其れはとても濃くて。 甘い、匂いだった。 T h e n a r r o w W o r l d いつかの夜。 私は寝苦しさを覚えて、なかなか寝付く事が出来なかった。 体は昼の鍛錬などで疲れている筈なのに、目を閉じてもなかなか眠りに落ちる事が出来ない。 曰く、疲れ過ぎても眠れなくなるそうだけれど、其れとは何処か違う。 何故、あの時。 あのような寝苦しさを覚えたのか、今でも分からない。 若しも、あの時。 普通に眠れていれば。 どうせ眠れぬのならば。 本を読もうと、思い立った。 修練の意味で術の書でも良かったけれど、お姉さまがいつも読んでいらっしゃる本が良い、と。 夜は疾うに更けているけれど、本好きなお姉さまだったら或いは。 私は布団から這い出た。 途端に晩秋の、何処かもの悲しい空気を身で感じる。 今、此の部屋を使っているのは私だけ。 少し前だったら、隣にお姉さまが眠っていらしたのだけれど。 お姉さまは何も言わず、部屋を替えられてしまった。 理由は何となく分かっている。 いや、理由、と言うほど大袈裟なものでは無い。 けれど多分、其れが要因なのでは無いかと。 子供心に感じるものがあったのだ。 だから私は何も言わなかった。 一人で眠れぬ程、私はもう子供じゃない。 私は足早にお姉さまの部屋に向かった。 未だ然う寒くは無いけれど、じっとしていれば確実に体の熱は奪われる。 お姉さまの部屋は母屋には無い。 所謂、離れと呼ばれているものが今のお姉さまの部屋。 けれど渡り廊下で繋がっているから、草履は必要ない。 と。 何処かで微かに、ほんの微かにだけれど声がしたのを聞いた。 呻きとも喚きとも違う。 違うけれど、近いような気もする。 合わせたような、と言えるかも知れない。 こんな夜更けに。 私は少しだけ、身が震えた。 早く本を借りて布団に戻ろう。 然う言う類は信じては居ないし、ましてや鬼など来る筈が無い。 私の体はただ、秋の夜風に反応しただけだ。 其れ以外は、無い。 次に其の声を聞いた時。 初めに聞いた時より、はっきりと私の耳に届いた。 然う、お姉さまの部屋の前で。 若しやこの声はお姉さまの…。 いや、お姉さまのお声はこん、な… 瞬間。 とても、とても、濃くて、どろりとした匂いを捉える。 其れは言いも知れぬ不快な湿気を含んでいて、私は聊か気分が悪くなった。 其処で気付く。 お姉さまの部屋の障子が少しだけ開いている事に。 匂いは其処から漏れている事に。 声も、また。 お姉さまに何かあったのでは無いか。 お姉さまに何か。 然う、一度思ってしまったせいで。 私は確認せずにはいられなかった。 息を殺して部屋に近づき、湿り気さえ帯びた匂いの流れを遡る。 万が一の事も考え、印を結ぶ事を忘れない。 初め、目に飛び込んできたのは部屋の隅にうち捨てられたように丸められた着物らしきもの。 とは言え、離れの部屋は狭い。 更に詰め込まれた書物が其れを手伝って、人が二人も納まれば窮屈になってしまう。 だから。 これ以上匂いを遡らずとも、其れは 溢れる匂いの深奥。 蠢く影。 薄暗い中で浮かぶ青白い貌。 赫い光点。 其処に居たのは人なんかでは無く。 鬼。 猛り狂った鬼が。 そして鬼の下には組み敷かれた白い躰。 鬼の唇が舌が這うたび、声ともつかぬ声を上げ、腰を揺らす。 絡まる脚。 零れる、荒い、息。 鬼が更に猛り、其の白い首筋に牙を立てる。 紅い筋、悲鳴。 鬼の、喜悦とも取れる声が上がり、手は房を荒々しく弄った挙句、白い脚を撫で回す。 波打つ腰は堪えきれぬかのように沈み、また浮かぶ。 首筋を食んでいた唇は牙を仕舞い、房へ。 一段高い息。 匂いは更に濃く、粘着性を増す。 不意に。 鬼の手が脚の内側に隠れた。 と、簡単に其れは押し広げられる。 息を飲む音。 くく、と、嗤う声。 乱暴に担ぎ上げられる脚。 上がる、か細く、最早明確には聞き取る事は不可能な言。 封じ込められるように塞がれる。 くぐもる声。 然うしている間にも絶え間なく動く手、指先。 それまで無かった、水の、音。 漸く解放された唇は閉じるのを忘れてしまったかのように、開かれたまま。 其処から先程とは少し違った類の、熱を孕んだ息が吐き出され。 ずっと敷布を掴んだままだった手が持ち上がり、鬼の背の後を、虚空を彷徨い、敷布へと落ちる。 執拗に這う舌。 絶息しかねない程の、喘ぎ。 淫猥な音。 不規則な律動。 生への、本能。 ………。 赫。 其の色に囚われて、瞬間的に体が竦む。 鬼の瞳が歪む。 悦びに震えるが如く。 …まさか、最初から。 …し、て。 他ならぬ、お姉さまの声。 哀願とも取れるような。 鬼は嗤う。 面白くて仕方が無いとばかりに。 私に見せ付けて、嗤っている。 姿勢が変わった。 まるで、獣のようなものに。 然う。 鬼は。 犯す様を。 お姉さまの。 痴態を。 私に。 私に…ッ …ころして…ころし、て。 ああ。 お姉さま、お姉さま、お姉さま…ッ やがて。 お姉さまは死んでしまったかのように動かなくなった。 それでも鬼はお姉さまの躰に舌を這わせ続ける。 口の端を持ち上げ、嗤い続ける。 其の瞳に、私を囚えたまま。 ・ ・ …こ。 …。 祥子。 …。 祥子。 ……。 祥子、皺。 五月蝿いわね。 何だ、聞こえてるんだ。 急に耳が遠くなったかと思って心配しちゃった。 何か、用。 うん。 何。 祥子、皺。 …。 蓉子さまみたい。 …何が言いたいの。 何が、て程じゃないんだ。 ただ、皺ーって思っただけ。 特段、用が無いのであらば。 構わないで下さるかしら。 用ならあるよ。 …。 だからさ。 とりあえず皺寄せるの、止めない? とりあえず、て何よ。 もっと楽な顔しなよ。 疲れちゃうよ。 楽な顔って? 大体、私はいつもどおりよ。 然うなの? 何だか苦虫を噛み潰したような顔をしてたよ。 と言うか、してるよ。 …令。 ほら、祥子。 伸ばして伸ばして。 触らないで。 何か、あった? …何か、て。 無いなら良いんだ。 ねぇ、祥子。 前から思っていたのだけれど。 呼び捨てにするの、止めて下さらないかしら。 私は貴女よりも年上なのよ。 年上って言っても。 何ヶ月かじゃない。 何ヶ月かでも年上には変わりないわ。 然うだけど。 え、と、じゃあ…。 目上の者に対しての呼び方がちゃんとあるでしょう。 …えぇ。 何よ、其の苦虫を噛み潰したような顔は。 だって。 其れってつまりさ、“祥子さま”って呼ばないと駄目ってコトでしょう? ええ、然うよ。 んー…。 当然の事じゃないの。 ごめん、呼べないや。 は? 何か、違う。 違うって、何が。 何か、違うんだよ。 だから何が。 何だろう。 でも違うんだ。 だから、さま付けでなんか呼べない。 …莫迦にしているの。 してないしてない。 …。 ねぇ。 呼び捨てじゃ、駄目かな。 …。 ほら、私のお姉さまも年上である筈の蓉子さまを呼び捨てにしてるし。 当主様だって… …ッ …祥子? …。 祥子、また皺。 触らないでって言ってるでしょう。 うん、ごめん。 …。 祥子、私、お小遣い貰ったんだ。 お姉さまに。 …は? 突然、な だから。 一緒にお団子屋さんに行こうよ。 ちょ、一寸…! 祥子は何が好き? 御手洗?餡子?それとも胡麻? 離して! 私はね、餡子が好き。 蓉子さまも好きだよね。 令…! お土産に買ってこられるかな。 でも当主様は甘いの、苦手なんだっけ。 …胡麻で良いかな? 私に聞かないで! 他にもあったかな。 黄粉とか…あー、豆打〈ズンダ〉もあったなぁ。 案外、豆打が良かったりして。 も、もう、何なのよ…! ねぇ、祥子。 いい加減に… 笑ってなよ、祥子。 ……は? 祥子は折角キレイなんだから、笑ってた方が良いよ。 怖い顔してるよりさ。 ………。 ほら、蓉子さまだって。 皺寄せてる時もあるけど、笑顔の時は凄く素敵じゃない? ……令。 うん? 貴女、莫迦でしょう。 え、何で。 莫迦よ。 ええ、然うよ、莫迦だわ。 ちょ、祥子。 ひどいよ。 …本当、莫迦みたい。 祥子ー。 さっさと行きましょう。 え? お団子屋さんに行くのでしょう? 私は胡麻が良いわ。 あ、うん、分かった。 じゃ、行こう。 祥子…? …。 ほら、祥子。 言われなくても分かってるわよ。 どうしたの? 二人で… ごきげんよう、蓉子さま。 え、ああ、ごきげんよう。 はい、祥子。 だから分かってると言ってるでしょう! 祥子、どうかして…? …お姉さま。 うん? …。 あーもう、じれったいなぁ。 う、うるさいわね。 あの、蓉子さま。 …? これ、祥子と一緒に買っ 令…! あいた…ッ 余計な事は、しないで。 だからってはたかなくても…。 ひどいや、祥子。 お姉さま。 …何かしら。 此れを。 …此れは? お団子ですわ。 令がどうしてもと言って聞かないもので。 え。 令が? ええ、江利子さまにお小遣いを貰ったとかで。 然うなの? 令。 あ、や、まぁ、其れは然うなんです…けど。 然う…。 有難う、令。 いえ…あ。 …。 後で頂くわね。 あ、あの、蓉子さま。 うん? お団子を選んだのは祥子なんですよ。 祥子が? ええ、然うです。 ね、祥子。 …私は別に 有難う、祥子。 …。 二人とも有難う。 …お礼には及びませんわ。 大した事ではありませんから。 然うかしら。 はい。 …。 素直じゃないなぁ。 其れではお姉さま。 私達はこの辺で。 行くの? ええ、これから令と手合わせをしようと思っていますので。 え、そんなの聞いてないんだけ、たぁ…ッ それではごきげんよう、お姉さま。 ええ、ごきげんよう。 たたた。 と言うか祥子、一寸待って。 …。 もう一つ、忘れてるよ。 …後は令がやれば良いわ。 ご本人に直接渡すのは嫌だと言ったのは祥子だよ。 知らないわ。 あー…行っちゃった。 令? えと、仕方が無いなぁ。 蓉子さま、此れを。 …此れ、は? 当主様の分です。 一緒に召し上がって貰おうと思って。 …だけど、聖は。 甘いのは苦手だと思って、豆打にしてみました。 若しもお気に召さなかったら…えと、ごめんなさい。 …これも祥子が? 胡麻と迷ったんですけど。 此れで良いと言って。 ……然う。 此れ、何。 お団子…だそうよ。 …ふぅん。 令と…祥子が。 …祥子、ねぇ。 …。 甘いの、好きじゃないんだけど…て、ああ。 だから、此れ? …無下にしないで上げて。 …。 聖、お願い…。 どうしようかな。 …。 蓉子が、言う事を聞いてくれるなら。 ……ッ ……ねぇ、蓉子。 分かって、いるよね…? ……。 もう、祥子ってば。 さっさと行っちゃって。 良いでしょ、目的は果たしたのだから。 半分だけじゃない。 私にとってはあれで一つだったのよ。 ねぇ、祥子。 …何よ。 蓉子さまの事、好き? は? 好き? ……そんな事、どうして貴女に言わなければいけないのよ。 じゃあ、ご本人に言える? ……。 だから、さ? 何がだからなのよ。 全く持って意味が分からないわ。 蓉子さまの事、好き? ……。 好きなんだよね? ……当たり前じゃないの。 そっか。 うん、なら大丈夫。 はぁ? 大丈夫大丈夫。 貴女の言ってる事、と言うより頭の中が意味不明だわ。 私も蓉子さまの事、好き。 それからお姉さまも祥子も。 はいはい、其れは良かったわね。 それから、当主様も。 …。 …一寸、怖いけど。 だけど、好きだよ。 …ああ、然う。 祥子。 何よ。 大丈夫だよ。 全然、意味が分からない。 当主様は祥子の事、屹度嫌いじゃない。 …。 だから。 大丈夫。 ……。 あれ? 祥子、何処に行くの? これ以上、貴女の莫迦さ加減には付き合っていられないわ。 待ってよ。 手合わせ、するんでしょ? ……。 然う、言ってたよね。 …あれは。 しよう。 前からしてみたいと思ってたんだ。 ちょ、一寸令。 剣と薙刀。 ふふ、一寸わくわくしてきちゃった。 ああもう! 本当に莫迦なのね、貴女…ッ …祥子、ねぇ。 …せ、い。 蓉子は祥子が可愛いんだよね。 …。 まぁ、良いけど。 ん、ぁ…ッ だけど。 上げないから。 …。 行くよ、祥子。 後で泣いたって知らないわよ。 応、望むところだ! 然う。 じゃ手加減無しで行くわよ、令…!! The narrow World 了 “The narrow world” Tales of Desteny2 桜庭統 |