これはこれは主典
〈サカン〉殿。
   夜も疾うに更けたと言うのに、一体当家に何用で御座いましょう。
   あぁ、そうそう。
   彼の方ならば貴方様の目論見どおり、お倒れになり此の世を去りました。
   だからと言って、其れが何となりましょうや。
   我が一族は貴方方も知ってのとおり、呪われた一族。
   短命故に、代わりを幾らでも作っておかねばこの血、容易く絶えましょう。
   故に。
   穿った見方をせずとも…然う、代わりなど幾らでも居るのです。
   例えば。



   貴方様の目の前、に。

















   蓉子。


   …江利子。


   におい。
   こびり付いているわ。


   …。


   拭いきれなくなるわよ。


   其れは貴女も同様でしょう。
   私達は鬼を斬って生きているのだから。


   言葉が足りなかったようね。
   私が言いたかったのは人の、人であったモノのにおいの事。


   …ふ。


   何か、おかしい?


   …いいえ。
   笑い話にもならないわ。


   然う?


   …。


   あら、自虐的な顔ね。
   なかなか素敵よ。


   …帰らないと。


   アレの処に?


   目を覚ますと探すのよ。
   だから…帰らない、と。


   遅いわよ。
   残念ながら。


   …。


   アレならもう、疾うに気付いているわ。


   …気付くって。
   一体、何の話…?


   貴女の其の手、に。


   …ッ


   怖かったのでしょう?
   知られるのが。


   …何を言っているの。


   聖に。
   其の業を知られるのが怖かったのでしょう?


   …。


   …明日は出発よ。
   早く休んだ方が良いわ。


   …ええ、然うね。


   とは言え、休ませて貰えるかどうか分からないけれど。


   …止めてよ。
   冗談にならないから。


   望んでもいるから?


   …だから、止めて。


   …ともあれ。
   おやすみなさい、蓉子。
   良い、夢を。


   ありがとう。
   おやすみなさい、江利子。






   ・






   ねぇ、知ってる?


   何が。
   主語が無いと分からないわ。


   雀って。
   私達と同じくらいしか生きられないのよ。


   …そんな筈無いわ。
   聞いた話によると私達より…


   平穏に生きられたら、の話でしょう。


   私達は平穏に生きているとでも?


   少なくとも寿命を全うするぐらいには。
   未だかつて、無理して早死にした人は居ないって聞いた。


   無理は禁物。
   家訓の一つ。


   其れ。
   作った人は蓉子みたいな人だったのね、屹度。
   で、当の本人は無理し放題。


   無理なんてしてないわよ。


   別に蓉子だとは言って無いよ。


   …。


   蓉子?


   …触らないで。


   どうして?
   顔が青いよ。


   …。


   理由は無し?


   …何でも無いから。
   心配、しないで。


   何でも無い、ね。


   本当に何でも無いのよ。


   ふぅん。


   …私、一寸出てくるわ。


   何処に?


   蔵の整理。
   そろそろしないと。


   じゃあ、私も行く。


   貴女が来たところで、何もしないじゃない。


   そんな事無い。
   蓉子を見てる。


   あのね。


   ねぇ、蓉子。


   …何。


   今朝、ね。
   鴉に喰われてた。


   だから何が。
   主語が無いと…


   雀。
   鳴きながら逃げてた。
   だけど。


   …。


   鴉だって。
   生きる為に喰うだけ。
   其れだけの話。
   其処に善も悪も無い。


   …ゴロンタを思い出したの?


   いや。
   ただ銜えられた雀の鳴き声がやけに耳に残っているだけ。


   …私も見た事があるわ。


   蓉子も?


   暑い夏の日に。
   助けてはいけないと、頭では分かっていたけれど。


   助けた?


   …いいえ。
   だからこそ、見た事があるのよ。


   何が言いたいの。


   屹度、私は助けたかったのね。


   見殺しにしたと?


   然う言うわけでは無いわ。
   貴女が先刻言ったとおり、鴉にとっては生きる為の捕食。
   其れは無差別な殺生じゃない。
   …けれど。


   悲しい?


   …と言うより。
   感傷、なんだわ。


   …。


   …非道い話。


   何が。


   何処まで行っても私の勝手な感情に過ぎないのに。


   蓉子。


   だけれど。
   だけれど、私は悲しかった。


   蓉子。


   雀の命も鴉の命も鬼の命も…人の命も。
   差なんて無いのに。


   蓉子。


   私は奪うの。
   口では綺麗事を並べて。
   心は感傷に沈んで。
   其れでもこの京で生きる為に。
   私はこ


   蓉子…!


   …っ
   聖…。


   やっぱり顔色が悪いよ。
   休んだ方が良い。


   …何でも無い、わ。


   駄目。
   これは当主命令。


   …こんな時ばかり。


   然うだよ。


   …。


   たまには。
   当主らしい事、しないと。


   此れはただの濫用よ。


   然うとも言う。


   然うとしか言えない。



















  
 ノ 岸 辺 ニ




















   雲が棚引き、朝日で橙に染まる。
   今日も暑くなるだろう。
   空を見上げて、思う。
   そのまま深く息を吸い、吐く。
   息を整える。
   構え。



   チ、チ…



   あの鳥の朝は私よりも早い。
   夜目の利く梟などと違い、夜目が利かぬ鳥は活動し始めるのが早いと聞いた事がある。
   多分、あの鳥も然うなのだろうと思う。
   とは言え、夜の闇は人間の目でさえ塞いでしまうのだけど。
   と。
   闇の中でもはっきりと浮かぶ赫を思い出す。
   荒々しくて、獰猛な、獣。捕食者。
   躰が震える。
   振り払うように軽く頭を振る。
   腕を突き出す。



   チチチチチチチチチ…



   突然、鳴く声が変わるのを捉える。
   あの鳥が今まであんな風に鳴いた事はあっただろうか。
   いや、ある。
   確か、あれは。



   チチチ…ッ



   声のする方に耳を傾け、顔を向ける。
   追われている。
   己よりも大きな黒い鳥に。
   上へ、下へ、逃げる、逃げる、逃げ惑う。
   だけど。



   …チチッ



   とうとう、黒い嘴に銜えられた。
   小さい鳥が懸命に藻掻くけれど、幾度も幾度も小さな躰を震わせるけれど、黒い嘴は其の躰を確りと捕らえて離さない。



   蓉子。



   逃げられない。
   もう。



   チチ…チ



   鳴く声が弱くなる。
   か細く、それでも最期まで。



   私の手は知らず、印を結んでいた。
   呪は完成している。
   あとは其れをコトノハにのせるだけ。
   然うすればあの小鳥は助かる。
   そしてあの黒い鳥は死ぬ。
   一つの命を助ける為に、一つの命を消す。
   生きる為に喰う、其の命を。



   奪っては、いけない。



   強き者が弱き者を喰らう。
   其れが自然の摂理。
   だからこそ、弱き者は数を生そうとする。
   生き残る為に。



   …私とは、違う。



   一瞬とは言え、小鳥に己の姿を重ねた事を悔いる。
   あの小鳥は自ら進んで喰われるわけでは無い。
   生きたいのだ。其の為の戦いなのだ。其れは黒い鳥も、また。
   だから。
   印を解〈ホド)き、呪を解〈ト〉く。
   力無く腕を垂らす。



   あの鳥と私は違う。
   然う、私は喰われてしまいたいのだから。
   あの人に。
   此の身を。
   私と言う存在の全てを。



   心まで、侵食されて。



   やがて。
   鳴き声は消え、早朝の静かさが戻る。
   餌になった鳥の事など忘れてしまったかのように、残った鳥達の声が其の中で響く。
   あぁ、だけど。



   チチチチチチ…ッ



   あの鳥の、其の最期の声が。
















   蓉子…ッ


   …え。
   あ…。


   …はぁ、はぁ、はぁ。


   せ、い…?


   ぼさっとしてるな、蓉子…!
   もう一寸で…!!


   …。


   もう、一寸で…。


   ……。


   …蓉子、確りして。
   お願いだから。


   …う、ん。


   …でこ、蓉子を!


   あんたに言われなくても分かってるわよ。
   蓉子、怪我は?


   江利子、私…。


   今は戦闘中。
   了解?


   …でも、私。
   聖と…。


   其の聖が庇ってくれなきゃ。
   貴女、確実に死んでいたわよ。


   死んで…。


   然う、まさに奴らの餌になる寸前。


   ……。


   くそ、次から次へと涌きやがって!
   いい加減にしろよ…!!






   ・






   もう少し、寝ていけば良いのに。
   と言うか寝ていきなよ。
   誰も邪魔なんてしないんだからさ。


   もう、十分よ。
   大体何なのよ。


   何、て、何?


   顔色が悪いだなんて言っておいて。


   悪かったよ?


   じゃあどうして…こんな事、したのよ。


   こんな事?
   って、どんな事?


   こんな昼間からするなんて。
   そんな気、全く無かったのに。


   大丈夫って言ったじゃない。


   其れは顔色云々の問いに対しての答えであって。
   行為の承諾では無いわ。


   然う?
   其の割には…


   強引なのよ。


   其れが好きなのは誰?


   無理矢理は好きじゃないわ。


   知ってる。
   だから無理矢理はしてない。


   違いは何処なの。


   あまり痛くしなかったでしょう?


   そんなの、説明になってない。


   痛かった?


   …。


   ほら、痛くなかった。
   寧ろ、


   言わないで。
   それから話を変えないで。


   其れにさ、ちゃんと訊いたよ。
   直前に、「良い?」って。


   其れは…


   まぁ、なかなか「うん」とは言わないのだけれど。
   素直じゃないんだよね、この口は。
   本当は欲しいくせに。


   …ッ


   だけれど。
   其れがかえって煽る結果になっているんだけど。
   あの声、あの顔、本当、堪らない。


   聖…ッ


   ともあれ。


   …放して。


   寝ていきなよ。
   せめて、夕方まで。


   冗談じゃ無いわ。
   何がともあれ、よ。
   大体、


   蓉子の手、好きよ。


   …。


   私のよか小さくて。
   柔らかくて、あったかくて、何より優しい。


   …放してよ。


   嫌。


   せ


   何があっても。
   私はこの手を離すつもりは無いから。


   …いい加減にして、聖。


   離さない、離すものか。


   聖。


   …。


   ひゃ…


   …蓉子。


   …止めて、聖。
   これ以上はもう、し


   そろそろ、話して。
   蓉子から、貴女の口から聞きたい。


   …何を話せと言うの。


   其れは私じゃ分からない。
   蓉子の事だから。


   …特別に話して聞かせる事など、無いわ。
   それより止めて。


   蓉子。


   兎に角、放して。
   いつまでもこんな事してられな


   私は平気だから。


   …。


   何があろうと、例えば、何かを知ったとしても。
   離さない。


   ……い、や。






   ・





   ……はぁぁ。
   あー、つーかーれーたー…。


   ご苦労。


   …偉そうだな、でこ。


   聖…。


   蓉子。


   其の、平気…?


   ううん、あんまり平気じゃない。
   やっぱ槍一人じゃきっついねぇ。


   奥義もいまいち使えないしねぇ。


   うっさい。


   ぱっとしないのよね、槍使いって。
   無駄な力ばかり有り余ってて。


   だからうっせぇよ、でこすけ。
   つか強調すん…な?


   …。


   …え、と。
   疲れたよー、ようこー。
   癒してーー。


   …。


   あら?


   ……え、と。
   殴られ、ない?


   ごめんなさい、聖。


   え、えぇ…。


   あら、まぁ。


   …。


   あ、いや、其の…個人的にはえっらくすっごく、具合が宜しいのですけど。
   …てかあったかいやーらかい、やばい。


   もしもーし、蓉子さーん。
   此処が討伐先って事を忘れないでねー。
   てか私の存在も忘れないでねーーー。
   此処重要、よー…?


   ……。


   …?
   あれ…?


   …はぁ。


   一寸蓉子、顔色が悪いわよ。
   大じょ…


   今直ぐ、うちへ帰ろうッ


   は?


   蓉子、熱があるのよ!
   其れも凄く…!!


   ………。


   …あ、本当。
   と言うか其れを早く言いなさいよ、天狗面。
   胸に顔を埋めているんだから、直ぐ分かるもんでしょう。


   だから今気付いたでしょう!?


   この色魔が。


   いや、だから…あーもう良い!
   さっさと帰るわよ、でこ!
   グズグズしてると置いていくから…


   モタモタしてると置いてくわよ、天狗面。


   早…ッ


   のろま。
   さっさと蓉子を担ぎ…抱き上げなさいよ。


   …蓉子、直ぐにうちへ連れて行くから。
   一寸の間、我慢しててね。


   早くして。
   鬼がまた涌くじゃないの、助平天狗。


   ほんと、いちいちうっさいわね…ッ















   ポイ、してしまいなさい。


   …ポイ、ですか。


   然うよ。
   ポイポイ、よ。


   は、はぁ…。


   そんな輩はさっさと別れて正解。


   …あの、失礼は承知の上でお尋ねしますが。


   何かしら?


   酔っていらっしゃいますか?


   飲んでないのに。
   どう、酔えば良いのかしら?


   先程から食しているものは…。


   ああ、此れ?
   イツ花が何処からか仕入れてきたお饅頭だけど…あら、食べてないの。
   ほらほら、遠慮なんかしないで食べて。
   甘いの、何気に好きでしょう?


   …好き、ですけど。
   このお饅頭、微かに…いや大分お酒の匂いがしませんか。


   そりゃ、するでしょうねぇ。
   イツ花曰く、泡盛と言う酒が入ってるお饅頭らしいから。


   アワモリ?


   何でも海の向こうの島のお酒らしいわよ。
   時代?そんなものはどっかにうっちゃっておいて下さいナ、とも言っていたわねぇ。


   私、お酒は…。


   あぁ、大丈夫大丈夫。
   お酒が入っていると言っても所詮、風味だから。
   酒精に中る事は無いわよ〜。


   …。


   ほら、美味しいわよ。
   蓉子ちゃんもお食べなさい?


   …お姉さま、お姉さまの言ったとおりでした。


   ん、何?


   いえ、何でもありません。
   では…一つだけ。


   一つと言わず、二つも三つも食べて食べて。


   でも夕餉の前に間食をするのは…


   然う、其れ。
   ホント、然う言うトコロ、椿に似ているわよね。
   ふふふ。


   …う。
   お酒の匂い、が…。


   美味しいでしょう?


   …は、はい。


   あら、涙が出るほど美味しかった?
   じゃ、矢っ張りもう一つ


   あ、いえ、結構です!
   矢張り夕餉の前に間食をするのは良くないと思いますので!


   もーう。
   折角、聖のお姉さまが勧めているのだからお食べなさい?
   聖だと甘いもの、まるっきし食べてくれないから詰まらないのよ。


   い、いえ、夕餉が食べられなくなるので…。


   大丈夫大丈夫、別腹だから。


   あ、や、と、当主様…!
   先程、仰っていた事ですけど…!!


   んー?


   ポイしてしまえ、とはどういう事なのでしょうか?


   あー。


   話があるとの事でしたけれど、其の事なのでしょうか。


   椿は真面目なのよねぇ。


   …はい?


   直ぐに己の中だけで抱え込もうとするの。
   私達が居るのに、弱さを見せようとしないの。
   私は其れがもどかしいと思うの。


   え、えと…。


   見ていると。
   蓉子ちゃんもそんな風に見えるのよ。


   …。


   甘えたいと少しでも思えたのなら。
   そんな人間が傍に居るのなら。
   甘えてしまえば良いのよ。
   だって。


   …。


   そんな椿が甘えたいと思った時って大抵、ね。
   心底、淋しい時だったから。


   …え。


   あ、吃驚した?
   あんな堅物でも甘えたの時があるのよ。
   然うね、半年に一回くらい。


   其の計算だと。
   人生のうちにほんの数回になりますね。


   然うなの、滅多に無いの。
   もっと甘えてくれても良いのにね、年の事気にしてたのかしらね?


   ね、と私に言われましても…。


   と言うわけで。
   淋しい時に受け止めて貰えないようだったら。
   ポイ、してしまいなさい。
   そんな度量が無いばかちん、早々にお別れして正解。


   …。


   でもま。
   惚れ過ぎちゃうとそんな分別もつかなくなっちゃうんだけどね…。


   …当主様、今でも久遠さまの事を


   だから、蓉子ちゃん。
   若しも聖が心の底から“ばかちん”だったら、其の時は遠慮無く


   ま、待って下さい。
   どうして其処で聖の名前が出て


   好きなんでしょう?


   …ッ?


   見てれば、ねぇ。
   自ずから、ねぇ。


   あ、や、わ、私は…ッ


   あー、今更良いから良いから。
   可愛い反応、どうも有難う。
   聖の姉として嬉しいわぁ。


   ……。


   本当、可愛いわねぇ。
   聖には勿体無いぐらいだわ。


   と、当主様、ご冗談も程々に


   ねぇ、蓉子ちゃん。
   辛い事は決して、一人で抱え込まないでね。


   なさ、て…。


   鬼は鬼が生すものではないわ。
   人が生すの。
   其れは?


   …お姉さまから。


   人の心に鬼が巣食って。
   やがては其の身も堕とす。


   …。


   この家に、京の民を含め味方は割と多くなってきたけれど。
   其れでも恨みと憎しみは消えない。
   人に負の感情がある限り。


   …はい。


   時には其れが呪となって此方に向けられる事があるわ。
   現に今でも。


   存じております。


   私は…椿と菊乃が居たから。
   今でも私のままで此処に居られる。
   分かる?


   …。


   貴女には聖が、江利子ちゃんだって居るの。
   其れを忘れないで。


   ……はい。


   それから。
   嫌だったら何も、貴女だけでやらなくても良いから。
   誰も貴女を責めないわ。


   いいえ、やります。
   私が。


   聖の代わり、に?


   …。


   良いのよ。
   あの子はばかちんじゃ無いけれど、お姉さ…母親に良くも悪くも似ているところがあるから。
   正直、蓉子ちゃんが名乗りを上げてくれた時は…椿には悪いけれど、ほっとした。


   …。


   …と、言うわけで。
   お饅頭、食べる?
   いや、食べなさい。


   …え?
   あ…。


   難しい話はお仕舞い。
   さ、甘いものでも食べてお口直しをしましょう。


   ふ…!















   ……あれぇ?
   あれってば若しかしないでも、当主様?


   イツ花!
   今直ぐ


   あ、やっぱり当主様だ。
   お帰りなさいませ、当主様。ご無事で何よりです。
   てかご帰還、予定よか早くないですかぁ?


   イツ花、帰った早々悪いのだけれど


   お帰りなさいませー、江利子さま。
   てか、どうしましょう。お風呂の支度、全くさっぱりしてないンですけどぉ。


   …。


   はいはい、お帰りなさいませ、蓉子さま。


   …。


   …て、あれ?
   どうしたんですか、何かやたらにグッタリされてますけど。
   そういや、いつもだったら一番に挨拶をなさってくれるのに今日は


   イツ花ァ…!


   はい?


   布団を敷け!
   今直ぐ!!


   …へ?


   へ、じゃないから。
   この際、蓉子の部屋でも天狗面の部屋でも、イキオイ余って私の部屋でも良いから。
   至急、お布団を敷いて。


   …まさか、とは思いますけど。
   まさかあの蓉子さまが鬼に…いや、まさかあの蓉子さまに限って、あの一度戦となるとそこらの鬼なんかより余っ程怖いあの蓉子さまが


   あ゛ー!!!!!


   ひ、ひぃぃぃ…ッ?


   ンなコトは後で説明してやるから今はさっさと布団の支度をしろ!!
   勿論、私の部屋の!!!


   あ、矢っ張り?


   あんまりモタモタしてるとうっかり槍が飛ぶぞ!イツ花…!


   あ、はい、只今ぁぁぁ…!


   あー、其れと。
   熱冷ましもお願いねー。
   若しも忘れたりなんかしたら…其の時は軽く、的代わりにしちゃうかも。


   ぜ、絶対に忘れませんんん…!!















   −グシャリ。






   手に当たった其れは意外な程に脆くて。
   呆気なく、壊れた。









   特別、体調を崩していたわけじゃない。
   寧ろ、万全と言えるほどに調整してきたつもりだった。
   現に昨日までは躰が軽かった。
   何をするのにも。



   だけど。



   昨夜もまた、聖に、強引に、抱かれた。
   拒否と拒絶の言葉には相変わらず耳を貸しては貰えず、私は、ただ、ただ、其の荒々しさに身を喰われた。
   明日は大事な日だから。
   だから、と何度も言った…懇願したのに。
   其れすらも愉しむように、聖は私の躰を滅茶苦茶にしようと暴れる。
   まるで人形
〈ヒトカタ〉と遊ぶかのように、仕舞いには壊してしまうかのように、私を犯しては嗤う。


   いつも以上に。
   異常とも言える程に。
   どんなに涙を流しても、どんなに悲鳴に近い声で啼いても、許しては呉れず。
   幾度も、幾度も。
   達しても、達しても。
   底から引きずり上げられ、姿勢を変えられ、私の味がする指を咥えさせられ、上と、下と。
   焦らされては、痛いくらいに与えられる。



   いっそ、殺してよ。



   意思とは関係無く、だらしない声を上げ、意識が白濁し、朦朧としていく中で。
   半ば、本気で思った。
   噛まれた所は熱を帯び、欲がのた打ち回る。
   執拗に与えられ続ける無情。
   もう、限界だった。







   殺して、殺して、殺して…。







   聖の腕の中で死ぬのであらば。
   死ねるのであらば。
   私は。










   そして、私は、目覚めた。
   最近やっと、見慣れてきた天井。
   試しに重い腕を持ち上げて、手を翳す。
   息を吸う。
   ああ、生きている。
   聖は結局、私を殺しては呉れなかった。
   今はもう居ない、聖の温もりを探す。
   冷たい。
   何処を探っても。






   其の日。
   結論を述べれば矢張り、私の体調は最悪だった。
   どこを取っても。
   まともに動いてはいなかった、呉れなかった。








   −グシャリ。








   其の感触は拳に、挙句音となり、耳の奥に蘇る。







   私はあの日。











   初めて、“人”を殺した。
















   …。


   …。


   …い。


   …。


   聖。


   …。


   其処の天狗面。
   聞こえてたら返事しなさい。


   …蓉子。


   …。


   …。


   聖!


   …何よ、江利子。


   聞こえてたら。
   返事しろ、と言った筈よ。
   蓉子は?


   相変わらず、眠ってる。


   顔色は?


   悪くも無く。
   かと言って良くも無い。


   熱冷ましは?


   飲ませた。


   目、覚ましたの?


   いや。


   口移し?


   あぁ。


   飲めた?


   一応、喉は通ったよ。


   然う。
   じゃあ、後はゆっくり休ませるだけね。
   そうすれば躰の疲れは取れて、体力も戻る。


   …躰は、ね。


   聖。


   …くそ。


   貴女が悪態を吐いたところで。
   蓉子の具合が良くなるわけでは無いわよ。


   分かってるわよ。
   だけど。


   だったら。
   傍に居てあげたら?


   言われなくても、そうするわよ。


   今は?


   祥子が付いてる。


   そ。
   じゃ、はい此れ。


   何よ、此れ。


   北窓。


   北窓?


   知らないの?
   蓉子は甘いものが好きなのよ。


   知ってるわよ。
   特に餡子が好きなんだ。


   じゃ、わざわざ尋ねなくても分かるでしょ。
   目が覚めて食べられそうだったら、食べさせてあげて。


   てか此れ、牡丹餅じゃんか。


   季節によって名が変わるのよ。
   今は暦の上だと始まりとは言え冬だから、北窓と呼ぶの。


   あ、そ。


   ま、所詮。
   天狗には風流なんて、分からないでしょうけど。


   食べられれば、名なんてどうでも良いじゃん。
   腹に入ってしまえば同じなんだから。


   詰まらないわね。


   詰まらなくて、結構。


   さて。
   私も少し、蓉子の様子を見に行こうかしら。


   江利子。


   んー?


   蓉子は…。


   心は。
   寝ても癒せないわ。
   時が有れば、時が癒して呉れるかも知れないけれど、私達には無い。
   其れは貴女も良く知ってるでしょう。


   …でも、話してくれない。


   然う、仕向ければ良いだけの事でしょ。


   腹黒。


   綺麗事なんぞ。
   利用する為にあるのよ。


   厄介だな。


   いっそ、光栄だわね。


   褒めてない。


   あんたなんかに褒められたら、さぶいぼが出るわよ。





   ・





   蓉子。


   …。


   ねぇ、蓉子ってばー。


   …うん?


   蓉子ー、蓉子さーん。


   聞こえてるから。
   何、聖。


   良く眠れましたか?


   …お陰さまで。


   其れは良う御座いました。


   …。


   其れと。
   今度の討伐は一緒だから。


   え。


   良いでしょ?


   突然、何よ。


   今度の予定。
   今回は早々と決めてみましたー。


   どんな風の吹き回し?


   たまにはねー。
   ま、何だ、外に出るのも良いと思うよ。
   家に篭って、本だの蔵の整理だのに感けてばかりいないで、さ。


   だからって討伐?


   大丈夫。
   いざとなったら私が守ってあげます。


   其れは有難う。
   でも己の身は己で守るから。


   いや、其処は素直に受け取っておいてよー。
   言葉だけでも良いからさー。


   はいはい。
   じゃあ、無理はしないでね。


   無理をして怪我をしたら、蓉子に治してもらうからへーき。


   莫迦な事、言わないで。


   えー、治してくれないのー?


   …。


   蓉子?
   どうした?


   何でも無いわ。


   そ?


   然うよ。


   なら…良いけど。


   聖。
   命は一つしか無いのよ。


   九つあったら、どっかの化け猫だね。


   茶化さないの。


   はーい。


   だから。
   粗末にしないで。


   粗末になんてしてないよ。


   私なんかの為に無理をして。
   怪我で済むのなら、幾らでも治してあげるわ。
   だけれど、若しも誤って…


   若しも、は無いよ。
   それから“私なんて”とか、言わないで。


   絶対、だって無いわ。


   うん、然うね。
   だから死なないでね、蓉子。


   話の主旨が変わってる。


   ね、行くよね?


   其れも当主としての命令?


   違うよ。
   でも一緒が良いなー。


   良いなーて。
   そこいらに散歩へ行くのとはわけが…


   つか蓉子が一緒じゃないなら私も行かなーい。


   …一寸。
   そんな所に顔を埋めて話さないでよ、聖。


   へへ、ふかふかー。


   もう。
   で、今度は何処に行くつもり?


   え、とねぇ。















   −パシンッ








   痛い?


   …。


   訊いているのよ。
   答えなさい。


   …分かりません。


   分からない?
   何、ふざけた事を言っているの。


   …ふざけてなど。


   質問を変えるわ。
   私は今、貴女に何をしたの。


   …。


   答えなさい、蓉子。


   …私の頬を打ちました。


   状況を理解する力は未だ、残っているようね。


   …。


   今一度、訊くわ。
   打たれた頬は痛い?


   …。


   蓉子。


   ……痛い、です。


   其の、当たり前の言葉が出なければ。
   私は再び、貴女を打たなければならない所だったわ。


   …申し訳御座いません。


   で。
   何故、打たれたか。
   其れは理解出来ているのかしら。


   …其れは。
   私、が……


   …。


   人、を…。


   違うわ。


   …でも。


   もう一度言うけれど、違うわ。


   ……当主様。
   私、わた、し…。


   人を…死なせた事は責めない。


   けど…私、私は…人を殺して…。


   殺したのでは無いわ。
   結果的に死んだだけ。
   ただ、其れだけ。


   其れだけ…て。


   此の先、生きていれば。
   本当の意味で殺さなければならない場面なんか結構…いや、遭遇するかも知れない。
   けれど。
   繰り返すわ、此度は殺したわけじゃない。


   でも現に私の手には…!
   あの時の感触が、頭を砕いた感触が残っているんです…!!
   何をしても、どうしても、消えない…!!


   酷かも知れないけれど。
   消す必要は無いわ。
   其れは痛み、蓉子ちゃ…蓉子が、持っていなければならぬ痛み。


   …ッ


   言い換えるのならば。
   此の家の者が持ち続けなければならぬ、忘れてはならぬ、痛み。
   どうしてか、分かる?


   …。


   私達は此れまでに多くの神と交わってきたわ。
   初代の頃と比べたら、大分人としての血が薄まってしまった。
   つまり其れだけ、人とはかけ離れてしまった。


   ……。


   人はね、強いかも知れないけど、脆いのよ。
   とても、とても。


   …。


   私達は短命だけれど。
   簡単には死なないわ。
   それこそ、鬼と命の奪い合いをしても。


   …。


   だから。


   ……。


   ……此処はどう続けるべきかしら、菊。


   ……何で此処で振ってくんのよー。


   …役立たず。


   …何だとー。


   …。


   兎も角。
   戦だけでなく、人が相手の“試合”であっても意識をどっか遠くに飛ばしたら駄目。
   体調が悪いのならば、事前にきっちりと言う事。
   うっかりしてると死んじゃうから。
   後は一人で何でもかんでも抱え込まない。
   以上!


   …うーわー、最早意味が分かんない。


   と、言うわけだから。
   反省会は終わり。
   今後、気をつけるように。


   ……申し訳、御座いませんでした。


   蓉ちゃん、頬は大丈夫?
   腫れちゃっても大変だから、ちゃんと冷やして置いた方が良いよー。


   …はい。
















   …。


   …。


   ……。


   ……。


   …あー。


   …。


   …。


   貴女達、黙ったまま睨みあってて、何か面白い?


   …。


   …。


   て、二人同時に此方に一瞥呉れてから、逸らすのね。
   ある意味、息が合ってて面し


   私は此処を退く積もりは毛頭ありません。


   …私は蓉子の傍に居る、居たい。


   どうぞ、御勝手になさって下さいませ。
   けれどお姉さまには指一本たりとも、触れる事は許しませぬ故。


   此処は私の部屋だ。


   其れが、何か。
   何だったら今からでもお姉さまの部屋に移しても良いのです。
   大体、貴女様が勝手に此の部屋に運んだだけはありませんか。


   …。


   ご自分の部屋に連れ込んで。
   一体何を、なさるつもりだったのでしょうね。


   …何が言いたいの。


   さぁ。
   私は当主様では無いので。
   然う、体調など一向に気にせず、己の我侭を満たす為だけにまるで獣の如き振る舞いをする貴女様では無いので。
   詳しくは存じません。


   …ッ


   かような目をされたところで、私は怯みませぬ。
   私は一歩も退きませぬ。


   祥子ぉ…ッ


   はーい、そこまで。
   もう本当に何なの、あんたら。


   …。


   …。


   貴女達が揉めたところで何の意味があると言うの。
   其れで蓉子の容態が良くなるわけ?


   …。


   …。


   また、だんまり?
   勘弁して欲しいわね。


   …祥子。


   何でしょうか。


   祥子が思っているような事はしない。
   だから、退いて。


   其れを信じろと?


   部屋から出て行けとは言ってない。
   信用出来ないのならば、見てれば良い。
   私はただ、蓉子の傍に居たいだけ。


   …。


   …蓉子。


   …!
   お姉さまに触らな


   祥子。


   江利子さま…。


   済まないけれど。
   水を替えて来てもらっても良いかしら。
   温くなってしまったみたいだから。


   しかし…!


   私が、居るわ。


   …。


   万が一、も起きない。


   …。


   第一、こんなに弱っているコレに。
   そんな真似は出来ない。


   断言、するのですか。
   しても、良いのですか。


   基本的に腑抜けなのよ。
   蓉子あっての、だから。


   …。


   蓉子…蓉子…。


   と、言うわけだから。


   …分かりました。


   ん。
   じゃ、お願いね。
















   上代の罪は神の忌み嫌うもの、即ち天地自然に宿る霊の意に逆らうものであった。
   延喜式の「大祓詞」曰く、


   天津罪である八罪と、国津罪である十四罪です。


   その通り。
   天津罪とは農耕社会を妨害し、損なう悪行。
   では国津罪である十四罪を詳しく言うと、


   生虜断〈イキハダダチ〉、即ち、他人の皮膚に傷を付ける、或いは殺す罪。
   死虜断〈ニシハダダチ〉、即ち、死人〈シビト〉の肌に傷を付ける罪。
   白人〈シラヒト〉、即ち、白なまずの皮膚の病に罹る者で、何かしらの罪を犯した為に出来ると信じられていた罪。
   胡久美〈コクミ〉、即ち、大きな疣や瘤を持つ者で、白人と同様の罪。


   付け加えるのならば、白人と胡久美は神が忌み嫌う不具疾病の類とされていたから。
   続けて。


   己が母を犯せる罪、即ち、男子が己の母と交わる罪。
   己が子を犯せる罪、即ち、父か母が子と交わる罪。
   母と子を犯せる罪、即ち、近親である男が母と子を共に姦す罪。
   子と母を犯せる罪、即ち、近親の男が姉妹を含む子女と其の母を姦す罪。


   早い話が近親相姦。


   …蓄犯罪〈ケモノオカセルツミ〉、即ち、


   即ち?


   …獣と交わる罪、です。


   然う。
   次。


   昆虫〈ホウムシ〉の災、即ち、神は禍いをもって罰の力を発揮するものと考えられ、この場合は蛇や毒虫に咬まれる罪。
   高津神の災、即ち、高津からの落雷などによる罰、言わば天罰。
   蓄仆志〈ケモノタオシ〉、即ち、人の家畜を殺す、或いは妄りに不必要に家畜を殺す罪。


   最後。


   蠱物為罪〈マジモノナセルツミ〉、妖術、呪術で災いを他に転嫁させる罪。
   以上です。


   うん。
   良く覚えたわね。


   恐れ入ります。


   けれど。
   詰め込む必要は無いわ。
   必要ならば其れを持って来て見れば良いだけの話だから。


   はい。


   それにしても。
   何処の世でも人を其の手にかける事は禁忌の筆頭とされているのよね。


   何処の世…?


   例えば、十戒。


   …?


   あぁ、良いわよ。知らなくて。
   流石に、ね。


   はぁ…。


   で。
   其の割には人を人だと思えない輩が多いのだけど。
   挙句、侵略を“戦”として正当化しようとする。
   矛盾、だわね。


   己の身を守る為、止む得ない場合はどうなのでしょう。


   まぁ、黙って殺されろ、と言うのは土台無理な話よね。
   生き物は多かれ少なかれ、生に執着するものだから。
   だけれど其の場合、故意があるものでは無いと考えるわ。


   故意、ですか。


   殺す、と。
   死なす、は。
   違うものだと、私は思うのよ。


   …え、と。


   蓉子には未だ、難しいかしら。


   良く、考えてみます。


   自分で考えようとするのは素晴らしい事よ。


   はい。

















   …。


   本当によく眠っているわね。
   顔色は…良いとは、言えないけれど。


   …江利子。


   何。


   蓉子は…


   心労、もあるわね。
   あんたの事もあったから。


   …。


   思うに。
   もう少し、楽な生き方もあると思うのだけど。


   …蓉子。


   熱は?


   …未だ。


   ま、飲んだばかりで直ぐにとはいかないか。


   …。


   一寸、何をしているの。


   もっと、側にいたい。


   祥子に張り倒されるわよ。


   …抱きたいわけじゃない。


   餓鬼の屁理屈。
   時と場合を考えろ。


   ……。


   と、言ってやりたいわ。
   あの、馬鹿どもに。


   …?


   潰されるか、否か。
   其の瀬戸際まで行った…いや、今でさえ紙一重だと言うのに。
   そんなにも己らの保身が大事なものかしらね。


   …此の間の、夜の事か。


   あら、知っていたの。


   …蓉子は何も言わない。


   だから、聞かなかった?
   いえ、聞けなかった?


   …。


   蓉子は


   言うな。


   へぇ?


   蓉子の口から直接聞く。


   蓉子が恐れているのを知っていて?


   …。


   誰でもない。
   貴女の存在が大きいのよ、蓉子には。
   だからこそ、















   −ひとごろし…!








   お前のせいでおとうは死んだ。



   お前のせいで、おとうは…ッ



   お前がおとうを殺したんじゃ…ッ



   何が鬼退治の一族じゃ…ッ



   お前こそが化け物、鬼そのものじゃないか…ッ



   此の鬼畜生め…ッ



   おとうを、おとうを返せ、返せよ…ッ



   ちくしょう、ちくしょう…ッ



   ……お前なんて。



   お前なんて…ッ



   鬼に殺されろッ



   殺されちまえ…ッ










   …然うだ。



   君なんて死んでしまえば、殺されてしまえば良いんだよ。



   鬼に喰われて。



   ほら、見てごらんよ、君の手。



   真っ赤だ、真っ赤だよ。



   ハハハハハハハハハ。



   無駄、無駄だよ、そんな事したって。



   所詮、拭えない、拭えないんだよ。



   死ぬまで、いや、死んだって。



   君は綺麗事を唱えながら、其の手を汚し続けるんだからさ。



   だから、さ。



   殺されてしまいなよ。



   この、僕にさ?











   …なぁ、ひとごろし?

















   …あぁッッ


   蓉子…ッ?


   ああ、ああ、いや、いやぁぁ…ッ


   蓉子、蓉子…ッ


   う、ぁ…あ。


   蓉子、大丈夫、大丈夫だから。


   ……ごめんなさい、ごめんなさ…ぃ。


   蓉


   お姉さま…?
   お姉さま…ッ


   私、わた、し……。


   蓉子、私は此処に居る。
   居るよ、蓉子。


   当主様、貴女何を…ッ


   祥子。


   江利子さま…ッ


   手を出さないで。


   されど…ッ


   良いから。


   あぁ、あぁ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…ッ


   蓉子、大丈夫。


   放して、離して、放して…ッ
   私、わたし、私はぁぁぁ…ッ


   お、お姉さま……。


   あぁ、あぁぁぁ…いや、いやぁんんッ


   …。


   ん、んん…ッ


   ……。


   ん……ん…。


   ……。


   ……。


   …大丈夫だよ、蓉子。


   ……。


   私が。
   誰だか、分かる…?


   ……せ、い?


   然う、私は聖。
   聖だよ、蓉子。


   せい…せい、せい…。


   私は、ずっと此処に居る。
   蓉子の側に居るよ、絶対に離れない。
   離さない。


   あぁぁ…。















   …江利子さま。


   何か言いたそうね。


   二人きりにさせて…。


   あれを、見たでしょう?


   …。


   蓉子も人間なのよ。
   私達と同じ。
   だから。


   ……。


   人には役割がある。
   私達では聖の役割を果たせない。


   しかし、私は…ッ


   然う。
   貴女は蓉子の大切な妹。


   ……。


   妹の役割は、姉を包み込む事じゃない。
   其れは貴女が最も、知っていると思うけれど。


   …私には何も出来ないのでしょうか。


   何も?


   側に居る事も…。


   手を繋いで、抱き締めて上げる事。
   其れだけが側に居るという事では無い、わ。


   …。


   心を離さない。
   其れは簡単なような事だけれど、決して簡単な事では無いの。


   ……。


   祥子。


   …はい。


   私はこれから、私のやるべき事をするわ。
   そして貴女は貴女の役割を果たしなさい。
   聖は決して、貴女にはなれないのだから。


   …私、イツ花の所に行って参ります。


   然う。


   目を覚ましたお姉さまに、温かくて美味しいものを召し上がって頂く為に。
   それから。















   ……。


   落ち着いた…?


   …聖、私


   しぃ。


   …ん。


   蓉子は疲れてたんだ。


   …。


   ごめん。


   …どうして、謝るの?


   気付いていたのに。


   …。


   蓉子のように出来ない。
   蓉子のように。


   …聖。


   ごめん、蓉子。
   ごめんね…。


   …しめて。


   え…あ。


   抱き締めて…。


   …うん。


   …ああ。


   大丈夫?
   苦しくない…?


   聖の…


   …?


   聖の、匂いがするわ…。


   ……。


   いつか…聖が言っていた意味が、良く分かる…。


   私が…?


   安心する…。


   ……。


   貴女の匂いが、貴女の存在がこんなにも…。


   …うん。


   …一人にしないで。


   しないよ。
   約束、した。


   …其れだけじゃ、足りない。


   …。


   …我侭言ってごめんなさい。
   だけど…


   良いよ。
   蓉子の我侭なら、私は嬉しい。


   ……










   ひとごろし。









   …ッ


   だから、蓉子。
   もっ、と…?


   ……。


   蓉子?
   蓉子…?


   …ごめんなさい。
   何でも、無いわ。


   だけど…


   何でもない、から。
   もう、大丈夫だから。
   一人に、して。


   何を言っているの。


   本当に…大丈夫だから。


   そんな我侭なら、聞けない。


   聖…お願いだから。


   駄目だ…ッ


   ぁ…。


   絶対に、一人にしない。
   させない。


   でも、だけど…。


   蓉子、抱き締め返して。
   力一杯。


   …せ










   ひとごろし。










   あぁ…ッ


   蓉子…ッ


   だめ、だめ…い、やぁぁッ


   離さない、離すものか…ッ


   離れて、離れてぇ…ッ


   嫌だ…ッ


   だって、私…私の手はぁ…ッ


   …く。


   殺したの、殺したのよ…ッ


   ……。


   人をぉ…ッ


   ……其れが。


   人を、何でもない人を、殺したの…ッ
   殺したのよぉ…ッ


   其れがどうした…ッ


   ……ッ


   其れが。
   今、私が蓉子を離さなければいけない理由になんてならない。
   なりえない!


   でも、でもぉぉ…。


   蓉子。


   ……ぅぅ。


   蓉子の手、私は好きだよ。


   …赤いの。
   真っ赤なの、拭っても拭っても落ちないの…。


   …。


   このままだと、聖が…聖にも…。


   …良いよ。


   けど…けど…。


   もう一度、言う。
   私は蓉子の手が好きだ。


   …。


   大好きだよ。
   だから…。


   せ、ぃ…。


   私を、信じて。
















   …これはこれは。


   ごきげんよう。


   君のような方が何故?


   もっと早くに来るべきだったと思うわ。


   ほう?
   と、言うと。


   面倒だから、単刀直入言うわね。
   構わないかしら。


   どうぞ。


   手を、引きなさい。


   答えを言う前に僕からも一つ、聞きたい事がある。


   ぐずぐずしている暇は無いわよ。
   アレが直に直接知る、から。


   其れは怖いな。
   だけど敢えて問おう。


   どうぞ。


   回りには幾人か居たろう?


   眠ってもらったけど。
   何か問題でも?


   結界を施しておいた筈なんだけれど。


   二つ目ね。


   これは失礼。
   だけど知りたいな。


   人間如きの結界で。
   鬼の呪を防げると思って?


   成る程。
   これは愉快だ。


   もう一度、言うわ。
   手を引きなさい。


   残念ながら。
   応、とは答えられない。


   然う。
   残念だわ。


   然うは思っていないだろう。


   ええ、全然。


   せめて理由を聞いてくれないものかな。


   そんなもの、必要?


   時には、ね。
   そして今は其の時だと、僕は思うよ。


   聞くわ。


   僕の手によるものではない。


   へぇ?


   偽りなんて吐かないよ。
   この状況でね。


   其れは分からないわね。


   此度ばかりは本当さ。
   だけど信じるか信じないかは、君達の勝手だけれどね。


   信じる前に皆、殺されるわよ。
   アレの手にかかったら。


   怖い、怖いなぁ。


   今後。


   うん?


   鬼が増えると伝えなさい。


   其れは命令かな?


   命令などとは言わない。
   されど。


   されど。


   知らぬと言ったところで、私達の知ったところでは無い。
   私達は彼女のように、出来て無いから。


   分かった。
   無駄だとは思うけれど、伝えるだけ伝えよう。















   …御前試合で。
   私は人を、不慮とは言え、手にかけたの。


   うん。


   それからも私は。


   うん。


   最初は声を掛けたわ。
   忠告だって、した。
   だけど。


   …。


   ひとごろしだと。
   ある日、子供に言われた。


   其れは御前試合の?


   …。


   蓉子は。
   初めから、殺すつもりだったの?


   …違う。
   そんなつもり、あるわけない。
   私はただ…


   蓉子は、殺して無いよ。


   だけど…ッ
   今でもあの感触が消えないの、残っているの。
   音になって頭に響くのよ。
   グシャリ、て。


   蓉子、試合とは戦いだよね。
   即ち、命の取り合いだ。


   …。


   今まで。
   人が死なない試合なんて、あった?


   ……。


   中には殺すつもりの人も居ただろう。
   だけど、死なしてしまった人も居ると思う。
   そして其の差は大きい。
   私は然う、思う。


   けれど、結局は人が死んでいるわ。


   其れは結論。
   其れに至る過程が違うのなら、結果は違う。


   ……だけど。


   人殺し。


   ……ッ


   蓉子が然う呼ばれるのならば。
   私も呼ばれるべきだ。


   聖が…?
   どうして…?


   本来ならば。
   私が業を背負うべきだった。


   ……。


   蓉子は。
   ただ、私の、お姉さまの、一族の業を代わりに背負っただけなんだ。
   私が弱かったから。


   …。


   だけど、もう良い。
   これからはもう、一人で背負わなくても良いんだよ、蓉子。


   ……。


   第一さ。
   お姉さまだって、一人で背負っていたわけじゃない。
   蓉子のお姉さまや、江利子のお姉さまが居た。
   然うでしょう?


   ……。


   だから、もう。
   一人で背負わなくたって良いんだ。


   聖…。


   痛みは消えない。
   此の先、ずっと。
   分ち合うと言ったって、所詮、綺麗事にしかならない。
   誰にも真の意味で分かる事なんて出来ないのだから。
   それでも、私は。


   …。


   蓉子、忘れないで。
   決して、忘れないで。
   私は
















   目の前に迫る、白刃。


   咄嗟にかわす。


   尚も襲い来る。


   このままでは、やられる。


   振り払わなければ。


   振り払わなければ。
















   守らなければ。

















   …何処へ行くの。


   …。


   今、蓉子から離れるの。
   眠っているとは言え、今の蓉子から。


   赦さない。


   ええ、然うね。
   だけど其れを理由にはさせない。


   ……。


   戻りなさい。


   …。


   貴女達は二人きりじゃ、ない。
   然うでしょう?


   ……。


   今は。
   蓉子のところへ、戻れ。


   …。
















   …ん。


   ごめん、起こした…?


   ううん…。


   …ね、甘えてよ。


   …。


   甘えて、欲しい。
   蓉子が怖い夢を見ても大丈夫なように。


   ……ん。


   …。


   聖のにおい…。


   …うん。


   聖…。


   …おやすみ、蓉子。






































   これはこれは此度は次官〈スケ〉殿の使いの者でしょうか。
   夜も疾うに更けたと言うこの時分、一体当家に何用で御座いましょうや…。






















   夢 ノ 岸 辺 ニ 了