話、聞いていなかったの。


   なぁ、何が食べたい?


   ……今夜は私が作るわ。


   頼む、マーキュリー。


   ……聞かない。


   ちび達に、気付かれたくないんだ。


   ……何を。


   あたしが……弱っていること。


   ……莫迦ね。


   若しかしたら、あたしの飯を期待しているかも知れない。


   ……。


   頼む、作らせて呉れ……マーキュリー。


   はぁ……本当に、仕方のないひとね。


   な、良いか……?


   豆の甘煮。


   ……うん?


   どうせ、作るのなら。


   ……。


   その小袋の中身、どれも豆でしょう?


   ……どうして分かった?


   分かるわよ。


   色は


   その袋は、赤豆。
   他は、黒、茶、黄に緑、そして、白。


   ……どうして、分かった?


   分かると言った。


   お、応。


   その豆……あの畑で育てたものなのでしょう。


   ……然うなんだ。


   ……。


   な……食って、呉れるか。


   作れば、食べてあげても良いわ。


   じゃあ、


   但し、今日は赤だけで良い。


   ……好きなものを、好きなだけ。


   多く作ったところで、あの子は食べられない。
   私達も……今日は、そこまで食べない。


   ……。


   そして、あなたも。


   ……作っておけば、


   だから。


   ……。


   今度……改めて、作って。


   ……改めて?


   一度しか、言わないわ。


   ……っ、応……っ。


   声が、大きい。


   ……


   全く。


   へ、へへ。


   ……。


   ん……マー、キュリー?


   ……今日だけは、手伝ってあげるわ。


   い、良いのか……?


   ……嫌なの?


   嫌なわけ、ない……嬉しい、すごく。


   ……。


   お前とふたりで、作れるのは……どんなことよりも、嬉しい。


   ……私と、眠るよりも?


   それは……また、別。


   莫迦ね。


   ……お前だけ、なんだ。


   ……。


   あたしには。


   ……知っているわ。


   なぁ……メル。


   ……その名は。


   ならば……ニロ。


   ……懐かしいわね。


   ハリヨ、と名乗ったから。


   ……誰に。


   メルに。


   ……。


   な……とんだ茶番だろ?


   ……ええ、茶番だわ。


   ……。


   ……ハリヨ。


   はは……やっぱり、懐かしいな。


   ……。


   ……美味いのを、作るよ。


   ええ……期待しているわ。


   ……応。


   仕方ないから、薄麦餅でも作ろうかしら。
   野菜の旨煮汁は、まだ、残っているし。


   ……楽しみだ、お前の薄麦餅。


   期待はしないで。


   ……するよ。


   ん……ジュピター。


   ……今夜は、優しくして呉れ。


   何の話……?


   ……今夜の、話。


   ……。


   眠る前に……お前が、欲しいんだ。


   ……その時に、判断するわ。


   ありがとう……ニロ。


   ……もう、良いの。


   ん……?


   ……未だ、残っているけれど。


   あぁ、全部食べるよ……残すなんて、勿体ないからな。


   ……当然よ。


   そして、食べ終わったら。


   ……。


   ……あぁ、やっぱりきれいだな。


   今度は、何の話……?


   ……お前のきれいな、青の話。


  16日





   ……。


   ……ふー。


   ユゥ、どう……?


   うん、なんともない。みーんな、元気だ。
   萎れてないし、枯れてもいない、この子なんて明日あたり収穫出来そうだよ。


   ん……良かった。


   改めてありがとう、メル。


   ううん……役に立てて、嬉しい。


   役に立ててだなんて、メルと先生ほど頼りになるふたりは居ないよ。
   ほら見て、緑がきらきらしてる。ふたりに大事にされていた証拠だ。


   ……でも、ユゥとお師匠さんのようなお世話は私達には出来ないから。


   メルと先生にしか出来ないこともあるよ。装置のことも然うだけど、みんなにあげる肥料のことだって、配分?
   然ういう、詳しいことはあたしには分からない。師匠は、少しは、知っているみたいだけど、メルの方がずっと知ってる。


   ……肥料については、お師匠さんに教わったことなんだけど。


   あたしも、肥料のことをもっと教わらないと。
   師匠が本当に居なくなったら、あたしがやるんだし。


   ね、ユゥ。
   肥料のことなら、お師匠さんに


   メル、お願いします。


   私よりも、


   師匠の教え方は、あたしひとりだと分かりにくいんだ。


   ……。


   ……わざとやってるのかって、思うくらいにさ。


   あ、あぁ。


   まぁ……メルと一緒なら、教わっても良いけど。


   なら、ふたりで……ね?


   うんっ。


   ……居眠りしないようにね。


   え、なに?


   ううん、がんばろうね。


   うん、がんばる。


   ……私が理解して、ユゥに分かりやすく教えれば。


   先生にも改めてお礼をしないと、師匠と二人で。


   ……改めて?


   然う、ふたりで改めて。
   畑の管理だけでなく、家のことまでして貰ったんだから。


   ……。


   厨も、師匠の部屋も、何も変わっていなかった。
   特に厨、いつでも使えるようにきれいになってたのがとても嬉しい。


   ……帰って来たら、ユゥはごはんを作るだろうから。


   うん、作る。
   厨を見ていたらさ、ごはんを作りたくて、手がうずうずしちゃった。


   ふふ……見てて、分かった。


   はは、だろ?


   ユゥは、ごはんを作ることが好きだものね。


   うん、大好き。
   楽しいんだ、ごはんを作るのって。


   ……ごはんを作っている時のユゥは、いつだって、楽しそうで。


   作ったのをメルと一緒に食べるのも、大好きだ。
   美味しく食べて貰えたら、すっごく嬉しい。


   ……私も、好きなの。


   あたしと一緒にごはんを食べること?


   それから、ごはんを作っている時の楽しそうなユゥのことも。


   え。


   ……大好きなの。


   そ、然うなんだ……えへへ、嬉しいな。


   だから……ユゥが家に、いつ帰っても良いように。


   きれいに、しておいて呉れた……?


   ……それに、お師匠さんも帰って来たら作るだろうし。


   決めた。


   ……え?


   あたしの躰が治ったら、メルと先生にご馳走するんだ。
   ごはんも、甘味も、お茶も、ふたりが好きなもの、全部。


   ……。


   実はさ、さっきはごはんだけじゃなくて、メルが好きな甘味も作りたくなっちゃったんだ。
   手だけじゃない、全身で、うずうずしちゃって。早く作りたい、メルの喜ぶ顔が見たいって。


   ……ユゥが作って呉れる甘味。


   食べたい、だろ……?


   ……うん、食べたい。


   ね、何が食べたいか考えておいてよ。言って呉れたの、なんでも作るから。
   なんだったら、ひとつでなくても良いからね。


   ……ひとつでなくて、良いの?


   良いよ!
   ふたつでも、みっつでも、よっつでも、いつつでも、幾つでも!


   う、嬉しいけど……折角作って貰うのに、食べ切れなかったら勿体ないから。


   じゃあ、みっつかな。


   え、えと……ふたつ、で。


   ふたつで良いの?


   う、うん。


   そっか。
   ならふたつ、考えておいてね。


   ……ひとつはもう、考えてあるの。


   え、然うなの?


   ……甘く煮たお豆。


   豆の甘煮?


   ……う、ん。


   うん、分かった!


   ……ユゥの躰が治ったら、一緒に食べたいと思っていたの。


   え、ほんと?


   でも、治ったばかりのユゥに作って貰うのは……だから、私が作ろうって。


   メルが作って呉れたのも、食べたいな。


   ……ごめんなさい、ユゥが大変な時に。


   ううん嬉しいよ、すごく。
   ありがとう、メル。


   ……お礼、なんて。


   然うしたら、何種類か作るよ。
   黒豆、茶豆、赤豆に黄豆だろ、それから緑豆。


   ……出来れば、赤豆の。


   好きなものを好きなだけ、食べて。


   ……え。


   他には……然うだ、白豆もあった。


   ま、待って。


   うん?


   まさか、一度に何種類も作るつもりなの?


   うん、然うだよ。


   ……。


   メル、どれも好きだろう?
   だから、全部食べて貰おうと思って。


   好き、だけれど……一度に、全部は。


   ふふ、作るの楽しみだなぁ。


   え、と……先生も、一緒の方が良いかも知れない。


   先生?


   先生も、好きだから……屹度、喜ぶと思うの。


   んー。


   ……だめ、かしら。


   ううん、だめじゃないよ。
   だめじゃ、ないけど。


   ……ユゥ?


   先生が好きな豆の甘煮は、今回は、師匠に作って貰う。


   お師匠さんに……?


   だって先生が一番好きなのは、一番食べたいと思っているのは、師匠が作ったものだろうから。


   ……。


   若しも先生が一言でも食べたいと言えば、師匠も屹度、作ると思うんだ。
   黒、茶、赤、黄、緑に、白。先生に飽きれられようが構わない、兎に角上機嫌で全部作るに決まってる。


   ……先生は、言うかしら。


   言いそうな気がする。


   ……分かるの?


   なんとなく、ね。


   ……なんとなく。


   いや、メルが食べたいのなら、先生も食べたいんじゃないかなって。
   だって、ずっと食べてなかったろう? あたし達が作った豆の甘煮。


   ……然う、だけど。


   若しも師匠が作らなかったら、その時は三人で食べよう。


   ……お師匠さんは?


   師匠が食べたいって言うのなら、四人で食べても良いかな。
   先生がだめだって言ったら、だめだけど。


   ……。


   ね、先生の分は師匠が作った方が良いと思わない?


   ……良いと思うけど、先生が素直に。


   先生が言わなかったら、師匠が言うと思うんだ。
   あたしが作った豆の甘煮、食いたいだろうって。緩み切った顔で。


   ……お師匠さんは、確かに言いそう。


   でさ、食べてあげても良いわって。
   先生に言われようもんなら、ね?


   ……今回に限っては何種類も、ううん、全部作りそう。


   ね、容易に想像出来るだろう?


   ふふ……うん、出来る。


   だから、今回は師匠に任せようと思うんだ。
   悪い考えではないだろう?


   ん……とても素敵な考えだと思う。


   ま、どうしても作りたくないって師匠が言うのなら、あたしが作るけど。


   それは、ないと思う。


   絶対に?


   ん……絶対に。


   ……。


   ……。


   ……うん、張り切ってる師匠しか思い浮かばない。


   ふふ……。


   ね、メル。


   ……うん?


   あたしが家に帰る時は、ふたりにも来て欲しい。


   私達に?


   そして、みんなでごはんを食べよう。
   あたし達の家で、ね。


   ……その中にも、お師匠さんは入ってる?


   師匠?


   ……入ってる、よね?


   師匠は、どこにも行かないようだったら、入れてあげても良い。


   ……。


   またどこかに行っていたら、師匠の分はない。


   ……ふふ。


   なに?


   ううん……なら、四人で食べられるなって思っただけ。


   然うだと、良いけど!


   ふふ、ふふ。


   うん……やっぱり、師匠も改めてお礼をするべきだ。


   ……。


   特に、メルに。


   ……私?


   改めて、師匠にお礼をして貰う。
   師匠の部屋はメルが整えて呉れたんだから、さ。


   私は……もう、して貰ったから。


   だめだよ、師匠を甘やかしたら。ちゃんとしなきゃいけない時は、ちゃんとしないと。
   先生も、行ってるだろう? 師匠を甘やかすなって。


   ……先生は、お師匠さんに厳しいから。


   おまけに、あたしよりも先にメルが作ったごはんをいっぱい食べたんだしさ。
   帰ってきた早々、食い意地が張ってるにも程があるよ。


   ……ごはんは、私が勧めたから。


   あたし達が帰ったら、また食べているかも知れない。


   ……。


   ね、ないとは言えないだろ?


   うん……ないとは、言えないかも。


   然う、言えないんだ。
   だから。


   ……。


   お礼は、大事。


   ……。


   ……?


   ……。


   メル?


   ……ん。


   メル、どうしたの?


   ……別に、どうもしないけど。


   けど……なに?


   本当に、どうもしないの。
   なんでもないから、気にしないで?


   ……。


   本当だから。


   ……なら、良いけど。


   ……。


   メルが、然ういうのなら……。


   ……。


   ねぇ、メル……明日も、畑に来る?


   ん……来るつもりでは、いるけれど。


   先生が許して呉れたら、あたしも一緒に行きたい。
   良い?


   ん、一緒に。


   やった。


   ……。


   んー……うん、そろそろ帰ろうか。


   良いの?
   もう少し、見ても……。


   ううん、もう十分見たから。
   それに、明日も見られると思うから。


   ……。


   帰らないと、先生が心配するだろうしさ。


   ……お師匠さんが、迎えに来てしまうかも知れない。


   その前に帰ろう。


   ん……帰りましょう。


   ……。


   ……ユゥ。


   また、明日。


   ……。


   よし、行こう。


   うん……ユゥ。


   ん!


   ……。


   ねぇ、メル。


   なぁに。


   明日もおかえりなさいって、言って呉れる?


   うん……明日も、言うわ。


   じゃあさ、今、メル達の家に帰ったら。


   ……どちらが良い?


   ど、どっちも。


   どっちも?


   おかえりなさいも、ただいまも、聞きたい。


   分かった……なら、どちらも言うわ。


   あたしも、言うよ。
   どっちも、言う。


   ん、聞かせて。


   うんっ。


   ……。


   ……メル?


   うん……なに?


   今、何を見たの?


   ううん、別に何も。


   ……。


   ユゥ。


   ……向こうに、何か気になるものでもあるの?


   ううん、ないわ。


   ……。


   本当にないの。


   ん……そっか。


   ……でも、然うね。


   なに?


   若しもお師匠さんが追い掛けて来ていたら、あの辺りに隠れているのかしらって。


   ……見てくる。


   ユゥ?


   見てくる。


   ううん、だめよ。


   でも。


   向こうは、遠回りになってしまうから。


   メルは、ここで


   行かないで、ユゥ。


   ……でも。


   仮定の話であって、事実ではないから。


   ……。


   ユゥ……お願い。


   ……分かった、行かない。


   ……。


   あ、また。


   ……ユゥ、気にしすぎ。


   うー……。


   ……若しも、お師匠さんが追い掛けてきたとしても。


   しても?


   私達の邪魔はしないわ。
   然う、ユゥに何か起こらない限り。


   あたしに……。


   だから……ちゃんと帰ろ、ふたりで。


   ……!
   う、うん……!


   ん。


   手、つ、繋いでも良い?


   ……うん、繋ご。


   あ、あぁ。


   ……。


   メ、メル。


   ……なぁに。


   だ、大好きだ。


   ……うん、私も。


   か、帰ったら、抱き締めたい。


   ……躰、拭いてからね。


   からだ……。


   ……忘れてる?


   そ、然うだった!


   ……拭いてあげる。


   メ、メルが?


   ……いや?


   い、いやじゃ、ない。


   ……その前に、先生に聞かないと。


   う、うん、然うだね。


   ……。


   ……拭く前に、抱き締めちゃった。


   私……湯浴み、しようかな。


   湯浴み?


   ……ユゥに、抱き締められる前に。


   あ……。


   ……きれいな、私を。


   メ、メルは、いつだってきれいだよ!


   ……ありがとう、ユゥ。


   う、うん!


   ……。


   ……メルと、湯浴み。


   ごめんなさい……ユゥも、したいよね?


   し、したい、けど!


   ……躰が、治ったら。


   い、一緒に?


   ……。


   し、したい……。


   ……あまり、見ないでね。


   み、見ない……ように、する。


   ……。


   へ、へへ……。


   ……本当に、ユゥは。


   ご、ごめん……。


   ……ゆっくり、したい。


   ゆ、ゆっくり……?


   ……ユゥと、湯浴みするなら。


   そ、然うだね……!
   あ、あたしもしたいな、ゆっくり!


   ……。


   メルと……ふたりで、湯浴みが出来たら。


   ……一緒に、眠る?


   ね、眠りたい。


   ……うん、分かった。


   ……っ。
   や、やった……っ。


   ……。


   楽しみ……楽しみだ。


   ……ね、ユゥ。


   な、なぁに?


   今日のごはんは、なんだと思う?


   ごはん?


   うん。


   んー……師匠のごはん、かも。


   ……やっぱり、然う思う?


   うん、然う思う。
   あとね、メルが作って呉れた野菜の旨煮汁も。


   ……また、食べて呉れる?


   勿論、食べるよ。
   だって、すごく美味しかったから。


   ……。


   なんだか、お腹空いてきちゃった。
   師匠が全部、食べてないと良いな。


   ……全部は、流石に食べないと思うけど。


   いや、師匠のことだから分からない。
   うっかり食べちゃうかも知れない。


   ……うっかり。


   出来るだけ、早く帰ろう。


   ……ん、ユゥ。


   ……。


   ユゥ……?


   ねぇ、メル……。


   ……なぁに。


   手……ずっと、繋いでようね。


   ……帰るまで?


   帰っても。


   ……帰っても?


   心の、中で。


   ……。


   大人に……守護神と、呼ばれるようになっても。


   ユゥ……。


   メルが望んで呉れる限り……あたしはずっと、メルの手を離さない。


   ……。


   メル……。


   ……私も、ずっと。


   ……。


   ユゥが、望んで呉れる限り……私も、離したくない。


   ……。


   ……。


   ……絶対に、離さないんだ。


  15日





   ……ふぅ。


   ん……ぅ。


   ……ユゥ?


   ……。


   おはよう……?


   ……おは、よ?


   ここがどこだか、分かる……?


   んー……。


   ……ん、ユゥ。


   メルが、いるところ……。


   ……。


   ふふぅ……やらかい……。


   ……ここは。


   あったかい……いい、におい……。


   ……ユゥと、お師匠さんの家。


   え……?


   そして……私達が寝転がっているのは、ユゥの寝台。


   ……。


   ふたりで……お散歩を兼ねて、ここまで来たの。


   ……おさんぽ。


   鈍ってしまった躰を、少しだけで良いから動かしたいと……然う、言って。


   ……。


   思い出せない……?


   ……あー。


   思い出した……?


   ……うん、思い出した。


   ん……。


   ……。


   改めて……おはよう、ユゥ。


   うん……おはよう、メル。


   起きられそう……?


   ん……起きられるよ。


   ……ゆっくりで、良いから。


   ……。


   それとも、未だ……。


   ……ね、メル。


   なぁに……?


   あたし……どれくらい、寝てた?


   そんなに長い時間ではないわ……大体、四半刻くらい。


   ……メルの躰を抱き締めて、それから。


   二言、三言、話したと思ったら……直ぐに、寝息が聞こえてきたの。


   そっか……。


   ……それだけ、


   それだけ、メルの躰が気持ち良かったんだ……。


   ……。


   ね、メル……もう、少しだけ。


   ……それよりも。


   え……?


   姿勢が、眠る前と変わっていないと思うのだけれど……躰は、なんともない?


   んー……なんともないと思う。


   ……固くなっていない?


   ん、平気……痛くもないし、違和感もないよ。


   ……なら、良いけれど。


   ね……メルも、寝てた?


   ……ん、いつの間にか。


   気持ち、良かった……?


   ……。


   き、気持ち、良くなかった……?


   ……気持ち良かったから、眠ってしまったんだと思う。


   あ。


   ……。


   ね、ねぇメル、だ、だったらさ……もう少し、だけ。


   ねぇ、ユゥ。


   な、なに?


   ……まだ、眠たい?


   う、ううん、もう大丈夫。メルと、良く寝たから。
   だから、だからね?


   ……ユゥは、畑を見て回りたいのよね。


   あ、うん、出来れば然うしたいと思ってるんだけど……。


   ……。


   ……時間?


   帰りの時間も考えなくてはいけないから、そんなに長くは取れないけれど……それでも、良い?


   ん、それでも良い……畑が見られるのなら、それで十分だ。


   ……なら。


   うん……分かった。


   ……。


   ……?


   ユゥ……どうしたの?


   ん、いや……。


   ……何か、気になることでもある?


   ね……誰か、来た?


   ……誰か?


   なんとなくだけど、誰か来たような……気配が、残っているような気がするんだ。


   ……。


   然ういや、メルの声が聞こえたような……誰かと話しているみたいな、そんな声。


   ……私も、眠っていたから。


   寝言、じゃないと思うし……夢、だったのかな。


   ……屹度。


   そっか……うん、然うだよね。


   ……家の中は、もう見なくても良い?


   家の中は、もう良いかな……きれいだし、空気も濁っていなかったし、何より、あたしの寝台は整っていたし。


   ……お師匠さんのお部屋は。


   師匠の部屋は、別に良いや。多分、きれいになっていると思うから。
   若しもなっていなかったら、自分できれいにさせれば良い。そもそも、帰って来ない師匠が悪いんだ。


   ……厨は?


   あ、厨は見たい。
   心配は全然してないけど、久しぶりに見たい。


   なら、畑に行く前に。


   時間があれば、メルにお茶を淹れてあげたかったな。


   それは、また今度ね?


   ん、また今度にする。
   美味しいのを淹れるから、楽しみにしててね。


   ん。


   ……。


   ……。


   ……んー。


   ユゥ? まだ何か、気になるの?


   うん……メルの声は、夢だったと思うんだけど。


   ……。


   この気配……いや、におい?
   どこか師匠に、似ているような気がする……。


   ……お師匠さんに?


   ね、メル……出入口の鍵って、閉めておいたっけ。


   うん……入って直ぐに私が。


   となると、先生と師匠以外は入って来られない……そもそも、こんな所に来る奴なんて。


   ……。


   まさか、師匠が本当に追い掛けてきて……中に、入って来た?


   ……然うしたら、私が気が付くと思う。


   メルが?


   眠ってはいたけれど……そこまで深い眠りではなかったと思うから。


   んー、そっかぁ……まぁ、誰かが入って来たら気が付くよね。
   あたしだって屹度、気が付いたと思うし……。


   ……。


   ん、なに……?


   ……ううん、なんでもない。


   ……。


   ……。


   うん……そんなわけ、ないか。


   ……取り敢えず、起きない?


   ん、起きよう。


   ……ぁ。


   だけど、その前にもう少しだけ。


   ……もぅ、ユゥ?


   だって、気持ちが良いんだ……本当、たまらない。


   ……そんなことを言っていたら、また眠ってしまうから。


   はぁい……。


   ……遅くなったら、本当にお師匠さんが迎えに来てしまうかも知れない。


   それは……やだな。
   折角、メルとふたりきりなのに。


   屹度、気持ち良さそうに眠っているユゥを、大きな背に乗せて運んで呉れるわ。


   え、それはやだ。


   どうして?
   今よりも小さい頃は良くして貰っていたのに。


   え?


   もう、忘れてしまった?


   し、して貰ってたっけ?


   ん、して貰っていたわ。


   え、えー……。


   あと、肩に乗せて貰うことも。


   か、肩に?


   ユゥは、お師匠さんの肩に乗せて貰うのも好きだったの。


   ……然う、だっけ。


   肩に乗せて貰うと、いつもはしゃいでいて。
   ユゥは高いところが好きなんだなって、いつも思ってた。


   ……。


   憶えて、いない?


   ……憶えて、ない。


   然う……。


   メルは、憶えているんだよね?


   ん、憶えてる。


   ……あたしは、憶えてない。


   ユゥが憶えていないのは、仕方がないのかも知れない。


   えと、いつ頃の話?


   お師匠さんに引き取られて、まだそんなに経ってない頃の話。


   ……。


   その頃はまだ、ユゥは私よりも身長が低くて。


   メルより……あ。


   ……何か、思い出した?


   然うだ、あたしはメルよりも小さかったんだ。


   小さいと言っても、そこまで差はなかったから、あっという間に追い抜かれてしまったのだけれどね。


   然う、こんな感じだ。


   ……え。


   ね、こんな感じだったろう?


   ……。


   目の高さ。


   ……ふふ、こんな感じだったかも。


   へへ、懐かしいなぁ。


   ……。


   そっか、この頃か……メルのことは、思い出せるけど。


   ……他は、思い出せない?


   先生のことも、少しだけ思い出せる……笑ってる顔、とか。


   ……。


   だけど、自分のことと、師匠のことは……んー。


   ……あまり、思い出せない?


   師匠は……すごく大きな影、だったなって。


   すごく大きな影……?


   然う、すっごく大きいんだ。
   今よりも、大きく見えていたかも……いや、見えてた。


   影ということは……顔は、憶えていない?


   顔……やっぱり笑ってた、ような。


   お師匠さんは、いつも笑っていたわ。


   今も、笑ってるけど。


   ユゥとお師匠さん、ふたりで笑いながら遊んでいたの。


   師匠と、遊ぶ……。


   お師匠さんね、ユゥを肩に乗せて走ったり、放り投げたり、片手で高く掲げてそのまま回ってみたり、自分の手の平を小さな拳で打たせてみたり、寝転がってお腹の上に乗せてみたり。
   構い過ぎては、先生にやりすぎだと言われていたけれど、お師匠さんはいつだって楽しそうだったし、ユゥも嬉しそうに笑っていたの。然う、時には手を叩いて。


   ……ふぅん。


   全く、思い出せない?


   いや、なんとなく……うすぼんやりと。


   ふふ、然う。


   ね、メルは?
   メルも、師匠と遊んだ?


   私は……。


   私は?


   ……たまに、肩に乗せて貰った。


   たまに?


   ……ユゥは、憶えていないかも知れないけど。


   なに?


   左肩にユゥ、右肩に私、ふたりでお師匠さんの肩に乗せて貰って。


   そんなこと……。


   ……何度か、あったのだけれど。


   うん、あった。


   ……本当に、憶えてる?


   師匠は、あたし達を肩に乗せたまま走り回ったんだ。


   ……。


   メルのことはしっかりと抑えていたんだけど、あたしのことは、抑えられなくて。
   だから、あたしをうっかり落っことして、先生に怒られたんだ。


   ……あぁ。


   あったろ、そんなことも。


   ……ん、あった。


   落っこちた弾みで、転がったような記憶がある。


   私は一瞬のことだったから見ていなかったのだけれど、近くで見ていた先生も同じことを言っていたわ。


   地面に落ちて、転がった筈なのに……なんだか、楽しかったような気がするんだ。


   転がったユゥは痛がりもせずに楽しそうに笑っていたから、頭の打ちどころが悪かったのではないかと思って、先生は直ぐに診たらしいの。
   だけど。


   なんでもなかった?


   瘤どころか擦り傷ひとつなくて、念の為、中も確認したらしいのだけれど、どこも異常はなかったって。


   うーん、ちびの頃から頑丈。


   お師匠さんも同じことを言ったみたい。


   それでまた、先生に怒られたと。
   今と変わんないな、本当に。


   ……でも、確かに。


   うん?


   あの頃のお師匠さん……今よりも、大きく見えていたかも知れない。


   だろう?


   今と、変わっていない筈なのだけれど……それだけ、私達が小さかったということなのね。


   ……。


   ユゥ……?


   ……やっぱり、師匠の部屋も見ようかな。


   ……。


   良いかな、メル。


   うん……勿論。


   全く、師匠は仕方ないなぁ。
   どこへ行ってたんだが知らないけど、ちゃんと帰って来れば良かったんだ。


   ……お師匠さんのお部屋は、私が整えたの。


   へ?


   ……。


   メルが、整えたの……師匠の、部屋を?


   ……一応、だけど。


   先生じゃないの……?


   先生は……あまり。


   え……えーー。


   どうでも、良いって。


   し、寝台も、メルが?


   ……ん、私が。


   ……。


   ユ、ユゥ……?


   ……メル。


   きゃ。


   メルも、やらなくて良かったんだよ。


   で、でも……。


   帰って来ない師匠が悪いんだ。


   ……お師匠さんのお部屋だけ、放っておくわけには。


   やっぱり、見るの止めようかな……いや、メルが整えて呉れたんだ、ちゃんと見ないと。


   ……あのね、ユゥ。


   なんだい、メル。


   寝台を、確認して欲しいの。


   寝台を?


   多分、だけれどね……。


   多分、なに?


   ……先生が、そっと取り替えているかも知れないから。


   枕当てと、敷布……?


   ……昨日までは、取り替えられていなかったの。


   若しかして、今朝……?


   ……若しかしたら、だけれど。


   だったら……あたしは、確認しない方が良いかも知れない。


   ……え?


   師匠に確認させた方が良いかなって。


   ……あ。


   あたしが然うだったように、師匠も。


   ……。


   先生は、どうだろう……許可を呉れたということは、どちらでも良いのかな。


   ……然うだと、思うけど。


   うん、師匠の部屋はさっと見るだけにしておく。


   ……うん。


   師匠の部屋は後にして、まずは厨を見ようかな。


   ……。


   起きようか、メル。


   うん……ユゥ。


   ……だけどもう一度、その前に。


   ……。


   ね……あたし、熱ないよね。


   うん……ないわ。


   うん、良かった。


   ……。


   ん……メル。


   ……このまま、どうか。


   ……。


   安定、して……。


   ……するよ。


   ……。


   必ず、させるから……。


  14日





   ……ぅ。


   ……。


   ……だ、れ。


   お、と。


   ……おししょう、さん。


   違うよ。


   ……。


   な、違うだろう?


   ……そのほうが、いいですか。


   あぁ、その方が良い。


   ……。


   或いは……然うだな、此れは夢とでも思って呉れ。


   ……夢、ですか。


   どちらが良い?


   ……他の選択肢は。


   あっても、良いが。


   ……別人、で。


   うん……ならば、然うしよう。


   ……夢にしては、色の輪郭がはっきりとしているから。


   はは、然うか。


   ……。


   お前が見る夢は、ぼんやりとしたものが多いのか?


   ……色が、ぼんやりとしていることが多いです。


   なるほど……それで、色の輪郭か。


   ……。


   ともあれ、起こして悪かった。
   あたしは


   少し、良いでしょうか。


   ……ん?


   お師匠さんと別人であるあなたが、何故、此の家に居るのでしょうか。


   追い出される前に、出て行くよ。


   追い出す前に、話がしたいと思います。


   それは、なかなか悠長だな。


   それに、何故居るのかという問いに対して、追い出される前に出ていく、では答えになっていません。


   はは、然うだなぁ。全く、なっていないな。


   どうでしょうか、私と話をして呉れますか。


   あぁ、お前が然うしたいのならば、あたしは構わない。


   ……。


   ん、なんだい?
   若しかして、意外だったか?


   ……いえ、ありがとうございます。


   礼は、要らないさ。


   ……。


   さて、何を話す?


   ……何故、姿を。


   姿?


   ……いえ。


   ひとつ、良いか。


   ……何でしょうか。


   此の家の空気は、全く濁っていない。
   まるで、誰かが管理して呉れているかのようだ。


   ……どうして、管理していると。


   暫く、誰も居なかったろう?


   ……いえ、そんなことはありません。


   然うかい?
   ならば済まない、あたしの勘違いだ。


   ……どうしましょうか。


   うん、どうするって?


   あなたのこと……なんて呼べば良いでしょうか。


   あー、然うだなぁ。
   別に、呼ばなくても良いが。


   ……それでは、不便だと思います。


   不便か……ならば、ハリヨ、とでも呼んで呉れ。


   ……ハリヨ?


   青い星の、何処ぞの民の言葉で……「緑」、と言う意味だ。


   ハリヨ……さん。


   さんは、要らないよ。


   ……分かりました、ならばそのように。


   うん。


   お見受けしたところ、ハリヨは月……いえ、木星の民だと思われますが。


   あぁ、間違ってはいない。


   青い星に行かれたことはあるのですか。


   ないわけではない。


   ……言葉は、いつ。


   もう、憶えていない。


   ……忘れてしまう程、遠い昔のことなのでしょうか。


   あたしは、憶えておくのがすこぶる苦手なんだ。
   だから、近い昔でも忘れてしまう。


   ……。


   勝手に触れて、済まない。


   ……謝るくらいならば、触れないで下さい。


   全くだ。


   ……。


   瞳もだが、髪もきれいな青だ……あいつに良く似ている。


   ……あいつとは、誰のことですか。


   あたしの、誰よりも大切なひとのことだ。


   ……私は、そのひとに良く似ているのですか。


   あぁ、良く似ている。


   ……同じ、ではないのですか。


   同じ?


   ……。


   同じではないさ、微妙に違うから。
   例えば、質……お前の方が、少し柔らかい。


   ……けれど、好きなのは。


   触れたくなるのは、いつだって、あいつの髪だ。


   ……。


   あたしはさ、基本的にあいつ以外の誰かの髪に触れることが出来ないんだよ。


   ……私の髪は、例外なのですか。


   然うなる。


   ……。


   お前が、初めての例外なんだ。


   ……ふたりだけ、ですか。


   今、お前にしがみついて眠っているそいつが、ふたりめの例外だ。


   ……。


   今の所、それだけだが……まぁ増えることは、恐らくはもうないだろう。


   ……髪だけ、ですか。


   ん?


   ……髪以外の、場所ならば。


   悪い、言い直しても良いか。


   ……構いません。


   あたしが抵抗なく触れることが出来たひとは、ずっと、あいつだけだった。
   あいつ以外の誰かに触れるのは、触れられるのは、どうしても気持ちが悪くてな。
   特に、人形はだめだ。生理的に、受け付けない。最悪、吐いてしまう。


   ……人形。


   済まない、汚い話をした。


   ……いえ。


   もう、言わないよ。


   それは……如何なる場合であっても、ですか。


   然うだ……あたしの場合は、如何なる場合であってもだ。


   ……大変では、ありませんでしたか。


   大変?


   ……例えば、誰かを助ける時。


   あぁ。


   ……全てを拒絶することは、難しいと思います。


   はは、然うだなぁ。


   ……慣れるもの、なのですか。


   いや、あの気持ち悪さには慣れない。
   だから、無理をして遮断するんだ。


   ……感覚を?


   然うだ。


   ……そんなこと、出来るのですか。


   出来る出来ないじゃない、やるんだ。やるしか、ないんだよ。
   でなければ……最悪の場合、倒れてしまうからな。


   ……そこまで。


   大変、か?


   ……あなたの消耗した心を、誰が。


   あいつだよ。


   ……。


   いつだって、あいつが癒して呉れた。
   今も、然うだ。ずっと、変わらない。


   ……それだけで、あなたは大丈夫なのですか。


   大抵のことは、な。


   ……大抵のことから、外れていたら。


   あいつに、より迷惑を掛ける。
   言ったろう……最悪、倒れてしまうと。


   ……。


   何度も、掛けたよ。


   ……迷惑だと、本当に思われていたのでしょうか。


   分からない……口では、いつも然う言われていたってだけだ。


   ……。


   今でもあたしは、あいつに迷惑を掛けている。


   ……あなたがあいつと呼ぶ、その方の名はなんと言うのですか。


   やっぱり、気になるか。


   ……教えて頂くことは。


   さて、な。


   ……分かりました。


   然し、良く眠っているな。
   あたし達が話していても、起きそうにない。


   ……此処に来る前にも、少し。


   あぁ、知っているよ。


   このひとは……まだ、本調子ではないんです。


   分かっているよ。


   ……。


   曰く。
   動けるようになれば、無理をしない程度に躰を動かした方がかえって治りが早い、らしい。


   ……あいつに、教えて貰ったのですね。


   良く分かったな。


   ……あなたも、然うなのですか。


   あたし、か?


   ……矢張り、あなたも躰を動かした方が回復が早いのですか。


   あたしも、どちらかと言えば然うだな。


   ……。


   終わりか?


   ……いいえ、まだ。


   然うか。


   ……あなたは私達のことを、追い掛けて来たのですか。


   たまたま行く方向が同じだった、それだけだよ。


   ……。


   なぁ、あたしからも良いかい?


   ……なんでしょうか。


   あたしはお前の師匠ではないから、丁寧な言葉遣いでなくても良いぞ。


   ……でも、私よりも年長者だと思いますから。


   真面目で、礼儀正しい子だな。
   年長者なんて、此処では何の意味もないと言うのに。


   ……癖、なんです。


   癖?


   ……他者と自分の間に、線を引く。


   師匠とちび、あとは、先生か。


   ……何故、先生を。


   それ以外の者と会ったことはあるのかい?


   ……まさに今、そのひとと話しています。


   なるほど。
   けれど、癖と決めるにはま未だ早いと思うが。


   ……そんな気がするんです。


   そんな気がする、か……。


   ……。


   丁寧の中に、ちょっとした冷たさを含む。


   ……どうして。


   まぁ、あたしに対しては然程感じないが。


   ……あなたは初めてではないような、そんな気がしますので。


   それは、光栄だな。


   ……。


   その線は……お前の先生や師匠に対しても、引いているのかい?


   ……いいえ、ふたりには引いていないつもりです。


   然うか……それならば、良い。


   ……どうして、先生のことを。


   話していて、そんな気がしただけだよ。
   お前には、教養があるように思える……詰まり、お前にそれらを教える者が居る。


   ……。


   師匠以外の者が、な。


   ……然うですか。


   それにしていも、良く眠っている……もう暫くは、起きそうもないか。


   ……どうするのですか。


   どうするって。


   ……姿を見せるとは、思っていなかったので。


   誰の話をしているんだい?


   ……あくまでも、あなたはハリヨなのですね。


   あぁ、然うだよ。


   ……もっと聞いても良いですか。


   あぁ、構わない。
   あたしが答えられることならば、答えよう。


   ……答えられないことは。


   簡単だ、答えない。
   なんせ、答えられないのだからな。


   ふふ……確かに、然うですね。


   それで、なんだい?


   どうして、「ハリヨ」なのですか……?


   意味が「緑」だからだよ。


   ……瞳の色から、なのですか。


   いや、「あたし達」が大切にしている「緑」からだ。


   ……「緑」が大切なのですか。


   あぁ、とても大切なものだ。


   ……「青」ではなく。


   「青」は、あいつに呉れたんだ。


   ……。


   青が良く似合う……あたしだけの、あいつに。


   ……「青」は、何と言うのですか。


   さて、どうするかな。


   ……答えられない、ですか。


   答えを教わるよりも、己で調べてみたくはないか?


   ……。


   どうだい?


   ……はい、然うします。


   ひとつ、「ハリヨ」が何かしらの手がかりになるかも知れない。


   ……丁度、然う考えていました。


   賢いな。


   ……いえ、行きついた答えが正しいとは限らないので。


   恐らくは、正しい。


   ……。


   そうそう、「あたし達」が誰かは答えないぞ。


   ふふ……分かっています。


   ……。


   ん……お師匠


   では、ない。


   ……ハリヨ。


   まぁ、とんだ茶番だけれどな。


   ……あの。


   うん……?


   あなたが、あいつというひとに……「ハリヨ」と、呼ばれたことは。


   何度か、青い星に居る時に。


   ……青い星に。


   何度も、ふたりで行ったんだ。


   ……その時の話を。


   いつか、しよう。
   機会が、あればな。


   ……楽しみにしています。


   さて、あたしはそろそろお暇するかな。


   ……その方が、良いかも知れません。


   と、言うと?


   ……そろそろ、起きるかも知れませんから。


   はは、あたしも同じことを考えていたところだ。
   いい加減、起きるだろうってな。


   ……ふふ。


   じゃあな。


   ……はい、また。


   また、か。


   ……はい。


   それも、良いな。


   ……私があなたに会ったことは、黙っていた方が良いですよね。


   応、頼む。


   ……はい、分かりました。


   ま、あいつは直ぐに気付くだろうけど。


   ……。


   ……。


   ……。


   ……メル。


   はい……お師匠さん。


   ……何でもないようで、良かったよ。


  13日





   お帰りなさい、ユゥ。


   うん……ただいま。


   今、部屋を暖めるから。


   ん、ありがとう。


   ……。


   家の中、何も変わってない……。


   ……物は、出来るだけ動かしていないの。


   空気も……濁ってない。


   ……いつでもユゥが帰れるように、お師匠さんが帰って来られるように。


   掃除も、して呉れてたんだよね……。


   ……勝手にするのは、どうかと思ったのだけれど。


   ううん、とても助かるよ……一週間以上も空けていたら、埃が溜まっていたかも知れないから。


   ……。


   あ。


   ……?


   ……。


   ユゥ……どうしたの?


   寝台の上……。


   ごめんなさい、何か問題でもあった……?


   寝台の上が、きれいに整えられてる……。


   ……あぁ。


   良くは、憶えていないんだけどさ……あの日は、こんなきれいに整えていなかったと思うんだ。


   ……。


   ふふ、なんだか手触りも良い……毛布も、枕も、ふかふかだ。


   ……珍しいね。


   え……?


   ユゥはいつも、きれいに整えているのに。


   あぁ……うん、あの日はなんだかばたばたしてたような気がするんだ。


   ばたばた?


   どうしてかは、思い出せないんだけどさ。
   多分、師匠がなんかしたんだと思うんだけど。


   ……然う。


   ん……枕、なんとなく良い匂いがする。
   それに、なんだか……きれいすぎる、ような。


   ……先生が、整えたの。


   え、先生が……?


   ……枕当てだけでなく敷布も、この機会に新しいものにすると。


   敷布も……あぁ、本当だ。
   すごくきれいになってる……布も薄くない、何処も切れてない。


   ……。


   すごい……新しくなってる……。


   ……ユゥ、私ね。


   うん……?


   ……家のものに勝手に触ることは良くないと思っていたの。


   ……。


   此の家は、ユゥとお師匠さんの家でしょう……?
   それなのに、ふたりの許可も取らずに、勝手に触ったり整えたりするのはどうなのかなって。
   けれど先生は構わないと、然う、言い切って……まるで、当たり前のようにやり始めたの。


   ……。


   ユゥは私達の家に、お師匠さんは何処かに行ったきり帰って来ない……であるならば、勝手にやっても構わないと。
   寧ろ、やるべきであって、文句は一言足りとも言わせないと。


   ……あたしは、メルと先生なら構わないよ。


   ユゥは構わなくても、お師匠さんは……。


   師匠だって、構わないと思う……ううん、絶対に構わない。


   ……やっぱり、然うなのね。


   メル……。


   ……先生の言う通りだった。


   メルは、やりたくなかった……?


   ……やりたくないわけ、ない。


   でも、勝手にやるのは抵抗を感じた……。


   ……。


   そっか……然うだよね。


   ……結果的に、私もお掃除をしてしまったけど。


   ねぇ、メル。


   ……なに。


   メルの然ういうところ。


   ……ん。


   あたし、好きだよ。


   ……ユゥ。


   生生とは違った良さで……あたしは、大好きだ。


   ……部屋の中。


   ん……。


   ……直に、暖かくなってくると思う。


   もう、あったくなってきたと思う……。


   ……もう?


   うん……もう、あったかい。


   ……あ。


   メルが、おかえりなさいって言って呉れた時から……あったかいのが、家の中に灯ったような気がするんだ。


   ……。


   ね……誰も居ないと、家の中ってこんなにもひんやりしちゃうものなんだね。


   ……私も、思った。


   メルも……?


   ……ふたりが居ないとこんなにも寂しくて、家の中が冷えてしまうのだと。


   メルと先生が通って呉れなかったら、もっとひんやりして……氷のようになっていたかも知れない。


   ……氷。


   師匠がどっかに行かないで、家にちゃんと居て呉れたら……ひんやりすることも、メルと先生に迷惑を掛けることもなかったのに。


   ……迷惑だなんて、私は思っていないわ。


   ふたりには、貴重な時間を使わせてしまってさ……師匠は、そのつぐないをするべきだ。


   ううん……償いなんて、必要ない。


   ……メル。


   先生も屹度、然う言うと思うの。


   だけど、毎日に通って貰って……畑の世話なんか、装置があるとは言え、慣れないことで大変だったと思うんだ。


   ……確かに、慣れないことではあったけれど。


   然うだろう……大変、だったろう?


   ……でもね、それでも大変だとは思わなかったの。


   ……。


   それに……先生は、本当にやりたくないことはやらない。
   あのひとは、然ういうひと……ユゥも、良く知っているでしょう?


   あぁ……うん、知ってる。


   そんな先生が、何も言わずに毎日通っていたんだもの……寧ろ、楽しんでいたんだと思う。


   ……楽しい?


   特に、ユゥの枕当てと敷布を新しいものに替えた時なんて……あの子が見るまで秘密よ、なんて言って。


   ふふ、然うなんだ。
   だから、今まで言わなかったんだね。


   ……私も、見たくなって。


   うん、何を……?


   ……ユゥが、嬉しそうに笑っているところ。


   あたしが……ふふ、そっか。


   ……。


   ね、見られたかな……?


   ……ん、見られた。


   ん……良かった。


   ね、ユゥ……吃驚、した?


   うん、したよ。
   すごく吃驚した。


   ……。


   お礼は自分で言うけれど、あたしが驚いていたことはメルが伝えて欲しい……良いかな?


   ……うん、伝えておく。


   笑って呉れると良いな、先生。


   ……屹度、満足そうに。


   ふふ……だと、良いな。


   ……あぁ、でも。


   あ、それも、自分で言った方が良いかな……。


   ……ううん、それは私が言った方が良いと思う。


   えと……やっぱり、迷惑だった?


   然うではなくて……お師匠さんに、償いではない何かを、先生は求めるかも知れないって。


   つぐないではない、何か……?


   例えば……毎日、食事を作らせるとか。


   それは……師匠、すごく喜んじゃうと思うけど。
   元々、毎日作りたいと……メルと先生の家に行く、なんだったら、あたし達の家に来て貰う口実にもなるし。


   ……ユゥも、然う?


   うん、あたしも然う。


   ……。


   うん、あれ?


   あとは……意地悪。


   意地悪……?


   食事を作らせて、期待させておきながら……指一本、触れさせないとか。


   ……。


   あぁ……先生の底意地の悪い顔が目に浮かぶようだわ。


   ……あたしも、楽しそうに笑ってる先生の顔が頭に浮かんだ。


   良いように、屹度使う……然うに、決まっているの。


   ……だけど、それでも、師匠は楽しそうに笑ってるんだ。


   ……。


   先生に、構われて……心底嬉しいって顔でさ。


   ……構われて?


   師匠、先生に構われるとその日はずっと機嫌が良いんだ。


   ……お師匠さんって、大らかよね。


   大らかと言うより……莫迦、なんだよ。


   莫迦……。


   ……あたしも、然うだから、分かる。


   ユゥも……。


   ……あたしも、メルに構われたら、すごく嬉しいから。


   ……。


   ……。


   ユゥは……先生のように、私に構われたいの?


   せ、先生のようにでも、良いけど……。


   ……良いのね。


   メ、メルが好きなように、構って欲しい……。


   ……希望は、ないの?


   希望……?


   その……どんな風に、構われたいとか。


   ど、どんな風に?


   ……私、何を言っているのかしら。


   あ。


   ……この話は、おしまいにして。


   あ、あのさ、メル。


   ……なに。


   な、なんでも、良いんだ。


   ……なんでもって。


   メ、メルが、構って呉れるなら……その、例えば、頭とかほっぺたとか撫でて呉れる、とか。


   ……。


   後ろからそっと、ぎゅうっとして呉れる……とか。


   ……。


   あとは……あとは。


   ……我侭を言う、でも良いの?


   い、良いよ。すごく、良い。
   メルが我侭を言って呉れるの、あたしは、とっても嬉しいから。


   ……酷い、我侭でも。


   叶えられない、我侭もあるかも知れない……けど出来るだけ、叶えたい。


   ……ユゥの気持ちを踏み躙るような、酷い我侭でも。


   うん……?


   ……そんな、我侭でも。


   気持ちを踏み躙るって……どういうこと?


   ……。


   メル……?


   ……守護神になると、然ういうことも起こり得るの。


   え、なんで?
   メルがそんなこと、するわけないよ。


   ……詳しいことは、分からない。


   それ、誰から……先生?


   ……。


   然う、だよね……師匠では、ないよね。


   ……何度も、然ういうことがあったらしいの。


   然ういう、こと……?


   ……先生とお師匠さんを、まるで、試すかのように。


   試すって……試して、どうするの?


   それで……ふたりの心が、壊れるか、どうか。


   心が、壊れる……?


   ……壊れてしまえば、そのまま完璧な人形に成れるから。


   ……。


   心が壊れてしまいそうな、そんな酷い我侭を言われても……それでも、ユゥは嬉しいと思える?


   ……ごめん、それは聞けない。


   ユゥ……然う、よね。


   ……誰かが、あたし達を試す為に。


   あ……。


   メルに無理矢理、あたしの気持ちを踏み躙るような酷い我侭を言わせるなんて。
   そんなことをメルに仕向けるなんて、あたしは絶対に赦さない。赦せない。


   ……。


   そんなのは、メルの本心じゃない。
   本心からの、我侭じゃない。だから、あたしは聞かない。聞けない。


   若しも、私が然ういう状況に陥ったら……ユゥは、気付いて呉れる?


   気付くよ。
   気付いて、メルを守る。


   けれど、若しも……気付けなかったら。


   ……。


   ……傷付いたユゥの心を、誰が癒すの。


   それは……叶うなら、メルが良い。


   ……。


   ……屹度、メルは。


   私……。


   兎に角、あたしが聞けるのは誰かに言わされる我侭じゃなく……メル自身の、我侭なんだ。


   ……。


   ね、メル……あたしが元気になったらさ、何でも良いから、メルの我侭を聞かせて?


   ……なんでも、良いの?


   うん、メル自身の我侭なら。


   ……考えておいても良い?


   ん……考えておいて。


   ……。


   楽しみに、してるからさ……。


   ……我侭を、楽しみにするなんて。


   楽しみなんだ……だって、メルの我侭だから。


   ……。


   ん……メル。


   ……躰、寄せても良い?


   も、勿論……。


   ……ごめんなさい。


   どうしてだい……?


   ……今、我侭を言って。


   別に、良いさ……。


   ……まだ、治り切っていないのに。


   此れくらいの我侭なら……今のあたしでも、聞けるよ。


   ……それから、急に変なことを言い出して。


   変なことじゃない……寧ろ、聞かせて呉れてありがとう。


   ……。


   然ういうことは、あたしも知っておかなきゃいけないから……。


   ……ユゥにも、先生は話すと思う。


   うん……その時は、ちゃんと聞くよ。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、ユゥ。


   なんだい……メル。


   ……屹度、傷付いたあなたの心を。


   ……。


   私が……。


   ……うん、信じてる。


   ユゥ……私も、強くなるわ。


   ん……ふたりで、なろう。


   ……うん。


   ……。


   ね……。


   ……なに?


   こんなこと……初めて、だったから。


   こんなこと……?


   ……ユゥとお師匠さんが、此の家に居ないなんてこと。


   そっか……言われてみたら、初めてだ。


   ユゥは、私の家に居たけれど……ほとんど、眠っていたから。
   お師匠さんは、姿を見せて呉れないし……ふたりが居ないことが、こんなにも。


   メル……。


   ……こんなにも寂しくて、心が苦しくなるなんて。


   ごめんよ……あたしがもう少し早く、目覚めていれば。


   ……呼吸の確認を、何度もしたの。


   ……。


   ちゃんと呼吸していることを確認する度に……大丈夫だと、自分に言い聞かせて。
   然う……先生が治療しているんだもの、大丈夫に決まってる……と。
   それに、何より、ユゥの回復力ならば……此れくらいの傷、なんでもないと。


   ……ごめん、メル。


   ううん……ユゥは、悪くないの。


   ……。


   ただ……心を保つことは、こんなにも難しいことなのだと。


   ……大変、だった?


   ん……今なら、大変だったと言える。


   ……。


   守護神になれば、屹度、こういうことは何度も起こる……その度に心を弱らせていたら、私は


   大丈夫だよ、メル。


   ……ユゥ。


   生きてさえ、居れば……どんな傷であろうと、メルが治して呉れる。


   ……生きてさえ、居れば。


   躰だけでなく……心の、傷も。


   ……。


   ……あたしも、メルの心の傷を癒せるように。


   ふたりで……。


   ……然う、ふたりで。


   ん……ユゥ。


   ……。


   ……。


   ね……一緒に、寝転がりたい。


   ……ぁ。


   良い……だろ?


   う、ん……。


   ……。


   ……気持ち、良い?


   うん……とても。


   ……新しい、敷布が?


   敷布も、勿論気持ちが良いけれど……それ以上に。


   ……は、ぁ。


   それ以上に……メルが。


   ……


   やらかくて、いいにおいで……あったかくて。


  12日





   ユゥ。


   ……ん。


   ごめんなさい、起こしてしまって。


   あ、れ……。


   だけど、こんな所で眠ってしまったら、躰を冷やしてしまうから。


   ……あたし、寝てた?


   少し、うとうとしていたみたい。


   なんだかほかほかで気持ち良いなぁって、思ってはいたけど……。


   躰が温まったということもあると思うのだけれど……やっぱり、疲れが大きいと思う。


   うー……あれだけ寝ていたのに、まだ眠くなるんだなぁ。


   もっと回復する為に、躰が睡眠を求めているのだと思うの。


   ……まだ?


   うん、まだ。


   そっかー……なら、仕方ないか。


   躰は、どう?


   ん……もう、平気だと思う。


   重たくはない?


   うん、重たくない。
   だから、動けると思う。


   ……少し、じっとしていてね。


   ん……。


   ……うん。


   熱、ないよね……?


   ……ん、ないわ。


   まだ、重たそうに見える……?


   ……さっきよりは、重たそうに見えない。


   それじゃあ……?


   ……そろそろ、行きましょうか。


   うん、行く……行きたい。


   ん。


   ねぇ、メル。


   なぁに、ユゥ。


   糖湯、重たかったろ。


   大丈夫、此れくらい平気。


   今更だけど持つよ、あたし。


   ありがとう、ユゥ。
   でも、私が持つから。


   ……。


   今は、自分のことだけを考えて?
   ね?


   ……躰が元に戻ったら、必ず持つから。


   うん。


   ……。


   立てる?


   ……ん、立てる。


   手を、ユゥ。


   メル……でも、あたし。


   さぁ。


   うん……ありがとう。


   ……。


   ……あ。


   きゃっ。


   ……っ、危ないっ。


   ……。


   ……大丈夫、メル。


   う、ん……大丈夫。


   ごめん、メル……躰が、思うように動いて呉れなくて。


   ううん……私こそ、ごめんなさい。


   どこも、痛くない?


   私は、平気……ユゥは?


   あたしも、平気だよ……何処も痛くない。


   ……倒れ込んだ時、苦しくなかった?


   うん、苦しくなかったよ。


   ……今、退けるから。


   ……。


   ん……ユゥ?


   ……ちょっとだけで良いから、このままで。


   だけど……躰に、負担が。


   ……お願い、メル。


   ……。


   ちょっとだけで良いから……メルの重みを、感じたい。


   ……今でなければ、だめなの。


   うん、だめなんだ……今が、良いんだ。


   ……。


   ……ごめん、やっぱり我慢出来なかった。


   無理は……していない?


   うん……無理は、していない。


   ……。


   ……ごめん、離す


   少しだけ、なら……。


   ……あ。


   少しだけ……。


   ……うん、少しだけ。


   ……。


   ……あぁ、メルだ。


   ユゥ……。


   もう、ずっと……此の躰を、抱き締めていないような気がして。


   ……一週間以上、ではあるけれど。


   たった一週間くらいだけど……それでもずっと、ずっと、抱き締めてないような気がするんだ。


   ……ずっと、ひとりで眠っていたからも知れない。


   せめて、一緒に眠れたら……メルの体温を感じながら、眠れたら。


   ……ユゥは、酷い熱を出していたから。


   憶えて、ないんだ……。


   ……然うだと、思う。


   ……。


   ……。


   ……あと、何回。


   ……。


   あと何回、ひとりで眠ったら……また、メルと一緒に眠れるようになるんだろう。


   ……今夜は、無理かも知れないけれど。


   明日も、難しいかな……。


   ……ただ一緒に、眠るだけなら。


   え……。


   管も、外れたし……ふたりで、眠るだけなら。


   ……それって。


   先生の判断は、必要だけれど……。


   ……若しも、良いと判断されたら。


   その時は……一緒、に。


   ……あぁ。


   だけど、あまり期待しない方が……。


   分かってる……分かってるよ、メル。


   ……。


   早く……早く、また。


   ねぇ、ユゥ……。


   なに、メル……。


   ……ユゥの家に着いたら、ユゥの寝台で。


   あたしの、寝台で……?


   ……ふたりで。


   ね、寝転がってみる……?


   ……ただ、寝転がるだけになってしまうけれど。


   そ、それでも、


   良い……?


   い、良い……良いよ、メル。


   ん……なら、ユゥの家に着いたらね。


   う、うん……。


   ……そのまま少し、午睡をしても。


   ごすい……ひるね。


   でも、だめよね……若しかしたら、帰れなくなってしまうかも知れないから。


   そ、それならそれで、あ、あたしの家で


   ううん、それはだめ……ユゥはまだ、先生の傍に居ないと。


   ……然う、だよね。


   屹度、迎えが来ると思うの。


   迎え……?


   ……私達の帰りが、遅かったら。


   誰が……先生?


   ……丁度、来て呉れたでしょう?


   来て……?


   ……お師匠さんが。


   あ……然ういや、然うだった。


   ……若しかしたら、追い掛けて来ているかも。


   え。


   先生が、お師匠さんに……ね。


   姿は、見えないし……気配も、しないけど。


   お師匠さんにとっては、気配を殺すことなんて造作もないことだから。


   ……。


   ユゥ?


   においも……全然、しない。


   ……あぁ。


   ほら、においは消せないだろ?


   においが届かないように、適度な距離を取っているのかも知れない。
   お師匠さんなら、ユゥの鼻がどれ程利くか、分かっていると思うから。


   あー……師匠も、鼻が利くもんなぁ。
   特に、先生のにおいには敏感でさ……あたしには分からないけど、師匠には分かるってことが良くあるんだ。


   それにね、若しも私達に気付かれるようなことがあったら……先生に、何を言われるか。


   それは……然うかも。


   ……先生のことだから、素直でない我侭を言うに決まってる。


   多分、師匠は喜ぶと……ううん、絶対に喜ぶ。


   ……。


   ん、メル……。


   ね……お師匠さんって、私のにおいは分かるの?


   ……。


   ……先生のにおい程ではないと、思うのだけれど。


   師匠は……「マーキュリー」のにおいに敏感なんだ。


   ……「マーキュリー」の。


   先生とメル、同じにおいではないみたいなんだけど……どちらも、甘いって。


   ……ユゥは、どう感じているの?


   あたし……?


   先生と私……違いは、ある?
   あるとしたら、どう違うの?


   どう違うかって聞かれると、難しいんだけど……。


   ……。


   どちらも甘いにおいではあるんだけど、同じものだとは言えないんだ。
   ほら、甘いにおいにも色々あるだろ? メルと先生のにおいの違いは、それと同じことだと思う。


   ……感じ方は、お師匠さんと同じなのね。


   全く同じではないと、思ってるんだけど……。


   ……お師匠さんは、ユゥよりも鼻が利く?


   利くかも知れないけど、でも、メルのにおいだったらあたしは師匠にだって負けない。


   ……。


   ま、負けないんだ。


   ……そこは、負けても良いと思うけど。


   そんなのだめだよ、絶対にだめ。


   ……然ういうもの?


   然ういうもの、だよ。


   ……ふふ。


   お、可笑しくないよ、あたしは本気だよ。


   ん……ごめんなさい。


   ……本当に、負けてないんだ。


   うん……ユゥが言うのなら、然うだと思う。


   ……もっと、感じたい。


   ん、ユゥ……。


   ……もっと、また。


   それは……家に着いてから、ね。


   ……また、抱きたい。


   ……。


   抱いて、メルのにおいを、む。


   ……まずは、体力を戻さないと。


   体力……。


   ……然う、体力。。


   も、戻ったら……抱いても、良い?


   ……。


   メ、メル……それでも、だめ?


   ……戻ったら。


   も、戻ったら……?


   ……その時にまた、考える。


   ……!


   今は……それだけ。


   わ、分かった……。


   ……ん。


   ……。


   ユゥ……そろそろ、ね?


   うん……今、離すよ。


   ……。


   ……メル、離したよ。


   ユゥの、体温。


   ……うん?


   久しぶり、だったから……その、嬉しかった。


   ……っ。


   ……今は、ユゥの家に。


   うん……今度こそ、行こう。


   ……改めて、手を。


   ううん……ひとりで、大丈夫。


   ……。


   大丈夫だ、メル。


   ん……分かった。


   うん……それじゃあ。


   ……。


   よいしょ、と……うん、立てた。


   ……ふらつきは、ない?


   んー……うん、ない。


   然う……良かった。


   メル、手を。


   ……。


   繋いで、行こう?


   うん……ユゥ。


   ……。


   ……ユゥ。


   なぁに、メル。


   ……早く、一緒に眠れるように。


   なる為に……鈍った躰を、早く元に戻すんだ。


   ……ユゥなら屹度、直ぐに戻せると思う。


   うん。


   だけど……無理は、駄目。


   無理をして、また熱を出したら……メルを抱くのが、遠のいてしまうから。


   ……もぅ。


   あ、あれ、違った……?


   それも、あるけれど……。


   ……ある、けれど?


   もぅ……本当にユゥは。


   え、え。


   ……私を抱くことだけなの?


   う、うん……?


   私としたいこと……他には、ないの?


   ほ、他……。


   ……。


   ……あ、然うだ。


   なぁに……?


   鍛錬とか、お勉強とか。


   ……他には?


   一緒にごはんを作ったり、食べたり、洗濯をしたり、たたんだり、掃除をしたり。
   あとは、然う、畑の世話をしたり!


   ……。


   然ういう……いつもの、こと?


   ん……いつもの、こと。


   然ういうことも、メルとまたしたい。


   したいのは……私を抱くことだけじゃ、ない?


   うん、抱くことだけじゃない、なかった。


   ……うん、なら良い。


   ねぇ見て、メル。


   ……。


   畑の緑が、とてもきれいだ。
   メルと先生が、見ていて呉れたから。


   ……今はまだ、離れているから。


   離れて?


   近くで見たら……色々、足りないところが


   緑も、メルも、きれいだ。


   ……は。


   瑞々しい緑のように、メルもきらきらしていて、きれいだ。


   ……。


   ね?


   ……何が、ね? なの。


   きれいなんだ、とても。


   ……。


   あぁ、本当にきれいだ。


   ……もぉ。


   楽しみだな、畑をメルと見て回るの。


   ……ねぇ、ユゥ。


   なぁに?


   先生は?


   先生?


   先生も、きれいなのよね。


   先生も、きれいだよ。


   ……畑の、緑のように。


   だけど、それを言うのは師匠だから。


   ……。


   師匠、後で先生と畑を見て回るんじゃないかな。
   まぁ、先生が見ても良いって言って呉れたら、だけど。


   ……お師匠さんが、言わなかったら。


   言わないと思う?
   あの師匠が?


   ……思わない。


   はは、だろ?


   ……ユゥが先生のことをきれいだと思っているのは、事実なのよね。


   事実だけれど、あたしにとって瑞々しくて美しい緑はメルだけだよ。


   ……。


   メルだけ、なんだ。


   ……ユゥ、少しだけ早く歩きましょう。


   え、良いけど。


   ……出来る範囲で、良いから。


   急にどうしたの?


   熱が出てくるかも知れないから。


   え、然うかな。
   あたしは、熱くないけど。


   念の為。


   あ、うん、分かった。


   ……。


   メル……耳が、赤い?


   ……赤くない。


   あ。


   ……赤くない、から。


   メル……耳、熱くない?


   ……熱くない。


   ……。


   ……ひゃっ。


   ん……赤い、かな。


   ユ、ユゥ。


   ……メル。


   ぁ……。


   ……早く、寝台で抱き締めたい。


   ……っ。


   ちょっとでも、早く……。


   ……う、ん。


   ……。


   ……んっ。


   メル……新芽みたいに、可愛いね。


   ……だめ、ユゥ。


   うん……此れ以上のことは、しないよ。


   ……寝台、でも。


   うん、しない……するとしたら、口付け


   だめ。


   ……わ。


   口付けも……だめ。


   ……。


   ……だめ。


   ん、分かった……。


   ……。


   ……寝台でなければ、良い?


   ……。


   ん……メル?


   ……考えて、おくから。


   ……。


   ……今は兎に角、ユゥの家に。


   うん……あたしの、家に。


  11日





   先生ね、今朝も何も言わずに畑に行ったの。


   あたしが未だ、眠っている時間に行って呉れたんだよね。
   それで、あたしが起きる頃に帰って来て呉れたって。


   今朝は特に早くてね、夜が明ける少し前に出て行ったの。


   先生、朝ごはんはちゃんと食べた?


   ん、帰って来てからだったけれど。


   ごはんはメルが作ったんだよね?


   軽くで良いというから、お豆のお粥を作っておいたの。
   然うしたら、ちゃんと食べて呉れて。


   そっか、豆粥かぁ。


   ……ユゥも、食べる?


   うん、食べたい。


   じゃあ、食べられるようになったら作るね。


   へへ、ありがと。


   ん。


   先生ってさ。


   うん。


   いつも、まるで計っているみたいに正確だよね。
   若しかして、本当に計っているのかな。


   それは、あると思う。
   大抵のことは、計算しながら動いているひとだから。


   はぁ、いつ聞いてもすごいなぁ。


   今朝が特に早かったのは、思えば、お師匠さんが来るって分かっていたからかも知れない。


   師匠?


   それで、予定を前倒しにしたのかも。
   実際に、お師匠さんは来て呉れたでしょう?


   うん、来た。


   なんだかんだ言っていても、先生はお師匠さんが来て呉れるのを待っているのだと思うの。
   もう少し、素直になれば良いのにと思うのだけれど……私が言っても、どうせ聞かないし。


   それ、師匠には言わない方が良いかも。


   うん?


   来て呉れるのを待ってるって。


   ……調子に乗るから?


   師匠が調子に乗ると、決まって、先生に冷たくされちゃうからさ。


   ……なら、内緒にする?


   うん、内緒にしよう。
   メルとあたしだけの、ね。


   ふふ……うん。


   ……これでまた、メルとの秘密が増えた。


   ん、なぁに?


   んーん、なんでもない。


   然う?


   うん、然う。


   然う。


   先生さ、今日まで欠かすことなく、毎日畑に通って呉れてるんだよね?


   然うなの。二日……ううん、三日に一度くらいだと思っていたから、少し意外で。
   ほら、先生って放っておくと部屋に籠りがちでしょう?


   先生はどちらかと言うと、部屋で静かに書物を読んでる方が好きだもんね。


   私も然うだから分からなくはないのだけれど、動かないことも躰にとっては良くないから。
   だから、お師匠さんが無理にでも外に出して呉れると有り難いの。
   私が言っても、ほとんど聞いて呉れないから。


   そっか、師匠でもメルの役に立っているんだな。


   うん、とても。


   ふぅん、師匠の下心も無駄じゃないんだなぁ。


   ……。


   ん、なに?


   ……ううん、なんでもない。


   あ、若しかして師匠、メルにも何かしてるんじゃ。


   それはないから、大丈夫。
   お師匠さんは私にはそんなことは絶対にしないわ。


   しないと思うけど、直ぐに調子に乗るからさ。


   調子に乗り過ぎたら、先生からのきつい仕置きが待っているもの。


   あはっ、然うだった。
   師匠さ、あまりにもきついのを喰らうと部屋でしょんぼりしてるんだよ。


   しょんぼり?


   大きい背中を小さく丸めてね。


   ふふ、然うなの?


   うん、然うなんだ。
   メルにも見せたいな、守護神ジュピターが背中を丸めてしょんぼりしてるところ。


   ふふ、ふふ。


   ……。


   ん、なに?


   笑ってるメルも、可愛い。


   ……。


   えへへ。


   ……もぅ。


   あ。


   ……今度は、なに。


   ね、メル、畑が見えてきたよ。


   あぁ……然うね。


   時間、いつもよりかかっちゃったけど。


   ……それは、仕方ないわ。


   うん……だけど、こんなに鈍ってるなんて。


   ……。


   まぁ、良いや……あと、もう少しだし。



   ……?
   ユゥ?


   ところで、先生って躰が鈍ったりしないのかな。


   ……鈍ることは、ないみたい。


   然うなんだ……やっぱり、守護神は違うのかな。


   ただ最近は、畑に毎日通っているからか、顔色がとても良いの。


   あ、然うかも。
   なんだか、血色が良いよね。


   このまま、続けて呉れたら良いのだけれど……ユゥが元気になったら、また元に戻ってしまうと思う。


   毎日でなくても、週に何度か見に来て呉れたら嬉しいのにな。


   ユゥは先生が居ると張り切るものね。


   あたしは……少しだけ。


   本当に、少しだけ?


   し、師匠の方が、張り切るよ。


   それは……知ってる。


   分かりやすいんだ、師匠は。


   ……ユゥもね。


   あたしは……。


   ……分かりやすい。


   はい……。


   ……ふふふ。


   メ、メルが居て呉れると、もっと張り切るよ。


   ……。


   分かりやすい、だろ?


   ……もぉ、ユゥは。


   へへへ。


   ……でも、嬉しい。


   あ……。


   ……。


   メル……。


   ……ユゥをひとりにすることは出来ないから、先生と時間をずらして私は通っていたの。


   うん……知ってる。


   それでも、一度だけ一緒に……畑の装置の点検と保守作業を見せて貰ったの。
   何度見ても、学ぶことが多くあって……。


   そっかぁ……。


   ……ユゥ。


   はぁ……。


   ねぇ、ユゥ。


   ……ん、なに?


   此処で一度、少しお休みした方が良いと思うの。


   ……おやすみ?


   息は未だ、切れてはいないけれど……少し、疲れが見えるの。
   だから。


   少し躰が重たいけど……でも、未だ大丈夫だよ。
   家まで、もう少しだし……このまま行こう、メル。


   でも


   家に着いたらさ……畑を見て回る前に、ちゃんとお休みするから。


   ……。


   熱も、ないだろう……?


   ……今は、ないけど。


   疲れは……感じない。
   ただ躰が鈍っているから……ちょっと、重たいだけで。


   ……急に、重たくなったんじゃない?


   ……。


   私には、然う見えるの。


   ……メルには、然う見えるの?


   うん、見えるわ。


   ……そっ、か。


   やっぱり、疲れてきているんだわ。
   無理をしないで、少しでも良いから休みましょう、ユゥ。


   だけど……もう、直ぐそこなのに。


   お願い、ユゥ。


   メル……うん、分かった。


   然うと決まれば、そこに。


   ん。


   ……。


   メル?


   さぁ、この上に。


   ……敷物、持って来て呉れたの?


   うん、若しかしたら必要になるかも知れないと思って。


   そっか……ありがと、メル。


   さぁ、ユゥ。


   ねぇ……メル。


   なぁに?


   隣に、座って欲しいな。


   ん……勿論。


   ふふ、やった……。


   ……。


   よ、と……ふぅ。


   ユゥ、喉は乾いていない?


   んー……少し。


   なら、此れを。


   それ……若しかして、薬茶?


   ううん、糖湯。


   とうゆ?


   お湯の中にほんの少しだけ、糖を溶かしてあるの。


   ということは……甘い?


   ほんの少しだけだから、そこまで甘みは感じないと思う。
   けれど、今のユゥには飲みやすいと思うの。


   うん、多分飲みやすいと思う。


   一応、味見はしてあるけれど……飲めなかったら、無理しないでね。


   屹度、大丈夫だよ……ね、メルも飲むよね?


   うん、ユゥと一緒に。


   へへ……やった。


   今注ぐから、待っててね。


   ん、ありがとう……。


   ……。


   ふぅ……。


   ……ユゥ、どうぞ。


   うん……頂きます。


   ……。


   ん……あったかいけど、熱くない。


   ……直ぐに飲めるようにと、思って。


   ふふ……なんだか、躰の中が、ほわほわする。


   ……飲めそう?


   うん、飲めるよ……白湯とは違って苦味を感じないから、飲みやすい。


   あぁ、良かった。


   ね……もっと、貰っても良い?


   ん、どうぞ。


   へへ、ありがと。


   ふふ、どういたしまして。


   ね、ね……メルも、飲も。


   うん、ユゥが飲み終わったら。


   ん……じゃあ、お先に。


   ゆっくり、飲んでね……。


   ……ん。


   ……。


   ……へへ、美味しい。


   ユゥは熱を出すと、白湯に苦味を感じるようになってしまうから。


   ……メルは熱を出しても、白湯は飲めるよね。


   私は……どちらかと言うと、甘みを感じるから。


   良いなぁ……あたしも、甘みを感じられたら良いのにな。
   躰が熱いのは、勿論嫌なんだけど……味覚がおかしくなっちゃうのも、嫌なんだ。


   お師匠さんも然うなのよね。


   うん……「ジュピター」は、然うみたいだ。
   先生は、やっぱり甘み……?


   然うみたい。
   だけど、先生は甘い白湯が苦手だから。


   甘味は、好きだよね……。


   甘味は好きだけれど、白湯が甘いのは許せないんだって。


   あー……それはそれで、困るなぁ。


   あのひとの場合は、困っているようにはあまり見えないのだけれどね……。


   はは……先生らしい。


   ……その代わり、お師匠さんにはいつも以上に我侭を言っているみたい。


   師匠は、先生に我侭を言われると嬉しいみたいだからなぁ……はい、メル。


   ……もう良いの?


   うん……取っておいて、帰り道で飲みたいから。


   然う……分かった。


   あたしが注いでも、良い……?


   ん、ありがとう……ユゥ。


   へへ、どういたしまして……。


   ……。


   ……どうぞ、メル。


   うん……頂きます。


   ……。


   ……。


   ね……美味しいだろ?


   ……ん、美味しい。


   へへへ……あたしと、同じだ。


   ……ユゥと、一緒だから。


   あたしと……?


   ……だから、美味しく感じるの。


   メル……一緒で、嬉しいな。


   ……甘過ぎると、かえって喉が乾いてしまう。


   うん……?


   かと言って、今のユゥには白湯は飲み辛いかも知れない。
   そんなことを考えながら、此の糖湯を作ったの。


   だから……こんなに、美味しいんだ。


   ……一応、先生に確認は取ってあるから。


   先生に……?


   ……何かあったら、大変だから。


   大丈夫だと、思うけどなぁ……メル、いっぱいお勉強しているし。


   ……ユゥのことで、失敗したくないの。


   失敗……?


   ……若しも私の判断のせいで、ユゥが苦しむことになったらと思うと。


   あたしは、大丈夫だよ……。


   ……私が、大丈夫ではないの。


   メルが……。


   ……それに、今だけだから。


   今だけ……?


   先生に、教われるのは……マーキュリーになったら、ひとりで判断しないといけなくなるから。
   だから……教われることは全て、教わっておくの。


   そっか……うん、然うだね。


   ……先生以上のマーキュリーにはなれないかも知れないけれど、それでも、ユゥを守れるように。


   若しも、先生以上のマーキュリーになれなかったとしても……あたしのマーキュリーは、メルだけだよ。


   ……ユゥ。


   あとね……先生以上のマーキュリーにメルはなれると、あたしは思ってる。
   だってさ、あんなに頑張っているんだ……屹度、なれる。


   ……ありがとう、ユゥ。


   ん。


   ……。


   師匠、さ。


   ……お師匠さん?


   あたしよりも、ずっとずっと、強いんだ……大きくて、強くて、今のあたしでは、全然敵わない。


   ……。


   今のあたしは、ジュピターのたまごで……だから、ひよこになれって。


   ……ひよこ?


   然う、ジュピターのひよこ……なんだそれって、思ったけどさ。


   ひよこ……たまごから孵化するもの。


   鳥の子、だっけ……?


   たまごから生まれるのは鳥だけではないけれど、ひよこと言ったら鳥の子だわ。
   羽根が育っていないから、親鳥のようには飛べないの。


   飛べるようにならないと、駄目なのかな……。


   ……飛べない鳥も、居るには居るけれど。


   え、居るの……?


   うん……羽根はあるのだけれど、飛べる構造にはなっていないの。


   え、と……あたし、飛べなくても良いかな。


   ん……取り敢えず、実際に飛ぶ必要はないと思う。


   じゃあ、あたしが目指すのは、まずはひよこで……それから、飛べなくても良いから。


   ……ユゥはもう、ひよこだと思うの。


   え、然うなの……?


   うん……便宜上、たまごとは言っているけれど。
   実際は孵化していて、今は雛としてジュピターになる為に頑張っていると。


   ……。


   ユゥ?


   ……師匠はやっぱり、いい加減だな。


   ……。


   メルは、マーキュリーのたまごでも可愛いけど……。


   ……私?


   ひよこになったら、もっと可愛いと思っていたのに……。


   ……えと。


   マーキュリーのひよこって、可愛いだろう……?


   然う、かしら。


   然うだよ……青くて、小さなひよこ。
   手の平に包んで、守りたくなる……。


   ……然ういうもの、なのかしら。


   然うだよ……勿論、マーキュリーになっても守るけど。


   ……。


   ……。


   ……私の大事な、ひよこ。


   メルの、ひよこ……。


   ……守りたい、私だけのあなた。


   ……。


   ……ユゥの家に着いたら、少しゆっくりしましょう。


   うん……ゆっくり、する。


   ……時間は、あるから。


   あたしの、メルと……。  


  10日





   躰を動かしているのかと、思っていたけれど。


   食った後に鍛錬することは莫迦がすることだから、考え直したんだ。


   すれば良いのに、莫迦なのだから。


   ちゃんと食休みは取らないとな。


   食べた後に寝転がることも莫迦がすることよ。


   つい先刻までは、座っていたんだ。
   それに食って直ぐ、ではないしな。


   それで、ずっとぼんやりしていたの。


   ぼんやりしているうちに、転がってた。
   ぼんやりしてるのも、結構、疲れるのな。


   ぼんやりしているからよ。


   やっぱり、動いていた方が良かったか。


   莫迦ね。


   それ、ユゥには言うのか?


   何を?


   莫迦がすること、とか。


   言葉を選ぶわ。


   あたしにも選んで


   選ぶわけないでしょう、面倒臭い。


   ん、良いことだ。


   何が。


   お前はそれだけ、あたしに心を許しているってことだからな。
   良いことでしかない。


   妄想、お疲れさま。


   応。


   莫迦は良いわね、単純で。


   単純の方が、楽だろう?


   あなたは、然うでしょうね。


   お前が。


   は。


   な、マーキュリー。


   何。


   隣、どうだい?
   右でも左でも、どちらも丁度空いているからさ。
   お前の好きな方を選んで呉れ。


   あなたの腹の上だったら、座ってあげても良いわ。


   食ったものが出てしまうな、それは。


   好きでしょう、あなた。


   好きだけれど、今はなぁ。
   うっかりなんてことがあったら、勿体ないだろう?


   そんなやわではないくせに。


   まぁ、然うだが。
   お前がどうしてもと言うのなら、


   このままで。


   然うか、残念だ。


   ……。


   ちびふたりは、行ったか。


   ええ、行ったわ。


   おかしいな、あたしには一言もなかったぞ。


   あなたがこんなところで転がっているからでしょう。
   わざわざ探しに来て貰えるとでも思っていたの、目出度いわね。


   そりゃ然うだ。


   ……。


   お前は、どうして……いや、ちび達はあたしに何か言っていたか?


   ……別に、何も。


   然うか。


   強いて言えば、行ってきますと。


   良し、行ってこい。


   私に言っても仕方ないでしょう。


   お前が言われたのだから、お前に言ったんだ。


   迷惑な話ね。


   あいつはちゃんと、歩けていたか。


   ええ、ふらつきはなかったわ。


   問題は、体力だな。


   落ち切ってはいない。
   家の往復くらいならば、問題ない。


   お前が判断したのだから、問題はないだろう。
   が、不測の事態というものはいつだって起こり得る。然うだろう?


   その為に、あの子を付き添わせた。
   いざとなったら、あの子達の温度で追える。


   追えはするが、追う間に生じる時間はどうする?


   だから、もう少ししたら、ふたりを追って。


   は?


   暇でしょう?


   暇と言えば、まぁ、暇だが。


   拾いに行くのは、どうせ、あなたよ。


   応、それは任せろ。


   ならば、初めから追って。


   過保護だな。


   悪い?


   いや、悪くはない。


   代わりは居ないの。


   然うだな、居ないな。
   良し、分かった。あともう少ししたら追うよ。


   分かっては、いるでしょうけれど。


   あたしが、ちびふたりに感付かれるわけがないだろう?


   どうだが。


   そんなへま、未だしないさ。


   然うだと良いわね。


   賭けても良いぞ。


   何を?


   今夜、


   ならば、感付かれない方に賭けるわ。


   いや、お前。


   感付かれたら、わざとだと思うから。


   あー。


   それでも、賭ける?


   賭けない。


   然う、残念だわ。


   因みに、お前は


   今夜は床で眠って貰う。


   うん、賭けなくて良かったな。


   賭けをしなくても、床で眠って貰うつもりだけれど。


   あたしは、寝台で、お前と眠りたい。


   同じ部屋で眠ることが出来れば、十分だと思うけれど。


   そんなことをしたら、熱が。


   枕元に薬茶を置いておいてあげるわ。
   熱が出たら、冷め切っているそれを飲み干して。


   お前は、寝台で寝かせて呉れるさ。


   ま、期待するのは構わないけれど。


   応、勝手にしとく。


   ……。


   ちび達はゆっくりだろうから、もう少し待つか。
   ま、躰を動かすのに丁度良い。


   あなたからの手紙。


   あ?


   あの子に読んで聞かせておいたから。


   手紙って。


   あなたが遠征先から莫迦みたいに送って来た手紙。


   や、どうしてそんなものを。


   何か読んで欲しいと、強請られたの。


   歴代の日記か、青い星のなんかの書物か。
   読むのなら、色々あるだろう? どうしてあたしからの手紙を?


   笑っていたわ、あの子。


   理由は、特にない?


   あなたが書く文章はどういうものか知る為に、手紙は丁度良いでしょう?
   日記は未だ、読めないのだから。


   まぁ、お前に読まれるのは別に構わないが。


   だから、読んだのよ。


   然し、そんなの取っておいたんだな。
   あたしはてっきり、さっさと捨てられたとばかり。


   取っておいたのではないわ。


   うん?


   隅っこに残っていたのよ。


   お前が? 消すのを忘れる?
   仮にその時に忘れたとしても、定期的に確認をして、不要なものは消しているお前が?


   本当、あなたと同じで厄介だわ。


   然ういうことなのか?


   他にあるとでも?


   いや、此ればかりは考え難い……な。


   あ、然う。
   ならば、然う思っておけば良い。


   応、然うする。


   ……。


   な、幾つ取ってあるんだ?


   取ってあるのではなく、隅っこに残っていたのよ。


   幾つ、残っていたんだ?


   幾つでも良いでしょう。


   それは、一通ではないな?


   まさか。


   何故とは、聞かないでおこう。


   顔がだらしない。


   まぁ、な。


   ……。


   ……未だ、消してないのか?


   未だ、使えると思うから。


   然うか……。


   ……消されたいのなら、消すけれど。


   いや……お前が、好きなように。


   然う……ならば、然うするわ。


   応……然うして呉れ。


   ……。


   ……然うか、残しておいて呉れたのか。


   私は、送らなかった。


   ……ん。


   手紙。


   それは仕方ないさ、お前はマーキュリーなのだから。


   あなただって、ジュピターでしょう。
   遠征先から、手紙を送ってくるだなんて。


   あの頃も、然う言われたっけな。
   そのうち、言われなくなったが。


   一度や二度ならまだしも、幾度も送って来られたら面倒にもなるわ。


   何度かマーズに見つかって、小言を言われて鬱陶しかったな。


   良いとばっちりだわ。


   そんな時は大体、ヴィナが上手い具合にやって呉れたんだった。


   ……。


   まぁま、手紙ぐらい良いじゃないってさ。
   あの頃のあいつは、融通が利く、なかなか良い奴だった。


   ……珍しいとは、思うわ。


   恐らく、あんなヴィーナスはなかなか生まれてこないだろう。


   ……過去に居なかったわけでは、ないだろうけれど。


   どれだけ、居たか……あんまり、居なかっただろうな。


   ……。


   あいつが、生きていれば……あのちびは、ああはならなかったかも知れない。


   ……それは、分からないわ。


   同じではないからな……が、あいつが育てていれば少しは違っただろう。


   ……どうして、そんな話を。


   ……。


   ……。


   なぁ、マーキュリー……。


   ……何、ジュピター。


   あいつの、最期……憶えているか。


   ……私が忘れるとでも、思ったの。


   いいや、思わない。


   ……けれど、思い出したくはないわ。


   あぁ、然うだな……。


   ……。


   ……。


   ……卵を、植え付けられた。


   ……。


   この躰の造り……腹部に、無駄な空洞がなければ。


   ……あと、形だな。


   ……。


   植え付けられたあいつは……中から食い破られて、異形の者へと成り果てた。


   ……ジュピター。


   あたしの目の前で……だから、あたしが殺した。


   ……孵化が、早過ぎたのよ。


   孵化が、もう少し遅ければ……な。


   ……。


   マーキュリーなら、対処が出来た……躰の外へ摘出、出来たんだ。


   ……どうしようもないわ。


   然うだな、どうしようもないな……。


   ……孵化した場所が宮殿内でなくて良かった、言えることはそれだけ。


   あぁ……。


   ……あなたは、荒れたけれど。


   然うだったか……?


   ……忘れたの?


   お前に、酷いことをした……そんな記憶が、ある。


   ……ええ、散々だったわ。


   お前が、居なければ……あたしは。


   ……良かったわね、私が居て。


   本当に、な……。


   ……どうして今、そんなことを。


   ちび達には、そんな目に遭って欲しくない。
   然う、不意に思ってな。


   ……。


   お前が、あたしが遠征先から送った手紙を読んだなんて言うからだぞ?


   ……ごめんなさいね。


   あぁ?


   ……。


   お前……珍しいな。


   ……記憶は、思い出を伴う。


   ……。


   ……「ジュピター」であっても、忘れられないことはある。


   全部、忘れるものだと思っていた。
   あたしは、然う、造られている筈だった。


   ……。


   お前のこと以外、全部、忘れられたら良かったのにな。


   ……若しも、クイーンが。


   ……。


   クイーンが、間に合っていたら……また、違ったかも知れないわ。


   ……あの頃のクイーンは、未だ、ましだったからな。


   ……。


   ……?
   マーキュリー……?


   ……あれ程までのものを、外の者共が見逃すとは思えない。


   ……。


   なんにせよ……私には、どうしようもなかった。


   ……ましでも、なかったか。


   あれらを「消し去った」のは、クイーン……記録には、然う残される。


   ……。


   ……。


   ……その方が、良かったかも知れないな。


   その方が……?


   あたしに、殺されるより。


   ……あなたは、取れる選択肢の中で、最も「正しいもの」を選んだ。


   ……。


   私も、クイーンも間に合わない中で……情に囚われることなく、その行動を選び取ったの。


   ……マーキュリーが、あたしの耳に声を届けて呉れたからだ。


   ……。


   でなければ……出来なかったかも知れない。


   だから……私も、殺したのよ。


   マーキュリー……。


   ……あの時も、然う言ったわ。


   うん……言われた。


   ……。


   ……止めるか、この話。


   ええ……止めるべきね。


   ……いつか、ちび達に。


   惑星系外には、然う言った敵対勢力も居ること……それはもう、教えてあるわ。


   ……然うか。


   ……。


   ……そんな奴らに、


   遭わなければ、良い……。


   ……お前。


   私は、過保護なのよ。


   ……はは、本当だな。


   あなたもね。


   ……あぁ、あたしもだ。


   そろそろ、行って。


   あぁ、然うするよ。


   お腹は?


   大丈夫だ。


   然う。


   なぁ、マーキュリー。


   手は、貸さないわよ。


   然うだよな。


   早く立って。


   応、今立つよ。


   ……。


   よ、と。
   うん、躰が軽くなったな。


   ジュピター。


   ん……お。


   ……。


   ……。


   ……ちゃんと、帰ってきて。


   あぁ……帰ってくるよ。


   ……共寝は、してあげないけれど。


   希望は、捨てないさ……。


   ……あ、そ。


   相変わらず……。


   ……。


   ……良い匂いだ。


   あなたは、ジュピターくさいわ……。


   ……唇も、柔らかくて甘い。


   あなたは、荒れているわ……。


   ……後で、薬を塗って呉れ。


   自分で、塗って……。


   ……此の細くて愛しい薬の指で、塗って欲しい。


   ……。


   ん……マーキュリー。


   ……一応、考えておいてあげる。


   応……。


   ……さぁ行って、ジュピター。


   あぁ……行ってくるよ、マーキュリー。


  9日





   ユゥ。


   メル。


   ごめんなさい、遅くなってしまって。


   ううん、大丈夫だよ。
   片付け、ひとりでやらせてしまってごめんね。


   ううん、良いの。
   元気になったら、またふたりでやりましょう。


   うん、やろう。
   早ければ、明日から出来ると思うんだ。


   然うなったら嬉しいけれど……でも、無理だけはどうかしないでね?


   うん、しない。
   また寝込むのは嫌だから。


   若しもまた寝込んでしまったら、先生の薬茶をまた暫く飲まなければいけなくなってしまうから。


   あ、それは困る。


   でしょう?


   け、けど。


   うん?


   延長しても、メルが傍に居て呉れれば。


   居るけれど、出来れば、飲みたいものではないと思うの。


   ……うん、出来れば飲みたくない。


   ちゃんと治してしまえば、然うすれば大丈夫だから。
   それまで、ね?


   うん、メル。


   ……。


   ……やっぱりメルは傍に居て呉れる。


   ねぇ、ユゥ。


   ……ん?


   その……。


   なぁに、メル。


   ……お師匠さんは、ユゥのところに来た?


   師匠?


   ……来た?


   あぁ。うん、来たよ。
   ついさっきまで、ここに居たんだ。


   お話、したの?


   ん、した。


   お師匠さんは、変わりなかった?


   なかった、いつもの師匠だったよ。


   今は、何処に?


   話すだけ話して、外に出て行っちゃった。


   外?


   食後の鍛錬をするって言ってたから、近くに居るんじゃないかな。
   遠くには行かないと思うんだ。


   お師匠さんは、戻ってくる?


   皆でごはんを食べるつもりだって言ってたから、絶対に戻ってくるよ。


   然う……良かった。


   メルは、師匠が居た方が良い?


   皆でごはんを食べられるのが嬉しいの。
   だって、四人が揃うのは二週間ぶりでしょう?


   二週間……そっか、あの手合せからもう一週間以上経つんだ。
   傷は、直ぐに治って呉れたんだけどなぁ。


   直ぐにと、言っても。


   ん……メル。


   それでも、傷の回復にほぼ一週間、腫れも引いて呉れなかった。


   ……うん。


   腫れによる熱も、なかなか下がって呉れなくて……昨日からやっと、安定して呉れるようになって。


   ……気持ち良い。


   発熱している間は、食事もまともに取れなくて。


   ……メルが、麦粥を作って呉れたんだ


   味覚がずっと、おかしいって……。


   ……でも、食べやすいように作って呉れた。


   ユゥ……。


   ……味覚も、ちゃんと元に戻ったよ。


   うん……本当に良かった。


   ね……水仕事をしたメルの手、冷たいね。


   ごめんなさい……今、離すわ。


   んーん、このままでも良いよ。


   ……このままでも、良いの?


   うん……良いよ。


   ……ねぇ、ユゥ。


   なぁに、メル……。


   私に何か、言うことはない……?


   ……メルに?


   何か、忘れていない……?


   え、と……なんだろ。


   ユゥ……本当に、忘れてしまったの?


   え、あ、な、なんだっけ……。


   ……。


   ご、ごめんよ、メル……あたし、メルに。


   ……ね、ユゥは躰が鈍っているのよね。


   鈍って……あ。


   だから……その。


   然うなんだ、ずっと寝ていたから鈍ってるんだ。
   だから、メル。


   ……なに?


   あたし、お散歩に行きたいと思ってる。


   ……先生には、許可を貰った?


   うん、貰った。


   ……お散歩には、ひとりで?


   ううん、ひとりでは駄目だって先生に言われた。


   ……じゃあ、どうするの?


   メルは、お勉強をするって言ってたよね。


   うん……言った、けど。


   でも、先生の講義はまだだよね?


   うん、まだ……だけど。


   講義まで、あたしと一緒に。


   ……。


   で、出来れば、メルと一緒にお散歩に行きたいと思ってるんだ。


   ……私と?


   メルと、一緒に行きたい。


   ……先生では、なくて。


   あたしは、メルと行きたい。
   メルが、良いんだ。


   ……。


   だ、だめかな……やっぱり、忙しいかな。


   ……ううん、大丈夫よ。


   じゃあ。


   ……ん、行きましょう。


   やった。


   ……。


   ね、メル。


   ……なに、ユゥ。


   先生から、その、聞いてなかった?


   ……。


   先生、メルに伝えて呉れるって。


   ……聞いていないわけでは、ないけど。


   ない、けど……?


   ……ユゥの口から、聞きたかったの。


   あたしから?


   ……先生が、伝えて呉れると思っていたから。


   メル……?


   自分では伝えなくても良いと、思っていたの?


   え。


   然うなの、ユゥ。


   そ、そんなことは、思ってないよ。


   ……なら、どうして直ぐに言って呉れなかったの。


   え、と……。


   ……やっぱり、忘れてた?


   わ、忘れてたわけじゃないよ。


   ……でも、言って呉れなかったわ。


   い、言おうと思ってたよ。


   ……でも、私は先生から聞いていると思っていたのでしょう?


   う、ん……思ってた。


   ……私が聞いたのは、食事の後なの。


   食事の?


   ……食事の後、片付けに向かう途中で聞かされたの。


   ……。


   つまり……ユゥと食事をしている時、私は未だ知らなかった。
   ユゥが先生とそんな話をしているなんて、全然知らなかった。


   そ、然うだったんだ……。


   食事の時に……ううん。


   ……。


   食事が終わってからでも良いから……言って欲しかった。


   あ。


   ……先生から、聞かされる前に。


   メル……ごめん。


   ……。


   メ、メル……。


   ……お散歩、どこまで行くの?


   え?


   あまり遠くへは行けないから。
   どこまでなら良いって、先生に言われたの?


   えと……あたしの家まで。


   ユゥの?


   うん、出来れば畑も見てきたいと思ってるんだ。


   見るのは、良いと思うけど……畑作業は。


   うん、やらないよ。
   また熱を出したくないから。


   ……。


   メル……一緒に、来て呉れる?


   ん……一緒に行くわ、ユゥ。


   あぁ……良かった。


   散歩に行くのなら……支度をしないと。


   着替えた方が、良いかな。


   朝に着替えたし、そのままでも良いと思うけれど……着替えたい?


   んー……このままでも、いっか。


   ユゥが着替えたいのなら、着替えの用意もするわ。


   ありがとう、メル。でも、着替えるのなら、帰ってきてからにする。
   帰ってきたらまた寝台に戻らなきゃいけないだろうし、寝台に横になるのに外に出た衣のままだと嫌だから。


   然う、分かった。なら、然うしましょう。
   着替えは、用意だけしておくわ。


   ありがとう。


   どういたしまして。


   ねぇ、メル。


   なぁに、ユゥ。


   怒って、ない?


   怒っては、いないわ。


   そっか……良かった。


   だけど、これからはちゃんと言ってね。


   ん、約束する。


   ……ん。


   ね、直ぐに行く?


   私は、良いけれど……ユゥは、お腹は大丈夫?


   うん、大丈夫だと思う。
   食べてから、ずっと休んでいたし。


   ……。


   メル……?


   ……もう少しだけ、休んだ方が良いと思う。


   え、然うかな。


   今、食べたものを消化しようとお腹が頑張っていると思うの。


   ……。


   ……ユゥ?


   ん……こうすれば、助けになるかなって。


   ……助け?


   お腹の助け。


   お腹を撫でて?


   あ、止めた方が良いかな。


   ううん……良いと思う。


   ん、じゃあ続ける。


   手が疲れない程度にしてね。


   うん、然うする。


   ……。


   へへ。


   ……ふふ。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、メル。


   なぁに、ユゥ……。


   メルは……あたしのこと、好き?


   え……?


   ……好き?


   どうしたの?


   き、聞きたくなったんだ。


   ……。


   メル……聞かせて、呉れないかな。


   ……好きよ。


   あ……。


   ……好きよ、ユゥ。


   う、うん……。


   ……ユゥ、は。


   あたしも、好きだよ。
   メルのことが、大好きだ。


   ……。


   ほ、本当だよ。


   ……?
   ユゥ……?


   この気持ちは、嘘じゃないんだ。
   本当のこと、なんだ。


   ……どうしたの、ユゥ。


   ど、どうもしないよ。
   ただ、伝えたいと思って。


   ……。


   あ、あのね……。


   ……私の気持ちも、本当のことよ。


   ぁ……。


   ……大好きよ、ユゥ。


   メル……うん。


   ……。


   ね、メル……あたし、ね。


   ……どうしたいの?


   あ、えと……その、口付けがしたい。


   ……。


   だ、だめだよね……。


   ……ううん、良いわ。


   い、良いの?


   ……でも、軽く触れるだけ。


   触れるだけ……。


   ……ね?


   わ、分かった。


   ……。


   ……メル。


   ユゥ……。


   ……。


   ……。


   ……あったかくて、やらかい。


   ユゥのは……少し、熱いわ。


   それに……メルのにおいがする。


   ユゥのにおいも……。


   ね……抱き締めるのも、だめかな。


   今は……この姿勢では。


   ……なら、立ってから。


   少し、だけなら。


   ……。


   ユゥ……?


   ……やっぱり、止めとく。


   どうして……?


   ……あたし、ずっと寝てたから。


   ……。


   た、多分……汚れてると、思うんだ。


   ……躰を、拭いた後なら。


   からだ……?


   ……湯浴みは未だ、駄目だけれど。


   か、躰を拭くのは、良いかな。


   お散歩から、帰ってきたら……先生に、聞いてみるわ。


   あ、あたしが、


   ううん、私が聞く。


   あ、うん、分かった。


   ね……それでも、止める?


   ……。


   躰を拭いても……止めておく?


   ……メルさえ、嫌でなければ。


   私は……。


   ……抱き締めたい。


   私は……嫌じゃ、ないわ。


   ……ほんと?


   うん……ほんと。


   ……。


   ……ユゥ。


   こ、今夜、一緒に寝ることは……。


   ……それは未だ、出来ない。


   そ、然うだよね……。


   ……腫れが、完全に引けば。


   あ、あともう少しだと思うんだ。
   散歩に行って、躰を動かせば、屹度。


   なら……それまで、ね。


   うん、それまで我慢する。


   ……うん。


   お腹、未だかな……。


   食べ終わって……四半刻くらい。


   あとどれくらい、お休みすれば良い……?


   あと、もう四半刻……いえ、その半分くらいで良いと思う。


   そっか……なら、もう直ぐだ。


   ……それまで。


   お願い、しても良い?


   ……なぁに?


   何か、読んで欲しい。


   ……何かって。


   先生にも読んで貰ったんだけど、メルにも読んで欲しい。
   メルの声で、聞きたい。


   良いけど……何を読めば良いの?


   何でも良いんだけど……ジュピターの日記とか。


   ……。


   青い星の、花のこととか。


   ……先生には、何を読んで貰ったの?


   先生に?


   日記? それとも青い星のこと?


   先生には……ふは。


   ユゥ?


   メルにも、聞いて欲しかったな。


   何を読んで貰ったの?


   師匠から先生へ、遠征先からの手紙。


   手紙……そんなものが、あるの?


   うん、先生の端末の中に。


   ……どんな内容だったの?


   それがね。


   うん。


   飯が、不味い。


   ……はい?


   ただでさえ美味くないのに、先生と一緒じゃないからより不味い。


   ……。


   あとは、早く帰りたい。
   さっさと帰って、先生に会いたい。


   ……それ。


   そんなのが書いてあってさ。
   先生は呆れてしまって、かえって捨てられないんだって。


   ……。


   ね、面白いだろ?


   ……私も、捨てられないかも。


   うん?


   ……ユゥに、そんな手紙を送られたら。


   ……。


   ……。


   ……あたしも、送るよ。


   送って呉れる……?


   ……必ず、送る。


   ん……待ってる。


   ……あたしも、同じになっちゃうかも。


   同じ……?


   ……師匠と。


   ……。


   ずっと、離れていたら……メルに早く会いたいって、
   そんな気持ちばかり、募ってしまうだろうから。


   ……。


   然う考えると……師匠の手紙、笑えないや。


   ……私も、送るわ。


   メルも?


   難しいかも、知れないけれど……それでも、何かに添えて。


   ……一言だけでも、良いよ。


   ……。


   待ってる……その一言だけで。


   ……屹度、送るから。


   うん……待ってる。


   ……。


   ……。


   ……そろそろ、行く支度を。


   なら、あたしは……躰を、起こそうかな。


   ……ん、分かった。


   ……。


   ……支えているから。


   ありがとう……メル。


   ……ゆっくり、動いてね。


   ん、分かった……ゆっくり、動くよ。


  8日





   ……。


   ……はぁ。


   メル、遅いなぁ。


   ……あ?


   か?


   ……師匠。


   応、ユゥ。
   飯は、ちゃんと食えたか。


   ちゃんと、食べられたよ。


   あの子に食わして貰ったのか。


   初めは食べさせて貰ったけど、途中から一緒に食べたよ。


   美味かったか。


   うん、美味しかった。


   然うか、ならばもう大丈夫だな。


   うん、もう大丈夫だよ。


   何よりだ。
   で、どれくらい食ったんだ?


   ……。


   あ、どうした?
   腹でも痛いか?


   痛くない、それよりどうして師匠に教えないといけないんだ。
   あと、勝手にひとの心を代弁するな。


   あぁ?


   ちゃんと食べられたんだから、どれくらいだって良いだろ。


   なんだ、急に反抗的だな。


   別に良いだろ。


   んー、然うだな。


   熱も下がった、躰も痛くない、ご飯も食べられた。
   それだけ分かれば、


   顔は未だ、ほんのり腫れているか。


   こんなの、なんてことないさ。
   痛くないし、これから散歩に行くし、だから明日になれば引いてるよ。


   お前用の椀に、二杯ぐらいか。


   ……は?


   食った飯の量。


   ……違うよ。


   あたしも、然うだったからな。
   それ以上食うと、腹が追いつかないんだ。


   あたしは師匠とは違うから、それ以上は食べないよ。


   言ったろう、あたしも然うだったと。


   師匠の場合は、痛い目に遭ってから初めて気付いていたんだろ。
   どうせ、先生の言うことなんてろくに聞きやしなかったんだ。


   どうして然う思う?


   先生の話を聞いていると、それしか考えられないからだ。
   だから、然うに違いないんだ。


   聞かないと言うより、あいつは基本的に身を以って知れと言う奴なんだがな。


   それは、師匠が話をちゃんと聞かないからだろ。


   言って呉れればあたしだってちゃんと聞いたぞ。あいつの言うことならば、あたしはちゃんと聞くんだ。
   なんせ、あいつの言葉しか此の耳には入って来なかったんだからな。


   屹度、呆れて言うのを止めたんだ。


   だからだな?
   いや、存外、然うかも知れないな。


   ほら、然うじゃないか。だけど、あたしは違う。
   メルと先生の話をちゃんと聞いているから、ちゃんとした判断が出来るんだ。


   ちゃんとが重複しているぞ。


   ちゃんとしているから、重複したって良いんだ。


   はぁん、然うかい。


   然うだよ。


   お前、まるであたしがちゃんとしてないように言うのな。


   だって、してないだろ。
   だから、ちゃんとした判断が出来ないんだ。


   今は流石に出来るぞ。
   あたしが、いやあたし達がどれだけの時を生きてると思ってるんだ。


   師匠は無駄に長く生きてるって、先生が言ってた。


   師匠は、ね。まぁ、良い。
   ユゥ、時には痛い目に遭って知ることも大事だぞ。


   それも必要なことかも知れないけれど、避けられること、無用なことはなるべく避けるべきだ。


   全てが無用だとは限らない。
   お前だって、失敗はするだろう?


   するけど、ごはんの食べ過ぎなんて失敗はしないよ。


   然うか?
   お前、食い過ぎて眠くなるなんてことざらだろう?


   それは良いんだよ、元気なんだから。


   応、なかなか都合が良いな。


   痛い目には遭っていない、師匠とは違う。


   此れも教育の賜物って奴か。
   口の利き方が、微妙にあいつに似てきている。


   あたしはメルと先生、ふたりに教わっているんだ。
   どこまで行っても、師匠とは違う。


   あたしとお前は違う、確かにお前の言う通りだ。


   だろ。


   お前とあたしが、同じであってたまるかよ。


   ……う。


   あたし達は「ジュピター」だが、同じではない。同じ心を持つ者なんて、此の宇宙には存在しない。
   故に、代わりも居ない。造ることだって、出来ない。失われたら、それでおしまいなんだ。


   ……そんなの、当たり前だろ。


   然うあたし達は考える。
   が、然う考えない場所が在る。


   ……。


   あたし達が居る場所、いつかはお前達が行く場所だ。
   彼処では同じような、いや同じ奴が腐る程居る。使命とやらに生きる者共。
   其の実、都合良く生かされているだけに過ぎない月の人形共がな。


   ……月の人形。


   あたし達だって、人形には変わりない。が、あたし達には心がある。
   勝手に押し付けられた使命に何も疑問を持たない奴らとは、全く違う。


   ……。


   良いか、ユゥ。心は、脆いものだ。傷が付けば、血だって流す。
   支えて呉れるひとが居なければ、いずれ必ず壊れてしまう。保つことすら、出来ないんだ。


   ……師匠は。


   あたしも同じだよ、そしてマーキュリーもな。


   先生も……ううん、先生は。


   残念ながら、心を持つ者に例外は居ないんだ。


   ……メルも。


   あぁ、然うだよ。


   ……心が壊れるのと、躰が壊れるの、どう違うの。


   其処に、大した違いはない。
   だからこそ、そんな厄介なものなんてない方が良いと言う答えに行き着く。


   ……ない方が、良い。


   行き着いてしまうんだよ、ユゥ。


   ……師匠は、あるの。


   あたしは、ない。


   ……先生は、


   「マーキュリー」という人形には、殊更、繊細な心が宿るらしい。
   その務めを考えれば、分からないわけではない。


   ……せんさい?


   壊れやすいんだ。


   ……守らなきゃ。


   守る為には、己の心も大事にしなければならない。
   下手をすれば、共倒れになりかねないからな。


   ……強くなれば良いの。


   言ったろう……ジュピターだって、例外ではないと。


   ……師匠は、どうやって。


   あたしは……肝魂が小さいんだ。


   きも……?


   だから、それはもう、必死よ。


   ひっ、し……?


   けれど、限界はある……共倒れも悪くない、とかな。


   え。


   ……。


   し、師匠……?


   なんて、な。


   ……あ。


   深刻な話は此処ら辺で止めておくか。
   お前の熱がぶり返しでもしたら、あたしの命が危うくなるかも知れないからな。


   師匠……。


   それにしても、一丁前な口の利き方をして呉れるようになったもんだ。


   ……あたしは別に、本当のことを言ってるだけだよ。


   本当のこと、か。
   な、ユゥ。本当のことって、なんなのだろうな。


   ……本当のことは、本当のことだよ。


   本当のことだと思っていることが、若しも、本当ではなかったら。


   ……。


   現実では、断然、本当でないことの方が多い。
   だから……?


   ……あたしがメルのことを大好きなのは、本当のことだよ。


   あぁ、然うだな。
   あたしも、それに関しては本当だと思っているよ。


   ……メルは。


   ぐだぐだとどうでも良いことを並べたが、メルはお前のことが好きだと思うよ。


   ……。


   少なくとも、あたしは然う信じている。


   ……信じる。


   お前も、メルのことは信じているのだろう?


   ……当たり前、だ。


   はは、然うだよな。
   あたしも、マーキュリーのことを信じているよ。


   ……信じることは。


   信じることは、時に心に多大な負担を掛ける。


   ……。


   だけど……信じ抜け、ユゥ。


   ……はい、師匠。


   お、良い返事だな。


   ……だって、あたしの師匠は師匠だけなんだ。


   然うか。


   ……う。


   ところでお前、椀二杯で足りたか?


   ……少し足りなかったけど、それ以上食べたらお腹に良くないから。


   然うか、食ったのはやっぱり二杯か。


   ……あ。


   あたしが思っていた通りだな。
   ま、それ以上は食べないと言ったところで、分かっていたけどな。


   ……師匠は。


   あ?


   師匠は、今まで何をしていたんだよ。


   あたし?


   然うだよ、他に誰が居るんだよ。


   新しい師匠が出来たのかと。


   師匠はふたりも要らないよ。


   お。


   ひとりで十分だよ、こんなの。


   先生も、マーキュリーひとりで十分だよな?


   ……。


   勿論、メルは別だ。


   ……先生とメルと師匠が居れば、あたしはそれで良いんだ。


   然うか、然うか。


   ……こんなの、やっぱりひとりで良い。


   こんなのって、お前なぁ。


   こんなのはこんなのだよ。
   先生とメルに心配をかける師匠なんてこんなので十分なんだ。


   心配?


   然うだよ。
   先生とメル、何度もあたし達の家に行って呉れたんだ。


   それは、畑の様子と


   違うよ、師匠の莫迦。


   あー?


   師匠が、いつまで経っても、ここに来ないからだよ。
   家に行っても、いつ行っても、帰ってないからだよ。
   なんで分からないんだよ、莫迦師匠。


   お前に莫迦って言われるのは、癪だな?


   あたしだって言いたかない、けど、仕方ないだろ。
   本当に莫迦なんだから。


   躰に障るぞ。


   何も触らないよ。


   病み上がりで、そんな悪態を吐いていると。


   悪態じゃない、本当のことだ。


   メルは分かるが、あいつがあたしを心配すると思っているのか?


   思ってるよ、思わないのは師匠だけだよ。


   あいつは、心配なんてしないさ。


   だから、


   あいつは、あたしが何処に居るのか、分かっていただろうからな。


   ……は?


   あいつとあたしのだけの秘密だ。


   なんだよ、それ。


   秘密は秘密だ、お前とメルの間にもあるだろう?
   ひとつやふたつ、いや、もっとあるかもな。


   ……別に、


   ないのか?


   そんなの、師匠に


   お前とメルは仲が良いとあたしは思っていたが、実はお前の一方通行だったのか。


   ……は?


   いつだったかお前、メルを泣かしたことがあったよな。
   確か、同意も得ずに無理矢理耳を舐めた、だったか。


   そ、それは、ちゃんと謝って、許して


   あの時のお前は、此の世の終わりみたいな顔をしてたよなぁ。


   む、昔のことだろ。


   上辺だけで、今でも心からは許していないかも知れない。


   ……。


   故に、嫌われることはあっても、好かれることはないな。


   ……そんな、こと。


   しかし、あの子は優しいな。
   好きでもないお前と、


   メ、メルは、あたしのこと、す、好きだよっ。


   自分で言うか?


   い、言うよ!


   どうして言える?


   ほ、本当のことだからだよっ。


   本当のこと?
   どうして、それが本当だとお前に分かる?


   それはっ。


   メルの気持ちは、メルだけのものだ。お前のものではない。
   であれば、お前なぞが分かるわけがない。ましてや、本当のことなど、な。


   ……メルは、あたしのこと。


   口では、なんとでも


   メルは、嘘なんか吐かないよっ。


   ふむ、然うか。
   それは、あたしも思うな。


   だ、だから……だから。


   やっぱり面白いな、お前は。


   ……。


   先刻言ったばかりだろう?
   あたしも、メルはお前のことが好きだと思うと。


   ……嵌めたな。


   嵌めてはいない、お前が勝手に嵌まっただけだ。


   ……うぅ。


   ともあれ……元気そうで、何よりだ。


   ……メルと先生が傍に居て呉れるからだよ。


   あぁ、然うだな。


   ……師匠なんて、居なくても。


   だから、来なかったんだよ。
   あたしなんか居たところで、何にもならないだろうからな。


   ……師匠は、本当に莫迦だ。


   あたしの何処が莫迦だと思う?


   ……何にもならないわけ、ないだろう。


   あたしが出来ることと言えば、


   師匠は、美味しいごはんを作れるだろ。先生とメルに作ってあげることが出来るだろ。
   それなのに……それなのに、今の今まで来ないで。来たと思ったら、メルが作った野菜汁を食べて。


   そうそう美味しかったな、メルが作った野菜汁は。
   ユゥも然う思うだろう?


   然うなんだ、メルが作るごはんはなんだって美味しいんだ。


   だから、離すなよ。


   は、何を?


   お前、若しかして莫迦か?


   む。


   此の流れで、何を? じゃないだろう。


   きゅ、急に師匠が言うからだろ。


   急でも、離さない、ぐらいは返せるだろうが。
   それをお前、何を? だもんな。


   に、二回も言うな。


   はは、お前は莫迦だなぁ。


   し、師匠っ。


   ユゥ。


   な、なんだよ。


   ……。


   なんだよ、師匠。


   ……お前が、ジュピターになる為に。


   もっと鍛錬して、いつか必ず、師匠に勝つ。


   ……。


   そして、メルを守るジュピターになるんだ。


   ……はっ。


   何が可笑しいんだよ。


   いや、その意気だ。


   だろ?


   が。


   ……ぅ。


   お前は、まだまだたまごだ。
   せめて、ひよこになれ。


   ……ひよこ。


   ジュピターのひよこ、だ。


   ……なんだ、それ。


   ひよこは、ひよこだよ。


   ひよこって。


   面白いだろ?


   面白いの?


   聞くな。


   聞くよ。


   ははは。


   ははは、じゃない。


   さて、あたしは行くか。
   そろそろ、メルが戻ってくるだろうからな。


   どこに


   安心しろ、飯は皆で食うつもりだ。


   別に、


   と言うわけで、また後でな、ユゥ。


   師匠、


   んー……取り敢えず、食後の鍛錬でもするかな。


   あーもう……ほんと、師匠は勝手だ。 


  7日
   時が戻ります。





   メル。


   はい、先生。


   食事の時間は終わった?


   はい、滞りなく終わりました。


   あの子はどれくらい食べたのかしら?


   お椀に二杯程です。


   あの子用の椀で?


   はい、然うです。
   それ以上は、お腹と相談して止めたようです。


   あなたが止めたのではなく?


   ユゥ自身の判断です。


   うん、それは良いことね。
   で、あなたの見立ては?


   私は適切な量だと判断しました。


   もっと食べたそうではなかった?


   食べたそうではありましたが、今の己の状態をちゃんと分かっているようです。


   然う。
   ま、それなりに食べられたようで良かったわ。


   はい。


   あなたは?


   私も、ユゥと一緒に済ませました。


   然う、それは結構。


   先生は、済まされましたか。


   ええ、一応ね。
   まぁまぁ美味しかったわ、ご馳走さま。


   然うですか、良かったです。


   此れから片付け?


   はい。


   その前に、ひとつあなたに頼んでも良いかしら。


   ……頼む?


   何?


   いえ、なんでしょうか。


   あの子からもう、言われているかも知れないけれど。


   ユゥから?


   若しかして、あの子は言っていないの?


   何のことでしょうか。


   本当に聞いていないのね。


   ですから、何のことか聞いているのです。


   んー……。


   ……。


   私からでなく、あの子から聞いた方が良いかも知れないわね。


   ならば、言わないで下さい。


   けれど、私が言わなければ分からないままだったでしょう?


   然うだとしても、ユゥは言って呉れると思います。


   然うだと良いわねぇ。


   ユゥが言わないとでも、思っているのですか。


   それは、分からないわね。私は、あの子ではないから。
   まぁ、あの子の気が変わってしまえば、言って呉れないかも知れないわ。


   お言葉ですが、私に何か言いたいことがあるのならば、ユゥはちゃんと言って呉れます。
   ユゥは、私達とは違って、素直で正直なひとなのですから。


   素直で正直なことは私もよぉく知っているわ。
   若しかしたら、あなたよりもね。


   そんなこと、


   ないとは、どうして言えるのかしら。


   ……。


   言えないでしょう?


   ……少なくとも。


   私よりは、知っている?
   本当に?


   ……何が、言いたいのですか。


   別に、ただ反応を見ているだけ。


   ……。


   此れくらいで感情が乱されていては、冷静な判断なんて出来ないわよ。


   ……別に乱されてなんかいません。


   不貞腐れているわね。


   不貞腐れてなんかいません。
   私は、片付けをしなければいけないので


   片付けをして、その後はどうするの?


   講義の時間まで、ユゥの傍に


   然う、ならばあの子のお散歩に付き添ってあげて。


   然うですか、分かりました。


   言ったわよ。


   ……?
   は……?


   食べたばかりだから、四半刻後くらいにでも行ってらっしゃい。


   行くって。


   躰が鈍ってしまって、軽くでも良いから動かしたいらしいの。
   だから、軽い散歩ならば許可した。但し、誰かの付き添いが必要という条件付きで。


   待って下さい。


   何を?


   ユゥは未だ、少し熱があります。
   それなのに、散歩に行かせるのは


   あれくらいの熱ならば、問題ないわ。ジュピターの平熱に等しいから。
   まぁ、問題はないけれど、体力を使い果たすようなことはさせないで。


   腕も未だ、少し痛いと。


   おかしいわね、もう痛くないと言っていたのに。


   顔の腫れだって、未だ。


   「ジュピター」と言う人形はね。


   ……!


   ある程度回復したら、躰を動かした方がより回復力が高まるの。
   然う、出来ているのよ。


   ……人形だなんて、言わないで下さい。


   分かりやすく、然う言ったまでよ。


   そんな言い方をせずとも、理解しています。


   然うかしら?


   然うです。


   然うだと良いけれど。


   私はあなたから教えを受けているんです。
   その私が理解していないとすれば、あなたの指導力に問題があるということにもなります。


   へぇ、言って呉れるわね。


   兎に角、人形などと言わないで下さい。


   「マーキュリー」のことは?


   同じです。


   自分達のことならば構わないと思ったけれど、然うではないのね。


   当たり前です。


   あの子が怒るから、かしら。


   然うだとしたら、何だと言うのですか。


   仲が良いようで、大いに結構、よ。


   ……。


   あなた達はどうか、そのままで居てね?


   ……言われなくても、私達は変わりません。


   それを、願っているわ。


   ……講義は、ユゥのお散歩の後でということで良いのですか。


   ええ、良いわ。


   分かりました、それでは失礼します。


   そうそう、あのひとなら未だ帰っていないわよ。


   ……は?


   未だ、食べているの。
   あなたが作った野菜の旨煮汁をね。


   ……然うですか、何よりです。


   何より?
   何が?


   ……強情ですね。


   聞こえないわ。


   先生は、お師匠さんと食べたのですね。


   不本意だけれど。


   未だ、残っていますか。


   残っていると思うわ。
   あのひとが食べ切ってしまわなければ、ね。


   それは、流石にないと思います。


   あのひと、お腹が空いているみたいよ。


   知ってます、だから


   食べるように、勧めた?


   ……然うです。


   嬉しそうに、美味しそうに食べていたわ。


   ……お腹が空いていたら、大体のものは美味しいですから。


   喜ばないのね?


   ……喜んでいますよ。


   まぁ、あの子が喜んだでしょうし。
   あなたは、それだけで足りるのよね。


   ……お師匠さんが喜んで呉れるのも、ちゃんと嬉しいですから。


   ちゃんと、ね。


   ……そもそもお師匠さんは、先生と一緒だから。


   何?


   ……いえ、良いです。


   言いたいことがあれば言えば良いのに。


   ならば、言います。


   なぁに、メル。


   遊んでいますよね?


   うん?


   私で。


   どうして?


   ただの私の勘です。


   勘、ね。


   もう一度言います、私で遊んでいますよね。


   ええ、遊んでいるわ。


   私は構いません、慣れていますので。


   私は?


   ユゥで遊ぶのは止めて下さい。


   どうして、ユゥ?


   私が居ない間、遊んでいたのでしょう。


   あの子で遊んだなんて、言ったかしら?


   口では言っていません。


   口では、ね。


   言い掛かりであったら、謝罪します。


   良いわ、謝らなくても。
   あなたがごはんを作っている間、ユゥと遊んでいたのは間違いないから。


   ……ユゥ、と?


   然う、ユゥと。
   何か読んで欲しいとせがまれたから、読んであげたの。


   何を読んであげたのですか?


   それは然うね、ユゥに聞いてみたら良いわ。


   ……本当に、それだけなのですか。


   それだけではないと思う根拠は?


   ……日頃の行い。


   うん、なぁに?
   聞こえなかったわ。


   ……聞こえているくせに。


   兎も角、ユゥで、ではないわ。
   ユゥと、よ。


   ……申し訳ありません。


   言ったでしょう、謝らなくても良いと。


   ……出来れば、ユゥを揶揄うのは止めて下さい。


   今度は、揶揄う?


   ……今日は、揶揄っていなくても。


   ふふ、面白くないの?


   そんなことは言っていません。


   ならば、嫌?


   ですから、言っていません。
   そもそも、嫌なのはユゥであって、


   あの子に嫌だと言われたことは、一度もないわ。


   ……言わない、だけで。


   本当に、然う思っている?


   ……。


   思っているのは、あなたでしょう?


   ……然うです、悪いですか。


   ふふ、悪くはないわ。


   ……。


   それに、あの子も同じことを言っていた。


   ……どういうことですか。


   あなたがあのひとに揶揄われること、あの子も嫌で、許せないみたい。


   ……。


   揶揄われるあなたがどう思っているのかまでは、考えが回らないみたいね。
   まぁ、今はそれでも良いけれど。


   ……詰まり、何が言いたいのですか。


   言葉にしなければ、分からない?


   ……あなたの言葉を参考にしようと思っただけです。


   ならば、ひとつ。
   あなた達は、似ているわね。


   私達が?


   ええ、良く似ているわ。


   だとしたら何なのですか、悪いことなのでしょうか。


   いいえ、悪くはないわ。
   悪くはないけれど、あまりにも近いと苦しみが増すかも知れない。


   ……苦しみ?


   変わらないでいられるのならば、それでも良いのだけれど。


   ……変わらないとは、言い切れない。


   うん、先刻よりも妥当な答えだわ。


   ですが……変わらないでいようと思うことは、出来ます。


   いいえ、それすらも出来ない時だってあるわよ。


   ……。


   無理矢理変えて来ようとする力に抗うことは、心にかなりの負担を強いることになるから。


   ……だとしても、ふたりなら。


   覚えておきなさい、メル。


   ……はい、先生。


   血は、心からも流れる。


   ……。


   心の傷から。
   止血をしてやらなければ、傷を癒してあげなければ、失うまで流れ続けるの。


   ……若しも、心の血を失ってしまったら。


   躰の傷口から流れる血と同様。
   取り返しがつかなくなる、それだけよ。


   ……。


   ジュピターも、例外ではないわ。
   誰も、その例外にはなれないの。心が在る限り、ね。


   ……心。


   あなたにも、あの子にも、心が在る。此の奥に、宿っている。
   それは決して、良いことばかりではないの。


   ……表裏一体と、言いたいのですね。


   心なんてない方が楽だったと思うことも、あるかも知れない。


   ……。


   心は、自分ひとりだけでは保てない。
   誰か、たったひとりでも、自分に寄り添って呉れるひとが居なければ。


   先生にとって、そのひとはお師匠さんなのですか。


   そんなことは、言っていないわ。


   然うなのですね。


   だから、言っていない。


   もう少し、素直になったらどうなのですか。
   私から見たら、先生は……。


   素直じゃなくて、可愛くない?


   ……然うじゃ、なくて。


   私は、マーキュリーだけれど、あなたではない。


   ……。


   当たり前だけれど、ね。


   ……けれど、誰であろうとも、心はひとりでは保てない。


   私の中には元々、心なんてものは存在していなかった。


   ……お師匠さんが、先生に。


   だから私にとって、素直になること程難しいことはないのよ。


   ……。


   喋りすぎだわ。


   ……ごめんなさい、余計なことを。


   別に構わないわよ、あなたが思っていることが聞けて楽しかったから。


   ……先生。


   メル、私は、あなたと話すことも好きよ。


   ……ありがとうございます。


   まぁ、あなたはどう思っているか、分からないけれど。


   ……嫌いでは、ありません。


   好きでも、ない?


   ……どちらかと言うと、好きだと思います。


   ふふ、ありがとう。
   嬉しいわ。


   ……今の先生は。


   どこか、機嫌が良い?


   ……先に言わないで下さい。


   ふふ、ごめんなさいね?


   ……お師匠さんのこと、いじめたんですか。


   いじめては、いないわ。
   ただ、遊んであげただけよ。


   ……お師匠さんは、元気になりましたか。


   さぁ、どうかしらね。
   確認してみたら、どう?


   はい……然うします。


   うん。
   然うしたら、私はお勉強の用意をするから。


   ……もう、出来ていますよね。


   出来ていても、然う言うのよ。


   私達がお散歩に行っている間、どうぞ、お師匠さんとごゆっくりお過ごし下さい。


   嫌よ。


   ……はい、然うですね。


   呆れてる。


   呆れてますよ。


   ふふ、良いわね。


   う。


   あなたも可愛いわね、メル。


   ……機嫌が良すぎて、いっそ怖いです。


   機嫌なんて、良いつもりはないのだけれど。
   あなたが言うのなら、私は機嫌が良いのね。


   もう一度確認しますが、講義は、ユゥのお散歩の後でということで良いのですね。


   ええ、待っているわ。


   分かりました。


   散歩に行く時は、一応、ひと声掛けてね。


   分かっています。


   うん、それじゃあまた後で。


   はい、先生。
   また、後で。


  6日





   ……うん、熱と脈は安定しているようね。


   先生、あたし、もう大丈夫かな。


   未だ大丈夫だとは言えないわ、再び発熱する可能性は十分に有り得るから。


   躰はもう、痛くないんだ。
   だからさ、軽くなら動いたって平気だと思う。


   然うね、でも無理は駄目よ。
   疲れも、熱をぶり返す要因となり得るから。


   う。


   今日は未だ、ゆっくりと休んでいること。
   良い?


   ……はい、先生。


   うん、良い子ね。


   ……ふふ。


   なぁに?


   先生の手、ひんやりしてやらかくて気持ち良い……。


   ひんやりしている手が気持ち良いということは、未だ熱があるのかしら。
   それとも、また出てきた?


   え。


   となると矢張り、明日までは安静にしていなければ駄目ね。


   け、けど、


   けど、なぁに?


   ……はい、安静にしています。


   ふふ。


   ……先生?


   あなた達は元々、私達よりも平均体温が高いから。


   ……?


   私達の温度が気持ち良く感じるように出来ているみたいなのよね、厄介なことに。


   う、うん、然うなんだ。
   熱がぶり返したからじゃないんだ。


   だからって、油断は駄目。


   ……あの、先生。


   何かしら。


   す、少しも、躰を動かしてはだめ……?


   動かしたい?


   うん、動かしたい。
   ずっと寝てたから躰が鈍ってしまって、なんとなく気持ちが悪いんだ。


   然うでしょうね。


   そしたら、


   でも、駄目よ。


   ……うー。


   と、言おうと思ったけれど、軽い散歩ぐらいならば許可を出しても良いわ。


   ……散歩?


   けれど、ひとりで行っては駄目。


   ……先生が、来て呉れる?


   残念ながら、私は他にすることがあるの。


   ……じゃあ。


   あの子に付き添って貰うつもりなのだけれど。


   ……!


   あなたはそれでも良いかしら?


   う、うん、良いよ!


   然う、なら後で伝えておくわ。


   ありがとう、先生。


   私は治療に必要だから言っただけ。
   お礼を言われることではないわ。


   でも、ありがとうって言いたい。


   然う?
   なら、受け取っておくわ。


   ん……。


   くれぐれもはしゃぎすぎて、体力を使い果たすなんてことがないように。
   良いわね、ユゥ。


   ……うん、程々にする。


   散歩の範囲は……此処から、あなたの家までかしら。
   当然のことながら、あまり遠くへ行っては駄目よ。


   うん、遠くへは行かないよ。
   畑の様子が見たいと思っていたから、散歩がてら、家に行ってくるんだ。


   然う、なら良いわ。


   ふふ。


   嬉しい?


   うん、嬉しい。


   あの子と一緒であることも?


   すっごく、嬉しい。


   あなたは本当に、あの子のことが好きなのね。


   うん、大好きだよ。


   ……。


   へへ……やっぱり、気持ち良いな。


   ねぇ、ユゥ。


   なぁに、先生。


   私のことは?


   ……先生のこと?


   私のことは、好きかしら?


   ……え?


   私のことは、好き?


   せ、先生のこと?


   然う、私のこと。


   あ、えと……す……好き、だよ。


   大好き、ではなくて?


   や、その……だ……だいすき、だよ。


   あの子と私、どちらがより好き?


   え……え……?


   ねぇ、あなたはどちらが好きなのかしら?


   あ、あ……。


   ……はっきり言えないと、あの子に嫌われるわよ?


   ……っ!
   メ、メルの方が好き……っ!


   然う、それは残念だわ。


   で、でも、先生のことも、め、メルの次に


   然ういうことは、あまり言わない方が良いわね。


   え、そ、然うなの?


   あの子、意外に嫉妬深いみたいだから。


   し、しっと……?


   見ている分には、楽しいのだけれどね。


   な、なにが、たのしいの……?


   それは、教えてあげないわ。


   えー……。


   いずれ分かるかも知れないし、ずっと分からないかも知れない。


   ……ずっと分からなくても、良いの?


   良いんじゃない?


   分からないことがあっても、良いの?


   物事による。
   此の場合は、別に分からなくても良い。


   そ、然うなんだ……。


   あなたも、見ていると楽しいわよ。


   あ、あたしも?


   ええ、あなたも。


   よ、良く、分からないけど……良い?


   良いわよ。


   ……。


   ひとつ、言えることがあるとすれば。


   う、うん。


   あなたは誰が好きなのか、それを常にはっきりさせておいた方が、あの子は無闇に嫉妬をしないで済むかも知れない。


   ……。


   それは、分かる?


   分かる……気がする。


   うん、今はそれで良いわ。


   はい、先生。
   あたしは、メルが一番大好きです。


   ふふ、あなたは素直ね。


   へへへ。


   あの子も、あなたが一番だったら良いわね。


   ……へ?


   若しかしたら、ね?


   え、え、えぇぇ……?


   確認、してみたら?


   す、する……。


   けれど、鬱陶しがられるかも。


   し、しちゃ、だめ……?


   それも、教えてあげない。


   うえぇぇ……。


   ……ふふ、面白いわね。


   メ、メルは、あたしが一番……じゃ、ない?
   だ、だとしたら……師匠? え、やだ……。


   ……私かも。


   せ、先生?
   先生なら、


   まぁ、ないでしょうけど。


   う、うぁぁ……。


   ……。


   ……あぅ。


   それは、さておき。
   熱は安定しているけれど……薬茶は、今夜まではちゃんと飲んで貰う。


   く、くすりちゃ……?


   明日からは、状態を見て判断するわ。
   だから、一滴も残さずにちゃんと飲んでね。


   う、うん、ちゃんと飲む。


   ん。


   ね、ねぇ、先生。


   なぁに?


   メ、メルは……傍に、居て呉れるかな。


   いつ?


   あ、あたしが、薬茶を飲む時……。


   あの子に、居て欲しい?


   い、居て欲しい……。


   然う……だけど、どうかしら。


   え……。


   あの子も、お勉強をしなくてはならないし……この後、あなたのお散歩にも付いて行かなければならないし。


   メ、メル……い、いそがしい?


   ええ、忙しいわね。


   ……わかった、ひとりで


   なんて、ね。


   ……。


   屹度、あなたの傍に居て呉れるわ。


   そ、然うだと、良いな……。


   ……。


   ん……先生?


   ……躰の鈍りもだけれど、お勉強の遅れも取り戻さないと。


   あ。


   頭も、使わないと鈍ってしまうから。
   様子を見てからにはなるけれど、出来れば、明日の昼からと考えているわ。


   明日……メルと、お勉強出来る?


   したい?


   し、したい。


   然う……なら、その為の課題を考えておく。
   それで良いかしら?


   う、うん、お願いします。


   ええ。


   ……お勉強、また頑張らないと。


   ところで、お腹は空いてる?


   お腹?


   然う、お腹。


   ちょっと待ってて。


   ええ、良いわよ。


   んー……うん、少し空いてる。


   今、あの子があなたの為に何かを作っているようなのだけれど。


   メルが?


   出来るまで、我慢は出来そうかしら?


   うん、出来る!
   ふふ……メルのごはん、楽しみだなぁ。


   ……。


   ……ん、先生?


   今頃、あなたの師匠はどうしているのかしらね。


   師匠?


   あれから、一度も顔を見せに来ない。


   ……。


   家にも、居ない。
   あなたをほったらかして、何処へ行ったのかしらね。


   分からないけど……師匠なら、そのうちに帰ってくると思う。


   然うかしら。


   うん、だって師匠は先生のことが大好きだから。


   ……。


   だから、先生からずっと離れてることなんて出来ないんだ。


   ……私は、別に構わないのだけれど。


   先生は、師匠に会いたい?


   いいえ、会いたくないわ。


   ……寂しく、ない?


   寂しくない、寧ろ居ない方が静かで良いとさえ思っているわ。
   邪魔されることも、ないし。


   ……師匠は、寂しいと思っているよ。


   どうして分かるの?


   ……あたしもメルに会えないと寂しいと思うから。


   あなたとあのひとは違うわ、同じではないの。


   そ、然うだけど……。


   然うだけど?


   でも……好きなひとに会えないのは、寂しいよ。


   ……。


   う。


   それならば、どうして来ないのかしらね。


   そ、それは……。


   ……あなたのことを、気にしてかしら?


   そ、然うじゃないと思う……あたしは、ジュピターのたまごだし……強くなる為の手合わせで、怪我をするのは当たり前のことだから。


   だったら、どうしてだと思う?


   ……先生が怒ってる。


   私が、怒っている?


   だ、だから……怖くて、来られないのかも。


   私は別に、怒ってなどいないのだけれど。
   あなたには、然う見えるのかしら?


   ……。


   見えるの、ユゥ。


   ……う、うん。


   然う。


   ご、ごめんなさい……。


   ならば、私は怒っているのね。


   ……先生?


   どんな顔をして、あのひとは此処に来るのか……いえ、もう来ているわね。


   え、師匠、来てるの?


   ええ、来ているわ。


   ど、何処に。


   さぁ、何処かしらね。


   んー……。


   あれで、そっと来たつもりなのでしょうけれど……本当に、莫迦ね。


   ……まさか、メルの。


   然うだとしたら、どうするの?


   メ、メルのところに、


   それは、駄目よ。


   で、でも。


   あの子が心配?


   し、師匠は、直ぐにメルのこと、揶揄うんだ。
   だから、だから。


   あの子があのひとに揶揄われるのは、嫌?


   ……嫌だ。


   然う。


   あたしが傍に居れば、未だ良いけど……ううん、やっぱり良くない。


   大丈夫よ。


   だ、大丈夫?


   多分。


   た、多分?


   今のあのひとに、そんな余裕はないと思うから。


   ん、んー……?


   取り敢えず、私が行くわ。


   先生が行って呉れるの?


   ええ、もう少ししたらね。


   直ぐには、行かないの?


   行かない。


   ど、どうして?


   今、行ったら……逃げてしまうかも知れないから。


   に、逃げて?
   師匠が?


   然う、あのひとが。


   ……。


   ふふ、想像出来ない?


   ……うん、出来ない。


   あのひとはね、結構、度胸がないのよ。


   ……どきょう?


   然う、躰は大きいのに肝魂がわりと小さいの。
   と言っても、私に対してだけなのだけれど。


   ……んーと。


   兎に角、もう少しあなたの傍に居るわ。
   然うね、あの子がごはんを作り終えるまで……良いかしら?


   う、うん、良いよ。


   それまで、何かして欲しいことはある?


   ん、と。


   ん?


   ……何か、読んで欲しい。


   何か?


   青い星のことでも、歴代のジュピターの日記でも。


   ……ふむ。


   じ、自分でも、読めるよ……読める、けど。


   良いわ。


   あ。


   今回は特別、ね。


   うんっ。


   さて、どれが良いかしら。


   先生。


   なぁに、ユゥ。


   ありがとう。


   どういたしまして。


   うんっ。


   ふふ、あなたは可愛いわね。


   先生の方が可愛いよ。


   ……。


   え、あれ?


   それ、あの子の前で言ったら拗ねるわよ。


   え、そ、然うなの?


   言ったでしょう、嫉妬深いって。


   んー……?


   ふふ、まぁ良いわ。


   ……言わないように、する。


   ええ、然うして。


   ……でも、先生は本当に可愛いよ。


   ……。


   師匠が良く言ってるし、あたしも然う思う。


   ……然う、あのひとが。


   あたしの一番はメルだけど、師匠の一番は先生なんだ。


   ……ふぅん。


   ねぇ先生、何を読んで呉れるの?


   然うねぇ……あのひとの遠征先からの手紙でも読んであげようかしら。


   え、師匠の?


   と思ったけれど、どうしようもない内容だから。


   き、聞いてみたい。


   本当にどうしようもないわよ?


   そ、それでも、良い。
   聞かせて、先生。


   分かったわ。
   それじゃあ、少しだけ待っていて。


   うん、待ってる。


  5日
   少し、時が戻ります。





   ……お師匠さん?


   応、メル。
   元気だったか?


   はい、私は元気です。


   然うか、何よりだ。


   お師匠さんは……。


   あたしは、いつだって元気だ。


   ……。


   はは。


   ……何より、です。


   応。


   ……先生も。


   メルの髪は。


   ……え?


   相変わらず、綺麗な青だな。


   ……そんな。


   あたしは、嘘は吐かない。


   ……。


   なぁ、メル。


   ……はい、お師匠さん。


   此処に居ても、良いか?


   ……どうして、ですか。


   いや、まぁ……なんとなく、な。


   ……。


   勝手に上がり込んでおいて、何だが……。


   ……いつもは、そんなこと。


   出て行った方が、良いのなら……その、出て行く。


   いいえ……お師匠さんさえ良ければ、此処に居て下さい。


   ……良いのか?


   勿論です……折角、来て呉れたのですから。


   然うか……なら、遠慮なく。


   お師匠さん、どうぞ此方に。


   ……応。


   何か飲みますか?


   いや、今は良い。
   ありがとう、メル。


   でしたら……飲みたくなったら、その時は遠慮なく言って下さいね。


   あぁ、然うするよ。


   はい。


   ……優しい子だ。


   はい、なんでしょうか?


   いや、なんでもない。


   然うですか?


   あぁ、なんでもないよ。


   ……然うですか。


   ところで、メルは何を作っているんだい?


   野菜の旨煮汁を作っています。
   此れならばお腹に優しくて食べやすいですし、栄養もありますから。


   野菜の旨煮汁か、どおりで良い匂いがするわけだ。
   あとは煮込むだけか?


   はい、然うです。


   じゃあ、此れは後で使って呉れ。


   お野菜、ですか?


   ああ、然うだ。


   ……ユゥの為に、持って来て呉れたのですか?


   ん、いや、皆で食おうと思って。
   久しぶりだろう、皆でごはんを食うのは。


   若しかして、お師匠さんが作って呉れるつもりだったのですか?


   そのつもりだったが、メルが美味いのを作っているのならば、あたしは作らなくても良いだろう。


   私よりも、お師匠さんの方が


   今のちびにはメルが作ったごはんの方が良いと思う。
   いや違うな、絶対に良い。


   でしたら……皆で、食べるごはんを。


   あたしは、今日は止めておこう。
   メルのごはんの前では、霞んでしまう。


   ……私が作るものなんて、お師匠さんが作るものと比べたら。


   メルが作るごはんも、美味い。


   ……。


   そして……今となっては、ちびの好物はメルが作るごはんだ。
   あたしが作ったものではない。


   そんなことは、ないと思います。


   そんなことはあるんだよ、メル。


   でも、ユゥは……。


   寧ろ、それで良いんだ。
   あいつは、あたしとではなく、メルと生きていくのだからな。


   お師匠さん……。


   ……此れからも、あいつを宜しく頼む。


   そんな、何を……。


   なんて、な。


   ……。


   まぁ、世話は焼けると思うが……どうか、見捨てないでやって呉れ。


   ……見捨てるなんて、そんなこと。


   まぁ、心配は要らないか。
   メルも、あいつのことが大好きだからな。


   ……!


   はは、なんてな。


   ……もう、お師匠さんは。


   ははは。


   ……ユゥは、兎も角。


   うん?


   ……先生は、お師匠さんが作ったごはんが何よりも好きだと思います。


   然うか?
   然うならば、嬉しいな。


   ……私も、好きです。


   ありがとう。
   が、一番はちびが作ったごはんだろう?


   ……。


   はは、素直だな。


   お師匠さん……どうされたのですか。


   ん、いや、別にどうもしないが。


   ……。


   どうもしないよ、メル。


   ……それならば、良いのですが。


   応、あたしはいつも通りだ。


   ……。


   うん、良い匂いだな……。


   ……お師匠さんは、何を作るつもりだったのですか?


   あたしも、野菜の旨煮汁を作ろうと思っていた。
   それから、薄麦餅でも。汁と合わせて、食えるように。


   でしたら、


   おっと。
   野菜は、此処に置いておくよ。


   あ、はい……いつもありがとうございます、お師匠さん。


   あぁ、なんてことはないさ。
   皆で食う為に、育てているんだからな。


   美味しそうなお野菜ですね。


   然うか?
   メルが然う言って呉れると、育て甲斐があるってもんだ。


   ……?


   此の野菜はさ、一からあたしが育てたものなんだ。


   ……然う、なのですか。


   はは、驚いたか?


   あ、いえ……ごめんなさい。


   いや、良い。
   メルが然う思うのは、当然のことだ。


   ……。


   家の前の畑は、あいつに任せている。
   が、あたしにもあたしが育てている畑があるんだ。


   ……その畑は、ユゥは知っているのですか?


   いや、あいつには教えていない。
   今は未だ、秘密だからな。


   ……。


   あいつに確認して呉れても良い、寧ろ、そんな畑があることを教えてやって呉れ。
   最近のあいつは、あたしのことをただの怠け者だと思っているみたいだからな。


   ……良いのですか。


   あぁ、良いよ。
   なんにせよ、その場所を教えてやるつもりは未だないから。


   ……未だ。


   内緒の場所なんだよ、メル。


   ……内緒の場所?


   然う、内緒の場所。


   その場所は……あ、いえ。


   残念だが、此れ以上のことは教えない。


   は、はい。


   しかし、良い匂いだな。


   あの、お師匠さん。


   なんだい、メル。


   お師匠さんが持って来て呉れた、お野菜……一緒に煮込もうと思うのですが、良いでしょうか。


   別に構わないが、此れを加えたら結構な量になってしまうと思うぞ。
   それに味付けはもう済ませているのだろう? 


   量があれば、四人で食べられます。


   ……。


   味付けは、またし直せば良いですし……だから。


   ……まぁ、然うだな。


   それに、未だ煮込み始めてそんなに経っていないんです。


   然うか……ならば、一緒に煮込んで貰っても良いかい?


   は、はい、ありがとうございます。


   あたしこそ、ありがとう。


   そんな……。


   ……可愛いな。


   は、はい、なんでしょうか。


   メルは相変わらず可愛いと、然う言った。


   ……ッ。


   あいつが夢中になっても


   お、お師匠さんっ。


   ん、なんだい?


   お……お野菜、切りますね。


   あたしが切ろうか?


   い、いえ、私が。


   どれ。


   あ、いえ、本当に……。


   あたしも、何かしたくなった。


   え……。


   何かさせて呉れ。


   で、でも……。


   それとも、ひとりで作りたいか?


   ……然ういう、わけでは。


   ならば……然うだ、味見をさせて欲しい。


   味見、ですか?


   だめかい?


   だ、だめではないです……。


   うん……ならばもう少し煮込んだら、味見をさせて呉れ。


   はい、お願いします……お師匠さん。


   言っておくが、メル。


   は、はい、なんでしょう。


   あたしは、腹が空いている。


   ……はい?


   だから、味見とは言っているが、本音を言えば椀一杯は食いたい。


   それは……味見では、ないですよね?


   椀一杯の味見だ。


   それなら、ちゃんと味見をして、味を整えてからの方が……良いと、思います。


   メルも、味見をするだろう?


   ……一応は、するつもりです。


   メルが味見をして、それで良いと思ったのなら、あたしはそれを椀一杯食いたい。


   ……。


   味見も、ちゃんとする。


   ……お腹、空いているんですね。


   応、空いている。
   だから、早く出来れば良いと思っている。


   お師匠さん……何も食べていないなんてことは、ないですよね?


   ……実は。


   た、食べていないのですか?


   いや、食べている。


   ……。


   ただ、腹が空いた。
   それだけだよ、メル。


   ……お椀一杯で、足りますか?


   うん?


   お椀いっぱいで足りなかったら……どうぞ、二杯でも三杯でも食べて下さい。


   良いのか?
   あいつの為に作っているのだろう?


   お師匠さんから頂いたお野菜を足すと、結構な量になってしまいます……ですから、どうぞ食べて下さい。


   然う言われたら、本当に食べるぞ?


   はい、どうぞ。


   なら、遠慮なく食べよう。


   良かったら、その。


   ん?


   ……先生と、一緒に。


   ……。


   声を、掛けておくので。


   ……いや、あいつは気付いているよ。


   ……。


   気付いていて、顔を見せて呉れないだけだ。


   ……ずっと、待っていたんだと思います。


   機嫌が相当悪いのだろうと、思っているから。


   ……。


   まぁ……一緒に食えたら、嬉しいが。


   ……是非、先生と食べて下さい。


   応……ありがとうな、メル。


   ……いえ。


   ……。


   ……。


   ……なぁ、メル。


   はい、なんでしょう……?


   ちびは……今、どうしている?


   今は、先生が診ています。


   ……あいつは、何か言っていたか?


   どちらでしょう?


   あ?


   先生とユゥ、どちらでしょうか。


   あ、あぁ……マーキュリー、かな。


   先生は……特に、何も。


   それは……相当、機嫌が悪いな。


   ユゥは。


   ……。


   ユゥも……未だ、何も。


   ……然うか。


   あの……ユゥの顔は。


   一応、見ていくつもりだ。


   然うですか……良かった。


   ……優しいな、メルは。


   ……。


   ……。


   ……あの、お師匠さん。


   ん……なんだい、メル。


   今まで、何処に居たのですか?


   ……。


   ……不躾で、ごめんなさい。


   いや……若しかして、寂しかったのか?


   ……え。


   あたしに、会えなくて。


   ……。


   いや、そんなわけはないか。


   ……そんなこと、ありません。


   ……。


   ……ユゥ、だって。


   メル。


   ……。


   続けて呉れ。


   ……家に帰っている、形跡もなくて。


   来て呉れたのか?


   ……ユゥの着替えを取りに。


   畑の世話は。


   ……。


   メルが、して呉れたのか。


   ……いえ、畑は先生が。


   ……。


   私は……幾つかのお野菜の、収穫を。


   あぁ……然うか。


   ……勝手に、


   いや、勝手ではないよ。
   マーキュリーとメルならば、勝手ではないんだ。


   ……。


   ……。


   若しかして……あれから一度も、帰っていなかったのですか?


   ん……まぁあれだ、野暮用ってやつでな。
   ちょっと、帰れずにいたんだ。


   ……然う、ですか。


   心配、させたか?


   ……。


   済まない。


   ううん……お元気そうで、本当に良かったです。


   あぁ……ありがとうな、メル。


   ……。


   あたしが居ない間、鍛錬はしていたかい?


   はい……ひとりで、ですが。


   あいつは、見て呉れなかったのか。


   先生は……ユゥにずっと、付いていたので。


   そんなに……。


   ……。


   あ、いや、然うか。
   ひとりであろうとも続けるのは大事なことだ、偉いぞ。


   ……ありがとうございます。


   お勉強は、大丈夫だったか?
   遅れは、しなかったか?


   はい、それは大丈夫です。


   然うか、良かった。


   ……。


   ……。


   ……お師匠さん。


   ん、なんだい?


   今更、なのですが。


   うん。


   ……おかえりなさい。


   ……。


   ごめんなさい……。


   何故、謝る?
   謝る必要なんて、何処にもない。


   ……。


   ただいま、メル。


   ……ん。


   あいつの為に、美味いものを作ろう。


   ……はい、お師匠さん。


   うん。


  4日





   あなた、こんな所で何をしているの。


   青ちびが作った野菜汁を食ってる。


   それは見れば分かる。


   お前も食うか?
   なかなか美味いぞ。


   結構よ。


   然うか、ならよそってやろう。


   要らない。


   まぁ、然う言うなって。ごはん、未だ食ってないんだろう?
   一緒に食おう。


   食べていないからって、私は勝手に食べたりはしないの。


   安心しろ、許可は貰っているから。
   多めに作ったから、是非とも食べて欲しいってさ。


   是非とも、とは言われていないでしょう。


   食べて良いとは言われたよ。


   ああ然う、良かったわね。


   と言うわけで、食うだろう?


   食わない。


   ちびふたりでは、この量は食い切れない。


   あの子なら飽きることもせずに、分けて食べられるでしょう。
   一度で食べ切るなんて、あの子は微塵も考えていないわ。


   残したら勿体ない、食い物を粗末にするべきではない。
   であるならばあたし達も食うべきだと、あたしは思うんだが。


   あの子は、残さない。
   あの子が、作ったものならば。


   と言ってもなぁ、なかなかあるぞ、此れ。


   だから、初めから何食かに分けて食べるつもりなのでしょう。


   然うか?
   単純に、作り過ぎたということは考えられないか。


   然うだとしても、食べるわよ。


   お前、本当に腹は空いていないのか。


   空いているとしても、それを食べるつもりはないわ。


   然うか、美味いのにな。


   ところで、あなたは何をしているの。


   青ちびが作った


   どうして、此処に居るの。


   ちびの様子を見に。


   見たの。


   未だ、見ていない。
   今はふたりの時間だ、邪魔をしちゃ悪いだろう?


   それで、腹拵え?


   応。
   折角だから、美味しく食っているところだ。


   食べたら、帰って。


   その前に、ちびの様子を見ないとな。
   どうだ、大分良くなかったか?


   熱は下がったけれど、腫れは未だ少し残っている。


   然うか、ならもう一晩ってとこだな。
   流石は、お前が煎じた薬茶だ。良く効く。


   回復力が尋常でないだけよ。
   薬茶なんて、ただの熱冷ましでしかない。


   熱が苦しんだよ、知っているだろう?


   鼻骨と肋骨が6本、折れていた。


   あ?


   他、打撲が多数。
   そして、腫れを原因とする高熱。


   あー……まぁ、然うだろうな。


   どうしてあそこまで痛めつけたの。


   そりゃあ、手合せだからな。


   手合せで、あそこまでする必要はあったの。


   あるさ、あいつはジュピターのたまごだからな。
   あれくらいでへたばっているようでは、話にならない。


   おかげで、修学が遅れることになった。
   どうして呉れるの。


   今は起きて、ごはんを食っているんだろう?
   熱も下がったようだし、此れから遅れを取り返せば良い。


   簡単に言って呉れるわね。


   お前なら、大丈夫だ。
   ちびも、頑張れる。


   然ういう問題ではないの。


   なぁ、やっぱり腹が空いているんじゃないのか?
   青ちびがうちのちびに作った美味い野菜汁、一緒に食おう。


   要らないと、言った筈よ。


   腹が空いていると、苛々もする。


   ジュピター。


   ……そんなに怒って呉れるなよ、マーキュリー。


   どうしたと言うの。


   ……何が。


   あそこまで痛めつけることは、今までなかった。
   何があったというの。あの子が何をしたというの。


   んー……。


   私には、言えないと?


   いや、大したことではないんだ。


   じゃあ、言いなさい。


   ……。


   やっぱり、言えないの。


   ……此処、見て呉れ。


   は?


   ……首の後ろ。


   ……。


   ……診て呉れ、マーキュリー。


   診てあげるから、早く後ろを向きなさいよ。


   あぁ、然う言うことか。


   他に何があると言うの。


   いや、まぁ、然うだな。
   ちょっと待ってろ、椀を置くから。


   ……。


   ……此れで、どうだい?


   ……。


   もう、傷は治っていると思うんだが。


   ……掠ったとでも言うの。


   あぁ、然うだ。
   あいつの雷撃が、此処を掠った。


   ……。


   ひとつ間違えれば、あたしの頭は躰から吹っ飛んでいたかも知れない。


   ……それで、本気になった。


   いや、完全にはなっていない。
   なっては、いないが。


   ……瞬間的、だった。


   まぁ、然うだ。


   ……莫迦ね、あなた。


   分かっているよ、今回はやり過ぎたと思っている。


   ……はぁ。


   ちびは、いつまでもちびではないんだな。


   当たり前でしょう、莫迦なの。
   自分で言ったじゃない、あの子はジュピターのたまごなのだと。


   まぁ、然う言って呉れるなよ。
   此れでも、一応、反省は


   しているようには見えない。


   ぐぅ。


   未だ食べるつもりなの。


   いや、本当に美味いんだよ。
   家に居ても、ちびは居ないし。


   自分で作れば良いでしょう。
   そして、ひとり寂しく食べれば良い。


   だったら、お前の家で作りたい。
   然うすれば、お前とあたしとちびふたり、皆で食えるだろう?


   作るどころか、あの子が作ったものを食べているじゃない。
   莫迦じゃないの。


   あー……。


   はぁ。


   ……少しはすっきりしたかい?


   しない。


   あー……参ったな。


   あの子の躰の中に。


   ……中に?


   あの子のものではない雷気の痕跡があった。
   あれは、あなたね。


   あ、あたししか、居ないな……。


   ……幾ら、あの子と言えど、


   か、加減は、した。
   ちゃんとしたんだ、本当だ。


   ……外傷及び高熱は構わない、私が幾らでも治してあげるから。


   う……。


   けれど……内傷、特に、気による傷は。


   す、済まない、マーキュリー……。


   それ……心から、言ってる?


   い、言っているよ……本当だ。


   ……そのわりには、軽かったわよね。


   か、軽かった……て?


   態度が、それはもう腹が立つほどに。


   あ、や……。


   ……。


   マーキュ、


   あの子の代わりは、居ない。


   ……あ。


   同じ器であっても……同じ魂は、宿らない。
   同じ心が、宿るとは限らないの。


   ……分かってる。


   代わりは、居ないのよ……ジュピター。


   ……ちゃんと分かってるよ、マーキュリー。


   ……。


   あ、あたしは、どうしたら……。


   あくまでも、手合せ中のこと……謝れとは、言わないわ。


   お、応……。


   けれど……壊す程の手合せは、最期の仕合だけにして。


   ……。


   聞いているの。


   ……あぁ、聞いているよ。


   なら、良い。
   此の話は、此処までよ。


   ……。


   まぁ……鈍っていないようで、安心したわ。


   此れから、あいつは。


   ……。


   今よりももっと、ジュピターとしての力を付けていくだろう。


   ……然うでなければ、困るわ 


   あたしは……片腕のまま。


   ……。


   腕が、揃っていたのなら……。


   ……今更、何を言っているの。


   もっと、鍛えてやれたかも知れない……と。


   莫迦ね、あなた。


   ……あ?


   あなたには、両の脚があるでしょう。


   いや、あるが。


   その足癖の悪さは、恐らく、歴代のジュピターの中でも随一よ。


   そ、然うか?


   知らないけれど。


   あ、あー。


   恐らく、と言ったでしょう。


   い、言ったな。


   ……弱気になるなんて、私に見捨てられたいの?


   いや、そいつは困る……。


   ……。


   ん……マーキュリー。


   ……最後は、あの子の腹を蹴り上げた。


   ……。


   ……幸い、中身は破裂していなかったわ。


   然うか……良かったよ。


   ……土壇場で、加減が出来たのね。


   あぁ……我を忘れたのは、一瞬だったんだ。


   ……。


   首は……あたしにとっても、急所だからな。
   鍛えていると言っても……それが仮令、ちびの雷激であっても、致命傷になりかねない。


   ……守護神ジュピター。


   言って呉れるな……此処では、守護神で居たくない。


   ……ええ、同感だわ。


   マーキュリー……。


   ……あなたも、飲んでおいて。


   ん……何を。


   何だと、思う?


   ……まさか。


   ええ、そのまさか。


   いや、待って呉れ。あたしには必要ない。
   首を掠ったとはいえ、大したことはなかったし、今は熱も出ていない。
   だから、


   飲んで呉れるわよね、私のジュピター?


   ……応、喜んで。


   うん、宜しい。


   ……だけど、何の為に?


   自覚症状がないのは、本当に厄介ね。


   自覚?


   あなたの躰、間違いなく、熱いわよ。


   ……嘘だろう?


   嘘ではないわ、莫迦なの。


   は、はい、嘘ではないです。


   今日の今日まで、姿を見せないで。


   いや、それは、「畑」に……ちびに食わせる為の野菜を、だな?


   ふぅん、野菜をねぇ。


   然うしたら、お前んとこのちびが野菜汁を作るって言うだろう?
   ならば、青ちびに任せようと……青ちびが作った野菜汁の方が、あいつは喜んで食うだろうと思って。


   詰まる所、合わす顔がなかったというわけね。
   本当、莫迦だわ。


   ……然ういう、わけでは。


   熱が下がるであろう頃合いを見計らって、のこのこと莫迦面を引っ提げて、ついでに野菜を持って、此処に来た。
   違う?


   ……。


   はぁ……莫迦でしかないわ。


   ……あたしも、愛しているよ。


   はぁ?


   ……冷まして呉れ、マーキュリー。


   ええ、喜んで。
   飛び切りの薬茶を煎れてあげるわ、苦くて渋いものをね。


   ほ、ほんのり甘いのが


   あなたは、「大人」でしょう?
   当然、甘い薬茶なんて必要ないわよね?


   お、大人であっても、出来れば、甘い方が……。


   あの子が作った野菜汁も食べたことだし、飲めるわよね?


   ……折角の、美味しい汁が。


   渋くて苦い薬茶で、その味覚を満たしてあげるわ。


   ……ごめんなさい、それだけは許して下さい。


   別に、許すも許さないもないでしょう?


   マ、マーキュリー……。


   良い声ね、ジュピター。


   ……。


   未だ何か?


   ……薬茶を飲み終わったら、また食っても良いか。


   駄目よ、あの子達のごはんなのだから。


   ……。


   此れに懲りたら、素直に私のところに来ることね。


   ……え。


   首の後ろ、熱を持っている。
   完全に抜けたわけではないわ。


   ……マーキュリー?


   飲んだら……仕方ないから、治療してあげる。


   マーキュリー!


   五月蠅い。


   なぁ、治療して呉れるって言うのなら、今夜


   五月蠅い、ばか。


   あぁ、あたしも愛してる。


   そんなことは、一言も言っていない。


   な、な、泊っていっても、良いか?


   駄目。


   お前が好きなごはんを作るよ。
   だから、良いだろう?


   何がだからなの。


   共寝したい。


   私はしたくない。
   私は忙しいの。


   お願いだ、マーキュリー。


   聞かない。


   マーキュリー……一緒に、眠りたいんだ。


   ……此処に来なかった間、ひとりでも


   平気ではなかった、大丈夫なんかではなかった。


   ……。


   か、躰が熱くて……けど。


   はぁ……本当にばかね、あなたは。


   然うだ……あたしは、莫迦なんだよ。


   ……。


   ……だめ、か。


   良いわ。


   ……然う、か。


   良いと言ったの。


   ……。


   気が変わる前に、返事は?


   ありがとう、マーキュリー。
   今夜は大事に、お前を


   それは良いとは言っていない。


   ……。


   取り敢えず、食べてしまって。
   残すのは、勿体ないから。


   ……応。


   ……。


   ……。


   ……私も少し、食べようかしら。


   く、食うか?


   あの子の許可は貰っているのでしょう。


   あぁ、ちゃんと確認した。


   なら……然うね。
   椀の半分くらいで良いわ、よそって。


   任せろ。


   くれぐれも、よそい過ぎないでね。


   応。


   ……。


   マーキュリーと久々のごはんだ、嬉しいな。


   あぁ、然う……良かったわね。


   ふたりで食うと、美味いものがもっと美味くなる。


   ……。


   はい、マーキュリー。


   ありがとう、ジュピター。


   へへっ。


   ねぇ、ジュピター。


   なんだい?


   なんでもないわ。


   応、然うか。


   食べましょう。


   応、食おう食おう。  


  3日





  -心の糧、心の在り処。(前世・少年期)





   ユゥ、ごはんの前に確認しても良い?


   うん、良いよ。


   躰は、痛くない?


   ん、もう痛くないよ。


   顔はどう?
   熱くない?


   ん、熱くない、もう大丈夫だよ。


   ……少しだけ、触っても良い?


   ん、良いよ。


   ……。


   ……う。


   ご、ごめんなさい。
   痛かった、よね?


   ううん、痛くないよ。


   ……冷たかった?


   ん、ひんやりした。


   ……。


   あれ、もう良いの?


   ……うん。


   ね、もっと触っても良いよ。


   ……私の手、冷たいから。


   冷たくて、気持ち良いよ。


   ……。


   ね、もっと触って?


   ……良い?


   うん、触って触って。
   おでこでも、ほっぺたでも、鼻でも、口でも。


   ふふ……じゃあ、ほっぺたに。


   へへ。


   ……。


   ……どう?


   未だ少し、熱いわ。


   ……そっか。


   それに……やっぱり、未だ少し腫れてる。


   ……。


   本当に痛くない……?


   ん、平気……もう、痛くないよ。


   ……それでも、今日はゆっくりしてね。


   うん……出来るなら、メルとしたいな。


   私は……。


   ……お勉強?


   う、ん……。


   これから、先生と?


   ……。


   そっか。


   ……お勉強が終わったら、戻って来るわ。


   来て呉れる?


   うん、必ず。


   なら、待ってる。


   うん……待ってて。


   ……メルの手はやらかくて、優しいな。


   ……。


   ……ね、メル。


   なぁに……ユゥ。


   ごはんの、いいにおい……。


   あ。


   ……食べたいな、メルのごはん。


   ん……ごはんにしましょう。


   へへ……うん。


   ……。


   ね、食べさせて呉れる……?


   ……うん。


   やった……。


   ……ユゥ。


   メル……。


   ……はい。


   ……。


   焦らないで……ゆっくりと、食べて。


   ん……。


   煮込まれてはいるけれど、そのまま飲み込んでしまわないように……良く噛んでから、ね。


   ……ん……んー。


   ……。


   ……へへ、美味し。


   口の中、染みない……?


   うん、平気……全然、染みない。


   然う……良かった。


   ね、メル。


   うん?


   もっと、もっと。


   ふふ……うん。


   へへっ。


   はい、ユゥ……あーん。


   あー……ん。


   ……。


   ……ふふっ、美味しいな。


   味付けは大丈夫……?


   丁度良くて、とっても美味しいよ。
   ね、この野菜汁はメルが作って呉れたんだよね?


   うん……一応。


   ありがとう、すごく嬉しい。


   ……ユゥに習っておいて、良かった。


   ね、邪魔はされなかった?


   ……邪魔?


   師匠に。


   ……お師匠さんに?


   師匠のことだから、しそうだなって。
   作っていたら、いつの間にか隣に居たんだろう?


   ……。


   邪魔、された?


   ……邪魔はされなかった、けど。


   けど、何?
   やっぱり、何かされた?


   ……味見を。


   味見?


   ……味見を、して呉れたの。


   となると……屹度、匂いに釣られて来たんだ。
   それしかない。


   気付いたら、隣に居たから……私、吃驚してしまって。


   吃驚して、怪我するようなことはなかった?


   ん、平気……ただ、吃驚しただけだから。


   そっか、良かったよ。
   若しもメルが怪我をしていたら、あたし。


   寧ろ、お師匠さんが来て呉れて良かったと思っているの。


   ……どうして?


   ひとりで作っていたから……自信が、なくて。


   自信なんて……メルが作って呉れるごはんは、いつだって美味しいよ。


   ありがとう……ユゥ。


   ……本当だよ、メル。


   うん……ユゥは、嘘なんか吐かないから。


   ……。


   ……私が、気が付かなかっただけなの。


   ……。


   怪我もしなかったし……だから、ね?


   ……今回は、怪我をしなかったから。


   ……。


   ……メル、もっと食べたい。


   うん……はい、ユゥ。


   ……。


   ……あのね。


   ん……なに。


   私があまりにも吃驚していたものだから……お師匠さんが笑いながら、あたしに気付かないくらい集中してたんだなって。


   よくもそんなことを……多分、気配を殺してメルに近付いたくせに。


   でも私、本当に集中していたと思うから……。


   後で言っておくよ、メルを吃驚させるなって。


   ううん……良いの。


   駄目だよ、ちゃんと言わないと師匠は調子に乗るから。来て呉れて良かったことと驚かしたことは、別問題だ。
   集中していたメルを驚かさないようにすることだって、師匠は出来た筈なんだ。


   ……。


   本当、師匠は直ぐに調子に乗るんだよ。
   先生に何度も言われているのに、全然、直そうとしなくてさ。


   ……直ぐに調子に乗るのは、ユゥも。


   ね……師匠がしたのって、味見だけ?


   ……え。


   他に、何かされなかった?


   ……他?


   然う、他。


   ……。


   若しかして、何かされたの?
   何をされたの?


   ……良い匂いで腹が空いた、一杯だけで良いから食いたいって。


   は?


   だから、その……多めに作ったし、一杯だけならって。


   食べたの?!


   お野菜も、お師匠さんから分けて頂いたものだし……。


   メルが、あたしの為に作って呉れたものなのに!


   う、うん……。


   師匠め……やっぱり、それが狙いだったんだな。


   でも、本当に多めに作ったから。


   ……。


   未だ、残っているし……お師匠さんのこと、あまり責めないであげて。


   ……メルがあたしの為に作って呉れたごはんを、あたしよりも先に食べたのが嫌だ。


   それは、私が悪いの。
   私が、一杯だけならって。


   ううん、メルは悪くない。


   ……お師匠さんも。


   師匠も、悪くない……あたしが、嫌だってだけだ。


   ユゥ……。


   ……そもそも野菜だって、あたしがほぼほぼお世話しているのに。


   ……。


   それなのに。


   ……ねぇ、ユゥ。


   何、メル。


   実は、ユゥに確認しようと思っていたことがあるの。


   ……?
   なんだい?


   頂いたお野菜のことなのだけれど……。


   野菜が、どうかした?
   どこか、悪いところあった?


   ううん、それは大丈夫。
   お師匠さんが言っていたことで、少し気になったことがあって。


   師匠が?


   ユゥがお世話しているものではなくて、お師匠さんが別に作っているものだと言っていたの。


   ……別に?


   お師匠さんが別に作っているお野菜があったなんて……私、知らなくて。
   頂くお野菜はてっきり、ユゥがお世話しているものだと思っていたから……。


   ……そんなの、あったっけ。


   ユゥも、知らない?


   知らない……それ、どこにあるって?


   ……曰く、秘密の場所に。


   秘密の場所?


   何処かは未だ、内緒だと……。


   ……内緒って。


   然う……ユゥも、知らないのね。


   うん、知っていたらメルに話すよ。


   ……然う、よね。


   秘密の場所って、なんだそれ……本当にあるのか。


   あると、思う……。


   ……どうして、然う思うの?


   お師匠さんは……多分、そんな嘘は吐かないと思うから。


   然うかなぁ……師匠、メルをからかうのが好きだからな。


   ……。


   ん、メル?


   ……然うなの?


   え?


   お師匠さん……私のこと、からかうのが好きなの?


   ……曰く。


   曰く……?


   ……可愛いから、つい構いたくなるって。


   ……。


   止めろって、あたしは言っているんだよ。
   けど、全然聞いて呉れないんだ。


   ……ううん、止めないで良い。


   へ……。


   ……。


   メ、メル……?


   ……その、私も嫌ではないから。


   え……っ。


   ……。


   メ、メル、そ、その顔、な、なに……?


   ……え?


   ど、どうして、そ、そんな、う、嬉しそうなの……?


   ……私、嬉しそう?


   う、嬉しそう、だひょ……?


   ……だひょ?


   あ、あたしと居る時よりも……。


   ……そんなこと、ないと思うけど。


   そ、然うかな……そ、然うだ


   ……。


   ……だめだ。


   え、何が……?


   ……メルは、あたしのだ。


   ユゥ……?


   ……師匠には先生が居る、師匠になんて。


   ユゥ、何を言っているの……?


   ……だけど。


   ユゥ、落ち着いて……ね?


   ……師匠の方が、メルは。


   ユゥ。


   ……ぅ。


   勘違い、しないで?


   ……メル。


   もぅ……ユゥは。


   ……うん、ごめん。


   ……。


   ……秘密の場所、どこにあるのかな。


   先生なら知っていると思うけれど……屹度、教えて呉れないわ。


   然うだよね……。


   ……此処から離れているのかしら。


   うーん……なんとなくだけど、そんなに離れてはいないような気がする。
   師匠がわざわざ、「畑」を遠くにこさえるとは思えない。お世話は毎日するものだから。


   ……先生が関わっていたら、毎日でなくても良いかも知れない。


   んー……それは、然うなんだけど。


   ……意外と、近くにある?


   然うかも知れない……だけど、何処か分からない。


   ……いつか、教えて呉れるのかしら。


   今はって言っているのだから、師匠はそのつもりかも知れないけど……師匠のことだから、当てにならない。


   ……。


   ……まぁ、良いか。


   良いの?


   うん、気に入らないけど、今はどうしようもないし。


   ……。


   それに、今はそれよりも。


   ……ん。


   メルのごはんが、食べたい。
   もっと、食べたい。


   ……うん。


   ね、メルも食べよう?
   一緒に食べよう?


   私が食べたら、


   メルが一緒に食べて呉れるのなら、自分で食べるよ。


   ……腕、痛くない?


   少し痛いけど、大丈夫。


   ……私は、ユゥが食べてからにする。


   な、ならさ。


   ……?


   此処で、食べて?


   ……ん、分かった。


   やった。


   ……ふふ。


   メル。


   ユゥ……はい、どうぞ。


   ん……。


   ……どう?


   うん、やっぱり美味しい。
   メルが作って呉れるごはんは、いつだって、美味しい。


   ……ありがとう、ユゥ。


   あたしこそ、ありがとう。
   ごはんを作って呉れて、傍に居て呉れて、ありがとう。


   ……。


   メルが居て呉れるから、先生の薬茶を飲むことが出来るんだ。


   ……先生が、傍に居て呉れるからではなくて?


   先生が居て呉れるのも嬉しいけど、メルが一番なんだ。


   ……私。


   メル……?


   ……本当は、薬茶を煎れてあげたいの。


   薬茶?
   あたしに?


   ……その為に、先生に習っているんだけれど。


   ……。


   誰かに煎れてあげる程の知識と技術は、私には未だないって。


   ……然うなんだ。


   だけど……だけと、いつか。


   楽しみにしてるね。


   ……楽しみ?


   うん、楽しみ。


   ……薬茶なのに?


   薬茶だけど……メルが煎れて呉れたのなら、我慢しなくても飲めそうだから。


   それは……ないと思う。


   やっぱり、苦い?


   ……薬茶だから。


   ん、そっか。


   ……先生が煎れて呉れる薬茶は、ほんのりと甘いでしょう?


   うん、ほんのりとだけど。


   ……それが、分からないの。


   分からない?


   ……確かに、何かを入れていると思うのだけど。


   教えて呉れないの?


   ……今は、未だ。


   どうしてだろ……。


   ……基礎を身に着けるのが先か、或いは。


   自分で見つけろ……?


   ……薬でそれはないと思うのだけれど、ひとつ間違えれば、毒にもなってしまうし。


   うーん、そっか。
   毒になっちゃったら、大変だもんなぁ。


   教えられたまま煎じても、甘みは出ない……そんな成分は、含まれていないから。


   ……。


   全ての薬茶に甘みを加えられるわけではないと、先生は言っているのだけれど……ユゥが飲んでいるものには、加えられる。


   師匠が薬茶を飲む時は、いっつも、顰め面をしながら飲んでるよ。
   渋くて、苦いって。仕方がないから、飲んでるって。


   お師匠さんが飲む薬茶には甘みがない……それは、わざと?
   それとも、甘みを加えられない……?


   そういや、先生が言ってたなぁ。


   なんて?


   あなたには渋くて苦いものでなければ、効果がない。
   だから、甘みは必要ないって。


   ……あぁ。


   文句を言いながらも、残さずに飲んでいるけど。
   残したら、先生に相手をされなくなってしまうってのもあると思うんだ。


   ……やっぱり、ユゥの薬茶は特別。


   メルだって、いつか煎れられるようになるよ。
   だって、一所懸命にお勉強してるんだからさ。


   ……なると、思う?


   思う!
   メルなら屹度!


   ……。


   メルが煎れて呉れる薬茶、楽しみだ。


   ……楽しみにするものではないと思うけど。


   先生の薬茶も良いけど、メルのも飲んでみたいんだ。


   ……薬茶なんて、本当は飲む必要がない方が。


   だけど、今は。


   ……あ。


   メルのごはんが、一番の薬だ。


   ……。


   お代わり、いーい?


   ん……良いわ、ユゥ。


   えへへ、ありがと。


  2日





   ……本当に、「ジュピター」は治癒力が高いわね。


   お腹の中、大丈夫そう……?
   ごはん、食べても良さそう……?


   まぁ……お腹に優しいものなら、ね。


   なら……野菜の旨煮汁を食べる、食べたい。


   ええ、それなら良いわ。
   だけど、多くはだめよ。


   ん、分かった。多くは食べない。


   然うね……食べても、お椀一杯くらいかしら。


   それだけでも、十分だよ。


   煮込まれてはいるけれど、良く噛んで食べること。
   良いわね?


   はぁい。


   うん。


   ふふ、メ……マーキュリーと一緒に、朝ごはんだ。


   その前に、薬茶。


   ……はぁい。


   私は、薬茶を煎れるから。


   あたしは、朝ごはんの支度を。


   無理のないようにね。


   ん、無理だけはしないよ。
   出来る範囲で、やるんだ。


   然うして。


   薄麦餅、食べるかい?


   いいえ、今朝は良いわ。


   でも、食べたくない?


   あなたが未だ、食べられないから。


   あたし?


   どうせ食べるのなら、あなたと食べるわ。


   マーキュリー……。


   明日の朝には、食べられるかもね。
   腕の管も、今夜のうちに外そうと思っているし。


   うん……屹度、食べられるよ。


   その為にも、大人しく静養していること。


   少しくらいなら、躰を動かしても良いかな。
   じっとしていると、


   くれぐれも、無理をしない程度で。
   然うでなければ、許可はしない。


   分かった。
   なら、鍛錬と散歩くらいにしておく。


   軽度の、ね。


   うん、軽度の。


   散歩の範囲は、私の部屋からあなたの部屋まで。
   何かあった時に、休めた方が良いから。


   ん、分かった。


   何かあったら、直ぐに連絡を。
   一応、対応出来るようにはしておくから。


   マーキュリーが対応して呉れるの?


   時と場合による。


   そっか、マーキュリーは忙しいもんね。


   然うよ、私は忙しいの。


   ね、お昼ごはんのお知らせはしても良いんだよね?


   どうぞ、応じられるかどうかは分からないけれど。


   一緒に食べよう?
   薬茶も飲まないといけないし、ね?


   飲みたいの?


   飲みたくないけど、飲みたい。


   ふふ、何よそれ。


   マーキュリーがお昼ごはんを食べに来て呉れるのなら、あたしは喜んで飲むんだ。


   あくまでも、あなたの躰の為なのにね。


   へへ。


   なんにせよ、聴取したものをまとめたら戻ってくるから。


   それだったら、此の部屋でやっても良いんじゃないかな。
   然うしたら、


   言ったでしょう?
   私は忙しいの、他にもやらなければいけないことがあるのよ。


   あたしが読み終わるのは……待ってられない?


   待ってられないわね。


   そっか……。


   此処で他の仕事をするかも知れないけれど、邪魔だけはしないで。


   うん、分かっ……え?


   あくまでも、かも知れないと言うだけ。
   未だ、然うと決まったわけではないわ。


   大丈夫だよ、邪魔はしない。
   あたしも、集中して読まないといけないし。


   然う?
   なら、良いけれど。


   ただ、気になったことは口に出して言うかも知れない。


   それなら、構わないわ。


   気が散らない?


   あなたの場合、忘れてしまう可能性も無きにしも非ずだから。
   寧ろ、聞かせて。書き留めておいて、読み終わった後に改めて聞くから。


   ん、分かった。


   読んでいる最中に浮かんだ意見や疑問の方が、時に重要だったりするのよね。


   然うなの?


   然うなの、特にあなたはね。


   マーズも、然う?


   どうしてマーズ?


   ん、なんとなく。


   マーズは違うわ。
   彼女は読みながら頭の中でまとめていくから。


   然うなんだ……だけどさ、あたしも出来ないわけでは。


   あなたも出来ないわけではないのだけれど、それでもぽつぽつと抜けてしまうことがあるでしょう。
   マーズには、それがないの。


   ……ぐぅ。


   お腹空いたの?


   ん……ちょっと空いてきた。


   ともあれ、此の部屋で仕事をすると決まったわけではないから。
   若しもひとりで読むことになったら、自分で書き留めておいて。


   ……。


   聞いてる?


   ……うん、聞いてる。


   期待は、しないでね。


   ……少しだけ、してる。


   少しだけに、留めておいて。


   ……ん。


   読み終わってからの所見も、ちゃんと聞かせてね。


   うん、勿論。


   ……ところで。


   ……。


   何を見ているの?


   マーキュリーが薬茶を煎れているところを見てる……。


   ……初めてではないでしょう?


   然うなんだけど……手つきが、好きなんだ。


   手つき、ね……。


   ……すごいなぁ。


   先代のは?


   ……先生?


   好きだった?


   先生が煎れて呉れるところは、あまり見られなかったから。
   いつも煎れて持って来て呉れるんだ。それで、あたしが飲み終わるまで待ってて呉れる。


   ……。


   先生は、いつだってにこにこと笑っていたよなぁ……あたしが薬茶を飲むの、面白かったのかな。


   ……聞いてみれば良かったのに。


   今思えば、然うなんだけど……あの頃は、聞けなかったんだ。


   ……胸が高鳴ってしまって?


   先生が見ているから、残さずに飲まないとって……。


   ……私は、居た?


   うん、居たよ。ちゃんと、憶えてる。


   ……私は、どんなだった?


   あたしが飲んでいる間、メ……マーキュリーは、ずっとあたしの傍に居て呉れたんだ。
   時には、手も繋いで呉れて。頑張って飲んでるあたしを、励まして呉れた。
   だから、あたしは残さずに飲めた。どんなに渋くて苦くても、一滴も残さずに飲めたんだ。


   ……。


   あれ、違ったっけ……ううん、違わない。
   メル……マーキュリーのことは、良く憶えているんだ。


   ……先代が傍に居て呉れたからではないの。


   先生が傍に居て呉れたのも嬉しかったけど、だけどやっぱり、メルが居て呉れたのが一番だよ。


   ふぅん……然う。


   うーん、薬茶の独特なにおいがしてきた。


   ……ごはんの匂いと混ざらない方が良いかも知れないわね。


   乾燥物を戻すのは、もう少し後にするのよ。


   ……ん。


   ……。


   はい、ジュピター。


   うん、マーキュリー。


   熱いから、気を付けて。


   ん、気を付ける。


   ……。


   ん、マーキュリー?


   見ていようと思って。


   そっか、じゃあ見てて。


   ……あなたの面白い顔を、ね。


   え。


   ……。


   んー、まぁ良いか。


   ……ええ、良いの。


   よし。


   ……。


   ……。


   ……どう?


   うん……今日も、渋くて苦い。


   然うでしょうね。


   だけど。


   ……だけど?


   ほんの少しだけ、甘いような。


   気のせいだと思うわ。


   気のせいかな……。


   ……飲めそう?


   うん、飲めるよ。


   ……。


   ……。


   ……ふふ。


   え、なに?


   ……確かに、面白いわね。


   そ、然うかなぁ。


   ……表情筋が柔らかくて、豊か。


   ひょうじょうきん?


   有体に言えば、顔の筋肉。


   顔にも筋肉ってあるの?


   あるわよ。


   へぇ、然うなんだ……。


   表情筋がなければ、表情なんてものはないの。


   え、と……。


   例えば、口角。どうやって動かすの?
   何が、動かしているの?


   ……あ、そっか。


   表情筋と言うけれど、眼や鼻の開閉、飲む、食べる、吹く、話すなどの動きにも関わっているから。
   それがなければ、目を開けることも食べることも、話すことだって出来ないわ。


   ……。


   あなたは……ジュピター?


   ……ん?


   私の顔を見て、何を考えているの。


   今朝のマーキュリーは、良く笑って呉れて嬉しいなぁって。


   ……本当に?


   うん、本当。
   おかげで、薬茶の苦味が気にならない。


   ……先代と、重ねていたわけではないの。


   先生と?
   重ならないよ、マーキュリーはマーキュリーだし、先生は先生だ。


   ……。


   似てるなって、思うことはあるけど。


   ……似てるかしら。


   うん、似てるよ。


   ……。


   あとね。


   ……何。


   マーズに、表情筋はあるのかなって。


   ……あるに決まっているでしょう。


   うん、然うだよね。


   何を言っているの。


   マーズの表情筋、特に眉間のが凄そうだな。


   ……ジュピター。


   いや、いつも皺が寄っているからさ。
   だから、皺が取れなくなっちゃうんじゃないかなって。


   心配しているの?


   心配ではなくて、もっと楽な顔をすれば良いのにって。


   ……それは、心配ではないの?


   心配とは、ちょっと違うんだよなぁ。
   いつも厳しい顔をしているから、なんだか疲れてしまうだろう?


   ジュピターが?


   あたしだけじゃない、他のひとも。


   私は、別に疲れないけれど。


   あれでは……ちびは、懐かない。


   ……ちび?


   師匠と先生は、にこにこしてたろう?


   ……していたかも知れないわね。


   ふたりがいつも厳しい顔をしていたら、どう思う?


   ……どうって。


   張り詰めているようで、あたしはやだな。
   気が休まらなくて、疲れちゃうよ。


   ……。


   いつか、プリンセスが生まれて……マーズが眉間に皺を寄せるような厳しい顔ばかりしていたら。
   守護神の使命は果たせるかも知れないけれど、プリンセスが懐かないかも知れない。


   ……。


   心を、開いて呉れないかも知れない。


   ……あなたは、開けなかったと言うの。


   あたしは……いや、あたし達は、此処まで心が育たなかったかも知れない。


   ……。


   うん……然う思うと、笑っている方が良いような気がする。
   笑うってことは、先ず、口の両端を上げなきゃいけないだろう?
   マーズは、そこが豊かじゃない気がするんだ。


   ……マーズは、兎も角として。


   ヴィーナスは、緩すぎる。


   ……それ、あなたが言えるの。


   え?


   あなたも、大概だと思うけれど。


   あたし……あたしは、あそこまででは。


   ……今も、緩んでる。


   ……。


   薬茶を飲んでいると言うのに。


   ……マーキュリーが居て呉れて、笑って呉れていて、嬉しいから。


   ……。


   ほら、見て。
   もう、飲み終わりそうだ。


   ……一滴も残さずに?


   うん、残さずに。
   飲み終わったら、朝ごはんの支度を進めるね。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、ジュピター。


   なんだい、マーキュリー。


   ……鍵のことだけれど。


   鍵……あぁ、あたしの部屋の鍵を変更して呉れたんだっけ。
   ごはんの後に教えて、ちゃんと憶えるから。


   それは未だ、していない。


   ん?


   ……先生の。


   あぁ、先生のか。
   それがどうしたの?


   ……やっぱり、大したことなかった。


   はは、然うだねぇ。


   ……先代の日記は、見つかったけれど。


   うん、後で読もうと思う。


   ……。


   マーキュリー?


   ……あなたが飲んでいた薬茶、それを煎れる為の生薬の名前と番号。


   ……。


   とても簡単な鍵だったのに……あなたに言われなければ、私は気付けなかった。


   ……わざと、じゃないかなぁ。


   わざと?


   然う、わざと。
   マーキュリーはわざと、昔のことを忘れようとしているから。


   ……それを予見していたと言うの。


   先生だったら、出来そうな気がする。


   ……若しも私が、忘れようとしていなかったら。


   気付いていたと思う。
   然うしたら、マーキュリーはひとりで解けた。


   ……。


   あたしは、気が付いたけれど……生薬の本当の名前と番号までは、知らなかったから。


   ……違う。


   うん?


   仮令、忘れていなくても……あなたが居なければ、私は解くことが出来なかった。
   何故なら……私は、お師匠さんが名付けたあの生薬の別の名を知らなかったから。


   ……。


   だから……あなたと私で、ふたりで解くように。


   ……ふたりで。


   ……。


   ……生薬、師匠が育てていたんだ。


   ええ……知っているわ。


   軽い気持ちで、然うすれば良いって……師匠なら、言うかも知れない。


   ……それに、先生が乗ったと。


   うん……多分、だけれどね。


   ……。


   ……良く、撮れていたね。


   あんなものに……鍵を閉めておくだなんて。


   ……大事だったのかも知れないよ。


   と、言うより……ただの、嫌がらせよ。


   嫌がらせ……?


   ……私に、メルを忘れないようにさせる為の。


   ……。


   ……やっぱり、不良品なんだわ。


   あのふたりで、良かった。


   ……。


   ……あのふたりが、不良品で良かった。


   ジュピター……。


   ……でなければ、あたし達は。


   私は……。


   ……マーキュリー。


   ……。


   飲み終わったから、朝ごはんの支度をするよ。


   ジュピター。


   ……ん?


   あの記録は……。


   ……出来れば、消さないで欲しい。


   ……。


   だけど……マーキュリーにとって、必要がないものなら。


   ……取っておくわ。


   ……。


   あなたの……心の薬として。


   ……心の薬。


   然う……。


   ……マーキュリーにも、効くと思う。


   ……。


   効けば……良いな。


   ……私は。


   氷が融けたところで……傷が、治るわけではないから。


   ……。


   取り敢えず、朝ごはんを食べよう?


   ……うん。


   マーキュリーは、何を食べる?


   ……あなたと同じものを。


   あたしと?


   ……然う、あなたと。


   ん、分かった……なら、二人分の支度を。


   ……。


   ……。


   ……命の望みの、喜びよ。


   うん、なに?


   ……。


   マーキュリー……どうしたの?


   ……ううん、なんでもないわ。


   なんでもない……?


   ……なんでもないの。


   そっか……。


   ……背中に手を回さないで良いから。


   え、どうして分かったの……?


   ……分からないとでも、思ったの?


   お、思わない……かな。


   ……でしょう?


   はは……。


   ……私もするわ、支度。


   じゃあ……ふたりで、しようか。


   ……ん。


   うん……それじゃあ、改めて今日を始めよう。 


  1日





   ……


   ……。


   うで……。


   ……。


   ……いつのまに。


   ……。


   ね……痺れても、知らないわよ。


   ……。


   良く、眠っているようだけれど……息は、浅くない。


   ……。


   ね……あなたは、眠っているのよね?


   ……メ、ル。


   ……。


   メル……まっ、て。


   ……夢?


   どこ……。


   眠りの妨げになってしまうから、寝言と会話をしてはいけない……然う、教えられたけれど。


   ん……。


   あなたは、寝ていても……私を、呼ぶのね。


   ……。


   子供の頃から……然う。


   ……メル。


   ここに。


   ……。


   私は、此処に居るわ……ユゥ。


   ……。


   此処に、居るの……。


   ……よかった。


   あ……。


   へへ、つかまえた……。


   ……。


   今だけは、離さないんだ……。


   ……また?


   うん……?


   ……また、寝たふり?


   ……。


   ……いつから?


   ん、と……メルが、頭の位置を直したくらいから。


   ……。


   ちょっとだけなら、良いかなって。


   ……それでまた、あんな子供染みたことを?


   うん……。


   ……。


   流石に、呆れた……?


   ……目覚めないよりは、良いわ。


   え……?


   ……寝たふりを続けようとは、思わないのね。


   あー……うん。


   どうして?


   続けたところで……今のメルだと、敢えてそのままにされそうだし。
   それは、それで、寂しいし……。


   ……ん、ユゥ。


   だったら、さっさと止めて……こんな風に。


   ……こんな風って?


   お話したり……ほっぺたとか鼻とか、くっつけたり。


   ……腕枕をしたり?


   へへ……。


   ……腕は、痺れてない?


   ん、平気だよ……。


   一度、起きたのよね?
   いつから、して呉れていたの?


   それがさ、憶えていないんだ。


   ……憶えていない?


   起きた記憶がないんだ……だから、寝ている時にしたんだと思う。


   ……。


   メルは、憶えていない?


   ……目が覚めたら、あなたの腕が私の頭の下にあったんだもの。


   そっか……じゃあやっぱり、寝てる時にしたのかな。


   ……本当に、憶えていないの?


   うん、憶えてない。


   ……。


   メルは、寝辛くない?


   ……大丈夫、だけれど。


   ん?


   ……本当に、痺れていない?


   うん、本当に平気だよ……。


   ……長い時間では、ないのかしら。


   ん……然うかも。


   ……。


   ね……久しぶりだね。


   ……こんなことはもう二度と、して貰うつもりはなかったのに。


   たまには、良いと思うんだけどな……その、務め以外でも。


   務めではないのに……好きでもないあなたに、腕枕をして貰うだなんて。


   ……。


   ふふ……なぁに、その顔は?


   ……メルは、その。


   あなただけだと、言った筈だけれど。


   ……う。


   まぁ……たまになら、ね。


   ……う?


   良く眠れるのなら……しても、良いかも知れない。


   ……あたしは、良いよ。


   あなたは、ね……私と眠れるのなら、それで良いのでしょうし。


   ……務めは、やだな。


   それは……諦めて。


   ……ううん、諦めないよ。


   然う言うと、思った……。


   ね、メル……今夜は。


   今夜は……あなたと、此処で。


   ……良かった。


   ……。


   ね、起きた方が良い……?


   ううん……起きるには、未だ早いわ。


   じゃあ……未だ、一緒に居られる?


   ……居てあげても、良いけれど。


   なら……居て。


   ……その様子だと、もう眠りそうにないわね。


   もう、いっぱい眠ったから……。


   ……良く眠れた?


   ん、眠れたよ……。


   ……。


   メルが隣に居て呉れると、あたしは良く眠れるんだ……。


   ……メル、ね。


   ん……?


   ……マーキュリーでは、良く眠れない?


   え……。


   ……マーキュリーだと眠れないのなら、


   眠れるよ。


   ……けれど、メルの方が良く眠れるでしょう?


   変わらないよ。


   ……。


   変わらない……。


   ……でも、明らかに。


   ん……メル。


   ……今の方が、安心しきっている。


   ……。


   あなたが好きなのは、マーキュリーではなく……メルなの。


   そんなこと……。


   ……マーキュリーでは、だめなのよ。


   そんなことは、ないよ。


   ……。


   あたしにしてみれば……ただ、呼び名が違うだけ。
   ただ、それだけのことなんだ。


   ……本当に、それだけかしら。


   で、なければ……あたしはマーキュリーと、こんな風には過ごせない。
   過ごしたいとも、思わない……だって、あたしは。


   ……。


   マーキュリーでなければ……心が、受け付けないから。


   ……心。


   心が受け付けなければ……躰だって、受け付けないんだ。


   ……。


   こんな近くで……唇が触れ合うくらいの距離で……居られるのは、マーキュリーだけなんだよ。


   ……私は、変わっていないの。


   メルは確かに、マーキュリーになったと思う。


   ……ただ、名前が変わっただけだと言うの。


   名前が変わったと、言うより……然う、名前がふたつあるんだよ。


   ……。


   だからさ、メルが居なくなったわけじゃないんだ。
   マーキュリーはメルで、メルがマーキュリーってだけなんだよ。


   ……名前が、ふたつ。


   ひとは、心と変わってゆくものだけれど、だからと言って、別人になれるわけじゃあない。
   名前が幾つあろうとも、それこそ変わろうとも、魂が変わらない限り、同じであり続けるんだ。
   変わりゆく心をひとつだけ持っている、ひとりのひとでしかないんだよ。


   ……つまり、何処まで行っても同じということなのね。


   うん……あたしは、然う思ってる。


   ……。


   心は変わってゆくものと言ったけれど……変わらないものも、ある。
   あたしにとっては、それは……。


   ……あなたの中ではずっと、私はメルのまま。


   ……。


   それと同じように……あなたも、私の中では。


   ……あたしは、メルの心の中に居るの?


   ……。


   あたしは、ユゥ……今は、ジュピターって名前も持ってる。
   本当のことを言えば、そんな名前は欲しくなかったけど……でも。


   ……ジュピター。


   メルと……マーキュリーと、お揃いになる為に。


   ……お揃い?


   あと……同じ場所に居る為に、同じ場所で生きる為に。
   あたしは、その名前を受け継ごうと……ジュピターになろうと、決めた。


   ……。


   ……あたしはあたしのままだよ、マーキュリー。


   知っているわ……。


   ……ん。


   知らないわけ、ないじゃない……。


   ……そっか。


   然うよ……ばか。


   へへ……うん。


   ……。


   ……朝ごはん、メルと食べられるかな。


   起きたら、診てみるけれど……食べられたら、良いわね。


   うん……食べられたら、嬉しい。


   食べられるようになれば、薬茶は……今日の夜からは、ほんのり甘いものに変更しても良いかも知れない。


   え、本当?


   まぁ、それでも苦味がなくなるわけではないのだけれど。


   ……うん、然うだよね。


   ほんのり甘いのだから……苦くても、飲みやすいでしょう?


   複雑な味、なんだけど……苦味が残らない分、飲みやすいかな。


   先代は、腫れが原因で熱を出したあなたに、熱冷ましの薬茶を煎れていた。


   ……え?


   それは苦さの中に、ほんのりとだけれど甘みがあった。
   違う?


   ……ううん、違わない。


   本当は、薬茶に甘みなんて必要ないのだけれど……子供のあなたが、少しでも飲みやすいようにと。


   ……先生が、考えて呉れたんだ。


   あのひとは……あなたが、可愛いみたいだったから。


   ……。


   何を思い出しているの?


   ……え、いや。


   それとも、何か思い出した?


   ……先生も、優しかったなって。


   それだけ?


   そ、それだけって……?


   ……。


   メ、メル……?


   ……昔話なんて。


   ……。


   ……したくは、ないのに。


   聞きたい……聞かせて欲しいな。


   ……。


   だけど、嫌だったら……。


   ……昔の私は。


   ……。


   少しでも早く、薬を煎じられるようになりたかった。
   ジュピターに……ユゥに、薬茶を煎れてあげたくて。


   ……メルが煎れて呉れた薬茶も、ほんのりと甘かった。


   ……。


   とても優しい、甘みだった……良く、憶えてる。


   薬は、躰に影響を及ぼすもの……毒にだって、なり得る。
   だから、何度も、何度も、先代にそれでは駄目だと言われ続けて。


   けれど、メルはちゃんと煎じることが出来るようになった。
   お勉強を、ずっと、頑張っていたから。


   ……あなたも、知っていると思うけれど。


   ……。


   本来、私達の躰には生薬を煎じた薬茶なんて必要ない。


   ……本来は食物と同じように、造られた「薬餌」を飲めばそれで良い。


   だから、生薬は必要ない……生薬なんて、煎じられなくても良い。
   それよりももっと効率の良い、「薬餌」があるのだから。


   ……。


   だけれど……「マーキュリー」は、生薬を作り続けている。
   適切な薬を煎じられるように……その知恵を、繋ぎ続けている。


   ……うん。


   生薬は……「ジュピター」に、協力して貰って。


   それは……食べ物と同じ考え方、なのかな。


   ……然うかも知れない。


   薬茶を飲むのは……今では、ジュピターとマーキュリーだけだ。


   ……。


   少なくとも、あたしは……造られた「薬餌」を飲むことが出来ないから。


   ……あなたの先代も、然うだったらしいわ。


   師匠も……?


   ……似ているわね。


   メルも……。


   ……。


   ……メルも屹度、先生のように。


   次代を、私が育てることはないかも知れない。


   ……。


   それでも……繋がってきたのだから。


   ……あたしは、次代を育ててみたい。


   ユゥ……。


   ……メルと一緒に。


   あの家で……?


   うん……あの家で。


   ……。


   ……難しいかな。


   とても。


   ……けど、叶えたい願いを持つことは悪いことではないだろう?


   守護神としては……悪いことね。


   今は、クイーンに……そして、いつか生まれてくるプリンセスに。


   守り、尽くすのが……私達の使命、だから。


   叶えたい願いなんてものがあったら。


   ……使命を果たすのに、邪魔になるだけ。


   でもあたしは……願いを諦めない、手放さない。


   ……あなたは。


   メルのことを、絶対に。


   ……。


   生きている限り……此の命が、此処に在る限り。


   ……諦めて呉れたら。


   ごめん……それは、どうしても出来そうにないんだ。


   ……私も、諦められたのに。


   ……。


   ……ねぇ、ジュピター。


   メ……なんだい、マーキュリー。


   ……あの家に、ふたりで帰ることが出来たら。


   取り敢えず……ごはんでも、食べようか。


   ……手入れがされていないから、難しいと思うわ。


   作って、持って行けば良いさ……。


   ……乾燥物でも、良いと思うけれど。


   なら、それも持って。


   ……。


   ……楽しみにしてる。


   私の分まで。


   ……。


   ……いえ、私も。


   ん……。


   ……。


   ……然うだ、メル。


   なに……?


   今、見られないかな。


   ……何を。


   先生が遺して呉れたの。


   ……。


   寝台の中で……は、だめかな。


   ……別に、構わないわ。


   なら……。


   ……少し、待っていて。


   うん。


   ……。


   ……。


   ……え、と。


   ん……?


   ……此れよ。


   此れ?


   此処を開こうとすると……こうなるの。


   ……あー、なるほど。


   どう……?


   ……然うだな。


   分からないなら、分からないで良いのだけれど。


   ちょっと待って……なんとなく、憶えがあるような気がする。


   ……。


   ……えーと。


   今、思い出せなくても……。


   ……あ、然うだ。


   思い出せたの?


   多分、だけど。


   ……何?


   耳……良い?


   ……。


   此れは、多分……。


   ……は。


   だと、思うんだ。


   ……そんなこと?


   うん、そんなこと。


   ……。


   だけど……先生にとっては、大切なことだったのかも知れない。


   ……取り敢えず、入力してみるわ。


   うん、してみて。
   間違えていたら、ごめんね。


   それは、別に……。


   ……。


   ……開いた。


   やった。


   ……先生。


   うん?


   ……あのひとは、本当に。


   ……。


   ……最後まで、遊んで。


   此れ、多分だけど師匠も絡んでると思う。


   ……お師匠さんも。


   本当……最後まで。


   ……。


   見てみよう……メル。


   ……恐らく、大したものはないと思うのだけれど。


   寧ろ、その方があのふたりらしいかな……。