「誤解が解けないのよ」



   然う言って、くすりと、笑う彼女。
   私も、それでも良いじゃない、と言って笑った。






   静まり返ったエントランスホールの隅っこで、二人、待ち椅子に座って話す。
   外来受付時間内ならば、多くの人が受付待ちやらで混む場所。
   だけど今は夕闇の静寂に包まれて、人の気配と言えば私達のものだけ。
   ホールの明りは疾うに消え、病棟に通じる廊下から光が漏れる。
   その様を一言で形容するのならば、“寂しい”。
   が、私にしてみれば昼の喧騒が無く、かと言って病室ほど病院臭く無い、何より他人に対しての気兼ねなどもしないで良い。
   というコトで、隣に座る蓉子の手をしっかりと握り締めて、もう片方の手にはコーヒー(紙コップの)なぞを持って寛いでみたり。
   いや、私としては人が居たって気兼ねなんてせずに幾らでも手なんか繋げるのだけど、ほら、蓉子は極度の照れ屋さんだから、ね?
   うっかり調子に乗ったりなんかすると、一週間触るの禁止令なんかも出されちゃうしね?



   「良く無いわよ。全然、違うのに」



   お見舞いに来ては蓉子の、手に、顔に、触る私。
   ベッドとベッドを仕切るカーテンで視界を遮ったとしても、その仲睦まじさはお隣の方、と言うか部屋の皆様にだだ漏れらしい。
   で、何処ぞの照れ屋さんがそれを盛大に気にしたから今此処に居るってわけなんだけど。
   ちなみに蓉子が居る部屋は、本人の希望通り、大部屋の6人用。
   とは言え、ちゃんとで科内で区切られているせいか、部屋に“然う言う人”は居ない。
   それでも誤解されて困ると彼女は言う。
   特に。



   「昨日も説明したのだけど…今朝も言われたわ」



   私が部屋に入った時に蓉子と楽しそうにお喋りしていた、隣ベッドの初老の女性。
   その人が誤解してしまっていて、幾ら違うと説明しても、もう然う言うものだと完全に思い込んでしまっているらしい。



   「そんなに困るもの?誤解されて」



   人が居ない事を良い事に繋いでいた手を離して肩に回し、抱き寄せる。
   ずり落ちそうになった上着を片手で制して、少し躊躇いながらも、蓉子は身を寄せてくれた。
   日中、そして病室だったらこうはいかない。
   うん、人気が無いって偉大。万歳。



   「…当たり前でしょう」


   「どうして?良いじゃない」


   「貴女は男性では無いのよ」


   「当たり前。だけど、悪い気はしないのよ」


   「男性に間違えられて?」


   「それは嫌だけど敢えて問題にしない」


   「…私は嫌よ」



   あ、可愛い。
   俯き加減に、不貞腐れたような、むくれたような、そんな子供っぽい仕草に心がときめく。
   今ならキスしたとしても誰にも見られないし、まぁ監視カメラなんかは回っているだろうけど…良いかな。良いよね。
   だけど、その前に。



   「分からないかなぁ?」



   笑いながら、顔を、瞳を覗き込む。
   揺れる色。
   息もかかるくらいの距離。
   いつキスしたって、されたっておかしくない距離。



   「つまりはさ、私達は夫婦に見られているんでしょう?その人に」



   言うや否や、頬に触れるだけのキス。
   本当は唇が良かったんだけど…それはまぁ、「後のお楽しみ」と言うコトで。



   「……」



   薄暗くて良くは見えないけど。
   その耳は赤くなっているんじゃないかと予想。
   思わず口元が、意識とは関係無く緩むのを感じてしまう。
   ああ、やっぱり唇にすれば良かった。



   「…大体そんなにお腹出て無いわよ、私」


   「どれ?」


   好機とばかりに片手のコーヒーを床に置き、そのまま蓉子のお腹を触り、さする。
   愛おしく、さすっては撫で、撫でてはさする。
   おまけに。


   「ごきげんよう。君の聖さんですよ」



   と、話しかけてみたり。
   更にパジャマの隙間に手を差し入れ……たところで、流石に止められた。
   素肌に触りたかったのに、残念。



   「…一寸」


   「んー…確かに、入っているようには思えないね」


   「当たり前でしょう。それから触りすぎ」


   「だって触りたいんだもん」



   もう気付いたかもしれないけど、今の私は蓉子分が足りない。
   何か、些細な名目さえあれば、その躰に、その肌に触れる。
   ナニ的な感情も勿論あるけど、ただ単純に触りたいと言う気持ちの方が強い。
   だって、仕方ないでしょう?
   家と病院、離ればなれなんだもの。



   「…未だ三日目なんだけど」


   「三日だよ?たった、じゃないよ?
   と言うか、枯渇するのに十分すぎる日数だよぅ」



   おどけてじゃれつく。
   いや、嘘。おどけてない。割と本気。凄く本気。
   だって同じ家に住んでいれば、例えば一緒のベッドに寝ていれば、
   仮令、ベッドに入る時間が違っても、お互いがお互いを無意識でも触ることが、抱き締めることだって出来るのよ?
   朝起きたら隣に蓉子が居る…まぁそれはたまにの話なんだけど、どれだけ心がほんわりするか。
   そりゃあね、仕事とかの都合で一緒に眠れない日もあるけれど…それはまた別の話。



   「そんなだから誤解されるのよ」


   「ふふ、いつ生まれるのかな?名前はどうしようか?今から考えておかないと」


   「…あのねぇ」


   「蓉子は女の子、男の子どっちが良い?あ、私は女の子が良いな。蓉子似で黒髪がとても美しい女の子」


   「ばか」



   こつん、と。
   ぐーで軽く頭を小突かれたけど、なんかもう幸せで、へへ、と笑いが零れてしまう。
   そしたら今度は鼻を抓まれたけど、それくらいで懲りる私では無くて。
   声に少しだけ真剣みを持たせて、話を続ける。



   「だけどさ、若しもの話、蓉子だったらどっちが良い?」


   「…不毛ね」


   「不毛で結構。所詮、例えばの話だから。
   ね、どっちが良い?」


   「……然うね」



   蓉子が視線を落とし、手を口元に当てる。
   真面目に考え始めた時の証拠。
   その顔をじっと見つめて思う。
   何だかんだ言っても…然う、私が真剣になっていれば、最後には一緒になって考えてくれる蓉子。
   くだらない事、然う、今しているような現実に起こり得る事の無い話であっても。



   「私も女の子が良いわ。但し…」


   「但し?」


   「貴女に似ている子が良い」


   「……」


   「貴女に似ているのだから手は掛かるだろうけど。
   けど、凄く愛しいと思うの。ほら、手の掛かる子ほど可愛いって言うでしょう?」


   「いや、可愛くないよ」


   「あら、何故?」


   「だって私に似てるんでしょ。可愛くない、可愛くないよ」


   「然うかしら?」



   私に似ている子供、女の子。
   聞いて直ぐに想像したのは、仏頂面で、口を開けば皮肉を言う、子。
   おまけに自分の殻に閉じこもり、自分なんか消えてしまえと思う、子。
   仕舞いにはただ一人だけを信じて、のめり込んで、愛して、全てを求めて…そして傷付く、子。



   「…然うだよ」



   低い、且つ、暗い声。
   さっきまでのテンションが嘘のように、心が重い。
   決して消える事の無い傷痕が、膿んだように熱を持ち、私を苛む。
   然う、昔の自分は未だに私の中に居る。消え去る事は私が私であり続ける限り、屹度、無い。
   そんな私に蓉子は掌を私の頬に当てて、言葉を続ける。



   「だって、貴女はこんなに可愛いのに」



   言い終わったと同時に、唇の程近くに温かくて柔らかい感触。
   それが蓉子の唇のものだと分かったのは、蓉子が照れくさそうに目を細めて笑った顔を見てから。
   途端、かぁっと顔が熱くなる。



   「さぁ、そろそろ時間だわ」



   面会時間の終わりを告げて離れていく蓉子の躰を咄嗟に引き寄せて、やや強引に唇を重ねる。
   それからやっぱり強引に蓉子の唇を舌で抉じ開けて、中のそれを捕らえ。
   絡めては吸い、吸っては絡める。時には己の方に引き寄せて食む。
   収まらず流れ出した唾液は、顎へと伝い、流れ落ちる。
   ただ感情に任せただけの、熱に浮かされた、貪るような、口付け。










   「…聖」



   漸く解放した唇から漏れる、名。
   名残を惜しんで下唇を噛んだ。
   これ以上は出来ない。
   だから、出来るだけ、優しく。



   「…また明日来るよ」


   「…明日は」


   「午前中から、来るから」


   「でも面会時間は……」


   「来るから」


   「……うん、待ってる」



   もう一度、触れるだけのキス。
   離れる瞬間、軽く下の唇を噛まれた。甘く。
   それは普段、あまり弱さを見せようとしない蓉子がたまにだけ見せてくれる、甘え。



   「昨日聖が帰った後、ね…麻酔の説明があったの」


   「…うん」


   「色々、説明されたわ…合併症の事、も」


   「……」


   「説明が終わると同意書に署名をして判を押した。造影剤の時も然うだったけど…」


   「うん…」


   「分かってはいるの。確立は限りなく低い事くらい…だけど」



   掠れる声、私よりも小さい躰。
   腕の中に包み込んで、あやすように頭を撫でる。
   優しく、ありたけの想いを込めて、優しく。



   「…大丈夫」


   「……」


   「大丈夫だよ…」


   「……うん」




















   蓉子が倒れた日の翌日、私達は蓉子が運ばれた病院に再度訪れた。
   婦人科できちんと検査を受ける為に。
   蓉子は一人で行けると…案の定心配性とも言われたけれど、私はついて行くと言って譲らなかった。
   あの後。
   例えば…夕ごはんを食べている時、いつもと変わらないように振舞おうとしていた彼女。
   眠る前、私の腕に頭を乗せて「明日もお医者さんに行かないとね」と言った時の彼女。
   それら全てが私の不安を煽って。


   若しも。
   若しも、本当に、然うだったら。





   家族だからと看護師に説明(と言う名の一点張りまたはごり押し)をし、診察室に共に入る。
   蓉子の眉間にも微かに皺が寄っていたけれど、構わない。
   と言うか、説明を受けるのならば二人での方が良い。勝手に然う決め付けた。
   だから。


   …ばか、と言う呟きも敢えて聞こえないフリをした。


   蓉子を担当したのは女医だった。
   まぁ、女医の方が同性だし、個人的にもこういう問題だし男よりは女の方が良いかなぁ、などとその時は軽く思った。
   が、それは甘い認識だった事を後で知る。


   問診、内診(の時は流石に外に出された)を淡々と済ませ、かつ、倒れた日に撮ったCTの写真を見て、彼女は言った。
   あくまでもさらっと、何でもない事のように。



   この大きさだと手術しないと駄目ね。一ヶ月くらい、休みが取れるかしら?



   と。


   その言葉を聞いた時の蓉子の顔が忘れられない。
   初めてだった。
   血の気が引く瞬間を見たのは。
   一気に。
   本当に、「サァッ」と言う表現が間違ってないくらいに一気に血の気が引いたのだ。
   私は慌ててその体を支えようと手を伸ばした。
   椅子に座っている蓉子の体が今直ぐにでも揺らいで倒れてしまう、と思ったから。

   けれど蓉子は私が思っていた以上に、更に気丈だった。
   どういう事か、と逆に質問を返したのだから。
   女医の答えは簡単だった。至極明快だったと言っても良い。



   だから、開腹手術をするのよ。



   私は怒りを覚えた。
   今までに感じた事の無い怒りを。
   その配慮の欠片さえ感じられない、無神経さに。
   だけれどそれ以上に、私が然う見えただけかもしれないけど、女医の顔に人を食ったような微笑が浮かんでいたから。
   然う、何処か小馬鹿にしたような。


   挙句。



   今はインターネットが普及して簡単に調べられるから、詳しく知りたいのならそれで調べてみたら良いわ。



   私の中でぶつんと糸が切れた。
   お前は医者だろう!
   それを説明するのがお前の義務であり責任だろうが!
   ネットって何だ!
   蓉子が、蓉子がどんな思いで此処に来ていると思ってやがる…!
   そんな言葉たちが喉までこみ上げた。
   いっそ、ぶん殴ってやろうかとさえ。



   もう一度、今度は造影剤を使ってCTを…それから日程なのだけど…、



   言う事だけ言って今後の説明をし始めた医者…女の言葉など、もう耳に入ってこなかった。
   兎に角、こんなところから一秒でも早く、蓉子を連れ出そうと思った。
   置いておけない、置いておきたくないと、ただひたすら強く。





   結局。
   手術をするにしてももう少し考えてみると、蓉子は答えを返し(…たらしい)、その日は家に帰った。
   調べてみるわね…と言った蓉子の声は、倒れたあの日よりも、ずっとか細い気がした。


   夜。
   私の作ったごはん(蓉子の好きなもの)を一緒に食べて、お風呂に入った後も、調べ物を続けようとする彼女をベッドに誘った。
   半ば、強引に打ち切らせたと言っても良い。調べ物なんて明日にだって出来ると言って。
   蓉子は軽く困ったような顔をしたけれど、拒否の言は紡がなかった。
   キーボードに乗せていた手をとり、握る。
   握り返される。
   それを勝手に肯定の意と取り、その手を口元に運ぶとそっと唇を押し当てた。


   ふざけて。


   然う言った蓉子に、少しだけど、笑顔が戻ってきた事が嬉しかった。



   ベッドまで手を繋いで歩き、ベッドの中ではいつもよりうんと優しく抱き締めておやすみのキスを額と頬、それから唇に落とす。
   恥ずかしそうに、くすぐったそうに身を捩る蓉子。いつまでも慣れないそんな彼女が愛しい。





   「おやすみ、蓉子」


   「おやすみなさい、聖」





   …私には。
   私には何も出来ないけれど、だけど、一緒に居る事は出来る。
   同じ熱を共有する事が出来る。
   それを、拙いやり方だけれど、蓉子に伝えたい。





   だってそれはかつて蓉子が私に教えてくれたこと、だから。








   翌朝。
   私の腕の中で目覚めた蓉子は一つの答えを出した。
   セカンドオピニオン。
   医師のちゃんとした説明を求める為に違う病院へ行く事にする、と。




















   「じゃあ…ここで」


   「…うん」


   「また、明日」


   「うん、明日」





   面会時間は疾うに終わってしまった。
   看護師さんに見つかったら注意されてしまうと言う蓉子の言葉に、それでも構わないと返して、病室の前まで送った。
   最後におやすみと言葉を交わし、蓉子に背を向けて帰りの途につく。一緒に居たいと思う気持ちを抑えて。
   振り返ると、蓉子が見送ってくれていた。
   小さく手を振る。
   蓉子も振り返してくれる。


















   大丈夫。


   屹度、いや絶対に大丈夫。


   然う、心に言い聞かせて。















   Three