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日記
2025年・5月
4月 3月 2月 1月 12月 11月 10月 9月

  19日





   ごちそうさまでした。


   御粗末さまでした。


   素敵なお茶の時間をありがとう、亜美ちゃん。


   此方こそ美味しい紅茶をありがとう、まこちゃん。


   片付けはあたしが。


   ううん、私が。


   なら、いつも通りふたりでしようか。


   うん。


   よいしょ、と。


   ねぇ、まこちゃん。


   んー?


   まこちゃんはこの後どうするの?


   この後?


   本の続きを読む?


   んー、然うだなぁ。


   若し良かったら、一緒にお散歩に行かない?


   お散歩?
   良いねぇ、行こう。


   どこか行きたい場所はある?


   今だと、公園のお花が見頃なんだ。
   何度か見たけれど、また亜美ちゃんと見たいな。


   なら、先ずは公園の方に。


   良い?


   ええ、良いわ。


   やった。


   ふふ。


   亜美ちゃんは行きたい場所ある?


   私は……まこちゃんと一緒なら、何処でも良いの。


   ……。


   私はただ、まこちゃんとお散歩に行きたいと思って。


   ……よし。


   え……?


   先ずは、片付けをやってしまおうか。


   ……ん、然うしましょう。


   ん。


   ……。


   ねぇ、亜美ちゃん。


   ……なに?


   何か話したいことがあったりする?


   ……。


   歩きながら、さ。


   ……やっぱり、分かるわよね。


   なんとなく、だけれどね。


   部屋の中で話しても良いのだけれど……今日はお散歩しながらが良いと思ったの。


   そっか。


   ごめんなさい、付き合わせてしまって。


   亜美ちゃんとお散歩が出来るなら、あたしはどこまでも付き合うよ。


   ……うん。


   ……。


   ……然ういえば。


   ん?


   ここのところ、植物園に行くことが出来ていないわよね。


   あぁ。


   ……久しぶりに、行きたいわ。


   あたしも行きたいとは思うけれど……今からでは遅くなってしまうから、また今度かな。


   ……然うよね。


   植物園に行く日はさ、午前中から出掛けようよ。
   それで、植物園でゆっくりしても良いし、他に行きたい場所があればそっちに行っても良い。
   例えば、あんみつを食べに行ったりさ。


   ……あんみつ?


   あんみつも、食べに行けていないだろう?
   久しぶりに、亜美ちゃんと食べに行きたいな。


   行くとしたら……お店は、どうしましょうか。


   亜美ちゃんは行きたいお店、あるかい?


   私は……若しもあのお店が残っているのならば、また行ってみたいわ。


   あのお店……?


   ……中学生の頃に、初めてふたりで行った。


   未だ、付き合っていない頃……?


   然う……未だ、お友達だった頃。


   そのお店は……。


   ……まこちゃんが小さい頃、お義父さんとお義母さんに連れて行ってもらって。


   あんみつも美味しいけれど、かき氷やアイスも美味しい……。


   ……それから、今川焼きのような丸いお焼きも。


   神社の近くにあるお店……だね。


   ん……。


   なんだったかな、あの丸いの。
   確か……今川焼きより小さいのだけれど、厚みがあったような。


   まこちゃん、ふたつくらいは平気で食べちゃって。


   然うだったっけ?


   ええ、然うよ。
   ちゃんと憶えているもの。


   ふたつ頼んでひとつずつ食べた記憶が、あたしにはあるのだけど。


   然ういう時もあったわ。


   亜美ちゃんが言うようにあたしがふたつ食べたことはあっただろうけど、亜美ちゃんとひとつずつ食べたことの方が多いと思うんだ。
   ううん、絶対に多い。


   然うだったかしら。


   然うだよ、ちゃんと憶えているんだ。


   なら、然うかも知れない。


   もう、憶えているくせに。


   ……ふふ。


   うん、やっぱり憶えてる。


   ……。


   ……亜美ちゃん。


   どれも、美味しかったわよね……。


   ……うん、美味しかった。


   何回か、行って……。


   ……色々あって、行けなくなってしまった。


   ……。


   ……。


   あのお店……未だ、あるかしら。


   どうだろう……あれから、もう大分経つし。


   ……あの辺りも、大分変わってしまったわよね。


   うん……あの頃の風景はもう、ほとんど残っていないよ。


   ……やっぱり、もう。


   珍しいね。


   ……何が?


   調べれば、分かるのに。


   ……然うね。


   ……。


   ……スマートデバイス。


   此れならば多分、分かると思う。
   然うだよね?


   ……今、調べるの?


   早い方が良いと思って。


   ……片付けが終わった後でも。


   良い……?


   ……今は、先に片付けを。


   ん……亜美ちゃんが、然う言うのなら。


   ……。


   ……。


   ……やっぱり、調べてみて。


   うん……分かった。


   ……。


   検索は……え、と。


   ……。


   ん……んー?


   ……若しかして、見え辛い?


   目が、疲れているのかな……いつもは、見えるんだけど。
   て、あれ……なんか違うのが出てきた。


   まこちゃん。


   なに?


   ……貸してもらっても。


   うん……片付けはあたしがするよ。


   ううん、お店を調べるくらいなら直ぐに分かると思うから。


   ……流石です。


   旧時代にあったものと、同じようなものだもの……。


   ……あれも、いまいち使いこなせないままだったな。


   そんなことない……ちゃんと使いこなしていたわ。


   だとするなら……亜美ちゃんが、丁寧に教えて呉れたからだよ。


   ん……。


   えと……どうかな。


   ……あぁ。


   その反応は、どちらだろう……。


   ……未だ。


   あ。


   ……残って、いるみたい。


   それ……本当かい?


   ええ……見て。


   どれどれ……ん、良く見えない。


   ごめんなさい……今、大きくするわ。


   う、うん。


   ……此れで、どう?


   あ、此れなら見やすい。


   ……。


   本当だ……営業中ってなってる。


   ……続いていたのね。


   ね、電話して聞いてみようか。


   電話?


   確認の。


   するにしても……今日で、なくても。


   いや、こういうのは早い方が良いよ。


   でも、確認したところで直ぐに行けるわけではないわ。
   迷惑になってしまうかも知れない。


   ん、然うかな。


   だから、行く日が決まったら……その時に、電話してみましょう?


   んー……うん、分かった。


   それに、電話をしなくても確認出来るかも知れない。


   然うなの?


   最近の口コミが載っていれば、少なくとも、その日までは営業していたということになるでしょうし。


   それから、閉めてしまったということも……ないとは、言い切れないよ。


   然うだけれど……ホームページも、一応あるの。


   ホームページ?


   昔懐かしいものが……ほら、見て。


   ……どれどれ。


   どう……?


   ……わぁ、懐かしい。


   ね……。


   いやぁ、本当に懐かしいなぁ。


   此処にも営業中と書いてあって……ねぇ見て、今月の定休日も書いてあるわ。


   ……。


   来月の定休日も……。


   ねぇ、亜美ちゃん。


   ……え?


   近いうちに、絶対に行こう。


   ……。


   此処を離れてしまう前に、必ず。


   まこちゃん……うん。


   ね、お店のメニューは変わってないよね。


   ええ、変わっていないみたい……。


   よし、アイスを載せたあんみつは必ず食べるとして。
   昭和焼きはふたつ頼んで、


   ……あ。


   亜美ちゃんとひとつずつだ。


   然う、昭和焼き。


   え。


   あの丸いお焼きの名前。


   ……ああ!


   本当に、懐かしいわ……。


   ……。


   ……あんこが、本当に美味しくて。


   うん……美味しかった。


   ……。


   あのお店は、亜美ちゃんのお気に入りのお店のひとつになってさ……あたしは、それがすごく嬉しくて。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   次のお休みが、良いかな。


   ……。


   行くとしたら……さ。


   ……うん。


   ……。


   ごめんなさい……。


   ……うん、なんで?


   まこちゃんを……巻き込んでしまうから。


   巻き込む?


   ……私の都合に。


   あたしは悪い方には考えていないよ。


   ……。


   一度も、考えたことがないんだ。


   ……でも。


   此処を離れることにはなるけれど、新しい場所はそこまで遠い場所ではない。
   まぁ、遠くてもあたしは全然構わないのだけど。


   ……お店のお客さんと離れてしまうわ。


   それは、寂しいけどね。


   ……。


   でも、亜美ちゃんと離れて暮らすのはもっと寂しい。
   亜美ちゃんと離れるのは、絶対に嫌なんだ。


   ……まこちゃん。


   それについても、ちゃんと話し合ったろう?


   ……然う、だけれど。


   あたしは、決めたんだ。
   亜美ちゃんに付いて行こうって。


   ……。


   それこそ……。


   ……ん、まこちゃん。


   亜美ちゃんと、結婚する前から……然う、決めてた。


   ……そんな前から。


   然うだよ……あたしは、重たいからね。


   ……。


   ……あたしは離れないよ、亜美ちゃん。


   まこちゃん……。


   ……新しい家には、小さなお店がある。


   ……。


   そのお店であたしはまたケーキ屋さんをやる……それがあたしの新しい夢なんだ。


   ……。


   あとね、キッチンカーもやってみたいと思ってる。


   ……ケーキ屋さんの?


   うん……種類は、お店のように揃えられないと思うけれど。


   ……。


   然うすれば、この辺りのお客さんともまた会えるかも知れない。
   ね……良いと思わないかい?


   ……思うわ、とても良いと思う。


   ふふ……嬉しいな。


   ……。


   そんな簡単なことではないけれど……やれるなら、やってみたいから。


   ……私に出来ることがあったら、言ってね。


   然うだな……じゃあキッチンカーにはどんなものが良いか、考えてもらおうかな。


   ……。


   季節も考えてね。


   ……ケーキでなくても良い?


   うん、良いよ。
   兎に角、色々な案を出して欲しいんだ。


   ……スコーンなんて、どうかしら。


   スコーン?


   ……夏場でも大丈夫だと思うし。


   それは、確かに。


   あとは……ふふ。


   ん……楽しい?


   ね、まこちゃん。


   ……なんだい?


   私達、片付けの手がすっかり止まってしまっているわ。


   ……あら。


   ……。


   これは、いけないな。
   散歩に行くのが遅くなっちゃう。


   ……お夕飯のことも考えないと。


   ん、然うだった。


   ……。


   ね……今日は、外で食べるというのはどうかな。


   私も丁度、考えていたの。


   亜美ちゃんも?


   今夜は、然うしましょうか。


   ……実はさ。


   なぁに?


   亜美ちゃんと行ってみたいお店があるんだ。
   最近、出来たのだけれど。


   なら、そのお店にしましょう。


   良いかな。


   ん、勿論。


   然うと決まれば、今度こそさっさと終わらせてしまおう。
   ね、亜美ちゃん。


   ええ、まこちゃん。


  18日





   うーん、美味しい!
   流石、あたしの亜美ちゃん!


   ありがとう、まこちゃん。
   だけど、大袈裟よ。


   外はさくさくで、中はふんわり。
   まさに理想のスコーンだ。


   理想だなんて、私には勿体ない言葉だわ。
   まこちゃんは、お菓子作りのプロなのだから。


   そんなの、関係ないさ。
   プロでもアマチュアでも、あたしは美味しいものは美味しいと言いたい。
   その方がもっとお菓子を楽しめるし、もっと美味しいと思えるから。


   ……私はもっと上達したいと思っているの。


   じゃあさ、次はざくざくなのに挑戦してみたらどうかな。


   ざくざく?


   然う、外側がざくざくなスコーン。
   レシピは、知ってるだろう?


   知っては、いるけれど。


   良かったら、書こうか。


   お願い、出来る?


   ん、勿論。


   ありがとう、まこちゃん。


   どういたしまして。


   スコーンって、色々なアレンジが出来て面白いわよね。
   牛乳を半分ヨーグルトにしても良いし、生クリームにしても良い。


   薄力粉を少し減らして、全粒粉に置き換えると、香ばしくて素朴な風味になる。
   入れる具材によってはおやつ、食事、お酒のおつまみにだってなる。
   おやつと言えば、チョコが定番かな。ドライフルーツも美味しいね。


   サーモンやハムを挟んだチーズスコーンは塩気もあって食事にぴったりだったわ。


   そのチーズスコーンにベーコンを入れたら、お酒のつまみに良いわぁって言われたっけ。


   小麦粉の種類によっても、食感が変わるのよね。


   然う然う、然うなんだ。
   タンパク質の含有量が高いものはざくざくに、低いものはふんわりとした軽いスコーンになるんだよ。


   うん……やっぱり、興味深いわ。


   亜美ちゃんは、特にスコーンが気に入ると思ったんだ。
   スコーンは基本の配合さえちゃんと覚えておけば色々試せるからさ。


   あなたの目論見通りね。


   はは、やったぜ。


   ふふ……何よ、やったぜって。


   可笑しかった?


   ええ、可笑しかったわ。


   難しいな、格好つけるのって。


   格好つけてたの?


   いや、然うでもない。
   なんとなく、面白いかなって。


   ええ、面白かったわ。
   あなたにいまいち合っていなくて。


   あら。


   ふふ、ふふ。


   ともあれ、此れからも色々試してみて欲しい。
   自分好みのスコーンを探すのもまた、楽しいものだからさ。


   ……。


   ん?


   あなたの好みを探すのも、難しくて楽しいわ。


   あたしは、


   まこちゃんはどれも美味しいって言って呉れるから。


   亜美ちゃんが作るスコーンはどれも美味しいけれど……強いて言えば、今日のスコーンが一番好みかな。


   それ、前も言っていたわ。


   詰まり、更新されていくんだよ。


   ……更新されない時もある?


   うーん、それはあるんじゃないかな。
   今の所、ないけれど。


   ……失敗したら。


   失敗は失敗、だろう?
   失敗は次に活かすものなのだから、成功したものと比べるまでもない。


   ……まこちゃん。


   なんだい?


   前から思っていたのだけれど、お菓子の教室を開いてみたらどうかしら。
   喜ぶひとは必ず居ると思うの。


   教室か……今は未だ、早いかな。


   然うなの?


   まぁ、いつかは開いてみたいと思ってはいるけれど。


   いつか?


   然う、いつか。


   若しも、開く時は。


   協力してもらうかも。
   良いかな。


   ええ、良いわ。


   ありがとう、亜美ちゃん。


   まこちゃんは屹度、素敵な先生になると思うの。


   然うかな。


   分かりやすくて、穏やかで、優しくて……笑顔が、とっても素敵な。


   ふふ、照れるな。


   本当のことよ。


   ん、ありがと。
   でも、今は。


   ……。


   今は未だ、亜美ちゃんだけの先生で居たい。


   ……私だけの。


   嫌かい?


   ……ううん、嫌じゃないわ。


   なら、未だこのままで。
   お店も、あるしね。


   ……うん。


   ね、ざくざくスコーン、作ってみるだろう?


   ん、作ってみるわ。


   ふふ、楽しみだなぁ。


   あまり期待しないでね。


   うん、難しいかな。


   もう。


   今日のスコーン、味も文句なしに美味しいよ。
   此れなら、幾つでも食べられそうだ。いや、食べられる。


   ……お夕飯が入らなくなってしまうから、程々にしてね。


   それはそれで、本望です。


   だーめ。


   はぁい。


   なんにせよ、そんなに数はないけれど。


   はんぶんこ、だね。


   ええ、はんぶんこよ。


   と言うわけで、亜美ちゃんもどうぞ。


   ん。


   紅茶はいかが?


   頂くわ。


   では、どうぞ。


   ありがとう。


   ……。


   あぁ……良い香りだわ。


   紅茶は、アッサムにしてみました。


   ええ、良いと思う……。


   ふふ……良かった。


   ……。


   さて、次の子は桃ジャムにしようかな。
   それとも、ラズベリーにしようかな。


   ……ん、美味しい。


   うん、ラズベリーにしよう。
   桃は、その次の子に。


   ……私は、桃にしようかしら。


   ……。


   ……。


   ……うーん、ラズベリーも美味しいなぁ。


   ……。


   プレーンのままでも十分に美味しいけれど、甘酸っぱいラズベリーとも合ってる。
   桃も、楽しみだ。


   ……。


   はぁ……。


   ……まこちゃん?


   いやぁ、とっても素敵なお茶の時間だなぁって。


   ……お誘いして、良かった?


   勿論です、亜美さん。


   ……ふ。


   改めて、素敵な時間をありがとう。


   ……どういたしまして、まことさん。


   ……。


   ……。


   はは。


   ……ふふ。


   ……。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   なんだい、亜美ちゃん。


   同窓会、のことなのだけれど。


   あぁ。
   中学の、だったよね。


   然う。


   行くのかい?


   いいえ、行かないわ。


   そっか。


   どう考えても、会いたいと思うひとは居ないし。


   担任は、来るのかい?


   ええ、来るみたい。


   亜美ちゃんのクラスの担任って、どんなひとだったっけ。


   男性だったわ。


   うん。


   受け持ちは、社会……確か、公民だったと思うけれど。


   公民か……懐かしいな。


   ……。


   えと……他には?


   詳しくはもう、憶えていないの。


   ……亜美ちゃんが。


   まこちゃんは、憶えてる?


   いや、あたしも憶えてないな。
   男だったか、女だったか。


   女性だったわ。


   あー……言われてみれば、然うだったかも。


   担任だけでなく、クラスの皆のこともあまり憶えていないの。
   卒業して……然う、大分経つから。


   亜美ちゃんのクラスか……うん、分かんないな。


   まこちゃんは、クラスの皆のことは憶えてる?


   いや、あたしもほとんど憶えてない。
   名前どころか、中学だったか高校だったか、それすらも思い出せないよ。


   ……私も同じなの。


   そっか……。


   アルバムを見れば、少しは思い出すかも知れないけれど。


   あたしも、アルバムを見れば少しは思い出すんだろうけど。


   思い出せたら、会いたいと思う?


   いや、あまり思わないかな。
   クラスに馴染んでいたわけではないし。


   私も然う。思い出したところで、会いたいとは思わない。
   だから同窓会に行くよりも、まこちゃんとふたりでゆっくりと過ごしたいと思っているの。


   あたしと?


   然う、まこちゃんと。


   なら、ゆっくり過ごそう。
   ふたりで。


   うん。


   なんだったら、ふたりだけの同窓会をやっても良いかも。


   クラス、違ったのに?


   学校は、同じだったろう?


   まぁ、然うだけれど。


   中庭でお弁当を食べたこと、今でも憶えているんだ。


   私も憶えているわ。


   うさぎちゃんは居たり、居なかったりで。


   大阪さんとも一緒に食べていたから。


   うさぎちゃんはあたしのお弁当を見ては、いつも美味しそうって言って呉れてさ。


   だからまこちゃんはいつも、うさぎちゃんが欲しいおかずをひとつあげるの。
   しょうがないなぁなんて、言いながら。


   いやぁ、あんな物欲しそうな顔で見られたらねぇ。


   うさぎちゃん、いつも美味しそうに食べていたわ。


   嬉しかったな。


   ……うん、嬉しそうだった。


   亜美ちゃんもだよ。


   私?


   亜美ちゃんも、いつも美味しそうに食べて呉れたろ?


   ……だって、本当に美味しかったから。


   嬉しかった、とても。


   ……うん。


   うさぎちゃんには、勝手に食べられちゃうこともあったけどね。


   ふふ、あったわね。


   だけど、許せちゃうんだよなぁ。


   まこちゃん、うさぎちゃんに対してはしょうがないなぁが口癖のようだった。


   亜美ちゃんにも取られてみたかったな?


   そんなこと……私には、出来ないわ。


   だからこそ、食べて食べてと言ったんだけどね。


   ……お弁当まで作って呉れて。


   だって、食べて欲しかったんだもの。


   うさぎちゃんに何度も羨ましがられたわ。
   亜美ちゃんばかり、あたしにも作って欲しいって。


   作ってあげても、良かったんだけど……うさぎちゃんには、お母さんのお弁当があったからさ。


   ……。


   美味しそうだったろう、うさぎちゃんのお母さんが作ったお弁当。
   実際美味しかったし、あたしにはあれ以上のお弁当は作れないよ。


   まこちゃん……。


   だからって、お義母さん以上だとも思っていないよ。


   ……ううん、まこちゃんのお弁当はいつだって母以上だったわ。


   亜美ちゃん……。


   ……お弁当だけじゃない、お菓子だって。


   ……。


   ……小さい頃、母とクッキーを作ったことはあるけれど。


   うん、いつか話して聞かせて呉れたね……。


   ……母はケーキやスコーンは、作らなかったから。


   ふふ……。


   ……ん、なに?


   亜美ちゃんの趣味にお菓子作りが加わるなんて、あの頃は思いもしなかったなぁって。


   ……あぁ。


   ね、お菓子作りは楽しいかい……?


   ええ……とても。


   そっか……嬉しいな。


   ……私も、思いもしなかった。


   若しかしたら……だけど。


   ……なに?


   小さい頃、お義母さんとクッキーを作ったことが亜美ちゃんの中に残っていたのかも知れない。


   ……。


   屹度、楽しかったんじゃないかな。


   ……若しかしたら、然うかも知れない。


   うん……。


   ……だけど、まこちゃんの影響の方が強いの。


   あたし……?


   然う……特に、まこちゃんと一緒に作ってふたりで食べたことが。


   ……。


   ……まこちゃんが居なかったら、屹度、お菓子作りが趣味になることはなかったわ。


   然う、なんだ……。


   ……嬉しい?


   うん……とても。


   ……ん。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、亜美ちゃん。


   なぁに……まこちゃん。


   大学病院……本当に辞めてしまうのかい。


   ……うん、もう決めたの。


   本当に、辞めても良いのかい……?


   ……自分なりに、色々考えた結果だから。


   ……。


   まこちゃんにも何度も、話を聞いて貰ったわ。


   ……あたしには、聞くことしか出来なくて。


   ううん、そんなことない……おかげで、考えをまとめることが出来たもの。


   ……。


   私は、母とは違う道を行く……此れからは大学病院の医者ではなく、開業医として生きるの。


   ……あたしに出来ることがあったら、なんでも言って欲しい。


   もう、して貰っているわ……。


   ……亜美ちゃん。


   だから……だから、此れからも宜しくね。


   あぁ……あたしに出来ることがあったら、何でもするよ。


   ……ありがとう。


   ……。


   ねぇ……。


   ……ん?


   私に出来ること……何か、ある?


   亜美ちゃんに……?


   ……なんでも、言って欲しいの。


   もう、いっぱいして貰っているよ……。


   ……ん、まこちゃん。


   お店のことも、色々助けて貰った……亜美ちゃんが居なければ、とっくに駄目になっていたと思う。


   ……そんなこと。


   ううん、あるよ……。


   ……。


   だから……此れからも、傍に居て支えて欲しい。


   ……出来る限り、支えるわ。


   ん、ありがとう……あたしも力の限り、亜美ちゃんを支えるよ。


   ……。


   ……。


   ……スコーン、冷めちゃうね。


   ん……然うね。


   亜美ちゃんも、食べて。


   うん……食べる。


   ……。


   ……ざくざくスコーンの次は、紅茶のスコーンを作ってみようかしら。


   あ、それも良いね。


   ……作ったら、食べて呉れる?


   勿論、食べる……食べたい。


   ……でも、期待はしないでね?


   うん、やっぱり難しいかな。


   ……もぅ、まこちゃんは。


   ……。


   ……ふふふ。


   ははは……。


   ……。


   亜美ちゃん、紅茶のお代わりはいかが……?


   ありがとう……頂くわ。


  17日





  -Wonderful World(現世2)





   うーん……。


   まこちゃん、スコーンが焼けたの。
   一緒にお茶の時間にしない?


   うん……する。


   まこちゃん?


   ……。


   どうしたの?
   何かあった?


   いや、それがさ……眼鏡が、見当たらなくて。


   眼鏡?


   然う、眼鏡……いつもの場所にないんだ。


   ……。


   亜美ちゃん、知らない?


   ……知っているわ。


   え、本当?


   まこちゃんの、おでこに。


   へ。


   眼鏡は、まこちゃんのおでこにあるわ。


   おでこ……あ。


   ふふ……うっかり忘れちゃったのね。


   や、嘘だろ……こんな漫画みたいなことって、ある?


   あったわねぇ。


   えー……自分で自分に吃驚だよ。


   でも、どうして眼鏡をおでこになんて?


   ……少し、目を休める為に。


   外そうとは、思わなかったの?


   ほんの少しのつもりでいたんだ……でも、素直に外せば良かった。


   よく滑り落ちてこなかったわね。


   うん、上手く嵌まっていたみたい。


   おでこに感触は?
   鼻パッドも当たる筈だし、ないとは思えないわ。


   今思えば、あったかも知れない。


   灯台下暗しとは、言ったものだけれど。


   探すのにばかり気を取られてしまって、余計に気が付かなかったんだと思う。
   こんなことって本当にあるのかなぁって思っていたことが、まさか自分の身に起こるなんて。


   まさに、身を以って知る、ね。


   全くだ。


   ……ふむ。


   けどまぁ、良かったよ。
   うっかり落としてそのまま踏んでいたら、それこそ大惨事だった。


   今度、私もやってみようかしら。


   え?


   眼鏡を、おでこに。


   亜美ちゃんが?


   若しも私が忘れていて、眼鏡を探していたら教えてね?


   それは、良いけれど……。


   見てみたいとは思わない?


   おでこに眼鏡の亜美ちゃんは……ちょっとだけ、見てみたいかな。


   ちょっとだけ?


   ……一回くらいは、見てみたいけど。


   けど?


   亜美ちゃんが、眼鏡眼鏡とやっている姿は……や、可愛いな?


   それで?


   見てみたい。


   ふふ、結局そこに落ち着くのね?


   亜美ちゃんにもこんなことあるんだねぇなんて言いながら、教えてあげるんだ。
   それからの亜美ちゃんの反応を見て……うん、可愛い。


   あなたが想像した通りの反応にならなかったら、ごめんなさいね?


   いやぁ、それはそれでありです。


   ふふ、然う?


   うん、然う。


   じゃあ、いつか。


   うん、いつか。


   それで、眼鏡は大丈夫?


   あぁ、大丈夫だ。


   然う、それは良かったわ。


   取り敢えず、レンズを拭いておこうかな。
   前髪で、少し汚れちゃったから。


   然うね、それが良いと思う。


   眼鏡拭きは……ケースの中だ。


   サングラスだったかしら。


   うん?


   昔、美奈子ちゃんがおでこに掛けていたことがあったわよね。


   あったあった。
   と言っても、あいつの真似をしたわけじゃないんだよ。


   ええ、分かっているわ。
   ただ、ふと思い出しただけなの。


   うーん、まぁ良いけど。


   今でも、たまにしているみたいだし。


   あれ、そんなに格好良いかな?


   私には良く分からないけれど、美奈子ちゃんには合っていると思うのよ。


   それは、確かに。


   まこちゃんも……。


   亜美ちゃん。


   ……なぁに?


   あたしの場合は、サングラスではないから。


   掛けているものは、違うけれど……。


   あと、不本意だったから。


   ……可愛かったのに。


   言葉だけ貰っとく。


   貰うのね?


   亜美ちゃんの言葉だからね、単純なあたしは直ぐに嬉しく思っちゃうんだよ。


   ……。


   ……亜美ちゃん。


   やっぱり、可愛いわ。


   ……ありがと。


   どういたしまして。


   はぁ。


   ……。


   眼鏡、慣れるかなぁ。


   大丈夫、ちゃんと慣れるわ。


   ……。


   まこちゃんは眼鏡を使い始めて、まだ日が浅いから。


   ……日常的に使うわけでは、ないし。


   然うね。


   視界の中にさ、こう、フレームが入ってくるだろ?
   それが気になってしまったりもするんだよね。


   今まで、なかったものね。


   うん、然うなんだ。


   分からないわけではないわ。
   昔の私も然うだったと思うから。


   亜美ちゃんは子供の頃からずっと然うだったんだよね。


   ええ。


   どれくらいで慣れた?


   半年は掛からなかったと思う。


   半年、か。


   慣れてしまえばなんてことないのだけれど……まぁ、時間に委ねるしかないと思う。


   然うだよね……ま、いつかは慣れるだろ。


   取り敢えず、何処に置いたか忘れないようにしてね。
   私も、気を付けてはおくけれど。


   うん、意識して覚えるようにする。
   慣れるまでは、その方が良さそうだ。


   慣れても、よ。


   うん?


   慣れると今度は、慣れによるものが起こるから。


   あぁ。


   無意識は、慣れ不慣れ関係ないの。


   なくならない、か。


   ……鼻パッドも、うっかり取れるものだし。


   あぁ……あったね。


   あれがないと困るの。


   うん、見てて思った。


   まこちゃんも気を付けてね。


   はい、kぐれぐれも気を付けます。


   ん、良いお返事。


   はは。


   ……ふふ。


   ところで、亜美ちゃん。


   なぁに、まこちゃん。


   スコーンが焼けたんだよね。
   さっきから良い匂いがする。


   然うなの、スコーンが焼けたの。
   だからお茶の時間にしようと思って、まこちゃんをお誘いに来たの。


   そのお誘い、喜んでお受け致します。


   ふふ、良かったわ。


   楽しみにしてたんだ、亜美ちゃんのスコーン。


   上手に焼けたかどうかは、分からないけれど。


   そんなこと言っておいて、いつも美味しいんだから。


   然うかしら。


   然うだよ。
   亜美ちゃんのスコーンは、今ではあたしの大好物のひとつなんだ。


   ふふ、ありがとう。


   あたしはお茶を淹れるね。


   うん、お願い。


   その前に眼鏡を……て、あれ。


   まこちゃん?


   ケース……。 


   ないの?


   いや、ここに置いた筈……。


   ……テーブルの上?


   うん……確かに、ここに。


   ……。


   あ、あれ、おかしいな……。


   ……ふふ、仕方がないわね。


   ここでないとすると……こっちか。


   ……残念。


   え?


   はい、まこちゃん。


   えぇ、なんでそんなところに。


   眼鏡を探しているうちに、無意識に置いてしまったのかもね。


   あ、あぁ。


   分からないわけではないわ。


   ……亜美ちゃん、流石です。


   だってもう、長いもの。


   あたしは、まだまだだなぁ。


   然うじゃなくて。


   うん?


   あなたとの、付き合い。


   ……。


   ……ね。


   うん……亜美ちゃんの眼鏡の次に、長いかも。


   あら、今の眼鏡はあなたほどではないわよ。


   ん。


   今の眼鏡にしたのは、大体三年前。
   だから、あなたと一緒に居る時間よりもずぅっと短いわ。


   ……亜美ちゃん。


   私の眼鏡は、もう何度も替わっているから。
   あなたほど付き合いが長いものなんて、ひとつもないの。


   ……うん。


   此の眼鏡、あなたが選んで呉れたのよね……。


   ……とても似合っていたから。


   今でも、気に入っているの……とても。


   ……良かった。


   あなたは……どう?


   ……あたし?


   その眼鏡……本当に、気に入って呉れてる?


   勿論、気に入っているよ……あたしに、とても良く合っているから。


   ……。


   亜美ちゃんに見て貰って、ふたりで選んだんだ……気に入っていないわけがない。


   ……ん、良かった。


   大事にする……。


   ……慣れるまで、色々あると思うけれど。


   おでこに掛けて、忘れていたりね……。


   ……ふふ。


   はは……。


   ……ね、少しだけ屈んで呉れる?


   ん……分かった。


   ……。


   ……此れくらい?


   もう少し……。


   ……此れで、どう?


   うん……此れなら、届くわ。


   ……。


   ……。


   ん……亜美ちゃん。


   ……忘れてしまわぬように、おでこにちょっとしたおまじないを。


   ……。


   なんて……ね。


   ……効いてきた気がする。


   ……。


   おでこがじんわりと熱くなってきた……おまじないが効いている証拠だ。


   ……然うだと、良いけれど。


   ……。


   ん、まこちゃん……。


   ……ふふ、しあわせな午後だなぁ。


   小腹、空いてるでしょう……?


   ……ん、空いてる。


   クロテッドクリームと……ジャムを、たっぷりと塗って。


   たっぷり塗っても良い……?


   ……摂り過ぎは良くないけれど、たまにだもの。


   ふふ……やった。


   ……さぁ、まこちゃん。


   うん……亜美ちゃん。


   ……ん。


   ……。


   ……もぅ。


   この続きは、また後でね……。


   はいはい、然うね……。


   ……む。


   然ういうところ……本当、変わらない。


   ……嫌いかい?


   嫌いだったら……とっくに、離れているわ。


   ふふ……然うだよね。


   ……ジャムは、ラズベリーと桃。


   どちらも美味しいんだ……。


   ……さぁ、冷めてしまわないうちに。


   ん……。


   ……。


   ……。


   ……本は、どこまで読んだの?


   それが、あまり読めてないんだ。


   ……。


   良く見えはするのだけれど、慣れなくて。


   ……然う。


   ゆっくり、慣れていくかな。


   若しも、気になるようだったらもう一度眼医者さんに。


   ……然うする。


   ……。


   さて、どの紅茶が良いかな。
   亜美ちゃんのスコーンと言えば、あの紅茶かな。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   ん、何かご希望の紅茶でもあるかい?


   ううん、それはまこちゃんに任せてあるから。


   そっか。


   素敵だと、言いたかった。


   素敵?


   あなたの、眼鏡姿も。


   ……。


   ……私が言うのも、なんだけれど。


   聞きたい……。


   ……目、大事にしてね。


   うん……亜美ちゃんを見られなくなっちゃったら、嫌だから。


   ……それだけではないでしょう?


   然うだけど……一番大事なことだから。


   ……。


   ……続きはお茶の時間の後に、ね。


   美味しいお茶……期待しているの。


   ……ん、任せて。


   ……。


   美味しいスコーンに相応しいお茶を、必ずやあなたに。


   ……もう、気障なんだから。   


  16日





   おはよう、亜美ちゃん。


   ……。


   コーヒー、飲む?


   ……飲む。


   今朝のお好みは?


   ……ブラック。


   ん、了解。


   ……やっぱり、要らない。


   うん?


   ……コーヒーよりも、お味噌汁が飲みたい。


   味噌汁?


   ……面倒だったら、いい。


   いや、面倒ではないよ。
   丁度、何を作るか考えていたところだったし。


   ……待って。


   ん?


   ……マグ。


   マグの?


   ……ん。


   となると……具はわかめと小葱と豆腐、それからお麩。
   どれかふたつ、選んで欲しいな。


   ……わかめ。


   と?


   ……小葱。


   わかめと小葱だね。
   直ぐに用意するから、待ってて。


   ……。


   亜美ちゃん、眼鏡は良いのかい?


   ……持ってる。


   そっか、足元には気を付けてね。


   ……平気よ。


   平気?


   ……ちゃんと、憶えているから。


   それでも、念の為。


   ……全く、見えないわけではないし。


   あたし、心配性なんだ。


   ……知ってる。


   躰、重い?


   ……。


   半分、寝てる?


   ……全部、起きてる。


   躰は、大丈夫?


   ……少し気怠い。


   良く眠れた?


   ……と、思うけれど。


   良かった、寝不足にならなくて。


   ……まこちゃんは?


   とっても、良く眠れたよ。


   ……元気ね。


   おかげさまで!


   ……本当に血色が良い。


   亜美ちゃんも悪くないと思うよ。
   あと、寝癖が可愛い。


   ……あとで直す。


   はい、あたしが直したい。


   ……自分で直す。


   えー。


   ……。


   まだちょっとだけ、眠たそうだね。


   ……そんなことないわ、すっきりよ。


   あはは、それなら良いけれど。


   ……然うだわ。


   ん、どうした?


   ……よいしょ、と。


   亜美ちゃん?


   ……元に戻してあげるの。


   元に……て、あぁ。


   ……それとも、今日は向こう側を見ていたい気分かしら。


   んー、どうだろ。
   聞いてみる?


   ……元に戻りたいそうだから、戻すわ。


   そっか。


   ……。


   ……。


   ……なに、にやにやして。


   んー、可愛いなって。


   ……ぬいぐるみがね。


   然うだねぇ。


   ……言ったら、怒る。


   だから、言わないよ。


   ……。


   はい、亜美ちゃん。
   マグ味噌汁、出来たよ。


   ありがとう……置いておいて。


   はい。


   ……おはよう、ふたりとも。


   あたしも、おはよう。


   ……言ってなかったの?


   うん、まだね。
   亜美ちゃんと言おうと思って。


   ……どうだか。


   本当だって。


   ……。


   ね、亜美ちゃん。


   ……おはよう、まこちゃん。


   ん、おはよ。


   ……それは、まこちゃんの分?


   うん、あたしも飲みたくなった。


   ……然う。


   良いよね、朝の味噌汁は。


   ……今は、特にね。


   ……。


   なに。


   眼鏡をかけていない朝の亜美ちゃんは、一日の中で最もふんにゃりしてる。


   ……ふんにゃりって。


   ふんわりとは、違うんだよなぁ。
   こう、なんて言うか……ふんにゃり?


   それ……ねこが、入ってる?


   にゃ?


   ……なんでも、良いけれど。


   あれ。


   ……なに。


   眼鏡、かけるの?


   ええ……悪い?


   ううん、悪くないよ。


   ……。


   まだ、ただの眼鏡だよね。


   ……ここにいる間はね。


   ん、良かった。


   ……。


   どうぞ、冷めてしまう前に。


   ……いただきます。


   はい、召し上がれ。


   ……。


   さて、朝ごはんは……味噌汁と、合わせた方が良いかな。


   ……。


   ごはんは、お弁当用に炊いてある……バタートーストとも合うんだけど、多分今はくどいよな。


   ……ふぅ。


   味噌の加減は、どう?


   ……良いわ、少し薄めで。


   どれ、あたしも。


   ……。


   ……うん、良いかな。


   マグのお味噌汁……手軽で、良いわよね。


   一人暮らしにも、良かっただろ?


   ……ええ、然うね。


   鍋も汚さないで済むから、洗い物も少なく済むし。


   ……熱湯ではなく、電子レンジを使うのも楽で良いの。


   お薦めは熱湯だけれど、沸かすのが面倒な時は電子レンジ一択だ。


   ……あまり食欲がない時でも、あのお味噌汁なら。


   食べられた……?


   ……ごはんを入れて、おじやにでも出来たし。


   卵を落としても、良いよね。


   ……チューブの生姜を入れても、美味しいわ。


   お、良いねぇ。
   躰が温まる。


   ……あまり時間がない朝でも、遅く帰って来た夜でも、手軽に食べられる。


   どんなに手軽だろうが、どんなに手を抜こうが、ちゃんと食べることが肝要なんだ。


   ……。


   ……食べないでいると、最後は倒れてしまうからね。


   うん……。


   と言うわけで……朝ごはん、何か食べたいのはあるかい?
   味噌汁に合わせた方が良いかなと思ったんだけど。


   ……。


   ない?


   ……お粥が食べたい。


   お粥?


   ……おじやの話をしていたから。


   あぁ。


   ……それか、雑炊。


   お粥か雑炊だと……雑炊の方が、時間はかからないかな。


   ……なら、雑炊。


   卵、入れる?


   ……うん。


   じゃあ、今日の朝ごはんはお腹に優しい卵雑炊にしよう。


   ……まこちゃんは、雑炊で良いの?


   うん、良いよ。


   ……。


   ね、折角だからお麩も入れようか。


   ……お麩?


   入れない方が良い?


   ……ううん、入れて呉れるのなら入れて欲しい。


   良し、入れよう。


   ……。


   頭、重い?


   ……まだ、それほどでもないわ。


   そっか。


   ……はぁ。


   憂鬱?


   ……少し、ね。


   少しでも、気分が晴れるように。
   美味しい卵雑炊を作るからね。


   ……いつもありがとう、まこちゃん。


   どういたしまして。


   ……。


   あれ、眼鏡外すの?


   ん……卵雑炊が出来るまで。


   若しかして、あまり良くない?


   ……然ういうわけではないの。


   ……。


   本当よ……だから、そんな顔しないで。


   ……あたしの顔、ぼやけてるだろ。


   ぼやけてはいるけれど……見えているわ。


   ……。


   ……本当、女の躰って厄介ね。


   あたしは、亜美ちゃんほどではないけれど……面倒だなって、思うよ。


   ……要らないのに。


   ……。


   なければ……もう少し、楽に生きられるかも知れない。


   ……。


   まこちゃんは……。


   ……せめて、毎月でなければ良いんだけどね。


   ……。


   人間くらいだろう、毎月来るのは。


   ……哺乳類の中でも、ヒト、一部のサルやコウモリ、ネズミだけに限られている。


   ……。


   ……そもそも、それがある方が珍しいの。


   コウモリとネズミには吃驚したっけ……。


   ……ヒトにもなければ良かったのに。


   来なければ来ないで、心配になるし……本当、面倒だよね。


   ……。


   ……まぁ、一度くらいは産んでみたいと昔は思っていたけれど。


   ……。


   そんな顔、しないでよ。


   ……もう、離せないの。


   うん、離さないで欲しい。
   あたしも、離さないから。


   ……。


   子供を産むことよりも大事なものが、あたしにはある。


   ……まこちゃん。


   だから、離さないで。
   離れたくないんだ、一生。


   ……うん、離さない。


   約束だよ。


   ……ん、約束。


   ……。


   まこちゃん……。


   ……愛してる。


   ……。


   ねぇ、亜美ちゃん……ほうれん草としめじの和え物は、食べられそう?


   食べられると思うけど……手間でしょう?


   いや、それくらいならなんてことない。
   ほうれん草は昨日のうちに湯がいておいたしね。


   ……。


   あとは……亜美ちゃん。


   ……。


   また、世界が滲んでしまうよ。


   ……眼鏡を、かけていないから。


   それだけじゃない……。


   ……。


   ……腫れてしまわないように。


   ……。


   寝癖……可愛いね?


   ……ばか。


   はは……。


   ……やぁね、不安定になって。


   仕方ないさ……そういう時なんだから。


   ……。


   ……そんな時は、あたしに寄り掛かれば良いんだよ。


   ずっとだと、嫌になってしまうと思うの……。


   ……なる予定は、一切ないかな。


   ……。


   寧ろ、亜美ちゃんがあたしを鬱陶しく思うかも……。


   ……思わないわ。


   ……。


   ……思わない。


   なら……大丈夫だ。


   ……。


   大丈夫……。


   ……ありがとう。


   ん……。


   ……ね。


   なんだい……?


   ……あなたの顔が、良く見えるわ。


   ぼやけてない……?


   ……キスが出来そうな距離だから。


   しちゃおうか……。


   ……。


   ……若しかしたら、味噌汁の味がするかも知れないけど。


   もぅ……ばか。


   ……そんな朝も、良いと思うな。


   コーヒーよりも……?


   ……コーヒーでも、紅茶でも良い。


   ……。


   でもにんにくとか、にらは嫌かなぁ……。


   ……しようと思わないわ。


   ふふ……然うだよねぇ。


   ……。


   ……このままだとしちゃうよ、良いかい?


   ……。


   亜美ちゃ、ん……。


   ……。


   ……。


   ……かおりが、するわ。


   味噌の……?


   ……日本の朝、かしらね。


   あは……。


   ……。


   ……愛してるよ、亜美ちゃん。


   私も……愛してるわ。


   ……体調が良くないようだったら、直ぐに言って。


   心配性……?


   ……然うだよ。


   ……。


   ……。


   ……屹度、眠れなかったと思うの。


   ゆうべ……?


   ……だから、寝かせて呉れてありがとう。


   ……。


   ……少し、やりすぎだったけれど。


   あー……ごめん?


   ……。


   ん……?


   ……然ういえば、許してなかった。


   え。


   ……うっかり、忘れていたわ。


   あー……。


   ……まこちゃん?


   ごめんなさい……多分、またすると思います。


   そこは……もうしません、でしょう?


   ……嘘吐きには、なりたくないんだ。


   ……。


   ……だから。


   もぅ……まこちゃんは。


   ……許してもらない、かな。


   どうしようかしら。


   ……。


   ……朝ごはんを、美味しく作って呉れたら。


   任せて。


   ……。


   腕に縒りを掛けて美味しく作るよ。
   そして、ふたりで美味しく食べよう。


   ……もう、調子が良いんだから。


   然うと決まれば、待っていて。


   ……ん、待っているわ。


   よっし、作るぞ。


   ……眼鏡をかけて、ね。


   あ、飲みものは何が良い?


   ……白湯で、お願い。


  15日





   はい、どうぞ。


   ……ありがとう。


   ペットボトルのままで良かったんだよね。


   ええ、良いわ。


   うん。


   まこちゃんは……。


   それ、半分もらおうと思ってる。


   ……。


   500でも、一本は飲み切れないかなって。


   ……飲んでしまったら、どうするの?


   そしたら、持ってくるよ。


   ……。


   飲み切れそうかい?


   ……飲めても、半分だと思う。


   ふふ、だろ?


   ……先に良いの?


   うん、お先にどうぞ。
   遠慮は要らないよ。


   ……なら、お言葉に甘えて。


   ん。


   ……ふふ。


   ん?


   ……キャップ、空けておいて呉れたのね。


   うん、軽くね。


   ……。


   うーん、やっぱり。


   ……なに。


   眼鏡をかけている時の亜美ちゃんは、外している時の亜美ちゃんとちょっと違うな。


   ……どう違うの?


   隙が、あまりない。


   ……。


   特に、外に居る時は。
   全くないと言っても、過言じゃない。


   ……私にとって、一種の武器みたいなものだから。


   武器……か。


   ……昔は、そこまでではなかったのだけれどね。


   ま、分からなくもないよ……ひとは、変わるものだからさ。


   ……でも、変わらないものもあるわ。


   然うであって欲しい。


   ……。


   ずぅっとね……。


   ……ねぇ。


   なんだい……?


   ……今も、然う見える?


   うん?


   ……隙、ない?


   あまりないけど、雰囲気はかなり柔らかい。


   ……。


   だから、あまりない。
   いや、ないわけではない、かな。


   ……あなたとふたりで居る時は、必要ないから。


   ……。


   ……ただの眼鏡になるの。


   武器ではなく?


   ……それか、なんでもない眼鏡。


   なんでもない、ただの眼鏡?


   ……視力を補正するだけのね。


   お勉強の時は、厳しい眼鏡だよね。


   ……お勉強は、別だもの。


   はは、然うだよね。


   ……。


   ゆっくり飲んでね……。


   ……ん、然うする。


   ……。


   ……。


   ……ちょっと、見てみたいな。


   ……。


   何を見てみたいのか、聞かない?


   ……聞かない。


   気にならない……?


   気になっても……聞かない方が良いことは、多分にあるから。


   ……まぁ、然うだね。


   少なくとも……今は、聞かない。


   ……そっか。


   ……。


   ……あ。


   ん……。


   ……。


   ……はぁ。


   おいしい……?


   ……ん、とても。


   冷たすぎない……?


   ええ……丁度良いわ。


   そっか……良かった。


   ……やっぱり、喉が乾いていたみたい。


   声……掠れが、取れたかも。


   ……もう?


   声に潤いを感じる。


   ふふ……然うなら、良いけれど。


   ……。


   ……?
   なに……?


   ……珍しいね。


   ん……なにが。


   ……零す、なんて。


   たまには……そういうことだって、あるわ。


   ……外では、絶対にありえない。


   ここは……外では、ないもの。


   ……。


   ……まこちゃん。


   連想、させる。


   ……連想って。


   誘ってる……わけでは、ないよね。


   そんなわけ……ない。


   ……たまたま、こぼれた?


   たまたまでなければ……なんだと、言うの。


   ……あくまでも、わざとではないと。


   誘ってなんか、いないわ。


   ……なら、タイミングの問題かな。


   だから、たまたまだと……ん。


   ……少し、じっとしていて。


   なにをするつもりなの……?


   ……拭いてあげようと思って。


   なにも、もっていないじゃない……。


   ……持っていなくても、拭けるよ。


   ……。


   ……とりあえず、これはテーブルに置こうか。


   置かない……。


   ……零してしまうかも知れないから。


   あなたが何もしなければ……零すことなんて、ないわ。


   放っておいたら……そのまま、流れてしまうよ。


   もう、流れてしまったわ……。


   ……。


   流れて……とっくに、服に染みてしまった。


   ……然うかな。


   然うよ……。


   ……確かめても、良い?


   確かめなくても……う。


   ……これは、テーブルに。


   いや……。


   ……終わったら、返すから。


   ……。


   亜美ちゃん……。


   ……まこちゃん、だめ。


   確かめて……残っているようだったら、拭くだけだよ。


   ……何で、拭くつもりなの。


   言わなくても……分かるだろ?


   ……あれは、拭くとは言わない。


   じゃあ……拭う?


   ……それも、違う。


   ……。


   ぁ……。


   ……さっき、何度も。


   だめよ……だめ。


   ……なんで、だめ?


   こんなところで……それに、あなたがまだ。


   ……こんなところで、続きはしないよ。


   うそ……。


   ……からだ、痛くなっちゃうだろ?


   ……。


   今はただ……確かめて、拭うだけよ。


   ……どうしても、したいの。


   うん……どうしても、したい。


   ……続きをしないと、言い切れるの。


   言い切れる……続きをするのなら、ベッドに連れて行く。


   ……それって。


   さ……。


   ……。


   ……テーブルに、置こうね。


   まこ、ちゃん……。


   ……どうしても嫌なら、思い切り、突き飛ばして。


   ……。


   ……なんなら、力を使って呉れても良いよ。


   そんな、こと……。


   ……さぁ、早く。


   ば、か……。


   ……残念、タイムオーバーだ。


   ……、……ぁ。


   ……。


   ん……ん……。


   ……脳が、痺れそう。


   なにを、いっているの……。


   ……痺れさせるのは、あたしの筈なのに。


   ね……もう、いいでしょう。


   ……いや、まだだよ。


   あ……っ。


   ……。


   や……ん、だめ。


   ……。


   ……それは、ぬぐうとは、いわない。


   ごめん……すこしだけ、すった。


   ……ほんとうに、すこしだけなの。


   ほんのり、あかくなっただけだよ……。


   ……それは、すこしではないわ。


   だいじょうぶさ……これからもうすこしだけ、ふえるよていだから。


   ……いみが、わからない。


   いみは……う。


   ……もぅ。


   ん……もう、離れる。


   ……。


   ……。


   ……な、に。


   あぁ……いい、かも。


   やだ……あまり、みないで。


   ……いまだけだよ。


   みないで……。


   ……いまだけ、だから。


   ……。


   ……だめだよ。


   はずさせて……。


   ……ううん。


   ……。


   ……これ以上のことは、しないから。


   ただ、みているだけだと……。


   ……ごめんね、亜美ちゃん。


   まこちゃん、の……。


   ……あたし、ばかなんだ。


   ……。


   ……すごく可愛いよ、亜美ちゃん。


   や……いわないで。


   ……こんな亜美ちゃん、初めて見る。


   みせたく、ないの……。


   ……眼鏡を、かけているのに。


   いや……みないで。


   ……もっと、見たくなる。


   だめ……ほんとうに、だめ。


   ……。


   ……。


   ……はずかしい?


   ……。


   わかった……もう、やめる。


   ……ばか。


   ごめんね……。


   ……あやまったって、ゆるしてあげない。


   なみだ……。


   ……。


   ……そんなに、いやだった?


   そう、いった……。


   ……。


   ……みられたく、ないの。


   あたしにも……?


   ……だって。


   だって……?


   ……はしたない、もの。


   はした……?


   ……。


   ……あぁもぅ、可愛いなぁ。


   まこちゃ……ん。


   ……ちょっと、ごめんね。


   めがね……。


   ……すぐだよ。


   ……。


   ……。


   ……もぉ。


   うん……これでいい。


   ……ほんとうに、ゆるしてもらうきはあるの。


   あるけど……涙が、溢れそうだったから。


   ……。


   溢れたら……世界が、滲んじゃうだろ?


   ……むしろ、にじませたい。


   だめだよ……それだと、あたしがぼやけてしまうから。


   ……めがね。


   はい……。


   ……まこちゃんのばか。


   はい、ごめんなさい……。


   ……ゆるしてなんか、あげない。


   怒ってる……?


   ……おこってないと、おもうの。


   思わない……。


   ……。


   ……ごめん。


   はんせい、してる……?


   ……してる。


   でも、ゆるしてあげないわ……。


   ……はい。


   ……。


   ……。


   ……おみず、まこちゃんものんで。


   うん……飲む。


   ……やっぱり、だめ。


   うん……?


   ……新しいのを、空けて。


   間接キス……いや?


   ……。


   ……分かった、持ってくるよ。


   やっぱり、いい。


   ……え、と。


   それは、ゆるしてあげてもいい……。


   そっか……ありがとう。


   ……ちょうしに、のらないでね。


   うん、乗らないよ……。


   ……。


   ……ん。


   ……。


   はぁ……うん、おいしい。


   ……わたし、さきにもどっているわ。


   え?


   ……。


   水、もう良いのかい……?


   ……もう、いい。


   ……。


   ベッドに、もどって……そして、ねるの。


   ……。


   ……おやすみなさい、まこちゃん。


   おやすみ……亜美ちゃん。


   ……。


   ……て、本当に?


   ほんとうに、きまっているでしょう。


   だったら……待って。


   ……いや。


   直ぐに、飲むから。


   ……ゆっくり、のんで。


   亜美ちゃん。


   ……。


   ……置いて行かないでよ。


   ……。


   許されていないのは、分かってる……でも。


   ……そんな声で。


   ……。


   ……眼鏡を、まだ拭いてない。


   え……?


   ……待ってるとは、言わない。


   あぁ……ん、分かった。


   ……。


   ……見てても、良い?


   いつも、思うけれど……。


   ……ん?


   見ていて、面白いものではないと思う。


   ……亜美ちゃんの丁寧さが、良く分かるんだ。


   ……。


   手付きが優しい……。


   ……雑には、扱えないもの。


   だから……見ていたい。


   ……。


   ……水滴を残しておくと、水跡が出来てしまうんだよね。


   然う……だからなるべく早く、拭き取ってあげないといけないの。
   跡になってしまうと、落ちなくなってしまうから。


   ……涙も、然う?


   涙も……然う。


   ……。


   ……。


   ……伏し目が、良いな。


   手付きではなかったの……?


   ……全体的に、良い。


   もう……いいかげんなひとね。


   はは……。


   ……。


   ……つまり、亜美ちゃんの全部が良いってことだよ。


   言わなくて、良いから。


   ……はぁい。


   ……。


   ね……亜美ちゃん。


   ……なに、まこちゃん。


   水……もう少し、飲むだろ?


   ……。


   もう、半口くらい……。


   ……普通に、飲ませて呉れるなら。


   普通……?


   ……。


   ……キスは、普通じゃない?


   どう考えても、普通じゃない。


   あー……はい。


   ……。


   ……うん、やっぱり丁寧だ。


   お水。


   ……。


   ……拭き終わったら飲むわ、半口だけ。


   ん、分かった。


   ……。


   ……やっぱり、どっちも好きだな。


   まこちゃん。


   へへ……はぁい。


   ……まだ、許してないんだからね。   


  14日





   ……。


   ……


   亜美ちゃん……。


   ……まこちゃん。


   どこへ行くんだい……?


   ……どこにも。


   ん……少し、声が掠れてる?


   ……だから、潤したくて。


   そっか……なら、何か飲もうか。


   ……まこちゃんは。


   あたしも、喉を潤したい……。


   ……。


   ……寝てると、思った?


   ううん、思ってない……。


   ……それなのに、そっと抜け出そうなんて。


   つかまるなら……。


   ……と。


   それで良いと、思っていたの……。


   ……若しかして、期待してた?


   ……。


   ……肯定と、見做しても?


   ええ……良いわ。


   ふふ……なら、然うする。


   ……。


   着るのは、上だけで良い……?


   ……それより。


   ん……?


   ……眼鏡が見当たらないの。


   眼鏡……?


   ……いつもの場所になくて。


   いつもの場所に置いたと思ったけど……見ようか。


   ……お願いしても良い?


   うん、任せて。


   ……。


   んー……うん。


   あった?


   うん、いつもの場所よりもやや右側に。
   暗いから、分からなかったんだね。


   ……ちゃんと置くことが出来なかったから。


   ……。


   誰かさんのせいで。


   ……誰かな。


   他の誰かが良いの?


   ……あたしです。


   おかげで、ケースにしまうことも出来なかった。


   そういや、ケースはどこに。


   ……テーブルの上。


   ケースにしまわないの、珍しいよね。


   ……誰のせいだと思っているの?


   はい、待ち切れなかったあたしのせいです。


   ……後で、拭いておかないと。


   そっか、拭く暇もなかったんだっけ。


   ……まこちゃんのせいでね。


   ごめんなさい。


   ……。


   眼鏡……どう?


   ……心配?


   うん、まぁ。


   ……大丈夫、歪んではいないわ。


   そっか……良かった。


   ……その前に、外したから。


   ……。


   ……もう、あんなことは止めてね。


   うん……気を付ける。


   ……気を付けると言うより、初めからやらないで。


   んー……。


   ……約束が出来ないのだったら。


   あたしの顔を、見て欲しかった。


   ……。


   ぼやけたあたしの顔でなく……。


   ……そんなことだろうとは、思っていたけれど。


   亜美ちゃんは、ぼやけたままでも良いの……?


   ……ずっと、然うしてきたもの。


   ずっと然うしてきたからこそ、はっきりしたものが見たいと……然うは、思わない?


   ……。


   思わない……かな。


   ……眼鏡は、だめ。


   コンタクトなら……。


   ……それも、目に良くない。


   なら……どうすれば。


   ……私は、ぼんやりとしていた方が良いの。


   あたしの顔、はっきりとは見たくない……?


   ……見たくないわけではないわ。


   なら……さ。


   ……ただ、クリアになるのが怖いだけ。


   怖い……?


   ……あとは、単純に。


   うん……。


   ……言わない。


   え、なんで。


   ……言いたくないから。


   あー……。


   ……それでも、聞き出す?


   いや……言いたくないことを、無理に言わせるようなことはしたくない。


   ……なら、言わない。


   ん……分かった。


   ……。


   えと……怖いと思う理由は。


   ……明確になるのが怖い、ただそれだけ。


   それは、つまり……あたしの顔を見るのが、怖いということ?


   ……。


   然う、なんだ……。


   ……あなたの顔は、怖くないわ。


   ……。


   ……あなたの肩越しに見えるものが、怖いだけ。


   あたしの肩越し……天井?


   ……だったら、良いのだけれどね。


   ……。


   ……私にとって、世界は滲んで見えるから良いのよ。


   滲む、世界……?


   ……ぼんやりと、ね。


   ……。


   例えば、教室……みんなの顔がぼやけていたから、私はあの場所に居られた。


   ……はっきりと見えるのは、黒板だけで良い。


   更に言えば、黒板に書かれた文字や図……それだけが、見えれば。


   ……。


   世界は、矯正されている時にだけ見えれば良い……ずっとだと、心が疲れてしまうの。


   ……今も、然う?


   なかなか、変われそうにないわ……。


   ……そっか。


   だけど、そのせいで……。


   ……。


   あなたの顔も、滲んでしまう……それに関しては、謝ることしか出来ない。


   ……亜美ちゃん。


   ごめんなさい……まこちゃん。


   ううん、良いんだ……謝らないで。


   あなたに……その、抱かれている時は……線がはっきりとした世界は、見たくないの。


   ……あたしの顔が見たくないわけではないんだよね?


   ええ……決してないわ。


   ……なら、良い。


   ……。


   もう、求めない。


   まこちゃん……。


   と言っても、しないわけではなくて……そんなの、無理だし。


   ふふ……分かっているわ。


   亜美ちゃんが、大丈夫だと思えるようになるまで。


   ……ならないかも知れない。


   それならそれで、構わないさ……。


   ……。


   ね……これからも変わらず、あたしを求めて呉れるだろう?


   ……求めないなんて、出来ない。


   ……。


   待ってて、呉れる……?


   ……待ってるよ。


   ……。


   待ってるから……む。


   ……眼鏡、外す。


   あぁ……。


   ……。


   眼鏡をしたままキスをするのって、案外難しいよね……触れる程度なら、良いんだけれど。


   ……一言で言えば、邪魔なの。


   あたしは……そこまでは、言わないけど。


   ……あなたが言わないから、私が言うわ。


   はは……そっか。


   ……。


   ん……亜美ちゃん。


   ……やっぱり、邪魔。


   出来ないわけでは、ないのだけれど……。


   ……眼鏡は、ない方が良い。


   だよね……。


   ……。


   ん、なに?


   ……キスをしないのなら、かけたままで良いと思って。


   外すのは……また後で?


   ……眠る時は、外すわ。


   まぁ、然うなんだけどね……。


   ……眼鏡を、していなくても。


   うん……?


   ……この距離なら、はっきりと見える。


   ……。


   ……。


   ……このまま、キスが出来そうだ。


   だから……キスをする直前に、そっとあなたの顔を見るの。


   ……え?


   目を開けると……目を瞑っているあなたの顔が、はっきりと見えて。


   ……。


   ……震える睫毛すら。


   亜美ちゃん……ずるいよ。


   ……まこちゃんだって、見てるくせに。


   ……。


   分からないと、思った……?


   ……亜美ちゃんには、敵わない。


   ふふ……。


   でも、あたしは……その、たまにだよ。


   私も、たまによ……?


   ……む。


   それにあなたは……いつだって、明確に見えているでしょう?
   この距離でなくても……ね。


   ……然う、だけど。


   だけど……なぁに?


   ……うん、見えてる。


   ぁ……。


   ……あたしに抱かれている時の、亜美ちゃんの表情も。


   ……。


   はっきりと、見えているよ……。


   ……もぅ、言わないで。


   亜美ちゃんが見えているでしょうって言うから……見えてるよって、返しただけだよ。


   ……返して呉れなくても、良かったの。


   言われたいのかなって……。


   ……分かっているから。


   分かっていても……。


   ん……や。


   ……言いたかった。


   まこ、ちゃん……。


   ……今夜はまだ、始まったばかりだ。


   然うでも、ない……。


   喉を潤したら……また、ね?


   ……何回、するの。


   何回でも……と、言いたいところだけれど。


   ……。


   あと、二回くらいかな……。


   ……一回では、ないのね。


   予定は、未定……?


   ……答えになってない。


   はは……。


   ……見えているから。


   ん、何が……?


   ……緩み切った顔。


   あぁ……この距離なら、見えるんだったね。


   ……。


   ……ん、あれ。


   なに……?


   ということは……意外に、見えてたりする?


   ……気付くのが、遅い。


   ……。


   何か、言いたそう……?


   んーん……鈍いあたしが悪いなって。


   ……。


   う……。


   ね……何か、飲みたいの。


   あぁ……何が飲みたい?


   あまり冷たくないのが、良いわ……。


   あまり冷たくない……?


   ……お腹を冷やしたくないの。


   そっか……うん、分かった。


   ……。


   取り敢えず、上を羽織って。


   ……ん、ありがとう。


   うん、どういたしまして。


   ……。


   ……じゃあ、お先に。


   待って……私も行くわ。


   ……じゃ、一緒に。


   ん。


   ……。


   ……ね、まこちゃん。


   なぁに、亜美ちゃん。


   ……ぬいぐるみ、今でも大事にしているの。


   ……。


   ……中学生の頃、クレーンゲームで取って呉れた子。


   亜美ちゃんに大事にしてもらえて……この子も、しあわせそうだよ。


   ……。


   大事にして呉れてありがと……亜美ちゃん。


   ……まこちゃんも、大事にして呉れてたのよね。


   勿論さ……亜美ちゃんと、お揃いなんだから。
   雑になんか、扱うわけない……。


   ……。


   ……あたしの子も、しあわせそうに見えるだろう?


   うん……。


   今では、ふたつ並んで……もっと、しあわせそうだ。


   ……。


   あたし達と同じように……ね。


   ……うん。


   でも、急にどうしたいんだい?


   ……なんとなく、懐かしくなって。


   懐かしく……?


   ……若しかしたら、昔の夢を見たのかも。


   一瞬……?


   ……然う、一瞬。


   ……。


   ……。


   ……また、行こうか。


   え……?


   ゲーセンに、クレーンゲームをしに。


   ……また、可愛い子を取りに?


   然う……ね、どうだろう?


   ……居たら、またお揃いにするの?


   取れたら、ね。


   ……。


   久しぶりに、行ってみない……?


   ……行く。


   じゃ……次の休みにでも。


   ……ん。   


  13日





   あ、いたいた。


   ……。


   おーい、亜美ちゃーん。


   ……。


   亜美ちゃん?


   あ、まこちゃん……。


   ね、今日も一緒に帰ろ。


   う、うん。


   ん?


   ごめんなさい、少しだけ待っててもらってもいい?


   うん、いいよ。
   ここで待ってる。


   ん。


   ……。


   ……。


   ……眼鏡、どうかしたのかな。


   ん……これで良し。


   んー……。


   お待たせ、まこちゃん。


   大丈夫、ちっとも待ってないから。
   さ、帰ろ。


   ふふ……うん。


   ね、今日もこのまま塾に行くのかい?


   ……。


   もしかして、今日はお休み?
   そしたらさ、


   ……ごめんなさい、今日もお休みではないわ。


   あ、そっか……まぁ、そうだよね。


   ……もしも、塾がお休みだったら。


   たまにはふたりでゲーセンに行けたらなって思ったんだ。


   ゲームセンター?


   うん。


   でもまこちゃん、あまりゲームはしないわよね?


   ぬいぐるみを取りに行こうと思って。


   ぬいぐるみ?


   そ、クレーンゲームで可愛い子を見つけたんだ。
   取れるかどうかは分からないけど、チャレンジしなきゃ取れるものも取れないだろ?
   だからさ、亜美ちゃんと一緒に行けたらなっていいなって。


   私、役に立たないと思うわ。


   役に?


   私では、まこちゃんの力にはなれないと思うし。


   亜美ちゃん、何を言ってるんだい?


   ……え?


   役に立つとか、力になれないとか、そんなんじゃなくてさ。
   あたしは亜美ちゃんとふたりでゲーセンに行って、クレーンゲームがやりたい。
   結果的に欲しいぬいぐるみが取れなかったとしても、ふたりなら楽しいと思うんだ。


   ……取れなくても?


   ま、少しは悔しいかもしれないけどさ?


   ……あの、まこちゃん。


   なんだい、亜美ちゃん。


   今日は難しいけど……明日の放課後なら。


   ふたりで行ける?


   ……ん。


   やった!


   ……。


   ね、楽しみにしててもいいよね?


   ……うん、私も楽しみにしてる。


   ふふ、嬉しいなぁ。


   ……。


   もしもふたつ取れたらさ、ひとつは亜美ちゃんの子、もうひとつはあたしの子にしようよ。


   ふたつともまこちゃんの子にしなくていいの?


   うん、亜美ちゃんとお揃いにするんだ。


   ……。


   あ、亜美ちゃんはぬいぐるみに興味ない?


   ううん……そんなことない。


   じゃあ、受け取ってくれる?


   ん……喜んで。


   ふふ、ますます楽しみになってきちゃった。
   絶対、ふたつ取るんだ。


   ……ね、私とふたりで本当にいいの?


   うん、亜美ちゃんとふたりで行きたいんだ。


   ……。


   あたしとふたりでは、退屈かい?


   ……退屈では、ないわ。


   なら明日の放課後、ふたりで遊びに行こう。


   ……うん、まこちゃん。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、亜美ちゃん。


   なぁに、まこちゃん。


   話は、変わるけどさ……何かあった?


   え?


   なんとなく、なんだけどさ。


   ……どうして。


   眼鏡……真剣な顔をして、見てたような気がするんだ。


   ……。


   眼鏡に、何かあったの?


   ううん……大したことではないの。


   本当に?


   ……少し、悩んでいただけ。


   悩む?


   ……自分で出来ないかなって。


   何をするの?


   ……眼鏡の調節。


   調節って……眼鏡、あまり良くないのかい?


   うん……少し見え辛くて。


   え、それは大変だ。


   そんな大袈裟なことではないの。
   調節すれば、ちゃんと見えるようになる筈だし。


   眼鏡の調節って、自分で出来るものなのかい?


   ……出来ないと思う。


   なら、お店に持って行った方が良くない?


   ……そうなのよね。


   調節してもらうのって、お金がかかるの?


   ううん、かからないわ。


   じゃあ、これから持って行こう。
   そういうのは早い方がいいからさ。


   ……。


   塾までまだ、時間はあるよね。


   ……ある、けど。


   あたし、一緒に行くよ。


   え。


   あ、邪魔かな。


   う、ううん、邪魔ではないわ。
   でも、いいの?


   うん、行ってみたいと思ってたんだ。


   ……。


   眼鏡屋さんに。


   ……行ってみたいの?


   行ったことがないから、興味があってさ。


   まこちゃん、眼鏡に興味があるの?


   眼鏡にと言うより、眼鏡屋さんにかな。
   なかなか入る機会がないからさ。


   ……確かに、ないとは思うけど。


   亜美ちゃんは良く行くの?


   良くではないけれど……フレームの調整やレンズのクリーニングで行くことはあるわ。
   ずっと使っていると、フレームが広がったり歪んだりしてしまうから。


   へぇ、そうなんだ。
   眼鏡って、結構手間がかかるんだね。


   うん……そうなの。


   クリーニングもしてもらえるのか。
   じゃあ、レンズもぴかぴかになっちゃうね。


   ふふ……うん、なるわ。
   クリーニングをするとね、眼鏡拭きでは拭き切れないところもきれいになるの。


   お、それはいいね。


   レンズがきれいになると、世界がクリアになったようで。


   うんうん。


   ……だけど、実際はそうではないの。


   うん?


   ……一度付いた傷は、消えないから。


   あ、あぁ。


   ……ごめんなさい、何を言っているのかしら。


   う、ううん、あたしは別にいいけど。


   ……ね、まこちゃん。


   な、なんだい?


   本当に付き合ってくれるの?


   うん、亜美ちゃんがいいって言ってくれるなら。


   ……お買い物は大丈夫なの?


   大丈夫大丈夫、問題ないよ。
   なんせ、ゲーセンに行きたいと思ってたくらいなんだから。


   ……。


   一緒に行ったら、だめかな。


   ううん……一緒に来てくれるなら、嬉しい。


   なら、一緒に行く。


   ……ん。


   ふふ、楽しみだなぁ。


   ……。


   ねぇ、亜美ちゃん。


   ……なに?


   眼鏡ってさ、どうやって買うの?


   え……お金を出して、だけど。


   あ、それは流石に分かる。
   あたしが聞いているのは、その、レンズ?


   あ。


   それって、視力に合わせて作るんだろ?


   ご、ごめんなさい。


   うん、なんで?


   まこちゃんが知りたいのは、眼鏡の作り方よね?


   そうそう、作り方。
   どうやって作ってもらうんだい?


   私の場合は、眼医者さんで処方箋を発行してもらったの。


   しょほーせん?


   患者さんの病気の治療に必要なお薬の種類や量、服用法が書かれている書類のこと。


   眼鏡を作るのにも、その、しょほーせんが必要なのかい?
   眼鏡は薬ではないだろ?


   確かに眼鏡はお薬ではないけれど、レンズを使って視力を補正する器具だから。
   正確な眼鏡を作る為に、お医者さんに書いてもらうの。


   そっか、自分に合わない眼鏡なんか作っちゃったら大変だもんな。


   合わない眼鏡は、本当に意味をなさないから。


   じゃあさ、しょほーせんがないと眼鏡は作ってもらえないってことだね。


   ううん、眼鏡屋さんでも視力測定は出来るから。


   ……うん?


   眼鏡屋さんで視力を測って、それで作ってるもらうひとはいるみたい。


   え。


   実は眼医者さんに行かなくても、眼鏡は作れるの。


   しょほーせん、いらないの?


   うん、必須ではないから。


   なら、行かない方が楽だね?


   そうね。


   でも、亜美ちゃんは眼医者さんに行ったんだね。


   私はまだ、子供だから。


   子供?


   中学生以下の子供は、眼医者さんで視力を測ってもらった方がいいんだって。


   それは、なんでだろ。
   大人と違って、大きくなるから?


   子供の眼はピントの調節力が強くて、一時的に近視になっている場合があるらしいの。
   だから、正確な度数を測定する為に、眼医者さんで調節力を抑える目薬を点眼してもらう必要があるの。
   眼鏡屋さんだと、そこまでは分からないから。


   はぁ……なんか、大変なんだね。


   大人になってしまえば、いいのだけれどね。


   中学生以下ということは、あともう少しでそうじゃなくなるけど。


   でも、私は眼医者さんに行くと思う。


   それは、なんで?


   視力検査の他に、眼の基本的な検査を受けられるから。
   眼医者さんだと視力だけでなく、目全体の健康状態を確認することが出来るの。


   視力検査以外のこともするの?


   ん。


   大変じゃない?


   時間はかかるけれど、痛いわけではないから。


   そっか、痛くないならまだいいかな。


   眼鏡は頻繁に作るものではないから、定期健診だと思って行こうかなって。


   なるほど、亜美ちゃんらしいや。


   私らしいかしら。


   うん、真面目な亜美ちゃんらしい。


   ……。


   ……?
   亜美ちゃん?


   ……私ね、見えなくなってしまうのが何よりも怖いの。


   見えなく……?


   ……もしも、これ以上悪くなったらって思うと。


   ……。


   目が見えなくなってしまったら……本も読めなくってしまうし、お勉強も出来なくなってしまうわ。
   そうなったら……お医者さんになる夢だって、叶えられなくなってしまう。


   亜美ちゃん……。


   ……まこちゃんの顔を見ることだって。


   ごめん。


   ……え?


   亜美ちゃんらしいなんて、軽いことを言って。


   ……。


   ごめんね、亜美ちゃん。


   ……ううん、気にしないで。


   だめだよ、気にしなきゃ。
   じゃなきゃ、また同じことを言っちゃうかもしれないから。


   ……。


   だから……ごめんね。


   まこちゃん……うん。


   許してくれる……?


   ……ん、許すわ。


   ありがとう。


   ……あ。


   亜美ちゃん。


   ま、まこちゃん。


   ……。


   ……あの、近いわ。


   亜美ちゃんの瞳って、きれいだよね。


   ……え。


   前から思ってたんだ。


   ……そんな。


   本当だよ。


   ……。


   とても、きれいで……まるで、青い宝石みたいなんだ。


   ……あと、ね。


   ん……?


   ……眼鏡を初めて作る時も、眼医者さんに行った方がいいみたい。


   なら……あたしが眼鏡を作る時は、眼医者さんに行かないとだね。


   ん……行った方が、いいと思う。


   よし、覚えておこうっと。


   あの……そろそろ。


   うん、名残惜しいけど。


   ……。


   ね……また、見せて欲しいな。


   ……っ。


   あたし……亜美ちゃんの目が、本当に好きなんだ。


   ま、まこちゃん……。


   ……気が向いたらで、いいからさ。


   う、ん……。


   ……やった。


   ……。


   いやだったら、無理しないでいいからね……。


   ……あの、ね。


   うん……。


   ……まこちゃんの、瞳。


   あたしの瞳……?


   ……。


   亜美ちゃん……?


   ……ごめんなさい、なんでもない。


   あ、うん……そっか。


   ……。


   ……期待、しちゃった。


   え……?


   んーん……なんでもないよ。


   ……。


   眼鏡、ちゃんと直るといいね。


   ……うん、きっと直してくれると思う。


   ……。


   ……。


   ……え、と。


   前に、一度だけね……。


   ……。


   ……眼鏡をしたまま、部屋のドアにぶつかったことがあって。


   え、なんでまた。


   その……ぼんやりしてて。


   怪我はしなかったかい?


   怪我は……しなかったけれど。


   けれど?


   ……かけてた眼鏡が外れて、おまけに左のレンズまで外れてしまって。


   えっ。


   ……割れなくて良かったのだけれど、それはそれで吃驚してしまって。


   それは、吃驚する……なんで外れたんだろ。


   ……ねじが、緩んでいたらしいの。


   ねじが……?


   ……でなければ、簡単に外れる筈はないから。


   外れて、それで、どうしたの?


   自分ではどうにも出来ないから、眼鏡屋さんに持って行って。


   直してもらった?


   うん……。


   そっかぁ、良かったねぇ。


   ……眼鏡を、外していたから。


   あ、もしかして見え辛かった?


   見え辛いと言うより……世界が、ぼんやりと見えて。


   世界が、ぼんやり……。


   ……信号なんて、本当にぼやけていて。


   はぁ……良かった。


   ……え?


   亜美ちゃんが、事故に遭わないで。


   ……。


   本当に、良かった……。


   ……ありがとう、まこちゃん。


   ……。


   心配、してくれて。


   ……当たり前だろ。


   ん……まこちゃん。


   亜美ちゃんは……大切な友達なんだから。


   ともだち……。


   ……そう、あたしの大切な友達。


   ……。


   ぼんやりしてちゃ、だめだよ……。


   ……ん、気を付けるわ。


   亜美ちゃん……意外と、ぼんやりしてるところがあるから。


   ……知ってたの?


   知ってると言うより……そうかなって。


   ……。


   ……あたしがそばにいる時はいいけど、ひとりの時は本当に気を付けてね。


   どうして……まこちゃんがそばにいる時は、いいの。


   ……あたしが、守るから。


   まもる……?


   ……あたしは、ジュピターだから。


   ……。


   亜美ちゃんを……マーキュリーを、守るんだ。


   ……プリンセスで、なく。


   プリンセスも守る……だけど、マーキュリーも守る。


   ……。


   ……もう二度と。


   眼鏡屋さん……。


   ……え。


   場所、言ってなかったわ……。


   あぁ……そういえば、聞いてないや。


   ……。


   どこにあるんだい……?


   ……眼鏡屋さんは。


  12日





   ……。


   ……ん、なに。


   あ、駄目だったか。


   なに……まこちゃん。


   眼鏡、かけっぱなしだと危ないよ。


   ……あぁ。


   つけっぱなしで寝ちゃうと、フレーム、歪んじゃうんだろ?


   うん……然うなの。


   そのたびに眼鏡屋さんに行って、直して貰ったとか。


   ……まこちゃんにも付いてきて貰ったこと、何度かあるわよね。


   あはは、あるねぇ。


   ……今でも。


   うん、今でも。
   眼鏡屋さんってさ、なんか面白いんだよね。


   ……私は、眼鏡屋さんを面白がるまこちゃんが面白いと思う。


   眼鏡のフレームにもちゃんと流行りのデザインがあるんだなぁって。
   男性用、女性用、子供用、細長かったり、太かったり、楕円だったり、丸かったり、四角っぽかったり、それから色も何種類もあるじゃない?
   この形はおじいちゃんが、こっちは仕事が出来そうな女性、あ、これは亜美ちゃんに似合いそうとか。
   そんなことを色々考えながら眺めていると、本当に楽しくてさ。


   まこちゃんに言われるまま、何度か試しにかけたことがあるわ。


   うん、何度か試しにかけて貰った。


   フレームの色……水色のものもあった。


   あのデザインも、亜美ちゃんにとても似合っていたよ。
   色もだけれど、亜美ちゃんはやっぱり四角っぽいのより、丸めの方が似合うなって。


   ……まこちゃんは、然う言って呉れたけれど。


   まぁ、亜美ちゃんの好みに合わなければね。


   ……私に似合うとは、思わなかったの。


   ん?


   ……どちらかと言うと、可愛らしいデザインだったから。


   ……。


   野暮ったい私にも、こういうデザインが似合うんだって。


   亜美ちゃんは野暮ったくなんかないよ。
   ただちょっぴり、自分に自信がないだけさ。


   ……まこちゃん。


   今は、違うだろ?


   ……今も、あまりないわ。


   ん……そっか。


   でもね……次に作る時は、こういうのでも良いかなって。


   思って呉れたの?


   ……うん。


   それは、いつ?
   今?


   ……ううん、まこちゃんに似合うよって言われた時。


   ということは……試しにかけた時?


   ……うん。


   然うだったんだ。


   ……あの時は、言わなかったけど。


   うん、言われなかった。反応もいまいちだったからさ。
   だからあたしはてっきり、全然好みじゃなかったんだって。


   ……だって、恥ずかしかったんだもの。


   ……。


   まこちゃん……亜美ちゃんに良く似合っていてとっても可愛いよ、なんて言うから。


   あぁ。


   ……店員さんに見られていて、本当に恥ずかしかったのよ。


   屹度、微笑ましく思っていたんだよ。
   それか、店員さんも亜美ちゃんに良く似合っていて可愛いと思って呉れてたのかも知れない。


   ……。


   亜美ちゃん。


   ん……まこちゃん。


   亜美ちゃんは、今でもとっても可愛いよ。


   ……もぅ。


   ふふふ。


   ……次に作る時は、一緒に来て呉れる?


   勿論さ。


   ……でも。


   ん?


   あまり可愛い可愛いって、お店では言わないでね。


   分かった、三回くらいにしとく。


   ……。


   もっと多い方が良い?


   ……ううん、三回くらいで。


   ん、分かった。
   なるべく、三回くらいに抑える。


   ……抑えて。


   帰ってきたら、何度だって言っても良いんだよね?


   ……。


   家なら店員さんは居ないし、ふたりきりだし。
   ね、良いだろう?


   ……もぉ、まこちゃんは。


   あれ、だめ?


   ……程々にして。


   程々?


   ……然う、程々。


   程々かぁ……ん、分かった。


   ……はぁ。


   楽しみかい?


   ……ええ、とても。


   はは、それは良かった。


   ……何度、言われることになるのかしら。


   何度でも、数えるのが嫌になるくらい?


   ……お願いだから、程々にして。


   はぁい。


   ……。


   ははは。


   ……本当、まこちゃんは。


   亜美ちゃんのことが、好き。


   ……。


   あと、眼鏡屋さんと言えばさ。


   ……なに。


   眼鏡を調節する店員さんの手元を見てるのも面白いんだよね。


   あぁ……分からないわけではないけど。


   あと、調節されたのを試しにかけてる亜美ちゃんも。


   ……いつも思うのだけれど、面白いかしら。


   面白いと言うより、真剣な亜美ちゃんを見るのが好きなんだ。
   こう、ちょっとした感触の違いなんだろうなぁって。


   ……大事だから。


   あの真剣さは、眼鏡屋さんでしか見られない。


   違うもの?


   うん、微妙に違う。


   ……分からないわ。


   多分、あたしにだけ分かるんだ……。


   ん……まこちゃん。


   ……ね、憶えてるかい?


   なにを……?


   ……あたしが初めて、眼鏡屋さんに付いて行った時のこと。


   あぁ……うん、憶えているわ。


   未だ、中学生だった。


   ……ええ。


   あの時の亜美ちゃん、神妙な顔をして眼鏡を見ていたからさ……どうしたのかと思ったんだよ。


   あの時は……目とレンズの焦点のポイントがずれてしまって。
   暫く、調節に行けていなかったから……。


   ずれちゃうと、見辛くて疲れやすくなっちゃんだよね。


   ……お勉強にも、集中出来ないし。


   そうそう……そんなこと、言ってた。


   まこちゃんに見られた時は……自分で調節出来ないか考えていたの。


   だけど結局、眼鏡屋さんに行った。


   ……まこちゃんが眼鏡屋さんに行ってみたいと言ったから。


   いやぁ、だって行ったことなかったからさ。
   どんなところなのかなぁって、興味があって。


   目が良いのに眼鏡屋さんに興味があるひとなんて、居るとは思わなかった。


   外から見ると、なんだかきらきらして見えたんだよね。


   ……見えるかしら。


   あの時は、見えたんだ。
   今は、まぁ、普通かな。


   ……。


   言って呉れたら……いつでもまた、一緒に行くからね。


   ……うん。


   良かった……来なくて良いって、言われなくて。


   ……そんなこと、言わないわ。


   ふふ……そっか。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   なんだい……亜美ちゃん。


   ……外して呉れようと、したの?


   え……?


   ……さっき。


   あぁ……うん、だけど失敗しちゃた。


   ……ありがとう、まこちゃん。


   ううん。


   ……。


   ……ね、亜美ちゃん。


   なぁに……まこちゃん。


   そろそろ……お休み、しない?


   ……。


   少し、早いかも知れないけれど……どうかな。


   ……未だ少し、早いわ。


   あぁ、うん……然うだよね。


   ……けど。


   けど……?


   ……今夜はもう、お休みしても良いかも知れない。


   ……。


   ……まこちゃんは、お休みする支度は出来ているの?


   ほとんど、出来てる……。


   ……ほとんど?


   あとは、亜美ちゃんだけだ……。


   ……


   亜美ちゃんだけだよ……。


   ……然う。


   ……。


   ……先に、行っていて。


   先に……?


   片付けたら……必ず、行くから。


   いつ、来て呉れる……?


   ……そんなには、待たせないわ。


   ……。


   まこちゃん……?


   ……一緒に、行きたいな。


   信用、出来ない……?


   ううん……然うじゃないよ。
   先に行って、ベッドの中で待っているのも楽しいから。


   ……だったら。


   それでも、今夜は……一緒に、行きたい。


   ……。


   ……だけど、亜美ちゃんが先に行ってて欲しいと言うのなら。


   まこちゃん。


   ん……亜美ちゃん。


   ……直ぐに、支度をするから。


   ……。


   ……待っていて。


   あぁ……分かった、待ってる。


   ……。


   ……今夜も、綺麗だ。


   もぅ……何を言っているの?


   ……本当のことだよ。


   さっきまでは、可愛いと言っていたのに……。


   ……さっきは、さっき。


   子供みたいことを……。


   ……未だ、成人ではないから。


   ……。


   ……また、言うよ。


   なにを……。


   ……可愛いって。


   ……。


   ……この後、可愛い姿を見せて貰えると思ってるんだ。


   ばか。


   ……はは。


   そんなに、甘やかして……。


   ……悪いかい?


   悪いわ……。


   ……どうして?


   己惚れてしまうから。


   ……良いじゃないか。


   だめよ……。


   ……自分に自信を持つのは、良いことだと思うんだ。


   ……。


   ね……然うだろう?


   ……自惚れと自信は、違うから。


   違いが分かっているのなら……問題ないさ。


   ……まこちゃんは、私のことを買い被り過ぎてる。


   亜美ちゃんは、自分に厳しいところがある……。


   ……ぁ。


   だから……どうしても、甘やかしたくなっちゃうんだ。


   ……どんな理屈なの。


   厳しいばかりじゃ、疲れちゃうからさ……。


   ……。


   ……亜美ちゃん。


   まこちゃん……まだ。


   ……いつまでも、待てるけれど。


   髪の毛……。


   ……出来れば、早く。


   それは、待てるとは言わない……。 


  11日





  -滲む世界(現世1)





   亜美ちゃんってさ。


   ……ん。


   視力、今いくつ?


   ……それは、どちらの。


   どちらのって?


   裸眼……それとも、矯正。


   んー……じゃあ、裸眼で。


   ……じゃあって。


   ね、いくつ?


   ……矯正を必要とする視力。


   その答えは、ちょっと意地悪だなぁ。


   ……別に、意地悪をしているわけではないわ。


   だってさ、矯正を必要とする視力なんて、あたしが知っていると思うかい?


   ……思う。


   む。


   ……まこちゃんなら、知ってる。


   ……。


   ……だから、意地悪には当たらない。


   やっぱり、意地悪だ……。


   ん……まこちゃん。


   あたしは、亜美ちゃんの正確な視力が知りたいんだ……矯正が必要になる視力を知っていたところで、それが分かるわけじゃない。


   そんなの……聞かれたことなんて、今までなかったのに。


   ……だから、今聞いているんだよ。


   ん……だめ、止めて。


   眼鏡って、高いんだっけ……。


   ……レンズもフレームも、安いものではないわ。


   だよねぇ……。


   ……まこちゃん。


   あたしが弁償するのは、ちょっと……いや、大分難しいな。


   ……レンズを作るとなると、手間が掛かるの。


   もう一度、視力検査をしなければならない……?


   それだけじゃない……私の右目は、軽い乱視が入っているから。


   ……乱視?


   角膜や水晶体の形状の不規則さが原因で発症する、目の屈折異常のこと。


   ……ええと。


   簡単に言うと……目の焦点が合わないから、ぼやけたり、二重に見えたりするの。


   それは、近視とは違うのかい?


   近視は、遠くのものが見えないことを言うでしょう?


   うん。


   乱視は距離の問題ではなく、そもそも目の焦点が合っていないの。


   然うなんだ……。


   そこまでは酷くはないのだけれど……それでも、矯正をしていないと見え辛い時があるから。


   ……左目は、乱視ではない?


   ええ、違うわ。


   そっか……良かったね。


   まぁ、ね……。


   ……乱視が入っていると、レンズは。


   右目用のレンズは、近視だけのものより高いの。


   乱視は、眼鏡で矯正出来るんだよね。


   ん……一応ね。


   ……。


   まこちゃん?


   ん……知らなかったなって。


   乱視のこと?


   ……乱視も、だけれど。


   ……。


   亜美ちゃんはずっと、近視だけだと思ってた。


   ……目のことは、誰にも話していないから。


   どうして教えて呉れなかったの?


   ん……聞かれなかったから、かしら。


   ……。


   ……ん、まこちゃん。


   今の裸眼視力は、いくつ……?


   ……どうしても、知りたいの?


   聞かないと、教えて呉れないなら。


   ……。


   言いたくない……?


   ……然ういうわけでは、ないけれど。


   ないけれど……?


   ……まこちゃんの今の視力を教えて呉れたら、教える。


   あたしの視力?


   ……然う、まこちゃんの視力。


   分かった、教えるよ。


   ……。


   確か右目が1.5で、左目も1.5だったかな。
   小学生の頃から、変わらないんだ。


   ……良い目ね。


   うん、亜美ちゃんが遠くに居ても見つけられるよ。


   ……。


   ん、亜美ちゃん……?


   ……私は屹度、見つけられない。


   え?


   まこちゃんが遠くに居たら……裸眼では、屹度。


   ……別に、裸眼でなくたって良いだろう?


   ん……。


   その為の……眼鏡、なんだからさ。


   ……。


   コンタクトレンズもあるし……ちゃんと、見つけられる。


   ……なかったら、見つけられないわ。


   大丈夫だよ。


   ……何が、大丈夫なの。


   あたしが亜美ちゃんを見つけて、亜美ちゃんの傍に来れば良い。


   ……。


   然うすれば……見えるだろ?


   ……それだと、見つけて貰うばかりになってしまうわ。


   それの、何が悪いんだい……?


   ……まこちゃんばかり。


   良いじゃないか……あたしは、全然構わないよ。


   ……まこちゃんは然うでしょうけど、私は構うの。


   まぁ、然うか……して貰うばかりだと、歯痒くなるもんな。


   ……まこちゃんが眼鏡を必要とする日なんて来るのかしら。


   そりゃあ、来ると思うよ。


   ……老眼?


   然う、それ。


   ……来なさそう。


   歳を取ったら、みんな、老眼になるものなんだろ?


   ……老いることが出来れば、ね。


   だったら。


   ……私達の未来は、決まっているから。


   あたし、思うんだけどさ。


   ……なに?


   長く生きることになったとしても、歳は取ると思うんだよね。


   然うだけれど……躰の加齢は、止まってしまうから。


   ……。


   ……私達は、老いることなく。


   本当に、然うかな。


   ……どういう意味?


   そのままの意味だよ。本当に老いることはないのかなって。
   ほら、前世は寿命を迎える前に、終わってしまっただろう?


   ……然うだけれど。


   それに今のあたし達は生粋の地球人だ。
   地球人と月の民じゃ、躰の構造とかが少し違うかも知れない。


   ……違ったとしても。


   それにさ、未来のあたし達の老後の姿なんて、未だ見たことがないだろ?
   つまり、長く生きたことで躰がどうなっているかなんて、全然知らないわけだ。


   ……確かに。


   だとしたら……然う、銀水晶の力が弱まって、老眼くらいにはなっているかも。


   ……弱まるものなのかしら。


   前世の世界では、女王は代替わりをしてた。
   それってつまり、寿命が近付くと力が弱まるからじゃないのかな。


   ……まこちゃんは、老眼になりたいの?


   いや、あまりなりたくない。
   見え辛いのは、不便だろうし。


   それなのに、どうしてそんなに……。


   ん?


   楽しそうに、話すの?


   考えると、楽しいからだよ。


   あまりなりたくないのに?


   あまりなりたくないけど、亜美ちゃんとの未来の可能性のひとつだと思うと楽しくなる。


   ……。


   老眼の眼鏡……老眼鏡、だっけ?


   ええ、然うよ。


   どちらが先にかけるようになるかな。


   ……私だと思う。


   目が良くないから?


   ……うん。


   案外、あたしかも知れないよ。


   ……然うかしら。


   亜美ちゃんが先だと決め付けることは、今の段階では出来ない。


   ……。


   あたしが亜美ちゃんよりも先に老眼鏡をかけるかも知れないという可能性を完全に否定出来ない限り、ね。


   ……完全には、出来ないわ。


   ふふ、然うだろう?


   ……若しも、まこちゃんが先だったら。


   取り敢えず、眼鏡を扱い方を教えて貰っても良いかな。


   それは……後でも。


   ね、あたしにはどんな眼鏡が似合うと思う?


   ……え、と。


   あたしにはどんなのが良いか、一緒に見て欲しいな。
   ひとりでは、決めかねそうで。


   うん……その時が、来たらね。


   ん、じゃあ約束だ。


   ……ん、約束ね。


   それで、亜美ちゃんの視力はいくつ?


   ……。


   ね、亜美ちゃん。


   ……左目が、0.1。


   0.1か……右目は?


   ……0.06。


   0.06……0.06?


   ……うん。


   0.1よりも、下があるの?


   ……それが、あるの。


   はぁ……然うなんだ。


   ……そこまで悪いとは、思っていなかった?


   うん……正直、思ってなかった。


   ……。


   亜美ちゃん?


   ……まこちゃんの顔が、ぼやけてる。


   ……。


   眼鏡を外してしまうと……何もかもが、ぼやけてしまう。


   ……どれくらいの距離なら、ぼやけない?


   ……。


   これくらい……?


   ……まだ、少しぼやけてる。


   なら……これくらいで、どう?


   左目なら……。


   ……右目は。


   ……。


   右目は乱視が入っているから、近くてもぼやける?


   ……そこまで、重いものではないから。


   じゃあ……これくらいなら?


   ……。


   あぁ……このまま、キスが出来そうだ。


   ……。


   ん……。


   ……キスの距離だと、近過ぎて見えない。


   うん……あたしもだ。


   ……。


   亜美ちゃん……。


   ……待って。


   ……。


   ……眼鏡を、置かせて。


   良いけど……。


   ……けど、なに。


   眼鏡を外すと、何もかもがぼやけてしまうということは。


   ……。


   若しかして……してる時も、然う?


   ……っ。


   あたしの顔、はっきりとは


   ばか。


   あ。


   ……ばか。


   あ、あぁ。


   ……。


   え、えと……ごめんね?


   ……何を言い出すの。


   いや、然うなのかなって……それで、つい。


   ……知ってると、思ってた。


   あたしは、見えてるとばかり……。


   ……。


   あ、亜美ちゃんは……。


   ……もう、言わないで。


   う。


   ……恥ずかしいから。


   は、恥ずかしいんだ……。


   然うだけど……悪い?


   わ、悪くない……です。


   ……。


   ……あたしは、はっきりと見えているけれど。


   まこちゃんっ。


   や、ぼ、ぼやけていたら、どうなのかなって。


   どうもこうも……っ。


   ご、ごめん、ごめんって。


   ……。


   ……亜美、ちゃん?


   まこちゃんの……ばか。


   ……。


   ……もぅ。


   あ。


   ……何。


   コンタクトを、外してない時なら……。


   まこちゃん……っ!


   わっ。


   だから、どうして然ういうことを言うの……っ。


   ご、ごめん、ごめんよ。
   もう言わない、言わないから。


   ……。


   言わないから……ね?


   ……顔、にやけてる。


   えっ。


   ……どうせ、耳が真っ赤だとか思ってるんでしょう。


   え、お、思ってないよ?


   嘘、その顔は思ってる。


   お、思ってるけど。


   思ってるんじゃない。


   だから、言葉にしなかったのに。


   顔に直ぐ出るのっ。


   そ、そんなこと言われても……。


   ……。


   ……か、可愛いよ?


   ばかっ。


   はい、ごめんなさいっ。


   ……。


   ……眼鏡、かける?


   ……かける。


   ……。


   ……はぁ。


   ねぇ……亜美ちゃん。


   ……なに、まこちゃん。


   ……。


   ……変なこと、言わないでね。


   へ、変なことって……?


   ……知らない。


  10日





   ……あ。


   はぁ……。


   ……な。


   ……。


   な、何を、していらっしゃるのですか……。


   ……何をしているように、お前には見える。


   そ、その方は……。


   ……。


   いけません、は、早く天幕に運んで


   此れはもう、ひとではない。


   な、何を言っているのですか。
   早く運ばないと……あなたも、手を貸して下さい。


   ひとでないものを、何処に運べば良い。


   いいえ、ひとです。


   ……。


   分かりました、其処を退いて下さい。
   私がひとりで運びます。


   ……。


   大丈夫ですか。
   今直ぐ暖かいところに


   運ぶとするのならば、土の下だ。


   何を言って


   言ったろ、それはもうひとではないと。


   私も言った筈です、この方はひとだと。


   命がないものは、もう、ひとではない。


   ……命がない?


   然うだ、それはもうただの抜け殻でしかない。


   ……まさか。


   そんなものを、ひとのこの場所に運ぶ必要なんてない。


   ……そんな。


   質の悪い酒を隠れて飲んで、酔いつぶれて、そのまま死んだ。
   苦しまなかったんだ、それで十分だろ。


   どうして、そんなことに……。


   良くあることだ。


   ……あなたが此処に来た時にはもう、亡くなっていたのですか。


   息はなかった。


   ……矢張り、運ばなければ。


   お前には無理だ、止めておけ。


   やってみなければ、


   分かる、どう足掻いたところでそのか細い腕が折れるだけだ。


   ……放っておけと、言うのですか。


   あぁ、然うだよ。


   ……あなたひとりの判断で。


   ……。


   ……う。


   だから、言ったろ。


   ……それでも。


   ……。


   それでも……最期の時くらいは、ひとのこらしく。


   こいつは、ひとのこではない。


   仮令、命を落とそうとも……ひとのことは、最期までひとのこです。


   ……。


   ひとのこ、なんです……。


   ……生胆なんて、やっぱり意味がなかった。


   え……。


   ……。


   今、生胆と言いましたか……。


   ……言ったとしたら、なんだ。


   意味がなかったとは……どういうこと、でしょうか。


   ……お前なら、己(おれ)が教えなくても知っているだろ。


   その、生胆は……。


   ……。


   ……。


   ……おい。


   ……。


   そんなところに座り込んだら、尻が冷えるぞ。


   ……。


   はぁ……もう、良い。


   ……待って。


   ……。


   は、ぁ……。


   ……取り敢えず、立て。


   ……。


   お前、医生のたまごだろ。
   此れくらいのことで腰を抜かすのか。


   ……どうか、教えて下さい。


   先ずは立て。


   ……立てば教えて呉れると、約束して呉れるのならば。


   どうしてそんな約束をしなければならない。


   ……お願いします。


   ……。


   お願い……教えて。


   ……だったら今直ぐ、己の足で立て。


   ……。


   ……。


   ……立ちました。


   教えるとは、言っていない。


   ……。


   約束もしていない。


   ……然うですね、分かりました。


   ……。


   ひとを、呼んできます……あなたの言う通り、私ひとりでは到底運べそうにありませんので。


   ……。


   それでは……失礼します。


   こいつは。


   ……。


   こいつは……ひとのこの生胆を、何度も喰った。


   ……。


   だから、ひとのこではない。
   ひとのこの皮を被った、ただの畜生だ。


   ……糧食が不足しているからですね。


   それも、ある。
   が、それだけではない。


   ……。


   生胆を喰うことで、持ち主の命を喰らう。


   ……ただの迷信です。


   ……。


   確かに、飢えは凌げるでしょう。
   けれど、持ち主の寿命を己のものにすることは決して出来ません。


   ……なんだ、やっぱり知ってたんじゃないか。


   ましてや、死なぬ力など……持てるわけが、ない。


   あぁ、然うだ。


   ……。


   なんだ。


   ……持ち主は、事切れていたのですよね。


   いや、そんなことはない。


   ……然う、ですか。


   こいつは、このまま放っておく。


   ……出来ません。


   此処は陣の外だ、特段何かをする必要はない。


   あります。


   隊長に報告する。
   それで、此れは仕舞いだ。


   お仕舞いではありません。


   仕舞いだ、お前と話すことも。


   私と話すことはお仕舞いでも構いません。


   ……己は、哨戒を続ける。


   はい、然うして下さい。
   邪魔をしてしまい、誠に申し訳ありませんでした。


   ……。


   では。


   ……。


   ……急がなければ。


   お前は。


   ……。


   生きているひとのこよりも、死んだ抜け殻の方が、大事なのか。


   ……それは。


   まぁ、どちらでも良い……己には、関係のないことだ。


   ……いいえ、ありますよ。


   ……。


   あなたは、生きています。


   ……だから、なんだ。


   ですから、私には関係があります。


   お前にあったところで、


   私にとって、あなたも大切な命のひとつなのです。


   ……己には、ない。


   あります。


   ……。


   あるんです。


   ……は。


   誰しもが、煌めく命をひとつだけ持っている……だから、私は。


   ……関係があると、言い張るのならば。


   ……?
   あなた……。


   お前は……どちらが、大事だと。


   ……っ。


   ……。


   ど、どうしたのですか……っ。


   ……べつに、どうもしない。


   失礼します。


   ……さわるな。


   熱い……酷い熱。


   ……触るなと、言っているだろ。


   いいえ、触ります。


   ……。


   立てますか。


   ……己は、哨戒を。


   此の状態では無理です。
   代わりを立てて下さるよう、進言致します。


   お前が、か……。


   然うです。


   ……ただの、たまごが。


   今は、たまごであろうとも。


   ……。


   いずれは、医生になる者です。


   ……いずれでは、だめだろ。


   ……。


   こいつは、どうするんだ……放っては、おけぬのだろう……。


   ……答えを、言っていませんでしたね。


   は……。


   ……死んだひとのこよりも、生きていてるひとのこを。


   ……。


   私は、優先致します。


   ……あぁ、然うか。


   ですから、今からあなたを天幕に連れて行きます。


   お前ひとりでは、無理だ……誰か、呼んで来い。


   然うしているうちに、あなたは居なくなってしまうでしょう。
   然うなると捜さなければならなくなる、時間の無駄でしかない。


   ……。


   立てそうになければ……背負います。


   ……無理だ。


   無理ではありません、するのです。


   ……。


   必ず……。


   ……死なせて呉れ。


   ……。


   ……と、言ったら。


   勿論、聞けません。


   ……。


   あなたは、生きています。
   死なせるわけには、参りません。


   ……それが、あたしの望みだとしてもか。


   それがあなたの望みであっても、です。


   ……然うして、戦えと言うのだな。


   ……。


   殺せと……言うのだな。


   ……私は、言いません。


   は……言っているような、ものだ。


   いいえ……言っていません。


   ……己を生かすと言うことは、然ういうことだ。


   違います。


   ……何が、違う。


   私は……あなたに、生きて欲しい。


   ……。


   ただ、それだけです。


   ……はっ。


   私は、出来ませんが。


   ……。


   あなたは、陣を抜ければ良いと思います。


   ……出来るわけ、


   抜けて、故郷へ帰って下さい。
   生きて、帰って。


   ……はぁ。


   先ずは腕を肩に……それから。


   ……良い、触るな。


   聞けないと、言った筈です。


   ……己で、立つ。


   ……。


   立って……お前に付いて行けば、良いのだろう。


   ……然うして、呉れますか。


   でなければ……お前はいつまで経っても、諦めて呉れそうにない。


   ……救える命なんです。


   ……。


   諦められるわけが、ないの。


   ……然うかい。


   然うです。


   ……。


   良ければ、私の肩に。


   ……ひとりで立って、ひとりで歩く。


   ……。


   お前は……お前の好きにして呉れ。


   はい、然うします。


   ……。


   戻ったら、熱冷ましを……それから。


   ……隊長に。


   私から報告致します。


   ……。


   幸い、陣からは遠く離れていません。


   ……そもそも、お前はどうしてこんなところに。


   分かりません。


   は……分からない?


   ……。


   なんだ、それ……。


   ……あなたが、見えたような気がしたのです。


   ……。


   あなたは……傷を、負っていますよね。


   ……そんなの、いつものことだ。


   ……。


   どうせ、直ぐに治る……。


   ……やっぱり、勘違いではなかった。


   ん……。


   ……あなたからは、血の臭いがします。


   そんなの、あたしだけでは……。


   ……だから、分からないのです。


   ……。


   何故、あなたの血の臭いが分かるのか……何故、血の臭いであなたの姿が見えるのか。


   ……。


   ……今は、こんなことを話している余裕はありません。


   その臭いは、本当にあたしの血の臭いなのか。


   ……。


   あたしが……己が殺めた奴らのものでは、ないのか。


   ……いいえ、あなたの血です。


   何故、言い切れる……。


   ……分かりませんが、言い切れるのです。


   は……意味が分からないな。


   ……自分でも、分かりません。


   お前……本当に、医生のたまごなのか。
   本当は、藪ではないのか……。


   ……ただのたまごです、未だどちらでもありません。


   ……。


   どちらでも、ないけれど……私はあなたを助けたいと、強く思っています。


   ……ふるえてないか。


   震えてなんかいません。


   ……お前、細いな。


   細いかも知れませんが、力がないわけではありません。
   あなたひとりくらい、私ひとりでも……。


   ……変な奴だな。


   変な奴で、結構です。


   ……。


   行きましょう。


   ……まぁ、良いさ。


   何が良いのですか。


   ……どうせ、いつかは死ぬ。


   然うだとしても、今ではありません。


   ……どうせ、此れくらいでは死なない。


   然うです、此れくらいでは死なせません。


   ……然うでなくて。


   今は、話しているよりも……。


   ……己は、然ういう風に出来ているんだよ。


   ……。


   意味は、分からなくても良い……。


   ……頑丈、ということでしょうか。


   ふ……。


   だとしても、介抱はちゃんと受けなければ。


   己は。


   ……。


   ……ひとのこでは、ないんだ。


   ……。


   ……。


   ……あなたも。


   喰って、いない。


   ……。


   ……あたしは、喰っていない。


   然うですか……。


   ……どうして、笑う。


   どうしてでしょうね……。


   ……。


   ……どうしてもと言う時は、仕方ないと思うんです。


   ……。


   でも、然うすることによって……心に負った傷は、より大きく深いものになってしまう。


   ……。


   ……叶うならば、あなたには食べて欲しくないと。


   言われなくても……己は、喰わない。


   ……どうか。


   喰うくらいならば……死んだ方が良い。


   ……。


   ……なぁ。


   何でしょうか……。


   ……こころに負った傷って、なんだ。


   ……。


   こころって、なんだ……。


   ……それは、胸の奥にあるものです。


   胸の奥……?


   ……煌めく命に、寄り添って。


   わけが、わからないな……。


   ……あなたにも、私にも在るんですよ。


   ふぅん……。


   ……戻ったら、先ずは診療を受けて貰います。


   あ……?


   ……良ければ、私が寄り添いますので。


   かんべんしてくれ……。


   ……ふふ。


   なにも、おもしろくない……。


   ……遠慮しないで下さい。


   そんなもの、していない……。


   ……。


   ……。


   ……叶わないかも、知れませんが。


   なにが……。


   ……出来るだけ、あなたの傍に居たいと。


   ……。


   屹度、無理でしょうね……。


   ……あぁ、むりだな。


   ……。


   ……くそ、からだがおもいな。


   もう少しです……もう少しで。


   ……おまえ、だれかよんでこい。


   いいえ、ここまで来れば……。


   ……。


   屹度、誰かが……。


   ……あれは、女の生胆も喰ったんだ。


   は……。


   だれかれかまわず、うばって、おかして、ころして、くって……だから、隊長に。


   ……。


   だからこそ……あれで、良いんだ。


   ……。


   ……まぁ、お前は良くないだろうが。


   報告は、します。


   ……。


   それで……処置は、お任せします。


   ……うん、それで良い。


   ……。


   あれはもう、死んでるんだ……お前は、あたしを構えば良い。


   ……。


   返事、なしか……まぁ、良いけど。


   ……あなたを、構います。


   ……。


   仮令、嫌だと言っても……此れからも、生きて貰う為に。


   ……はは。


   可笑しいですか。


   ……良く分からない。


   ……。


   ……だれか、きたな。


   高熱を出しています、早く天幕へ!


   ……。


   いえ、私も参ります。
   はい、状況の説明も。


   ……はぁ。


   来た道に、隊の者がひとり。
   どうやら泥酔状態で陣を抜けたようです……はい、隊長への報告も私が致します。


   ……こえ、いがいとおおきいのな。


  9日





   日の入りが本当に早くなりましたね。


   おかげで、夜の時間が長くなった。


   日の出も遅いですし、一日が短く感じます。
   一日の時間は、変わっていない筈なのに。


   昼間が短いんだ、無理もないさ。


   然うなのですよね。


   都でも、今頃は短かったのだろう?


   短かったですが、日の入りの時間が違うんです。


   え、同じではないのかい?


   都は此の村より南西に在るので、日の入りの時間は少し遅いんです。


   こっちよりも、遅いのか。


   日の出も、都の方が遅いんですよ。


   どれ程、遅いんだい?


   四半刻、ぐらいでしょうか。


   へぇ、場所が違うと日の出日の入りも違うものなんだな。


   ですので、此の村に来た頃は少々戸惑いました。
   頭では、分かっていたのですが。


   躰が、追いつかない?


   はい、まさに。
   朝は特に、ぼんやりしてしまって。


   ……ぼんやり。


   まことさん?


   いや……然うは、見えなかったなって。


   ……。


   あ、いや、その頃は未だそんな朝早くに会ったことはあまりなかったものな。
   あたしが、知っているわけない。


   ……それでも、何度かはありますよ。


   ……。


   良かった……気付かれていなくて。


   ……今日もきれいだなって、思っていたから。


   え?


   ……言われてみれば、可愛いもあったかも知れない。


   ……。


   然うか……ぼんやり、してたから。


   ……まことさん、無理に思い出そうとしないで下さい。


   無理では、ないが……。


   ……。


   分かった、止めておこう。


   はい、然うして下さい。


   ……今なら、直ぐ傍で見られるし。


   何か言いましたか?


   いや、何も言っていない。


   まぁ、聞こえましたけれど。


   ……。


   ふふ。


   は、はは……。


   ……。


   ……今頃の、季節はさ。


   はい……。


   日が暮れる頃になると……何処か侘しい気持ちになるんだ。


   あぁ……分かります。


   山の端にかろうじて日が残っている……あたしは、その時が最も侘しさを感じる。


   私は……黄昏時、夜が空に広がっていく頃でしょうか。
   夜の色が濃くなっていくその様に……心許なさを感じます。


   春も夏も日は暮れるのに、侘しさを感じることはあまりない。
   矢張り、昼間が長いからだろうか。


   それもあると思いますが……春と夏は暖かいと言うこともあると思います。


   暖かい、か……確かに、暖かいと気持ちが沈むことはあまりないな。


   寒いと、どうしても心が弱ってしまうものなのでしょう。


   挙句、夜が長いと来ている。


   然うですね……。


   寒さを凌ぐ為に、酒を飲むことがあるだろう?


   お酒を飲むと躰が温まるから、ですよね。


   酔わない程度に飲む分には良いんだ。
   正体をなくすまで飲むにしても、暖かい家の中なら良い。


   ……。


   でも、外で酔い潰れてしまうと……誰にも見つけられなければ、もう二度と目を覚ますことはない。


   ……都でも、毎年然ういった方が出ます。


   都でも……あぁ、ひとが多いものな。


   運良く、見つけて貰えれば……軽い低体温、或いは凍傷で済むのですが。


   どちらも、良くないな。


   はい、良くありません。
   低体温はひとつ間違えれば命を落とすことになりかねませんし、凍傷は酷ければ患部を切り落とさなければならなくなります。


   それなのに、後を絶たない。
   言っても聞かないし、どうしようもない。


   何も命を落とすことになるまで飲まなくても、と。
   命を大事にして欲しかったと……処置をするたびに、思っていました。


   自分がまさか然うなるとは、露にも思わないのだろう。


   ……然うなのでしょうね。


   暖を取りたいのなら、火を囲えば良いだけだ。
   酒が飲みたいのなら、そこで飲めば良い。


   ……侘しさが、然うさせるのでしょうか。


   ……。


   寒さだけでなく……侘しさを、紛らわす為に。


   ……本当、どうしようもない。


   ……。


   済まない、暗くなってしまった。


   ……いえ、大丈夫ですよ。


   ……。


   ……冬至を過ぎれば、また日は少しずつ長くなってゆく。


   けれど、春になるまで……曇天ばかりになってしまうから。


   ……矢張り、薄暗いのですよね。


   まぁ……明るくは、ないかな。


   たまに晴れたりはしないのですか?


   本当にたまにだけれど、晴れることはある。
   と言っても、晴れ渡るわけではないのだが。


   夜に晴れることもありますか?


   あぁ、あるよ。
   そんな日に満月だと、周りが明るいんだ。


   満月と雪……まさに、雪明かりですね。


   寒いから、ずっと眺めているわけにはいかないのだけれど……とても、きれいなんだ。


   ……見てみたいです。


   ……。


   都で見られるものとは屹度、違う風情で……。


   ……見られるよ。


   ん……。


   ……ふたりで、見よう。


   まことさん……はい。


   ……。


   ……ねぇ、まことさん。


   ん……?


   まことさんは、此の世界には日が沈まない場所も在ることを知っていますか。


   日が沈まない……そんな場所が在るのかい?


   と言っても、一年中ではないのですが。


   それは、いつ頃なんだい?


   北極圏では夏至前後、南極圏では冬至前後の頃だそうです。


   ほっきょ……なんきょ、く……。


   北極圏は北緯……。


   ……。


   然うですね……とても大雑把に言うと、此の大地の最北と最南のことです。


   はぁ……すごいな、そんな場所もあるのか。


   行ってみたいですか?


   大夫とふたりで行くのは構わないが、暮らすのは遠慮したい。


   ……それは、どうしてですか。


   いや、夜がないのもな……それはそれで落ち着かなくて、疲れてしまいそうだ。


   ……ひとりでは、行きたいと。


   ひとりでは、行かない。


   ……然うですか。


   大夫は、興味があるのだろう?


   ……どうして分かるのですか。


   はは、分かるさ。


   ……若しも。


   大夫となら行くよ、大地の果てまでもね。


   ……。


   ただ、暮らすのは遠慮したいかな……。


   ふふ……私も暮らすのならば、此の村が良いです。


   然うか……良かった。


   ……日が沈まない場所が在るのなら。


   ん?


   反対に、日が昇らない場所も在ります。


   日が昇らない……詰まり、ずっと夜ということかい?


   はい、一日中ずっと夜です。


   流石に、一年中ではない……よね?


   はい、一年中ではありません。


   然うか……良かった。


   晴れていれば一日中、星が良く見えそうですね。


   星は見えるだろうが……お日様が昇らないのも、困る。


   ふふ、然うですよね。


   それで……それは何処で、いつ頃のことなんだい?


   場所は矢張り、北極圏と南極圏です。


   ……うん?


   北極圏では冬至前後、南極圏では夏至前後の頃だそうです。
   先程と逆ですね。


   うん……うん?


   面白いですよね、同じ場所で全く正反対の現象が起こるだなんて。


   本当に同じ場所なのかい……?


   はい、本当に同じ場所なんです。


   どうして、同じ場所で……。


   ……。


   大夫……?


   ……今、聞きたいですか?


   え。


   まことさん、聞きたい?


   う、うん、聞きたいよ。


   ふふ、然うですか。
   ならば。


   ……。


   初めに、此の大地は球体……丸いとされています。


   丸い……。


   それを踏まえつつ、私のことは此の大地だと思って下さい。


   えと……大夫が、此の大地なのかい?
   丸くは、ないけれど……。


   今は、然ういうことに。


   あ、うん、分かった。


   まことさんも、良いですか。


   あぁ、何をすれば良い?


   お日様になって下さい。


   分かった、お日様だな。


   はい、お日様です。


   ……お日様?


   今から私は、お日様であるまことさんの周りを回ります。


   え。


   だから、止まっていて下さい。


   あ、あぁ……。


   ……。


   えと……どうして、躰を傾けているんだい?


   それは、此の大地は傾いているからです。


   ……。


   どうやら、然うらしいのです。


   ……傾いているようには、あたしには思えないが。


   私にも思えません。


   ……。


   面白いですよね。


   お、面白いね……。


   では、回りますね。


   う、うん。


   ……。


   だ、大夫?


   ……はい?


   ど、どうして、大夫が回っているんだい?


   それは、此の大地が回っているからです。
   此れを、自転と言います。


   じてん……あ、いや、それでは動きにく


   あ。


   大夫っ!


   ……。


   ……大丈夫かい、大夫。


   え、と……吃驚しました。


   あたしも吃驚したよ……。


   ……うぅん、やっぱり難しいですね。


   あの、大夫?
   危ないことなら、止めておいた方が。


   ……。


   大夫……聞こえてるかい……?


   ……書いた方が、良さそうですね。


   ……。


   一度、してみたかったのですが……今はもう、止めておきます。


   う、うん、その方が


   今度、明るい時にまた。


   ……然うか。


   ふふ、ふふ。


   ……大夫。


   はぁ、楽しい。


   ……。


   ごめんなさい……変ですよね。


   いや……楽しくて笑う大夫は、可愛いよ。


   ……あ。


   とても、可愛い。


   ……まことさん。


   さ、帰ろう。


   ……はい。


   うん……。


   ……あのね、まことさん。


   なんだい……大夫。


   日が沈まないことを白夜、日が昇らないことを極夜、と言うんです……。


   びゃくや……と、きょくやか。
   うん、覚えた……。


   どちらも、夜がつくんですよ……。


   ……なんとなく、分かる気がするな。


   どんな風に……?


   明けたままの夜、と、明けることのない夜。
   詰まりは、然ういうことかなと。


   ……あぁ。


   面白いな、大夫。


   ……ですよね。


   大夫と、見てみたい。


   ……私も、あなたと。


   生きていれば、見られるかも知れない。


   ……。


   生きてさえ、いれば。


   ……はい、生きてさえいれば。


   でも、暮らすのは遠慮したい。


   ふふ……私もです。


   ……。


   ……。


   ……さて、そろそろあたしの家だ。


   はい……。


   家に着いたら……先ずは、夕餉にしよう。


   ゆうべとは、違いますね……。


   ……ゆうべと、同じでも良いけれど。


   ……。


   合間に、食べるかい……大根粥。


   ……もぅ、まことさんは。


   ははは……。


   ……それも、良いかも知れません。


   ……。


   ……熾火、確認しないと駄目ですね。


   あぁ、然うだね……忘れずにしよう。


   ……。


   ……今宵も、一緒に眺めようか。


   はい……一緒に。


   ……。


   ……まことさん?


   や……心が、熱く。


   ……。


   ……まるで、ゆうべのようだ。


   あぁ……。


   ……大夫は、どうだい。


   私は……私も。


   ……。


   ……連れて行って、まことさん。


   あぁ……連れて行くよ、大夫。


  8日





   ……ごちそうさまでした。


   ごちそうさまでした。
   はぁ、美味しかった。


   どうぞ、お椀はそのままで。


   いや、あたしが。


   まことさんには水瓶に、お水を汲んで貰うつもりなので。


   水を汲むついでに濯ぐよ。
   大夫は


   ううん。


   ……。


   まことさんがお水を汲んで呉れている傍で、私はふたりで使ったお椀を濯ぎたいの。


   ……大夫。


   だから……私が。


   うん……然ういうことなら。


   ……はい。


   取り敢えず、水に付けておこうか。


   あ。


   此れくらいならば、良いだろう?


   ……いいえ、それも私が。


   む。


   ……あまり、私を甘やかさないで下さい。


   甘やかしているつもりは、ないのだけれど……。


   ……家の仕事は、出来るだけふたりで分け合わないと。


   ……。


   今は別々に暮らしていますが……いずれは。


   一緒に、暮らす……?


   ……ずっと、ふたりで暮らしていく為に。


   その為に……家の仕事は、分け合う。


   ……偏ってはいけないと、然う思うのです。


   ……。


   今は良くても……共に過ごす時間が長くなればなるほど、ふとしたことで重荷と感じる瞬間が訪れるかも知れない。


   ……そんな瞬間、訪れるだろうか。


   残念ながら、ないとは言い切れません。
   私達が心を持つ、ひとのことである限り。


   ……。


   営みとは、積み重ねでもあると思うのです。良いことも、悪いことも、日々ふたりで重ねてゆく。。
   良いことはそのまま重ね続けて、悪いことはどうにか重ねないように、出来るだけ解消出来るように。


   ……家の仕事も、同じか。


   どちらかに偏ることで、いつしか不満を覚えるようになってしまうかも知れない。


   それは、良くない……悪いことだ。


   はい……ですから。


   ……。


   ……納得、して貰えませんか。


   いや、納得した。


   ……。


   お椀の濯ぎは大夫が、水瓶への水汲みはあたしが。
   今回は、此れで。


   ……はい、然うしましょう。


   ん。


   では、お水に付けてきますね。


   うん、行ってらっしゃい。


   ふふ……行ってきます。


   大夫が戻ってくるのを、此処で待っているよ。


   はい、寛ぎながら待っていて下さい。


   はは……うん。


   ……。


   はぁ……あったかいな。


   ……。


   こんなにあったかいと……眠たくなってきてしまうな。


   ……眠っても、良いですよ。


   ん……。


   ……どれくらいで、畑に戻りますか。


   いや、今は眠らない……眠るなら夜、大夫と共に。


   ……午睡も、良いものですよ。


   うん、分かっているよ……前は、していたから。


   ……でしたら。


   分かっているけれど……今は、起きていたい。


   ……。


   お帰り、大夫……早かったね。


   ただいま帰りました、まことさん……はい、直ぐ其処なので。


   はは、然うだった。


   ……。


   大夫、座る前に良いかな。


   ……はい、なんでしょう。


   近くに、来て貰えないだろうか。


   ……。


   叶うなら……後ろから。


   ……隣では、いけませんか。


   隣……。


   ……誰か、来るかも知れないから。


   あぁ……。


   ……。


   隣で良い……来て欲しい。


   ……分かりました。


   ……。


   ……。


   ……ありがとう、大夫。


   いいえ……。


   ……。


   まことさん……矢張り、眠たいのでは。


   ……少し、気が抜けている。


   ……。


   いつか……大夫と、昼寝をしてみたい。


   ……それも、良いですね。


   ふふ……だろう?


   ……けれど。


   うん?


   ……ふたり揃って、お寝坊をしてまわぬよう。


   ……。


   ……気を付けないといけませんね。


   あぁ……幾ら気持ちが良いからと言って、寝坊はいけない。


   はい……いけません。


   ……。


   ……ん。


   楽しみだな……。


   ……私も楽しみです。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、大夫。


   はい……。


   ……大夫のことが、知りたい。


   ……。


   なんでも良い……もっと、知りたい。


   ……。


   ……ごめん、急に。


   まことさん。


   ……。


   私のことならば……昔のことでも、良いですか。


   ……昔の?


   はい……昔の話を、聞いて貰っても良いですか。


   ……あぁ、聞きたい。


   面白い話では、全くありません……それでも、構いませんか。


   ……構わない、聞きたい。


   ……。


   大夫の話なら……なんでも。


   ……。


   ……話したくなくなったら、そこでおしまいでも良い。


   ……。


   ……。


   ……ある年の、冬のことです。


   うん……。


   猩紅熱という感染症が、子供達の間で蔓延したことがありました。


   しょう、こ……?


   ……発疹性の感染症で、主に子供達の間で流行する病です。


   熱と言うことは……。


   ……ほとんどは、高熱を。


   高熱か……大人でも堪えると言うのに、子供の小さな躰ではより堪えるだろう。


   ……高熱だけでなく。


   ……。


   ……頭や喉、四肢の痛み、吐き気や嘔吐、全身倦怠感、それから悪寒も。


   痛みも、あるのか……?


   はい……しかもそれは未だ前触れの段階で、始まりに過ぎないのです。


   それで前触れ……小さな子供では、どう考えても堪えられないじゃないか。


   ……然うですね、堪えらないことが多いです。


   症状が進むと、どうなる……?


   ……赤くて小さな発疹が全身に発現し、舌は白苔に覆われた後に赤く腫れ上がります。


   ……。


   ……更に次の段階に進んでしまうと、掌や足の裏の皮が剥け落ち始めます。


   然うなってしまう前に、医生達が治療するのだろう?


   はい……大抵は、高熱を出した時点で。


   ならば、それ以上進むことは……。


   ……治療するには、お金が掛かります。


   あ……。


   ……お薬を含めた治療費は、安いとは決して言えません。


   此処でも、金か……。


   ……猩紅熱は、特に庶民の間で広がりました。


   ……。


   お金をどうにか工面することが出来た親は、まだ良い……。


   ……工面出来なかった親は。


   ……。


   そんなこと、あって良いのか……だって、子供の命だろう?


   ……はい、未来を担う命です。


   だったら……金なんて。


   ……事態の重大さに鑑みて、都も動きました。


   そんなの、当たり前だろう。
   寧ろ、動かない方がどうかしている。


   けれど、遅かったのです。


   ……。


   ……多くの子供達が、苦しんだ末に亡くなってゆきました。


   遅いって……何を、していたんだ。


   ……民からは、多くの嘆願の声が上がりました。


   当然だ、上がらないわけがない。


   けれど、都……要職に就いている者達の多くは、聞く耳を持たなかったのです。


   上(かみ)は?


   ……。


   上は、何をしていた?
   上が決めてしまえば、下は動かざるを得ないだろう?


   ……上申さえ、されていなかったのです。


   けれどそれだけのことになってるんだ、上申されずとも……。


   ……。


   耳が、聞こえないのか……?


   ……良いことしか。


   ……。


   あまつさえ、庶民の子供達など……虫の子に過ぎないと。


   ……虫の子、だと。


   放っておいても虫の親はまた子を作り、増やす……虫の子など、どれくらい死のうとも大した問題ではない。


   子を失った親の悲しみはどうなる。


   ……彼等にとっては、どうでも良いのです。


   ……。


   まことさん……。


   ……嘆願の声は、確かに上がっていたのだろう。


   はい……子を持たぬ者からも。


   ……でも、誰も聞かなかった。


   聞いている者が全く居ないわけではありませんでした。
   けれども、その者達の声は悉く潰されたんです。


   ……。


   ……傀儡、だったのです。


   かいら……?


   ……その頃の、主上は。


   その、かいら……って、なんだい。


   ……操り人形のことです。


   操り……上が?


   ……考えられぬことなのですが、然ういった主上が立つこともあるのです。


   ……。


   ……侵略を食い止められなかったのも、その主上の御代のことでしたね。


   要は……ぼんくらで使えないから、周りに良いようにされていたということか。


   非凡ではなかったらしいのですが……色欲に、溺れ。


   色欲……。


   ……子供達が苦しんでいる間も、周りに与えられた人形(もの)に耽っていたと。


   首を代えることは出来なかったのか……それだけ色欲に溺れていれば、子も多かったろう。
   その中には、ましな子……ひとりやふたりくらいならば、居たのではないか。


   ……。


   首を代えていれば……あの戦だって、避けられたかも知れない。


   ……それが。


   若しかして……種なしか。


   ……。


   あ。


   ……御子は、数人。


   ご、ごめん、大夫……言い方が悪かった。


   いえ、大丈夫です。
   実際、然うだったらしいですから。


   ……。


   御子の中には主上の子種かどうか、疑わしい者も居たらしいですよ。


   そ、然うか……。


   話を元に戻しましょう。


   う、うん、然うしよう。


   その前に……一息入れても、良いですか。


   あ、あぁ。


   ……はぁ。


   ……。


   御子の母達は、誰ひとりとして同じではなく……宮廷内では、常に争いの火種が燻っていたと。
   数人しか居ないのに……命を狙ったり、狙われたりしていると。


   ……その間にも、民の子供達は。


   ……。


   ……遣る瀬無いな。


   民だけでなく、見兼ねた一部の医生達からも声は上がりました……せめて今だけで良い、お薬を無料にしろと。


   然うすれば、助けられるかも知れない。


   はい……何もしないよりは、ずっと。


   ……けれど、届かなかった。


   ……。


   大夫は、その時……。


   ……私は未だ、無力な子供でした。


   然うか……大夫が子供の頃の話なのか。


   ……。


   ん……あれ。


   ……私も、猩紅熱に感染しました。


   な……っ。


   高熱を出して……けれど処置が早くて、命を落とすことにはならなかった。
   他の病を併発することなく、躰が弱ることもなく……。


   ……。


   ……母が、医生だったから。


   大夫……。


   ……母は貴重な生薬を煎じ、私に飲ませたそうです。


   然うか……良かった。


   ……果たして、良かったのでしょうか。


   大夫の、ひとりの子供の命が助かったんだ……。


   ……私ではなく、他の子供達に煎じていれば。


   大夫の母君は、他の親達と同じように……己の子を見捨てることなんか、どうしても、出来なかったのだと思う。


   ……でも、生まれによって左右されてしまうだなんて。


   正しいとは、言えない。
   言えないが……あたしは、大夫が助かって。


   ……命は全て、等しくなければいけない筈なのに。


   良かったと思っている。


   ん……まことさん。


   大夫が助かっていなければ……あたしは、大夫と出逢えなかった。


   ……。


   あぁ、でも……あの時に出逢えずとも、どのみち、同じ場所で逢えたのか。


   ……まことさん。


   いや、同じ場所にはゆけないか……あたしは此の手を、赤く汚し続けていたのだから。


   ……死だけは、平等です。


   びょう、ど……。


   ……だから同じ場所で、出逢えたと。


   それは……今も。


   ……はい、私達は必ず同じ場所にゆけます。


   然う、か……。


   ……。


   ……その熱は、冬に流行ったんだったね。


   ……。


   だから、大夫は。


   ……何が流行っても良いように。


   ……。


   勿論、流行らないことが一番です……でも、分からないから。


   ……備えは、しておく。


   ……。


   然うなのだろう……?


   ……医生としての務めを果たさなければ。


   ほんの僅かでも、その助けが出来るのならば。


   ……。


   ……あたしは、嬉しく思う。


   まことさん…………ありがとう。


   ……。


   ……ごめんなさい。


   ん……どうしてだい。


   昔の私の話と言うより……都の話になってしまって。


   あぁ……なんてことないさ。


   ……。


   ありがとう、大夫……昔の話を、聞かせて呉れて。


   ……此方こそ、聞いて呉れてありがとうございました。


   良かったら……また、話して欲しい。


   ……はい、また聞いて下さい。


   ……。


   ……。


   ……熾火。


   落ち着きますね……。


   あぁ……然うだね。


  7日





   まことさん、足拭きは桶に掛けておいて下さい。


   うん、分かった。
   ありがとう、大夫。


   足は、温まりましたか。


   んー……うん、温まった。
   足がほかほかだ。


   ふふ、それは良かった。


   どうやら、足の芯まで温まったみたいだ。裸足で居てもひんやりしない。
   まぁ、診療所の中が暖かいと言うのもあるのだろうけれど。


   ……。


   此れも、大夫が途中で湯を追加して呉れたからだ。


   ……追加と言っても、大した量ではありませんでしたが。


   頃合いも量も丁度良かった。
   そろそろ冷めてきたなって思っていたところだったんだ。


   ……湯冷めをしてしまう前に、どうぞ囲炉裏の傍に。


   うん、然うする。


   ……。


   よ、と……ん、囲炉裏の傍はより暖かいな。


   ……ふふ。


   ほら見て、大夫。


   はい?


   足の指まで、良く動く。


   ……。


   ん?


   ……まことさんの足の指って、こうして見ると長いですよね。


   あぁ。


   それに、本当に良く動く……器用。


   器用かどうかは分からないけれど、此の指のおかげで踏ん張りが利くんだ。


   確かに、利きそうですね……。


   はは、もっと良く見てみるかい?


   ……。


   あ、此れからごはんなのに足なんぞ見たくないか。
   ごめん、今引っ込めるよ。


   ……後で見せて下さい。


   後で?


   ……良ければ、夜に。


   え……。


   ……今夜とは、言いません。


   こ、今夜でも、あたしは構わない。


   ……流石に、二晩続けては。


   あたしは、続けても構わない。


   ……。


   大夫さえ良ければ……。


   ……まことさん。


   う、うん。


   ……待っています。


   わ、分かった……っ。


   ……。


   昨日と、同じ頃に……。


   ……はい。


   ……。


   ……暖かいからって油断して、湯冷めをしないようにして下さいね。


   はい、大夫。


   ……ふふ、良いお返事です。


   ははは。


   足が温まったところで……次は、躰の中を温めましょうか。


   ん。


   お茶をどうぞ、まことさん。


   ありがとう、大夫。


   どういたしまして。
   熱いので気を付けて下さいね。


   うん……あぁ、良い香りだ。


   ……。


   ……ねぇ、大夫。


   はい。


   ……え、と。


   どうしましたか?


   どうしたと言うわけでは、ないのだけれど。


   ……?


   その……澄まし汁、早く食べたいな。


   ……。


   あ、や、急かしているわけではなくて……。


   ……今よそいますから、ちょっと待ってて下さいね。


   う、うん、待っているよ。


   ……。


   ……。


   ……はい、どうぞ。


   うん……ありがとう、大夫。


   いいえ……お芋のお粥もよそいますね。


   ん……。


   ……。


   はぁ……澄まし汁も、良い匂いだ。


   ……お粥は、美味しそうです。


   ……。


   まことさん、良かったら先に。


   いや、大夫の分が揃ってからにする。


   ……。


   だからって、急がないで良いからね。


   ……はい、まことさん。


   うん。


   ……。


   大夫が作って呉れた、大根の澄まし汁……。


   ……。


   ……午後からも頑張れそうだ。


   まことさん。


   ……ん?


   お待たせしました、支度が出来ました。


   ん、然うか。
   では。


   はい。


   いただきます。


   ……いただきます。


   ……。


   ……。


   あぁ……やっぱり美味しい。


   味は薄くありませんか?


   薄くないし、濃くもないよ。


   ……お大根は、どうでしょうか。


   どれ……。


   ……。


   ……良く煮えていて、美味い。


   本当に……。


   嘘なんて、言わない。


   ……。


   本当に美味しいよ、大夫。


   ……良かった。


   さぁ、大夫も食べて。


   ……はい。


   ……。


   ……ん。


   うん?


   ……お芋が、ほくほくします。


   ふふ、然うだろう?


   とても美味しいです……お芋は、土豆でしょうか。


   然う、土豆。


   ……土豆とお米、合うんですよね。


   腹持ちも良いしね。


   ふふ……然うですね。


   ねぇ、大夫。


   はい、なんでしょう。


   澄まし汁、お代わりしても良いかい?


   はい、勿論です。


   然うか……では。


   え。


   実は……もう、食べ終わってしまった。


   もう、ですか?


   ……美味しくて、つい。


   はぁ。


   流石に、早過ぎるだろうか……いや、早過ぎるな。
   つい先刻、よそって貰ったばかりなのに。


   火傷は、していませんか?


   火傷?


   こんなに早いと……未だ、冷めていないと思うのですが。


   あ、あぁ……大丈夫だ、火傷はしていない。


   ……念の為、診ましょうか。


   い、いや、本当に大丈夫だよ。


   ……。


   よ、よそっても、良いかな……だ、だめかな。


   ……いいえ。


   あ。


   よそいますので、お椀を貸して貰っても良いですか。


   や、自分で。


   ううん、やらせて下さい。


   ……。


   ね、良いでしょう?


   ……お代わり、お願いします。


   はい、承りました。


   ……。


   ……喜んで貰えて、本当に良かった。


   うん……?


   ……今朝、作れなかったから。


   大夫……。


   ……此れで、美味しくなかったらどうしようもないのですが。


   言ったろう……?


   ……まことさん。


   大夫が作るものは、どれも美味しいと……。


   ……大したものは、作れなくて。


   此の澄まし汁が大したものではないなんて、有り得ないよ。
   味の加減は丁度良いし、香りも良い、そして肝心の大根は程良く味が染みている……此れならば、幾らでも食べられる。


   ……。


   腹いっぱい、食べたいと。


   ……どうぞ、まことさん。


   うん……ありがとう、大夫。


   ……。


   幾らでも食べられるとは言ったけれど、大夫の分は食べないから安心して欲しい。


   ……それでも、別に構いませんよ。


   いや、然うはいかない。


   私は、まことさんのお芋のお粥だけでも十分ですから。


   いやいや、澄まし汁も食べて欲しい。


   大丈夫です……私の分は、ちゃんと此処にありますから。


   お代わりは……。


   ……しても、お椀に半分くらいでしょうか。


   半分……か。


   ですので、良ければ食べてしまって下さい。


   ……。


   まことさん?


   ……本当に良いのかい?


   はい、本当に良いですよ。


   では……甘えさせて貰って。


   ふふ……はい。


   ……。


   ……。


   ……うん、良いお昼だ。


   ねぇ、まことさん。


   ん……なんだい?


   ……。


   大夫……?


   私……近いうちに、麓の町に行くことがあるかも知れません。


   近いうち……それは、いつ頃だい?


   ……冬になる前に、と思っています。


   冬になる前……。


   ……冬の山道は危ないですよね。


   冬であろうとなかろうと、山道はひとりでは危ない。


   ……せめて、雪が降る前に行きたいと思っていて。


   町には、何をしに行くんだい……?


   ……生薬を、買いに。


   生薬……薬の材料?


   ……はい、冬に備えて仕入れておこうと。


   此の間の行商が持って来た分では足りなかった……?


   足りていないわけではないのですが……念の為。


   ……。


   私にとって、初めの冬ですから……。


   ……あぁ、然うか。


   一日で、戻って来るつもりです。


   一日……然うなると、朝早くに発たなければ。
   それでも、急ぎ足にはなる。でないと、日暮れまでには間に合わない。


   ……宿泊することも考えたのですが。


   そこまで急ぐならば、いっそのこと、一晩泊った方が……。


   ……。


   ……大夫。


   まことさん……。


   ……言って欲しい。


   え……?


   ……あたしが望んでいる言葉を。


   まことさんが……。


   ……。


   ……ごめんなさい、分かりません。


   本当に、分からないかい。


   ……あ。


   大夫……。


   ……はい、分かりません。


   ならば……大夫は、あたしにどうして欲しい?


   ……。


   ただ、見送って欲しい……?


   ……朝、早いと思うので。


   あたしは、早起きなんだ。どんなに早かろうが、問題ない。
   それこそ、日が昇る前であろうとも。一向に、構わない。


   ……。


   なんだったら、朝餉の支度も出来る。
   弁当を作って、持たせることだって出来る。


   ……そんなことをして貰うわけには。


   あたしは。


   ……。


   あたしは、大夫のなんだい……?


   ……まことさんは、私の。


   ……。


   ……連れ合いに、なって呉れる方です。


   もう、なっているよ。


   ……ぁ。


   もう、なっている。


   ……。


   然うだろう……大夫。


   ……まことさん。


   ……。


   町へ……共に、行って呉れませんか。


   大夫が、あたしに然う望んで呉れるのなら。


   ……望んでも、良いですか。


   あたしは、望まれたい。


   ……。


   大夫……大夫が若しも、麓の町へ行くと言うのなら。


   ……どうか、一緒に来て下さい。


   あぁ、勿論だ。


   ……。


   一緒に行こう、大夫。


   ……でも、無理でしたら。


   無理ではない。


   ……畑は。


   支度をする為に、行く日が決まったら早めに教えて欲しい。


   それは……はい、勿論です。


   ならば……畑のことは心配しなくて良い。


   ……。


   やるべきことは、成る可く済ませておく。
   だから、大夫……何も気に病む必要はないよ。


   ……あぁ。


   ……。


   ありがとうございます……まことさん。


   ……あたしは大夫の連れ合いとして、当たり前のことをするだけだ。


   あなたが居て呉れると思うと……本当に心強い。


   ……荷物も、持つ。


   それは……。


   ……任せて欲しい。


   何から、何まで……。


   ……だから、ではないけれど。


   え……。


   ……町の美味いものを、ふたりで。


   ……。


   た、食べられたら……と。


   ……美味いもの、ですか。


   あ、美味しいもの……。


   ……。


   ……そんな時間は、ないか。


   宿泊しても、良いでしょうか。


   ……え。


   一晩だけ……。


   ……村長に、ふたりで確認しよう。


   ……。


   屹度、大丈夫だとは思うが。


   ……でしたら、日時が決まってから。


   いや、前以って言っておこう。
   若しかしたら、町に泊まりで行くことになるかも知れないと。


   ……。


   その方が、良いと思う。


   ……分かりました、ならば然うしましょう。


   村長の家に行くのは……明日にしようか。


   明日、ですか。


   どうだろうか。


   ……分かりました、それでは明日に。


   いつ頃行くかは、大夫の都合に合わせる。


   ……それで、良いのですか。


   あぁ、良い。


   分かりました……でしたら、明日の夕方に。


   ん、分かった。
   その頃までに、此処に来る。


   はい、お願いします。


   うん。


   ……。


   ……?
   大夫……?


   ……まことさんは、いざとなったら。


   ……。


   ……雪の道でも、一緒に来て呉れると。


   その場合は、あたしの判断に従って欲しい。


   ……。


   大夫を危険な目に遭わせるわけにはいかないから。


   ……無理だと、判断したら。


   行く手立ては考える。


   ……。


   ……でも、吹雪いていたら駄目だ。


   吹雪……。


   ……あたしでも、遭難してしまうかも知れない。


   ……。


   ひとりでは、絶対に行かせない。


   ……あなたの判断に従います。


   あぁ。


   ……ごめんなさい、甘いことを言って。


   いや、言って呉れて良かった。


   ……。


   若しも、大夫がひとりで行ってしまったら……そんなことになったら、後悔してもしきれない。


   ……。


   ……時に山は、誰であろうとも、その命を飲み込んでしまうことがある。


   命を……。


   ……例えば、足を滑らせて。


   ……。


   ……だから、大夫。


   あなたを、ひとりで待たせるなんて……。


   ……。


   そんなこと……私には、出来ない。


   ……しないで、欲しい。


   あなたも、しないで。


   ……。


   ……しないで、まことさん。


   あぁ……しない、しないよ。


   ……。


   ……。


   ……此の村の冬のこと、もっと教えて下さい。


   あぁ、あたしで良ければ。


   ……あなたが、良い。


   ……。


   ……あなたが良いです、まことさん。


   分かったよ……大夫。
   あたしが知っていること、全部教えよう……。


  6日





   お大事になさって下さいね。
   はい、さようなら。


   ……。


   ふぅ……取り敢えずは、落ち着きましたかね。


   ……。


   季節の変わり目のせいか、体調を崩すひとが増えてきている……今の所、大きく崩している方は居ないけれど、お薬は多目に煎じておいた方が良さそうね。
   今一度、生薬の残りを確認して……残り具合によっては、本格的な冬になってしまう前に麓の町へ出た方が良いかも知れない。


   ……。


   常に切らさないようにはしているけれど……初めての冬だから、念には念を入れないと。
   雪が降り始めたら、町には行けなくなるかも知れない……積もったら、尚の事。


   ……そろそろ、か。


   それでも屹度、いざとなったら付いて来て呉れる……いいえ、矢張り雪の山道は危ないわ。
   経験のない私にだって、それくらいは分かる……危険が伴うお願いなんて出来るわけがないし、言わせてもいけない。


   ……。


   午後の診療は、先ずは午前中に来られなかった方への往診……その帰りに二件、お薬を届けて。
   戻って来たら、訪ねて来た患者さんの診療……お薬を煎じる時間が取れればそれで良し、取れなければ夜に。


   ……良し。


   んー……あれこれと考える前に、先ずはお昼にしましょうか。
   屹度、お昼の頃合いは過ぎているでしょうし……。


   ……。


   そろそろ、まことさんが来て呉れるかも知れない。
   お茶の支度と、


   お茶の支度は、あたしがしよう。


   ……。


   こ、こんにちは、大夫。
   そろそろ良い頃合いかと思って、来たのだけれど。


   ……ふふ。


   うん? 未だ、早かったかな。
   ならば、部屋の隅に……。


   いいえ、丁度良かったです。
   今し方、午前最後の患者さんがお帰りになられたところですので。


   然うか、それは丁度良かった。


   ……そのお鍋は。


   芋粥を作ってきたんだ、朝は大根の粥だったから。


   芋粥、ですか。


   どうだろう?


   はい、有り難く頂きます。


   うん。


   ところで、まことさん。


   ん、なんだい?


   どれくらい、待っていたのですか?


   え?


   外で。


   いや、あたしは今来たところだよ。


   然うですか?


   そ、然うだよ。


   然うですか。


   う、うん、然うなんだ。


   然うしたら、お湯の支度をしますね。
   少しの間、待っていて下さい。


   足なら、洗ってきた。


   え。


   水で。


   水って……足、冷えていませんか。


   此れくらい問題ない、大丈夫だ。


   それは、冷えているということですよね?


   洗った直ぐ後は冷えていたけれど……然う、歩いているうちに温まったんだ。


   どこの水を使ったのですか?


   ……。


   まことさん?


   ……其処の、井戸の水を。


   と言うことは……然程、歩いていませんね。


   や、でも、全く歩いていないわけでじゃ


   いけません、風邪を引いてしまいます。


   い、いつもしていることだし……それにあたしは、躰が冷えたとしても一時的なもので直ぐに温かくなるから。
   足もまた、然うで……大夫なら、良く知っていると思うのだけれど。


   駄目です、私の気が済みません。


   き、気が?


   然うです、ですので大人しく座って待っていて下さい。


   あ、や、でも、診療所の中は暖かいし……。


   まことさん。


   わ、分かった、待ってる。


   宜しい。


   お、応……。


   お湯は湧いていますので、直ぐに支度出来ますよ。


   ……じゃあ、あたしは水の用意を。


   いいえ。


   いや、でも。


   と、言いたいところですが、お願い出来ますか。


   うん、お願いされたい。


   では、お願いします。


   うん。


   ……。


   ……。


   ……まことさんの家の囲炉裏の火。


   ん?


   ……あの後、火鉢にも移したんです。


   あぁ然うか、火鉢もあったね。
   済まない、抜け落ちていた。


   いいえ、囲炉裏だけでも十分に助かりましたから。


   次は忘れないようにするよ。
   それでは、ちょっと行ってくるね。


   あ、水瓶の水を……。


   いや、水瓶の水は使うだろう?


   使いますけれど、また汲めば良いだけのことですから。


   本当に良いのかい?


   はい、どうぞ水瓶の水を使って下さい。


   然うか、ならば有り難く。


   ……。


   そして、使った分はあたしが後で汲んで来よう。
   いや、どうせだから減っている分だけ汲んで来ようか。


   ……まことさん。


   大夫、良いだろう?


   ……もぅ。


   ん、だめかい?


   ……だめではないですけれど。


   けれど?


   ……譲りませんよね?


   うん、譲らない。


   もぉ……では、お願いします。


   うん、任せて欲しい。


   ……まことさんったら。


   大夫、水瓶の水で良いのなら此方は直ぐだよ。


   ……お湯は、持って行けば良いだけですので。


   桶は此れで良いだろうか。


   はい、それで。
   其処に置いて貰っても良いでしょうか。


   ん、分かった。


   ありがとうございます。


   では、改めてあたしは水を……。


   ……。


   大夫。


   ……はい?


   やっぱり、自分でやろう。


   自分で?


   お湯も、あたしが。


   ……。


   い、一応、きれいに洗ってきたつもりなんだ。
   だからこのまま上がっても……なんだったら、確認して呉れても良い。


   ……。


   ……大夫、やっぱりお願いしても良いかい。


   はい、まことさん。


   き、気を付けてね。


   ……十分に。


   ……。


   よいしょ……。


   あ、あぁ。


   ……。


   ……なんでもない。


   はい……。


   ……。


   ……心配性。


   え、なに……。


   ……いえ。


   そ、然うか……。


   ……ん、此れくらいでしょうか。


   ね、大夫、その鉄瓶に


   ありがとうございます。
   けれど、まことさんは此の桶に水を足して下さい。


   ……はい。


   ……。


   あの、大夫。


   なんでしょう。


   此のお湯……火鉢で、沸かしていた?


   いえ……火鉢のお湯は、お茶の為に。


   では、囲炉裏で?


   ……はい、然うです。


   然うか……。


   ……。


   ……ん、此れくらいで良いか。


   手を入れてみましょう。


   え……あ。


   ……少し熱いようですが。


   ど、どれ……う、少し熱い。


   けれど、此れくらいの方が温まるかも知れませんね。


   も、もう少し足しても良いかな……。


   ……くれぐれも、温くなり過ぎないように。


   う、うん……。


   ……。


   ……良し、此れで。


   水瓶のお水……そこまでは、減っていないけれど。


   それじゃあ、冷めてしまう前に洗ってしまおうかな。


   ……お湯加減は、丁度良くなりましたか?


   うん、なった。


   ん……それは良かったです。


   よ、と……。


   ……。


   ……あぁ、あったかい。


   やっぱり、冷えていましたね。


   ……うん、然うみたいです。


   ……。


   て、大夫、何処に行くんだい?


   私は、井戸に水を汲みに


   やぁ、待った待った。


   ……。


   汲むのは、今直ぐでないと駄目かい?


   駄目ではありませんが……まことさんに汲んで貰う前に、と思って。


   な、なら、今直ぐ


   行きませんよ。


   ……へ。


   まことさんとお昼を食べてからにします。


   ……。


   ふふ、何ですか?


   い、いや……大夫のそんな顔、初めて見たなと。


   ……。


   や、そんな顔もなかなか……。


   ……嫌な顔、していましたか。


   へ?


   ……嫌な顔、でしたよね。


   嫌な顔では、全然ないよ。
   寧ろ、とても良いと思った。


   ……。


   こう……ぐっと来た。


   ……まことさん。


   あ、あれ……。


   ……足を温めたら、先ずはお茶にしましょう。


   お、応、然うしよう。


   ……今、体調を崩している方が増えているのです。


   うん? 然うなのかい?


   ……恐らく、季節の変わり目で。


   あぁ、だから……。


   ……温め終わったら、どうぞ上がって下さい。


   大夫。


   ……。


   お茶はあたしが淹れるよ。
   大夫には午前中の診療の片付けがあると思うから。


   片付けと言っても、然程ではありません。
   直ぐに終わりますよ。


   あ、足も直ぐに


   確りと、温めて下さい。


   ……はい、分かりました。


   まことさんが温まっている間に、お昼の支度もしておきますので。


   うん、ありがとう……。


   ……。


   ……ふぅ。


   あの、まことさん。


   ん、なんだい……あ、ちゃんと温まっているよ。


   ……その、お大根の澄まし汁を作ってみたんです。


   あぁ、大根の……え。


   まことさんが畑に行った後に、思い立って……良かったら、食べて下さい。


   た、食べる、食べるよ、勿論。


   ……お口に合えば良いのですか。


   合うよ、問題ない。


   ……。


   た、楽しみだ。


   ……良ければ、お代わりもどうぞ。


   あ、あぁ、然うする。
   ううん、然うさせて貰う。


   ……。


   はぁ……なんか、良い。


   ……ところで、まことさん。


   なんだい……大夫。


   ……結局、どれくらい外で待っていたのですか。


   それは……んー、どれくらいかなぁ。


   ……お粥が冷たくなっています。


   まぁ、大したことではないよ……火にかければ、温まるし……。


   ……然うですね、火にかければ温まりますよね。


   うん……え。


   ……。


   大、夫……?


   もう、どうして然うなのですか。


   え、えぇ?


   中に入っていて下さいと、いつも言っているでしょう。
   今日だって隅で待っていると言っていたのに、ちっとも入って来ないのだから。


   あ、や、今日は未だ患者さんが、さ、三人くらい居たから……。


   何人居ようとも、構いません。
   中に入って待っていて下さい、良いですね。


   は、はい。


   今度、然うしなかったら……。


   す、する、するよ。
   中に入って、隅で待ってる。


   ……今度こそ、ですからね。


   う、うん、今度こそだ……。


   ……。


   ……大夫、怒った顔も。


   まことさん。


   は、はい、なんでもないです。


  5日





   ……。


   うん……着いた。


   ……着きましたね。


   あとは……こうして。


   ……。


   大夫、熾火になるまで居ても良いだろうか。


   私は、助かりますが……。


   うん、ならば居よう。


   まことさんは畑に行かなくても良いのですか。
   いつもならばもう、作業を再開している頃合いなのに。


   ……迷惑、だろうか。


   いえ、迷惑だなんて。


   ならば、居させて欲しい。


   まことさん……。


   ……ごめん、大夫。


   いいえ……私は、助かりますから。


   ……。


   ……熾火、消えていましたね。


   ん……少し、遅かったみたいだ。


   ……。


   此れ……持って来て良かったよ。


   ……ありがとうございます、まことさん。


   いや……役に立てて、良かった。


   ……矢張り、火打石よりも手っ取り早いですね。


   うん……火を移すだけだからね。


   ……。


   ……。


   ……ね、まことさん。


   うん……?


   暖かい頃に比べると、畑の作業は落ち着くものなのですか……?


   やることはあるけれど、忙しいという程ではないんだ。種を蒔くことはもう、春までないし。
   いつもの作業の他に、冬に向けての支度があるくらいかな。


   ……雪の頃は、家に居ることが多くなるのですか。


   いや、然うでもない……雪掻きをしなければならないから。


   ……雪掻き、ですか。


   大夫の診療所もやるから、心配しないで欲しい。


   ……自分で出来ることならば、


   危ないから、駄目だよ。


   ……でも。


   雪掻きをするのならば……少なくとも、あたしとふたりでなければ。


   ……。


   そもそも雪掻きは村の皆でするものだから……ひとりでするものでは、ないんだ。


   ……ならば、一緒にやらせて下さい。


   うん、分かった……一緒にやろう。


   ……宜しくお願いします。


   ん、此方こそ。


   ……足手纏いにならぬよう、精一杯努めます。


   初めの冬なんだ、出来る範囲ですれば良い。


   ……。


   無理だけは禁物だよ。
   大夫が怪我でもしたら、大変だからね。


   ……気を付けます。


   大夫。


   ……はい、まことさん。


   大夫が一番にすべきことは、医生の務めを果たすことだ。
   それは、雪掻きよりも優先される。


   ……。


   雪掻きはあたし達でも出来る……が、医生の務めは大夫でなければ果たせない。


   ……分かっています。


   ……。


   ……。


   ……ごめん、大夫。


   どうしてですか……?


   ……分かったような、口を。


   いいえ……まことさんが言っていることは、正しいです。


   ……けど。


   自分で分かっていることであっても、誰かに言われることで気を引き締め直すこともあります。
   まことさんの今の言葉は、詰まり、然ういうことです。


   ……。


   そんなに気にしないで下さい。
   私は、気にしていませんから。


   ……う、ん。


   まことさん。


   ……ん。


   気にしないで。


   ……うん、大夫。


   ……。


   ……。


   ……雪掻きの他に、外に出ることはあるのですか。


   土に埋めた大根を掘り起こしてみたり……あとは、川に行くこともあるかな。


   ……お魚を獲りにですか?


   うん……雪が降っていても、石斑魚は獲れるから。


   川は、凍ったりなどはしないのですか……?


   ……此の辺りの川は、滅多に凍ることはないよ。


   雪が積もったりなどは……。


   ……川に積もることは滅多にないが、川岸には積もるから滑らないように気を付けている。


   ひとりで行くのですか……?


   ……たまに、子供達を連れて行くこともある。


   子供達を……?


   ……冬釣りが好きなんだ。


   ……。


   子供にとって、冬籠りは退屈なものだからね……それくらいしか、凌ぐものがないんだよ。


   ……何か、他の。


   いや……少しは、外に出ないと。


   ……。


   子供でも、気が滅入ってしまうから。


   ……そこまで、なのですね。


   うん……此の村での冬は、そこまでなんだ。


   ……。


   ……。


   ……まことさんは、毎年。


   ねぇ、大夫。


   ……はい、なんでしょう。


   今年から、あたしが外に出る理由がひとつ増えたんだ。
   聞いて呉れるかい?


   ……聞きたいです。


   大夫に、逢いに来る。


   ……私に。


   然う、大夫に。


   それは……雪掻きを、しに。


   それだけじゃあ、ない。


   ……。


   ……それとも、それだけの方が良いか。


   まことさん……。


   ……それだけの方が、良いのなら。


   いいえ……良く、ないです。


   ……大夫。


   待って、います……。


   ……あぁ、良かった。


   出来れば、私もあなたの家に……。


   ……迎えに、来る。


   ……。


   冬籠りをしていると言っても、診療所に誰も来ないわけではないだろう。
   往診にも、行かなければいけない。


   ……。


   日中は医生として診療所に居て……動けるようになるのは、今と同じように。


   ……夕方以降。


   だから……迎えに来る。


   ……良いのでしょうか。


   良いんだよ……あたしが、然うしたいんだ。


   ……でも、私も。


   気持ちは、嬉しい……けれど、今回の冬は堪えて欲しい。


   ……堪えて?


   大夫は、雪の道に慣れていないだろう。
   明るいうちなら未だ良いかも知れないが、暗くなってからは


   都でも、雪は降ります。


   あぁ、然うだろう……だけれど、此の村の雪と都の雪とは違うと思うんだ。


   ……それに、雪の方が明るい時だって。


   どうか、分かって欲しい。


   ……。


   大夫……若しも、大夫に何かあったら。


   ……それを言うのなら、まことさんだって。


   あたしは……。


   ……。


   ……。


   ……外に出る時は、どうか気を付けて下さいね。


   うん……気を付けるよ。


   ……。


   大夫も、気を付けて……。


   ……はい、気を付けます。


   ……。


   ……。


   大夫……あたしのことは気にせず、今日の診療の支度を進めて欲しい。


   はい……それでは、然うさせて貰います。


   うん……。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、まことさん。


   なんだい……。


   ……支度をしながら、お話を続けても良いですか。


   それは……大夫が、それで大丈夫なら。


   ……私なら、大丈夫です。


   然うか……なら、話そう。


   ……。


   ……うん、此れならば良い熾火が出来そうだ。


   矢張り、便利ですね……。


   ……。


   ……都の火折子は消耗品なんです。


   竹で出来ていれば……然うだろうね。


   ……。


   ……大夫、聞いてよ。


   何を聞けば良いのでしょうか……。


   ……大夫が知りたいと思っていることを。


   私は……。


   ……大夫にしか、話せない。


   ……。


   大夫が聞いて呉れなければ……あたしは、話さない。


   ……まことさん。


   何もないのなら、それで良い……。


   ……本当に、良いのですか。


   あぁ……良いよ。


   ……聞いても。


   ……。


   ……その打竹は、戦の頃に使っていたものではありませんね。


   ……。


   仕舞い込んでいたと、まことさんは言っていましたが……戦に使っていたものを残しておくとは、私には到底思えないのです。


   ……どうして、然う思う。


   戦のにおいがするからです。


   ……。


   そして……まことさんは屹度、幾つも打竹を作っていた。
   何故なら……打竹もまた、消耗品だからです。


   ……あぁ。


   その打竹は、戦が終わってから作られたもの……最近とは言いませんが、だからと言って、然う遠くもないと推測します。


   ……その通りだ。


   ……。


   久しぶりに作ってみたけれど……覚えているものだな。


   ……それだけ多く、作っていたのですね。


   気を紛らわす為でもあったんだ……。


   ……。


   ……でなければあたしは、もっと多くのものを壊していただろう。


   壊して……。


   ……。


   ……どうして、作ろうと思ったのですか。


   作ってみようと、思ったから。


   ……。


   戦の為ではなく、営みの為に使うのならば……然う、便利だと思ったんだ。


   ……けれど、それは戦の記憶も連れてきた。


   ……。


   まことさん……。


   ……戦の後に作った筈なのに、戦のにおいがするんだ。


   ……。


   それは屹度、あたしの手に戦のにおいが染み付いているから……。


   ……気のせいだとは、私には言えません。


   大夫……。


   言えることがあるとすれば……今のまことさんの手は、戦ではなく、お野菜を育てる為に。


   ……。


   今となっては戦のにおいよりも、土のにおいの方が濃いと……私は、思うのです。


   ……土のにおい。


   土のにおいがする、此の手で。


   ……。


   私を慈しみ……愛して呉れる。


   ……こんな手で。


   ねぇ、まことさん……打竹は、戦の時にだけ使っていたのですか。


   ……。


   他に、使い道はなかったのですか……?


   ……煮炊きをするのにも、便利なんだ。


   詰まり、生きる為に打竹を使って火を熾していたのですね……。


   ……あぁ、然うなんだ。


   暖を取る為にも、それは使われた……。


   あぁ……その通りだ。


   ……戦のにおいは、付き纏っているかも知れない。


   ……。


   でも……どんな道具でも、使い方次第です。


   ……使い方次第。


   然うです……。


   ……。


   火は凶暴な武器にも成り得るでしょう……けれど、それだけでは決してない。


   ……ごはんを作るには、火が必要だ。


   寒い冬に火がなければ、凍えてしまうでしょう……。


   ……。


   打竹は、打竹として……営みの中で、その役割を果たせば良い。
   今は、難しくても……いずれ、然う思える日が来るかも知れない。


   ……来る、かな。


   来なくても、良いんです……来なければ、使わなければ良いだけなのだから。


   ……。


   ……私は囲炉裏の火が、熾火が好きです。


   あたしも……好きだ。


   ……扱い方を間違えれば、大変なことになってしまうかも知れないけれど。


   間違えなければ……それは、命を繋いで呉れるものとなる。


   ……。


   ……ありがとう、大夫。


   いいえ……私は話をしただけですから。


   ……。


   ……。


   ……あたしさ、覚えているんだ。


   何をでしょう……?


   ……打竹の作り方。


   然うですか……。


   ……今度、大夫に作りたいと思う。


   私に……。


   ……うん。


   作って呉れるの……?


   ……大夫が、要らないのなら。


   欲しいです。


   ……。


   あなたが作って呉れるなら……。


   ……なら、作る。


   ありがとうございます……まことさん。


   ……大夫の役に立ちたい。


   役に立ちたいだなんて……。


   ……少しでも、役に立てたら。


   まことさんが居なかったら……私は、此処でも生きられなかったかも知れない。


   ……。


   だから……そんな風に、思わないで。


   ……あたし。


   今朝だって……まことさんが、居て呉れたから。


   ……。


   ……。


   ……あの、大夫。


   はい……まことさん。


   ……打竹は、医生である大夫にしか作らない。


   はい、分かりました……。


   ……。


   ……色々ありがとう、まことさん。


   うん……大夫。


   ……。


   ……あたしは、そろそろ。


   そろそろ、行きますか……?


   うん……そろそろ、行かないと。


   ……。


   ……また来ても良いかい、大夫。


   勿論です……また、来て下さい。


   ……患者さんが居たら、隅で大人しくしているよ。


   ふふ……はい。


   ……薬を届ける必要があったら、言って欲しい。


   はい……その時は、お願いしますね。


   うん、任せて。


   ……。


   じゃあ……また。


   ……お昼に、また。


   昼……?


   ……良ければ、一緒に食べましょう。


   あ……。


   ……どうでしょうか。


   う、うん……食べよう、一緒に。


   でしたら……私が、畑に。


   迎えに、来るよ。


   ……。


   だめかい……?


   ……いいえ、待っています。


   ……。


   ……また、お昼に。


   ん……また、昼に。


  4日





   改めてお大事にして下さい。
   何かありましたら、直ぐに仰って下さいね。


   困ったことがあれば、言って呉れ。
   あたしに出来ることならば、手を貸そう。


   それでは、お邪魔致しました。


   じゃあ、また。


   あ、そのままで結構ですよ。
   どうか、お気になさらず。


   あたし達のことなら、気にしないで欲しい。
   勝手に来て、勝手に世話を焼いただけなのだから。


   困った時はお互い様と言います。
   ですから、本当に良いのです。


   持ちつ持たれつ、さ。此の村ではそれが当たり前だろう?
   相手が大夫であっても……そもそも大夫はもう、此の村の者だ。
   然うだろう、大夫。


   はい、まことさんの言う通りです。


   然うだ、魚が獲れたら持って来よう。
   今日は獲れないかも知れないが、獲れたら遠慮なく受け取って欲しい。


   それは良い考えだと思います。


   だろう?


   はい、お魚は蛋白質を含んでいるので栄養補給には丁度良いんです。


   うん、兎に角躰に良いことは分かった。


   獲れると良いですね、まことさん。


   屹度獲れるさ、大夫。石斑魚は獲れやすいんだ。
   ま、石斑魚でなくても、美味い魚が獲れればそれで良い。
   好き嫌いは、二人ともなかっただろう? うん、それは良いことだ。


   それでは、そろそろ。
   どうぞゆっくりとお休み下さい……はい、さようなら。


   うん、改めてまた。


   ……。


   ……。


   ……ふぅ。


   大夫。


   お休みして呉れていて、本当に良かった。


   安心したかい?


   はい、とても。


   うん……それでは行こうか、大夫。


   はい、まことさん。


   ん。


   ……。


   ……。


   ……お粥とお漬物。


   ん?


   受け取って貰えて、良かったですね。


   あぁ、本当に良かったよ。


   お魚は獲ってそのまま持って来るのですか。


   いや、下拵えまではしようと思っている。
   血合いや鱗を取るのは、今の状態だとそこそこ手間になってしまうだろうから。
   大夫は、どう思う?


   まことさんに下拵えまでして貰えれば、ふたりは屹度助かると思います。


   うん、ならば然うしよう。


   ありがとうございます、まことさん。


   うん? それはふたりに代わってかい?


   いえ、医生としての私の気持ちです。


   ふふ、然うか。


   ふふ、はい。


   塩焼きならば、時間は掛かるが、手間はそこまで掛からない。
   連れ合いにでも、出来るだろう。


   美味しいらしいですよ。


   うん?


   自分よりも、連れ合いの塩焼きの方がうんと美味い。塩焼きだけは敵わない。
   いつかお灸をしている時に、然う、話して呉れました。


   然うか。
   なら、塩焼きだな。


   はい、然うだと思います。


   けど、そんなに美味い……美味しいのか。
   少し、気になるな。


   ……。


   大夫は……大夫?


   ……。


   どうした?


   いえ……連れ合いの方の足のことを、少し。


   あぁ。


   あの足で川に行くのは、少し難しいので……まことさんがお魚を獲って来て呉れると、本当に助かると思うのです。


   ……確かに、あの足ではもう難しいだろう。


   はい……。


   ……。


   ……?
   まことさん?


   連れ合いの片足がああなってしまうまでは、ふたりで獲って来ては良く食べていたらしい。


   ……。


   筌で獲るだけでなく、ふたりで釣りをすることも好きだと。
   仲睦まじいと、それはもう、有名だったらしい。


   ……直接、お話を伺ったのですか。


   ……。


   ……美奈子ちゃん、ですね。


   あいつは。


   ……。


   村のことを、本当に良く知っている。
   仮令、あいつが生まれる前のことであったとしても。


   ……然うみたいですね。


   続けない方が、良いだろうか。


   ……本来ならば、ご本人から聞くべきだと思います。


   然うか……然うだよな。


   けれど……医生として、お話を伺おうと思います。


   ……。


   ですので……どうか、続けて下さい。


   ……分かった。


   ……。


   連れ合いが足を痛めてしまってからは、ふたりで川に行くのはめっきりと減ってしまったらしい。
   それでも、ひとりで獲りには行っていたらしいのだけれど……それも、歳を重ねたことで出来なくなってしまった。


   ……腰が、良くないのです。


   あぁ、知ってる……大分、曲がってしまっているから。
   それで、お灸をしているのだろう……?


   ……はい。


   今朝も、家まで送るつもりでいたんだ。


   ……私も、そのつもりでいました。


   けれど……連れ合いの顔を見た時の安心したような表情を見たら、大丈夫だと。


   ……まことさんは、見送って呉れたのでしょう?


   あぁ……一応。


   ……ならば、それで良かったと思います。


   うん……。


   ……。


   ……。


   ……現状、畑作業も厳しくなってきていると言わざるを得ません 


   それでも、続けるのは……生きているから、だ。


   ……。


   今となっては、畑が生きる支えなのだと……だから、それを奪うことは美奈の家の者でも出来ない。
   寧ろ、してはいけないんだ……本当に、動けなくなってしまうまでは。


   ……確かに、生きる支えがあることはとても大切なことです。


   それに畑ならば……平らだから、滑落することもない。


   ……滑落。


   大夫も知っての通り、連れ合いが足を痛めたのは山から滑り落ちたせいだ。
   結局、治り切ることはなく……ずっと、引き摺るようになってしまった。


   ……お天気が悪いと、酷く痛むそうです。


   その痛みには、大夫の灸が効くと……。


   ……一時的ではありますが。


   嬉しそうに言っていたよ……大夫に灸をして貰うと、大分楽になると。
   足だけでなく、腰にも良く聞くと。


   ……。


   だから、感謝していると……大夫には、言わないかい?


   いえ……何度も、言われています。


   ……。


   ……そのたびに、心根のきれいな方達だと。


   偏屈さが、ないんだ。


   ……本当に。


   ……。


   ……足の骨の形が変形しているんです。


   骨の形……。


   ……その時に負った傷の痕だと。


   若しも、大夫が居て呉れたら。


   ……。


   きれいに、治ったのだろうか。


   ……分かりません。


   ……。


   分かりませんが……手は尽くしたと思います。


   ……何も出来ないよりは、ずぅっと良い。


   まことさん……。


   ……。


   ……。


   ……あの家には家を継ぐ子がひとり、居たらしい。


   お話は聞いています……家を出て行って、もう何十年も経つと。


   本当は、違うんだ。


   ……え。


   出て行ったのではなく……親と一緒に、山から滑り落ちたんだ。


   ……そんな。


   雨が降った後で、山は泥濘んでいた。


   ……どうして、山に。


   詳しくは、聞いていない。
   が、行かなければならない理由があったのは確かだろう。
   兎に角、子が十を過ぎた頃、ふたりで山に入ったらしい。


   ……。


   子が足を滑らせ、落ちた……親は咄嗟に手を伸ばしたけれど、躰の均等を失って、矢張り落ちてしまった。
   幸い、親は途中で木に引っ掛かり、足には酷い傷を負ったが、命は助かった。


   ……子供は。


   下まで落ちてしまったと思われる子は、見つからなかった……と言うより、その時は見つけようがなかった。


   ……土砂崩れ、でしょうか。


   あぁ……雨で緩んでいた土が、崩れた。


   ……その後も、見つけられなかったのですね。


   村の男達総出で、懸命に捜し回ったらしい……が、とうとう。


   あぁ、だから……村を、出て行ったと。


   ……屹度、然うだと思う。


   見つからないのは……生きているから。


   若しかしたら、何処かで生きているかも知れない。


   ……然う、思うことが出来れば。


   だから……あのふたりがあの家から出ていくことはない。


   ……。


   ずっと、子供の帰りを待っていると……美奈は、本当に良く知っている。


   ……美奈子ちゃんは誰から話を聞いているのでしょう。


   多分、あいつの親父殿から。


   ……。


   然ういう役割なんだ……あいつの家は。


   ……いずれ、美奈子ちゃんも。


   あの家を継ぐだろう。
   あの家には、美奈しか居ないから。


   ……予め、定められた道。


   あいつは、都に憧れを持っている……らしい。


   ……都について、何度か聞かれたことがあります。


   あたしも、都人ならばそんなものは贈らない……と、何度も言われたよ。


   ……。


   都人は想い人に、大根なんて贈らないだろう……?
   なんでも、簪とか、笄とか……きれいな石とか。


   ……私は、嬉しかったです。


   ……。


   ……とても、嬉しかった。


   大夫で……本当に良かったと思っている。


   ……私には、美奈子ちゃんを満足させることは出来ませんでした。


   ……。


   都で流行っている着物や小物、お化粧など……私は、然う言ったものに頗る疎くて。


   好きなものが違うんだ……仕方がないさ。


   ……もう少し、詳しければ。


   それでも、あいつには物足りないと思う。
   実際に自分で行って……その目で確かめなければ、あいつは屹度満足しない。


   ……儘ならないものですね。


   あぁ……全くだ。


   ……。


   魚……明日の朝にでも、獲れれば良いが。


   ……子が、何処かで生きているとしたら。


   あたし達よりも、歳上らしいから……多分、四十近いのだと思う。


   ……私達も、生まれていませんね。


   然うなんだ……。


   ……美奈子ちゃんは、そんな昔のことでも。


   いつか、都に行くようなことがあれば。


   ……。


   連れて行くことは無理でも、土産のひとつかふたつくらいならば、買って来てやっても良い。


   ……まことさん。


   大夫とふたりで行って、大夫とふたりで此の村に帰って来るんだ。


   ……若し、そんなことがあれば。


   うさぎちゃんにも買って来なければいけないな。


   ……くれぐれも、忘れてしまわぬように。


   あぁ……うっかり忘れてしまったら、大変だ。


   ……ふふ。


   ん……?


   いえ……目に浮かぶようで。


   あぁ……はは、あたしもだ。


   ……。


   ……。


   ……その頃にはふたりとも、大人と呼ばれる年齢になっているかも知れません。


   幾つになろうとも、買って来てやるさ……要らないと言われたら、その時はその時だ。


   ……然うですね。


   金が、役に立つな……。


   ……生きたお金の使い方だと思います。


   生きた……?


   ……ひとの為に使うお金のことを、然う言うんです。


   それは……都の言葉なのかい。


   はい……と言っても、今ではあまり使われていないようですが。


   然うか……勿体ないな、悪いことでは全くないのに。


   ……。


   大夫……大夫が行きたいと思わなければ、行かないよ。


   まことさん……。


   ……大夫が、一番だから。


   ……。


   ……診療所、もう少しの間だけで良いから、着かなければ良い。


   ……。


   ん……大夫?


   ……誰かに、見られているでしょうか。


   うん……多分。


   ……離れた方が、良いでしょうか。


   いや……離れなくて、良い。


   ……。


   ……離れないで、欲しい。


   ならば……離れません。


   ……。


   ……あ。


   あたしも、離さない。


   ……。


   ……良いだろう?


   ん……離さないで。


   ……。


   ……お魚。


   獲れたら……出来れば、ふたりで持って行きたいと思う。


   ……。


   考えておいて、欲しい……。


   ……はい、分かりました。


   ん……。


  3日





   ……。


   大夫。


   ……ん。


   ごめんよ、待たせてしまって。


   いえ……大丈夫です。


   それでは、行こうか。


   はい、行きましょう。


   うん。


   ……。


   ねぇ、大夫。


   ……はい。


   また、来て欲しい。


   ……。


   いつでも、何度でも来て欲しい。


   ……はい、また来ます。


   ん。


   ……お鍋、重たくはありませんか。


   あぁ、平気だよ。
   大夫は漬物をくれぐれも宜しく頼む。


   はい……落としてしまわぬように、気を付けます。


   うん……それでは、先ずは患者さんの家に。


   ……あの、まことさん。


   うん?


   行ってらっしゃい、と言っても良いでしょうか。


   え?


   ……今朝、言えなかったので。


   う、うん、言って欲しい。


   では……行ってらっしゃい。


   うん、行ってくる。


   今日も、どうか気を付けて。
   お怪我など、しませんように。


   あぁ、気を付けるよ。


   はい。


   あ、あたしも言っても良いだろうか。


   はい?


   その、行ってらっしゃいと。


   ……。


   あ、あたしが言うのはおかしいか……大夫の家は此処ではないし、此れから帰るわけだし。


   ……いえ、言って貰えると嬉しいです。


   ……。


   ……おかしい、でしょうか。


   い、いや、おかしくない……。


   ……。


   行ってらっしゃい……大夫も、どうか気を付けて。


   ありがとうございます……行ってきます、まことさん。


   うん……。


   ……。


   ……。


   ……良いものですね。


   あぁ……とても。


   ……。


   ……ねぇ、大夫。


   はい……なんでしょう。


   若しかして、腰のものが気になっている?


   ……。


   良いよ。


   ……水筒では、ないですよね。


   うん、水筒ではない。
   取り敢えず、歩きながら話そうか。


   ……はい。


   ……。


   ……。


   ……それで、此れのことなのだけれど。


   ……。


   あたしが教えなくても、大夫なら知っていそう気がする。


   ……打竹、ですよね。


   うん、やっぱり知ってた。


   ……ごめんなさい。


   ううん、謝ることではないよ。


   ……。


   大夫なら……知っているだけでなく、若しかしたら、持っていたこともあるかも知れないと。
   然う、思っただけなんだ……だから。


   ……私は。


   違っていたら、ごめんよ。


   ……私が持たされることは、一度もありませんでした。


   あぁ、然うか。


   ……けれど、使ったことならばあります。


   ……。


   昔……何度か。


   ……大夫の言う通り、此れは打竹だ。


   ……。


   思い立って、引っ張り出してきた。
   仕舞い込んでいたけれど、直ぐに見つかって良かった。


   ……それを、どうするのですか。


   診療所の囲炉裏の火が消えていたら、此れで熾そうと思ってね。
   此れならば、火打石を使うことなく容易に火を熾すことが出来る筈だから。


   ……確かに、それならば容易だと思います。


   うん。


   ……。


   使うことがなくてずっと放っておいたんだけれど、未だ使えるようで良かったよ。


   ……蓋から出ているのは、火縄ですよね。


   あぁ、火縄だ。


   ……火種は。


   囲炉裏の火から取ってきた。


   ……。


   もっと、聞きたいかい?


   ……若しも、話したくないのなら。


   聞かれたくなければ、わざわざ引っ張り出したりなんかしないさ。


   ……。


   ……大夫にしか、話さない。


   まことさん……。


   ……。


   ……。


   ……此れは、あたしが此の暮らしを始める前に良く使っていた。


   ……。


   あたしが、作ったんだ。


   ……まことさんが?


   正しくは、作らされた。
   支給されなければ、己で作れと言われて。


   ……物資が、不足していたからですね。


   それもあるけれど……そもそも下っ端には、最初から回ってこないから。


   ……下っ端だなんて。


   あたしは手先が器用だったからさ、わりと簡単に作れてしまって。
   ひとの分まで作らされそうになったけれど……結局、ふたつくらい余計に作らされたかな。


   ……作り方は。


   隊長が知っていた。


   ……。


   余計に作った分は、ふたつとも隊長のものになったよ。
   自分で作れるくせに、あたしに作らせたんだ。


   ……火縄は、残っているのですか。


   いや、此れだけだ。
   此の際だから、使い切ってしまおうと思っている。


   ……火縄を使い切ってしまったら、その打竹はどうするのですか。


   火縄を使い切った暁には、この打竹は捨ててしまおうと思う。
   あたしにはもう、必要ないから。


   ……火縄を作ることは。


   作り方は、忘れてしまった。
   だからもう、作れない。


   ……然う、ですか。


   覚えていた方が良かったと思うかい。


   いいえ……今のまことさんに必要がないのであれば、忘れてしまっても良いと思います。


   うん……ありがとう。


   ……。


   もっと良く見てみたいかい?


   ……まことさんが作ったものならば。


   なんなら、大夫にあげても良いのだけれど。


   いえ、そんなつもりは。


   こんなものは、持っていない方が良い。


   ……あ。


   どうせ、持つのならば……戦のにおいがしないもの、真新しいものの方が良い。


   まことさん……。


   確かに、便利ではあるんだけれどね。


   ……処分する前に、中を見せて貰っても良いですか。


   あぁ、構わない。


   ……ありがとうございます。


   ただ、見るのならばあたしの傍で見て欲しい。


   ……。


   約束、して呉れるかい。


   ……はい、約束します。


   ……。


   まことさん……あなたの傍で、見せて下さい。


   ……うん。


   ……。


   ねぇ、大夫……都にも、此れと似たようなものがあると聞いたことがあるのだけれど。


   ……火折子です、矢張り竹で作られています。


   然うか、竹は便利だな。
   筍は、食うと美味いし。


   けれど。


   うん?


   都人の誰しもが持っているというわけではないのです。


   ん、然うなのかい?


   はい、それ自体がとても高価なものなので……持っていない者の方が多いです。


   高価……詰まり、金を持っている者ではないとそれは持てないと言うわけか。


   持っているとすれば高い地位の家、或いは、大きな商家でしょうか。
   火折子の燃料もまた高価なものなので、使い続けるにはどうしてもお金が必要なんです。


   都に住んでいる者は皆、持っているものだと思っていた。


   庶民の多くは、今でも火打石を使っています。
   あとは、火売りの者から種火を買うことが出来ますが……やはり、お金が掛かりますので。


   種火を分けて貰うのではなく、金で買うのか……都で暮らすには、何かと金が要るな。


   ……近所同士で、分け合っている者達も居ると思います。


   助け合い、か。


   ……はい。


   ひとを蹴落とすのはひとだが、ひとを助けるのもまたひとだと……良く言ったものだ。


   ……だけれど、種火を分け合うことは法で禁じられているのです。


   ……。


   だから、民は隠れて……。


   ……どうして、禁じられているんだい。


   大火に繋がる恐れがあるからです。


   ……大火に?


   ずっと昔に、種火を分け合ったことで大火になってしまったと……。


   ……本当に種火の分け合いが原因だったのか。


   記録では、然うなっています。


   ……。


   放火は、仮令過失であっても……殺人と並ぶ程の大罪なのです。


   ……記録では然うなっているかも知れないが、本当は違ったかも知れない。


   然うですね……だけれど、今となっては。


   ……。


   法を作る口実が欲しかった……私は、然う考えています。


   ……口実。


   悪法もまた、法なり……。


   ……。


   火は……お金に成り得るので。


   ……金。


   火折子は、象徴にもなっているんです。


   しょうちょう?


   はい……富裕層を示すものとして。


   ふゆうそう……何処まで行っても、金か。


   火折子を持っていなければ、名家とは認められない。
   然ういったこともあるそうです。


   ……厄介だな。


   気位ばかりが高くて、品がないのです。


   ……。


   ……お金で人心を弄ぶ、下衆な者さえ。


   金は……あまり、好きではない。


   ……。


   けれど、金があると何かと便利なのは分かる。
   まぁ、此の村で使うことは行商くらいでしかないが。


   ……都では、お金が全てです。


   ……。


   お金がないと……今日の食べ物さえも、手に入らない。


   ……畑を作れば良い。


   土地も……持ち分が、決まっています。


   ……。


   土地を得るのも……お金、です。


   ……あたしには無理だな、到底暮らせそうにない。


   ……。


   が……大夫が戻るというならば、別だ。


   いいえ……戻りません。


   ……然うか。


   私は……ずっと此処で、まことさんと生きていきます。


   ……あぁ。


   ……。


   ……大夫は、それを調べたことはあるのかい?


   はい……子供の頃に。


   ふふ……然うだろうと思った。


   ……ふふ、然うですよね。


   ……。


   ……それ以上のことは、聞かないのですね。


   大夫は……下衆では、ないから。


   ……。


   大夫は子供の頃に、それがどんなものか調べた。
   それを知ることが出来ればそれで良い、十分だ。


   ……。


   ……と、そんなことを話していたら家が見えてきたな。


   あぁ……本当。


   打竹は、火縄も見たいだろうから、使い切る前に見せたいと思う。


   ……。


   それとも、火縄には興味ないかい?


   ……あります。


   ならば、使い切る前に。
   直ぐに使い切ることはないが、早めの方が良いかも知れない。


   分かりました……ならば、早めに。


   ん。


   ……。


   ……あの、大夫。


   まことさん。


   うん?


   ……。


   どうした……?


   ……いえ。


   然う、か……。


   ……。


   ……。


   ……着きましたね。


   あぁ……着いたね。


   お訪いを入れましょう。


   うん、然うしよう。


   ……。


   ……。


   御免下さい、居らっしゃいますか。


   やぁ、居るかい?


   ……。


   ん、返事がないな。
   ふたりとも、居ないのか。


   ……作業に出てしまったのでしょうか。


   連れ合いの方は、分かるが……。


   畑の方に行ってみましょう。


   あぁ、然うしてみよう。


   畑は、家の裏手でしたよね。


   家の裏手の道を真っ直ぐ行ったところだ。


   お鍋は……。


   縁側に置かせて貰う。


   お漬物も置いて行きます。


   うん、その方が良い。


   ……。


   ……良し、行こう。


   はい、まことさん。


   ……なんでもなければ、良いが。


   出来れば、暫くは休んでいて欲しいのですが……。


   ……。


   ……。


   ……うん?


   あ……。


   ……。


   居らっしゃったのですね……良かった。


   ……若しかして、眠っていたのか。


   すみません、お休みのところ訪ねてきてしまって。


   済まない、起こしてしまった。


   ……あの。


   粥を作って持って来たんだ。漬物もある。
   朝餉には間に合わなかったかも知れないが、良かったら昼にでも食べて欲しい。


   ……。


   然うか……然うしたら、鍋を貸して呉れないか。
   あぁ、済まない。言って呉れたら、あたしが取ろう。


   まことさん、私が。


   いや、大丈夫だ。
   ありがとう、大夫。


   でも……。


   連れ合いは、畑か。
   あぁ、収穫か。


   ……。


   大夫。


   ……はい。


   ゆっくり休めるように、何か良いものはないだろうか。


   良いもの、ですか。


   良く眠れるような、そんなお茶があれば。


   ……それならば。


   あるかい?


   はい、あります。
   今、煎れますね。


   ん、頼む。


   お湯は、沸かしていますか……然うですか。
   それを分けて頂いても……はい、ありがとうございます。
   いえ、どうかご遠慮なさらず……休むことが、一番ですから。


   ……。


   どうぞ、お座り下さい。


   ……。


   私などは、お構いなく……いえいえ、本当に良いのですよ。


   ……やっぱり、大夫は良いな。


  2日
   拍手、ありがとうございます。
   とても、嬉しいです。





   ご馳走様でした、どれもとても美味しかったです。


   うん、御粗末様でした。


   石斑魚の塩焼きは美味しいですね。まことさんが一番好きだということも分かる気がします。
   皮はぱりっとして、身はふっくらとしていて……まことさんのお塩の加減も、絶妙で。


   石斑魚は小骨が多い魚なのだけれど、熾火でじっくりと焼くことで、あまり気にせずに食べられるようになるんだ。


   確かに、あまり気にせずに食べられました。
   骨まで食べられるのは、とても良いと思います。


   気に入って貰えたかい?


   はい。


   ……また、食べたいかい?


   機会があれば、また食べてみたいです。


   機会ならば、まだまだある。
   獲れたら、また塩焼きにしよう。


   はい、楽しみにしています。


   うん。


   ねぇ、まことさん。


   うん?


   良かったら、お魚を獲る筌をまた見せて貰っても良いですか。


   勿論、良いよ。
   今日の夕方にまた様子を見に行くつもりだから、大夫の都合が合えば一緒に行こう。


   はい、ありがとうございます。


   筌は、興味深いかい?


   お魚の特性を活かして捕まえる、その仕組みが興味深くて。


   ふふ、然うか。


   都に居る時は、実物も見たことがなかったんです。


   それでも知っていたのだから、大夫は物知りだ。
   大夫は本当に色んな書物を読んでいたんだね。


   ……書物と学問だけが、私の心の拠り所だったから。


   拠り所、か……然ういうものがあるのは、とても良いことだと思う。


   ……ひとでなくても、ですか。


   ひと?


   ……言われたことがあって。


   なんて言われたんだい?


   ……。


   ごめん……言い辛いなら。


   ……詰まらない人間、だと。


   は……。


   ……拠り所が、ひとではなくて。


   そんなの。


   ……あ。


   大夫の、勝手だろう。
   拠り所がなんであろうと支えになれば良い、ひとである必要なんて何処にもない。


   ……。


   大夫は詰まらない人間なんかではないよ。
   断言しても良い。いや、断言する。


   ……まことさん。


   だからもう、気にしなくて良い。


   ……はい、もう気にしません。


   うん。


   ……。


   筌を見に行くのは、今日の夕方でなくても、明日でも、明後日でも、あたしはいつでも構わない。
   大夫の都合に合わせるよ。だから、気兼ねすることなく言って欲しい。


   はい……ありがとうございます。


   ん、どういたしまして。


   ……お粥、どれくらい持って行きましょうか。


   然うだな……あの家はふたりだから、鍋の此の辺りくらいで良いかも知れない。


   お鍋ごと持って行きますか?
   良かったら、器に移しますが。


   鍋ごと持って行って、向こうの鍋に移して貰おうと思う。


   分かりました、では此のままにしておきます。


   ありがとう、大夫。


   いえ……此方こそ。


   うん?


   ……ううん。


   然うか。


   ……。


   さて、それでは少し休んでから行こうか。
   時間は未だ、大丈夫だよね。


   はい、まことさん。


   お茶は……もう、要らないか。


   ……半分、頂いても良いですか。


   ん、勿論。


   ……。


   ……。


   ……。


   ……どうぞ、大夫。


   ありがとうございます、まことさん。


   ん……どれ、あたしも半分。


   ……ね。


   ん?


   ……石斑魚を食べていて、少し、思い出したことがあるのです。


   うん、何だい……?


   ……ごめんなさい、急に。


   ううん……聞かせて。


   ……。


   ……何を思い出したんだい?


   石斑魚は……都では、嫌われているお魚だったんです。


   嫌われて……それはまたどうしてだい、こんなに美味しいのに。


   それは……とても臭いからです。


   臭い……?


   石斑魚は、水質汚染されている水域でも生息出来るお魚なのですが、然ういった場所に生息している石斑魚は臭くて食べられたものではないのです。


   此の辺りの石斑魚も、季節によっては少し泥臭いが。


   けれど、食べられますよね。


   あぁ、食べられる。
   子供は嫌がるが、大人は食べる。


   それは、塩焼きでも?


   食べられないことはないよ。
   だけど若しも臭いが気になるのなら、甘露煮にすれば良い。
   子供達は、甘露煮の方が好きだ。


   都の石斑魚は……甘露煮にしても、食べられるかどうか。


   そこまで、臭いが酷いのかい……?


   然う言われています。
   ですから、お店に並べられることはまずありません。


   ……甘露煮も、難しいのか。


   どうしても食べようとするのならば、臭い消しの為に味付けをかなり濃くしなければならないそうです。
   然うでないと、とてもではないけれど食べられたものではないと。


   そんな味付けだと……魚の風味も何もあったものではないな。


   はい……ないと思います。


   ……都の近くの川は、そんなに汚れているのかい。


   汚れた水を、そのまま流しているので。


   ……そんな汚れた水を流しているのか。


   自分達の生活が困ることがなければ、それで良いので……水質汚染のことなど、大半の者は気にも留めません。


   ……然ういうのは、嫌だな。


   ……。


   あ、大夫のことではないよ。


   ……私も、同じようなものです。


   同じようなもの……どうして、然う思うんだい。


   ……気にしながらも、あの場所で暮らしていたのですから。


   気にしていたのならば、同じではないよ。


   ……。


   大夫は、違う。
   同じでは、決してない。


   ……でも何もしていなければ、矢張り同じようなものだと思うのです。


   何もしていないと言うけれど、何をすればしたことになるんだい。


   ……それは。


   気にすることも、何かをしていることにはならないのかい?


   ……気にしているだけでは。


   何もならない?


   ……。


   それでも、あたしは……何もしていないとは、言えないと思う。


   ……。


   大夫。


   ……どうすれば、汚染された水質をきれいなものに戻すことが出来るか。


   考えた?


   ……けれど私は子供で、子供ひとりの力では。


   けれど、考えたのだろう?


   ……川には自浄作用があるんです。


   じ、じじょ……?


   自らきれいになる働きのこと……です。


   へぇ、それはすごいな。
   詰まり、何もしなくてもきれいになるということだろう?


   はい……。


   そんな働きがあるのに、川が汚れてしまったのはどうしてだろう。


   ……ひとのこが出す汚れた水の量が、その働きよりも上回っているからです。


   ……。


   上回ってしまうと……追いつかなくなってしまうのです。


   ……限界がある、ということか。


   然うですね……。


   であるならば、追いつくようにするには……汚れた水を、出さないようにすれば良い。


   然うすれば、川はまたきれいになって呉れる……。


   ……大夫は、すごいな。


   私は……何も。


   子供の時に、考えたんだろう? じじょう、さよう? なんて、子供の頃のあたしはちっとも知らなかった。
   川がどうしてきれいなのか、どうしてきれいになるのか……それを知っていたら、川を眺めるのが楽しかったかも知れない。


   楽しい……ですか。


   あぁ、楽しい。
   こうしている間にも、川はきれいな水を保つ為に働いているんだなと思えて。


   ……あぁ。


   だから、知れて良かった。
   ありがとう、大夫。


   ……どう、いたしまして。


   やっぱり、大夫は詰まらない人間なんかではないな……。


   ……。


   えと……話が少し、逸れてしまったか。


   ……いえ。


   ん、良かった。


   ……石斑魚は都では三塊魚と呼ばれていて、書物にも然う書かれていることが多いです。


   さんかいぎょ……。


   ……他には赤魚、或いは、赤腹と。


   あぁ、確かに腹が赤くなる時がある……春の頃だ。


   春は石斑魚の繁殖期です。


   繁殖期か……けれど、どうして色が?


   繁殖期になると、躰の色が変化する。
   この色を婚姻色と言います。


   こんいんしょく……。


   婚姻色に変わるのは……求愛行動のひとつと、言われています。


   きゅうあい……魚が。


   ……興味深いですよね。


   ……。


   ……?
   まことさん……?


   ひとのこの顔が、赤くなるようなものだろうか。


   ……え?


   いや、好きなひとの前に行くと、赤くなったりするだろう?


   ……。


   ち、違うか。


   それとはまた、違うと思いますが……けれど、面白い考えだと思います。


   あ、あぁ。


   ……ふふ。


   はは……。


   ……ね、まことさん。


   な、なんだい?


   ……。


   大夫……?


   ……今はもう、書物と学問だけではなくなりました。


   え?


   ……私の、心の拠り所。


   ……。


   今の私には……まことさんが、居て呉れる。


   ……あぁ。


   勝手に拠り所にしてしまって……ごめんなさい。


   ううん……大夫ならば、構わないよ。


   ……。


   ……あたしには、然ういうものがなかった。


   まことさん……。


   ……ただ、なんにもない日々を送っていただけで。


   ……。


   そんなあたしが、大夫の拠り所になれるなんて……。


   ……今も、ありませんか。


   今……?


   ……はい。


   今は……ある。


   ……。


   ……此処に、居て呉れる。


   ……。


   大夫が此の村に来て呉れた、いや、大夫を見たあの日から……なんにもない日々では、なくなった。


   ……。


   ごめん……勝手に拠り所にしてしまって。


   いいえ……いいえ。


   ……。


   ……。


   ……大夫。


   ごめんなさい……胸の奥から、想いが込み上げて来てしまって。


   あたしもだ……大夫。


   ……あ。


   胸の奥が、とても熱い……。


   ……。


   若しも、胸の奥が愛しいひとへの想いでいっぱいになって……涙として、目から溢れ出るのだとしたら。


   ……。


   ……そんなしあわせなことは、ないと。


   世の中には……こんな感情もあったのですね。


   ……あぁ、本当に。


   ……。


   大夫が、教えて呉れたんだ……。


   ……私も、まことさんに教わったんです。


   此の感情はずっと、大事にしたい……。


   ……私も、ずっと。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、大夫。


   はい……まことさん。


   ……頬が、きれいな赤だ。


   まことさんも……。


   ……。


   ……。


   ……此の顔は、大夫以外には見せられないな。


   私も……まことさん以外のひとには、見せたくないです。


   ……。


   ……。


   ……一先ず、お茶を飲んで落ち着かせようか。


   ふふ……然うですね、然うしましょう。


   ……。


   ……。


   ……ね、大夫。


   はい……まことさん。


   ……甘露煮も、食べてみたいかい?


   石斑魚の、ですか……?


   うん……どうだろう?


   はい……まことさんと一緒に、食べてみたいです。


   うん……ならば、作ってみよう。


   ……。


   因みに……釣ってみたいとは、思うかい?


   ……私にも釣れるでしょうか。


   石斑魚は、比較的釣りやすい魚なんだ……だから屹度、釣れる。


   ……釣れなかったら。


   その時は、その時だ……釣れないことも、良い経験になるだろう。


   ……確かに、然うですね。


   無理にとは、言わない……。


   ……やってみます。


   ……。


   ……お願いします、まことさん。


   ん……分かった。
   ならば、都合が良い時に……。


  1日





   ……まことさん、手拭いを。


   うん……ありがとう。


   ……。


   ふぅ……。


   ……。


   彼女達は、何処まで行ったかな。


   そろそろおうちに着く頃かも知れません。
   彼女達の家は、診療所よりも、まことさんの家の方が近いので。


   ん……然うか。


   ……。


   朝餉の支度は、出来ているんだろうか……。


   ……起きて直ぐに行動したのならば、出来ていないかも知れません。


   水膨れが刺されるような痛みとなると、ごはんを作るのも一苦労だろう……何か持たせてやれば良かった。


   ……そのことなのですが。


   うん?


   診療所に戻る前に、一度、寄ってみようと思っているのです。
   まことさんさえ良ければ、その時に。


   あぁ、それは良い。粥と漬物でも持って行ってやろう。
   若しも不要ならば、持って帰って来れば良いだけの話だ。


   ……。


   大夫は、皆の家の場所はすっかり覚えているんだよね。


   はい……お蔭様で。


   場所だけでなく、家族の数まで……大夫は本当に覚えるのが早かった。


   ……まことさんが、丁寧に教えて呉れたからです。


   いや……。


   ……。


   今だから言うけれど、美奈とうさぎちゃんに代わって貰ったんだ。


   ……代わって?


   本当は、子供達が案内する予定だった……けれど、大夫とどうしてもふたりきりになりたくて。


   ふふ……下心、ですか。


   そ、然うなんだ……。


   ……けれど、おかしいですね。


   え?


   私は、まことさんに押し付けたと聞いたのですが。


   押し付けた?


   美奈子ちゃん曰く、まんまと押し付けてやったと……。


   ……あいつ。


   嬉しかったんです。


   ……。


   まことさんが、案内して呉れることになって……とても。


   大夫……。


   ……子供達には、内緒ですよ。


   あぁ、分かっている……誰にも、言わない。


   ……まことさん。


   ……。


   ……。


   ……ちゃんと、洗ったと思うが。


   大丈夫です……手首から爪の先まで、念入りに洗っていましたから。


   然うか……大夫が言うのなら、大丈夫だな。


   ……。


   ……大夫。


   はい……。


   ……。


   はぁ……。


   ……ねぇ、大夫。


   はい……まことさん。


   ……急だけれど、聞いて欲しいことがあるんだ。


   何でしょう……。


   けれど……こんなことを言ったら、気分を害してしまうかも知れない。


   気分を……私の、ですか?


   うん……だから、とても迷っている。


   ……。


   ……やっぱり、


   ううん……言ってみて下さい。


   ……。


   屹度、大丈夫ですから……。


   ……ふと、不安になる時があるんだ。


   不安……?


   ……大夫の体を、抱き締めていると。


   それは……今のお話ですか。


   ……。


   然うですか……。


   ……ごめんよ。


   いいえ……けれどひとつ、聞いても良いでしょうか。


   ……うん、幾つでも聞いて欲しい。


   ……。


   ……。


   ……まことさんが不安になるのは、若しかして、私の躰が細身だからと言うのもあるのでしょうか。


   ……。


   然うなのですね……。


   ……力の加減を少しでも間違えたら、折れてしまうのではないかと。


   然う簡単には、折れないと思いますが……。


   ……。


   まことさんは……私の躰を、心配して呉れているのですよね。


   ……ごめん。


   いいえ……。


   ……失いたくないんだ、どうしても。


   ……。


   ましてや、己の手で……。


   ……まことさんの手は、優しい。


   ……。


   だから、私は……あなたを受け入れることが出来た。


   ……こんな手でも。


   あなたの腕の中に居ると、守られているようで……此の身の全てを、委ねたくなってしまうの。


   ……守る、守りたい。


   ね、まことさん……。


   ……必ず。


   感じるのは、不安ばかりではないのですよね……?


   ……あぁ。


   私……己惚れていますか。


   いや……自惚れていないよ。


   ……ん。


   大夫を抱き締めていると、酷く安心する……其方の方が、ずっと多い。


   ……良かった。


   大夫は……。


   ……私も、まことさんに抱き締められていると安心します。


   ……。


   勿論……抱き締めていても。


   ……然う、か。


   特に……。


   ……特に?


   鼓動が聞こえてくると……此の上なく、心が安らぐのです。


   あぁ……分かる。


   ……それこそ、涙が溢れて来るくらいに。


   重なる時があるんだ……。


   ……重なる?


   大夫とあたしの鼓動が……ぴったりと。


   あぁ……あるかも知れません。


   ……鼓動の速さは、ひとによって違うものだろう?


   はい……違います。


   それが……ぴったりと、重なるんだ。
   ずっとでは、ないのだけれど……。


   重なると……ひとつの大きな音になるんです。


   然う……然うなんだ。


   鼓動……心の音は。


   心の、音……?


   鼓動は、心の音と書いて……心音、とも言います。


   ……しんおん。


   ひとのこの躰の中には、様々な臓器がありますが……その中でも、血液を循環させて呉れる心臓はとても重要なものです。


   ……それが止まったら、ひとのこは。


   命の終わりを迎えることになるでしょう……。


   ……。


   勿論、どの臓器も大事です……どの臓器も、命を支えている……どれかひとつでも、機能不全になってしまったら。


   ……命を、支えられなくなってしまう。


   ですので……大切にしなければなりません。


   ……。


   でも、腎臓はふたつありますので、何方かが駄目になったとしても……だからと言って、無くしても良いと言うわけではないのですが。


   え、と……若しも腎臓がひとつだけになってしまったら、どうなるんだい?


   ひとつになっても、日常生活には支障を来さないと言われてはいますが……それでも、腎機能を低下させることには違いありません。


   然うか……ならば、腎臓も大事にしないといけないな。


   はい……然うなんです。


   ……ふふ。


   ……?
   まことさん……?


   ……大夫は、面白いな。


   私……面白い、ですか。


   あたしの知らないことを、沢山知っている……。


   ……あの。


   うん……?


   ……聞きたくない時は、ちゃんと言って下さいね。


   そんな時は、今の所、ないよ……。


   ……今後、あるかも知れません。


   あるかも知れないが……ないかも、知れない。


   ……屹度、あると思います。


   まぁ、その時はその時だ……屹度、ないだろうが。


   余計なことを、話し過ぎて……嫌だと、思われたくないのです。


   そんなこと、思うわけない……。


   ……ん。


   大夫の話に、余計なことなんてないよ……どれも、聞かせて欲しいことばかりだから。


   ……今は、然うでも。


   気にしないで……此れからも、話して聞かせて欲しい。


   ……鬱陶しかったら、言って下さい。


   鬱陶しかったらね……。


   ……。


   ねぇ、大夫……。


   ……はい、まことさん。


   鼓動は、えと、心の音と書いて、しんおんと言っていたよね……。


   ……正しくは、心臓の音なのですが。


   音は、「ね」、とも言うだろう……?


   はい……言いますね。


   鐘の音……琴の音も、然うだ。


   ……音を上げるとも言います。


   ん……然うだね。


   ……今は適切ではないですね、ごめんなさい。


   いや……良いんだ。
   確かに、然う言うのだから。


   ……。


   音は、「ね」とも言う。
   だとしたら、こうも考えられないかい?


   ……?


   心の音と書いてしんおんと言うだけなく、こころね、と言うことも出来ると。


   こころね……。


   ……然う、こころね。


   あぁ……確かに、読むことが出来ますね。


   こころね、と言うと……まさに、心の音のようだと思わないかい?


   ……。


   あ、思わないか……。


   いえ、思います……心音だと心臓の音だと思うのですが、こころねだと、心の音のようだと。


   心臓と同じように……心も、動いているとしたら。


   ……。


   その音が心臓の音に混ざって、耳に、躰に届く。


   ……そんな考え方。


   可笑しい、かな……。


   いえ……素敵な考え方だと。


   素敵、だろうか……。


   ……はい、とても。


   そ、然うか……良かった。


   ……鼓動が、重なるのは。


   ふたつのこころねが、重なっているから……。


   ……。


   ……。


   ……そんな素敵なことを考えられるひとは、私の周りには、誰ひとり居ませんでした。


   ひとりも……?


   はい……まことさんが、初めてです。


   ……。


   私の周りに居ないだけで、他には居たのかも知れませんが……。


   ……居なくて、良かった。


   はい……?


   い、いや……なんでもない。


   ……。


   ……。


   ……心の音と言えば心臓の音、医生ならば、たまごを含めて然う考えるでしょう。


   ……。


   心音と書いて、こころねと読むなんて……屹度、考えません。
   現に、私もまことさんに言われるまで、考えたこともなかった……。


   ……あたしは、頭が良くないから。


   まことさんは、頭の良いひとだと思います。


   ……勉強なんて、ろくにしたことがないし。


   お勉強ばかりが、頭の良し悪しを決めるわけではありません……。


   ……。


   如何に知識を持っていようとも……正しく使えなければ、意味がないのです。


   ……正しく。


   然うです……。


   ……あたしは、その知識ですら。


   まことさんは、私の知らないことを沢山知っています……知識だけでなく、経験としても。


   ……。


   だから……これからも、あなたの知識を教えて欲しい。
   閃きを、私に伝えて欲しいと……然う、願って止まないのです。


   ……あたしで、良ければ。


   まことさんしか、居ません……。


   ……あたししか。


   ……。


   うん、分かったよ……大夫。


   ……はい。


   大夫も、聞かせて欲しい……あたしの、知らないこと。


   ……はい、喜んで。


   ……。


   ……。


   ……ありがとう、大夫。


   もう、良いのですか……?


   うん……戻って、ごはんを食べなければね。


   では……家に、戻りましょうか。


   ……。


   ……ん。


   戻るまで、良いだろうか。


   ……はい、構いません。


   ありがとう。


   ……此方こそ。


   ……。


   手……冷たくはないですか。


   ……問題ないよ。


   まことさんの手は、温かいですね……。


   ……手が温かいのが、あたしの取り柄のひとつなんだ。


   ふふ……良いと思います。


   ……。


   ……。


   ……然う言えば、さ。


   はい……なんでしょう。


   真っ直ぐ、来たらしい。


   真っ直ぐ?


   あたしの家に、診療所には寄らなかったらしい。


   ……然うなのですか。


   うん……どうやら、ふたりで歩いている所を見られていたらしくてね。


   ……あぁ。


   誰も、見ていないと思っていたのだけれど……気付かないなんて、あたしも鈍ったかな。


   ……けれど、良かったです。


   うん……あたしも、然う思った。


   ……。


   ……。


   ……此れからも、こういうことはあると思う。


   ……。


   けれど……あたしのことは気にせずに、診療をして欲しい。


   ……はい、然うさせて頂きます。


   ん……。


   ……ふふ、良かった。


   ん、何がだい……?


   ……まことさんの家にお泊りすることを、止められることがなくて。


   あ。


   ……医生としては、いけないことなのですが。


   ……。


   まことさん……?


   ……あたしに、止められるわけないよ。


   あ……。


   ……あたしは、大夫と。


   ……。


   む、寧ろ、泊りに来るのを止めますと言われなくて良かった……。


   ……言えるわけ、ありません。


   ……。


   ……。


   ……たまには、あたしが泊りに行っても良いかな。


   それも、良いかも知れませんね……。


   ……。


   ……。


   大夫、あたしは……あ。


   ……。


   あ、あぁ……。


   ……ふふふ。


   は、ははは……。


   ……朝餉の途中でしたものね。


   そ、然う……未だ、半分も食べていないんだ。


   ……早く帰って、お腹を満たしましょう。


   うん……然うしよう。