「其れで。
アレは私を指してでこ女と言った、と」
「当主様。此度で問題なのは其れでは御座いません」
全くだ。
だけど天狗面こと聖の他にアレにまで、と言うかアレに「でこ」と呼ばれるのは全く持って面白くない。
ただ、其れだけの事。
でも聖を白ちびと称したのは一寸だけ面白い。
なんて言ったら修羅のような女こと蓉子に不謹慎だとこっぴどく怒られそうだけれど。
「お望みどおり、射殺しておけば良かったわね」
「当主様」
目の前に座る祥子の瞳がより一層厳しくなる。
ああ、誰かさんを彷彿とさせる目だわね。
「令は傷自体は祥子の術で塞がったとは言え、血の流し過ぎで昏睡状態。
由乃は体力的疲労の上に精神的疲労も重なって、今までに無い高熱。
討伐に行って二人も倒れるなんて、当家始まって以来の出来事かも知れないわねぇ」
若しも此処に蓉子が居たら。
間違いなく、拳骨の一発は喰らってるだろうなぁ。
祥子の目を見てふと思う。
「悠長な事を言っている場合では御座いませんわ」
「然うね。今は祐巳ちゃんが?」
「いえ、志摩子も一緒に」
家に帰ってきた時の祐巳ちゃんの顔を思い出す。
祐巳ちゃん自身、倒れていてもおかしくない程に顔面蒼白で。
百面相。
祐巳ちゃんを表す代名詞でもある其の言葉どおり、
いや其れ以上に、此度の事を物語っていた色。
正直、身体が震えた。
「…読み違えたかしらね」
誰かに言うわけでもなく、ただ単純に呟き出た言葉。
多分弱音だ、これは。
らしくない。
こんな事を言ったところで現状が変わるわけでも無し。
「令の判断は先程も申した上げた通り“帰還”でした。
髪と戦うつもりなど…」
「其処を強襲された、のよね。アレに」
「…はい」
祥子が少しだけ目を伏せる。
アレ、曰く。
私達の匂いがしたから出てきた、と。
とりわけ、私の匂いが強かった、と。
まるで、いつぞやの意趣返しのようだわ。
いや、意趣返しなのね。
由乃を最初に狙ったと言う時点で。
「ともあれ、起こってしまった事は仕方が無いわ」
然う、必要なのはこれからの事を考える事。
最悪の事すら、想定して。
と、廊下の方で誰かが駆けてくる音がする。
そして当主部屋の前で其れは止まる。
「当主様…ッ
由乃さんが…由乃さんが…ッッ」
飛び込んできたのは矢張り、祐巳ちゃん。
家に帰ってきた時よりも、顔色が悪い。
と言うより、泣きそうな顔。
「祐巳」
「お姉さま…ッ
由乃さんが、由乃さんがぁ…ッ」
祐巳ちゃんの顔が泣きそうな顔から、泣き顔へと変わる。
そして其れが全てを物語る。
…然う。
どうやら想定する暇すら、私には与えられて無いのね。
「…当主様」
「…志摩子」
「令さま、が…」
続けて入ってきたのは志摩子。
祐巳ちゃんとは違い、瞳に涙は湛えてはいなかったけれど。
代わりに其の顔はいつも以上に白く、痛々しい色を湛えていた。
「…令、が?」
「由乃さんの呼吸が止まった直ぐ後、に…」
…まさしく。
最悪な、事態。
「…今は、誰が?乃梨子?」
「いえ…」
何を言ってるんだ、私は。
乃梨子は未だ、幼いのに。
志摩子が傍に置いておくわけが無いのに。
そこまで思って、気付いた。
今、二人は。
「志摩子、戻って」
「…はい」
「それから祐巳ちゃんも」
「当主様ぁ…」
「どうか、付いていてあげて」
「……は、い」
二人を下がらせて、少しの間、考える。
これから私のするべき事を。しなければならない事を。
でも考えるまでも無かった。
初めから。
然う、初めから。
「祥子」
「はい」
…蓉子。
それから、聖。
私は。
「二人をちょっくら叩き起こしに行くわ」
「え…」
「と言うわけでイツ花、支度を」
「待って下さい、当主様」
「それから。
全てが終わるまで、この決定を覆す事は仮令当主であろうとも罷りならない。
良いわね」
「しかし、当主…江利子さま。
現当主は江利子さまですわ。
当主である貴女様が…」
「祥子、手を出しなさい」
「…ッ」
「これは…命令よ、祥子」
「…」
「次は、貴女よ。
悪いけれど、此度ばかりは嫌とは言わせない」
「……承知致しました」
蓉子。
聖。
私はあの時、二人に言ったわ。
遣れる事を遣るって。
然う、どんな事になろうとも、私は後悔なんてしない。
自分で選んだ事だから。
そして、此れが私の選んだ事。
後悔なんて。
するわけ、無いじゃないよ。
「其れじゃ、ま。
とっとと支度しましょうか」
「当主さ」
「当主はつい先刻から貴女、でしょ」
「…然うでしたわね」
一つ、言いたい事があるとすれば。
今、此処に、貴女達が居ない事かしら。
家族だって言ってたのにねー。
ま、こればかりは仕方が無いのだけど。
でも居たら、また違った結果になってたかしら。
ま、やっぱり仕方が無い事だけど。
「じゃ、行きましょうか」
「はい」
…なぁに。
化けて出たりは、しないわよ。
多分、ね。
陣・八
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