己よりも上位の鬼に遭遇するとね。
其の鬼の持つ気に呑まれるか、或いは中る可能性があるの。
呑まれると恐慌状態になるか、身体が竦んで動けなくなるか。
中ると其の場で倒れるか、或いは…。
然う、教えてくれたのはやっぱり令ちゃんだった。
蛇に睨まれた蛙?
其れを聞いた時、私はそんな言葉を口にした。
其れを聞いた令ちゃんは、ああ、然うとも言うかなって、曖昧な感じで笑ったけど。
黄川人。
未だ見た事は無かったけど、多分これが、と肌で感じた。
其の目は睨むどころか、笑っている。私を見て。
何事かを言っているようだけど、耳には入ってこない。詰まりは聞こえない。
声だけじゃない。
他の何もかも、全ての音が。
由乃の耳に届かなくなって。
目の端に映るのは、不意に伸ばされた手。
触れられた瞬間、身体が凍りついたように動かなく…
…いや、違う。
屹度、其の目で見られた時、から。
またこんな所で、由乃は。
無理をしては駄目よ、と言いながら。
仕方が無いな、と怒った素振りをする令ちゃん。
何処に隠れていても、何をしていても、私を見つけられる令ちゃん。
優柔不断だけど、いつも傍に居て、手を繋いでくれていた令ちゃん。
疲れのせいで、熱が出た時だって。
お祭に連れて行ってくれた時だって。
夜、眠る時だって。
いつも、いつも。
温かい其の手は由乃だけのものだった。
だけど、ああ。
今、私の傍には令ちゃんが居ない。
だから此の手は令ちゃんのじゃない。
冷たい手。
鬼の手。
私が令ちゃんから離れたから。
だって、令ちゃんが。
令ちゃんが私を見てくれないから。
令ちゃんが、令ちゃんが。
由乃を見てくれないから。
無性に腹立たしくて。無性に悔しくて。
無性に、無性に、悲しくて。
だからいつものように悪態を吐いて、挙句、傍から離れた。
でもそんな事、いつもの事だから。
いつものように、令ちゃんが直ぐ、傍に来てくれるに決まってる。
だからそんなの、いつもの事で終わる筈だった。
どんなに怒っていても、心の隅っこでは然う、信じて止まなかった。
…なのに。
撫ぜられる頬。
されるがままに。
声すらも。
令ちゃん…令ちゃん…
…信じてる…信じてる…の。
………助けて、令ちゃん。
由乃…!
走る白刃。
其の声が一瞬にして由乃の世界に音を戻す。
令ちゃん。
令ちゃん。
令ちゃん、令ちゃん、令ちゃん、令ちゃん、令ちゃん…!
…由乃。
令ちゃんが。
目の前で笑う。
令ちゃんが笑いかけてくれると、悔しいけど、やっぱり凄く安心する。
令ちゃんに触れられると、どんなに臍を曲げていたとしても、やっぱりとても嬉しい。
温かな手のひら。
令ちゃんの手のひら。
私だけを包んでくれる、手のひら。
でも。
私は其れに気付いた。
視界に飛び込んできたと言っても良いかも知れない。
あまりにも、其処にあるのが不自然な、其れに。
令ちゃんの。
令ちゃんのお腹からはみでてるのは、何?
其れは赤くて。
紅い。
ベッタリとこびり付くような黒い、赤。
…。
え、何?
…、ん。
令ちゃんの唇が何か言葉を紡ぐように動いているのだけど。
先刻はちゃんと聞こえたのに。
……ね、…し…の。
何?令ちゃん。
今、何て言ったの?
ねぇ、令ちゃん。
令ちゃんってば。
れいちゃ…?
刹那、目の前に広がるは、朱。
黒い、朱。
…何、これ。
何なの、これ。
令ちゃん?
令ちゃん?
これ、何?
この赤いのは、何?
教えてよ、令ちゃん。
令ちゃん。
困ったように、済まなそうに、令ちゃんの顔が歪む。
其の口は、赤で染まった口は矢張り、何事かを言っているのだけど。
とうとう、私には聞き取れなかった。
そして。
令ちゃんは、私に凭れる様にして、倒れた。
ふと自分の手を見る。
それから令ちゃんを見る。
赤い。
朱い。
其れはどこまでも。
これは。
若しかして、血?
誰かの、血。
でも。
誰の…?
鬼、の…?
それとも…。
先ずは一匹目ってとこかな。
でも最初に思ってたのは君じゃなかったのに。
けどま、いっか。
…………令ちゃん、の?
陣・六
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