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日記
2025年・9月前

  15日





   マーキュリー。


   ……ジュピター。


   代わろう。


   ……どうして。


   ちびが、あまりにもぐずるから。


   ……勝手に、上がり込んで。


   声は、掛けたよ。


   ……何をしに来たの。


   お前と、交代しに。


   ……あの子は。


   お前の部屋を借りた。
   良いだろう、ちびなら。


   ……良いの、ひとりにしておいて。


   つい先刻、漸く眠って呉れたんだ。


   ……私は、あの子をひとりにしておいて良いのかと聞いているの。


   良くはない。


   ……ならば、私のことよりも


   ずっとでは、お前が参ってしまう。


   ……。


   少し、休んだ方が良い。


   ……平気よ、問題ないわ。


   平気ではないだろう……軽い飯を作って持ってきたから、其れを食って少し休め。


   ……要らない。


   食いたくないか……?


   ……ええ、食べたくないわ。


   然うか……。


   ……私なら平気だから、放っておいて。


   然うはいかない。


   ……平気だと、言っているのよ。


   あたしが今のお前の状態を気にしていないとでも思っていたか。
   其れとも、其れすらも考えられないようになっていたのか。


   ……。


   お前が平気だと思い込んでいても……メルが、平気ではない。


   ……意味が分からないわ。


   疲れ切っている奴に看病される程、不安なことはない。


   ……此れくらいのことで、私が疲弊すると思っているの。


   思っている。


   ……。


   ちびの世話をすることは、守護神の仕事なんかよりもずっと大変なことだと。
   あたしは、然う思っている。と言うより、思い知った。


   ……其れは、あなたが勝手に思っていることでしょう。


   なぁ、マーキュリー。


   ……しつこい。


   本当に疲れていないのか。


   ……私は疲れてなどいない、もう良いでしょう。


   然うだな、もう良いよ。


   ……だったら。


   良く、分かった。


   ……あなたは、ユゥの傍に。


   疲れている時のお前は決まって然う言うんだよ、昔からな。
   残念ながら其れに引っ掛かるあたしは、もう、居ないんだ。


   ……何を言っているのかしら。


   其の言葉を信じた結果、どうなるのか……あたしは、此の身を以って知っている。


   ……良く分かったと、言ったでしょう。


   あぁ、良く分かったよ。
   お前が疲れ切っていることが、な。


   ……。


   さっさと認めて休め、マーキュリー。


   ……然うだとして、あなたに何が出来ると言うの。


   お前のように診てあげることは出来ないが、傍で看ていてやることは出来る。
   此れでも、高熱を出した奴の傍に居てやるのは初めてではないんだ。


   ……此の子を看るのは初めてでしょう。


   まぁ、然うだな……。


   ……ジュピターとは違うの。


   知恵熱……と、言ったか。


   ……ジュピターには、先ず起こらない現象でしょう。


   熱は、出すけどな……知恵熱は、聞いたことがないな。


   ……だから全然違うの、同じではないのよ。


   確かに然うだ……全然、違うよ。


   ……もう良いでしょう、あなたを構っている暇など私にはないの。


   あたし達はこんな熱の出し方はしないし、こんなに長く寝込むこともない。
   まさに、智将たるマーキュリー特有のものなのだろう。


   ……知った口を。


   知っている……いや、より正解に言えば、憶えている。


   ……何を。


   忘れたか……メルと同じ熱を出したお前を、寝ずに看病した奴のことを。


   ……。


   あたしは、はっきりと憶えている……不安で堪らなかったからな。


   ……そんなこと、何時までも憶えていなくても良いのに。


   お前のことならば、何百年前のことでも憶えているよ。
   ましてや、苦しそうに寝込んでいたお前のことを忘れるわけがない。


   ……今直ぐ、忘れて。


   ごめん、無理だ。


   ……直ぐに忘れる頭のくせに。


   一度だけでなく、何度も……其の度にあたしは、お前の傍で自分に出来ることをした。


   ……頼んだことなんて、一度もないのに。


   でも、ずっとは無理だった……仕事をしろと言われては、ヴィナとマーズにお前から引き離されてさ。


   ……当たり前でしょう。


   あの時程、腹を立てたことはなかったな……。


   ……たまごとは言え、あなたはジュピターだったのだから。


   演習、隊の訓練、夜警……挙句の果てには、書類整理。
   此のあたしに書類整理をしろだなんてさ、どうかしてるとしか思えなかったよ。


   ……最悪な人選だわ。


   当時のあたしは簡単な読み書きを漸く覚えたばかり、書類の小難しい文字なんて読めるわけがない。


   ……演習の報告書なんて、手習いのようで。


   ああ、然うだ。
   お前には迷惑ばかり掛けていた。


   ……そんな、あなたに。


   でも、其れでも良いからやれと言ってきたんだよ、ヴィナは。
   マーズにも、マーキュリーの為にもちゃんとやるようにと釘を刺されて。


   ……其の甲斐あって、途中でぐっすりと居眠り。


   マーキュリーの為ならばと思って、初めのうちは頑張ったんだ。
   ちゃんと整理が出来たら、若しかしたら、マーキュリーに褒めて貰えるかも知れないと……そんなことも、ちらりと思いながらさ。


   ……下心もまた、あなたの動力源。


   今も、な……。


   ……迷惑。


   居眠りをする度に、マーズから小言を言われて……ならば、最初からあたしにやらせるなと言い返したかった。


   ……言い返してみれば、良かったのに。


   そんなことをしたら、もっと面倒なことになる……流石のあたしでも、分かっていたよ。


   ……事あるごとに、言われていたものね。


   幾ら物覚えの悪いあたしでも、マーズのことは比較的早く覚えた……小言マーズってね。


   ……其のままね。


   其の顔は、最後までぼんやりとしていたけど。


   ……髪の黒で、区別をつけていたんでしょう。


   と言っても、火星の民は皆、黒髪だからな……最終的には声が決め手になったよ。


   ……其れと、厳格な気配。


   あの気配を纏っている者は、マーズだけだったな……ヴィナはもう少し、柔らかかった。


   ……彼女には、軽いところがあったわ。


   はは、あったなぁ……。


   ……故に、ひとを動かすのが上手だった。


   皆の士気を高めるのも、な……。


   ……今なら、わかるでしょう。


   うん?


   前のみっつは、元からあなたの仕事……けれど、書類整理は。


   ……あたしを、強引に休ませる為の口実。


   まんまと、嵌められたものね……しかも、何度も。


   ……あの時のあたしは、マーキュリーのことで頭がいっぱいだったからな。


   演習、隊の訓練、夜警……其れ等をしている間は、私のことなんて考えている余裕はなかったでしょうけど。


   ……頭の隅っこには、あったよ。


   隅っこ、ね……。


   ……。


   ……感謝しているわ、ヴィナとマーズには。


   マーキュリーが、感謝?


   ……失礼ね、私だって感謝ぐらいはするわよ。


   ん、然うか……あの頃は反抗的と言われていたから、然うは思わなかったんだ。


   でしょうね……曲がりなりにも感謝出来るようになったのは、二百年程過ぎた頃からだから。


   ……手を焼いただろうな、あたし達には。


   仕方ないわね……私達をクイーンに薦めたのは、あのふたりなんだもの。


   ……まぁ、然うだ。


   少なくとも私は、自分を選んで欲しいなどと一度も言ったことはないわ。


   孵卵器の中では、言えないけどな。


   ……本当、迷惑な話。


   あたしは、選ばれたおかげでお前に逢えた……其れだけで、十分だ。


   ……あなたは良いわね、単純で。


   応、良いだろ……?


   ……。


   思えば……あのふたりには、良いようにされたよ。


   ……だから、やり返してやったの。


   はは……然うだったな。


   ……もう、あのふたりは居ないのね。


   マーキュリー……。


   ……なんでもないわ。


   あぁ……。


   ん……ジュピター。


   なぁ、マーキュリー……食いたくないのなら、無理して食わなくても良い。


   ……。


   食わなくても良いから、休んで呉れ……此のままだと、お前まで熱を出してしまうかも知れない。


   ……知恵熱なんて、もう出さないわよ。


   知恵熱以外にもあるだろう……疲労による、高熱とかさ。


   ……。


   離れたくないのは、分かる……分かるが、頼むから堪えて呉れ。
   そして、あたしを信用して呉れ……居眠りなんかせずに、ちゃんと看ているから。


   ……はぁ。


   頼む、マーキュリー……ちびの、ユゥの傍に居てやって呉れ。


   ……あの子は、眠っているのでしょう。


   メルのことが心配で……やっと眠ったと思っても、夜泣きをするんだ。


   ……。


   休めと言っておきながら……矛盾、していると思うが。


   ……思い切り、しているわね。


   お前が傍に居て呉れたら……あいつは屹度、安心する。
   若しかしたら、夜泣きもしないかも知れない……。


   ……。


   だから、マーキュリー……あいつと。


   ……あの子と一緒に、眠って欲しい。


   メルに何かあったら、直ぐに知らせる……。


   ……当たり前でしょう、あなたには看ていることしか出来ないのだから。


   聞いて、呉れるか……。


   ……食事、何を作ったの。


   あぁ……汁が多めの麦粥だ。


   ……甘い煮豆は。


   勿論、作った……好きなだけ、食べて欲しい。


   ……そんなには、食べられない。


   分かってる……だから好きなだけ、食べられる分だけ。


   ……何よ其れ、いい加減ね。


   今は、此れくらいで丁度良いだろう……?


   ……。


   ……メルの分も、一応あるから。


   然う……。


   ……熱は、全く下がらないのか。


   ええ……下がらない。


   ……眠れているのか、先刻から全く反応しないが。


   高熱のせいで、浅い眠りが続いている……だから。


   ……強めの薬を、打ったんだな。


   通常の薬では、効果が薄いの……。


   ……。


   此のままだと……衰弱、してしまうと。


   ……マーキュリー。


   自分の時は、なんでもなかったのに……。


   ……なんでもないことは、ないだろう。


   なかったのよ……。


   ……あぁ、然うか。


   あなたが、重傷の時だって……。


   ん……其れは少し、寂しいな。


   ……此の子と一緒だと、思ったの。


   いや……思わないよ。


   ……。


   ……けどお前は、強がりだからな。


   うるさい……。


   ……ん、済まない。


   ……。


   メル……あたしもユゥも、お前の傍に居るからな。


   ……此の子は。


   うん……?


   ……私とは、違うのね。


   あぁ……ちびとあたしが、違うようにな。


   ……。


   マーキュリー……頼むから、休んで呉れ。


   ……分かった、休んであげるわ。


   然うか……分かって呉れたか。


   ……ユゥは、私の部屋で眠っているのよね。


   あぁ、泣き声が聞こえてこないと言うことは眠っているのだろう……。


   ……。


   眠るまで、メルのところに行くって言って聞かなかった。


   ……あなたと良く似ているわね。


   だからさ、メルに手紙を書けと言ったんだ。
   元気になったら、読んで貰う手紙を。


   手紙……だけど、あの子は。


   あぁ……未だ、読み書きは出来ない。


   ……どうしたの。


   手本を、書いてやった。
   此れを良く見て、書いてみろと。


   ……言うことを聞いたの?


   お前がメルに手紙を書いたら、あの子は必ず喜ぶ……然う言ったら、素直に聞いて呉れたよ。


   ……単純。


   はは、だろう?
   其処も、あたしに良く似ているよ。


   ……認めるのね。


   あぁ……認めるよ。
   あいつとあたしは違う個体だけれど……其れでも、何処か似ている。


   ……手紙は、書けたの?


   初めのうちは、真剣に書いて……いや、真似ていた。
   だけど、暫くしたら……。


   ……力尽きた。


   筆を握りしめたまま、眠っていた……多分、疲れも出たんだろうさ。
   ずっと、落ち着かなかったからな……。


   ……ユゥでも、やっぱり疲れるのね。


   まぁ、な……未だ、ちびだからな。


   ……。


   ……ユゥを頼む、マーキュリー。


   あなたこそ……メルを、良く看ていて。


   あぁ……任せろ。


   ……。


   おやすみ……マーキュリー。


   ……休むとは言ったけれど、眠るとは言っていない。


   ん、然うだったか……。


   ……。


   ……。


   ……ジュピター。


   なんだい、マーキュリー……。


   ……変なこと、しないでね。


   変なことって、なんだよ……。


   ……変なことは、変なことよ。


   するわけないだろう……?


   ……信じているわ。


   ……。


   ……あなたを。


   あぁ……信じて呉れ、マーキュリー。


   ……。


   ……足元、大丈夫か。


   なんてこと、ないわ……。


   ……気を付けて呉れ。


   言われなくても……。


   ……付いていって、やりたいが。


   結構よ……。


   ……応。


   ……。


   ……。


   ジュピター……。


   ……なんだ、久々に口付けでもして欲しいのか。


   莫迦……。


   ……どうした?


   ……。


   マーキュリー……?


   ……ありがとう。


  14日





   ……なぁ、マーキュリー。


   また裸で逃げ回るようになったとでも?


   あれ以来、其れはもうすっかりなくなった。お前の言う通り、効果覿面だったからな。
   今では自分から進んで着ているよ。あたしが手伝おうとすると一丁前に嫌がるんだ。


   然う……其れで、今度は何。


   ……なんでか知らんが、最近のちびはあたしによじ登るのがお気に入りらしいんだ。


   然うみたいね、見ていれば分かるわ。


   立っている時によじ登るのが特に楽しいみたいで、ふんふん言いながら登ってくるんだ。
   うっかりしてると下衣を脱がされる羽目になるから、腰布を緩めに出来なくてさ。


   脱がされたのね。


   あぁ……まんまと脱がされた。


   ……ふ。


   構えていない時によじ登られると、十中八九、な。


   だから、常日頃から構えておかないとならない。


   あいつさ、力いっぱい引っ張りやがるんだよ……其のうち、破けるんじゃないか。


   破けたら、繕うしかないわね。


   繕ったそばから破かれそうだよ。


   新調しても良いけれど、どうせ破かれるわよ。


   然うなんだよなぁ。


   新調すると言えば、あの子の衣。そろそろ、躰に合わなくなってきているわね。
   未だきつくはなさそうだけれど、上衣も下衣も丈が足りていないわ。


   あぁ、其れはあたしも思っていた。
   新調しても良いんだが、どうせ直ぐに破くと思うと勿体なくてな。


   あなたのお古があれば良かったんだけど。


   もう、何百年も前だからなぁ。


   大きめのものを新調した方が良さそうね。


   やっぱり然うするしかないか、今のあたしのでは流石に大き過ぎるしなぁ。


   私の衣は?


   お前の?


   私の衣をあの子に


   いや、お前のものでもちびには未だ大きい。
   と言うより、其れはあたしが許さない。


   どうして?


   気に入らない。


   あぁ、然う。


   どうせ、呉れてやるつもりはないんだろう?


   あの子になら良いと思ったんだけど。


   あいつに呉れるくらいなら、あたしに


   莫迦なの?


   ……お前んとこのちびに呉れてやった方が良い。


   あの子は……未だ、必要ないわ。


   ……。


   すっかり、あなたの子に追い抜かれてしまったわね。


   ……心配か。


   いいえ……。


   ……個体差、か。


   ええ、然うよ……あの子は、幾分かゆっくりなの。


   ……美味い飯を、もっと食べさせてやろうか。


   其れでも、限度があるから。
   量を食べれば良いと言うものではないわ。


   ……まぁ、ゆっくり大きくなれば良いさ。


   ゆっくり、ね……。


   ん……何だ?


   ……腰布、きつそうね。


   あぁ、きついよ。


   ……。


   あいつのおかげで此処の所、腹回りにゆとりがないんだ。
   あたしとしてはもう少し、緩めの方が良いんだが。


   だらしがないと思っていたのよね。


   ……え?


   だから、良いのではないかしら。


   だ、だらしがないって、思っていたのか?


   思っていたわよ、足も短く見えるし。


   言って呉れれば、


   昔からきつく締めるのは嫌いでしょう、あなたは。


   ……苦手だ。


   だから、放っておいたのよ。


   マーキュ


   で?


   ……。


   暫くは、其のままなのよね。


   あぁ、暫くは此のままだ。


   腰布、きついからってうっかり引き裂かないように。


   其処まではしないさ、繕い物が増えてしまうからな。


   ……あの子に、教えたら?


   繕い方か?


   ……そろそろ、良いと思うわ。


   然うか……なら今度、教えてみるか。


   ……まぁ、なかなか覚えて呉れないでしょうけど。


   物覚えが悪いってのは、難儀だな。


   私の気持ち、分かった?


   あぁ、分かったよ。


   然う、良かったわ。


   ……つくづく、お前が居て呉れて良かったと。


   ところで。


   うん?


   下衣が脱げたら、あの子は。


   当然、下衣と一緒に落ちる。


   ……ふ。


   想像したな。


   下衣を脱がされたあなたと、一緒に落ちて転がっているあの子。
   なかなか間抜けで良いわ。微笑ましいと言ってあげても良いかも知れない。


   其れでも懲りずにまた登るんだよ、あたしが下衣を穿くのを待ってな。


   登り甲斐があるのでしょう、あなたはあの子から見たら巨人だから。


   あたしはただの木星の民だよ、巨人と言う程ではない。


   木星の民は大きいのよね。


   あいつだっていずれ、あたしよりは小さいかも知れないが、でかくなるんだ。


   あなたよりも大きくなるかも知れないけれど、今は未だ私よりも小さいわ。


   いや、あたしの方が大きい。


   どうでも良い。


   ……そして頭まで登り終えると、とても満足そうにしているんだ。


   登頂した達成感でしょう。


   なんだったら、暫くの間は下りてこない。


   普段の目線よりも高いことが然うさせるのかもね。


   初めてよじ登った時は下りられないのかと思ってさ、下ろしてやろうと思ったんだよ。


   でも、全く違った。


   さんざ楽しむと、なんでもないようにひょいっと飛び下りやがった。


   そして、勢いで転げた。


   あいつは毎日のように何処かしら傷をこさえている。


   まぁ、重傷ではないから。


   放っておけば、直ぐに治るしな。


   可愛いわね。


   然うかぁ?


   ええ、可愛いわ。


   ……まぁ、良いけどさ。


   良いのね、面白くなさそうだけど。


   ……よじ登るのは、座ってる時でも良いらしい。


   少し物足りなさそうではあるけれど。


   あたしの頭を叩いて、立たせようとする。
   だから、引き剥がす。


   然うしたらまた、登ってくる。


   叩くなと言っても聞かない。


   だから、渋々立ち上がる。


   然うすりゃ、ちびはまた満足する。


   満足したら、暫くは下りてこない。


   其れの繰り返しだよ、いつになったら飽きるんだ。


   気が済むまで、でしょうね。


   はぁ……未だ、掛かりそうだな。


   あなたが其処に居る、だから登るのだと思うの。


   あたしはなんだ、障害物みたいなものか。


   然う、大きな障害物。


   ……マーキュリーには、しないよな。


   私に登っても面白くないでしょう、あなたよりもずっと小さいんだもの。


   いや、其れだけじゃない気がするな。


   どういうこと?


   最近、お前の前では何処かもじもじしているだろう?


   然うかしら。


   然うなんだよ。
   なんだ、あの態度。


   さぁ?


   ……。


   何?


   ……お前、分かってるだろ。


   さぁ、分かっていないわ。


   いや、其の顔は分かってる。


   分かっているとして、私が教えると思う?


   思わない。


   然う、ならば良いわね。


   ……。


   なんにせよ、筋力や体力を付けるのに丁度良さそうだし、好きなようにさせておけば良いわ。


   ……好きにさせているよ、飯を作っている時以外はな。


   食事を作っている時は危ないわね。


   其れでもよじ登ってこようとするんだ、此れが一番困る。


   どうせ、引き剥がすんでしょう。
   言ったところで、言うことを聞かないのだろうから。


   引き剥がして、駄目だと強く言う。
   然うすると、むくれる。


   分かり易いわね。


   むくれた上で、またよじ登ってこようとする。
   こうなると意地になっているから、こっちも其れなりに力を込めないと引き剥がせない。


   確実に力が増しているわね、良いことだわ。


   良いことだけど、そんなことをしているといつまで経っても飯を作ることが出来ない。


   まぁ、然うね。


   然うするとな、今度は腹が減って不機嫌になる。


   ふふ。


   いや、笑うところじゃないだろ。自分で邪魔をしておいて、飯が出来ないと不機嫌になるんだぞ?
   早く飯を作れと言わんばかりに、うーうー言い出すんだ。此れがまた、うるさい。


   あの子にしてみれば、毎日が楽しくて仕方がないのでしょうね。


   あ?


   あなたと遊んで、あなたが作ったごはんを食べて、あなたとぐっすり眠って。
   次の日が来れば、またあなたと遊ぶ。


   ……然うなんだろうか。


   私にはよく分からないけれど。


   ……お前んとこのちびと遊んでいる時も、ちびは楽しそうだ。


   ええ、楽しいのでしょう。


   ……。


   あの子も、楽しそうに笑うようになったわ。


   ……あぁ、然うだな。


   驚くようにも、なって呉れたし。


   効果覿面、だったな。


   ……ええ、おかげで楽しいわ。


   其れは良かったが……あまり、遊んでやるなよ。


   ……あなた程、遊ぶつもりはないから。


   ふ……。


   ……なに。


   いや……暫く、登らせておこうと思ってな。


   ……然うしてあげれば良い。


   応……なら、然うしよう。


   ……。


   あいつが、飽きるまで……。


   ……ユゥ。


   うん、なんだい?


   ……。


   珍しいな、どうした?


   あの子の名前。


   あの子……ちびのことか?


   ……然うよ。


   ……。


   不服?


   いや……別に。


   然う……ならば、決まりね。


   其れで、お前んとこのちびは?


   メル。


   ……お前は、其れで良いのかい?


   ええ……良いわ。


   なら……あたしから言うことはないな。


   あら、何か言いたいことがあったのかしら。


   あるとしたら、此れからはお前のことをメルと呼べなくなる、ただ其れだけだ。


   他に良い名前があるのなら、聞いてあげるわよ。


   や、此れと言ってない。
   良いんじゃないか、メルとユゥで。


   然う。


   此れであたしは、お前にユゥと呼ばれることはなくなるんだな。


   ……寂しいの?


   ん、少しな。
   お前のことだから、間違って呼ぶこともないだろうし。


   ……あなたはうっかり間違えそうね。


   あぁ、あたしはな……其の度に、注意されそうだ。


   ……するわよ。


   ん……其の時は、言って呉れ。


   ……。


   ……先ずは、名前か。


   いずれ、今の名も譲ることになるわ。


   ……今の名は、譲りたくないな。


   そんなに気に入っているの?


   全く気に入っていない、だから譲りたいと思わない。


   ……。


   やっぱり、気に入らないな。


   ……然うね、気に入らないわ。


   ……。


   ……其れでも、いつかは終わる。


   終わるだろうか。


   ……終わりがないものなんて、ないのよ。


   然うか……じゃあ、あたし達で終われば良いな。


   ……叶うならば、ね。


   応……叶うならば、だ。


   ……。


   ……マーキュリー?


   もう少し先だとは、思うのだけれど。


   ……何か気になることでもあるのか。


   プリンセス。


   ……もう少し先でも、早くないか。


   ええ、早いわ……けれど、あれはもうクイーンだから。


   ……何を企んでる?


   楽しい遊び、でしょうね。


   ……。


   ……もう、諫める者が居ないから。


   マーズ……か。


   ……今のマーズでは、弱い。


   然うだな……あれでは、手に負えないだろう。


   ……ヴィナは、疾うの昔に居ない。


   居て呉れたら、また違っただろうが。


   ……今のあれは、役に立たない。


   あぁ……目が、大分濁ってしまった。


   ……好き放題になるわ、より一層。


   より一層……あたし達で、終わらせたいな。


   ……難しいでしょうけど。


   あぁ……難しいだろうな。


   ……銀河の果て、或いは、太陽の黒点。


   うん?


   ……何かしらの力で。


   其れも……今となっては、受け入れ難い。


   ……言うと思った。


   生きていて欲しいと思うのは、駄目か……?


   ……いいえ、駄目ではないわ。


   出来れば……使命なんてものとは、関わることなく。


   ……どうしても、逃れられないと言うのなら。


   なら?


   ……思うように、生きれば良い。


   ……。


   使命に……心だけは、縛られることなく。


   ……お前のように?


   あなたのように。


   ……。


   ……やっぱり、癪だわ。


   な、お似合いだろう?


   ……。


   ……。


   ……私達に残された時間はもう、そんなに長くはないわ。


   けど、出来るだけ長く……一緒に居てやりたいと、思うよ。


   ……過保護。


   お前もな……メル。


   ……もう、違うわ。


   いや、未だだよ。


   ……。


   未だ、ちび達には言ってない……つまり、未だ呉れてはいないんだ。
   だから……其れまでは、あたし達がメルとユゥだ。


   ……ユゥ。


   なんだい?


   ……別に、なんでもないわ。


   ふふ、然うか。


   ……また、よじ登りに来るわよ。


   応、どんどん来い。


   ……そんなことを言って、良いの?


   こうなったら、あいつが大きくなるまでとことん付き合ってやるさ。


   ……やっぱり、過保護。


  13日





   なぁ、マーキュリー……。


   ……何。


   ちびはどうして、上衣すら羽織らずに走り回るんだと思う……?


   ……あなたにそっくりじゃない、良かったわね。


   流石のあたしでも、裸で走り回ったりはしないぞ……。


   ……部屋の中を、うろうろはするけれど。


   うろうろするだけで、逃げ回ったりはしない……熱が冷めたら、羽織るし。


   ……本当、そっくりだわ。


   水浴びをして、躰を拭く……其処までは、良いんだよ。
   問題は、其処からだ……衣を着せようとすると、するりと躰を捻って逃げる。
   追い掛けると、更に逃げる……其れがまたさ、ちょろちょろとすばしっこいんだ。


   ……順調に育っていて、喜ばしい限り。


   ちびのくせに、体力だけはあるから……捕まえるのに、一苦労なんだ。
   いっそのこと、躰を拭かずに衣を着せようとしたこともあるが……然うすると、濡れたまま逃げる。


   ……どうして然ういう考えになったのか、理解出来ないわ。


   躰を拭かずに逃げられると……家の中が、水浸しになる。
   ちびは掃除なんてしないから……あたしが、拭く羽目になる。


   あぁ、然う……其れは大変ね。


   あいつ、濡れたまま家中を駆け回ってさ、挙句の果てには寝台に飛び込んで転がりやがるんだ……しかも、あたしのだぞ。
   どういうわけだか、自分の寝台には転がらないんだ……で、転がりながら、きゃっきゃっと笑うんだよ。其れはもう、愉快そうにな。


   ……まぁ、愉快なんでしょうね。


   なぁ、何か良い考えはないか……?


   ……良い考えって?


   水浴びの後、あいつが大人しく衣を着て呉れる……。


   ……飽きるまでは、無理ね。


   いや、飽きるって……。


   其れか、もう少し成長すればやらなくなると思うわ……羞恥心が芽生えれば、の話だけれど。


   今直ぐ止めさせることは……。


   ……無理でしょうね。


   いっそのこと、力尽くで……。


   ……しようとするから、全力で逃げるんでしょう。


   うん……然うなんだ。


   ……八方塞がりとまでは、言わないけれど。


   あたしは、あそこまでじゃなかったぞ……多分。


   ……少し、頭の発達が遅い子なのかも知れないわね。


   其れって、大丈夫なのか……重大な欠陥とかじゃないよな?


   まぁ、あなたでさえ大丈夫だったのだし、大丈夫じゃないかしら。


   ……。


   其れに、個体差はあるものだから……様子を見て駄目だったら、また其の時に。


   応……其の時は、頼む。


   ……あなたが其処まで悩むなんて、生まれて初めてなんじゃない。


   悩むと言うより……夜泣きが落ち着いたと思ったら、此れだろ。
   違う意味で、疲れるんだよ……や、本当に、なんで衣を着ないんだ。


   ……あなたが裸でうろうろするからでしょう、子供って良く見ているわよね。


   あたしか、やっぱりあたしのせいなのか……。


   ……うちの子は、裸で駆け回ったりしないもの。


   ……。


   暫く、裸でうろうろするのは止めてみたら?


   ……然うすると、躰の熱が冷めない。


   ならば、あの子が見ていないところで……例えば、外でうろうろすれば良い。


   ……外でうろうろしたら、お前、あたしの頭がおかしくなったと思わないか。


   思うけど、今更だもの。


   ……今更。


   兎に角、子供は良く見ているの……あの子があなたの真似をしていないとは、言えない。


   ……暫く、我慢するしかないのか。


   とは言え、一連の流れを遊びのひとつだと認識してしまっているところもあるでしょうから……直ぐに止めさせるのは、難しいでしょうね。


   其れって、あたしが我慢してもしなくても同じってことか……。


   ……今となっては、大して変わらないかも知れない。


   なら……我慢せずに、裸でうろつく。


   大体。


   ……あ?


   あなたが躰の熱を冷ましているように、あの子も冷ましているとは思わないの。


   ……。


   思ってなかったのね、其の顔は。


   そ……然うかっ!
   言われてみれば、然うだなっ!?


   声が大きい。


   いや、でもな? あんなに駆け回っていたら、冷めるものも冷めないぞ?
   余計に熱が籠って、より一層……あ、だから、止まらないのか。


   然ういうことね。


   あー……。


   躰の中の熱を冷ましたいのならば、大人しくしていること……動くにしても、うろうろするぐらいに留めておくこと。
   きちんと言葉にして、伝えてみたら? 若しかしたら、聞いて呉れるかも知れないわよ。


   ……聞いて呉れると、思うか。


   ……。


   あたしの言うこと、あんまり聞かないんだ……たまに、言葉が通じてないのかって思うくらいに。


   通じているとは思うわ。
   ただ、聞く気がないだけで。


   ……は。


   あなたにそっくりねぇ。


   いや、そっくりではないだろ……あたしは一応、聞いてはいたぞ。


   どうだか。


   ……なぁ、マーキュリー。


   なぁに?


   マーキュリーから、言ってみて呉れないか……然うしたら、聞くかも知れない。


   さぁ、其れはどうかしらね。


   マーキュリーの言うことを聞かないようだったら……仕方がない。


   諦める?


   諦めて、とことん付き合ってやるさ……。


   あぁ、其れも良いわね。


   ……ま、元気なことは良いことだからな。


   あなた。


   ……ん?


   本当に疲れているの?


   ……見れば分かるだろう。


   分からないわ、興味ないから。


   ……守護神の仕事をこなすよりも、疲れるんだ。


   ふぅん……面白いわね。


   ……面白くて、良かったよ。


   ……。


   取り敢えず、躰は拭くか……衣を着せようとしなければ、逃げ回ることはないし。


   いっそのこと、あの子に言わせてみようかしら。


   ……お前んとこのちびにか?


   他に居る?


   居ないな。


   あの子に言われて、あなたの子がどういう反応をするのか。
   興味が湧いたの。


   其れは……あたしも、興味があるな。


   ふふ、でしょう?


   な、いつ言わせる?


   衣を着ないで駆け回っている時が、適時なのでしょうけれど。


   なんでもない時に言っても聞きそうだぞ。
   あいつは、お前んちのちびが話していることも良く聞いているんだ。


   問題は、言われて理解出来るかどうかね。


   出来ないことはないと……思いたいな。


   ……ふむ。


   マーキュリー?


   あなたに一晩、預けるわ。


   ……え?


   うちの子。


   あ、あたしは、構わないけど……良いのか?


   莫迦だけは伝染させないで。


   其れ、何度も言われるな……。


   あの子はひとりでも水浴びと着替えは出来るから、其処は手出ししないで。


   お、応。


   寧ろ、しないで。


   わ、分かった、絶対にしない。


   ……。


   う、疑っているのか?
   あたしは、本当にしないぞ?


   ……どうやら、心の種が芽吹いているようなの。


   え、然うなのか!
   其れは良かったなぁ!


   声が、無駄に、大きい。


   ……いやぁ、良かったなぁ。


   あなたに肌を見られたら……あの子は屹度、嫌がる。


   は、なんで?


   あなただからに決まっているでしょう、莫迦なの。


   あ、あたし、若しかして、嫌われているのか……。


   然うだったら、どうするの?


   ……どうすれば、良いんだ。


   ……。


   う、美味い飯を作るか……いや、其れだけでは多分、駄目だな。
   じゃあ、もっと遊ぶか……ちびが喜ぶだけだな。お前んとこのちびと一緒だと、其れはもう、はしゃぐからな。


   ……ふ。


   なぁ……どうしたら良いと思う?


   知らないわ。


   あー……だよなぁ。


   ともあれ、嫌われていたらの話だから。


   ……あ?


   其処まで嫌われてはいないと思うわ。


   ほ、本当か?


   多分。


   ……あぁ。


   あなたと遊んでいても嫌そうには見えないし、大丈夫じゃないかしら。


   そ、然うか?


   恐らく。


   ……。


   とまぁ、詰まらない話は此処までにして。


   ……あたしにとっては、全く詰まらなくないぞ。


   兎に角、あなたに預けるから。


   ……分かった、預かろう。


   あの子が裸で走り回ることは、教えてないでおく。


   ……ん、どうしてだ?


   其の方が、お互いに効果覿面だと思うから。


   ……知っていた方が、良いんじゃないか?


   知らない方が、驚くかも知れないでしょう?
   驚くという感情を知る、良い機会になるかも知れない。


   ……お前、本当に面白がってるな?


   ええ、面白いわ。
   ふたりの反応がどういったものになるのか、今から楽しみなの。


   なぁ……。


   なに?
   言っておくけれど、私は


   お前の然ういうところ、あたしは大好きだよ。


   ……で?


   お前も、うちに来な


   行かない。


   ……未だ、言い切ってないぞ。


   行くわけない。


   ……でも、ちびの傍に居なくて良いのか?


   あなたを、信用しているから。


   ……。


   お願いね、ジュピター。


   ……智将の圧迫を、感じる。


   やぁね、今の私はただのマーキュリーよ。


   ……目が笑ってないぞ。


   とてもにこやかだと思うのだけれど。


   く、口はな……少しだけ、不自然なような気もしなくはないが。


   報告書、待っているわ。


   ほ、報告書が必要なのか?


   当然でしょう?


   だ、だったら、お前の目で


   事の始まりから終わりに掛けて、時系列で詳しく記すこと。


   見た方が良い、其の方が良い。
   な、然うしよう。お前が来て呉れれば、ちびも喜ぶ。


   嫌よ。


   ど、どうしてだい?
   あたしの報告書なんぞよりも、


   其の方が面白いから。


   ……然うか。


   分かって呉れたかしら?


   分かったけど……あたしは、食い下がることにする。


   しつこいわね。


   な、お前も来て呉れ。
   頼む、此の通りだ。


   忙しいの。


   其処を、其処をな?
   あたしに出来ることならなんでもするから。


   其れ、もう聞き飽きた。


   そ、然う言わず。


   何百年聞かされていると思っているの?


   数え切れない程、此れから先も言うと


   あ。


   あ?


   転んだわ。


   どっちが?!


   あなたの子。


   然うか、なら大丈夫だ。


   良いの?


   転んだだけなら、問題ない。
   どうせ、笑っているだろう?


   いいえ、笑っていないわ。


   ……あ?


   どちらかと言うと、泣いているけれど。


   はぁ、なんで?


   若しかしたら、打ち所が


   おい、ちび!


   ……。


   どうした、何があった? 転んだ? そんなのは見れば分かる。
   何処を打った? 頭? どれ、見せてみろ……あー、血が出ているな。
   もう、泣くな。こんなのは大した傷じゃない。大丈夫、大丈夫だ。


   ……過保護。


   念の為、マーキュリーに診て貰おうな。
   そっちは大丈夫か? 然うか、良かった。


   ……仕方ないわね。


   追い掛けっこをしていて、こいつが勝手に転んだんだな。うん、お前は気にしなくて良い。
   心配して呉れているのか? お前は優しいな。ほらちび、こういう時はなんて言うんだ?
   うー、じゃない。いい加減、其れ位の言葉は覚えろ。


   ……言葉を覚えるのが遅い、聞くことが足りていないのかしら。


   良いか、お礼の言葉はとても大事なんだぞ。此れから生きていくのに、マーキュリーに何度言うことになるか。
   其れこそ、数え切れないくらいだ。おい、聞いているのか。そっぽを向くな、ひとの話を聞け。


   ……やっぱり、そっくりね。


   あたしが今から言うから、よぉく聞いてろ……て、おい、だからそっぽを向くな。
   マーキュリーのちびが気になるのは良く分かるが、今はあたしの……あー、ほんとに言うことを聞かないちびだな!


   ……はぁ。


   あ、り、が、と、う、だ。ほら、言ってみ……あー、じゃない。
   もう一度言うぞ。あ、り、が……いや、だからだな!?


   ……埒が明かないわね。


   はぁ……ん、なんだ? 代わりに教えて呉れるのか?
   ありがとうな。じゃあ、宜しく頼む。


   ……。


   ……うん?


   へぇ……。


   お前、あたしの言うことは聞かないくせに、マーキュリーとちびの言うことは本当に良く聞くな!
   たく、あっさり言いやがって! 今までのあたしはなんだったんだ!


   ……ふふ。


   まぁ、良い。どうせだから、あたしにも言って……おーい、お前って奴は本当に。
   なんだ、其のぷいって。顔の動きがまさにぷいって感じだったぞ、生意気だな。


   ……飽きないわね。


   はぁ……まぁ、良いや。傷は取り敢えず、マーキュリーに診て……喜ぶな、血が出てるんだぞ。
   ほら、マーキュリーのちびも心配している。ありがとう? 本当にあっさりだな!


   ……。


   え、何? ちょっと前から言ってた? 本当か、其れ?
   あー、其れを早く言って……あ、いや、怒っているわけじゃない。
   決して、あたしは怒ってないぞ。教えて呉れてありがとうな。


   ……そろそろ、呼び名が必要ね。


   良し、行くか。
   マーキュリー、ちょっと診てやって欲しいんだけど。


   仕方ないわね、良いわよ。


   応、済まな……あ? なんだ? 肩に乗せろ?
   だめだ、自分で歩けるなら……て、走るな! また転んだらどうするんだ!


   ……本当、面白い。


   はぁ……まぁ、走れる元気があれば良いか。
   お前はあたしと行こうか……うん、良い子だな。


   転んで怪我をしたのね。どれ、診せて……うん、お腹が空いた?
   じゃあ、あのひとにごはんを作って貰おうかしらね。ええ、いっぱい食べて。


   おー、任せろ。いっぱい作ってやるから、いっぱい食え。
   但し、吐かない程度にな。食ったら、昼寝でもしろ。


   来たわね。


   応、来た。
   お前んとこのちびは無事だ。


   然う、あなたは転ばなかったのね。
   良かったわ。


   ……お。


   此の子の傷は大したことないわ。
   大袈裟に血が出ただけ。


   中身は大丈夫そうか?
   此れ以上、物覚えが悪くなったら困る。


   問題ないわ。


   然うか、良かった。


   水で洗って、綿紗で抑える。浅いから縫う必要はないわ。
   綿紗で抑えたら、止血。まぁ、直ぐに止まるでしょう。


   今、やって呉れるか。


   ええ、今やるわ。


   頼む。


   はぁ……我が体内を巡る、水気よ。
   我の、指先に……。


   良いか、じっとしていろよ……。


   ……。


   ……良し、良い子だ。


   ……。


   ……流石だ。


   うん……此れで良いわ。


   あとは、綿紗だな。


   抑えてみて。


   ……うん?


   大丈夫よ、あなたでも此れくらいならば出来るわ。


   やらせるのか?


   ええ、良い機会だから。


   ん、然うか。


   抑え方は知っているでしょう。大丈夫、ゆっくり抑えれば良い。
   あなたも血が止まるまで、待っていて呉れるでしょう? うん、良い子ね。


   ……マーキュリーの言うことは、聞くんだよな。


   あなたにそっくりね。


   ……ジュピターのたまごだから。


   さぁ、臆さずやってみなさい。
   心配しないで、私が傍に居るわ。


  12日





   はぁ……どうやら、良く寝てるようだな。


   ……間違っても、起こさないで。


   起こさないよ……出来れば此のまま、明日の朝まで大人しく寝てて欲しいと思ってるんだ。


   ……夜泣きはするかも知れないわ。


   いや、今夜は大人しく寝てて呉れ……。


   ……珍しく、疲れているわね。


   気にして呉れるか……?


   いえ、別に。


   ……此処の所、寝不足なんだ。


   然う。


   ……昼寝の時は、起きないんだけどな。


   良く寝る子よね。


   良く食って、良く動いて、良く寝るちびだよ……。


   ……まぁ、悪いことではないわ。


   今夜はお前んとこのちびも一緒だし、大丈夫だと思いたい。


   ……然うだと良いわね。


   いや、屹度大丈夫だ……こいつ、お前んとこのちびと一緒だと全く起きないから。


   ……構うから、駄目なのよ。


   構うって?


   ……夜泣き。


   然うは言ってもだな、夜中にべぇべぇ泣かれてみろ……流石に、構うだろ。


   無駄に構うから、泣けば構って貰えると学習してしまうの。
   放っておけば泣いたところで無駄だと学習する、然うすれば夜泣きなんてしなくなるわ。


   お前んとこのちびは然うだったのか。


   ……ええ、然うよ。


   寝るまで、付き合ってやらなかったのか。


   ……。


   ほんの少しだけでも、構ってやらなかったのか。


   ……然うだと言ったら。


   若しかしたら、不安で泣いていたのかも知れないじゃないか。


   慣れの問題。


   或いは、躰の何処かが悪くて泣いていたのかも知れない。
   例えば、腹が痛いとか気持ちが悪いとかさ。マーキュリーのたまごなら、頭が痛いってことも有り得るだろ?


   ……一応、診察はしたわ。


   問題はなかったのか?
   何一つ?


   然うよ、だから放っておいたの。


   ……せめて、あやしてやるとか。


   好きなだけ泣けば、ある程度の所で力尽きて眠る。成体だって、何処かで力尽きるの。
   だから、体力がろくについていない幼体がずっと泣き続けるなんてことは不可能なのよ。


   其れは、然うかも知れないが。


   あなたの子は体力があるでしょうから、なかなか力尽きないかも知れないけれど。


   ……下手したら、朝まで泣き続けるかもな。


   泣くことで少しでも体力がついて呉れたらと思っていたのだけれど、考えているようにはいかないわ。


   ……。


   其のうち、夜泣きはぴたりと止まった。
   ちゃんと学習出来たのでしょうね。


   構わずに放置しておいて、朝になったら壊れて動かなくなっていたなんてあたしは嫌だぞ。
   然うなってしまったら、取り返しがつかない。お前に診せたところで治らないんだ。


   だから、診察はしたと言っているでしょう。全く構わなかったわけではないの。
   大体、守護神のたまごがそんなにやわなわけがない。現に、うちの子は問題なく其の時期を過ぎたわ。


   お前は構わな過ぎる。


   あなたは構い過ぎ。


   お前がちゃんと構ってやらないから、あたしがちびを連れて来るまで目が虚ろなままだったんだ。
   あたしが何かしようとすると、勝手なことはするなって言うしさ。いや、するだろ。放っておけないだろ、未だちびなんだから。


   莫迦が伝染したら困るの。


   だからって放置は駄目だ、心が育たない。
   お勉強やら作法やらが出来たところで、心が伴っていなければ意味がない。


   意味がないとは言えないわね。


   いや、言えるな。


   心なんて……そんなもの、本当はない方が良いのよ。


   良いわけあるか。
   心がなければ、ただの都合の良い人形(ひとかた)になってしまうだろ。


   けれど、余計なことで苦しまなくて良いわ。


   余計なことって、お前。


   ……煩わしいでしょう、好きとか愛とかは。


   む。


   ……心から生じる感情なんて、煩わしいだけ。


   其の煩わしさが、お前は都合の良い人形ではないという証明になる。


   ……。


   お前をひとのこたらしめるのは、其の煩わしさがあるからなんだ。


   たらしめる、なんて……意味、ちゃんと分かっているのかしら。


   分かってるよ、つまりお前はあたしの大事なマーキュリーってことだ。


   ……話にならないわね。


   お前が月にとって都合の良い人形だったら……。


   ……私は、ひとりで居られた。


   其れでも、あたしはお前と一緒に居た。ひとりには、決してしない。
   放っておいたら、良いように使われるだけの人形のままだ。そんなことは、赦せない。


   ……本当、煩わしいわね。


   ははは。


   ……私はもう、手遅れ。


   手遅れ?


   長く、ひとのこで居過ぎた……今更、人形にはなれない。


   ならなくて良い。
   そんな必要はない。


   ……だから、此の子は。


   だから……此の子の心を育てようとしないのか。


   ……。


   然うなのか。


   ……はぁ。


   若しも然うならば、あたしがちびと一緒に。


   ……分からないのよ。


   分からない?
   何が、分からない?


   ……私は、気付いた時には、月宮にひとりで居た。


   ……。


   孵卵器から出されて、暫くの間、私はひとりだった。一応、ヴィナとマーズが気に掛けては呉れたらしいけれど。
   だけど、マーキュリーのことは誰も教えては呉れない。何故なら、誰ひとり私に教えることが出来ないから。
   だから、私はひとりで学習するしかなかった。兎に角知識を頭に詰めて、詰める為にひたすら部屋に籠り続けて。
   幸い、先代が遺して呉れたものが多くあったから良かったけれど……なかったら、私は壊れていたかも知れないわ。


   ……歴代のマーキュリーが遺して呉れたものもあったんだろう。


   ええ、あったわ……でもね、最初は文字すら読めなかったのよ。


   ……。


   本来ならば、孵卵器の中で学ぶこと……でも、私は不完全なまま外に出されてしまった。
   他にも居たのに、何故私が選ばれたのか……まぁ、其の時の私はそんなことすら考えられなかったけれど。


   ……お前が、選ばれたのは。


   後で調べたら私以外のたまごは欠陥品ばかりで、良くて部品にしかならなかった。
   管理し育む者が中途半端なまま、あっさりと壊れてしまったから……然うなると、マーズやヴィナではどうしようもない。


   ……だから、不完全でも外に出すしかなかった。


   初めのうちは、自我すらなかったらしいわ。あの子と同じように、ずっと虚ろな目をしていたと。
   此のままでは使い物にならないかも知れないと、当時のクイーンは考えていたみたいだけれど。


   ……処分される前に、気が付いた。


   残念ながら、器に意識が宿ってしまったのよ。


   ……良かったよ、宿って呉れて。


   私としては、其のまま処分された方が楽だった。
   自我が宿ってしまったばかりに……マーキュリーなんて、やらされて。


   ……。


   其れからは必死だったわ、マーキュリーとして生きていく為にね。
   其の頃の私は、とてもじゃないけれど、心どころではなかったの。


   ……お前の中にも、心の種はちゃんと在ったんだ。


   芽吹くことなく、ずっと種のままで良かったんだけれど。


   ……芽吹いて呉れたから、意識が宿ったのかも知れない。


   然うだとしても、其処までで良かったのよ。
   守護神マーキュリーとして生きるには、其れだけで十分だった。


   ……。


   けれど、誰かのせいで。


   ……誰だろうな、其れは。


   然うこうしているうちにやかましいたまごが来て、私はひとりではなくなってしまった。
   何かと口実を作っては、其れは私に付き纏って。部屋にはしょっちゅう、押し入られて。要らないと言っているのに、食事を取らされて。


   ……なかなかだな、其のたまごは。


   番とも言えるジュピターが居ることは、誰にも教わらずとも理解していたけれど……まさか、自分のジュピターがこんなに莫迦だなんて。


   お前には、あたしみたいなのが丁度良かったんだよ。


   幾らなんでも、莫迦過ぎる。
   ひとの話は聞かない、直ぐに忘れる、字は汚い、文ひとつまともに書けない、何よりもしつこい。


   おまけに、顔の区別がつかない。
   お前以外の者は、皆、同じに見える。


   莫迦のひとつ覚えのように、私の名前を呼ぶのよ。
   思ったわ、あなたは欠陥品なのではないかと。


   欠陥品ではなく、お前と同じ、不完全なだけだった。


   ……。


   まぁ、あたしの場合は、残ってしまったけれどな。
   未だに、お前とちび達以外の顔の区別がつかないよ。


   ……物覚えも、悪いまま。


   だけど、お前……と今では、ちび達のことも忘れない。


   厄介。


   然う考えるとやっぱり、お前にはあたしで良かったんだ。


   どう考えると然うなるのよ。


   不完全同士でお似合いだろう、あたし達は。


   は。


   あたしは。


   ……。


   お前と同じように、気が付いたら月宮の中に居た。
   マーズ、或いはヴィナらしき者が何か言っていたけれど、耳に入ってこなかった。
   ま、入ったところで理解は出来なかったけどな。


   ……然うでしょうね。


   あたしの頭の中にはたったひとり、マーキュリーだけが居たんだ。


   ……。


   だから、あたしは探した。毎日、毎日、探して。居ないわけがないんだ、あたしが居るのだから。
   だけど、幾ら探しても見つからない。月宮の中、何処を探してもお前は居なかった。


   ……見つかるわけないわ。


   然う、探したところで見つかるわけがない。
   だってお前は、ずっと部屋に籠っていたんだからな。


   ……良かったわ、部屋まで来なくて。


   外までは行ったんだ、でも反応がなかったから。


   ……。


   今思えば、反応がないのなら無理にでも中に入って確かめ


   そんなことをされたら、私は一生あなたを赦さなかったでしょうね。


   ……うん、しなくて良かった。


   ……。


   ……マーキュリー。


   其の日はたまたま、外に出ていた。
   外の空気が吸いたかったのか、誰かに呼ばれたのか……今となってはもう、どうでも良いこと。


   見つけた時は、嬉しかったよ。やっとあたしのマーキュリーを見つけたって。
   此れからはふたりで


   ところで。


   ……は?


   あなたがどうやって言葉を覚えたのか、未だに腑に落ちていないのよね。


   ことば?


   私を見つけた時には覚えていたでしょう。


   あぁ、然うだったな。


   ヴィナとマーズが話し掛けても、ろくに反応しなかったと聞いたわ。
   だから未だ、言葉を覚えていないのだと彼女達は考えていた……其れなのに、私には。


   多分、マーキュリーを探し回っているうちに覚えたんだと思う。
   ヴィナとマーズに反応しなかったのは、ふたりがマーキュリーではなかったからだ。


   ……やっぱり腑に落ちない。


   良かったよ、おかげでお前と話すことが出来たんだからな。


   学習もろくにしていなかったようだし、物覚えも悪いし、どう考えても覚えられるわけがない。


   然う言われても、気付いたらお前と当たり前のように話していたからな。
   然ういや、お前のことなら聞くことも出来たぞ。知らないって、言われたけどな。


   ……聞かれたヴィナとマーズは、驚いたでしょうね。


   あはは、然うかもなぁ。


   全くもって、意味が分からない。


   お前は周りの声を聞いて、言葉を覚えたんだったな。
   あたしも屹度、然うだよ。他にはない。


   ……。


   けど、沢山言葉を覚えられたのは、お前のおかげだ。
   お前が居なければ、今のあたしは居なかっただろう。


   ……あなたはいつ、自我が宿ったの。


   んー、いつだろうな。
   気が付いたら、あたしだったから。


   ……其ればかりね。


   応、たまごの頃のあたしは其ればかりだ。


   ……何も、考えていない。


   いや、マーキュリーのことだけを考えていたんだ。


   ……心は。


   心?


   ……心の種は、いつ。


   其れも、気付いたら、だ。


   ……。


   ん、マーキュリー?


   ……此の子も、然うなのかしらね。


   ちびか……?


   ……来た時にはもう、にこにことしていて。


   良かったよ……懐いて呉れて。


   ……ジュピターは、良いわね。


   然うか……?


   ……。


   マーキュリー……。


   ……私は、此の子をどう育てれば良いか分からない。


   ……。


   育てられたことなんて、ないから。


   ……取り敢えず、気に掛けてやれば良いんじゃないか。


   気に掛ける……?


   少しずつで良い……構ってやるんだ。


   ……あなたが私にしたように?


   お前が然うしたいなら


   御免被るわ。


   ……なら、お前がしたいように。


   ……。


   然うすれば……心は育つよ。


   ……だと、良いけれど。


   此れからは、勉強以外のことも構ってやると良い。
   夜泣きはもう、しないかも知れないが。飯を一緒に食うのも良いぞ。
   でも、本を読むのは駄目だ。ちびを良く見て、話し掛けてやらないと。


   ……癪だわ。


   ん、然うか?


   ……あなたに預けて、莫迦になったら嫌だし。


   んん?


   ……まぁ、やってみるわ。


   応。


   ……。


   あたしに出来ることがあったら、なんでも言って呉れ。


   取り敢えず。


   お、早速か? なんだ?
   なんでも言って呉れ。


   あなたの子にも勉強を


   其れは、無理だな!


   声が大きい、子供達を起こしたいの。


   ……其れは、無理だな。


   分かってる、此の子の勉強は私が見るわ。


   あぁ、然ういうことか。


   あなたは、食事を作って。


   応、任せろ。其れなら得意だ。
   明日の朝は何が食いたいか、寝るまでに考えておいて呉れ。


   其れと。


   其れと?


   此の子と同じように、遊んであげて。


   遊ぶ?
   遊んでも良いのか。


   今の此の子には体力がない、だから。


   分かった、遊びの中で体力をつけるんだな。
   良し、明日から一緒に遊ぼう。ちびも喜ぶ。


   莫迦は伝染させないでね。


   はは、気を付ける。


   ……。


   ……良く、眠っているな。


   ええ……然うね。


   ……此のまま、朝まで。


   然うだと、良いけれど。


   ちびはさ、声がでかいから、隣で泣かれたら寝られないんだ。
   だから、どうにかしてあやしてやらないといけない。


   そろそろひとりで寝かせたら良いでしょう。
   どこまでも過保護なのよ、あなた。


   其れも考えたが、もう少しだけ我慢してやろうと思う。


   ……何故?


   今だけだから、だ。


   ……何よ、其れ。


   ん、何だろうな……。


   ……。


   ……お前も、たまには一緒に寝てやれ。


   今だけ?


   あぁ……今だけ。


   ……考えておくわ。


   考えているうちに、でかくなってしまうぞ……。


   ……。


   ……明日は、何して遊ぶかな。


   怪我だけはさせないでね。


   ……うん?


   あと、乱暴な遊びはしないで。


   ……お前。


   ジュピターと違ってマーキュリーは頑丈ではないの。


   ……なかなか、過保護だな?


   どこが?
   当たり前のことでしょう。


   ……ふ。


   何。


   いや、然うだなと思って。


   ……。


   さて、あたし達も寝る支度をするか。


   あなたは外で。


   いや、お前と一緒に。


   邪魔。


   良いだろう、久しぶりなんだ。


   ならば、此の子達の傍で。


   折角ふたりで寝ているんだ、あたしは居ない方が良いだろう?


   夜泣きをしたら?


   其の時は、あやしに来るさ。
   お前は其のまま寝てて呉れ。


   ……。


   寝かしつけたら、またお前のところに。


   ……戻らなくても、良いわ。


  11日





  -For Twenty Years(前世・少年期)





   うー……。


   ……。


   ほんじつもまた、いろいろあったが、めいろうかったつに、すごせたとおもう。
   あすは、ちょうさのともをするということで、いまから、おちつかないでいる。しごとといえども、やはり、うれしいものなのだ。
   かなうことならば、すこしでもきょりを……いや、あせらずにまいろう。では、またあすに。


   ……ユゥ。


   めいろう、かったつ……て、なに。


   ユゥ。


   ……え?


   こんにちは、ユゥ。


   ……メル?


   今、良い?


   うん、良いよ……。


   ……良かった。


   来て呉れたの……?


   うん……先生がね、今日はユゥと一緒にお勉強しなさいって。


   然うなんだ……。


   あの……一緒にお勉強しても、良い?


   うん、一緒にしよう……あ、でも。


   ……やっぱり、一緒は嫌?


   嫌じゃない、嫌なわけない……でも、メル。


   なぁに……。


   あたしが居たら、お勉強の邪魔にならない……?
   最近はずっと、難しいお勉強をしているし……だから、なかなか逢えないし。


   ううん……邪魔じゃないわ。


   ……。


   あまり、逢えなかったから……嬉しい。


   メル……あたしも、嬉しい。


   ……うん。


   ふふ、嬉しいなぁ……。


   ……あのね、ユゥ。


   ん、なぁに……?


   ……お勉強は勿論、するのだけれど。


   うん……。


   ……休息も、大事だから。


   きゅうそく……。


   ……ん。


   然うだね……休むのも、大事だ。


   ……ユゥは、本を読んでいたの?


   ううん……日記。


   あぁ、ジュピターの?


   うん……先生に、全部読むようにって言われて。


   課題?


   とりあえず、読むだけで良いって言われた。


   書き取りもしない?


   うん……でも、ただ読んでるだけだと眠くなっちゃうから、気になった言葉や文章を書き写したり読み上げたりしてる。
   書き写せば文字を書く練習になるし、読めば言葉の発音の練習になるから。


   然う……。


   ……ね、メル。


   なに?


   あのね……メルが来て呉れて、良かった。


   若しかして、ユゥ……眠たい?


   うん……目がしょぼしょぼするんだ。
   全部が面白くないわけじゃないんだけどさ……大体、淡々としているから。


   ……鍛錬の後だと、余計に眠くなってしまう。


   然うなんだ……だけど、いっぱいあるから読まないと進まないし。
   進まないと、決められた日までに読み終わらないし……。


   一日、どれくらい読んでいるの?


   百頁くらい……かな。


   百頁……。


   うん……それくらい読まないと、終わらないんだ。


   ……今のユゥには、少し。


   然うだ、マーキュリーの名前も出てきたよ。
   マーキュリーの名前が出てくると、一瞬、目が覚めるんだ。


   ……いつ頃のジュピターの日記なの?


   んと……師匠の前の、前?


   ということは、三代前のジュピターかしら。


   日記……全部で五十冊あるんだ。


   なら、三代前のジュピターだわ。三代前が綴った日記は端的で読み易いの。
   文献として見るには少し物足りないけれど、読むことには適している。


   でも、言葉と文章が難しい……おまけに、冊数がいっぱいあるだろ。
   あたし、読み終えることが出来るかな……出来なかったら、叱られるかな。


   正当な理由があれば、叱られはしないと思うけど……。


   ……正当な、理由。


   ユゥは厳しい鍛錬もしているし、家事もこなしているわ。
   だから、どうしても読み進められない日だってあると思うの。


   ……。


   若しも読み終わりそうになかったら、先生に正直に伝えた方が良いと思う。
   若しかしたら、期日を先にして呉れるかも知れないから。だけど、嘘だけは吐いてはだめ。


   うん、嘘は吐かない……苦手なんだ、あたし。


   ……。


   ん……メル。


   ……眠気覚ましに、何か飲む?


   うん、飲みたい……メルが淹れて呉れたお茶が飲みたい。


   ん、分かった……少し、待っていてね。


   へへ……うん、読みながら待ってる。


   ん。


   ……ふぅ。


   今読んでいる日記は、何冊目なの?


   えと、ね……やっと、五冊目。


   じゃあ、もう千二百頁も読んでいるのね。


   ん……内容はあまり、と言うより、ほとんど憶えてないけど。


   飛ばさずに、読んでる?


   読んでる……途中で眠くなっちゃった時は、少し前に戻ってまた読み直すんだ。
   でないと、読んだことにはならないと思うから……。


   ……。


   ん、なに……?


   ……ねぇ、ユゥ。


   なぁに、メル……。


   ……ユゥも少し、休まない?


   え……?


   ……休息は、大事だから。


   でも、あたしは……休んでいたら、読み終わらないと思うから。


   今のユゥは、大分無理をしていると思うの……。


   ……無理?


   ん……だから、少しお休みした方が良いと思う。


   ……けど。


   したく、ない……?


   ……したく、ない。


   然う……ごめんなさい、余計なことを言って。


   ……なんて、言えないよ。


   ……。


   ……お休みしたい、メルと。


   じゃあ……一緒に、ね?


   ……良いのかな、しても。


   ユゥ……これを、見て。


   ……どれ。


   これ……。


   ……。


   先生が、持たせて呉れたの……ユゥと飲むようにって。


   これ……お茶の葉?


   ん……目の疲れに良いんだって。


   若しかして……薬茶?


   ううん、違うわ……でも、然う思うわよね。
   先生が持たせて呉れたなんて言ったら。


   う、うん……。


   このお茶は、お師匠さんが先生の為に育てたお茶の葉……。


   ……薬草では、ない?


   うん……薬草ではないわ。


   そっかぁ……あぁ、良かった。


   ……確かに、薬茶にも眠気を解消して呉れるものはあるけれど。


   そ、然うだよね……あったよね、然ういうの。


   ふふ……。


   め、メル……。


   ……大丈夫、これは違うから。


   はぁ……どきどき、した。


   ……そんなに?


   うん……そんなに。


   ……ごめんなさい、どきどきさせてしまって。


   良いんだ……メルは屹度、美味しいお茶を淹れて呉れると思うから。


   ……。


   だろ……?


   ……若しも、美味しくなかったら。


   そんなことは、ないと思うけど……でも、然うだなぁ。
   若しも、美味しくなかったら……ふたりで、お昼寝しよう。


   ……お昼寝?


   然う……お昼寝。


   ……それって。


   それか……今日はもう、メルを帰さない。


   ……。


   なんて……そんなこと、先生が許して呉れるわけないよね。


   ……言われて、いるから。


   あたしとしては……その、帰したくないんだけど。


   ……今日は、帰らないと。


   ん、分かってる……帰る時は、送っていくよ。


   ……ううん、ひとりで。


   送りたいんだ……良いだろ?


   ユゥ……うん。


   ん、良かった。


   ……。


   ……そもそも、メルが美味しくないお茶を淹れるわけがないんだ。


   ところで、お師匠さんは……。


   ……師匠?


   何処かに出掛けているの?


   うん、メルが来る前に何処かに出掛けたよ。
   あたしはてっきり、先生のところに行ったのだと思ってたけど。


   私が家に居る時は来なかったの。


   じゃあ……メルが家から出る頃を見計らって、先生に会いに行ったのかも知れない。


   ……此処まで来るのに、お師匠さんの姿は見えなかったわ。


   師匠のことだから、メルには見つからないようにしてたんだよ。
   然ういうこと、直ぐにするんだ。


   ……然う。


   メル……?


   ……。


   若しかして、師匠に会いたかった?


   ん……最近は、あまり会えていないから。
   みんなでごはんを食べる機会も、ないし……。


   明日になれば、鍛錬で会えるよ。
   鍛錬なら、確実だ。


   然うなのだけれど……その鍛錬も、休みがちだし。


   明日も来られない……?


   ……うん。


   そっか……でもさ、メルは今、お勉強で忙しいから仕方ないよ。
   また来られるようになったら、一緒に鍛錬しよう。


   ……だからね、お師匠さんとも一緒にお茶が飲めたら、と思っていたの。


   ふぅん……でも、先生に会いに行っちゃったしなぁ。


   ……。


   あ、ごめん……。


   ……大丈夫、気にしていないから。


   ほ、本当にごめんよ……。


   ……ユゥも、気にしないで。


   メル……。


   ……ね、ユゥ。


   な、なに?


   ユゥは先生に会いたいと、思わないの。


   せ、先生に……?


   最近は、あまり会えていないでしょう?
   ユゥも鍛錬で忙しそうだし、先生からの課題もあるし。


   そ、そんなことは……。


   ……会っているの?


   う、ううん、あ、会ってない……さ、最近はずっと、鍛錬の後は家でジュピターの日記を読んでいるから。


   ……。


   ほ、本当だよ……。


   ……いつ、会ったの?


   えと、昨日かな。


   ……。


   あ。


   ……はぁ。


   ち、違うんだ、昨日は師匠に用が、だから先生が来て、少し師匠と話したら帰っちゃって、あたしはあまり、み、見掛けたぐらいで。


   ……先生と、何か話した?


   か、課題の進み具合を、少し。


   ……何か、言われた?


   その調子で、読み進めなさいって……。


   ……。


   メル……怒ってる?


   ……嘘吐き。


   う。


   ……。


   ご、ごめんよぅ……。


   ……。


   メル……あの。


   ……意図的ではないから。


   い、いと……?


   ……お師匠さんも、私が居る時に来て呉れれば良いのに。


   こ、今度、言っておくよ。
   メルが、会いたがってるって。


   ……。


   え、あれ……言わない方が、良い?


   嬉しいけど……良いの?


   うん?


   その……ユゥが居ないところで、会っても。


   ……。


   ユゥ……?


   ……言われてみたら、やだ。


   ……。


   メルの家で、あたしが居なかったら、あたしだけ居ないってことになるんだよね?


   うん……然うなるわ。


   やだ。


   ……。


   ……やだ。


   私も……いや。


   ……。


   だから……隠さないで。


   ……かくす。


   私が居ないところで、先生に会ったとしても。


   あ、あぁ……。


   ……隠される方が、いや。


   うん、分かった……ちゃんと、言う。


   ……約束。


   約束……。


   ……。


   ……ね、メル。


   なに、ユゥ……。


   ……あたしも行く。


   え……。


   ……師匠がメルに会いに行くなら、一緒に。


   来て呉れたら、嬉しいけど。


   然うだ、久しぶりにみんなでごはんを食べよう。
   あたしがメルと先生の好きなごはんを作って、三人で


   待って、ユゥ。


   へ?


   三人だと、お師匠さんが居ないわ。


   ……居た方が良い?


   居なかったら、お師匠さんに会えないわ……。


   あ、然うか。
   然うだった、然うだった。


   ……わざと、ではないのよね。


   ね、メル。
   メルのお勉強はいつ頃落ち着く?


   ん……。


   ……分からない?


   終わることは、ないから……でも、時間を作ることなら。


   出来そう?


   ……ん。


   じゃあ、今度……いつが良いかな。
   先生にも都合があるし、師匠はまぁ、いつも暇だから良いんだけど。


   ユゥは、大丈夫?


   あたし?
   あたしは、大丈夫だよ。


   私は、ジュピターの日記を読み終わってからの方が良いと思うの。


   え、どうして?


   一日でも読まない日があったら、その分を何処かで補わないといけなくなるから。


   おぎなう……あ。


   今は一日百頁、読んでいるのでしょう?


   ……一日、十頁増やしたら。


   十日は掛かってしまうわ……。


   ……十日、くらいなら。


   出来れば、遅れは早いうちに取り返した方が良いと……ずっとその速度で読めれば良いけれど、何があるか分からないでしょう?
   例えば、厳しい鍛錬で疲れてしまって、三十頁ぐらいしか読めない日もあるかも知れない。


   ……んん。


   それでも、大丈夫……?


   ……その日に向けて、読む頁数を増やせば。


   増やせる?


   みんなとごはんを食べる為なら、頑張って増やす。


   ……どうやって、頑張るの?


   寝台に持ち込んで寝る前に読むんだ、メルみたいにさ。


   ……それは、つまり。


   寝る時間を削れば


   それだけは、だめ。


   ……なんで?


   次の日の鍛錬に差支えが出てしまうから。


   少しくらいなら、削っても大丈夫だよ。


   ううん……だめ。


   メルと……その、遅くまで起きてる時もあるし。


   それは……その後、ぐっすりと眠るから。


   日記を読んだ後も、ぐっすり眠るよ。


   ……眠れる?


   ……。


   頭の中で、文字が踊ったりしない……?


   ……する。


   文章も、ぐるぐるしたりしない……?


   ……すごく、する。


   折角寝付けたとしても、夢で見るかも……。


   ……うん、最近見た。


   ……。


   ……止めておいた方が良いかな。


   寝台に持ち込むのは止めた方が良いと思う……。


   分かった……寝台には、持ち込まない。


   ……読む速度を上げられたら良いのだけれど。


   メルみたいには、読めないよぅ……。


   ……少しずつでも慣れてきたら、読めるようになるかも知れないわ。


   慣れてきたら……それ、先生も言っていたかも。


   この課題は、読むこと……読むことに、慣れる為だとしたら。


   ……慣れてくれば、速度を上げられるかも。


   今は、五冊目なのよね……?


   うん、五冊目。


   一冊目と比べたら、どう?


   ん……あんまり、変わらないと思う。
   眠くなっちゃう時もあるし……。


   ……十冊読んだら、違うかも知れない。


   十冊……?


   とりあえず、十冊目まで読んでみて。


   ん、分かった。


   それでね、出来る範囲で良いから、時間を計ってみて欲しいの。


   時間を?


   忘れなかったらで、良いから。


   分かった。
   読み始める時に時間を書いて、読み終わった時にまた書くよ。


   うん。


   良し、忘れないようにしないと……此処に書いておこう。


   私が来た時に、それを見せて。


   え、来て呉れるの?


   うん、また時間を作って。


   やった。


   ……本当は、ユゥにも。


   然うだ、メルの部屋で読むのはどうだろう?


   ……。


   メルのお勉強の邪魔はしないから、静かに読んでいるから。


   ……先生に、聞いてみる。


   うん、聞いてみて。


   ……然うなったら、嬉しい。


   あたしも、嬉しい。


   ……。


   ふふ……ふんっ。


   え、なに。


   メルと話していたら、目が覚めちゃった。


   ……然ういえば、私。


   うん?


   お茶を、淹れるんだった。


   ……忘れてた?


   うっかり……。


   メルにもそんなこと、あるんだ。


   ……あるわ、それくらい。


   へへ、そっか。


   ……今、淹れるね。


   ありがとう、メル。


   ……どういたしまして、ユゥ。


  10日





   ん……なに、メル。


   ……。


   ふふ、くすぐったいよ……。


   ……。


   躰なら、大丈夫だ……ゆっくり、したから。
   縫った所も、問題ない……血は出ていないし、痛みも感じない。


   ……千年。


   だから……もう少し休んだら、また。


   ……万年。


   うん……?


   私達は、ずっと……こんなことを、してきたのかしら。


   こんなこと……?


   ……ジュピターと、マーキュリーは。


   こんなことって……?


   ……先刻まで、私達がしていたこと。


   ……。


   ふたりで、ずっと……ずぅっと、繰り返して。


   ……然うだったら、良いなぁ。


   あなたには、関係ないのに?


   関係ないけど、然うだったら良いと思うんだ。


   ……遡っていけば、マーキュリー以外の者と心を重ねたジュピターは居たかも知れない。


   居るかな、そんなジュピター。


   分からないでしょう……実際のところなんて。


   んー、然うかなぁ……居ないと思うけどなぁ。


   心が在るということは、然ういうこともあるということなの。
   幾ら、然う造られているからって……然うなるとは、限らない。


   けど、あたしの中にある石からは感じられないよ。


   ……石。


   マーキュリーの中にもある、歴代の記録が詰まっている石。


   ……記録を確認することは出来ないわ。


   確認することは出来ないけれど、なんとなく然う感じるんだ。


   ……長い時の中で、組み込まれた因子に抗うかのように、ジュピター以外の者を好きになったマーキュリーは居たかも知れない。


   え。


   例えば、


   聞きたくない。


   ないとは、言えないでしょう。


   然うだとしても。


   其れに、今のあなたには関係ないわ。


   然う、だけど……其れでも、聞きたくない。


   ……関係ないのに。


   マーキュリーは、聞ける?


   ……聞けるわ、私のジュピターのことではないから。


   ……。


   例えば……ん。


   ……ごめん、出来れば聞きたくない。


   ……。


   ……嫌だ。


   分かった……もう、言わないわ。


   ……ねぇ。


   なぁに……?


   マーキュリーの中の石は、どうなの……ズピター以外の気配を、感じるの。


   ……ズピター?


   口が、回らなかった……。


   ……聞きたくないのに、聞くの?


   其れくらいなら……。


   ……感じると、言ったら?


   然う、なんだ……でも、心が在るのなら、然ういうことも。


   ……。


   じゃあ、其の時のジュピターはマーキュリーに想いが通じなくて……ひとり、だったのかな。


   ……其の時のジュピターは、他の者を好きになったとは思わないの?


   思わない……。


   ……あぁ、然う。


   此の話は、止めよう……なんだか、悲しくなってくる。


   ……。


   ……あたしには、関係ないとしても。


   分かった……もう、しない。


   ……うん。


   子供みたい……。


   ……今は、躰の大きい子供なんだ。


   今は……?


   ……もう暫くしたら、元に戻る。


   戻るも何も、あなたは元々子供みたいだけれど。


   ……マーキュリーの前だけだよ。


   然うであって欲しいわね……。


   ……然うであるよ。


   ふ、言葉がおかしなことになっているわ……。


   ……。


   ふふ……ねぇ、ジュピター。


   ……なに。


   仮令、想いが通じ合ったとしても。


   ……しても?


   中には、行為を一切しないふたりも居たかも知れない。


   ……。


   居ないとは、限らないでしょう?
   心の触れ合いだけで、満たされて。


   ……居たかも知れないけど、少ないんじゃないかな。


   どうして、然う思うの?


   大好きなマーキュリーには、触れたいと思う。


   ……あなたは、然うでしょうけど。


   先代も、先々代も然うだった。


   ……其の前のジュピターは。


   其の前のジュピターも、マーキュリーに触れたと思う。


   ……残されている日記には機械的な内容ばかりが記されていて、然ういった記述は見当たらなかったけれど。


   詳しくは、書いていないだけだよ。


   ……ならば、確証はないわね。


   行為の内容なんて、あたしだって書かない。


   ……書かないで。


   うん、書かない。


   ……。


   あたしさ、数えてみたことがあるんだ。


   ……何を?


   ジュピターの日記の中で、何回、マーキュリーの名前が出てくるか。


   ……わざわざ、数えたの?


   うん、数えた。


   ……どうして数えようと思ったの。


   なんとなく、数を数える練習に良いかなって思ったんだ。
   先々代の前のジュピターの文章は少し硬くて難しかったけど、一日長くて三行くらいの短文ばかりだったから数え易かった。


   何も、マーキュリーでなくても。
   他にも居たでしょう。


   あたしにとっては、マーキュリーが一番数え易いんだ。
   文章や言葉が幾ら難しくても、マーキュリーならすっと目に飛び込んでくるから。


   ……三代前のジュピターの日記は計五十冊、だったわよね。


   三代前?


   先々代の前のジュピター。


   あぁうん、其れ位だったと思う。


   ……一冊約三百頁、一頁あたり三十行。


   「今日は疲れた」とか、一言だけの日もあった。
   今も前も変わらないのかな、あたしも然う書く時があるし。


   ……其れで、マーキュリーは何回出てきたの。


   数え切れない程。


   ……二桁?


   ちゃんと数えたのは三桁まで、かな。四桁になった時、数えるのを止めたんだ。
   続きはまだまだあったんだけど、其処まででも凡その数は求まると思ったから。


   ……四桁になったのは、何冊目?


   一冊目。


   ……。


   一冊目の三分の二あたりだったかな。


   ……全五十冊の、凡その数は求められたの?


   先ずは一冊目の、残りの凡その数を除算して求める。其の数を数えた数に加算。更に日記の冊数を乗算。
   然うしたら、軽く五桁になったんだ。ね、数え切れないだろう?


   ……あくまでも、然うと仮定して。


   うん、あくまでも仮定の話。


   ……ひとりで計算出来たのね。


   ……。


   ジュピター?


   ……先生に、少し聞いた。


   ……。


   然うしたら、色々教えて呉れたんだけど……あ。


   ……私は、聞かれなかった。


   ほ、本当は、メルに聞きたかったんだけど……なんとなく、恥ずかしくて。


   ふぅん、然う……つまり、先代に聞くのは恥ずかしくなかったのね。


   う、うん……先生は、師匠のマーキュリーだし。


   ……別に、良いけれど。


   マーキュリーの名前を数えたいなんて言ったら……メルは、どう思った?


   ……。


   せ、先生は、笑っていたけど……其れも、あたしが先生のジュピターではないから。


   ……教えたとは、思うけど。


   けど……?


   ……。


   マーキュリー……?


   ……其れは、良いとして。


   あ、うん。


   二冊目以降は、減少したかも知れない。
   一冊目は、たまたま、多かったというだけで。


   一応、先生から出された課題で全部読んだけど、減ったような気はしなかったなぁ。
   寧ろ、増えていたような……毎日、マーキュリーのことを書いている頁もあったし。
   だから求めた数に、更に加算した方が良かったかも……ん?


   ……。


   あれ。


   ……何。


   マーキュリーは、三代前のジュピターの日記も読んだんだよね?
   機械的な内容と言っていたし……そもそも、メルが読んでいないわけないし。


   ……読んだわ。


   内容……まさか、憶えてない?


   ……機械的な内容は、大体、憶えている。


   じゃあ……二冊目以降、マーキュリーに関する記述は減っていた?


   ……。


   其処は、あまり憶えてない?


   ……残念ながら、思わない。


   ……。


   ……あなたの言う通り、一冊目よりも増えていた。


   なら、さ。


   ……。


   証拠としては十分だと思うんだ、其れだけマーキュリーの名前が出て来れば。


   ……仕事に関することも書かれていたし、確定することは。


   仕事のことだけじゃなかったよ。


   ……。


   「マーキュリーが愛おしい」、或いは、「マーキュリーの熱が堪らなく欲しい」。
   其れだけしか書かれていない日もあったんだ。多分、マーキュリーへの想いが溢れたんだと思う。
   其れで、其れしか書けなかった。其れ以上書いたら、躰の中の熱に浮かされて、止まらなくなってしまうかも知れないから。


   ……憶測、よね。


   憶測だけど……でも、マーキュリーに触れていないと考えるのは難しいのではないかな。


   ……マーキュリーがジュピターの想いに応えていなかった可能性も。


   「想いが通じた、泣きそうなくらいに嬉しい」。


   ……。


   と、書かれている日もあったよ。


   ……結構、憶えているのね。


   うん、とても印象的だったからさ。
   と言っても、思い出したのは今なんだけどね。


   ……。


   機械的な内容ばかりが続く中で、突然、感情が溢れたような文が出てくる。
   其の文だけ、浮いているように見えて……酷く、心を打たれたんだ。


   ……今まで、忘れていたのに。


   忘れていたけど、あたしの中からは消えていなかった。


   ……でも、マーキュリーに触れたとは限らないわ。


   「マーキュリーの熱が堪らなく欲しい」と書かれていたのに?


   ……通じ合ったけれど、行為はしなかった可能性も。


   んー……然うかなぁ。


   ……。


   熱が堪らなく欲しいということは……いや、マーキュリーが望まなかった?
   だとしたら、考えられなくはないけど……でも、其れは其れで辛いな。


   ……。


   ……?
   マーキュリー?


   ……分かっているわ。


   ん?


   ……ふたりは、とても仲睦まじかったと。


   其れは、何処に?


   ……当時のヴィーナスが残した記録の中に。


   ふふ、然うか。


   つまり……三代前のジュピターも、マーキュリーに触れていたと考えるのが妥当。


   うん。


   だけど……行為をしなくても、仲睦まじく居られるとは思うの。
   躰の中の熱は、他のことで発散して……。


   うん、然うだね。でもあたしはやっぱり、マーキュリーに触れたい。
   触れないでいるなんて、あたしには無理だ。だから生きている限り、許して貰える範囲で触れたい。


   然うね、あなたはね……許して貰える範囲というところがまた、あなたらしいわね。


   マーキュリーが嫌がることは、してはいけない。
   子供の頃に学んだ。もう、同じことはしない……ようにする。


   ……まぁ、極限の時もあるし。


   然ういうわけだからさ。


   ……どういうわけ。


   先代と先々代、其れから、其の前のジュピターも、マーキュリーに触れていた。
   其の前のマーキュリーも屹度、ジュピターに触れて呉れていた。其れで、良い?


   ……。


   不満?


   ……不満では、ないけれど。


   ……。


   私達は、千年の間……ずっと、然うしてきたのね。


   ……屹度、万年の間も。


   今も、然うしている……。


   ……もう、しない方が良い?


   ……。


   もう、したくない?


   ……そんなことは、言っていない。


   したくないのなら、言って欲しい。


   ……無理でしょう、あなたには。


   マーキュリーが嫌なら、


   私も。


   ん。


   ……私も、無理だもの。


   ……。


   ……躰、本当に大丈夫なのね。


   うん、大丈夫だよ……マーキュリーは、どう?


   ……明日のことを考えたら、もう、眠りたい。


   ん、そっか……分かった。


   ……あなたも、躰のことを考えたら休んだ方が良いわ。


   然うだよね……うん、然うする。


   ……また、やらなければならない仕事が待っているわ。


   たまには、休みが欲しいなぁ……マーキュリーと日がな一日、のんびりしたい。


   ……演習の報告書。


   はい……明日には、提出します。


   ……今回は、あなたの躰を考慮したけれど。


   明日中には、必ず出すから……あとは、推敲だけなんだ。


   ……待っているわ。


   うん、待ってて……。


   ……。


   ね、マーキュ……ううん、メル。


   ……なぁに、ユゥ。


   此の先の、千年も。


   ……。


   万年も……マーキュリーに、触れたい。


   ……あなたでは、ないのに?


   あたしでは、ないけど……。


   ……先のことは、其の時のふたりに任せれば良い。


   ん……メル。


   ……若しかしたら、行為を必要としないふたりが出てくるかも。


   む……。


   ……ふふ。


   まぁ……其の時のふたりに、任せよう。


   ……。


   ……然ういうわけで、おやすみ?


   ん、おやすみなさい……また、明日。


   ……あ、やっぱり。


   やっぱりって……?


   ……期待、ほんの少しだけ。


   ……。


   うん……今夜はもう、寝よう。


   ……眠れる?


   ……。


   ……ん?


   メル……。


   ……。


   ……あと、もういちどだけ。


   ほうこくしょ。


   ……。


   ……だしてくれなかったら、ゆるさない。


   わかってる……。


   ……。


   ……わかってる、から。


   ぁ……。


   ……ゆるして、ください。


   ……。


   ……ぅ。


   からだ……あしたのあさ、みるから。


   ……うん、みて。


   ……。


   ……すきだよ、メル。


   わたしもよ……ユゥ。


  9日





   マーキュリー。


   ……ジュピター。


   此処に居たのか。


   ……探しに来て呉れたの。


   いや、探してはいない。
   たまたま、通り掛かっただけだ。


   ……此処を通って、何処へ行くの。


   仕事を済ませに行く。


   ……此の先で、仕事をするの。


   然うだ。


   ……。


   でなければ、此処は通らない。
   だから、わざわざお前を探しに来たわけではない。


   ……然うよね、あなたが私を探しに来て呉れるわけないわよね。


   そんな時間、あたしにはない。
   あたしにはやるべきことがあるんだ。


   知ってる……あなたにはこんなことをしている暇なんて、何処にもないって。


   あぁ、全くもってない。


   ……あなたはいつだって然うだもの。


   だから、マーキュリー。


   ……私の為になんて。


   お前にだってあるだろう、しなければいけないことが。


   ……。


   其れなのに、こんな所で貴重な時間を潰していても良いのか。
   やらなければならない仕事だって、溜まっているんだろう。


   ……仕事、仕事って。


   お前がやらなければ、いつまで経っても


   だって、やりたくないんだもの。


   やりたくないで済むと思っているのか。


   思っているわ。


   何を莫迦なことを、済むわけがないだろう。


   ……仕方ないじゃない。


   何が仕方ないんだ。
   お前には守護神としての責任が


   守護神、守護神って。
   守護神である前に、私は私としての意思を持った、たったひとりの私なの。


   また、わけの分らぬ屁理屈を。


   やりたくないと思うことくらい、私の勝手でしょう。


   あぁ、良いさ。
   但し、思うくらいで済んでいればな。


   もう、放っておいて。


   あ?


   あなたにだけはとやかく言われたくないの、だから


   放っておけるかっ。


   ……っ。


   そもそも思うくらいで済んでいるのならば、お前はこんな所には居ないだろう。
   不満を抱えながらも、仕事をこなしている筈だ。なんせ、お前は優秀なマーキュリーなんだからな。


   ……ジュピター?


   いつものお前だったら仕事なんて面白くないもの、さっさと終わらせて、あたしに絡みに来ているに違いないんだ。
   したらば、あたしはこんな所までお前を迎えに来なくても良かった。いつも通りだったんだ。


   ……いつもより、話して呉れる。


   お前がやる気になれば、なって呉れれば、仕事なんざあっと言う間に終わる。
   終わらずとも、無駄に溜まることはない。分かっているのか、マーキュリー。


   ……分からないわ。


   兎も角、お前が溜めている仕事はお前にしか出来ない。
   首が回らなくなる前に、さっさと戻れ。今なら未だ、間に合うだろう。


   ……若しも此のまま戻らなかったら、私はどうなるかしら。


   どうしても、戻らないつもりか。
   いや、戻りたくないと言い張るつもりか。


   ……不要なものとして、やっぱり処分されてしまうと思う?


   此れしきのことで、処分はされない。
   クイーンは大らかで寛容な方だ、お前も知っているだろう。


   ……いっそのこと、処分されてしまえば良いのに。


   優秀なお前が、処分されるわけがない。
   マーズもヴィナも、そしてクイーンも、そんな選択はしない。


   あなたは?


   は?


   あなたは、どう?
   私は処分されるべき?


   ……。


   教えて。


   ……お前の代わりは、居ない。


   ううん、私の代わりは居るわ。
   若しかしたら次のマーキュリーは、私よりも


   言うな。


   ……。


   然ういうことを、軽々しく口にするな。


   ……だって、知りたいんだもの。


   答えならばもう言ったろう、代わりは居ないと。


   ……本当に居ない?


   三度も言わない。


   ……言って欲しいのに。


   はぁ。


   ……あなたは私に会うと、溜息ばかり。


   お前が、あたしを然うさせるんだ。


   ……私、居ない方が良い?


   そんなことは一言も言っていない。


   ……居た方が良い?


   どうして然うなる。


   やっぱり、居ない方が良いのでしょう?
   鬱陶しく、絡まれることもないし。


   ……。


   ねぇジュピター、教え


   お前が居なければ、月宮内の公務が滞る。
   ただ、其れだけだ。他にはない。


   ……しつこく、絡まれても。


   公務が滞ることなく進むのであれば、幾らお前に絡まれようとも、あたしは甘んじて受け入れる。
   あたしひとりが耐えれば良いだけならば、容易いことだ。


   ……然う。


   其れで。


   ……期待なんて。


   今度は、何が理由なんだ。


   ……。


   何があった。


   ……別に、何もない。


   何もないのに、こんな所で腐っているのか。


   ……別に良いじゃない。


   良くないと言っている。
   お前が仕事をしないことでマーズが困っているんだぞ。


   ……ヴィナが居るじゃない。


   あぁ然うだな、今まさに其のヴィナにも迷惑を掛けているよ。


   ……。


   クイーンだってお前のことを心配している。
   主に心配させるなど、四守護神としてあってはならぬことだ。


   ……申し訳御座いません、どうそ私を処分して頂きたく。


   マーキュリー。


   ……。


   言ったろう、お前の仕事はお前にしか出来ないと。
   直ぐに戻れ、戻って仕事を


   嫌。


   あぁ?


   ……マーキュリーの仕事なんて、もうしたくない。


   お前……。


   ……ジュピターは忙しいのでしょう、私の相手なんかしている暇はないのでしょう。


   全く、ない。


   ……。


   此れから戦果報告書……お前に提出する報告書を書かなければならないんだ。


   ……そんなもの。


   だから、こんな所でじめじめと腐っているお前の相手なんかしている暇は、ほんの少しだってない。


   ……生憎、提出したところで受け取る私が居ないわ。


   其れなら其れで構わない。


   ……無駄骨だとは思わないの。


   思わない。
   あたしはただ、あたしの仕事をするだけだ。


   ……。


   そもそも、守護神には下廻りが居る。故に、お前が受け取らずとも其の者が受け取って呉れる。
   取り敢えず、記録に残すことぐらいなら出来るだろう。なんせ、優秀なお前の下だからな。


   ……だったら、私なんか居なくても良いじゃない。


   然うは言っていない。


   ……言ったじゃない。


   言っていない。


   ……私には優秀な下が居るもの、私が居ないところで何等の問題もないわ。


   だが、最も優秀なのはお前だ。


   ……。


   いつも言っているだろう、私は優秀だと。


   ……知っているくせに。


   知らないよ、お前が優秀なマーキュリーであること以外は。


   ……また、マーキュリー。


   ほら、行くぞ。
   今なら一緒に


   ……行かない。


   未だ、言うか。


   ……あなたは、行かなくて良いの。


   ……。


   ……私を探しに来て呉れたわけではなく、ただ、通り掛かっただけなんでしょう。


   あぁ、分かった。もう行くことにする。
   こんなことをしている時間が勿体ない。


   ……さようなら、ジュピター。


   然うだな、暫くの間は会うことすらないだろう。


   ……そんなに忙しいの。


   報告書を書いたら、己の鍛錬、隊の訓練、下との手合せ。
   あたしにはジュピターとして、やらなければならないことがごまんとある。


   ……どうでも良いじゃない、ジュピターなんて。


   どうでも良くはない、其れがあたしの生きる意味なのだから。


   ……意味なら。


   いずれ、他の者が見つけて呉れるだろう。
   其れまで精々、ひとりで腐っていれば良い。


   ……やっぱり、行ってしまうのね。


   さようならと言ったのは、何処の誰だ。


   ……私よりも、守護神としての責務の方が大事なのね。


   当たり前だろう。


   ……。


   今日はもう、此処には来ない。


   ジュピター……。


   ……ヴィナかマーズに、伝えておく。


   止めて。


   ……。


   ……止めて、今はふたりと顔を合わせたくない。


   ならば、今直ぐ自分の部屋に戻れ。
   取り敢えず居場所さえ分かっていれば、マーズとヴィナだけなく、クイーンも余計な心配をせずに済む。


   ……どうせ、分かっているのに。


   マーキュリー。


   ……屹度、マーズあたりが小言を言いに来るわ。


   然うだとしても、受け入れろ。
   お前は今、マーキュリーとしての責任を放棄しているのだから。


   ……ヴィナとマーズは、私の心配なんて本当はしていないの。


   だとしたら、何だ。


   ……ふたりが気にしているのは、いつまで経っても片付かないマーキュリーの仕事だけよ。


   いい加減にしろ、マーキュリー。


   ……マーキュリーなんて、私の意志で選んだわけではないのに。


   ……。


   ……もう行って、あなたの邪魔はしたくないの。


   何かあったのなら。


   ……。


   話くらいは聞いてやろうと思ったが、こんな状態では。


   ……どうせ。


   マーズやヴィナに小言のひとつでも言われるようならば、一緒に聞いてやっても良かった。


   ……。


   クイーンに呼ばれるようなことがあるならば……付き添ってやることだって、吝かではなかった。


   ……其れ、本当?


   嘘は……苦手だ。


   やっぱり、傍に居て。


   ……。


   少しだけで良いの……私の傍に居て。


   ……マーキュリー。


   お願い……。


   ……此処を動く気はないのか。


   此処が良い……此処が、良いの。


   ……。


   ……かつてのジュピターが、マーキュリーの為に。


   気に入らないな。


   ……。


   此処は、あたしが作ったわけじゃない。


   ……でも、管理はしているわ。


   しているだけだ。


   気に入らないのなら、しなければ良いだけ。


   あたしの代で絶やしたら夢見が悪い。


   ……夢見?


   然うだ。


   ……。


   此処まで育って呉れた緑を絶やすのは、後味が悪いんだ。


   ……私は、気に入っているの。


   あたしは、気に入らない。


   ……ふふ。


   何だ。


   ……ね。


   だから、何だ。


   来て……ジュピター。


   ……どれくらい居れば良い。


   一刻……ううん、四半刻で良いの。


   ……。


   一緒に居て呉れたら、戻るから。


   ……本当に戻るんだな。


   うん……あなたと、一緒に。


   あたしは


   来て、早く。
   時間が勿体ないから。


   はぁ……分かった。


   ……。


   ……来たぞ。


   うん……嬉しい。


   ……其れで、何があったんだ。


   ……。


   ん……なんだ。


   ……話す前に、私に触れて。


   どうして然うなる。


   ……触れて欲しいから。


   そんなことをするのならば、


   傍に居て呉れるのでしょう?
   ジュピターは一度決めたことは、ちゃんと守って呉れるわ。


   ……。


   ……少しだけで、良いの。


   傍には居てやる……でも、触らせるな。


   ……どうしても、触って欲しいの。


   あたしの意思は……無視か。


   ……ごめんなさい。


   ……。


   ……だけど、私ではあなたの理性は崩せないから。


   感じる。


   ……え。


   お前の、命の鼓動。


   ……本当に、感じる?


   嘘は、苦手だ。


   ……ん、然うだった。


   ……。


   ……ねぇ、ジュピター。


   なんだ……マーキュリー。


   ……私、怖いの。


   ……。


   マーキュリーとして、生きることが……怖くて、堪らないの。


   ……お前だけではない。


   屹度、ひとりでは長く生きられないわ……千年どころか、たったの百年すらも。


   ……千年も生きたマーキュリーとジュピターなど居ない。


   ええ、然うね……だって、長過ぎるもの。


   ……百年くらい、生きろ。


   だから……あなたに、支えて欲しいの。


   ……マーズかヴィナでは、駄目なのか。


   ふたりでは、駄目なの……どうしても、駄目なの。


   ……。


   あなたが、好きなの……どうしようもなく、好きなの。


   ……分からないと。


   言われた……でも、諦められない。


   ……あたしには、心がない。


   ううん、あるわ……屹度、私と同じ場所に。


   ……同じ場所?


   今、あなたが触れている……触れて呉れている、其の奥に。


   ……あるようには、思えない。


   気付いていないだけ……。


   ……。


   私、私ね……あなたでないと、駄目なの。


   ……ジュピターとマーキュリー、だからか。


   ううん、其れだけじゃない……。


   ……然う、造られていると。


   然うだとしても……此の心は、あなたを求める心は、私だけのもの。


   ……。


   あなたと一緒なら……千年の時でも、屹度、生きていける。


   ……お前の心に、あたしは応えられないかも知れない。


   時間なら、あるわ……。


   ……。


   あるから……いつか、私を好きになって。


   ……なれなかったら。


   其の時は……あ。


   ……其の時は、お前は。


   ジュピ、ター……。


   ……。


   ……ん。


   ……。


   ……うれ、しい。


   何が、嬉しい……。


   だって……初めてなのよ。


   ……初めて?


   あなたと、口付け……。


   ……他の者と、しているだろう。


   して、いないわ……。


   ……聞いたぞ、他の者を誑かしていると。


   私、そんなことしていないわ……。


   ……火のない所に、煙は立たぬ。


   本当よ……本当なの、信じて。


   ……。


   あなた以外の者に、此の身を預けたいだなんて……一度だって、思ったことはないの。


   ……思っていなくても。


   お願い……信じて。


   ……。


   ねぇ、ジュピター……あなたが望んで呉れるのなら、今直ぐにでも。


   ……言うな。


   今直ぐにだって、此の身をあなたに……ん。


   言うなって、言っているだろう。


   ……。


   ……あたしは、こういうことは分からない。


   ん……知ってる。


   ……分かろうとも、思わない。


   ……。


   ずっと、分からないままかも知れぬ……。


   ……其れでも、良い。


   何が、良いんだ……。


   ……あなたが、私を抱いて呉れるなら。


   抱いて……。


   ……知らないのなら、教えてあげる。


   何を……。


   ……心の、重ね方。


   だから、あたしには心など……。


   ……なんて、私も本当は良く知らないの。


   は……。


   ……だから、ふたりで探りましょう?


   探るって……お前。


   ……ふたりだけの、やり方を。


   ……。


   取り敢えず……胸は、好き?


   ……は?


   私の胸は、そんなに大きく……小さくて、物足りないかも知れないけど、許してね。


   何を、言ってるんだ……胸の、大小など。


   ……気にならない?


   もう少し、肉を付けた方が良いとは思うが……。


   ……もっと食べるわ、努力する。


   いや、お前の躰は細過ぎるから……。


   ……ふくよかな方が、好み?


   言っていることが、さっぱり、分からない……。


   ……口付けは、知っていたのに。


   其れ、は……自分でも、分からない。


   ……ふふ、可愛いひと。


   か、かわいい……?


   ……ねぇ、直接触って。


   どこ、に……。


   ……胸に、乳房に。


   触って、どうする……。


   ……触って、欲しいの。


   誰か、来たら……。


   ……誰も、来ないわ。


   何を、言う……。


   ……だって、マーズかヴィナか分からないけれど、ひと払いをしていると思うから。


   な……。


   あなたはあくまでも、仕事で此処を通り掛かった……今は、其れで良いから。


   マーキュ……ん。


   ……。


   ……駄目だ、マーキュリー。


   なにが、だめ……?


   ……分からない、から。


   大丈夫……最初はみんな、分からないものだから。


   ……う。


   此れが、ふたりの……最初の、一歩。


   さいしょ、の……?


   ……然う、最初の。


   ……。


   ……ん、ん。


   マー、キュリー……。


   ねぇ……すこしは、やわらかい?


   ……いいたく、ない。


   そう……それなら、それでいい。


   ……。


   今はただ、私を感じて……。


   ……おまえ、を。


   然う、私だけを……感じて。


   ……おまえ、は。


   私も……あなただけを、感じるから。


  8日





   ……う。


   痛む?


   ……大丈夫、全然痛くないよ。


   然う……なら、良いけれど。


   ……ねぇ、マーキュリー。


   なに……ジュピター。


   ……え、と。


   やっぱり、痛いの?


   ……ちっとも、痛くないよ。


   ふぅん……。


   ……あのさ。


   動かないで。


   あ……うん、ごめん。


   ……其れで、なぁに。


   其の……疲れは、どう?


   万全とは、言えない。


   ……ん、そっか。


   だけど……眠る前よりは、ずっと良い。


   ……。


   ……顔、緩んだ。


   うん……つい。


   ……。


   あの……折れては、いないだろう?


   ……完全には折れていない、というだけ。


   掠り傷ばかりだと思うんだ。


   然うね……あなたにとっては、然うなのでしょうね。
   不全骨折でさえ、掠り傷と捉える。痛みがないわけではないのに。


   ……ひびくらいなら、直ぐに治るし。


   躰から離れていなければ、或いは命に係わらなければ、掠り傷の程度に収まる。
   思えば、先代も同じことを言っていたわ。だからジュピターの価値観なのよね、此れは。


   ……なんて言っていたっけ。


   例えば骨が二、三本折れていたとしても、外に飛び出したり、中のものに刺さっていなければただの掠り傷。
   其れくらいならば少し休んでいれば直ぐに治る、と。


   ……実際、無理しないでいれば三日くらいで治るからさ。


   治ってはいない、ただ骨がくっつくだけ。
   痛みや腫れ、関節の動きなどは全く考慮していない。


   ……躰を動かすのに差支えがなければ、取り敢えず、十分だから。


   「マーキュリー」にしてみれば、其れは全く十分だとは言えない。


   ……マーキュリーが、きちんと経過観察して呉れるし。


   経過観察で痛みや腫れが取れるわけではないし、関節の動きが良くなるわけでもない。


   ……けど、其のうち治るし。


   ジュピター。


   ……はい。


   潰れてしまえば、ジュピターの回復能力であっても完全治癒は不可能。
   躰から離れなかったとしても、掠り傷とは言えない傷は多くあるの。


   ……潰れても、元の通りに膨らんで呉れれば良いんだけどなぁ。


   ならば、空気でも入れてあげましょうか。


   空気?


   ジュピターの躰ならば、風球のように膨らむかも知れないわよ。


   ……多分、無理だと思います。


   ええ、無理よ。
   無理に決まっているでしょう、全く。


   ……マーキュリーが言ったのに。


   何。


   ……なんでもないです。


   はぁ。


   ……うっ。


   痛むのね。


   ……声が、つい。


   掠り傷なのに、声は漏れる。


   何と言うか……条件反射、かな。


   掠り傷と雖も痛いものは痛いと、素直に言えば良いの。


   ……うんと痛いわけではないし。


   かと言って、全く痛みがないわけではない。


   ……我慢出来ない程ではないから。


   強情なのか見栄なのか、私には分からないけれど……ジュピターも、マーキュリーに負けず劣らず、くだらない性質を抱えているわね。


   ……弱みを、見せるのは。


   他の者には見せられなくても、私には見せて良いの。
   と言うより、私にだけは見せて。でないと、分かるものも分からない。


   ……でも、格好悪いし。


   格好悪い?


   ……守護神になって、痛い痛いって言っていたら。


   ……。


   あう。


   子供の頃は、ちゃんと言って呉れたでしょう。
   たまに、つまらない意地は張っていたけれど。


   ……つまらない。


   痛いのならば痛いとちゃんと言って。
   言って呉れないと、正しい判断が出来ないこともあるのよ。


   ……マーキュリーなら、診るだけでも。


   私、先代と違って其処まで有能ではないの。


   ……メルは、先生と同じくらい優秀だよ。


   ……。


   ……うー。


   痛い?


   ……痛、くない。


   此処の切創を今から縫うわ。


   え。


   見た目通り、皮下組織の深さまで及んでいるから。


   ぬ、縫うの?
   な、なんで?


   だから、傷が深いから。


   縫わなくても、


   縫合することに依って傷口が閉じる、傷が閉じれば血は止まる。
   創感染も起こらず、治るまでの間、痛みも抑えられる。どう、分かった?


   此れくらいなら、何か貼っておけば


   あとは、何かの拍子でうっかり傷が開いてしまわないように。
   あなたの場合、此方が心配なのよ。


   ……創膏を貼ってじっとしていれば、そのうちくっつくよ。


   じっとしてればね。


   ……多分、夜までには。


   抜糸をする頃合いは、傷の様子を診て決める。
   まぁ、あなたのことだから……然うね、三日もあれば十分でしょう。


   ……でも。


   子供の頃に、何度も縫われたことがあるわよね。


   ……ある、けど。


   あなたは先代との手合せの度に傷を負って。私は其の度に、あなたの傷を治療する先代を見ていたの。
   簡単な手当てなら、私でも出来たけれど……傷の縫合は、先代の許可が下りるまでは出来なかった。
   だから、何度も何度も専用の人形で練習をしたわ。少しでも早く、あなたの治療が出来るようになる為にね。


   ……大体は、どれも掠り傷だったよ。


   額の傷から血を流し、頬は腫れ、口の端は切れて、其れでもにこにこと笑っているユゥを初めて見た時の私の気持ち、分かる?


   先生、曰く……目の上を切ると、大袈裟に血が出るんだって。


   ええ、然うね。
   だから?


   ……メルに会えるのが、嬉しかったから。


   ユゥが壊れてしまうって、心から思ったの。
   今思えば、大袈裟だけれどね。本当に幼かったわ。


   ……あたしを見て、悲鳴を上げていたね。


   自分でも吃驚したわ、まさかあんな声が自分から出るなんて。
   何事かと先代は部屋から出てくるし、あなたは吃驚して固まるし、其の後ろで先代も固まっているし。


   ……今は、先生と師匠の方が分かりやすいんじゃないかな。


   兎も角、然ういうことだから。


   ……良く分かんないけど


   分からないの?


   ……良く分かりました。


   麻酔は、どうする?
   一応、準備はしてあるけれど。


   ……大丈夫、要らないよ。


   要らないの?


   ……ん。


   あなたも知っている……憶えているとは思うけれど、其れなりの痛みは伴うわよ。


   ……痛いのは慣れているし。


   本当に、要らないのね。
   本当に、大丈夫なのね。


   ……そんなに、念を押さなくても。


   本当に良いの、ユゥ。


   ……お願いします、メル。


   最初から然う言えば良いのに。


   ……だって、縫うとは思わなかったんだ。


   確かに縫わなくても、此れくらいの傷ならば夜までには塞がっているでしょう。


   ……だろう?


   此の後、仕事は?


   ……ある。


   然うよね。


   ……だけど、躰はそんなに動かさないし。


   背伸びは?


   ……すると思う。


   躰を解す体操は?


   ……十中八九、すると思います。


   鍛錬は?


   ……軽く、しようと思っています。


   下との手合せは?


   ……出来るだけ、静かにしていようと思います。


   縫合するわ。
   其れから、骨の固定も。


   ……はい、お願いします。


   あなたがじっとしていて呉れれば、直ぐに終わるから。


   ……痛いよね。


   痛みを感じない為に、麻酔を打つの。


   いや……其の、麻酔が。


   ……。


   ……針を、刺すんだよね。


   安心して、ジュピター。


   ……痛くない?


   此の傷よりは、痛くない筈だから。
   ましてや、骨折や靭帯断裂に比べれば、蚊に刺されたようなものよ。


   ……「か」って、なに?


   青い星に生息する、生物の血を吸う昆虫。
   血を吸われると肌が腫れ、尚且つ、痒みも生じる。ひとのこも対象。


   ……うぇぇ。


   因みに、血を吸うのは雌だけ。何故なら、卵を産むから。
   従って、産卵しない雄は


   マ、マーキュリー。


   なぁに、もっと詳しく知りたい?


   えっ。


   中には感染症を媒介する蚊も居るわ。


   待って、マ


   蚊媒介感染症と言うのだけれど、其の中には厄介なことに、後遺症が残ったり死に至る病も含まれているの。
   青い星の医術の水準は、地域によって異なっていることはあなたも知っての通りなのだけれど、


   ……聞いた覚えが。


   後進地域では老人、或いは子供といった弱い者が感染すると


   そ、其の話。


   ん?


   あ、後で聞かせて貰っても良いかな。


   ……後で?


   う、うん。


   後でなら、聞きたいの?


   ……うん、聞きたい。


   然う、分かったわ。


   ……出来れば。


   出来れば?


   ……夜、寝台の中で。


   寝台の中で、こんな話を聞きたいの?
   ジュピターも


   やっぱり、寝台の中に入る前に。


   ……。


   ……一思いに、麻酔を打って貰っても良い?


   ええ……勿論、良いわ。


   ……でも、ちょっと待って。


   何?


   心の準備……うっ。


   ……じっとしていて、ね?


   メ、メル……。


   ……マーキュリー。


   マ、マーキュリー……。


   ……良い子ね、ジュピター。


   う、うん……ぐっ。


   ……。


   うー……。


   ……はい、此れで良し。


   もう、終わった……?


   終わったわ。
   ね、大した痛みではなかったでしょう?


   ……うん、ちくっとしただけだった。


   効いてくるまで、少し時間が必要だから。


   ……。


   そんなに落ち込むことかしら。
   麻酔なんかよりも、切創や骨折の方が余程痛いというのに。


   ……いまいち、麻酔には慣れないんだ。


   麻酔、今でも怖いの……?


   ……うん、少し。


   注射や点滴は、怖がらないのに……。


   ……痛みを感じなくなるのが、良く理解出来ないからだと思う。


   打たれる痛みよりも……其れが、怖い。


   ……うん。


   ……。


   ん……マーキュリー。


   ……可愛いひとね。


   ……。


   だめよ。


   ……未だ、何もしてないよ。


   未だ、ね。


   ……。


   ……思っていたよりは、酷くない。


   うん……。


   ……あなたの躰だから、完全には折れなかったとも言える。


   頑丈、だから……。


   並の……例えば水星の民だったら、確実に折れているわ。


   ……。


   加えて、他の箇所の骨もね……。


   ……其処まで?


   四つの民の中で……最も、躰がひ弱に出来ているから。


   ……。


   木星の民だったら、まぁ、二本か三本で済むかも知れないけれど。


   ……水星の民が、最後であるべきだ。


   ……。


   ヴィーナスよりも……そもそも、水星の民に戦は向いていない。


   ……そんなこと、言っていられないでしょう。


   ……。


   時間稼ぎくらいには、なるわ……ひ弱な民でもね。


   ……木星の民が、盾になる。


   ……。


   水星の民の……。


   ……いつも、なって呉れているわ。


   ……。


   ……ありがとう、ジュピター。


   マーキュリー……。


   ……まさか、一騎討ちになるとは思っていなかったけれど。


   引き摺り出してやったんだ……。


   ……乗ってくるとは、思わなかった。


   向こうにしてみれば、其れもひとつの遊びに過ぎないのかも知れない……。


   ……あなたの陣の方が、押していたように見えたわ。


   だからだ……だから、あいつはあたしの誘いに乗った。


   ……。


   力だったら……一対一だったら、あたしは誰にも負けない。


   ……だけど、此の傷。


   良いんだ……殴れたから。


   ……ふ。


   此れであいつも、あたし達を幼体扱いしてくることは止めるだろう。


   ……此の一騎討ちが、ただの遊びだったのなら。


   ……。


   ……依然として、私達は幼体扱いのままだと思う。


   もっと、殴れば良かった……?


   ……だめ。


   雷気も……。


   ……全力でないとは言え、使ったでしょう。


   ……。


   向こうも、気を使った……だからこそ、此処まで。


   ……大したこと、なかったよ。


   揃って。


   ……。


   代わりを迎えることになる、其れだけは避けたいの。
   いいえ、避けなければならない。


   其処までは、しないよ……。


   ……あなたの代わりは、要らないの。


   ……。


   兎も角……たかが演習如きで、四守護神のふたりが壊れたなんてことになったら前代未聞だから。


   あたしは、壊れない……あいつでは、あたしは壊せない。
   あたしは、ジュピター……四守護神の中で、最も頑丈に出来ているんだ。


   ……そろそろ。


   ん……。


   ……効いてきたかしら。


   然う、かも……。


   ……。


   ……ねぇ。


   今更、嫌なんて言わないでね。


   ……ううん、縫って。


   ……。


   ……今夜のことを考えたら、縫っておいた方が良いと思ったんだ。


   何を考えているの……?


   ……ゆっくり、するから。


   ……。


   ……骨も、折れてないし。


   ばかね……完全に折れているわけではないというだけよ。


  7日





   ……マーキュリー。


   ……。


   お疲れ様……少し、休んだらどうかな。


   ……いつ。


   結構、前から。


   ……然う。


   お茶を淹れたんだ……一緒に、飲もう。


   ……ありがとう、でも気持ちだけで。


   少しで良いんだ……其れだけでも、違うと思うから。


   ……。


   お願いだ、マーキュリー……頭痛が酷くなってしまう前に、どうか休んで欲しい。


   ……どうして、分かるの。


   分かるよ……こめかみを定期的に、指で押さえているから。
   マーキュリーは疲れが溜まると、こめかみの奥の方が痛くなる……子供の頃から、然うだった。


   ……。


   こめかめを定期的に押さえるのは、頭が痛い時のマーキュリーの癖だ。痛みが酷くなる程に、其の数は増える。
   見方によっては、考え込んでいるように見えなくもないけど……あたしは、知っているから。


   ……駄目ね。


   駄目ではないさ。


   ……あなたが傍に居たことさえ、気付かないなんて。


   其れだけ、集中していたんだろう……けど、そろそろ限界だと思うんだ。


   ……。


   どうぞ、マーキュリー。
   冷たくなってしまう前に、飲んで欲しい。


   ……良い香りね。


   息抜きが出来るように。


   ……はぁ。


   ……。


   ……今のあなたの顔、あんまり緩んでいないわね。


   ん……今は、難しいかも知れない。


   ……私と二人きりで、嬉しくないの。


   其れは、嬉しい……嬉しいけど、其れ以上に。


   ……心配が、勝る。


   眉を落としてるだろう……自分でも、分かるんだ。


   ……まぁ、眉間に皺がないだけ良いかも知れないわ。


   ……。


   ……あまり心配しないで、と、言ったところで。


   無理だよ……って、返す。


   ……。


   やっぱり、休まない……?


   ……ジュピター。


   なに……?


   ……目の奥が、凝っているような気がするの。


   ……。


   ……もう、休みたい。


   今夜は、もう休もう……ふたりで。


   ……けれど、出来ない。


   今のマーキュリーの状態は、万全とは言い難い。


   ……。


   作業効率を考えるのなら、万全の方が良い。今のままでは、効率は下がる一方だ。集中出来なければ、間違いだって増えるだろう。
   下手をすれば、まともな思考さえ出来なくなるかも知れない。然うなれば、時間ばかりが徒に過ぎていくことになる。
   失った時間は、取り戻せない。其れこそ、休んだ方が良かったとなったら目も当てられない。


   ……少し、休んだところで。


   万全には、ならないだろう……けれど、今の状態よりはずっと良い。


   ……。


   現に、返ってくる言葉が少ない……疲れと痛みで、頭が回っていない証拠だ。
   いつものマーキュリーだったら、もっと返ってくる……返して呉れる。


   ……ねぇ。


   なんだい……。


   ……あなたも、休んでいないでしょう。


   此の部屋に来て、休んでいたから。
   だから、マーキュリーよりは休んでいるよ。


   ……私のことは、放っておけないのね。


   当たり前さ……あたしは自分のことよりも、マーキュリーの方が大事なんだ。


   ……其れで若しも、あなたが倒れてしまったら。


   あたしは、倒れないよ。
   何があろうとも、マーキュリーを守るんだ。


   ……可能性は、全くないわけではないわ。


   ……。


   ……あくまでも、若しもの話よ。


   あたしが……若しも、倒れたら。


   ……其の時の私は、一体、どうなるでしょうね。


   ……。


   ……若しかしたら、先々代のようになるかも知れない。


   あ……。


   ……まぁ、ならないとは思うけれど。


   ならないで、欲しい。


   ……其れ、本音?


   マーキュリーが、生きていて呉れるなら……。


   ……嘘吐き。


   ……。


   ……嘘は、嫌いよ。


   ごめ、ん……。


   ……ふ。


   マーキュリー……?


   莫迦ね……此れくらいの言葉で、泣きそうになるなんて。


   ……どうしても、なってしまうんだ。


   知ってる……。


   ……。


   あなたは……私に嫌われることを、極端に恐れている。
   子供の頃の経験が、あなたを然うさせている……。


   ……自分が、悪いんだ。


   子供の頃は然うであっても……其の後のことは、私のせい。


   ……。


   疲れていると、特に然うよね……直ぐに、泣きそうになるの。


   ……でもね、マーキュリー。


   うん……?


   ……先々代のようにはなって欲しくないと、思う気持ちもあるんだ。


   ええ……分かっているわ。


   ……先々代も、同じ気持ちだったと思う。


   けど……ひとりでは、どうしても生きていられなかった。


   ……。


   ……マーキュリーってね、あまり強く出来ていないのよ。


   ジュピターも、然うだよ……。


   ……躰は、誰よりも頑丈なのにね。


   はは……然うだね。


   ……。


   お茶、どう……?


   ……まぁまぁね。


   うん……良かった。


   ……息抜きをするのには良い味だわ。


   張り詰めた心が、少しでも緩むように……。


   ……私、其処まで?


   うん……あたしには、然う見える。


   ……然う、其れは余程のことね。


   あたしが淹れたお茶では、そんな効能はないかも知れないけど……。


   ……あなたは、薬茶を煎れることは出来ない。


   配合が、分からないんだ……薬草を、育てることは出来ても。


   けれど、美味しいお茶を……時に、私が欲しているお茶を淹れることは出来る。
   あなたが大事に育てた、お茶の葉で……其れは、誰にも出来ない。真似することさえ、出来ない。


   ……。


   ……其れだけで、十分。


   お茶の淹れ方は、師匠に教わったんだ。


   ……私も、教わったわ。


   マーキュリーは、先生とは違うけど。


   然うね……全然、違う。


   でも……ほんの少し、似ているんだ。


   ……何処が、似ているの。


   無理を、する所……。


   ……。


   そんな時、師匠は良く眠れるお茶を淹れていたと言ってた。


   ……此のお茶は?


   あくまでも、息抜きが出来るように……。


   ……今度、あなたに眠り薬の煎じ方でも教えようかしらね。


   はは……多分、あたしには覚えられないよ。


   ……私が、教えても。


   薬は……マーキュリーの分野だから。


   ……。


   マーキュリー……其れを、飲んだら。


   眠っても、良いかしら……。


   ……良いに決まってる。


   ……。


   ……休もう、マーキュリー。


   ねぇ……。


   ……なんだい。


   お話が、したいわ……。


   ……良いよ、眠るまでしよう。


   寝台の中で……?


   ……然うだよ。


   今は、だめ……?


   ……今でも、良いよ。


   ……。


   ……。


   ……千年って、気が遠くなるわね。


   うん……?


   ……生きられるように、造られているとは言え。


   生きられるとは、限らないから……。


   ……其の長い時を生きられる者は、限られている。


   其れは、此れからも変わらないだろう……。


   ええ……屹度、変わらないでしょうね。


   ……生きられるとしても、ひとりでは生きたくないな。


   私も、然う思う……ひとりでは、長過ぎるもの。


   ……代わりは、直ぐに用意されるけど。


   他は、知らないけれど……代わりでは、私の心は満たされない。


   ……他は知らないけど、あたしもマーキュリーと同じだ。


   ……。


   ……。


   ……ひとりも、居ない。


   ひとりも……?


   ……千年の時を、生きた者は。


   其れは……例えば、誰のこと?


   ……分かるでしょう、わざわざ言わなくても。


   ……。


   ……私達も、屹度。


   先代達は、長かったけれど。


   ……先代達よりも長く生きたふたりは、記録上、存在しないわ。


   ……。


   ……ふたりは、本当に長く生きた。


   長く生きたからこそ……あたし達を。


   ……本意ではなかったかも知れないけれど。


   でも、楽しそうだったよ……。


   ……然うね、楽しそうだったわね。


   あんなに長い時間を、先代と過ごせたマーキュリーとジュピターは……そうそう、居ないんじゃないかな。


   ……百年どころか、五十年もなかったけれど。


   其れでも……しあわせだったよ。


   ……っ。


   ん、マーキュリー……?


   ……まるで、今はしあわせではないみたいね。


   ううん……今は今で、やっぱり、しあわせだよ。


   ……あの頃のような暮らしは、もう、出来ない。


   でも、マーキュリーが居て呉れる……。


   ……ジュピター。


   マーキュリーには、あたしが居る……。


   ……其れだけでも、しあわせ?


   うん……あたしは。


   ……本当、あなたは。


   多くは、望んでいないんだ……ただ、大事なひとが傍に居て呉れるだけで。


   ……望んでいるわよ、十分に。


   ふふ、然うかな……。


   ……。


   マーキュリーは……今。


   ……ユゥ。


   なに……メル。


   ……今夜はもう、休むことにする。


   然うか……なら、寝台の支度をしておくよ。


   ……自分の部屋のように。


   はは……。


   ……でも、少しだけ待って呉れる?


   良いけど……あまり長くは待ちたくないな。


   ……切りが良い所まで。


   そんなに掛からない……?


   ……ええ、掛からないわ。


   なら、良いよ……待ってる。


   ……うん。


   ……。


   ……。


   ……然うだ。


   なぁに……?


   良かったら、琥珀糖を食べるかい?


   琥珀糖?
   作ったの?


   うん。


   ……そんな時間。


   寝る時間を削ったんだ。
   や、良かった。思い出して。


   ……。


   ね、食べるだろう?


   ……食べる、けど。


   ふふ、良かった。


   ……ばか。


   え?


   ……あなたも、削っているじゃない。


   大丈夫、大したことない。


   ……大したこと、あるわよ。


   色は、やっぱり斑なんだけど。


   ……そんなことは、どうでも良い。


   はい、メル。


   ……。


   ん、どうした?


   ……あなたも、食べて。


   うん、分かった。


   ……。


   ……。


   ……ほんのり、甘い。


   疲れている時は、甘いものだって。


   ……お師匠さんが、良く言っていたわね。


   先生も、好きだったからね。


   ……。


   今度、豆の甘煮を作るよ。


   ……ん。


   ふたりで食べよう。


   ……うん。


   ごめん、邪魔をして。


   ……。


   ん……?


   ……ねぇ、ユゥ。


   メル……どうした?


   ……良く、眠れるように。


   あたしに出来ること、ある……?


   ……抱き締めて。


   うん……分かった。


   ……疲れ過ぎていても、眠れないの。


   メルの……マーキュリーの場合は、頭の中で色々なものが動いているから、其れを静めないことには眠れないんだと思う。


   ……。


   あたしの腕の中では、ただのメルになれば良い……。


   ……あなたが、然うさせて。


   ……。


   ……出来ない?


   いや……するよ。


   ……。


   ねぇ、メル……。


   ……なに、ユゥ。


   あたしも、抱き締めて欲しい……ゆっくり、眠りたいんだ。


   ……。


   ……明日の演習に、勝つ為に。


   明日……?


   うん……急遽、決まったんだ。


   ……知らなかった。


   ごめん……伝える時間が、なくて。


   ううん……今、聞いたから。


   今度こそ、必ず討つ。


   ……ヴィーナス、なのね。


   ……。


   無理は、しないでね……あなたも、疲れているのだから。


   ……少しの無理はするよ。


   ……。


   ……先代達が、残して呉れたんだ。


   まさか、あなたの媒体の中に隠されているなんて……。


   ……意外と、気付かれないものなんだね。


   ぽんこつ、だったから……屹度、反応しなかったのよ。


   ……やっぱり、マーキュリーでないと。


   分からないからと言って、放置は感心しないわ……。


   ……もう少し、使うことにする。


   然うして……と、言いたいところだけれど。


   ……うん?


   ぽんこつのままの方が、抜かれないで済むのかも知れない。


   ……あぁ。


   けど……やっぱり、少しは使ってね。


   ん……頑張って、覚える。


   ふふ……うん。


   ……叩き潰すことは、出来ずとも。


   ……。


   幼体扱い……其れだけは、止めさせる。


   ……ね。


   うん?


   ……明日の夜も、私の部屋に来て。


   え……良いの。


   ……癒してあげることは、出来ないけれど。


   ……。


   ん……ユゥ。


   絶対に、来る……。


   ……。


   ……琥珀糖、どうだい?


   うん……ほんのりと甘くて、優しい味がするわ。


  6日





   マーキュリー。


   ……。


   良かった、お前を探していたんだ。


   私は探していない。


   なぁ、報告書を見て呉れたか?


   見たわ。


   今回こそはちゃんと


   書き直し。


   え、なんでだよ。


   誤字脱字、その他諸々。


   そんな筈、


   こんなにも正直な私が、嘘を吐いているとでも言うのかしら。


   いつまでに出せば良い?


   今日中。


   うん、無理だ。


   其れで、許されるとでも?


   今日はあと四半刻程で終わる、だからあたしには無理だ。


   ならば、明日の朝。
   一番に、提出して。


   明日の朝だな、良し、分かった。


   ……。


   朝のうちなら、良いんだろ?


   一番にと言った筈よ、相変わらずぽんこつな耳ね。
   まぁ、ぽんこつなのは耳だけではないけれど。


   今夜、お前の部屋に


   莫迦なの。


   明日は、朝早く起きる予定なんだ。


   あなたの場合、予定は未定。


   マーキュリーの部屋で報告書を書き直す。其の方が渡しに行く手間が省けて良いだろう?
   お前も、直ぐに受け取れる。うん、良いな。然うしよう。


   報告書を私個人の媒体に「送信」して呉れても良いのだけれど。


   あれはなぁ、未だにあたしにはちと難しいんだ。
   文字が何処にあるのか、いちいち探さなきゃならんしさ。


   いい加減、覚えて。
   何百年生きていると思っているの。


   時間ばかりが掛かってしまって、効率が良くないんだ。
   であるならば、書いた方が格段に早い。一文字を打つ間に、十文字くらいは書ける。


   覚えてしまえば、打った方が早い。
   なんだったら、思考だけで打てるように改良してあげても良いわ。


   無理かな、壊しそうだ。


   ……。


   要らんことも考えるし、あたしはお前のようには出来ないよ。


   ……ぽんこつにも程がある。


   で、折角時間を掛けて打ち込んだとしても、今度は脱字やら誤字やらだろう?
   しかも手書きの時よりも多くなるんだ。流石のあたしでも面倒になるよ。


   だからこそ、推敲する必要があるのでしょう。
   本当に覚えが悪過ぎる。


   見直した所で、間違いに気が付かないんだよなぁ。
   今回の報告書なんて、二回は見直したんだぞ?


   あぁ、然う。


   だけど、どういうわけだか気が付かないんだ、どうしてだろうな?


   知らないわよ、頭がぽんこつな上に目が節穴だからでしょう。


   いや、ばっちり知ってるな。


   ……はぁ。


   文字を読むのは良いんだけど、書くのはどうにも苦手なままなんだよなぁ。
   お前にずっと教わっているのに、どうしても書き間違える。お前への手紙ならすらすら書けるのに。


   どれだけあなたの頭はぽんこつなの。
   いつまでもぽんこつのままで、心の底から救いようがないわね。


   どうでも良いが、


   ならば、言わないで。


   お前、最近やたらとぽんこつって言うよな。
   お気に入りなのか?


   そんなわけないでしょう。


   分かった、言い易いんだな。
   まぁ、たったの4文字で済むもんな。


   ……。


   でも、何処から……いや、誰かから聞いたのか?
   若しかして、マーズか? あのちびが言うわけ


   ジュピター。


   良し、マーズということにしとくか。
   あいつなら、クイーンにだって言いかねないしな。


   ……実際、言ってる。


   今のクイーンの大らかさは歴代随一らしいからなぁ。
   マーズが厳しくするくらいで丁度良いと、ヴィナが良く言っていたよ。


   ……だからこそ、怖いのよ。


   ん、何が?


   分からなければ良い。


   しかし、ぽんこつって音が良いよな。
   ぽんに、こつ。お前が言うと、特に良い。


   ……。


   ぽん、こつ、ぽん、こつ。


   はぁ。


   ん?


   あなた、何処まで付いて来るつもりなの。


   お前の部屋の中までだけど。


   却下。


   な、良いだろう?
   今夜は一緒に眠りたいんだ。


   良くない、自分の部屋に行って。


   じゃあ、お前があたしの部屋に来れば良い。
   良し、然うと決まれば


   勝手に決めるな、すかぽんたん。


   すか?
   其れはまた、新しい言葉だな!


   ……はぁ、鬱陶しい。


   な、あたしの部屋に来いよ。飯、お前のことだから未だ食ってないだろう? 
   なんなら、食わないでも良いと思っていそうだ。いや、思っているな。
   うん、飯のことを考えたらあたしの部屋の方が良い! 然うしよう!


   声が大きい、無駄に響く。


   然うしろよ、マーキュリー。


   然うするわけないでしょう、ジュピター。


   そんなこと言うなって。
   な?


   しつこい。


   どうして怖いのか、ふたりで話そう。


   ……。


   此処では話せなくても、お前かあたしの部屋でなら話せる。


   ……別に話さなくても良い。


   気になっているんだろう、最近の動向。
   だったら、あたしと話そう。他の奴には話せないことでも、あたしなら問題ない。


   ……あなたは、どうなの。


   まぁ、気になっていないわけではない。
   少々、危ない臭いがしてな。あれは


   此処では止めて。


   ん。


   ……。


   其れで、どっちが良い?


   ……あなたの部屋。


   良し、分かった。
   なら、こっちだ。


   知ってる。


   部屋から持っていきたいものはあるか?


   特にない。
   あなたの部屋の媒体を使うから。


   あたしの?


   たまには使ってあげないと、主のようなぽんこつになってしまったら面倒なのよ。


   まぁ、其の時は其の時でお前が


   だから、行ってあげるのでしょう。


   ん、然うか。
   なら、宜しく頼む。


   ……。


   なぁ、何が食べたい?


   ……なんでも


   なんでも良い、は、なしな?


   ……あなたに


   任せる、も、なしな?


   ……煩わしいわね。


   お前の頭の中が小難しいことでいっぱいなのは知っているが、今だけで良い、食いたいものを考えて呉れ。


   ……。


   ほんの少しだけでも良いからさ。


   ……甘いもの。


   甘いもの?


   ……。


   良し、甘いものだな!
   なら丁度良い、甘く煮た豆が残ってる!


   だから、いちいち声が大きいのよ。


   む。


   あなたはどうして無駄に元気なの。


   そりゃあ、お前があたしの部屋に来て呉れるからさ。


   然うでなくても、元気でしょう。


   マーキュリーの前ではいつだって、あたしは元気で居ようと思っている。


   ……。


   と言っても、弱っている姿はお前にしか見せられないけどな!
   ははは!


   ……本当に、静かにして。


   ん。


   ……。


   マーキュリー、疲れているのか?


   ……あなたのせいで、疲れがどっと出たような気分だわ。


   其れは、いけないな。


   ……だから、黙って。


   然うだとしたら、全部、あたしの責任だ。
   今夜はあたしの部屋でゆっくり休んで呉れ。


   ……。


   お前がいつ来て呉れても良いように、寝台は整えてあるんだ。


   ……本当に、休ませて呉れるの。


   あぁ、勿論だよ。
   良く眠れるようにしてやるから。


   ……して呉れなくて、結構よ。


   深い眠りを、お前に。


   ……どうせ、自分の欲を解消したいだけでしょう。


   其れも、ある。


   ……は。


   けど、負担は掛けたくない。
   だから、今夜は一緒に眠れればあたしは満足だ。


   ……どうだか。


   ……。


   ……抱き上げなくて良い、自分の足で歩く。


   ん、分かった。


   ……。


   やっぱり、


   良いから。


   ……。


   ……邪魔。


   此れなら、良いだろう?


   ……良くない。


   はは、言うと思った。


   ……退いて。


   退かない、お前が背中に乗って呉れるまで。


   ……。


   誰も居ないさ。


   ……どうでも良い。


   ん、然うだな。


   ……。


   さぁ、マーキュリー。


   ……余計に疲れる。


   ……。


   ……。


   うん……其れじゃあ、行くぞ。


   ……さっさと、行って。


   応。


   ……。


   なぁ、マーキュリー。


   ……返り討ちにしたのよね。


   あぁ、勿論。
   完膚無きまでに、な。


   ……。


   丁度良かった。あたしも今、其の話がしたいと思っていたんだ。
   報告書をまとめるには、やっぱり、お前と話すのが一番良いからさ。


   ……で。


   あいつは、未だ未だだな。考え、動き、読み、全てにおいて足りていない。
   奇を衒った行動を見せて此方を攪乱させたいようだが、あたしには通用しない。あんなに雑では話にもならない。
   そもそも全てが足りていないのに、奇策を取ろうなんざ頭がぽんこつ過ぎる。あれでは、無駄死にを増やすだけだ。


   ……あなたに構って貰いたいのでしょう。


   ああ、だから今回もたっぷり構ってやったさ。


   ……手加減は?


   そんなものは、一切無しだ。
   言ったろ、完膚無きまでに返り討ちにしてやったってさ。


   ……確認しただけよ、あなたには甘い所があるから。


   あいつには、ないよ。


   ……どうして。


   四守護神のひとりだからだ。


   ……其れだけ?


   あいつはあたし達三人の先を生きることになる。
   今のプリンセス……恐らくは、其の次のプリンセスにも。


   ……分からないわよ。


   まぁ、然うなんだけどな。
   若しかしたら、今夜にでも奇襲を喰らって終わるかも知れないし。


   ……。


   安心しろ、お前だけはあたしが守ってやる。


   ……私よりも、使命を果たしたら?


   そんなものは、どうでも良い。
   惚れたお前の方が優先だ。


   ……ずっと、然う。


   然うだよ、あたしはずっと然うなんだ。


   ……然うやって、造られているから。


   其れだけじゃないさ。


   ……。


   さぁ、着いたぞ。
   取り敢えず、寛いで呉れ。


   ……喉が乾いたわ。


   あぁ、お前の好きなお茶を淹れよう。


   ……。


   ……今の御代が、長過ぎた。


   あなたにも、分かるのね……。


   ……其れくらい、分かるさ。


   もう直、終わるわ……。


   ……だからずっと、マーズが付いている。


   マーズ程、忠心を尽くした者は居ないでしょうね……。


   ……ヴィナも、然うだったんだけどな。


   ……。


   ……終わった其の時に、プリンセスが次のクイーンになる。


   然うして……次のプリンセスを産むでしょう。


   ……まぁ、其れは先のことだろう。


   いいえ、然うとは言えない。


   ……とは言え、あたし達の次の話だろう?


   ……。


   でないと……流石に、早くないか。


   あれは……危うい。


   ……。


   今のクイーンに、全く似ていない……。


   秩序よりも、混沌……故に、何を仕出かすか分からない、か。


   ……ジュピターのくせに。


   其れくらいは、あたしでも分かるさ……マーキュリーにずっと、教わってきたんだからな。


   ……ヴィナは。


   ……。


   ……ねぇ、気付いているかしら。


   何に……?


   ……。


   言いたくないのなら、言わないで良い。


   ……ぼんやりと、同じにおいがする。


   誰と……。


   ……あれと。


   ……。


   ……何処か、似てきた。


   手を、出したのか……?


   ……然うかも知れない。


   ……。


   ……未だ、濃くはないけれど。


   然ういうことって、今までにもあったのか……?


   ……ないからこそ、面白いのよ。


   面白い……。


   ……実際は、其れ程でもなかったのでしょうけど。


   月宮は何もなくて退屈、か……。


   ……。


   いつだったか、つまらなそうに言っていたことを思い出した。


   ……思い出すことなんて、あるのね。


   滅多にはないよ、お前以外のことはどうでも良いから。


   ……。


   お前に話したと思う。


   ……ええ、聞いたわ。


   ……。


   ……ジュピター。


   なんだい、マーキュリー。


   ……此れからも、叩き潰して。


   応、了解した。


   ……あと、報告書。


   お、応、了解した。


   ……明日のうちに。


   ……。


   ……朝のうちに、出したいのなら。


   明日中には、必ず出す。


   ……期待しているわ。


   此度の演習について、少し話しても良いか。


   ……良いわ、相手をしてあげる。


   うん、ありがとう。


   ……。


   けど、次の代が手を焼きそうだな。
   其の頃には、ちびの練度は上がっているだろうし。


   ……どんなに練度が上がっていたとしても、叩き潰せなければ話にならないわ。


   厳しいな。


   ……当然でしょう。


   まぁ、然うだな……。


   ……記録には、残しておく。


   あぁ……然うしてやって呉れ。


   ……あなたの媒体にも。


   ん、あたしの……?


   ……念の為、よ。   


  5日





   ……


   ……。


   ん……メル。


   ……ユゥ。


   ……。


   ……起きたの。


   うん、起きた……おはよう、メル。


   ……おはよう、ジュピター。


   ……。


   ジュピター。


   ……おはよう、マーキュリー。


   気分は?


   うん、悪くない……大分、良い。


   然う……其れは良かった。


   マーキュリーの、寝台……。


   ……暫くしたら、ひとりで。


   全然、憶えてない……。


   然うでしょうね……眠気で、ぼんやりしていたみたいだから。


   あたし、ひとりで……?


   ……然う、ひとりで。


   マーキュリーは……。


   ……私の手は、必要なさそうだった。


   ん、そっか……。


   良かったわ、ひとりで行って呉れて……私では、あなたを運ぶことは出来ないから。


   ……ありがとう。


   どうして?


   ……手を貸して呉れたんだと思うから。


   ……。


   んー……。


   ……何をしているの。


   やっぱり、良い匂いだなぁって……。


   止めて。


   ……。


   寝足りないのなら、自分の部屋で。


   ううん……もう十分に寝たから。


   ……だったら。


   もう少しだけ、マーキュリーの匂いを


   追い出すわよ。


   ……はい、もうしません。


   甘やかすと、直ぐに然うなんだから。


   ……へへ。


   ……。


   其れじゃ、躰を伸ばそうかな……。


   ……静かにね。


   出来るだけ、声は出さないようにする……。


   ……。


   んっ。


   ……既に、静かではないわね。


   う、ぅぅぅぅぅぅぅぅ…………。


   ……。


   …………はぁ。


   ……おしまい?


   ん……良く伸びた。


   ……其れで、何処か異常を感じた箇所は?


   今の所、感じていない。
   痛みもなければ、動き辛さもない。


   ……違和感。


   筋肉にも関節にも、何処にも違和感はない。
   大丈夫だ、問題ないよ。


   ……頭は、重くない?


   うん、もう重くない。
   良く眠れたから、頭の中がかなりすっきりしてる。


   ……少しでも不調を感じたら、直ぐに言って。


   うん。


   ……。


   若しも、気にして呉れているのなら……今夜。


   ……四半刻。


   ……。


   良く眠っていたわ。


   ……マーキュリーが傍に居て呉れたから。


   ……。


   ありがとう……躰も伸ばしたことだし、そろそろ仕事に戻るよ。


   ……お茶は?


   お茶?


   ……要らないのなら、あなたの分は淹れないけれど。


   ううん、飲みたい。
   貰っても、良い?


   ……じゃあ、椅子に座って待っていて。


   うん……待ってる。


   ……飲み終わったら、仕事に戻ってね。


   戻ったら、演習の報告書を書くよ。
   今日中に出すって、マーキュリーと約束したし。


   ……約束は、必ず守って貰うわ。


   うん、マーキュリーとの約束は必ず守る。


   ……。


   マーキュリーと話をすることが出来たから、ちゃんとまとまると思うんだ。


   ……誤字脱字には、気を付けて。


   うん、十分に気を付ける。
   若しも間違いがあったら、書き直しで返されてしまうから。


   ……当然、いちいち直してなんかあげないわ。


   ふふ、うん。


   ……。


   本当に良かった、マーキュリーと話せて。


   ……ねぇ、ジュピター。


   ん、なに?


   ……ヴィーナスの報告書は屹度、直ぐには提出されない。


   え?


   恐らく、今回も遅れるでしょう。


   ……今回も?


   放っておくと、いつまで経っても提出して呉れないの。


   其れは……まさか、忙しいから?


   ……然うだったら、未だ良いのだけれどね。


   遊びで、忙しい?


   ……わざとなのよ。


   わざと?


   重要案件でない限り……いつも、然うなの。


   演習の報告書は、重要ではないと?


   ……ヴィーナスにとっては、然うらしいわ。


   だったら……言って呉れれば、あたしから言うよ。なんだったら、今から言いに行っても良い。
   報告書がなければ、マーキュリーの仕事が片付かない。進めることさえ、出来ないだろう?


   気持ちは有り難いけれど、私達が催促したところでヴィーナスは聞く耳なんて持たないわ。
   ふざけて、はぐらかして、此方の言い分なんて全部、流してしまうのよ。


   いざとなったら、力尽くで。


   無理よ。
   其れだと、問題になってしまうだけ。


   然うしたら、どうやって。


   場合によっては……また、マーズに言って貰わないといけないかも知れない。


   マーズ……。


   マーズに言われて、やっと動くのよ……渋々ね。


   何処まで、あたし達を……。


   ……ヴィーナスから見れば幼体なのよ、私達は未だ。


   あたし達はもう、成体……青年体だ。先代からも、ちゃんと其の名を引き継いでいる。
   確かにヴィーナスの方が長く生きているけど、そんなことは関係ない。
   今のあたし達はヴィーナスと同じ、四守護神のひとり。幼体扱いされる謂れは何処にもないんだ。


   あなたの主張は尤も……だけれど、遊ばれているうちは屹度。


   ……歯牙にも、かけない。


   ……。


   ……使い方、間違ってた?


   いいえ……間違っていないわ。


   ……。


   ……だから、あなたの報告書に期待しているの。


   出来るだけ、詳しく書くようにする……。


   ……報告書を確認しながら、より詳しい話を聞いても?


   勿論、構わない。


   ……。


   だけど、ヴィーナス側の視点も重要なんだろう?


   ……ええ。


   本当に、厄介だな……あたし達よりも少し長く生きているからって。


   ……少しでもないわね。


   たかが、百年くらいの差だろう。


   ……約百八十年ね。


   二百年ではないから。


   ……四捨五入すると、二百。


   師匠達……先代達と比べたら、ずっと短いよ。


   ……其れは、然うだけれど。


   ……。


   ……また、眉間に皺。


   マーキュリー。


   ……なに。


   次は、討つ。


   ……。


   其の為に……ふたりで。


   ……ええ、今までの記録を参考にして。


   先代達の記録も参考にしよう。
   返り討ちにした記録が幾つもあるのなら、使えるかも知れない。


   ……然うしたいのだけれど。


   ん、何か問題でもある……?


   結果だけ、記されて……途中経過などの肝心な記録は、まるで抜け落ちてしまったかのように残されていないの。


   え、どうして。


   ……分からないわ。


   先刻はそんなこと、言っていなかったよね?


   ……敢えて言わなかったのよ。


   敢えて……あたしが、疲れていたから?


   ……眉間の皺が深くなったら嫌でしょう?


   皺ぐらい、どうでも良いけど……。


   ……あなたの締まりのない顔を見ると、気が抜けるの。


   え、と……?


   ……其れなのに、眉間に皺なんかあったら。


   ……。


   ……だから。


   ありがとう、マーキュリー。
   あたしの顔を気にして呉れて。


   ……。


   話の続きをしよう。


   ……ええ。


   先代達が記録を残さなかった。いや、そんな筈はない。
   師匠は兎も角、先生は残して呉れた筈だ。


   だから……考えられることは、意図的な消去。


   いと……?


   ……私達に、見せないように。


   そんなこと……演習記録だって、月宮の大事な記録じゃないか。
   消えたとなったら、問題だろう。ましてや誰かが意図的に消したとすれば、それこそ大問題だ。


   ……消去権限を持っている存在は、限られている。


   持っていない者は……。


   ……基本的には、不可能。


   ……。


   或いは……私の手が届かないところに、移されているか。


   だけど、マーキュリーは記録を管理する存在でもあるだろう?
   マーキュリーの手が届かないところなんて、


   王族の個人空間。


   ……は。


   若しも、然うならば……私には、手が出せない。


   ……特定の演習記録を、わざわざ王族の個人空間に?


   ……。


   心当たりは、あるの?


   ……いいえ、私の憶測でしかないわ。


   ……。


   考え過ぎね……最近、マーズにも悪い癖だと指摘されたばかりだというのに。


   ……だと、良いけど。


   ……。


   あと、マーキュリー……然ういう話は、出来ればあたしだけに。


   ……安心して、あなたにしか話す気はないから。


   ん、そっか……なら、良いんだ。


   ……。


   しかし、マーズの仕事も減ることが本当にないな。
   プリンセスだけなく、ヴィーナスの後始末もしなきゃいけないなんてさ。
   そりゃあ、眉間の皺だって深くなるよ。


   ……プリンセスに泣かれることが、目下の悩みらしいわ。


   泣かれる?


   ……顔が怖いから、とは、言っていたけれど。


   顔が、怖い……自覚はしているんだ。


   ……ヴィーナスに良く言われるらしいの、そんな怖い顔では幼体には懐かれないと。


   まぁ……確かに、幼体から見たら怖いかも知れないけど。


   ……其れ、マーズには言わないで。


   言わないよ、あくまでも此処だけの話。


   ……ジュピターの顔なら、良いかも知れないわね。


   あたしの顔?


   締まりがなくて、灰汁もなく、厳しさも感じられない……全体的に柔らかくて、幼体には好まれるかも知れないわ。


   好かれるのは、マーキュリーだけで良いよ。


   ……。


   こう、色々面倒じゃないか……出来れば、マーズの代わりはしたくない。


   ……月に生きる者として、とても名誉なことよ。


   そんなものは要らない。
   あたしは、マーキュリーの為に居るのだから。


   ……まぁ、あなたには無理よね。


   そうそう、無理だよ。


   ……躾がなっていないって、四六時中マーズに小言を言われることになりそうだし。


   ……。


   心底、嫌そうな顔。


   うん……心底、嫌だ。


   ……プリンセスに関しては、マーズに私達の分まで頑張って貰うしかないわね。


   マーキュリーは、どうなんだい?
   可愛くて、綺麗で、優しくて、幼体は嫌いではないと思うんだけど。


   ……其れ、本気で言ってる?


   え、言ってるけど……あたし、何か可笑しなことを言ってる?


   ……はぁ。


   マーキュリー?


   泣かれたわ。


   ……え。


   私の顔をじっと見たと思ったら、思い切り。


   え、なんで?
   こんなに綺麗な顔をしているのに?


   然ういう問題ではないの。
   其れ以前に、私の顔は綺麗ではないわ。


   若しかして、節穴?


   ジュピター。


   ……何が不服で泣いたんだ、理解に苦しむ。


   仏頂面、或いは、無表情。


   ……誰が?


   私が。


   ……何処が?


   あなた以外の者には、私は然う見えているの。


   ……揃いも揃って、節穴?


   あなたの目が節穴。


   ……。


   然ういうわけで、私も懐かれそうにないの。
   まぁ、私には幼体のお世話なんて出来ないけれど。


   ……どいつもこいつも、見る目がなさすぎる。


   寧ろ、あなたがね。


   ……でもまぁ、良いか。


   ……。


   マーキュリーの良さは、あたしだけが分かっていれば……いや、でもな、悪く言われているとしたら、其れは其れで腹が立つな。


   ……因みに。


   うん?


   ヴィーナスも


   其れは分かる。


   ……どうして分かるの。


   全てが嘘臭い。
   あれでは、懐かない。


   ……やっぱり、あなたが私達の中で


   此れ以上、要らないよ。


   ……。


   使命だけで、十分だ。


   ……其れ、大っぴらに言わないでね。


   言わないよ、マーキュリーにしか言わない。


   ……。


   ヴィーナスと言えば、演習結果の報告書だったな。
   ねぇマーキュリー、良かったらなんだけどさ。


   ……何。


   今回の演習のこと、あたしからマーズに言っておくよ。
   マーキュリーも忙しいだろう? あたしの相手をしたことで、貴重な時間を使ってしまっただろうし。


   ……お願いするわ。


   ん、任せて。


   ……はい、どうぞ。


   ありがとう。
   ふふ、良い香りだな。


   ……お腹は、大丈夫?


   お腹?


   ……あなたのことだから、空かせているのではないかと思って。


   あー、少し空いているかも。
   マーキュリーは?


   ……私は、別に。


   良かったら、借りても良い?


   作るの?


   何もない?


   ……今から?


   ちょっとしたものを、と思ったんだけど。


   ……生憎。


   じゃあ、何か持ってくるよ。
   直ぐに食べられそうなの。


   ……。


   ちょっと行って


   待って。


   うん?


   ……薄麦餅の材料くらいなら、あるわ。


   あ、本当?


   ……嘘なんか、吐かない。


   早速、作ろう。


   ……他のものはないわよ。


   其れだけで、十分だ。


   ……。


   あ、マーキュリーは


   其れだけで、十分よ。
   でも。


   でも?


   先ずは、お茶を飲んだら?


  4日





   ……う。


   眉間に皺。


   ……寄ってた?


   マーズ程ではないけれど。


   マーズはもう少し、緩めた方が良いよなぁ。


   あなたはもう少し、引き締めた方が良いわね。


   疲れるんだ、ずっと引き締めているのも。
   あたしには、向いていない。


   ……。


   あう。


   あなたが此の部屋で難しい顔をしているだなんて、珍しいこともあるものね。
   屹度、余程のことがあったのでしょう。然うね、お腹に悪いものでも食べた?


   ……若しかして、聞いて呉れてる?


   いいえ、ただの社交辞令。


   聞いて呉れたら、嬉しいな。


   忙しいから。


   だとしたら、社交辞令なんて無駄なことはしないと思うんだ。


   ジュピター。


   なに。


   取り敢えず、飲む?


   淹れて呉れたの?


   たまにはね。


   わぁ。


   要らないのなら、


   ありがとう、マーキュリー。


   ……どういたしまして。


   ふふ……良い香りだなぁ。


   お腹ではないのね。


   お腹はずっと元気だよ、悪いものも食べてない。


   然う、ならば其れを飲んだら


   暫くの間、此処に居ても良い?


   どうして然うなるの?


   マーキュリーが、美味しいお茶を淹れて呉れたから。


   美味しいかどうかは分からないけれど、飲み終わったらさっさと出て行って。


   うん、分かった。
   なら、ゆっくり飲む。


   お茶以外のものは何もないわよ。


   ん、良いよ。
   マーキュリーが居て呉れるなら。


   仕事は?


   演習をひとつ、こなしたよ。


   其れは知ってる。
   私が聞いているのは、其の後のこと。


   ……此の後、報告書を書く。


   提出は、早めに。


   ん、分かってる……今日中には出すよ。


   成る可く、早い方が良いのだけれど。


   ……。


   ……?
   ジュピター?


   ん、いや……なんでもない。
   報告書は、必ず今日中に出すから。


   ……ええ、然うして。


   やっぱり、マーキュリーが淹れて呉れたお茶は美味しいな。
   お腹に優しく染み込んでいくみたいで……とても、落ち着く。


   ……大袈裟。


   今日はもう、ずっとマーキュリーの部屋に居たいな……。


   止めて。


   ……夜に、また来ても良い?


   来ないで。


   そっか……分かった。


   ……。


   ……。


   ジュピター。


   ん……なに。


   若しかして、疲れているの。


   ん、どうだろう……分からない。


   分からない?


   あたし、疲れているのかな。


   演習をひとつ、こなしただけでしょう?


   然うなんだけど……なんだか、頭が重いんだ。


   頭……。


   ……ん、マーキュリー。


   痛みは?


   痛みは、ないよ。


   ……意識は、あるわよね。


   あるけど……。


   ……。


   熱も、ないだろう……?


   ……平熱よりは、ほんの少し高いけれど。


   お茶を飲んでいるから……あと、演習もこなしたし。


   ……。


   ……ね、マーキュリー。


   なに。


   あたしが若しも、疲れていたら


   自分の部屋に戻って、休息を取ったら良い。


   ……戻りたくない。


   ならば、他の場所で。


   マーキュリーの傍が良い。


   ……。


   うー。


   ……邪魔だけは、しないでね。


   うん、しない……大人しくしてる。


   ……だと、良いけれど。


   ねぇ、マーキュリー……。


   ……なに、ジュピター。


   マーキュリーが淹れて呉れたお茶……本当に美味しいよ。


   ……其れは良かった。


   ……。


   眠たければ、眠っても良いから。
   其の方が、静かでしょうし。


   其れは……飲み終わっても、此処に居ても良いということ?


   其のつもりで言ったのだけれど。


   じゃあ、居る……居たい。


   ……少し、眠ったら?


   眠くなったら、然うする……。


   ……。


   はぁ……。


   ……演習の報告書は、後で出して貰うけど。


   最悪だった……。


   ……今日は、ヴィーナスが相手だったわね。


   うん……。


   ……何か、問題でも?


   あいつ、遊んでやがった……。


   ……遊んで?


   動きが、兎に角滅茶苦茶で……此方のことを全く考えていないのは、良いんだ。
   本当の戦だと思って、対応すれば良いだけのことだから……妖魔は、思いもしない動きを見せるものだし。


   ……。


   だけど……己方の陣形を、わざわざ引っ搔き回すような動きを取るのは。


   ……型破りなのは、今に始まったことではないわ。


   向こうの動きが読み切れずに、陣に多くの被害が出たとしたらあたしの責任だ……。


   ……出したのね。


   横っ腹を、突かれた。


   ……其れは、随分と。


   油断はしていなかった。
   だけど、あまりにも動きが。


   ……。


   マーキュリー……?


   ……あなたは、私と似ている。


   マーキュリーと……?


   ……其処もまた、良いように遊ばれたのね。


   どういうこと……?


   ……曰く、お手本通り。


   お手本……。


   ……向こうの被害は?


   其れなりに……だけど、向こうの被害は此方の攻撃によるものだけではなかったんだ。


   ……自滅?


   そんな生易しいものじゃない……一歩でも引いた者が居れば、其れを後ろから攻撃する。
   逃げの姿勢を少しでも見せた者は、別の隊に背後から攻撃されるんだ……其処に、容赦なんてものは感じられなかった。
   あれは自滅とは言えない、ただの味方討ちだ……。


   ……あぁ、然ういうこと。


   知ってた……?


   ……いつかは、仕掛けてくるとは思っていたけれど。


   出来れば、教えて欲しかった……。


   ……ごめんなさい、マーズに口止めされていたの。


   どうして、マーズが。


   ……一度、痛い目に遭うべきだと。


   痛い目って……なんだ、其れ。


   ……本当の戦では、失敗は許されないから。


   だからって……。


   ……前以て聞いておいても、どうせ、対応は出来ないと。


   知っていたら、其れ相応の対応はしたさ……。


   ……其れでは、奇襲の演習にはならないでしょう。


   奇襲……?


   ……然う、奇襲。


   味方討ちは……?


   ……手段は選ばないということを、示す為に。


   ……。


   現にあなたは、相手の予期せぬ行動に驚き、戸惑い、結果的に対応に遅れを取ってしまった。


   演習だから、本当に壊れることはない……が、傷くらいは負う。
   此れが、本当の戦だったら……あいつは、己の。


   ……今回のヴィーナスの動きは?


   あいつは、見ているだけだった……楽しそうに笑いながら、ね。


   然う……取り敢えず、此度の演習で負傷者がいつもよりも多かった理由が分かったわ。


   あれは、自分が楽しむ……いや、気持ちが良くなる為の動きでしかない。
   あたしには、然うとしか見えなかった……。


   ……然うでしょうね。


   マーキュリーの時は……。


   同じように、笑いながら見ていたわ……マーキュリーを痛めつけることが出来て、心の底から楽しいというような表情でね。


   ……性格が、悪い。


   私の、被害妄想かも知れないけれど。


   ……いや、強ち間違ってはいないと思う。


   月宮の奥まで侵攻されるようことがあらば、私達はもう一歩も退くことは赦されない。
   クイーンとプリンセスを守る為に、壊されるのも厭わずに前へ進み続けなければならない。


   ……其の為ならば、後ろから攻撃することも許容される。


   最終的には、其の部隊が最前に立つことになる……そして、其の部隊は。


   金星の民……ヴィーナスが率いる隊か。


   討つこと、討たれること……定期的に、其の身に刻ませるのでしょう。
   いざと言う時に動きが取れないような体たらくでは、どうしようもないから。


   ……一応、意味はあるのか。


   まぁ……然うね。


   だけどやっぱり、あの滅茶苦茶な動きは……あたしには、許容し難い。


   ……。


   味方を後ろから攻撃するだけなく、まるで盾にするような動きは……。


   ……けれど、規則的な行動は敵に読まれ易い。


   ……。


   私のような……頭でっかちな動きは、特にね。


   ……頭でっかち。


   ヴィーナスは……先代も、見ているから。


   ……言われてみれば、少し似ているかも知れない。


   読まれないように、尚且つ、攪乱させる為には……滅茶苦茶な方が、良い時もある。


   だけど其れは、統率が取れていたらの話、だろう。
   見た所、其々の動きはばらばらで、取れているようには全く


   一見、ね。


   ……一見?


   其処が、彼女の性質の悪いところなのよ。


   ……。


   ……けれど、次回は好きなようにはさせないわ。
   私は……あの性格の悪い先代の、教え子なのだから。


   ……あ。


   なぁに?


   ……似てる。


   似てない。


   ……表情が、少しだけ似てた。


   は……。


   ……。


   顔が、引き攣っているようだけれど。


   う、うん、そんなことないよ。


   ……別に良いわよ。


   少しだけ……吃驚した。


   ……少しだけ、ね。


   ……。


   ……嫌いに


   ならないよ。


   ……然う、残念だわ。


   なるわけない……。


   ところで、自爆攻撃はされた?


   ……された、しかも真正面から。


   其の動きは、其々、ばらばらだったでしょう。


   ……波状攻撃なら、未だ、防ぐ手立てはあったんだけど。


   色々と手を焼いているうちに、横っ腹を突かれて……あなたの隊は、壊滅。


   ……あたしひとりで、少しは蹴散らしてやったけど。


   負傷者が多いのは、其れも関係しているわね……あなた、一瞬とは言え本気を出したでしょう。


   ……続けていたら、壊滅とまでは言わないけど其の手前までは追い詰めることが出来たかも知れない。


   はぁ……良かったわ。


   ……どのみち、あいつは殴れないだろうけど。


   無理でしょうね……。


   ……あんな演習は、出来ればもうしたくない。


   気持ちは分かるけれど……其れにも対応出来るようになって貰わないといけないわ。
   何故なら、あなたはジュピターなのだから。


   ……先代は、対応してた?


   対応するどころか……毎回、返り討ち。


   ……毎回。


   なんせ、其の後ろには性格の悪い智将が付いていたから。
   まぁ、雷神との練度の差もかなりあったのでしょうけれど。


   ……。


   ……其のおかげで、練度が高いのよ。


   あぁ……。


   ……あなたにもいずれ、返り討ちにして貰うわ。


   ただの演習なのに……。


   ……此のままでは居られないの。


   ……。


   あなたも、分かっているでしょう。


   う、うん……然うだよね、分かっているよ。


   彼女はね……いざとなれば、民草すらも使うの。


   ……其れも、知ってる。


   守るべきは、クイーンとプリンセスだけ……己の民ですら、考慮しない。


   ……全ては、使命の為に。


   民が誰ひとり、残らずとも……クイーンとプリンセスさえ守り切れば、彼女の勝ち。


   ……民はまた、造れば良い。


   あなたにとっては、苦い経験になったでしょうけれど。


   ……ん。


   百聞は一見に如かず……言い方は悪いけれど、良かったわ。


   ……マーキュリーと話していて、良く分かった。


   ……。


   あいつは……あたしに、見せつけたんだな。


   ……眉間に、皺。


   後で、マーズと話してみる。


   ええ……良いと思うわ。


   因みに、マーキュリーは何度。


   何度か、見せられた。


   ……ということは、あたしも。


   戦の仕方は、ひとつではないから。


   ……良く分かった。


   ……。


   うん、マーキュリー?


   ……直接的にも、間接的にも。


   間接的……?


   あなたを通して。


   ……然うか。


   此の感情は、言いようがないわね……。


   ……全くだ。


   報告書は、忘れずに出すように。
   参考にするつもりだから。


   うん……今日中には出すよ。


   ……期待しているわ。


   ん……。


   ……飲み終わったのなら、少し眠ったら?


   マーキュリーを、見ていたい……。


   ……。


   ……あたし、心も疲れていたみたいだ。


   鈍いわね……。


   ……うん。


   ……。


   マーキュリー……。


   ……顔が、いつものあなたに戻った。


   ん……良かった。


   ……後でまた、お茶でも淹れてあげるわ。


   うん……ありがとう、大好きだ。


   ……はいはい、然うね。


   へへ……。


   ……取り敢えず、今はゆっくりと休んで。


  3日





  -One Thousand Years(前世)





   千年、かぁ。


   ……ん。


   考えても、いまいち良く分からないな。


   ……未だ、その十分の一も生きていないもの。


   あと何百年か生きたら、分かるようになるかな。


   さぁ、どうかしらね……あなたのことだから、未だ分からないって言っていそうだけれど。


   ん、確かに。
   マーキュリーは分かる?


   概念としては理解しているつもりだけれど、実感は伴っていないわ。


   取り敢えず、何百年か生きてみないと駄目かな。


   ……生きてみたい?


   千年?


   ……此の話の流れで、聞き返すの?


   一応。


   ……然うよ。


   マーキュリーと一緒なら、生きてみても良い。


   ……ひとりでは?


   気が狂ってしまうんじゃないかな。


   ……狂っている間に、過ぎるかも知れないわ。


   其の前に処分されるだろうさ。
   使えないものをいつまでも置いておく筈がない。


   ま、然うね。


   先代達でさえ、千年は届かなかった。


   ……最後はもう、ぼろぼろだったもの。


   躰中、ひびだらけだった。


   ……善くも、あんな躰で。


   先代のマーキュリーの力に依るところが大きい。


   ……。


   ジュピターひとりでは、とうの昔に壊れていただろう。
   なんせ、力任せなところがあり過ぎるから。


   マーキュリーを生かしたのは、ジュピター。


   ……。


   ジュピターが居なければ、とうの昔に心を壊していたでしょう。
   ふてぶてしく見えて、実際の所、そこまでは強く出来ていないから。


   互いが居てこそ、か。
   こういうの、青い星ではなんて言うんだっけ。


   ……漠然としているわね。


   んー……確か、何処かの地域の言葉だったと思うんだけど。


   ……病める時も、健やかなる時も、共に生き、真心を尽くす。


   うん、其れだ。


   西の湖水地域、婚儀での誓いの言葉ね。


   悪くない言葉だと思ったんだ、読んだ時。


   其の割には、忘れていたけれど。


   マーキュリーに誓えば、屹度もう忘れないよ。


   今は良いわ。


   忘れないうちに誓いたい。


   だとしても、今は良い。


   ……はい。


   ……。


   ん……なに。


   ……なんだか、可愛く見えて。


   うー……。


   ……ふふ。


   ……。


   ……嫌がらないの?


   うん……じゃれているみたいで、楽しいから。


   ……あぁ、然う。


   へへ……。


   ……躰は大きいのに。


   あたしの躰が大きいのは、マーキュリーを守る為なんだ……。


   ……未だ、大きくなるのかしら。


   なるよ……未だ、先代よりも小さいから。


   ……。


   ……必ず、なるんだ。


   ならば、日々の鍛錬は怠らないことね。
   何しろ、先代には……然う、何百年もの積み重ねがあるのだから。


   何百年か……どう考えても、あたしひとりでは無理だなぁ。


   ……分からないわよ。


   分かるさ……。


   ……決め付けは、良くないわね。


   決め付けというより、此れは必然なんだ。


   ……必然?


   あたしがジュピターである限り、ひとりでは……マーキュリーなしでは、不可能な事柄なんだ。


   ……難儀ね。


   はは……然うだねぇ。


   ……ねぇ、ジュピター。


   うん……?


   ……先代の力だけではないわ。


   ……。


   ……歴代がずっと、色々試してきたから。


   そして、今も試している……。


   ……少しでも、長持ちするようにね。


   少しでも、マーキュリーと一緒に生きられるように。


   ……言ってなさい。


   うん、言ってる……。


   ……酷いひびは、未だ見当たらない。


   未だ、百年も生きていないんだ……出来ていたら、嫌だよ。


   心配しないで……若しもの時は、処置してあげるから。


   まぁ、その時はして貰うけど……未だ、来て欲しくない。


   ……。


   マーキュリー……。


   ……願わくば、未だ先のことであるように。


   マーキュリーも……。


   ……。


   ……変わらず、柔らかくてきれいな髪の毛だ。


   手入れなんて、大してしていないのだけれど……。


   ……マーキュリーは、自分のことにあまり気を配らないからなぁ。


   あなたが居ない時は、ほぼほぼ、ほったらかしなの……。


   ……だから、あたしがするんだ。


   別に、して呉れなくても良いのよ……。


   ……したいんだ、マーキュリーのお世話。


   世話焼き……。


   ……マーキュリーにだけだよ。


   他のひとの


   したくない。


   ……。


   マーキュリーだって、要らぬ心配はしたくないだろう……?


   ……ばかね。


   ふふ……。


   ん……ジュピター。


   ……マーキュリーの躰は水気が巡っているから、髪の毛の先まで瑞々しい。


   それでも、傷む時は傷むわ……水気の巡りが衰退している時期は、特に。


   あんまり、離れたくないな……特に、然ういう時は。


   然ういうわけには、いかない……。


   ……連れて行けたら良いのに。


   マーキュリーは……調査の時以外、月宮の外に出ることはないから。


   ……閉じ込められているみたいだ。


   みたいではなくて、閉じ込められているのよ……だからこそ、調査が欠かせないの。


   ……皆には決して見せることはないけれど、調査時のマーキュリーは明るい顔をしている。


   あなたにも、見せているつもりはないのだけれど……ね。


   ……全然違うんだ、分かるよ。


   ……。


   ……子供の頃のような表情をしている時だってある。


   そこまでは、はしゃいでいないわ……。


   ……然ういうことにしておく。


   ね……。


   ……なに。


   髪の毛が傷んでいる私は、嫌……?


   ……嫌ではないよ。


   嫌ではないけど……手入れはして呉れるの。


   ……身だしなみは、大事だろう?


   部屋にひとりで籠っている時はどうでも良いわ……誰かの前に、立つわけではないし。


   顔色が悪い上に、髪の毛もぼさぼさ……あたしに見つかったら、大変だよ。


   ……だから、鍵を掛けて籠るんじゃない。


   鍵は掛けないで欲しいな……何かあった時、壊さなければならなくなるから。


   然うさせない為に……私に何かあった時は、あなたでも解除出来るように組まれている。


   ついでに、あたしに緊急の知らせが飛ぶようにもなっている……。


   ……そんな余計な機能は、要らないのに。


   だからって、あたし以外の誰かは嫌だろう……?


   ……あなたがね。


   うん、あたしも嫌だ……。


   ……も、ではないわ。


   ずっと前のマーキュリーに、感謝を……。


   ……どうして、誰も外さなかったのかしら。


   それは……やっぱり、ジュピター以外は嫌だったからじゃないかな。


   ……先代なんて、外していてもおかしくはないのに。


   然うしたら、余計に厄介なことになると……例えば、力尽くで破壊されるとか。
   先代なら、やりかねない……と言うより、絶対にする。


   ……。


   何度もされたのかも知れない。それでとうとう諦めて、改めて組み直した。
   其の方が結果的に、無駄な時間と手間が掛からないから。


   ……言っても、どうせ聞かないでしょうし。


   マーキュリーのことになると、より一層莫迦になるから。


   ……そもそも、どうして分かるのかしら。


   勘が働くんだよ……ジュピター特有の勘がね。


   ……優秀な検知機能ね。


   うん、良く出来ているんだ……。


   ……。


   屹度、何度も壊したんだろうな……其の度に、先生に叱られて。
   ふふ……言い訳している師匠の姿が目に浮かぶようだ。


   ……兎に角、しつこいみたいだから。


   先生……先代のことになると、ね。


   ……あなたにそっくりだわ。


   あたしは……何度も言っているけれど、あそこまでじゃないよ。


   ……ジュピターにも型はあるのだけれど、あなた達はたまたま似通ったものだったのね。


   適当に選んだとは、言っていたけど。


   ……先々代は、無口で無愛想で、朴念仁だったと。


   らしいね……。


   ……ちっとも、似ていない。


   其の方が、好みだったかい……?


   ……。


   ……マーキュリーには、あたしの方が良いと思うんだ。


   自意識過剰……。


   ……へへ。


   ……。


   でもさ……。


   ……ん、なに。


   朴念仁であっても、マーキュリーを愛した……其れだけは、どんな型であろうとも変わらない。


   ……曰く、其れだけは取り除くことが出来なかったと。


   当然さ……其れは、あたし達の動力源にも等しいのだから。


   ……どんな力を持ってしても、取り除くことは不可能だろうとも。


   使い物にならないようにしたいのなら、今からでも取り除けば良い……。


   ……然うすることで、失う人形はジュピターだけではない。


   死なばもろとも……だ。


   ……本当の所は分からないけれど。


   分からないけど……先々代は、共に終わった。
   あたしにしてみれば、其れだけでも十分な証左になる……。


   ……。


   先々代のマーキュリーは、奔放で風変わりなひとだったんだっけ……。


   とても、自由……先々代ジュピターの日記には、然う記されているわ。


   想像出来ないな……奔放で自由で、風変わりなマーキュリーなんて。


   ……然ういう型も、中には混じっているのでしょう。


   けど、朴念仁には合っているかも知れない……。


   ……朴念仁なジュピターなんて、想像出来ないわ。


   然うかな。


   然うよ。


   まぁ、中には然ういう型も混じってるんだよ。
   数は少ないかも知れないけれど。


   ……次は、無口な朴念仁を引くかも知れないわ。


   然うしたら……奔放で風変わりなマーキュリーかな。


   ……先代のようなマーキュリーかも知れない。


   ……。


   お互い、干渉しないでしょうから……ん。


   ……いや、然うとは言えない。


   どうして……。


   ……無口で朴念仁であっても、マーキュリーをひとり、放っておくことはない。


   ……。


   それが、ジュピターだからね……。


   ……使命を忘れているにも程があるわ。


   忘れてはいない……でなければ、マーキュリーと一緒に居ることは出来ないから。


   ……。


   ね……あたしが、居ない時は。


   ……面倒だから、滅多なことがない限り、ひとりでは籠らないようにしているわ。


   ん、其れなら良い……。


   ……ひとりの方が効率が良いのだけれど。


   あたし以外の誰かが居ると、気が散って集中出来ない……其れは、分かるよ。


   ……あなたが居なければ、邪魔されない分、作業効率は上がるのだけれどね。


   問題は、誰かが居たところで……変調を、決して見せようとしないことだ。


   ……マーキュリーだもの、弱みは見せられないわ。


   己の民にも……。


   ……あなたもでしょう、ジュピター。


   ……。


   だからこそ……曰く、支えが必要になるのよ。


   ……支え、か。


   ん……ジュピター。


   ……そろそろ、戻ろうか。


   ……。


   そして……また。


   ……もう、しないわ。


   ……。


   一度で、十分よ……。


   ……本当に、十分?


   ええ……十分。


   ……。


   あなたは、足りないでしょうけど。


   ……足りない。


   ふふ……。


   ……マーキュリー。


   だめよ?


   ……うん、分かった。


   ……。


   きれいだな……。


   ……先に戻るわよ。


   待って、一緒に行く……。


   ……直ぐ其処なのにね。


   ……。


   ……ジュピター。


   ねぇ……本当に、だめ?


   ……だめよ。


   ……。


   ……自分の部屋に、戻る?


   戻らない……今夜は、マーキュリーと一緒に眠る。


   ……然う。


   腕……。


   ……どちらでも。


   なら……枕に。


   ……痺れても、知らないわよ。


   大丈夫だよ……子供の頃から、しているから。


   ……。


   ……おやすみ、マーキュリー。


   おやすみさない……ジュピター。


   ……。


   ……。


   ……。


   ……眠れそう?


   其れを、聞く……?


   ……ええ、聞くわ。


   熱は、未だ……此の中で、燻っている。


   ……。


   ……でも、無理にはしない。


   ジュピター。


   ……なに。


   なんでもない。


   ん……そっか。


   ……。


   ……大丈夫だよ、何もしないから。


   ……。


   ん……マーキュリー。


   ……ふふ。


   あまり、刺激しないで呉れると……。


   ……面白い。


   えぇ……。


   ……。


   わ……。


   ……あと、一度だけ。


   え……。


   ……と、言って欲しい?


   ……。


   ふふふ……。


   ……言って欲しいよ、マーキュリー。


   でも、言わないわ。


   ……。


   ……言葉では、言わない。


   言葉では……。


   ……。


   其れは……躰でならって、こと?


   ……さぁ。


   ……。


   ……ジュピター。


   ここからは……躰で、話そう。


   ……。


   ……未だ、伝え足りないんだ。


   ほどほどに、してよね……。


  2日





   ……水野さん?


   ん……。


   ……朝ごはん、出来たよ。


   然う……。


   ……食欲、ない?


   だとしても、少しは食べるわ……。


   ……無理はしないで良いからね。


   無理なんてしない……だから、心配しないで。


   ……それは、無理だよ。


   やだ……。


   ……うん、熱はないみたいだ。


   熱は、出ないわ……知っているでしょう。


   知ってはいるけど、念の為。
   症状は色々あるって聞いたから……発熱も、そのうちのひとつだろ?


   私は、熱は出ないの……。


   ……今はね。


   離れて……。


   ……うん。


   ……。


   そんな顔をしないで……気が滅入るから。


   ……これで、どうかな。


   引き攣っている。


   ……。


   いつものことでしょう……そろそろ、慣れて。


   こういうことは、慣れるものではないと思うんだ。


   ……。


   ……慣れてはいけない気がする。


   恐らく。


   ……ん。


   恐らく、夏の疲れが重なっただけだから……休んでいれば、回復するわ。


   ……今日、一日では。


   然うだとしても……ずっと酷い状態が続くわけじゃない。
   夜になれば、幾らかは回復している……だって、これは然ういうものだから。


   ……。


   木野さんは、学校に行って……今日は、小テストがあるんでしょう。


   ……考えているんだ。


   行って。


   ……分かった。


   学校には、自分で連絡するから。


   ……うん。


   はぁ……。


   ……テストが終わったら、直ぐに帰ってくるよ。


   ……。


   化学は4限なんだ、だから帰ってきてから昼ごはんを作るね。


   ……ひとりでも問題ないから、帰ってこなくても良いわ。


   大丈夫、中学の時のように無断では帰ってこないよ。


   ……然ういう問題ではないの。


   今日は、バイトも


   休まなくて良い。


   ……。


   学校が終われば、アルバイトの時間でしょう。
   そのまま、行って。


   ……つまり、帰ってくるなと。


   高校は中学とは違うの、授業はちゃんと受けて。


   ……早退は欠席にはならない、前に先生に確認したんだ。


   正当な理由による早退ならば……でしょう。


   今日の早退は、さぼりじゃないよ。


   嘘を吐くのは、


   決して、さぼりなんかじゃない。


   ……。


   早退する為の理由は、体調不良にしようと考えてる。


   ……体調不良?


   それが一番手っ取り早いと思って。


   ……あなた、然ういった嘘は苦手でしょう。


   うん……どちらかと言えば、苦手。


   だから……中学の頃は、無断で。


   まぁ、面倒だったというのもあるけどね。


   ……。


   本当だったとしても……どうせ、信じて貰えないから。


   ……結局は、積み重ねなのよ。


   ん、然うだね……今は、分かっているつもりだよ。


   ……。


   水野さんに出逢ってからは


   出逢ってからも、暫くの間は無断だった。
   帰らなくても……屋上や、図書室で時間を潰して。


   ……直ぐには出来なかったから、少しずつ減らす努力をしたんだ。


   ……。


   図書室と言えば、高校のも悪くないけど雰囲気は中学の方が好きだな。


   ……中学の頃に比べたら、あまり行かなくなった。


   ……。


   ……ふたりで行ったのは、数えるほど。


   今度、一緒に行こうか。


   ……別に良い、用があればひとりで行くから。


   ……。


   ……今の木野さんは、何かと忙しいでしょう。


   水野さん……。


   ……時間、大丈夫なの。


   あぁ、うん……朝ごはん、持ってくるね。


   ……。


   今朝はね、お腹があったまるように卵粥にしたんだ。


   ……苦瓜は?


   一応、温野菜にはしたけど。


   ……少しだけ、食べるわ。


   ん、分かった。


   ……。


   ……。


   ……支度をしながら、答えて。


   うん……。


   ……それで、どうするつもりなの。


   ……。


   早退する、理由……。


   ……家族を看病する為に帰りたいと言ったら、どうだろう。


   家族……?


   然う、家族。


   ……おばあさまを、理由にするの。


   それでも良い。


   ……絶対に止めて。


   ……。


   私の為に……おばあさまを使うなんて、嫌よ。


   ……祖母には、前以て連絡しておく。


   は……。


   学校から連絡が来た時の為に。


   ……話を合わせて貰うつもりなの。


   ごはんを食べたら、電話しようと思っているんだ。
   驚かしてしまうかも知れないけど、でも、祖母なら。


   ……木野さん。


   祖母なら……きっと、分かって呉れる。


   ……私の為に、止めて。


   祖母は足が悪いから……実際、お医者にも通っているし。


   本当に止めて。


   ごめん、聞けない。


   こんなことで


   あたしにとっては、学校よりも大事なことなんだ。


   ……。


   バイトは、


   休まないで。


   ……一時間、早めに帰して貰えるようにする。


   その理由も、


   いや、店長にはちゃんと言う。


   ……。


   大事なひとの傍に居たいって。


   ……。


   店長も……きっと。


   ……ばかなことばかり。


   目の前で。


   ……。


   ……倒れたのを、見たら。


   もう、初めてではないわ……。


   ……だとしても呼吸が止まる、どうしても慣れない。


   ……。


   傍に居たい。


   ……。


   どうぞ、水野さん。
   ゆっくり食べてね。


   ……私を、優先しないで。


   ごめん、無理だ。


   ……私みたいな人間を。


   水野さんになんて言われようとも……あたしは、水野さんを優先する。


   ……。


   今日の5限は現文、6限はなんだったかな。


   ……日本史でしょう、もう二学期に入ったのだからいい加減憶えて。


   夏休み明けだから、ついうっかり。


   もう……何がうっかりよ。


   ……大丈夫だよ。


   ……。


   ……水野先生も居て呉れるし。


   ばかね。


   ……はい、ごめんなさい。


   ……。


   飲みものは、あったかいお茶で良いかい?


   ……ねぇ、木野さん。


   ん、他のものが良い?
   然うなると、白湯か……ホットミルクかな。


   ……その前に、取って。


   え?


   ……取って。


   分かった、何を取れば良い?


   ……。


   水野さん?


   ……分からないの?


   うん、分からない。


   ……ばか。


   ごめん。


   ……もう、良い。


   本当に?


   ……。


   言って……水野さん。


   ……本当は、分かっているんでしょう。


   ううん……分からないよ。


   ……。


   然うだなぁ……キスが欲しい?


   違う、要らない。


   ほらね?


   ……ふざけて。


   そもそも、キスだったら取ってとは言わないか。


   ……。


   水野さん、朝の時間はあっという間に経ってしまうから。


   ……もう良いって言ったわ。


   聞きたいんだ。


   ……。


   聞かせてよ……水野さん。


   ……いや。


   ん……そっか。


   ……。


   それで、飲みものは何が良い?


   ……木野さんのばか。


   うん、ごめん。


   ……本当は、分かっているくせに。


   答え合わせがしたい。


   ……。


   だから……教えて欲しいんだ。


   ……あなたの答えを先に示して。


   あたしの?


   でなければ……答え合わせは出来ないわ。


   ……。


   ……早く、示して。


   待ってて……。


   ……早く。


   ……。


   ……。


   ……一昨日、贈ったものなのだけれど。


   ……。


   ……これで、良い?


   ……。


   それとも……。


   ……焦らさないで。


   あ。


   ……。


   ……ごめんよ、少し意地悪だった。


   ……。


   これで、合ってる……?


   ……さっさと、取って呉れれば良かったのに。


   ごめんね……。


   ……。


   指に着ける……?


   ……着けて。


   ……。


   別に……深い意味なんて、ないの。


   ……右手を。


   ……。


   ……ん、やっぱりぴったりだ。


   ……。


   とても、似合ってる……。


   ……木野さんも、ここで食べて。


   うん、然うする。


   ……。


   ……待ってなくても。


   悪いの……。


   ……悪くない。


   私は、時間があるもの……。


   ……ふふ、然うだった。


   おばあさまに、電話をするんでしょう……。


   ……うん、食べ終わったら。


   だめだと、言われたら……授業を、受けて。


   ……言われたらね。


   言うわ……。


   ……言うかな。


   きっと……。


   ふふ……そっか。


   ……。


   ……傍に、居るよ。









   ……。


   ……ただいま。


   ……。


   水野さん……寝てる?


   ……。


   ……。


   ……さわらないで。


   あ……。


   ……おかえりなさい。


   うん……ただいま。


   ……。


   気分は、どう……?


   ……あまり、変わらない。


   そっか……。


   ……未だ、そんなに経っていないもの。


   走って帰ってきたんだ。


   ……ばかね。


   ん。


   ……あなたが向かう場所は、ここではないのに。


   だけど、誰も見ていないよ。


   ……分からないわ。


   何か必要なものを取りに来たと思われるかも知れない。


   ……なら、その何かを持って部屋から出ないと怪しまれるわね。


   ふふ……そこまでは、見ていないさ。


   ……結局。


   結局?


   ……4限で、早退したのね。


   うん……祖母の体調があまり良くないから、かかりつけのお医者に連れて行くって言ってね。


   ……。


   早く行かないと、遠いから間に合わない……。


   ……帰りは、夜ね。


   夜中になる前には帰ってくるよ……。


   ……足を理由にするのは止めたのね。


   祖母が、その方が良いだろうって……。


   ……やっぱり、あなたのおばあさまだったわ。


   学校よりも大事だって、言って呉れたよ。


   ……本当、嫌になる。


   お大事に……って、言ってた。


   ……朝も、聞いた。


   ……。


   ん……木野さん。


   ……ただいまのキス。


   要らない……。


   ……食欲は、どう?


   あまり、ない……。


   ……昼ごはん、一応作るね。


   ……。


   うどん、買ってきたんだ。


   ……苦瓜は、使うの?


   使って良いのなら、挽肉と苦瓜のうどんを作ろうと思う。
   祖母のおすすめなんだ。


   ……使わなかったら?


   苦瓜を葱に変える。


   ……。


   どちらにも、生姜を入れるんだよ。


   ……苦瓜で。


   ……。


   ……おばあさまのおすすめなら、食べても良い。


   分かった、なら苦瓜で作るね。


   ……。


   着替えてから作るから、ちょっと待ってて。


   ……ん。


   ……。


   小テストは、どうだったの……。


   ん……出来たと思う。


   ……思う?


   出来たよ……水野さんと復習したから。


   ……出来ていなかったら、許さない。


   はは……。


   ……。


   ……ね。


   なに……。


   ……指輪。


   ……。


   ……少しは、役に立ったかな。


   ……。


   ……。


   ……木野さん。


   ん……?


   ……やっぱり、言わない。


  1日





   ……はっ。


   ん……。


   ……。


   なに……どうしたの。


   ……あたしの、からだ。


   からだが、どうかした……ん。


   ……。


   ちょっと……なに。


   ……小さくない。


   は……?


   ……水野さんも、小さくない。


   ……。


   はぁ……良かった。


   なにを言っているの……あと、触らないで。


   ……夢で、本当に。


   夢……?


   ……ねぇ、水野さん。


   どんな夢を見たのか、知らないけれど。


   今のあたし……赤ちゃんじゃ、ないよね。


   ……。


   ちゃんと、高校生だよね……?


   ……はぁ?


   手も大きいし、他も小さくない、躰もちゃんと動……う。


   ……とうとう、おかしくなったの?


   と、とうとうってなに……。


   ……正気?


   しょ、正気だよ。


   高校生だとか、赤ちゃんだとか……あなたは一体、何を言っているの。


   ゆ、夢の話かな……高校生は、違うけど。


   寝言……若しくは、寝惚けている?


   寝言ではないし、寝惚けてもいない……ちゃんと、起きてる。


   ……。


   目が覚めた時、一瞬、現実と夢の区別がつかなくて……だから、確かめようと。


   ……魘されては、いなかったようだけれど。


   ……。


   あなたは、どんな夢を見たの。
   ひとの躰を撫で回すくらいなのだから、それ相応の内容なのよね。


   ……赤ちゃんになった夢、だと思う。


   ……。


   ……躰が赤ちゃんのように小さくなっていて、どこか知らない部屋で寝かされているんだ。


   赤ちゃんになる、或いは、戻る夢を見たとして。


   う、うん……。


   未だに、私の躰を撫で回さなければならないような内容だったのかしら。


   ……え。


   それとも、未だ確かめている最中だと言うの。


   あ、いや……。


   若しもこのまま、撫で回すことを止めないと言うのなら……こちらにも、考えがあるのだけれど。


   ご、ごめん、手が勝手に……あ、頭の中では、止めたつもりでいたんだ。


   ……取り敢えず、離れて。


   はい……。


   ……。


   ……あの、水野さん。


   夢の中で、あなたは誰かに触っていたの?


   ……。


   赤ちゃんの小さな躰で。


   ううん……違うんだ。


   何が違うの。


   流石に、赤ちゃんじゃ……思うように、触ることは出来ないよ。


   思うように?


   意識は、あたしなんだ。
   小さい躰の中に、あたしが入ってるような感じと言うのかな。


   ……離れたところで、見ているわけではないのね。


   うん、然うじゃないんだ……まぁ、どっちが良いとは言えないんだけど。


   じゃあ……誰かに撫で回されていた?


   ……。


   然うなのね。


   ……撫で回されていたと言うより、優しく、撫ぜられていたと思う。


   ふぅん……然う。


   だ、誰にとは、聞かな


   聞かないわ、興味ないから。


   そ、そっか、よ、良かった。


   ……何が良かったの。


   え……。


   要するに、私以外の誰かなのね。


   ち、違うよ。


   別に、良いけれど。


   そ、そもそも、夢にはあたしと水野さんしか……。


   ……。


   あ。


   ……然ういえば、私のことも小さくないと言っていたわよね。


   ……。


   まさか、私も赤ちゃんになっていたと言うの。


   あ、赤ちゃんにはなってない……赤ちゃんだったら、あたしを撫ぜられないだろう?


   ……。


   た、ただ……今の躰よりは、小さかったと思うから。


   ……それで、撫で回したと。


   か、確認する為に……?


   ……やっぱり、頭が。


   ゆ、夢だよ、ただの。
   あたしは、おかしくなってない。


   ……願望?


   そ、そんな願望、ないよ。


   ……無意識のうちに。


   ないから。


   ……。


   ないよ……信じて。


   はぁ……良いわ、これ以上は聞かないでおいてあげる。


   ……うん、然うして呉れると嬉しい。


   全く……吃驚させないで。


   ……ごめん、起こしちゃって。


   外……未だ、暗いわね。


   ……今、何時だろう。


   2時を過ぎたところ……。


   ……流石に、起きるにはまだ早いよね。


   起きたいのなら、止めないわよ。


   ……ううん、寝直す。


   然う……なら、今度はおかしな夢を見ないと良いわね。


   ……水野さんが出て呉れるなら、楽しい夢が良い。


   ……。


   ふたりでどこかに遊びに行っているとか、ふたりでごはんを作っているとか……図書館デートでも、良いな。


   ……夢でまで?


   だって……楽しいし。


   ……。


   あれが、夢で良かった……現実的には有り得ないと分かっていても、それでも。


   怖い夢ではなかったのでしょう……ただ、おかしいというだけで。


   ……それがある意味、怖かった。


   ……。


   ……あんな夢、とても。


   話したいのなら、聞いてあげても良いけれど。


   ちょっと、話せない……恥ずかしくて。


   恥ずかしい?
   怖かったのに?


   ……怖いにも、色々あると思うんだ。


   ふぅん……まぁ、良いけれど。
   私が恥ずかしいわけではないし。


   ……。


   眠れそう?


   ……続きを見なければ。


   見そうなの?


   ……分からない。


   ……。


   ごめん、ちょっと顔を洗ってくる。


   ……足元には、気を付けて。


   うん……気を付ける。


   ……明かりを点けても。


   ううん、見えるから……おわっ。


   言っているそばから。


   いや、足がふらついて。


   本当に大丈夫なの?


   赤ちゃんになる夢を見たからかな……歩くのが、なんとなく覚束ない気がする。


   ……赤ちゃんのあなたは未だ、歩ける程には成長していなかったのね。


   うん、然うだと思う……手足を動かすだけで、精一杯で。


   若しかして、寝返りも打てない?


   打てなかったと思う……いや、打てたかな。


   ……生まれて半年くらいかしら。


   然うだ、たまに背中か腰に手を当てられたような気がする。


   ……。


   若しかしたら、寝返りするのを支えて呉れたのかも知れない。


   どうして然う思うの?


   なんとなく、そんな気がする。


   それで、打つことは出来たの?


   そこまでは憶えてないんだ……けど、出来たんじゃないかな。
   支えて呉れる手が、とても優しかったから。


   ……順当に考えると、その手はご両親のものだと思うわ。


   でも、両親は居なかったんだ……居たのは、水野さんだけで。


   ……私が、あなたの子守りをしていたとでも言うの。


   た……多分、状況的に。


   はぁ……随分と変わった夢を見たものね。


   うん……本当に。


   ……。


   ほんと、なんなんだろね……。


   ……知らないわよ。


   そ、然うだよね……。


   ……思うのだけれど。


   な、なんだい?


   その赤ちゃんは、本当に木野さんだったのかしら。


   え?


   例えば、あなたの未来の子供とか。
   だとすれば、傍に居た


   ない、それはない。


   ……言い切ったわね。


   言い切るよ。
   だって、間違いなく意識はあたしだったんだ。


   子供の躰の中に入り込んだのかも知れない。


   ううん、間違いなくあたしだよ。


   どうして然う言い切れるの。


   その赤ちゃんは、あたしの名前で呼ばれていたから。


   ……。


   小さい水野さんが呼んでいたのは、あたしの名前だったんだ。


   つまり……まこと、と?


   ううん、ちょっと違う。


   ……どう呼ばれていたの。


   まこちゃん、と。


   ……まこちゃん?


   まことだから、まこちゃん。
   他の名前だったら、然うは呼ばれないと思うんだ。


   ……未来の子供に、自分と同じ名前を付けたと言えなくもないわ。


   あたしは、水野さんの名前から付けたい。


   ……。


   兎も角、あの赤ちゃんはあたしだ……他の誰でもない。
   だけど若しも、あたしの未来の子供だと言うのなら……その子は、水野さんとの子供だよ。


   有り得ない。


   養子なら、考えられるだろう?


   それも、


   今は無理でも、将来的に法律が改正されるかも知れない。
   然うしたら、あたし達の間に子供が居ることだって


   なんにせよ、私は子供は望まない。
   若しも望むのなら、別のひとと


   水野さんが望まないのなら、やっぱりあの赤ん坊はあたしだ。


   ……。


   赤ん坊のあたしを、小さな水野さんが見て呉れているんだ。


   ……滅茶苦茶だわ。


   あたしも、然う思う。


   ……私が、赤ちゃんのお世話なんて出来るわけがない。


   でも、水野さんだった。
   間違いようがない。


   ……若しかして。


   ん?


   ……育児放棄、されていたかも知れない。


   ううん、されてない。


   私だと言うのなら、


   だって、優しく撫ぜて呉れていたから。


   ……。


   小さいけれど……温かくて、柔らかい手だった。


   ……憶えているの。


   ん……今、思い出した。


   ……今、ね。


   ……。


   ……そもそも、私の手は温かくないわ。


   ……。


   ……子供の頃から、私の手は。


   だけど……あの手は、水野さんの手だ。


   ……怖い夢だったと、あなたは言った。


   ……。


   温かくて、柔らかい手だったのなら……どうして、怖い夢だと。


   ……それは。


   これ以上はもう、聞かないわ。


   ……。


   ……ただの夢よ。


   うん……ただの夢だ。


   ……顔、洗いに行かないの。


   行ってくる……。


   ……ふらつかないよう、気を付けて。


   ねぇ、水野さん。


   ひとりで行けるでしょう……今のあなたは、赤ちゃんではないのだから。


   ……。


   ……私はここで、あなたが戻ってくるのを待ってる。


   うん……分かった。


   ……。


   ……ふぅ。


   ……。


   花……花……どんな、花。


   ……何、その言葉。


   ん……祖母が、庭の花の面倒を見る時にたまに言っていたんだ。


   ……。


   まるで、花に話しかけているように。


   ……どうして、そんな言葉を。


   ん……なんでだろう。
   ふと、頭に浮かんだんだ……。


   ……。


   ……水、少し冷たくなったかな。


   もう、秋だから。


   ……昼間は未だ、温い時があるけど。


   いずれ、冷たくなるわ……。


   ……然うだね。


   ……。


   ……。


   ……木野さんが赤ちゃんの頃の写真は。


   もう、残ってない。
   処分されてしまったから。


   ……然う。


   水野さんが赤ちゃんの頃の……。


   ……ないわ、一枚も。


   そっか……。


   ……思えば、父親も薄情なひとだった。


   ……。


   私には、子供は育てられない……きっと、繰り返してしまうから。


   ……あたしが、傍に居ても。


   あなたが、見ていないところで。


   ……。


   ……あのふたりの血が、私の中にも流れている。


   そんなにも……。


   ……最早、これは呪いなのよ。


   ……。


   夢の続き、見ないと良いわね。


   ……もう、見ないと思う。


   ……。


   ……顔、洗ったから。


   ふ……何よそれ。


   ……はは。


   ……。


   ……。


   ……もう、良いの。


   うん……さっぱりした。


   ……足は。


   ん、もう大丈夫。


   ……。


   改めて、起こしちゃってごめんね。


   ……もう、良いわ。


   じゃあ、また……おやすみ、水野さん。


   ……ええ、おやすみなさい。