ありがとう。 此処から先はひとりでゆけるわ。 蓉子のお姉さまが逝った。 呆気ない最期だった。 妹である蓉子は。 今際の時も。 荼毘に伏す時も。 一族の墓に埋葬する時も。 遺品を整理している時も。 泣かなかった。 一粒の涙さえ。 そんな蓉子を眺めて。 別に薄情だから、とは思わなかった。 蓉子が誰よりも、当主でもあった己の姉を慕っていたのを一応知っていたから。 ただ、蓉子は強いだけだ。 誰よりも。 だけど。 荼毘に伏している時の蓉子の背中は。 やけに。 蜩 ノ 翅 喪に服している今も以前と変わらぬ態度で過ごす。 ただ、黙々と。 蓉子は己のすべき事をこなしていた。 相変わらず、世話焼きで、お節介で。 敢えて言えば、表情が乏しくなったかも知れない。 と言うより、私の前ではあまり笑わない。 蓉子の姉や私の姉、江利子の姉や江利子、 ぶっちゃけ私以外の者とは、親しげに笑い合っているのを偶に見たけれど。 特に己の姉と話している時の蓉子は、他の者には見せない顔をしている時が多かった。 別に。 自分に笑いかけて欲しいだなんて、思ったわけじゃない。 「聖、聖」 頭の上から。 私の名を呼ぶ声が聞こえる。 ああ、また。 この世話焼きめ。 どうせ、鬱陶しがられるのだから、 いい加減、私なんて放っておいて呉れれば良いのに。 「聖、いい加減に起きなさい。日は疾うに昇っているのよ」 瞼の向こう側が眩しい。 目が覚めなければ、分からなかったのに。 どうして静かに寝かせておいて呉れないのか。 どうせ起きた所で、今日も、此れと言って予定があるわけじゃないのだから。 「聖、聖。朝餉が冷めてしまうわ。 当主様は勿論の事、他の皆も起きて貴女を待っているのよ。 さっさと起きなさい」 今日は寝て過ごす。 たった今、然う決めた。 寝ていれば空腹だって分からない。 だから、どうであろうと起きてなんかやるものか。 絶対。 「聖、若しかして貴女、忘れたの?」 忘れた? 何を? …ああもう、そんな事どうでも良い。 鬱陶しい。 煩い。 さっさと諦めたらどうなのよ。 消えてと思われてるのが分からないの。 「今日、貴女は当主様達と出陣するのよ」 …。 ……。 ………出陣、だって。 何を言っているんだ、蓉子は。 今は喪に服しているのだから、そんな事あるわけないじゃない。 「喪は明けたのよ。 昨日、当主様が、貴女のお姉さまが皆を集めて然うお話になられたでしょう? それから今日以降の予定をお立てになられた。 まさか貴女、己の姉の話すらも聞き流していると言うの?」 喪は、明けた? お姉さまが然う言った? ……いや、其の前に。 お姉さまが当主様だって? 「お早う、聖」 淡々とした蓉子の表情。 清々しさなんて微塵も無い。 いっそ、忌々しいくらいだ。 一日の始まりがこんな気分だなんて。 此れほどに最悪な事はあるだろうか。 「…今、は」 「つい先程、巳の刻を知らせる太鼓の音が聞こえたわ」 「あ、然う」 「とりあえず、顔を洗ってきなさい」 「…其の命令口調、止めて下さらないかしら」 「命令なんてしないわ。 当たり前の事を言っているだけ」 本当、忌々しい。 表情を崩さないのも。 物の言い方も。 何より、其の態度が。 「さぁ、聖」 「…言われなくても、分かってるわよ」 私はとりあえず、体を起こした。 直ぐに起き上がるのは億劫な事この上ないけど、仕方が無い。 これ以上蓉子と遣り合っているのも面倒。 と言うより、心の底から鬱陶しい。 さっさと、追っ払いたいと言うのが本音。 「聖、何も持たずに行って何で顔を拭くつもりなのよ。 はい、此れ。手拭」 ああもう、何処までも。 あんたは私の親かよ。 そんな悪態を腹の底でしつつ、蓉子の差し出した手拭を少し乱暴に受け取った。 別に受け取らなくても良かったのだけど、受け取らなければ受け取らないで、追いかけてきそうだったから。 其れだけは是が非でも避けたかった、 …のに。 「あ、聖。私も途中まで行くわ」 其の言葉は聞かなかった事にして、井戸に行くべく私は部屋を出た。 蓉子は律儀にも私が開けっ放しにした障子を丁寧に閉めてから、付いてくる。 …最悪だ。 「聖」 呼ぶ声を無視して、私は歩みを速める。 追いつかれてたまるか。 我ながら子供じみていると思うけれど、嫌なものは嫌なのだから仕方が無い。 朝起きて初めて見たものが蓉子。 最悪なのは其れだけで十分だ。 それから。 途中までと言ったくせに、蓉子は結局井戸まで付いてきた。 私が顔を洗い終わるのを見届けると、ゆっくりと先を歩き出す。 追いつくのも嫌だから、私はゆっくりどころかのろのろと、亀並の速さで歩いた。 さっさと行けよ。 然う思っているのに、何を思ったか、蓉子は歩みを私に合わせるかの如く、更にゆっくりとしたものにした。 視界に入るだけで不愉快だと言うのに。 全くもって、最悪だ。 極まりない。 「聖を連れて参りました。 御待たせしてしまい、まことに申し訳御座いません」 のたのたと。 謝罪の言を述べる蓉子の後に続いて皆の揃う座敷に入れば、 案の定、お姉さまに笑われた。 其の寝ぼけ掛かった仏頂面を見るに、矢っ張り、聞いてなかったのね、と。 とりあえず、朝の挨拶をし、己の卓に着いた。 蓉子は空いている隣の卓に着く。 皆が揃ったところで漸くと言わんばかりにお姉さまは号令を掛けた。 起きたばかりで食欲など無かったけれど、かと言って箸をつけなければ誰かに五月蝿く言われる。 残しても、また同じ。 仕方無しに飯を口に運ぶ。 沢庵をつまみ、味噌汁を啜る。 皆は各々、会話をしながら朝餉を楽しんでいる。 お姉さまと菊乃さま。 菊乃さまと江利子。 けれど私はただ黙々と食べると言う作業に終始した。 さっさと食べてしまおう。 其の思いだけで。 視界の隅に映る、蓉子もまた黙々と食べていた。 お姉さまは時折、此方に話を振ってきたけれど、私は適当な相槌で済ました。 蓉子にも振って、其の反応を見たりもする。 其れを何度か繰り返し、朝餉が終わる頃。 お姉さまは己の食器を持って立ち上がった蓉子に、それから食べっ放しで部屋を出ようとする私に。 身支度を、とただ一言告げた。 私は相変わらず適当な相槌をし、蓉子は首を縦にした。 本来ならば、其処で気付くべきだったのだ。 蓉子にされるがまま、身支度をしている現状を振り返って思う。 朝餉の後、お姉さまに言われて戦装束を纏うべく部屋に戻ったところまでは良い。 其れに何故、蓉子まで付いてこなければならないのか。 戦装束くらい、人の手を借りずとも自分一人で着られる。 寧ろ、着替えなど一人でしたい。 そもそも人に体を触れられるのは好きじゃないのだ、私は。 ましてや、蓉子なんかに。 「悪いのだけれど。聖の事宜しく、蓉子ちゃん。 この子、蓉子ちゃん以外の者が自分の躰に触ると派手に嫌がるから」 蓉子曰く、朝餉の最中に然う言われたらしい。 分かっている。 蓉子はただ、お姉さまの「身支度を」の指示に従っただけだ。 此度の討伐に蓉子は出陣(デ)ない。 出陣中に家に来ると言う子を迎える為に、と言う理由で残る…らしい。 つまり蓉子は討伐へ向かう身支度の必要が無い。 だから今の蓉子は身支度を手伝うという名目での、お目付け役に過ぎないのだ。 然う、私は以前逃げた事のある前科者だから。 ただ、其れだけの事。 「聖、背筋を伸ばして」 気付けば装束はあらかた、着せられた後で。 残りは腰に紐を締めて結ぶだけだった。 蓉子は其の腰紐すらも締めて結んで呉れるつもりらしい。 流石、世話焼き。 「聖」 なかなか姿勢を正そうとしない私に、蓉子は顔を上げた。 とても近いところで其の目と合う。 矢張り、淡々とした表情。色。 安眠を妨害された時ほどでは無いにしろ、苛立ちを覚える。 それから、軽い、違和感。 …違和感? 「聖」 再び名を呼ばれて、蓉子の目を無意識に見つめていた自分に気付く。 何となくばつが悪くて、私は直ぐ様目を逸らした。 「…」 目を逸らしても消えない違和感。 そういや、いつかも然う感じた。 …然う、あれは荼毘に伏している時に見た蓉子の背。 あの時の蓉子の背はやけに小さく見えた。 でも今感じたものは、あの時とは違う気がする。 これは然う、もっと視覚的な…。 「…いつか」 「…うぃひゃッ」 不意に、蓉子の手が頬に触れて。 其のあまりの冷たさに、振り払うよりも先に間抜けな声を出してしまった。 いや、身支度をさせている時点で、冷たい事には気付いてはいたけれど。 不意を突かれたせいか、より過敏に反応してしまった。 しかし、なんて、冷たい手。 まるで熱が無くなってしまったような。 「此の日が来る事を、頭では分かっていたつもりだったけれど…」 そのまま、蓉子の冷たい手が私の頬を撫でる。 まるで小さな子をあやす様に。 ああ、何処まで行っても子供扱いされたまま。 「…この日って何よ」 逸らしていた目を蓉子に向け、と言うか睨み付け。 幼子を宥めるかの様な其の手が面白くなくて、一気に跳ね除ける。 蓉子が虚を衝かれた様な表情をしたのは僅かな一瞬。 其の、完璧なまでの眼差しを、直ぐに取り戻す。 跳ね除けられた事など、まるで初めから無かった事の様にして。 「…目、良いくせに」 蓉子は私から目を逸らさずに、然うのたまった。 「…私、ね」 唐突に蓉子の声音が変わる。 目は逸らさぬままに。 いや、一瞬だけ伏せたかも知れない。 でもそんな事はどうでも良い。 蓉子は何が言いたい? 何がしたい? 分からなくて、益々苛々が募る。 然う、私は苛々しているのだ。 いつもと違って話が判然としない蓉子に。 幼子をあやす様に私の頬を撫でる蓉子に。 間違っても、いつもの蓉子の調子では無くて戸惑ってるなんて事は、無い。 「…本当に気付かないの?」 「だから何が…!!」 神経がどんどん昂ぶっていく。 収まりがつかなくなる位に。 「此の日って?!其れと私の頬に触るのと何の関係があるの!?それから目がどうしたって?!」 「…私、交神するの」 …………は? 「お姉さまが、逝って…しまわれたから」 蓉子の口から思いもしなかった言葉が紡がれて、私は勢いを殺がれた形になる。 交神? て、あの? と言うか、待て。 何なんだ、今日の蓉子は。 話に脈絡が無いにも程が… 「……私を、見て」 目の前で、蓉子の目が歪むのを見る。 蓉子の必要以上に真っ直ぐな目が、其れでも尚、真摯であろうとする目が。 頬に再度冷たさを感じたけれど、其れが気にならない位其の目に釘付けになる。 「…私、を」 暫しの間、続く言葉も無く、向き合う。 其の、自分のよりも少し低い……低い? …ああ。 此れが違和感の正体、か。 私は其れに気付いた。 然う、其れは今まで。 「……蓉子が、縮んだ」 「…貴女の背丈が伸びたのよ」 少し呆れながら、蓉子がくすりと笑った。 どうやら私は蓉子の背をいつの間にか追い越していたらしい。 そして此れが違和感の正体。 「当主様が聖を見ては寝る子は育つ、と言っていたけれど。 本当に其の通りになったわね」 すぅっと、蓉子の指が私の頬の輪郭をなぞる。 其の感触に、ぶるりと身体が震えた。 冷たさにじゃない。 もっと違う何か、に。 「私はもう、止まってしまったから」 これからは離されるばかりかも知れないわね、と。 然う言って、手を離し。 「…さぁ、後は腰に紐を結べば終わり」 何事も無かったように、蓉子は着付けに戻ろうとした。 だけど。 「…交神するって」 刹那。 蓉子の、腰に紐を結ぼうとしていた手は止まり、其の身体は微かに震えた。 表情は顔を伏しているせいで、見えない。 交神。 人と交われない一族が唯一子を生す方法。 蓉子は確かに其れをすると言った。 一人減れば、一人増やす。 そして次に生まれてくる子は、より強く。 そうやって此の家は成り立ってきた。 だから蓉子の姉が亡き今、蓉子が子を作ると言う事は至極当然の事。 私とは違って、生真面目で忠誠心も頗る高い蓉子の事だ。 仮令、それこそどんな神とでも能力の高い子を生す為ならばと、其れを受け入れるだろう。 そしたら私も晴れてこの世話焼きから解放される。 其れは喜ばしい事だ。 蓉子だってこんな捻くれた私なんかよりも、己の血を分けた子の方が可愛いに決まっている。 然うだ。 其れは良い事だ。 其れが一族と言う、鬼の子を生す事だとしても。 其れが私の忌み嫌っていた事だとしても。 然う。 蓉子が神との間に、子を作り。 蓉子が呪と言う、種を蒔き。 蓉子が忌み子を、苦呪の連鎖を、血に塗れた楔を。 蓉子が。 蓉子が。 私以外の者に触れ。 私以外の者に触れられ。 子を、生す。 「…ッ」 咄嗟に先程まで私の頬に触れていた手を掴んだ。 自分が思う以上に、いや実際は無意識だったのだけれど、力が篭っていたかも知れない。 蓉子は弾かれた様に顔を上げた。 「そんなの、許さない」 蓉子が言った“此の日”。 其れは何時の事なのか。 蓉子の姉が逝った日か。 私が蓉子の背を追い越した日か。 蓉子が交神をすると決めた日か。 それとも。 私には分からない。 いや、実際分かりようが無いけれど。 私は蓉子では無いのだから。 だけど。 一つだけ、分かった事がある。 其れは。 私にとっての、“此の日”。 許さない。 自分は今、確かに然う言った。 「…許すも 許さないも。聖が決める事では無いわ」 「知ってる」 「私が決めて、当主様の了承を得れば。 若しくは…」 「だけど、許さない」 仮令、当主〈オネエサマ〉の命令であっても。 自分で思う分には、良い。 蓉子が交神をするのも、した後の蓉子の姿も、蓉子の子供についても。 晴れて、蓉子と言う頚木から解き放たれて、再び、一人に戻った自分の姿も。 其れらは全て己の想像であって、決して現実では無いのだから。 「聖。私は…」 「…言うな」 「…交神を」 「言うな!!!」 蓉子の口から直に聞かされる事。 其れは即ち、現実。 近くに起こり得る、将来。 ほぼ確実に来たる、未来。 私は。 愕然とした。 自分でも信じられない程、打ちのめされた。 吐き気すら。 「…私はお姉さまの代わりを」 「子供なんか!蓉子が作らなくても今度来るだろう! 其れに先代の代わりだと?莫迦か、あんたは!! 代わりなんていない!誰も誰かの代わりになんてなれやしない! 然う偉そうに私にのたまったのは何処の誰だ?!」 「…でも、んんッ」 尚も言葉を返そうとする蓉子の唇を、私は塞いだ。 己の唇で。 聞きたくなかった。 そんな現実。 私は要らない。 「…止めて、聖」 「嫌だ」 「こんなこ…ん」 一度は逃れた唇を再び捕らえる。 今度は逃れられぬ様、手を掴んだのとは逆の手で頭を押さえて。 蓉子が空いた手で私の身体を押し返そうとするけれど、私は其れを許さない。 反射的に掴んだ手を放し、蓉子の腰に回す。 身体を更に密着させる為に。 蓉子は自由になったもう片方の手を合わせて抵抗の力を強めたけど。 押し返されぬ様、私も両の手に力を篭めた。 押し返そうとする、蓉子の手。 逃すまいとする、私の手。唇。 普段だったら。 無手で遣り合ったら、職が職だけに、私は蓉子には敵わない。 けれど、今は純粋な力だけが物を言う。 然う、此れは純粋な力比べだ。 以前の、蓉子より背丈が低い頃の私だったら。 力でも蓉子には敵わなかった。 だけど、今は。 やがて。 及ばないと知ると、諦めたのか、抵抗が止んだ。 代わりに袖を弱々しく掴まれる。 其れを知るや、私は蓉子の唇を抉じ開け。 矢張り逃げようとした其れを己の其れで捕らえた。 ぎこちないけれど、絡めては、吸い。 吸い寄せては、軽く噛んだりもした。 誰かに教えてもらったわけじゃない。 ただ、然うしたかった。 ただ、蓉子の中に入りたかった。 蓉子を感じたかった。 ただ、ただ。 蓉子を…誰にも渡したくなかった。 …ああ。 私、は。 どれ位、時が経ったのだろう。 いや、実際は思う程経っていないのかも知れない。 一方的に貪る様にして交わしていた、唇を離す。 蓉子はもう、何も言わなかった。 開いた蓉子の瞳に今の私が映っている。 其れはぼやけていて良くは見えないけれど。 ふと、頭を撫でられた。 然う言えば小さい頃、何かあると蓉子は頭を撫でて呉れた。 勿論、良い気持ちなんてしなかった。 どっちかと言うと腹が立って、其の手を振り払おうとした。 いや、現に何度も振り払った。時には其の手に噛み付いた事もある。 けれど、蓉子は撫でる事を止めなかった。 其の時の顔を。 今でも覚えている。 蓉子はいつだって。 そして、今も。 「…交神なんて、しないで」 縋るような、言葉。 蓉子は返事をして呉れなかった。 ただ静かに、頭を撫で続けて呉れた。 私はもう一度。 其の唇に己のを重ねた。 角度を変えて、何度も。 離すまいとして、幾度も。 それから。 ひたすら、高まり続ける心のままに。 私は。 蓉子の躰をゆっくりと押し倒した。 「…お楽しみのところ、非常に悪いのだけれど」 二 |