日記
2026年・1月
31日
話せば分かる、か。
……。
ま、分からないよな。
理解出来るほどの知性を持っていれば、初めからこんなことにはなっていない。
……ジュピター。
マーキュリー、終わったよ。
ええ、ありがとう。
マーキュリーも後方支援、ありがとう。
おかげで上手く立ち回れた。
あなたの判断も的確だったわ、おかげで動きやすかった。
ん。
……。
もう、残っていない?
反応は、見られないわね。
ん、そっか。
なら、仕舞いだ。
けれど「難」を逃れた、或いは、たまたま外に出ていた者共が戻って来る可能性はないわけではない。
そんな命を粗末にするようなことは、あたしとしてはお勧め出来ないな。
其のまま何処かに行って、静かに暮らすことを勧めたい。
私も同意見だわ。
じゃあ取り敢えず、然うなる前に姫だけでも帰還させよう。
ええ、然うしましょう。
姫は。
心、此処に在らず。
放心状態?
そんなところ。
然うか、まぁ仕方ないな。
けれど、思っていたよりは悪くない状態だわ。
あぁ、何よりだ。
手を付けたら、商品価値が下がると判断されたのかも知れない。
綺麗なままの方が、価値は高いんだっけ。
穢れがないというだけで価値がある、とされているらしいわ。
でも、其れは買う方である男の価値観だろう?
大変だな、買われる方も。勝手に、そんなものを押し付けられて。
其れが、然うでもないらしいのよね。
ん、然うなの?
らしいわよ。
ふぅん。
あなたは、私が
あたし以外、許さない。
……然うよね。
だけど、マーキュリーが……あたし以外のひとを
ないわ。
……マーキュリーは、あたしが
本人が望むのなら。
望まないよ。
望まないのなら……許さないわ。
ん、そっか。
良かった。
……乱暴なことは許せない。
うん、あたしもだ。
……其の感情を、他のひとには持たないのよね。
ん、なに?
若しかしたら、此の辺りでは珍しい種だと思われたのかも知れないわ。
珍しい?
珍しいと、更に価値が上がるの。
へぇ、然うなんだ。
でも、何が?
ひとのこ。
あぁ。
髪、肌、瞳の色……年齢や顔の良し悪しだけでなく、其れらでも価値は決まるみたいだから。
実際、青い星では希少な存在だろうなぁ。
銀の髪なんて、なかなか居ないだろう?
見たこともないでしょうね。
ましてや、月に住まう者なんて。
余程の身分でなければ、そんな機会すらないだろうし。
地域によっては、半ばお伽話のように扱われていたりもするんだろう?
重い罪を犯したことで青い星に堕とされた月の姫が、偶然通り掛かった青い星の王子と「恋」に落ちるけれど、最後には記憶を消されて姫は月に戻る。
王子は通り掛からなかったな、今回は。
そんな都合の良い話、現実には有り得ないもの。
有り得ないだろうが、可能性は無きにしも非ず、だ。
此処が王都に近ければ、或いは王の直轄地であれば、保護される可能性はあったと思うけれど。
然うなった場合も、要らぬ恩を受けることになるな。
要らぬ恩どころか、「恋」に落ちてしまうかも知れない。
物珍しさへの免疫は、まだ、持ち合わせていないだろうから。
然うなったら、厄介?
理に反する。
うん、厄介だな。
ともあれ、あの状態ならば代わりは必要ないでしょう。
此方に、とばっちりは。
真相が明らかになってからでないと、今の段階では分からない。
うーん、面倒だな。
全く、面倒だわ。
取り敢えず。
取り敢えず?
ひとりふたりくらいで、済んだか。
多分ね。
然うか、其れは何より。
酷いと数人に回されるからなぁ。
此の規模だと、其れでは済まないかも知れない。
其処までしてしまったら、最早商品にはならないだろう。
だから、其れ専用の奴隷にするのよ。
成程、むさ苦しい群れには其れも必要か。
実際、其れらしき者達が居たでしょう。
其れらしき……。
……女の集団。
あぁ、あれらが然うか。
一応、雷気で眠らせておいたけれど、其れで良かったかい?
ええ、彼女達も被害者でしょうから。
此の後のことは、あたし達は何もしてやれないけど。
其れは仕方ないわ。
ん、そっか。
中には赤子も居たでしょう。
あぁ、然ういや小さいのも居たな。
大きくなったら、盗賊にでもさせるつもりだったのかな。
奴隷として売られるのかも知れないわ、赤子も商品になるから。
寧ろ、其の可能性の方が高いわね。場合によっては、生まれた子を幾人か残して繁殖に回しても良い。
然うか、赤子も商品になるんだっけ。
成長している子供も、男女合わせて数人ほど居たわ。
赤子、ある程度成長した者、「男」或いは「女」として機能する者……様々な需要があるのでしょうね。
まさに、商品だな。
であるから、此処は繁殖場も兼ねていたのかも知れない。
はんしょくば?
女を幽閉して、子を産ませる。
そして、生まれた子を商品として売る。
あぁ、繁殖場か。
然う。
だけど、ずっとは産み続けられないだろう?
いつかは、限界が来る。
潰れたら、また新しい女を捕らえて来れば良い。
女なんて、何処にでも幾らでも居るでしょう。浚うには、困らないわ。
大人しく、
邪魔をする者が居れば、殺せば良いだけ。
女達を守る男達が居れば、状況次第では、皆殺しになるでしょう。
ほぼほぼ、殺されそうだな。
奴隷という商品になりそうになければ、其の存在に価値はないもの。
へたに生かしておいても、取り返しに来るかも知れないし。
知ってはいたけれど。
けれど?
ひとのこというのは、あたし達以上に欲塗れだな。
其の中でも強欲な者は始末に負えないわ。
ひとのこは何処までも堕ちる、か。
……ある意味。
うん?
……ひとのこの欲を思い知る機会にはなったのかも知れない。
とは言え、此処までする必要はなかったと思うよ。
ええ……なかったわ。
身を以って知ることは、確かに大事ではあるけれど。
こういうことをすれば、どうなるか……想像する力が、もう少しあれば。
力を付ける為にも、マーキュリーの講義はちゃんと聞くようにしないと駄目だな。
想像するにも、知識は不可欠だ。知識がない者には、想像など出来ない。
出来ることがあるとしたら……被害妄想か、責任転嫁か。なんにせよ、ろくでもない。
……あなたが真面目で良かったわ。
あたし?
……先生の講義、最後まで頑張っていたから。
全ては、あたしの為だ。
……あなたの?
然う、「君」を守り、「君」と生きていく為の。
其の為ならば、あたしは幾らでも頑張れる、頑張れた。
……。
ん……マーキュリー。
……姫にも然ういう者が居れば、自分の為に。
どうだろうな……あたしと姫は、全く違うから。
……。
勿論……「君」とも。
……歴代の中には、とても真面目で誠実な女王も居たと。
其の才が、発現して呉れれば良かったんだけど……儘ならないものだ。
……。
そろそろ、我に戻る頃かな。
……どうかしら、直ぐには難しいかも知れないわ。
送り返した後のことは、マーズに任せよう。
……私達にも、出来ることを求められる。
あたしは、なんだろう?
……夜伽?
んー、好きな甘味でも作ろうかな。
食べられるようになるまで、時間が……然程、要らないわね。
多分、要らないと思うよ。
帰ったら直ぐに、執り行われるだろうから。
……行方は分かったのかしら。
と言うより、戻ったんじゃないかなぁ。
使者も来ていることだし。
……然ういえば、来ていたわね。
珍しい、マーキュリーが忘れているなんて。
其れどころではなかったもの。
ヴィーナス、上手くやったかな。
やって呉れたと思うわ。
上面だけは、誰よりも良いからな。
其の特性を活かせるのだから、悪いことではない。
だけど、あたし達には鬱陶しい。
……帰ったら、絡まれそうな気はしているわ。
絡まれたとしても、放っておこう。
相手にすると余計に付け上がるから。
……はぁ。
疲れた?
……あなたは、平気そうね。
いや、疲れたよ。
早くマーキュリーと休みたいし、ごはんも食べたい。
……もう少し、我慢して。
ん、分かった。
……。
あたしよりもマーキュリーの方が、やらなければいけないことが多そうだ。
まずは、躰を診ないと。
外傷はあったのかい?
ええ、細かな傷が。
細かな傷……まぁ、其れくらいは付くか。
姫は幸い、商品価値の方を優先されたようだから。
傷ものになったら価値が下がって、期待通りの金を得られないもんな。
然ういうこと。
不幸中の幸いか。
此処に着くまで、思っていたほど時間が掛からなかったことも良かったわ。
うん、然うだね。
到着した時、今まさに、だったでしょう。
ん、然うだった。
意識はあったみたいだけれど、抵抗しているようには見えなかったな。
恐怖で躰が固まって、出来る状態ではなかったのでしょう。
……。
ジュピター?
此の薬は、強過ぎる。
ええ……同意するわ。
……。
……。
……ん、意識を失っている?
……。
どうだい?
……問題ない、恐らくは張り詰めていたものが切れたのだと推測する。
ふたり、離れていたのに。
あなたの雷気が守って呉れていたから。
マーキュリーの水気もね。
……。
早速、送り返すかい?
……ええ。
……。
……。
……素直ではあるんだけどな。
素直であることは、知識を吸収するには都合が良い。
だけど、吸収する為の知性がないと。
其れは……積み重ね。
積み重ね……か。
……あなたも素直だったわ。
……。
……早く、逃げ癖を治してもらわないと。
然うだな……。
……ジュピター。
頑張れ。
ふ……何よ、其れ。
其れしか、思い浮かばなかったんだ。
……まぁ、間違ってはいないけれど。
だろ……。
……離れて、ジュピター。
ん……。
……此れより、転送を開始する。
……。
十、九、八、
七、六、五、
四、三、二、
一。
……。
……。
……転送終了、異常はなし。
やれやれ、取り敢えず落着だな。
……調査は残っているけれど。
あたし達は、いつ?
……調査が終わってから。
明日?
……明後日、かしらね。
明後日か……其れならば、まず。
……寝床を決めましょう。
洞窟は遠慮したい。
……私も、遠慮するわ。
あとは、ごはんを。
……寝床も食事も、あなたに任せるわ。
ん、任せて。
……。
マーキュリー。
……ただの盗賊であれば、帰還出来たのに。
……。
……嘆いても仕方ないわね。
帰ったら、一緒に湯浴みしよう。
……は?
其れから、一緒に眠ろう。
……。
其れを、楽しみに。
……ふ、然うね。
ん。
……あなたの、怪我は。
掠り傷ばかりだ、問題ない。
毒は。
使われていないと思う、何処も異常は感じないから。
落ち着いたら、診せて。
分かった、お願いする。
うん……其れじゃあ、一度此処から出ましょうか。
ん、然うしよう。
……。
寝床を作るのに、手頃な場所があれば良いな。
……あなたなら、見つけられるわ。
30日
動けなくなって、ひとつの場所にじっとしているものだと思っていたが。
……当てが外れたわね。
考えてみれば、動くのは自分でなくても良いんだよな。
……考え得る中で、最悪に近い状況だわ。
考え得る中で、最も悪い状況は?
……言わなくても、分かるでしょう。
一応、確認しておこうと思って。
……代わりが必要になる事態。
幾つか考えられるけど。
……完全なる損壊。
矢っ張り、其れか。
……他にないでしょう、意地が悪いわね。
今のあたしは、少しだけ、性格が悪いんだ。
……気持ちは分かるけれど、今は堪えて。
やるべきことはやるさ、マーキュリーと帰りたいからね。
……其の中に、姫は入っているのよね。
ふたりで、とは言っていないだろう?
……言ってはいないけど。
わざわざ言わなくても良いかな、と。
……言う必要がないというわけね。
マーキュリーなら、言わなくても分かっていると思うから。
言うだけ、野暮かと思ってさ。
……性格が悪い。
今だけだ、だから嫌いにならないで欲しい。
……ならないわよ。
ん、良かった。
……気持ちは分かるもの。
其れでどうだい、マーキュリー。
少しは良い方向に転がって呉れそうかい?
……どう考えても、好転しようがない。
だよなぁ、無理だよな。見渡す限り、緑しかないし。
獣の鳴き声は時折、聞こえてくるけれど、ひとのこの声は全く聞こえてこない。
当然、気配も感じない……ん、あの花、薄紅色できれいだな。帰りに採取出来ないかな。
……。
ほんの少しだけでも感じることが出来れば、捕らえることが出来るのだけれど……関係があるとは、言えないからなぁ。
何も知らないであろう無辜の民を、うっかり巻き込んでしまうわけにはいかない。
……ジュピター。
ん、なんだい。
其方ではないわ。
何方?
足跡は……向こうに。
向こうか……少し、方角がずれたな。
……。
向こうには、何がある?
……人里という意味では、矢張り何もない。
人里以外のものだと。
初めに言ったけれど、盗賊の拠点ぐらいならあるかも知れないわ。此の辺りは洞窟が点在している地域だから。
もっと言えば、身を潜めるにはうってつけの地域とも言える。なんせ、丁度良い洞窟が幾つもあるんだもの。
若しかしたら、中で繋がっている可能性もある。拠点にしているのならば、其れも熟知していることでしょう。
つまり、変わらずか。
……変わりようがないわね。
以前に、此の辺りを調査したことは。
……先々代の頃に。
先々代……じゃあ、大分変わっているかな。
……少なくとも、其の頃には盗賊の拠点は見当たらなかった。
ひとのこの数も殖えているだろうしなぁ。
……盗賊に身を堕とす事由なんて、幾つでもあるわ。
拠点に近付けば、見張りも居るだろう。
……居ないと考えるのは、現実的ではないわね。
あたし達の動きは。
まだ離れているから……けれど、分からないわ。
んー……。
……はぁ。
どう考えても、良くならないな。
……あれこれ考えたところで、良くなる要素は見当たらない。
拾ったのが善人という可能性は。
……ないとは言えない、けれど。
場所が、悪いか……なんせ、盗賊の巣窟だもんな。
……其処までは言っていない。
ん、そっか。
……。
表情が厳しい。
……討伐隊に拾われていたら、其れは其れで問題が起こる。
なんせ、拾ったのは月の姫だもんな。
……要らぬ恩を受けることになる。
全く、余計なことをして呉れたもんだ。
……。
……マーキュリー、何を考えているんだい。
姫の行方のことを。
……あたしが若しも、夜伽を受け入れていれば。
言ったところで、過去は変えられない。
変える気もないけどさ。
……あなたというひとは。
我儘ばかり、聞いてらんないよ。
……其の結果が、緑の部屋の有様に繋がったのだけれど。
あれは、許さない。
……素直に謝ったら。
へたに手伝ってもらうと面倒なことになるだろうから、鍛練をみっちりとさせることにする。
……泣き言を言っても。
聞かない、聞くわけがない。
マーズにも一言、断っておく。
……まぁ、無難なところね。
だろう。
……真顔。
連れ帰ったら早速、鍛練計画を立てようと思う。
其の際は、助言しても良いかしら。
ん、勿論。
今、言おうと思っていたんだ。
私も帰ったら、此れからの講義計画を立てようと思うの。
あたしも一言二言、言っても良いかい?
一言二言と言わず、もっと言って呉れても良いわ。
ならば、言おう。
存分に言って。
ん。
……。
取り敢えず、此のまま追うしかないか。
ええ……今は、此のまま追うしかないわ。
移動速度は。
相変わらず、速いまま……どう足掻いても、徒歩では追いつけない。
馬は足が速いからな、おまけに持久力もなかなかだ。
……本当に厄介だわ。
……。
……ジュピター。
放っておけば……穢されて、売り飛ばされるか。
……或いはもう、穢されているかも知れない。
可能性は、零ではないな。
其れも、ひとりやふたりではないだろう。
……時間を掛ければ掛けるほど、其の身は穢れてゆくでしょう。
後悔先に立たず、だな。
状況を考えれば、悠長なことは言ってられない。
言ってられないけれど、移動手段は今の所、己の足しかない。
……馬があれば。
こんな山の中ではなぁ……良くて、突っ込んでくるあれ。
……猪。
其れか、でかいあれ。
……熊。
或いは、跳ねるあれ。
……鹿。
鹿、鹿なら乗れるかも知れない。
……乗れたとしても、従わせるのはかなり難しい。
となると……動きは遅いが、肉が美味いあれ。
牛……は、流石に遅すぎる。
其れに、こんな山の中では……あぁ、野牛が居るわね。
野牛か、あれならば其れなりの速さで走って呉れるんじゃないか。
いつか見た野牛は、群れで勢い良く走っていたし。
種にもよるけれど。
居ないかな、野牛。
居たとしても……ゆっくりな牛でなければ、私には乗りこなせない。
牛車、だったか。
あれはゆっくりだったなぁ。
……馬が調達出来れば。
此の地域に野生の馬は?
居ないし……居たところで、どのみち乗りこなせない。
となれば……奪う、もとい、借りるしかないな。
……都合良く、通り掛かって呉れれば良いのだけれど。
仲間が通り掛かるなんてことは。
……無きにしも非ず。
であれば、狙っても良いな。
……あなたに任せるわ。
うん。
……出来れば、無用な争いは避けたい。
礫を頭にぶつけて、馬から落とす。
……ひとりなら、有効だけど。
ふたりでも有効だ。
……期待しているわ。
うん、任せて。
……。
野営か何かで、動きが止まって呉れれば良いんだけどな。
然うすれば、距離を詰めることが出来るから。
……拠点が遠ければ、其れも考えられる。
拠点が近ければ、わざわざ野営なんてしないか。
さっさと帰りたいもんな。売り飛ばす品を持っていれば、余計に。
……あなたなら、然う考えるでしょうね。
盗賊は、考えないかな。
……頭目が、あなたと同じような考えの持ち主だったら。
盗賊と同じなのは嫌だなぁ。
……此の際、拠点でも野営でも、止まって呉れるのならば何でも良いわ。
ん、確かに。
……向こうが動いている限り、追いつくことは限りなく難しい。
取り敢えず、ひたすら足を使って進もう。今は、其れしかない。
あ、でも、日が暮れたらどうしようか。山の夜道を行くのは危険だけれど。
……行くしかないわね。
はぁ……出来れば、何処かで休みたかった。
……お腹も減るものね。
然うなんだ……更にやる気がなくなるよ。
……はぁ。
ん、ごめん。
……然うじゃなくて。
うん?
……どうして、こんな場所に。
人里離れた山の中なんて、調査でもなかなか来ないよね。
調査場所に選ばないことはないけれど……月の姫が来るには、相応しくないわ。
あんなひらひらの衣では動き難いだろうなぁ。
動きやすい衣であっても、躰が付いていかない。
其れは、何処の場所に降り立っても然うだ。
酸素濃度、重力、気圧、気温、におい……その他諸々が、月とは違い過ぎる。
……酸素濃度と重力については、限りなく近い環境にしてはいるけれど。
けれど、全く同じではない。となると、勝手が違ってくる。
特に月の姫は軽重力、軽濃度の場所で暮らしているから、直ぐに音を上げてしまうだろう。
……環境の順応鍛練は。
今の姫の体力では無理だ、出来やしない。
まぁ、しようとしても、逃げ出すかも知れないが。
しておけば……其れでも、結果は変わらないわね。
変わらないな、青い星の環境は月の揺り籠に暮らす姫にはどうにも過酷すぎる。
……どのみち、姫がひとりで来るような場所ではないということね。
山の中でなくてもね。
……。
マーキュリー、大丈夫か。
平気よ……問題ないわ。
躰を合わせている暇がなかったからな……あまりきついようだったら、あたしの背中に。
あなたにはあらゆる事態に備えて、対応出来る態勢で居て欲しい。
……。
其の為に……私が背中に居ては、お荷物でしかないわ。
そんなことは……ないけど。
いざとなったら、放り捨てて呉れても構わないのだけれど……其れでは、初動に遅れが出てしまうから。
……。
一瞬が命取り。
然うでしょう?
……どうにもならなかったら、言って。
ええ……どうにもならなかったらね。
……。
……あなたは、平気そうね。
あたしは、まぁ……。
……矢っ張り、あなたは頼りになるわ。
見直した?
……見直すも何も、初めから頼りにしていたもの。
じゃあ……惚れ直した?
……ええ、惚れ直したわ。
やった。
……全く。
……。
……ジュピター?
ずっと思っていたのだけど。
……何。
此処は、聊か酸素が薄い。
……山地だから。
あぁ、然うか。
……其れもまた、躰が潰れる要因のひとつ。
ねぇ、マーキュリー。
……なに、ジュピター。
座標は何故、此処だったのだろう。
……。
誰が合わせたんだろうか。
……或いは、合わせずに飛び込んだか。
最初から、此の座標に設定されていたということ?
……考えられないけれど。
となると矢っ張り、誰かが合わせたと考えるのが妥当か。
……誰が作動させたのかも、まだ分からない。
思ったんだけど、作動すれば誰かしらは気が付くだろう?
……気が付いた時には、飛んでいたから。
水星の民の誰かが居たのなら、止められた筈だ。
……たまたま、居なかったのでしょう。
そんなこと、
有り得ないわ。
……。
……故に、裏切りも十分に考えられる。
其の場合、マーキュリーは……。
……罰せられるでしょうね。
そんなことは、させない。
……あなたが、幾ら然う思って呉れても。
させない。
……。
……。
今の状況を考えると……裏切りの可能性は、零ではないわ。
うん……。
……けれど、手引きした者が指示を出したとすれば。
ん……。
……水星の民に、扉の作動の指示を出せる者。
マーキュリー以外だと……ヴィーナス。
……けれど、此度はヴィーナスだとは思えない。
……。
逃げ道を手引きしたところまでは、考えられる………だけれど、姫を青い星の山中に放り投げる……其処まで、するかしら。
……しない、か。
何も支度なしに放り投げれば、命に係わる……。
……。
……何の為に、こんなことを。
分からない……分かりたくない。
……。
……。
……ジュピター。
なんだい……マーキュリー。
……動きが止まったら、一旦、月に戻りましょう。
え、戻るのかい……?
馬を調達出来なければ……月から飛んだ方が、手っ取り早い。
でも、座標は。
だから、動きが止まってから戻るの。
あぁ、然うか。
……月からも、追えれば良いのだけれど。
遠いな……月からでは。
……改良出来れば、月からでも。
マーキュリーなら、出来そうだ。
……しても、良いのなら。
だけど、其れを埋め込むとなると……また、逃げるな。
……幼躰の頃だったら、容易に出来たのに。
今も、幼躰だけどね……。
……ひとのこでいう、赤子の頃。
あぁ、其れなら……。
……。
ん、どうした。
……止まるかも知れない。
え、本当か。
……速度が、落ちてきている。
然うか……其のまま、止まって呉れれば。
……。
止まったとして……一時か、其れとも。
……進みながら、様子を見ましょう。
うん、然うしよう。
……。
……。
……時間が掛かれば掛かるほど、其の身は。
其れはもう、どうしようもない。
……。
……記憶と共に、銀水晶に浄化されるだろう。
心が、壊れていたら……。
……其の時は、どうだろうな。
……。
まぁ……女王が、お決めになるだろう。
……然うね。
29日
……はぁ。
ジュピター……。
……予感なんて、当たらなくても良かったんだけどな。
持ち直すことは……。
……此れくらいならば問題ない、大丈夫だ。
私に……出来ることが、あれば。
……うん、お願いしたい。
大したことは、出来ないと思うけれど……。
……そんなことは、ないよ。
ん……。
……マーキュリーだからこそ、出来ることがある。
……。
と言うより……マーキュリーでないと、此れは直せない。
……落ち着いたら、直ぐに直すわ。
うん……お願い。
……。
……此処まで、踏み付けていくとはね。
何故……どうして、こんなことを。
……もう、黒が滲んでいるのかも知れない。
そんなこと……あっては、ならないわ。
……でなければ、こんなことは出来ないと思うよ。
……。
命を、踏み付けるだなんて……銀水晶を継ぐ者として、決してしてはいけない。
……ごめんなさい、ジュピター。
ん、どうしてマーキュリーが謝るんだい……?
私が……私が、厳しく接していれば。
マーキュリーは、知識を与える者だ……だから、謝る必要はないよ。
……けれど、知識を通して教えることは出来た。
だけど、聞く気がなければ……どんな言葉も、意味を成さない。
……。
マーズには、言えないな……こんなことを仕出かしたなんて知ったら、より一層厳しくなってしまうだろうから。
……責任を感じるかも知れない。
マーズが……?
道徳、或いは、倫理を伝えるのは……彼女の、務めだから。
マーズが、責任を感じる……あぁ、其れは其れで見てみたいかも知れないなぁ。
……本当に見てみたいの。
少しだけ、見てみたいけど……矢っ張り、良いや。
……遅かれ早かれ、此の事態はマーズの耳に入る。
もう、入っているかも知れないよ……。
……。
マーズは多分、緑の部屋の有様については責任は感じないだろう……マーズが責任を感じるとするのならば。
……プリンセスの行いについて。
緑を踏み潰して、命を散らすこと……其れは理に反することだと、穢れになることなのだと、マーズはずっと伝えてきたと思うんだ。
けれど、伝わっていなかった……全くと言って良いほどに。いや、若しかしたら、緑は命だと思っていないのかも知れないな。
……マーズが、伝えないわけない。
だから、マーズが悪いわけではない……けれど、彼女は然うは思わないだろう。
……ジュピター、此の子は。
どれ……。
……。
……うん。
どう……?
此の子はまだ、大丈夫そうだ……。
……良かった。
だけど……暫くの間、あたしの部屋で保護してあげないと。
……。
此の子だけじゃない……他の子も。
……良かったら。
ん……?
……私の部屋も、使って。
良いのかい?
……あなたの部屋だけでは、足りないと思うの。
床に置けば……。
……其れでは、あまりにも可哀想だわ。
……。
踏み付けられたのに……其れなのに、床に置かれるだなんて。
……あたしが看られない時は、マーキュリーに看てもらうことになるかも知れない。
……。
……其れでも。
構わない。
……。
やらせて……ジュピター。
うん……頼んだ、マーキュリー。
……出来る限りのことはする。
はは……。
……ジュピター?
良かったな……。
……。
マーキュリーも、居て呉れる……だから屹度、元気になれるよ。
……若しも。
マーキュリー。
……ん。
其の先は、言わなくて良い……皆が、聞いているから。
……。
……手引きをした者は。
……。
此処まで、考えていたんだろうか……。
分からないわ……けれど、此処までは考えていなかったと思いたい。
……あぁ。
あ……。
……此の子は、もう。
……。
ごめん……本当に、ごめんよ。
ジュピター……。
……ねぇ、マーキュリー。
なに……。
……あたしは、少しの間、許せそうにないかも知れない。
……。
どうして、こんなことが出来る……緑が……花が好きだと、言っていたじゃないか。
あれは、嘘だったのか……其れとも、此れもあたしの気を引く為なのか。
……花が好きだという言葉は、偽りではないと。
然う、思いたい……けれど、今はもう思えない。
……
緑が、花が、何をしたというんだ……ただ、其処に在っただけなのに、どうして。
……笑っていたの。
……。
あなたと花を見ている時……いつだって、笑っていた。
……だからと言って、花が好きだとは限らない。
……。
あぁ、だめだな……今は、信じられなくなっている。
……無理もないわ。
務めは、果たすよ……マーキュリーと、一緒に居たいから。
……。
此れまでにも……こんなこと、あったのかな。
緑の部屋が、荒らされて……こんな風に、踏み潰されたことは。
……長い時の中では、あったかも知れない。
で、あるならば……次のジュピターに、引き継ぐまでに。
……時間なら、十分にあるわ。
あれば、良いな……。
……私と、力を合わせれば。
……。
屹度……いえ、必ず。
うん、マーキュリー……。
……ん。
……。
……。
……ごめん、マーキュリー。
何が……。
もう、捜す気にはなれない。
……あなたは一度、自分の部屋に。
でも、マーズのお説教は嫌なんだ……。
……理由は、私から。
プリンセスよりも、緑を優先するだなんて……決して、許しては呉れないだろう。
……。
全く……此処を踏み荒らして、何処へ行ったんだか。
……あなたに合わせる顔が、ないのかも知れないわ。
……。
若しかしたら、後悔しているかも知れない……。
……後悔先に立たず、か。
……。
だけど……余程の愚か者ではない限り、分かるだろう。
……余程、なのよ。
……。
ねぇ、ジュピター……。
……なんだい、マーキュリー。
私も……あなたほどでは、ないかも知れないけれど。
……怒って、呉れている?
水気が、ざわついている……今は、抑えているけれど。
……ありがとう。
……。
さて……捜しに行かないとな。
……行けるの。
行くさ……其れもまた、守護神の務めのひとつなのだから。
……此の子達は。
一旦、此処に置いていく……。
……部屋に。
ほんの少しだけれど、処置はしたから。
……。
だから、大丈夫だ……此の子達は屹度、あたし達が帰って来るまで、待っていて呉れる。
……水気よ。
マーキュリー……。
……此の子達に、どうか水の加護を。
……。
……ごめんなさい、こんなことしか出来なくて。
心なしか。
……え。
元気になったような気がする……。
……そんなこと。
あるよ。
……。
ほら、見て……葉が、きらきらしている。
其れは……水に、濡れたから。
……此れは、命のきらきらだ。
命の……?
然う……命の。
……。
マーキュリー……他に、プリンセスが隠れそうな場所は。
……まずは、あなたの部屋。
あぁ、然うだった……そんなこと、言っていたね。
……其れから。
其れから……?
……ヴィーナスの。
ヴィーナス……だとしたら、あたし達は入り辛いな。
……けれど、マーズなら入れる。
……。
もう、捜しているかも知れないけど……。
……もう、なんでも良いから。
……。
さっさと見つかって欲しいな……然うすれば。
……。
……マーズから、か?
ええ……其のようね。
……話していたら、何とやらだ。
此方、マーキュリー……プリンセスは未(いま)だ、見つからず。
今は、ジュピターと合流して……え。
……見つかったか。
ごめんなさい、もう一度言ってもらっても良いかしら。
違うか……まぁ、然うだよな。
そんなわけ……本当に形跡があると言うの。
……?
けれど、あれはひとりでは反応しない……水星の民が居なければ、作動しないように造られているわ。
ええ、誤作動も考えられない。少しでも異常が見られれば、直ぐに私に報告が入る筈。
……扉?
少し、良いかしら……ジュピター。
なんだい。
扉に。
分かった。
……あなたも知っての通り、其の報告内容は私からあなたに、直ぐ様伝えられる。
あなたに伝わっていないということは……其れ即ち、異常が見られなかったからよ。
……はぁ。
其れに、見張りも置いていた筈でしょう?
交代時にだって、抜かりがないよう厳重に……。
……此度のかくれんぼは、随分と手を焼かせて呉れる。
使者を迎えることで、一瞬の綻びが生じた可能性……とは言え、矢張りひとりでは……然う、取り敢えず、状況は分かったわ。
私達も直ぐに其方へ向かう……ええ、場合によっては青い星に。私とジュピターとふたりで……其の方が、動きやすいから。
大勢だと、かえって見つけられない恐れがある……プリンセスは、曰く、逃げる才があるようだから。
……帰還は、今日中には無理そうだな。
其の際、許可が欲しいのだけれど……然う、躰内に埋め込まれているあれの許可を。
其れがあれば、青い星での足跡を容易に追うことが出来る。
……最初から其れを使っていれば、と言っても栓無きことだ。
寧ろ、あれがなければ……捜し出すことは、難しいと判断する。だから、今直ぐでなくても良いわ。
私達が月を発つまでに……いえ、青い星に降り立った後でも。兎に角、許可を……此れは、緊急事態なのだから。
……そんなに嫌だったのか、たかが持て成しだろう。
降り立ったところで、身動きもろくに取れないであろうことは分かっている。環境の順応鍛練をしていない躰では、簡単に押し潰されてしまうから。
直ぐに壊れることはないとしても……プリンセスの躰には、相当の負荷が掛かる。時間が掛かれば掛かるほど、其の躰は壊れていく。
……此の期に及んで。
代わりは、居る……けれど、其れはあなたとしても避けたいでしょう。
ええ、私も出来れば避けたいわ……勿論、ジュピターも然う考えている。
……無用なとばっちりを受けるのはごめんだ。
ところで、ヴィーナスは……使者の持て成しを? 然う、居るのね……いえ、なんでもないわ。
ちょっとした可能性を考えていただ……ちょっと待って。
……まだ、何か。
こんな時に、クイーンの姿が見えないって……一体、どうなっているのよ。
……母子揃って、かくれんぼか。
分かった……私達は引き続き、プリンセスの捜索を。
マーズは、クイーンの行方を……ええ、大変だとは思うけれど。
どうにか、あれの使用許可を……え、ヴィーナスの権限で?
……あいつの?
然う、分かったわ……其れならば、存分に使わせてもらう。
あれが使えれば……早ければ、明日にでも帰還出来るかも知れない。
……今日中に、戻って来られたら良い。
では、一旦切……切れたわね。
マーキュリー。
大まかな状況は、聞いていた通り。
最悪だ。
あの子達には……悪いけれど。
大丈夫だ、マーキュリーの加護があるから。
……。
勿論、あたしの加護も。
ジュピター……。
あたし無しで青い星に行くのは駄目だよ、マーキュリー。
……ん、分かっているわ。
なら、良し。
……あなたが頼りなの。
マーキュリーも、ね。
……。
あたしでは、あれは使えない。
だから、ふたりで力を合わせないと。
然うね……あなたの言う通りだわ、ジュピター。
うん。
……。
躰は、大丈夫か。
大丈夫……鍛練は、怠っていないから。
うん、良かった。
あなたは……聞くだけ、無駄ね。
応、任せろ。
……。
……。
……あなたの見立て、外れたわね。
大外れだ……。
……少し、感心しているでしょう。
此れだけの行動力があれば……あとは、やる気だけだ。
……其れが難しいのよ。
違いない……。
……。
……ところで、外交は大丈夫かい?
ヴィーナスが、上手くやって呉れるでしょうから。
……こういう時の、ヴィーナスだな。
……。
……。
……誰が、扉を。
其れは……此れが、終わってからだ。
……ええ、分かっているわ。
だけど、気になる……。
……水星の民でないとすると。
裏切り……。
……。
……可能性は、零ではないだろう。
考えたくは、ないけれどね……。
……マーキュリーでも、そんなことがあるんだな。
勿論、あるわよ……。
……良い長だ。
あなたほどでは、ないわ……。
……ん、火星の民か。
……。
流石に、ばたばたしているみたいだな……と。
ジュピター。
あぁ……行こう。
……。
ジュピター、及び、マーキュリー、火急の用にて、此れより青い星へ発つ。
水星の民、速やかに位置に着け、火星の民、手短に現状を説明せよ。
28日
マーキュリー。
……ジュピター。
プリンセスは。
……残念ながら、此方には居なかったわ。
然うか……畑にも居ないとなると、後は何処だろう。
……流石に、同じ場所には隠れないわね。
そこはちゃんと考えているみたいだ。
……。
他に、プリンセスが隠れそうな場所は……うーん。
……。
こうしている間に、見つかって呉れれば良いんだけどなぁ……少数とは言え、民達も動かしているし。
……思えば。
ん?
……プリンセスはかくれんぼが好きだった。
……。
……久しく、していないから。
忘れていたけど……然ういえば、然うだったね。
……いつだって、あなたが見つけ役なの。
隠れる方が好きだからと、言っていたけど。
……単に、あなたに見つけて欲しかっただけ。
あの時の方がまだ、躰を動かしていたなぁ。
此処最近は本当に怠け癖が酷い。
……。
かくれんぼと言えば、たまにマーキュリーも巻き込まれていたっけ。
……主にあなたが私を巻き込んで呉れたの。
うん。
……私はやりたくなかったのに。
渋々、付き合って呉れたんだ。
……マーズもね。
マーズが見つけ役だと、容赦なくてさ。
……たまに泣かしていたわ。
顔が怖いんだよ。
……其れだけ、真剣なのよ。
……。
……ジュピター。
あれはあれで楽しかったのかな、と。
……楽しかったから、何度も強請られたの。
いや、あたしが。
……。
マーキュリーが一緒だと、子供の頃を思い出して、より楽しかった。
マーキュリーは昔から隠れるのが上手で
そんなことより。
あ、うん。
……部屋に戻って、朝方までは寝台の中に居ることをマーズが確認している。
朝の身支度をする時には居なかったんだろう?
……然うらしいわ。
マーズの一瞬の隙を突いて逃げ出すとは、流石に思わなんだ。
……再び逃げ出す可能性は、零ではなかった。
ん、然うなのかい?
……何事に於いても、可能性が零になることは有り得ないわ。
部屋の中にはマーズ、外には火星の民。
抜け出すことは、限りなく不可能に近い。
つまり、可能性は零ではない。
あぁ、然うか。
……若しかしたら、裏で手引きしている者が居るのかも知れない。
手引きしている者が居るとすれば。
……思い当たる者は、ひとりしか居ない。
うん、あたしもだ。
……一体、何を考えているの。
分からないな……そいつに聞いてみないと。
……はぁ。
ところでマーキュリー、汚れていないかな。
……畑を捜索して、汚れないわけがない。
となると、着替えなきゃ駄目か……折角整えたのに、手間だなぁ。
……仕方ないから、手伝ってあげるわ。
ありがとう。
……。
マーキュリー。
……プリンセスは。
うん。
……今日の持て成しだけが、嫌なわけではないのかも知れない。
他に、理由があると?
……例えば、己が置かれた境遇への不満。
境遇って、どんな不満があるというんだ。
月宮で好きなように振る舞って、あたしの甘味を食べて、鍛練も勉強も嫌なことからは逃げ出して、けれどクイーンには何も言われない。
マーズからはきつく言われているようだけれど、せいぜい、其れくらいだろう? ヴィーナスも堅いことは、一切、何も言わないし。
……簡潔に言えば、己の思う通りにならないこと。
思う通り……此れ以上、何を望むと。
……あなた。
……。
……誰かを恋慕うことは、矢っ張り厄介なものね。
プリンセスはあたし以上だ。
……其れは、どうかしら。
あたしは逃げなかった。
あなたにはあなたのやり方があったように……逃げて気を引く、其れがプリンセスのやり方なのでしょう。
……逃げるが勝ち、とは言うけど。
此の場合、勝者は居ないわ……。
……ん。
あなたが、此れで……意のままになるようだったら。
なるわけない……使命だけで、十分だ。
……であるならば、不毛でしかない。
強いて言えば……マーズの隙を見事に突いたプリンセスは勝者であると、言えなくもないが。
あなた、少し感心しているでしょう……?
なんせ、あのマーズの隙を突いたんだ……若しかしたら、逃げる才があるのかも知れない。
……逃げたところで、逃げ切れなければ意味がない。
此度は、マーズが見つけるかも知れないな。
……だと、良いけれど。
青い星の使者を持て成すまで、あとどれくらいだ?
……あと、半刻。
半刻か……支度の時間を考えると、もう間に合わないな。
……ヴィーナスに時間を稼いでもらう。
いっそのこと、持て成すのはあいつで良いんじゃないか。
持て成しは、あいつの得意分野だろう?
……今回ばかりは、然うはいかない。
ん。
持て成すのは、ただの使者じゃない……青い星の王族に連なる者なの。
とは言え、傍系だろう?
直系でなければ、プリンセスでなくても。
……クイーンの面目を潰して良いのなら、出来なくもない。
……。
今回の持て成しは、クイーンが考えたこと……あなたにも知らせてある筈だけれど。
然うだった……な。
……王族に連なる者でなければ、ヴィーナスでも事足りた。
一体、何をお考えなのか……不浄な者であるあたしには、皆目、見当も付かない。
……本当に?
……。
本当は、見当くらいは付いているのでしょう。
……おも
口にはしないで良い。
……そもそも、此度は何をしに来るんだったか。
歓談……かしら。
急に言い出……決まったのだろう?
……とても唐突だったわ。
であるならば……向こうも傍系を出すのが精一杯か。
いえ……クイーンの願いならば、どんなに急であろうとも、青い星の王は己と直接連なる者を出さなければならない。
其れは不満の種にしかならないと思うが……特に今回の場合は。
……だから今回は、傍系でも構わないと。
そして、プリンセスに持て成しをしろと。
曰く……相当、動揺していた。
其れは、然うだろう。
なんせ、其れだけのものをプリンセスは未だに持ち合わせてはいないのだから。
だからと言って、逃げ出して良い理由にはならない。
決まってしまった以上、やり遂げるしかないの。
……まぁ、然うだね。
次期クイーンである、プリンセスとして……。
……其の為の、勉強と鍛練。
せめて、ある程度の作法だけでも身に付けていれば……逃げ出すほどでは、なかったのかも知れない。
……其れは、どうだろうな。
……。
どうにも内に籠る性質があるように見える。
言い替えれば、慣れている者達の前でしか明るく振る舞えない。
……だからこその、礼儀作法なのに。
どうしてあんなに嫌いなんだろうな……出来るようになれば、楽しいのに。
……何度も言っているけれど、苦しいのが嫌なのよ。
はぁ……先が思いやられるな。
……誰しもが、思う通りになんて生きられない。
生きられるのなら……あたしは、こんな場所には来なかったよ。
……ジュピター。
「ジュピター」ではなく「あたし」として、「マーキュリー」ではない「君」と、今でもあの家で暮らしていただろう。
……。
師匠が遺した畑を耕して……君は、先生が遺して呉れた書物を読み耽っていたかも知れない。
ごはんが出来れば、ふたりで食べて……毎夜、同じ寝台で眠っていたかも知れない。
……私達は、造られた存在。
月の民は……皆、然うだ。
ただ、役割が違うだけで……。
……プリンセスも、同じ。
……。
早く、見つけないと……。
……いつか、民を見捨てて。
……。
全てを、捨てて……逃げ出すかも知れない。
……然うならない為に。
あたしに出来ることは、鍛練ぐらいしかない。
……。
其れまで……マーズには、見張っていてもらわないといけないな。
……あなたが、プリンセスの。
マーキュリー。
……。
そんな我儘は、聞けない。
……そんなことは、分かってる。
……。
ん……ジュピター。
……あたしは、マーキュリーだけのものだ。
……。
マーキュリーだけ、なんだ……。
厄介ね……恋慕う心というものは。
……初めて、然う思ったよ。
やっと、分かったの……?
……あぁ、やっと分かった。
……。
改めて……マーキュリーが、あたしを受け入れて呉れて良かったと。
……分かってない。
さて……次は何処を捜そうかな。
……あなたの見立てでは、月宮からは出ていない、だったわね。
あぁ……プリンセスの足では、然う遠くへは行けないだろう。
……昨夜のうちに、遠くへ行かれなくて良かったわ。
行ったところで……行き倒れだよ、今のプリンセスでは。
……。
分かっているのか、いないのか……まぁ、分かってはいないな。
……プリンセスが見せた目を。
ん……?
……もっと警戒しておくべきだった。
目……?
……マーズに引き渡した時に、一瞬だけ、見えたの。
目……瞳の色?
……まるで、私を恨むような。
其れはない。
……だけど。
ないよ、マーキュリー。
……然うだと、良いけれど。
あって、たまるか。
……ジュピター。
兎に角、捜そう。
……私はもう一度、緑の部屋を捜してみるわ。
可能性がある?
……若しかしたら、今回のかくれんぼはひとつの場所にじっとしていないのかも知れない。
つまり、移動していると。
……其れだけの行動力があるとしたら、青い星の使者を持て成すぐらい、なんでもないと思うのだけれど。
全くだ。
あなたは……念の為、あなたの部屋を。
あたしの部屋?
……ないとは言えない。
鍵はちゃんと掛けてある。
マーキュリーとあたし以外、入れない。
……其れでも、よ。
マーキュリー……うん、分かった。
……居なかったら、他の場所に。
あぁ、然うしよう。
……じゃあ、また。
……。
……え。
ごめん。
……何。
矢っ張り、あたしも行く。
……あなたが行くべき場所は。
妙な胸騒ぎがする。
……。
緑の部屋は……マーキュリーとあたしだけの場所。
……とは、限らない。
然う……だから。
……。
どうにも、嫌な予感がする。
……まさか。
分からないだろう。
……そんなことをしたら、黒に身を堕とすだけ。
未だに、たまごだから……其の意味が、理解出来ないのだろう。
此れは、理……理解していないにも、ほどがあるわ。
でもまぁ、まだ然うだと決まったわけではないから。
……。
ちょっとした悪戯程度だったら……黒に身を堕とすこともないだろう。
……白に、黒が落ちる。
一滴くらいで、済むんじゃないかな。
……其れでも、黒が混ざってしまうことには違いないから。
生きている限り……純白で居ることは、難しい。
……だとしても。
マーキュリー。
……。
行こう。
……ええ。
あの部屋への道は、ひとつしかない。
……けれど油断は出来ないわ、道は其の奥にも続いているから。
手引きしている者が、本当に居るのならば……そいつも捕まえたいところだな。
……然うね、捕まえて詳しく話を聞きたいわ。
……。
……ジュピター。
あれは……向いていないのかも知れない。
……駄目よ。
分かってる……でも。
……。
……いつか、大きな禍になるかも知れない。
然うならない為にも。
……あたしはマーキュリーと穏やかに終わりたい。
……。
其れが……あたしの数ある願いのひとつなんだ。
……今はそんなことを言っている場合ではないわ。
うん。
……。
……マーキュリー?
なんでもない……急ぎましょう。
27日
……マーキュリー。
……。
やっと解放されたよ。
……プリンセスは。
マーズが傍に居る。
……落ち着いたの。
最後まで、駄々を捏ねられた。
……夜伽をするように?
けれど、其れは出来ないから。
……此の際、してあげれば良かったのに。
嫌だよ。
あなたが傍に居れば……今夜はもう、逃げ出すことはないでしょう。
今夜はマーズが傍に付く。
だからもう、逃げることは出来ないだろう。
……あなたでも。
仮にあたしが了承したところで、マーズが許さない。
なんせあたしは木星の民、不浄なる者共の長なのだから。
……若しも、マーズが許可したら。
先刻も言ったけれど、嫌だよ。
あたしはマーキュリーと眠るんだ。
……。
知っていると思うけど、あたしはマーキュリー以外の者とは眠れないんだ。
神経が昂ぶってしまって、落ち着かない。とてもじゃないけれど、休むことなんて出来ない。
……別に眠らなくても良い、ただ傍に居るだけで。
マーキュリーが然うするべきだと、強く言うのなら。
……。
あたしは……従う。
……強くは、言わない。
なら、今夜はマーキュリーと。
……もう、あまり。
未だ、時間はある。
だから、あたしの部屋に戻ろう。
……。
行こう、マーキュリー。
……行かない。
……。
……と、言ったら。
お願いする。
……一緒に戻って呉れるように?
うん。
……プリンセスを説得するように。
あれはお願いなんかじゃない、ただの説得だ。
大体、プリンセスにお願いなんてしないよ。
……。
お願いだ、マーキュリー……一緒に、あたしの部屋に。
……はぁ。
……。
……仕方ないから、戻ってあげる。
ありがとう、大好きだ。
……なんだか、疲れてしまったわ。
良かったら、背中に。
……其れは良い。
ならば。
……其れも良い。
歩けるかい?
……歩けるけれど。
けれど?
……ゆっくりになると思う。
分かった、ゆっくり戻ろう。
……あまりゆっくりだと、睡眠時間が減ってしまうけど。
ならば、矢っ張り。
……。
あたしの背中に。
……良いと言ったのに。
睡眠時間の為だ。
……。
明日はプリンセスが青い星からの使者を初めて持て成す、大事な日なんだろう?
だったら少しでも早く戻って、少しでも長く睡眠時間を取らないと。
……仕方ないわね。
然う、此れは仕方ないことなんだ。
だから、何も気にしないで良い。
……気にはする。
ん、そっか。
……屈んで。
うん、直ぐに。
……。
はい、どうぞ。
……プリンセスは、軽かった?
え?
……なんでもない。
然うだなぁ、思っていたより重たかった。
……。
食べてばかりでろくに動かない。おまけに、頭も使わない。
あのままでは間違いなく、躰がまぁるくなってしまうだろう。
……ふ。
ん、面白かった?
……いえ、其の通りだと思って。
まぁるくなったら、益々、やる気が削がれてしまうだろう。
躰が重たいと、特にプリンセスの場合は、余計に億劫になってしまうと思う。
……違いない。
だけど。
……だけど?
体力があったら、もっと厄介なことになっていたかも知れない。
其れは……どうかしら。
……可能性は零ではないだろう?
そこまでの行動力があるかどうか……。
……逃げ出したくらいなんだ、其れなりにはあるんじゃないかな。
其の思い切りの良さを……明日、発揮して呉れれば良いのに。
……此れからはもう少し、厳しく接しないと駄目かなぁ。
出来るの……?
……出来なくもない。
あなたには、難しいと思うわ。
……然うかな。
あなたは、子供には甘いから……お師匠さんと同じで。
ん。
……とは言え、突き放す時はあっさりと突き放すのだけれど。
ところで、マーキュリー。
……何。
そろそろ、背中に。
あぁ……然うだった。
マーキュリーが乗って呉れないと、涼しくて堪らないんだ。
……。
……ん。
此れで、どう……?
……うん、あったかい。
体温は、相変わらずだけれど……。
……マーキュリーの熱を感じる。
……。
……立っても、良いかい?
良いわ……。
……良し。
……。
其れでは、行こう。
……私は、重いでしょう。
ううん、軽いよ。
……プリンセスより。
プリンセスの方が重い。
……其れは、ない。
いや、其れがあるんだ。
……まさか。
言ったろう……あのままだと、躰がまぁるくなってしまうと。
……実際は、私の方が。
マーキュリーの方が軽く感じる。
……背丈を考慮して。
考慮しても……いや、考慮したら、より然う感じる。
……。
マーキュリーはもう少し、食べた方が良いな。
……五月蠅い。
はい……ごめんなさい。
……。
マーキュリーは、気が付いていなかった?
……此処の所、顔が丸くなってきているとは思っていたけれど。
確実になってきているよ。
……言って呉れれば良いのに。
いつも忘れてしまうんだ。
……と言うより、憶える気がない。
マーズが傍に仕えているから。
……気にしなくて良いと。
マーズだけじゃないだろう、傍に仕えている者は。
……あなたも一応、プリンセスに仕える四守護神のひとり。
然うだけど。
……私のことより。
どうしようもない。
……。
どうしようもないんだよ……マーキュリー。
……鍛練の時に、何か変わったことは。
少しの動きでも息が切れてしまって、苦しそうな顔をしている。
だけど、其れは運動不足でも見られる状態だから。
……運動不足な上に、肥満気味。
マーズには、言われていると思うんだ。
……けれど、改善が見られない。
まぁるいクイーンでも、柔らかくて良いと思うけどね。
……少しの鍛練で息が切れてしまうのは問題。
まぁ、然うか。
……幾ら、病にはならないと雖も。
病?
……青い星では、肥満は病のもとに成り得るの。
へぇ、然うなんだ……。
……肥満が祟って、命を落とす者も居るわ。
けど、まぁるいひとのこってあまり見ないよなぁ。
良くて中肉中背、大体は痩せているか、痩せ細っているか。
……民草で、肥満躰は珍しいから。
まぁ、然うなるまで食えないか。
……考えなくてはいけないわね。
プリンセス?
……もう少し、厳しくしないと。
ん、然うだね。
あたしも考えておくよ。
……。
思うに、中にも付いていると思うんだ。
……中?
脂肪って、内臓にも付くんだろう?
なんとなくだけど、付いていないとは思えないんだ。
……定期検査を早めるよう、マーズに進言するわ。
ん、其の方が良い。
……其の時は、あなたも傍に。
あたしも?
……然う、あなたも。
あたしはマーキュリーの傍に居られるのなら、構わないけど。
あなたが居て呉れた方が、滞りなく滑らかに進めることが出来ると思うの。
……。
つまり、あなたに宥めてもらいたい。
……分かった、出来るだけのことはしてみるよ。
お願いね。
だけどマーキュリー、宥めるのはあたしよりもマーキュリーの方がずっと上手だと思うんだ。
……私は上手なんかではないわ、寧ろ、下手よ。
あたしはいつだって、マーキュリーに宥められている……マーキュリーだけなんだ、あたしを宥められるのは。
其れは……あなただからよ。
……あたしだから?
私が宥めることが出来るのはジュピター、あなただけ……他のひとに対しては宥めるどころか、神経を逆撫でするだけよ。
そんなことは……。
……私の説得にプリンセスは応じるどころか、耳も貸さなかった。
……。
あなたが来て呉れて、漸く……頑なだった態度が軟化したの。
……結構、駄々を捏ねられたけど。
私には駄々すら捏ねて呉れなかったわ。
どんな言葉を掛けても、最後には返事もして呉れなくなったの。
……マーズなら。
恐らく、マーズでも駄目だったと思う。
……。
今回は……あなたでないと。
……我儘なんだ、プリンセスは。
然うね……とても我儘で、私の手には負えないわ。
……。
何か思うことでもあるのなら……。
……プリンセスは、マーキュリーの前ではどうしてぎこちないのだろう。
どうしてだと思う……?
……分からない、マーキュリーは誰よりも優しいのに。
私が……あなたの大切なひとだからよ。
……え。
だから、ぎこちないし……避けるの。
そんなことで……?
……曰く、ね。
また、あいつか……。
……本当のところは、分からない。
あいつの言うことは、話し半分……いや、三分の一で良い。
……けれど、然ういうことに関しては当たるのよ。
外れることだって、ある。
……。
マーキュリーのことは、大外れだ。
……然ういうところ。
ん?
……プリンセスは、見ているの。
見られたって……。
……見て、私があなたの特別だということに気が付いているのかも知れない。
だとしたって、其れがなんだと言うんだ。
……。
マーキュリーを避けるぐらいなら、あたしを避ければ良い。
……あなたは、避けられないわよ。
どうして。
……至極単純、あなたのことが好きだから。
……。
……珍しく、眉間に皺が寄っていそうね。
あたしのことが好きだと言うのなら……あたしの大切なマーキュリーに対して、ぎこちない態度を取るのはやめて欲しい。
……。
一言で言えば……不愉快だ。
……あなたね。
だって、然うだろう……マーキュリーは何ひとつ、悪いことなんてしていないのに。
……たまご故に、感情を上手く処理出来ないだけ。
……。
……私は気にしていないわ。
つまり、今だけ……?
……さぁ、どうかしら。
……。
……いつまでも、未熟なたまごのままだったら。
クイーンには、なれないな……。
……クイーンには、なれるわ。
……。
精神が、どんなに未熟であろうとも……。
然うなると……周りが、大変だな。
……他人事のように。
あたしは……マーキュリーと一緒に居られれば、其れで良い。
……あなたは、其ればかり。
其れが……あたしの生きる理由、生きる糧なんだ。
……取り敢えず。
うん……?
……今夜中に見つかって良かった。
ん……然うだね。
……。
矢っ張り、明日が嫌だったみたいだ。
……然うでしょうね。
ねぇ、マーキュリー。
……なに。
そろそろ、教えて欲しいな。
……。
プリンセスの居場所……どうして、あたし達の畑だと思ったのか。
……分からないの。
分からない。
……何処まで行っても、報われないわね。
……。
……あなたに見つけて欲しかったからよ。
だけど、先に見つけたのはマーキュリーだ……あたしでは、見つけられなかった。
……だから、余計に意固地になってしまったの。
……。
……分からない?
全く分からない。
……然う。
分かった方が良い?
……屹度、無理だと思うわ。
あたしも然う思う。
……。
ん……マーキュリー。
……あなたの背中、温かいわ。
あたしも……背中が、あったかい。
……プリンセスも、屹度。
いつまで。
……。
いつまで、プリンセスは。
……新しい出逢いが、あるまで。
……。
其れか……あなたを、諦めるまで。
……此の際、何方でも良い。
……。
あたしには、マーキュリーしか見えないのだから。
……あなたが、不浄なる者ではなかったら。
……。
……若しかしたら、特別な傍仕えに。
良かった。
……。
あたしが、不浄なる者で。
……。
マーキュリー、そろそろだよ。
……うん。
……。
……ごめんなさい。
ん、何がだい?
……。
マーキュリー?
……なんでもないわ。
ん、そっか。
……ねぇ。
なんだい?
……私も、不浄なる者だから。
マーキュリーは、とてもきれいだよ。
……。
此の世界で、一番きれいだ。
……ばか。
26日
……。
……ジュピター。
ん……。
……はなして。
どこへ……。
……どこにも。
寝返り……?
……そんなところ。
ん……わかった。
……寝返りすら、まともに打てない。
ごめん……。
……はぁ。
マーキュリー……。
……今夜は、当たり日。
分かっていて、来て呉れたんだろう……。
……ええ、然うよ。
ありがとう……。
……別に、あなたの為だけではないから。
あぁ……。
……ちょっと。
溺れたい……。
……もう、十分に。
眠るよりも、マーキュリーに……。
……だめよ、もう。
明日も、早い……?
……あなたもね。
早くなければ良いのに……。
……明日は、プリンセスの警護。
どうせ、遅れるに決まっている……。
……今回は、遅れるわけにはいかないの。
どうかな……プリンセスのことだから、
明日は青い星からの使者を、プリンセスが初めて持て成す日。
……うん?
明日はプリンセスが初めて持て成しをするの。
プリンセスが、持て成し……青い星からの使者を?
然う。
いや、出来るのか……?
出来る出来ないではないの、やらなければいけないの。
プリンセスは、次のクイーンになる存在なのだから。
……あぁ。
だからでしょうね。
えと……何が。
今日のプリンセスはずっと憂鬱そうだった。
表情も晴れなくて、どうやら、食欲もないようだと。
然う、だったか……?
鈍いわね。
……マーキュリーは、気が付いたの?
マーズに言われて、言われてみれば然うかも知れないと。
……。
居眠りをしているわけではないのに、いつもより静かで。
まぁ、静かなだけで、講義内容は全く頭に入っていなかったのだけれど。
と言うより、聞いてもいなかった。
……聞いていないのも、頭に入っていないのも、いつも通りだ。
然う……だから、私が気が付かなくても仕方ないわ。
なら、あたしも……確かにいつもよりは静かだったけど、鍛練のやる気がないのはいつも通りで。
今日は何か作ってあげなかったの?
今日は何も作らなかった。
お豆の白包は?
マーキュリーも知っていると思うけど、プリンセスは豆の甘煮があまり好きではないんだ。
いつだか作ってあげた時も渋い顔をしてさ、其れで他のものが良いと。駄々を捏ねられて。
だから、白包も食べないと。
実際、食べなかったんだよ。
沢山食べるかなと思って、結構、作ったのに。
……其の時の白包は。
我儘を言われて、結局、マーキュリーと食べたんだ。
まぁ、マーキュリーと一緒に食べられたのは嬉しかったけど。
……あなたが甘やかすから。
其の時に、言ったと思うんだけどさ。
……がっかりした、でしょう。
然うなんだ……豆の甘煮、とても美味しいのに。
プリンセスはもっと可愛らしくて、華やかなものが良いのよね。
そんなもの、あたしには作れない。
……然うでもないのよ、プリンセスにとっては。
ん……。
……我儘だって、あなたの気を引く為かも知れない。
あたしの気を引く為と言われても……あたしは、全く、気にならない。
……報われないわね。
ん……矢っ張り、良く分からないな。
……あなたが、分からないなんて。
分からないよ……だって、どうしてプリンセスが。
……気を引きたい気持ちは、分かるでしょう?
其れは……まぁ、分からなくもない。
……なら、分かる筈よ。
百歩譲って、気を引きたい気持ちは分かる……だけど。
……。
プリンセスが、あたしのことを……其れが、全く分からない。
何が、どうして、然うなるんだ……? あたしには全く、そんな気持ちはないと言うのに。
……曰く、然うらしいから。
あいつが言っていたことだろう……マーズなら兎も角、あいつの言うことは。
……当てにならなければ、良いのだけれど。
……。
……其れは兎も角、明日はちゃんとしてね。
明日……。
……然う、明日。
えと……明日の、いつからだっけ。
……。
正装の方が、良い……?
……マーズから、聞いている筈だけれど。
……。
……矢っ張り、忘れていたのね。
然ういえば……なんとなく、聞いたような。
……此処の所、顔を合わせる暇もなかったから。
矢っ張り、マーキュリーからでないと……記憶に、残らないみたいだ。
……良かったわ、今夜あなたの部屋に来て。
うん、来て呉れて良かった……でないと、どうなっていたか。
……場合によっては、懲罰牢に入れられるかも知れないわ。
あの、いつ使われたか分からない……?
……あの場所は一応、マーズの管轄だから。
確か、薄暗いんだよね……寝台くらいは、あったと思うけど。
……食事も、まともに与えられるかどうか。
自分で作ることは……。
……まず、無理でしょうね。
仕事は……。
……あなたの部屋が一時的に懲罰牢になると考えれば良い。
マーキュリーを、呼ぶことは……。
……出来るわけがない。
どれくらい、入れられることになるのかな……。
然うね……短くて、一年くらいかしら。
う、長い……。
……二十年前が最近なのに?
マーキュリーに、ろくに逢わせてもらえなくなるんだろう……?
なるでしょうね……でも、仕事で顔を合わせることぐらいはあるから。
……其れじゃ、全然足りない。
まぁ、然うよね……
一週間だって、長く感じるんだ……一年なんて、到底無理だよ。
……生きてさえいれば、あっと言う間。
一日が、百年くらいに感じると思う……。
……大袈裟。
あたしにとっては、大袈裟ではないんだ……考えただけで、躰が震えてしまう。
……ふ。
笑わないで欲しい……あたしは、本気なんだ。
……分かっているわ。
だったら……。
……流石に、そこまではしないわよ。
うん……?
……其の代わり、長いお説教が待っていると思うけれど。
お説教、だけ……?
……あなたを管理するなんて、手間でしかないでしょうから。
はぁぁ……良かった。
……想像だけで泣きそうになるなんて。
だって、マーズだったらやりかねないから……。
……良かったわね、今夜私が此処に居て。
うん……本当に。
……まぁ、来なかったら連絡ぐらいはしてあげるつもりだったけど。
連絡も嬉しいけど、マーキュリーが来て呉れるのが一番嬉しい……。
……ぅ。
マーキュリー、今夜は……う。
……話を元に戻すわ。
えと……なんだっけ。
……明日のプリンセスの警護について。
あぁ、然うだった……。
……プリンセスの傍には、いつも通り、マーズが仕える。
であるならば、あたしは、要らないと思うんだけど……。
……然うはいかない。
マーズひとりで足りると思うんだ……。
……不測の事態が起きた場合も想定しているのよ。
起きるかな……そんな事態。
……起きないとは限らない。
何処かの莫迦が寝首を掻かれたような……?
……そこまで間抜けな事態は起こさせないわ。
む……。
……私がそんなへまをすると思う?
思わない……。
……明日はあなたが必要なの。
……。
あなたが必要なのよ……ジュピター。
マーキュリー……うん、分かった。
と言うわけだから……。
……あ。
今夜は、もう。
……でも。
でも、じゃない……。
……もう、少しだけ。
だめよ……。
……。
……そもそも、一緒に眠るだけの筈だったのに。
う、ん……。
……私が部屋に入ったら、直ぐに。
……。
気が付けば、寝台の上……。
……待っていたんだ。
知ってる……だから、早めに来たでしょう?
うん……来て呉れた。
……念の為、湯浴みをしてきて良かったわ。
然うだ、湯浴み……。
……其れどころじゃなかったもの。
今からでも……う。
……するのなら、あなたひとりで。
……。
……明日の朝、早く起きて。
一緒に……?
……其の方が、良いの?
良い……其の方が、良い。
……じゃあ、一緒に。
やった……。
……余計なことだけは、しないでね?
ん、しない……明日はプリンセスの警護をしなくちゃいけないから。
……約束よ。
うん……約束だ。
……。
マーキュリー……メル。
……ユゥ。
眠る前に、口付けを……。
……其の前に。
ん……?
……髪の毛が、傷んでいるわ。
え……然うかな。
……だからと言って、何かしてあげられるわけではないのだけれど。
まずい、かな……。
……きれいにまとめてしまえば、気にならない。
きれいに……。
……仕方ないから、してあげるわ。
本当……?
……本当。
へへ、ありがとう……。
……。
……傷み、気になる?
少し……だけど、あなたは気にしていないようだから。
……切ってしまおうかな。
……。
切ったところで、傷んだ毛がなくなるわけじゃないんだけど……。
……切るとしたら、どれくらい。
マーキュリーと、同じくらい……。
……たまには、良いかも知れないわね。
だろう……?
……誰に切ってもらうの。
勿論、マーキュリーに……ん。
……無理よ、私には。
マーキュリー以外の奴に、触って欲しくないんだ……。
……マーズは?
いやだ……マーキュリーでないと。
……髪の毛なんて、切れないわ。
良いよ……思うように、切って呉れれば。
……然ういうわけにはいかない。
どんな頭になろうとも、あたしは構わないんだ……。
……構って。
う……。
……私には言うのだから。
うん……メル。
……。
ね……また、切って呉れるだろ。
……期待は、しないでね。
へへ……やった。
……。
ん……。
……おやすみなさい、ユゥ。
ん……おやすみ、メル。
……くれぐれも、きつく抱き締めないでね。
うん……だから、軽く。
……。
……メル。
……。
ん……なんだ。
……緊急音。
急襲か。
ジュピター、取り敢えず応答を。
応。
……着替え。
どうした、何があった……ん、マーズ?
……マーズ?
マーキュリーは、居るけど……え。
……。
プリンセスが、居なくなった……?
……は?
え、敵の夜襲じゃないのか……違う?
プリンセスが、何処にも居ない……いや、なんで。
……まさか、重圧に耐え切れず逃げ出した。
いや、でも、部屋には付いている者が居るだろう?
其の者達の目を盗んで、プリンセスが部屋を抜け出すなんてことは……分かった、いつから居ないんだ。
寝台の温もりで、推し量れるだろう……冷たくなっている。然うか……となると、結構、経っているな。
……。
あぁ、今からマーキュリーと共に捜索を開始する。民達は……火星の民が動いているのか、分かった。
此方の民が必要だったら、直ぐに言って呉れ。木星及び水星の民を、直ちに動かす。
……。
……マーキュリー。
確認は要らない。
……恐らく、月宮から。
……。
出たとしても、プリンセスの足では然う遠くには行けない筈。
あぁ、分かった。何かあったら直ぐに連絡を、此方からもする。
では一旦、切……切れた。
……はぁ。
然ういうわけだ、マーキュリー。
……。
さて、プリンセスは何処に……マーキュリーは、心当たりはあるかい?
……あなたは畑を捜して。
畑を……?
私は緑の部屋に……其処に居なかったら、私も畑に行く。
……。
理由は……見つかったら、話すわ。
分かった……畑の隅々まで捜してみよう。
うん……お願い。
……応。
見つからなかったら、他の場所に。
捜す場所は、あなたに任せるわ。
うん。
其れじゃあ……ジュピター。
うん、また後で……。
……ん。
無事に、見つかるように……。
……もぅ、全然関係ないじゃない。
25日
-Snooze(前世)
マーキュリー。
……ジュピター。
少し、休憩しよう。
……来たわね。
うん、来たよ。
……呼んでもいないのに。
ほら、甘味も持って来たんだ。
……今度は何を持って来て呉れたのかしら。
豆の白包、久しぶりに作ってみた。
……お芋が出来たから?
うん。
……取り敢えず、見せて。
ん。
……。
此れなんだけど、どうだろう?
……形は悪くないわね。
食べて呉れるかい?
……食べてあげても良い。
うん、其れじゃあお茶でも淹れようか。
折角だから、渋いお茶が良いわ。
ん、分かった。
……。
先に食べていても良いよ。
……お茶が入るのを待ってから、食べることにするわ。
そっか。
言っておくけれど、あなたを待っているわけではないから。
ふふ、分かっているよ。
……。
今は何を見ているんだい?
青い星の、一部地域の情勢。
何か変わったことでも?
寧ろ、いつも通り。
うん?
相変わらずと言うべきか、懲りもせずにと言うべきか。
どちらも大差ないかな。
まぁ、良いのだけれど……最近、殖え気味ではあったから。
なんだ、また戦か?
……然う、戦。
然うなのか……今度は、何処で。
……見て。
お。
……此処。
此の地域……確か、此の間までしていなかったか?
憶えていたのね。
形が特徴的だったから、記憶に残って呉れた。
あぁ、然う。
まぁ、良いことだわ。
此処、わりと最近まで戦をしていたよな?
していたわ。
終結したのは……さて、何年前だったか。
二十年前。
うん、最近だ。
……私達にとってはね。
また、民族間で?
……然う、同じひとのこ同士で。
良くやるなぁ。
……。
あたしには戦の何が良いのか分からない。
大切なひとと穏やかに暮らしている方がずっと良い。
其れが退屈だと感じるひとのこも居る。
戦をすれば、折角殖やした子や孫だって減ってしまう。
産み育てることは、大変なことなのだろう?
殖え過ぎても、こうなる。
はぁ、然ういうものか。
月でも調整しているでしょう?
あぁ、然うだった。
程良くが出来ないのよね、欲に結び付いているから。
地に満たせ、だったか。
青い星を支配し続ける為に。
居なくなったところで、他の生物は困らないだろうに。
……寧ろ、居なくなって呉れた方が良いのかも知れないわ。
他の種を絶滅させるから?
自分達の都合に合わせてね。
まぁ、同じ種であっても絶滅させようとするくらいだもんな。
其れで、現時点での規模は?
今は未だ、小競り合い程度。
今回もまた、誰かが火種を仕組んで盛大に煽ったか。
元々、戦の火種には困っていないから。
あとは、時間の問題。
……然ういうこと。
此度の戦は、どれくらいの規模になりそうなんだい?
短くて数ヶ月。
長ければ。
数年、こうなった場合は泥沼化は避けられない。
うん、いつもどおりだな。
其れで、切っ掛けは。
どさくさに紛れて、要人が暗殺された。
其れはまた、杜撰なことで。
警護もろくに付けずに、お忍びでお気に入りの女に会いに行ったみたいなの。
其れは……また、随分と間抜けなことで。
己の領地内だからと、油断していたみたいだけれど。
だとしても、有り得ないな。
大抵はひとりかふたり、付けておくものだ。
余程、浮かれていたのか。
此の要人も、ご多分に漏れず、若い女が好みのようだったから。
独り身?
いいえ。
ひとりにしておけば良いものを。
今は五人目らしいわ。
五人目?
妻。
……今のは、若い?
要人から見て、孫ほどの年齢。
若い女へ乗り換えていくのが趣味みたい。
……理解出来ないな。
子供は数人居るし、孫も十数人居る。
……行き過ぎた欲を持つと、其の禍で身を滅ぼす。
要人が殺された後、子も孫もほぼ殺された。
ひとりかふたり生き残って、逃亡しているようだけれど……生き残るかどうか。
火種は、絶つだろう。
上手く逃げ果せるかも知れない。
……。
ジュピター?
こうなることを見込んで、ひとのこの男は沢山こさえるんだろうか。
其れはないとは言い切れないわね。
数が居る、つまり、其れだけ代わりが居るということになるから。
代わり、か……考え方は、何処も変わらないな。
そもそも此の地域では、子の数は繁栄の証でもあるとされているの。
数が多ければ多いほど、其の一族は繁栄していることになる。
けれど、子の数が多いだけでは豊かとは限らない。
貧しい家に生まれてきた子は、ほぼほぼ売られることになる。
其の為にこさえる親も居るんだったか。
全ては、自分達が生きる為に。
矢っ張り、良く分からないな。
私達には屹度、一生分からないことだと思うわ。
マーキュリーは分かりたいかい?
いいえ。
ん、あたしもだ。
……分かりたくもない。
然し、本当に間抜けな話だな。
誰も付けないのなら、せめて、呼び寄せるべきだった。
残念、其の要人はお気に入りの女に殺されたのよ。
……寝台の上で?
然う。
其の機会を、虎視眈々と狙っていたというわけか。
多くの兵を用意するよりも、好みの女をひとり差し出せば良い。
然うすれば、容易く寝首を掻くことが出来る……良く言ったものだわ。
ある意味、本望か?
莫迦なだけよ。
まぁ、然うなんだけど。
……。
終わるまで、経過を見守る?
定期的に、観察をする。
ん、然うか。
あなたもする?
マーキュリーと一緒に出来るのなら。
あなたの意見が聞きたいわ。
喜んで。
まぁ、大した意見は聞けないかも知れないけれど。
此度の戦に使われそうな兵器は?
目新しいものはないと思われる。
となると、主な武器は剣に弓、槍、棍棒……あたりか。
其れと、巨大な弓。
巨大な弓……弩か。
連弩もあるようね。
連弩……今回の戦は、なかなかの規模になりそうだ。
其れこそ、長年の宿敵を討ち倒さんとしているようだから。
長年って、どれくらいだったか。
約百年。
約百年か……長年ではないな。
親子三代、いや、四代くらいか。
先々々代頃から拗れたものが、拗れに拗れて、今に至る。
其れくらいの年数ならば、話し合いで丸くまとめられないものなのか?
丸く収める、ね。
……一年くらい掛ければ、なんとかなりそうだと思うのだけれど。
ならないわね、何代も世代が代わってしまっているから。
さっさと決着を付けておけば良いのに。
其れが出来ないのもまた、ひとのこの業。
然ういえば、拗れる前はどうしていたんだ?
矢っ張り、戦はちょいちょいあったのか。
互いに手を取り合って、其れなりには上手く暮らしていた。
……は。
お目出度いことがあると祝福し合い、悲しいことがあれば涙を流し合い、困ったことがあれば助け合う。
然うやって支え合いながら、彼らは此の場所で生きていた。
……拗れることになった理由は。
何方が先に、此の土地で暮らしていたか。
……どういうこと?
其のままよ。
だけど、其れなりには上手く暮らしていたのだろう?
其れなのに、どうして。何方が先かなんて、そんなに重要なことなのか。
彼らにとっては、重要なのでしょうね。
……。
かつては、何方かが何方かの奴隷だったとも。
奴隷……。
つまり……私達と似たようなもの。
……然うか。
奴隷達は働き手として、此の土地に連れて来られた……けれど、ある時点で解放されることになったの。
同じひとのこに、上下はないとして。然うして、時間を掛けて緩やかに関係性が変化していった。
……其の歴史は。
奴隷の歴史はないものとされたみたいね。
戦の火種になりかねないとして。
……。
其れなのにわざわざ掘り返して、煽った者が居る。
我らこそ、奴隷を支配した者達だと。今こそ、其れに戻るべきだと。
曰く、民族の誇りだとか、先祖代々の土地を取り返すだとか。
……どうしようもないな。
あと、戦は金になる。
然ういった者共にも都合が良い。
……第三者の介入か。
拗れないわけがない。
確かに、面倒だ。
であるから……話し合いでの解決は、途方もなく難しいわ。
然うだな……。
此度の戦でも、絶滅までは行かないでしょうけど。
其の数は間違いなく、大きく減らすことになるだろう。
……そして、新しい憎悪の種が蒔かれる。
ひとのこは厄介で、面倒だな。
……「正しい」の近似値。
うん?
其れは議論や会話の過程で積み上げられ、然うすることで行く道が見えてくる。
故に、初めからあるものではない。
……。
其の作業を可能にするのは、知性。
其れを怠り、己が信じる正しさの為だけに力を振り翳した瞬間、ひとのこは禽獣未満に成り下がる。
……相互理解は、遠いな。
ええ……遠いわ。
はい、マーキュリー。
……。
お待たせ。
……ありがとう、ジュピター。
では、食べようか。
……ええ、食べましょう。
お先に。
……いただきます。
どうぞ、召し上がれ。
……。
どうだい?
……今回も、悪くないわ。
ふふ、良かった。
……あなたも。
うん、あたしも。
……ん。
マーキュリー……。
……私は、甘味ではないわ。
知ってる……。
……。
甘味ではないのに……とても甘いんだ。
……全く。
……。
……ねぇ。
なんだい……。
……次は、麦包が食べたいわ。
うん……分かった。
……。
……む。
もう……おしまい。
じゃあ……此の続きは、夜に。
……。
良い……?
……良くない、私は忙しいの。
一緒に眠るくらいなら……む。
……。
……マーキュリー。
早く、食べて。
……はい。
……。
ん……美味しい。
……ところで、ジュピター。
なんだい、マーキュリー……。
……お茶の渋みが、少し物足りないわ。
え。
……もう少し、濃い方が良い。
淹れ直そうか……?
……ううん、今は此れで良いわ。
だけど……。
……次はもう少し、渋く淹れて。
次で良いのかい……?
……ん、良いわ。
分かった……じゃあ、次はもう少し渋く淹れよう。
……うん。
……。
……はぁ。
疲れている……?
……疲れない躰が欲しいものだわ。
其れは……流石に、無理じゃないかな。
……どうして?
疲れを感じなかったら……マーキュリーは屹度、休まないだろう?
……休む必要がないもの。
気付かぬうちに限界を迎えて、壊れてしまうかも知れない。
……疲れない躰なのに?
疲れないだけで、限界はある。
……限界も、なければ
形あるものは、必ず壊れるものなんだ。
……。
だから……疲れない躰なんて、駄目だよ。
……冗談よ。
ん。
……真面目に聞かないで。
そっか、なら良いんだ。
……ふ。
ん……マーキュリー。
……あなたこそ、無理はしないで。
あたしは……ん。
……後で、躰を診せて。
其れは……期待しても。
……残念、診察の方よ。
其の後……。
……今夜は、ゆっくり休んで。
マーキュリーと……。
……ひとりで。
ふたりが、良い……。
……。
う。
……仕方ないわね。
マーキュリー……。
……良いわ、ただ眠るだけならば。
何方の部屋で……。
……然うね、今夜はあなたの部屋で。
分かった……迎えに行く。
いいえ……要らないわ。
……行きたい。
必ず、行くから。
……。
……信じられない?
信じられる……。
……大人しく、
いつ、来て呉れる……?
……。
いつ……う。
……日が替わる、一刻前までには。
……。
……必ず、行くわ。
うん……待ってる。
……ええ、待っていて。
24日
ん、雪が。
……予報通り、強まってきたわね。
んー……。
……口を開けたまま空を見上げたら、中に入るわよ。
顔を上に向けると口が開いてしまうのは、顎が筋肉に引っ張られるからなのかな。
……顔を上に向けたまま、口を開け閉めしてみれば分かるわ。
……。
……本当にするのね。
試しに、ね。
……しなくても、分かっているくせに。
たまには童心に返るのも良いかな、と。
……子供でしょう、まだ。
でも、幼児ではないから。
……で、どうだった?
下顎が筋肉に引っ張られているように感じた。
然う……分かって良かったわ。
ん。
……雪は、どうだった?
曇天から、はらはらと降ってきている。
このまま降り続けたら、予報通り、積もるだろう。
……積もったら?
雪掻きをしないと。
……私も手伝うわ。
良いのかい?
……してみたいのよ。
腰が痛くなってしまうかも知れないけど。
……ならない程度に。
じゃあ、程々だ。
……休みながら、しようと思う。
ん、それは良い。
……気が向いたら、熱いお茶でも淹れてあげるわ。
うん、ありがとう。
……気が向いたら、よ。
ん、楽しみにしてる。
……ふ。
あたしは……かりんとう饅頭でも作ろうかな。
……箱でまた、買って来て呉れたのよね。
あのお店の茶饅頭は美味しいからさ、この辺りでは評判のお店なんだ。
……あなたのおばあさまが作ったお饅頭も美味しかったわ。
ふふ、だろう?
……あの味ならば、お店を開くことも出来るのではないかしら。
水野さんも然う思う?
……ちゃんとしたお店でなくても、家の一部を改造してそこで売っても良いと思う。
週に二日くらいだったら、出来そうな気がするんだ。
……問題は、本人のやる気なのだけれど。
残念ながら、そんな気は全然ないんだよなぁ。
ひとさまにお金をもらうほどのものじゃないってさ。
……おばあさまらしい。
水野さん。
……なぁに。
ありがとう、冗談でも嬉しかった。
……私は、わりと本気で言ったのだけれど。
あは。
……将来、あなたが開く予定のお店に。
……。
……置いてみても良いかも知れないと。
あぁ……それは良いなぁ。
ひとつ……然うね、10円くらいならば、おばあさまも気が引けることはないかも知れないわ。
祖母は儲けが欲しいわけではないから……ね。
……おばあさまのお饅頭が、お客さんを呼んで呉れるかも知れない。
あたしのお店が繁盛して呉れれば、祖母に返すことが出来る。
……お金?
それと、恩。
……。
お金は、必要以上には受け取って呉れなそうな気がするよ。
……きっと、受け取らないでしょうね。
……。
……木野さん。
祖母が作ったお饅頭、祖父も好きだったんだ。
……でしょうね。
あたしも好きだ。
……知ってる。
祖母のお饅頭を食べると、とても懐かしい気分になる。
……不思議なのだけれど。
ん……?
……懐かしさが、分からなくもないの。
……。
私は、知らない筈なのにね……。
……今は、知っているよ。
……。
知ってる……。
……良いのかしら。
良いに決まってるさ……祖母も、喜ぶ。
……うん。
……。
ね……あなたが作ったお饅頭も、悪くなかったわ。
食べて呉れて、嬉しかった。
……美味しければ、私は食べる。
ふふ、そっか。
……。
寒いかい?
……空気が冷たいわ。
雪の降りが強くなってきたし……今日は帰ろうか。
……あと少しで着くのでしょう。
着くけど……明日でも良いと思うんだ。
……いいえ、今日が良い。
予報では、明日は良く晴れると。
……雪の中で咲く梅を見てみたいの。
……。
きっと、きれいでしょうから。
……うん、きれいだよ。
やっぱり、見たことがあるのね。
……この場所を、離れる時に。
……。
最後に見ておきたいと思ったんだ。
……結果的に、最後ではなかったけれど。
うん、然うだね。
……いつでも、来ても良いと。
うん……。
……若しも、名残惜しいのならば。
たまに、会いに来ようと思う。
……その時は。
水野さんを連れて。
……。
祖母は喜んで迎えて呉れる。
だから、水野さんも来て欲しい。
……喜んで。
ふふ……うん。
……。
雪が、うっすらと積もってきた。
……気温が下がっているから。
滑らないように気を付けないとね。
……ん、然うね。
今日の夕飯は、お鍋だって言ってたな。
……お魚の。
〆はごはんか、それとも、うどんか。
……私は、ごはんが良いわ。
じゃあ、あたしもごはんにしよう。
……真似しないで?
水野さんの真似がしたいお年頃なんだ。
ふふ……何よ、それ。
あはは。
……子供。
うん……水野さんもね。
……私は。
……。
私も、ただの子供だわ……。
……ただの、じゃないよ。
……。
あたしの大切な、だ。
……然ういうの、良いから。
照れてる?
……照れてない。
……。
触らないで。
……手袋。
だとしても、触らないで。
……手袋を外したら。
払い除けられたいの。
うん、帰ってからにしよう。
……。
帰ってからなら、良い?
おばあさまの前では止めて。
じゃあ、ふたりきりの時に。
好きよね。
うん、大好きだ。
やっぱり、だめ。
ん。
私がするわ。
水野さんが?
然う、私が。
うん、それでも良い。
好きよね、本当に。
大好きなんだ、本当に。
ところで、あと少しってどれくらいなの。
あの三つ目の角を右に曲がった、その先。
……。
ね、あと少しだろう?
……然うね、あと少しね。
着いたら、何かあったかいのでも飲む?
……売っているの?
近くに自動販売機があるんだ。
……。
こんなところに、と思った?
……思った。
そこの自動販売機、屋根もあるんだよ。
屋根?
だから、雪が降っていても問題ない。
まぁ、風が強いとあまり意味がないけど。
東屋みたいなもの?
と言うより、バス停かなぁ。
……バス停。
イメージとしては、こじんまりとしたバス停。
……あぁ。
たまに郵便屋さんが一休みしていることもあったんだ。
大らかな地域ね。
場所によっては苦情、かな。
休憩していることが許せないひとは、一定数、存在するから。
真夏の配達なんて、休憩を取らないと大変だと思うんだけどなぁ。
汗だってかくから、水分補給をしないと倒れてしまうだろうし。
適度な休憩は必要だけど……どうしても、気に入らないのよね。
祖父から聞いたことがあるんだけどさ。
なに。
昔は水分を取らないで、運動や仕事をしていたみたいなんだよ。
精神論ね。
文句を言う人って、その時代を生きてきたひとなのかな。
それだけではないと思う。
ん。
居るのよ……歪んだ考え方を正義だと思い込んでいるひとは、いつの時代にも。
んー……やだな。
……然ういうひとも、禍の餌になりやすい。
……。
行き過ぎた欲望だけでなく、負の感情にも付け込むようだから。
……なんだかな。
結局は、ひとのこが抱えている問題だとも言える。
本当、昔の青い星と変わらないな。
きっと、これからも変わらないわ。
……。
……木野さん。
そんな世界でも
一緒に生きよう、でしょう。
うん。
ココアが飲みたいわ。
ココア?
然う、ココア。
あたしは、おしるこにしようかな。
したら?
やっぱり、レモンティーにする。
然う。
撤去されてないと良いなぁ。
売り上げが悪ければ。
維持費だって掛かるから。
考えてみれば、あの自動販売機を管理しているひとって誰なんだろう。
近くに商店があるんじゃないの?
それが、ないんだ。
会社は?
会社?
会社が従業員の為に設置している場合もあるけど。
会社なんて、あったかな。
若しくは、個人。
個人?
個人でも設置出来るから。
へぇ、然うなんだ。
小さな土地でも設置出来るから、手軽と言えば手軽なのかも知れないわ。
だけど、許可は要らないの?
お酒や煙草は特別な許可が必要だけれど、清涼飲料水なら原則として許可は要らない筈。
あたしが将来、お店を開いたら。
敷地内であれば、設置は可能。
ん、憶えておこう。
忘れそう。
その時は、水野さんが言って呉れそうだから。
当てにしないで?
はぁい。
……はぁ。
水野さんの息、雪のように真っ白だね。
……あなたの息もね。
ふたりが生きている証拠だよ。
……はいはい、然うね。
さて、そろそろだ。
……この角を曲がれば。
その先に……ほら、見て。
……。
ちゃんと、咲いてる。
……意外に、近い。
吃驚した?
……さぁ、どうかしら。
ふふ。
……あれが、然うなのね。
うん、然うだよ。
今年も咲いて呉れた。
……紅梅。
ね、きれいだろう?
……雪の中で、その紅がとても映えているわ。
うん。
……しだれ梅なのね。
この辺りでここだけなんだ、しだれ梅が見られるのは。
……悪くないわ。
良かった。
……。
自動販売機は……うん、まだある。
……どこ。
あそこ……あれ、ベンチもある?
前はなかったのに、置いたんだ。
……まさに、ちょっとした休憩所ね。
……。
どうしたの?
いや、なんでもない。
折角だから、座ってみる?
座ってみたいけど、濡れてないかな。
濡れていたら、やめれば良い。
ん、そっか。
紅梅を見たら。
うん、少しだけ休んでいこう。
あまり長居すると、冷え切ってしまうだろうから。
……あそこからでも、紅梅は見られるのね。
うん……見られる。
……ん。
雪の中のお花見も良いな……。
……木野さん。
だめかい……?
……だめと言っても、離す気はないくせに。
離したくない……。
……仕方ないひと。
はは……。
……。
梅……別名、春告草。
……一年を通し、どの花よりも早く咲く。
素敵な名前だよね……。
……ええ、素敵だわ。
来て、良かった……?
……帰らなくて、良かった。
……。
……ふふ。
ははは……。
……。
……ねぇ、水野さん。
なぁに……。
……あたしは利己的な遺伝子に抗っていると思う。
突然、なに……。
……なんとなく。
梅の花を見て……?
……青い実を、思い出した。
……。
祖母が作る梅酒……美味しいんだよなぁ。
……未成年。
少しくらいなら……ね?
……そんなに美味しいの?
ん、美味しい……。
……。
……少しだけ、飲ませてもらう?
気が向いたら。
……ん、分かった。
……。
……。
……私とでは、コピーは残せないものね。
自分の遺伝子のコピーよりも……あたしは、水野さんが欲しい。
……前世から、仕組まれているものだったとしたら。
前世からの因子?
ないとは、言えない……前世の私達には、生殖機能がなかったから。
……。
……だけど、面白いわね。
うん……?
……遺伝子に、抗う。
水野さんなら、然う言って呉れると思った……。
……然うなの?
うん、然うなの……。
……。
……水野さんの躰、柔らかくてあったかい。
そればかり……。
……春になったら。
……。
帰ろう……ふたりの部屋に。
……うん。
……。
……ねぇ、木野さん。
ん……なんだい。
……おばあさまに、また会いたい。
……。
会って……お話がしたい。
……それを聞いたら、おばあちゃんも喜ぶよ。
だから……必ず、また。
……。
……連れてきてね。
あぁ、約束する……。
……今度は、冬以外に。
じゃあ……桜が咲く頃かな。
……。
水野さんに見せたい桜があるんだ……。
……私とふたりで見たい、ではなくて?
然うとも言う……。
……他の季節は。
夏にも、秋にも……見せたいものは、ある。
……見せて。
あと……縁側で盥の水に足を浸けながら食べる、夏の胡瓜は美味しい。
……。
西瓜も美味しいよ。
……楽しみにしているわ。
うん……してて。
……秋は紅葉、かしら。
栗ごはんも美味しいよ……。
……。
……水野さん。
きれいね……。
……白梅と。
白梅と、同じくらいに……。。
23日
……てぇいッ。
……。
ふん……ッ。
……はぁ。
やぁぁぁぁぁ……ッ。
……。
んがッ。
はぁ……。
……雷気よッ、爆ぜろッ。
……。
潰れ、ろぉ……ッ。
……ん。
はぁ……ッ。
……。
......Ωαγασψυγο μοκυσει.
ん……ジュピター。
αρασηι ωο οκοσε κυμο ωο ψοβε ικαδυχηι ωο ηυρασεψο.......
……未だ、早いっ。
く……ッ。
……。
マーキュリー……ッ。
……水気よ、
足を……ッ。
……彼の者を、凍て付かせよ。
……。
……足止めにも、ならない。
いや、十分だ……ッ。
……。
うおぉぉぉ……ッ。
……破られる。
Σηιβιρερο.....ッ。
……ぅ。
……。
……。
はぁぁ……。
……止まった。
もう、お仕舞いだ……禍(わざわい)。
……。
……マーキュリー。
始末は、私が。
……あぁ、任せた。
ありがとう。
……どういたしまして。
……。
……。
……無様ね、母さん。
ん。
欲に塗れて、禍に堕ちて……本当に、無様だった。
……。
……Τσυρανυκε.
……。
……終わったわ。
一応、見届けるかい……?
念の為に。
……ん、分かった。
まぁ、ないだろうけれど。
……。
……あっさりとしている、とでも。
いや……寧ろ、それくらいで丁度良いと思っている。
……ひとでは非(あら)ざる者に、別れの挨拶なんて要らないわ。
そもそも、ひとのこの言葉を解しているかどうか。
……恐らく、解してはいないでしょうね。
まぁ、然うだろうな……。
……ふ。
うん?
……こんな終わり方が、待っているだなんてね。
けれど、全く予想していなかったわけではないのだろう?
……想定外ではないわ。
……。
あれだけ、欲に塗れていたんだもの……禍には、格好の餌。
……残ったのは、欲だけか。
さぁ……終わったことだから、どうでも良い。
……ま、然うだね。
……。
崩れ始めた……な。
……近いうちに、警察に行方不明者届を出すわ。
失踪届はなく……?
……失踪届を出すには、裁判所から失踪宣告をしてもらわなければならない。
然うか、直ぐには出せないんだったか……。
……今回の場合は、普通失踪になると思う。
普通失踪……?
……恐らく、特別失踪には当たらない。
……。
禍が認知されてから一年……それでも未だに、行方不明者との因果関係は認められていないから。
相変わらず、遅いな。
仕方ないわ……曰く、人智の及ばない事象なのだそうだから。
現実でこんなことが起こるだなんて、多くのひとは考えていなかった……それは、理解する。
が、今まさに、現実で起こっていることだ……いつ収まるか分からないのなら、さっさと決めてしまった方が良い。
……立法府では今も尚、議論が重ねられていることでしょう。
申し出をするかしないかは、遺されたひとに委ねれば良いだけだよ。
……無用な申し出が増える可能性がある。
それは、ないとは言えない。
……今暫く、時が必要だと思うわ。
いつになるか。
……さぁ。
……。
……。
普通失踪じゃ、七年間か……長いな。
……別に構わない、現世で生きた時間よりは短いから。
それは、然うだけれど……。
……さっさと終わらせたいのはやまやまだけれど、でも、良いの。
然うか……。
……半分、崩れ落ちたわね。
あぁ……。
……。
風に飛ばされて、跡形も残らない。
……手間が省けるわ。
……。
……一粒だって、手元に残したいとは思わない。
……。
……何を思っているの、ジュピター。
帰ったら、マーキュリーとお風呂に入りたいと。
……は。
どうだろう?
……あなたと一緒に入るのは、遠慮しておくわ。
ん……残念。
……。
……夜が明けるまで、もう少しか。
今夜はろくに眠れなかった。
……寝不足は、良くないな。
一晩くらい、眠れなくても。
一緒にお昼寝でもしようか。
……言うと思った。
朝寝坊よりも、お昼寝の方が
どれくらい眠るつもりなの。
然うだな、一時間くらいかな。
……。
どうだろう。
……悪くない提案ね。
お。
……けれど、ひとりで。
おやつは、かりんとう饅頭にしようと思う。
……は?
今日……いや、昨日か。
祖母が茶饅頭を箱で買ってきたからさ。
……。
かりんとう饅頭を食べるのなら、お昼寝するのはおやつの前の方が良いと考える。
……かりんとう饅頭って、何。
お饅頭を油で揚げると、表面がかりっとした食感になって、かりんとうのような風味になるんだ。
……だから、かりんとう饅頭。
結構、美味しいよ。
……オーブンで作ることは。
かりんとう饅頭の場合は、油で揚げて作るんだ。
……あまり油っこいのは嫌よ。
油は、確りと切るから。
……。
試しに、ひとつだけでも。
食べられないようだったら、残して呉れても良いから。
……それはあなたが作るのよね。
あぁ、然うだよ。
……それも、おばあさまに?
うん。
……。
祖母は、お饅頭から作るんだけどね。
……あなたも作ろうと思えば作れるでしょう。
ん、作れる。
……。
気に入ってもらえたら、次はお饅頭から作るよ。
……良いわ。
うん?
……試しに、食べてあげる。
ん、ありがとう。
……その代わり、美味しいお茶を用意してね。
任せて、口の中がさっぱりするお茶を用意するから。
……期待しているわ。
ん。
……。
かりんとう饅頭ってさ、揚げる前に水分を飛ばしてやらないといけないんだ。
水分が残っていると、かりっとした食感にはならない。ただの揚げ饅頭になってしまうから。
……揚げ饅頭。
まぁ、食べられなくはないんだけどね。
……。
因みに、衣をつけた揚げ饅頭も作れるよ。
同じ揚げ饅頭なら、こっちの方が美味しいかも知れない。
……いつか、どこかのお店で。
ん……?
……あなたと食べたことがあるような気がするわ。
……。
あなたが、連れて行って呉れて……と言っても、あなたは憶えていないでしょうけれど。
いや……うっすらと、憶えているよ。
……うっすら?
ふたりで行ったことは憶えている……だけれど、いつの記憶なのかは、思い出せない。
……。
……今が何度目なのかさえ、もう、分からないんだ。
……。
……マーキュリー。
何度だって、私は捨てる……。
……。
……私が、「私」である限り。
……。
……何も言って呉れないのね。
言葉を、探している……。
……何も思い浮かばないの。
……。
……思い浮かんだ言葉を、そのまま言ってみて。
多分、気休めにもならないと思う……それでも。
……構わないわ。
……。
……ジュピター。
あのひとと居ることで、マーキュリー……水野さんの心が、壊れてしまうと言うのなら。
……。
何度だって、捨てても良い……あたしは、然う思う。
……。
……気休めにも、ならなかったろう。
然うね……。
……。
……だけど、それで良いわ。
ん……。
……あなたの言葉ならば、それで良い。
マーキュリー……。
……あなただけは、私の傍に。
居るよ……。
……裏切らないで。
裏切らない……。
……見捨てないで。
見捨てない……絶対に。
……誓って。
誓う……。
……。
……何度でも。
……。
問題、なさそうだね……。
……ええ。
それじゃあ、帰ろうか……帰って、温まろう。
……ねぇ。
なんだい……?
……小さい頃、たまに考えていたの。
何を……?
……自分でも、莫迦みたいだとは思う。
取り敢えず、聞かせて欲しいな……。
……きっと、笑うわ。
笑い話なら……。
……。
だけど、違うのだろう……であるならば、笑わない。
……。
マーキュリー……。
……若しも。
……。
此の世界の他に、別の世界があったとしたら。
此の世界の外側に、幾つもの世界があったとしたら。
……。
此の世界とは、限りなく似ているけれど……何かが異なる世界が、あったとしたら。
……平行世界。
その世界では……私と。
……若しかしたら、あるかも知れない。
……。
生きるとは、選択の繰り返しだ……だから、違う選択をした世界があっても、おかしくないかも知れない。
……だけれど、確かめることは出来ない。
生きる世界は、ひとつだけ……それ以外の世界は、眺めることすら出来ない。
……私を選ばないあなたが居るかも知れない。
想像は出来ないけど……居ても、おかしくはない。
……あなたを選ばない私も。
悲しいけれど……あなたに実らぬ恋をしているあたしも居るだろう。
……こんな話、莫迦々々しくはないの。
ないよ……こういう話、あたしは大好きだ。
……。
色んな世界の中には……あなたと。
……想像、出来なかったの。
……。
……あの女が、私の母親をしている姿を。
母親をしている姿……。
……母親面をしている姿なら、幾らでも思い浮かぶのに。
……。
……空想ですら。
ねぇ、どんなお母さんが良い……?
……どんな?
理想のお母さん……と、言うのかな。
……分からないわ、見当もつかない。
例えば、優しいとか、ごはんを作って呉れるとか、穏やかに撫でて呉れるとか……。
……それは、あなたの。
どんな時であろうと、自分の味方になって呉れるとか……。
……そんな母親、居るの。
あたしのお母さんは、然うだったと思う……。
……やっぱり、想像つかないわ。
ん、そっか……。
……あの女には、どうしたって重ならない。
……。
いつだって、歪な顔をしていて……その顔が、私に。
……若しかしたら、違う顔をしているかも知れないよ。
違う顔……?
然う……違う顔。
……それはないと思うわ。
然うかな……。
……少なくとも、髪の色は青じゃない。
……。
……青なんて、人外の色だもの。
人外……。
……水星の民なんて、もうどこにも居ない。
……。
ごめんなさい……帰りましょう。
……ん、帰ろ
……。
マーキュリー。
……あぁ、もう。
背中に。
……自分の、足で。
躰、重たいだろう……?
……。
あたしのせいで……さ。
……ばか。
ん、ごめん。
……背中、貸して。
うん、勿論。
……。
……さぁ、どうぞ。
うん……。
……。
……帰ったら、手当てをしてあげる。
ん……お願いするよ。
……。
……立っても、良いかい?
ええ……良いわ。
……良し。
……。
それじゃ、帰ろう。
……三分で、帰れる?
んー……帰りは、五分かな。
……十分でも良いわ。
じゃあ……七分で。
……。
はは。
……ふふ。
変身は、帰ってから。
……当たり前。
だよね。
……。
なんだか、お腹が空いてきたなぁ。
……帰ったら、何か食べる?
いや……それよりも、少しで良いから寝たい。
……一時間くらいなら、寝られるかも知れないわ。
一時間でも良い……マーキュリーと眠りたい。
……お昼寝も、私と。
ん……マーキュリーと。
……好きよね、私のこと。
大好きだ。
……あ、然う。
此の世界のあたしは、あなたなしでは生きられない。
……大袈裟。
大袈裟に聞こえるかも知れないけれど、本当のことだから。
……。
マーキュリーは……。
……。
いや……やっぱり、いいや。
……聞かないの。
うん、聞かない。
……聞いても良いのに。
……。
……良いわよ、聞いても。
マーキュリー……水野さんは。
……うん。
あたしが居なくても、生きられる……?
……生きられる。
ん……そっか。
……ただ、虚ろに。
虚ろ……?
生きているようで……死んでいるの。
……。
……だから、生きているようには見えないかも知れない。
あぁ……。
……。
ん。
……苦しい?
少し。
……。
……水野さん。
ねぇ……。
……なに。
私が死ぬ時は……あなたも、死んで。
……良いよ。
あなたが、死ぬ時は……。
……死ななくても、良いよ。
……。
う。
……死なれたくなかったら、死なないで。
……。
……でないと、一緒に死ぬわよ。
あは……。
……あは、じゃない。
分かった……死なないように、出来るだけ頑張るよ。
……せいぜい、頑張って。
水野さんも……頑張って欲しいな。
……出来る範囲でね。
うん……出来る範囲で。
……。
……あぁ、然うだ。
なに……。
それで、どうだろう?
……何が。
お昼寝をするのは、おやつの前で良い?
……。
答えを聞いていなかったから。
……良いんじゃない。
うん……それじゃあ、おやつの前に。
……おやつを食べたら。
腹ごなしに、お散歩でもどうだろう?
……あの白梅が見たいわ。
……。
……もう一度、連れて行って。
ん、喜んで……。
……。
……良かったら、寝ていても良いよ。
ううん……寝ないわ。
……そっか。
……。
……然ういえば。
ん……?
……勘は、当たっていたかな。
然うね……まぁまぁ、当たっていたわ。
22日
……あいしてる。
……。
あいして、う……。
……しつこい。
ぅへへ……。
……締まりがなさすぎる。
それは……ねぇ?
……ねぇ、じゃない。
鼻、抓まれたの久しぶりだ……。
……何が嬉しいの。
雰囲気が、甘ったるくて……ふふ。
……。
……ぐ。
……。
水野さん……鳩尾に拳骨は、ちょっと痛いかな。
……お風呂に、入りたい。
シャワーなら、直ぐに……。
……お風呂が、良い。
分かった……今、沸かしてくるよ。
……こんな時間に入れるわけないでしょう、ばか。
いや、別に入っても大丈夫だよ……あたしもこの家に居た頃は、夜中でも入っていたし。
……それは、あなたがこの家の。
今は、水野さんも然うだよ……。
……どうしてそんなに呑気なの。
呑気、かな……。
……仮令入れるとしても、躰が気怠くて動きたくない。
あたしが、一緒に……。
……ばかなの?
良いと、思うんだけどなぁ……。
……頭が緩すぎる。
む……。
……。
ほっぺた……。
……にやにやしないで。
今夜だけは、許して欲しい……。
……どうせ、今夜だけではないくせに。
うん……ごめん。
……。
お風呂……入らなくて、平気?
……明日の朝に、入る。
明日の朝だね……ん、分かった。
……朝に入っても。
問題ない……あたしは、朝にも入っていたから。
……。
夜に入れなかった時は、いつも次の日の朝に入っていたんだ。
……夜、入ったけど。
だとしたって、朝に入ってはいけないなんて決まりはないよ。
……夜に入って、朝にも入ったことは。
入りたいなって、思ったら。
……気儘すぎる。
はは……。
……この家に居た時の、あなたの一日の過ごし方はどうなっていたの。
んー……自由、かな。
……学校には。
学校には行ったり、行かなかったり。
……おばあさまには、何も言われなかったの。
うん、特に何も言われなかったかな……ただ、家事はきちんとするように言われた。
炊事、洗濯、掃除に、買い物……他にも、色々。そうそう、庭の畑の面倒も見たよ。
……家事だけ?
勉強は、まぁ、どちらでも……あ、いや、少しはした方が良いと言われたかな。
だけど、学校に行ったり行かなかったりだったから……教科書を開いても、良く分からなくて。
……小学校の教科書なら。
小学校の教科書は、中学生になる時に全部処分しちゃって。
復習なんてしないと思ったし、取っておいても場所を取るだけだから。
……。
文字を読むだけなら、出来たんだけどね……。
……数学は。
ん……いまいち。
……単純な計算ならば、解けたでしょう。
小学校までの四則計算くらいなら、出来なくはなかったけど……中学から突然、エックスなんて知らないものが当たり前のように出てくるようになったろう?
エックスを求めよって、そもそもエックスってなんだよ……なんて、思ってしまって。エックスの前に数字がついてたら、いよいよ意味が分からなくて。
……教科書を読めば分かるわ。
それが、いまいち分からなかったんだ。
……字は読めたのよね。
読めたけど……思えば、いきなり出てきたエックスって奴が気に食わなかったのかも。
……学校には、毎日。
行っても、図書室か屋上で時間を潰すことが多かった……特に数学とか理科とかは、さぼることが多かったよ。
……本を読むきっかけは?
本は……水野さんに、近付く為。
……それだけ?
ん……。
……本当に、私に近付く為だけ?
んー……然うだな。
……一朝一夕では、知識は身につかない。
水野さんは、疾うの昔に気が付いていると思うけど……この家、本が多いだろう?
……ええ、思っていたよりも置かれているわ。
祖父母は、本を読むのが好きでさ……。
……今でも、おばあさまは読んでいるわね。
今は、何を読んでた……?
……知らないの?
なんか、難しい本だったと思う……。
……生化学の本を読んでいたわ。
生化学……。
基礎……初歩的なものだったけれど。
……やっぱり、難しいな。
おばあさまは、そちらの分野に興味があるの。
ん……多分。
……多分?
祖母は、祖父も然うだったけど、なんでも読むんだ……。
……興味を持ったものなら?
うん……だから、今は生化学に興味を持っているんだと思う。
……然う。
あたしが、本を読むようになったのは……。
……おじいさまとおばあさまの影響なのね。
然うなる、かな……。
……良いと思うわ。
感謝したよ……。
……感謝?
本を読む習慣をあたしに与えて呉れた祖父母に……おかげで、水野さんに。
……とんだ下心だわ。
ははは……。
……。
若しかしたら、水野さんと話が合うかも知れない。
……私と?
きっと、水野さんが話し掛けたら……おばあちゃんは、喜ぶと思う。
……私と、話しても。
水野さんは物知りだろう……?
だからきっと、興味を示すと思うんだ……。
……そんなに、お話させたいの?
ん、いや……水野さんが話したくないのなら、無理にとは言わない。
……。
う……。
……気が向いたらで、良いのなら。
ん……良いと思う。
……。
ふふふ……。
……話し方も、どことなく似ているの。
誰に……?
……あなた以外に、誰が居るの。
あ、うん……然うだよね。
……あなたの家族は、おばあさましか知らない。
……。
ご両親とおじいさまは、写真でしか……。
……。
声も、気質も、話した方も、笑い方も……何も、知らない。
……声は、あたしも忘れてしまった。
……。
どんな声をしていたか……なんとなくならば、思い出せる。
でも、明瞭には思い出せない……カセットテープにでも録音しておけば、良かったんだろうけどね。
……ひとは、声から忘れていく。
本当に、然うなんだ……両親の声なんて、毎日聞いていたのに。
……私は、早く忘れたい。
……。
……耳の奥にこびりついている、あの忌々しい声を。
あたしと過ごす時間が増えれば増えるほど……必ず、薄れていくよ。
……楽観的。
ひとは、忘れる生き物だから……。
……忘れられないことも、あるわ。
あたしが……ん。
……その先は、言わなくても良い。
分かった……なら、言わない。
……はぁ。
久しぶりだね……。
……あなたの、せい。
うん……あたしのせいだ。
……。
あったかいな……。
……もう、しない。
……。
……しない。
はい……分かりました。
……いい加減、寝ないと。
ん、然うだね……もう、寝よう。
……。
今夜は……ひとつの布団で。
……折角、干したのに。
また干せば良いさ……明日も晴れるみたいだから。
……。
それじゃあ、改めて……おやすみ、水野さん。
……明日は。
朝ごはんの前に、お勉強だ……。
……憶えているのなら、良い。
忘れないよ……。
……木野さん。
うん……?
……おやすみなさい。
ん……また、明日ね。
……。
……やっぱり、水野さんの温もりがあると。
もう、言わないで……。
……はい。
……。
……。
……少しずつ、慣れてきたの。
何に……?
……お布団に。
そっか……良かった。
……。
旅行に行ったら、旅館に泊まるのも良いな……。
……急に何。
ん……なんとなく。
……どうして、旅館なの。
大体、お布団だろうから……。
……ぴったりと、寄せて。
いや……ふたりで、ひとつのお布団に。
……。
いつもとは、ちょっと違う雰囲気で……。
……木野さん。
うん……?
……寝かせないつもりなの。
ん、ごめん……もう、黙る。
……話の続きは、また明日に。
……。
……いやなの。
ううん、いやじゃない……。
……。
とても、楽しみ……。
……っ。
……?
……。
水野さん……どうかした?
……来た。
え、何が……?
……あの女が。
は……。
……近くまで、来ている。
そんな、まさか……。
……。
水野さんの、気のせいじゃ……。
……いいえ、気のせいなんかじゃないわ。
何かの、間違いではない……?
……間違えようが、ない。
……。
この気配は……あの女のもの。
だけど、この家を知るわけ……誰かを使うお金だって、もうないだろう?
……こんなに、はっきりと感じるなんて。
本当に、来たというのか……。
けれど……どこか。
俄かには、信じられないけれど……水野さんが言うのなら。
……。
一応、祖母にも声を掛けて……。
……待って。
うん……?
……何か、混ざっているような。
混ざって……?
……。
水野さん……。
……まさか。
……。
ここから早く、出ないと。
……え。
直ぐに、外へ。
外……?
……早く、出なければ。
どうして、ここに居た方が
だめよ。
何が、だめなんだい……?
……おばあさまに、迷惑を掛けてしまう。
おばあちゃんなら、
あなたは、鈍ってしまったの?
……。
あれはもう、ひとではないわ。
……ちょっと待って。
待てない……一刻も早く、ここから離れないと。
……これか。
気付いたのなら、早く……。
……確かに、混ざっているな。
早く、ジュピター……。
……ここに来るまでにはまだ、時間はあるけど。
移動速度が、速い……愚図愚図、していたら。
分かった、行こう。
……。
……着替えは。
要らない……。
……。
変身してしまえば……。
……マーキュリー。
行きましょう……ジュピター。
……うん、行こう。
……。
……どうした?
なんでも、ない……。
……。
なんでもないから……気にしないで。
……無理だよ。
本当に……なんでも、ないから。
……躰が重たいのは、あたしのせいだろう。
……。
マーキュリー……。
……何処か、広い場所に。
良いところがある……ここから離れているから、祖母に迷惑を掛けることもない。
……早く、その場所へ。
……。
連れて行って……ジュピター。
……その為に。
ん……。
……暫く、じっとしていて。
自分で……。
……この方が、今は速い。
……。
……後方支援は、任せる。
後方……。
……頼りにしているよ、マーキュリー。
ジュピター……。
……さぁ、行こう。
……。
……外は、寒いかな。
ごめんなさい……。
……謝ることなんて、ないさ。
あなたにじゃない……。
……祖母は、気にしない。
被害が、出てしまったら……。
……出ない。
……。
あたしが……あたし達が、出さない。
然うだろう……マーキュリー。
……わたし。
大丈夫だ……マーキュリーは、ひとりじゃない。
……。
あたしが、居る……。
……。
その時は……あたしが、やろう。
……あぁ。
一度、然うなってしまったら……元には、戻らない。
もう二度と、元に戻ることはない……。
……。
だけど、マーキュリー……マーキュリーが、若しも。
……私も、やる。
……。
私が、やらないなんて……有り得ない、から。
……無理は
仮令、無理をすることになっても。
……。
……赦して、ジュピター。
何をだい……?
……。
赦すも、何も……あたしは、ん。
……。
……。
……まこと。
亜美……。
私に……勇気を。
……幾らでも。
……。
……少しでも、亜美の力になるのならば。
こんな、陳腐なこと……。
……たまには、良いじゃないか。
たまにだって……言いたく、なかったの。
……ふふ、そっか。
笑わないで……。
ん……もう、笑わない。
……。
……確り、掴まっていて。
言われなくても……分かっているわ。
ん……然うだった。
着いたら……。
……。
直ぐに、下ろして。
……それは、勿論。
着き次第……いえ、今から迎撃体勢に移行する。
……応。
……。
……必ず、討ち倒す。
気配は強いものではないけれど……くれぐれも、油断だけはしないで。
……絶対にしないよ。
どういった行動を取って来るか……まずは、見極めないと。
……意外に、物理の力が強いかも知れない。
どうして然う思うの……?
……ただの勘。
……。
……聞かなかったことに、
あなたの勘は、当たることもあるから。
……。
……参考程度には、しておくわ。
うん……それくらいで。
……。
……三分は、掛からない。
水気よ……。
……。
……この者に、水の加護を。
これで……あたしは、無敵だ。
……それはない。
……。
……必ず、討ち取るわ。
ふたりでね……。
……。
……雷気よ、この者を守れ。
私よりも……。
……あたしには、水の加護があるから。
……。
……闇が、向かってくる。
私を、追い掛けて……。
……付け込まれたか。
最後まで……。
……。
……本当に、愚かだったわ。
21日
ん、これで良し。
今日は干したから、気持ち良く眠れると思うんだ。
……干さなくても、眠れないことはないけれど。
あたし、干したお布団は冬のが一番好きなんだ。
ほんのりと軽くて、あったかくて、とても気持ちが良いからさ。
……冬のお布団は、ひんやりとしがちだから。
あんまりひんやりしていると、足が冷たくなってしまうだろう?
一度冷たくなってしまうと、なかなかあったまらなくて。
……どんなに寒い夜でも、あなたは足まで温かいわ。
足が冷たくなると、眠れなくなってしまうから。
小さい頃は出来るだけ丸くなって、足を冷やさないようにしたっけ。
……。
ねぇ、水野さん。
……なに。
久しぶりに、一緒に眠りたいね。
……無理。
ひとつの布団では狭いと言うのなら、ふたつの布団をぴったりとくっつければ良い。
然うすれば、ふたつ分の広さになる。あたしのベッドよりも広いよ。
……ぴったりとくっつけたとしても、眠っている間に隙間は出来るわ。
だったら、どちらかのお布団にふたりで入って、
どちらかのお布団にふたりで入るのならば、くっつける意味がないでしょう。
全くないわけでは
それに、掛け布団はどうするの。
掛け布団をくっつけたところで、ふたつ分にはならないわよ。
それは……確かに。
お布団をくっつけるのは構わないわ。
だけれど、それだけ。同じお布団には眠らない。
……お布団の大きさは、ベッドと大して変わらないと思うんだ。
ええ、然うね。
だから……ふたりで、寝ても。
もうひとつお布団があるのなら、私はそれを使うべきだと思うわ。
……ねぇ、水野さん。
なに。
……理由は、お布団だけ?
他にあるとでも?
……若しも、祖母のことを、気にしているのなら。
あなたは全く気にしていないと言うの。
……全くでは、ないけれど。
だったら。
それでも……たまには、一緒に眠りたい。
ひとりの方が、手足を伸ばして眠れる。
……あたしは、直ぐ傍に水野さんの温もりがあった方が良いな。
隣には居るのだし、手を伸ばせば届かなくもないでしょう。
……反対側に居ると、届かない。
それは仕方ないわね。
……届きそうだったら、伸ばしても良い?
そのままこちらのお布団に入ってきそうだから、だめ。
……だから、伸ばせない。
伸ばそうとしたことはあるの?
……水野さんが眠っている時に、ちょっとだけ。
……。
でも、やめたんだ。
……何故?
その温もりに少しでも触れたら、一緒に眠りたくなってしまうから。
……それで、踏み止まったと。
水野さんは……伸ばそうとしたこと、ある?
……ないわ。
一度も……?
……。
ねぇ、水野さん……。
……。
一緒に、眠るだけ……それ以上のことは、しないから。
……なんて言っておきながら、抱き締めてくるのでしょう。
ほんの、少しだけ……。
……眠るだけ、それ以上のことはしないと言うけれど、いつも口だけ。
す、直ぐに離すから。
……直ぐに離したとしても、抱き締めたことには変わりない。
眠る為に、必要だと言ったら……?
私を抱き締めなくても、あなたは眠れるでしょう。
……抱き締めた方が、もっと良く眠れるんだ。
……。
ふたりで暮らしていた時は、ほとんど一緒だっただろう……?
別々に眠るのは、風邪をひいたとか……そんな時ぐらいで。
……ベッドが、一台しかなかったから。
だから……ひとりで眠るのが、寂しく感じてしまうんだ。
……慣れの問題。
水野さんは……もう、慣れた?
……さぁ。
若しも、慣れていないのなら……今夜は、あたしと。
……。
今夜が駄目なら……明日の夜でも。
……明日の夜も。
……。
おばあさまの家に居る間は、一緒には眠らない。
……そっ、か。
……。
それじゃあ……仕方ないね。
……ねぇ、木野さん。
なんだい……。
ふたりでまた暮らすようになったら、ベッドは
ひとつで良い。
若しかしたら、別々に眠りたいと思うようになるかも知れないわ。
……あたしは、ならない。
……。
大人になったら……大きなベッドをひとつ、買うんだ。
……。
シングルじゃなく、ダブル……セミダブルのベッドを。
……セミダブルなの。
ダブルは、場所を取るから……セミダブルでも、結構、広いというし。
……日常的に使いたいのならば、私はダブルの方が良いと思うわ。
……。
使いたいのでしょう……日常的に。
うん……使いたい。
……あのシングルベッドはどうするの。
あれは……処分する。
……出来るの。
うん……出来るよ。
……買えるようになるまでは、あのベッドを使うつもりなのよね。
ダブルのベッドを買うまでは、使おうと思う……水野さんには、窮屈な思いをさせてしまうと思うけど。
……私がお金を出しても良いわ。
……。
然うすれば……大人になる前に。
……出来れば、自分で。
その間、私に我慢しろと。
……成る可く、早く。
拘りとでも?
……。
……ひとりで眠っていたら、忘れてしまうかも知れないわ。
忘れ……?
……折角、あの窮屈さに慣れていたのに。
……。
……今でもあのシングルベッドで眠っていれば、違うのでしょうけど。
この家は畳の部屋しかないから、今は、使えない。
……。
置けなくは、ないけど……。
……おばあさまは、使っても構わないと言っていたわ。
でも、畳が凹んで傷んでしまうと思うから、使いたくないんだ。それに、この部屋にベッドを置いてしまうと、狭くなってしまう。
布団は収納することが出来るから、使わない時は押し入れにしまっておける。つまり、布団の方がこの部屋には合理的なんだ。
……間違ってはいない。
だろう……?
……一緒に眠りたいのか、然うでないのか。
一緒には、眠りたい。
……使わないベッドは、恐らく、傷んでしまうわ。
だから、定期的に手入れをしようと思う。
使っていた時と同じように。
……愛着があるのね。
水野さんと、眠っていたから。
……。
だけど……その時が来たら、ちゃんと手放すよ。
……まぁ、先の話だから。
うん……。
……。
枕も干したから、気持ち良いと思う。
……少しずつ、慣れてきたの。
うん?
……なんでもない。
……。
……さぁ、寝ましょう。
どうしても。
……。
どうしても、だめかい……?
……だめと言った筈よ。
水野さんは……あたしと、一緒に眠りたくない?
……今は、別の方が良い。
あたしと、一緒に眠りたいと……全く、思わない?
……。
水野さん……。
……あなたのことだから、今夜だけではないでしょう。
……。
今夜、一緒に眠ったら……明日の夜も。
……一週間に、一度だけでも良い。
一週間に一度……?
……それが多ければ、二週間に一度でも。
……。
兎に角、ふたりで一緒に眠る夜が欲しいんだ……。
……決めておけば、その日が来るのを楽しみにすることが出来ると。
心の持ちようが違う……と、思う。
……はぁ。
だめ……かな。
……本当に
抱き締めて、触れるくらいのキスはするかも。
だめ。
……あぁ。
全く。
……水野さん。
明日は、朝からお勉強をするつもりだから。
……うん、分かった。
電気は……お願いしても良いかしら。
ん……良いよ。
……。
……あったかい?
ええ……暖かいわ。
ん……良かった。
……。
それじゃあ、消すよ。
……ん。
……。
……おやすみなさい、木野さん。
うん……おやすみ、水野さん。
……。
……せめて。
なに……。
……水野さん側で、眠っても良い?
いつも、然うしているでしょう……。
……うん、いつも然うしてる。
だから……わざわざ、聞かなくても良いわ。
……水野さんは、いつも真ん中だね。
その方が、寝やすいから……。
……たまに、手が届かない端っこに。
ただの、寝返りに過ぎない……。
……水野さんも、あたしの傍に。
……。
……いや、なんでもない。
そんなに、私に触れたいの。
……触れたいよ。
どうしても……。
……分かっているんだろう。
……。
水野さんへの欲が……日に日に、溜まっていくんだ。
……分かっているわ。
分かっていても……。
……ふたりでは、ないから。
ん……。
……どうしても、気になってしまうの。
一緒に、眠るだけなら……。
……抑え切れなくなったら、どうするの。
……。
ないとは、言えないでしょう……そんなにも、私への欲が溜まっているのなら。
……ないとは、言えない。
だから……。
……我慢出来ると、思っていたんだ。
……。
だけど、こうも触れらない日が続くと……欲ばかりが、溜まっていって。
……そんな状態で、ひとつのお布団に入ったら。
眠るだけは、済まないかな……。
……分かっているのでしょう。
……。
触れたら、抑えられなくなるかも知れない……であるならば。
……水野さんが、抑えて。
私が……?
水野さんが駄目だと言えば、抑えられる……。
……私に、欲情したあなたを抑えろと。
いつものように、言って呉れれば……必ず、抑えるから。
……あなたのことだから抑えるでしょうね、無理矢理にでも。
だから、水野さん……どうか、一緒に。
……いや。
う……。
……今夜はもう、目を閉じて眠って。
水野さん……。
……あなたは、分かっていない。
なに、が……。
……あなただけでは、ないということ。
あたしだけじゃ、ない……?
……なんでもないと、思っていたの。
……。
別に……しなくても。
……それ、は。
詳しくは……言わない。
……。
……木野さん。
そっちに行っても、良い……?
……だめよ、来ないで。
だけど……行きたい。
……だめだと、言っているでしょう。
少しだけ……少しだけ、しよう。
……いやよ、絶対にしない。
祖母なら、もう、眠っている……。
……それが、何。
部屋も、離れている……。
……関係ない。
あまり、長くは
最低。
……う。
欲に、身を任せて……自分だけ、気持ち良くなれれば良いと言うの。
そ、そんなことは……。
……ないとは、本当に言えるの。
……。
……少しだけって、それは木野さんの都合でしかないじゃない。
みずのさん……。
……私がそれで、満足出来なかったら、あなたはどうして呉れるの。
その時は……満足、出来るまで。
……して呉れるの。
するよ……と言うより、したい。
……やっぱり、だめ。
あぁ……。
……どうしても、気にしてしまうから。
……。
ふたりでないと……私は、出来ない。
……分かっ、た。
……。
困らせて、ごめん……。
……。
おやすみ……また、明日。
……ちゃんと、起きてね。
あぁ……ちゃんと、起きるよ。
……。
……ん。
……。
水野、さん……?
……腕を、伸ばして。
でも……。
……早く。
良いの……?
……出来ないのなら、
出来る。
……。
……出来るよ。
抱き締めてとは、言ってない……。
……うん、言われてない。
それなのに……。
……水野さんが離して欲しいと言うまで、離さない。
……。
水野さん……水野さん。
……きつい、わ。
ごめん……久しぶり、だから。
……もう少し、力を抜いて。
ん……。
……。
……これで、どうだろう。
あまり、変わらないわ……。
……ごめん、上手く加減が出来ない。
……。
離して欲しかったら……いつでも、言って。
……離して。
え……。
……言えば、離して呉れるのでしょう。
……。
……離して呉れないの。
離す、よ……もう、離す。
……。
……ごめん、今のあたしは嘘吐きだ。
然うみたいね……。
……もう少しだけ、このままで。
……。
居させて……。
……このままで、良いの。
……。
……返さなくても。
出来れば、返して欲しい……。
……。
……無理なら、良い。
無理……。
……。
……返さないなんて。
あ……。
……まことの、ばか。
あ、あぁ……。
……キスは、だめ。
亜美……。
……だめ、だと。
……。
……ん。
……。
や……だめ。
……ふれるだけの、キスを。
うそ、つき……。
……あいしてる。
いわないで。
……あいしてるよ、あみ。
いわないで……いまは、やめて。
……。
ん……ん。
……。
……まこ、と。
かわいいな……。
……これいじょう、は。
こっちに、おいで……。
……ぁ。
……。
……も、ぅ。
今夜は……一緒に。
……ば、か。
20日
お、咲いてる。
水野さん、梅の花、咲いてるよ。
……咲いていて、良かったわ。
ふふ、可愛いなぁ。
……白梅なのね。
紅梅だと思った?
……別に、思っていない。
紅梅の方が良かった?
……どちらでも良いわ、梅の花なら。
この辺りで、紅梅が見られる場所は……あの辺かな。
今日は行かないわよ。
うん、今日は行かない。
多分、まだ咲いてないから。
……咲いていたら、行くつもりだったの。
ううん、今日は行かないよ。
行ったら、帰るのが遅くなってしまうから。
……。
咲く頃になったらさ、お散歩がてら、行かない?
……気が向いたらね。
あと、二週間もすれば咲くと思うんだ。
……今年は寒いから、雪が降らなければ良いけれど。
雪か……雪が降ったら、雪掻きしないとだめかな。
……雪が降ったら、木野さんがお買い物に行くべきだわ。
うん、然うするつもりだよ。
……。
今日の夕ごはんは煮魚らしい。
……お魚は何かしらね。
んー……目梶木か、鰤か。
……鱈も美味しいわよね。
あぁ、美味しいねぇ。
……おばあさまの味は、あなたの味と良く似ている。
祖母に教わったから。
……あなたのお母さまの味は。
祖母の味と良く似ていたよ、親子だからね。
……つまり、三代続いているのね。
三代どころではないかも知れない。
……。
祖母は、母親から教わったと言っていたから。
……昔は夫の好み、姑の味に合わせることが多かったと思うのだけれど。
祖母が祖父に嫁いだ時にはもう、お姑さんは居なかったんだってさ。
……。
あと、お舅さんも居なかったから……あの家の味は、祖母が母親から受け継いだものになった。
祖父も、あれこれ言うひとではなかったらしい。曰く、若い頃から出されたものを黙々と食べていたとか。
……文句も言わず?
文句だけでなく、美味しいも滅多に言わなかったらしいんだ。
聞いても大抵、悪くないの一言で……。
……。
誰かに、似ているような。
……気のせいよ。
気のせい?
……おじいさまは、出されたものは残さずに食べたの。
具合が悪くて、食欲がない時以外は。
……それは、分かりやすくて良いわね。
うん……然うなんだ。
……木野さん?
祖父は、お医者さんが嫌いだったみたいでさ……なんでも、若い頃に酷い藪医者に引っ掛かったとかで。
……。
だから……気が付くのが、遅くなってしまって。
祖母はさんざ、お医者に行くべきだと言ったみたいなんだけど。
……何処が。
……。
……やっぱり、言わなくて良いわ。
肺。
……肺。
若い頃、肺に良くないものを沢山吸ってしまったらしい。
……煙草。
ううん、煙草じゃない。
祖父は吸わないひとだったから。
……石綿。
祖母は、粉塵と言っていたよ。
……。
お医者が嫌いなのに、肺が悪いせいで何度も入院することになってしまって。
……大変だったの。
うん……ある意味、大変だったみたいだ。
……ある意味?
弱音も、不満も、文句さえも、一言も言わないで……ひとりで淡々と、病気に向き合っていたらしい。
入院が決まると、祖母の手を出来るだけ借りずに自分ひとりで支度をして。祖母が付いていくと言っても、来るなの一点張り。
お見舞いすらも、拒んで……多分だけれど、祖父は自分が入院している姿を祖母に見られたくなかったのかも知れない。
……あなたのお母さまは。
心配だったと思う……けど、祖父は母にも心配するなの一点張りだったみたいで。
あたしが小さかったこともあるけれど……お見舞いには、ほとんど行けなかったんじゃないかな。
……仲が悪いわけでは。
どうだろう……祖父は、母の結婚には反対だったみたいだから。
……認められていなかったの?
あたしが、生まれるまではね……。
……。
あたしが生まれて暫く経った頃に、漸く認めて呉れたらしい。
だけど、言葉にはしなくて……仲が悪いわけではないけれど、だからと言って、良かったわけでもないと言った方が良いかな。
……あまり、来たことがなかったのよね。
うん……。
……。
だけど、この白梅のことは憶えていたんだ。
……誰と見たの。
母と。
……お父さまは。
祖父と顔を合わせるのは、相当、気まずかったらしくて……祖父母の家に来る時は、大体、母とふたりだけだったんだ。
今思えば、父も来れば良かったと……祖父はもう、怒っていたわけではなさそうだったから。
……木野さんは、おじいさまと。
一緒に遊んだ記憶はないかな……あ、でも、竹とんぼを作ってもらったよ。
その竹とんぼで遊んでいるあたしを、祖父は見ていたんだと思う。
……竹とんぼを追い掛けて、転んだりはしなかった?
……。
転んだのね……。
……飛んでいく竹とんぼばかりを見ていたから。
容易に想像出来るわ……。
……手当ては、祖母がして呉れた。
泣いたりはしたの?
ううん……あたしはいつだって、泣かなかったよ。
……痛くなかったの。
痛かった。
でも、泣かなかった。
……憶えていないだけで。
怪我くらいじゃ、涙は出てこないんだ。
泣いたところで、怪我が治るわけじゃないから。
……小さな子はもっと本能的で、そんなことを考える筈がない。
だけど、あたしは考えた。
……。
恐らく、水野さんも。
……私の話はしていない。
まぁ、前世は関係ないと思うけどね。
……意外としっかりしているところは、おばあさまに似ているのかも知れないわね。
それか、母かな。
いや、祖父かも。
……。
そうそう、祖父はね、顔が怖かったんだよ。
……強面?
然う、強面。
仏様の写真も、難しい顔をしているだろう?
……木野さんに、少しだけ似ていると思うわ。
え、似てるかな。
……少しね。
あたし、強面?
……強面ではないわ。
……。
……少し、似ているだけよ。
初めてだ……祖父に似ていると言われたのは。
……嫌なの?
別に、嫌ではないけど……若しもあたしが強面だったら、水野さんはあたしをどう見ただろう。
……近付かないわね。
だよね……。
……この顔でも、近付かなかったのだから。
ん……。
……まさか、近付いてくるなんて。
思っても、いなかった……?
……知りたくもなかったわ。
……。
……あなたのことなんて。
あたしは……水野さんのことが知りたくて、仕方なかったよ。
……クラスが隣だったのも良くなかったわ。
おかげで、体育が同じ時間だった。
……気安く、声を掛けてきて。
まずは、知り合いになれたらと思って。
……知り合い、ね。
恋人同士になるには、時間が必要だ。
あたしは直ぐにでもなりたかったけど、水野さんは絶対に然うではないから。
……なれると思っていたのだから、お花畑なのよ。
なれるというより、なりたいという気持ちが、兎に角、強かった。
寝ても覚めても、水野さんのことばかり考えていたから。
……私が距離を取ろうと思っても、詰めてくるの。
どうしても、近くに行きたくて。
……挙句、ファーストキス。
あたしは、口の端にしただけで……唇に、して呉れたのは。
名前と顔を知っているだけの相手に、仮令口の端であっても、キスされるだなんて。
……。
有り得ないわ。
……はい、その通りです。
嫌われても、おかしくない。
いいえ、嫌うなんて生易しい感情ではないわ。
……返す言葉もありません。
それなのに。
……水野さん。
……。
……。
……体育の授業中、あなたは。
水野さんだけを……ずっと、見てた。
……。
あ、いや、下心からじゃなくて……。
……嘘吐き。
好きなひとを、見ていたかったんだ……。
……あなたの視線には、気が付かないようにしていた。
気持ち悪かった……よね。
……今更。
う……。
……そんなあなたと、恋人同士になるなんて。
……。
……どさくさに紛れて、手を繋ごうとしないで。
ん、ごめん……。
……。
梅の花、きれいだろう……?
……ええ、きれいだわ。
寒くない……?
……風が冷たい。
だったら……。
……くっつかなくて良いから。
手を、繋ぐだけ……。
……もう、繋いでいるくせに。
うん……。
……。
……ねぇ、水野さん。
なに……。
……何か、話したいことはあるかい。
別にないわ……。
……本当にない?
……。
ないなら、良いんだ……ごめん。
……あなたのおばあさまはどうして、私に優しくして呉れるのか。
……。
……私は、赤の他人なのに。
息苦しい……?
……ストレスが、全くないわけではないわ。
……。
だけど……あの家よりは、ずっと過ごしやすい。
……うん。
でも、いつまで……。
……いつでも良いよ。
……。
水野さんが、大丈夫だと思えたら……また、ふたりで暮らそう。
……あなたは、それで良いの。
うん……?
……おばあさまを、また。
……。
……私のことよりも。
それは出来ない。
……木野さん。
祖母も……おばあちゃんも、分かっている。
……あなたは。
ねぇ、水野さん。
……。
あたしを、冷たいと思う?
……分からない。
分からない?
……私は、親を捨てたから。
……。
血の繋がりなんてものは、ただの幻想に過ぎない……。
……けれど、ひとのこはそれを好む。
家族、或いは、血族は……助け合うべき。
……然うやって囲い込まれた集団の中に歪が生まれないと、どうして言えよう。
……。
血の繋がりがあろうが……己を守る為に捨てるべきものは、ある。
……でも、あなたとおばあさまは違う。
……。
……違うのならば、他人である私よりも。
ひな鳥は、いつか旅立つものだ。
……。
幼いあたしに、祖父母は然う言い聞かせた。
今でも……祖父はもう、居ないけれど……祖母の考えは、変わっていない。
……確かめたの。
いや、向こうから言われた。
……。
離れていても……あたしと祖母の関係は変わらない。
だから……あたしは、水野さんと生きる。生きたいんだ。
……三人でも。
水野さんがそれを望むのなら、あたしは構わない。
……。
だけど、祖母にも聞いてみないといけないと思う。
……望まないと。
祖母にも意思がある、勝手に決め付けることは出来ないよ。
……私が居なければ。
それは、違う。
……勝手に決め付けることは出来ないと言ったばかり。
確かめたから。
……。
……水野さん。
利己的な、遺伝子……。
えと……リチャード・ドーキンスだっけ。
……利己的なのは遺伝子であって、ひとのこ個人ではない。
自分のコピーを残すべく、遺伝子は利己的に動く……己が宿っている、個人や個体を操って。
……少しでもより良く適応して、少しでも多くの子孫を残せるように、生物を進化させてきた。
雌雄も、然うなのだろう?
……病気に抗う為に、遺伝子を掻き混ぜる必要があったから。
遺伝子が掻き混ざることによって、多様性が生まれ、全滅を免れる……雑種が強いと言われるのも、頷ける。
……家族、或いは血族は、己と同じ遺伝子を持つ存在を大切に扱うとされてきた。
けど……実際は、然うではない。
……。
同じ遺伝子を持っていなくても、大切に想うことは出来る……血の繋がりなんか、関係ない。
……予め、遺伝子に仕組まれていることであっても。
祖母は……水野さんのことを、可愛いお嬢さんだと思っている。
……は。
そして、あたしの大切な……守るべき存在だとも。
……。
祖母は……拾われ子なんだ。
……拾われ子。
赤ちゃんの頃に両親を亡くして、全く血の繋がりのない者に引き取られた。
……。
……祖母はただ、祖母の中の普通に従って、水野さんと接しているだけなんだ。
……。
水野さんの中の普通とは、ちょっと違うかも知れないけれど……。
……木野さん。
なんだい……。
……居ても、良いの。
勿論……。
……もう少しだけ。
水野さんが、大丈夫だと思えるまで。
……。
一緒に、居よう。
……うん。
……。
……白梅。
小さくて、可愛いだろう?
……だからまた、見に来たいわ。
19日
水野さん、そろそろ休け……。
……。
み、水野さん、どうしたのっ?
……別に、どうもしないけど。
よ、良かった、意識はあるんだね。
……寝ているとでも思ったの。
いや、寝ているというより……。
……。
若しかしたら……具合が、悪いのかなって。
……横になっているだけじゃない、大袈裟ね。
然うなんだけど……倒れてるようにも、見えたから。
……私が横になっているのなんて、初めてのことではないのに。
本当に、大丈夫かい……?
……問題ないわ、心配しないで。
ん、そっか……はぁ、良かった。
……はぁ。
あの、水野さん……。
……なに、木野さん。
若しかして、眠たい……?
……眠くはないけど、少し疲れてしまって。
あ、あぁ……じゃあ、休憩していたんだね。
……休憩なんて、するつもりはなかったの。
良いんだよ、好きな時に休憩して。
……ごめんなさいね、役に立たなくて。
そんなことは思っていない、水野さんのペースでやって呉れれば良いんだからさ。
……あなたは、然う思っていても。
これ、祖母が作ったかりんとう。
……。
疲れている時は甘いものを食べるのが一番だって、三時じゃないけれど、作って呉れたんだ。
……掃除も満足に出来ないのに。
いや、すごくきれいになってるよ。畳なんて、ぴかぴかで。
これで出来ないなんて言われちゃうと、あたしの立つ瀬がない。
……畳って。
うん?
……面白いわね。
何が面白いんだい?
……畳の目を数えることが出来て。
……。
……今、変わっていると思ったでしょう。
いやー……水野さんらしいなって。
……何処が。
畳の目にまで、興味を持つ辺りが。
……別に、興味を持ったわけではないわ。
若しかしないでも、数えてた?
……数えていたのに、木野さんが邪魔をしたの。
何処まで数えたの?
……畳一枚の、三分の一も満たないわ。
……。
……悪かったわね、変わっていて。
や、あたしも小さい頃、数えたなぁって。
……そんな見え透いた嘘に騙されるとでも?
畳に転がってる時に、ふと、気になってさ。
……本当に数えたというの。
数えたんだけど……途中で。
……眠ってしまったのね、木野さんらしいわ。
起きたら、お腹にタオルケットが掛かってた。
……私が返事をしなければ、掛けて呉れたのかしら。
ただ、眠っているだけなら……。
……心配性。
今なら、毛布が良いかな……今日は暖かいけど、それでもやっぱり、冬には変わりないから。
……。
畳の目って、細かいよね。
……眠れない時は、畳の目を数えてみるのも良いかも知れないわね。
数えるのに夢中になってしまったら、かえって目が冴えてしまうかも知れない。
……あなたの場合はないと思うわ。
ん、然うかな。
……然うよ。
ふふ、そっか。
……。
水野さんは、数え切れる?
……時間があれば。
一枚数えるのに、どれくらい掛かるかな。
……一時間もあれば、余裕で。
一時間か……あたしなら10分くらいで力尽きて、寝ちゃうかも知れないなぁ。
……たった10分なの?
大体、それくらいだと思うんだ。
子供の頃も、それくらいだったと思うし。
……集中力がない。
他のことになら、もう少しあるよ。
……お勉強とか。
水野さんに夢中になっている時とか。
……それは、どうでも良い。
大事なことだから。
……。
起きられそうかい?
それとも、また数え始めるかい?
……起きる。
良かったら、一緒に横になろうと思ってたんだけど。
……は。
お勉強をする時間がなくなっちゃうよね、うん。
……分かっているのなら、良い。
はい。
……よいしょ、と。
手を……。
……要らない。
ん、そっか。
……はぁ。
かりんとう、食べるかい?
……食べる。
じゃあ、一緒に。
……おばあさまは?
買い物に行ったよ。
……然う。
だから、今はふたりきりだ。
……言わなくても、分かる。
ふふ、然うだよね。
……。
うん?
……座らないの。
隣に座っても良い?
……隣でなくても良いと思うわ。
水野さんの隣が良いんだ。
……狭いわけではないのに。
良いかい?
……。
ありがとう。
……あまりくっつかないで。
ん、くっつかない。
……。
はい、どうぞ。
……食べる前に、手を洗ってくる。
ん、分かった。
……。
……。
……なんで付いて来るの。
あたしも、手を洗おうと思って。
……洗っていないのに、おやつを持ってきたの。
もう一度、洗っても良いかなって。
……あ、然う。
うん。
……。
……ね、水野さん。
なに……。
……掃除が終わったら、散歩に行かない?
……。
お勉強は、その後に。
……どうしようかしら。
そろそろ、梅が咲く頃だと思うんだ。
……時期にしては、まだ早いと思うのだけれど。
早咲きの梅なんだ。
……遠いの。
ううん、遠くはないよ。
ここから、20分くらいかな。
……然うなると、一時間くらいは掛かるわね。
日が暮れる前には帰ってこよう。
……掃除が終わる時間次第。
出来るだけ、早めに終わらせるようにする。
……どうぞ。
うん。
……。
んー、冷たい。
……お湯、出したら?
でも、大丈夫。
……。
どれもこれも、年季が入っているものばかりだろう?
……とても大切にされているのが分かる。
……。
……嫌ではないわ。
そっか……。
……。
さて、戻ろうか。
……ん。
……。
……おばあさまは、何処のお店に。
いつものスーパーに行くって言ってた。
……。
昔は、個人の商店に行ってたみたいなんだけど……今じゃもう、跡形もないんだって。
……荷物持ちに、付いていかなくて良かったの。
荷物持ちよりも、掃除。
……然う、言われたの。
うん、言われた。
……。
お風呂にトイレ、それから、廊下。
……どこまで。
あとは廊下だけだ。
……ふぅん。
水野さんは、あたし達の部屋の掃除。
……あなたが使っていた部屋なのよね。
然うなんだ。
……懐かしい?
戻ってきた時は、懐かしいと思ったけど。
……。
水野さん?
……今日のかりんとう。
あぁ……今日は特別に、黒と白のかりんとうなんだって。
……。
嬉しい?
……教えない。
ふふ……それじゃ、手も洗ったことだし食べようか。
……こぼさないでね。
うっかりこぼしてしまった時の為に、ティッシュを敷いておこうかな。
……。
……。
……何。
ん……一生懸命、やって呉れてるんだなって。
別に……いつもと変わらないわ。
畳が、まるで新品みたいだ。
……そんなことは、決してない。
それくらい、ぴかぴかだって言いたいんだ。
……一度、新しい畳を見てみた方が良いわね。
水野さんは見たことある?
……ないけれど、新品の畳はこれよりもずっときれいなことは分かる。
まぁ、古いからね。
……それでも、傷んでいない。
確かに、目立った傷みはないけど。
……あなたが居なくなった後も、ちゃんとお掃除はされていた。
……。
……しっかりしたひとね、おばあさまって。
ん……然うなんだ。
……あと、廊下だけなのよね。
うん、あと廊下だけだ。
……平屋だと。
うん?
……当たり前だけれど、階段がないのね。
二階がないからねぇ。
……。
……二階がなくて、残念?
いいえ……。
……平屋も、良いものだろう?
良いも何も……私は二階のある家に住んだことがないから。
あぁ、そっか……マンションの部屋に「二階」はないもんな。
でも、だからこそ、住んでみたいとは思わないかい?
……別に、思わないわ。
住めれば良い?
……足りていれば、それで十分。
水野さんは、欲がないなぁ。
……衣食住への興味が薄いだけで、欲が全くないわけではないわ。
あたしに対しての欲は……。
……。
うん、なんでもない。
……なければ、良かったの。
……。
……若しも、なかったら。
あって、嬉しい。
……。
もっと欲深になっても良いから。
……これ以上は、なりたくないわ。
……。
かりんとう……食べても良いのよね。
それは、勿論。
……いただきます。
はい、召し上がれ。
……木野さんも。
うん、いただきます。
……。
あたしは、白から食べようかな。
……黒と白、わりと違うものなのよね。
水野さんは、どっちが好き?
……どちらも、悪くない。
うん、あたしも。
……。
……。
……美味しい。
ん、良かった。
……木野さんは、あるのでしょう。
ん、何が?
……二階。
あぁ……両親と住んでいた家が二階建てだったよ。
……二階があると、どうなの。
どうって……階段があって。
……階段がなかったら、二階には梯子で上がるしかないわね。
それで思い出したんだけど。
……梯子で何を思い出すの。
あたし、階段から転げ落ちたことがあるんだ。
……は?
下から三段目か、四段目からだったかな。
……怪我は。
確か……然う、手を捻ったぐらいだったと思う。
……手首の捻挫?
右手……いや、左手だったかな。
……骨は折れなかったのね。
うん、骨は大丈夫だった。
お医者さんには、なかなか頑丈で良い骨だって褒められたんだとか。
……頭も、打たなかったと。
その時、リュックサックを背負っていたんだ。
……リュックサック?
リュックサックがクッションになって呉れたから、あたしは頭を打たずに済んだらしい。
……待って。
ん?
……まさか、前に転げ落ちたというの?
勢いでつんのめって、空中でくるっと回ったらしいよ。
……あなた、どういう下り方をしたの。
駆け下りようとしたんだと思う。
……危ないにもほどがあるわ。
その日は、ピクニックに行く予定だったんだ。
……ピクニック?
両親と。
……それで、はしゃいでいたと。
あたしのことだから、然うなんだと思う。
……ピクニックは。
中止になって、お医者さんに。
今思えば、仕方ないんだけど……悲しかったな。
……。
ん……水野さん。
……昔から、落ち着きがなかったのね。
今も、ない……?
……どちらかと言うと。
おかしいな……大分、落ち着いてきた筈なのに。
……私の前では、まだまだ子供のよう。
あぁ……それは、仕方ない。
……何が仕方ないの。
言わなくても、水野さんは知っていると思う……。
……。
……二階建ては、なかなか危ないだろう?
平屋……と言うより、縁側。
……ん?
あなたのことだから、一度くらいは、落ちたことがありそうね……。
……。
あるの……?
……どうして分かったの?
やっぱり……。
……そんなに、落ちそう?
ええ、落ちそうだわ……。
……その時は、膝を擦り剥いて。
怪我の多い子だったのね……。
……うん、多かった。
どこかしら、怪我をしていて……。
……治ったと思ったら、また、新しい傷をこさえるんだ。
……。
……。
……この家、私は好きだわ。
本当……?
……本当。
……。
この期に及んで……嘘なんて、言わない。
……うん。
木野さんの気配を、感じる……。
……住んでいたのは、そんなに長くはないけれど。
この部屋だけなく……この家、全体から。
……そのあたしは、不貞腐れてはいない?
……。
あの頃は、かなり不貞腐れていたからさ……。
……それでも、このかりんとうを食べる時は。
……。
……不貞腐れながら、食べていたの?
いや……ご機嫌、だったかな。
……。
……廊下の掃除が、終わったら。
それまでには、終わらせるわ……。
……もう少し、手を抜いても。
きれいに、したいだけ……。
……。
……ただ、それだけ。
18日
水野さん。
……。
おやつに、かりんとうでも食べないかい?
……かりんとう。
出来立てほやほやだから、熱々かりかりで美味しいよ。
……何か作っているとは、思っていたけれど。
久しぶりに作ってみたんだ。
……初めてよね、私に作って呉れたのは。
ん、然うだったっけ。
……おばあさまに教わったの?
うん、然うなんだ。
だからかな、祖母の声を聞いたらなんとなく作りたくなって。
……然う。
かりんとうってさ、オーブンがあれば、揚げなくても作れるんだよ。
……それは、後始末が楽で良いわね。
ふふ、だろう?
……。
もっと言えば、揚げないかりんとうは油っぽくならないんだ。
だから、水野さんのおやつに丁度良いかなって。
……かりんとうって、揚げて作るのね。
え……?
……初めて食べるわ。
初めて……一度も、食べたことがないのかい?
……食べた記憶がない。
……。
……どうしたの。
いや、水野さんが初めて食べるかりんとうが、あたしが作ったので良いのかな……て。
……ばかね、良いに決まっているでしょう。
ん。
……寧ろ、初めて食べるかりんとうが、あなたが作って呉れたもので良かったわ。
水野さん……。
……当然、美味しいのでしょうね。
うん……美味しいよ。
ふふ……ついさっきまで、困惑していたのに。
まずはおひとつ、どうぞ。
熱いから、気を付けてね。
……手で、食べるのね。
お箸、使う?
ううん……要らないわ。
そっか。
……色が黒いのは、黒砂糖を使ったから?
うん、黒砂糖を煮詰めて絡めるんだ。
白砂糖を使ったかりんとうもあるけど、それは今度、作るね。
……。
ん、やっぱり熱いかな。
ううん……平気。
緑茶も淹れたんだ、かりんとうにはやっぱり日本茶が合うから。
……然うなのね。
……。
……ん。
どうだい……?
……意外と、固い。
ごめん、固すぎた?
……そこまでは、固くないわ。
あぁ、良かった。
……。
結構、後を引くんだけど……水野さんは、どうだろ。
……あまり、甘くない。
ん、もう少し甘い方が良い……?
……これはこれで、悪くない。
もうひとつ、どうかな……。
……若しかしたら、食べ過ぎてしまうかも知れないわ。
え……。
……あなたが言う通り、後を引きそうだから。
じゃあ……幾つでも、食べて良いよ。
……そんなには、食べられない。
食べられるだけ……。
……あなたも、食べるのでしょう。
うん、食べる……水野さんと一緒に。
……なんだって、私と一緒が良いのね。
美味しいものを食べる時は、特にね。
……子供みたい。
まだ、子供だから。
……然うだったわ。
然うだよ。
……早く、大人になれたら。
20歳で大人なんて、遅いと思うんだ。
だって、働こうと思えば中卒でも働けるんだからさ。
……どれくらいが良い?
然うだな……16歳、と言いたいところだけど。
……けど?
間を取って、18歳くらいで良いんじゃないかな。
……18歳だと、高校三年生も含まれるわ。
然うだけど……ま、良いんじゃない?
……きっと、未熟が故の詐欺被害が増えると思う。
詐欺、か……。
……成年になってしまったら、当然だけれど、未成年者ではなくなるでしょう。
然うなると……親にはもう、助けてもらえない?
……契約は自己責任となり、親権者には取り消すことが出来なくなる。
然ういう時の為の、クーリング・オフ制度だ。
……使えれば良いのだけれどね。
知識がない?
……知る為には、お勉強が必要になってくる。
すれば良いんだよ、しようと思えば幾らでも出来るんだから。
……あとは、クーリング・オフが効かないものもあるわ。
それは、厄介だな。
……とは言え、20代でも被害に遭うそうだから。
また、然ういうのばかり狙ってくる輩が居るんだろうなぁ。
……他人事ではないわよ。
ん。
……いつ、自分が被害に遭うか。
水野さんが居れば、大丈夫だ。
……あまり、過信しないで。
ん、分かった。
自分でも気を付ける。
……然うして。
かりんとう、美味しい?
……ええ、悪くないわ。
たまに作っても良い?
……作って、白砂糖のかりんとうも。
うん。
……。
かりんとうってさ、さつま芋やうどんで作ったものもあるんだよ。
……うどんは分かるけど、お芋でも作れるのね。
さつま芋のかりんとうは、芋けんぴとも言うかな。
……それは、美味しい?
美味しいよ、今度作るね。
……やっぱり、おばあさまが作って呉れたの?
ん、三時になると作って呉れた。
あの頃のあたしには、最高のおやつだったんだ。
……羨ましい。
……。
……何でもない。
今度、作ってもらおう。
……おばあさまに?
うん、水野さんにも一度で良いから祖母のかりんとうを食べてみて欲しい。
……木野さんが作ったものよりも美味しいの?
美味しい……かも。
……言い切らないのね。
そこはほら、好みだからさ……。
……木野さんが作ったかりんとうが一番であって欲しい?
……。
……子供。
子供だから……まだ。
……大人になっても、変わらなそうだけれど。
あたしも、然う思う……。
……はぁ。
呆れた……?
……かりんとうが、後を引くから。
食べ過ぎてしまいそう……?
……食べ過ぎたら、夕食が食べられなくなるわね。
もう、止めておく……?
……あともうひとつだけ。
ん……。
……。
……。
……ご馳走さま。
うん、食べて呉れてありがとう。
……残りは、木野さんが。
ううん、明日も食べられるから。
……じゃあまた、明日に。
うん。
……ねぇ、木野さん。
なんだい?
……あなたはどんな顔をして、おばあさまのかりんとうを食べていたのかしら。
うーん……こんな顔かな。
……。
ん?
……面白い顔。
はは、然うかな。
……でも、安心する。
ん……。
……ずっと傍で、見ていたい。
ずっと傍で、見ていて欲しい……。
……でも、飽きないかしら。
飽きないように……表情に工夫する。
……工夫で、なんとかなるもの?
ならないかな……。
……。
う……。
……大人になった、あなたの顔は。
今よりも……大人だよ。
……だと、良いけれど。
水野さんも……。
……私は、大して変わらないかも知れないわ。
大人の水野さんも、素敵だと思うんだ……。
……あなたは、物好きだから。
あたしは、然うは思わない……。
……。
……いつでも来て呉れて、構わないと。
うん……。
……いつ、行こうか。
いつでも……あなたが、行ける時に。
あたしは……いつでも行ける。
……片付けを、しないと。
然うだね……手伝って呉れるかい?
……ええ、手伝うわ。
荷物は、あまりないけれど……。
……引っ越し業者に頼みたければ、お金は私が出すわ。
残して行ったら、まずいかな……。
……夜逃げならば、それもあるけれど。
夜逃げ……。
……だけど、そんなことはしたくないの。
……。
逃げずに……この部屋から、出ていく。
……祖母が軽トラを出して呉れるみたいなんだ。
軽トラ……免許を持っているのね。
……あたしを引き取る前に、取ったらしい。
木野さんの為……。
……なのかな。
きっと、然う……。
……ん。
木野さん……。
……不安かい?
不安ではない……と言えば、嘘になる。
……。
……離れたことが、ないの。
うん……。
だけど……離れられることに、ほっとしている自分も居る。
……うん。
おばあさまは……私を。
……待っていると。
……。
然う、伝えて欲しいと……。
……。
水野さん……。
……ごめんなさい、私のせいで。
水野さんのせいじゃない。
……あなただけでなく、おばあさままで、厄介事に巻き込んでしまって。
祖母は、そんなこと思っていない……勿論、あたしも。
……私に関わらなければ、この部屋から出て行かなくても良かった。
いつかは、出ていくつもりだったから……それが、早くなっただけだ。
……出ていくつもりだったの。
うん……水野さんを連れてね。
……私が、あなたとこうなっていなかったら。
その時は……ひとりで。
……。
だから……あたしを受け入れて呉れて、改めて、ありがとう。
……ばか。
あれ……。
……木野さんって、本当に。
ばか、かな……。
……未だに、私の何処が良かったのか分からない。
良いところばかりだよ……。
……こんな面倒な女。
詰まらないだろう……面倒じゃない女なんて。
……詰まらない?
自分の思い通りになる女なんて……きっと、飽きてしまうよ。
……。
あたしは……水野さん曰く、物好きだから。
水野さんに振り回されるのが、好きなんだ……。
……振り回されていると、思っているのね。
ん……ちょっとだけ。
……ごめんなさいね、振り回して。
いやいや、とても楽しいから……感謝、しているよ。
……変わり者過ぎる。
えー……然うかなぁ。
……然うよ。
と……。
……こんな私、誰しもが嫌がるわ。
あたしは、嫌がらない……愛おしくて、堪らない。
……。
……愛してるんだ、誰よりも。
見る目が、ない……。
……あたしは、誰よりも、見る目があると思っている。
変わり者……。
……見る目がない奴らがね。
どこまでも……。
……水野さんは、誰よりも。
……。
世界中の誰よりも、優しくて……心音の、きれいなひとなんだ。
……やっぱり、見る目がない。
見る目があって、良かった……。
……。
はは……。
……ねぇ。
なに……。
……あなたが、私を見つけて呉れて。
探してたんだ……ずっと。
……使命に導かれてなんて、言わないで。
言わないよ……そんなこと。
……でも。
言わない……運命とは、言うかも知れないけど。
……運命って。
あたし達は、出逢うべくして出逢ったんだ……これを運命と言わずして、なんと言おう。
……前世。
それは、少しだけあるだろう……だけど水野さんを探そうと決めたのは、あくまでも、あたしの意志によるものだ。
……私のことなんて、知るわけがないのに。
知らないけれど、探し求めてたんだ……。
……。
……結果、水野さんに一目惚れした。
私では、なかったかも知れないわ……。
……水野さん以外、有り得ない。
勘違い、したのかも……。
……勘違いだったら、ここまで続いていない。
……。
この気持ちは、これからも続いていく……ずっと、一生。
……ばかなひと。
一緒に居て、飽きないだろう……?
……。
……飽きる?
飽きたら、良かった……。
……。
ん……木野さん。
……支度が出来次第、祖母の家に。
う、ん……。
……水野さんが、持って行きたいものは。
この部屋にあるものだけ……他は、要らない。
……若しも。
ないわ……あの部屋には、何も。
……そっか。
やっと、捨てられる……。
……。
……あの女を。
……。
ね……良かったと、言って。
言っても……。
……言って欲しいの。
水野さん……。
……。
……良かったね。
ん……ありがとう。
……。
……だから、頭を撫でないで。
丸くて可愛いから、つい。
……私の他に、
水野さんの頭だから、可愛いんだ。
髪の毛も柔らかくて、触り心地が好い。
……調子に乗らないで。
ん、ごめん。
……。
もう少し、休んでる?
……叶うなら。
うん。
……外の空気が吸いたいわ。
分かった……なら、お散歩に行こう。
……。
何処に行こうか。
……庭園に。
庭園か……うん、良いね。
……帰ってきたら。
準備を進めよう。
……うん。
ねぇ、水野さん。
……なに。
学校が休みで、良かったね。
……然うね。
……。
……雷気。
ん……。
……ひどく、懐かしい感覚だった。
安心は、出来た……?
……ええ、眠れるくらいには。
17日
水野さん、そろそろ寝ようか。
……お先にどうぞ。
まだ、寝ない?
……あなたが眠ったことを確認してから、ベッドに入るわ。
もう、しないよ。
……どうだか。
本当にしない。
……そんなことを言っておきながら。
今夜は、しない。
……。
本当に。
……嘘だったら。
その時は、頭から水を被せて欲しい。
……それくらいで済むとでも?
別れたくない、だから、今夜はもうしない。
……。
まだ、寝ない……?
……もう少し。
切りが悪い?
……10分。
ん、分かった。
……先に入って、暖めておいて呉れても良いわよ。
じゃあ、然うしようかな。
……そのまま、眠って呉れても。
待ってる、ベッドの中でお喋りしたいから。
……寝ないじゃない。
はは。
……全く。
じゃ、先に入ってるね。
……ええ。
炊き出しは、もう終わったかな。
……そろそろ、日が替わるから。
ん、然うだよね。
……。
流石に、もう……。
……。
……。
……木野さん。
こんな時間に……郵便配達なんて、来るわけがない。
……。
わざわざ、ドアポストまで入れに来るだなんて……余程のことか。
……差出人は。
書いてない……けど、おおよその見当は付いているんだろう?
……やりそうなことではあるわ。
こんな遅くに、本人ではないよね。
……違うとは思うけれど、やらないとも言い切れない。
確認する?
……。
それとも、今直ぐ破って捨てる?
……今直ぐ、確認する。
ん、分かった。
……。
あたしも一緒に良いかい?
……ええ、どうぞ。
ありがとう。
……お礼なんて、要らないわ。
それでも。
……。
水野さん。
……なんでもない、気にしないで。
それは無理だよ。
……寒いだけかも知れないから。
なら、暖めないと。
……ん。
これでもう、寒くないだろう?
……相変わらず、体温が高い。
取り柄のひとつなんだ。
……。
……大丈夫だ、何があろうともあたしが居る。
……。
……水野さん。
離れないで。
……。
……何が、書かれていようとも。
あぁ……離れない。
……。
……あたしが、開けようか。
いいえ……自分で。
……。
……震えは、止まったから。
然うみたいだね……。
……はぁ。
鋏は、要らないか。
……要らないわ。
……。
こんなものは……。
……うん。
これで、十分よ。
……あたしも、同じ考えだった。
……。
……それで。
紙が……一枚。
……手書きでは、なさそうだね。
これは……督促状。
……約束事なんて、何もしていない筈だけれど。
額は……一億。
……一億って、どんな額だよ。
大まかに言って、これまでの私の学費、及び、生活費でしょうね。
だとしても、そんな額には到底ならない。
とうとう、ろくでもない男に引っ掛かったのか……それとも、ろくでもない何かに手を出したのか。
まぁ、なんでも良いわ……多額の借金を背負ったことには、違いなさそうだから。
……綺麗な石やら金やらを、それはもう、いっぱい持っているんだろう。
持っているけれど、それでは足りないのか……この期に及んで、手離したくないのか。
若しかしたら、後者かも知れないわ……あれらを手離せば、それなりには補填出来るでしょうから。
……若しかして、それでも足りない。
然うかもね……本当、愚かな女。
……水野さんが残してきたものは。
もう、残っていないと思うわ。
私に買い与えた石はどれも、価値なんて大してないものばかりだったから。
……マンションに、資産価値は。
買った時の半分にも満たないでしょうけど……若しかしたらもう、差し押さえられているのかも知れないわ。
……首が回らない状態、とでも言いたいのか。
回らなければ、破産手続きでもすれば良い。
当然、手持ちの綺麗な石ころ達とはお別れすることになるだろうけど。
……真っ黒なところに手を出した可能性は。
無きにしも、非ず。
仕事も失ったかも知れない。
……ここのところ、お金が振り込まれないと言っていたけど。
振り込む余裕なんて、もう、ないということ。
まぁ、あるわけないな……この借金じゃ。
……男達にさんざ奢らせて、貢がせて、挙句、足にして、その結果がこの様だとしたら。
……
……自己破産が出来ないようならば、己の命を以って清算すれば良い。
水野さん。
……然うすれば、私は放棄すれば良いだけの話だから。
そんな簡単にいくもの?
……この国の法律に従えば、ね。
……。
……これ以上、私を玩具にしないで。
玩具……。
……ねぇ、木野さん。
なんだい……。
……多分だけれどね。
うん……。
……私に躰でも売って、少しでも返せと言いたいんじゃないかしら。
……。
それくらい……う。
……そんなことは、絶対に、赦さない。
……。
若しも、本当に……水野さんに、そんなことをさせる気ならば。
……どうするの。
さぁて、どうして呉れようか……。
……。
ねぇ、知ってるだろう……前世のジュピターが、仇なすひとのこに対して何をしていたか。
ええ、知っているわ……私も、加担していたから。
しようと思えば……今でも、出来るよ。
……本当に、出来るの。
あぁ、出来る……あたしは、あたしの大切な者を傷付けるような奴は、絶対に赦せないからさ。
……私の為に、その手を汚すと。
なぁに、簡単だよ……此の身に宿る雷気を使う、ただそれだけのことなのだから。
なんだったら、手も汚れないよ……直接、雑巾にするわけではないからね。
……。
一億……その身を以って、返してもらおうか。
……木野さん。
なに……水野さん。
……取り敢えず、落ち着いてもらっても良いかしら。
ごめん……ちょっと、落ち着けそうにない。
……。
水野さんをさんざ、傷付けてきて……いい加減、限界なんだ。
……ありがとう、木野さん。
お礼なんて……。
……それから、ごめんなさい。
どうして、水野さんが謝るんだい……?
私が、木野さんの部屋に逃げ込むことで……木野さんに迷惑を掛けることになるのは、分かり切っていた。
……迷惑って。
木野さんの部屋の住所だって……分かっていたのに、今の今まで。
……迷惑だなんて、思っていない。
然う言うと、思った……あなたは、然ういうひとだもの。
……水野さんは、一度だって。
あの女が……母が、あなたに。
……。
私と関わることで……。
……あぁ、確かに迷惑だ。
……。
だけど、水野さんが迷惑なわけじゃない……何処まで行っても、水野さんの母親面している女が、邪魔なんだ。
……。
あたしの中の、雷達気が……怒りで、今にも爆ぜてしまいそうだよ。
……だめよ、部屋が吹き飛んでしまうから。
あぁ……そんなことになったら、あたし達の家がなくなってしまうよね。
……然うよ、だから堪えて。
うん……堪える。
……。
……あたしは、どうすれば良い?
木野さんは……私の傍に。
居るよ……離れない。
……私を、捨てない?
捨てるわけ、ないだろう……そんなこと、有り得ない。
……私の為に。
何でもする……水野さんと、あたしの為に。
……木野さんの為でもあるの。
あぁ、然うだよ……あたしの為でもあるんだ。
……。
あたしは……どうしても、水野さんと一緒に生きたい。
生きるんだ……今生を、ふたりで。
……ジュピター。
違うよ……あたしは、木野まことだ。
……ん。
水野さんを……亜美を、愛してるんだ。
だから……ふたりで生きる為ならば、あたしはなんでも出来る。
……まこと。
若しも、この部屋に居られないと言うのなら……祖母の家に。
……それでも、あの女は追い掛けてくる。
どうしても、水野さんに……。
……あの女にとって、子供は己の所有物に過ぎない。
……。
落ち着いて。
……水野さんの考えを、聞かせて欲しい。
……。
こんな金、水野さんが払う必要は……ない。
……けれど、付き纏われるかも知れない。
そんな奴……あたしが。
……叶うなら、静かに暮らしたかった。
ん……。
……あなたと、ふたりで。
静かに暮らそう……あたしと一緒に。
……。
……まさか、戻るなんて。
言うと、思う?
……そんな顔で。
どんな顔……?
……色んな感情が、混ざっているような。
色んな……ね。
……離さない、絶対に。
ごめんなさい、木野さん。
……駄目だ。
聞いて。
……嫌だ。
私は、ん。
……。
……どうしても、言わせたくないの。
言わせたくない。
……はぁ。
あの女のところに、戻るなんて
だから、言うと思う?
……。
言うつもりなんて、ないわ。
……え、と。
早とちり。
……じゃあ、どうして謝ったの。
それは、木野さんに話していないことがあるから。
……。
何、その顔。
いや……そりゃ、ひとつやふたつはあるだろうなって。
……気にしないの?
内容によるかな……我慢しているとか、不満があるとか、兎に角、ひとりで我慢しているようなことがあったら、言って欲しいと思う。
……。
う。
……お金のこと。
お金……。
然う……あなたにまだ、話してないことがあるの。
ふぅん……然うなんだ。
……やっぱり、気にならないのね。
水野さんのお金なら……あたしが、とやかく言うことではないから。
あ、でも、借金をする時は言って欲しいな……。
……ふ。
ん?
……あなたというひとは。
あ、あたし、何か変なこと言ったかな……。
私ね、赤ちゃんの頃から株を持っていたの。
……かぶ?
野菜の蕪ではないわよ。
……。
投資の株、聞いたことぐらいはあるでしょう。
……うん、ある。
それ。
……水野さん、株を持ってたの。
父が気紛れに私の口座を作って、暫くの間、買い入れていたの。
だけど途中で飽きたのか、そのまま放置されて。今ではもう、忘れていると思う。
……その株が、どうしたの。
これくらいならば、払えるわ。
はらえる……?
株の利益で、一括返済出来る。
……は。
景気が弾けて後退する前に、全て、売り払ったの。
数はそこまで多くはなかったけれど、当時は一株あたり百万くらいだったから良い利益になったわ。
……ごめん、何を言っているのか良く分からない。
つまり……私には、一億を返済出来るだけの資産がある。
……は?
理解が追いつかないという顔ね。
え、えと……水野さん、若しかしてとてもお金持ち?
これを返済したら、少ししか残らないわ。
……少しって?
約三千万。
さ、さんぜ……っ?
それでも、引っ越しの費用くらいにはなると思う。
な、なるも、ならないも、いっぱいおつりが来るよ……。
それでね、木野さん。
う、うん。
この部屋の住所があの女に知られている以上、ここに留まるのは得策ではないわ。
だから、まずは、引っ越し先のお部屋を探したいと思うの。
……。
その際、あなたのおばあさまの力が必要になるのだけれど……お願いしても、良いかしら。
それは、勿論……おばあちゃんなら、協力して呉れると思う。
……。
水野さん……?
……木野さんは、この部屋に未練はない?
ん……水野さんと過ごした場所だから、愛着はあるけれど、離れても大丈夫だよ。
然う……良かったわ。
……。
付いてきてる……?
……突然の展開で、何が何だか。
まぁ、然うよね。
……兎に角、驚いてしまって
驚いただけ?
……うん、それだけ。
怒りは?
……驚きすぎて、何処かに。
……。
ん。
……あなたって、欲がないわね。
いや、すごくあると思うけど……。
……私に対しての欲?
水野さんに対しては、すごく欲深だと思うんだ……。
……否定は、しないわ。
え、と……。
……ごめんなさい、黙っていて。
いや、別に良いよ……お金のことは、大事だと思うし。
……。
それに水野さんだって、あたしの両親が遺して呉れたお金のことは聞かないだろう?
……聞かないわ。
だから、謝らないで良いよ。
……あのね、木野さん。
なんだい……?
……お金はあるけれど、あの女の借金を返すのはやっぱり嫌なの。
うん、あたしも嫌だな。
……だから、取り敢えず、ここからは離れるけれど。
追い掛けてくるようだったら……あたしが、黙ってない。
……警察に通報する。
警察に?
……その時も、大人であるあなたのおばあさまの力が必要になると思うの。
……。
迷惑を掛けてしまう……だから、若しも。
おばあちゃんなら、大丈夫だ。
あたしを、糞みたいな親族から守って呉れたんだから。
……。
話せば、必ず分かって呉れる。
……う、ん。
早い方が良いだろうから、明日にでも連絡するよ。
……ありがとう。
良いんだ、お礼なんて。
……。
……?
水野さん……?
見ないで。
……。
……若しも、お金が必要なら。
今まで通りで、良い……。
……。
水野さんがもっと良い暮らしをしたいのなら……別だけど。
……今のままで、良い。
……。
今のままが、良い……。
……なら、今まで通りで。
……。
……今夜は、寝られそうかい?
寝られないかも知れない。
ん……そっか。
……。
大丈夫だ……誰か来たとしても、あたしが守るから。
……木野さん。
前世のように……この部屋の周りに、雷気を。
……。
心配しないで……あくまでも、室内だけだから。
……そんなこと、出来るようになったの。
それが、出来るみたいなんだ……や、なんとなく、出来る気がする。
……全然、違うのだけれど。
試しに今夜、やってみようと思う。
……。
やってみても、良いかな……?
……力の加減に、気を付けて。
16日
ご馳走様でした。
……ご馳走様でした。
ふぅ、食べた食べた。
……気持ち少ないように見えたけれど、足りたの。
ん、足りたよ。
水野さんは足りたかい?
……十分に。
良かった、やっぱりキャベツの千切りがあると違うよね。
……片付け。
あたしがやるよ、勿論。
……躰が重たくなければ、私がするのに。
水野さんには明日、お願いしても良いかな。
……仕方ないわね、良いわよ。
うん。
……食器、明日で良いのなら水に浸しておいて。
ありがとう。
……なんて言っても、少ないからやってしまうのでしょうけど。
気持ちが嬉しいんだ。
……。
ん、雨が降ってきたかな。
……然うみたいね。
雨が降るなんて、言ってなかったけど……まぁ、乾燥しているし、丁度良いか。
……窓を開けるの?
換気にもなるし、少しだけ……だめかな。
……どうぞ。
ん。
……。
そろそろ、9時前のニュースが始まるよ。
……知ってる。
ふふ、然うだよね。
……結局、こんな時間になってしまったわ。
ゆっくり食べたから。
……。
ん、始まってる……て、あれ。
……この公園。
何処かで、見たことがあるような……。
……近くの大きな公園だわ。
あぁ、あの公園……随分とひとが集まっているようだけれど、なんだろう。
集まってるのが警察でないところを見ると、事件ではなさそうだけど。
……ニュースに取り上げられているということは、何かあったと考えるのが妥当でしょうね。
この時期にひとが集まるイベントなんてあったかな。
夏なら分かるけど、冬の寒い時期にお祭りなんてやらないと思うし。
……ただのお祭りだったら、わざわざ取材になんて行かないわ。
ん、然うだよね。
……行かないわよ。
大丈夫。雨も降ってきたし、行きたいとは思わないよ。
それに、これは6時頃の映像みたいだし、今頃はもう終わっていると思うんだ。
……然うかしら。
ん、水野さん?
……一応、外を見てみるだけ。
この部屋からじゃ、あの公園は見えないけど……。
……。
と、大丈夫かい?
……平気よ。
……。
……平気だと言っているのに。
念の為。
……。
何か見えるかい?
……公園に向かって歩いているひとが、幾人か居る。
公園……方角的には、然うだけど。
……遅い時間、ましてや冷たい雨が降り出しているのに。
傘を持ってないな……濡れたら、風邪を引いてしまうだろうに。
……。
水野さん……?
……炊き出し。
炊き出し?
然う……あの公園で、炊き出しが行われているのね。
炊き出しって、ごはんを配る?
……まさに、配っているでしょう。
あ、本当だ……なんだろう、うどんかな。
……景気が悪化したことで雇用が不安定になり、貧窮者、いわゆる失業者やホームレスが増加傾向にある。
そのひと達の為に?
……どうやら、有志が集まって企画したようね。
へぇ……。
……一食だけとは言え、有り難いと思うわ。
うん、とても有り難いと思う……特に寒い時期のあったかいごはんは、五臓六腑に染み渡ると思うよ。
……窓。
ん、もう閉める。
……。
……なんとなく。
……。
うどんが、食べたいな。
……夕食を食べたばかりなのに?
明日の夕飯に……どうかな。
……別に、木野さんが食べたいのならば構わないけれど。
じゃあ然うしよう、具は何が良いかな。
揚げ玉、わかめ、たまご……あ、カレーうどんも良いなぁ。
……この絵を見て、あなたは然う思うのね。
水野さんは、何を思う?
……この有志はどうやって集ったのか。
声掛けだろうけど、どこで声を掛けたんだろうね。
……直ぐに思い浮かぶのは、商店街。
商店街……それならば、声を掛けやすそうかな。
……個人ではなく、商店会。
商店会?
……店舗同士の相互扶助を目的とした任意団体。
あぁ……なんとなく、聞いたことがあるような。
……あるの?
今日はそんな集まりがあるから旦那が居ないとか、どうとか。
……ひとの憶えは悪いくせに。
挨拶するくらいなら、なんでもないんだ。
……挨拶だけでなく、たまに世間話も。
小父さんも小母さんも、わりと良い人が多くてさ……ん、やっぱり商店会が考えたみたいだ。
あれ、このひと知ってる。八百屋の小父さんだ。へぇ、あの小父さんが考えたのか。やるなぁ。
……親しくなるのは、小父さんと小母さんだけではないけれど。
ある程度話せるようになっておけば、たまにおまけしてもらえることがある。
おまけと言ってもちゃんとした商品だから、とても美味しい。
……お野菜でもお肉でも、出来るだけ個人の商店で買うようになったのは、その良さに気が付いたから。
スーパーは一度に色んなものを買うことが出来るから、便利ではあるんだけどね。
……いちいち、他のお店に行かなくても良いから。
だけど、個人のお店を回って買い物をするのもなかなか楽しいものだと、気が付いちゃったからさ。
あと、スーパーよりも安いものが結構あるから、お財布にも優しい。とても助かる。
……時間にゆとりがあれば、それでも良いのだけれど。
時間がない時やお店が閉まっている時はスーパーの出番だ。
……あと特売日。
うん、それは外せない。
……それでも、あなたへの親しみは失われない。
ん、なんだい?
ひとたらしと言ったの。
え、なんで?
なんでも。
あたしは、ひとたらしではないよ。
中学の頃は、やたらに先生に目を付けられていたし。
……それはあなたの日頃の行いが悪かったから。
だけど、水野さんと親しくなってからは大分改まっただろう?
それなのに理不尽な言い掛かりをつけられて、難儀してたんだよ。
……ねぇ、木野さん。
なに?
言い回しがいちいち現代的ではないのだけれど、意図してやっているの。
ん、然う?
五臓六腑に染み渡るとか、難儀していたとか。
あー……でも、間違ってはいないだろう?
……前世のジュピターみたいだわ。
え、それはやだ。
……或いは、その前の。
……。
……嫌ではないの?
ん……前世よりは。
……無意識だとしたら、知らないうちにどちらかの影響を受けているのかも知れないわね。
本を読んでいるからだと、あたしは思うんだけどな……ほら、本からも影響は受けるだろう?
……然うだと良いけれど。
きっと、然うだ……然うに違いない。
……炊き出し、何人くらい来ているのかしら。
んー……三桁は居るかも知れない。
……お店の利益には、ならないかも知れないのに。
……。
人間として困っているひとを支え、助けたいと思う……言わば、ひととしての良心、或いは、美学。
……利益には、なると思うよ。
例えば?
助けてもらったひとが将来、来て呉れるかも知れない。
来たら、買い物をしたり、飲み食いして呉れるかも知れない。
……恩を、恩で返す。
まぁ、中には仇で返すろくでなしも居るだろうけど。
……それだけでは、大した利益は見込めないわ。
あとは然うだな、このニュースを見た人が興味を持って来て呉れるかも知れない。
期待するのなら、こっちかな。ひとりでも、ふたりでも、お客さんが増えて呉れれば、それだけ利益に繋がる。
……結果的に、ニュースが良い宣伝になったと。
然ういうこと。
世間では、この炊き出しを良いものとして捉えると思うんだ。
……信用もまた、利益。
うん。
……。
なんにせよ、この光景は悪いものではないと思うよ。
……悪いとは思わないわ。
カレーうどんも良いけど、鍋焼きうどんも良いな。
……海老天はなし?
野菜天も美味しいよ。
……ええ、然うね。
水野さんは茄子天が好きだよね。
……好きと言うほどではないけれど。
茄子天は必須として、あとは大葉天が良いかな。
そこに若布と長葱、それからかまぼこを入れてうどんと一緒に煮込めば、我が家の鍋焼きうどんの出来上がりだ。
……豪華ね。
ふふ、だろう?
……私は、かけでも良いわ。
かけ?
……シンプルで。
薬味は要らない?
……あっても、なくても。
かけも良いな……かけにしようかな。
……卵ぐらい、落としたら?
う、それも良いな……。
……。
このひと達が食べているのは、かけだよね。
……一応、薬味はあるみたい。
となると、八百屋の小父さんは薬味提供か。
……何種類か、用意されているみたいね。
それは良いねぇ、あたしだったら全部入れるかも知れない。
……入れそう。
水野さんは選ぶ?
……寒いなら、生姜が良いわ。
生姜……うん、生姜も良いな。
……。
ね、炊き出しもボランティアのひとつなのだろう?
……一形態ではあるわ。
これは、偽善だと思う?
……思わない。
ん、そっか。
……仮令、利益になる可能性を考えていたとしても。
それは寧ろ、偽善と言えるような。
……上辺だけのようにも見えない。
……。
あなたは、どう思うの。
あたしは……偽善には見えない、かな。
……知り合いだから?
たまにおまけして呉れる、から。
……然う。
次のニュースは……飲酒で、悲惨な交通事故か。
……。
こういうのも、なくならないなぁ。
車を運転するのになんで飲むんだろう。ねぇ、水野さん。
……。
水野さん。
……なに。
炊き出しのニュースで、何か思うことでもあるのかい?
……貧窮者の目には、女王の思想はどう映るのか。
あぁ……まぁ、魅力的に見えるんじゃないかな。
病気にならない上に、不老長寿。餓えは、どうだろう。
……食の安定供給、そんな約束をするかしら。
いや、そこまでの面倒は見ないと思うんだ。
そもそも、考えているかどうかも分からない。
……自分次第となれば、餓えはあるでしょうね。
やっぱり、然うなるよなぁ。
……前世の世界でも空腹はあったもの。
然ういえば、然うだった。
……月に棲まう者が食べていたものは、ろくなものではなかったけれど。
でも、生命活動を維持する為の栄養だけはちゃんとあった。
曰く、完全栄養食。それさえ食べていれば、活動停止に陥ることはない。
……原材料が最悪。
ひとかたの再利用だもんなぁ……あれは、食べられない。
……だから、あなたは畑を作ったの。
自分達で食べる分だけは、と考えるのは自然なことだ。
あたしでも、然う考えるよ。
……達?
あなたと、あたし。
……それに慣れ切っていたら、そんなこと、思いもしない。
慣れることなんて、出来なかった。
……あなたが余計なことをするから。
あなたも、食べられなくなった。
……食べられなくはなかった、けれど。
出来れば、口にも入れたくない。
然うだろう?
……但し、食べるものがない時は除く。
あくまでも、最終手段だ。
……。
水野さん。
……支配下での、炊き出しの必要性。
場合によっては、あるかも知れない。
……その時に、提供されるものは。
まさか、あれはやらないと思うんだけど。
……やらないと言える?
そもそも、あれを造れる者が居るかどうか。
……居ると、仮定して。
居るのならば……提供するかも知れない。
……生きる為に、栄養を摂取することは必要不可欠。
あぁ、それは絶対だ。
……寿命が伸びれば、その分だけ、栄養を摂取し続けなければならない。
作らなければ、食べられない。
……その為に。
その為の労働、それはきっとなくならないだろう。
オートメーション化されたって、細かいところはどうしたってひとの手が必要になる。
ひとと同じように働ける……今で言う、ロボット? そんなのが開発されたら、話は別だけれど。
科学技術の進展……進化を、認めるかどうか。
それらはみな、軍事に利用されるからなぁ。
……ひとは、然ういう生き物。
なんにせよ、不老長寿になる分、労働時間は増えるだろう。
なんせ、食べなきゃいけないんだから。
……リユース・システムを使えば。
食うに困ることはなくなる、かも知れない。
……。
あのひと達は、それを望む?
……望んだところで。
再利用される側になる可能性はすこぶる高い。
何故なら……底辺だと、見做されるから。
……。
まぁ、分からないけど。
女王陛下が本当に慈悲深い方ならば、そんなことは赦さないだろうし。
……私達の民は再利用されたわ。
他に食べるものがなかったからね。
大体、それに代わるものを考えようともしなかった。
……やっぱり。
そんな世界は、冗談じゃない?
……今の世界も、滅んでしまえば良いと思ったことはあるけれど。
ん……。
……それくらい、疾うの昔に知っているでしょう。
うん……知ってる。
……とても小さくて、狭い世界だった。
今は?
……。
今でも、考える?
……聞くと思った。
……。
……ニュースが見えないわ。
水野さん。
……。
……若しも、考えることがあるのなら。
手を貸して呉れる……?
……水野さんが、望むのなら。
……。
う……。
……ばかね。
……。
……あなたが私に、そんなことを思わせないようにすれば良いだけ。
……。
……あなたとこうなってからは、とても癪だけれど。
これからも、思わせない。
……ように、する?
ううん……思わせない。
……。
……頑張るよ、これからも。
ええ……せいぜい、頑張って。
……うん。
……。
……次のニュースは。
政治家の汚職、ね……。