「聖」





   光が射して明るい病室に入ると、直ぐに気が付いて名を呼んでくれる。
   元々、此処まで来るのにも凄く早足だったけれど、更に速度が上がるイキオイ。
   でもって弾む心が更に弾んで弾んで、そのままスキップしちゃいそうなイキオイ。
   でも本当にしたら蓉子にめってされるから、一生懸命堪える堪える。
   うん、私ってば偉い子。えっへん。



   「蓉子、ごきげんようこv」



   弾む心のままに、おどけた挨拶をする。
   自分の名を直ぐに呼んでくれた事が凄く嬉しかったから、私も蓉子の名前を先に言った。



   「ばか。今日も早かったわね?」


   「そらぁ、もちろん」



   ベッドの脇にある椅子に腰を下ろして…本当はベッドに座ってくっつきたかったんだけど、ここまで来たらそれは“直ぐに”叶うコトだから我慢。
   ほら、周りの目も一応あるし、ね?



   「もう」


   「嬉しいクセに」



   蓉子の手を握って、しししと笑う。
   蓉子も呆れながらも…いや本当は呆れてないかも知れない。
   だってうふふって笑い返してくれただけじゃなくて、手をぎゅっと握り返してくれたから。
   あったかい蓉子の手。優しい、私の大好きな、私だけの手。



   「あともう少しだね」


   「ええ…本当にあともう少し」



   蓉子が隣のベッドに目を移す。
   釣られて私も。
   そこには誰も居ない、荷物も片付けられ、ただ、次の人が来るのを待っている空のベッドが一台。



   「……」



   いつもそのベッドに横たわっていた初老の女性はもう、居ない。
   蓉子の手術後に容態が急変して部屋が変わったらしい。
   それは突然で、しかも夜中の事だったから、物々しい音で目を覚ました蓉子も何が何だか分からなかった、と。



   「…蓉子」



   初老の女性に…軽い認知症も患っていた彼女にお見舞いに来る“家族”はあまり居なかったらしい。
   だからとは言えないけれど、彼女は蓉子と話している時はまるで娘と話しているかのようにとても楽しそうだった。
   蓉子も、また。
   それから私にも気さくに話しかけてきては、目を細めて穏やかに笑う。



   「楽しみでしょう?」



   私は彼女の勘違いを敢えて正さすに、はい、と笑って答えた。
   隣に居た蓉子は少し、困っていたけれど。
   当然、彼女が思っている事は現実に起こる事は無い。そもそも出来る筈が無いのだから。
   それは私達だけでなく、この部屋に居る、初老の女性以外の人には分かっていたけれど。
   誰も何も言わなかった。…他人に干渉しない、したくないだけなのかも知れないけど。
   だから結局、彼女は勘違いしたままこの部屋から居なくなった。
   最後まで彼女は…私と蓉子の子をとてもとても楽しみにしていた。



   後で蓉子に聞いた。
   初老の女性は卵巣癌、だった。




















   あの後の話をしようと思う。
   先ずは手術の結果。一言で言えば、無事に終わった。
   平均時間より少し掛かって、私の“心配”も最高に達したりもしたけれど。
   でも無事に終わった事が何よりだから、もう、良いんだ。



   「だから、言ったでしょう?」



   でこちんは蓉子の無事(手術後に目を覚ますかどうか)を見届けると、さっさと帰っていった。
   次に目が覚めるのは夜、と言うのもあったけれど、あいつにしてみればもう大丈夫だと言う確信があったのだろう。
   だけど帰り際に一言残していくのは流石でこちんとでも言うのか。



   「蓉子の淹れた熱いお茶…そうね、オレンジペコが飲みたいわって言っておいて」



   それに私が返した言葉も一つ。



   「やだね」



   夜、蓉子はもう一度目を覚ました。
   けれど、麻酔の力で眠っていたせいかどこか夢現のようで、小母さまや私が話しかけても明瞭な言葉は返ってこなかった。
   今夜はこのまま寝かせてあげるのが良い、と看護師さんに言われたけれど、私はぎりぎりまで蓉子の傍から離れようとしなかった。
   小父さまや小母さまも当然心配だったろうけれど、最後には私に任せて先に帰っていった。
   そもそもこの病院は、少なくともこの病室では付き添い人は泊まる事が出来なかったから。
   聖さんが居れば蓉子は大丈夫、と、小母さまが微笑んで任せてくれたのがとても嬉しかった。
   でも、だからじゃない。私はただ、眠る蓉子の傍に付いていたかっただけだ。
   それは子供が…“母親”から離れようとしないものに少し似ているかも知れない、と、後々思う事になるのだけれど。
   いよいよ帰らなければいけなくなった時、私は眠る蓉子の頬に口付けを落として、髪をそっと撫でた。



   早く蓉子の笑顔が見たいと、強く強く思いながら。



   翌日。
   私が病室に行くと蓉子は、ベッドに横になったままだったけれど、ちゃんと目が覚めていた。
   前の日よりも意識はしっかりとしていて、私が名を呼べばいつもの、見たいと願っていた優しい笑顔で返してくれた。
   けれど顔色は白く、細い腕には点滴。術後一日目である今日は水分は摂れても、食事は未だ摂れないとの事。
   と言っても食欲もあまり無いし、お腹も減らないから気にならないと蓉子は笑って言った。
   それからゆっくりと会話をする。
   廻診(この病院ではこう書くそうだ)前の血圧測定で上が100も無かった事。
   廻診後に水分なら摂っても良いと言われた事。
   看護師さんに付き添われながら、ほんの少しだけ、歩いた事。
   眩暈がひどくて大して歩けなかった事。
   昨日までの自分なら歩く事なんてとても簡単な事だったのに、今日になったら立つ事すらもままならなくなっていた事。
   ゆっくりと、何となく光の射す薔薇の館を思い出しながら、話した。
   蓉子にそれを言ったら、



   「だから、言ったでしょう?」



   と笑いながら、私の手に自分のを重ねた。
   …然う言えば、あの頃もこんな風に話した事があったっけ。
   卒業式まであともう少しになったあの日に…あの時もとても穏やかだったような気がする。
   然う、“これから”の話をして…。



   「…聖、少し手伝って欲しい事があるのだけど」


   「どんな事でも喜んで」


   「歩くのを、手伝って欲しいの」



   話が一段落着くと、蓉子は然う言った。
   大丈夫なの?と訊く私に、少しでも早く歩けるようになりたいのと蓉子は返した。
   そもそも術後一日目にして直ぐ、歩くのは。
   歩く事で体中に血液が行き渡り、手術創や腸の動きの回復を助けるからで。
   …それは、頭では、理解していたけれど。



   「…本当に大丈夫?」


   「…ええ、大丈夫」



   蓉子の意志。
   時にそれは何よりも強いものだと、学生時代の頃から、良く知っている。
   だから無理は絶対にしないと言う約束で、私は手伝う事にした。



   「点滴、抑えててくれる?」


   「うん」



   先ずは起き上がって、ベッドの縁に腰掛けるところから。
   早速手を貸そうとする私に、ここまでは大丈夫よ、と言う蓉子。
   曰く、ここまでは“そんなに”苦労しなくても大丈夫らしい。
   ああ、でも、やっぱり。



   「…ありがとう」



   蓉子にしてみれば本当に大丈夫だったんだろうと思う。
   寧ろ、大丈夫じゃないのは私の方で。
   結局、手を出した(体を支えてしまった)私に、蓉子は素直にお礼を言った。
   人の余計なお節介にちゃんとお礼を言える蓉子は本当に素敵だと思う。
   と、以前に言ったら。



   「それは聖だからよ」



   ますます、蓉子が愛おしくなって思い切り抱き締めたら、苦しいと背中を抓まれてしまったのは此処だけの話。
   その後、思い余って抱いてしまって、腕の中の蓉子に仕方の無い人ね…って言われてしまったのも此処だけの告白。



   「…無理は駄目だよ?」


   「…ええ、分かってる」



   …それはさておき。
   起き上がった蓉子はベッドから足を下ろし、きちんと揃えてあるスリッパに爪先を置く。
   それから体を前にずらして足を伸ばし、スリッパを履く。
   ベッドに手を置いてしっかりと体を支えながら腰を浮かし……たところで少しよろめいたから、すかさず支えた。
   大丈夫だと合図された(袖口を掴まれた)から、離す。
   私が離れたのを合図にして意識的に呼吸をし、もう一度。
   今度は大きくふらつく事無く。



   「……大丈夫?」


   「…ええ、さっきよりは大分」



   体が慣れてきたのね、と言う蓉子だけど、それでもその手は私の腕を掴んでいる。
   支えがなければ未だ、真っ直ぐには(以前のような綺麗な姿勢では)立てないのかも知れない…いや立てないんだ。
   開腹では無いのに、それでも手術をすればやっぱり体力はここまで落ちてしまうものなんだ…。



   「…そんな顔しないで。もう、大丈夫なのだから」


   「…うん」



   然うだ。
   手術は終わった。
   蓉子のお腹の中にはもう、腫瘍は無いんだ。
   あとはうちに帰る為に…。



   「…じゃあ。歩くわね」


   「うん、頑張って…でもあまり頑張らないで」



   何よそれ、とくすくすと笑ってから…蓉子は紅薔薇さまの頃を思い出させるような表情になった。
   そして。



   「…」


   「…蓉子」



   ゆっくりと歩き出す。
   少しふらつきながらも、前に前に、ゆっくりと足を進める。
   さっきからやたらと大袈裟に話しているように思われるかも知れないけれど、全くもって大袈裟なんかじゃない。
   実際、術後一日目では眩暈やふらつきがひどくて歩けない人も居るくらいなのだから。



   「…聖、手を」



   全部言い終える前に蓉子の手を握る。
   本当は体ごと支えたかったのだけれど、蓉子がそれを望んでないのは分かっていたから。
   けど若しもの時の為に、勿論そんな時は無い方が良いのだけど…直ぐに反応出来るように準備をしておく。



   「……」



   ベッドから起き上がって立ち、私と手を繋いで、ゆっくりと病室から出る。
   普段の蓉子だったら一分もかからない事が、軽く三分はかかる。
   それでも最初よりはましなのだと、蓉子は言う。
   最初はよっぽどだったのだろう。
   …なんでその時、私は居なかったのだろう。



   「…やっぱり聖と一緒の方が安心する」



   …ああ、抱き締めたい。
   不謹慎なのは分かっている、けれど。
   軽く凹んでいる時に、儚いと言う言葉が当て嵌まりそうな笑顔でこの言葉は効果覿面過ぎる。



   「…こら」



   病室を出て、部屋の皆様から見えなくなったところで、想いのままに…片腕でそっと抱き締めた。
   本当は両腕でぎゅうと思い切りいきたかったんだけど、そこは理性が(辛うじて)総出動。
   おまけに抱き締めたのもほんの一瞬なのだから…これくらい良いですよね、マリア様。



   「…もう、幾ら部屋からは見えないからって」



   はい、その通りです。
   廊下には他の患者さんや、看護師がいらっさいます。
   けど我慢出来なかったんです。



   「…仕方の無い人ね」



   …ああ。
   蓉子が愛おしいです、マリア様。








   「…ああ、歩けた」



   大体20メートルぐらい歩いて、部屋に戻ってきた。
   今の蓉子の体力ではこれが精一杯。
   でもベッドに座る蓉子の顔に曇りは無くて、寧ろ、晴れ模様。
   その顔がまた愛おしくて…以下略。



   「明日になれば…多分もっと歩けると思う」


   「じゃあ、明日も手伝うよ」



   小指を蓉子のと勝手に絡めて指きりげんまん。



   「…じゃあ嘘だったら、針千本、飲まさないといけないわね」


   「…うわ、それは痛そうだなぁ」



   どうやって用意しようかしら。
   その手伝いは出来ないなぁ。
   なんて、くすくす笑いながら頬を寄せ…



   「本当に仲が宜しいのねぇ」



   …る前に、隣からの一言。
   一瞬にして我に戻った蓉子、顔は耳まで真っ赤。
   重なる予定だった頬も今じゃ、遠く。



   「ごめんなさい。つい…ね」



   くすくすと笑う、初老の女性。
   カーテンで仕切ってはあるけれど、声までは仕切れないとはこの事。
   …ああ、頬、重ねたかったな。








   退院の日まで、蓉子は欠かす事無く歩いた。
   二日目は一日目より、三日目は二日目より、四日目は三日目より、そして五日目…つまり退院の日である今日は昨日よりも。
   一日目に比べると大分体力が戻ってきて(完全とは未だ言えないけれど)、歩ける距離は“普通”になりつつあった。



   「もう、私の支えは要らないんだね。
   …少し、淋しいなぁ」


   「…ばか」



   歩く練習以外に、食事の話も少しだけ。
   全粥から始まって、七分、五分、三分、そして普通のご飯と進んでいったのだけど、最初はあまり食べられなかった。
   だけれど少しでも食べなくては…と、私の蓉子さんはここでも頑張りを発揮をして。
   そして…戻した。
   曰く、おかずは大丈夫だったらしい。
   んが、粥の匂いがどうにも駄目だった…のに無理をするから。



   「……なんかお米の匂いが凄くして」


   「そりゃあ米だもんねぇ」


   「でも聖が作ってくれるお粥は…」



   言い掛けて、はっとする蓉子。
   最近の蓉子はとても自然に(つまりは無自覚)甘えモードに入ってしまうみたいで。
   私としては全く問題無いのだけれど、本人にしてみれば少々不覚みたい。
   別に良いのに。寧ろ、大歓迎なのに。
   でもってうちに帰ってもそのままで…



   「……ばか」



   …この世で一番可愛いのは蓉子。
   心底思うんだけど、間違いじゃないでしょう?
   でも絶対に誰にも譲らないんだ。
   然う、絶対に。




















   「…さぁ、行こうか」


   「…うん」



   蓉子は私が迎えに来た時にはきちんと荷物をまとめて、着替えもばっちり済ませていた。
   あと残されているのは会計…これまた待たされたけれど、それも今、済ませてきた。
   私が荷物を持って(蓉子は自分で持つと言ったけれど)、二人で部屋の人達に挨拶をし、看護師さん達にも挨拶をし、
   入院棟から外来棟、そして病院の外へ。
   久しぶりの外の空気に、蓉子は体を震わせて。
   空は青。
   入院した日と同じ。
   駐車場に停めてある黄色のブーブ。
   私が恭しく、助手席のドアを開くと。
   もう…と言いながら、でも、微笑んで乗り込む蓉子。
   荷物を後ろの席に載せて。
   最後に私。運転席に座る。
   シートベルト。蓉子はもう、準備万端。
   キーを差し込む。
   周りを確認、問題無し。
   回す。
   エンジン、始動。
   フットブレーキ。
   周りを目視しながら、ハンドブレーキ解除。
   改めて周りを確認、人が歩いてくる、通り過ぎていくのを待つ、また確認、問題無し。
   ギアを入れる。
   フットブレーキ解除。
   ゆっくりとアクセルを踏む。










   「帰ろう、私達の部屋に」


   「うん」















   …然うだ。
   肝心なコトを未だ、言ってなかったね。
   腫瘍の種類、つまり、良性か悪性か。







   それは…。















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