日記
2026年・2月
28日
ん~~♪
……。
よし、出来た。
亜美ちゃん。
……ん、なに。
お勉強中にごめんね。
……ううん。
今、ホットハニーレモンを……。
……まこちゃん?
亜美ちゃん、あたしはこっちだよ。
まこちゃん……どうして、キッチンに。
ふふ、やっぱり気が付いてなかったか。集中してたもんな。
でも良かった、お勉強の妨げにならなくて。
……いつ。
10分くらい前かな。
……てっきり、どこか分からないところがあったのかと。
今のところ、大丈夫。
……キッチンで、何をしているの。
あったかい飲み物を作ってた。
……あったかい飲み物。
亜美ちゃん、お勉強の合間に、ホットハニーレモンはいかが?
……。
別名、あたし特製あったかはちみつレモン。
ほんのり甘くて、美味しいよ。
……。
ごめん、要らないかな……。
……ううん、要る。
ふふ、良かった。
じゃあ、そっちに持っていくね。
ううん、取りに行くわ。
あぁ、良いよ。
亜美ちゃんは、そこで待っていて。
……でも、作ってもらったのに。
あたしが作りたかったんだ。
……やっぱり、行く。
お。
……私が、取りに行きたいの。
ん、そっか……じゃあ、お願いするね。
……ん。
あたしの分も良いかい?
うん……良いわ。
ありがと。
……私も、ありがとう。
熱いから、気を付けてね。
ん……気を付ける。
あたしは、片付けてから行くよ。
すぐに終わるからさ。
……待ってる。
うん。
……。
残ったレモンはラップで包んで、冷蔵庫に入れてと。
……良い香り。
うん、これで良し。
あとは包丁を、と。
……ふふ。
うん、ばっちり。
……。
お待たせ、亜美ちゃん。
……本当に、すぐだった。
ふふ、だろ?
まこちゃんは、やっぱり手際が良い。
家事なら、負けないよ?
……勝負する前から、勝敗は決まっていると思うわ
いや、亜美ちゃんは手強いと思うんだ。
色々計算して、効率的に動きそうだからさ。
計算は、得意だけれど……。
実際、とても効率良く動いていると思う。てきぱきと動いて、動きに無駄がないんだ。
然う、夕飯の片付けの時だって。もっと言えば、鍵を探している時も。
……でも、家事はそんなに得意ではないの。
得意じゃないのに、あれだけ動けるのはすごいな。
ううん……すごくなんて、ないわ。
うーん、これは良い勝負になりそうだ。
……本当にするの?
ううん、しない。
どこまで行っても、冗談だよ。
……本当にするのかと思っちゃった。
若しも勝負するなら、何が良いかな。
分かりやすく、お皿洗いとか?
……洗ったお皿の数を競うの?
時間内に、お皿を何枚洗えるかを競うんだ。
ちゃんと洗えていないのは、はじく。ね、これなら分かりやすいだろ?
分かりやすいけど……設定時間によっては、お皿の数が足りなくなるかも知れないわ。
1分……じゃ短いか。
となると、5分くらいかな。
……本当にするつもりなの?
ううん、しないよ。
あくまでも、言ってるだけ。
……本気かと。
しない、しない。
勝負するよりも、仲良くしたい。
……仲良く?
然う、仲良く。
……。
ふふふ。
……何を、考えているの?
亜美ちゃんと仲良くすること、かな。
……それは、どんな。
知りたいかい?
……。
だけど、刺激がちょっと強いかも知れない。
……蕁麻疹。
ん……だから、今は言わない。
……。
でも、気になる……?
……気にならないわけ、ない。
そっか……。
……意図的に言ったの?
いと?
……何か、目的があって。
あると言えばあるけど、それは今でなくても良いんだ。
今はただ、亜美ちゃんと一緒に居られればそれで良いから。
……。
取り敢えず、あったかはちみつレモンを飲もうか。
……うん。
最初はね、ホットハニーミルクにしようかなって思ったんだ。
……牛乳があるから?
それもあるけれど、単純に美味しいから。
……どうして、ホットハニーミルクにしなかったの?
クリーム煮で、牛乳を使っただろ?
だから、やめておこうと思って。
……お腹?
亜美ちゃんが居るのにお腹が痛くなったら、かっこ悪いにもほどがあるからさ。
……そんなことは、ないわ。
あたしには、あるんだ……。
……然ういうもの?
ん、然ういうもの……。
……まこちゃんの場合は多分、乳糖不耐症だと思うの。
にゅーとーふたいしょー?
……小腸に、乳糖を分解する酵素が十分にない症状のこと。
小腸……それって、若しかして、病気?
大丈夫、病気ではないわ。
あぁ、良かった。
日本人は古くから乳製品をあまり摂ってこなかったら、乳糖不耐症のひとが多いと言われているの。
ということは……古くから摂っていたら、然うじゃなかった?
乳糖耐性の遺伝子を獲得出来たかも知れない。
にゅーとーたいせい。
家畜と共に生きてきた人々は長い時間をかけて、乳糖耐性の遺伝子を獲得したと言われているの。
だから、乳糖不耐症のひとは少ないと言われているわ。
へぇ、然うなんだ……良いなぁ。
まこちゃんは、どれくらい飲んだら痛くなるの?
それ、聞いちゃう?
……ごめんなさい。
もう聞いてよ、亜美ちゃん。
え……あ、うん。
一度に二杯飲むと、大体、痛くなるんだ。
きゅうっと痛くなるから、本当に厄介で。
……二杯?
時間を空ければ、わりと大丈夫なんだけどさ。
……どれくらい?
半日くらいかな。
……お料理でもだめ?
料理なら、そのまま飲むよりは平気。
……きっと、他のものと一緒に取るから。
あったかいものだと、わりと平気みたいなんだ。
ホットミルクも、冷たい牛乳よりは飲める。
……温めると大丈夫とは、聞いたことがあるわ。
と言っても、時間を空けないと二杯は飲めないんだけどね。
……一度に二杯、飲みたいの?
賞味期限が切れそうな時は、特に。
……無理は、しないでね。
うん、痛い目に遭うのは嫌だからさ。
……。
小さい頃は、あったかい料理でも痛くなる時があったんだ。だから、あまり食べさせてもらえなかった。
牛乳を使った料理は好きなのにさ、特にクリーム煮とか。あと、ホワイトシチューも。
……好きなのに食べられないと、つらいわよね。
然うなんだ……でも、作って呉れないことはなかったから。
……まこちゃんのご両親はとても優しいわ。
うん……優しかった。
……。
ね、今夜はやめておいた方が良さそうだろう?
……然うね、今夜はやめておいた方が良いかも知れない。
うん……。
……考えてみれば、カフェラテにもミルクが入っていたし。
カフェラテ?
……ラテは、イタリア語でミルクという意味。
あ、然うなんだ。
……ブラックではなかったでしょう?
言われてみれば、ブラックじゃなかった。
だから、ミルクを入れなかった。
……ミルクの味はしなかった?
したかも……いや、したな。
……だから、今夜はホットハニーレモンで良いと思う。
ん……然うだね。
……。
どうぞ、亜美ちゃん……飲んでみて。
ん……いただきます。
……。
……。
……どうかな?
ん……美味しい。
良かった……じゃあ、あたしも。
……。
うん……美味しい。
……ん。
はぁ……ほっこりする。
……ほっこり?
あったかくて安心する、みたいな意味だよ……。
……。
ん……?
……私も、ほっこりする。
ふふ……うん。
……。
因みに、亜美ちゃんは牛乳を一度に一杯以上飲んでも平気?
ん、私はわりと平気……と言っても、飲むことはあまりないけど。
じゃあ、亜美ちゃんの分はミルクの方が良かったかなぁ。
ううん……まこちゃんと同じものが良い。
……。
……同じものが良いの。
ん……そっか。
……ホットハニーミルクは、また今度。
うん……また今度、作るよ。
……。
亜美ちゃんが泊まりに来て呉れた時に……だから、楽しみにしてて。
……う、ん。
……。
……ねぇ、まこちゃん。
ん、なんだい……?
……私と、仲良くすることって。
……。
……例えば、どういうことをするの。
知りたい……?
……出来れば。
……。
まこちゃん……。
……ねぇ、亜美ちゃん。
なぁに……。
亜美ちゃんのほっぺた……少しだけ、触ってみても良い?
……ほっぺた?
まだ、早いかな……。
……え、と。
亜美ちゃんと、仲良くすること……の、ひとつ。
……然う、なの?
うん……然うなんだ。
……。
少しだけで、良いんだ……。
……少し、だけ。
ほんの、少しだけ……触れたら、すぐに離すから。
……そんな少しで良いの。
ん、今はそれだけでも……亜美ちゃんに触れることが出来たら、あたしは嬉しいから。
……。
もっと、触っても良いの……?
……もっと、触りたいのなら。
……。
すぐに離してしまったら……その、触れたうちにならないような気がして。
ううん、そんなことない……ちゃんと、触れたうちに入るよ。
……。
無理をしたら、蕁麻疹が出てしまうかも知れない……だから、無理はしないで。
……まこちゃん。
ね……?
……私が、触って欲しいと言ったら。
え……?
……そんなすぐに離さないでと、言ったら。
そんなこと、言われたら……長く、触っちゃうかも知れない。
……長く。
長くと言っても、そんなには長くないよ……。
……どれくらい。
どれくらい……えと、然うだな……1分……。
……1分。
あ、や、1分は幾らなんでも長いか……じゃあ……30秒。
……30秒。
さ、30秒も長いね……それじゃあ……10秒、10秒はどうだろう?
……10秒。
あ、そ、それでも……長い、かな。
……1分で、良い。
え……。
……1分が、良い。
い、良いの?
……う、ん。
あ、あぁ……。
……時計。
こ、ここにあるよ。
……ううん、時計は要らないわ。
でも、時計がないと分からないから……あ、心の中で数えれば良いのか。
……数えなくても、良い。
えと……亜美ちゃんが?
……私も、数えない。
……。
……良いの。
じゃあ……離して欲しくなったら、言って欲しい。
言って呉れたら、すぐに離すから……。
……ん。
……。
えと……触りたいのは、どちらの頬?
あ、あたしは、どっちでも良いんだ……亜美ちゃんは、どっちが良い?
……この場合は、どちらが良いの。
せ、正解は、特にないと思うよ……。
……ないの?
亜美ちゃんが……触って欲しいと思う方に、あたしは触る、触りたい。
……触って、欲しい。
あ、ち、違うか……。
……。
その……触らせても良いと思う方のほっぺたを、い、言って呉れれば。
……どちらも。
ど、どちらも……?
……まこちゃんが、触りたいと思う方に触って。
あたしが……。
……その方が、良いと思う。
……。
……。
……じゃあ、左。
左……。
……右。
右……。
……やっぱり、左で。
……。
は、はは……。
……どうぞ、まこちゃん。
あ……。
……触って、みて。
27日
改めてありがとう、亜美ちゃん。
亜美ちゃんのおかげで、スペアキー、無事見つかったよ。
どういたしまして……まこちゃんのお役に立てて良かった。
お礼に、腕によりをかけて美味しいごはんを作ったから、いっぱい食べてね。
うん……ありがとう。
さぁ、どうぞ。
ん……いただきます。
うん、召し上がれ。
……。
あたしも、いただきます。
……。
……。
……。
……どう?
ん……とても、美味しいわ。
ふふ、然うだろ?
亜美ちゃんへの愛がたっぷり入っているからね。
……ん。
揶揄ってはいるけど、冗談ではないよ。
……もぅ、まこちゃんは。
はは。
……。
……怒った?
怒ってない……。
……ごめんね?
もう、言わない……?
……また、言うかも。
……。
あぁ、もう言わない。
言わないから、ね?
……別に、言っても良いけど。
え、良いの?
そんなところも……その、好きだし。
ん。
……でも、あまり揶揄わないで。
……。
……まこちゃん。
亜美ちゃんは、可愛いな……。
……。
本当に
まこちゃん。
あ、いや、揶揄ってはいないよ。
あたしは、本気で
ばか。
お。
……あ。
え、と……ごめん?
……私こそ、ごめんなさい。
え、なんで?
……ばかなんて、言って。
いや、今のはあたしがばかだったから。
亜美ちゃんは本当のことを言って呉れただけだよ。
……ばかと言った方が、ばかなのに。
……。
……ごめんなさい、まこちゃん。
それ、懐かしいな。
……何が懐かしいの?
ばかと言った方がばか、小学生の頃に担任に言われたんだ。
……。
だけど、今回の場合はあたしがばかだった。
だから、亜美ちゃんはちっともばかじゃない。
……もう、言わない。
良いよ、言っても。
……ううん、言わない。
二度と、言わない?
……言わない。
あたしは、言われたいなぁ。
……。
ふふ、きょとんとしてる。
……言われたいの?
うん、亜美ちゃんになら言われたい。
……。
意味が分からないって、顔をしているね。
分からないわ……だって、ただの悪口なのに。
言葉だけ聞くと、確かに悪口なんだけど……でも、今はそんな風に聞こえなかったんだ。
……。
あたしをばかにして、言ったわけじゃないだろう?
然うだな、つい、口から出てしまったような。
……どうして、分かるの。
なんとなく、然う思った。
……。
でも、無理強いはしない。
言われたら、嬉しいけど。
……ばか。
おぉ。
……嬉しい?
ん、嬉しい。
……やっぱり、良く分からない。
ふふ、然うだよね。
……まこちゃん。
なんだい、亜美ちゃん。
……クリーム煮、ごはんと合っていて美味しい。
あぁ……うん、ありがと。
……マッシュポテトも、美味しいわ。
うん……。
……。
今日は、白いごはんだけど。
……?
サフランライスでも美味しいんだよ。
サフランライス……?
然う、サフランライス。
……。
あまり好きじゃない?
……サフランライスって、家でも作れるの?
あぁ、簡単に作れるよ。
サフランがひとつまみ、あればね。
サフランはひとつまみで良いの?
まぁ、お米の量にもよるんだろうけど、二合くらいならひとつまみで良いかな。
サフランって、粉状なの?
ううん、粉状ではないよ。
……どんなものなの?
サフランはクロッカスの仲間なんだけど、スパイスのサフランはその雌蕊を乾燥させたものなんだ。
雌蕊……。
口で説明するよりも、実物を見た方が分かりやすいかな。
ちょっと待ってて。
あ、そこまでしなくても
大丈夫、すぐだから……ん、あった。
……。
はい、これだよ。
……これが、サフラン。
然う、この赤いのがサフラン。
細長くて、なんとなく雌蕊みたいだろ?
……うん。
これをひとつまみ、入れるんだ。
このサフランはお米を炊く前に入れるの?
それとも、お米を炊いた後に?
炊く前に、お米と一緒に炊飯器に入れる。
……。
詳しく言うと、炊飯窯にお米と適量のお水を入れて、その中にサフランを入れるんだ。
そのまま?
そのままでも良いし、オーブントースターで焼いて水分を飛ばしてから入れても良い。
水分を飛ばした方が、色みは出やすいかな。
……然うなのね。
サフランを入れても、直ぐにスイッチを入れてはいけないよ。
そこから30分ぐらい置いて、色出しをしないといけないからね。
色出し……炊いている間に色は出てこないの?
うーん、それはどうだろう。やってみたことがないから、ちょっと分からない。
若しかしたら出るかも知れないけど、あんなきれいな色にはならないかも知れない。
色出しをしてから、炊く……であるなら、染料と同じと考えても良いのかしら。
うん、それで良いんじゃないかな。ごはんをきれいな黄色に染めるわけだし。
そうそう、サフランってね、世界で最も高級なスパイスって言われているんだよ。
……そんなに高級なの?
然う、実はとても高級なんだ。ここにあるサフランも他の、例えばわざびよりもずっと高い。
だから、たまにしか買ってこられないんだ。安売りもして呉れないしね。
高級ということは……希少性が高いのかしら。
サフランは1グラムを採取するのに、花が約150本も必要らしいんだ。
しかも、ひとつの花に雌蕊は一本しかない。それを集めるとなると、とても大変だと思うんだ。
花の数もだけれど……手間が、酷くかかりそうね。
傷がつかないよう、丁寧に採取しなければならないだろうし。
しかもね、手作業で集めるらしいよ。
手作業……。
結構、気が遠くなる作業だと思うんだよね。
なってもおかしくないと思う……根気強くないと、出来ないお仕事だわ。
そんなわけだから、粗悪品も流通しやすいんだって。
粗悪品のくせに、高いんだとか。
分かるような気がする……もちろん、そんなことはあってはいけないのだけれど。
楽して稼ぎたいひとは、世界中にいっぱい居るからさ。
……だけど、詐欺には違いないわ。
ん、然うだね。
だからと言って……あまりにも安いと、それはそれで心配になるわよね。
なかなかないけど、粗悪品かなって疑っちゃうと思う。
あたしはまず、買わないかな。美味しくないものにお金を出すのは嫌だし。
だから、信頼出来るメーカーのものしか買わないんだ。
……サフランライスを作るのに必要なサフランは、ひとつまみだと言ったけど。
指先でちょいってつまむだけだから、使うのはほんの少しだよ。
実際、一回の料理で使う量は雌蕊一本ぐらいだって言われてるしね。
……。
興味、ある?
……うん、ある。
本当?
……ん。
じゃあサフランについて、あたしが知っていることをもうひとつだけ。
サフランが日本に伝わったのは江戸時代で、その頃は薬として伝わったんだって。
薬……生薬?
然う、生薬。
漢字の名前もあったんだけど、それは忘れちゃった。
……今度、調べてみる。
あたしも一緒に調べても良い?
ん、もちろん。
へへ、やった。
……。
楽しみだなぁ。
……ねぇ、まこちゃん。
なんだい?
サフランライスについて、もう少し聞いても良い?
あぁ、もちろんさ。
サフランライスは、サフランさえあれば作れるの?
作れる、けど、そこに他のものを入れても良いんだ。
……他のものって?
塩、バター、チキンコンソメ、ローリエ……色々あるけど、あたしが入れるのは塩とバター。
塩だけの時もあるし、バターだけの時もあるよ。
……何か決まりがあるの?
バターを入れると、とても贅沢な気分になれる。
……。
実際は、合わせる料理によって変えるんだ。
……例えば?
バターなしのサフランライスの場合だと、例えばお肉がいっぱい入ったカレーライス、カツカレー、チーズたっぷりドリアに、ビーフシチューとか。
バターが入っていると少しくどくなっちゃうから、お肉を多めに使う料理の時は、バターなしにするんだ。
……バター入りだと。
バター入りのサフランライスの場合だとあまりこってりしていないもの、例えば鶏肉のクリーム煮。他にも野菜カレーや豆カレー、ハヤシライス。
あとは、鶏肉のトマト煮に添えたり、鶏肉の照り焼きをのせても美味しいかな。作ってみたいのはパエリヤ。
……パエリヤ。
スペイン料理だったかな、魚介類や肉、野菜を入れて作るんだ。
本場では専用鍋があってそれで作るんだけど、うちにはないから、若しも作るのならフライパンで作ろうと思ってる。
パエリヤは、フライパンでも作れるの?
どうやら、フライパンでも作れるみたいなんだ。
だからいつか、作ってみたいなって。
……いつか、なの?
うん、いつか。
……手間がかかるの?
そこまではかからないんだけど、白ワインが手に入らないんだ。
……代わりは、ないの。
日本酒でも良いみたいなんだけど、日本酒もお酒だろう?
あたしはまだ、未成年だからさ。お酒は売ってもらえないんだ。
……白ワインなしでは、作れないの?
作れなくはないみたいなんだけど、折角なら、白ワインを使って作ってみたいんだ。
その方が本場の味に近付くと思うから。まぁ、本場の味なんて知らないんだけどね。
……。
大人になって白ワインを買えるようになったら、作ってみようと思ってるんだ。
……うちに、あるわ。
うん?
白ワイン、うちにあるの。
然うなんだ。
お母さんが飲むのかい?
ううん、飲まない。
え。
母は、家ではお酒は飲まないの。
……外では、飲むの?
外では、飲んでいるみたい……たまに、お酒の臭いが服に染み付いている時があるから。
……家では、一滴も飲まない?
家で飲むのはコーヒーばかりで、お酒は一滴も飲まないわ。
……。
……私の前では飲まないと言った方が正しいのかも知れない。
そっか……。
だから……良かったら、使う?
使ってみたいけど……良いのかな。
まこちゃんに使ってもらった方が良いと思うの。
うちにあっても、どうしようもないから……料理もしないし。
……。
あの、無理にとは言わないわ……。
……使ってみたい。
本当?
ん……本当。
じゃあ、今度持ってくるわ。
だけど。
……え。
持ってくる前に、お母さんから許可はちゃんともらった方が良いと思う。
……。
なんて、あたしが言わなくても……?
……。
亜美、ちゃん……?
……男のひとから、贈られてきたの。
男の……それって。
……詳しいことは知らないし、聞きたくもない。
ん……そっか。
……それでも。
でも、勝手に持ち出して叱られない?
あたしは、それが心配なんだ。
大丈夫……母は、興味ないから。
白ワインに?
……私に。
……。
だから、ワインがなくなっても……母は、別に気にしないと思う。
……亜美ちゃん。
うちにあっても、母は飲まないし……現にずっと置きっぱなしで、埃が積もり始めているの。
だったら、まこちゃんに使ってもらった方が良い……使って、欲しいの。
……。
ごめんなさい……私、無理を言っているわよね。
……無理ではないよ。
本当に、ごめんなさい……。
謝らないで。
……。
ありがとう、亜美ちゃん。
……うん。
あたしが大人になって、パエリヤを作ったら、亜美ちゃんも一緒に食べて呉れたら嬉しいな。
……ん、食べてみたい。
うん、じゃあ一緒に食べよう。
……私に出来ることがあったら。
お願いしても良い?
……ん、なんでも言って。
買い物に行って、材料を選ぶところからでも?
うん……私で良いなら。
亜美ちゃんじゃなきゃ、駄目だよ。
一緒に作って、一緒に食べるんだからさ。
あ、うん……。
ところで、亜美ちゃん。
……なに。
パエリヤは、食べたことはある?
……スペイン料理は、一度もないと思う。
ふふ、そっか。
……まこちゃんは。
パエリヤ以外、どんなものがあるのかさえ知らない。
……珍しいわよね、スペイン料理って。
イタリアンとかフレンチとかはあるけど、スペインは聞かないよね。
今度、調べてみようかな。
……私も、調べてみても良い?
もちろん。
それでさ、食べたいのがあったら教えて欲しい。
……うん。
色々、楽しみだなぁ。
ね、亜美ちゃん。
……ん、楽しみ。
ふふ……。
……ふふ。
……。
……。
……それにしても。
なぁに……?
スペアキー、鍵置き場の隙間に落ちているだなんてさ。
あぁ。
あそこもちゃんと探したのに、その時は見つからなくて。
探し物をしていると、良くあるわよね。
あと、探すひとが変わると見つかることもある。
ん……確かに。
全く、困ったもんだ。
……でも、見つかって本当に良かったわ。
亜美ちゃんのおかげだよ。
……ん。
だから、もう一度だけ……ありがと、亜美ちゃん。
……どう、いたしまして。
26日
ん……抹茶が、濃い。
……口に、合わない?
ううん、味は濃いけど渋くはないから、食べやすくて美味しい。
ほんのりとだけど、甘みもあるし……プリンだけでも、食べられるかも。
……良かった。
亜美ちゃんも、食べてみて。
……ん。
あたしは、あんこと……いや、待てよ。
……。
プリンがこれだけ美味しいということは、あんこも相当美味しいはず。
良し、まずはあんこだけ食べてみよう。その後に、プリンと一緒に……や、白玉でも良いかも知れない。
……濃いわ。
うん?
……お抹茶が、とても。
ね、とっても濃いよね。
でも……全く渋みがなくて、味がまろやかなの。
お抹茶の風味もちゃんと感じられて……美味しい。
若しかして亜美ちゃん、この抹茶プリンを食べるのは初めてなのかい?
ん……抹茶プリンを食べるのは初めて。
他のは食べたことがあるの?
……抹茶わらび餅を、お中元で頂いて。
抹茶わらび餅かぁ、それも美味しそうだなぁ。
……わらび餅も、美味しかったわ。
あ、やっぱり。
じゃあさ、抹茶プリンとどっちが美味しい?
ん……どちらも、美味しいと思う。
どっちも好き?
……好きだと、思う。
そっか……良し、憶えておこう。
ん、なに?
ううん、なんでも。
……然う?
うん。
……然う。
ね、わらび餅とプリンはどう違うんだい?
ん、然うね……抹茶わらび餅はお抹茶の風味が豊かで、抹茶プリンはお抹茶の味わいが濃厚……かしら。
じゃあ、甘みはどちらの方がある?
どちらかと言うと……わらび餅、かしら。
プリンは仄かに甘いけれど、わらび餅は柔らかな甘みなの。
仄かな甘みに、柔らかな甘み……ふむ、成程。
……まこちゃん?
暑い夏に食べるとしたら、どっちが良い?
暑い夏に食べるのなら、わらび餅……プリンよりも、あっさりとした味わいだから。
やっぱり、わらび餅か。うん、分かる。
冷やして食べると、特に美味しいんだ。
……きなこにも、お抹茶が使われているの。
きなこにも?
……ん。
抹茶のきなこか……どんなだろ。
……良かったら。
ん?
今度は、わらび餅を持ってくるわ。
え、良いよ。
……あ。
あたしに、そんな気を遣わないで。
……ごめんなさい。
あ、いや、要らないという意味ではないからね?
持って来て呉れたら、もちろん、嬉しい。
……じゃあ、持ってきても良い?
うん、もちろん。
その時はまた、ふたりで食べよう。
……うん。
だけど、あまり気を遣わないでね。
気を遣いすぎると、疲れちゃうからさ。
……ん、気を付ける。
嫌なんだ。
……え。
亜美ちゃんがあたしに気を遣いすぎて、疲れちゃうのが。
……。
もっと言えば、淋しい。
……淋しい。
亜美ちゃんとあたし、まだまだ、距離があるのかなって。
……そんなこと。
……。
ん……まこちゃん。
急がずに、ゆっくり進もうって……思っては、いるんだけどさ。
……ねぇ、まこちゃん。
なんだい……?
……私がまこちゃんと、ふたりで食べたいから。
え。
……そんな理由では、駄目かしら。
……っ。
……普段のお礼も、兼ねてはいるのだけれど。
あぁ……。
……やっぱり、駄目よね。
全然、駄目じゃない!
……ぁ。
とっても素敵な理由だと思うよ、亜美ちゃん。
そ、然う……?
それってさ、美味しいものはあたしとふたりで分け合いたいってことだろう?
そんな素敵な理由を言われたら、駄目なんて言えない。言えるわけがない。
……。
ふたりで食べるのなら、あたしもお金を
お、お金のことは気にしないで。
私が、好きでしたいだけだから。
……良いの?
まこちゃんだって、お金を取るようなことはしないでしょう?
あたしは、好きで作っているから。
私も、好きで持ってくるの。
でも、あたしの場合は売り物ではないしなぁ。
けど、材料費はかかっているわ。
……。
ケーキやクッキー、お弁当だって材料を買わなければ作れない。
材料を買う為にはお金が必要。ねぇ、然うでしょう?
ん……それは、まぁ。
まこちゃんがお金を出して呉れるというのなら、私も材料費を出さないといけないわ。
亜美ちゃんは……別に、出さなくても。
ううん、駄目よ。
……駄目なの?
駄目。
……若しも、気を遣っているなら。
ねぇ、まこちゃん。
……なに。
まこちゃんも、そんなに気を遣わないで。
……。
まこちゃんが私に作って呉れるように……私も、まこちゃんに持ってきたいの。
亜美ちゃん……。
私は……まこちゃんのようには、作れないから。
……亜美ちゃんは、あたしにお勉強を教えて呉れるよ。
……。
あたしには出来ない、教えてもらうばかりで。
……教えることで、私も学んでいるの。
……。
だから……お金のことは、言わないで。
……良いのかい。
うん、良いの……。
……分かった、言わない。
……。
……夏は、わらび餅か。
え……?
じゃあ、冬はプリンかな。
……まこちゃん。
なんだい?
……若しかして、作ろうと思ってる?
それはまだ、内緒だよ。
……内緒?
然う、内緒。
……どうしても?
やっぱり、内緒にするのは止めた。
実はね、今度作ってみようと考えてるんだ。
……プリン?
わらび餅も。
……。
でさ、わらび餅は、まずは普通のを作ってみようと思ってる。
……抹茶のは。
抹茶のは、普通のが上手に作れたら。
まこちゃんなら、初めから作れそうだけど……。
ありがと。だけど、まずは普通のを試しに作ってみたいんだ。
わらび餅を作るのは初めてだから、取り敢えず、作るコツが知りたい。
コツ……。
わらび餅の材料はわらび餅粉と砂糖、それから水。
たったのみっつだけなんだ。なかなかシンプルだろう?
……うん。
そして、作り方はこのみっつを合わせて火にかけるだけ。
……。
だけど、シンプルだからこそ難しい。
分量を間違えたらわらび餅にならないだろうし、火力を間違えたら焦げてしまう。
……プリンは。
プリンは何度か作っているから、わらび餅よりは勝手が分かってる。
……作ったわらび餅は。
上手く出来たら、亜美ちゃんに食べて欲しいけど。
……食べてみたいわ。
じゃあ、亜美ちゃんが居る時に作ろうかな。
だけど、失敗したらあげないよ?
……失敗するとは、思えないけど。
はは、然うだと良いんだけどね。
……。
ん、白玉も美味しい。
もちもちしてる。
……。
ね、亜美ちゃん。
ん……なに。
いきなりなんだけど、今夜は何が食べたい?
……今夜?
夕飯、一緒に食べよう。
……。
亜美ちゃんと食べたいんだ。
……まこちゃんが作って呉れるものなら、なんでも。
本当に、なんでも良い?
……はまち以外なら、良いわ。
はまち、か……ふふ、流石にはまちはないや。
……ふふ。
はまちはないけど……鶏肉なら、ある。
……鶏肉は好きよ。
照り焼きとトマトソース、どっちが良い?
……どちらでも。
じゃあ、クリーム煮にしようかな。
ほうれん草としめじも入れて。
……クリーム煮?
実はさ、冷蔵庫の中に牛乳が二本あるんだ。
一本は勿論、開いてない。
安かったの?
その日はなんと、一本100円だったんだ。だから、ついね。
でも、料理やお菓子に使えば、直ぐになくなると思ってたんだよ。
……でも、思ったように作れていない?
然うなんだ、飲むにしてもひとりじゃなかなか減らないし。
かと言って、飲みすぎると、お腹が痛くなっちゃうし。
……。
クリーム煮は、嫌かい?
ううん、嫌ではないわ。
じゃあ、クリーム煮で良い?
うん。
ふふ、良かった。
クリーム煮なら……主食は、パンよね。
ごはんの方が良いかい?
あたしはごはんでも良いよ。
……。
あたしは、ごはんでもパンでもどっちでも良いんだ。
だから、亜美ちゃんが食べたい方にしよう。
……私は。
ごはんとパン、亜美ちゃんはどっちが食べたい?
良かったら、教えて欲しいな。
私……お米が良い。
分かった、ならごはんにしよう。
……ごはんで、本当に良いの?
うん、本当に良いよ。
あたしが作るクリーム煮は、ごはんにも合うからさ。
……ありがとう。
ふふ、うん。
……。
あとは然うだな、マッシュポテトでも作ろうかな。
……家だと、あまり食べることがないの。
うん?
……お米。
あぁ……亜美ちゃんちは、あまりごはんを炊くことがないんだっけ。
滅多に炊かないわ……どうしても、パンの方が手っ取り早いから。
確かに、パンならそのまま食べられるもんね。
……母も、家だと食べないし。
でも、お米が嫌いなわけではないんだろ?
嫌いではないわ……外食でなら、食べるから。
やっぱり、炊くのが手間なんだな。
お米を量って、研いで……炊飯器にセットしてしまえば、あとは勝手に炊いて呉れるんだけど。
お水の量にも気を付けなければいけないでしょう?
うん、水の量はお米を炊く上で最も大事だ。
少なくても駄目だし、多すぎても駄目で。
……母は、これが特に苦手なの。
え、然うなのかい?
亜美ちゃんのお母さん、なんとなく然ういうのは得意だと思ってた。
お米の水の量だけは……少なくて焦がすか、多くてお粥のようになってしまうか。
どちらも、食べられなくはないのだけれど……母は完璧主義者のきらいがあるから。
あぁ……然うなると、面倒になってしまうよね。
因みに、そのごはんはどうするんだい?
……。
まさか、捨ててしまう?
……ううん、ちゃんと食べるわ。
そっか……良かった。
だけど、母には美味しくないみたいで……食べている間、ずっと顰め面をしているの。
う……それは、きつい。
……食べていても、味がしなくて。
然うだよね……分かる気がするよ。
……母との食事は、私にとって楽しいものじゃなかった。
……。
今はもう、然ういうこともなくなったけど……。
……そっか。
ごめんなさい、こんな話をして。
ううん、大丈夫だよ。
……。
抹茶プリン、美味しいね。
……まこちゃんと食べているから、余計に美味しく感じるわ。
あたしも、亜美ちゃんと食べているからすごく美味しいよ。
……あんこも白玉も、どちらも美味しい。
あんこは甘さ控えめで、白玉はもちもちしてて美味しい。
……ふふ。
ん、なんだい?
……楽しくても、美味しいと感じるものなのよね。
あ……。
……わらび餅も、まこちゃんと食べれば。
……。
……ごめんなさい。
どうして謝るんだい……?
……分からない。
分からないのなら……謝らなくても良いんだよ。
……でも。
今は謝る必要なんてない……どこにもないんだ。
……。
ねぇ亜美ちゃん、良かったらさ、今夜は泊まっていかない?
……今夜は。
お母さんが居る?
……ううん、居ない。
なら、どうだろう?
……。
これから、鍵を探すのを手伝ってもらうし。
……関係、あるの?
ほら、お勉強の時間が削られてしまうだろう?
だけど、泊まって呉れるなら、寝る前までお勉強が出来る。
……そんなに、したいの?
お勉強以外のこともしたいんだ。
……。
亜美ちゃん。
……泊まっても、良い?
寧ろ、泊まって欲しい。
……。
お泊まりの支度は、してないよね?
一緒に取りに……は、鍵を見つけないと駄目か。
……ううん、してあるの。
……。
して、きたの……。
……なら、決まりで良い?
う、ん……。
やった、今夜は亜美ちゃんと一緒だ。
……。
ん……どうした?
……ううん、どうもしない。
んー……。
……なに。
顔が……少し、赤い?
……そんなこと、ない。
少しだけ、赤いような気がするけどな。
……多分、気のせい。
気のせいか。
……それより。
それより?
まこちゃん……カフェラテ、全然飲んでいないわ。
あ、然うだった。
……もう、冷めていると思う。
然うだよね、うっかりしてた。
……電子レンジで、温める?
いや、取り敢えずこのまま飲んでみるよ。
……。
亜美ちゃんはカフェラテ、どうだった?
うん……飲めなくはないわ。
そっか。
じゃあ、あたしも飲めるかな。
……。
……。
……どう?
うん、飲めなくはない。
然う……良かった。
でも。
……でも?
あったかい方が、良いかな。
……でしょう?
ちょっと、あっためてくるね。
ん……行ってらっしゃい。
25日
-Manjar Blanco(現世1)
はーい、いらっしゃい。
あの……こんにちは。
うん、こんにちは。
ごめんね、迎えに行けなくて。
ううん、良いの……気にしないで。
いつも、迎えにきてもらっているし……。
あたしとしては、いつだって迎えにいきたいと思ってるんだ。
亜美ちゃんを迎えに行くのが、好きだからさ。
今回は仕方ないわ……急にお部屋の鍵が折れてしまったのでしょう?
然うなんだ……昨日まではなんでもなかったのに、急に折れてしまって。
こんなことって、あるんだね……もう、びっくりしたよ。何が起こったのか分からなくて、唖然としちゃった。
若しかしたら、劣化していたのかも知れないわ。
鍵は丈夫な素材で作られているけれど、長く使っていると劣化して脆くなってしまうというから。
ね、あたしの力が強すぎたってことはないかな。
知らず知らずに力が入って、それで、劣化させちゃったとか。
ううん、それはないと思う。
……然う?
劣化の原因はあくまでも、日々の積み重ねによるものだと思うの。
鍵はほぼ毎日使うものだし、持ち歩くだけでも細かな傷がついてしまうから。
ん、そっか……なら、気にしなくても良いかな。
うん、良いと思う。
分かった、なら気にしない。
うん。
でもさ、いくら中古マンションとは言え、まさか鍵が折れてしまうだなんてさ。
思いもしないわよね……。
ん、ちっとも。
……まさに想定外だったと思う。
どうせなら、鍵だけでも新品のものが欲しかったなぁ。
然ういえば、折れてしまった鍵はどうしたの?
ペンチでつまんで引っこ抜いた、鍵穴から飛び出していたから。
簡単に抜けたの?
うん、思っていたよりもずっと簡単に抜けたよ。
じゃあ、シリンダー内で曲がっていなかったのね……良かった。
じゃなきゃ、業者さんを呼ばなきゃいけなくなってた。
鍵の出費もあるのに、この上、業者さんだなんてさ……予定外にもほどがあるよ。
やっぱり、代わりの鍵は自分で?
管理会社に聞いたら、スペアキーから作って呉れって。
スペアキーは、見つかったの?
それがさ、まだ見つからないんだ。
若しも見つけていたら、多分、迎えに行ってたと思う。
それは、擦れ違ってしまう可能性があるから。
ん、それも然うか。
……スペアキーはどこに置いておいたの?
鍵置き場にちゃんと入れておいた筈なんだ。
その周辺は?
なかった。
……然う。
どこをどう探しても見つからなくてさ。
こういう時の為のスペアキーなのに、なかったら意味がないよ。
……若しも、スペアキーが見つからなかったら。
その時は、業者さんを呼ばなきゃいけなくなっちゃうんだ。
新しく作り直してもらう?
うん、然うみたい。
となると……費用はどれくらいかかるものなのかしら。
……諭吉さんが、何枚か。
あぁ……それは大きいわね。
然うなんだ……だから、なんとしてでも、見つけ出さないといけない。
……。
本当、どこに行っちゃったのかなぁ。
鍵が勝手にお出かけするとは思えないし。
……ねぇ、まこちゃん。
ん、なに?
良かったら、一緒に探すわ。
助かるけど、良いの?
ん、もちろん。
ありがとう、亜美ちゃん。
……ん。
とても助かるよ……。
……まこちゃん。
ふふ……。
……玄関先で。
外では、出来ないから。
……然ういう問題なの。
たまには、良いかもなぁ……こういうのも。
……もぅ。
……。
……これでは、お部屋の中に入れないわ。
おっと、然うだった。
……。
さぁ、上がって上がって。
……その前に。
ん?
……これ、どうぞ。
なんだい?
まこちゃんにはいつもご馳走になってばかりだから……良かったら。
そんな、良いのに。
あたしは好きで作っているんだからさ。
……若しも、要らなかったら。
要らないなんて、そんなことは思わないよ。
ありがとう、亜美ちゃん。ふふ、なんだろうな。
……いつだって、美味しいケーキやクッキーを作って呉れるから。
うん。
……出来るだけ、同じものではない方が良いと思ったの。
ということは、ケーキやクッキーではない?
……ん。
然うなんだ……ふふ、もっと楽しみになってきちゃった。
あの……あまり、期待はしないでね。
んー、それは無理かなぁ。
……がっかり、するかも知れない。
しないよ。
……。
しない。
……う、ん。
亜美ちゃん……改めて、いらっしゃい。
うん……お邪魔します。
お気に入りのクッションも、さっきまで干しておいたから、準備万端だよ。
ふふ……うん、ありがとう。
早速だけど、お茶は何が良い?
なんでも……まこちゃんが好きなもので良いわ。
じゃあ……亜美ちゃんが持ってきて呉れたもので決めようかな。
私の?
折角だから、一緒に食べよう。
……でも。
ん、だめ?
……だめではないわ。
ひとりで食べるよりも、亜美ちゃんと一緒に食べた方が絶対に美味しいからさ。
……。
あ、若しかして、数がない?
……ううん、それは大丈夫。
そっか、良かった。
……あのね、まこちゃん。
開けてみても良いかい?
あ、うん……開けてみて。
ん。
……。
……これは、抹茶プリン?
然う……抹茶プリン。
白玉と、あんこが入ってる……。
その、色々考えて……たまには、こういうのも良いかなって。
……しかも、あのお店のだ。
あの……どう、かしら。
……。
若しも、食べたくなかったら……その、無理して食べないで良いから。
……亜美ちゃん。
な、なに……?
ありがとう!
とっても、嬉しいよ!
え、あ、う、うん……。
このお店の抹茶プリン……一度で良いから、食べてみたいと思ってたんだ。
そ、然うなの……?
うん、然うなの。だから、すっごく嬉しい。
わぁ、本当に嬉しいなぁ。お茶は何が良いかなぁ。
あぁ、良かった……。
ねぇ亜美ちゃん、お茶は何が良いと思う?
やっぱり、紅茶よりも日本茶かな。と言っても、緑茶しかないんだけど。
ん……緑茶も良いけれど、コーヒーとも合うみたい。
コーヒー?
砂糖を入れても……入れなくても。
へぇ、然うなんだ。
ふふ、興味深いなぁ。
……まこちゃんの好きな方で。
んー……じゃあ、コーヒーにしてみようか。
丁度、試供品でもらったカフェなんとかがふたつ、あるんだ。
カフェ、なんとか?
なんでも、新発売したとかで……なんだっけな。
カフェと言うからには、コーヒーなのでしょうけど。
カフェ、なんとか……んー、普段あまり飲まないからうろ覚えだ。
カフェオレ……カフェラテかしら。
ごめん、ちょっと待っててもらっても良い?
うん。
確か、この辺に……あれ、ないな。
……。
どこへやったかな……亜美ちゃんが来たら見てもらおうと思って、出しておいた筈なんだけど。
……あら。
うーん、おかしいな……どこへ行ったんだろ。
ねぇ、まこちゃん。
なんだい?
若しかして、これかしら。
え。
テーブルの上に。
テーブル……あぁ、然うだった。
分かりやすいようにテーブルの上に置いておいたんだった。
……これ、カフェラテだわ。
カフェラテ?
……イタリア発祥の飲み物だったと思う。
イタリア……はぁ、然うなんだ。
亜美ちゃんは飲んだこと、あるのかい?
ううん……私も、飲んだことはないの。
そっか、じゃああたしと同じだ。
確か……然う、エスプレッソにミルクを加えたものだったはず。
えす、ぷれっそ?
普通のコーヒーよりも、苦味が強いと聞いたことがあるわ……でも、私も詳しいことは分からない。
苦味が強いのか……じゃあ、砂糖を入れないと飲めないな。
多分、お砂糖を入れた方が飲みやすいと思う。
ふむ。
……まこちゃん。
カフェラテは、抹茶プリンに合うと思う?
ん……飲んだことがないから、なんとも言えないわ。
あー、然うだよねぇ。
じゃあさ、ただのコーヒーとは合うと思う?
それは……合わなくはないと思う。
砂糖入り?
ん……抹茶プリンの甘さにもよると思うけど。
聞いた話だけど、プリン自体はそこまで甘くないらしいよね。
……然うなの?
ただ、あんこは甘いと思うから……然うなると、甘さは控え目の方が良いのかなぁ。
……誰に聞いたの?
ご近所さん、ゴミ出しの時にたまたまね。
……まこちゃんは、ちゃんとご近所さんとのお付き合いをしているのね。
会えば挨拶をして、少し話す程度だよ。
お付き合いというほどじゃない。
……それでも、私の家よりは。
考えてみれば、どうして抹茶プリンの話になったんだっけ。
……。
確か、お菓子作りが好きだとかなんとか……あぁ、然うだ。
抹茶プリンは作るのって、聞かれたんだ。それで、まだ作ったことはないですって。
どういうわけだか、あたしがお菓子作りが好きなことを知られていたんだ。なんでだろう。
……多分、お部屋から甘い香りがするのだと思う。
あー、なるほど。
……でも、少し嫌ね。
うん?
……知らないところで、自分のことを知られているのって。
あぁ……うん、然うだね。
……まこちゃんはきっと、大丈夫だと思うけれど。
あることないこと、言われているかも知れない。
……。
だけど、今のところは害がないから……取り敢えず、それで良いということにしておく。
……何かあったら。
その時は、相談しても良いかい?
……力にはなれないかも知れないけれど。
きっと、色々考えて呉れる……然うだろ?
……少しだけでも良いから、まこちゃんの力になりたい。
ありがと……頼りにしてる。
……ん。
亜美ちゃんが居て呉れて……とても、心強い。
……。
飲み物、結局どうしようか……。
……まこちゃんは、どちらが良い?
あたしは……甘めのカフェラテにしてみようかな。
若しも合わなかったら、緑茶を淹れれば良いし。
……。
亜美ちゃんも、然うしてみるかい……?
……だけど、手間にならない?
まさか……なるわけ、ない。
……。
どうかな……?
……まこちゃんと、同じで。
ふふ……うん、分かった。
……カフェラテ、お湯を入れて溶かすタイプなのかしら。
多分、然うだと思う……だから、淹れるのは簡単だ。
……。
……今回、迎えに行けなくてさ。
え……?
ちょっとだけ、しょんぼりしてたんだ。
……しょんぼり?
然う、しょんぼり。
……そんなに。
うん、そんなに。
見て、ここの髪の毛。
髪の毛……?
どことなく、元気がないと思わない?
然う、なのかしら……いつもと、そんなに変わらないような気がするけれど。
じゃあ、元に戻ったのかな。
……元気がなかったの?
うん、いつもの勢いがなかったんだ。
勢い……。
然う、勢い。
亜美ちゃんが来る前にも梳かしたんだけど、いまいち、張りがなくてさ。
……。
ね、良く見てみて……若しかしたら、完全には元気が戻ってないかも知れないから。
……然うなのかしら。
良かったら、触ってみて……。
……。
どうだろ……ほんの少し、しょんぼりしてないかな。
言われてみれば……然うかも知れないわ。
……。
いつもならば、もっと……。
ふふ。
……まこちゃん?
冗談だよ。
……あ。
はは、亜美ちゃんは可愛いなぁ。
まこちゃん……また、揶揄ったのね。
ん、少しだけ。
もう。
ごめん、ごめん。
しょんぼりしていたというのも、冗談だったの。
いや、それは本当だよ。
……。
それは、本当。
……本当に?
うん、本当だ。
……なんて、言って。
あたし、亜美ちゃんを迎えに行く時間が好きなんだ。
……。
あたしの部屋までふたりで歩いてくる時間が、とても。
……揶揄ってない?
うん、揶揄っていないよ。
……。
信じられない?
……分かった、信じるわ。
ありがとう、亜美ちゃん。
……。
と。
……まこちゃん。
はい、カフェラテの用意をします。
……もぅ。
鍵を探すのは、抹茶プリンとカフェラテを楽しんでからでも良いよね。
……まこちゃんが、それで良いのなら。
うん、それで良い。
ふふ、楽しみだな。
……。
ね、亜美ちゃん。
……うん。
24日
……明日から?
今日の様子を見ていて、問題ないと。
……然うか。
まことさんはどう思いますか。
あたしは、亜美さんが決めたのなら其れで良いと思う。
あなたの意見……言いたいことでも構いません、何かありませんか。
んー、然うだなぁ……ん、少し火が強いか。
何でも良いです、あれば聞かせて下さい。
あるとすれば……早く治してあげて欲しい、かな。
……。
今は元気でも、いつどうなるか分からない……若しかしたら明日、症状が出て来てしまうかも知れない。
薬に対して悪い反応がなく、問題がないと亜美さん達が考えたのなら……少しでも早く、治療を始めてあげて欲しい。
……然うですか。
ごめん……亜美さんが聞きたいのは、こういうことではないんだろう?
いえ……ありがとうございます、まことさん。
あたしに出来ることは少ないと思うけれど……必要とあれば、なんでもするつもりでいるんだ。
……はい、お願いします。
うん……。
お芋……美味しそうに煮えていますね。
……然うかい?
はい……。
……良かった。
茸も、入れたのですか……。
うん、入れた……茸の出汁が出て、美味しいから。
……。
入れない方が、良かったかい……?
……ううん、嬉しいです。
嬉しい……?
……茸が入っているお芋汁も、好きなので。
ん、そっか……良かった。
……。
……ちびの芋汁には、焼き魚を解して入れてやるつもりなんだ。
ふふ……其れは喜ぶと思います。
……あいつ、魚も好きだからな。
ええ……とても。
……魚は、焦げてないかい?
はい、大丈夫です……。
……ん、ありがとう。
お芋汁……此の量ならば、明日の朝も食べられますね。
うん……其のつもりで、作っているんだ。
……。
魚……今日は、焼き魚にしたけれど。
……次は、どうするのですか。
次は、魚の味噌鍋にしようと思っているんだ……。
味噌鍋……。
……どうだろう。
とても良いと思います……ちびも、好きですし。
……じゃあ、然うしよう。
……。
……。
……治療を始めたら。
あたしは、何をすれば良い……?
……一時的に預かることになるので、此の子のお世話を。
然うか……分かった。
……うさぎちゃんのお母さんにも来てもらうつもりです。
交代で、見れば良いんだね……。
……お願いします。
あぁ……任せて欲しい。
……学姐には母親を診てもらいつつ、此方にも来てもらいます。
亜美さんは……。
……私も、引き続き診るつもりです。
然うか……うん、其の方が良い。
……。
隊長には……引き続き、獲物を獲って来てもらおう。
……隊長さんには、母親を見てもらうことになるかも知れません。
隊長に……?
……暴れた時に、力で。
其れならば、あたしでも……あ、いや、だめか
……まことさんには、此の子のお世話がありますから。
治療している間、母親には会わせるのかい……?
……いいえ、一時的に中止します。
会うのは、難しい……?
……大事を取ります。
然うか……分かった。
……薬は十日間、二刻から三刻毎に、静脈に投与することになります。
一日に、何度も薬を……?
……はい。
……。
……其れが終わったら、筋肉内に単回投与することになります。
ひとつ、良いかい……?
……はい、幾つでも。
じょうみゃくとは、なんだい……?
……血液を心臓に送る為に使われる血管のことです。
けっかん……血が流れている?
然うです……薬は、其処に投与することになります。
……飲ませるわけでは、ないのか。
飲ませるよりも……静脈に投与した方が、効果は高いと。
でも、どうやって……。
……注射器を使います。
ちゅうしゃき……。
注射器は、筒と桿からなっており……其れに、針を付けたもので構成されています。
針……て、あの針かい?
……中に薬を通す構造になっているので、私が普段、治療に使っている針とは全く違うものになります。
……。
針を用いて、血管に……直接、薬を投与するのです。
……痛みは。
当然、痛みが全くないわけではありません……けれど、成る可く、痛みを抑えるように努めるつもりです。
……亜美さんは其れを、今までに。
此の村に来てからは、ありません……ずっと服用する生薬を使用してきたので。
……都では。
何度か、機会がありました。
……。
私が都に居た頃は、あまり使われていなかったのですが……元々、西方の治療法だったので、認める者が少なく。
……今は、どうなんだ。
今では、良く使われるようになったと。
と、言うことは……都の皇女も、ちゅうしゃきで。
肌に傷を残してしまうかも知れないとして、避けるように言われたかも知れませんが……治療を優先するのならば、使わざるを得ません。
……。
まだ、飲み薬は開発されていないのです……であるならば、手段は選べません。
……でもまぁ、皇女は赤子ではないからな。
己の淫蕩癖が招いたこと……其れくらい我慢しなくては、民に面目が立ちません。
……表沙汰には、決してしないだろうが。
したら、確実に騒ぎになりますね……皇族の面目は潰れることになるでしょう。
……は、其れも良い。
まことさん……。
……ん、なんでもない。
……。
……亜美さん。
治療を始めて……どんな反応が出るか。
学姐と、経過、だったか……其れを、見ていくことになるんだろう?
……はい、然うなります。
良かったよ……。
……何が、でしょう。
学姐が、来て呉れて。
……私、ひとりでも。
ふたりを診るのならば、ふたりの方が良い……数は、大事だ。
……。
数が少ないと……どうしたって、不利になりやすいんだ。
……然うですよね。
あぁ、然うなんだ……。
……まことさんは、大丈夫ですか。
ん、何がだい……?
……。
あたしなら、大丈夫だ……何も、問題ない。
……。
何かあったら、直ぐに亜美さんを呼ぶ……だから、亜美さんも。
……どうか、支えて。
あぁ……力を尽くそう。
……ん。
屹度、上手くいく……。
……はい、屹度。
……。
……お魚が。
あ、焦げそうかい……?
……私が。
ん、ありがとう……。
……。
……患者さんは、落ち着いたかな。
取り敢えず、今のところは……。
……今日は、朝から忙しかったから。
……。
……そろそろ、迎えが来る頃だろうか。
然うかも知れません……。
……今日も、乳を飲んで、遊んで、寝て。
何事も、なく……。
……そんな当たり前のことを繰り返して、大きくなって欲しいと思う。
……。
母乳、雪が降っていても、分けてもらえているようで良かったよ……。
……美奈子ちゃんの家の方達と、分けて呉れる方のおかげです。
うん……本当にありがたい。
……。
……。
……此の子は、どんな子になるでしょう。
どんな子か……あたしとしては、元気ならば其れで良いけれど。
……其れは、当たり前として。
ん、然うだな……うさぎちゃんのように遊ぶことが好きで良く笑う子か、其れとも、美奈のように洒落ていてこまっしゃくれた子か。
……まことさんのように心根が優しくて、とても正直で、素直で、真っ直ぐで、頼りになる子か。
亜美さんのように真面目で、学ぶことが大好きで、好奇心に溢れていて、笑うと可愛くて、心根が柔らかい子か……。
……褒めすぎです。
亜美さんこそ……其れに、下心が抜けているよ。
其れは……ひとのこであれば、誰しもが持っているものですから。
ふふ……然うか。
……レイさんのように、冷静沈着な子になるかも知れません。
レイ、か……となると、とても手厳しい子になるな。
……他人以上に、己に厳しくて。
あまり厳しすぎても、心配なんだが……。
……矢張り、うさぎちゃんのような子でしょうか。
まぁ、うさぎちゃんの両親に育てられるのなら……いや、待てよ。
……はい?
弟のようになる可能性もある……。
……男の子ですが。
男勝りという言葉があるだろう……?
……あぁ。
其れは其れで構わないが……悪戯好きになったら、困るな。
然うなったら……確りと、叱りましょう。
あぁ、然うしよう……叱るべき時に叱らなければ、ろくな者にならないからな。
……。
あと……字の読み書きは、出来て欲しいと思う。
……読み書き、ですか。
うさぎちゃんは、出来なくはないんだけど……。
……間違いが多い、ですね。
弟は其れなりに出来るらしいが……字が乱暴で、きれいではないらしい。
……其れは、良くありませんね。
あぁ、良くない……字は、丁寧に書かなければ。
……。
仮令、きれいでなくても……。
……私ね。
うん……?
此の子に……学ぶことの楽しさを教えてあげられたらと、然う思っているんです。
あぁ、其れは良い……亜美さんと勉強をしたら、若しかしたら、学ぶことが好きになるかも知れない。
……然うでしょうか。
現に、あたしは好きになった。
……。
知らないことを知る、其れがあんなに楽しいことだなんて。
あたしはずっと知らなかった、知る機会もなかったんだ。
……機会は、大事です。
うん、今なら分かる。
……レイさんは、見て呉れるでしょうか。
屹度、見て呉れるだろう……まぁ、少し厳しいかも知れないが。
……まことさんも、一緒に書いてあげて下さい。
あたしも?
……若しかしたら、強請られるかも知れませんから。
然うか……然ういうことも、考えられるのか。
……十分に。
では、今から鍛練を重ねておかないといけないな。
鍛練……読み書きの練習ですか。
あぁ。
でも、今でも続けていますよね。
然うなんだけど、もっときれいに書けるように。
字が汚いと、容赦なく言われてしまいそうだからさ。
ふふ……其れはあるかも知れませんね。
だろう?
でも、まことさんの字は汚くないですよ。
とても丁寧で、読みやすいです。
レイには未だに、もっと頑張るように言われる。読めなくはないがきれいでもない、字はただ、書けば良いというものではないと。
あたしは間違えず、ちゃんと読める字ならば良いと思っているのだけど……レイに言わせれば、其れだけでは、駄目らしい。
レイさんは読み書きにも厳しいひとですから。
殊、文字に関しては、まるで書人のような拘りすら感じます。
レイの字はきれいだとは思うのだけれど、角ばっていて、丸みがないんだ。
何度か試してはみたけれど、どうやっても書けない。あたしにはレイのような字は書けないんだ。
レイさんは達筆で、其の筆遣いはとても巧みですから。
あの域に達するのは、なかなか難しいと思います。
……あたしはただ、亜美さんに読んでもらえれば其れで良いと。
……。
……あと、亜美さんが書いた字が読めれば、其れで。
ねぇ、まことさん。
……なんだい。
隊長さんに、封信を書いてみたらどうでしょう?
え、どうして。
今、思い付いたんです。
隊長に……でも、何を書けば。
何でも良いのです。
例えば、近況でも良いと思いますよ。
きんきょう……。
文字だけでなく、文章を書く練習にもなります。
や、でも、あたしは亜美さんだけに読んでもらえれば……其れで、十分なのだけど。
或いは、学姐に出してみても良いかも知れません。
……え。
折角、知り合えたのですから。
や、でも、流石に学姐には……何を書いて良いか。
近況で良いんです。
隊長には、其れで良いかも知れないけど……。
学姐にも、其れで良いんです。
……大根が豊作、でも?
ふふ、良いですね。
其のお大根で漬物を作ったと続けば、尚、良いと思います。
……そんなことでも、良いのか。
あなたからの封信は、停滞しているかも知れぬ日々の暮らしに、ちょっとした刺激を与えることが出来ると思うのです。
……そんな大層なものに。
なりますよ。
……亜美さん。
春になり、二人が帰ってから……暫くした後に、送ってみると良いかも知れませんね。
……亜美さんも、書くかい。
……。
亜美さんも、書こう。
私は……別に。
隊長に出したら、屹度、喜ぶ。
……ですが、何を書けば。
近況で良いと思う。
……私の近況など。
隊長は、喜ぶ。
……本当に、其れで良いのでしょうか。
良いに決まっているさ。
……はぁ。
隊長は屹度、亜美さんから封信が届いたら喜んで読むだろう。
若しかしたら、学姐とふたりで……然うだ、学姐にも出せば良い。
……。
どうだろう、亜美さん。
……学姐には、今回。
何度だって、出しても良いじゃないか。
……。
嫌かい?
……まことさんが、書くのなら。
うん、決まりだ。
……まことさん、お魚が。
ん、どれどれ……もう少し、かな。
……。
……あたしはさ。
はい……。
……ずっと、亜美さんのような字が書けたらと思っているんだ。
……
きれいで、丁寧で、まとまっていて、読みやすくて、お手本にも良くて……。
……お手本にするのならば、レイさんの字の方が。
あたしには、亜美さんの字の方が良い……レイには、悪いが。
……。
好きなんだ……亜美さんの字。
……私は、まことさんの字が好きです。
……。
……あなたの誠実さが、伝わってくる。
下心は、あるけれどね……。
……まことさん。
はは……。
……此の子は、どんな字を書くのでしょうね。
楽しみばかりが、増えていく……。
はい……本当に。
……名前も、未だに付けられていない。
治療が終われば……屹度。
……。
……。
……あぁ、迎えが来たようだ。
私が。
……うん、頼む。
……。
帰る前に……少しだけ。
……。
……うん、握って呉れた。
小さくて、可愛いおてて……。
……亜美さんも、やってみるかい?
はい……少しだけ。
……うん。
……。
ふふ……握って呉れました。
……可愛いな。
ええ……本当に。
……。
はい、今出ます。
……ではまた、明日にな。
宜しかったら、どうぞ中にお入りください。
23日
お、帰って来たな。
帰って来ては、いけないのかしら。
まさか、悪いわけがない。
あ、然う。
其れは残念。
今は夕飯の支度をしているところなんだ。
其れなのにどうして、あなたは外に出ているの。
そろそろ、お前が帰って来る頃合いだろうと思ってさ。
今日も鍋?
今日は川魚の山菜味噌鍋だ。
躰があったまって、美味いぞ。
然う、焼き魚ではないのね。
ん、焼き魚の方が良かったか?
別に、何方でも。
食べられれば其れで良いわ。
焼き魚は食うのに手間かと思ったんだが、お前が食いたいのならば、明日は焼き魚にしよう。
明日は野菜だけが良い。
野菜だけ?
然う、野菜だけ。
別に構わないが、野菜だけでは物足りなくないか?
あなたは然うでしょうね。
あたしは……まぁ、野菜だけでも良いぞ。
ならば、明日は野菜だけで。
応、分かった。
ところで、山菜はどうしたの。
味噌と一緒に、あいつに分けてもらった。
今日は魚三匹と物々交換だ。
味噌も?
あいつが使う味噌はどんなものかと思ってさ。
大して変わらないと思うけれど。
いや、此れが結構違うんだ。
味見したの?
一応な。
じゃあ、今日の鍋は。
あいつの味噌を使うつもりだ。
まだ入れていないのね。
今は鍋に入れる具を揃えたところなんだ。
火にはまだ、かけていないと。
夕飯までにはまだ時間があるから、お前が帰って来てからで良いと判断した。
若しも、私の帰りが遅くなっていたら?
然うしたら、家に戻って飯の支度の続きをするだけだ。
帰って来なければ良かったわ。
飯が出来る頃までに帰って来なければ、また、迎えに出るよ。
明日まで、帰って来なかったら?
ん、其れはないな。
何故?
今日もまた、雪の観察をするのだろう?
であるならば、お前は帰って来る。
雪の観察ならば、あの子達の家でも出来るわ。
出来なくもないだろうが、あたしとは勝手が違うと思うぞ。
違うでしょうけれど、気にはならない。
本当に、ならないか?
寧ろ、静かで良いと思うわ。
静かすぎて、かえって落ち着かなそうだ。
静かな方が良いに決まっている。
然うかな。
雪の音の観察も出来る。
雪の音?
雪が降る音、騒がしいあなたには聞こえないでしょうけど。
でも、知っている。
昔は、良く聞いていたからな。
けれど、観察まではしなかったでしょう。
ん、観察はしていないな。
雪がしんしんと降っている中、あなたはただ、息を潜めていた。
あぁ、然うだ。
雪が降りしきる中で、あなたが聞こうとしていたのは。
雪の降る音なんかではなかった。
であるならば、知っているとは言い難い。
其れでも、耳に入ってきたんだ。
其の時のあなたには雑音でしかない。
まぁ、然うだな。
其処に、あの子は居たの。
あぁ居たよ、あいつもあたしと同じで耳が良かったんだ。
あの子は、耳の形が良いわね。
耳の形?
あなたの欠けた耳とは違って。
あたしの耳も、欠ける前は良い形をしていたんだけどなぁ。
あなたが思うほどではない。
ん、然うか。
形は、あの子の耳の方が良いわ。
でも、独特な形ではないだろう?
……。
お前が気に入るのは、どちらかと言うと、独特な形だ。
然う、あたしの耳のような。
鬱陶しい。
な、聞く方はどうだ?
あたしの方が良いだろう?
今のところ、大した差はないけれど、あなたの方が歳を食っている。
む。
いずれ、確実に遠くなる。
つまり、聞き取り辛くなるわ。
であるならば、其の分、鼻を働かせるつもりだ。
言っておくけれど、嗅覚も加齢で衰えるわよ。
なんでも衰えるなぁ。
然ういうものなのよ。
お前も衰えるのか。
ひとのこである以上、当たり前。
……然うか。
何。
耳や鼻が衰えたとしても、屹度、口だけは衰えないな。
衰えて欲しいの?
いや、衰えないで欲しい。
どうか、其のままで居て呉れ。
物好きね。
良い好みだろう?
変わり者と言うのよ。
あたしは変わり者で良いんだ、皆と同じでは詰まらないからな。
私は、迷惑なのだけれど。
皆と同じだったら、お前は
洟も引っ掛けないわ。
ならば、変わり者で良い。
ふ。
なぁ。
何。
そんなに良かったか、あいつの耳の形。
ええ、良かったわよ。
若しかして、触ったのか?
触れるものならば、触ってみたかったけれど。
然うか、触らなかったのか。
どうして嬉しそうなの。
お前、耳が触れるかで判断するところがあるだろう?
ないわよ、そんなもの。
耳に触れなければ、
他人の耳になんて触りたいと思わない。
だけど、あたしの耳には触る、触った。
だから?
若しも、あいつの耳に触れたら、
莫迦なの?
……む。
あなたが言っている通りだとしたら、触ってみたいと思っている時点であの子は特別でしょう。
あ、然うか。
鈍いわね。
其れで、あたしの耳と比べてどうだ?
あたしの耳よりも、触ってみたいと思うか?
あなたの耳はもう、さんざ触ったわ。
古いのは飽きたか、新しいのが良いか?
だから、莫迦なの?
少し、気になって。
はぁ。
ん、息が白いな。
ただ、触るだけよ。
……ただ?
ただ、診てみたいだけ。
みて……診て?
其れ以上のことはしない。
……然うか、然うだな。
あの子は可愛い学妹の連れ合いだもの。
……。
何、其の顔。
……若しも、あいつが
いい加減、鬱陶しいのだけれど。
良し、もう此の話は仕舞いだ。
幾つになっても、あなたは鬱陶しいひとね。
ん、済まない。
……どうせ、あなた以外のひとの耳になんて触れやしないわ。
うん?
若しも然うだとしたら、私が遠慮なんてすると思う?
あぁ、思うよ。
お前にとって、あの子は唯一の学妹だからな。
詰まらないわね。
はは。
で。
で?
痛みは?
今はない。
然う。
なぁ。
何。
こんなに雪が降っていると、石入りの雪玉を思い出すんだ。
雪洞もでしょう。
あぁ、子供らに作るようなものではない雪洞だ。
ただ、雪を掘っただけの……ともすると、崩れ落ちてしまうような。
ろくでもないわね。
あぁ、本当にろくでもない。
此の村の雪は穢れていないわ。
何処までも、真っ白だな。
……。
ん、どうした?
別に、なんでも。
然うか。
あなたは真っ白だというけれど、本来、雪は透明なものなの。
然うらしいな。
光の加減で、白く見えているだけ。
考えてみなくても、水は透明だもんなぁ。
な、海が青く見えるのと同じ仕組みなんだろう?
然うよ。
光とは、面白いものだな。
あなたも一度、観察してみれば良い。
雪をか?
雪でなくても良いわ。
ならば、お前と一緒にしてみても良いか?
騒がしいから、ひとりで。
観察するのならば、お前と一緒が良い。
ひとりでは、やり方が分からない。
好きなようにすれば良い、然うすれば自ずと分かる。
好きなように?
あなたの、思うように。
じゃあ、お前と一緒が良い。
其れはないわね。
お前が居なきゃ、あたしの思うようには出来ないんだ。
甘えないで。
甘えては、駄目か。
私は忙しいの、あなたを構っている暇なんてないわ。
雪の結晶の絵、あたしも描いてみるかな。
描きたければ、描いてみれば良い。
雪の結晶は、どうすれば見ることが出来る?
見る為に、試行錯誤を繰り返せば良い。
試行錯誤……うん、やってみるか。
ええ、やってみて。
良し。
……。
手の平に落ちた雪は融けて、此の通り、水になってしまうから、雪の結晶を見ることは出来ない。
はいはい、然うね。
受け止めるものが冷たいものでないと、雪の結晶は見られないな。
私は家の中に入るけれど。
ん。
あなたはどうするの。
あたしも入るよ。
躰の雪はちゃんと払って。
応、分かって
冷たいわね。
お前の手は、あったかいな。
冷たいわよ。
中に入ったら、熱いお茶でも淹れよう。
然うして。
良し、此れで良い。
さぁ、中に入ろう。
……。
お帰り。
外から言うの?
応。
ばかね。
ただいま。
お帰りなさい、なんて、言わないわ。
ただいまでも良いぞ。
新しい大根が増えているわね。
大根?
また分けてもらったの?
然うなんだ、大根は漬物だけで良いと言ったんだけどな。
折角だから、漬けてみれば?
あぁ、然うするか。
……。
あと、芋も分けて呉れたんだ。
芋も?
然う、芋も。
魚だけでは合わないわね。
朝飯と雪下ろしの礼だと言っていた。
あなたが好きでやっているだけなのに。
あたしも然う思ったが、折角の厚意だから素直に受けておいた。
と言うわけで、今日の鍋にも入っているぞ。
両方?
いや、大根だけだ。
芋は明日使う。
然う……ならば、芋汁にでもして。
芋汁か、其れも良いな。
他に何があるの。
焼き芋。
芋汁で。
応、分かった。
じゃあ、明日の飯は芋汁だ。
……。
ん?
……はぁ。
疲れているのか?
別に、疲れてはいない。
親の容態があまり良くないんだな。
そんなことは、初めから分かっていたこと。
あたしが必要だったら、いつでも呼んで呉れ。
……明日。
明日だな、分かった。
折らない程度に。
加減はする。
……。
赤子はどうだった?
今日からでも治療を始められるわ。
始めないのか?
其れは、あの子が決めることよ。
お前は良いのか。
私が本当にすべきことは、ひとつだけ。
其れ以外は、手伝いに過ぎない。
……。
……ひとのこの死を見ることなんて、今更だけれど。
其れでも、受け止めきれない時もある……か?
……そこまでは言わない。
……。
……足が冷えてしまったわ。
湯を用意しよう。
……直ぐには、用意出来ないでしょう。
然うでもないさ、火鉢にかけてあるから。
……。
暫し、待っていて呉れ。
あなたが家で大人しくしていれば、待たずとも良かったのに。
今日は、外で待っていたかった。
どれくらい。
ん?
どれくらい、待っていたの。
四半刻、其の半分くらいだ。
くだらない嘘は嫌いよ。
四半刻だ。
笠も被らずに。
うっかり、忘れてしまった。
まさか、心配になったとでも?
ん……いや。
……。
然ういうわけでは、ないんだ。
……じゃあ、何。
帰りに、あいつの家に寄ってきたんだろう。
何か問題でも?
問題はないさ。
あの子と話すついでに、赤子を診てきただけ。
逆ではないんだな。
逆ではないわ。
あたしも、あの子と話したんだ。
ふたりだけで、話したがっていたものね。
矢張り、良い子だ。あの頃と、然程変わっていない。
まぁ、あの頃よりも大人にはなっていたが。
其れは良かった。
お前が話していた通りだよ。
そんなこと、話した覚えはないけれど。
お前は素直ではないからな。
関係ない。
お前と、何処か似ている。
似ていないわよ。
似ていないが、似ているんだ。
意味が分からない。
あの子の心根は柔らかい。
然う、お前の心根と同じように。
私の心根は捻くれ曲がっているわ。
久しぶりに話して、改めて思ったんだ。
あいつを、ちびを任せて良かったと。
其れが言いたかったの。
うん。
あ、然う。
何か期待していたのか?
雪空の下で待っているほどの内容ではないと思っただけ。
……あの子がお前の傍に居て呉れて良かったとも、思ったよ。
……。
多分、あの子にとっても……お前が居て呉れて、良かったのだろう。
さぁ……其れはどうかしらね。
あたしは、然う思う。
……勝手に思っていれば良い。
応。
……。
良し、用意出来たぞ。
……私よりも、
先に使って呉れ。
……もっと、大きい桶はないの。
大きい桶?
其れよりも、大きい桶。
あるにはあるが、どうするんだ。
分からないのなら、良い。
……ん。
早く、お湯を。
然うか、分かった。
……。
済まない、もう暫し待っていて呉れ。
……早くして欲しいのだけれど。
あぁ、出来るだけ早くする。
……。
湯はまた、沸かせば良い。
……矢っ張り、何処か似ているわ。
ん、何か言ったか?
あの子と、あなた。
何処か似ていて、似ていない。
あたしの方が格好良いぞ。
は。
ははは。
地頭の良さは、あの子が上ね。
頭?
あなたは何処まで行っても仕方なくて、ばかなひとだから。
22日
……亜美さん。
まことさん?
お帰り。
どうして、外に。
ん、そろそろ帰って来る頃だろうと思って。
……其の子も、連れ出して。
大丈夫だ、ちゃんと暖かくしているから。
……どれくらいに外に居たのですか。
四半刻、其の半分も居ないよ。
……。
冷たくは、なっていないだろう?
……なっては、いませんが。
鞄、持とう。
……ありがとうございます。
うん。
……ちびは。
家で、留守番をしている。
……付いては来なかったのですね。
来ようとしたが、残ってもらったんだ。
……。
さぁ、帰ろう。
……ねぇ、まことさん。
なんだい?
……私が居ない間、何かありましたか。
あぁ、学姐が来ていた。
学姐が?
夕餉の支度が終わる頃に、訪ねて来たんだ。
もう、帰ったのですか。
うん、帰ったよ。
……此の子を、診に来たのでしょうか。
診ても呉れた、此の様子ならば今日からでも治療が始められると言っていたよ。
……本当の理由は。
あたしと話をしに来た、と。
……学姐と、何を話したのですか。
何をと言われると、少し難しい。
……どういうことです?
まず、学姐は患者さんに成り済ましていた。
……気付かなかったのですか。
途中で何処かおかしいとは思った。
入ってくるように促しても、入ってこようとしなかったから。
……誰かまでは、分からなかったのですね。
気配で、女であることは分かった。
でも、誰かまでは分からなかった。
……其れで、念の為に警戒したと。
うん。
……学姐の気配は、まだ、覚えていないのですね。
学姐の気配は、どうにも分かり難いんだ。
……何処が、分かり難いの?
隊長と同じで、常に同じ気配だとは限らない。おまけに気配を消すことにも長けているようだ。
其処までの者は……防人だった頃を含めても、滅多に相対したことがない。
……。
亜美さんは、学姐の気配は分かるかい?
……学姐の気配は、分かりやすいので。
ん、然うか。
……けれど、確かに掴み所はないかも知れません。
其れなのに、亜美さんは分かるんだね。
……慣れだと思います。
慣れ、か……。
……あなたが、隊長さんの気配が分かるように。
其れは……確かに、慣れだな。
……学姐が来た時、此の子は何処に。
背中に、夕餉の支度をしていたから。
だから、迂闊なことは出来ないとも考えた。
……結局、どうしたのですか。
取り敢えず、悪意は感じなかったから迎え入れることにしたんだ。
……若しも。
鉈は腰に。
……。
けれど、目の前に居たのは学姐だった。
つまり、学姐は……あたしを、揶揄ったんだ。
……はぁ、全くあのひとは。
昔から、然うなのかい?
然うです……私も、何度も。
……。
……だから私は、あのひとの気配を。
覚えた……あたしと同じだ。
……其れから、どうしたのですか。
暫くの間、其処で話すことになった。
……直ぐには、中に入ろうとしなかったのですね。
あぁ、然うなんだ……。
……何を話したのですか。
ん……話し方、かな。
……話し方?
堅苦しい話し方は、止めるようにと。
……学姐は、堅苦しいのが嫌いだから。
だけれど、亜美さんの学姐だし……いつものような話し方はしない方が良いと思ったんだ。
……慣れていないひとには、どちらかと言うと、ぶっきらぼうなのに。
ん。
……学姐には、慣れぬ言葉遣いで話そうとして。
若しも、粗相があったら……。
……私と、引き離されるとでも?
其れはないと思うんだ……だけど、出来るだけ。
……良い姿を、見せたかったんですね。
有体に言ってしまえば……然うだと思う。
……学姐は、言葉遣いでひとを判断することは滅多にないわ。
……。
其の言葉の中に込められている感情……例えば嘲り、若しくは侮蔑、或いは媚び。
……どれも、良いものではないな。
畏まった言葉であっても、其れらが少しでも込められていたら……学姐は、直ぐに切り捨てる。
切り捨てる対象に、立場など関係ない……どんな者であろうとも、学姐は決して関わろうとはしない。
……。
知識は誰よりも豊富にあるけれど、誰とも交わることが出来ない偏屈な変わり者……中には、頭がおかしいのだと言う者すら居て。
……学姐の傍に居たのは、亜美さんだけだったのかい?
ううん……私だけではないわ。
……。
其のひとは……あなたが良く知っているひとよ。
……隊長は、戦人だったから。
仮令離れていても、常に心の中に。
……学姐に聞いたのかい。
あのひとが、そんなことを私に話すと思う……?
……亜美さんにだったら。
素直ではないの……だから、弱みなんて見せるわけがない。
……其れは、弱みなのか。
学姐にとっては。
……。
だけど……其れでも、少しだけ。
話して呉れた……?
……騒がしくて五月蠅いだけの存在が、常に心の中に居ると。
其れが、隊長……。
当時は分からなかった……まさか其れが、学姐の連れ合いだったなんて。
ん……あたしも、分からないな。
常に五月蠅かったら、気が散るのでは……と言ったら、鼻で笑われたわ。
……なんとなく、想像がつくよ。
込められた感情を別にしても、学姐は堅苦しいことは好まない……。
……。
だから……いつもどおりのあなたで居て下さい。
あぁ……分かった。
……結局、話し方は。
普段の言葉遣いで話すことにしたよ。
……学姐の反応はどうでしたか。
ん、満足していたみたいだ……。
……然う。
……。
……他に、何を話したのですか。
あたしの……地頭が良いと。
……。
自分では、分からないのだけれど……然うなのかな。
……然うですね、良いと思います。
……。
……言っていませんでしたか?
聞いた、かな……。
……まことさんの地頭は良いですよ。
ん、そ、然うか……。
学生時代に遡っても……あなたのようなひとは、私の周りには居ませんでした。
……本当に。
はい……本当に。
だけど、あたしは……読み書きも、ろくに出来なかった。
読み書きは、後天的……教育などで得る知識です。
だから其の機会がなければ、覚えることは困難だと思います。
……。
其れに、全く出来なかったわけではないですよね。
……隊長から教わった文字ぐらいしか。
然う……あなたは、隊長さんから学ぶ機会を得られた。
だけど、覚えたのは少しだけだ……だから、頭が良いとは言えない。
教わった文字は、全て覚えられたのでしょう……?
……読むだけならば、一応。
其の時に覚えた文字は少なかったかも知れないけれど、知識として、あなたの中に積み重ねられた。
……。
私が教えた文字も……今では、ちゃんと覚えている。
隊長さんに教わった時に、文字だけでなく、学び方も身に着けることが出来たのだと……私は、然う考えています。
……何度も、教わったからだ。
あなたはいつだって、一所懸命だった。
難しくても、間違えても、諦めずに何度も書いて。
……どうしても、覚えたかったから。
ね、まことさん。其れは皆が出来ることではないの。
大学に通う学生ですら、学ぶことを諦めてしまう者は居るのよ。
……然う、なんだ。
然う……。
でも……あたしの場合は、教えて呉れるひとが良かったんだ。
……。
亜美さんも……隊長も。
……私は。
でなければ、屹度、覚えることは出来なかった。
……まことさん。
此れからも、あたしに教えて欲しい。
……私で良ければ、喜んで。
亜美さんが、良いんだ……。
……。
亜美さん……。
……地頭の良さとは、先天的なもの。
ん。
言わば……然う、素質のようなものだと思います。
……素質?
状況に応じた柔軟な思考力、直感的な判断力、物事を適切に解決出来る能力……あなたには、其れらが本来から備わっていると。
……。
其の上、とても素直だから……こう言ってはなんだけれど、教え甲斐がとてもあるの。
……自分では、然う思わない。
自分では分からないかも知れないわ……。
……亜美さんの方が。
私は、後天的……教育で得られた知識ばかりで、先天的な素質なんて。
そんなことはない。
ん。
……あたしは、然うは思わない。
……。
例えば……勉強が好きで、ひたむきに打ち込めることも、素質のひとつなのだと思う。
……ありがとう。
うん……。
……学姐は、少しの会話だけで、まことさんの良さを見抜いた。
……。
ねぇ、まことさん……。
……なんだい。
地頭の良さの他にも、何か言われましたよね。
ん……何かって。
例えば、私のこと。
……亜美さんの?
私が、あなたに……。
う、うん……。
……惹かれたのは、地頭が良いからだと。
や、そ、そんなことは……。
……そんなことは?
……。
はぁ……矢っ張り。
ど、どうして、分かったんだい?
何処となく言い辛そうにしている、目が泳いでいる、そわそわとしている……など、色々あるけれど。
え、えぇ……。
一番は……学姐が、言いそうだから。
あ、あぁ……。
……だけど残念、其れだけではないの。
あ、亜美さん?
……あぁでも、分かっていて然う言ったのかも知れないわ。
あ、あのぅ……う。
冷たくなってきている。
そ、然うかな。
早く帰りましょう。
か、帰っているよ。
わざわざ、言いに来て呉れなくても良かったんです。
や、でも。
後は、家でゆっくり聞きます。
そ、然うか。
……そもそも、そんなに気を遣う必要なんてないの。
や、疚しい気持ちなど、ちっともなかった。
……は?
であるけれども、早く亜美さんに話したくて。
其れは、つまり……疚しい気持ちがあったら、話さないということ?
……え?
だって、然ういうことですよね?
ち、違う、どうして然うなる?
自分で言ったんじゃない、疚しい気持ちなどちっともなかったって。
い、言ったが。
疚しい気持ちがあったら、私が帰って来るのを外では待たず、家で学姐と
待て待て、何故に然うなる?
違うのですか。
ち、違う、全く違う。
では、学姐に早く話した方が良いと、唆されたのかしら。
は、はぁ?
学姐ならば、言いそうだもの。
は、話した方が良いとは、言われたが、
……。
だとしても、話したいと思ったのは何処まで行ってもあたしだ。
学姐は、関係ない。然う、全く関係ないんだ。
……ふぅん、然う。
あ、亜美さん……。
……可哀想に。
な、何が、
こんな雪空の下に、連れ出されて。
……。
……。
……亜美さん。
なんですか、まことさん。
……済まない。
別に良いです、謝って呉れなくても。
……だが。
分かっていますから。
……。
あなたに……疚しい気持ちなど、ないことぐらい。
あ、あぁ。
……だけど、少しだけ癪で。
しゃ、癪?
……面白がっているのかも知れないと思うと。
な、何を?
……学姐が、私達のことを。
……。
……もう、鈍いんだから。
あ、あたしは……面白がられているのか?
……安心して下さい、私もです。
……。
……性格が、悪いんです。
は、話には聞いていたが……。
……はぁ、全く。
あの……亜美さん。
……なんですか、まことさん。
あたしが、心底惚れているのは……。
……私、ですよね。
あぁ、亜美さんだけだ……。
……だから、わざわざ迎えに来て呉れたのですよね。
然う、なんだ……だけど済まない、此の子まで。
……ばか。
あ……。
……。
……亜美、さん。
足の傷だって……。
……ん、ごめん。
……。
亜美さん……外、だけれど。
……少しだけ、です。
然うか……少しだけ、か。
……今日の。
ん……?
……今日の夕餉は、なんですか。
今日の夕餉は……芋汁と、焼き魚だ。
……今夜もご馳走ですね。
あぁ……然うだね。
……夕餉は、いつもどおりにあげないと。
いつもどおり……?
……ちびのごはん。
あぁ……遅くなったら、また、文句を言われてしまう。
……朝餉に続いて夕餉まで遅くなったら、不貞腐れて言うことを聞かなくなってしまうかも知れません。
其れは、困る……。
……。
……。
……帰りましょう。
うん……帰ろう。
……。
……。
……まことさんの背中が、余程暖かいのでしょうね。
……。
……気持ち良さそうに、眠っているから。
思えば、今日は良く眠っていたよ。
……あれから、遊んであげたのですか?
夕餉の支度をする前に、少しね。
また、お腹の上に?
いや、足……あんよの裏に手を当てて、蹴りの練習を。
あぁ……うさぎちゃんのお母さんに教わった遊びですね。
うん……足の運動に丁度良いのだろう?
歩く為の練習にもなるそうです。
なかなか力強い蹴りだったよ、此れならば思っているよりも早く立ち上がって歩くかも知れない。
歩くのは流石にまだ先だと思いますが、立ち上がるのは早いかも知れません。
楽しみだ。
……然うですね。
歩くようになったら……。
……。
亜美さん……?
……此の子の将来の為に。
……。
今、出来ることを。
あぁ、しよう……皆で。
……はい。
……。
……此れから少しずつ、日中に起きている時間が長くなっていくと思います。
然うなのかい……?
……昼と夜の区別がつくようになって、夜にまとまって眠るようになると。
へぇ、然うなんだ……。
……。
……。
……ねぇ、まことさん。
なんだい、亜美さん……。
……家に帰ったら、また。
……。
……お帰りと、言って下さい。
あぁ……改めて言うよ。
だから、亜美さんは……。
……ただいま、と。
21日
ん、患者さんか。
恐らく、然うだな。
……。
良し、夕餉の支度は此れで良い。
……。
朝餉は遅くなってしまったが、夕餉はいつもどおりだ。
であるならば、ちびに文句を言われずに済むだろう。
……。
今日の夕餉は朝餉にするつもりだった芋汁と焼き魚なんだ、お前も大きくなったら一緒に食べような。
ん、よしよし、また少し遊ぶか。腹の上に乗るか、其れとも、ほんの少しだけ外に出てみるか。
御免下さい。
入って呉れ、戸は開いている。
……。
ただ、大夫がまだ往診から戻って来ていないんだ。
申し訳ないが、暫しの間、中で待っていてもらうことになる。
……。
ん、どうした? 中に入らないのか?
外で待っていては、寒いだろう? 遠慮せずに、入って呉れ。
……。
おかしいな……若しかして、あたしの勘違いか。
ちびも鳴いていないようだし……けれど、ひとの気配はする。
御免下さい、中に入っても宜しいのでしょうか。
矢張り、勘違いではない……あぁ、構わないから中に入って呉れ。
外では寒いだろう。中に入って、暖を取って呉れ。飲めそうであれば、熱いお茶も淹れよう。
……。
本当にどうしたんだ、どうしてそんなに畏まっているんだ。
畏まる必要なんて、今更、何処にもないだろうに。
申し訳ないのですが、戸口まで来て頂いても。
若しかして、足に傷でも負っているのか。
ええ、然うかも知れません。
分かった、直ぐに行こう。
ありがとうございます。
いや、気付かずに済まない。
いいえ、お気になさらず。
ひとりで此処まで来たのか?
はい、然うです。
其れは大変だったろう……さぁ、中に入って
こんにちは。
……は。
其の子を診に来たの。
だから、其の物騒な気配は収めて呉れないかしら。
……。
どうしたの?
何やら間の抜けた顔をしているようだけれど。
……え、と。
若しかして、驚いた?
……はい、驚きました。
村の者だと思ったのかしら?
……何処か、おかしいとは思っていたのですが。
其れで、途中から物騒な気配に変わったのね。
……こういうことは、あまり。
次からはしないわ、ごめんなさい。
……。
あの子はまだ、往診から戻って来ていないのよね。
はい……然うです。
まぁ、然うだろうと思って来たから良いのだけれど。
……そろそろ、戻って来ると思うのですが。
然う。
取り敢えず、どうぞ中へ……。
ええ、然うさせてもらうわね。
お茶は、飲みますか。
頂くわ。
では、直ぐに。
ねぇ。
……はい、なんでしょうか。
そんなに畏まらなくても良いわよ、私と会うのは初めてではないでしょう?
然う、なのですが……。
あぁ、若しかして人見知りなのかしら。
……別に、然ういうわけでは。
あなたの話し方、村の者達が相手だともっと砕けているでしょう?
私に対しても其れで良いわ。堅苦しい話し方は鬱陶しいから、昔から嫌いなの。
は、はぁ……。
あの子から聞いていないの?
……聞いていると、思います。
ならば、今から、ね?
……いや、でも。
其れか、然うね。
あのひとと話す時の言葉遣いでも良いわよ。
あのひと……。
隊長。
……。
其れも、難しい?
でも、どうしても嫌なのよ。
……分かりました。
どう、分かったの?
……いつもどおりで、良いだろうか。
然う、其れ。此れからは其の話し方で。
間違っても、畏まった話し方はしないでね。
き、気を付けよう……。
話し方について決着したところで、今は夕餉の支度をしていたの?
其れとも、其の子をあやしていたのかしら。
此の子をあやしながら、夕餉の支度をしていたんだ。
今日の夕餉は何?
朝餉にするつもりだった芋汁と……隊長が獲ってきた、魚を焼こうと思っている。
なかなかのご馳走ね。
良かったら、一緒に食べませんか……いや、食べないか。
其れも良いけれど。
無理ならば
然うすると漏れなく、あのひとも一緒に食べることになるけれど。
あのひとのことだから、喜んで来ると思うわ。私達の分の魚を持ってね。
……。
其れでも良いかしら。
あたしは、構いませ……構わない。
あなたが構わなくても、あの子はどうかしら。
……大夫も、構わないと。
本当に?
……大夫が、言ったんだ。
……。
だから。
ありがとう。
……。
けれど、今夜は遠慮するわ。
……ならば、また今度にでも。
ええ、また今度に。
……。
今の一人称は「あたし」なのね。
……え。
昔は違ったのでしょう?
……。
言いたくなさそうね、ならば言わなくても良いわ。
私も不躾だったと思っているから。
いや……大丈夫だよ。
然う?
あぁ、あたしは気にしない。
なら、良いけれど。
あたしは、昔は己(おれ)と言っていたんだ。
然う、あのひとが言っていたとおりね。
隊長はあなたに、そんな話もしているんだな。
あなたの話をする時のあのひとって、何処か楽しそうなのよ。
……楽しそうって。
私も暇ではないから、たまにしか聞いてあげないのだけれど。
……聞いたところで、そんなに楽しい話ではないよ。
然うでもないわ。
……。
犬の名前はちび、だったわね。
……あぁ、然うだ。
躰が小さいから、ちびと名付けたのかしら?
仔犬の頃は、ちびだったんだ。
ふふ、其のままね。
……あたしも、然う思う。
だけど、悪くはないわ。
此の子も気に入っているようだし。
分かるのかい?
いいえ、分からないわ。
なんとなく、然う思っただけよ。
……然うか。
此の子は人懐こいのかしら。
いや、知らない者や悪意を持つ者には尻尾は振らない。
私には振っているわ。
あなたのことはもう、憶えているからだ。
ちびは鼻が良いから、直ぐに憶えてしまうんだよ。
私はまだ、知らない者の括りだと思っていたのだけれど。
ちびにとって、あなたはもう知らない者ではないんだ。
若しかしたら、悪意を持っているかも知れないわよ。
然うとは思えない。
何故?
大夫の学姐だからだ。
学姐だとしても、悪意は持っているかも知れない。
であるならば、隊長もあたしの討つべき敵ということになる。
何故?
隊長は何処まで行っても、あなた側の者だからだ。
何も知らないかも知れない。
だとしても、知ればお前側に必ず立つ。
言い切るのね。
あぁ、言い切る。
時に、あなたの役目は?
防人として、仇なす者共を討つことだ。
私には戦う力はないわ。
見れば、分かる。あなた……お前は非力だ、戦う力など持ち合わせはいない。
だた、其の頭が厄介だ。其の頭でお前は、隊長……あれを、上手く動かすだろう。
へぇ、わりと良く見ているのね。
流石、あのひとが育てただけあるとでも言うのかしら。
別に、育てられた覚えはないが。
けれど、ひとりでは野たれ死んでいたでしょう?
あぁ、否定はしないよ。
なんせ、己自身が望んでいたことだからな。
でも、あの子と出逢ってしまった。
だから、なんだ?
そんなものは、些末なことだ。
と、あの子の前で言える?
言えなくは、ない。
いいえ、あなたは言えないわ。
何故、然う思う。
あなたはあの子に、心底惚れているからよ。
然う、出逢った頃からね。
……其れも、あれに聞いたのか。
ただの憶測よ。
然うか、矢張りお前は厄介だ。
ありがとう、最高の褒め言葉だわ。
どうしたしまして。
若しも、私を討てば。
あれは、本気で己を殺しに来るだろう。
が、己は殺されぬ。決して、な。
然うとは限らない。
己は
あのひとが本気であなたを殺しに来るとは限らない。
……何故然う思う。
答える義務はないわね。
お前はあれの女だ、殺されれば己を討つに決まっている。
義務はないと言った筈だけれど。
答えろとは言っていない。
ふふ、然う。
あなた、なかなか面白いわね。
己は詰まらぬ者だ。
頭の回転が悪くない。
……。
屹度地頭が良いのね、あの子が気に入ったのも頷ける。
は。
あのひとがあなたのことを可愛がっていた理由が漸く分かったわ。
いいえ、形になったと言った方が正しいわね。
可愛がられていたとは、思っていない。
矢っ張り、言い切るのね。
言い切る。
だけど残念、其れはあなたが然う思い込んでいるだけ。
なんにせよ、得物を向け合った瞬間にあれはただの敵になる。
敵となれば、己はあれを殺す。殺さなければならない。
あのひとも同じだと。
あぁ、然うだ。
殺さなければ、己(おのれ)が殺される。
難儀ね、戦人と防人って。
然ういうものだからだ。
お前も知っているだろう。
然うね、良く知っているわ。
あのひとが戦人の頃……其れを辞めてからも、仇なす者共の首をどれ程落として来たか。
……。
あなたも、よぉく知っているでしょう?
……ちび。
何をするのかしら。
お前に聞く、此れは己達の敵か。
……へぇ。
其れとも……あたし達の。
……あたし達の?
うん、矢張り違うな。
うん?
ちびは、あなたに尻尾を振っている。あたし達が話している間、ずっと。
敵であるならば牙を剥いて、疾うの昔に噛み付いているだろう。
もう、お仕舞い?
あぁ、終わりだ。
然う、残念ね。
あぁ、本当に残念。
……そんなに?
ええ、そんなに。
ねぇ、ひとつ聞いても良いかしら。
……なんだい。
私達は、あたし達の何?
ん。
ん?
……隊長と、学姐だ。
……。
其れ以上でも、其れ以下でもない。
……本当に?
少なくとも、隊長は隊長だ。
私は?
学姐は……大夫の学姐だ。
他にも知りたい?
……あと、隊長の大切な連れ合いだ。
……。
其れだけ知っていれば、十分だよ。
あなたは、可愛いわね。
な。
ありがとう、なかなか楽しかったわ。
……良く分からないが、どういたしまして。
うん。
そろそろ、中へ……躰が、冷えてしまう。
平気よ、此の冷たさを気に入っているから。
だとしても、中に入った方が良い。
風邪でも引いたら大変だから。
優しいのね。
別に……当たり前のことを、言っているだけだよ。
あの子にも然うなの?
……然うだよ。
大切なのね?
……とても、大切だ。
ふ。
……む。
む?
……。
今、何か思った?
……べ。
べ?
別に、何も。
さぁ、早く中へ。
……。
ちび、今はじゃれるな。
……此の子も、可愛いわね。
学姐……。
……私もだけれど。
……。
何より、背の子が冷えてしまうわね。
幾ら、あなたの体温が高いと雖も。
……学姐も、だ。
顔色は、悪くない……うん、問題はなさそうね。
此れならば、今日からでも治療を始められる……。
……。
では、お邪魔するわ。
……あなたは。
ん、なに?
あなたは……何処か、大夫に似ている。
あの子に?
私の何処が?
……雰囲気が。
雰囲気……其れはまた、抽象的ね。
……だから、ちびは直ぐに懐いたんだ。
犬がそんなことで、こうも容易く懐くものなのかしら。
あたしには分からないが、においも似ているのかも知れない。
薬?
薬も然うだが……なんと、言うか。
言葉に困っている?
……あぁ、困っている。
ふふ、然う。
え、と……犬は、好きなのかい?
逸らしたわね。
……済まない。
まぁ、良いわ。
面白いから。
……面白い。
犬は嫌いではないわ、但し、無駄に吠えなければね。
ちびは、無駄に吠えることはないよ。
賢い奴なんだ、亜美……大夫に似て。
名前で良いわ。
……。
言わなくても分かっているだろうけれど、私のではないわよ。
……。
わざわざ呼び分けているようだけれど、私の前では弁えなくても良いの。
……でも。
恥ずかしいのかしら。
……恥ずかしい、わけでは。
ふふ、図星ね。
……んん。
けれど、もう十数年も連れ添っているのに。
今更でしょう、人前であの子の名前を呼ぶことなんて。
……あなたは、あたし達の前で隊長の名を呼べるのか。
気が向けば、呼ぶわよ。
……。
此処で良いわ。
いや、囲炉裏の前に。
本当のことを言うと、あなたと話をしに来たの。
……。
だから、此処で良い。
いや、駄目だ。
……どうして?
どうしてもだよ。
……。
話をするのなら、囲炉裏の前で。
然う……分かったわ。
お茶請けは、漬物しかないんだ。
……。
においが強くないものを出すよ。
……聞いたのね?
今日、聞いた。
……若しかして、分けてあげた?
においが強くないものを。
……全く、あのひとは。
お茶請けは、要らないか。
試しに、味見してみても良いかしら。
あぁ、勿論。
今、用意する。
口に合わなかったら、ごめんなさいね。
其れは仕方ないさ。
……。
……。
……何処か、似ているわね。
ん、何か言ったかい。
……だけど、似ていない。
学姐?
私は、あなたの学姐ではないのだけれど。
……。
でも良いわ、可愛い学妹の連れ合いなんですもの。
……。
私が来たこと、あの子に話す?
……話して、良いのなら。
ならば、話さないで。
……。
私とあなただけの秘密。
……其れは。
疚しいことがなければ、問題ない。
……。
でも駄目ね、あの子は屹度直ぐに気が付くでしょうから。
……あぁ、多分気が付くと思う。
どうしてだと思う?
薬のにおいだ。
……。
あたしには其の違いは分からないが、大夫……亜美さんなら、直ぐに気が付く。
であるならば、あの子が帰って来たらさっさと話した方が良い。
……。
私達にとってはなんでもないけれど、あの子にとっては不愉快かも知れない。
……帰って来たら、直ぐに話すよ。
ええ、然うして。
……あぁ、でも。
なに?
あなたが居る時に帰って来たら、
本当に良いと思うの?
……いや、良くない。
私が此処に来た理由は、私が話すよりも、あなたが正直に話した方が良い。
あぁ、然うするよ。
……。
どうぞ。
此れは、大根?
亜美さんが好きなんだ。
ふふ、然う。
お茶も、直ぐに。
ええ、ありがとう。
20日
あたしが、怖いか?
……え?
一緒に飯を食った時も、先刻も、口数が少ないようだったから、若しかしたらあたしのことが怖いのかと思ってな。
まぁ、こんな面をしているし、分からないわけでもない。実際、怯まれることが多いんだ。初見だと、大抵の者には怯まれる。
……いえ、そんなことは。
面に傷がある者なんざ、なんら、珍しいものではないと思うのだが……此れも、月日の流れというものなのだろう。
実際の戦を知る者も、大分減ってきている……と言いつつも、未だに賊による掠奪と村焼きは後を絶えないが。
……隊長さん達が暮らしている場所は、無事なのでしょうか。
今のところは無事だ。
……然うですか、良かったです。
然ういえば、此の村の者は然うでもなかったな。
二度見はぼちぼちされたが、怯むというよりも物珍しさが勝っていたように見えた。
屹度、隊長さん達が珍しかったのだと思います……外からひとが来ることなんて、行商と配達以外だとあまりないので。
ましてや、こんな時期にか?
……失礼だとは、思うのですが。
まぁ、仕方ないな。
余所者は大体、珍しがられるもんだ。
……。
んー……。
……。
あたしと話すことなんて、そんなにないか?
其れとも、あまり話したくないか?
……いえ、決して然ういうわけでは。
なんでも良いぞ。
……。
分かった。
ならば、鞄を持とうか。
……え。
なんだか、重たそうに見えてな。
ありがとうございます……でも、大丈夫です。
ん、然うか?
隊長さんはお野菜が入った籠を背負っていますし……お心遣いだけで。
何、此れくらいなんでもないさ。
知っているだろう、あたしはあいつを背に負って此処まで来たんだ。
はい、聞いております。
学姐を背負子に乗せて、雪夜の山を越えて来たと。
あぁ、然うだ。
足元も悪く、大変だったと思います。
いや、然うでもないよ。見た通り、未だに健脚なんだ。
此れも、砂浜と漁で鍛えたからだろうと思っている。知っているか、砂浜もなかなか歩き難いんだ。
歩いたことはないのですが、聞いたことはあります。
あたしにか?
……はい。
ふふ、然うか。
……。
だからな、此れくらいの荷物など、なんでもないんだ。
……けれど。
あいつに遠慮しているのならば、そんなもの、しなくても良いぞ。
……あの。
お、なんだい?
……雪道は、歩き慣れているのですか?
いんや、然うでもない。
だから、歩くのが愉快で仕方ないんだ。
……愉快、ですか。
あぁ、慣れていないのが愉快なんだ。
……然ういうものなのですね。
見渡す限りの雪が、何にも染まらず、何処まで行っても真っ白でさ。
雪の白は、直ぐに穢れてしまうが……此処は、其れが一切ない。だから、歩いていて楽しいんだ。
……。
ん、此れは余計だったな。
済まない、聞かなかったことにでもして呉れ。
……おふたりが今、暮らしている場所では雪は降るのですか。
あたし達が暮らしている場所でも冬になれば雪は降るが、此処までは降らない。
降っても、然うだな……此れくらい、か? 取り敢えず、此の村のように毎日は降らないよ。
……。
はは、ちと分かり辛かったか。
……どれくらい、積もるのでしょう?
んー……積もっても、脹脛が埋まるくらいだな。
……結構、降りますね。
まぁ、都よりは降るな。おかげで雪掻きにも慣れた。
多く積もった時には雪のだるま、或いは雪洞を作って、里の子らに遊ばせたりもしているよ。
雪洞が結構、好評でな。外が寒くても中は暖かいから、暫くは出て来なかったりするんだ。
雪掻きをしていて、腰を痛めたりはしませんか。
あぁ、腰か。
結構な負担が掛かると思うのです。
慣れていても、痛める時がありますので。
其れは、あいつのことか。
……。
はは、然うなんだな。
でも安心して呉れ、あたしも分かるから。
……隊長さんも。
ぎっくり腰、だったか。あれは、まずいな。
流石のあたしでも、暫くの間は動けなかった。
……どれくらい、動けなかったのですか。
一日。
……一日。
あいつも、其れくらいだったろう?
……はい。
けれど、大事を取って休ませた。
……。
違うかい?
……違いません。
其れは、正しい。
……。
あたし達の躰は他の者より頑丈に出来てはいるが、其れでも、完全ではないから。
無理をすれば、いつか必ず、壊れてしまうだろう。此処まで壊れなかったのは、たまたまに過ぎないんだ。
……隊長さんも休まれたのですか。
うん、半ば無理矢理な。
あいつは、一度言い出したら聞かないんだ。
……。
けれど、其処もまた、良い。
……はぁ。
はは、此れは惚気だったか。
……看ては呉れたのですか?
一応、な。
知ってるとは思うが、心根は柔らかいんだよ。
……。
お前も、あいつと同じように、心根が柔らかそうだ。
いや、分かりやすく柔らかいな。あいつが惚れるのも無理はない。
……私は、どうでしょう。
あたしは、見る目があるんだ。
ぼんくらだの、節穴だの、挙句の果てには盲(めくら)だの、さんざ言われてはいるが。
……ぼんくら?
然う、ぼんくら。
……本当に口が悪くて。
だけど、あたしにだけだ。
……。
いや、お前に対しても然うだったか。
……悪態を聞くことは、何度も。
悪態か、今でも吐くぞ。
……はい、相変わらずのようで。
あたしは言葉にするのがどちらかと言うと不得手だから、あいつが言って呉れると心がすっきりするんだ。
其れに、口は悪いかも知れないが、間違ったことは言っていないとあたしは思っている。
核心は突いていると思います……ただ、口が悪いだけで。
然う然う、然うなんだ。
おまけに相手の図星を突くものだから、面倒なことになるのも屡々だ。
然うなのですよね……だから、都では他者との折り合いが悪くて。
難儀だよな、都という場所は。
……。
あいつの居場所としては悪くはないのだが、合っているとは言い難い。
……はい。
あたしはあいつを連れ出したいと思っていた……が、あいつは動こうとはしなかった。
其れは然うだろう、都にはあいつが必要としているものが揃っている……あいつに合うひとのこは、居なくても。
……。
たったひとりだけ、居たけどな。
……私では、ありませんよ。
いいや、お前だよ。
お前しか、居ない。
……学姐が、
言うと思うか?
……思いません。
あくまでも、あたしの考えだ。だから頼む、言って呉れるなよ?
言ったら、どれだけの皮肉や嫌味、悪態を吐かれるか分からないからな。
……分かりました、言いません。
あいつになら、言っても良いぞ。
……まことさん、ですか?
あぁ、然うだ。あいつになら、言っても良い。
然うだな、夕餉の楽しい話題にでもして呉れ。
……良いのですか?
あぁ、良いよ。
……然うしたら、今夜にでも。
はは、良いな。
……ふふ。
……。
……?
……なぁ。
矢張り、言わない方が。
いや、其れではないんだ。
……なんでしょう。
ひとのこっていうのは、そんなに見栄えが大事なものなのかな。
……見栄え?
見栄えなんぞ幾ら飾り立てたところで、中身が供わなければ、そんなものはただの張りぼてでしかない。
あいつの考えていることを理解するなんて、口ばかりの張りぼて共に出来るわけがない。
……まず、不可能でしょう。
……。
欲に塗れて、権力に溺れ、立場や見栄えばかり気にする者共に……学姐の考えを理解するなんてことは、仮令一生分の時間を使ったとしても、土台無理な話です。
……其れこそ、時間の無駄遣いか?
はい、其の通りです。
……。
あ……すみません。
どうして謝る?
謝る必要なんて、何処にもないぞ?
……言葉が過ぎたと。
はは、まさか。
お前の気持ちの良い言葉を聞けて、あたしは満足だよ。
……。
お前も多分、難儀したのだろうと思う。
……私は、学姐に比べれば。
其処は、比べてはならぬ。
……ん。
あいつはあいつ、お前はお前だ。
だから、比べてはならない。
……はい。
と、説教臭いな。
済まない。
……いいえ、ありがとうございます。
礼を言われるなんて、なんだかむず痒くなるな。
……普段、あまり言われることはないのですか。
いや、そんなことはない。
が、お前に言われると、少しむず痒い。
……学姐にお礼を言われることはありますか。
たまに、ある。
……たまに。
あいつは、素直じゃない……と、此れは内緒だ。
……内緒、ですか?
然う、内緒……お前は知っているかも知れないが、其れでも、な?
ふふ……分かりました。
うん。
……。
然し。
……はい?
聞いてはいたが、此処は本当に雪深い場所なんだな。
……あぁ。
お前は此の村で過ごす初めての冬に、なんぞ困ることはなかったのか?
慣れぬ場所で、おまけにこんなに雪深いとなれば、困ることのひとつやふたつはあっただろう?
私は……特には、なかったです。
ん、然うか。
……あのひとが、居て呉れたので。
ん。
……まことさんには、此の村に来た時から助けてもらってばかりで。
其れは……分かりやすく、下心だな。
……。
あたしには分かる。
……そんなことは。
はは、矢張り然うか。
……。
お前も、わりと分かりやすいな。
……良く言われました。
あいつに?
……隊長さんにも。
ん、然うだったか……いや、然うだったな。
……。
昔話は……また、次の機会にするか。
……しても、良いですか。
あたしは構わない。
……ならば、また次の機会に。
応。
……此の村には、いつまで居て下さるのですか。
あいつの気が済むまでだ。
……若しも、明日。
あいつが此の村を発つというのならば。
だけれど、其れはないだろう。
……春まで。
春まで、掛かりそうか?
……此の村の冬は、此れからなので。
あぁ、成程な。
春まで籠もるんだったか。
……。
あいつが傍に居るとは言え……不安か。
……言えません。
ん、然うか。
ならば、聞くまい。
……。
此の村は雪深いようだが、猪が居るのは良い。
……。
本来ならば、棲息する筈がないとあいつが言っていた。
……雪猪と。
雪猪か、其のままだな。
……ふふ、然うですね。
おかげで、肉に困らない。兎も居るし、山鳥も居る。魚も、獲れる。そして、腐らない。
此れならば、春までは居られるだろう。ただ、野菜は分けてもらうことになってしまうが。
……私達は、構いません。
良いのか、取り分が減っても。
其の代わり、お肉やお魚が食べられますので。
ん、然うか。
ならば、明日も獲ってこよう。
……。
あいつさ。
……はい。
雪の結晶とやらも、観察したいみたいなんだ。
……雪の。
観察しては、其の絵を描いている。
楽しそうなのは良いのだが、風邪を引いてしまわないか心配なんだ。
……温めてあげて下さい。
……。
悪態は吐くと思いますが。
……あぁ、たっぷりと吐かれる。
でも……隊長さんだけだと。
……ふ。
なんです……?
大人になったな、たまご。
……私ももう、良い歳ですから。
良い歳、か……早いな。
……はい、とても。
……。
……あの、隊長さん。
ん?
隊長さんのお顔は、怖くありませんよ。
……然うかい?
はい……心根が真っ直ぐで、優しそうなお顔をしています。
初めてだな、そんなことを言われるのは。
……言わないだけです。
……。
と、私は考えています。
然うか……然うだったら嬉しいな。
……素直ではないので。
……。
ですよね?
あぁ……然うだ。
だけど、其処もまた良い。
はは、其の通りだ。
……隊長さん。
ん。
……どうか、学姐を。
任せろ。
……。
あたしだけ、だからな。
あいつが目一杯、悪態を吐けるのは。
……。
嫌になんて、なるわけない。
あたしは……心底惚れてるんだ、あいつに。
……惚気、ですか。
あぁ、然うだ。
……。
いつか、お前も聞かせて呉れ。
……いつかで、良いのなら。
矢っ張り、あたし達が帰るまでが良いな。
ふふ……考えておきます。
応、考えておいて呉れ。
……。
じゃあ、あたしは此処までだ。
はい……ありがとうございました。
結局、鞄は持たせてもらえなかったが。
……また、機会があれば。
うん、憶えておこう。
……。
本気だぞ?
……分かっています。
ん、なら良い。
……では、また。
応、またな。
……はい。
19日
……。
……まことさん。
……。
まことさん……。
……ん。
起きてもらっても、良いですか。
……あたし、いつの間にか眠っていたのか。
はい……此の子と一緒に。
……然うか。
ごめんなさい、起こしてしまって。
ん、いや、大丈夫だ……其れで、どうしたんだい。
今、隊長さんがお魚を持って来て下さって。
……隊長が?
出来れば、お野菜と交換して欲しいと。
ん、分かった。
お願いします。
隊長は、今何処に……中に、上がってもらっているのかい?
いえ……屋根の雪下ろしをして下さっています。
屋根の……だけど、今来たのだろう?
お魚を置いたら、直ぐに屋根に上がってしまったんです……。
……。
まことさんをお呼びすると言ったのですが……其れよりも、屋根の雪が気になったそうで。
昨日、隊長さんにして頂いたからとも言ったのですが……あなたが来るまで、やっていると。
……来たばかりなんだよね。
はい……いらっしゃったのは、つい先刻です。
はぁ……全く、隊長は。
ごめんなさい、私では止められなくて。
……亜美さんと話したいのではなかったのか。
え?
ん……いや、なんでも。
隊長は、野菜は何が欲しいと言っていた?
其れが、此れと言っては。
然うか、分かった。
ごめんなさい、用が足りず。
いや、隊長が言わなかったのだろう?
亜美さんに落ち度はないよ。
……お願いしても良いですか。
あぁ、勿論。
そろそろ、往診に行く頃合いだろう?
いえ、もう少し時間がありますので……私は、此の子を見ています。
患者さんは?
今は、誰も。
然うか……ならば、頼む。
はい。
其れでは、行ってくる。
あ、上着を。
ん、然うだった。
どうぞ、まことさん。
ありがとう、亜美さん。
……ん。
では、改めて。
……はい、行ってらっしゃい。
うん。
……。
魚、魚か……ん、此れか。
あぁ、然うです。
どれ……今日も石斑魚が三匹、か。
今回もちびの分がちゃんと入っているな。
お肉もお魚も、いつもちびの分まで分けて下さって。
ちびのことも、あたし達の家族だと思っているみたいだ。
家族?
あたし達が可愛がっているから。
……。
間違ってはいない。
……隊長さんは良く見ているのですね。
曰く、節穴ではないらしいが、どうだかな。
……ふふ。
ん、なんだい?
……ううん、なんでもないです。
然うかい?
……はい。
本当に、なんでもない?
なんでもないですよ。
其れより、隊長さんが待っていますから。
雪下ろしをしながらね……全く、ひとりでは危ないというのに。
……ふふふ。
矢っ張り、なんでもないわけではないだろう?
まぁ、少しだけ……だけど今は、隊長さんの方が優先です。
む。
でしょう?
まぁ……然うだ。
一応、お茶の支度はしておきますね。
いや、お茶は……。
雪下ろしのお礼にもなりませんが、しておきます。
……うん、頼む。
はい。
……お茶請けに、大根の漬物でも。
然うですね、其れも用意しておきます。
ん。
……。
魚三匹と、野菜……さて、何が欲しいのか。
可能な限り、隊長さんが望むものを……今日は朝餉まで頂いていますし。
あぁ、然うしよう。
……。
良し、行くか。
くれぐれも、屋根には上がらないで下さいね。
あぁ、分かっているよ。
では、足元にはお気を付けて。
うん。
……。
隊長、待たせてしまって済まない。
野菜が欲しいそうだが、何が……ん?
……良く眠っている。
前には居ないか。
となると、横か、後ろか。
久しぶりにまことさんと遊んだから……屹度、疲れてしまったのね。
隊長、居たら返事をして呉れませんか。
……。
返事がないな……折角良く眠っているのに、大きな声は出したくないんだが。
……隊長さん、どうかしたのかしら。
屋根には、居ないな……若しかして、帰った?
いや、そんなわけはない。手ぶらで、帰るなどと。
……。
ちび、隊長が何処に行ったか知らないか。ん、矢張り、屋根か。
けれど、見当たらない……となると、何処に……まさか、落ちた。
……私も。
ちび、隊長のにおいは分かるか?
若しも分かるのならば……うぉっ。
……。
隊長……雪に紛れて、何をしているんだ。
気配まで、消して……そんなに楽しいか、雪は。
……良かった。
己(おれ)にしてみれば、雪なんぞ、そんなに楽しいものではない。毎年、毎年、降るのだから。
其のせいで、春まで籠もることになる……まぁ、今はひとりではないが。
……ね。
まぁ、隊長が楽しいようなら構わないが、くだらないことをするのは……かくれんぼ?
雪下ろしをすると言ったのは、嘘だったんだな。まぁ、然うだと思った……は。
……まことさんのお腹の上は、楽しかった?
確かに、綺麗にはなっているが……ぐ。
……。
雪玉を投げて呉れるな。石はない、あったとしても、今は雪玉に入れるものではない。
雪の合戦がしたいのならば、ひとりで……雪洞など、作らぬ。家なら、此処に在る。
……大きくなったら、あなたはまことさんと雪玉を作って遊ぶのかしら。
己の足には治りかけの傷があるんだ。
隊長の遊びになど、付き合ってはいられぬ。
……其の時は、私も一緒に。
触るな、冷たい。慣れの問題ではない、慣れていようが冷たいものは冷たい。
其れより、野菜は何が欲しいのか。出来る限り、望むものを分け……隊長。
雪の合戦は危ないけれど、子供ならばやりたがるのかも知れない……都の子供達が然うだったの、雪が降るとうんざりしている大人達をよそにはしゃぎ回って。
だけど、うさぎちゃんと美奈子ちゃんはやっていなかったから……若しかしたら、雪郷の子はあまりやらないのかも知れないわ。
雪如きではしゃいで、風邪を引いても知らぬぞ。詰まる詰まらないではない。
若しも風邪など引いて、学姐に面倒を……看てはもらえぬのなら、余計に控えた方が良いではないか。
私は終ぞ、することはなかったけれど……本当の戦ではないのなら、其れは屹度、楽しいのでしょうね。
初老は疾うに過ぎて還暦も近いだろうに、子供がするような遊びで体調を崩すなど……大夫?
確かに大夫は心配して呉れるが、そんなことは隊長には関係ないだろう。
まことさん、楽しそうね……ね、あなたも然う思うでしょう?
大夫の影響……そんなこと、隊長にとやかく言われる筋合いはない。
其れよりも、欲しい野菜はなんなのだ。家の中で大夫が待っている、早く教えて呉れ。
……。
大体、隊長だって学姐の……いや、受けているようには見えないな。
良くは知らないが、影響を受けているようには見えぬ。少なくとも、雪ではしゃぐようなことはないだろう。
……はしゃぎはしないだろうけれど、雪の結晶の観察はすると思う。
此れでは学姐も大変であろう。
良い歳をしておきながら、こんなに手が掛かるなど。
……屹度、お互い様なのではないかしら。
あぁもう、良い。野菜は大根、芋、小葱、其れから、菠菜。
あとは、山菜と茸、其れから豆がある。どれが良い、さっさと選んで呉れ。
……。
味噌? あぁ、構わない。味噌と、あとは何を……山菜だな、分かった。朝餉の礼に、大根も……漬物が欲しい?
あるには、あるが……あぁ、分かった。では、漬物も。におい? 其処までは強くないと思うが……強いと、駄目なのか。
……何処か、懐かしいわ。
苦手……分かった。ならば、においが強くないものを。漬物としては漬かりがちと浅いが、においは強くない筈だから、食べやすいだろうと思う。
今、用意をするから、揃うまで中で……己達は助かるが、診療所の周りの雪掻きは大丈夫なのか。まぁ、大丈夫なのだろうが、一応。
……何処か、似ている。
雪掻きは良いから、中に入って呉れ。亜美さん……大夫がお茶の支度をして待っているんだ。
名で呼ぶことぐらい、なんでもないだろう。大夫と呼ぶのは、此方の都合だ。隊長には関係のないことだ、構わないで呉れ。
……似ていないのに、何処か。
分ける野菜なのだが、雪下ろしの礼に芋でも……此れは、大夫の望みでもあるんだ。
あまり多くは食べられないかも知れないが、あれば、使える。其れに、芋は腹が膨れる。
……あの苦しい状況の中であっても、ふたりの傍に居れば。
兎に角、味噌と山菜、大根の漬物、芋を用意する。
だから、家の中で……ちび、今は隊長の相手をしなくて良い。
漬物の用意をしないと……不思議ね、眠るあなたの傍に居ると眠たくなってくる。
ちびは……去年、大夫と町に行った時に拾った。まだ、仔犬だった。
小雨が降っている日に、子供らに追いかけ回された挙句、石を投げつけられていたんだ。
其れで、放っておけなくて助けた。そして、其のまま、連れて帰って来た。
……。
利口だよ……大夫に似て。
さぁ、もう良いだろう。中に入って呉れ。
……うん、此れで良し。
大夫、良いかい?
はい、良いですよ。
どうぞ、お入り下さい。
あたし……己は、急いで用意をする。
はい、分かりました。
……隊長、大夫にくれぐれも余計なことは言って呉れるな。
まことさん。
……直ぐに用意する。
はい。
……。
隊長さん、どうぞ此方へ。
はい、預かっていまして……今、眠っているところなんです。
……起こすなよ。
いえ、私達の子供では……私が産んだ子ではありません。
勿論、まことさんが産んだわけでも……あくまでも、預かっているだけです。
……知っていて、言っているな。
あの、あまり揶揄わないで下さい……知っていて、言っていますよね?
……全くだ。
名は……未だに、もらっていません。もう少し大きくなったら、名付けられると思います。
私達が、名付けるわけでは……親では、ないのですから。名付け親、ですか……然うですね、機会があれば。
……味噌と、漬物。
学姐から聞いていると思うのですが……此の子は、親から瘡毒をもらっている可能性があるんです。
昨日まで薬の反応を見ていたのですが、大きな反応は見られず……はい、学姐も問題ないと判断したので、治療を始めるつもりでいます。
学姐にも、様子を見てもらうつもりで……あぁ、然うですか。学姐にやる気があるのならば、私としても、非常に助かります。
……山菜と、芋。
はい、母親の方は非常に難しい状態で……出来れば少しでも長く、此の子と過ごせればと思っているのですが。
隊長さんの目には、どう……然うですか。いえ、ありがとうございます……其の時は、お願いします。
……隊長、だけでなく。
あ、ごめんなさい。お茶をどうぞ。
其れと、お茶請けにお漬物を。
……良し、此れで良い。
此のお漬物はまことさんが漬けたもので、とても美味しく、お茶請けにも良いのです。
私は……では、まことさんが来てから、一緒に。
大夫、隊長。
あ。
用意が出来た。
然うですか。
ごめんよ、隊長の相手をさせてしまって。
いいえ、大丈夫ですよ。
隊長は、此れから……ん、別に構わないが。
此の子を起こすようなことはしないで欲しい。
お茶を淹れますね。
あ、あたしが淹れよう。
いえ、まことさんは待っていて下さい。
だが、今日は朝から忙しかったし……此れから、往診にも行くのだろう?
休めるうちに、少しでも休んでおいた方が良いと思うんだ。
……でも。
大夫は、座っていて。
あたしが……は?
……え。
いや、どうして隊長が……隊長は大人しく、お茶を飲んでいて呉れ。
折角、大夫が美味しく淹れて……確かに淹れてからでも飲めるが、然ういうことではなくて。
お気遣い、ありがとうございます。
ですが、隊長さんはお客様……では、ないのですか。
隊長……。
確かに、お客様に雪下ろしや雪掻きをしてもらうなんて、考えられないことですが……。
……大夫。
まことさん……。
こうなってしまったら……隊長の、好きに。
だけど……。
……どうせ、聞きやしない。
ん……分かりました。
隊長、どうせ淹れるのなら美味しく淹れて呉れ。
……まことさん。
良いんだ……此れで。
……。
……ほら、楽しそうだろう?
楽しそう、ですね……。
……世話を焼くのが好きなんだ、昔から。
こんな風に、学姐のお世話も……。
……けれど、誰にでも、ではない。
……。
……隊長は、決まったひとにしかしない。
まことさんは兎も角、私は……。
……昔、一緒だったろう?
……。
おまけに、あたしと年齢が近くて……だから、亜美さんのことも。
……長く居たわけでは、ないのに。
だから、だ……だから、隊長は。
……。
……あたし達が、一緒に居て。
……。
……そんなに嬉しいのですか、隊長。
隊長さん……。
己は……あたしはあなたに、連れ合いが居て呉れて、良かったと思っていますよ。
……。
良いひとなのは、分かりました……さんざ、聞かされたので。
まぁ、大して憶えているわけではないですが……隊長に、然ういうひとが居るということは、嫌でも憶えています。
……。
良かったですね、一緒に生きることが出来て……あぁ、あたしも然うです。
ん、ありがとうございます……熱いのは分かっています。
……ありがとうございます。
はぁ……隊長は、変わりませんね。
……。
……亜美さん、何か話したいことがあれば。
私は……。
……。
……朝餉、とても美味しかったです。
ん。
はい、憶えています……色々、気に掛けて下さって。
あの、隊長さんは古傷が痛むことはありませんか……学姐は、診て呉れていますか。
あぁ、然うですか……良かった。あのひとは何処か、捻くれているところがありますので……ん。
……。
其処が、良いのですね……まぁ、確かに、飽きないかも知れません。
と言うより、飽きている暇もないかも知れません……はい、分かります。
昔から、然うだったので……羊羹、ですか。あぁ、今でも好きなんですね。
……羊羹。
明日、ですか……はい、私は構いません。
まことさんは、どうでしょうか。
……あたしも、構わない。
でしたら……また、明日に。
はい、楽しみにしていますね。
……。
……。
……亜美さん、もう良いのかい?
いざとなったら……言葉が。
……まぁ、然うか。
……。
隊長、此の漬物が気に入ったのなら……え、明日で?
分かりました……では、また明日に。
……ん。
ん、どうした?
……目を覚ましたようです。
あぁ、然うか。
私が。
いや、あたしが。
亜美さんはそろそろ、往診の……は。
え。
隊長、何を。
……ありがとうございます。
亜美さん。
でしたら、途中までお願いしても良いですか。
え、えぇ。
大丈夫ですよ、まことさん。
……けど。
大丈夫です……だから。
……隊長。
……。
くれぐれも、宜しくお願いします。
……では、私は往診の支度を。
今日は二件だったね。
はい……終わったら、真っ直ぐ帰って来ます。
18日
ごちそうさまでした。
お薬は一週間分、一日二回、お食事の後にお飲み下さい。若しも飲み忘れてしまったとしても、一度に飲んで良い量は、一食につき一回分だけです。
一度に二回分、または其れ以上飲むようなことは、決してなさらぬように。必ず、守って下さいね。億劫だからと言って、一度に多く飲むこともしてはいけませんよ。
亜美さんの分を……手が空いた時に、直ぐに食べられるように。
お薬は正しく飲まなければ効能や効果を発揮しないどころか、良くない作用を躰に齎してしまうことがあります。
ですので、ただ飲めば良いというわけではないのです。面倒だとは思いますが、其れでもどうか、私の言葉を守って下さい。
……昼になってしまうかな。
若しも飲み忘れてしまったら気付いた時に飲むか、次の服用時間……飲む時間が近付いているようでしたら、忘れてしまった分は飛ばして下さっても構いません。
兎に角、飲む量だけは守って下さるように……はい、お願いします。然うです、一袋が一回分です。いえ、明日からではなく、此の後の食事から飲むようにして下さい。
然し、もう食うことはないと思っていたが……分からないもんだ。
まことさん。
ん。
少々、宜しいですか。
あぁ、分かった。
ありがとうございます。
うん。
では、お大事になさって下さい。
どうぞ、お気を付けてお帰り下さいね。
よ、と。
はい、さようなら。
お薬は忘れずに、ちゃんと持ったかい?
次の方、どうぞ。
今日はどうされましたか。
なんとも言えない顔をしているね。だけど、大夫が言った通りにちゃんと飲まないと治るものも治らない。
裏を返せば、大夫が言った通りに飲んでいれば、ちゃんと治るんだ。であるならば、一週間ぐらい、なんてことないさ。
三日くらい前から咳が出始めて、ゆうべは其のせいで眠れなかったと……然うですか、分かりました。
お話を伺う前に、少々、喉を診せて頂いても宜しいですか。はい、成る可く大きくお願いします。
今はまだ鼻水だけで、熱はまだ、出ていないのだろう? あぁ、良かったよ。熱が出ると動けなくなるからな。
とは言え、鼻詰まりも放っておくと喉の痛みに繋がることがあるようだから、大事にした方が良い。
では、失礼します…………うん、幾らか腫れていますね。喉に何か異常は感じていませんか。
例えば、いがいがしているなど……なんとなく、違和感を感じますか。けれど、痛いわけではないのですね……咳に、痰が絡むことはありますか?
少し、ありますか……では、鼻水が出たり、鼻が詰まって息苦しいなんてことはありませんか。
旦那がいちいち五月蠅い? あぁ……ならば、早く治さないといけないな。けれど、無理はしてはいけないよ。
ん、飯? 其れは自分でやらせれば良いさ。何も出来ぬ乳飲み子ではないのだから、其れぐらいはさせた方が良い。
鼻よりも、咳の方が苦しいのですね……特に、夜になると酷くなると。
咳き込んで眠れないのは、苦しいですよね……はい、私も分かります。
酷いと、横になっていることも出来なくなってしまって。
じゃあ、お大事に。気を付けて、帰って呉れ。
良かったら、ちびをお供に着けるが……ん、其れは良いか。
脈を取らせて頂いても宜しいですか……左手の手の平を上にして……はい、失礼します。
……。
……うん、脈に乱れはないようですね。
うん、足取りは大丈夫そうだな……なんとなく、帰りたくなさそうではあるが。
今日までに、熱は……今のところは出ていない。躰が怠いということは……此れと言ってありませんか。
寒気は如何でしょう? ふふ、然うですね。毎日、寒いですよね。私も、暖かい春が待ち遠しいです。
……春、か。
例えば、躰が震えて止まらないなんてことはありませんか。
其処まででは、ありませんか……はい、どうか此れからも暖かくしてお過ごし下さい。
私も、暖かくして過ごし……まことさん、ですか。まことさんは……足の傷を除けば、元気ですよ。
何故に、あたしのことを……あぁ、雪掻きのことか。
咳は、風邪の症状だと思われます。ですので、然うですね……咳を静めるお薬を出しましょう。
此方のお薬は、喉と鼻にも効果があります。喉と鼻は、今は其れほどではないかも知れませんが、悪化させない為にも必要なのです。
……まぁ、良いか。
一週間、一日二回、食前に水、或いは白湯で飲んで下さい。若しも飲み忘れてしまったら、食後でも構いません。
但し、一度に二回分飲むのは止めて下さい。一度に一回分、此れだけは守って下さいね。
……念を押しても、飲んでしまうひとは居るんだよな。
はい、其れではおしまいです。いえいえ、どういたしまして。
お薬は忘れずに持ち帰って下さいね。どうぞ、お大事になさってください。
……。
まことさん、宜しいですか。
応。
ありがとうございます。
ん。
其れでは、お気を付けてお帰り下さい。
はい、さようなら。
咳が酷いんだってな。咳で眠れないのは……あたしは、まぁ、分からなくはないよ。
此れでも、風邪ぐらいは引くんだ。ん、あたしは引かないと思っていただと?
そんなわけないだろう、あたしだってひとのこだぞ? そりゃあ、治りは早いかも知れないが。
次の方、どうぞ。
今日は、どうされましたか。
帰ったら、飯が待っているのか。はは、其れは良いな。じゃあ早速、大夫のお薬を飲むことに……明日からでは、駄目だ。
大夫に言われただろう、此の後の食事から飲むようにと。ん、言われてない? だとしても、此の後の食事からに決まっているだろう?
ちゃんと飲まないと治るものも治らない。嫁さんに余計な心配をさせる気か?
昨日の夕方頃から、寒気がするのですね……他に、何か気になることはありますか。
鼻、咳、喉の痛み……頭がうっすら痛い? 其れから、お腹も……然うですか。
然うしたら、お熱の確認をさせて頂いても宜しいですか……はい、失礼します。
では、お大事にして呉れ。良かったら、ちびを……え、途中まで?
あぁ、分かった。ちび、良いか? 然うか、頼むぞ。何かあったら、あたしを呼びに……縁起でもない?
はは、其れは済まない。じゃあ、気を付けて家まで帰って呉れ。ああ、また。
……微熱がありますね。
……。
喉を診せて頂いても……はい、大きく口を開けて下さい。
では、失礼します…………うん、喉は腫れてはいないようですね。
脈を取っても宜しいですか……はい、左の手の平を上に……失礼します。
うん、大丈夫そうだ。
……矢張り、少し速いようです。
念の為、ちびが帰って来るのを此処で待っていようか。
熱が出ると、脈が速くなるのですが……此れは、体温上昇時に良く見られる生理的反応なんです。
息苦しさを感じることは……其れは、ないですか。鼻詰まりや咳も、今のところはないのですよね。
……ん?
頭痛、腹痛、微熱……どれも、風邪に見られる症状です。
然うですね、食事を確り取って、且つ、暖かくして休んでいれば治ります。
え、お薬は要らないですか? 然うですか……ですが、熱を下げるお薬だけでも飲んで頂けませんか。
あ。
少々、渋いかも知れませんが……頭痛や腹痛を静める為にも、飲んで頂きたいと思います。
確かに、休んでいれば治りますが……万が一、寒気が酷くなるようなことがあれば、今よりも高い熱が出てしまうかも知れません。
此のお薬には、躰を温める効果もあります……一日二回で良いので、飲んで頂けませんか。
あぁ。
食前に水、或いは白湯で……要らない、ですか。
娘さんに言われたから、仕方なく来ただけ……あぁ、然うだったのですね。
でしたら、どうしましょうか……私としては、飲んで頂きたいのですが……え。
どうぞ、家の中へ。
此処まで、寒かっただろう。
あ、あの、娘さん、そんなに強く言わずとも……え、あ、はい。
分かりました、では、宜しくお願いします。お薬は一日二回、食前に水か白湯で飲ませてあげて下さい。
五日分、出しておきます。若しも其れで、寒気が治まるようなことがなければ、もう一度……いえ、私からお伺いします。
どうぞ、宜しくお願い……あ、はい、お大事になさって下さい。
家の中は、暖めておいたつもりなんだが……然うか、良かった。
まことさん、良いですか。
あぁ、分かった。
申し訳ない、此処で休んでいてもらっても良いだろうか。
ん、どうかしましたか?
大夫、うさぎちゃんのお母さんが来て呉れたんだ。
あぁ。
では、あたしは暫し……て、どうしてそんなに怒っているんだ。
親父殿が言うことを聞かない? あ、あぁ……まぁ、仕方な……くは、ないな。
うん、仕方なくはない。親父殿も、娘さんの言うことは……いちいち小五月蠅いって。
済みません……少々、お待ち頂いても宜しいでしょうか。
いや、そんなことは言わない方が……此れ以上怒らせると、飯を作ってもらえなくなるぞ。
あ、もう二度と作らない? まぁまぁ、然う言わず……気持ちは、分からなくはないが。
はい、ありがとうございます。
お躰にお変わりはありませんか。
どうか、お大事にして……ほら、喧嘩をしていると、治るものも治らないからな。
あ、あぁ、気を付けて帰って呉れ……雪にうっかり足を取られないように、怪我でもしたら大変だから。
まことさんが落ち着いたら、お茶でも……お忙しいですか。
うん、行ってしまった……あの様子ならば、多分、大丈夫だろう。
お構いも出来ず……あ、はい、此方を飲ませてあげれば良いのですね。
ん、お帰り、ちび。
大丈夫だったか……然うか、ありがとうな。
今は、眠っているのですね……。
良し。
でしたら、静かにしないと
待たせてしまって申し訳ない、今、お茶を淹れよう。
……。
直ぐに支度をするから、どうか……え。
……まことさん。
ど、どうした、どうした。
な、なんで、泣き出したんだ?
……丁度、眠っていたようなんです。
眠って……ということは、若しかして、起こしてしまった?
……其のようですね。
あぁ……。
……すみません。
面目ない……。
……まことさん、次の患者さんは。
ん……丁度、途切れたみたいだ。
然うですか……ならば、少しは時間が取れそうですね。
……良かった。
其れよりも、まことさん。
あ、あぁ、然うだね……ごめんよ、起こしてしまって。
お茶は、私が淹れましょう。
あ、いや、あたしが。
ううん、まことさんはあやしていて。
あ、あたしが、ひ、ひとりで?
然うです、お願いしますね。
お、応……。
どうぞ、ほんの少しだけでも……はい、私達は大丈夫ですから。
よしよし、久しぶりだな……だから、泣き止んで呉れないか。
……ふ。
ほぉら、ちびも居るぞ。
尻尾を振りながら、見ているぞ。
……。
なぁ、ちび。
久しぶりに来て呉れて、お前も……おいちび、何処へ行くんだ。
……もう、まことさんは。
あ、あー……。
まことさん、見ているだけでなく、抱っこしてあげて下さい。
抱っこ……わ、分かった。
よしよし、今抱っこするからな……。
……。
……ん、あれ。
どうしましたか。
少し重たくなった、か。
あぁ……大きくなったのでしょう。
然うか、大きくなったのか。
……お待たせしました、どうぞ。
言われてみれば、少し大きくなったな。
うんうん、良いことだ。
……。
ところで、そろそろ泣き止まないか?
……済みません、少し良いですか。
でも、元気そうで良かった。
もう、何を言っているの?
あ。
突然の大きな声に吃驚したのよね……ごめんね。
亜美……大夫。
ちゃんとあやさないと、泣き止んで呉れませんよ。
こ、此れでも、ちゃんとあやしているつもりなんだけど……。
……。
……申し訳ない。
ね……仕方ないまことさんね。
あの……抱っこ、代わるかい?
いえ、其のままで。
や、でも……。
……嫌なんですか。
い、嫌なわけでは……ただ、今は、亜美さんの方が。
……そんなことは、ないわ。
ん……。
……ね。
んー……。
……今日は、宜しくね。
……。
……まことさんも。
う、うん……宜しくな。
……あなたが来て呉れるのを、ふたりで待っていたの。
あぁ、待っていたんだ……。
……。
……ん、泣き止んで呉れそうか。
多分……。
……。
……ふふ。
はぁ……良かった。
……。
亜美さん……大夫、朝餉はどうする?
食べるのなら、今のうちだと思うんだ。
然うですね……食べてしまいましょうか。
うん、其の方が良い。
其の間、此の子をお任せしても良いですか?
あぁ、任せて呉れ。
では、お願いしますね。
うん。
……。
……よしよし、良い子だ。
お帰りになられるのですか。
いえ、大したお構いも出来ず。
うん、もう帰るのかい?
あぁ、家のことがあるのか。
お迎えは……夕暮れ前ですね。
分かりました、お待ちしております。
其れまで、確りと見ていよう。
其れでは、足元にお気を付けて……はい、また後ほど。
17日
……朝餉。
作り過ぎたと、言っていましたね……。
……本当か、どうか。
本当だと思いますよ……。
……本当に、然う思うかい?
偽りを言っているようには、見えませんでしたし……。
……なんでもない顔をして、嘘を吐くことは良くあったんだ。
其の頃は……隊長として必要だったから、吐いていたのではないのですか?
……然ういう嘘もあったけれど、あたしに対しては揶揄い半分だったと思う。
隊の長としてではなく、隊長さん個人として、あなたに接していたのだと思います……。
……亜美さんには然ういうこと、しなかったかい?
私には、なかったと……。
然うか……まぁ、然うだよな。
然う、思ったのですが……全くないわけでは、ありませんでした。
……亜美さんにまで。
本当に細やかなことなのですが……。
……隊長は、どんな嘘を?
例えば……腹の中が黒いという言葉がありますよね。
あぁ……うん、あるね。
此の言葉は……表向きは善人そうに振る舞いながらも、其の実、心根は汚く、悪意に満ちている或いは悪巧みを企てている、という意味なのですが。
……厄介なんだよな、然ういう輩は。
ひとのこはお腹の中で喜怒哀楽を感じ、お腹の中で物事を考える……故に、悪意に満ちている者はお腹の中が黒い。
然う、昔のひとは考えていたそうなんです……実際はお腹ではなく、頭で考えているのですが。
……頭だと分かっていたら、頭の中が黒いと言っていたのだろうか。
恐らくは、言っていたと思います。
……心も実は胸の奥ではなく、頭にあるんだろう?
然うですね……心も、頭にあります。
でも……胸の奥でも、良いと思います。
……ごめん、余計なことを言った。
いいえ……お気になさらず。
……。
悪が黒ではなく、青だったら……お腹の中が青いと、言われていたかも知れませんし。
……ん。
ふふ……。
……青は、悪だとは思えない。
未熟者という意味合いの方が強いですものね。
いや……青と言えば、晴れ渡った空の色だ。
……。
だから……青は、悪とは結び付かない。
……隊長さんも同じようなことを言っていました。
隊長も……?
……青は、澄んだ美しい海の色だと。
海……。
……隊長さんの生まれは、海の傍なのですよね。
……。
え、と……若しかして、知りませんでしたか。
ん……聞いたかも知れないが。
……ちゃんとは、聞いていなかったのかも知れませんね。
多分、然うだと思う……なんせ、興味がなかったから。
同じ青でも……まことさんは空の色、隊長さんは海の色。
……其れから、亜美さんの色だ。
……。
髪の青、瞳の青……あたしが、一番好きな色。
……ありがとう、まこと。
うん……。
……。
思えば、学姐も青だね……亜美さんとはまた、少し違った。
……ん。
隊長が言う青は……屹度、学姐の色でもあるのかも知れないな。
……屹度、然うなのでしょう。
青い海か……見たこと、ないな。
……いつか、見てみたいですか?
うん……?
其の……私と。
見てみたい。
……。
亜美さんと、ふたりで。
……ではいつか、見に行きましょう。
あぁ、行こう。
……。
亜美さんは見たことがあるんだね。
……いえ、実はないんです。
え、ないのかい?
はい……書物で、読んだことがあるだけで。
あぁ……然ういうことか。
……がっかりさせてしまいましたか?
いいや、全然……寧ろ、より楽しみになった。
……其れは、何故です?
ふたりで、初めてを分かち合えるから。
……。
ねぇ、亜美さん……今度、海の話を聞かせて呉れないか。
……書物で得た知識で良いのなら。
良いに決まってる……あたしは、其れが聞きたいんだ。
……では、今夜にでも。
今夜……?
……明日以降の方が良い?
ううん……今夜、布団の中で。
……。
……勿論、夕餉の時でも構わないのだけれど。
どちらにするか……其の時までに、考えておくわ。
……あぁ。
其れでは……話を、元に戻しましょう。
……ん。
隊長さんに吐かれた嘘……其れは、腹の中が黒いという言葉の語原のことなんです。
語原……隊長は、なんて言ったんだい。
お魚のお腹の中が黒いことから、と。
……魚?
然う、お魚……此の場合は、海のお魚のことです。
海の魚の腹の中は黒いのか……あんまり、美味そうではないな。
……黒い部分は腹膜だけで、内臓ごと取り除いてしまえば、美味しく食べられるそうですよ。
海の魚は全て、腹の中が黒いのだろうか。
いいえ……一部のお魚に見られる特徴で、全てではないそうです。
海の魚にも、色々居るということか。
ふふ……然うですね。
ふむ。
……因みに、川のお魚は海では生きられないことは知っていますか。
え。
逆に、海のお魚は川では生きられません。
……。
ですが、中には川と海、其の両方で生きられるお魚も居ます。
違いは浸透圧調整能力……とても簡単に言ってしまえば、躰の作りの違いです。
然う、なのか……てっきり、水の中ならば何処ででも生きられると思っていた。
綺麗な水でしか生きられないお魚も居れば、多少汚れている水でも生きられるお魚も居る……お魚も多種多様なんですね。
魚は、食えるか食えないかでしか、考えたことがなかった……。
ふふ……良いと思いますよ、其れでも。
……食える魚は食える、食えない魚は食えない、当たり前だけど、大事だと思うんだ。
はい……毒を持っているお魚を食べたら、命に係わりますので。
……毒。
例えば、河豚毒……僅かな量であっても中毒を起こし、命を落とすことがあります。
其の致死率は他の食中毒に比べ、極めて高く……ですから、絶対に食してはならないものとされているんです。
……。
まぁ、毒を含んでいる部位を綺麗に取り除いてしまえば美味しく食べられるのですが。
……亜美さんは。
一度だけ、食べたことがあります。
例によって、味は憶えていないのですが。
た、食べて、だ、大丈夫だったのかい?
はい、ちゃんと免許を持っている方が調理したものだったので……でなければ、食べません。
あ、あぁ、良かった……。
……其れなのに、絶えないのです。
え……。
都では、ある有名な役者が、河豚の肝……此処に毒があるのですが、其れを自ら進んで食べてしまい、命を落としました。
な、なんで、食べるんだ、そんなものっ。
ひとのこの、飽くなき食への探究心とでも言うのでしょうか……河豚の肝は美味しいと聞くと、一部のひとのこは、試してみたくなるそうです。
あ、あたしは、ならない……どんなに美味いと聞いても。
美味いとしても、感じられるのは一瞬だけだろう……?
恐らくは、然うだと思います……後に待っているのは、毒による酷い苦しみなので。
あたしは、食べない。
亜美さんも、食べないで欲しい。
安心して下さい、私には其処までの探究心はありませんから。
あ、あぁ、然うか……なら、良いんだ。
まことさんは、どうでしょう?
流石に、命に係わるような毒は食わないし、食いたいとも思わない。
……命に係わらなければ。
今は、食わない。
然うですか……良かったです。
……。
また、話が逸れてしまいましたね。
……怖い話だった。
怖かったですか?
……うん、少し。
然うですか……。
……亜美さんは、其の毒で何かしたことは。
河豚毒を使った何かしらの実験、でしょうか?
……然う、じっけん。
残念ながら、ないんです。
……良かった、してなくて。
機会があれば、
で、出来れば……しないで、欲しい。
……。
……命に、係わるようなことは。
ふふ……。
……亜美さん。
大丈夫ですよ、まことさん……私は、しませんから。
や、約束しよう。
……約束?
然う……約束。
……良いですよ。
あ、あぁ。
……あなたは、心配性なので。
……。
……ふふふ。
は、ははは……。
……今一度、話を元に戻しますね。
う、うん……なんだったか。
腹の中が黒いという言葉の語源は、お魚のお腹の中が黒いことから、です。
あ、あぁ、然うだった。
其れが、隊長の吐いた嘘だったのかい?
然うなります。
……また、しようもない嘘を。
ところが。
……うん?
隊長さんが生まれ育った場所では、其れは、真だったと。
……。
其のお魚は春を告げる魚と呼ばれていて、其の外見は其れはもう、美しいものだったそうです。
けれどお腹を捌いてみると、其の中は真っ黒で……其れが転じて、見かけは幾ら美しくとも、腹の中までは分からないという例えに使われるようになったのだとか。
……。
だから、隊長さんにとっては嘘ではなかったのかも知れません。
己が生まれ育った場所で言われていたことを、私に聞かせただけで。
……然うかな。
まぁ、先に私が言ったこともちゃん知っていましたけれど。
……つまり、揶揄われた。
私があまりにも真剣に聞くものだから……其の様が、面白かったと。
……隊長め。
恐らく、まことさんと私の年齢が近いと思ったのでしょう……其れで、たまに。
……揶揄われた。
緊張を解して呉れる意味も、あったのだと思うのですが……実際に、解れましたし。
否定は……出来ない。
ふふ……。
……くぅ。
……。
……ん。
隊長さんが持って来て下さったお鍋、美味しそうですね……。
……然う、だね。
海のお魚のお鍋も美味しいのだとか……。
……毒の魚は、要らないが。
いつか、食べてみましょうか。
……。
ふたりで。
……ふたりでなら、食べてみたい。
私のお勧めは……鱈です。
たら?
美味しいですよ、鱈。
亜美さんが憶えているなんて……余程、美味しかったんだろうな。
……。
あ。
……私でも、憶えていることはあります。
そ、然うだな……ごめん。
……。
ご、ごめんよ。
……鱈、食べてみたいですか?
う、うん、食べてみたい。
然うですか……ならば、いつか。
うん……いつか。
……そろそろ、良いでしょうか。
ん、そろそろ良いと思う。
……味は、お味噌。
具は、あたしが分けた野菜……。
……流石に、お肉は入っていませんよね。
入っていないと、思うが……。
……。
……山鳥だ。
……。
今朝か……或いは、昨日の夕方か。
……隊長さんは、本当に狩りが得意なのですね。
……。
……まことさんは、足の傷が治ってからですよ。
分かっている……よ。
……治っても、あまり張り合わないで下さいね。
あたしも、良い歳だし……そんな、大人げないことは。
……しないで下さい、お願いします。
うん……しない。
……ようにする、では、駄目ですからね。
……。
……駄目です。
はい……。
……。
……食べようか。
はい……食べましょう。
……どうぞ、熱いから気を付けて。
ありがとうございます……。
……。
……折角だから、隊長さんも一緒に。
学姐が、待っているようだから。
……。
……学姐は、朝が苦手なのかい。
どちらかと言うと、夜を好んでいました。
ですので、早朝から起きていることはほとんどありませんでしたね。
朝の方が明るくて良いが……然ういうことではないんだよな。
夜の方が、朝よりも集中出来るんです……まぁ、目にはあまり良くありませんが。
……。
……私も、学生の頃は夜を好んでいました。
医生になってから、変わったのかい?
……いえ、戦に駆り出されてからです。
……。
……此の村の朝は、早いですよね。
うん……此の村では、夜は寝るものだから。
……まことさんも、とても早起きで。
夜が明けたら、畑に行くから……。
……朝餉を食べずに行くと聞いた時は、なんて働き者なのかと。
……。
……まことさん?
畑に行く前に、診療所を訪ねたら……亜美さんは、まだ。
あぁ……あの時は驚きました。
起きているとばかり……。
……何処か、具合が悪いのかと思ったんです。
迷惑をかけてしまって……。
……迷惑ではなかったのですが、心配はしました。
心配してもらえて……嬉しかった。
……あの時は、確か。
朝餉、良かったら一緒に……と、思って。
……ふふ、然うでした。
考えてみれば、隊長と同じことをしているな……。
……隊長さんよりも、早かったですが。
……。
……懐かしいですね。
もう、十数年前になるんだな……。
……早いものです。
……。
……。
……取り敢えず、食べよう。
はい……食べましょう。
いただきます。
……いただきます。
……。
……。
……うん、美味いな。
はい、とても美味しいです……。
16日
薬? 当たり前だろう、大夫が言った通りに飲まないと治るものも治らないぞ。
苦手なのは分かるが、早く治したいのなら、ちゃんと飲んだ方が良い。然うだ、良薬口に苦し、だ。
……ふぅ。
あぁ、では大事にして呉れ。帰り道も、気を付けてな。
雪に足を取られて、滑ってしまわぬように。
喉、鼻、咳……いずれも、引き始めの症状。
早めに薬を飲んで養生すれば……とは言え、油断は出来ない。
うん……足取りは、大丈夫そうだな。ふらついているようだったら、ちび、お前に行ってもらおうと思っていたが。
足の傷がちゃんと治っていないから、今はお前が頼りなんだよ。あぁ、何かあったら、其の時はあたしが直ぐに行く。
今季の風邪は、今のところ、症状に大きな偏りは見られない……若干、鼻風邪が多いかしら。
さて、其れでは……ん、分かっている。
直ぐに朝飯の支度をするから、今暫し、待っていて呉れ。
今はまだ、酷い流行には至っていない……此のまま、春まで。
亜美さん。
……ん。
今、朝餉の支度をするよ。
お腹、空いたろう?
あぁ……お帰りになられましたか?
あぁ、今帰った。
大丈夫そうでしたか。
帰る足取りも確りとしていたし、あの分ならば大丈夫だろう。
……然うですか。
思うに、亜美さんの日頃の声掛けが功を奏しているのかも知れない。
……。
大体が、動けるうちに来て呉れている……其れはつまり、亜美さんの言葉をちゃんと聞いているからだ。
……風邪は引き始めが肝心なんです。
酷くなると、其れだけ治りが悪くなる……たかが鼻水と雖も、油断すべきではない。
……鼻が詰まって鼻呼吸が出来なくなってしまうと、喉を痛めてしまう恐れがあるので。
其れで、朝から此処に来ようと思ったらしい。
……先刻の患者さんですか?
うん。
あの方は、発熱症状が出ることはあまりないのですが……其の代わりなのでしょうか、喉を痛めやすいんです。
あぁ、あたしにも言っていた。
だから、鼻が詰まったら来て下さるようにと……以前から、お伝えしていたんです。
鼻が詰まるくらい、なんでもないと思っていたが、まさか其のせいで喉が痛くなるとは。
亜美さんに言われるまで、いや言われても、そんなわけがないと思い込んでいたみたいだ。
……今回、やっと来て下さって。
曰く、喉の痛みは、耐え難いものがあるらしい。
……喉の痛みは、わりと厄介ですからね。
酷いと、唾すら飲み込めなくなってしまうのだろう?
何度も然うなって、流石に懲りたと言っていたよ。
……扁桃腺が腫れてしまうと、辛いですから。
薬が苦手なのは分かるが、もう少し早く……。
……。
……。
ん……どうしましたか。
亜美さん。
はい……なんでしょう。
其の、大丈夫かい?
はい、大丈夫です……ちゃんと、起きています。
ん。
……こんなことは、初めてではありませんし。
あー……まぁ、然うなんだけど。
……其れよりも、朝餉にしませんか。
あ、あぁ、然うだね、然うしよう。
ちびにも、ごはんをあげないと……お腹を空かせていると、思いますので。
つい先刻、強請られたよ。
いつもより遅いから、待ちくたびれているのでしょう……まずは、ちびにごはんをあげて下さい。
あぁ、然うするよ。
……もう、出来そうなのですか。
ん、もう出来る。
……然う。
ちびにごはんをあげたら、あたし達も……。
……はぁ。
えと……済まない。
ん……どうして、謝るのですか。
其の……ゆうべは。
……お互い様、ですから。
……。
ただちょっと……躰が、気怠いだけで。
……今夜はゆっくりと休もう。
然うするつもりです……。
……ひとりの方が良いかい?
どうでしょう……其の時になってみないと、分かりません。
……。
……寒い夜はどうしても、温もりが欲しくなってしまうので。
冬は、寒くない夜がないから……。
……でもまぁ、其の時になったら言います。
うん……遠慮なく、言って欲しい。
……はい。
……。
……まことさん、足は傷みませんか。
あぁ、大丈夫だ……ゆうべも、亜美さんに薬を塗ってもらったし。
……治りかけてはいますが。
痛むようなことがあったら、直ぐに言うよ。
……古傷も。
うん、古傷も。
……。
亜美さん。
……はい、まことさん。
亜美さんはもう少し、ゆっくりしていて。
朝餉の支度が出来たら、改めて呼ぶよ。
……いえ、そろそろ私も動いて今日の支度をし始めないと
けど……。
……いつまでも、まことさんの着物を着ているわけにはいきませんし。
……。
ありがとうございます、まことさん……髪も、整えて呉れて。
……急拵えになってしまったけど。
ううん……十分です。
……だけど、寝癖が。
やっぱり、まだあります……?
……後ろに、少し。
どうにも、頑固なんですよね……けどまぁ、まだ朝餉前ですから。
……気に、ならない?
と言うより、もう慣れました……。
……あぁ。
朝の寝癖なんて、誰も気にしないですし……。
確かに……此の村で気にするのは、美奈ぐらいだ。
美奈子ちゃんは身だしなみに、とても気を遣っていますから……。
……今はもう、言われなくなったけど。
今の、美奈子ちゃんは……。
……。
……昔は、あなたも私も良く言われていましたよね。
あたしなんか笑われたよ、またちゃんと直していないと。
起きたら直ぐに結ってしまうから、寝癖なんてあってもなくても、どうでも良いというのに。
……前髪は、結えませんから。
寝癖と言っても、大したことないんだよ……少し、明後日の方向に跳ねているぐらいで。
目に入れば気にするんだけど、入らなければどうでも良い……要は邪魔にならなければ良いんだ。
私もまことさんと同じです……でも美奈子ちゃんにとっては、仮令少しであろうとも、気になるのでしょう。
畑に行って、仕事をして、帰って来るだけなのに……寝癖なんて、気にする筈がない。
……私は、患者さんと接しますが。
でも、医生としてすべきことをしているのならば、ほんの少しの寝癖ぐらい……。
……ひとのことして、駄目とのことです。
……。
……私は、たまに直してもらいました。
然ういえば、たまに直されていたね……半ば強制的に。
……亜美ちゃんは医生なのだからちゃんとしていないとだめじゃない、なんて、言われながら。
うん、言われてた……。
……後ろは、どうしても直し切れなくて。
分かるよ……。
……だから、結ってしまうのですが。
結っても、寝癖が直るわけではない……。
……然うなんですよね。
……。
直しながら、都に居た頃から然うだったのかと……根掘り葉掘り、聞かれて。
……都のことも、聞きたかったんだろうな。
然うなのでしょうね……私は兎に角、美奈子ちゃんをがっかりさせてばかりだったので。
けれど、寝癖と都は流石に関係ないと思うんだ……。
……どうやら、寝癖直しについて聞きたかったみたいなんです。
寝癖直し……なんとなく、聞いた覚えが。
……其の名の通り、寝癖を直す液体のことです。
あぁ、然うだった……いつだったか、美奈が欲しがっていたものだ。
……其の寝癖直しにも、流行りがあるそうで。
寝癖直しに、流行り……。
……そんなものにも、流行りがあるのかと。
水、だよな……使うとしても。
……はい、水です。
まぁ、直らないのだけど……ただ、濡れるだけで。
……頑固な寝癖は、洗髪しないと直らないものだと思っていました。
うん……洗えば、どんなに頑固な寝癖でも直るな。
ただ、乾かすのが面倒臭い……放っておけば、乾くと言っても。
……ですから、其処までする気にはなれず。
曰く、其処までしないと駄目なんだろう……。
……お洒落とは、奥が深いものです。
亜美さんは、美奈の話をちゃんと聞いていた……あたしは、途中から聞いてなかった。
……いい加減な相槌を打つと直ぐに気付かれますし、聞いていないと注意されるんです。
然う、然うなんだ……あたしは何度、言われたことか。
……言われていましたね。
あいつの話を最後まで聞くのは、あたしには至難の業だった……なんせ、さっぱり分からないんだから。
……其れこそ、一から十まで説明されても良く分からない。
あぁ……全く、其の通りだ。
……。
……でもね、亜美さん。
はい……。
……亜美さんに一目惚れをしてからは、気を遣うようになったんだ。
……。
少しでも、良く見られたかったから……。
……同じです。
……。
……。
……あの頃、あいつのように出来れば。
直して、呉れましたか……?
直し……たかった。
……。
寝癖なのだろうかと、思うことはあったんだ……だけど。
……。
直すなんて、とてもじゃないけれど、出来そうになかった……。
……今では、あなたが直して呉れます。
今では……誰にも、触らせたくない。
……。
髪を整えるのに、お湯を用意するよ。
……ありがとうございます。
ん……。
……あ。
ちびが、鳴いているな……。
……ごはんを早く、あげないと。
今、冷まして……。
……待てをしている間に、冷めませんか。
冷めるけど……待てをするかどうか。
……。
……少しくらいは、させるつもりでいるが。
私が行きましょう。
……いや、亜美さんは。
私に、任せて下さい。
……うん、分かった。
……。
其れでは、此れを。
……はい。
亜美さん、上着は……。
……まことさんの着物をまだ、着ていますから。
……。
では、行ってきますね。
……ん、頼む。
ちび……ちび。
……鳴き声が変わった。
ごめんなさい、遅くなってしまって……うん、ちゃんとあげるわ。
だけど、其の前に……今朝は、少しだけで良いから。然う……私の言いたいことが分かるのね。
……。
ちび……待て。
……。
……。
……大人しい。
もう少しだけ……。
……。
うん……良いわ。
……ちゃんと、待っていた。
ゆっくり食べてね……ちび。
……流石、亜美さん。
よいしょ……。
……。
……あぁ、つい出てしまう。
良いと思う。
……まことさん。
亜美さんのよいしょは……其の、可愛い。
……もう、何を言っているの。
はは……。
……。
亜美さん……怒ったのかい?
……此の躰は本当に体力がないなぁ、と。
ん……。
……。
春になったら……また一緒に、散歩しよう。
……冬でも、出来ることがあれば。
往診だけなく、雪掻きもしている……其れで、十分だよ。
……まことさんのように。
亜美さんは、亜美さんが思っている以上に、体力はあると思う。
……然うでしょうか。
もっと言えば、今朝の疲れは……往診や雪掻きとは、違う疲れだと思うから。
……。
違わない……か。
……都の医生で雪の中往診に行ったり、雪掻きをしている者はあまり居ないと思うの。
うん……?
……だから、彼らよりは。
なかなか、都には居ないのではないかな……。
……。
亜美さんほど、体力がある医生は。
……然う思う?
あぁ、思うよ……。
……。
亜美さん……。
……お腹が空きましたね。
ん。
……まことさんは、空いていませんか。
空いている……。
……あの子が来る前に、私達もごはんにしましょう。
うん……然うしよう。
……隊長さんは、いつ頃来るのでしょうね。
んー……また、昼過ぎではないかな。
朝は何かと忙しいみたいだから。
……然うですよね。
だけど、分からない。
……。
若しかしたら、昼前に来るかも知れない。
……今はどうでしょう。
今は、流石に早いと……。
……。
亜美さん……取り敢えず、早めに身支度を整えてもらっても良いかい。
……はい、直ぐに。
……。
……来そうですか。
来ないとは、言い切れない……此の時間なら、亜美さんは家に居ることが多いから。
……急いで、支度します。
……。
……まことさん。
流石に、早い……。
……あぁ。
まさか、朝餉を一緒になどと……言わないとは、限らないな。
……言いそうなのですね。
ごめんよ、亜美さん……。
……ううん、謝らないで。
……。
……。
……誘わなくても、向こうから勝手に来る。
然うみたいですね……。
……楽しいかい?
少し……。
……。
……ごめんなさい。
いや……構わない。
……。
隊長は昔から……いや、昔よりも気儘になっているな。
……似ています。
え……。
……学姐と。
15日
明日?
はい、如何でしょう。
勿論、あたしは構わないよ。
どうぞ、亜美さん。熱いから、気を付けて。
ありがとうございます、いただきます。
うん、召し上がれ。
其れで、迎えに行くのかい?
いえ、彼方から来て下さるそうです。
然うか、ならば待っていれば良いんだな。
迎えに行きたいですか?
行きたいとは思うけれど、今は此の足の傷を治すことが優先だ。
無理をして治りが悪くなってしまったら、子守りまで出来なくなってしまうかも知れない。
であるならば、大人しく待っているよ。家の中を、出来るだけ心地好くしてね。
……はい。
明日の亜美さんの予定はなんだい?
往診や薬を届ける予定はあるのかい?
明日の午後に二件ほど往診の予定が入っています。
其れ以外は、何事もなければ、診療所に居るつもりです。
然うか。
然う然う、雪掻きも少ししようと思っています。
今夜も降り止まないと思いますし、戸口の周りだけでもしておかないと。
あたしも、少しだけなら。
……。
本当に少しだけ……。
……無理は駄目ですからね。
うん、分かってる。
屋根は……今日も、隊長さんがして下さったんですよね。
物々交換に来たついでだからと……明日も、ついでにして呉れるらしい。
何かお礼をしないといけませんね……何が良いでしょうか。
大根を一本多めに……では、駄目かな。
お大根も良いのですが……何か足りていないものはないでしょうか。
足りていないもの?
お味噌やお塩、お茶の葉、其れから、薪に炭……他にも色々。
此の村で冬を過ごすのは初めてのことでしょうから、不慣れなこともあると思うのです。
分かった、明日聞いてみよう。
はい、宜しくお願いします。
亜美さんも手が空いていたら、話してみるかい?
私もですか?
いや、亜美さんは忙しいか。
隊長の相手をしている暇など、
出来るのならば、是非ともお話したいと思います。
一緒にお夕飯を頂いた日以来、お話する機会をなかなか持てずにいましたので。
雪下ろしやお肉のお礼も改めてしたいですし、良かったら、一緒にまたお茶を頂きたいと。
……お茶も?
はい、三人で……いえ、四人でも良いのですが。
……然うか。
まことさん?
……。
どうかしましたか?
ん、いや……実は隊長も、さ。
はい。
亜美さんとまた、少しでも良いから話がしたいと……然う、言っていて。
あぁ、然うなのですか。
……うん、然うなんだ。
其れはとても嬉しく思います。
今日も、今日こそとは思って来たみたいなのだけれど、あたししか居なかったから残念がっていた。
午前中ならば、居たのですが……。
居ないわけを話したら、あぁ、然うだったなんて言って、笑っていたけど……多分、学姐から聞いている筈なんだ。
ねぇ、まことさん。
……なんだい、亜美さん。
まことさんさえ良ければ、隊長さんとまた食事をしませんか。
……学姐は良いのかい?
学姐は……来るかどうか、分かりませんから。
屹度、来ると思うよ……亜美さんと、もっと話したいだろうし。
私と話す機会はあります……寧ろ、まことさんと話す機会がありません。
あたしと?
……。
亜美さん、どうした?
……どうやら、まことさんに興味を持っているみたいで。
あたしに?
……まことさんともっと、話してみたいと。
然うなんだ……其れは、驚いたな。
……驚くことなのですか?
いや、あたしなんかともっと話してみたいと思って呉れているなんて……思っていなくて。
……まことさんだから、話してみたいと。
大したことは、話せないけど……其れでも、良いのなら。
……宜しいですか。
あたしは、構わない……うん、構わないよ。
今なら、家に居るし……来て呉れるのならば、幾らでも。
幾らでも?
いや、学姐も忙しいだろうし……長くは話せないと思うけど。
……話そうと思えば、あのひとは。
亜美さん……?
……一応、伝えておきます。
あ、あぁ……うん、お願いします。
……別にお願いしなくても良いです。
ん、なんだい?
……お鍋、美味しいですね。
え。
……兎のお肉、ちびも喜んでいました。
あ、うん……然うだね、とても喜んでいた。
……。
亜美さん……?
……まことさんも、食べて下さい。
ん。
……お鍋。
あぁ……うん、然うだった。
……忘れていたのですか?
少し。
……自分で作ったのに。
いやぁ、ついうっかり。
……どんなうっかりなのですか?
ん……こんなうっかり、かな。
ふふ……なんですか、其れ。
ははは。
……ふふ。
ねぇ、亜美さん。
はい……まことさん。
あたしの足が治ったら……また、四人で夕飯でも食べようか。
……まことさんの足が治ったら、ですか。
あたしも、狩りがしたいと……そして、あたしが獲った獲物を振る舞いたいと。
……ん。
だ、駄目かな……。
……実は、張り合っています?
む……。
……然うなのですね?
うん……然うなんです。
……もぅ、まことさんったら。
なんでかな……昔の名残りかも知れない。
名残り?
……亜美さんが喜んでいるのが、なんとなく、悔しく思えて。
其れは……昔の名残りではないような。
……昔と変わっていないんだ。
……。
あたしを揶揄うような……そんな雰囲気も。
……言われてみれば、然うかも知れません。
憶えている……?
……。
……亜美さん?
あなたと話す時は、まるで子供を揶揄うような……そんな雰囲気を纏っていたと。
……。
勿論、いつもではないのですが……皆の前では、厳しい隊長さんでしたし。
……子供扱いされていたのは、薄々気付いていた。
薄々……ですか。
……あたしは、鈍かったからさ。
……。
隊長はあの頃と、ほとんど変わっていないんだ。
……あなたのことを、宜しく頼むと。
……。
隊長さんに然う言われた時……何処となく、子を心配している親のようにも見えたのです。
親……。
……だから私は、あなたの傍に居ようと。
あたしが、気になったからでは……。
……ふ。
あ、亜美さん……?
……本当のことを言うと。
た、隊長に言われたからであって……。
……あなたに、一目惚れをしたからです。
は……。
……と、言ったら。
え……えっ?
……驚きますか?
お、驚くなんて、そ、そんなものでは……え、えぇ。
……あなたの姿を一目見て。
き、気になり、始めた……?
……そして其れは、隊長さんに命じられる前のことです。
ん、んん……っ。
大丈夫ですか……?
い、いや……そ、然うだったのかと。
……まぁ、一目惚れは言い過ぎかも知れませんが。
……。
気になったことには、変わりありませんので……。
……あぁ、あたしはなんて勿体ないことを。
勿体ない……?
……変に、偏屈になっていなければ、亜美さんと。
其れは、難しかったのではないでしょうか……。
其れは、然うなんだけど……でも。
……若しかしたら、其のおかげで、命を繋げられたのかも知れません。
ん……どういうことだい?
……あの頃のあなたにとって、私は余計な存在だと思うのです。
そんなことは……。
……生き残る為には、背負うものがない方が良い。
……。
ひとにもよるのでしょうが……あなたはどちらかと言うと、身軽な方が良いと。
……生き残るつもりなんて。
なかったとしても……。
……。
……あなたにまた逢えるだなんて、正直、思っていませんでした。
うん……。
……屹度、あなたも。
あたしの場合は……記憶から、零れ落ちていたから。
……ふふ、私もです。
面目ない……。
……いえ、私こそ。
……。
でも……だからこそ、また巡り逢う機会を与えられたのかも知れません。
……誰に。
己に。
……己。
私は……神様を、信じてはいませんから。
……神様。
全ては、己が決めたこと……決めたからこそ、また、あなたに出逢う機会を得られた。
……。
……仮令、都から逃げたかっただけだとしても。
逃げることもまた、戦の手段のひとつだ……なんら、恥じることではない。
……。
生きる為にこそ、必要な手段なんだ……だから。
……食事中ですよ、まことさん。
あぁ……此れ以上は、しない。
……。
……隊長と、三人で話をしよう。
はい……喜んで。
……良かったら、学姐も。
伝えておきましょう……。
……うん、頼んだ。
まことさんも、お願いしますね……。
あぁ……しかと。
……。
……。
……お鍋、美味しいですね。
うん……美味しいな。
……其れにしても。
うん……?
……久しぶりですね、あの子を預かるのは。
あぁ……然うだね。
雪が本格的に降り始めてからは、なかなか機会がなくて。
赤子を雪空の下に連れ出すのは、あまり良くないものな。
其れでもたまに、外の様子を見せてやるそうですよ。
であるならば……たまになら、あたし達の家に来ることも良いかな。
はい……無理のない程度に、来て下されば。
……楽しみだ。
はい……とても。
……。
……雪が降り始めてからは。
うん……。
うさぎちゃんのお母さんだけなく、皆さんの行き来が減ってしまって。
女性達の明るい声が聞こえてくることもあまりなく……毎年のことではありますが、少々、淋しく思います。
雪掻きで会うことがあっても、ほぼ男衆で、女や子供に会うことはあまりないもんなぁ。
男性達の元気な声をお聞き出来るのは良いのですが、女性達の声も聞きたいと。
声だけでも、体調の変化を感じ取ることは出来ますし……特に此の時期は体調を崩しやすいから、些細な不調であっても出来れば見逃したくはないのです。
風邪も酷くなると大変だしね……高熱が続いてしまうと、あっという間に躰が弱ってしまって。
……風邪は万病のもと、とも言いますから。
男達から話を聞くことは出来なくはないけれど、矢っ張り、本人の様子を見ることが一番なんだろう?
其れは、勿論。
特に我慢強い方だと、家族にも隠そうとするので。
あぁ、女の方がどちらかと言うと隠そうとするみたいだな。
男でも我慢する者は居るが、大体、女に気付かれることが多くて。
男性の異変に気が付く女性は多いようですね……逆に、男性は一緒に居ても気が付かないことが多いと聞きます。
察する力が男にはあまりないと、誰かがそんなことを言っていた。
酷いと一から十まで言葉にしてやらないと伝わらないから、面倒だとも。
其れは、まぁ、ひとにもよりますが……実際、一から十まで説明しないと伝わらない方は女性にも居ますし。
と言うより、知らないこと、或いは不得手な分野だと、誰しもが然うなってしまいがちなのだと。
不得手だと、丁寧に説明されても分からないことなんてざらにあるもんなぁ。
あたしも亜美さんに一から十まで説明してもらうことが多くて。
そんなにありますか?
あるよ、いつも教えてもらってばかりだ。
いつも?
は、言い過ぎかも知れないけれど。
はい、言い過ぎだと思います。
医生のこと、病のこと、薬のこと……亜美さんに出逢うまで、知らないことばかりだった。
其れは……接する機会がないと、知ることは難しいかも知れません。
此度の病についても、一から十まで教えてもらっている。
……でも、全く知らないわけではありませんでしたよね。
あぁ……瘡毒に侵されているひとなら、何度も見たことがあるから。
……。
だけど、治療方法があるだなんて、そんなことは全く知らなかった。
どんなに養生しても、薬を飲んでも、其の病は治らないものだと思っていたんだ。
治療法が確立されたのは近年のことです……其れまでは、不治の病とされていました。
若しも此の村から瘡毒に侵された者が出たとしても、あたしは何も出来ないだろう。
いや、初めから何もしないと言った方が正しい。しようとしたところで結局、何も出来ないのだから。
……。
亜美さんが此の村に来て呉れなければ、あたしは一生知らぬまま、不治の病だと思っていただろう。
……一生。
あたしは、此の村から出ることなく、独りで朽ち果てるつもりだった。
然うなると、新しいことを知る機会なんて到底ないと思う。
……まことさん。
大丈夫……今はそんなこと、全く思っていないよ。
……然うだと、信じています。
亜美さんと、此れからも生きていく。
叶うのならば……還暦を過ぎた其の先まで、共に。
……屹度。
亜美さんも……屹度。
……はい。
……。
……ねぇ、まことさん。
なんだい……?
……後で、抱き締めても良いですか。
ん……。
……駄目ですか。
駄目なわけ、ないな……。
……では、また後で。
あぁ……また、後で。
……。
……良かったら、今直ぐにでも。
駄目です……今は、食事中ですから。