そこは特有の匂いのする空間。


   鼻につくわけではないけれど。


   どちらかと言うと、あまり好きじゃない。


   イメージの色は、白。


   そして、赤。


   何故なら。










   そこは外とは違う、特有の場所。










   そこに私の大事な人が居る。















C l o s e r















   「蓉子」





   私はその部屋に入ると直ぐに、挨拶なんかよりも先に、その名を口にした。
   名を呼ばれた彼女は隣の人との会話を打ち切って、此方を見て微笑んだ。





   「聖」





   窓際の、部屋では一番端っこに当たるベッドに歩み寄る。
   彼女と話していた初老の女性に少しだけ頭を下げる事も忘れない。
   今日は天気が良いせいか、部屋の中は電光が無くても明るい。
   人工による光では無く、自然の光。
   彼女は、蓉子は窓際のベッドに決まった時、少しだけ喜びを表した事を思い出す。
   光だけで無く、外が見える事も嬉しかったらしい。
   けど私は然うかな、と思った。
   だって。
   自分は暫く此処から出られないのに。
   広い空。一切の頚木が無い青。そんなのを見せ付けられて。
   まるで閉じ込められているみたいじゃない、と。
   然う素直に述べると、蓉子は不貞腐れた子供をあやすように優しく笑って。
   こう、言った。



   貴女が見えるかも知れないじゃない、と。



   そんな事、勿論、有り得ない。
   だけど、いつもは見せない子供のような顔で言った彼女の顔が可愛くて。
   思わず、頷いた。





   「毎日、来てくれなくても良いのに」





   早速伸ばされてきた手を軽く往なしながら、蓉子は言った。





   「寂しいでしょ?来なかったら来なかったで」





   諦めずにその顔に触れようとする手。
   仕方が無いわね、と言う顔で受け入れてくれるまで。
















   蓉子が入院することになったのは。
   一言で言えば、病気、だからだ。
   だけどこれだと簡単過ぎると思うから、少しだけ補足しようと思う。


   発端は蓉子が職場で倒れた事。


   元々、生理痛がひどかった蓉子。
   お腹が痛いから始まり、腰痛、頭痛、貧血、ひどければ悪阻のような吐き気。
   食事すら、まともに受け付けなくなる。
   いつも以上に手足が冷たくなり、肩こりのひどさだって言うまでも無い。

   大抵は薬で抑え付けているのだけれど、あまりにもひどければ仕事を休むべきなんだ。
   冷たくなった蓉子の脚を自分ので挟み込んで温めながら、いつも思ってた。
   だけど彼女は頑として譲らなかった。


   生理は病気じゃないから、と。


   確かにそれは然うだ。
   女であれば、あの器官を持っていれば大なり小なり誰しもが抱えている問題。
   それが仮令、子を望まないとしても。



   然う、あの日もひどかった。
   朝から、青白い顔をして。
   触れた手も秋とは言え残暑を感じさせる気温だと言うのに氷のようで。
   けれどいつものように薬を飲んで、痛みを沈静化させて、出勤の支度を進める蓉子。
   だからせめて早めの帰宅を促した。
   体が温まるものを作って待ってるから、て。



   「心配性なんだから」



   薬で痛みを誤魔化した笑顔を浮かべ、然う、彼女は言い残した。





   蓉子の職場から連絡が入ったのは、午後3時過ぎ。
   仕事の合間にコーヒーを入れて、一寸、休憩をして。
   そろそろ夕飯の支度をしようかな、とりあえず、買い物にでも行こうかな、なんて思い始めていた頃。
   珍しく、家の電話が鳴った。
   と言うのも、お互いの知り合いからだったら、大概、そ々の携帯にかかってくるから。
   我が家の電話にはナンバーディスプレイなんて便利な機能はつけてないから、かけてきた相手は受話器を取ってみないと分からない。
   然う言えば、セールス予防でつけましょうよ、といつか蓉子が言っていたっけ。
   セールスなんて然うだと分かったら真っ正直に対応などせずに、
   「要りません」「居ません」などの拒絶の言葉を吐いて切ってしまえば良いだけ。
   それが蓉子にしてみれば少し心苦しいらしい。
   勿論、きっちりと断るのだけれど、話も聞かずにいきなりガチャンッと切るのはどうにも出来ない、と。
   …話が逸れたね。
   最近はセールスぐらいでしかかかってない来ない家電話。
   私は買い物に行く準備をしていたから、出るのは止めようって直ぐに思った。
   正直に言えば面倒だったから。
   結果、放って置かれた電話は自動的に留守電へと切り替わる。
   これでセールスだったら何も言わないで切るだろうし、若しもそれ以外だとしたら、
   例えば蓉子の実家(小母さまとか、ね)からだったら、何かしらのメッセージを残そうとするだろう。

   机の上に転がしていた財布を忘れずに手に取る。
   家の鍵も持ったし、さぁ、行こう。



   「……です。
   水野さんが……」



   玄関で靴を履きながら、でも一応、耳を傾けていた事が幸いしたのか。
   留守電に吹き込まれそうになっていた言葉は聞き覚えのある名称と、最も親しき…いや愛しき者の名だった。
   何となく。
   何となく、胸騒ぎを覚えて電話へ走った。
   メッセージが終わるか終わらないかで受話器を取る。



   「もしもし、大変お待たせしてしまい申し訳ありません。
   私は蓉子…水野と同居している佐藤と申しますが、水野に何かあったのでしょうか」



   言葉上だと落ち着いているように見えるけど、実際は然うじゃない。
   その証拠に、私の勢いに驚いたかのように電話の向こう側の人は軽く止まった。
   その時の私にはオブラートとかフィルタとか、或いは軽薄、とか、然う言った表面上を取り繕うものなんて、何一つ無かったのだから。



   「…水野さんですが」



   一瞬の間を空けて、話し出す声。
   少しばかりゆっくりと話すそれに少しいらついた。



   「仕事中、腹部の痛みを訴えたと思うと突然意識を失い、救急車で搬送されました」



   瞬間、頭の中が真っ白になる。
   蓉子が…漸く肝心な事を述べたと思ったら、蓉子が。
   ああ、どうしてこんな時の予感、しかも大抵悪い、と言うのは当たるのだろう。
   虫の知らせとはこういう事を言うのだろうか。



   「こちらの人間が一人、付き添うと言う形を取っておりますが、ご家族の方にも…」



   向こうで続きを話している。
   だけどまともに頭の中に入ってこない。
   蓉子の、蓉子の両親は知っているのだろうか。
   当然知っているだろう。屹度、私より早く知ったに違いない。
   だとしたらもう、病院に向かっているだろう。
   然うだ、私も行かないと。
   こんなこと、してる場合じゃない。
   蓉子が。
   蓉子が。



   「……どこ、の」


   「……大付属病院です。最寄の駅は……で、」


   「分かりました」



   終わりまで聞かずに受話器を置くと、直ぐに私は玄関へと駆け出した。
   買い物に行く間際だったから、わざわざ出掛ける支度をする必要もなかった。
   いや、然うでなかったとしても、支度なんてしなかっただろう。
   それだけ、私はまとまな思考が出来る状態ではなかった。
   常識の事など、考えられなかった。


   然う、病院への道すら。


   それでも頭の中に残っていた“最寄の駅”の言葉だけに駅まで走って、そこに停車しているタクシーを見て、気付く。
   そして次に気付いた時にはタクシーに飛び乗っていた。
   息を切らして、血相すら変えて飛び乗ってきた客に乗務員は何事かと振り向いたけれど、私は気にとめる余裕も無く病院の名を言った。
   それから、急いで、兎に角早く、と。


   運よく信号にはさして捕まらず、時間にして15分弱の道のりだったけれど。
   その時間が恐ろしく長い時間に感じた。





   駆け込んだ受付で、蓉子の名前と自分の事を明かす。
   周りには多くの患者さんが居たけれど、そんな事はどうでも良かった。
   淡々と場所と行き方を説明される。
   救急で搬送されたけれど、とりあえずはと言う事で応急処置的な部屋に居るらしい。
   どうやら何かの検査をしたらしいけれど、兎に角逢えばどうにかなると思った。
   一刻も早く、蓉子に逢いたかった。





   「…聖?」



   案内された部屋の中に入る。
   と、そこには横になって点滴を受けている蓉子と、蓉子の職場の、付き添ってくれたらしき人が居て。
   私は挨拶もお礼もそこそこに、蓉子の傍に駆け寄る。
   先に居ると思った蓉子のご両親は意外にも未だ居なかった。



   「…どうして?」



   連絡があった。
   簡潔に伝えると、ああ、と静かに蓉子は頷いた。
   その顔色は真っ白だった、けど。
   意識があったからそれだけで単純な私は安心した。



   「水野さん、此方は?」


   「あ…」


   「私は一緒に生活をしている佐藤と申します。この節は蓉子がお世話になりました」


   「ああ、貴女が」



   蓉子が無事…かどうかは未だ分からないけれど、意識があった事で一先ず落ち着いた私はいつもどおりの調子が戻ってきていた。
   だから棘も無く、それから多分、にこやかに対応出来ていたと思う。
   ついでにああ、結構綺麗な人だな、なんて思ってみたり。
   それを察してか袖を弱々しく引っ張られたけれど、それすらも嬉しかったのだからどうしようもない。



   「じゃあ、水野さん。私はこれで…」


   「ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありませんでした。皆には…」


   「私から言っておくから、今は休んで。それから明日の事も考えなくて良いから。良いわね?」


   「…はい、有難う御座います」


   「いえ…ではどうぞ、お大事に」





   その人が帰るのを見送ると、部屋の中は私と蓉子、二人きりになった。
   落ち着いてみると、部屋の中はやたらと薬品臭い事に気付く。
   まぁ、病院なんだから当たり前なんだけど。


   …それにしても、だ。


   二人きりになって、安心したら、何だか力が抜けてしまった。
   ベッドの傍にあった椅子に座り込む。



   「…心配、した?」


   「当たり前」


   「…然う。あの、ごめんなさいね」


   「凄く吃驚した…けど、大事じゃないみたいで良かった」



   手を伸ばして白い頬に触れる。なぞる。
   蓉子は少し困ったような顔をしたけれど、拒絶しなかった。
   体温は朝と変わらず低いままで、点滴を受ける腕は相変わらず細くて、少し、痛々しいけれど。
   くすぐったそうに身じろぎする蓉子が愛おしくて、その頬を優しく撫でた。



   「点滴が終わったら帰れる?」


   「ええ」


   「勿論、家になんだけれど?」


   「…職場に戻ったら怒られそうだわ」


   「先刻の人に?」


   「それから上司にも」


   「良い人たちだね」


   「……ええ、本当に」


   「然う言えば小父さまと小母さまは?」


   「部屋の電話番号を自宅として設定しておいたから」


   「連絡しておいた方が良い?」


   「良いわ、自分でするから。有難う」






   点滴が終わるまで、疲れと生理痛が重なっただけだったとか、今日の夕飯とか、買い物に行く直前だっただとか、仕事の進行状況とか。
   他愛の無い会話をして…と言っても、ほぼ一方的に私が話して、蓉子は頷いていただけなのだけれど、時間を潰した。
   私としてはさっさと家に連れて帰りたかったけれど、流石に針を引っこ抜くわけにもいかない。
   あと、頬に触れていた手は、蓉子の手に。
   嫌がられなかったからそのまま繋いで今も居る。


   そしてそろそろ点滴も終わる、と言う時だった。





   「…蓉子?」



   頷いて、たまには言葉も返してくれていた蓉子が一点を見つめて動かなくなった。
   見れば、顔色も一向に良くなっていない。
   いや、一層白くなっている。まるで、一気に、血の気が引いてしまったみたいに。
   点滴をしているというのに、どうして。



   「…あのね、聖」



   静かに語りだす蓉子。
   その声には力が無く、いつもの蓉子らしからぬ声音だった。



   「お腹の検査を…CTスキャンを、したの」


   「う、うん…」



   そんな蓉子にたちまち不安になってくる心。
   CTスキャンって。
   いやでもさっき、生理痛と疲れだって。
   だから無理しちゃ駄目なんだよ、大体昔から然うなんだよね〜、て私が冗談めかして言って。
   蓉子もそれに苦笑いだったけど、笑って。



   「…そしたら、ね」


   「……」



   …どうか、マリア様。
   蓉子が笑って二人の家に帰れますように。
   どうか、どうか。
   私から蓉子を…




















   「卵巣に…腫瘍の影が、見つかったの」




















   …奪うような真似、は。















   Two