−かごのなか。(聖蓉)





   聖?


   …んー?


   眠いの?


   …んー。


   最近、この時間になると眠くなるわね?


   …。


   疲れてるの?


   ……んー。


   聖。


   ……。


   座布団、折り曲げて枕にしないで。
   中の綿が傷んじゃうって言ってるじゃない。


   …。


   聖ってば。


   ……ん。


   ねぇ、聖。


   ……。


   ……もぅ。


   …。


   ……子供みたいな顔。


   ……。


   …ラクガキ、しちゃうわよ。


   …。


   油性ペンで書いちゃうんだから。


   …。


   消せなくて困れば良いんだわ。
   そうすれば少しは私の気持ち、分かるんだから。


   ……。


   …ねぇ、聖。
   いっつも見えるところに付けて。


   …。


   全然、懲りないで。


   …んん。


   ……。


   …でも最近はずっと寝てばかり、で。


   …。


   ……。


   …。


   ……。


   ……よ…こ。


   …ッ


   …すぅ、すぅ。


   ………ばか。








   …。


   …。


   …ん。


   …。


   …………え、と。


   …。


   ……訊いても宜しいでしょうか、蓉子サン。


   嫌。


   …即答デスカ。


   ……。


   ……あー。


   …。


   と、とりあえず、動けないんですけど。


   だから?


   いや、だからと言われましても。


   じゃあ、言わないで。


   ……。


   …。


   ……あのさ?


   何。


   なに、してんのカナ…て。


   見た通りよ。
   分からないの?


   …あ、あー。


   ……。


   ……とりあえず


   二回目。


   …姿勢、直したいな、て。


   直せば良いでしょう。
   勝手に。


   や、それが出来ないから困って


   然う。
   貴女は困っているのね。


   …いや、これはこれで嬉しいンですけども。


   なら、良いじゃないの。


   ……。


   ……。


   ……あの、蓉子さん。


   ばか聖。


   ……あーー。


   …。


   と、とりあえず、


   三回目。
   そろそろしつこい。


   …どうせなら、ベッドに行きません?


   行けば?


   や、だからね?


   …。


   …ここのところ、ご無沙汰だったし。


   誰のせいなの。


   ……。


   ……。


   …止めとこ。


   ベッドに行くのを?


   いや、それは止めない。


   …。


   行こ?


   …。


   ねぇ?


   疲れてるんでしょ。


   …そういうわけじゃないんだけど。


   寝てばかりのくせに。


   いや、そういう時ってあるじゃない?
   春とかさ?


   今は春じゃないわ。


   まぁ、そうですね。


   …。


   …。


   …。


   …ここで、する?


   いや。


   …やっぱり即答ですか。


   背中が痛くなる。


   次の日に響くもんねぇ。


   分かってるなら言わないで。


   …。


   …。


   ……なんか駄々っ子を相手にしてるような気分。


   そうよ。


   …ん?


   不貞腐れてるのよ、私は。


   …はぁ、なるほど。


   …。


   …分かった。
   兎に角、ベッドに行こう。
   話は改めてそこで


   ベッドに行ったら話なんて出来ないし、しないでしょう。
   どうせ。


   合間にするし、出来る。


   …。


   そういえば最近はろくに話もしてなかった。
   ごめんなさい。


   …。


   したくなかったわけじゃない。
   それだけは


   ばか。


   …。


   ばか。


   …ごめんね?


   ……。


   …蓉子。


   ……ばか。








   …。


   …。


   …えーと。


   …。


   蓉子さん。


   …。


   こっち、向いてくれませんか?


   …。


   約束どーり、お話しよ?


   …。


   蓉子、よっこ。


   …うるさい。


   お話、しようよ?
   ね?


   ……。



   よーこ。


   ……。


   くっついちゃうぞぅ?


   くっついているでしょ、もう。


   そうだけど。
   もっと、と言うのかな。


   …。


   みみたぶ、噛める距離?


   噛んだら、殴るから。


   わぁ、怖い。


   …。


   けど、そっち向いてたら殴れないよね?


   肘があるわ。


   …わぁ。


   …。


   蓉子ぉ、そろそろ機嫌を直してよぅ。


   知らない。


   ねぇ、蓉子ってばぁ。


   甘ったるい声を出すのは止めて。


   けど、蓉子にしか出さないのよ?


   本当かしら。


   …。


   良く、目を奪われてるくせに。


   奪われているのとは違うって。


   じゃあ、見惚れている。


   うん、蓉子にね。


   嘘ばかり。


   どうして?


   人の話、上の空で聞いてる時があるわ。


   …。


   ほら、否定出来ない。


   だって蓉子に見惚れてたら、ねぇ?


   嘘吐きは嫌い。


   綺麗な花が咲いていたら、目を向ける。


   花なんか見えないでしょ。


   例えだって。
   それと同じようなもんだと思わない?


   つまり、気が多いと言いたいわけね。


   そうじゃなくて。


   そうじゃないの。


   蓉子。


   …ッ


   …どんな花も敵わない。


   ……。


   目の前でどんな綺麗な花が咲き乱れていても。
   結局は比べて終わる、記憶にも残らない。


   …。


   私にはあなたと言う花だけ。


   気障。


   …あ、やっぱり?


   もう、寝る。


   待った待った。


   …。


   未だ一度しかしてない。


   もう、しない。


   …本当に?


   ええ。


   けど貴女は未だ、不貞腐れてるわ。


   だから寝るのよ。


   寝かせない。


   自分は寝てたくせに。


   ええ。
   だから体力は十分なの。
   有り余ってるくらいだわ。


   私は


   蓉子。


   …。


   蓉子、愛してるわ。


   そんな言葉一つで、今更、靡かないわ。


   …。


   聖。
   私は貴女の思い通りにはならないのよ。


   …。


   …。


   …愛してる。


   …。


   ……蓉子。


   ……。


   …。


   …そんな声を出しても無駄よ。


   …。


   …。


   …私を、見て。


   …。


   …。


   …。


   ………蓉子。


   …ふ。


   …?


   聖。


   わ…ん。


   …。


   ん、ん…。


   …。


   ……ん。


   ……ばーか。


   ………。


   ざまぁみろ。


   ……あー…。


   …。


   何と言うか、挑戦状的な…?


   …。


   う、ぁ…ッ


   …勿論、受けて立ってくれるんでしょうね。


   …。


   ねぇ、聖。


   ……勿論ですよ、蓉子さま。


   ……。








   …はぁ。


   …。


   …。


   …。


   …蓉子。


   …。


   満足、した…?


   うるさい。


   …まだまだいけそうな口調ですね。


   うるさいと言ってるでしょ。


   …まぁ、そっちがその気ならそれで良いけど。


   ……もう、良い。


   本当に?


   良いと言っているの。


   …。


   …。


   …あのさぁ。


   …。


   なりふり構わない蓉子も好き、かな。


   かな、て何よ。


   じゃあ、好きよ。


   ……。


   …蓉子は素直じゃないから。


   聖。


   …ん、まだやる?


   やらない。


   良いよ、やろう。


   やらないって言ってるでしょうが。


   売ってきたのは蓉子なのに?


   …。


   …ねぇ。


   …。


   淋しかった?


   淋しくない。


   …あぁ。


   何よ。


   ねぇ、蓉子さんさぁ。


   だから、何よ。


   私は甘えただし、淋しんぼうだし。


   甘えたは分かるけど、どこが淋しがりなの。


   淋しがりだよ。
   蓉子が居ないと息が詰まる、こんな世界に一秒だって存在したくなくなる。


   それは淋しがりとは言わない。


   同じようなもんじゃない。


   違う。


   じゃあ、何なの。


   心細い、心が満たされない。


   ほら、同じだ。


   どこがよ。


   私にとっては。


   …。


   辞書に載ってるような意味なんて、そんなの、糞喰らえ。


   …全ての日本語学者に喧嘩を売っているわね。


   そもそも国語に正否なんて、無いね。
   言葉は生き物だ。


   ……。


   感じたまま、それがその人にとって答えさ。


   英語に訳せなくなるわよ。


   だから感じたままさ。
   大体、言語の形態が違うんだから同じようにはいかない。


   貴女は私に講釈をしたいのかしら。


   ああ、違う違う。
   えと、なんだっけ。


   知らないわよ。


   えーと…ああ、そうだそうだ。
   蓉子さん。


   …。


   どうして不貞腐れていたの?


   …は?


   言ったじゃない。
   不貞腐れてる、て。


   ……言ったかしらね。


   言った。
   そーいう言葉、私が忘れると思う?


   ええ、性質が悪いわよね。


   はっはっは。
   …で?


   そういう時もあるだけよ。


   だから、どうしてそういう時になったの?


   良いじゃない、人の勝手でしょう。


   勝手だけど、知りたい。


   知らなくても良い。


   いや、知りたい。


   しつこい。


   蓉子。


   …ッ


   …聞かせて。


   ………。


   寝てばかりの私に。
   蓉子はどういう感情を抱いたの。


   ……。


   薮蛇だとは思ったけど。
   気持ちに蓋をするのは、後で苦しくなるだけだから。


   …貴女が?


   いえ、貴女も。


   ……苦しくなんか


   言って。
   吐き出して。


   ……。


   ……。


   …。


   …分かった。
   言葉を変える。


   …。


   蓉子。
   淋しかった?


   …それはさっき


   淋しかった?


   ……。


   …若しも。
   若しも蓉子が私と同じならば…


   同じじゃない。


   …。


   同じじゃないわ。


   …そう。
   そうよね。


   ばか。


   ……。


   寝てばかりで。
   話もろくすっぽ聞かないで。
   外に出れば他の女に目をやって。


   …。


   貴女は私を見ていない。


   …。


   見てくれない。


   …ごめんね。


   …!


   ごめんね、蓉子。


   聖は…!


   ……。


   …やりきれない気持ちでいっぱいになる。


   …。


   あなたの言葉を聞きたいのに叶わない。


   …。


   …貴女に触れたいのに。
   やり方が分からない。


   …。


   …私は、どうしたら良いの。


   …。


   ……息すら、まともに出来ない。


   …。


   …。


   …それが蓉子の“淋しい”なんだ。


   ……。


   ごめん。


   謝罪の言葉が聞きたいわけじゃ、


   愛しているよ。


   …そんな言葉、


   私の全てを貴女にあげるにはどうしたら良いだろう。


   ……。


   “淋しい”を消すには。


   …絶対に消す事は出来ないわ。
   私達が感情を持つ生物である限り。


   …うん、分かってるよ
   けど。


   ……。


   …何にせよ。
   蓉子を淋しいと思わせたのは私の不徳の致すところだぁね。


   …ん。


   空いたところはちゃんと埋めとかないとね?


   …聖。


   ん?
   まだまだ、いけるでしょや?


   …ふざけて。


   ふざけてないよ。


   ふざけてるわよ。


   楽しませてあげたいのよ。


   …。


   悦んで、蓉子。
   私を感じて。


   …莫迦な事を。


   あげるよ、私を。


   ……。


   一時だけだけれど。
   だからこそまた、求めることが出来るんだと思わない?


   …貴女とは思えない。


   蓉子さんと一緒だと分かった私は無敵。


   どうせ一時でしょ。


   うん、然う。


   …。


   ちょうだい。


   …何を。


   蓉子を。


   …散々、


   蓉子の意思で。


   …。


   …ねぇ。


   ……ばか。


   …。


   ばか聖。


   …ん。


   ………。








   …。


   …。


   …どっか、行こうか。


   …どこへ、行くの。


   どっか、遠く。


   …遠くって?


   私たちの事、誰も知らないところ。


   …行ってどうするの。


   二人だけで暮らす。


   今と、さして変わらない。


   …そうかな。


   …そうよ。
   それに。


   …それに?


   …。


   断ち切れない?


   …。


   じゃあ私が断ち切ってあげようか。


   …止めて。


   蓉子を知ってる全ての人から蓉子を奪ってやる。


   そんな事、出来る筈が無い。


   それはどういう意味で?


   …。


   蓉子が出来ない、と言う事?


   …貴女にだって出来ないわ。


   さぁ、それはどうだろう。
   やれば、出来るんじゃないの。


   …駄目よ、止めて。


   …。


   …それよりも。


   …それよりも?


   抱いて。


   …。


   貴女を感じさせて。


   …もっと?


   そうじゃない。


   …。


   ただ、抱いて。


   …ただ、ね。


   …そう。
   ただ、ただ…。


   …蓉子はわりと欲深だね。


   …そうよ。


   けど…心地、良いわ。


   ……。








   …。


   …。


   …まぁ。


   …なに。


   どっか遠く、じゃなくても。
   どっか旅行に行きません?


   …どっかって?


   どっか。
   どこが良いかな。


   …。


   どこへ、行きたい?
   私、頑張るよ。


   …べつにないわ。


   あらあら、蓉子さんってば枯れてる?


   あなたがいれば、あなたのうでの中でねむれるのならば、それで良い。


   ……。


   へんなことは、言ってないわよ…。


   …うん、まぁ。


   のわりには、とまどって…。


   いや、戸惑っているわけじゃないけど。


   …そうかしら。


   蓉子さんは若しかしたら私より私の事を知っているのかもねぇ。


   …そんなことないから、ふれくされるのよ。


   ……。


   …。


   …ああ、なんだか猫を抱いてるみたい。


   どうせだから、ないてみる…?


   いや、それはやばいから。
   色々と。


   …もう、しないの。


   …。


   ……ん。


   ……気持ち良い?


   ここち、よい…。


   …それは良うございました。


   …。


   …。


   …ところで。


   はい、ナンでしょうか。


   がんばるって、なにを…?


   …えと?


   りょこう…。


   ああ。
   そりゃあ勿論、旅費をね?


   …じぶんのぶんは、じぶんでだすわ。


   …分かってますよ。
   けど、何か頑張りたいじゃん。


   わたしは、じぶんで……だから。


   ま、内緒の方が色々面白いし…。


   ……。


   …笑ってくれたら、尚、良いんだけど。


   …聖。


   ほら、旅先で何か良いの見つけたら、て、コトでね?


   …せい。


   …?


   ……。


   蓉子…?


   ……。


   …あらら。


   …。


   …ま、良いか。








  −家族とは。(俺屍版江利子と蓉子)





   …はぁ。


   蓉子。


   ……。


   大丈夫なの。


   …大丈夫。
   少し眠っているだけ。


   私が聞いているのは貴女。


   私…?


   庇ったでしょう、聖を。


   …。


   脇腹、より、少し斜め下辺り。
   ニオイがする。


   ……敵わないわね。


   分かりやすいのよ、貴女。
   毎度毎度、ね。


   …。


   そんなに大事?


   …え。


   聖。


   …家族だもの。


   それだけ?


   …。


   本当にそれだけで、そこまで出来るもの?


   …ええ、然うよ。
   それ以外に何があると言うの。


   己の身は己で守れ。


   …。


   然うよね。


   …ええ、その通りよ。


   私には然う見えない。


   ……。


   蓉子は己よりも


   江利子。


   …。


   私は貴女も守るわ。


   …私“も”?


   然うよ。


   ……。


   江利子も…聖も。
   私の大事な家族だもの。
   然う…絶対に。


   違うわ、蓉子。


   …違う?


   私も貴女も、そして聖も確かに家族だけれど。
   決定的に違うのよ。


   何が違うのよ。
   何も違わないわ。
   私達は


   ええ、然うね。
   けれど、違うのよ。


   ……。


   私は聖になれない。


   …?
   そんなのは当たり前でしょう。


   然う、当たり前。
   だから、違うのよ。


   ……。


   ねぇ、蓉子。
   家族って何かしらね?


   え…?


   同じ家に生まれて。
   薄まったとは言え、同じを血を引いて。
   幼き者の手をひき、先行く者の意志を継ぎ。
   そうして幾代も繋がっていく。
   然う、何処かで切れるまで。


   …。


   …けれど。


   …。


   私には然う、見えない。


   …何が言いたいの。


   蓉子。


   ……。


   貴女はいつか、自分で自分を殺してしまう日が来るかも知れないわ。


   …。


   そして貴女は屹度、その時が来ても厭わないのでしょうね。
   いえ、自覚をしていないのだから厭う厭わないも無いのかしら。


   …そんな事、


   とは言え、私は貴女の“家族”だから。
   見過ごすつもりは無いのだけれど。


   ……江利子。


   だから貴女はそのまま“莫迦”で居れば良い。


   …何よ、それ。


   そのままの意味よ。


   ……。


   莫迦蓉子。


   …何なのよ。


   大体、それだっていつまでもちびじゃないわ。


   …。


   いずれ、貴女を追い抜くかも知れない。


   …私を


   ま、図体だけかも知れないけど。


   …。


   そうなったら。
   どうするの?


   どうするって。


   その時までに、何とかなるのかしらね?


   ……もう、全然分からないわ。


   うん?


   人の事をいきなり莫迦呼ばわりしたり。
   何なのよ、もう。


   仕方が無いわ。
   はたから見てると本当に莫迦なんだもの。


   江利子。


   少なくとも。
   それを庇って致命傷なんて、全然、笑えない。


   ……。


   で、どうするのかしら。


   …。


   脇腹のそれ、血のニオイはもう取れないけれど。
   治す事は出来るわよね?


   …ええ。


   治して欲しい?


   …いいえ、自分でやるわ。


   あ、そ。


   …ありがとう、江利子。


   いいえ。
   しかし離さないのね、本当に。


   …何が。


   手。


   …手?


   難儀だわ。


   ……手?


   気にしないで。
   ただの独り言だから。


   ……変な江利子。


   あら、貴女達よりはましだけれど?


   ………変な江利子。








  −Heavenly Days(黄薔薇の妹と紅薔薇さま)





   この方もこんな顔をするものなんだ。



   不謹慎だけど、その時はふと、そんな事を思ってしまった。





   「…はぁ」


   「こっちにも居ないみたいですね」


   「そうね。
   次へ行きましょう」


   「はい」





   二人がどこにも居ないと分かった時、みんなの表情が変わった。
   まさか、とも思ったけれど、それでも不安と言うのは拭えない。
   みんなが不安に落ちていく中、あの子は言った。
   まるでそれが救いの声のように聞こえたのは、多分、気のせいじゃない。





   「…ここにも居ない」


   「どこに行ったのでしょうか…」


   「分かっていれば、こんなにも苦労はしていないわね」


   「…然うですね。
   すみません」


   「……いえ、ごめんなさい。
   私達が見つけられなくても、聖…白薔薇さまたちも探してくれているから…」


   「…」


   「…それに祐巳ちゃんも」


   「大丈夫です。
   祥子に限って何かある筈が無いんです。絶対」


   「…ええ、分かっているわ」





   いつもは凛としている方。
   常に落ち着いていて、立ち振る舞いも完璧で、実質、山百合会を率いているのはこの方だと言ってしまっても過言では無いくらいで。
   そんな方が不安げな表情を隠せないでいる。
   息を切らし、額に汗を流し、セーラーカラーを翻して、プリーツをも乱して、
   “妹”を探す顔は明らかに“紅薔薇さま”と呼ばれている時のそれとは違う。
   今、私と一緒にいるこの方は…そう。





   「…」


   「紅薔薇さま」


   「…なに」


   「行きましょう」


   「…」


   「私は大丈夫だと信じてます。
   けれど、探さないと」


   「…信じているのに?」


   「だって早く祥子を迎えに行きたいですから」


   「…」


   「屹度、みんなもそう思ってると思います」


   「…そうね。
   行きましょう、祥子を迎えに」


   「はい!」





   そうして私達はまた、駆け出す。
   セーラーカラーもプリーツも気にせず、ただ、祥子を探して。
   私の言葉なんかじゃやっぱり、この方の不安と取り去ることは出来ないし、そもそも私も不安に変わりないし。
   白薔薇さまだったら…なんて少し、思ったりもするけれど、私は私の出来る事をしよう。
   由乃も薔薇の館で待っている。
   祥子を見つけて、早く、帰らないと。





   「令、次は向こうに行ってみましょう」


   「はい、紅薔薇さま」





   薔薇の館に戻った時は。
   みんなの、紅薔薇さまの不安が消えて、いつもどおりの“みんな”に戻ってるように。








  −深淵





   彼女の髪と瞳の色は、人とは違っていた。



   幼い頃から彼女は異形の者、忌むべき存在として扱われてきた。
   私達と一緒に居る事は許されず、遠ざけられ、独りで居る事強要され続けてきた。
   時折、視線を感じてそちらを見れば周りを囲む垣根より遠く、“向こう側”に立つ彼女と目が合う。
   が、直ぐに目は逸らされ、私は大人達から彼女を見ないように何度も釘を刺された。
   それでも私は大人達の目を盗んでは彼女の方を見た。
   その、私とは違う色を持つ彼女は、私の目にはとても美しく映っていたから。
   いつか、それを両親に話した事がある。
   私は彼女の姿が好きだと、だから彼女と話をしてみたいと言った。
   あの時の私の声は弾んでいたと思う。誰の事を話すより、彼女の話をするのが嬉しかったから。
   が、母は驚き、戸惑い、父は怒った。
   私は今まで、そんな風になる両親を見た事が無かった。
   のんびりとした母、穏やかで優しい父。
   両親も他の大人達と一緒だった事に気付いたあの夜。
   私の目からは涙が止まらなかった。
   どうして、そんな風に言うのか。
   どうして、人では無いように言うのか。
   彼女は人だ、私達と何も変わらない。
   幼い私には理解出来なかった。
   そして、それは今でも。


   彼女の母は彼女が幼い頃に死んだ。
   彼女の姿に嘆き、悲しみ、そして最後には心が壊れたと言う。
   彼女の父はまるで己が子では無い様に、彼女を粗雑に扱った。
   寒い朝でもまともな草履を履かせて貰えず、雪の中、水を汲みに行く姿を良く見かけた。
   無表情で、けれど手足を赤くして歩く彼女に、堪えきれずに私は傍に駆け寄り声を掛けた。
   彼女は鋭い目つきでこちらに一瞥を呉れただけで、返事はしてくれなかった。
   近くで見た彼女は誰よりも細く、雪の様に白かった。
   髪の色も薄く、目の色もまた。
   そして私はその目に射抜かれた時、確かに心が震えるのを感じた。


   彼女の父が歳若い女を娶り、その女が子を生した。
   その頃、私達は十五となっていた。
   その歳になれば、皆一様に、顔も知らない自分よりもずっと上の男と結び付けられていく。
   そうして子を産む事で、女の生は初めて良しとされる。
   子を生さねば離縁され、他の男へ嫁がされ、それでも子を生さねば…石女とされ、一生、一人で生き死んでゆく。
   私の友人達も、一人、また一人と、その道に進んでいく。進まされていく。
   その流れは誰にも止められない。逆らえない。
   何故なら私達は昔からその流れの中で生きてきたのだから。
   私にも必ず、話は来るだろう。然う遠くは無い将来に。
   けれど私はどうしてもその気にはなれなかった。
   顔も知らず、どんな人なのかさえも知らず、ただ、ただ、子を生す為に結ばれる。
   そんな生き方が納得出来なかった。
   いや、違う。
   私の心の中に彼女の姿があったから。
   どうしても拭えない感情があったから。
   私は。


   十五となった彼女は村から消えた。
   正しくは山へ移り住んだ。誰も、彼女の父さえも彼女の事は探さなかった。然う、私一人を除いて。
   山の中に今は使われなくなったあばら家がある。子供の頃、そこで遊んでは大人達に怒られた場所。
   彼女はそこでひっそりと生きる事を、たった一人で決めた。
   山の中、女一人でどう生きるのか。
   土賊らしい者が今のところ居ないのが、せめての救いなのか。
   私は彼女が消えた日から、彼女の事ばかり、考えるようになった。
   いや、実際は消える前から彼女の事ばかり考えていた。
   髪と瞳の色、細い躰、白い肌。そして鋭い眼差し。
   彼女を思わないなんて、私には出来なかった。
   いつも、いつでも、彼女は私の心の中に居たから。


   私は、彼女がそのあばら家に住み着いている事を知った日から、彼女の元に通うようになった。
   何かしら食べる物をもって。
   私の家は…いや、この村の者は大概、土や山の恩恵で生きている。
   冬や、若しもの時の為に備蓄し、困った時は助け合う。
   それが当たり前とされていたから、どの家でもそれなりの蓄えというものがあった。
   けれどあまり多くは持っていけない。知られてしまったら…私は彼女の元へ行けなくなってしまう。
   時には自分の食べる量を減らして、それを持っていた。
   彼女の反応は決まって冷たかった。
   置いた食べ物を投げ返された事もある。
   けれど私は幼い頃のように大人達の目を盗んでは通い続けた。
   雨が降ろうと、風が強かろうと。
   従順で良い子だと評されていた私は特に怪しまれる事も無かった。
   薪を拾いに、時には木の実を集めに。
   理由をつけては、私は、ただ、ただ、通い続けた。


   私のしつこさのせいか、それともただ腹が空いただけなのかは分からない。
   彼女は私が持っていく食べ物を食べるようになった。
   私も一緒に食べた。
   たまに彼女が獲ってきたと思われる魚もあって、私はそれを焼いた。
   会話も無くてほんの僅かな時間だったけれど、私は彼女と過ごす時間の中に言いようの無い安らぎを見出していった。


   けれどそんな時は長くは続かなかった。
   秋も深まり冬の気配を感じるようになった頃、私にもとうとう縁談の話が来てしまったから。
   相手は三十も上だと言う。
   一人目の妻を亡くし、二人目の妻をも亡くした男。子は…私と同じくらいの年頃の子も居ると言う。
   そしてその男は……酒乱だと言う噂も聞いた。
   私は目の前が暗くなった。
   男に嫁げば、私はもう、彼女の元へ行けなくなってしまう。
   男に夜な夜な抱かれ、男の子を生し、私は、私は…!


   私は両親の手を振り払い、泣きながら走った。
   涙が止まらなかった。
   怖かった。怖くて堪らなかった。
   自分では無くなる、男の物にされる、望まぬ子を生さねばならぬ事に。
   何より、彼女に会えなくなる事に。


   着物は切れ、大人達が彼女と比較して“緑の黒髪”と褒めた髪を振り乱し、草履は何処かで無くして。
   薄闇の中、裸足で傷だらけになって駆け込んできた私に、彼女は一瞬、言葉を失った。
   少しずつ、少しずつ、他愛も無くて、本当にほんの少しだったけれど、会話をしてくれるようになった彼女。
   私は彼女に、彼女の細い躰に縋りついた。
   そして声を出して泣いた。


   いつまでそうしていたのだろう。
   長かったのか、それとも、短かったのか。
   ただ、外はもう完全に夜の闇に満ちていた。
   今宵は月も無い。光も無い暗さは、闇、と言って良い。
   私はその闇の中で彼女に抱かれていた。
   知らない熱に翻弄され、己のものとは思えない声をあげて。
   冷たい手、躰、熱い唇、舌。
   彼女と唇を合わせる度、彼女の舌が躰を這う度、彼女の指が私を突き上げる度、私の心は千々に乱れていく。
   このまま死んでしまっても良い、いっそその手で殺めて欲しい。


   「…蓉子」


   耳元で名を呼ばれた。
   ああ、もう。
   このまま死んでしまいたい。
   貴女の腕の中で。
   私のまま、貴女を想うまま死んでしまえたら、どんなに、仕合わせだろう。


   「聖…聖…」


   名を呼ぶ。
   私の、愛しき名。
   愛しき人。
   どうか、このまま私を何処かへ連れ去って。
   誰も知らない、何処かへ。







   黒髪の少女が山の方へ走り去ってから直ぐに空は重い雲に覆われ、雪がちらつき、そして吹雪となった。
   幾ら冬が近いとは言え、流石に未だ有り得ない天候に村の大人達は動きを封じられた。
   視界が悪い中、山へ入ろうと言う者はほぼ皆無だった。
   年嵩の者がこの吹雪は山ノ神の怒りだと言った事もある。
   山ノ神に逆らうような事を大人達には出来る筈も無かった。山ノ神を怒らせたままだと、恩恵を受けられなくなってしまうかも知れない。
   ただ一人、黒髪の少女の父が山へ向かったが……戻ってくることは無かったと言う。
   黒髪の少女の母は縋るような思いで、ひたすらに、ただひたすらに、娘の無事を祈った。
   が、その吹雪は三日三晩、止む事は無かった。


   吹雪が止んだ朝、村の大人達はあばら家があった場所に立っていた。
   大人達の目には雪と、雪の重みに耐えきれずに潰れてしまったあばら屋だったものの残骸が映っていた。
   辺りを見回したが誰かが居る気配は、生きている気配など、全く感じられなかった。
   暫く探した後、あばら屋があった場所に山ノ神への供物を置いて、大人達は村へ戻っていった。
   そしてもう二度と、この場所には近づかなかった。



   黒髪の少女の行方は誰も知らない。
   ましてや、忌むべき者とされた少女の行方など。
   黒髪の少女の母は夫と娘を同時に亡くした悲しみから体調を崩し、床の人となり、そして世を去った。
   忌むべき者とされた少女の父は…その後も子を生して生きたと言う。 








  −理





   私は力が欲しかった。



   今日も鉄を打つ音が里の中に響く。
   私の家はこの辺りの里ではただ一つだけの刀打師の家だった。
   けれど里に刀を必要としている者などおらず、鍬や鎌や包丁そして鉈など、
   生活を支えているそれらを作り、また、研師のような仕事も請け負っていた。
   父は本当は刀の打ちたかったに違いないけれど、必要とされていない物ばかりを作っていては生活は成り立たない。
   だから父は自分の思いを捨てて、私達家族の為に毎日汗を流し続けた。
   私はそんな父の背中を見て、私も、“守るべき者”の為に生きようと強く思うようになった。


   私には一人、従妹が居た。
   彼女は生来、体が弱かった。
   少し動いただけで熱を出し、一週間は動けなくなる。
   無理など、当然やらせるわけにはいかない。
   私は彼女が熱を出しては、家を支える叔母の代わりに、彼女の面倒を見た。
   彼女の父はもう居ない。
   私が六つに、彼女が五つになる頃、鉄砲水に浚われてしまった。
   私達の家は隣同士でたまたま高い場所にあったから水に飲まれる事は無かったけど、
   彼女の父はその日は丁度、川へ魚を獲りに行っていた。
   その日はとても晴れていて、鉄砲水など、誰にも予測が出来なかった。
   夫を不慮の事故で亡くした叔母は喪が明けた頃、代わりに働きに出るようになった。
   私の、叔母の兄である父と叔母の幼き頃からの友であった母が共に支えあって生きていく事を提案したけれど、
   全てを甘えるわけにはいかないと頑なに言って。
   けれど従妹と同じようにあまり体が強くなかった叔母は苦労が祟ったのだろう、
   ある日突然高熱を出し、そのまま還らぬ人となってしまった。
   彼女は泣かなかった。
   体は弱くとも、気丈だった彼女。
   私なんかよりもずっと強くて、弱みを見せるのを嫌がった彼女。
   でも私には無理をしているようにしか見えなかった。
   悲しくないわけ、無い。無いのだ。
   叔母が亡くなって一晩明けた時、矢張り、心の負荷に体がついていけなかったのだろう。
   彼女はひどい熱を出して、一時期は意識すらも失った。私は寝ずに彼女を看続けた。
   どうにか峠を越え、けれど未だ眠る彼女の手を握り締めて私は、改めて、決断する。
   彼女を一生、守ろうと。


   そして私は十六になった。
   本来ならば縁談が来ていてもおかしくない年頃だったけれど、私は頑として受けなかった。
   それだけでなく、私は父の仕事を見様見真似で手伝うようになっていた。
   今に始まった事では無い。
   幼き頃から父の背中を見て、父の仕事ぶりを見ていた。
   私は父のようになろうと決めていた。然う、彼女を守る為に。
   鉄を打つには非力な腕。少しでも力がつくようにと、一日も欠かさず、槌を振るい続けた。
   最初は認めなかった父も、女の人生を説いた母も、今では諦めたのだろう。
   汗に塗れて槌を振るっていてもほぼ何も言わなくなったから。
   叔母を亡くした後、私の家で暮らすようになった彼女はそんな私を一日見ていた。


   十五となった彼女は相変わらず体が弱く、隣の里の医者は長くは生きられないだろうと、私達に漏らした。
   体の弱い娘を好き好んで貰う物好きな男は早々居ない。
   家を続ける為にはどうしても子を生さねばならない。
   けれど彼女は屹度、保たないだろう。
   養子と言う手もあったが…虚弱故に家事もろくに出来ない彼女を貰おうと言う男は矢張り現れなかった。
   けれど私は構わなかった。
   私は彼女を誰かに譲るつもりなど、毛頭無かったから。
   彼女は私が、誰よりも両親よりも愛している彼女を私が守るのだ。
   生涯をかけて。


   そして私が十七に、彼女が十六になった年。
   雨季に入り、暫く経った頃。
   この時期、何日か雨が降り続くのはおかしい事では無かったけれど、今年はあからさまに降る量がおかしかった。
   まるで止む事を忘れてしまったかのように大量に降り続ける雨。
   日に日に川の水嵩は増し、畑や田は侵されるようになり。
   このままいけば年が越せなくなる。みんな、飢えて…。


   私の家は里のみんなによって成り立っていた。
   畑や田は水浸しになり、川が溢れれば魚だって満足に獲れない。
   そうなれば私の家に仕事を頼む者などいなくなり、そうなれば見返りなど当然受けられない。
   みな、自分の家を守るのに精一杯なのだ。
   ある者は家を失い、ある者は家族を失い…それでも懸命に生きようとしていた。
   私達はそんな状況でも助け合おうとする里の為に出来る事をした。
   そして。


   竜神の伴侶に彼女が選ばれた。


   川ノ神、竜神さまの怒りを収める為に。
   里の長は一言、然う告げた。
   家に来たのは長だけは無い。村の男達も一緒だった。
   彼らは一様に暗い顔をしたけれど、目だけは爛々としていた。まるで火の様に。


   両親は里の意思に逆らう事は出来なかった。
   いや、言える事は言ったのだ。言ったけれど…認められる事は無かった。
   体の弱い彼女。男を知らない彼女。これから先も知る事が無いであろう彼女。故に子を生す事が無い、彼女。
   だからこそ、竜神様の妻にと。それこそが彼女の生の意味だったのだと。
   私は怒りを覚えた。
   つまりは死ねと言っているのだ、彼女に。
   里のみんなは里の為に、彼女に命を捨てろ、然う言っているのだ!
   一人が犠牲になれば長雨は止み、里は救われる。一人の命で里のみんなが生かされる。
   けれど私は彼女を失う。永遠に。


   直ぐに儀式の支度は始まった。
   彼女は抗う事も許されず、身を清められ、僅かな食物を与えられ、晴れの着物を着せられ。
   そうして籠に押し込められ、連れて行かれる。
   のたうつ大蛇のように激しく流れる水の中、どこまでも暗い闇へと。


   私は父の刀を手に取った。
   そして駆ける。
   飛び込んできた私に里の者が何事かと驚き、直ぐに怯えに変わる。
   刀を突きつけて、今まさに籠に乗せられようとしていた彼女を渡せと叫ぶ。
   両親は私を止めようとした。が、私は聞かなかった。
   逆に私は叫んだ。
   何故、彼女が死ななければならないかと。
   どうして、と。







   長く降り続いた雨は止んだ。
   田畑は奇跡的に壊滅は免れたが、それでも厳しい状況には変わりなかった。
   里の者はやれる事をし続けた。今は駄目でも先の為に。
   川も元のようになり、魚が獲れるようになった。
   数はあまり多くは無いが、干物にするなどして冬に備えた。
   …あの後。
   刀打師の娘は従妹である娘を連れて逃げた。
   その最中、体の弱い娘は刀打師の娘に言ったと言う。
   誰よりも、好きだと。
   そして刀打師の娘も体の弱い娘に言葉を返した。
   私もだよ、と。
   が、里の者に捕らえられ、逃げる事はとうとう叶わなかったと言う。
   刀打師の娘の両親は娘を庇おうとして、死んだ。
   父は里の者らに打ち据えられ、母はぬかるみに足を取られて崖から落ちた。


   明くる年、刀打師の娘が振るっていた槌をかつて彼らの家があった場所で里の子供が見つけた。
   が、朽ちて形もなしていないそれを子供はあっさりと投げ捨てた。
   里に鉄を打つ音が響く事はもう二度と、無かったと言う。








  −夢路





   あの方は誰よりも綺麗で、強い方だった。



   もう、おじいちゃんと言っても良いくらいの里長さまが綺麗な後妻
〈アトメ〉を娶ったのは私が生まれる前のお話。
   その人は里長さまの子供達よりも年下で、おまけに私のお父さんとお母さんよりも下だったんだって。
   と言ってもそれは今でも、だけど。後から生まれた人が先に生まれた人を追い抜くことなんてないし。
   だから里長がその人をいきなり“町”から連れて帰ってきて、でもって、妻にすると言った時は凄く大変だったらしい。
   それはもう、大変だったんだって。
   でもそこは里長さまの力でどうにかしちゃったらしいんだけど。
   綺麗な妻を娶った里長さまは里の人曰く、いつも鼻の下を伸ばしててだらしなかった、みたい。
   けど最初は元気だった里長さまは日に日にやつれていって、ほっぺたとか、痩けちゃって。
   歳のくせに“頑張る”からだ、とか、若い女の“精気”に中てられてる、とか、取り憑かれてしまっている、だとか。
   大人たちは色々と言っていたみたい。私には良く分からなかったけれど。
   そんなこんな言われながらも里長さまとその人は“仲睦まじく”日々を過ごして、私が生まれる前の年に、一人の女の子が生まれた。
   里長さまは老齢で得たその子を、それはもう、かわいがったんだって。目の中に入れても痛くないってほどに。
   おしめも進んで取り換えて、泣けばあやして、寝る時も親子三人で寝て。
   ちなみに生まれた子は里長さまの孫達よりも年下。
   と言っても、実際はあまり珍しい事でも無いのだけどね。


   だけど里長さまはその子が大きくなる前に死んじゃった。私が未だ、五つくらいの時の話。
   里長さまは最期に後妻と子供を頼むって言ったらしいんだけど、里長さまの子供たちは言う事を聞かなかった。
   順当に長男、今の里長さまなんだけど、長になった。
   それはまぁ、良いのだけれど、困ったのは後妻と子供の後始末。
   財産は子供の数が居れば居るほど、自分に回ってくるのが少なくなる。
   だから里長さまの子供達は後妻と子供を家から追い出そうとした。
   したけれど…しなかった。


   「…あ」


   十三になった私。
   水汲みの帰り道にあの方を見つけた。
   今日もお綺麗だなぁ…なんてつい見とれてしまって、折角の水をこぼしてしまった。また川に行かないといけない。
   そうこうしているうちにあの方は行ってしまった。
   同じ里で生まれ育ったのに、未だに、話もした事が無い。
   長い黒髪がとても綺麗で、勿論、顔も美しくて、着物だって里の女達のよりも良いものを着て、それがすごく似合っていて。
   何より、聡明で、強く輝く瞳を持った方。
   私の憧れの人。どうやったらあの方のように、あの方に近付く事が出来るのだろう。
   なんてぼんやりとしていたら、いつまで経っても帰って来ない“姉”を迎えに来た“弟”の声が聞こえなくて怒られた。
   曰く、薪はとっくに集めてきたのに、とか、早くしないと飯炊きの支度が遅くなる、とか。
   …怒るくらいなら迎えに来なくても良いんだけど。
   でも水を汲んで持ってくれたから良しとする。うん。


   「…そこの貴女」


   それは突然だった。
   やっぱり水汲みの途中に、私はあの方から声をかけられたのだ。
   最初は何が起こったのか分からなくて、呼ばれたのが自分だとやっと気付いたとこまでは良かったのだけど…。
   多分、口を空けてぽかーんとしていたと思う。
   我に返った時にはあの方は目の前に居て、もう、何が何だか分からなくなって。


   「襟元がだらしなくてよ」


   何が何だか分からなくなっているうちに、あの方は私の襟元を直してくれた。
   そもそも私の襟元がどうなっていたのか分からないのだけど、あの方の目にはだらしなく映ったらしい。
   いよいよ、どうして良いか分からなくなった。
   みっともない、とか、あの方にこんな私を見て欲しくなかった、とか、でも普段でも大して変わらない、とか。
   真っ白だった頭の中で何だかがぐるぐると回る。


   「…変な子ね」


   お礼を言うわけでもなく、かと言ってかつての里長さまの子である自分に“媚びた”挨拶をするわけでも無い。
   少し眉を顰められた。ああ、屹度お気に触れられたのだ、何か言わないと、そうだお礼、先ずはお礼を…!


   「あ」


   「変な子ね、貴女」


   やっと口からお礼の言葉が出そうになったら、今度はあの方が笑い出した。
   と言っても口を開けて笑うんじゃなくて、かと言って鼻で笑うんじゃなくて。
   えーと、えーと、何と言うのかな…品のある笑い?兎に角、私達とは違うと言うか…えーとえーと。


   「貴女、名前は?」


   ナマエ?
   私の?
   ナマエ…ナマエって何だっけ……て、あ、名前!


   「ゆ、ゆゆゆ…!」


   「ゆゆ?面白い名前ね?」


   ああ、然うじゃなくて!
   …ああ、もう!!!


   「まぁ、良いわ。ごきげんよう」


   ……今日ほど、自分の駄目加減に泣きそうになった事なんて、無い。
   多分、一生無いって言っても良いかも知れない。
   しょんぼりしながら歩いていたら、やっぱり帰りの遅い姉を弟が迎えに来た。
   最初はいつもどおり帰りの遅い姉を怒ろうとしたみたいだけど、姉のあまりのしょげ具合に心配し始めた。
   元来、この弟は姉っこで、心配性だったりもするんだけど、今はそれどころじゃない。
   とりあえず桶を押し付けて、無言で歩いた。
   そんな姉を慌てて追いかけた弟だけど、途中で桶の中に何も入ってない事に気付いて、大きい声を上げた。


   水なんて。
   そんなの、全部こぼしてしまったわよ、もう。







   そんなささやかな思い出。でも大事な思い出。一生、忘れる事は無い大切な思い出。
   思い出しては顔が綻び、けれど小さな痛みが胸を刺す。
   十六の春。
   今年も春が来た。いつものように。もう、雪が積もる事も無いだろう。
   水汲みや洗濯も少しは楽になる。冬の間、休業中だった弟の薪拾いも再開だ。
   私は薄く晴れ渡る空を見上げた。


   あの方はもう、村には居ない。
   何処か遠くへ嫁いだとか、本当は重い病に罹り臥せっているとか、母のように囲われているだけだとか。
   そんな噂だけが今でも里の中にある。
   あともう一つ。居なくなる前に里長様が死んだ。あの方のお母様も。
   皆は其れも原因の一つでは無いかと、好き勝手に話している。
   こんな何も無い里じゃ、それだけが楽しみのようなものだから。


   けれど。








   …村長の後妻は。
   追い出されなかった代わりに、長男の妾になったと言う。
   親子と言うべきか、それとも変わらず衰えなかったその美しさに心を奪われたのか、或いは父である里親が生きてた頃からだったのか。
   だが、話はそれだけで終わらない。
   あろう事か、その娘にさえ手を出そうとしたも言う。いや、正しく言えば元々は娘の方を妾にしようとした、と。
   が、母である後妻はそれを赦さなかった。
   兄妹だから言うよりも、獣狂いとも言える色欲に塗れた目で娘を見る男に己が子を渡すのは赦せなかったのだろう。
   継母である女を抱きながら、けれど男は諦める事は無かった。
   子の頃より美しかった妹、十六を数える頃にはその美しさは母をも凌いでいた。
   年老いて醜くなっていくだけの女よりも、美しく成長した女の方が良い。
   常々然う考えていた男はある晩、いつものように女を抱き眠ったのを確認した後に、妹が眠る部屋に忍び込んだ。
   が、女は眠ってなど居なかった。いつかこの時が来る事が分かっていた。日々、娘を見る男の其の目を誰よりも良く知っていた故に。
   女が娘の部屋に駆けつけた時、娘は男の体の下に組み敷かれていた。
   美しい娘の頬は腫れ上がり、口には布を詰められて。
   女は咄嗟に懐に隠しておいた刀で男を刺した。何度も何度も、手を紅に染めて。


   女は村の者に気付かれぬよう、里長の一族に殺されて埋められた。表向きはあくまでも病死と言う事にして。
   特に男を“奪われた”妻の執念は凄まじかったと言う。
   そして残された娘は。








   けれど。



   私達が交わした言葉は今でも私の中にある。
   あの方が居なくなる前の、あの日の姿もまた。
   いつか。
   いつかまた、会えたら。
   その時こそ、屹度。








  −籠のなか





   「貴女はどう思う?」



   見聞きしたと言う事を一通り話し終えた彼の方が、私に問う。
   その瞳に品定めをするような光を湛えて。


   彼の方がこの何も無い、敢えて言うのならば海ノ神からほんの少しだけ恩恵を施されている集落に訪れるようになったのは、ただの偶然から。
   曰く、この世を見て回っていると言う。
   その最中に偶々、乗り合わせていた舟が海ノ神の逆鱗に触れた。その日は前の晩から酷い時化だったのを覚えている。
   彼の方以外の人は皆、死んだ。流れ着いた者は未だ良い。流れ着かなかった者は…恐らく、海の者達に。
   それでも集落の人々はやれる事はやったのだ。総出で。
   然う、私のような者でさえ。



   「何も感じない?」


   「…皆、死んでしまったのでしょうか?」


   「さぁ、どうかしら。ただ最後の話の語り部だけは確実に生きているわね。会ったから」



   声も出さずに笑う。
   この方の癖だと言う事に気付いたのはつい最近の事。



   「貴女はどう思ったのでしょうか…?」


   「私?」


   「はい」



   あの日、筵に寝かされていた方。
   顔は真っ青で、他の者と同様に其の命を散らす寸前だった方。
   今でも忘れない、忘れられない。



   「さぁ、どうでしょうね」



   その方が今こうして私の前で、淡々と話をしている。
   手を伸ばせば屹度届く、そんな距離で。
   死人
(シビト〉のように冷たい肌、生気の無い顔色、けれど弱々しくとも、動きを止めなかったその鼓動。
   私はただ、ひたすらに。



   「…此度はいつ頃、立たれるのでしょうか」


   「明日」



   具の無い、ただ熱いだけの汁が入った椀を渡すと、彼の方は小さくお礼の言葉を紡いでから受け取った。
   それから相変わらずね、と矢張り声無く笑った。



   「施し、あるでしょうに。特にあの子からは」



   私が流れされた者だと言う事を、この方は知っている。
   ただ、この集落に流れ着いてどれくらい経ったのかは知らない。
   私が自ら、数えるのを止めてしまったから。
   私は、反する者だった。
   八百の神よりも、ただ一人の神を、異教の神をその心に宿してしまった故に、私は私の場所を追われた。
   それを彼の方が知った時、ただ一言だけ、「莫迦らしい」と呟いたのは昨夜の事だ。



   「飢える事無く、私はこうして生きています。それだけで私は」


   「欲が無いのね」



   あの子。
   日に焼けて褪せてしまった黒髪、けれど肌は浅黒く、瞳は黒曜のようで。
   流れ着いて、生きる事に執着を持たず、ただ流れに身を任せるようにしていた私に、あの子は色々な物をくれた。
   早くに親を亡くし、一人で生きていく為に海ノ神の恩恵を受ける術を身に付け、愛された。海だけで無く、太陽にも。
   今日も、その手に小振りな銛を持って海へ潜っていたのだろう。
   そして夕暮れ時に私を訪ねるのだ。
   今日はこれが獲れた、だからあげると、笑顔で。



   「一緒に暮らせば良いでしょうに」


   「……」



   私も椀に口を付ける。海の味が広がる。この味もあの子から貰ったものだ。
   私には何も無い、何も返させないと言っても、それでも良いんだと、太陽のように笑う。
   一人でも力を無くさず、何も無いこの集落で、生きる事を其の目的として、ただひたむきに。
   私とは、違う。
   私はただ、生かされているだけだから。



   「慕ってくれている、と思うわよ」



   その言葉を最後に、私達の間に静寂が下りる。
   海の味がする汁と、私が海で採ってきた菜だけの、夕餉。
   あの子が置いていってくれた貝は、上がり框に置かれたまま。



   日が沈み、けれど、日はまた昇る。
   明日が来れば、彼の方は再び何処かへと旅立つのだろう。
   一つの場所に留まらない生き方。
   私には無い、生き方。


   彼の方。あの子。


   生き方はまるで違う、けれど。



   「ありがとう、美味しかったわ」


   「…いいえ」








   最後の話だけ、明確とまでは言えなくても続き(前後)があります。
   頭の中にそっと置いたまま、になると思いますが。