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日記
2025年・9月後

  30日





   もう、終わった頃かな。


   うん?


   入試。


   あぁ……然うね、もう終わった頃じゃないかしら。


   今日でやっと受験勉強から解放されて、はしゃいでる子も居るだろうなぁ。


   思うように出来なくて、落ち込んでいる子も居るかも知れないわ。


   それは、真面目な子かな。


   皆が皆、楽観的な性格ではないもの。


   落ち込むのは、合格発表の日だけで良いと思うんだ。それまでは、なるべく考えない。
   だって、試験はやり直せない。もう、どうしようもないんだ。だったら前向きに、楽しいことを考えた方が良いよ。
   やっと受験生という憂鬱期間が終わったんだ。買い物やおいしいものを食べに行くとか、ゲーセンで遊ぶとか、兎に角、自分の好きなことをね。


   楽観的なのに、現実的でもあるのよね。


   いざとなったら、二次募集もあるだろ?


   でも、出来れば第一志望の高校に行きたいじゃない?
   三年も通うんだもの、であれば、希望する学校に受かりたいわ。


   ん、それはまぁ、然うか。


   まこちゃんだって、然うだったでしょう?


   あたし?


   第一志望ではない学校でも良かった?


   嫌かな、あたしはどうしても亜美ちゃんと同じ高校に行きたかったから。


   志望動機は色々あると思うけれど、やっぱり、第一志望に通いたいものだと思うの。


   亜美ちゃんも?


   勿論、私も。
   だから、手応えがなかったら落ち込むかも知れない。


   そっか。


   私も、どうしても、まこちゃんと同じ高校に行きたかったから。
   だから持っている力を全て出し切ろうと決めて、入試に臨んだの。


   首席、だったねぇ。


   狙ったわけではなかったんだけれど……まぁ、結果的にね。


   新入生代表の言葉を述べている時の亜美ちゃん、きりっとしていて格好良かったなぁ。


   そんなこと……ないわ。


   あるよ?


   ……もう、ずっと前のことだから。


   あたしはしっかりと憶えてる。
   だって、改めて惚れ直したんだから。


   ……未だ、知らなかったから。


   今はもう、知ってるだろ?


   ……。


   ふふ……可愛いな。


   ……倍率を考えると、受けた子が全員受かるわけではないから。


   ん?


   ……入試。


   あー……そこそこ人気があるんだっけ、うちの学校。


   ……制服が可愛いんですって。


   制服?
   まぁ、分からないわけではないけど。


   ……志望動機は、色々だから。


   男子は、どうなんだろ?
   男子の制服は、普通の学ランだろ?


   男子は、分からないわ……自分の学力に見合った学校、ということはあるのだろうけど。


   ふぅん……まぁ、どうでも良いけど。


   ……だから、今年もないかも知れないわ。


   うん、何が?


   二次募集……去年も一昨年も、うちの学校はなかったの。


   あぁ、然うだったっけ。


   ……然うよ。


   然ういや、うさぎちゃんと美奈子ちゃんが合格して本当に良かったって。
   亜美ちゃんだけじゃなく、レイちゃんも言っていたような。


   ……言っていたわ。


   レイちゃん、かなり心配してたみたいだもんね……特に、うさぎちゃん。


   うさぎちゃんの合格を知って安心したのか、いつもよりも楽しそうに悪態を吐いて喧嘩していたわ。


   うん、してたしてた。
   途中で美奈子ちゃんが加わって、わけの分からないことになってた。


   ……あれから、もう二年経つのね。


   早いねぇ、あたし達ももうじき三年生だ。


   ……受験の次に、留年の心配をすることになるなんて。


   あー……。


   ……まこちゃんの心配は、要らないのだけれど。


   ぎりぎり赤点、だからねぇ……。


   ……一桁は、ぎりぎりではないわ。


   まぁ、特に苦手な教科はね……。


   ……はぁ、高校は中学とは違うと何度も言っているのに。


   ま、まぁ、今回もどうにかなったんだし……いや、なってないのか。


   ……春休みの補習次第。


   春休みに補習かぁ、毎度毎度大変だよなぁ……まぁ、あたしは亜美ちゃんとデートするけど。


   ……まこちゃん。


   だって、折角の春休みだし。
   デート、するだろ?


   ……する、けど。


   うん、良かった。


   ……場合によっては、ふたりのお勉強を見ないと。


   じゃああたしは、お菓子でも作ろうかな。


   ……未来のクイーンになる者とその従者が、無知。


   ……。


   えと……酷い成績で、良いわけがないもの。


   ……あまり、変わらないかな。


   前世の繰り返しになってしまうことだけは、避けたいの。


   うん……また滅びるのは、御免だな。


   ……いっそのこと、再建なんてしなければ良いのに。


   然うすれば……前世からの使命とは、おさらば出来る。


   ……それは、出来ないと思うけれど。


   あー、やっぱり出来ないかぁ。


   ……然ういえば。


   ん、お腹空いた?


   大丈夫……ありがとう。


   空いたら、言ってね。


   ……美味しいクッキーがあるから。


   遠慮しないで、食べてね。


   ……ん。


   それで、なんだい?


   ……まこちゃんは、滑り止めの学校を受験しなかったのよね。


   第一志望一本で勝負したかったから、なんて言うと、格好良いかも知れないけど。


   でも、半ば本気だったのでしょう?


   うん、本気だった。


   ……。


   退路を断った方が受かると思ったんだ。
   こういうの、なんて言うんだっけな……背中の陣、だっけ?


   ……背水の陣?


   然う、それ。


   ……。


   亜美ちゃんも、一本だったろう?
   他に、どこも受けなくてさ。


   受ける必要がなかったの。


   おー、格好良い。


   滑り止めの高校は受けないって、まこちゃんが言ったから。


   ……え。


   だから、第一志望だけ受けることにしたの。


   まぁ……実際は、色々と事情がありまして。


   ふふ……知っているわ。


   ん……亜美ちゃん。


   他の学校を受けない代わりに……誰よりも、あなたのお勉強を見ようと思ったの。


   ……うさぎちゃんや、美奈子ちゃんより?


   だって……どうしても、一緒の高校に行きたかったんだもの。


   亜美ちゃん……。


   ……まこちゃんが他の学校を受けていたら受けていたかもね。


   その話……。


   ……まこちゃんと、同じ学校を。


   初めて、聞いたよ……。


   ……初めてだもの、言葉にしたのは。


   誰にも言っていない?


   誰にも、言っていないわ。
   先生にも塾の講師にも、母にすらね。


   先生には、うちの学校で本当に良いのかって何度も聞かれていたみたいだけれど。


   塾の講師にも、しつこく言われたわ。
   だけど仕方ないじゃない、受ける気がなかったんだもの。


   ……格好良い。


   格好良くないなんてないわ。
   私はただ、自分の気持ちを譲りたくなかっただけ。


   いやぁ……惚れ直しちゃうなぁ。


   ん……まこちゃん。


   また亜美ちゃんに、恋してる。
   今までよりも、深く。


   ……ありがとう。


   へへ……。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   なんだい……?


   若しも言っていたら、まこちゃんはどうしていた?


   んー、どうだろ……ちょっと、分かんないな。


   ……若しかしたら、プレッシャーになってしまうかも知れない。


   プレッシャー?


   余計ないことを言って、まこちゃんにプレッシャーをかけたくないと。
   今思えば、考え過ぎだし……何よりも、自惚れが過ぎるけれど。


   ……ねぇ、亜美ちゃん。


   ……。


   もう少し、自惚れても良いよ。


   ……ううん、自惚れない。


   む……。


   ……とりあえず。


   とりあえず……?


   ……離れて。


   ん……気が付いた?


   気が付くも何も……これで気付かないのは、流石に鈍過ぎるわ。
   話の途中から、じりじりと近付いてきて……。


   今は……あわよくば、腰を抱こうとしている。


   ……。


   .……最近の亜美ちゃんは、あの頃よりも鋭くなってきたなぁ。


   鋭いって……まこちゃんの下心が分かりやすくなっただけだと思う。


   ん……そっか。


   ……そもそも、どうしてそんな気分に。


   理由は……まぁ、化学反応ということで。


   ……何よ、それ。


   はは、だよねぇ……。


   あ……まこちゃん。


   ……大丈夫、手はちゃんと洗ってあるから。


   ん……然ういう、問題では。


   ……爪も、整えてあるよ。


   だか、ら……あっ。


   ……耳たぶ、可愛いね。


   や……だめ。


   ……なにが、だめ?


   まだ、明るい……。


   ……それだけ?


   それだけじゃ、ない……。


   ……蕁麻疹?


   ……。


   ……じゃあ、なぁに?


   そんな気分じゃ……。


   ……これから、なるかも。


   なりません……。


   ……今は明るいけど、何時間かしたら暗くなる。


   だけど、今は未だ明るいでしょう……。


   ……なら、暗くしてあげるよ。


   どうやって……。


   ……ベッドに、行けば良い。


   ……。


   ……言わせたかった?


   そんなわけ……ん。


   今は、暑くないし……頭から布団を被れば、夜になる。


   ……そんなに、したいの。


   うん……したい。


   ……久しぶりでも、ないのに。


   なくても、したい……亜美ちゃんに、触れたい。


   ……。


   抱きたい……。


   ……あぁ、もう。


   だめ……?


   ……だめだと、言っても。


   どうしても、だめなら……しない。


   ……。


   頑張って、我慢する……夜まで。


   ……夜までって。


   夜になったら、また、誘う……。


   ……。


   ……亜美ちゃん、だめ?


   ……。


   そっか……ごめん。


   ……食塩水。


   うん……え?


   ……電流を通さない水に食塩を溶かすと、電流を通すようになる。


   ……。


   それは、どうして……?


   それは食塩……塩化ナトリウムが、電解質だからだ。


   ……もう少し、詳しく。


   答えたら……許して呉れる?


   ……正解、だったらね。


   分かった……。


   ……。


   塩化ナトリウムは、水の中でナトリウムイオンと塩化物イオンに分かれる……。


   ……ぁ。


   ナトリウムイオンは、プラスの電荷を……塩化物イオンは、マイナスの電荷を帯びていて。


   ……手。


   電圧をかけると、プラスのイオンはマイナスの電極に……マイナスのイオンは、プラスの電極に引き寄せられる。


   ……。


   更に、マイナスイオンは余分な電子をプラスの電極に渡し、プラスイオンは足りない分の電子をマイナスの電極から得る……。


   ……もぅ。


   この動きは、水溶液中で電気を帯びたものが移動していると考えられるので、電流が流れたと見做される……どうだい、正解だろう?


   ……砂糖は。


   砂糖は、非電解質……分子の状態で水に溶けているから、引き寄せられるイオンがない。
   つまり、水溶液中に電気を帯びるものがないから……電流を通しにくいと、考えられる。


   ……。


   自信が、あるんだ……。


   ……ここでは、いや。


   ん、分かってる……。


   ……。


   つかまっててね……。


   ……ねぇ。


   ん、今度はなんだい……?


   ……あなたの電流、私の中に。


   今は、通して呉れてる……。


   ……ううん、両想いになる前から。


   ……。


   あなたに片想いをしている時点で……きゃ。


   ……化学、反応?


   ……。


   ……亜美ちゃ、ん?


   もうひとつ、だけ……。


   ……なんだい?


   私の中に溶けているものは、なぁに……?


   ……亜美ちゃんの中に?


   あなたという雷を、通すようになったのは……何かしらの電解質が、私の中で溶けたから。


   ……。


   答え、分かる……?


   ……うん、分かる。


   なぁに……?


   ……あたしへの、想いと。


   と……?


   ……あたしの、亜美ちゃんへの想いだ。


   ……。


   つまり……ふたりの想い、愛が、溶けている。


   ……外れ。


   あれ……。


   ……片想いの状態で既に通っていた、その説明にならない。


   そうかな……なると思うけど。


   ……片想いをしていた頃の私は、あなたの想いが私に向くことはないと思っていた。


   んー……少し、鈍いよねぇ。


   ……鈍くて、ごめんなさいね?


   あと、小難しく考えるし……。


   ……だって、仕方ないでしょう?


   ……。


   答えられないのなら……。


   ……途中で、亜美ちゃんは気付かないふりをした。


   え……。


   同性同士だとか、使命だとか考えて……敢えて片想い、両片想い状態を続けた。
   だとするのなら、筋は通る。


   ……私は、そんなに。


   少しづつ、あたしの想いが亜美ちゃんに届いて……溶け始めていたんだ。


   ……全く、気が付いてない頃は。


   気が付いていなくても……だよ。


   ……。


   想いや愛は、時に、優しさや思い遣りとも言う……。


   ……あぁ。


   それならば……説明、出来る。


   ……。


   ね……正解、で、良いだろ?


   ……ずるい。


   ふふ……ごめんね?


   ……。


   ……暗く、するから。


   苦しく、なったら……。


   ……その時は、ごめん?


   ……。


   亜美ちゃん……亜美。


   ……ばか。


   電流……受け入れて。


   ……もう、受け入れてる。


   もっと……受け入れて欲しい。


   まこちゃんの……ばか。


   ……うん、あたしも愛してる。


   ……。


   誰よりも、大好きだ……。


   ……しって、る。


  29日





   はぁ……終わったなぁ、全部。


   まこちゃん……。


   ん、なに?


   その言い方は……少し、縁起が悪いと思うわ。


   え、そう?


   こう……悪い方にも、聞こえてしまって。


   悪い方……て?


   悲壮感、とまでは言わないけれど……あまり、上手くいかなかったような。


   あたしとしては、受験が全部終わったって、言ったつもりだったんだけど。


   ん、そうよね……それなら、いいの。


   亜美ちゃんでも、縁起を気にするんだね。
   そういうの、あんまり気にしないと思ってたよ。


   ……ごめんなさい、変なことを言って。


   ううん、確かにあたしの言い方が悪かったかも。
   やっと終わったんだし、もっと明るく言えば良かった。


   ……明るく?


   あー終わったぁ、全部やりきったぁ。
   もっと言えば、やっと受験勉強から解放されたぁ。


   ……。


   これなら、どう?


   ……落ち込んでは、いない?


   うん、いないよ。
   もしかして、落ち込んでいるように見えた?


   ん……みんなといる時、あまり元気がなかったように見えたの。


   うさぎちゃんと美奈子ちゃんが元気すぎて、あたしが大人しく見えちゃったんじゃないかな。


   ……そうかもしれないわ。


   心配、してくれてた?


   ……うん。


   そっか……ありがと、亜美ちゃん。
   あたしなら、大丈夫だよ。悲壮感も、全然ない。


   ……良かった。


   みんなといる時は、言わなかったけどさ。


   うん。


   手応え、かなりあるんだ。


   そうなの?


   全部が全部、出来たわけじゃないんだけとさ、それでも結構自信があるんだよ。
   国語、英語、社会、苦手だった数学も、理科も、半分以上は出来たと思っているんだ。


   半分以上……。


   亜美ちゃんに試験を受ける前の心構えも教えてもらったから、緊張もしないで、落ち着いて受けることが出来た。
   どうしても解けなかったり、答えが思い出せない問題もあったけど、でもね、今までで一番、出来たと思うんだ。


   あぁ、良かった……。


   まぁ、あたしが勝手に思っているだけかもしれないけどさ。


   ううん、手応えを感じているのなら……きっと、大丈夫だと思う。


   ふふ、そうだといいな。


   ……あとは、ケアレスミスさえしていなければ。


   んー、それがあるんだよなぁ。


   見直しはした?


   うん、したよ。
   驚くことに、見直す余裕すらあったんだ。


   そう……。


   ね、全部、亜美ちゃんのおかげだよ。


   ううん、まこちゃんが頑張ったから……だから。


   あたしひとりでは、どんなに頑張ったって駄目だったと思う。
   勉強をしようと思っても集中出来なくて他のことをしてしまったり、分からないものは分からないままにしちゃったりさ。
   それで結局、ろくに勉強をしないまま受験の日を迎えて……今頃、散々だったかもしれない。


   ……。


   亜美ちゃんがいてくれたから、あたしは頑張れたんだ。
   だから、ありがとう。本当に、ありがとう。


   ……私、まこちゃんの役に立てた?


   役に立てたなんてもんじゃないよ。
   もうさ……そう、恩人。亜美ちゃんは、あたしの恩人なんだ。


   ……。


   ん、亜美ちゃん?


   ……ううん、なんでもないの。


   なんでもないって……目に、ごみでも入った?


   ……その、うれしくて。


   あぁ……そういうことか。


   ……まだ結果も出ていないのに、気が早いわよね。


   それを言うのなら、あたしもね。
   あたしなんか、すっかり受かった気分でいるし。


   ……ふふ、よっぽど手応えがあるのね。


   うん、あるよ。
   ものすっごく、ね。


   ……また、一緒に。


   一緒に同じ高校へ行こう、亜美ちゃん。


   うん……まこちゃん。


   そしたらさ、またふたりで学校に行こうよ。
   出来れば、帰りも。


   ふふ……気が早いわ、まこちゃん。


   あはっ、流石に早いか。


   ……ふふ。


   はは。


   亜美ちゃんは、自信あるんだろう?


   ん……一応。


   亜美ちゃんなら、大丈夫だ。
   だって、あんなにお勉強してたんだから。


   ……ね、まこちゃん。


   ん?


   これから、時間ある?


   あるよ、うちに来る?
   それとも、どこかに寄ってく?


   えと、まこちゃんのお部屋に行ってもいい?


   もちろん、いいに決まってる。
   夕ごはん、一緒に食べよ。


   ん。


   亜美ちゃんが来てくれるなら、張り切って作っちゃおうかな。
   鶏肉があるから……そうだ、お祝いにチキンステーキでも焼いちゃおう。


   お祝い?


   高校受験が終わったお祝い!
   結果はまだ、出てないけど!


   ……。


   付け合わせに、マッシュポテト……そうだ、人参グラッセも作ろう。
   スープは何がいいかな、シンプルに、たまねぎのスープにしようかな。


   ふふ……まこちゃんったら。


   あれ。


   ふふ、ふふ……。


   あたし、浮かれすぎ、かな?


   ん……少し。


   少し、落ち着いた方がいい?


   ううん、このままでいいと思う。


   そう?


   とても楽しそうだから。


   亜美ちゃんは、楽しくない?


   私?


   今日ぐらい、楽しくはしゃいだっていいと思うんだ。


   そんなこと言って……合格の発表日は、今以上に浮かれている気がするわ。


   受かっていたら、だけどね。


   ……。


   あれ?


   ……不安になるようなこと、言わないで?


   あ、あぁ、ごめん。


   ……きっと大丈夫だと、思ってはいるけれど。


   うん、あたしも思ってる。
   自信があるんだ、すごく。


   ……楽観的?


   それも、あたしのいいところかな。


   ……もう、まこちゃんは。


   あはは。


   ……そんなところも。


   ん、なに?


   ううん、なんでも……浮かれすぎて、怪我をしないようにね。


   はい、気をつけます。


   はい、くれぐれも気をつけて。


   ふふ、うん。


   ……。


   あ、そういえば、お母さんは?
   今日の夜は、帰って来る?


   ん……だから、お泊まりは出来ないの。


   お泊まり……。


   ……なんて。


   んーー、それは残念だなぁ。
   今夜はお勉強をしないで、ふたりで遅くまでお喋りがしたかったんだけど。


   ……お喋り?


   そう、お喋り。
   年が明けてからは、ゆっくり出来なかったからさ。


   ……。


   でもまぁ、今日は亜美ちゃんの高校受験の日だし、お母さんも帰って来るよね。
   けど、そうなると、ごはんは食べない方がいいんじゃ……。


   ううん、ごはんは大丈夫。
   外で食べてくると言っておいたから。


   外で?


   ……ん。


   それって……もしかして、あたしの部屋のこと?


   ……そうなったらいいなって、思っていたの。


   そうなんだ。


   ……勝手に、ごめんなさい。


   ううん、嬉しい。
   あたしもそうなったらいいなって、思ってたから。


   ……本当?


   うん、本当。


   ……。


   あのさ、亜美ちゃん。


   ……なに。


   今夜は、あたしひとりだと思ってたんだ。


   ……。


   みんなは、家族と……受験から解放されて、楽しくごはんを食べるんだろうなぁって。
   レイちゃんの学校は中高一貫で受験はないけれど、だからって、試験がないわけではないし……今朝はわざわざ、見送りに来てくれたし。
   うさぎちゃんは、これから衛さんに会うんだってはしゃいで……だから、あーはいはいって、美奈子ちゃんに言われてさ。
   そんな美奈子ちゃんは、アルテミスと……いや、それはいつも通りか。なんだかんだ言ってても仲がいいからなぁ、あのふたり。いや、ひとりと一匹か。


   まこちゃん……。


   そして、亜美ちゃんは……久しぶりに、お母さんと。


   ……。


   今更、なのにね。
   なんだか、すごく寂しいって思っちゃって。


   ……だから、元気がなかったの?


   ……。


   あ……ごめんなさい。


   亜美ちゃんは、あたしを見てくれてるよね……。


   ……え。


   あたしとしては、うさぎちゃんと美奈子ちゃんと一緒に喜んでいるつもりだったんだけどな……やっと受験が終わった、やったーってさ。


   ……。


   ね、亜美ちゃん……もしも、あたしのことを気遣ってくれているのなら。


   まこちゃんのお部屋に行きたいと思うのは、私の……ただの、我侭なの。


   ……亜美ちゃん。


   まこちゃんと、一緒にいたい……出来れば、夜まで。


   ……それは。


   私の為に……まこちゃんのお部屋に、行きたいの。
   だから……まこちゃんを気遣ってのことでは、ないの。


   ……そっか。


   ごめんなさい……。


   ううん……ありがとう、亜美ちゃん。


   お礼なんて……こんな、自分勝手なお願い。


   気遣ってもらえるのはもちろん嬉しいけど、でもそれ以上に、亜美ちゃんの我侭を聞けるのがあたしは嬉しいんだ。


   あの……迷惑だったら。


   迷惑だなんて、あたしが思う?
   あたしの我侭も叶うのに?


   ……。


   ね、今夜はチキンステーキでお祝いしよう?
   まだ、結果は出てないけど……それでも。


   ……私も、作りたい。


   え?


   私も、作りたいわ。


   分かった、一緒に作ろ。


   ……ん。


   やったぁ、今日の夕ごはんは亜美ちゃんと一緒だ。


   お買い物は、していかないでいい?


   していっても、いい?


   ん、もちろん。


   ありがとう、助かるよ。


   ……ひとりでも、行くつもりだったんでしょう?


   うん……亜美ちゃんと、さよならしてから。


   言ってくれればいいのに。


   ん……早く、帰りたいかなって。


   ……どうして?


   お母さんが、帰って来るから。


   ……母と過ごすことも、大事だけれど。


   ……。


   まこちゃんと過ごす時間も、大切なの……。


   ……あたしと。


   そう……まこちゃんと。


   ……。


   ……?
   まこちゃん……?


   ……あぁもう、やだなぁ。


   え、あ、ごめんな


   目に、ごみが入っちゃった。


   ごみ?


   うん……そのせいで、涙が。


   大丈夫? あ、こすってはだめよ。
   良かったら、私に見せて。


   ん、大丈夫だよ……涙で、流れ落ちると思うから。


   でも……。


   ……化学、反応。


   え……?


   ……あたしは亜美ちゃんに優しくされると、目にごみが入る。


   それは……違うと思うわ。


   はは……そうだよねぇ。


   あの、まこちゃん……本当に、大丈夫?


   あ、うん……大丈夫だけど、大丈夫じゃないかも。


   痛いようなら、お医者さんに行った方が。
   この時間なら、まだやっているから……良かったら、母の病院に行く?


   ん、行かなくてもいいかな。


   大丈夫ではないのなら、診てもらった方が……。


   ……亜美ちゃんは、少しだけ、鈍い。


   はい……?


   ……なんでもないよー。


   あ、まこちゃん……。


   今日は、どこのスーパーに行こうかなぁ。


   まこちゃん、待って。
   目は本当に大丈夫なの?


   うん、もう大丈夫。
   ごみが取れたみたいで、涙も止まったよ。


   違和感はない?


   うん、ないよ。
   だから、お医者さんには行かない。


   念の為、洗眼薬で洗浄した方がいいと思うの。


   せんがんやく?


   持ってない?


   持ってない。


   目薬は?
   目薬は持ってる?


   目薬?


   そう、目薬。


   目薬かー。


   ……持ってない?


   うん、持ってないかな。


   ……。


   買った方がいい?


   ……目は、本当に大丈夫なの?


   うん、大丈夫だよ。
   目にごみが入ったわけではないから。


   ……え?


   化学反応。


   ……何が何に反応したの?


   亜美ちゃんの優しさ……今回は、優しい我侭に。


   ……どういうこと?


   うーん、やっぱり少し鈍い?


   教えて、まこちゃん。


   どうしようかな。


   自分で考えなきゃだめ?


   ねぇ、亜美ちゃんさ。


   ……そう、よね。


   大好きだよ。


   ……は。


   大好きだ、亜美ちゃんのこと。


   そ、それは……え?


   はは、もしかして動揺してる?


   ど、動揺って……。


   うん、してるね。


   ま、まこちゃんが、きゅ、急にそんなことを言うから。


   だって、言いたくなったんだ。


   こ、こんなところで言わなくても。


   あたしの部屋の方が良かった?


   そ、そういう問題でも……。


   さ、からすが鳴く前にかーえろ。


   ま、まこちゃん……。


   優しい化学反応、だよ。


   優しい、化学反応……。


   多分、亜美ちゃんも知ってると思うんだ。


   ……私も?


   そ、亜美ちゃんも。
   多分、気が付いてないだけ。


   ……。


   さ、行こ。


   ……あ。


   ね、いいだろ?


   い、いいけど……。


   うん、良かった。


   えと……どこのスーパーに行くの?


   いつものスーパーでいいかな。


   そ、そう。


   そうだ、たい焼きでも買ってく?


   た、たい焼きを食べたら、お夕飯が入らなくなってしまうわ。


   あはは、そっか。
   今日はお祝いのご馳走だもんねぇ。


   ……だから、また今度ね。


   今度?


   ん……また、今度。


  28日





  -Chemical Reaction(現世1)





   ……ねぇ、亜美ちゃん。


   なぁに、まこちゃん。
   あ、どこか分からないところでもあった? どこ?


   ……亜美ちゃんはさ、あたしを通さないだろ。


   うん?


   それなのに、あたしに引き寄せられるんだよね……?


   え、と……?


   あたしを通さないから、あたしを溜め込んだりもするし……。


   ……。


   亜美ちゃんって、不思議だよね……凍ると、もっと軽くなるしさ。


   ……まこちゃん。


   こたい、えきたい、きたい……亜美ちゃんは、難しいな。


   もしかしなくても、疲れた?


   ……。


   少し、休憩する?


   ……しても、いい?


   うん、寧ろした方がいいと思う。
   このまま続けても、頭の中に入らないと思うし。


   じゃあさ……化学実験を、してもいいかな。


   化学実験?


   ……いい?


   いいけれど……休まなくてもいいの?


   休む為に、実験がしたいんだ。


   ……どんな化学実験をするつもりなの?


   え、と……たんさん、すいそ……かるしうむ?


   ……何を作るの?


   加熱して、生地がちゃんと膨らむかどうか確かめたいんだ。


   それなら、炭酸水素ナトリウムね。
   化学式はNaHCO3で、実験方法は化学的方法。


   加熱すると、二酸化炭素……CO2が発生するから、生地が膨らむんだよね。


   ええ、そうなの。


   ……良かった、あってた。


   生地ということは、ケーキかクッキーを作る実験?


   ううん、ケーキとクッキーは時間がかかるから……。


   ……から?


   今からするのは、カルメ焼きを作る実験なんだ。


   あぁ、カルメ焼き。
   カルメ焼きは、家でも手軽に出来る化学実験よね。


   手軽に出来るけれど、意外と難しんだよね……学校で実験した時は、何度やっても失敗してる班があったよ。
   茶色のまま膨らまなかったり、そうかと思えば、白いまま膨らまなかったり。茶色のは食べても甘くなくて、苦いって言ってたなぁ。


   膨らませるには、炭酸水素ナトリウムを加える温度が重要になるから。
   125度に達したら火を止めて加えるのだけれど、それよりも高すぎると茶色に、低すぎると白いままで、どちらも膨らまないの。
   そして、苦みを感じるのは焦げているから。


   炭酸水素ナトリウムを加えたら、激しくかき混ぜてあげなきゃいけないんだけど、それが恥ずかしくて出来ない子もいたとか。
   ひとが一生懸命にやっているのを見てからかう奴がいるから、分からないわけでもないんだけどさ。でも、笑うなんてくだらないよなぁ。


   そうね、一生懸命のひとを笑ってはいけないと思うわ。


   ね。


   まこちゃんの班は成功したのでしょう?


   うん、ほとんどあたしが作った……実験、したんだ。


   味も、ちゃんとおいしかったと聞いたわ。


   うん、味もわりと好評だったよ、さくさくでおいしいってさ。
   家庭科以外でおいしいなんて言われるのは初めてだったから、面白かったなぁ。
   おかげで、他の班の子達の分まで作ることになって、先生に注意されたっけ。


   でも、先生にも作ってあげて褒められたのでしょう?


   うん、実験大成功だってさ。
   ここまで上手に出来る生徒はなかなかいないって言われたよ。


   レイちゃんのおうちで実験した時、うさぎちゃんと美奈子ちゃんも喜んでいたわ。
   ふわふわなのにさくさくで、甘くてとってもおいしいって。


   あぁ、お腹がすいてお勉強に集中出来な~いって、ステレオで駄々をこねた時だね。
   持っていったお菓子、全部食べちゃってさ……仕方ないから、レイちゃんに台所を借りて作ったんだ。


   うさぎちゃんも上手く出来なかったみたいで。
   なんでも、焦がしてしまったとか。


   うん、そんなこと言ってたね。
   だから、最初は渋い顔をしてさ。


   だけど、食べてみたらとてもおいしいって。


   さっすがまこちゃんって、言われたっけ。
   調子がいいんだ、うさぎちゃんは。


   美奈子ちゃんもね。


   あのふたり、よく似てるよね。


   そうね、似ているわ。
   いつだって明るくて、行動力があって。


   暴走しがちなのは、どちらかと言うと美奈子ちゃんだけど。


   うさぎちゃんが振り回されて、レイちゃんが止めるの。


   はは、そうそう。


   私も食べてみたけれど、本当においしかった。


   あの時は、重曹……炭酸水素ナトリウムに、卵白と砂糖を混ぜたのを使ったから。
   炭酸水素ナトリウムだけを入れたものよりも、良く膨らんでおいしくなるんだ。


   卵白のたんぱく質が加熱によって凝固して、炭酸水素ナトリウムの熱分解によって発生した二酸化炭素が外に逃げ難くなるから膨らみやすくなる。


   図を描いて、亜美ちゃんが解説してくれたっけ。


   ごめんなさい、興味深いものだったからつい。


   ……亜美ちゃんは大体、あたしの隣にいてくれる。


   え?


   ううん……亜美ちゃん、興味深そうに見ていたもんねぇ。
   口に手を当ててさ、まるで小さな子供みたいに目がきらきらしてた。


   お手伝いをするつもりだったのに、じっと見てしまって。
   改めて、あの時はごめんなさい。


   ふふ、良いんだ。
   亜美ちゃんに楽しんでもらえたのなら、それだけであたしは嬉しいから。
   カルメ焼きも、おいしいって言ってくれたしね。


   ……本当においしかったの。


   今から作るのも、おいしいって言ってもらえたら嬉しいなぁ。


   ……きっと、言うと思う。


   そういや、亜美ちゃんの班もちゃんと成功したんだろう?


   ん、一応ね。


   亜美ちゃんがほとんどやったんだっけ。


   ええ、結果的に私がほとんどやったわ。
   他の子が実験すると、どうしても失敗してしまって。


   さっすが、亜美ちゃんだ。
   誰よりも頼りになる。


   もう……あまり、からかわないで。


   からかってなんて、いないよ。


   誰よりも頼りになるのは、まこちゃんだと思うの。


   あたしは家庭科なら、ね。


   ……。


   あ、言っちゃった。


   ……ふふ、まこちゃんったら。


   はは……。


   ……頼りになるのは、家庭科だけではないわ。


   ん、なに?


   ううん。


   そっか。


   ……うん。


   炭酸水素ナトリウムは、ベーキングパウダーの代わりになるから……切らしている時に、便利なんだよね。


   ……ね、まこちゃん。


   ん、なんだい?


   炭酸水素ナトリウム……2NaHCO3はCO2の他に、何に分解するか覚えている?


   ……。


   覚えていない?


   ……水と。


   H2Oね。
   それから?


   んーと……。


   あと、もうひとつなのだけれど。


   水と、二酸化炭素と……Naだから、ナトリウム?


   惜しいわ、答えは炭酸ナトリウム。
   化学式は、Na2CO3よ。


   Na2CO3……。


   炭酸水素ナトリウムの熱分解の化学反応式は……?


   ……。


   あ、ごめんなさい。
   休憩をするんだったわよね。


   ……亜美ちゃん。


   な、なぁに?


   ……カルメ焼き、食べる?


   あ、うん……食べる。


   うん……じゃあ、少し待っててね。


   あの、見ていてもいい?


   ん?


   作って……ううん、実験しているところ。


   ふふ……うん、良いよ。
   なんだったら、一緒に実験するかい?


   ……してもいい?


   うん、一緒にしよう。


   うん。


   それでは、亜美ちゃん。
   今回は炭酸水素ナトリウムを使った実験なので、それ以外のものが入っているベーキングパウダーではなく、この重曹を使います。


   はい。


   と言いつつ、卵と砂糖も用意します。


   今回も重曹卵を使うのですね。


   折角だから、おいしいもの……たんぱく質の凝固も実験したいと思います。


   お砂糖は、どうして入れるのですか。


   砂糖は、まぁ……より、おいしくする為に。


   つまり、重曹の独特な味を気にならなくする為にですね。


   はい、その通りです。
   亜美ちゃんは、どう思いますか。重曹だけの方がいいですか。


   私は、重曹卵を使うことに賛成です。


   ん、そうしたら亜美ちゃんには重曹卵を作ってもらいます。


   はい、分かりました。


   作り方は……知っているよね。


   うん、まこちゃんに教わったから。
   卵白にある程度重曹を加えてから練って、耳たぶくらいの硬さになったら重曹を加えるのを止めるの。


   それから?


   そこにお砂糖を少々入れて、同じように練り合わせる。
   シュークリーム状に柔らかくなったら、重曹卵の出来上がり。


   うん、作り方は満点。


   ふふ、重曹卵を作るのも楽しそう。


   亜美ちゃんは実験が好きだよね。


   ん、好き。


   あたしは、まぁ、調理実習の方が好きだけれど。


   ふふ、然うね。


   ね、いくつ作ろうか。


   私は、ひとつしか食べられないと思う。


   そっか、あたしもひとつでいいかな。


   何で作るの?


   学校でした実験と同じように、お玉で作ろうと思う。
   大きさも丁度良いし……うさぎちゃんと美奈子ちゃんがいたら、鍋で作るんだけどね。


   お鍋だと、大きいカルメ焼きが作れるものね。


   あのふたりに作ってあげる時はお玉でちみちみと作るよりも、鍋でどーんと作った方が面倒でなくていいんだ。


   面倒って。


   おっと、つい。


   ふふ……ふたりには内緒ね?


   お願いします。


   はい、分かりました。


   それじゃ、始めようか。


   うん、始めましょう。


   ……。


   ん、なに?


   いや、化学も悪いものじゃないなぁって。


   ね、楽しいでしょう?


   うん、亜美ちゃんと一緒ならね。


   ……え。


   ついでだから、べっこう飴も作ってみようかなぁ。


   ……。


   ん、どした?


   ううん……なんでもない。


   そう?


   ……ん。


   なら、いいけど……。


   ……あ。


   顔が、少しだけ赤いような気がする。


   その……ちょっと、熱いのかもしれない。


   お水、飲む?


   ありがとう……でも、大丈夫。


   本当に大丈夫?


   ん……大丈夫。


   そっか……何かあったら、すぐに言ってね。


   ん……ありがとう。


   これ、卵と砂糖、でもって重曹。


   量は、どれくらい?


   んー……卵白は3分の1くらい、そこに重曹を大体30g、砂糖は15g。
   残った卵は、こっちに入れておいて。後で使うから。


   うん、分かった。


   そういや、お水ってさ。


   ……うん?


   本当は、電流を通さないんだよね。


   ……純粋なお水には、イオンが存在しないから。


   水道水が、電流を通すのは。


   ……イオンが、存在しているから。


   イオン……不純物が混じっていると、電流を通す。


   ……。


   亜美ちゃんは、不純物が混じってないきれいな水だから……。


   ……私は、きれいなお水では。


   えーと……なんだっけ。


   ……?


   不純物が混じってないお水のことを、なんて言うんだっけ。


   ……純水。


   あぁそうだ、純水だ。


   ……さっき。


   ……。


   ……まこちゃんが言いたかったのって、もしかして。


   んー……そうかな。


   ……でも、私は純水ではないわ。


   そうかなぁ……。


   ……まこちゃんは、私のこと。


   ねぇ、亜美ちゃん……。


   ……なに。


   何を混ぜたら、亜美ちゃんの中にあたしを通すことが出来るのかな。


   ……まこちゃん。


   ほら、あたしって雷だろ……?


   ……そう、だけど。


   純水を亜美ちゃん、電流をあたしって考えると覚えやすいんだ。


   ……そうなの?


   うん……そうなんだ。


   ……。


   水は、H2O……。


   ……お水に帯電させたストローを近付けると、水分子が-電子に引き寄せられる。


   ん……?


   ……それによって、水分子の電気極性を推測出来る。


   そんなこと、授業で聞いたかも……。


   ……聞いているはずよ。


   亜美ちゃん……。


   ……でないと、私がまこちゃんに引き寄せられるなんてこと、言うわけないもの。


   亜美ちゃんは……。


   ……。


   ……あたしのこと。


   ……。


   ごめん……やっぱり、なんでもない。


   ……そう。


   カルメ焼き、作ろっか。


   ……。


   じゃなかった……化学実験を、始めようか。


   ええ……カルメ焼きを、作りましょう。


   ……。


   休憩時間だもの……まこちゃんの好きなことを、ね。


   亜美ちゃん……うん。


   休憩したら、また、がんばりましょう。


   ん、がんばるよ。
   あたしはどうしても、亜美ちゃんと同じ高校に行きたいんだ。


   ん……がんばって。
   あ、分からないところがあったら、すぐに聞いてね。


   うん、すぐに聞く。
   分からないままにしておくのは、だめだから。


   ん。


  27日





   ただいま、亜美さん。今、戻ったよ。
   因みに、手はもう洗った。


   ……。


   亜美さん?


   ……お帰りなさい、まことさん。


   うん、ただいま。
   若しかして、眠っている?


   先程、眠ったところです。


   ん、然うか……ならば、静かにしないといけないな。
   寝た子は起こすな、だ。


   今日は、どうでしたか?


   うん、今日は兎と山菜だ。
   ちびが良く働いて呉れた。


   ふふ、然うですか。


   山菜入りの兎鍋も、美味しいだろう?


   はい、山鳥とはまた違った美味しさですよね。
   あの子は、がっかりするかも知れませんが。


   あー……其処はまぁ、仕方がない。


   あなたの姿が見えなくなるまで、泣いていましたよ。


   然うは言っても、未だ連れてはいけないからなぁ。
   せめて……然うだな、あと七年分くらいは大きくならないと。


   七年分、其れはまた先の話ですね。


   暫くの間は、畑と家の簡単な手伝いをさせて、様子を見ようと思っているんだ。
   でもまぁ、ただ山に行くだけならば、そろそろ連れて行っても良いかと思っている。


   大丈夫ですか?


   山と言っても、少し踏み入れるくらいまでかな。流石に其の先には行かない。
   獣に出会す可能性があるし、何より、小さな子の足で山を歩くのは厳しい。


   妥当だと思います。


   だろう?


   まことさんは幼い頃、山で暮らしていたのですよね。
   矢張り、違うものなのでしょうか。


   あたしの場合は、物心つく頃には山での暮らしが当たり前になっていたから。
   寧ろ、村での生活というものが良く分からなかったんだ。だから、違うものだったのだと思う。
   何が違うのかと言われると、然うだなぁ……ひとよりも獣の気配、夜の闇がひたすら濃いというところかな。


   ……戻りたいとは。


   思わない。


   ……。


   此の場所で自分達が食べる野菜をこさえて、時折、山や川に行って獲物を獲ってくる……此の暮らしが、良いんだ。


   ……然う。


   あの子は、あたし達と此処で暮らしている。
   だから、山のことはゆっくりと覚えていけば良い……あたしは、然う思っている。


   然うですね……取り敢えず、川も未だあの子には早いと思います。


   川は、然うだなぁ。足元が先ず、滑るからなぁ。
   水遊び程度なら良いかも知れないが、本当に浅いところでないと。


   水遊びなら、家でも出来ますから。


   盥に、水を張って?


   川には流れと深みがありますから、ある程度大きくなったとしても、危険が伴います。
   浅い所であっても、転倒すれば怪我をしてしまうかも知れませんし、溺れてしまうことだってあるのです。


   目が離せないのは、盥で水遊びも同じだけれど。


   水も、川も、山も、其れから火も、どれもとても危険なもので、ひとつ間違えると大変なことになる。
   其れは今からきちんと教えてあげないといけません。其れこそ、ちゃんと理解するまで。


   んー……また、何かしたのかい?


   囲炉裏に手を伸ばして、炭を。


   其れは、火遊びどころではないな。
   囲炉裏の炭に素手でなんか触ったら、とんでもないことになってしまう。


   既の所で止めましたが……本当に、目が離せないのです。
   つい先刻まであなたが作った竹とんぼで遊んでいたと思ったら、縁側によじ登ろうとして落ちそうになっているし。
   お昼寝をしていると思ったら、いつの間にか起きて、部屋の中で静かに転がり回っているし。
   然うかと思えばちびの髭や尻尾を掴み、我慢の限度を超えたちびに吠えられて、大泣きしているし。


   静かに転がり回っているのには、驚いたな……本人は、楽しいのだろうが。
   せめて、声を出して呉れたら良いと思うのだけど……何が楽しいんだろうか。


   分かりません……でも、楽しいのでしょう。


   うん……まぁ、怪我さえしなければ。


   なんでも口の中に入れようとすることはなくなってきたけれど、其れでも、私の着物の裾をしゃぶっていることがあるし。
   書物なんてうっかり置きっぱなしにしていたら、放り投げられて……まぁ、破かれるよりは良いのですが、どうせなら読んで欲しい。


   好奇心が旺盛なのは良いことなのだけれど、命に係わることだけは駄目だな。
   あと、流石に読めないのではないかな……未だ、教えていないし。


   良く分かりました……ずっと見ているのは、困難です。


   赤子の頃は負んぶしていれば良かったが、今は然うはいかないしなぁ。
   負ぶれないことはないが、じっとしていないから、結局下ろさないといけなくなる。
   あの子はどうやら、じっとしているより、動いている方が好きらしい。


   呑気に……叱って下さい、まことさんも。


   いや、叱っているよ。


   こら、駄目だろう。と、言うだけではありませんか。
   其れだけではただの注意でしかない、もっと確りと叱って下さい。


   けれど未だ小さいし、あまりきつく叱っても


   きつく叱れとは言っていません。其れにもう分かる頃です、最初が肝心なんです。
   うさぎちゃんのお母さんにも、然う教わったでしょう?


   う、うん、教わったね。


   あの子の目を見て、其の行いをした理由を問い質して、あくまでもあの子を否定せずに、どうしていけないのか分かり易く伝え……。


   む、難しいな……。


   美奈子ちゃんの悪戯には怒っていたではありませんか。


   いや、美奈とは違うしな……あいつはもう、大きかったし。


   まことさん。


   はい、確り叱ろうと思います……。


   思う、では、駄目です。


   けど、ふたりで叱っていては……逃げ道がないのは、あまり、良くないと。


   あの子が大怪我をしても良いのですか。


   ……良くないです。


   ましてや、命に係わるようなことになったら


   駄目なものは駄目だと、確りと教えます。


   屹度ですよ。


   うん、必ず。


   お願いしますね、まことさん。


   は、はい。


   ……。


   は、はは……。


   何が可笑しいのですか。


   な、何も可笑しくありません、ごめんなさい。


   ……はぁ。


   えと、今日の患者さんは……。


   ……患者さんが居る時は、良いんです。


   え、何が。


   ……ひとの目があるからです。


   あ、あぁ……見ていて呉れるということか。


   ……ひとりでは、とても。


   うん……。


   水も火も、私と一緒に眺めている分には構わないのだけれど……ひとりでは、何をするか分からない。


   此の間も囲炉裏に落ちそうになって、慌てて抱え上げたんだ。
   あの時は、本当に焦った。手に火傷なんてしたら、後々まで残ってしまうかも知れない。


   ……囲炉裏に落ちたことで手に大火傷を負い、生涯、不自由になってしまうことだってあるのです。


   亜美さんは、診たことがあるんだよね。


   はい、一度だけですが……其のひとの手は指がくっついてしまっていて、開かないのです。
   此の手では家業は継げないから学問で身を立てるようにと、親に言われていると言っていました。


   其のひとの家の業は。


   木匠です。


   木匠は、手が不自由だと出来ないな。


   学問ならば、と、其のひとに教えた親御さんは正しいと思います。


   うん、確かに。


   高等学校には通えず、独学で頑張っていたようですが……其の後、どうなったのか。


   学問で身を立てていたら良いね。


   ええ、本当に。


   然し、囲炉裏に落ちて手に大火傷か……他人事だとは思えないな。
   今日も、素手て触ろうとしたと言うし……近付けないようにするしか、ないのだろうけれど。


   ……矢張り、ひとりの時は括りつけておくことも考えなければ駄目なのでしょうか。


   んー……此処はひとつ、素直にうさぎちゃんのお母さんに頼ろう。
   今も来て呉れてはいるけれど、改めて。


   ……体調のこともあり、心配ではありますが。


   じっとしているよりも、動いている方が良いと言っていた。
   あの子も懐いているし、出来る範囲でお願いすれば良いと思うんだ。


   ……然うですね。


   ふたりだけではどうにもならないことが、其れこそ山のようにあると、言っていたし。
   今がまさに、其の時だと思う……などと言ったら、まだまだ此れからだと言われてしまいそうだけれど。


   ……実感を込めて、言われそうですね。


   あぁ……にこにこと、笑いながらね。
   たまに、怖いんだよなぁ……あの笑顔。


   ……特に男子は、大きくなっても大変だと。


   どういうわけだか、命に係わるようなことをしたがるらしいな……。


   ……何故なんでしょうね。


   自分の限界を知る為、かな……。


   ……限界?


   うさぎちゃんのお父さん曰く、男は何かと無茶をしがちなんだそうだ。


   ……そんなひとばかりでは、ありませんが。


   戦は、男が仕掛けたものばかりだったよ。


   其れは……まぁ。


   まぁ、戦とは違うのだろうけど。


   ……女の子は、どうなのでしょうか。


   男子よりは、ましらしいけれど……美奈を見ているから、分からない。


   ……明日にでも、改めてうさぎちゃんのお母さんにお願いしてこようと思います。


   あたしも行こう。


   いつ行きましょうか。


   明日は畑だから、亜美さんの都合に合わせるよ。


   分かりました。
   では、午前の診療が終わった後に。


   ん、分かった。


   ……。


   ……寝てる?


   はい、今は未だ。


   今日も、良く遊んでいた?


   遊んでいました。


   どんな?


   今日はちびが居なかったので、拾ってきた葉っぱに話し掛けてみたり。


   あぁ、其れは畑でも良くしているなぁ。
   何かに話し掛けているなと思って見てみたら、丸子虫やら蟻やらだった。


   何枚も積み重ねては、私を呼んで、見せて呉れたり。
   其の際、虫はそっと外に帰し、家の中には入れないように言っておきました。


   虫は、ね……外に居る分には良いけれど、家の中で増えたら困るかな。


   百足や毛虫、害のある虫には触らせないようにしないと……。


   害のある虫は駄目だ、刺されたり咬まれたりなんかしたら大変なことになってしまう。


   触るとしたら……無害なものでないと。
   何でも触ろうとするから……やっぱり、目が離せない。


   好奇心が旺盛なのは、亜美さん似かな……。


   ……私だけではないと思いますよ。


   あたしに、似てる……?


   ……似てます。


   ん、然うか……。


   ……。


   ……然し、良く動き回るようになった。


   体力も、大分ついてきましたね。


   つき過ぎて、疲れ知らずになってきたような気もするが。


   其れでも、ちゃんと力尽きて眠って呉れますから。


   お昼寝をし過ぎると、夜が大変だけれどね。


   まことさんが、遅くまで遊んであげて。


   もう、元気いっぱいでさ……眠気なんて、何処にもないんだよ。


   ……私は休ませて貰って。


   亜美さんは、お昼寝が出来ないだろう?


   まことさんだって。


   あたしは、畑仕事の合間に出来るから。


   ……ありがとうございます、まことさん。


   ん、いや、あたしはあたしに出来ることをしているだけだよ。
   亜美さんだって、あたしが居ない時はあの子をひとりで見ているだろう?


   ……然うですが。


   ありがとう、亜美さん。


   ……私も、私が出来ることをしているだけですから。


   曰く、お互いへの感謝が大事。


   ……。


   だろ?


   ……はい。


   うん。


   ……良く寝ているわ。


   寝ている時は、流石に大人しいな。


   ……待って。


   うん?


   ……鼾。


   え。


   ……。


   幼子が、鼾……?


   ……幼子の鼾には、危険なものもあるんです。


   え、然うなのかい?


   しぃ。


   う。


   ……。


   ……聞こえるような、聞こえないような。


   うん……大丈夫そうですね。


   ……。


   鼾ではないようです。


   ……亜美さん。


   良かったです。
   ねぇ、まことさん。


   うん、然うだね。


   ……まことさんも、気を付けてあげて下さい。


   分かった……気が付いたら、直ぐに亜美さんに言うよ。


   ……はい。


   然ういえば、食べながら寝ていた時には笑ってしまったなぁ。


   ふふ、今でもありますね。


   あぁ、あるね。


   ……可愛いです。


   ……。


   ……とても。


   うん……可愛い。


   ……。


   ……ねぇ、亜美さん。


   はい……。


   ……症状は、出ていないんだよね。


   はい……今の所は。


   治療が効いている?


   然うだと思います。


   此のまま、出なければ良い。


   ……然う、願っています。


   ……。


   ……。


   ……お義母さんと学姐、そして亜美さんのおかげで、今のあの子が居る。


   まことさんも、ですよ……。


   ……あたしは、何も。


   いいえ、まことさんが居なければ……今に、繋がっていません。


   ……。


   ……雪の中、危険を冒して薬を受け取りに行って呉れた。


   そんなことも、あったな……だけど幸い、大雪ではなかったから。


   ……無事に帰って来たあなたの顔を見た時、私は。


   ……。


   ……情けないことに、泣き崩れてしまったの。


   あぁ……今でも、憶えてる。


   ……だから。


   うん……。


   ……。


   ……母親も、治療して。


   快癒することは、ありませんでしたが……。


   ……思っていたよりも、あの子と過ごせただろう。


   ……。


   ……穏やかに、過ごせたのなら。


   然うだったら……良いと。


   ……屹度、然うさ。


   まことさん……。


   ……いつか、あの子に話す日が。


   ……。


   まぁ……今は兎に角、育てなければならないが。


   ……あの子に、お勉強を教えたいと思っています。


   え、もう?


   もう少し、したら。


   そ、然うか。


   一緒に習いますか?


   そ、然うだな……習おうかな。


   ふふ……戯言です。


   ……レイのところに通わせることは?


   其れも考えています。


   ならば、レイに


   もう、言ってありますよ。


   ……。


   快く、引き受けて呉れました。


   ……然うか。


   あの子には……。


   ……。


   ……まことさん。


   うん……何処に行った。


   ……侑?


   侑、何処だ?


   侑、侑、何処に居るの。お返事をして。


   囲炉裏の周りには、居ない。


   侑……え。


   居たかい?


   隊長、さん……?


   ……は?


   学姐も……。


  26日





   ……美奈が、動いているとは思わなかった。


   村の近辺だけだと、言っていましたが……。


   ……男を宛がうなんて、良く言ったものだ。


   介護人という意味でしたね……。


   母乳だけでなく、母親のことまで……あいつなりに、色々と考えているんだな。


   ……ええ。


   まさか、隣山の荒屋に居たなんて思いもしなかった。
   そもそも、あたしは探そうとも思わなかった。


   ……元は、誰かが住んでいたのでしょうか。


   昔、何処からか流れてきた男女と幼子が住んでいたという話だが……なにぶん、あたしも話でしか聞いたことがなくて。


   其の家を、見たことはあるのですか。


   遠目で。
   荒れ果てていて、立っているのがやっとの風情だったと思う。


   ……そんな所に、ひとりで。


   道から外れて、奥まった場所にあるんだ。
   あんな所、知っている者ぐらいしか行かない。


   ……流浪の者達は時折、立ち寄っていたのでしょうか。


   あぁ、然うだと思う。


   ……。


   産後の肥立ちが悪くて、途中で置いていかれた……然う、言っていたな。


   連れて行くことは最早、不可能……然う、判断されたのでしょう。
   流浪の者は動けなくなったら其れまで……然う、聞いています。


   ……けれど、産後の肥立ちだけではないな。


   其の時点で、何処まで発症していたのか……。


   ……亜美さん。


   はぁ……。


   ……あの人は。


   彼女は……あの子の母親は、性感染症に罹っています。


   せいかんせんしょう……。


   ……主に、性行為に由って感染する病です。


   其れは、治るのかい……?


   ……初期症状が現れても、放っておいたのでしょうね。


   治る見込みは……。


   初期に現れる症状、多くは外陰部に現れるのですが、硬いしこりが出来、中心に潰瘍が出来ます。
   また、脚の付け根が腫れることもありますが……しこりには痛みや痒みがなく、気付かないことが多いです。


   ……。


   此れらの症状は、治療をせずとも治まります。


   ……ならば。


   ですが治ったわけではないのです、決して。


   ……。


   次に現れる症状は、発熱や喉の痛み、頭痛、脱毛、疲労感……外陰部を中心に発疹や疣などの皮膚症状が、手の平や足の裏、体幹部に。
   此れらの症状もまた、時が経てば治まってしまいます。但し、再発はします。また、此の時点で臓腑に影響が出ていることもあります。


   ……其れでも尚、放っておくと。


   臓腑に影響が出ることもなく第二の症状が治まって、数年から数十年は症状がない状態が続き……多くは、其のままの状態で終わります。


   ……彼女は。


   治療もせずに、放っておけば……運が悪ければ、第三の、最も重い症状に進んでしまうこともあるでしょう。
   もう一度言いますが、治ったわけではないのです……症状が消えたとはいえ、病原は躰に残っている。ただ、大人しく潜伏しているだけ。


   ……。


   第三の症状は……彼女の場合だと、柔らかい腫瘍が頭皮、顔面、肩甲骨周り……臓腑や骨にも現れているかも知れません。
   此れらは、周囲の組織を破壊していき……顔面の場合、鼻が落ちてしまうこともあります。


   ……鼻。


   まことさんは彼女の症状を、若しかしたら見たことがあるかも知れません。


   あたしは……あたしは昔、似たような症状の女を見たことがある。
   鼻は、くっついていたが……熱を出し、全身、赤いぶつぶつのようなものが出来て。


   ……其のひとは。


   助からなかった……最期まで、弄ばれて。


   正直なところ、彼女も難しいです。


   ……。


   精神症状や認知機能の低下、全身麻痺などは未だ現れていないようですが、歩行障害は出ているようです。
   いずれ、歩くことすら困難になる……然うなってしまえば、確実に寝た切りになってしまうでしょう。
   また、視力低下の症状も見受けられ……進むと、失明してしまうこともあるかも知れません。


   ……どうあっても、助かる見込みは。


   此処まで症状が進んでしまうと、かなり難しいです。
   薬があったとしても、助かる見込みは……かなり、低い。


   ……然う、か。


   そして、何より……あの子もまた、感染している恐れがあるということです。
   いえ……十中八九、していると考えるべきでしょう。


   ……あの子にも。


   此の性感染症は、胎内で子に感染するんです。


   でも、何も問題ないと……。


   ……直ぐに症状が出た場合、死産、或いは嬰児死亡となることが多い。


   死……。


   ……今は無症状でも、感染していたら、其れは徐々に出現してきます。


   若しも症状が出たら……あの子は、治せる?


   ……。


   亜美さんなら、治せるのだろう?
   亜美さんが煎じた薬ならば、屹度……なぁ、然うなんだろう?


   ……。


   亜美さんでも、治せないのか……母親のように、終わりを待つしか。


   ……。


   そんなのは、あんまりだ……あの子は、ただ生まれてきただけだ。
   ただ、生まれてきただけで……悪いことなんて、何ひとつ、していないじゃないか。


   ええ、していません……何ひとつ。


   彼女だって、然うだろう……生きる為に躰を、春を鬻いだのだろう。
   あの娘と同じで、好きでしたわけじゃないかも知れないじゃないか。


   ……然うですね、誰かが悪いわけではありません。


   どうしても、治せないのか……。


   ……繰り返しますが、母親の症状を快癒させることは困難です。


   ならば、あの子は……あの子だけでも。


   ……。


   そんな……。


   ……いえ、あの子は未だ、手立てがあります。


   え。


   あの子は間違いなく、親が感染している時に産まれた……ならば、直ぐにでも治療を開始すれば。


   な、治るのか。
   となれば、あの子は助かるのか。


   ……けれど。


   亜美さん……?


   ……都から、薬を取り寄せなければ。


   都……。


   ……其の薬は青黴から精製されたもの、もっと言えば、西方から齎されたものなのです。


   亜美さんでは、煎じられない……?


   ……精製するには、高度な技術が必要です。


   どんなに高度でも、亜美さんなら……。


   培養及び抽出方法は知っています……けれど、此処では。


   ならば……ならば直ぐに、都のお義母さんに封信を出そう。


   ……母に。


   今から出せば、屹度間に合う。


   ……直に、冬です。


   雪が降る前ならば……。


   ……届くか、どうか。


   出さなければ届かない、其れだけは分かる。


   ……まことさん。


   届くか届かないかは、出してみなければ分からない。
   亜美さんが今夜、封信を書いて呉れれば、明日にでもあたしが山裾の配達人に渡してこよう。


   仮に届いたとしても、返信が届くかどうか。若しかしたら、届かないかも知れない。
   其の薬の在庫があるかどうかも分からない。若しも、なかったら


   兎に角、封信を出してみなければ。でなければ、何も始まらない。
   ねぇ亜美さん、あたしに出来ることは其れしかないんだ。だから、どうかやらせて欲しい。


   ……。


   亜美さん。


   ……分かりました、母に封信を書きます。


   あ。


   まことさん、お願いしても良いですか。


   あぁ、勿論だ。


   薬は当然のことながらお金が掛かります、其れでも構いませんね。


   構わない、あの子を治せるのならば。
   其れしか手立てがないのなら、あたしはあたしが持っている全ての金を出す。


   私も、私が持っている蓄えを全て出しましょう。
   其の上で、母に援助して貰えるよう願い求めるつもりです


   お義母さんに……?


   あのひとだって医生です。
   話せば、若しかしたら、理解を示して呉れるかも知れません。


   ……ありがとう、亜美さん。


   ううん、私の為でもあるの。


   ん……然うか。


   母だけでなく、学姐にも出します。


   学姐……?


   学姐ならば、若しかしたら、精製出来るかも知れませんから。


   あ、然うか。


   今は旅を終えて、ひとつのところに落ち着いていると。故に、今ならば封信が届くかも知れません。
   けれど、届いたところで、どうにもならないかも知れません。其れでも、


   打てる手は全て打とう、いや、打つべきだ。


   まことさんには二通、お願いすることになります。


   任せて呉れ、明日は早朝に発つ。
   然うすれば、夕方までには戻って来られる。


   可能ならば、医生速達便を使うつもりです。
   此れならば、通常の速達よりも早く届けることが出来る筈だから。


   いせい、そくたつ?


   簡単に言ってしまえば、医生の特権です。
   緊急時に使用することが許可されているんです。


   はぁ、然うなのか。


   ただ、私の名で使えるかどうか。


   其れも、やってみなければ分からない。
   取り敢えず、あたしはどうすれば良い?


   まことさんは兎に角、配達人へ届けて下さい。
   見せれば分かるようにしておきますので。


   ん、分かった。


   若しも使えなかったら、速達で出して下さい。
   雪さえ積もっていなければ、比較的、早く届けて呉れますので。


   あぁ、其れも分かった。


   ちびも、どうか一緒に。


   あぁ、連れて行く。


   明日は、私も途中まで


   亜美さんは


   途中までで良いの、どうかあなたを見送らせて。


   亜美さん……うん、分かった。
   ならば、村の入口まで。其れ以上は、駄目だ。


   はい、分かりました。


   良し、然うと決まれば腹拵えをしよう。
   明日にも備えなければならないから。


   然うですね、然うしましょう。


   鍋と言えば、喜んで貰えて良かった。


   ええ、本当に。


   山鳥……獲れて、良かったな。


   ……。


   ん、亜美さん?


   私の分は、まことさんが


   駄目だよ。


   明日の朝に、


   駄目だ。


   ……でも。


   亜美さんにも、食べて欲しい。


   ……お昼に、食べたので。


   少しでも良いんだ、食べて。


   ……。


   亜美さんに何かあったら……あの子も、あの子の母親も、誰が診るんだい?


   ……まことさん。


   母親は、助からないかも知れない……けれど、未だ、生きている。
   少しでも、苦しみを和らげてあげられるのならば……其れが出来るのは、亜美さんしか居ない。


   ……ごめんなさい、まことさん。


   ううん。


   ……。


   あたしは、思う。


   ……はい。


   一時の間だけでも、あの子を母親に返しても良いと。


   ……ですが。


   あれではもう、赤子の面倒を見ることは出来ない。
   けれど……少しの間だけでも、一緒に居ることは出来る。


   ……。


   うさぎちゃんのお母さんも、其のつもりのようだった。
   美奈も、其れを受け入れていたと思う。


   ……。


   一緒に居るだけでは、感染することはないんだろう?


   ……性行為の他に、感染者の体液や血液に触れることで、皮膚の傷口や粘膜から感染する場合があります。


   ならば……可哀想だが、触れさせないようにしよう。
   もう、感染しているかも知れないが……其れでも。


   ……うさぎちゃんのお母さんにも、伝えておきます。


   うん。


   まことさんも気を付けて下さい。


   ん、分かってる。
   亜美さんも、どうか気を付けて。


   はい。


   はい、亜美さん。


   ありがとうございます、まことさん。


   ん、熱いから気を付けてね。


   ……はい。


   ……。


   ……。


   良し、食べようか。


   はい、食べましょう。


   頂きます。


   ……頂きます。


   ……。


   ……。


   うん、美味しい。


   ……はい、とても。


   ねぇ、亜美さん。


   なんでしょう。


   あの子が大きくなったら、山鳥の鍋を食べさせてやりたいと思うんだ。


   乳離れの頃に、脂肪分が少ない部位ならば、すり潰して食べさせてあげても良いようですよ。


   乳離れ、か。
   其れは、どれくらい大きくなってからなんだろう?


   子にもよりますが……うさぎちゃんのお母さんに確認した方が良いと思います。


   うん、然うだな、然うしよう。


   恐らく、生まれて一年程経てば乳離れの頃になると思うのですが。


   一年で、乳離れ?


   もっと早い子も居るそうですよ。


   思っていたよりも、早いな。


   まことさんは、今でも出来ていませんけれど。


   ……え。


   ……。


   亜美さん、今、なんて?


   なんでもありません。


   いや、でも……あたしが


   なんでも、ありません。


   ……。


   ……ただの、戯言です。


   戯言……気のせいか、亜美さんの顔が赤いような。


   気のせいです。


   若しかして……自分で言っておきながら、恥ずかしくなった?


   ……違います。


   ふふ、然うか。


   ……。


   ね、亜美さん。
   乳離れ、した方が良いかい?


   ……知りません。


   しようと思えば、出来るかも知れない。


   ……。


   ん?


   ……したいのならば、


   いや、したくはない。


   ……。


   ふふ。


   ……もぅ。


   戯言だよ、亜美さん。


   ……知っています。


   顔が赤いまま。


   ……お鍋が、熱いだけです。


   躰があったまって、良いだろう?


   ……。


   ふふ……可愛いな。


   ……いつか。


   ん?


   ……あの子と、お鍋が食べたいですね。


   うん、然うだね。


   ……早期だと、三ヶ月以内に発症すると言われています。


   三ヶ月……は、過ぎたか。


   ……晩期だと、二年以降に。


   二年か……。


   ……先天性は、生涯に渡って症状が出ないこともあると。


   然うだったら、良い……。


   ……けれど、治療はしておくべきです。


   あぁ……。


   ……。


   ……。


   今……分かったような気がします。


   ……何がだい。


   若しも、名前が付いていたら……名前が付いていなくても、こんなにも情が移ってしまっているのに。


   ……然ういえば、聞かなかった。


   え……?


   ……あの子の、名前。


   あぁ……然ういえば、然うでしたね。


   ……聞かなくて、良いか。


   今は……未だ。


   ……ならば、侑で。


   え……。


   ……名付け親ぐらいなら、なっても良いと思うんだ。


   まことさん……。


   ……あの子に出来るだけのことはしよう、亜美。


   はい……あなた。


  25日





   兎を獲るつもりだったが……ふふ、今日は運が良かったなぁ。
   お前も良くやって呉れた、後でたんと食わせてやるからな。


   ……。


   亜美さん、喜んで呉れると良いが……最近は疲れているみたいだし、此れを食べて精をつけて欲しい。
   と言っても、今朝起きられなかったのは、ほぼほぼあたしのせいだと言っても間違いではないのだけれど。
   ん、なんだ、そんな目で見るなよ。主達の仲が良いことは、お前にとっても良いことだろう?


   ……。


   ゆうべの亜美さん、可愛かったな……あ、いや、もう気を引き締めなければ。
   今日はもう始まっている……ゆうべのことを思い出して顔を緩めていては、亜美さんにまた叱られてしまう。
   でも、今はひとりだし……あぁ、お前が居ることは分かっているよ。ひとのことがひとり、ということだ。


   ……帰って来た。


   いやいや、然ういう心の緩みが良くないんだ。山では確り、引き締められただろう。
   帰って来ても、其の調子で居なければ……でも、可愛かったなぁ。出来ればまた、近いうちに……駄目だ駄目だ、気を引き締めろ。
   ん、あぁ、分かっているよ。お前、最近亜美さんになんとなく似てきたなぁ。若しかして、拾って貰った御恩のつもりか?


   ……。


   こいつはどうするか……焼いても良いが、鍋にするか。うん、やっぱり鍋だな。
   大根と、葱……あとは、山菜を入れるか。ふふ、今日はご馳走だ。
   分かってる、お前にもちゃんと分けるよ。言ったろう、後でたんと食わせてやると。


   ……まことさん。


   ん、なんだ……て、亜美さん?
   若しかして、出迎えて……あ。


   ……。


   やっぱり、然うだ。躰はもう、大丈夫なのだろうか。
   良し、此処からは走ろ……お、流石に速いな。あたしも負けていられない。


   ……。


   ふ……。


   ……走らずとも、良いのに。


   ……。


   ……相変わらず、足が速い。


   亜美さーん。


   まことさん。


   ただいま、亜美さん。
   今、戻ったよ。


   はい、お帰りなさい。あなたも、お帰り。
   怪我はしていない? うん、大丈夫そうね。


   ちび、ごはんが出来るまで何処かで遊んでいろ。いつも言っているが、畑には入るなよ。
   心配するな、ごはんが出来たらちゃんと呼ぶから。さぁ、行ってこい。


   ふふ、まことさんの言うことは良く聞くのね。


   ん、亜美さんの言うことの方が良く聞くと思うが。


   然うでしょうか。


   然うだよ、いつだって尻尾を振りながら亜美さんに従うだろう?


   あの子にとっては、まことさんが最も上だと。


   いや、亜美さんの方が上だと思う。
   現に、あたしよりも亜美さんにばかり甘える。


   まことさんの言うことには忠実に従います。
   あの子にとって、あなたが絶対なのだと思います。


   然うか、聞かない時もあるが。


   其れは、じゃれている時でしょう?
   山に行けば、あなたの言いつけを守って、ちゃんと務めを果たして呉れます。


   其れはまぁ、然うだが。
   其の為に、躾けたのだし。


   私達の言葉をちゃんと理解する……とても頭の良い子だと思います。


   頭の良いところは、亜美さん似だな。


   ひとの子ではありませんが。


   犬は、主に似るものだと言う。
   頭はあたしに似ず、亜美さんに似て呉れたのだろう。


   然ういうものなのでしょうか。


   然ういうものだと思っていれば良いのではないかな。


   いい加減なことを言いましたね?


   いや、本当に聞いた話なんだ。
   子供の頃、父さんと親しかった猟人(かりびと)にね。


   猟人……ですか。


   そのひとはいつも犬を番で従えていて、生まれた仔犬は全て猟犬に育てたらしい。
   何匹もの仔犬を立派な猟犬にしたという話だ。ね、信憑性はあるだろう?


   従えていた犬達は、其の方に似ていたのでしょうか?


   どの犬も猟犬として優秀だったというから。
   性格は其々違っていたらしいが、其処だけは共通だったと。


   其の方は猟人として優秀だったのですか?


   うん、とても優秀な猟人だったらしい。
   なんでも、獰猛な熊すらも狩ることが出来たとか。


   ……主が優秀かどうかは怪しいところですが、猟犬の育て方は上手だったとも言えなくはないですね。


   ん?


   確かに、全くないとは言えません。


   うん、然うだろう?
   だから、ちびの頭は亜美さんに似ている。


   人懐こいのはあなたに似ていますよ。


   あぁ、亜美さんにだけ懐こいところはあたしに似ていると思うよ。


   其れから、勇ましいところも。


   ん、あたしは勇ましいかな。


   頼りになる、という意味です。


   はは、然うか。


   でも、無理はしないで下さいね。


   うん、分かっているよ。


   ところで。


   ん?


   何も走って来なくても良かったのに。


   亜美さんの姿が見えたら、居ても立っても居られなくなってしまってさ。
   ちびも然うだったみたいで、まんまと置いていかれてしまった。


   遅くなりましたが、お怪我はありませんか。


   あぁ、大丈夫だ。
   何処も怪我をしていない。


   然うですか、ご無事で何よりです。


   うん、ありがとう。


   念の為、後で診せて貰っても良いですか。


   ん、分かった。
   亜美さんは、大丈夫かい?


   私、ですか?


   うん……躰が、重たそうだったから。


   ……はい、もう大丈夫です。


   ん、未だ大丈夫ではない……?


   ……起きた時よりは、幾分か。


   然うか……ならば、今日はあまり無理をしない方が良さそうだ。


   ……誰かさんのせい、なんですからね。


   ん……済まない。


   ……あなたは幾つになっても、相変わらず、なのだから。


   体力だけは、あるんだ……。


   ……。


   ん……。


   ……顔が、緩んでいるわ。


   今だけ……だ。


   ……本当に?


   あぁ……また、確りと引き締める。


   ……私と、ふたりだけの時は良いわ。


   うん……?


   ……其れとも、引き締めていたい?


   ん……いや、亜美さんとふたりだけの時は緩めていたい。


   なら……良いですよ。


   ……うん。


   ふふ……。


   ……へへ。


   ね。


   なんだい?


   今朝は、何が獲れたのですか?


   然うだ、忘れていた。
   今朝はね、山鳥が獲れたんだ。


   え、こんな短い時間で山鳥が獲れたのですか?


   然うなんだ。


   今朝は、兎が獲れたら良いと言っていましたが。


   あたしも其のつもりだった。
   だから今日のごはんは、兎鍋に出来たら良いなと思っていたんだ。


   上手い具合に、鉢合わせたのですね。


   其れがさ。


   はい?


   山に入って兎を探しながら歩いていたら、上から鋭い鳴き声がしてさ。
   釣られて見上げたら、こいつが空から落ちてきたんだよ。


   ……落ちて?


   飛び去って行く、鷹が見えた。
   折角仕留めたのに、うっかり落としてしまったらしい。


   落ちてきた時に、山鳥はもう?


   真っ直ぐに落ちてきたから、其の時にはもう尽きていたのだろう。
   こんなことは滅多にない。今朝は本当に運が良かった。


   はぁ……そんなことも、あるんですねぇ。


   と言うわけだから、今日は久しぶりに山鳥の鍋にしようと思うんだ。
   具は大根と葱、其れから、ついでに摘んできた山菜……どうだろう?


   ふふ、美味しそうですね……良いと思います。


   若しも、焼いた方が良いのなら然うするよ。


   私は、今回はお鍋が良いです。


   ん、なら鍋で決まりだ。
   ちびにも食わせてやらないと。


   鶏肉も好きなんですよね。


   たんと食わせてやると言ってしまったから、いつもよりも多く食わせてやらないといけない。


   だからって、あまり多く食べさせてもいけません。


   ん、分かっているよ。
   あたしは獲物を置いて手を洗ってくるから、亜美さんは先に中に入っていて。


   ……。


   ……ん?


   まことさん。


   どうした?


   ……いえ。


   然うか。


   ……。


   ねぇ、亜美さん。


   ……はい。


   出迎えて呉れて、ありがとう。
   とても嬉しかったよ。


   ……初めてではないのに。


   何度でも……何十年経っても、嬉しいものは嬉しいんだ。


   ……。


   今は、触れない……だから、また後で。


   ……先に入って、待っています。


   うん。


   お鍋の支度もしておきますね。


   ん、頼む。


   山菜は預かってしまいましょうか。


   あぁ、然うだね。


   ……。


   じゃあ、亜美さん。


   はい……ちび、あまり遠くへ行っては駄目よ。


   お、良い返事だ。


   では、また後で。


   うん、また後で。


   ……。


   さて……もう一度、手を良く洗って。


   ……先ずは、山菜の灰汁取りをして。


   んー……。


   ……お大根と葱は、まことさんが戻ってきてからで良いかしら。


   肉は少し、うさぎちゃんの家に分けようか。
   うさぎちゃんのお母さんも疲れているようだから、肉を食べて精をつけて貰おう。
   然う思うと、雄の山鳥が獲れて良かったな……少々硬いが、食える肉は多い。


   お肉……出来れば、うさぎちゃんの家に分けられたら良いのだけれど。
   精をつけて貰うには、矢張り、お肉の方が良い……私の分は良いから、うさぎちゃんのお母さんに。
   あぁ、でも……自分の分は、ちゃんと食べないと。私が倒れてしまったら、あのひとが心配するから。


   亜美さんに話してみよう……屹度、分けましょうと言うに違いないだろうけど。


   まことさんと話してみましょう……屹度、構わないと言って呉れるに違いないだろうけれど。


   ……亜美さん、自分の分は良いからと言いそうだけれど、其れは駄目だ。


   良い山菜ね……。


   ……ふぅ、さっぱりしたな。


   お鍋で分けるのも良いかもしれないわ……其れならば、作る手間が省けるし。


   さて、戻ろうか。
   ちび、あまり遠くへは行くなよ。


   ……其れも、まことさんと話して。


   ちび、どうした?
   誰か来たのか?


   ……。


   ん……美奈?


   ……あの、お話も。


   あいつ、どうしたんだ。
   来るのならば、来れば良いのに。


   ……。


   美奈、今朝は山鳥が捕れたんだ。
   若しも食いたいのならば、待っていれば食わせてやるぞ。


   ……美奈子ちゃん?


   おい、美奈? 要らないのか?
   お前、山鳥も好きだろう?


   ……。


   行ってしまった……なんだったんだ。
   あぁ、ちび、追い掛けないで良い。


   ……。


   まぁ、良いか。用があるのならまた来るだろうし、なんだったら、あたしから行っても良い。
   若しかしたら、あたしが居ない間に来たのかも知れないしな。


   ……まことさんに。


   ん、若しも然うだったとしたら……亜美さんに、何か。
   ない話ではないな……けど、この間からどうしてあいつはあたしには何も言わないんだ。


   ……話さないと。


   亜美さんが直ぐに言わないということは、あいつが口止めした……いや、考え過ぎだろう。
   そんな深刻な話、早々ない……ない、よな。


   ……。


   戻ったよ、亜美さん。


   ……お帰りなさい、まことさん。


   うん。


   今、灰汁取りをしています。


   然うか、助かるよ。


   いえ。


   ねぇ、亜美さん。


   何でしょう。


   今、美奈が来た。


   ……美奈子ちゃんが?


   こっちを見ていたんだけど、行ってしまった。
   何か言いたいことでもあったんだろうか。


   ……。


   なんとなくだけれど……ただ、見ていただけとは思えない。
   でも、言いたいことがあるのなら言うと思うんだ。言わないということは、


   ……まことさん、お話があります。


   ん。


   ……もう、分かっているかも知れませんが。


   また、亜美さんとお喋りをしに来たんだね。


   はい……まことさんが出掛けて、暫くしてから。


   ……亜美さんは、起きていた?


   幸い……。


   ……言うなと、言われていた?


   私が話しても良いと思ったら、話して良いと。


   成程……然ういうことか。


   ……。


   其れで……話とは、なんだい。


   ……あの子のことです。


   あの子……あの子が、どうした。


   ……母親が、見つかったそうです。


   母親が……?


   ……どうやら、流浪の者だったらしく。


   流浪……。


   ……父親は、分かりません。


   見つかって、其の女は今何処に……まさか、今更引き取りに。


   ……はい、其のようです。


   ……。


   ……まことさんは、どう思いますか。


   あたしは……。


   ……私は、戻さない方が良いと思います。


   亜美さん……。


   ……屹度、育てられない。


   どうして、然う思う……?


   ……一度、あの子を捨てたんです。


   確かに、一度は捨てた……が。


   ……本当に育てられると思いますか。


   其れは……分からない。


   ……流浪の女が、ひとりで赤子を育てられると。


   美奈は……なんと。


   ……。


   亜美さん……?


   ……此の村に、置いても良いと。


   此の村に……然うであるならば、育てられるかも知れない。


   ……望むのなら、男も宛がうと。


   其れは……。


   ……。


   ……亜美さん。


   まことさんは……まことさんも、生みの親の方が良いと思いますよね。


   ……いや、然うでもない。


   ……。


   母乳と同じだ……子にとって、大事に育てて呉れるのならば、誰でも良い。


   ……其の通りです、けれど。


   ……。


   実の親とは、切っても切れぬものが……確かに、あると。


   ……あたしは、其の女を見てみたい。


   見て……?


   ……其れで、どうするか考えたい。


   まことさん……。


   ……亜美さんは、戻さない方が良いと考えているんだね。


   ……。


   ならば、其れで良い……あたしは、然う思う。


   ……あのね、まことさん。


   うん……?


   ……あの子の名前。


   うん……。


   ……叶うの、ならば。


   ……。


   ……ん。


   ゆう……だったね。


   ……当てる字も、考えたの。


   どういう字だい……?


   ……人と有と書いて、侑。


   ひとと、ある……たすける。


   ……勝手に、ごめんなさい。


   いや……良い名だ。


   ……。


   でも、ごめん……字が、分からない。


   ……手を。


   うん……。


   ……。


   ひとと……ある。


   ……此れで、「ゆう」と読みます。


   うん……改めて、良い名だ。


   ……私は、何を考えているんでしょうね。


   別に良いじゃないか、考えるくらい。


   ……。


   亜美さん……其のひとと、ふたりで会ってみよう。
   うさぎちゃんのご両親も屹度、会う筈だから……。


   ……私は。


   嫌かい……?


   ……。


   嫌ならば、無理にとは言わない……あたし、ひとりで。


   ……あなたと、行きます。


   ……。


   あなたとなら……屹度、大丈夫。


   ……いつ、行こうか。


   日が沈む頃に……来るのならば、迎えると。


   日が沈む頃か……場所は、美奈の家だね。


   ……はい。


   分かった……ならば、日が沈む頃に。


   ……。


   亜美さん……取り敢えず、鍋の支度をしよう。
   行くにしても、先ずは、食べなければ。


   ……然う、ですね。


   其れで、肉のことなんだが……。


   あの……うさぎちゃんの家に、お裾分けが出来たらと。


   まさに、同じことを考えていた。


   やっぱり、まことさんも。


   あたしは、構わないと思っている。
   けれど。


   ……。


   自分達の分は、確りと取るよ。


   はい……勿論です。


   ……。


   ん……まことさん。


   ……同じことを、考えていたね。


   はい……思っていた通りでした。


  24日





   ご馳走様でした。


   御粗末様でした。


   はぁ、美味しかったぁ。


   まことさん、食べて直ぐ横になるのは。


   ん……分かってはいるんだけど。


   駄目です、起きて下さい。


   ……亜美さんは此の頃、厳しいなぁ。


   口煩くて、ごめんなさいね。


   あ、いや、そんなつもりでは。


   ……。


   本当だよ、亜美さん。


   ……確かに、最近の私は口煩いかも知れません。


   口煩いとは思っていないよ……ただ、少し厳しいなぁって。


   ……こんなに口煩くては、おちおち、お休みもしていられないですよね。


   いやいや、最近のあたしは聊かだらしがないところがあるのかも知れない。
   食べては直ぐにごろんと転がり、縁側で昼寝をしては腹を出したまま、ぼんやりとしていることもあるし。


   ……。


   だから、亜美さんは気にせずに厳しくして欲しい。
   年長者のだらしない姿を、赤子に見せるわけにはいかないだろう?


   ……良いのですか?


   あぁ、勿論だ。


   では、明日からも然うします。


   ……うん。


   取り敢えず、あの子の前で私に触ろうとするのは止めて下さいね。


   うん……え。


   え、とは?


   さ、触ると言っても、ほんの少し触るだけだし……其の、手を握ったり。


   あの子の前では、止めて下さい。


   けど、仲が良い姿を見せるのは良いのではないか?
   現に、うさぎちゃんのご両親は仲が良いだろう?
   だから、年が離れた弟が生まれたわけだし。


   然うですね。


   だ、だから、あたし達も……手に触れるぐらい、なら。


   其れを許すと、手を引いて抱き寄せようとしますよね。
   今日だって、三人で日向ぼっこをしている時に。


   そ、其れは……まぁ、少しだけ。


   調子に乗ると、口付けまで持って行こうとしますよね。
   黒々とした丸い瞳に見られていることも、気にせずに。


   ……します、しました。


   今後、あの子の前では一切駄目です。


   ……だけど、未だ見えていないのだろう?


   だとしても、です。


   ……分かった、あの子の前ではしない。


   ようにする、では駄目ですからね。


   はい……分かってます。


   其れと……暫く胸に触っていないなどと言うことも、止めて下さい。


   え、そんなことも駄目かい?


   ……あなた自身の胸のことならば、構いません。


   じ、自分の胸に触っても……。


   ……兎に角、止めて。


   ん……分かった、言わないようにする。


   ……。


   ……子が居ると、此処まで制限されてしまうものなのか。


   何か言いましたか?


   ……いや、でも、幼い子が居ても次の子が生まれるということは。


   何をぶつぶつと言っているのですか、聞こえていますよ。


   ……。


   はぁ……全く、まことさんは。


   ……ねぇ、亜美さん。


   何です、お茶ですか?


   お茶も、良いが……今は、居ない。


   誰がですか。


   ……あの子は今頃、うさぎちゃんの家で眠っているだろう。


   眠っていれば良いのですが。


   ……ならば、今は良いかい?


   何が、ならば、なのですか。


   ……。


   お茶は要らないのですか?


   いや、お茶は飲む……其の後のことだ。


   私は書物を読みたいと思っています。
   今は、あの子が居ないので。


   ……其の後、は。


   明日に備えて、眠ろうかと。


   ……明日。


   まことさんもしっかりと休んで下さい、明日も忙しくなるかも知れませんから。


   ……朝から、山に行こうと思っている。


   然うですか、ならば矢張りちゃんとお休みしないといけませんね。


   ……。


   まことさん……?


   ……分かった、今夜も大人しく眠る。


   ……。


   お茶、ありがとう……夕餉も、美味しかったよ。


   ……いえ。


   ふぅ……。


   ……まことさんは、此の後。


   お茶を飲んだら、あたしは……今日の日記でも書こうと思う。


   ……いつも通りですね。


   うん……いつも通りだ。


   ……。


   手習いで書き始めた日記だけれど、意外と続いていると思うだろう?


   ……意外ではないですよ。


   自分では、意外だと思っている……長くて一週間も書けば、書かなくなると思っていたから。


   ……一行だけでも、良いのです。


   うん、亜美さん……大夫が、然う言って呉れたから。


   ……大夫。


   日記を書いたら、横になろうと思う……其の頃なら、横になっても大丈夫だと思うから。


   ……横になるつもりなら、お布団を敷いてからにして下さいね。


   あぁ、ちゃんと敷くよ……うっかり、眠ってしまうかも知れないし。


   ……掛け布団なら、掛けてあげられますから。


   うん……其の時は、お願いする。


   ……。


   亜美さんのお布団も敷いておくよ。
   今夜も冷えるから、出来れば早めにお布団に入った方が良い。


   ……ありがとうございます。


   ん……はぁ、お茶も美味しいな。
   今夜も、静かで……冷えるけれど、悪い夜ではない。


   ……。


   亜美さんは、飲まないのかい……?


   ……私、厳しいですか。


   うん?


   ……此のところ、あの子のことばかりで。


   厳しいけれど……別に、嫌ではないから。


   ……ねぇ。


   なんだい?


   ……どれくらい、していないですか。


   え……?


   ……いいえ、分かっています。


   亜美さん……。


   ……あの子が来てからは、一度も。


   最後にしたのは……もう、一ヶ月も前だ。


   ……一ヶ月。


   けれど、仕方がない……亜美さんの心が、求めていないのなら。


   ……まことさんは。


   あたしは……。


   ……。


   ……あたしは、大丈夫だよ。


   大丈夫……。


   亜美さんが其の気になって呉れるまで……あたしは、待っているから。


   ……其れは、心からの言葉ですか。


   あぁ……然うだよ。


   ……。


   若しも、少しでも欲しいと思って呉れたら……其の時は、あたしを求めて欲しい。


   ……まことさん。


   ごめんよ、亜美さん。


   ……傍に行っても、良いですか。


   え。


   ……駄目ならば、


   駄目なわけ、ない。
   寧ろ、あたしから行く。


   ……え。


   亜美さん。


   ま、まことさん。


   隣、良いかい?


   ……はい、どうぞ。


   うん、ありがとう。


   ……。


   ……素早くて、驚いた?


   はい……少し。


   ……仕方がないひと、と、思っている?


   いえ……未だ。


   ふふ……未だ、か。


   ……。


   亜美さん……其の、肩を抱いても良いだろうか。


   ……どうぞ、あなたの好きなように。


   好きなように……?


   ……日向ぼっこをしている時は、許さなかったから。


   ありがとう……。


   ……ん。


   あ、強かった……?


   ……ううん、大丈夫。


   良かった……加減を間違えたかと思ったよ。


   ……其の、寄り掛かっても。


   勿論……寄り掛かって欲しい。


   ……では、遠慮なく。


   ふふ……うん。


   ……はぁ。


   疲れた……?


   ……少し。


   赤子の面倒を見るとは、楽しいこともあるけれど……やっぱり、大変なことだ。


   ……子守りを頼む親の気持ちが、少しだけ、分かったような気がします。


   はは、然うだねぇ……。


   ……仕事をしていたら、見ていられないもの。


   今は未だ寝返りをしないけれど、するようになったら、もっと目を離せなくなると聞いた。


   ……長くうつ伏せ状態になっていると、窒息など深刻な事態に陥る恐れがあるんです。


   其れは、目が離せないな……。


   ……短い時間なら、うつ伏せ遊びと言って良いらしいですよ。


   うつ伏せて、遊ばせるのかい?


   ……まぁ、然うですね。


   ただ、うつ伏せにすれば良い?


   ……うさぎちゃんのお父さんは、横になってお腹の上に乗せてあげるそうです。


   お腹の上……其れなら、あたしでも。


   ……屹度、出来るかと。


   機会があれば、やってみようかな……。


   ……うつ伏せにする時はほんの僅かな時間で、決して目を離さないで下さい。


   うん……やるのなら、亜美さんが傍に居る時にするよ。


   ……其の方が、良いかも知れません。


   ん……。


   ……首がすわり、寝返りを打つようになり、お座りをして、這うようになる。


   這うようになったら……次は立ち上がる、かな。


   ……つかまり立ち、ですね。


   つかまり立ちか……見たいな。


   ……見たい、けれど。


   亜美さん……若しかして、眠たいかい?


   ……いいえ。


   ん、然うか……。


   ……見ていられない時は、腰紐を繋げて家の柱に括り付けていた。


   うん?


   ……両親が働いていて、且つ、誰も子を見て呉れるひとが居ない家では然うしていたと。


   あぁ……其れは、あたしも聞いたことがあるな。


   上にきょうだいが居れば……其の子達が面倒を見ることもあるようですが。


   小さい子が、更に小さい子を負ぶって面倒を見る……忙しくしている、親の代わりに。


   ……見たことはありますか。


   あぁ……子供の頃に住んでいた山の近くの村でね。
   あの村は、子供が多かったから……そんな光景は、当たり前のことだった。


   ……私も、何度かあります。


   都でも、同じか……。


   ……貧しい家は、子守りなど頼めませんから。


   あぁ、金が要るのか……。


   ……然ういう奉公もあるんです。


   ……。


   ……其れこそ、貧しい家の子が奉公に出されることも。


   都とは、金を中心にして、出来ているんだな……。


   ……お金が全て、とは言いませんが。


   金が全ては、嫌だなぁ……。


   ……慣れていても、ふとした瞬間に息苦しさを感じるんです。


   亜美さんは、そんな所を出て……此の村であたしに出逢えて、良かった?


   ……もう、何度も言っているじゃない。


   また、聞きたい……何度でも、聞きたい。


   ……。


   亜美さん……。


   ……今は、言わない。


   今は……?


   ……。


   ん……分かった。


   ……かつての、此の村でも。


   ……。


   ……小さな子が、更に小さな子を負ぶって。


   あぁ……かつては、然うだったらしい。
   朝になると父親達が我が子を抱っこして集まって、我が子自慢をしていたとか。


   ふふ……長閑で、良い話ですね。


   ……美奈の親父殿が子供の頃の話だ。


   美奈子ちゃんの……。


   ……親父殿は、本当に長く生きた。


   まさに、長寿……ですね。


   ……美奈は老いてからの子だったから、其れはもう可愛がったみたいだ。


   はい……其のお話は、直接、何度も伺っています。


   はは……然うか。


   ……妻を取り替えても、子が出来なかったと。


   ……。


   まことさん……此の村は、此れから。


   ……此のままでは、いつかは終わるだろう。


   ……。


   ……美奈が何を考えているのか、あたしには分からない。


   此の村を存続させたいのか……然うではないのか。


   ……あたしは、美奈が決めれば良いと思っている。


   ……。


   どうなろうとも……あたし達が住む場所は、此処だから。


   まことさん……。


   ……若しも、何処かに移りたいのなら。


   いえ……あなたと共に、此の場所で生きていきたいと。


   ……。


   ん……まことさん。


   ……けれど、どうにも生きられないとなったら。


   何処かへ、流れましょう……。


   ……あぁ、然うしよう。


   ふたり、ならば……。


   ……亜美さん。


   ん……。


   ……今夜は、書物を読まずに休んだ方が良いと思う。


   どうして……?


   ……疲れている時は、眠った方が良い。


   ……。


   読むにしても、あまり長くは……ん。


   ……。


   ……あみ、さん。


   お布団を、敷いて……。


   ……。


   敷いて……まことさん。


   ……幾つ。


   ……。


   幾つ、敷けば良い……?


   ……言わせないで。


   言って欲しい……。


   ……。


   ……亜美。


   あまり……きたい、しないで。


   ……む。


   ひさしぶり、だから……。


   ……無理だよ。


   ぁ……。


   ……昂ぶっていくのが、分かるんだ。


   きたいが、はずれたら……。


   ……外れることなんて、屹度、ない。


   ……。


   亜美さん……布団は。


   ……あなたと。


   あたしと……。


   ……あなたの、おふとんだけで。


   分かった……直ぐに敷く。


   ……。


   暫し、離れても良い……?


   ……きが、かわってしまうまえに。


   直ぐに。


   ……。


   ……はぁ。


   まことさん……。


   ……駄目だ、もう、収まりそうもない。


   ……。


   ……。


   ……ふふ。


   ん、なんだい……?


   ……ううん、なんでもないわ。


   気が、変わってしまった……?


   さぁ……どうかしらね。


   ……良し、敷けた。


   ふふ……ふふ。


   亜美。


   ……まこと。


   連れて行く、良いね。


   ……だめと、言ったら。


   其れでも、連れて行く。


   ……きゃ。


   亜美……。


   ……。


   ……。


   ……ひとみの、いろが。


   良いと、言って欲しい……。


   ……。


   ……で、ないと。


   ごめんなさい……。


   ……。


   ……ずっと、がまんしていたのよね。


   亜美……亜美。


   ……ぁ。


   ……。


   ……いきが、あらい。


   は、ぁ……。


   ……ん、ぁ。


   ……。


   だ、め……。


   ……。


   ……きものの、うえからでは。


   もどかしい?


   ……いわないで。


   ならば……脱がせても。


   ……。


   ……ごめん、もう、待てない。


   いいわ……。


   ……。


   だから……はやく。


   ……。


   ……すばやい。


   先ずは、あたしからと、決めている。


   ……しってる。


   それから……。


   ……。


   ……あぁ、きれいだ。


   あまり……みないで。


   ……。


   あ、ん……。


   ぜんぶを、ぬがせるのは……しながら。


   ……きよう。


   いまは……すこしのときだって、おしい。


   ……。


   ……。


   ……あ、ぁ。


   ……。


   おおきな、あか、ご……。 


  23日





   あたしの体温に合わせてしまったのだけれど……どうだろう、熱くはないだろうか。


   はい……此れ位ならば、程良いと思います。


   人肌と言うのは、なかなか難しいね……途中で、良く分からなくなってしまって。


   幅が狭いですしね……其れを考えると、二人で判断する方が負担が少なくて良いかも知れません。


   人肌より熱過ぎても飲まず、冷た過ぎても飲まず……か。


   母乳の温度はほぼ体温と同じくらいと言われていて……熱過ぎるのは以ての外ですが、冷たいと体調を崩してしまう恐れがあるんです。


   此れを毎回作るんだもんな……うさぎちゃんのお母さんは、慣れだと言うけれど。


   ……実際、慣れなのでしょうね。


   うさぎちゃんのお母さんも初めての筈なのに、手慣れているように見える……まるで、やったことがあるみたいだ。


   ……まことさん。


   ん……あぁ、ごめん。
   泣きながら、待っているんだったね。


   ……持っていて貰っても、良いですか。


   うん、持っているよ。


   ……匙は消毒済み、良し。


   飲んで呉れるだろうか。


   ……お腹が空いていたら、飲んで呉れると思いますが。


   ……。


   さぁ、お乳ですよ……。


   ……。


   ……あの、まことさん。


   え、なんだい?


   そんなに力強く見ていないで下さい。


   ……力強く?


   見ているのなら、もう少し、力を抜いて。


   そんなつもりは、ないんだけど……。


   ……なくても、入っています。


   少し、離れた方が良い……?


   いえ……離れてしまうと、届かなくなってしまうので。


   なら、此のままで……。


   ……兎に角力を抜いて下さい、緊張してしまいますから。


   此の子が、かい……?


   ……他に居ますか。


   居ない、かな……。


   ……もっと、柔らかく。


   うん……分かった。


   ……深呼吸を。


   ……。


   ……。


   ふぅ……ん、此れで良いと思う。


   ……出来れば、もう少し抜いて欲しいのですが。


   ……。


   ……。


   ふぅ……大分、抜けたと思う。


   ……。


   ……亜美さんでも、未だ慣れないんだな。


   静かに。


   ……はい。


   少しずつ……出来るだけ、此の子が飲み易いように。


   ……あ。


   ……。


   ……口が開いた。


   ん……。


   ……此のまま、飲んで呉れるところまで。


   ええ……。


   ……お、飲んだ。


   良かった……。


   ……亜美さん、疲れたら代わるからいつでも言って欲しい。


   出来るだけ……私が。


   ん……然うか。


   ……でも、代わって欲しい時は言いますから。


   あぁ……遠慮なく、言って。


   ……はい、まことさん。


   ふふ……少しずつだけれど、ちゃんと飲んでいるな。


   ……。


   よぉく、飲めよ……乳は、逃げないからな。


   ……ね。


   うん……あ、五月蠅い?


   ……都では、哺乳瓶というものが発明されたらしいです。


   ほにゅう、びん……?


   ……こんなことならば、頼んでおけば良かったと。


   其れがあると、乳をあげ易いのかい……?


   ……少なくとも、匙よりは飲ませ易いという話です。


   ふぅん……便利なものが、あるんだな。


   ……ただ、飲んで呉れない赤子も居るらしく。


   む、其れは駄目だな……。


   ……然ういう時は、赤子用の湯呑を使うとか。


   赤子用の湯呑……そんなものまで。


   ……中には、乳房を拒む子も居ます。


   え、居るの……?


   ……赤子にも、好みはあるようですよ。


   こんなに小さくても、ちゃんと好みはあるのか……。


   ……小さくても、ひとのこなんです。


   ひとのこ……然うか、然うだよな。


   泣き止んで呉れて……飲んで呉れて、良かった。


   ……然うだね。


   ……。


   いっぱい飲んで……早く、大きくなるんだぞ。


   ……まことさん。


   ん、此れは駄目か……。


   別に良いですよ……寧ろ、話し掛けてあげて下さい。


   良いのかい……?


   ……言っておきますが、私にではないですからね。


   あ、うん……其れは、分かってます。


   曰く……授乳中に話し掛けてあげることは良いこと、ですので。


   えと……どう、話し掛けようか。


   出来るだけ……前向きの言葉が、望ましいと。


   ……前向き、か。


   なんだったら……お天気の話でも、良いと。


   天気……然ういえば、うさぎちゃんのお母さんも今日は良い天気ねぇって話し掛けてたな。


   ゆっくりと、はっきりと……優しく声を掛けてあげて。


   ……亜美さんは。


   私は、此れで精一杯……話し掛けてあげる余裕は、ないの。


   分かった……取り敢えず、やってみよう。


   ……。


   やぁ、今日の乳は美味しいかい?


   ……やぁって。


   今日は……然う、穏やかで良い天気だ。


   ……繋がってない。


   亜美さんと日向ぼっこするのは、さぞかし楽しかったろう。
   あたしも、亜美さんと日向ぼっこがしたいと思う。


   ……何を言っているの。


   勿論、お前ともしたい。
   出来れば、また後で、三人でしよう。


   ……言わなければ、良かった?


   ……。


   ……まことさん?


   いや……口が、動いてるなって。


   ……飲んでいますから。


   なんとなく、返事をしているようにも見える……。


   ……。


   飲んでいるのは、分かっているんだ……。


   ……あなたが然う思うのなら、其れで良いと思う。


   亜美さん……うん。


   ……もう、おしまい?


   もう少し、話そうかな……。


   ……。


   ……ねぇ、亜美さん。


   なに……。


   自分もこうだったのかと……ふと、思ってしまった。


   ……皆、生まれてきた時は赤子よ。


   ん、然うなんだけど……。


   ……誰かの手がないと生きられない、本当に弱い命。


   ……。


   でも……力強く、生きているの。


   ……飲み方が、力強い気がするよ。


   ふふ……然うね。


   ……ごめん、話し掛けて。


   良いわ……少し、分かってきたから。


   ……うん。


   ……。


   ん……止まった?


   ……止まったわ。


   飲み始めたばかりなのに……もう、飲まないのか。


   ううん……此の子は元々、お休みしながら自分の速さで飲むから。


   お休み……。


   ……うさぎちゃんのお母さんから貰っている時も、然うだったでしょう?


   あぁ……然ういえば、然うだったな。


   ……飲むのも、疲れるみたいなの。


   其れは、大変だ……な、ゆっくりで良いからな。


   ……まことさんが飲んでしまうと分かったら、飲むかも知れない。


   は……?


   ……ただの、戯言。


   戯言……言っておくけれど、あたしは飲まない。


   ……。


   や、本当に……。


   ……戯言だと、言ったのに。


   分かっている、其れでも言っておこうと思って。


   ……。


   でもまぁ……亜美さんのだったら、


   まことさん。


   戯言だよ。


   ……。


   流石に、なぁ。


   ……もぅ。


   ごめん。


   ……。


   ん、また飲み出した。


   ……。


   美味しいかい……?


   ……ごめんなさい。


   え?


   ……くだらないことを言って。


   ……。


   ……。


   良いよ……あたしは、気にしていない。


   ……。


   研ぎ汁よりも、飲みっぷりが良い気がする……。


   ……確実に、良いと思うわ。


   やっぱり、研ぎ汁より美味しいのかな……。


   ……屹度。


   然うだよな……研ぎ汁じゃ、味気ないよな。


   ……。


   他に、何か……いっそ、歌ってみようか。


   ……美奈子ちゃんが。


   うん……?


   ……隣村の長と、直接、話を付けてきて呉れて。


   あぁ……正直、驚いたよ。


   ……毎日、使いの者を出して呉れて。


   美奈がそこまでやって呉れるとは……流石に、思っていなかった。


   ……村の子として、育てる。


   あいつは、本気なんだな……。


   ……女の赤子は、貴重だと。


   貴重、か……確かに、女なら子を産んで呉れる。


   ……若い女が嫁いで来て呉れた方が、手っ取り早いとも。


   と言っても、産めるかは分からない……此の村は、其れで。


   ……其れを言うのなら、此の子も同じよ。


   ……。


   男子は、働き手になる……けれど、種を蒔くだけで産むことは出来ない。


   あぁ……引っくり返っても、無理だ。


   ……だからって、押し付けるようなことは。


   しないさ……此の村は、然ういう所だ。


   ……私達も、責められない。


   若しも、責められていたら……あたしは亜美さんを連れて、此の村を出ていた。


   ……。


   金なら、幾らかある……余所に根付いて、其処でふたりで。


   ……私は医生として、此の村に来ました。


   ……。


   でも……あなたと共に居られないのなら、私はあなたと一緒に此の村を出ていたでしょうね。


   ……亜美さん。


   医生としては、あってはならないことだけれど……でも、心に嘘は付けないもの。


   ……。


   幸い、受け入れて貰えたから……私達は、此処で生きている。


   ……そもそも都から来た医生を手放すわけがないんだ。


   医生で良かったと……久しぶりに、思えたわ。


   ……久しぶり?


   初めて思ったのは……あなたの命を、失くさずに済んだ時。


   ……其れ以来?


   次は……あなたと再び巡り逢えた時。


   ……。


   だめね……私。


   ……そんなことはないと、あたしは言うよ。


   ん、知ってるわ……あなたはいつだって然うだもの。


   ……昔のあたしだったら。


   ううん……昔のあなたでも、然う言うと思う。


   ……。


   ……何処まで行っても、自分の為に生きれば良いと。


   あぁ……あの頃のあたしなら、言うかも知れないな。


   ……どちらのあなたも、好きよ。


   どちらのあたしも、あたしだからね……。


   ……ふふ、然うよね。


   そろそろ、代わろうか……疲れたろう?


   ううん……未だ、大丈夫よ。


   然うか……分かった。


   ……。


   少しずつだけれど、ちゃんと飲んでいる……此の調子なら。


   ……ねぇ。


   ん……?


   ……あなたに、話していないことがあるの。


   なんだい……?


   ……あなたが居ない時に、美奈子ちゃんが来たの。


   美奈が……いつ?


   ……此の子が拾われた、二日後の朝に。


   二日後の朝……美奈が話を付けに行った日か。


   ……行く前に、寄ったみたいで。


   然うか……其れで、何をしに?


   ……ちょっとしたお喋りをしに。


   お喋り……何を話したいんだい?


   ……。


   若しかして、話すなと言われている……?


   ううん……別に大したことではないから、話しても構わないと。
   若しも、止められていたら……来たことも、話さないわ。


   ん……確かに。


   ……気になる、わよね。


   勿論、気になる……あいつがお喋りをしに来るなんて、久しぶりだから。


   ……大人になってからは、めっきりと減ってしまって。


   正式に家を継いだからな……屹度、忙しいのだろう。


   ……お父様のことも、あるから。


   いよいよ、分からなくなってきているんだろう……?


   ……今はもう、美奈子ちゃんのことしか。


   嫁のことも、分からないんだな……。


   ……何度か、あなたも呼ばれたわね。


   あぁ……抑える為に。


   ……私の前では、大人しくしているのよ。


   医生の前では大人しくするだけの気位は残っている……美奈が、笑いながら言っていたよ。


   ……。


   あれくらいの歳になっても、力は強いものなんだな……。


   手加減を一切しないから……でも、もう。


   ……亜美さん。


   ごめんね……こんな話を、聞かせてしまって。


   本当だ……ごめんよ。


   ……。


   ……。


   ……美奈子ちゃんは、うさぎちゃんのお母さんの母乳で育ったらしいの。


   え……。


   ……だから、うさぎちゃんとは乳姉妹なのよって笑いながら話していたわ。


   うさぎちゃんと……初めて、聞いた。


   ……うさぎちゃんも知らないらしいわ。


   村の者は……。


   ……一部のひとは、知っているみたい。


   一部……レイは。


   ……分からないわ。


   ……。


   美奈子ちゃんの生みの親は、母乳の出が悪くて……だから。


   ……然うか、産まれたのはうさぎちゃんの方が先だったな。


   然う……。


   ……。


   美奈子ちゃんが話して呉れたのは、其れだけ……他のことについては、触れもしなかった。


   ……あいつ。


   あなたに話して良いということは……本当は、あなたに。


   いや……亜美さんだから、話したんだと思う。


   ……。


   ん……また、止まった。


   ……もう、止めましょう。


   うん、然うだな……此の話は、ふたりの時に。


   ……。


   ……此の子は、いつ頃立つだろう。


   其れは、未だ先……。


   ……いつ、言葉を話して呉れるかな。


   其れも、未だ先だけれど……初めて覚える言葉は気になるわ。


   初めて覚える言葉か……なんだろうなぁ。


   ……まんま、かしら。


   まんま……?


   ……飯事(ままごと)、つまりごはんのこと。


   あぁ……でも、分かる気がするな。


   ……分かるの?


   ごはんは、大事だからさ……。


   ……やっぱり、まんまかも。


   あたしとしては……。


   ……最初に、呼ばれたい?


   いや、あたしよりも亜美さんが……。


   ……私は、いつでも良いわ。


   となると……まんまかな。


   ……うさぎちゃんのお母さんは?


   あ、然うだった……。


   ……もぅ。


   はは……。


   ……。


   もう、良いのかい……?


   ……もう、お腹いっぱいになったの?


   ……。


   ……。


   ……此の子の名付けは、いつだろう。


   ……名無しでは、もう。


   うん……。


   ……。


   ……あ、また飲み出したな。


   本当に、自分の速さなのね……。


   ……ふふ、可愛いな。


   ええ……とても。


   ……。


   もう少し、大きくならないと……。


   ……若しかしたら、明日にでも。


   ……。


   お前は、どんな名前になるのかな……お前も、楽しみだよな。


   ……然うだったら、良いのに。   


  22日





   お疲れ様、亜美さん。


   ……お疲れ様です、まことさん。


   遅くなったけれど、お昼にしないかい?
   今日は……ん?


   ……。


   あぁ、小さなお客さんが来ていたのか……。


   ……大きな声は、出さないで下さいね?


   ふふ……ん、分かった。


   ……少しの間ですが、また預かっているんです。


   然うか……。


   ……今は、日向ぼっこをさせていて。


   だから、縁側に腰掛けていたのか……珍しいなって、思っていたんだ。


   今日は風もなく穏やかで、日差しも暖かいので……此の子が日向ぼっこするのに、適切だと思ったんです。


   確かに、今日は日向ぼっこをするにはうってつけだ……こんな日は、なかなかない。


   ……然うしたら、私の方がうとうとしてしまって。


   ははぁ、然ういうことか……。


   ……どういうことです?


   遠目で見ても、亜美さんが小さくこくりこくりとしているのが分かった。


   ……。


   こう……こくり、とね。


   ……本当に分かった?


   ん、あたしは目が良いからさ。


   ……そんなの、見えなくても良いのに。


   縁側でうつらうつらしている亜美さんは、滅多に見られるものではないから。


   ……私は見世物ではありません。


   其れは、勿論……だけど、見ずにはいられなかったんだ。


   ……もう、にこにことして。


   へへ。


   ……へへ、ではありません。


   ん、ごめん。
   次は見ないように……うん、無理かな。


   諦めるのが早過ぎます。


   いや、然しなぁ……。


   少しは見ないように努めて呉れても良いと思います。


   努めることは出来るが……ついつい見てしまうことも、あると思う。


   ……寧ろ、見ますよね。


   うん、見るかな……。


   ……はぁ。


   ん、そんなに嫌かい?


   ……もう、慣れました。


   慣れ……。


   ……今日は、良いお天気ですね。


   え……あぁ、本当に。


   ……此れなら、眠くなっても仕方ありませんよね。


   うん、仕方ない。なんせ、こんなに穏やかなのだから。
   こんな陽気ならあたしも、いや、誰だって眠くなってしまうよ。


   其れでは……まことさんも一緒に日向ぼっこをしてみますか?


   うん、あたしも……?


   ……たまに、日向でお昼寝をしている時があるでしょう?


   まぁ、あるかな……。


   ……そんなまことさんの姿を思い出しながら、日向ぼっこをしていたんです。


   んー……其れは、また。


   まことさんったら、お腹を出して横になっている時もあるから……半纏を持って来ては、掛けてあげて。


   ……起きると、いつも掛かっているんだ。


   お腹を冷やすことは良くないと、何度も言っているのに……あなたは、忘れてしまうの。


   いや、ただ横になっているだけで、眠るつもりはないんだよ。


   ……手の届く範囲に置いておくだけでも違うのにね。


   まさか、此の子に話して聞かせていた……?


   ……然うだと、言ったら?


   此れは、参ったな……。


   ……此れからは、忘れないようにして下さい。


   昼寝をするぞと心に決めて横になる時は、ちゃんと掛けているんだけど。


   ……折角掛けていても、眠っている間にずり落ちてしまっていることもあるんですよね。


   うん……あたしは亜美さんが居ないと、ろくに昼寝も出来ないな。
   若しも亜美さんが居て呉れなかったら、何度風邪を引いていたか。


   ……私と一緒になってから、お昼寝をするようになったんですよね。


   亜美さんと一緒になる前は、昼寝なんて滅多にしたことはなかったよ。
   躰を横にすることはあったけれど、眠ることはなかった。


   ……。


   まぁ、今よりも若かったしな……疲れ知らずだったんだと思う。


   未だ、一緒になる前……初めてあなたがお昼寝をしている姿を見た時は、いつもよりも随分と幼いと感じたものです。


   あの時は……。


   ……目が覚めた時、心から驚いているようでしたね。


   あぁ……本当に、驚いた。


   ……。


   昼寝は、気持ちが良いものだ。


   ……然うですね。


   亜美さんは……もう、眠くはないのかい?


   ……もう、まことさん?


   ふふ……ごめん、ごめん。


   ……知りません。


   ごめんよ、亜美さん……もう、言わない。


   ……どうだか。


   や、本当に……ん?


   ……何ですか。


   今、少しだけ笑ったような……。


   ……笑っていません。


   いや、亜美さんではなく……此の子が。


   ……。


   あたしの見間違えだったのかな……だけど、うっすらと笑っていたような。


   ……笑って、いない。


   亜美さん、此れくらいの赤子でも笑うものなのかい?


   ……ひとの顔や声に反応して笑うと言われています。


   然うか……なら、先刻の顔はあたしの見間違えではないかも知れないな。


   ……可愛かったですか。


   あぁ……一瞬だったけど、可愛かったよ。


   ……どんな笑顔でしたか。


   どんな……然うだな、あれは笑うと言うより……然う、微笑んでいるような顔だった。


   ……ずるい。


   え?


   ……まことさんばかり。


   あ、いや、でも……やっぱり、あたしの見間違えかも知れないし。


   ……見間違えではないと思います。


   見たと言っても、一瞬だし……。


   ……一瞬でも、見られたのですよね。


   そ、然うだけど……其のうち、亜美さんにも見せて呉れるさ。


   ……気休めにもなっていません。


   あ、あぁ……。


   ……私には、見せて呉れないかも知れません。


   ど、どうして然うなるんだい……?


   ……なんとなく。


   そんなことはない、亜美さんにだって見せて呉れる。見せないわけがないだろう、こんなに可愛がって呉れるひとに。
   もっと言えば、亜美さんが居て呉れたからこそ、命を拾えたんだ。言わば、亜美さんは命の恩人なんだ。


   ……此の子が命を拾えたのは、私だけの力ではありません。


   亜美さんだけではないけれど、亜美さんが居なければ……あ。


   ……。


   今……。


   ……。


   ……亜美さんも、見たかい?


   今の顔が、然うなのでしょうか……。


   ……あたしは、然う思っているよ。


   先刻の顔と、同じでしたか……。


   ……うん、同じだった。


   然うですか……。


   ……どうだった?


   なんとも言えない、可愛さですね……。


   亜美さんも、然う思うかい……?


   ……はい、思います。


   ……。


   ……ふふふ。


   はぁ……良かった。


   ……何が良かったんですか。


   そもそも、亜美さんに見せないわけがないんだ……だから、良かった。


   ……まことさん?


   な、なんだい?


   ……ふ。


   え、と……兎に角、良かった。


   ……ねぇ、日向ぼっこ、一緒にしますか?


   ん……どうしようかな。


   するのなら、代わりますよ。


   したいのは、やまやまなのだけれど……お腹も空いているんだ。


   ……。


   お昼、一緒にどうだい……大夫。


   ふふ……然うでしたね、まことさん。


   うん……ならば、亜美さんは此の子を見ていて。


   良いのですか?
   良かったら、


   うっかり、寝てしまうかも知れないから。


   ……眠っていたら、起こしてあげますよ。


   んー……いや、するのならお昼の後にする。


   ……然うですか?


   うん。


   ……然うですか、分かりました。


   出来るのなら、三人でしたい。


   ……。


   どうかな。


   ……出来るのなら、然うしましょう。


   ん。


   ……眠ってしまったら、起こしてあげますね。


   ん……頼む。


   ……はい、頼まれました。


   はは……。


   ……ふふ。


   今更だけれど……患者さんは、居ないんだね。


   ……皆さんがお帰りになった時に丁度、うさぎちゃんのお母さんが此の子を連れてきたんです。


   其れは、丁度良かった……でも、言って呉れれば迎えに行ったのにな。


   ……お散歩がてらと、言っていました。


   散歩がてら、か……なら、仕方ないな。


   はい……お母さんにも、息をつく暇(いとま)がないといけませんから。


   確かに然うだ。


   目の下に隈が出来ていたので……少しお休みをするように、勧めておきました。


   ん、其れはした方が良いな……お母さんに若しものことがあったら、大事(おおごと)になってしまう。


   はい……ですので、成る可くなら大事(だいじ)にして頂きたいと思っています。


   ……目の下に隈と言うことは、あまり眠れていないのだろうか。


   夜泣きは未だしないようなのですが……なかなか寝付かないことがあったり、夜中に何度も起きてしまうことがあるそうです。


   ふむ……泣かなくても、大変なんだな。


   此の子は長い時間を眠ることが出来なくて、起きたり眠ったりを繰り返すみたいで……。


   ……其の度に起きて、あやしてあげるんだね。


   お腹を空かしていると思われる時は、研ぎ汁や重湯、時には煮汁を飲ませてあげて……おしめを確認して湿っている時は、交換してあげる。
   どちらでもない場合は、ひたすら寄り添って……声を掛けたりして、安心させてあげるそうです。


   ……具合が悪いということは。


   若しもの時は、些細なことでもあっても直ぐに私を呼びに来て呉れると……うさぎちゃんのお母さんならば、誤った判断をしないと信じています。


   ……今は、診察したのかい?


   うさぎちゃんのお母さんが帰る前に……幸い、異常は見られませんでした。


   はぁ……良かった。


   ……。


   ……亜美さん。


   はい、まことさん。


   ……あたし達に出来ることがあるのなら、なんでもしよう。


   私も……改めて、然う思いました。


   ……なんだったら、一晩くらいなら。


   お願いされたら、預かりますが……然うでなければ、お母さんの傍の方が良いと思います。


   其れは……然うか。


   ……うさぎちゃんのお父さんも傍に居て呉れますしね。


   うさぎちゃんのお父さんも優しいもんな……。


   ……はい、とても。


   少し、抜けているところはあるが……。


   ……うさぎちゃんに似ていますね。


   ふふ……然うだね。


   ……。


   ……こんなことを、言うのはなんだけれど。


   はい……。


   ……畑が忙しい時期でなくて、良かったよ。


   其れでも、あなたは……。


   ……。


   ……己の出来る範囲で。


   だとしても、たかが知れていると思うから……。


   ……。


   然し……まだまだ、小さいなぁ。


   ……そんなに直ぐに大きくなるものではありませんから。


   もう、今日の分の乳は飲んだのかな。


   いいえ、未だ……直に、今日の分が届くそうです。


   うちに居るのは、知っているのだろうか……いや、其れまでに戻すのなら問題ないか。


   ……一応、此方にも寄って呉れるそうです。


   然うか、ならば心配は要らないな……なぁお前、早く届くと良いな?


   ……ところで、まことさん。


   ん、なんだい?


   手は、洗いましたか?


   洗ってはきたが……此の子が居るのなら、念の為、もう一度洗ってくることにする。


   ふふ……はい。


   亜美さん、手を洗ったらお昼にしよう。


   はい、然うしましょう。


   ん、では行ってくる。


   はい、行ってらっしゃい。


   ……。


   ……。


   ……後で、抱っこをしても良いかな。


   良かったですね……まことさんはまた、あなたを抱っこして呉れると思いますよ。


   ……乳は、いつ頃届くかな。


   少しだけ、頬の色が良くなってきましたね……どうか、このまま。


   ……あの子が腹を空かせる頃までに、届けば良い。


   頑張って下さい……私達も、出来ることはしますから。


   美奈も、良く考えたな……此れ以上の手は、恐らくないだろう。


   きれいな目……。


   ……ん、此れで良し。


   ……。


   さて、戻ろう……うん?


   ……あなたの名付け、いつ頃になるのでしょうね。


   来たな……。


   ……あなたに、素敵な名が贈られますように。


   大事ないか……あぁ、良く来て呉れた。


   ……楽しみですね。


   ん、分かった……大事に飲ませよう。
   美奈にはあたしが受け取ったと……うん、宜しく伝えて呉れ。


   ……早く、あなたの名前を呼びたいです。


   此れが、今日の分か……此れだと、どれくらいなんだろう。


   ……。


   飲ませる時は……先ずは、人肌程度に温めるんだったな。


   ……うん、なに。


   鍋にお湯を沸かして……。


   ……え。


   うん……?


   ……。


   赤子の、泣き声……?


   ……お腹が、空いたのかしら。
   其れとも、おしめ……ううん、濡れていないわ。


   腹を空かせたか、其れとも、おしめか……。


   よしよし……どうしたの?


   ……。


   若しかして……ご機嫌、ななめ?


   今更。


   あ……。


   亜美さんと一緒に居て、機嫌が悪くなるわけない。


   ……まことさん。


   亜美さん、今先刻、乳が届いた。


   乳……。


   そろそろ、飲ませる……え。


   ……ん。


   ……。


   ごめんなさい……私からは、出ないの。


   ……んん?


   えと……たまたま、かしら。
   たまたま、よね……。


   ……。


   ……?
   まことさん?


   たまたまで、胸を触るもの……なのか。


   ……はい?


   こんなに小さくても、胸に触るものなのか……。


   いえ、手を動かしただけだと思います。
   然うしたら、たまたま当たって……。


   ……でも、亜美さんは謝っていたよね。


   其れは……一応?


   一応……?


   えと……まことさん、此の子が泣いているので。


   ……人肌に温めるんだったね。


   はい……お願いしても良いですか。


   うん……亜美さんは、其のまま。


   はい、あやしています。


   ……嬉しそうだな。


   もう、何を言っているの。
   直ぐに温めてあげて。


   ……応。


   ……。


   ……最近、触ってない。


   まことさん!


   ……。


   ……あ。


   亜美さん、大きな声を出しては駄目だよ。


   ……誰のせいだと、思っているんですか。


   済まない、あたしだ。


   ……。


   もう、言わない。


   ……分かっています。


   ……。


   ……出来るだけ、早めに。


   あぁ……分かってる。


   ……。


   ……。


   ……ごめんなさい、大きな声を出して。


  21日





   ……う。


   まことさん、もう少し肩の力を抜いて下さい。


   ん……こう、だろうか。


   未だ、力が入っていますね……此の辺り、ほんの少し抜けませんか。


   あ、いや……。


   ……より一層、入ってしまいましたかね。


   あ、あの、亜美さん……代わって貰っても、良いだろうか。


   構いませんが……未だ、抱いたばかりですよ。


   やっぱり、怖くて……小さいとは思っていたけれど、あまりにも、弱々しくて。


   難しいですか?


   う、うん、難しい……あ。


   ふふ、どうやら欠伸をしたみたいですね。


   欠伸……欠伸も、小さいんだな。


   良かったです。


   うん、何がだい?


   赤子が欠伸をすることに驚かなくて。


   や、其れは流石に……わ、なんだ。


   今度は……くしゃみをしましたね。


   くしゃみ……あれが、くしゃみ?


   ふふ、可愛いですよね。


   はぁ……。


   ……くしゃみをすることに驚いているのですか?


   いや……こんなに小さくても、生きているんだなって。


   然うです、ちゃんと生きているんですよ。


   ふむ……。


   ねぇ……温かいでしょう?


   ……うん、温かいな。


   ふふ……。


   ん……なんだい?


   肩の力が良い塩梅で抜けたようですね。


   ん、然うかな。


   はい、先程よりは抜けていると思います。


   ……此の子は、あたしに抱っこされていて大丈夫かな。


   大丈夫だと思いますよ……ほら、見て。


   う、うん……。


   ……すっかり、安心したような顔をしています。


   そ、然うなのかな……あたしには、良く分からないが。


   嫌だったら、泣くと思いますので。


   泣く……?


   はい、泣く子も居ます。


   ……此の子は、鈍いのでは。


   鈍くはない、とは言えませんが……私は、まことさんの抱き方が良いから泣かないのだと思っています。


   あたしは、習った通りにしているだけだれど……。


   抱っこが安定していないと、赤子は不安になって泣くと言います。


   ……。


   泣いていないということは、つまり、まことさんの抱き方が安定しているということです。
   首もちゃんと支えているし、背中やお尻の位置も悪くない……此の子にとって、泣く程不安になる要素がひとつもないのでしょう。


   ……だと、良いが。


   まことさんは腕が長くて手も大きいから……より、安定しているのかも知れませんね。


   はぁ……良く分からないが、良かった。


   ……まぁ、少し鈍いところはあるかも知れません。


   え。


   抱っこするひとが過剰に心配したり不安になっていたりすると、赤子にも其れが伝わって泣いてしまうという話もありますから。


   ……矢張り、鈍いのでは。


   兎に角大丈夫ですから、暫くは此のままでいましょうか。


   え、暫く?


   はい、暫く。
   疲れたら代わりますので言って下さい。


   あ、あぁ。


   ふふ。


   あ、亜美さん。


   こんなまことさん、初めて見ました。


   そ、そりゃあ、亜美さんの前で赤子なんて抱くことはなかったし。


   一度でも、抱く機会があれば違ったのでしょうけれど。


   そ、そんなこと、言われても……なかったのだから、仕方がない。
   今でこそ、うさぎちゃんの弟が居るが、


   ……憶える気がありませんね。


   弟が生まれるまで、うさぎちゃんと美奈が此の村での最後の子だったんだ。
   美奈は今の所、連れ合いを貰う気はなさそうだし、レイは言わずもがな。


   ……そして、私達は子を作れない。


   うさぎちゃんの弟が生まれた時に抱っこしていれば良かったんだろうが……弟はいつだって、村の皆に可愛がられていただろう?
   あたしがわざわざ出ていくことではないと……何より、抱いてみたいと思わなかったんだ。少しでも思っていれば、若しかしたら、抱いていたかも知れない。


   お祝いはしましたけれど……。


   うん、お祝いはね……子が生まれることは、目出たいことだからさ。


   思えば……私も、進悟さんのことは抱っこしたことがありません。


   ん、然うだったか。


   進悟さんは躰が弱い子でしたので診る機会は度々ありましたが、抱っこしたことは一度もありません。
   そもそも、うさぎちゃんのお母さん以外のひとに抱っこされると激しく泣いたんです。うさぎちゃんでさえ、泣かれて。


   あぁ、然うだったかも知れない。


   特に男性に抱っこされると泣いて……うさぎちゃんのお父さんですら、泣かれていました。


   言われてみれば、美奈に抱っこされても泣いていたような。


   はい、泣いていました。


   其れでさ、此の私に抱っこされて泣くなんて失礼ね、なんて言ってたような気がするんだ。


   ふふ、言ってましたねぇ。
   レイさんに、あなたの抱き方が悪いのよ、と言われてました。


   あぁ、然うだった然うだった。
   で、レイは抱っこしたんだっけ?


   いえ、しなかったと思います。


   若しかしたら、泣かれるのが嫌だったのかも知れないな。


   然うでしょうか、レイさんは気にしないと思うのですが。


   いや、少しはするんじゃないかな。
   赤子に泣かれるのって……想像しただけでも、どうして良いか分からなくなるし。


   ……此の子は、泣きませんね。


   え。


   ……ずっと大人しくしています。


   な、泣かれたら困るよ……。


   ……ですよね。


   亜美さん……。


   ふふ……ごめんなさい。


   ……あたしが戸惑っているのを見て、面白がってるかい?


   いえ、そんなことはありませんよ。


   ……本当に?


   新鮮だとは思っていますが。


   ……新鮮。


   ほっぺたがもう少し、ふくよかだったら……。


   ……母乳を飲めば、ふくよかになるんじゃないか。


   はい、なると思います……なって欲しいです。


   ……亜美さん、実は赤子が好き?


   嫌いではないですよ……やっぱり、可愛いですからね。


   まぁ、然うか……確かに、可愛いよな。


   ……あなたと私の子を考えたことがないと言えば、嘘になります。


   え……。


   ……あなたに似ていたら、屹度、可愛いと。


   亜美さんに似ていた方が、可愛いよ……。


   然うでしょうか……ひとつも可愛くないかも知れませんよ。


   そんなことない……あたしに似る方が可愛くないかも知れない。


   いいえ、可愛いですよ。
   小さいまことさんなんですもの、可愛くないわけがありません。


   仏頂面かも知れない、言葉もろくに話さなくて。


   其れは、其れで。


   いや、亜美さんにだけは笑うかも知れないな。


   母である私に、そんな素直に接して呉れるでしょうか。


   母……。


   子の親ならば……私の場合は、母ですよね。


   亜美さんが、母……お母さん。


   ……あなたもですよ?


   ……。


   うん、そんな顔をしますか。


   いや、あたしが母親って……でも、然うか。
   子を持つということは、親になることで……然うなると、あたしは母親になるのか。


   父親、ではないですよね。


   まぁ……然うだね。


   ……可愛いですよ、小さなまことさん。


   む、未だ言うか。


   はい、言います。


   ならばあたしも言うが、小さい亜美さんが可愛くないわけないだろう?


   うーん、然うですかね?
   無表情で可愛げがないかも知れませんよ。


   いや、可愛い。
   そもそも、どんな子でもあたしは可愛いと思う。


   ……自分に似ていても、ですか?


   だって……亜美さんの子でもあるから。


   ……。


   ならば……あたしに似ていても、可愛いと思うことにする。


   ……ふ。


   む。


   ……もぅ、まことさんったら。


   だから、亜美さんも……仮令、自分に似ていたとしても。


   あなたの子でもあるのだから、可愛いと思うようにします。


   ……。


   何ですか?


   いや……少し可笑しいな、と。


   ……何処となく、間抜けですよね。


   ふふ……然うなんだ。


   ……ふふふ。


   ははは……。


   ……ね、まことさん。


   なんだい、亜美さん。


   ……若しも、うさぎちゃんの子を抱っこする機会があったのなら。


   また、違ったかも知れない……うさぎちゃんの子なら、若しかしたら。


   ……。


   でも、仕方がないさ……赤子を連れて帰って来るのは、大変だろう。
   ましてや、身重では……山を越えて来るのは、負担が掛かり過ぎる。


   ……初めての子ですものね。


   ……。


   まことさん……?


   ん、いや……今思えば、不安だったかなと。
   慣れぬ土地で、子を産んだんだ……。


   ……衛さんが、出来るだけ傍に居て呉れたみたいですが。


   其れでも……どうだったかな。


   ……然うですね、ずっとは傍に居られないでしょうし。


   ……。


   ……ところで、まことさん。


   ん……?


   良い機会です。


   え?


   慣れましょう。


   な、何に?


   赤子を抱っこすることに、です。


   ……。


   此の状況で、他に何かありますか?


   な……ないかな。


   とは言え、直ぐに慣れることは出来ないと思いますので。


   う、うん……難しいと、思う。


   こういう機会を、何度か持つことにしましょう。


   え、えぇぇ。


   嫌ですか?


   い、嫌ではないけれども……い、良いのだろうか。


   何がですか?


   うさぎちゃんのお母さんに、迷惑が


   心配は要りません、ちゃんと確認しておきましたから。


   ……確認?


   然うしたら、是非にと。


   ……そ、然うか。


   はい。


   ……満面の笑み。


   若しかしたら、そんな将来があるかも知れませんから。


   ……将来?


   今、経験しておけば


   うん、分かった。


   ……機会があれば、おしめの取り替えの練習もしてみますか?


   あぁ、機会があればしてみようと思う。寧ろ、してみたいと思う。
   しなければ、出来るようにはならぬ故。


   ……。


   良し……うん、良い子だ。
   でも、頼むから泣かないで呉れよ。


   ……まことさんったら。


   あ、泣けばあやす練習になるのか。


   だからって、無闇に泣かすことは止めて下さいね?


   うん、分かってる。


   ……。


   然し、やっぱり小さいなぁ。
   生まれてどれくらいなのだろう。


   恐らくは、二ヶ月ぐらいだと思うのですが……栄養状況を考えると、


   二ヶ月か……お前、よぉく生きていたな、偉いぞ。


   ……。


   此れから、大きくなれるように……あたしも出来るだけのことは、するからな。


   ……まるで、親のようですね。


   いや、然ういうつもりではないんだけど……可笑しいかな。


   いいえ……可笑しくはありませんよ。


   うん……。


   ……此れなら、思っているよりも早く慣れるかも知れませんね。


   ねぇ、亜美さん。


   はい、なんでしょう。


   此の子は未だ、目が見えていないんだろうか。
   其れとも、もう見えているんだろうか。


   然うですね……ぼんやりとは見えていると思います。


   あたしを、じっと見ているような気がするんだ。


   固視……じっと何かを見つめていることは出来るそうです。
   此の子は今まさに、まことさんを見て……いえ、若しかしたら観察しているのかも知れません。


   観察……。


   赤子は視力が未だ未熟なので、はっきりとものを捉えることは出来ません。
   今は未だ固視しか出来ませんが、もう少ししたら追視……動くものを目で追えるようになると思います。
   然うしたら……然う、目の前で指を動かしてみるのも良いかも知れません。


   目で追って呉れるかな。


   追って呉れたら、嬉しいですね。


   うん、然うだね。
   其れで、はっきり見えるようになるのは。


   未だ、時間が掛かるかと。


   然うか……なんだったかな。


   はい、なんでしょう。


   知らないひとに懐かない……そんなのが、あったような。


   あぁ……其れは屹度、人見知りですね。


   人見知り……然うだ、人見知り。
   赤子には、其れがないのかい?


   ありますよ。


   あるんかい。


   あるんかい?


   あ、や、驚いて。


   ふふ、知らない言葉遣いですね。


   あたしも吃驚した。
   あるのかって、言うつもりが。


   ……ふふふ。


   赤子も人見知りをするのなら、此の子も。


   いずれ、するかも知れません。


   やっぱり、泣く?


   子によって、異なるようですが……知らないひとに抱かれて泣くことはあるみたいですね。


   ……。


   其れまでに、慣れておきましょうか。


   うん……然うしようと思う。


   ……私も、出来れば憶えて欲しいと。


   そろそろ、交代するかい?


   然うですね、そろそろ


   あっ。


   え?


   ……。


   どうしましたか……?


   えと……亜美さん。


   は、はい、なんでしょう。


   ……おしめの替えは、あったかな。


   はい、預かっていますが……。


   ……濡れてる。


   あ……っ。


   ……あぁ、こういうことか。


   ……。


   取り敢えず、外して洗ってやった方が良いんだろうか……。


   そ、然うですね、清潔にしていないと被れてしまうと思うので……。


   ……。


   ……。


   ……亜美さん。


   ……まことさん。


   ちょっと、水場に行ってくる!


   私は、おしめの替えの用意を!


   ついでに自分も洗ってくるよ!


   はい、お気を付けて!


   応!


   おしめは……確か、未だ一枚で良いと。
   折り方は、先ず縦に一回……其れから、横に一回。


   直ぐに取り替えてやるからな、少しばかり待っていて呉れよ。


   ……そして、おしめのやり方は。


   こんな時でも、泣かないな……泣くものだと、聞いていたんだけど……ん?


   ……。


   あぁ、今泣くか……っ!
   よしよし、直ぐに取り替えてやるからな!


   ……此れを、日に二十回程。


  20日





   ……然うか、赤子を育てるにはおしめの他に女の乳も必要なんだな。


   はい……?


   いや、赤子に米の研ぎ汁を飲ませている様を見ていたら、ふと思い出したんだ。
   一応、飲んではいるようだったが……矢張り、女の乳の方が良いのだろうと。


   あぁ……然うですね、出来れば母乳の方が良いと思います。


   ぼにゅう……。


   母の乳と書いて、母乳と読みます。


   あぁ、然うだった。
   都では、母乳と言うんだったね。


   ……はい。


   でもまぁ、然うだよな……他の女の乳であっても、母親の乳には変わりないものな。


   ……母になった女にしか、出せませんから。


   己の母親の乳でなくても子は育つ、か。


   ……赤子にしてみれば、お腹一杯になれば其れで良いのかも知れません。


   此の辺りではさ、母親の乳の出が悪かったり、お産で命を落としてしまったりすると、乳が出る女から貰い乳をするんだ。


   ……都でも、然うでしたよ。


   やっぱり、都でも然うなのか。
   こういうことは、何処も同じなのかな。


   但し、全てが無償ではなく、金銭と交換するという場合もあります。


   ……え?


   まぁ、然ういった取引をしている家はあくまでも一部なのですが。


   きんせん……金?


   確か、乳母奉公……或いは、乳持ち奉公と呼ばれていました。


   乳を貰うのに、金が要るのか。


   はい、其れだけ母乳は重要で貴重なものなのです。


   重要だからこそ、金など要らぬとはならないのかい?


   重要だからこそお金が必要、つまりは、商売として成り立ってしまっているんです。


   はぁ……あたしには、理解出来ないな。困っていたら、助けるのは当たり前だろう?
   ましてや、赤子の命が懸かっているんだ。金よりも、命が優先だろう。


   まことさんの言っていることは理解出来ます。
   ですが、貧しい家の者にとって母乳の売買は必要なことなんです。


   ……貧しい?


   はい……生きる為に、どうしても必要なんです。


   ……貧しくても、腹は減る。


   母乳を売ることで、一時とは雖も、生活が出来るのならば……罪を犯すより、ずっと良い。


   ……どうやって。


   貧しい夫婦に子が生まれると、妻は母乳を必要としている裕福な家に自分を売りに行くんです。
   乳母奉公は他の奉公よりもお金になるそうで、多くて三倍にはなると。


   三倍……そんなに良いのか。


   ……複雑、ですよね。


   生きる為だと、言われてしまうと……何も、言えない。


   ……分かります。


   ……。


   動物のお乳や穀粉でも母乳の代わりにはなりますが……矢張り、母親のお乳に勝るものはないのです。


   ……だからこそ、金になる。


   はい……。


   ……でも、其れで子が育つのなら。


   ……。


   ……亜美さん?


   何事も、良いことばかりではなく……。


   ……やっぱり、何かあるのか。


   はい……悲しいことですが。


   ……貧しい子は、母親が奉公に行ってしまったらどうなる?


   結果的に、雇い主の子が奉公人の子から母親のお乳を奪うということになります……。


   ……。


   他にも、お金欲しさに子が居ると偽って……雇い主の子を、干し殺してしまうこともあると。
   こうなってしまうと、当然、厳しい罰を与えられることになります……。


   ……亜美さんは、お義母さんから。


   私は……私の母は、乳母を雇いました。
   父が居ても、私にお乳を与えることは出来ませんしね。


   ……。


   私を構っている時間など、母にはありませんでしたから。
   身元が分かっている女のお乳ならば、其れで良かったのです。


   ……済まない。


   いいえ、気にしないで下さい。


   ……。


   父が乳母に手を出したことも、母は知らぬふりをしていました。
   家の中で、本当の夫婦のように振る舞っていたことすらも……母は、咎めなかったそうです。


   ……。


   ごめんなさい、話を元に戻しましょう。
   赤子には母乳が必要だという話でしたね。


   あ……うん。


   まことさんは何故、赤子には母乳が必要だと思いましたか?
   都の話は聞かなかったことにして、私に教えて下さい。


   其れは……然ういうもの、だからかな。


   然ういうもの、ですか。


   米の研ぎ汁では到底足らぬと思うし、歯も未だ生えていないから他のものを食べることも出来ない。
   あとは、然うだな……女の乳を飲ませた方が、育ちが良いと聞いたことがある。
   だから、赤子には母乳が必要だと思ったんだ。


   ……其の通りです。


   うん?


   母乳は赤子のお腹に優しく、病にも罹り難く、丈夫に育つと言われています。


   ……病に、罹り難く?


   母乳は母親の血液から作られているのですが……。


   けつえき……血?


   はい……其の中には、病への免疫成分が含まれているそうです。


   はぁ、然うなのか……だとしたらやっぱり、米の研ぎ汁ではなく、母乳を飲ませてあげたいな。
   とは言え、うさぎちゃんのお母さんでも流石に難しいだろうし……子を産んだ女も、今は居ない。


   他所の村から来て貰うことが出来たら良いのですが……此の時期なので、難しいと思います。


   ふむ……どうしたものかな。


   米の研ぎ汁だけでは、栄養が足りません……早めに手立てを考えないと。


   乳を飲ませたからと言って、大きくなるまで育って呉れるかは分からない……が、飲まなければ、大きくはなれない。


   重湯……穀物の煮汁でも、代わりにはなるのですが。


   ……其れで、持ち堪えるしかないか。


   或いは……脱脂粉乳。


   だっしふんにゅう……?


   ……でもお腹に負担が掛かる恐れがあるから、もう少し大きくならないと。


   あの、亜美さん。


   ……はい?


   だっしふんにゅうって、なんだい?


   脱脂粉乳とは、牛乳から脂肪分と水分を抜いて粉末状にしたものです。


   其れは、母乳の代わりになるのかい?


   いえ……あの子に脱脂粉乳は未だ早いかも知れません。
   腎機能が発達していないと、お腹に負担を掛けてしまう恐れがあるんです。


   ん、然うか……なら、駄目だね。


   ……どのみち、手に入れる手段が。


   町に行けば、あるだろうか。


   ……都と取引をしている大きな町に行けば、若しかしたら。


   大きな町……今からだと、帰って来られないかも知れないな。


   ……他に何か。


   ……。


   ん……まことさん?


   ……親になるとは、大変なことなんだな。


   其れは……然うです。


   ……亜美さん、今夜はもう休まないかい?


   でも、話が未だ途中ですが……。


   夜中、呼びに来るかも知れない……其れに備えて、少しでも休んでおいた方が良い。


   ……。


   色々あって、疲れたろう……話の続きは、また明日に。


   ……然うですね、然うしましょう。


   さぁ、おいで……。


   ……はい、まことさん。


   うん……。


   ……灯り、消しますね。


   ん……頼む。


   ……。


   見えるかい……?


   ……大丈夫です、あなたの声が聞こえる方に行きますので。


   ならば、呼ぼうか……。


   ……。


   ……ん。


   あ、顔でしたか……?


   ……呼ぶまでも、なかったか。


   ふふ……ごめんなさい。


   ……別に、良いけれど。


   入りますね……。


   ……ん、おいで。


   ……。


   ……暖かいだろう?


   はい……とても。


   今夜も、冷えるから……。


   ……本当に、良かった。


   赤子かい……?


   ……こんな寒さ、とてもではないけれど耐え切れない。


   あぁ……無理だろう。


   ……今は、暖かくして。


   うん……うさぎちゃんのお母さんの傍ならば心配要らない、大丈夫だ。


   ……ねぇ、まことさん。


   なんだい……亜美さん。


   ……夜泣きって、いつ頃からするものでしたっけ。


   夜泣き……?


   ……知りませんか?


   夜泣きって……夜中に、泣く?


   まぁ、然うですね……。


   赤子って、夜中に泣くのかい?


   はい……多くの子は夜泣きをすると言われています。


   夜中に泣かれたら……大変だな。
   とてもじゃないが、寝ていられない。


   夜泣きが酷いと、一睡も出来ないそうですよ。


   一睡も?
   其れは、大変だ。


   片親だけだと負担が大きくなってしまうので、両親が交代であやしてあげないといけないそうです。


   確かに、ひとりでは手に負えないな。
   次の日に寝ていられたら良いのだろうが、然うはいかないだろうし。


   一説によると、夜泣きは放っておいた方が良いとも言われているんですよ。


   ん、然うなのかい?


   なんでも、放っておいた方が夜泣きをしなくなると。


   だけど、ただ泣いているわけでなく、何処か悪いから泣いているのかも知れない。
   然う思うと、放っておくのはあたしには出来ないな。


   ……ふふ。


   ん、可笑しいかい?


   ううん……まことさんらしいなぁって。


   あたしらしい?


   ……あなたは、優しい。


   亜美さんだって、放っておけないだろう……?


   私は……どうでしょう。


   泣く赤子を放っておける……?


   ……。


   亜美さん……?


   ……私も、放っておけないかも知れません。


   知れないと言うより、放っておけないと思うな……。


   ……ん、まことさん。


   亜美さんも、優しいからね……。


   ……でも、毎日となったらどうでしょう。


   毎日……?


   ……夜泣きは、時に、毎晩するそうですよ。


   毎晩……其れは、其れは。


   ……でも、まことさんのことだから。


   目をこすりながら、あやすかな……。


   ……おしめを替えてあげることも、有効かも知れません。


   おしめか……あ、お腹が空いたということもあるのかな。


   あぁ……あるかも知れません。


   赤子は……具合が悪くても、泣く?


   泣きますが……悪過ぎるとぐったりしてしまい、泣けません。


   え、其れは困るな……夜中だと、特に気付けない。


   都に居た頃、何度か熱でぐったりしている赤子を診たことがあります……。


   其の子らは、大丈夫だったのかい?


   私が診た子達は幸い……でも、中には亡くなる子も居ます。


   然うか……。


   ……あの子は、夜泣きをするんでしょうか。


   どうだろう……明日になったら、聞いてみようか。


   ……でも、未だ元気がないからしないかも知れません。


   取り敢えず、お腹いっぱい母乳を飲ませてあげられたら……。


   ……然うすれば、口減らしにされずに済んだかも知れないのに。


   亜美さん……。


   ……ごめんなさい、分かってはいるんです。


   分かっていても、心は晴れない……分かるよ。


   ……今頃、どうしているのでしょうか。


   どうしているか……生きていれば、良いと思う。


   ……。


   おくるみに、名前はなかった……敢えて残さなかったのか、其れとも、名付けられていないのか。


   生まれたばかりではなかったので……名無しでは、なかったと。


   うん……でも、あたし達には分からない。


   ……。


   あの子が一から新しい生を始める為か……親が諦めていたのか、分からないけれど。


   ……あの子の名前、どうなるのでしょう。


   直ぐには、名付けないかも知れない……。


   ……何故です?


   生きられるかどうか、分からないから。


   ……だとしても、何か。


   ……。


   何か、名前を……。


   ……亜美さんだったら、どんな名が良い?


   え……?


   あの子に……どんな名を、贈りたい?


   ……私は。


   あたしは、今は未だ思い付かない……子の名前なんて、考えたことがないから。


   ……私も。


   明日になったら……明るいところで、あの子を良く見てみたいと思っている。
   出来れば、亜美さんと一緒に……さ。


   ……はい。


   ん……。


   ……。


   いや、然し、赤子とは小さいものなんだなぁ……手なんて、あたしの握り拳よりもずっと小さくてさ。
   あんなに小さくては、抱き上げるのも恐ろしい……力の加減を間違えたら、壊してしまいそうで。


   ……首を抑えて、そっと抱いてあげれば良いと思います。


   亜美さんは、赤子を抱いたことは……?


   ……医生としてなら。


   医生としてか……。


   ……まことさんは一度もないのですか?


   うん、ない。


   ……温かいですよ、赤子は。


   温かい……あたしよりも?


   ……。


   いや、なんとなく気になって。


   ……もう、妙なところで張り合わないで。


   や、張り合っているわけでは……む。


   ……あなたの方が、熱いわ。


   ……。


   ん……だめ。


   ……温める為に、抱き締めただけだよ。


   そんなことを言って……。


   ……今夜はしない、ちゃんと弁えている。


   本当に……?


   ……あぁ、本当だ。


   なら、良いけれど……。


   ……。


   ねぇ、まことさん……。


   ……もう少しだけ。


   もぉ……然うではなくて。


   ……なに?


   若しも機会があったら、あの子の手の平に指をそっと置いてみて。


   ……指を?


   若しかしたら……きゅうっと、握って呉れるかも知れないわ。


   ……握れるのかい?


   ええ……不思議でしょう?


   うん、不思議だ……ちゃんと反応して呉れるなんて。


   把握反射という、原始反射のひとつなの……。


   ふぅん、然うなのか……分かった、機会があったらやってみるよ。


   ……ん。


   あたしの指も、握って呉れたら良いな……。


   ……小さな命に、触れる。


   ……。


   胸の奥が……きゅうと、切なくなる。


   ……切なく。


   酷く、懐かしいような……。


   ……昔、あたし達も赤子だったから。


   うん……然うかも知れない。


   ……亜美さんは、本当は子を。


   あなたとの子でなければ……産みたくないわ。


   ……。


   あなたは……?


   ……あたしも然うだよ。


   ……。


   ……。


   ……別に、血を分けた子でなくても良い。


   亜美さん……。


   ……ねぇ、まことさん。


   なんだい……亜美さん。


   ……若しも、あの子に名前を付けられるのなら。


   何か、思い付いた……?


   ……良い名では、ないかも知れない。


   そんなことはない……亜美さんが考えた名前なんだ。


   ……私は、ただの女よ。


   いいや……とても良い女だ。


   ……もぅ。


   聞かせて欲しい……。


   ……聞きたい?


   勿論……聞きたい。


   ……。


   ……言いたくなければ。


   あのね……。


   ……ん。


   ……。


   ……ゆう?


   おかしい……?


   いや、おかしくはない……良い名だ。


   ……当てる字は、未だ思い付かないの。


   直ぐでなくても良い……時間なら、ある。


   ……私が、名付けるわけではないし。


   分からないよ……。


   ……分からない?


   若しかしたら、亜美さんに名付け親になって欲しいと。


   ……其れはないと思うわ。


   然うかな……。


   ……うさぎちゃんのご両親が名付けた方が良いと思う。


   ……。


   ん。


   ……あたしは、亜美さんが考えた名の方が良いと思う。


   ……。


   ゆう……ゆう、か。
   うん、とても良い名前だ……響きも、良い。


   ……もう、まことさんったら。


   いつか……いつかふたりで、子供を育てることになったら。


   ……。


   然う、名付けたいと思っている……ねぇ、良いだろう?


   ……あなたが、其の名で良いのなら。


   良いに、決まっている……。


   ……。


   ……其の時までに、当てる字を考えておこう。


   はい……まことさん。


  19日





  -不惑(パラレル)





   ただいま、亜美さん。
   今日はそこそこ掛かっていたよ。


   ……。


   今日の夕餉は塩焼きにして、残りは甘煮にしようと考えているんだけど、亜美さんはどう思う?


   ……。


   ん、あれ……亜美さん、居ないのかい?


   ……。


   往診、か……でも、朝は何も言ってなかったな。
   家の周りには居なかったようだし……となると、急な患者さんか。


   ……。


   うん、往診鞄がないな……道具も、置かれていない。
   何処の家に行ったのだろう……大したことがなければ、良いが。


   ……。


   空がどんよりとしてきたから、迎えに行きたいけど……何処に行ったのか分からないのなら、待っていた方が無難だよな。
   行った先が急な患者さんの家だとしたら探しに行くものではないし、擦れ違うことだって有り得る……矢張り、待っていた方が良い。
   取り敢えず、捕まえてきた魚の下拵えをして、夕餉の支度を……あぁでも、若しも、今夜帰って来られなかったら。


   ……。


   どうにも、落ち着かないな……外に出て、様子を見てみるか。
   見たところで、落ち着くわけではないかも知れないけど……家の中に居るより、外に居た方がまだ良い。


   ……はぁ。


   こんなことは、初めてではないのに……何処か、心がざわついているような気がする。
   若しも、急な患者さんではなく、何かもっと違うもの……いや、違うものとはなんだ。
   あたしは、何を考えているんだ……其れすらも、分からない。なんだと、言うんだ。


   ……あ。


   うん?


   ……まこと、さん?


   亜美さん。


   まことさん……帰っていたのですね。


   うん、たった今帰って来たところなんだ。


   然うですか……。


   亜美さん……良かった。


   ……ん。


   お帰り、亜美さん。


   はい……ただいま、戻りました。


   うん……。


   ……まことさんもお帰りなさい、ご無事で何よりです。


   うん……ただいま、亜美さん。


   ……ごめんなさい、勝手に家を空けてしまって。


   いや、其れは構わない……急な患者さんが出たんだろう?


   ……まことさんが帰っていて、良かった。


   え……?


   ……。


   亜美さん……今まで、何処に行っていたんだい?


   ……其れが。


   帰って来たということは、患者さんは大丈夫なのかい?
   傍に居なくても、良いのかい? 其れとも、また行くのかい?


   ……山に。


   山?


   ……。


   山に行っていたのかい?
   誰か、怪我でもしたのか?


   ……いえ、然うではなく。


   む……。


   ……。


   山で、何かあったのかい……?


   ……山に、捨て子が。


   捨て子……捨て子、だって?


   ……おくるみに包まれて、道祖神様の傍に置かれていたそうです。


   口減らしか……其の子は、無事なのか。


   低体温の状態に陥っていたのですが、幸い、命に係わる程ではなく……今は新しいおくるみに替えられて、火のある部屋で眠っています。


   然うか……良かった。


   発見が遅れていたら……其れこそ、一晩でも遅れていたら。


   冬の前とは言え、此の時期の夜は酷く冷え込む……赤子では、持たない。


   ……手足も、お腹も背中も、冷たくなっていたんです。


   あぁ……おくるみ一枚だけでは、然うなってしまうだろう。
   かと言って暖かい頃でも、獣に喰われてしまうかも知れないから……いや、今の時期でも未だ。


   ……。


   あ、済まない……余計なことを。


   いえ……今はただ、命を拾って呉れたことに感謝を。


   うん……然うだね、無事で良かった。


   ……はぁ。


   亜美さん、戸口ではなんだから家の中へ。
   落ち着いてから、詳しく話を聞かせて欲しい。


   はい……まことさん。


   いや、天気が崩れぬ前に帰って来て呉れて良かった。
   笠を持って出なかったようだから、心配していたんだ。


   ……今頃の雨は、冷たいですものね。


   冷たい雨に打たれたら、体調を崩してしまうかも知れない。


   ……然うですね。


   空がどんよりとしていたから、いつ降ってきてもおかしくな……?


   ……。


   ……?
   亜美さん?


   ……あの子が濡れなくて、本当に良かったと。


   其れは良かったが……亜美さんの顔色が、あまり。


   大丈夫です……なんでもありません。


   ……本当に。


   暗いから、然う見えるだけで……本当に、大丈夫です。


   ……なら、良いけれど。


   ……。


   ……と。


   あ、ごめんなさい……。


   いや……謝らなくて良いよ。


   ……


   謝るべきは、あたしの方だ……。


   ……まことさん。


   済まない……さっさと、こうしていれば良かった。


   ……私の方こそ、


   亜美さん。


   ありがとうございます……まことさん。


   ……大袈裟で、ごめんよ。


   ううん……。


   ……囲炉裏の傍で、良いかい?


   はい……お願いします。


   ……うん。


   ……。


   ……。


   あの、まことさん……。


   ……なんだい。


   お魚は、獲れましたか……?


   あぁ……うん、今日はそこそこ獲れたんだ。
   だから、今夜の夕餉は塩焼きにしようと思って。


   塩焼き、ですか……。


   ……どうだろうか。


   ふふ、良いですね……楽しみです。


   うん……でさ、残りの魚は甘煮にしようと思うんだ。


   甘煮……。


   明日の朝餉に……どうだろう?


   はい……とても良いと思います。


   ん……なら、然うしよう。


   ……。


   ……横にならないで、大丈夫かい?


   一旦、帰って来ただけなので……。


   然うか……ということは、やっぱりまた行くんだね。


   はい……様子を見に。


   ……。


   何かあれば、直ぐに呼びに来て貰うようにはなっているんです……。


   ……あたしも。


   ……。


   いや、あたしが行ったところで……ん。


   来て貰っても……。


   ……亜美さん。


   良いですか……。


   ……許して貰えるのなら。


   でしたら……共に。


   良いのかい……あたしが行っても。


   はい……共に、来て下さい。


   ……分かった、ならば共に行こう。


   ありがとう……まことさん。


   ……赤子も心配だけれど、亜美さんも心配なんだ。


   ……。


   体調は、大丈夫かい……疲れては、いないかい?


   ……少し、疲れが足に出たようです。


   良かったら、背負子を出そう。


   いえ……其処まででは。
   休んでいれば、回復すると思いますので……。


   其れでも……念の為、支度だけはしておく。
   なに、出しておくだけだ。使わなければ、其れで良い。


   ……。


   背負っても良いけれど……背負子だと手が空くから、何かと融通が利くんだ。


   ……はい、分かりました。


   うん……。


   ……ふぅ。


   お茶を、淹れよう……。


   ……下拵えは、したのですか。


   いや、未だだ……。


   でしたら……私に構わず。


   ……いつ、行くんだい。


   呼びに来なければ……一刻後に。


   然うか……其れだけあれば、下拵えは出来る。
   いや、ひょっとしたら夕餉も食べられるかも知れないな……。


   ……。


   獲れたと言っても、五匹なんだ……だから、然程時間は掛からない。


   ふふ……然うだったんですね。


   ……そこそこ、獲れた方だろう?


   はい、獲れた方だと思います……。


   ……亜美さんに


   はんぶんこに、しましょうね……?


   ……はい。


   ふふふ……。


   ……良かった、笑えるようで。


   心配をお掛けして……。


   ……ねぇ、亜美さん。


   はい、なんでしょう……。


   ……お茶を、淹れさせて欲しい。


   まことさん……はい、お願いします。


   うん、良かった……。


   ……何が、でしょう?


   謝られなくて。


   ……。


   以前の亜美さんだったら、謝っていただろう……?
   帰ってきたあたしに、お茶を淹れることが出来なくてごめんなさいと……。


   ……まことさんに、こういう時は甘えても良いと教えて貰ったから。


   ふふ……なかなか優秀な教え子だ。


   優秀なんて……時ばかり、掛かってしまって。


   ……良いんだよ。


   ん……まことさん。


   ……今、淹れるからね。


   はい……待ってます。


   ん。


   ……。


   ……。


   ……ふふ。


   ん、どうした?


   ……額に、熱が帯びたようで。


   熱……?


   ……あなたが口唇を寄せて呉れたせいです。


   あぁ……其れは、まことに申し訳ないことをした。


   ……顔が笑っていますよ。


   ん……此れで、どうだろうか。


   ……やっぱり、笑っていて下さい。


   うん、分かった。


   ……。


   ……安心、するかい?


   はい……とても。


   ……こんな顔でも、役に立つんだな。


   もう……そんなことを言って。


   はは……。


   ……まことさん。


   ……。


   ……話の続きをしましょう。


   赤子は、今何処に……美奈の家かい?


   いえ……今は、うさぎちゃんの家に。


   うさぎちゃんの……其れはまた、珍しいな。
   あたしはてっきり、いつものように美奈の家だとばかり。


   ……初めに運ばれたのは、美奈子ちゃんの家でした。


   あぁ、然うだろうな……其れで、亜美さんには知らせの者が?


   はい……山で捨て子が見つかった、直ぐに来て欲しいと。


   然ういう時は、真っ直ぐうちに来て呉れれば良いと思うんだが……然うすれば、直ぐに亜美さんが診てあげられるだろう?


   ……私も、然う思っているのですが。


   仕来りを変えるのは、美奈でも難しいか……。


   ……私が美奈子ちゃんの家に駆け付けた時、丁度、其の子が運ばれてきたところでした。


   知らせが一足先に戻ったんだな……まぁ、其の方が良いが。


   ……私が処置をしている頃に、うさぎちゃんのお母さんが呼ばれて。


   其れで、うさぎちゃんの家に……?


   ……どうやら、うさぎちゃんのお母さんが引き取ると仰ったようなのです。


   ……。


   今、あの家には小さな子は居ませんが……うさぎちゃんのお母さんはふたりの子を育てています。
   子を育てた方は他にも居ますが……美奈子ちゃんは、其の中でもうさぎちゃんのお母さんが適任だと思ったようです。


   ……其の子を村の子にするつもりなんだな。


   はい……其のようです。


   うさぎちゃんの、年の離れた弟……名は、なんて言ったか。


   ……進悟さんです。


   連れ合いは、未だ貰っていなかったな……いや、未だそんな年頃ではないか。


   ……自立するには、少々早いかと。


   家の仕事はしているようだが……自立していないのならば、早いな。


   ……若しかしたら、ですが。


   其の子は、女の子なのだろう。


   はい……女の子です。


   だとしたら……其の可能性は、大いに有り得る。


   ……歳は、一回り以上離れていますが。


   一回りぐらいなら……女が若ければ、問題ない。
   あくまでも、子が欲しいのなら……ね。


   ……矢張り、子供ですか。


   新しい血を入れるつもりなのだろう……が、上手くいくとは限らない。


   ……然うですね、誰にだって意思はありますから。


   ……。


   今は、其の子が無事に育つことだけを考えようと思います……。


   ……うさぎちゃんのお母さんならば、ちゃんと育てて呉れるだろう。


   はい……私も、然う思っています。


   ……どうぞ、亜美さん。


   ありがとうございます、まことさん……。


   さて……あたしは、魚の下拵えをしてしまおうかな。


   ……。


   亜美さんは、休んでいて。


   ……お言葉に甘えて。


   ん、どんどん甘えて欲しい。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、まことさん。


   なんだい……?


   ……うさぎちゃんが、此の村に居たら。


   其れでも、同じだったかも知れない……うさぎちゃんは、あの家を出たのだから。


   ……然う、ですか。


   ……。


   ……私達に、子供が居たら。


   誰にも言わせるつもりはない。


   ……。


   皆、祝って呉れたろう?


   ……一瞬。


   うん?


   ……引き取ることを、考えたんです。


   引き取る……其の赤子を?


   ……どうしてかは、分かりません。


   亜美さん……。


   ……子が欲しいわけでは、ないの。


   ……。


   ……だけど、放っておけないような気がして。


   あたしは、構わない。


   ……え。


   亜美さんが引き取りたいのならば……ふたりで、育てよう。


   まことさん……。


   ……大きくなった其の子が、うさぎちゃんの弟を選ぶなら其れで良い。


   進悟さんです……。


   ……でも、選ばなければ、あたしは此の家から出す気はない。


   あ……。


   ……知ってるかい、亜美さん。


   はい、なんでしょう……。


   ……うさぎちゃんの弟は、どうやら亜美さんのことが好きらしい。


   は……?


   ……と、美奈が言っていた。


   な、な……。


   あいつが言うのなら、然うなのだろう……あいつは、本当に良く見ているから。


   進悟さんが、私を……?


   ……気になるかい?


   気になると言うより……驚いてしまって。


   はは……然うか。


   ……だって、二回り以上。


   其れは、関係ないさ。


   ……然ういうもの、ですか。


   あぁ、然ういうものだよ。


   ……。


   まぁ、悪い気は


   驚いただけです。


   ……。


   ……其れだけですよ。


   然うか……。


   ……ただ、其れだけなんです。


   あぁ……あたしとしても、譲る気は毛頭ないよ。


   絶対に、嫌ですからね……。


   ……うん、あたしも絶対に嫌だ。


   ……。


   ねぇ、亜美さん……。


   ……はい。


   若しも、赤子を引き取るとなったら……おしめが、必要になるよね。


   おしめ……ですか。


   いや、赤子と言ったら、おしめが先ず浮かんで……。


   あ、あぁ、然うですよね……他にも、色々と必要だと思います。


   育てたことがないから、詳しくは分からないんだ……。


   私もです……。


   ……亜美さんも?


   実際に育てたことは、ありませんから……。


   ん……確かに。


   其れとも、知っていた方が良かったですか……?


   あ、いや……。


   ……ふふ、正直ですね。


   は、はは……。


   ……若しも、然うなったら。


   うさぎちゃんのお母さんに、聞いてみようか……。


   ……ふたりで、聞いてみましょう。


   あぁ……然うしよう。


   ……。


   ……ん、此れで良し。


   もう、終わったのですか……?


   うん……なんせ、五匹だからね。


   ……。


   ちょっと、手を洗ってくるよ。


   はい……行ってらっしゃい。


   うん、行ってくる。


   ……。


   ……子供、か。


   子供……まことさんと。


  18日





   ……。


   ……ユゥ。


   ……。


   ユゥ……。


   ……ん、ぅ。


   起きて……。


   ……ぅ。


   起きて……ユゥ。


   ……ふご。


   ふご……。


   ……。


   ねぇ、ユゥ……お願いだから、起きて。


   ……メ、ル。


   ユゥ……起きた?


   ……もぅ、すこし。


   待って、寝ないで。


   ……ん。


   起こしてしまって、ごめんなさい……でも。


   ……うぅ、ん。


   ……。


   どう、したの……。


   ……お師匠さんと先生が、私の家で待っているの。


   ……?


   えと……先刻ね、お師匠さんが帰ってきたの。


   ……ししょう?


   うん……夕ごはんの頃合いになったら、来て欲しいって。


   ふぅん……そうなんだ。


   ユゥを起こそうと思ったんだけど……未だ起こさなくても良いと、お師匠さんが。


   ……ゆう、ごはん。


   あと四半刻程で、夕ごはんの時間になるわ……だから、そろそろ支度をして行かないと。
   若しも、約束の時間に遅れたら……ふたりは屹度、待っていて呉れるとは思うけど、だからこそ待たせたくない。


   ……ん、と。


   頃合いになってもユゥが起きないようだったら、置いてきても構わないと言われたの。
   だけど、私ひとりでは行けない……ユゥも、一緒でないと。


   ……メルのいえに、いくの?


   うん……お師匠さんがね、私の家でご馳走を作って呉れたんだって。


   ……ごちそう。


   久しぶりに四人でごはんを食べようって……お師匠さんも、同じことを考えていたみたい。


   ……ししょうは、どこ。


   先に、私の家に……未だ、やることがあるからって。


   ……。


   其れだけを伝えに、わざわざ帰ってきて呉れたみたいなの……。


   ……せんせい、と。


   うん、なに……?


   ……いちゃいちゃ、してるとおもってた。


   ……。


   いや……してたのかも。


   お、お師匠さんはあくまでも、皆で食べるご馳走の支度をする為に……。


   ……してないとはかぎらない、だって、ししょうだから。


   そんなこと、先生は許さないわ……。


   ……ゆるさない?


   だって、ご馳走を作ると言ったのに……其れなのに、違うことをしようとしたら。


   ……。


   屹度、追い出すと思うの……。


   ……すこしも?


   す、少しも……。


   せんせい、きびしいもんな……うん、メルがいうなら、そうかも。


   ……少しは、していたかも知れないけど。


   ね、メル……。


   ……なに。


   これから、するとおもう……?


   ……これから?


   ごちそうを、たべたら……。


   ごはんを食べたら、帰るように……先生なら、言うと思う。


   ……それでかえる、ししょうじゃないよ。


   ……。


   あたしも、かえりたくないな……。


   ……ユゥ。


   あ……いま、してるとか。


   い、いま……?


   ……ん?


   い、幾らなんでも……。


   ……メル?


   今は、していないと思う……。


   ……そうかな。


   だって、此れから私達が行くんだもの……。


   んー……。


   そんなこと……している場合では、ないの。


   ……どんなこと?


   ……。


   そんなことって、なに……?


   ……はい?


   どんなこと、してるの……?


   ……。


   んー……メル?


   ……ユゥ、寝惚けてる?


   えへへ……わかんない。


   ……ん、寝惚けてる。


   メル……あたしと、ねよ。


   ずっと、日記を読んでいたから……だけど、ジュピターの日記の影響とは思えない。
   となると、頭が疲れ切っている……考えられることは、それくらい。


   ……ん。


   うん……熱は、今のところないみたい。


   ……へへ、メルのてはきもちいいね。


   ユゥは小さい頃、頭を使い過ぎて熱を出したことがあるとお師匠さんが言っていたけれど……。


   ……メル。


   取り敢えず、休息は取ったし……屹度、大丈夫よね。


   ……あたしと、ねない?


   ねぇ、ユゥ……。


   へへ……なぁに、メル。


   ふたりで、寝るのも良いのだけれど……。


   ……うん、いいとおもう。


   四人で、ごはんを食べたくない……?


   ……よにんで、ごはん?


   然う……ユゥと私、其れからお師匠さんと先生の四人で。


   ……にゃ。


   にゃ……?


   ……たべる、たべたい。


   ん……なら、ちゃんと起きて呉れる?


   うん……おきる。


   ……。


   ……おきたよ、メル。


   うん……起きてないわ、ユゥ。


   ……むにゃ。


   あぁ……。


   ……。


   ジュピターの日記……あれから、どれくらい。


   ……にっき。


   三十頁くらいかしら……。


   ……然うだ、日記!


   きゃっ。


   日記、読まないと……っ!


   ……。


   ねぇメル、あたし、どれくらい寝てた?


   半刻、くらい……。


   半刻……良かった。
   其れくらいなら、多分、取り戻せる。


   あ、あの、ユゥ……?


   ごめんよ、メル。
   あたし、すっかり寝ちゃって。


   私のことは、気にしないで……ユゥ、疲れていたみたいだし。


   今日の分はちゃんと読まないと……でないと、皆でごはんが食べられない。


   ねぇ、ユゥ……此れから、私の家に?


   ……。


   ユゥ……お腹、痛いの?


   ううん……なんだか、ものすごくお腹が空いた。


   あぁ……それは屹度、そろそろ夕ごはんの時間だから。


   師匠は、未だ帰ってきてない。
   先生の家に行ったのなら、帰ってこないかも知れない。


   ねぇユゥ、聞いて。


   ねぇメル、此れからごはんを作ろうと思うんだけど、メルも一緒に食べない?
   今夜は多分、あたしひとりだし……一緒に食べて呉れるなら、メルが食べたいものを作りたいと思うんだ。


   あのね、ユゥ。


   何か、食べたいものある?
   あ、それとも、そろそろ帰らなきゃ駄目かな。


   今日の夕ごはんなら、お師匠さんが作って呉れているわ。


   師匠が?
   だけど、帰ってきていないよね?


   私の家で、作って呉れたの。


   メルの家で……それは、先生とふたりで食べるごはんではなくて?


   お師匠さんは私の家でごはんを作って、私達が来るのを先生と待っているの。


   え、と……どういうこと?


   今夜は、四人でごはんを食べるって。


   四人で……え、然うなの?


   然うみたい。


   でも、師匠は何も言ってなかったよ。


   私も、先生から何も聞いていないの。


   若しかして、あたし達に内緒で?


   状況を考えると、然うだと思う。


   えー、えーーー?


   ね、行くでしょう?


   勿論、行くよ。
   行くけど。


   けど?


   あたしも、作りたかった。


   それは……また、今度ね?


   ……今度?


   ユゥが、ジュピターの日記を読み終わったら……。


   ……うん、分かった。


   ん。


   ね、メル。


   なぁに?


   今日の夕ごはんはご馳走かな。


   お師匠さんはご馳走だと言っていたわ。


   そっか。


   ……楽しみ?


   うん、楽しみ。


   ……良かった。


   メルは?


   私も……楽しみ。


   ね、いっぱい食べよう。


   そんなには食べられないけど……私なりに、食べるつもり。


   メルなりに?


   ん……私なりに。
   ユゥは、食べ過ぎないようにしてね。


   ん、気を付ける。


   それじゃあ、日記を閉じて……開き癖が付いてしまうかも知れないから。


   ……あまり読めていないけど、良いかな。


   今日は、あまり気にしなくて良いと……。


   ……今日は?


   あ……。


   ……え。


   ……。


   メル……どうしたの?


   先生が……然う、言っていたの。


   然うなんだ……先生が然う言っていたのなら、今日はあまり気にしないようにする。


   だから、先生は……休息を口実にして、私をユゥのところに。


   メル……?


   ……ユゥに逢えるのは、嬉しいけど。


   行く支度、する……?


   ……。


   しない……?


   ……あぁ、もう。


   え……え?


   ……。


   メ、メル……?


   ……ユゥ。


   な、なに……?


   ……行く支度を、しましょう。








   躰はでかくなったが、寝顔はちびの頃のままだな。


   夜泣きは、流石にしないでしょうけれど。


   あぁ、流石に夜泣きはもうしない。


   若しもまた、するようなことがあったら?


   放っておくよ、余程のことがない限りな。


   余程のこと、ね。
   あなたのことだから、様子を窺うことぐらいはしそうだけれど。


   其れくらいなら、してやっても良い。


   過保護。


   朝起きて、動かなくなっていたら嫌だろう?


   心配性。


   メルは、どうだ?


   何が。


   寝顔、ちびの頃と変わっているか?


   大した差はないわ。


   ふふ、然うか。


   何。


   いや、たまに様子を観察しているんだろうなってさ。


   寝ている間に熱でも出されたら面倒だもの。


   知恵熱って、未だ出るものなのか?


   可能性はないわけじゃない。


   然うか、マーキュリーは大変だな。


   ジュピターこそ、躰に熱が籠って大変ね。


   然うなんだ、だから今夜


   却下。


   はい。


   ……。


   ちび達、時間までに来るかな。


   さぁ、どうかしらね。


   ユゥの奴、良く寝てたもんな。
   でもまぁ、メルが声を掛ければ起きるだろう。


   眠って呉れる方が良いわ、熱を出すより。


   結局、あいつもジュピターだったな。


   可能性がないわけではないから。


   ん?


   あなたとは、違って。


   もう、ないんじゃないか?


   然う言って、あれから三度出した。


   そんなに出したか。


   二度目は、お勉強を始めて一週間経った頃。


   ……然ういや、そんなこともあったな。


   メルが心配して。


   付きっ切りで、看て呉れようとしたんだよな。


   勿論、其れは許さなかったけれど。


   メルまで熱を出したら大変だからな、正解だ。


   だけど、不服そうでね。


   お前は、嬉しそうだったよな。


   ええ、面白かったわ。
   ほんの少し、反抗的な態度が見えたから。


   かつての自分を見ているようで、か?


   まさか、私は素直で従順だったもの。


   はは、良く言うな!


   勿論、言ってみただけよ。
   そんな自分、想像しただけで反吐が出るわ。


   反抗的なお前の方が、あたしは面白いよ。


   あなたに面白いだなんて言われるのは心外。


   反抗的なお前が愛しくて仕方がない、の方が良かったか?


   良くないわね。


   だろう?
   だから、趣向を変えてみたんだ。


   意味は、分かっているの?


   分かっているよ、一応。


   あまり面白くないわね。


   む、然うか。


   ……。


   マーキュリー、そんなに詰まらなかったか?


   ……今更。


   次はもっと……ん。


   ……。


   ……マーキュリー。


   届かない。


   ……応。


   ……。


   ……良い匂いがする。


   ご馳走のね……。


   ……今は、飯の匂いは感じないんだ。


   其れは、壊れているのかも知れないわ……。


   ……大丈夫だ、未だ崩れてはいないから。


   ん……。


   ……やっぱり、今夜。


   あの子達は、どうするの……?


   ……ちび達は、メルの部屋に寝かせれば良いさ。


   安易、ね……。


   ……な、良いだろう。


   何が、良いのかしら……。


   ……久しぶりに、四人で飯を食うんだ。


   関係ないと思うけれど……。


   ……あたしには、あるんだ。


   こじつけ……。


   ……然うとも、言う。


   ……。


   マー……う。


   ……そろそろ、来るかも知れない。


   未だ、来ないんじゃないかな……。


   ……そんなことを言って、また見せるつもりなの。


   まぁ、口付けくらいなら……む。


   ……駄目よ、今夜は久しぶりに四人で食事なのだから。


   ……。


   喜んで呉れれば、良いけれど……。


   ……今頃、喜んでいるさ。


   楽観的……。


   ……お前だって、然う思っているくせに。


   ふ……。


   ……お、言い返されない。


   たまには、ね……。


   ……ふふ、然うか。


   離れて……。


   ……もう少しだけ、此のままで。


   ……。


   身を寄せ合っていたいんだ……。


   ……あの子は、順調に心が育っている。


   ん……?


   ……良いことなのか、分からないけれど。


   良いことに、決まっている……。


   ……あなたにとっては、ね。


   お前にとっても、だろう……?


   ……。


   十と……何年だ。


   ……四年。


   十四年か……となると、あと六年くらいは一緒に暮らしたいな。


   ……まぁ、切りは良いわね。


   切りは、良い方が良い……。


   ……どうして?


   なんとなく、だ……。


   ……いい加減。


   あぁ……。


   ……たかが、二十年。


   されど、二十年……。


   ……此れからも、色々なことがありそうね。


   あるんじゃないか……此れまで、色々あったようにさ。


   ……精々、飽きさせないでね。


   あぁ……此れからも、飽きさせない。


   ……持って呉れれば、良いけれど。


   持たせるさ……最後に、でかい仕事が待っているんだ。


   其れは……此処まで来たら、いつだって良いのよ。


   いつだって良いからこそ……直ぐにでなくても良い、然うだろ。


   ……。


   ……もう少し、鍛えてやりたいんだ。


   頭も、ね……。


   な……未だ、あたしの方が良いだろう?


   は……?


   ……あいつより。


   もう、とっくに抜かれているわよ……。


   ……いや、未だだ。


   認めなさい……ジュピター。


   ……分数の徐算なら、負ける気はしない。


   但し、答えがあっていればの話だけれど……。


   ……因みに、あいつは。


   素因数分解くらいなら、もう出来るわ。


   ……。


   覚えてる?


   覚えてるよ、そいうんすーぶんかいだろ?


   然う?


   あぁ、


   なら、55。


   え?


   55を素因数に分解して、とても簡単でしょう?


   お、応、とても簡単だな。


   はい、解いて。


   待て……確か、そすうで……そすうって。


   いいえ、待たない。
   さっさと解いて。


   じ、時間が欲しい、時間があれば


   此れくらいならば、あの子は直ぐに解くわよ。


   ……。


   あなたの苦手な、自乗もないのだけれど。


   そすう……素数。


   ……。


   ……分かった。


   答えは?


   ……5×11。


   何、聞こえないわ。


   5×11だ、然うだろ?


   違うわ。


   え。


   嘘よ。


   ……合ってる、よな?


   此れくらい出来なかったら、明日にでも終わらせたくなるところだったわ。


   よ、良かった、合ってて。


   ……。


   はぁ……。


   ……ねぇ、ジュピター。


   な、なんだ、もう一問か?


   ……いいえ。


   お……。


   ……少し、此のままで。


   お、応……幾らでも、構わない。


   ……構って、莫迦。


   少し、疲れたのか……?


   ……然うかもね、珍しくあなたの手伝いなんてしたから。


   ……。


   大丈夫よ……あと六年くらいならば、持たせるわ。


   ……メル。


   もう、違う……。


   ……あたしも、もう違う。


   ……。


   ……違うけど。


   莫迦ね……ユゥは。


   ……うん、然うなんだ。


   ……。


   ……沢山、食べて欲しい。


   其れは、無理……でも。


   ……でも?


   美味しく、食べるつもりよ……皆で、ね。








   ねぇ、メル。


   うん?


   走るの、速くなったよね。


   え、急になに?


   んー。


   ユゥ?


   なんとなく、かな。


   ……もぅ、何を言っているの。


   ふふ、ごめん。


   ふたりが待っているわ。


   うん、行こう。


   ……。


   メル?


   ……ユゥとお師匠さんが、走り方を教えて呉れたから。


   なに?


   ううん、なんでもない。


   ん、そっか。
   ところで、走って行った方が良いかな。


   ん、然うね。


   でも、歩いて行こうか。
   未だ、時間はあるし。


   ……其れでも、少し急いでね。


   はい、メル。


   ……。


   手、いつものように繋いで行こう?


   ……うん、ユゥ。


  17日





   うん、今日も元気に遊んでいるな。


   あの子の動き、やっぱり鈍っているわね……ユゥについていくのが、やっとだもの。


   ゆっくり、取り戻していけば良いさ……ちびと遊んでいれば、必ず、戻って呉れる。


   ……取り戻すだけでは、駄目なのよ。


   まぁ、焦らずにやっていけば良い。
   体力も頭と一緒で、直ぐにどうこうなるものではないから。


   ……。


   う。


   ……此の頭はあまり良くならなかったわ。


   大分、良くなったと思っているんだけどな。


   微々たるものよ。


   読み書きと計算、今ではちゃんと出来る。


   其れくらい、出来て当たり前。


   や、九九を覚えるのは大変だったなぁ。
   表情が薄かったお前の信じられないという顔、今でもはっきりと思い出せるよ。


   其のうち、あの子に追い抜かれるわよ。


   ちびに?
   いや、まさか。


   追い抜かれたくなかったら、今からでもちゃんとお勉強することね。


   今から……取り敢えず、三桁の計算でもするか。


   因数分解。


   ……其れ、本気で言ってるのか?


   言ってるけど。


   ……せめて、分数か小数点の計算にして呉れ。


   あら、分数と小数点の計算なんてもう出来るでしょう?


   ……混ざるのは、今でも苦手だ。


   約分は?


   な、なんとか。


   分数の徐算は?


   引っくり返るのが未だにいまいち分からないが、だからこそ、良く覚えている。


   躓くと思っていたのに。


   かえって、躓かなかったな。


   難しく考えない、単純な頭だったから良かっただけ。


   素直と言って呉れ。


   でも、正しい計算が出来ることとは別。


   乗算がなぁ、徐算なのに乗算なのがなぁ。


   だから先に乗算を教えるのよ。


   ……良く出来てるよな。


   然うよ、楽しいでしょう?


   ……正しく解けてマーキュリーに褒められる時が一番楽しい。


   正しく解けて当然なのに。


   ……あたしは、お勉強に関しては褒められて伸びる型なんだ。


   調子に乗る、ではなくて?


   ……嬉しいと、つい。


   知恵熱とは程遠い頭で良かったわね。


   数字や文字やらでいっぱいになると、居眠りをしてしまう頭だけどな。
   居眠りしなければ、若しかしたら、熱が出ていたかも知れない。


   ……ふむ。


   ん、マーキュリー?


   いえ、然うかも知れないと少しだけ思っただけ。


   ……。


   なんにせよ、熱よりも先に居眠りを始めるから要らぬ心配なのだけれど。


   ま、今更なぁ。


   ……。


   ……ちび、ちゃんと待っているな。


   足……もう少し、速くなって欲しいわね。


   筋は悪くない、走っていれば速くなる。


   ……走り方が良くないわ。


   ん、其れはちょっと気になるところだな……癖になってしまう前に、ちゃんと教えてやるか。


   ……いい加減に教えたら、許さない。


   分かってる……手取り足取り、


   ……。


   いや、変な意味ではなくな?


   変な意味って?


   ……腕を触ったりは、少しはするが、其れ以上のことはしない。


   其れ以上のことって?


   ……無闇矢鱈に触ったりはしません、約束します。


   ……。


   先ずはあたしが腕振りの手本を見せて、其れからメルにやらせてみる。
   足も大事だが、腕の振り方も大事だからな。腕が正しく振れれば、自ずと足もついてくる。


   ……ねぇ、ジュピター。


   ん、なんだ?


   其れ、今まさにユゥがあの子に教えているわ。


   は?


   あれ。


   ……あ。


   然うでしょう?


   あぁ、然うだ。
   ちびめ、いつの間に。


   あなたと遊んでいるうちに身に着けたのでしょう。
   矢張り、ジュピターは違うわね。


   ……。


   ユゥが教えた方が良いかも知れないわ。


   ……あたしも、メルに教えたい。


   莫迦ね、子供と張り合ってどうするの。


   ……だって、さ。


   そんなことよりも。


   ……あ?


   薬茶。


   ……あぁ、然うだった。


   ……。


   ……なぁ、マーキュリー。


   何。


   ちびまで熱を出した時は、どうしようかと思ったが。


   ……。


   二日くらいで下がって呉れて良かったよ。


   ……食欲がなくならなかったのが大きいわ。


   やっぱり、食べられると違うよな。


   ……薬で保つことは出来るけれど。


   やっぱり、自分の口で食べるのが一番だ。


   ……否定はしないわ。


   なぁ、結局原因はなんだったんだ……本当に知恵熱だったのか?


   ……其れに近いわね。


   近い?


   つまるところ、心配し過ぎたのよ。


   小さい頭で、考え過ぎたってわけか。


   ……まぁ、然うね。


   まぁ、夜泣きするくらいだからな……久しぶりだったもんだから、吃驚したよ。


   ……其れで発散出来れば良かったのだけれど。


   う……。


   ……渋い?


   渋い……。


   残さず飲んでね。


   ……折角お前が煎れて呉れたんだ、一滴も残さずに飲むよ。


   残っていたら、許さないわ。


   ……応。


   ……。


   な、飲み易いようには


   しようとも思わない。


   ……然うか。


   冷めないうちに飲んだ方が良いわよ、分かっているとは思うけれど。


   ……冷めると苦味が加わるんだよな。


   今日煎れてあげた薬茶は、特にね。


   え、然うなのか。


   ええ、然うなの。


   お、お前は、飲んだのか。


   ええ、飲んだわ。


   に、苦かったか?


   苦くなる前に飲み干したから。


   ……。


   だからと言って、一気に飲んでは駄目よ。
   ゆっくりと、味を噛みしめるようにして飲んで。


   ……味、噛みしめないと駄目か。


   駄目よ、然うでないと効き目が薄まってしまうから。


   然うか……なら、仕方ないな。


   私と未だ、生きていたいと願うなら。


   ……。


   飲んで。


   ……お代わり、しても良いか。


   調子に乗らないで、莫迦なの。


   ……ん。


   ……。


   うぅ……渋いな。


   でも、効果がありそうでしょう。


   応、ありそうだ……お前と、此れからも生きられるという気持ちにすらさせて呉れる。


   ……単純。


   ん……マーキュリー。


   ……未だ、大丈夫よ。


   ひび……未だ、大したことないだろう。


   ええ……取り敢えず、未だ崩れそうにはないわ。


   広がって、胴体から離れそうな箇所もないか……?


   ……今の所は。


   良し……。


   ……。


   ……マーキュリー。


   何……ジュピター。


   そろそろ、遊びだけなく。


   ……。


   あいつに、稽古をつけてやろうと思っている。


   ……鍛錬?


   あぁ。


   ……然う。


   メルにはもう、教え始めているんだよな。


   ……あの子が来た、其の日からね。


   お前は厳しいな。


   ……時間があると思っていると、足りなくなるかも知れないから。


   鍛練は、ある程度躰が出来てからでないと出来ない……壊れてしまったら、元も子もないから。


   ……私を責めているの。


   いや……然ういうわけではないよ。


   ……。


   ……良かったら、メルも。


   私は、ひとりだったけれど……。


   ……。


   ……誰かに教わることが出来るのなら、其れに越したことはないわ。


   分かるよ……あたしも、同じだったからな。


   ……あなたもずっと、ひとりで鍛錬していたものね。


   あぁ……先代が遺して呉れたものを参考にして。


   ……歴代が遺して呉れたものは?


   歴代のは……幼体のあたしには、少し難しくてさ。
   なんせ、文字が読めなかったから。


   簡単な文字ばかりだったのに。


   然うは言ってもな、読めないとどれも同じなんだよ。


   ……先代は、絵で遺して呉れたのよね。


   然うなんだ……おかげで、あたしの頭でも理解出来た。


   ……あの絵で?


   先代は絵が上手かったよ。


   ふ……然うね、あなたの頭でも分かるくらいだものね。


   あれ、ちびにも見せてみるかな。
   文字が読めなくても、絵なら直感的に分かるから。


   持ってきたの?


   此の間、こっそりとな。


   まぁ、良いと思うけれど。


   あたしの部屋にあるものだ、誰にも何も言わせない。


   ……言われる筋合いもないわね。


   あぁ、然うだ。


   ……。


   ……しぶ。


   ふ……相変わらず、面白い顔。


   ……だろ?


   あなたは子供の頃から表情が豊かね。


   なんでだろうな?


   そんなの、知らないわよ。


   ……。


   何をしているの。


   ……若しかしたら、顔が柔らかいのかも知れない。


   ……。


   うぉ。


   子供の頃はひたすら、此の顔が鬱陶しかったけれど。


   今はすっかり、愛着が


   然ういうところが鬱陶しい。


   ……愛嬌って、ところだ。


   自分で言って。


   ……。


   薬茶……ずぅっと、慣れないわね。


   ……薬茶には、慣れそうにない。


   ……。


   ん……マーキュリー。


   ……生きているからこそ、味わえるのよ。


   だから……毎回、味わって飲んでいるよ。


   ……まぁ、別に味わう必要はないのだけれど。


   え。


   そんなもの、さっさと飲んでしまった方が良いわ。
   時間を掛ければ掛けるほど、口の中に残ってしまうから。


   お前……さっきは、味を噛みしめろと。


   言ったけど、まさか鵜呑みにするなんて思わないじゃない。


   あたしはてっきり、薬が変わったからだと……。


   ……調合を変えたのは、本当のこと。


   ……。


   もう少し、生きていたいのでしょう?


   あぁ……お前と、其れからちび達と一緒にな。


   ……あの子達とは、出来るだけ長く。


   飲み込まれないぐらいにはしてやりたいと……然う、思っているんだ。


   ……。


   前の代なら未だしも、今の御代は……酷く、厄介だろう。


   ……今直ぐにでも、滅んで欲しいくらいにはね。


   寛容さなんて、微塵もない……あるのは、身勝手さだけだ。


   ……偽りのものなら、あるわよ。


   偽り……?


   ……現に、私達は大きな干渉もされずに泳がされているでしょう。


   あぁ……。


   ……精々、良い駒を作ってあげるつもりよ。


   月には、流されない……其れはもう、良い駒をな。


   ……其れで、だけれど。


   ん?


   ユゥにも、お勉強を教えてあげようと思っているの。


   ちびに?


   あなたに任せた結果、あの子が莫迦になったらメルが困るから。


   ……未だ、間に合うか?


   今なら、十分に間に合うわ。
   まぁ、あなたが駄目だと言っても、


   宜しく頼む、マーキュリー。


   ……あなたに頼まれなくても、私はあの子に勉強を教えるわ。


   お前は一度決めると、曲げないもんなぁ。


   其れで、あなたは。


   メルも、鍛練させて良いか。


   ……。


   お前と鍛練したように。


   ……其れが、あの子の力になるのなら。


   ……。


   止める理由は、何処にもないわ。


   ……無茶なことは、させないよ。


   甘やかすのは止めて。
   其れでは、意味がないの。


   ん……分かっている。


   ……手合せも。


   良いのか?


   ……マーキュリーと雖も、戦う力は必要だもの。


   ……。


   ジュピターと共に鍛練を重ねたマーキュリーなら、然う簡単には倒れない……然うでしょう?


   あぁ……然うだと思う。


   ……思うでは、駄目よ。


   然うだよ……マーキュリー。


   ……あなたが、メルを。


   お前が、ユゥを……。


   ……。


   ……ん、飲み終わった。


   然う。


   ……褒めて呉れないか。


   は?


   ……だよな。


   ……。


   ん……。


   ……薬は、強くなっていくばかり。


   ……。


   残さずに、飲んで……偉いわ。


   ……マーキュリー。


   今回は、特別よ。


   ……うん。


   ……。


   な……あたし達も、ちび達と遊ぶか?


   遊ばない。


  16日





   うん……其処までは、熱くないな。


   平熱よりも少し高いくらいね。


   此の三日、夜中に急に上がることもなくなった。


   ……ええ。


   大分、落ち着いたと言っても良いか?


   ……だと、思いたいわ。


   なんだ……珍しく、弱気だな。


   ……ぶり返さないとは、言えない。


   然うか……ならばもう少し、様子を見よう。
   心配なのは熱だけではないしな。あたしとしては、腹も心配だ。


   ……此の子は、私と違うから。


   ん?


   ……。


   ふ。


   ……どうして笑うの。


   お前が少し素直になっ


   何?


   ……いや、なんとなく。


   なんとなくで笑わないで。


   ……はい、ごめんなさい。


   ジュピター。


   ……なんだい?


   もう、帰って呉れても良いわよ。


   うん?


   後のことは、私ひとりでも大丈夫だから。


   飯は、大丈夫か?
   お前だけでなく、メルの飯も。


   問題ないわ。


   メルは未だ、通常の飯が食えない。
   其れでも、問題ないか?


   私を誰だと思っているの。


   優秀な医者だと思っている、が、飯作りに関してはあたしに任せた方が無難だと思っている。
   今のメルの飯を作るのは、結構な手間と時間が掛かるんだ。食えないものは、作れない。


   出来ないことではないわ。


   出来なくはないが、お前ひとりだけだと負担が重いだろう?
   なんせ、作り置きも出来ないんだぞ? メルの分は様子を見て、其の都度作らないといけないからな。


   ……。


   然ういうわけで、今から飯を作ろうと思っているんだ。
   出来れば、あたし達が食う飯の作り置きもしたいと思っている。


   ……あたし達?


   お前とあたし、其れからユゥ。
   メルの分は作れないが、


   私の分だけで良いわ。


   然うだな、取り敢えず二日分くらいは作っておくか。


   ……材料は?


   今朝、畑を見回るついでに持って来たんだ。ちびにも手伝って貰ってな。
   あいつ、メルの為となると其れはもう張り切るんだよ。おかげで考えていたよりも捗った。


   ……。


   落ち着いたとは言え、未だ作れる状況じゃないだろう?


   ……作れないこともない。


   元々、お前は飯を作るのがあまり好きじゃない。
   もっと言えば、食事に時間を掛けることがあまり好きじゃないんだ。


   ……。


   あたしが作れば、お前は其の分の時間を他のことに使える。
   な、悪い話ではないだろう?


   ……作りたいのなら、作って呉れても良いわ。


   応、任せろ。


   作ったら、帰って。


   あたしは帰っても良いが、ちびがなぁ。
   多分、メルから離れたがらないと思うんだよ。


   なら、あの子は置いていって良いわ。
   あなたは、食事を作り終えたら帰って。自分の分を持って。


   いや、一緒に食わせて欲しいな。
   飯を食いながら、メルの快気祝いを四人でしよう。


   ただ熱が落ち着いただけ、全快とは未だ言えない。


   熱が落ち着いたのなら、次は、体力をつけなきゃな。


   だから、快気祝いは未だ早いと言っているの。


   ならば、一緒に飯を食うだけでも良い。
   四人で食うのは久しぶりだろう?


   久しぶりと言う程、久しくはないけれど。


   四人で食おう、どうしても四人で食いたいんだ。
   な、良いだろう? 頼むよ、マーキュリー。


   しつこいわね。


   ちびだって、四人で食いたいと思ってる。


   あの子が?


   然う、ちびも。


   然うかしら。


   然うなんだって、お前だって本当は分かっているんだろう?


   ……何が。


   だから、な?


   何が、な、なのかちっとも分からないわ。


   ……。


   ジュピター。


   ……だって、四人で食いたいんだ。


   子供?


   ……ちびの駄々捏ねが伝染したのかも知れない。


   あなたは元から然うよ。


   ……マーキュリー。


   はぁ……。


   ……どうしても。


   仕方がないわね。


   ……良いかい?


   良いわよ、此れ以上駄々を捏ねられても鬱陶しいだけだし。


   やっ


   其の代わり食べたら直ぐに帰って、あなたが居ると無駄に騒がしいから。


   ……ちびも、騒がしいと思うけどな。


   あの子は良い子ね。


   あ?


   私の言うことだったら、良く聞いて呉れるの。


   ……あと、メルの言うこともな。


   メルは未だ本調子ではないから静かにしていてねと伝えれば、屹度、あの子は静かにしていて呉れるわ。


   ……あたしも静かにしてると思うよ、マーキュリーに言われたら。


   あの子が静かでも、あなたが騒がしかったら意味がないでしょう。


   たまには書物でも読んでみようと思っているんだ。
   書物を読んでいれば、騒がしくなんて出来ないだろう?


   独り言を言ったり、唸ったり、私に聞いてきたりしなければね。


   どれもしない、メルは未だ本調子ではないから。


   然う、なら良いと思うわ。


   だろう?


   直ぐに寝て呉れそうで。


   いや、直ぐには寝ないよ。
   と言うより、寝ない。


   安心して、起こしてあげるから。


   ……明日の朝にか?


   いいえ、今日はあなたを泊まらせるつもりはないの。
   そもそも明日まで寝ているつもりならば、居ても居なくても変わらないわ。
   寧ろ、邪魔。


   若しも寝ていたら必要でなくても起こして呉れ、声を掛けて呉れれば必ず起きるから。


   寝るのなら帰った方が良い。


   念の為、今夜も居た方が良いと思うんだ。
   ちびを置いていって、若しも、ちびが夜泣きをしたら


   結構よ。


   まぁ、然う言わずにな。
   あたしが居た方が安心だろう?


   いえ、別に。


   ……どうしても、駄目か。


   どうしても、駄目。


   ……然うか。


   諦めて呉れたかしら?


   ……諦めたくない、が。


   帰って、休んで。


   ……うん?


   あなたも、疲れているでしょうから。


   若しかして、心配して呉れているのか。


   然うだと言ったら?


   ありがとう、とても嬉しいよ。
   だが、あたしは大丈夫だ。其の気持ちだけ


   帰って。


   ……お前だって、疲れているだろう。


   帰って、ジュピター。


   ……分かった、飯を食って休んだら帰る。


   然う、其れで良いわ。


   ……なぁ、マーキュリー。


   なぁに、ジュピター。


   ……メルは、何が食いたいかな。


   今は未だ、お腹に優しいものしか駄目よ。


   ……腹も、元気になったら。


   ……。


   好きなものを、食いたいものを、作ってやりたい。


   ……直接、聞いてみたら?


   聞いたことは何度かある、が、教えて呉れないんだ。


   ……全く?


   あぁ……聞くと、俯いてしまってさ。


   ……俯いて、無言?


   いや、ごにょごにょと何か言っているようなんだけど、声が小さ過ぎてちっとも聞こえないんだよ。


   ……声は元々、小さいけれど。


   だから、出来るだけ刺激しないように聞き直すんだ。
   でも然うすると、今度は口を噤んでしまって。


   ……其れで結局、分からないまま?


   あぁ……未だに、分からない。


   ……ふぅん。


   マーキュリーなら知っているだろう、メルの好きなもの。


   知っていたとしても、教えない。


   なんで。


   なんでも。


   どうしても?


   どうしても。


   お前が作るものか?


   さぁ。


   ……お前が作るものと言えば。


   其れだけとは限らないでしょう?


   む。


   あなたが作るものの中にも、若しかしたら、あの子の好きなものはあるかも知れない。


   ……どれだ。


   どれも好きなのかも知れないわ。
   今の所、嫌がらずに食べているから。


   其れは、然うなんだけど……其の中でも特に好きなものってあると思うんだよ。


   あるかも知れないわね。


   ……やっぱり、教えて呉れないのか?


   聞いたこと、ないから。


   ……は?


   だから、知らないの。


   ん、然うか……ならやっぱり、直接聞くしかないな。


   見ていれば、ある程度は分かるけれど。


   ……え?


   まぁ、鈍いあなたには分からないでしょうね。


   ……。


   あの子に聞いて貰ったら?


   ユゥにか?


   ユゥにだったら、はっきりと言うかも知れないでしょう。


   成程……じゃあ今度、あいつに聞かせてみるか。


   但し、ユゥがあなたに教えるかどうかは分からない。


   言わせる。


   力尽くで?


   飯で釣る。


   釣れるものかしら。


   甘いものなら、釣れる。


   あなたには教えないで欲しいとあの子が言ったら、ユゥはどんなことがあろうとも言わないと思うわ。


   ……言うと、思うか。


   言うかも知れないし、言わないかも知れない。


   ……。


   落ち込んだ?


   ……少し、な。


   まぁ、嫌われてはいないでしょうから。


   ……出来れば、好かれたいな。


   ふ。


   なんで、笑う?


   空回りしないよう、精々、頑張って。


   ……応。


   ……。


   メルは、何が良いかな……ずっとろくに食えていなかったんだ、出来れば、好きなものを。


   ……ひとつだけ。


   ん、なんだ?


   ……甘いもの。


   甘いもの?


   ……私に似て、ね。


   甘いもの、か……ん、分かった。


   ……お礼よ。


   お礼?


   分からないなら、良い。


   ……。


   ん、なに。


   可愛いな、お前は。


   莫迦なの。


   はい。


   ……。


   はは。


   ……支度を始めたら?


   応、然うする。


   ……。


   ん、なんだ……?


   ……?


   ちび、どうした……?


   ユゥが、どうかしたの?


   いや……顔が、真っ赤なんだ。


   退いて。


   お、応。


   ……。


   ……マーキュリー?


   熱があるわね……。


   熱?
   躰に籠っているのか?


   恐らく、其れだけじゃない。


   ……どういうことだ。


   鈍いわね、体調不良よ。


   たいちょう、ふりょう?


   あなたにだって、数十年に一度程度にはあったでしょう。


   ……あった、ような。


   兎に角、私の寝台に寝かせてあげて。


   あ、あぁ、分かった。


   疲労……まさか、知恵熱?


   ジュピターに知恵熱は


   あなたと此の子は違うの、一緒にしないで。


   ……はい。


   ユゥは、平熱が高い……だから、余程のことがない限り酷くはならない筈。


   少し寝れば、


   うるさい、黙って。


   ……はい、黙ります。


   ユゥ、何か飲めそう?


   ……。


   然う……分かったわ。


   ……薬茶、か。


   ……。


   あ、いや……。


   飲めるならばね。


   ……。


   余計なことは、言わないで。


   ……あれ、渋いんだよなぁ。


   だから、特別に飲み易くするわ。


   ……え。


   子供だし、渋いと吐き出すかも知れない。
   メルは飲めたけれど、ユゥは分からないから。


   待て、あれって飲み易く出来るのか?


   あなたにも飲ませたことはある筈だけれど、憶えていないの。


   ……あった、か?


   憶えていないのなら良いわ。其のまま、思い出さないでいて。
   今後、飲み易い薬茶をあなたに煎れてあげる予定はないから。


   そ、其れは、困る。


   あなたは成体……大人でしょう、渋くても飲みなさい。


   え、えぇ……出来れば、あたしも飲み易い方が。


   乱暴に寝かせないで。


   わ、分かってるよ……そっと、だろう?


   然うよ。


   ……此れで、どうだ?


   ……。


   だ、だめだったか?


   まぁ、良いわ。


   はぁ……良かった。


   ……。


   な、なぁ、マーキュリー。


   何、私は此れから薬茶を煎れるつもりなのだけれど。


   あたしにも……出来れば、飲み易い薬茶を煎れて欲しいな。


   そんな話をしている暇はないわ、あなたは食事の支度でもしていて。


   は、はい……。


   ユゥ、食欲はある?
   然う、食欲もあるのね。良かったわ。


   ……。


   聞いてた?


   お、応、聞いてた。


   言わなくても、分かっていると思うけれど。


   腹に悪いものは駄目、だな。


   任せたから。


   応、任せて呉れ。


   ……ユゥ、苦しい?


   ちびが、熱……。


   ……うん、なぁに?


   ……。


   然う、喉が……ジュピター。


   な、なんだ?


   白湯か、或いは麦の茶を作ってあげて。
   喉が渇いているみたいなの。


   白湯か麦の茶、どちらでも良いのか?


   どちらでも良いわ、此の子が飲めるものならば。


   麦の茶は、甘くしても良いか?
   多分、甘みがあった方が飲むと思うんだ。


   甘過ぎなければ、構わないわ。


   他に何かあるか?


   冷たくはしないで。
   あくまでも、白湯程度の温度で。


   ん、分かった。
   待ってろユゥ、出来るだけ早く作ってきてやるからな。


   ……。


   ……皆で飯は、また今度だな。


   ジュピター。


   あ、いや、なんでもないよ。


   特別に、私の寝台を貸してあげるわ。


   ……うん?


   熱が下がるまで。


   応、ありがとう。


   無駄な体力を消耗させたくないだけよ。


   良かったな、ユゥ。


   其れと。


   ん?


   此の子の熱が下がるまで、


   暫く、泊まっても良いか。


   メルが完全に治っていたら、帰って貰うんだけど。


   然うと決まれば、寝床の確保だな。


   もうしているでしょう。


   お前のだよ、マーキュリー。
   寝台、使えないだろう?


   あなたは床。


   あぁ、分かってるよ。
   お前を床に寝かせるわけにはいかないからな。


   と言っても、寝ている暇なんてないでしょうけど。


   今夜、どちらに……いや、交代すれば良いか。


   後で時間を決めるから。


   ん、分かった。
   な、メルにも甘い麦の茶を淹れてやっても良いか。


   ええ、淹れてあげて。