お姉さまは泣かなかった。 然う、泣かなかったのだ。 涙一粒でさえ。 だけれど。 其のお心がゆっくりと、だけれど確実に、崩れていくのを。 私は。 思い出せない。 こんな事、一度だって無かったのに。 お彼岸やお盆は勿論の事、子が生まれた時など、欠かした事は無い。 其々の名は家系図を見て、或いはお姉さまや父上に教えて貰って全て覚えた。 其の並び順すらも。 其れなのに。 今、私の目の前にある墓の主を思い出せないのは何故なのだろう。 懸命に思い出そうとする。 此処は山百合家の墓が並ぶ場所。 だから絶対にうちのものに間違いない筈。 だけど何故だろう。 知っている筈なのに、思い出せない。 いや、思い出そうとすると何故かこめかみの辺りに鈍い痛みが走って邪魔をする。 多分、私は知っている。 然う、私は知っているのだ。 この墓の主を。 誰よりも。 知っているのに。 ねぇ、せ… 名を呼ぼうとして、気付く。 いつも隣に居た人。 ここ最近は人前でも手を繋ぐ事を求めた人。 甘えたで、我侭で、淋しがり屋で、でも気侭で。 誰よりも愛しい人。 其の人が、居ない。 お墓参りは家族皆でするものだと、あれほど言った筈なのに。 何処に行ったのかしら。 ああ、また散歩と称して、都をフラフラしているのかしらね。 困った人。 帰ってきたらきつく言わないと。 蓉子。 …あぁ、江利子。 ぼうっとしているように見えたけれど。 どうかして? 其れがね、聖がまた来てないのよ。 確か家を出る時は一緒に居た筈なのに… …屹度、そこら辺で油を売っているのよ。 然うに違いないわ。本当に困った人…。 …蓉子、そろそろ帰りましょう。 皆も待っているわ。 …然うね。 あ、一寸待って。 何? ねぇ、江利子。 このお墓の事なのだけれど…誰なのか、全く思い出せないの。 …蓉子が? おかしいわよね。私、ちゃんと覚えていた筈なのに。 全然、思い出せないのよ…。 ……。 …江利子? …貴女の、大切な人のお墓よ。 私の…? …然う。 …お姉さまかしら、それとも父上? でもお二人のお墓は…。 …。 藤花さまや菊乃さまのお墓はお姉さまの両隣だし…。 祥子、祐巳、令、由乃、志摩子、其れに江利子、それから…此処には居ないけれど聖。 皆はちゃんと… …。 …矢張り、分からないわ。 ねぇ江利子、教えて。 このお墓、は… …蓉子。 本当に、知りたい? え…? 覚えていないのは。 覚えている必要が無いから、かも知れないわ。 そもそも人間ってそういう生き物らしいから。 何を言っているの? 其れでも、知りたい? そんなに真面目な顔をして。 どうしたと言うの、江利子。 私はただ、このお墓の主を… …そんなに、気になるの? ええ。 とても? とても…と言うより、忘れてはいけない、と思うの。 いえ、いけないと言うより… …。 淋しいと思うの。 蓉子が? ……。 …墓の主、が? ……人はね、二度死ぬのよ。 …。 一度目は文字通り肉体の死。 二度目は… 其の存在を誰もが思い出さない、或いは、忘れ去られた時。 …だから。 覚えていたい、と? …私、どうして思い出せないのかしら。 どうして、どうして…。 ……。 江利子…? どうしてそんな顔を… 蓉子。 え…。 このお墓の主は……ね L o t u s あ、居た…! え、何処? ほら、あそこ! あ、本当だ! 蓉子さまー! 蓉子さま! …え? やっと、見つけました! 急に居なくなったから皆で探してたんですよ! …急に? 私が? お部屋にいらっしゃらなくて、 他を探しても、何処にもいらっしゃらないから。 蓉子さま。 お姉さまも心配してます、早くおうちに帰りましょう? だけど、私…。 ご無理をなさると、お体に障ります。 蓉子さま、早く帰りましょう? 日が暮れてしまいますよ。 …探しているのよ。 あ、蓉子さま。 然う、探さないと。 屹度また、迷子になっているんだわ。 本当、困った人…。 寧ろ、迷子になっているのはよふ 由乃さん! 何処に行ったのかしら…。 蓉子さま、待って ふご、ふごごご! あ、ごめん。 …はぁ。 蓉子さま、駄目ですよ! ……。 蓉子さまってば…! …あ。 直に黄昏時…大禍時になると言うのに、一人歩きをしていては危ないですよ! 然う、教えて下さったのは蓉子さまではありませんか! 大禍時…ならば、尚の事早く見つけて帰らなきゃ。 蓉子さま! だって…迎えに行かないと。 呼んでいるのよ…。 駄目です、蓉子さま! だって、聖が…。 聖の声が…。 …ッ 聞こえるの、私の名を呼んでいるの…。 蓉子さま……。 行かないと、行かなきゃ…だって、聖が 聖さまは…!!! …! 駄目、由乃さん! 聖さまはもう、居ないんですよ…! 何処を探しても、もう…!! 聖が…居ない? 然うです! あの時、蓉子さまだって 居ないから、探しているの。 だって誰も探さなかったら…淋しいでしょう?悲しいでしょう? …然うですね。 ねぇ? だから私は探すのよ。 だから聖さまは…!! 待って、由乃さん。 でも…! 良いから。 私に、任せて。 聖は。 聖は何処に言ってしまったのかしら…。 蓉子さま。 なぁに? だから、私たちは蓉子さまを迎えにきたんですよ。 …? むか、え…? 聖さまなら一足先に帰ってうちに居ます。 祐巳さん…!? 黙って。 聖はうちに居るの? 帰っているの? 然うですよ。 其れはもう、蓉子さまのお帰りを今か今かと首を長くしてお待ちしているんですから。 本当? ええ、本当ですよ。 だから…帰りましょう。 私たちの家に。 もう…本当に心配をかけて。 さぁ、蓉子さま。 ええ、然うね。 帰りましょう。 由乃さん、そっちの手をお願い。 分かった。 でも、どうするのよ。 それは…今から考えるから。 今から、て。 今は兎に角。 蓉子さまと一緒に帰ることが先決。 …。 でしょう? …分かった。 んじゃ、私も帰りながら考えておく。 ありがとう、由乃さん。 ねぇ。 あ、はい。 何でしょう? ところで…なのだけれど。 …? 蓉子さま…? あなたたち、だぁれ? 私も死んだら。 こん中に入るんかね。 何、突然。 一族の墓が並んでるのを見て。 ふと、思った。 何処か違う場所が良いとでも? いや。 ああでも。 でも? 例えば、私が死んだら。 蓉子は泣いてくれるかな、とか。 …。 あ、思い切り、顰めたね。 泣かないわよ。 そっか。 若しも他の場所が良いと言う希望があるのならば。 誰かに伝えておけば良いわ。 若しかしたら叶えてくれるかも知れない。 誰か? 蓉子じゃ駄目なの? 私は貴女より上なのよ。 だけど。 約束、した。 私より先には死なない、て。 …。 忘れては、無いのでしょう? 忘れてはいないわ。 だったら。 蓉子に伝えても良いじゃない。 …何が言いたいのよ。 泣いて。 は? たった一人で。 私の墓の前で。 嫌よ。 私が死んでも。 悲しくないの? どうしてそんな事を言うの。 貴女、変よ。 然うかな。 然うよ。 だって蓉子が若しも、泣いてくれなかったら。 私は其れだけだったんだな、て。 其れだけ、て何よ。 此の世から消えても。 好きな人に、何も感じては貰えない。 涙を流す事が、悲しみの証明になるわけじゃない。 目に見える証が欲しい。 形ばかりだとしても? 其れは…どうだろう。 あからさまだと、やっぱ、淋しいかも。 …。 だから、泣いて。 誰にも見せず。 一人きりで。 嫌。 どうしても? ええ。 …。 聖。 …先に帰る。 待ちなさい。 未だ、先代様のお墓にお花を手向けてない。 やっておいて。 聖。 誰がやっても良いじゃない、そんなの。 先代様は貴女のお姉さまでしょう。 然うだけど。 お姉さまだって誰でも良いと思うよ。 特に蓉子だったら屹度喜ぶと思う。 知ってる? 蓉子ってば結構、気に入られていたんだよ。 莫迦な事、言わないで。 莫迦な事じゃない。 誰でも良いだなんて。 本当に何を考えてるの、聖。 …。 聖、待って。 離してよ。 どうしたと言うのよ。 どうもしてない。 何を拗ねているの。 拗ねてなんか無い。 嘘。 嘘なんて吐いてない。 だったら。 ちゃんとこっちを見て。 …。 聖。 …蓉子は。 私が死んでも、悲しくない。 そんな事、一言も言ってない。 泣いてもくれない。 だから。 私は、蓉子にとって其れだけ。 私は蓉子が死んだら悲しいし、淋しい。 挙句、生きようと思わなくなるかも知れない。 だけど、蓉子は違う。 …! いい加減にして…! …。 勝手に決め付けないで、聖。 私は貴女が死んでしまったら…考えただけでも、悲しい。 …。 私も貴女と同じ。 私は貴女に、無理だと知っていても、死んで欲しくなんか無い。 無いのよ、聖。 …。 だから。 死んだらなんて話、しないで。 ……。 しないで…しないでよ、聖。 …ごめん、蓉子。 …。 泣かないで、蓉子。 泣いてなんか、ない。 蓉子。 …。 …お花、一緒に手向けよう。 …。 お姉さまも屹度、喜んでくれると思うから。 …ええ。 それから。 蓉子のお姉さまにも手向けても良いかな。 屹度、喜ぶわ。 ついでに。 江利子のお姉さまにも手向けておくかな。 ついで、なんて。 だいじょぶ。 気持ちはあるから。 大事なのは気持ち、でしょう? …間違ってはいないけど。 ……。 聖…? ねぇ、蓉子。 うん? やっぱり、泣かなくても良いや。 笑ってる方がずっと好きだから。 …。 照れた? ばか。 照れてる顔も好き。 もう、お姉さま方の前で。 良いじゃん。 ご報告というコトで。 …ご報告? ま、とっくに知られてそうだけどね。 …もう。 はは。 本当にばかなんだから。 ……だけど、さ。 何よ。 未だ何かあるの。 私って淋しがりなんだよね。 知っているわ。 とても良く、ね。 そっか、然うだよね。 だから、独りぼっちになんてさせないの。 うん、良く知ってるよ。 これまでずっと、然うだった。 これまでじゃ、無いわ。 うん、其れも知ってる。 これから先も。 ずっと、ずっと。 叱ろうと、思った。 で? 叱れなかった。 そっちは? あの状況で叱れる人間が居たら。 お目にかかってみたいわね。 家に残るよう、言ったのに…。 イツ花の制止も聞かずに、勝手に飛び出して。 …由乃、相当堪えたみたいでさ。 熱を…? …うん。 で、今、漸く眠ったんだ…。 直ぐ戻る? 其のつもり。 水を替えに行く途中で、一寸、寄っただけだから。 然う。 今はお姉さまが一緒なんだよね? ええ。 祐巳ちゃんは? 見てのとおり、泣き疲れて。 …そっか。 とても、懐いていたから。 おばあちゃんっこだったよね。 由乃も懐いていたわね。 うん。 …計り知れないわね。 私は…分かるよ。 同じこと、言われたことあるから。 ……。 あんなに綺麗な笑顔で。 だけど其の瞳は何処か遠いところを映してた。 …遠い、ところ。 近しいけれど。 だけど、それでも、私達は残らなかった。 其れが悲しいし…淋しい。 いや、そんな言葉じゃ括れない。 私達では到底、埋められないのね…。 …と言うより。 一部だったんだ、屹度。 誰にも代わりなんて、出来ない。 それでも。 然う、それでも。 私達は、家族、だから。 …祐巳、ね。 …うん。 帰ってくるまで、泣かなかったのよ。 うん。 ちゃんと部屋までお連れして。 江利子さまにご報告をして。 私の元に戻ってくるまで。 …頑張ったね。 …目を真っ赤にするほど、泣き腫らして。 それこそ、身を切られるほどに、悲しかったのだろうと…。 ……。 あんなに好きだったのに。 あんなに想っていたのに。 …祥子。 …ああ。 祥子。 私は…私には何も、出来ないのね。 傍に居る事は出来るよ。 けれど其のお心を 誰も。 聖さまには、なれない。 ……分かっているわ、分かっているのよ。 うん、然うだね。 令。 …。 私、恨んでしまいそうだわ。 ……。 どうして。 お姉さまを置いていったのよ。 どうして、お姉さまを。 うん。 どうして。 お姉さまの心だけ。 ……。 お姉さま…お姉さま…。 …祥子、おいで。 …え。 熱が出ている由乃を動かす事は出来ない。 けれど、祥子。 …。 祐巳ちゃんは私が連れて行く。 だから。 ……有難う、令。 けれど良いわ。 …だけど。 私には祐巳が居るから。 支えるもの? そして、私は包み込んで守るものでもあるから。 だから、令。 貴女も由乃の傍に。 …分かった。 ねぇ、祥子。 ん…? 蓉子さまの事、好き? …令は? 好き。 私は…答える必要も無いわ。 だって、然うでしょう…? 蓉子さまは私、の… 子供のようだ。 事実、“孫”とする娘に手を引かれ戻ってきた彼女の姿は、其の娘よりも小さく、儚げに映った。 聖は…? 聖は…何処? 帰ってきて初めて発した言葉は。 あんなに拘っていた帰りを知らせる言葉なんかでは無くて。 ただ一人の、唯一の名前。 髪を二つに結った女の子がね、聖は先に帰ってる…て。 私を待ってる、て。 だから、帰ってきたのに…。 視線が、落ち着き無く、移う。 探しているのだろう。 其の姿を。 聖、聖…。 ねぇ、何処…? 私、帰ってきたわ…。 ねぇ、聖…。 …ああ。 もう、あの面差は。 凛としていた横顔は。 見る影も無く。 ただ、ただ、迷い子のように、不安げに。 手を伸ばしては、虚空を掴む。 意地悪、しているの…? ねぇ、ねぇ…。 私は其の手を右手で掴んだ。 代わりなんて、なるつもりもない。 だけれど其の手を掴まなければ、掴んでいなくては彼女はまた。 仮令、寒空の下だろうと、大禍時だろうと、“地獄”にだろうと。 然う、いつだって然うだったから。 “あの時”、だって。 聞こえない、聞こえないの…。 あんなに聞こえていたのに…。 声を聞かせて…。 名前を呼んで…聖…。 目の前に居るのは、この私。 だけれど其の瞳には映らない。 令が言っていたとおり、何処か遠くを見つめたまま。 聖…せい…。 姿を求めて、声を求めて、匂いを求めて、温もりを求めて。 ただ、ただ、壊れてしまったかのように、其の名を呼ぶ。 せい…せい…せ、ぃ…。 其の場に座り込み、とうとう泣き出してしまった彼女。 小さな躰を震わせて。 う…ひっく…。 ねぇ。 もう、誰の声も届かないの。 誰も映らないの。 ねぇ、蓉子。 わたし、の…名、を…。 叶わぬ願いだと。 だけど、願わずにはいられなくて。 ぺたん、とまるで幼子のように座り込んで、泣きじゃくる蓉子を抱き締めることも出来ずに。 左手で持つソレを強く握り締めた。 ………あ、ぁ。 …蓉子。 聖が…聖が、居ないの…。 どうして、居ないの…。 蓉子。 誰か、教えて…。 ねぇ、聖は何処へ行ったの…。 ……。 待ってる…て。 言ったのよ…。 …聖は。 教えて…ねぇ、教えて。 聖、は…。 いや、なの…。 置いていかない、で…。 聖は此処に居るわ、蓉子。 ……。 ほら。 …ああ。 待っていたのよ。 本当に。 聖…やっと、やっと見つけた…。 良かったわね…。 ずっと探していたのよ…。 もう、無くしては駄目よ。 もう、何処にも行っては駄目よ…。 もう、二度と…。 もう、何処にも行かないで…聖…。 ……。 掴んでいた手を離す。 と、蓉子は両の手で私が渡した…聖の遺髪を確りと包み込んで、大事そうに、胸に抱いた。 心から愛しそうに…愛おしそうに。 それから。 落ち着いた蓉子に少し眠るよう、促した。 聖が逝った日から、日を増すごとに弱っていく蓉子。 もう、体力は限界だったのだろう。 横になると、蓉子は直ぐに眠ってしまった。 布団の中で眠る蓉子。 かつて、共に寝ていた布団の中で。 聖の匂いが微かに残る布団の中で。 遺髪を抱き締めたまま。 屹度、其の両腕に抱き締められている夢でも見ているのだろう。 其の寝顔はとても安らかで穏やかで…とても綺麗だった。 私は其の顔を見つめ、其の輪郭を指先でなぞった。 頬を伝う涙に、気付かぬ振りをして。 祥子。 …当主さ は、止めてね。 柄じゃないから。 …江利子さま。 今日は晴れそうね。 ここのところずっと、雨続きだったから。 …はい。 しかし。 回転、早いわよね。 …。 一寸前まで。 然う、ついこの間までは聖が当主だったのに。 と言っても、其の仕事をしていたのは主に蓉子だったけれど。 …此れで。 此れで宜しかったのでしょうか…。 ん、何が? お姉さまの… 良かったんじゃない? 尋ねているのは私です。 祥子も良く知っているでしょう? 私の前の前の当主は淋しがり屋の上に大の甘えただった事を。 …。 其れのお世話を焼いて、あやして、いつも傍に居て。 時には眉間に皺を寄せている事もあったけれど。 けれど結局、 お傍から離れようとはしませんでした。 然う、最期まで其のお心は…。 だから、良いのよ。 …けれど。 若しも離したりしたら。 屹度…。 …。 考えてもみて。 あんなに甘えたで淋しがりで我侭なアレの世話を焼ける、しかも好き好んで出来る人間なんて、蓉子ぐらいしか居ないわよ? …然う、ですね。 だから。 良いのよ、祥子。 ……。 …本当、聖には感謝されても良いくらいだわ。 …? 江利子さま、今何と… 何でも無いわ。 さぁ、そろそろ行くわよ。 …はい。 じゃあね、蓉子…と、天狗面。 またそのうち来るわ。 お姉さま、聖さま、行って参ります。 さーて。 今月は何処に行こうかしらねぇ。 芙蓉の花でも。 見に行こうかしらね。 L o t u s 了 BGM 「maybe tomorrow」 Xenosaga EPISODEV 梶浦由記 |