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日記
2025年・8月

  31日





   このお菓子、久しぶりに食べたけどやっぱり美味しいなぁ。


   ……クレープ生地が崩れてしまって、食べ辛いわ。


   そうそう、美味しいんだけどこぼれちゃうんだよ。
   だから、家で食べる時は何か敷いて食べないと。


   ……。


   小さい頃はお菓子をこぼすと蟻が入ってくるって言われたっけ。


   ……いっそ袋の中で崩して、口の中に流した方が良いかも知れない。


   そんな、粉薬を飲むみたいに。
   このお菓子の良さは、


   このサクサクとした食感にある、でしょう。
   それは分かっているわ。


   薄いクレープ生地が重なって、何層にもなっているのが良いんだ。


   ……。


   初めて食べた時は、これがクッキーだとは思えなかったなぁ。
   あたしの中でクッキーと言えば厚みがあって、丸かったり、細長かったり、星型だったりさ。


   ……流し込むと、喉に張り付いて咽る可能性があるわね。


   えと、そんなに真剣に考えなくても良いと思うよ。
   こぼしちゃったらこぼしちゃったで、仕方ないからさ。


   ……。


   あまり、好きではない?


   ……味は悪くないけれど、食べ辛い。


   もう、食べたいとは思わない?


   ……あれば、食べるわ。


   じゃあ、たまには買ってきてみようかな。
   こんなお菓子は、自分では作れないし。


   木野さんなら、そのうち作れるようになると思うけど。


   作ってみたいとは思うけどね……未だ、難しいかな。


   ……食べたいのなら、たまに買ってくれば?


   買ってきたら、紅茶を淹れてまた一緒に食べよう。


   ……買ってきたらね。


   うん。


   ……。


   こういうお菓子ってさ、あたしの中では高級菓子の位置づけなんだ。


   高級菓子?


   あと、箱入りのパイとか。


   ……ふぅん。


   水野さんは……小さい頃にお菓子をあまり食べたことがないんだよね。


   ええ、ないわ。
   私の手が届く範囲に、お菓子というものはなかったから。


   ……クッキーも。


   曰く、子供が甘いものを食べると莫迦になる。


   ……虫歯にはなったとしても、そんなことは全くないのに。


   あの女が食べているところは何度か見たことがあるけど、莫迦になるから食べたいとは思わなかったわ。
   私が見ていると分かるとこれ見よがしに食べて、けれど私は莫迦とはこういうひとのことを言うのかと考えていた。
   それがまた、気に入らなかったのでしょうね。私としては、態度に出したつもりではなかったのだけれど。
   自分への反感にだけは無駄に敏感なのよ、ああいうタイプは。


   ……。


   小さい子供を騙すなんて、汚い大人にしてみればとても簡単なこと。
   けれど、子供だっていつまでも小さいわけではないわ。必ず、どこかの時点で気付くの。


   ……物心がついた頃には、水野さんは気付いていた。


   だからと言って、言葉にすれば面倒なことになるのは分かりきっていたから。
   それに滅多に食べたことがなかったから、食べてみたいとも思わなくなっていた。
   簡単に言えば、どうでも良かったのよ。そんなものを食べなくても、別に死にはしないし。


   ……。


   その頃から既に食への感心なんてほとんどなくてね。お腹に収まりさえすれば、それで良いと。
   つまり、生命活動をする上で必要最低限のカロリーを摂ることさえ出来れば、それで良かったの。
   保育園や小学校に行けば、給食があったし……まぁ、長期の休み対策はしなければならなかったけど。
   幸い、お金だけはあったし、なんとでもなったわ。便利よね、食べ物が買えるのって。わざわざ作らなくても良いんだもの。


   ……それでも、甘いものを買おうとは思わなかったんだろ。


   ええ、あの女のような莫迦になるから。
   それだけは、絶対に嫌だったの。


   ……水野さんが然ういう考えを持つようになったのは、全部。


   全部、私が捻くれていたせい。
   今は誰かのせいで、大分、改善されたけれど。


   違う……全部、あのひとのせいだ。


   ……だから、もう二度と関わりたくないの。


   小さい頃から……もっと、食べていれば。


   骨と皮ではなかったでしょうね。
   身長も、もう少し伸びたかも知れない。


   ……。


   そんな顔しないで。


   ……ごめん、こんな話。


   別に構わないわ。


   ……。


   このお菓子、木野さんは小さい頃から好きだったの?


   うん……好きだったよ。


   おばあさまとも食べた?


   うん、たまに買って貰って。
   小さい子供ではなかったから、ねだることはしなかったけど。


   それでも、買って呉れたのね。


   うん、お茶請けに良いって言って。


   ……木野さんに、おばあさまが居て呉れて良かったわ。


   ……。


   私のように……拗れてしまわないで。


   ゆっくり、解いていこう。


   ……解ければ、良いけれど。


   時間をかければ……全部は、難しくても。


   ……。


   あたしに、出来ることがあれば……なんでもする。


   ……なんでも?


   然う、なんでも。


   ……そんなこと、簡単に言うものではないわ。


   ……。


   でも、言うのよね……木野さんって。


   ……ごめん。


   ねぇ、木野さん。


   ……なんだい。


   手伝って。


   ……。


   ……雁字搦めに、なってしまわないように。


   水野さん……。


   ……ひとりでは屹度、解けないから。


   ……。


   これからも……私の傍で。


   ……うん、幾らでも手伝うよ。


   だから。


   う、ごめん。


   ……。


   ……お茶のお代わり、要る?


   ん……。


   ……分かった、ちょっと待ってて。


   はぁ……。


   ……今度こそ、しあわせ?


   だから、どうして然うなるの。


   ……然うだと良いなぁって。


   ……。


   ね……白い秋桜の花言葉って、知ってるかい?


   純潔。


   ……それと。


   優美、美麗。


   ……やっぱり、知ってた。


   秩序ある美しさ。


   ……うん?


   だから、Cosmos。


   ……それは、花の名前のこと?


   名付けた人間が、どうしてこの花を見て然う思ったのかは分からないけれど。


   ……秋桜は元々、メキシコの高原地帯に咲いていたらしい。


   それを、当時の侵略者が持ち帰った。
   掠奪したものと一緒に、血に塗れた手で。


   ……。


   ……自分達の都合の良い、秩序。


   この国では、秋の桜と名付けた。
   秩序なんて関係ないよ。


   ……。


   はい、どうぞ。


   ……ありがとう。


   どういたしまして。
   なんとなく、この国らしいと思うんだ。


   ……好きよね、桜。


   ふふ、然うだねぇ。
   でもあたしは梅も好きだな、素朴で可愛らしくて。


   来年、また見に行くの?


   うん、一緒に行こう。


   そればかりね、あなた。


   嫌かい?


   嫌ではないけれど。


   なら、決まりだ。


   ……。


   実際は、歌で広がったらしいよ。


   ……歌?


   秋桜(あきざくら)と書いて、コスモスと読む。


   ……。


   今度、一緒に聴いてみる?
   聴けば、知っているかも知れない。


   それ、有名な曲なのでしょう。


   うん、あたし達が生まれる前に流行った歌だ。


   恐らくは、聴いたことぐらいはあると思うわ。
   だけど、別に聴きたいとは思わない。


   ん、そっか。


   木野さんは好きなの?


   あたしは、まぁ、嫌いではないかな。
   祖母が好きでね、良く聴いていたんだ。


   ……。


   祖母は、その歌を歌う歌手が好きでさ。
   他の曲も良く聴いていたよ。いい日旅立ちとか。


   ……木野さんは、歌えるの。


   え。


   秋桜。


   あぁ、少しだけなら歌えるよ。


   全部ではないのね。


   ごめん、全部は憶えてない。
   憶えているのはサビ部分だけなんだ。


   ……なら、それで良い。


   え?


   歌って、聴かせて。


   え、あたしが歌うの?


   あなたは歌が上手だから。
   家庭科だけでなく、音楽も得意でしょう?


   音楽は歌うのは良いけど……楽器は、ちょっと。


   然うね。
   それで?


   えと……今?


   今でも良いわ。


   あー……。


   今度でも良いわよ。


   ん、んんっ。


   何。


   喉の調子を確かめようと思って。


   それで、どうだったの。


   また、今度で良い?


   良いわ、だけど忘れないでね。


   あたしがうっかり忘れても、水野さんが忘れないと思うから。


   忘れないわよ?


   じゃあ、近いうちに。


   楽しみにしているわ。


   ……。


   木野さん?


   いや、どこかで聴けないかなって。


   自信ないの?


   折角だから、ちゃんと歌いたいなって。


   ……。


   祖母の家に行けば、レコードがあるんだけど……。


   ……店長さんに聞いてみれば?


   店長に?


   世代は私達よりも上だし、若しかしたら。


   んー……一応、聞いてみようかな。


   ……。


   若しかしたら、有線で流れるかも知れない。
   ほら、今は秋桜の時期だから。


   ないとは言えないわね。


   うん。


   ……。


   ……。


   ……今年のお彼岸はどうするの。


   今年は……行ける時に行こうと思ってる。


   ……図書館は、帰りで良いわ。


   うん?


   ……お墓参りの。


   ……。


   ……待ち合わせをしても


   一緒に来て欲しい。


   ……なら、朝から出掛けましょう。


   うん……然うしよう。


   ……。


   ねぇ……両親に、報告しても良い?


   何を報告するの。


   ……あたし達が、婚約したこと。


   ……。


   だめ……?


   ……どうせするなら、ふたりですれば良い。


   あ……。


   ……あなたが報告している間、後ろでぼんやりしていろとでも?


   ううん……そんなこと、言うわけない。


   ……。


   来年は、結婚の報告をふたりで。


   気が早い。


   ……はい。


   ……。


   ……お花、どうしようかな。


   秋桜は?


   ……。


   この時期だけなのでしょう。


   ……色、選んで呉れる?


   私が?


   ……うん、水野さんが。


   秋桜だけ?
   他の花はどうするの。


   今回は秋桜だけにする。


   ……。


   今すぐにとは


   白と淡いピンク。


   ……。


   白は部屋のものと被るから、他の色が良かったら


   ううん、白と淡いピンクで。


   ……。


   ありがとう。


   ……どういたしまして。


   ……。


   ねぇ、水野さん。


   ……なに。


   免許が取れたら、両親を乗せた飛行機が墜ちた場所に行ってみようと思ってる。


   ……。


   今までずっと、行くことが出来ないでいたから。


   ……然う。


   急に、ごめん。


   ……別に良いわ。


   驚いてない?


   ……驚いてない、いつかは言うと思っていたから。


   ……。


   ひとりで行くの?


   ……。


   はっきり言ったら?


   ……言っても、良いかな。


   言わなければ、分からない。


   ついてきて欲しい。


   ……。


   どうか、ついてきて……あたしの傍に、居て。


   良いわ、居てあげる。


   ……あ。


   免許を取ったら、で良いのね。


   う、うん。


   ……然う、分かったわ。


   一日だけでは、無理だと思うんだ。


   泊まり?


   うん……良いかな。


   ええ……構わないわ。


   ……。


   ……傍に居るわ。


   手を、繋いで呉れたら……。


   ……それは、動きづらいでしょう。


   一瞬で良いんだ。


   ……。


   ……。


   ……一瞬ね。


   ……。


   ……おばあさまは、良いの?


   祖母はもう、足があまり良くないから。


   ……一応、聞いてみたら?


   ん……然うする。


   ……。


   ……ごめん。


   何が。


   ……お誕生日の次の日に、こんな重い話。


   いつでも、すれば良い。


   ……。


   私は気にしないから。


   ……水野さん。


   ……。


   愛してる。


   ……あぁ、然う。


   愛してる……。


   ……ちょっと。


   抱き締めたい。


   意味が、分からない。


   ……分かって。


   あ……。


   ……愛してる、亜美。


   もう……。


   …………愛してる。


   しかたがないひと……。   


  30日





   取り敢えず、ツナの醤油和えを作ろうかなぁ。あっさりしていて、箸休めには丁度良い。
   それから、豚肉と……焼肉のたれで炒めてみようか。食が進んで良いかも知れない……けど、濃いかな。
   となると……醤油と砂糖、にんにく、それから塩胡椒を少し……うーん、こっちも濃いかな。
   いっそ、塩胡椒だけでも良いかも……苦味は多少残るけれど、さっぱりはしてる。濃いのが食べたくない時は、こっちだ。


   ……。


   味噌汁の具……だと、少し苦味が目立つかな。油揚げと一緒だったら、大丈夫そうな気がするけど。
   それか、白だし……玉葱と卵を入れて……うん、こっちの方が食べやすいかも知れないな。


   ……尽くし。


   ん、なに?


   ……別に、何も。


   然う?


   ……どうぞ、思考を続けて。


   然うだ、水野さんは


   取り敢えず、木野さんに任せるわ。


   何か希望があるようだったら


   ちゃんと、聞いているから。


   え。


   ひとつも、聞き逃さずに。


   あ……うん、分かった。


   ……。


   明日の朝食のサラダは、鰹節とごま油を混ぜて……その場合は、しっかりと湯通しをしないと。今夜のうちにしておいて、冷蔵庫に入れておこう。
   然ういえば、トマトと卵で炒めるのも美味しいって、店員さんが言ってたな……明日の夕飯は然うしようかな。さっぱりしていて、食べやすそうだし。
   パンの具にするとしたら……チーズとマヨネーズで一緒に挟むのが良いかな。少し苦味のある胡瓜サンドみたいにしてみても、美味しいかも知れない。


   ……今日、トマトと炒めて。


   ん?


   苦瓜。


   うん、分かった。じゃあ、今夜はトマトと卵で炒めるよ。
   焼肉のたれで炒めるのは、また明日にしよう。


   全く……調子に乗って、二本も買うから。


   まさか、こんな立派な苦瓜が安く売ってるなんてさ。


   だからって、二本は買いすぎでしょう。
   小さいものならば、分かるけど。


   はい、ごめんなさい。


   木野さんは苦瓜が好きよね。


   うん、好きだ。
   苦瓜はさ、その名の通り苦味が良いんだよ。


   ……渋いと思うわ。


   自分でも然う思う。
   大人でもないのに、苦瓜が好きなんてさ。


   ……おばあさまが。


   ……。


   ……夏になると、苦瓜の料理を作って呉れたのでしょう。


   うん……なんだったら、三食苦瓜の日もあったよ。
   日除けに、育てていたからさ……結構涼しいんだ、苦瓜のグリーンカーテン。


   ……。


   元々ピーマンは嫌いではなかったし、わりと直ぐに好きになれたんだ。


   ……それでも、初めて食べた苦瓜は思っていたよりも苦かった。


   苦瓜は苦いものだ、と祖母には言われたなぁ。
   まぁ、それは然うなんだけどさ。


   二本の苦瓜。


   うん。


   想像していたよりも苦かったらどうするの。


   その時は、あたしが全部食べる。
   食べられないことは、ないし。


   ひとりで食べ切れるの。


   食べ切れるよ、苦瓜の料理は色々知っているから。


   ……それなら、良いけれど。


   下処理はちゃんとするから……然うすれば、そこまで苦みは残らないと思うんだ。


   然うだと良いわね。


   お弁当のおかずにもする予定……。


   ……まぁ、然うでしょうね。


   ねぇ、水野さん。


   なぁに、木野さん。


   一本でも、良かったかな……だけど、一本50円なんてそうそうないし。


   食べるわよ。


   え?


   苦くても。


   ……けど、想像していた以上に。


   食べられないわけではないから。
   ピーマンも、嫌いではないし。


   ……。


   食べないで良いのなら、食べないけど。


   ……食べて呉れると、嬉しいな。


   なら、美味しく作って。


   うん、美味しく作る。


   カレーにしても良いみたいよ。


   カレー?


   さっき、本屋さんで。
   まぁ、木野さんなら知っているとは思うけれど。


   調べて呉れたの?


   たまたま、目に入っただけ。


   ふふ、然うなんだ。
   ね、苦瓜の他には何を入れれば良いんだろう?


   いつものカレーと同じで良いと思うわ。


   となると、お肉とじゃが芋、人参、それから玉葱……の中に、苦瓜。


   色鮮やかなカレーになりそうね。


   緑はなかなかないから、斬新で良いと思う。
   カレーに胡瓜を入れようとは思わないし。


   同じ瓜なのに。


   胡瓜は付け合わせの方があたしは良いかなぁ。
   炒めても美味しいけど、カレーには入れようと思わない。


   緑だと、ブロッコリーもあるわね。


   あ、ブロッコリーのカレーも美味しいよね。牛肉にも豚肉にも、鶏肉も合ってさ。
   ブロッコリーは食感が残る程度に軽く煮込んでも良いけれど、最後に入れた方が彩りはきれいなんだ。


   あと、ピーマン。


   ピーマン?


   あなたが作る夏野菜カレーには大抵入っているでしょう。


   あ、そっか。ピーマンもカレーに入れるな。
   もっと言えば、ピーマンも苦瓜のように苦味がある。


   カレーに入っていると、そこまで気にならない。


   じゃあ、苦瓜カレーも美味しいかも知れない。


   名前だけ聞くと、そこまで美味しそうには聞こえないけど。


   ふふ、確かに。
   なんと言っても、苦瓜だからね。


   まぁ、作ってみたら?


   うん、作ってみるよ。
   やっぱり二本買って良かった。


   はいはい、然うね。
   それで、実際はどうなの? 美味しいもの?


   うん、美味しいよ。


   然う……なら、良いわ。


   ……。


   何。


   ……ん。


   苦瓜の話は、もうおしまい?


   いや……良かったなって。


   何が。


   水野さんが……夕飯、食べて呉れそうだから。


   ……呆れているだけよ。


   呆れながらも、食べて呉れたら嬉しい。


   ……勿体ないでしょう、無駄にするのは。


   うん……ありがとう。


   ……木野さんが苦瓜で、あんなにはしゃぐとは思わなかったわ。


   ほら、苦瓜ってあんまり売られてないだろう?
   しかも、あんな値段で。然うしたら、なんだか嬉しくなっちゃって。


   ……一緒に居て、恥ずかしかった。


   ごめん……言われてみれば、ちょっと離れていたよね。


   ……でも。


   でも?


   ……おばあさまを思い出したのだろうとも、思ったから。


   ……。


   なんだか、力が抜けてしまったわ。


   えと……じゃあ、結果的には良かったのかな。


   ……でも、もう止めて。


   あ、うん……取り敢えず、ゴーヤを持ってはしゃぐのは止めるよ。


   ……他のものでも、しないで。


   はい……。


   ……。


   ……水野さん、買い物に付き合って呉れてありがとう。


   お礼は要らない、買い物をすることは生活する上で必要なことだから。


   それでも、ありがとう。


   ……。


   やっぱりふたりだと楽しいんだ。


   ……あなたがアルバイトを始めてから。


   うん?


   ……一緒に居る時間が減ったから。


   水野さん……。


   ……深い意味はないわ。


   うん……分かっているつもりだよ。


   ……少し、詰まらないだけよ。


   うん……ごめんね。


   ……どうして謝るの。


   ひとりにしているから。


   ……別に、寂しいわけじゃないわ。


   ……。


   それに……ひとりで待っているのは、慣れているもの。


   ……。


   ……あなたは、帰ってきて呉れるでしょう。


   うん……必ず、帰るよ。


   ……誰も、連れて帰って来ない。


   あの部屋は、水野さんとあたしだけの場所だ……あたし達以外の者が侵すことは許さない。


   ……なら、良いの。


   けど……詰まらない。


   ……あなたと居ると、退屈しないというだけ。


   今日の夜は、時間があるから。


   ……明日の予習。


   ……。


   してないでしょう……なんにも。


   ……はい、予習します。


   何をするの……。


   んー……化学、かな。


   ……化学?


   うん……。


   ……まぁ、良いけれど。


   明日……実は、小テストがあるかも知れない。


   ……は?


   今、思い出して……。


   ……ばかなの?


   だから、予習と言うより復習……。


   ……範囲を、教えて。


   はい……帰ったら、直ぐに。


   ……本当、ばかなんだから。


   ごめんなさい……。


   ……。


   は、はは……。


   ……はぁ。


   しあわせ……?


   ……どうして然うなるの。


   そ、然うだったら、良いなぁって。


   ……残念ながら、全く違うわ。


   うん……然うだよね。


   ……己の莫迦さ加減に、つくづく嫌気がさしているだけ。


   莫迦さ加減……?


   ……自分のね。


   え、あたしじゃなくて?


   ……何度も言わせないで。


   いや、でも……なんでまた?


   ……あんなに偉そうなことを言ったのに。


   偉そうな……?


   ……考えないで良いわ。


   ……。


   ……店長さんにだって、あんな態度を取って。


   ん……あれは、失礼だったかな。


   ……分かっているから、言わないで。


   痛いほどに……?


   ん……木野さん。


   ……やっぱり、ふたりの時間は大切だと思うんだ。


   ……。


   ねぇ、水野さん。


   ……なに。


   お店のお花達を、少しだけ見てから帰らない?


   ……。


   お店は未だ、やっているから。


   嫌よ。


   あ。


   今日は……嫌。


   ……。


   ……どの面下げて。


   大丈夫だよ。


   木野さんは大丈夫でしょうね。
   でも、私は大丈夫じゃない。


   切り花が苦手なひとは、水野さん以外にも居るんだ。


   だから、何。


   だから、鉢植えのお花を見よう。
   お店には鉢植えのものも売られているから。


   ……何を言っているの。


   店長は、直ぐに分かったみたいだ。


   ……何を。


   兎に角、大丈夫だよ。
   お菓子のお礼も兼ねて行こう。


   ……お礼は、今日でなくては駄目なの。


   また、来て欲しいんだ。


   ……。


   そして、今日みたいに買い物をして帰りたい。


   ……そんなの。


   本屋さんにも寄って。


   ……。


   水野さん。


   ……やっぱり、嫌。


   ん。


   ……。


   そっか……。


   けど……遠くからでも、良いのなら。


   ……。


   ……それなら。


   ん……なら、然うしよう。


   ……。


   ね……お花達、きれいだったろう?


   ……売り物だもの。


   然うだけど……然うじゃなくて。


   ……。


   ……いつだって、花はきれいに咲いて呉れる。


   ……。


   本当は、誰の為でなく……。


   ……切り花。


   切り花は、あたしも苦手だったけど……でも、ちゃんと活けることが出来れば、花はいきいきと咲き続けて呉れるから。


   ……でも、枯れるわ。


   うん……然うだね、いつかは枯れてしまう。


   ……切らなければ。


   こればかりは……どうしようもないけれど。


   ……鉢植えの、おすすめは。


   鉢植えのお花だと、やっぱり秋桜かなぁ……あと、秋明菊もきれいだよ。


   ……。


   あとは、シャコバサボテンも良いかな……。


   ……一輪だけなら、飾っても良い。


   え……。


   ……たまには、悪くないわ。


   一輪って……切り花?


   ……秋桜。


   良いの……?


   ……その代わり、ちゃんと花瓶に活けて。


   うん、分かった……いい加減には、絶対にしない。


   ……行きましょう。


   ……。


   どうしたの?


   ん……嬉しくて。


   ……本当に、愛しているのね。


   うん、水野さんのことを。


   ……今は、良いから。


   本当のことだよ。


   ……。


   ……お花、きっと喜んで呉れる。


   然うだと……良いけれど。


   ……店長も。


   ……。


   ……う。


   それは……別にどうでも良いわ。


   そ、そっか……。


   ……お礼は、言うから。


   う、うん……。


   ……。


  29日





   あれ。


   何。


   早いね。


   悪い?


   悪くはないよ。


   もう少しで終わりよね。


   うん、あともう少し。
   今はお店の前を掃除をしていたところなんだ。


   見れば分かる。


   はは、然うだよね。


   掃除をしているということは、お客さんは来ていないのね。


   30分くらい前にひとり来て、それから誰も来てない。


   ふぅん……。


   そのお客さんが来る前は、お店の中の掃除をやっていたんだ。


   つまり、今日はあまり忙しくなかったのね。


   今日は人通りが少なくてさ、全体的に暇だったんだよ。
   おかげで時間が流れるのが遅くて、やっとこの時間。


   時間を潰す為に、掃除をしていたと。


   待っていても誰も来そうになくて、お花のお世話も終わってしまって。
   店内の整理整頓もしたけれど、それでも未だ手が空いているようなら掃除をする。


   ……。


   掃除も仕事のひとつだと思っているんだ。
   きれいにしているとやっぱり気持ちが良いからさ。お客さんも入ってきやすいと思うし。


   指示されたわけではなく、自発的にやっていると。


   ぼんやりしているより動いていた方が良いみたいなんだ、あたし。


   木野さんって、働くことが好きなのかも知れないわね。
   部屋に居てもぼんやりしていることなんてあまりなくて、何かしらしているし。


   働くことは嫌いではないよ、お金も貰えるしね。


   重宝はされそうだけれど、職場をひとつ間違えると良いように使われそうね。


   はは、気を付けるよ。


   ええ、せいぜい気を付けて。


   因みにこのお店は大丈夫だよ。
   店長さんは大らかで、とても良い人だし。


   だと良いけれど。


   水野さんも前に、話したことがあるだろう?


   確か女性なのよね。


   うん。


   どこが好み?


   朗らかで、お花が好きなところかな。
   花の話だけでなく植物全体の話も聞けるから、とても楽しい。


   それは、良かったわね。


   あたしの恋愛的な好みは、水野さんだけだから。


   そんなことは聞いていないわ。


   ふふ、そっか。


   ……。


   ね、折角だから見ていかない?


   ……花を?


   お店に並んでいるお花達は、今日もとってもきれいなんだ。
   水野さんにも見て欲しいな。


   店長さんは?


   今は休憩中。


   こんな時間に?
   お店をアルバイトひとりに任せて?


   今日は配達もあんまりないし、少し休んで貰ってるんだ。
   いつも色々忙しくしているから、たまには良いと思って。


   優しいわね。


   然ういうわけじゃないんだけど、もうすぐお彼岸だろう?
   お彼岸の時期はなかなか休めないと思うから、休める時は休んでおいた方が良いと思ってさ。
   お花屋さんは朝も早いし。それに、何かあれば直ぐに出てきて呉れるから。


   ただのアルバイトなのに、信用されているのね。


   ん、然うかな。


   お彼岸のシフトはもう決まったの?


   うん、お彼岸はほとんど入ってる。


   と言うより入れて貰ったんでしょう、あなたのことだから。


   稼ぎ時だし、働かないと。


   休みの日は、朝から?


   多分、お盆も然うだったから。
   その代わり、帰りは早いと思うんだ。


   然う……今年の祝日はアルバイトなのね。


   お彼岸を過ぎたら休みを貰うから、然うしたら植物園に行こう。


   ……別に、良いけれど。


   ね、水野さん。
   お花達、見ていかない?


   ここからでも十分に見えるわ、きれいね。


   お花は外だけでなく、お店の中にもあるよ。
   水野さんに見て貰いたいんじゃないかな。


   ……買わないわよ。


   それでも良いよ、見て呉れるだけで十分なんだ。
   兎に角、きれいに咲いているお花達を水野さんに見て欲しい。


   そんなこと、言っても良いの?


   だめかな。


   営業としては、だめでしょうね。


   あたしはアルバイトだし、来て呉れたお客さんの対応をするだけで精一杯だよ。
   レジミスだって出来ないし。お釣りの間違いなんて、以ての外だし。


   若しも、あなたのおすすめの花を聞かれたら?


   それくらいなら答えることは出来るけど、売る為の営業は出来ない。
   あくまでも、あたしのおすすめを教えるだけだから。


   然うかしら。


   うん?


   おすすめの花を答えること、それがそのまま営業文句になっていることは十分に有り得る。
   木野さんのことだから、聞かれていないこともやたらと細かく教えていそうだし。


   ……や、そこまで細かくは。


   実際、買って呉れたお客さんは居たのではないの。


   ……。


   そんなお客さんは、全く居なかった?


   ……全く居なかったわけではないけど、それは大抵、どの花を買って良いか迷っていたお客さんで。


   結果的に、営業になってる。


   だけど、たまにだよ。


   アルバイトだもの、たまにでも十分でしょう。


   ……。


   木野さんは対応が丁寧で、態度は柔らかいし、表情もどこか人懐こいから、お客さんの受けはさぞかし良いのでしょうね。


   然うかなぁ、自分では分からないけど。


   若しかしたら、木野さんを目当てに来ているお客さんも居るのではないの。


   あたしを?
   まさか、そんな奇特なひとは居ないよ。


   居たらどうするの?


   別にどうもしないよ。


   話し掛けられたら?


   店員としての対応はするけど、それだけだよ。


   若しも、何かに誘われたら。


   勿論、断るよ。


   断れる?


   断れるも何も、断るよ。
   あたしは水野さん以外には興味がないから。


   ……。


   あ、でも。


   でも、何。


   水野さんに誘われたら、断れない。


   ばかね。


   あはは。


   ……。


   お花、きれいだよね。


   ……おすすめは?


   おすすめ?


   店員さんのおすすめのお花はどれですか。


   あぁ。


   ……。


   然うですね。今頃だとやっぱり、秋桜がおすすめです。
   色は淡いピンクを筆頭に、赤に黄色、オレンジ、紫、それから白。どれもきれいですよ。


   捻りがないわね。


   まぁ、秋桜は秋を代表するお花だからね。今だけなんだ、秋桜がお店に並んでいるのは。
   少しずつ花の形や色合いが違うからさ、見ているだけでも楽しいんだ。


   ふぅん。


   秋桜は学校や公園の花壇に植えられていることが多いけれど、切り花としても人気があるんだ。
   今日も買っていったお客さんが居たよ。


   ……切り花。


   そのお客さんは秋桜の切り花を集めて、部屋に飾ったりするらしい。
   秋桜を見て秋を感じたり、色や形の違いを見比べて楽しむんだって。


   ……悪趣味。


   水野さん。


   ……。


   それも、愛で方のひとつだから。


   ……知っているわ。


   お花屋さんは、切り花も扱っている。
   種から育てなくても手軽に楽しめるし……お墓参りやお祝いなどの贈り物にも、良いから。


   ……分かっているわよ、それくらい。


   ん、然うだよね……ごめん。


   ……。


   秋桜以外だと、ダリアもおすすめかな。
   あとは桔梗、竜胆、ガーベラ、どのお花もきれいだよ。


   ……ここでも見られるから。


   ……。


   木野さんは、仕事に戻って。


   水野さん……。


   ……日陰で、待っているから。


   うん……分かった。
   だけど、いつでも言ってね。


   ……。


   今日は……本当に、お客さんが来ないんだ。


   ……気が向いたら。


   ……。


   ……期待は、しないで。


   うん……。


   ……。


   ……薔薇も、きれいなんだ。


   然う……良かったわね。


   ……然ういえば、ハヤシは。


   お昼に食べたわ……ハヤシライスにして。


   そっか……忘れられないで、良かった。


   ……忘れたら、木野さんがうるさいもの。


   ……。


   ……美味しかった。


   ん……良かった。


   ……ベッドシーツと枕カバーも、乾いたわ。


   ありがとう。


   ……。


   夕飯は、どうしようかな……。


   ……。


   水野さん、何か食べたいものはある?


   ……なんでも良いわ、さっぱりしているものなら。


   はは、それはなんでも良くないなぁ……。


   ……。


   ……勉強は、捗った?


   ええ……ひとりだったから。


   ……。


   ……私も、アルバイトをしようかしら。


   水野さんも?


   ……悪い?


   ううん……悪くないよ。


   ……。


   どんなアルバイトをするつもりなんだい?


   ……レジ打ち。


   え。


   ……えって、何。


   いや、水野さんがレジ打ちって。


   ……じゃあ、飲食店の店員。


   えっ。


   ……だから、何。


   いや……つい。


   ……私には向いていないとでも言いたそうね。


   そ、そんなことは言わないよ……うん、言わない。


   ……どうせ、愛想がないわよ。


   愛想があったら……声をかけられるかも知れないから。


   ……誰に。


   男に……なんだったら、店のひとに。


   ……そんな物好き、木野さんしか居ないわ。


   水野さんは、可愛いから。


   ……。


   ……寄ってくると思う。


   この顔に?


   ……水野さんは、可愛いよ。


   虫みたい。


   ……虫?


   花に引き寄せられる。


   ……言い得て妙、かな。


   私は、花ではないけれど。


   ……可憐な花。


   一緒にしないで。


   ……今だったら、桔梗が似合うと思う。


   木野さん。


   ……掃除が終わったから、中に入るね。


   ……。


   店の入り口は、開いているから……。


   ……それが、何。


   ううん、なんでもない……もう少しだけ、待っていて。


   ……ええ。


   ……。


   ……どうしたの。


   ねぇ、水野さん……どうしても、店の中には入りたくない?


   ……。


   花……見たくない?


   ……そんなに見て欲しいの。


   うん……見て呉れたら、嬉しい。
   今日は、お客さんが少ないから……お花達が、寂しがっているんだ。


   ……分かるのね。


   なんとなく、だけどね……。


   ……。


   どことなく、元気がないんだ……しょんぼり、しているような。


   ……私が見たところで、元気になるわけではないわ。


   だとしても。


   ……。


   だとしても……誰にも見られないよりは、ずっと良い。


   ……木野さんは、本当に愛しているのね。


   お花は……心を、慰めて呉れる。


   ……今でも。


   今でも。


   ……私では。


   比べられない。


   ……。


   水野さんは……あたしの心を、抱き締めて呉れるから。


   ……そんなこと。


   いつだって無自覚なんだ……水野さんは。


   ……木野さん。


   じゃあ、中に居るから。


   ……だから?


   ただ、言ってみただけ。


   ……然う。


   うん……あ、店長。


   ……。


   え、話し声がですか……あ、はい、友達が。
   この後、約束しているんです。


   ……友達。


   時間まで、中に?
   いえ、でも……あ。


   ……。


   あ、あの、店長……。


   ……お気遣い、ありがとうございます。


   ……。


   ですが……私は、ここで待っています。
   仕事の邪魔には、なりたくないので。


   ……邪魔だなんて、そんなこと。


   あの、本当に結構ですから。私は、ここで……コーヒーも、紅茶も要りません。
   お菓子も、結構です……ですので、私に構わないで下さい。


   店長。


   ……しつこい。


   すみません、店長。


   ……。


   お心遣い、ありがとうございます。
   でも、友達は……その、切り花が苦手なんです。


   ……っ。


   ですから、中には……はい、然うなんです。


   ……ばか。


   はい……本当にすみません。
   え、持ち帰って……いえ、そこまでして貰うわけには。


   ……木野さんのばか。


   そ、然うですか……それでは、頂きます。
   はい、ふたりで食べます……ひとりでなんて、食べません。


   ……。


   水野さん、じゃあまた後で。


   ……。


   店長、もう少し休んでいた方が。お店なら、あたしひとりでも……然うですか。
   確かに、売り上げの計算はあたしでは出来ませんね。


   ……。


   掃除は好きでやっているだけですから。
   ただぼんやりしているよりも、動いていた方が良いんです。


   ……。


   いえ、時間まで居ます。あともう少しですから。
   5分くらいだとは言え、決められた時間まではちゃんとしないと。


   ……何よ、あの顔。


   はい……大丈夫です。


   ……。


   え、今夜の夕飯ですか? 然うですね、今考え中です。
   今日も少し暑かったので、さっぱりしたものが良いなぁって。
   店長はどうするのですか? え、息子さんがカレーを? へぇ、良いですね。


   ……どこが良いの。


   息子さんがやって呉れると、助かりますよね。
   あたしは、まぁ、大丈夫です。もう、長いですから。


   ……私のこと。


   帰る支度ですか。でも……え、もう時間ですか。
   はい、分かりました。と言っても、エプロンを外すだけなんですけど。


   ……。


   ありがとうございます、お疲れさまでした。
   忘れ物も、大丈夫です。はい、また。


   ……。


   では、失礼します。


   ……。


   ……。


   ……何。


   お待たせ、水野さん。


   ……別に、どうでも良い。


   お菓子、貰ったんだ。
   帰ったら、一緒に


   要らない。


   ……。


   ……ひとりで、食べて。


   ううん……水野さんと一緒に食べたい。


   ……長いんでしょう。


   え……?


   ……ひとり。


   ……。


   私は……居ないんでしょう。


   ……それは。


   然うよね……話せないわよね。


   ……話せないよ。


   ふふ、然うよね。
   女同士で、


   高校生がふたりで暮らしているなんて。


   ……。


   都会は無関心なひとが多いとは言うけど、色々問い質された挙句、通報されないとは限らない。
   だから……今は未だ、誰にも話せない。


   ……。


   嫌なんだ……水野さんが連れて行かれるのは。


   ……良いひとなのでしょう、店長さんは。


   良いひとだよ……だけど、大人だから。


   ……。


   通報されたら……あのひとが出てくるかも知れない。
   いや……十中八九、出てくるだろう。


   然うしたら……私はまた、木野さんの部屋に。


   ……分からないだろ。


   木野さん……私を、信用していないの。


   違う……水野さんのことは信用しているよ。


   だったら。


   あのひとのことは、信用出来ない。


   ……あ。


   絶対とは……言えない。


   ……。


   ごめん……行こうか。


   ……。


   水野さん、夕飯は何が……。


   ……何も。


   何も、食べたくない?


   ……。


   軽いものだけでも……ぁ。


   ……木野さんが居れば、それで良い。


   ……。


   一食くらい、抜いたって……。


   ……本屋さんに行きたかったんだよね。


   ……。


   行こう……水野さん。


   ……。


   夕飯は……ごはんが残っていたら、お茶漬けにでもしようかな。


   ……残っているわ。


   ん、そっか……。


   ……それだけでは、足りないでしょう。


   然うかな……一食くらい、抜いても。


   ……だめよ、あなたは。


   なら……水野さんも、だめだよ。


   ……。


   さぁ、行こう。


   ……花。


   ん、なに……?


   ……今度は。


   ……。


   ……なんでもない。


  28日





   んー……野菜がちょこちょこと残っているなぁ。
   あと、昨日炊いたごはんと……。


   ……。


   あ、おかえり。


   ……別に、どこにも行っていないけれど。


   洗面所から戻ってきたから。


   ……ただいま。


   水野さん、朝ごはんはハヤシライスとオムハヤシ、どっちが良い?


   ……ハヤシは確定なのね。


   半端な野菜を使い切るのに丁度良いんだよね、ハヤシって。
   と言うわけでライスとオム、どっちが良い?


   パン。


   ん、分かった。じゃあ、朝ごはんはハヤシトーストで。
   チーズと卵はどうする? どっちもあるよ。


   ……チーズだけで。


   なら、卵はスープに入れようかな。


   木野さんのトーストには?


   のせない。


   どうして?


   スープの方が良いかなって。
   水野さんは卵スープ、食べる?


   食べるけど、白胡麻を入れて。


   うん、白胡麻だね。
   よし、これでスープは決まり。


   ……。


   野菜は……うーん、ミニトマトで良いか。


   ハヤシがトマトなのに?


   手軽だし、さっぱりしてて良いだろう?


   悪くはないけれど。


   他に、何か……然うだ、ブロッコリーがあった。
   これを電子レンジで過熱して……ミニトマトを合わせたら、十分かな。


   ミニトマトだけでも良いわよ。


   折角だから、ブロッコリーも食べて欲しいな。
   鉄分も入ってるし、水野さんにおすすめ。


   いつもおすすめされてる。


   鉄分は食べないと摂取出来ないからさ。


   トマトのビタミンCと一緒に取ると、より効率が良いわね。


   ふふ、その通り。


   ブロッコリーにも入っているけれど。


   何を食べるにも、バランスが大切。
   大事な栄養は、鉄分とビタミンCだけじゃないからさ。


   はいはい、然うね。


   あたし、高校でも家庭科が一番好きだな。


   でしょうね。


   ドレッシングは、サラダ油と……いや、たまには醤油で胡麻和えにするのも良いかも知れないな。
   胡麻はスープにも入れるけど……水野さん。


   私は、どちらでも。
   マヨネーズでなければ良いわ。


   マヨネーズ?


   ハヤシの箸休めには、さっぱりしたものが食べたい。


   なら……ポン酢のドレッシングにしようか。
   ごま油……いや、サラダ油と塩胡椒を混ぜて。


   ええ、それで構わないわ。


   うん、これでサラダも決まりと。


   朝から、楽しそうね。


   お休みってのもあるかな。
   お誕生日の次の日が休みだと良いよね、ゆっくり出来て。


   アルバイト、今日は何時から?


   今日は、お昼から。
   だから、夕方には終わるよ。


   然う。


   水野さんの今日の予定は?


   勿論、勉強。


   ん、そっか。


   夕方で終わるのなら。


   色々、買い物をして帰ろうと思うんだ。
   だから、良かったら。


   時間にお店の前に行けば良いのね。


   来て呉れる?


   躰を動かすのには、丁度良いから。


   なら、お願いします。


   洗濯は、あれだけ?


   うん、あれだけ。


   今日の天気は……。


   一日、晴れだってさ。
   気温も、そこそこ高いみたいだ。


   なら、ベッドシーツも洗っておくわ。
   あと、枕カバーも。


   うん、ありがとう。


   若しも、他にあるようだったら出しておいて。


   ん、了解。


   それから……然うね、気晴らしに部屋の掃除でもしようかしら。


   助かる。


   別に、当たり前のことをするだけだから。


   ……。


   何。


   なんだか、すっかり馴染んだなぁって。


   何に。


   ふたりの暮らしに。


   これだけ一緒に居れば、嫌でも馴染んでくるでしょう。


   これなら、いつ結婚しても


   それは、別。


   あー。


   16歳の結婚なんて、所詮はおままごとの延長線でしかない。


   ……。


   本当の結婚をしたいのならば、経済的にも自立しなければ。


   うーん、厳しい。


   ……木野さんはある意味、自立している。


   と言っても、今は未だ両親が遺して呉れたもので生活しているから。
   高校を卒業して働くまでは、自立しているとは言えないよ。


   ……やっぱり、働くの。


   うん、どう計算しても上の学校に行くまでのお金はないから。


   ……。


   水野さんにも見て貰った。


   ……見たけど。


   良いんだ、働きながらでも勉強をすれば資格は取れる。
   学校に行かなくても、働いて実務経験を積めば受験の資格は得られるんだ。


   ……私、調べたのだけれど。


   うん、何を?


   夜間で良いのなら、働きながらでも通える学校は幾つかあるわ。
   全日制よりは授業料は抑えられているし、ひとつの道として考えてみるのも良いと思う。


   ……。


   就職したとしても、木野さんなら勉強を続けることは可能でしょう。けれど、学校で先生に教えを受けるということも大事な経験になるわ。
   座学もだけれど、実習も。授業ならば、失敗しても許される。失敗することで学ぶことはあるの。


   それも……一応、考えたんだ。


   ……調べたの?


   詳しくは、未だ。


   ……それで。


   正直、良いと思った。
   お店で働くのとは、また違う勉強が出来ると思うから。


   ……良いと思ったのに、何故。


   それは……然うすると、水野さんとの時間が取れなくなってしまうと思ったから。


   ……は、何よそれ。


   あ、あたしにとっては、とても大事な時間なんだ……。


   ……分かっているけど。


   分かっているなら……責めないで欲しい。


   ……。


   朝昼夕と働いて、夜は学校で学んで……帰ってきても、勉強しなければいけないかも知れない。
   然うなったら、水野さんとの時間は……取れる気が、しないんだ。ごはんを作るどころか、一緒に食べる時間さえも。


   ……はぁ。


   う……。


   私は、いつだってあなたの傍に居るわ。


   ……え。


   何処にも、行かない。
   今更、何処かに行こうとも思わない。


   ……。


   だから……夜になれば、ひとつのベッドで眠ることになる。
   あなたが先かも知れないし、私が先かも知れない……どちらにせよ、朝まで一緒に眠るの。


   ……どちらが、先に起きたとしても。


   それまでは、一緒でしょう。
   話は出来なくても……温もりは、感じることが出来る。


   ……。


   私も大学に行くことになれば、今よりも忙しくなる……でも、一日の終わりには必ずあなたと同じベッドで眠るの。


   水野さん……。


   ……未だ、時間はあるから。


   うん、分かった……ゆっくり、考えてみる。


   ……話なら、いつでも聞くわ。


   ん……ありがとう。


   ……。


   ハヤシ……多めに作って、冷蔵庫に入れておくから。


   忘れなかったら、お昼にハヤシライスにして食べるわ。


   もう、忘れないでよ。
   帰ってきて冷蔵庫に入っていたら、


   夕飯にでも食べるわ。


   はい、然ういう問題ではありません。


   手間が省けて良いのに。


   だめだよ、ただでさえ水野さんは貧血気味なんだから。


   言われなくても、分かってる。


   大根を買ってきて、切り干し大根でも作ろうかなぁ。
   煮物、炒め物、サラダにもなって箸休めに丁度良いし、鉄分も豊富だし。


   作るのなら、もう少し湿気が少なくなってからにしたら?
   湿気が多いと乾きが悪いわよ。


   となると、作るのは10月頃かな。


   作ったことはあるの?


   祖母が作っていたんだ。
   作り方も憶えてる。


   ふぅん、然う。


   切り干し大根、嫌いではないだろう?


   嫌いではないわ。


   うん、それじゃあ作ろう。


   ねぇ、木野さん。


   なんだい?


   ……。


   ……?
   水野さん?


   ……若しも。


   うん。


   私が、大学に行かないと言ったら。


   は?


   どう思う?


   何を言っているんだ。


   ……。


   と、思う。


   然うよね。


   然うだよ。


   まぁ、良いけれど。


   本気で言ったわけではないんだろう?
   でも、冗談でも吃驚するよ。


   ……。


   水野さん……まさか。


   ……さぁ。


   お医者さんの場合は、医学部に行って勉強しなければなれないんだろ?


   ええ、独学では無理。可能性すらないわ。
   医学部を卒業、或いは卒業見込みでなければ受験資格を得ることは出来ないから。


   だったら、行かないなんて選択肢はない筈だ。


   然うね、どうしても医者になりたいならそんな選択肢は有り得ないわ。


   ……どうしても?


   ……。


   水野さん……冗談、だよね。


   ……私がどんな道を選んだとしても、木野さんには。


   ……。


   いいえ……もう、関係ないとは言えないわね。


   ……指輪。


   折角だから、着けてみたの……どうかしら。


   ……似合っていると、思う。


   シンプルで……私好みだわ。


   ……悩んだんだ。


   ええ、然うでしょうね……あなたの悩んでいる姿が、目に浮かぶわ。


   ……。


   これは……重たいものね。


   ……若しも。


   ううん……手放す気は、ないわ。


   ……。


   少し聞いてみただけだから……心配しないで。


   若しも、何か悩んでいるのなら。


   ……。


   水野さんが、どんな道を選んだとしても……あたしは、自分の出来ることをするだけだ。


   ……お金がかかるでしょう、大学に行くのには。


   それは、然うだけど……。


   特に医学部は……最低でも、6年は通わなければならないから。


   ……水野さんなら、留年なんてしないさ。


   勿論、する気はないわ。


   だろう?


   でも、その通りになるとは限らない。
   然うならない為の努力をしたところで、希望通りに行くかどうかなんて分からないの。
   努力さえすれば、希望が叶うなんて……そんなのは、絵空事でしかないから。


   ……。


   医学部には、夜間制がない。
   アルバイトなら、まだしも……。


   ……とてもじゃないけれど、時間が足りないと思う。


   ええ……然うなのでしょうね。


   ……。


   ……今なら未だ、色々考えられるでしょう。


   あぁ……然うだね。


   だから……今は取り敢えず、流して良いわ。


   ……流さないよ。


   ……。


   流さない。


   ……言うと、思った。


   ねぇ、水野さん。


   ……ハヤシ、作るのでしょう。


   うん、作る。
   けど、そんなに時間はかからないから。


   ……ぐずぐずしていたら、アルバイトの時間になってしまうわよ。


   未だ、大丈夫だ。
   今朝は、早起きだったから。


   ……。


   言いたくなければ、言わなくて良い。
   無理強いする権利は、


   あなたには、ないから。


   うん。


   ……だけど、伴侶になるかも知れないあなたには。


   然うだとしても、だよ。


   ……。


   水野さん……あのひとは、今でも。


   ……振り込まれているわ、今でも。


   ……。


   来年以降も……お金だけは、出して呉れるでしょう。
   然うでなければ……私は、高校を辞めなければならなくなるから。
   そんなことになれば、自分の汚点になる……ただでさえ、もうなっているのに。


   ……親として、最低限のことをしているだけだ。


   ええ……勿論、然う思っているわ。


   ……だけど。


   口惜しいの……あの女の力がなければ、学校にすら通えない自分が。


   ……。


   ……高校を卒業して、就職すれば。


   大学に行ける道があるのなら、水野さんは大学に行くべきだ。


   ……。


   高校卒業でも、十分に働くことは出来ると思う……けど、水野さんはもっと学ぶべきだよ。
   医学部でなくても良い……あたしには分からないけど、大学には色んな学部があるんだろう?


   ……あるわ。


   その中で、水野さんが学びたいと思うものがあるのなら……あのひとの力を使ってでも行くべきだと、あたしは思う。


   ……いつか、代償を求められるかも知れない。


   そんなのは、聞かなくて良い。
   親が子に代償を求めるなんて、


   然ういう親も、居るのよ。


   その時は、あたしがさせない。


   ……。


   させない、絶対に。


   ……ばかね。


   ゆうべから、そればかりだ。


   ……ふふ。


   ん?


   ……学校を卒業したら、完全に縁を切る。


   ……。


   その時は勿論、傍に居て呉れるでしょう?


   ……あぁ、居ないわけがない。


   ん……木野さん。


   ……その時はもう、結婚しているんだから。


   していなかったら、居て呉れないの……?


   ……していなくても、居る。


   ……。


   傍に、居るよ……。


   ……信じているわ。


   うん……信じていて。


   ……。


   ……指輪、着けて呉れてありがとう。


   外では、着けないわ……。


   ……。


   ……いい加減、作り始めたら?


   ん……然うだね、いい加減作り始めるよ。


   ……。


   水野さんは……あ。


   ……失くしたくないから。


   え、と……。


   ……邪魔でしょう、料理をするのに着けていたら。


   ……。


   私は、サラダを作るわ。


   なら……あたしは、ハヤシとスープを。


   ……。


   勉強は、良いのかい?


   木野さんが出掛けたら、またするから。


   ん、そっか。


   ……。


   茄子と、ピーマン……それから、玉葱。


   ……ねぇ。


   ん、なんだい。


   ……本屋さんに、行っても良い?


   本屋さん?


   ……買い物のついでに、行きたいのだけれど。


   良いよ、行こう。


   ……ん。


   然ういえば、図書館にも行ってないね。


   ……木野さんが休みの日でも忙しいから。


   今度、行こうか。


   今度って、いつ?


   休みの日。


   休みの日って。


   今度の日曜。


   ……植物園にも行きたいわ。


   植物園?


   ……初秋の。


   良いね、植物園にも行こう。
   お弁当を持って。


   ……。


   ふふ、楽しみだ。


   ……。


   ん……?


   ……。


   水野さん……。


   ……なんでもない。


   ……。


   ……なんでもないの。


   ん……そっか。


   ……。


   好きなだけ、していて良いよ。


   ……作れないでしょう、このままでは。


   作れないけど……水野さんが最優先だから。


   ……。


   ……ん、もう良いの?


   ん……もう、良い。


   ……もっと、良いのに。


   ばか。


   ふふ……はい。


   ……。


   水野さん。


   ……なに。


   いつでも、して良いからね。


   ……そうそう、しないわよ。


  27日





   ……ねぇ、聞いても良いかな。


   だめ……聞いてあげない。


   ん……そっか。


   ……まぁ、内容によっては聞いてあげなくもないけれど。


   んー……じゃあ、取り敢えず言葉にしてみても良いかな。


   ……ただ、聞き流すだけかも知れない。


   それでも、構わない。


   ……無駄になるだけかも知れないけれど、それでも構わないと?


   その時は、その時だ……水野さんに無理強いさせる権利は、あたしにはないのだから。


   ふふ、然う……なら良いわ、言ってみて。


   あたし達は、法律婚が出来ないのに……。


   ……ん。


   前髪が……目に。


   ……大したこと、ないわ。


   然う言われるだろうと思ったけど……やっぱり、気になって。


   ……お節介。


   ごめん……うん、これで良いかな。


   ……お礼は、言わないわよ。


   良いよ……あたしが勝手に気になって、直しただけだから。


   ……最近、視界に入るの。


   そろそろ、前髪だけでも切るかい……?


   ……後ろは。


   ちょっと、ごめんね……。


   ……。


   少し、伸びてるかな……だけど未だ、気にならないようだったら。


   ……面倒だから、一緒に。


   ふふ、分かった……じゃあ、今度の休みの日にでも。


   ……それで、何。


   どうして、16歳になるのを待たないといけないんだい?


   ……。


   16歳は、法律が定めた年齢だろう?
   法律婚が出来ないあたし達には、全く関係ないと思うのだけど。


   ……。


   あ、聞いて呉れない……?


   ……私は、中学生と結婚する気はないの。


   大体の高校一年生は、誕生日を迎えるまでは15歳だろう? 昔の数え年のように、一斉に歳を重ねるわけではないし。
   若しも早生まれだったら、16歳になるには年が明けるのを待たないといけない。


   ……それでも私は、義務教育を受けているであろう年齢で結婚する気にはなれないの。


   つまるところ、気持ちの問題?


   ……有体に言ってしまえば、然うね。


   あ、然うなんだ。


   ……意外?


   水野さんのことだから、他に理由があると思ってた。


   なんぞ小難しい理由でも、あった方が良かったかしら?


   あ、いや、別になくても良いかな……。


   然う……折角、木野さんを悩ますような理由でも考えてあげようと思ったのに。


   良かった……なくて。


   けれど、気持ちだって厄介なものでしょう?
   いつまでも素直になれず、わざと理屈を捏ねる面倒臭い女の気持ちなんて、特に。


   気持ちというものはそもそも、どんなひとのものであろうとも一筋縄ではいかないものだとは思っているよ。
   単純な時があれば、複雑な時もある。ぐちゃぐちゃに混ざってどうにもならなくなってしまう時だってあるし、何気ないことですっきりと晴れ渡ってしまう時もある。


   一言でまとめれば、厄介。


   それだと、身も蓋もないと思って。


   良いのよ、それで。
   長ければ良いと言うものではないわ。


   ……厄介ではあるけれど、嫌なものではない。


   ……。


   なんだったら、愛しいとまで……だから、一言ではまとまらないよ。


   ……だからこそ、厄介だと言っているのだけれど。


   うん……それは、分かってるんだ。


   ……はぁ。


   あー……はは。


   この話をするといつだって、平行線。


   ……うん。


   今は厄介なものとして話を進めるわ。
   良いわよね。


   あ、うん……良いよ。
   じゃなきゃ、話が前に進まないし。


   ……。


   ん……水野さん。


   ……仕方ないひとね。


   うん……面倒で、ごめん。


   ……あなたのこと、言えないから。


   ……。


   ……他人の気持ちを、自分の意のままになんて出来ない。


   気持ちは本来、自分のものでしかないから。


   ……何らかの強い力で、歪めてしまわない限り。


   ……。


   だったら小難しくても、目に見えて分かりやすい理由の方が良い。
   仮令解決することが出来なくても、納得はしやすいと思うから。


   ……気持ちなどというあやふやなものでは、納得しようにも出来ないことがある。


   然う……多分にね。


   それに示された気持ちが本心からのものだとは限らない。
   若しかしたら、心を押し殺しているのかも知れない。


   ……。


   本当の気持ちとは裏腹に、なんてことは良くある話だ。
   特に……水野さんのような、面倒な女には。


   ……分かったような口を。


   怒った……?


   ……いいえ。


   う。


   ……私は実際、面倒だもの。


   少し、いらっとした……?


   ……さぁ、どうかしら。


   脇腹……。


   ……相変わらず、抓めるだけの脂肪がない。


   くすぐったい……。


   ……。


   あ……。


   ……本当、物好き。


   水野さんが……?


   ……木野さんが。


   あたしは……面倒な水野さんのことが、大好きなんだ。


   ……未だ、言うのね。


   改めて、言っておこうと思って。


   ……私が若しも、面倒でなかったら?


   詰まらなかったかも……いや、詰まらなかった。


   ……どこまで行っても物好き、蓼食う虫だって避けるわ。


   然うしたら、水野さんはあたしだけのものだ……。


   生憎……私は、ものではないの。


   じゃあ……あたしだけのひと。


   ……何も、捻りがない。


   従順な女は、好みではないんだ。
   面白くなくて……三日で、飽きてしまうかも知れない。


   ……まるで、知っているかのようね。


   想像だけで、十分。


   ……従順な男だったら?


   初めから、眼中にない。


   ……ふ。


   あたしはね、あたしの思い通りにならない水野さんが好きなんだ……。


   ……なら、これからもそのままで居ることにするわ。


   あ、でも。


   ……でも、何。


   辛いこと、苦しいこと、悲しいこと……然ういうのは溜め込まないで、あたしに分けて欲しい。


   ……。


   理屈は、捏ねても良いから……ひとりで、抱え込まないで欲しいんだ。


   ……木野さんもね。


   あたし……?


   ……くだらないことはひとりで抱え込まないで、そんなことで心身のバランスを崩すことになったら詰まらないから。


   くだらないこと……か。


   ……伴侶とは、然ういうものらしいじゃない。


   ん……。


   ……健やかなる時も。


   あ。


   ……これ以上は、今は言わないわ。


   うん……その続きは、あたしの誕生日の時に。


   ……。


   婚約記念日は、水野さんのお誕生日……結婚記念日は、あたしの誕生日。


   ……憶えやすくて、良いわね。


   他の日でも、忘れないよ……。


   ……木野さんなら、然うでしょうね。


   水野さんだって、然うだろう……?


   さぁ……私は、どうかしら。


   ……忘れないと思うんだ。


   根拠は……?


   あたしが憶えていられるのに、水野さんが憶えていられないわけがない。


   ……。


   だろう?


   ……は。


   うん、当たりだ。


   ……あとは。


   え……?


   16である理由。


   ……あとは?


   あなたを、試したの。


   ……。


   私が16になるまで、気持ちが変わることなく、ちゃんと待てるかどうか。


   ……そして、それはあたしの誕生日が来るまで現在進行形。


   婚約は、してあげたでしょう?


   ……うん、して呉れた。


   ん……木野さん。


   ……嬉しいな。


   もう一度、言っておくけれど……裏切りは、赦さない。


   あたしは、裏切らない……だって大好きなんだ、水野さんのこと。


   ……本当、変わらないわね。


   変わらないよ……ずっと。


   ……こんなもので、どう?


   うん……良く分かった。


   そ……容易いわね。


   ……今の水野さんは、分かりやすい。


   ……。


   うぅ。


   ……本当に、抓めない。


   水野さんも、抓めないよ。


   骨と皮だけだから。


   そんなことない、ちゃんと脂肪もついているよ。


   ……。


   うっ。


   ……無駄なもの。


   脂肪も、あった方が良いからさ……それに、これくらいじゃ。


   ……そろそろ、寝る。


   え、もう?


   ……何か問題でも?


   まだ、一回しか……。


   ……十分よ、一回で。


   ……。


   明日は、早朝に起きたいの。


   ……勉強をする為に?


   他に何かある?


   ……ない、かな。


   あなたも起きてね。


   ん、分かった……起きる。


   ……。


   明日はお勉強をしてから、朝ごはんの支度かな……。


   ……。


   ……ね、水野さん。


   なに。


   ……もう少し、話したいな。


   ……。


   指輪の話、とか。


   ……今は、要らない。


   ……。


   宝石も。


   ……ごめん、それは未だ用意出来ない。


   知ってる、だから要らない。


   ……。


   ……おしまいなら、寝るけど。


   指輪……高いものでは、ないけれど。


   ……今は、要らないと。


   ……。


   木野さん……。


   ……タイミングを、完全に間違えているのは分かってる。


   ……。


   本当なら……答えを貰った時に。


   私が、あなたが考えていた段取りを崩したから。


   ……。


   ……そんなものまで、わざわざ用意していたのね。


   バイトの給料を少しずつ貯めて、買ったんだ。


   ……自分のものを買えば良いのに。


   遺して貰ったものではなく、自分の働きで買ったものを贈りたかった。


   ……誕生日のプレゼントだけで、良かったのよ。


   どうしても、贈りたかったんだ。


   ……これ、私だけなの。


   うん……エンゲージリングは結婚の約束として、男性から女性に贈るものだから。


   ……言っていることが、おかしいわ。


   ……。


   あなたは男性じゃない。


   然うだけど……贈りたかった。


   ……ばかね、そんなものがなくても。


   受け取って、欲しい。


   ……。


   どうか……着けなくても、良い。
   ただ、持っていて呉れるだけで……それだけで、良いんだ。


   ……私は、何も用意していない。


   構わない……水野さんは、応えて呉れたから。
   だから……あたしはその証を、誓いを、水野さんに贈る。


   ……理解出来ない。


   どうしても……受け取って、貰えないのなら。


   ……どうするの。


   どうすれば、良いかな……。


   ……何も考えていなかったの。


   考えていたけど、分からなくて。


   ……。


   結婚したら、これはもう要らないだろうし……。


   ……。


   あの、水野さん……やっぱり、要らない?


   今は、要らない。


   あ、あぁ……然う、だよね。


   でも……良いわ。


   ……。


   受け取ってあげても。


   ……本当?


   それが、一番良いのでしょうから。


   ……。


   ……。


   ……若しも、本当に欲しくないのなら。


   欲しくないわけじゃない。


   ……え?


   ……。


   水野、さん……?


   ……そんなもの、本当に用意しているなんて。


   全く、考えていなかった……?


   ……あなたのことだから。


   ……。


   本当に、ばかみたい……。


   ……水野さん、左手を。


   ……。


   躰は、起こさなくても良いから……左手を、出してください。


   ……左手なの。


   うん……左手の薬指。


   ……。


   ん……こっちは、右手かな。


   ……右手じゃ、だめなの。


   え、どうなんだろ……。


   ……絶対に左手に着けなければならないと、決まっているものなの。


   決まっては、いないと思うけど……。


   ……ドイツでは、右。


   え、然うなの?


   ……詳しくは知らない。


   ……。


   ……待って。


   ん。


   ……。


   水野さん、躰は起こさなくても


   ……私、そこまで無礼ではないわ。


   あ……。


   ……礼には礼で、応えるもの。


   う、ん……。


   ……。


   ……大丈夫?


   心配しないで。


   ……。


   ……。


   ……水野さん。


   はぁ……。


   ……。


   ……なに。


   いや……とても、きれいだから。


   ……もう、見慣れているでしょう。


   見慣れては、いないよ……。


   ……もう、何度も。


   きれいだ……。


   ……あまり、見ないで。


   ん……ごめん。


   ……早くして。


   ……。


   ……。


   ……ぴったりだ、良かった。


   これ……いつ、測ったの。


   ……べただけれど、眠っている間に。


   ……。


   その日の水野さん、疲れていたみたいで……。


   ……誰かのせいでね。


   ……。


   はぁ……まぁ、良いわ。


   あの……どうでしょうか。


   ……良く分からないわ。


   そ、そっか……。


   ……でも、悪くはない。


   ……。


   普段は外しておくけれど……良いわよね。


   うん、良いよ……学校には、着けて行けないから。


   ……。


   あ、外す?


   ……どちらでも。


   うん……?


   ……。


   水野さん……?


   ……木野さんは、どちらが良いの。


   どちらって……寝るのに邪魔なら、外した方が良いと思うけど。


   ……寝ても、良いの。


   ……。


   ……。


   ……外そうか。


   外した方が、良いの。


   分からないけど……今夜は、外そう。


   ……なら、外して。


   うん……。


   ……。


   ……箱に、戻しておくね。


   ……。


   うん、これで良い。


   ……。


   ……え、と。


   ……。


   水野さん……やっぱり、寝る?


   ……知らない。


   もう一度、あたしと。


   ……だから、知らない。


   ん……そっか。


   ……顔が、緩んでる。


   ごめん、どうしようもないんだ……。


   ……。


   指輪……似合ってたと思う。


   ……何よそれ。


   ……。


   ん……まこ、と。


   ……亜美。


   ……。


   もう一度……良い?


   ……。


   ……知らない?


   ばか。


   ……。


   ……まことの、ばか。


   うん……ごめん。


   ……。


   だめなら……む。


   ……ばか。  


  26日





  -Sixteen Years Old(現世3)





   ……へ。


   だから、答え。


   ……え、と。


   してあげても、良いわ。


   ……。


   16になったら返答すると、言っておいた筈よ。


   い……言われた、けど。


   気が変わったのなら、別に良いわ。しないだけだから。
   その場合は今後一切、然ういった話を私にしないで。決して、しないで。


   み、水野さん。


   何。


   こ、この体勢で言うの?


   悪い?


   わ、悪くはないけど。


   あなたがぐずぐずしているから。


   いや、だって……えぇ?


   あなたが考えている段取りなんて、私にはどうでも良いことなのよ。


   そ、然うなんだろうけど……だからって、こんな状態で。


   誕生日は、過ぎたわ。


   ……。


   ……もう、過ぎたの。


   過ぎたと言っても、未だ当日で……これから、改めてお祝いをしようと。


   もう、夜だわ。


   ……朝と昼は、学校だし。


   だから?


   帰ってきてから、お誕生日のケーキとご馳走を作って……然うしたら、夜になっていて。


   ……日が変わった時点で。


   おめでとうってお祝いしてから、ケーキを切って……それを、ふたりで食べて……それから。


   ……私は、歳を重ねたの。


   ケーキを切ろうと、したら……こんなことに、なっていて。


   あぁ、然う……つまりは、現実を前にして怖気付いたのね。


   怖気……?


   そんなもの、出来るわけないと……屹度、然うよ。


   そんなもの、付くわけない。


   じゃあ、何。


   あたしは、ちゃんと言うつもりだった。
   お誕生日のお祝いしてから、雰囲気を作って……いい加減には、決してならないように。
   だってこれは、一生に一度のことなんだ。だから……大事にしようと。


   自分の為に?


   違う、あたしの為だけじゃない。


   私の為でもある?
   そんなの、ただの独り善がりだとは思わないの。


   ……。


   あなたが意を決するまで、大人しく待っていれば良かったとでも?


   ……あたしの気持ちはもう、決まっている。意を決するまでもない。
   現に……今日という日を迎えることを、どれだけあたしが待って


   だったら、さっさと言ってしまえば良かったのよ。
   然う、目が覚めた時にでも。


   水野


   待っていたのは、私も同じなの。


   ……あ。


   それとも何、14の頃に返事をしてしまえば良かったの。あなたの気持ちが、変わってしまうかも知れないのに。
   先のことなんて、何一つ分からないのに。ましてや、ひとの気持ちなんて移り行くものなのに。子供染みた返事をすれば良かったの。


   ……変わっていない。


   ……。


   言ったよ……あたしの気持ちは、変わらないって。


   ……だったら、どうしてさっさと言って呉れないの。


   ちゃんと言うつもりだった。


   やっぱり、大人しく待っていれば良かったと言うのね。


   言わない、これはあたしの失敗だ。


   ……。


   水野さんが……水野さんも、待っていただなんて。
   待っていて呉れただなんて……思って、いなかった。


   ……木野さんって、本当にばかなひとね。


   うん……ごめん。


   ……。


   取り敢えず……退けて貰っても、良いかな。


   ……嫌と、言ったら。


   然うしたら、仕方ない……格好悪いけど、このまま伝えるよ。


   ……。


   水野さん、16歳のお誕生日おめでとう。


   ……。


   改めて、プロポーズします……あたしと、結婚して下さい。


   ……しない。


   ……。


   だって木野さんは未だ、15歳でしょう。


   ……え?


   だから、しない。


   え、えぇ?


   15歳は未だ、出来ない。


   そ、然うだけど……んん?


   ……。


   あ、あの、水野さん……さっきは、して呉れるって。


   ……してあげても良いと言っただけ。


   そ、それは、あたしと結婚して呉れるって……ことだよね?


   ……ええ、然うよ。


   じゃ、じゃあ、どうしてしないって……。


   ……本当、鈍いわね。


   に、にぶ……?


   ……はぁ。


   ど……どういうこと?


   ……今は、しない。


   い、今は……?


   するのは……あなたが16になった時。


   は……。


   さっきも言ったけれど……15では、出来ないでしょう。


   ……。


   私はただ、答えを言っただけよ。


   ……あぁ!


   声が大きい。


   そ、然ういうことか。


   はぁ。


   ……溜息。


   ……。


   でもさ……分かりづらいと、思うんだよ。


   ……分からない方が、悪いのよ。


   あ、あぁ、然うだね……。


   ……。


   つまり……あたしが16になったら、して呉れるんだよね。


   ……気持ちが変わっていなかったら、だけれど。


   あたしは、変わらない。


   ……私が変わるかも知れないわ。


   ……。


   情けない顔。


   ……変わらないで、欲しい。


   ん……木野さん。


   ……あと、三ヶ月。


   ……。


   ……待っていて、欲しい。


   あなたは、待てるの……?


   ……待てる。


   ふぅん……。


   ……水野さんと、どうしても結婚したい。


   法律婚は、出来ないけれど。


   ……出来るようになるまで、事実婚で。


   法的な保障は、どこにもないわ。


   ……なくたって良い、ふたりの気持ちが重なっていれば。


   待っていたって、法律婚が出来るようになるとは限らない。


   それでも、変わらない。
   あたしにとって重要なのは、水野さんと一緒に生きることだから。


   ……。


   気持ちは変わらない、決して。


   ……信じても?


   信じて欲しい。
   あたしは、水野さんを信じているから。


   ……。


   信じているんだ、水野さんの気持ちは変わらないって。


   ……子供みたいね。


   でももう、中学生じゃない。


   ……けど、未成年には変わりないわ。


   だとしても。


   ……。


   あたしは、水野さんを愛してる。


   ……繋がってない。


   水野さん……。


   ……もう、良いわ。


   良い……?


   ……離して。


   やだ。


   ……離して呉れないと、退くことが出来ない。


   退けないで、良い。


   ……これから、誕生日のお祝いをして呉れるのでしょう。


   ……。


   ……嫌よ、背中が痛くなるから。


   ぐ……。


   ……さぁ、離して。


   分かった……離す。


   ……。


   ……離したよ。


   木野さん。


   ……な、に。


   ……。


   ……。


   ……それじゃあ、退けるわ。


   水野さん。


   ……なに。


   ず、ずるくないですか……。


   ……全然?


   あ、あたしも、したいな……?


   嫌。


   ふ、触れるだけ……。


   ……。


   あー。


   ……さぁ、ケーキを切って?


   う、うー。


   何をしているの?


   ……水野さんに突然押し倒されて、さっきまで迫られていました。


   もう、終わったことだから。
   さっさと起き上がって、あなたが作って呉れたケーキを切って。


   ……あたしの、高まった熱はどこへ。


   氷でも、用意してあげましょうか?
   それとも、冷たいシャワーを浴びてくる?


   ……。


   木野さん?


   ……唇に、キスをさせて欲しい。


   ……。


   然うしたら……。


   それだけで、収まるの?


   ……う。


   収まるのなら、良いけれど……余計に、熱が籠ったりはしないかしら。


   ……。


   どうなの?


   ……氷。


   然う、分かった。


   ……良い、自分で。


   ……。


   ケーキ……出しっ放しになっちゃうしね。


   ……問題は、それだけ?


   うん……それだけじゃ、ないかな。


   ……。


   ……ふぅ、ひんやりする。


   ねぇ、木野さん。


   ……なんだい。


   別に、良いわよ。


   ……何が?


   分からないのなら、良い。


   ……今日の水野さん、


   いつもよりも、面倒臭い。


   ……然うは、言わないよ。


   ふふ……。


   ……まぁ、楽しそうだから。


   ねぇ。


   ……なんだい、水野さん。


   もっと、楽しませて。


   ……。


   もっと、もっと。


   ……良いよ。


   どうやって、楽しませて呉れるの?


   あたしを、あげるよ。


   木野さんを?


   後で……好きなだけ。


   それは……楽しいかしら。


   ……楽しく、ないかな。


   ……。


   いや、無理にとは言わないんだ……要らないのなら、それで。


   ……貰ってあげるわ。


   ……。


   だから……くれぐれも、がっかりさせないで。


   う、ん……。


   ……もう、冷えた?


   冷えた、かな……いや、どうだろ。


   ……。


   ……ん、水野さん?


   あなたが、欲しい。


   ……っ。


   ……勿論、後でだけど。


   折角、冷えたと思ったのに……。


   ……あ。


   今のは、水野さんが悪い……。


   ……どこが?


   ……。


   ……ケーキは、どうするの。


   食べるよ……終わったら。


   ……最低。


   ごめん……だけど、ちょっと無理そうなんだ。


   ……きのさん。


   みずのさ……ん。


   ……。


   ……一度、だけ。


   やっぱり、最低……。


   ……背中が、痛くなる前に。


   それって……自分だけ、楽しむつもりよね。


   ……。


   ……拒絶するわ。


   はい……。


   ……ふふ。


   だめだ……。


   ……何が、だめなの?


   いよいよ、敵わない……。


   ……敵うと、思っているの?


   思ってないよ……そんな気すら、しない。


   ……ふ。


   ちょっと遅くなったけど……お祝い、しようか。


   ……して呉れる?


   うん……するよ。


   ……ねぇ、まこと。


   ……。


   ……キスぐらいなら、許してあげても良いわ。


   あぁぁ……もぅ。


   ……ふふ、なぁに?


   亜美……。


   ……その先は、だめ。


   分かってます……。


   ……深いのも、だめ。


   不快でなければ、良い……?


   ……漢字が、違う。


   ……。


   ん……。


   ……。


   ……もう。


   もう少し……。


   ……。


   ……ケーキよりも、甘い。


   言うと思った……。


   ……ありがとう、水野さん。


   お礼なんて、要らないわ……。


   ……。


   ……今年は、梨のケーキなのね。


   梨のキャラメリゼって言うんだ……。


   ……作っている時から、良い香りがしたわ。


   だろう……?


   ……。


   ん……亜美。


   ……ありがとう、まこと。


   お礼は……未だ、早いよ。


   ふふ……然うね。


   さぁ……お祝い、しよう。


   ……うん。


   水野さんのお誕生日と……。


   ……と?


   あたし達の、婚約の……。


   ……婚約?


   だと、あたしは思ってる……。


   ……。


   ……だめかい?


   然うね……。


   ……そっか。


   だめでは、ないわ……。


   ……ん。


   婚約……したからには、裏切ったら赦さない。


   ……裏切るわけがない。


   どうかしら……。


   ……あたしは、昔から一途なんだ。


   ……。


   一途に……水野さんだけを、愛している。


   ……重いくらいにね。


   はは……。


   ……でも、心地が好いわ。


   本当かい……?


   ……本当よ。


   良かった……。


   ……あなたは、どう?


   あたし……?


   ……私は面倒で、重たくて、放り出したくならない?


   全く、ならない……。


   ……本当に?


   本当に……。


   ……。


   ……うん、だめだ。


   何が、だめ……?


   このままだと……ベッドに、連れて行きたくなってしまう。


   ……。


   ……水野さんの躰が、心地好すぎて。


   相変わらず、薄い躰だけれど……。


   ……欲情する。


   ぁ……。


   ……だけど、今は。


   ……。


   お誕生日と、婚約のお祝いが先……だから。


   ……また、後で。


  25日





   ……早いね。


   ゆうべは、良く眠れたから……。


   ……気分はどうだい?


   ん……悪くないわ。


   ふふ……それは、ようございました。


   なぁに……その言葉遣い。


   んー……なんとなく、浮かんできた。


   ……まこちゃんは、どう?


   うん……とても良いよ。


   ……それは、良かった。


   躰は、どう……?


   ……ん、大丈夫。


   お腹は、空いてない?


   ……未だ、空いていないわ。


   じゃあ……ごはんの支度は、もう少ししてからで良いかな。


   まこちゃんは、空いていない?
   ゆうべは、早かったでしょう?


   あたしも未だ、空いてないんだ。


   空いていたら、私に構わなくて良いから。


   あたしのお腹が空く頃には屹度、亜美ちゃんのお腹も空いているだろうから。


   ……。


   はは。


   ……もぅ。


   ね、亜美ちゃん……。


   ……なぁに、まこちゃん。


   おはよう……。


   ん……おはよう。


   はぁ……やっぱり、良いなぁ。


   ……ね。


   なんだい……?


   起きるには、未だ早いから。


   早いけど……二度寝は、しなくても良いかな。


   ……でも、未だ起きないでしょう?


   うん……もう少し、こうしていようと思う。


   ……眠ってしまうかも。


   大丈夫だよ……亜美ちゃんを見ているから。


   ……折角だし、まこちゃんもどう?


   あたしは……まぁ、後で。


   するの?


   するかも。
   あのふたりのお勉強を見る為に。


   ……。


   取り敢えず、期末の範囲を見直してみようと思うんだ。


   ……傾向は、憶えてる?


   全部ではないけど……然うだ、どの教科が追試なのかそれを聞かなきゃいけないな。


   あぁ、然うだった……昨日、聞いておけば良かったわね。


   そこまでは考えが回らなかったよ。
   あまりにも唐突だったから。


   恐らくは、数学と……。


   ……英語は、若しかしたらうさぎちゃんが。


   美奈子ちゃんは現代文、それから日本史かしら……覚えていても、平仮名で書くから。


   本人は納得いってないみたいだけれど……漢字もまた、答えの一部だからね。


   うさぎちゃんと美奈子ちゃんが選択している理系の科目は……地理と、生物だったわよね。


   うん、然うだったと思う。
   地理は曰く、理系というより社会で、覚えるのに面倒な公式がないから。


   ……その分、カバーする範囲が広いのが地理の特徴なの。


   まさに覚えることが多いって、嘆いていたよ……。


   ……まこちゃんは、化学と生物だったのよね。


   だから、生物は分かるんだ。
   地理は、聞いてみないと……あぁでも、地理は教えられないな。
   全然、やっていないから。


   ……。


   亜美ちゃん?


   ……若しも、地理も追試のようだったら。


   うん……。


   期末の範囲を聞くことが出来たら、直ぐに私に知らせて。
   出来れば、冬休みになる前に。


   それは、構わないけど……。


   要点だけを簡潔にまとめて、まこちゃんに渡すから。


   ……。


   補習の内容を聞いて……まこちゃんの判断でふたりに教えて。
   教えたら、あとはふたりに自力で頑張って貰うしかない。


   分かった……地理を選択している子に、期末の問題の傾向を含めて聞いてみるよ。


   ……ん。


   だけど、亜美ちゃん。


   ……ん?


   あくまでも、自分が最優先だからね。


   ……。


   亜美ちゃんの進路のことに関しては、誰にもどうにも出来ないから。


   うん……分かってる。


   ……。


   はぁ……。


   ……屹度、大丈夫さ。


   うん……然う、信じているわ。


   ……いざとなったらレイちゃんに電話で一言、活を入れて貰うから。


   ……。


   うさぎちゃんには、衛さんからも。


   それは……効き目があると思う。


   兎に角、ふたりには乗り越えて貰わないといけないから。


   ……。


   ……。


   ……ここに来て、追試なんて。


   せめて、一学期だったらな……いや、だから黙っていたのか。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   ん……?


   ……これだけは、言っておくわ。


   なに……?


   若しも、ふたりが追試に失敗しても……まこちゃんのせいでは、全くないから。


   ……。


   追試はあくまでも、ふたりの問題……それはレイちゃんも私も、ちゃんと分かっているから。


   うん……ありがとう、気が楽になったよ。


   ……うさぎちゃんと美奈子ちゃんも、分かっている筈。


   あたしは、出来ることだけをする……ただ、それだけだ。


   ……うん、お願い。


   あぁ……。


   ……。


   今は……5時半か。


   ……。


   となると……亜美ちゃんは、5時起き?


   ん……5時起き。


   シャワーは?
   もう?


   先に……だめだった?


   まさか……自分の部屋だと思って、好きに使って欲しい。


   ……そこまでは、思えない。


   未だ……?


   ……このお部屋は、あくまでもまこちゃんのお部屋だもの。


   あくまでも、だろう……?


   ……。


   部屋の主であるあたしが、好きにして欲しいと思っているのだから……亜美ちゃんの部屋も、同然なんだ。


   ……どうせなら。


   ん?


   ……本当の、ふたりだけのお部屋が欲しい。


   本当の……。


   ……未だ、無理だけれど。


   必ず、叶える……。


   ……。


   ……ふたりだけの部屋で、ふたりで暮らすんだ。


   うん……必ず。


   ……タオルの場所は、分かった?


   ん……前と、変わっていなかったから。


   ……。


   ……まこちゃんも、起きたら。


   あ、然うか。


   ……え。


   いや、さ。


   ……何?


   あたし達はもう、結婚が出来る年齢なんだなぁって。


   ……。


   ふたりで暮らすことを考えていたら、急に思い浮かんだんだ。


   ……女性は、16歳で出来るけれどね。


   あ、女は16歳からだっけ。
   じゃあ、あたし達はとっくに結婚が出来る年齢になっていたんだね。


   私、それに関しては全く納得していないの。


   え、何が?
   女同士では結婚出来ないこと?


   それは……それも、あるけど。


   何に、納得していないんだい?


   男性は18歳なのに、どうして女性は16歳なの?


   ……あ。


   16歳と言えば、未だ高校一年生よ。まだまだお勉強に励まなければいけない年齢だわ。
   それに比べて男性は18歳。高校三年生ではあるけれど、ここまで来てしまえば余程のことがない限り卒業後になるでしょう。
   つまり、高卒という資格が得られる。いえ、在学中であっても男性なら卒業出来るかも知れない。


   在学中で結婚は、まず有り得ないんじゃないかなぁ。
   高校に行っていなければ、話は違うのかも知れないけど。


   今は昔と違って高校を卒業するのが当たり前になっていて、就職するにしても高校くらいは出ておかないと何かと不利になるわ。


   昔は、女の子の場合は16歳でも良かったんだろうね。
   ほら、昔のひとって結婚が早かったしさ。子供を産むのだって早かったし。


   然う、家を存続させる為にね。


   ……。


   結婚は、どこまで行っても家同士のものだったから。


   ……然うだったね。


   その頃の女には家の働き手、後継ぎの出産を求められることが多かった。だから、学なんて必要とされないことも多かった。
   けれど、今はもう違うわ。女性だって社会に出て働く、ううん、働きたいと思っているひとが多く居る。女性の道はもう、結婚だけではないの。


   う、うん、然うだね。
   亜美ちゃんのお母さんもお医者さんだし。


   仕事と結婚、そのどちらかだけ、或いは両方を選んでも良いと思うの。だけど、どの道を選んだとしても、高校までは出ておくべきだと私は考えるわ。
   結婚し家庭に入って男性に養って貰うにしても、女性にだって経済力があるにこしたことはない。


   それは、共働き……。


   だって、いつ別れることになるか分からないのだから。


   あ、あぁ……それはまぁ、確かに。


   若しも子供を引き取ることになって女性に経済力がなかったら。養育費を貰えるにしても、母子で生きていくことは大変だと思うのよ。
   そもそも養育費が貰えなかったら? 親に頼れなかったら? 然うなったら、自分で働くしかない。その時の為に、学歴はないと。


   せ、説得力が、あるなぁ……。


   勿論、中卒でも働けるとは思う……でも、どうしても、お給料に差が出てしまう。


   やっぱり、違うもの?


   違うらしいわ。


   そっか……やっぱり、然ういうものなんだな。


   16歳で結婚しても、学校に通えるのなら話は別だけれど……若しも、妊娠したら?
   妊娠は女性の躰に多大なる影響を及ぼすわ……当然、出産も。


   ……産まれたら、育児が待ってる。


   育児……保育園に預けて、学校に通う? 通える? 当たり前だけれど、ひとりでは大分困難だわ。
   夫だけでなく、親などの周囲の人間の協力もなければ……到底、不可能だと思う。育児だけでも、大変なんだもの。


   ……。


   まこちゃんも、然うでしょう?


   ……え、あたし?


   まこちゃんの夢はお嫁さんになること。
   だけど、16歳でなりたいと考えてた?


   あ……亜美ちゃんの、お嫁さんになら。


   ……。


   あ、亜美ちゃんなら……高校に、通わせて呉れると思うし。


   当然よ。


   う、うん、然うだよね。


   だけど、残念ながら私にはそれだけの経済力がないわ。
   どうしたって、親の援助が必要になってしまう。


   いや、学校に行くお金はあたしが……。


   16歳での結婚は、今の時代ではどう考えたって早い……出来なくはないかも知れないけど、現実的に考えるとかなり厳しい。


   それに、亜美ちゃんにはお医者さんになるという夢がある。


   ……。


   16歳で、結婚なんてしている場合じゃない。
   それは、あたしも同じだ。


   ……まこちゃんはケーキ屋さんだけでなく、お花屋さんにだってなりたいと思っていたのでしょう。


   うん、思ってた。
   今でも、なれるものならなりたいと思ってる。


   然うなると……16歳はやっぱり、高校で学ぶべきだと思う。


   ……うん、亜美ちゃんの言う通りだ。


   そもそも、18歳でも早いと思うのに……16歳だなんて、有り得ないわ。


   男性に養って貰うことが、前提にあるんだろうね。昔……今だって、然うだ。専業主婦は基本、夫に養って貰うことが多い。
   専業主婦の仕事は、とても大変だと思うけれど……それでは、ごはんは食べていけない。誰かが、お金を稼いでこないと。


   ……考え方が、古いままなのよ。


   ……。


   ほとんど形だけになっているとは言え……。


   ……。


   ……ごめんなさい、朝から。


   いや、よっぽど納得してないんだなぁって。


   ……気にしなければ良いだけの話なのにね。


   それでも、気になる……良いんじゃないかな、亜美ちゃんはそれで。


   ……鬱陶しくて。


   面白いよ。


   ……面白い?


   亜美ちゃんの考えが分かって。


   ……。


   ……ねぇ、亜美ちゃん。


   ……。


   話したいことがあったら、いつでも話してね。


   ……まこちゃん。


   いつでも、聞くから。


   ……ありがとう。


   うん。


   ……。


   そろそろ、お勉強に戻りたいよね。
   あたしは、シャワーに


   女のくせに医者を目指すなんて、生意気だ。


   ……え。


   少し成績が良いからって、調子に乗るな。
   医者になれたところで、どうせ結婚して辞めるくせに。
   なんだったら、男目当てか。医者なら、申し分ないだろうからな。


   ……。


   今でも、女は然う言われてしまうのね。


   ……そんなこと、誰が。


   ……。


   いや……言わなくて良いよ。
   聞いたら……そいつの躰を雑巾にしてしまうかも知れないから。


   ……。


   ……。


   ……ん、まこちゃん。


   亜美ちゃんには、あたしが……皆が、ついてる。


   ……。


   そして……お母さんも。


   ……まこちゃん、お願いがあるの。


   なんでも。


   ……私を。


   ……。


   ううん……やっぱり。


   言って、亜美ちゃん。


   ……っ。


   言って欲しいんだ……。


   ……わたしを。


   ……。


   ……ささえて、くれる?


   亜美ちゃんが、望んで呉れるなら。


   ……


   あたしは、亜美ちゃんを支えたい……だから。


   ……ほんとうに、いいの。


   良いに決まってる。


   ……。


   ……あたしが、したいことなんだ。


   ささえて。


   ……。


   ……私を支えて、まこちゃん。


  24日





   うさぎちゃん、美奈子ちゃん、今日は本当にありがとう。とても楽しかったよ。
   うん、あたしの受験は終わったから、いつでもとは言えないけど、また遊べるよ。うん、クラウンにもまた行こう。
   あ、でも、今回の期末テストもあんまり良くなくて補習を受けることになったんだよね?
   え、それを言って呉れるなだって? 然うは言ってもさ、ここまで来てうっかり留年なんて嫌だろう?
   学年末も残っているんだし、ちゃんとお勉強しないと。え、亜美ちゃんみたい?
   そりゃあ、まぁ、一緒に居ると似てくるっていうし。それに、あたしは亜美ちゃんのおかげで赤点を取らなくなったからね。
   惚気? 美奈子ちゃんは良いとして、うさぎちゃんには言われたくないなぁ。今年のクリスマスも衛さんとふたりで過ごすんだろ?
   美奈子ちゃんは、取り敢えず、二股は止めた方が良いよ。いや、本当に。レイちゃんにも言われただろ? いつか痛い目に遭うわよってさ。


   ……。


   ん、若しかして衛さんからかい? 今度のクリスマスデートのこと? ふふ、良いね。
   うん、それじゃあ……うん、美奈子ちゃんも帰って良いよ。まぁ、邪魔とは言わないけど、ふたりきりになるには余計かな。
   あはは、それじゃあまたね、ふたりとも。また、学校で。今度、クッキーでも焼いて持って行くよ。


   ……ん。


   あ、こら、亜美ちゃんに絡むなって。
   全く、美奈子ちゃんは仕方がないな。


   ……美奈子ちゃん。


   あ……。


   まこちゃんも言っていたけれど、年明けの学年末は本当に頑張ってね。
   赤点は出来るだけ、ひとつも取らないように……ええ、皆で卒業しましょう。
   その為には冬休みの補習をしっかりと受けて……え、追試? ふたりとも?


   ……追試だって?


   然う……今回は、ふたりとも追試を受けることになったのね。


   ……まずいな、それは。


   お勉強は、ちゃんとしているのよね? 期末試験の問題を見直すことも勿論、有効よ。
   追試は本試験と問題は異なるけれど、設問の意図や問われている本質は本試験と変わらないから……してない?
   冬休みになったらちゃんとするからって……それで出来るのなら、何も言わないけれど。
   本当に、大丈夫なの? 本当に、出来るの? 本当に?


   ……難しいかも、知れない。


   追試でも、良くない点を取ってしまったら……分かっているとは思うけれど、皆で卒業旅行に行けなくなってしまうかも知れない。
   それが嫌なら頑張るしかないのよ、うさぎちゃん……高校は中学と違って、義務教育ではないから。然う、点数を取らないと卒業出来ないの。


   ……今更だ。


   卒業旅行、楽しみにしているのでしょう?
   ええ、私も楽しみにしているわ。


   ……目が笑ってないなぁ。


   学年末は、まこちゃんが居て呉れるから大丈夫だとは思うけれど、追試は……ええ、信じているわ。


   ……良かったら、追試も見ようか。


   まこちゃん、本当?


   時間が取れる限りになっちゃうと思うけど、それで……わ、美奈子ちゃん。ちょっと、離れて。
   うさぎちゃんまで……え、実は衛さんに厳しく言われてるの? デートがなくなるかも知れない?
   えぇ、それは大変じゃないか……そんなことになったら、がっかりどころじゃないだろ。


   うさぎちゃん、美奈子ちゃん。
   まこちゃんの言うことを、くれぐれも良く聞いてね。
   今のまこちゃんなら、ちゃんと教えて呉れるから。


   ……うん、ハードルが。


   まこちゃん……ふたりのこと、お願いね。


   うん、やれるだけ頑張ってみるよ。
   あたしも楽しみにしているからさ、卒業旅行。


   ……レイちゃんの言ってた通りだった。


   レイちゃん?


   ……若しかしたらって、言っていたの。


   然うだったんだ……大当たりだな、レイちゃん。


   ……。


   ……本当は、自分で見てあげたいんだろうな。


   え……あぁ、うん。学校でなら、お話し出来るから……うさぎちゃん、それは流石に気が早いわ。
   でも、ありがとう。合格出来るように、頑張るわ。え、まこちゃんに? そこまでは……ううん、それは出来ないわ。
   まこちゃんだって、忙しいもの。幾ら、自分の受験が終わったからって……え、でも。


   ……あたしは、全然構わないよ。


   兎に角、そこまでは甘えられな……あぁ、もう。
   あまり揶揄わないで、美奈子ちゃん。ちっとも面白くなんかないわ、うさぎちゃん。
   ふたりとも、どうしてそんなに私達のこと……それよりも、自分のことを……もぅ、だから。


   ……ふふ。


   まこちゃんも笑っていないで。


   ん、ごめんごめん。
   楽しくて、つい。


   ……もぉ。


   改めて、ありがとう。今年も良い誕生日になったよ。
   最後の最後で、とんでもないことを聞いてしまったけど。


   ……。


   うん、じゃあね。


   ん……また、学校で。


   ……。


   ……はぁ。


   ふふ……久しぶりだねぇ、嵐みたいなこの感じ。


   美奈子ちゃんのお誕生日以来だから……そこまでは、久しぶりではない筈なのだけれど。


   だけどあの時は、あたしも忙しかったから。


   ……こんなにも、違うものなのかしら。


   あたしが作ったご馳走が良かったのかも知れない。


   あぁ、それは分かるわ。
   ふたりで喋りながら、ほとんど食べてしまって。


   美奈子ちゃんの時は、ケーキしか作れなかったからね。
   亜美ちゃんの時とちがーうって、苦情を言われたっけ。


   ……特に忙しかった時期だから。


   うん……だから、来年はって思っているよ。


   ……屹度、喜ぶと思うわ。


   喜んで呉れると良いけど。


   ……どうして?


   高校を卒業したら、美奈子ちゃんは今以上に……。


   ……。


   ……いつかは、あたしが作る料理では物足りなくなるかも知れない。


   ……。


   でもまぁ、仕方がないんだけどさ。
   大人になったら、今以上に美味しいものを食べるようになるだろうし。


   ……まこちゃん。


   さぁ、中に入ろうか。
   躰が冷えてしまう前に。


   ……私は、まこちゃんが作って呉れるごはんが一番よ。


   ん?


   ……どんな料理を食べたとしても、それ以上のごはんはないの。


   亜美ちゃん……。


   ……ごめんなさい、中に入りましょう。


   ありがとう。


   ……ん、まこちゃん。


   ずっと……一生、美味しいって思って貰えるように、これからも精進するよ。


   ……精進?


   然う……精進。
   間違っては、いないだろう?


   ……少し、大袈裟だとは思うけれど。


   良いんだ……大袈裟なくらいで。


   ……まこちゃんが、良いのなら。


   ん……。


   ……あの。


   うん……?


   ……中に。


   あぁ、うん……然うだね。


   ……。


   ……中だったら、抱き締めても。


   その前に、お片付けをしないと。
   食べたままだから。


   ……あぁ、然うだった。


   ふたりで、片付けてしまいましょう。


   ううん、亜美ちゃんは良いよ。


   でも、ふたりの方が。


   良いんだ、やりたいんだ。


   ……若しも、気を遣って呉れているのなら。


   今日はあたしの誕生日会だよ。


   ……だから。


   やりたいことを、やらせて欲しい。


   ……。


   つまり、我侭を聞いて欲しい。
   だめかな。


   ……そんなことを、言われてしまったら。


   ん……ずるいよね、ごめん。


   ……。


   片付けが終わって、少しゆっくりしたらさ……家まで、送っていくよ。


   ……。


   今日は来て呉れて、あたしの為に時間を作って呉れて、心からありがとう。
   苺のケーキも料理も、どれもとても美味しかった。


   ……結局、あまり出来なくて。


   ううん、そんなことはない。
   亜美ちゃんが選んで、皆で買って呉れたケーキは……間違いなく、これからのあたしの糧になる。
   それくらい、美味しいものだった。今のあたしでは……悔しいけれど、あんなケーキは作れない。


   まこちゃん……。


   今年も……とてもしあわせな誕生日だった、本当にありがとう。


   ……未だ、お誕生日会は終わっていないわ。


   ん……然うだったね。


   ……。


   片付けている間、寛いでて。


   ……やっぱり、私も。


   ううん、本当に。


   やらせて。


   ん。


   ……やらせて、まこちゃん。


   亜美ちゃん……。


   ……お願い。


   分かった……じゃあ、ふたりで。


   ……ごめんなさい、あなたの我侭を聞いてあげられなくて。


   ううん、良いんだ……ふたりで片付けをするのも、あたしがしたいことのひとつだから。


   ……。


   ……亜美ちゃん。


   あなたは、いつも、然うやって……。


   ……我侭なんてものは、幾らでも湧いてくるんだよ。


   幾らでも……。


   然う……幾らでも。
   特に、亜美ちゃん……あなたに対しては。


   ……私に。


   次から次へと、亜美ちゃんへの我侭……欲が、湧いてきて。
   遠慮なしに、それをぶつけてしまったら……屹度、終わってしまう。


   ……。


   そんな気がする……だから、ぐっと堪えるんだ。
   あまり、溢れてきてしまわないように……。


   ……。


   ……あたしは、欲深なんだよ。


   それは……私も、同じよ。


   ……ん。


   同じなの……。


   ……そっか。


   ぁ……。


   ……それにしても、さ。


   ……。


   まさか、レイちゃんが来て呉れるなんて思ってなかった。
   忙しいと聞いていたから、今回は難しいと思っていたんだ。
   うさぎちゃん達も、聞いていなかったみたいだし。


   ……。


   亜美ちゃんは、聞いていたんだね。


   少し前に……だけど、まこちゃん達には黙っているように言われたの。


   ……ケーキのお金も?


   うん……預かってた。


   ……あたしに対して黙っているのは、分かるけど。


   うさぎちゃんと美奈子ちゃんに知られたら、うっかり、話してしまいそうだからって。


   あぁ……まぁ、分からなくはないかな。
   特にうさぎちゃんは、はしゃぎそうだ……憎まれ口を、叩きながら。


   ……うさぎちゃん、楽しそうだったわ。


   うさぎちゃんは……レイちゃんのことが、大好きだから。


   ……衛さんとは、違うベクトルで。


   ずっとレイちゃんに構って貰えなくて、寂しがってたからさ。
   なんだかんだ言っても、仲が良いんだよね。


   ふたりがちょっとした言い合いになっても、今日は美奈子ちゃんが上手くまとめて呉れて。


   あれは、上手いと言うのかな。
   レイちゃんが切りの良いところで引いただけだと思うんだけど。


   本人は、然う思っているみたいだから。


   ま、それならそれで良いか。


   だけど、本当は分かっているのかも知れない。
   美奈子ちゃんは、鈍いわけではないから。


   久しぶりに三人の掛け合いが見られて、あたしは楽しかったよ。


   うん……私も。


   レイちゃんが居て呉れたのは少しの時間だったけれど。


   それでも、とても楽しかったわ。


   久々に、5人が揃ってね……。


   ……今年も、皆でまこちゃんのお誕生日をお祝い出来て良かった。


   来年も……。


   ……。


   ……難しいかな、来年からは。


   来年、どうなっているか分からないけど……集まれたら、嬉しいと思う。


   年が明けて……最初に誕生日を迎えるのは、レイちゃんだ。


   ……次に、うさぎちゃんで。


   その次が、亜美ちゃん。


   ……それから、美奈子ちゃん。


   そして最後に、あたし。


   ……来年も、また。


   うん……出来れば、また。


   ……。


   考えてみればさ、あたしとレイちゃんは8ヶ月も離れているんだよねぇ。


   ……お姉さんね。


   まぁ、呼ばないけど。


   ……私のことは、呼んだわ。


   亜美ちゃんとレイちゃんは違うから。


   ……どう違うの?


   ん、然うだな……。


   ……どこが、違うの?


   親友、恋人……。


   ……関係あるの?


   そんなことは関係なく、亜美ちゃんには……その、甘えたくなるんだ。


   ……。


   こ、恋人でなかった頃も……。


   ……然う、なの?


   うん……なんでかな、中学生の頃から然うだったんだ。


   ……。


   だから……亜美ちゃん以外のひとを、お姉ちゃんだと思うことはないよ。


   ……まこちゃんにとって、お姉さんは甘えられるひとなのね。


   居ないから、良く分からないけど……。


   ……私、まこちゃんのお姉さんは嫌。


   あ。


   ……お姉さんだと、恋人になれないじゃない。


   それは……然うなんだけど。


   ……やっぱり、嫌。


   う、うん……もう、言うことはないから。


   ……心の中でも、思わないで。


   うん、思わない……思ってない。


   ……絶対だからね。


   はい……絶対です。


   ……。


   亜美ちゃん、話は変わるけど、何時頃帰りたい?
   なるべく、早い方が良いよね。


   ……ううん。


   ん?


   ……今日は、帰らない。


   ……。


   帰らない。


   ……え。


   だから……時間のことは、気にしないで。


   え、えぇ……?


   ……だめなら、ひとりで帰る。


   だ、だめなわけ……。


   ……。


   と言うか、ひとりで帰るなんて……そんなの、だめだ。


   ……時間が早ければ。


   あ、あたしが嫌なんだ。
   亜美ちゃんとの時間が、終わってしまうから。


   ……。


   あの……亜美ちゃん。


   ……今日は、そのつもりで来たの。


   お勉強、は……。


   昨日まで、集中してお勉強した……そして、明日からまた。


   ……。


   ……休ませた方が、効率が良いの。


   亜美、ちゃん……。


   ……何より、今日だけは。


   ……っ。


   ん……まこ、ちゃん。


   ……今夜は、早くベッドに行こう。


   ……。


   そして……明日は、早く起きて。


   ……朝のお勉強をするわ。


   あたしは……朝食と、お弁当を作るよ。


   ……。


   亜美ちゃん……亜美ちゃん。


   ……改めて。


   う、ん……。


   お誕生日、おめでとう……あなたにとって、心豊かな一年になりますように。


   ……ありが、とう。


   今日からまた……同い年ね。


   ふふ……然うだね。


   ……。


   あみちゃん……。


   ……あなたを、愛しているわ。


   ……。


   ……心から、あなただけを。


  23日





   どうぞ、亜美ちゃん。


   ……。


   うん、どうした?


   ……私は、ここで待っているわ。


   玄関で?


   ……うん。


   折角来て呉れたんだし、上がって欲しいな。
   お弁当箱に詰めるだけと言っても、そこそこ時間はかかるからさ。


   ……でも。


   上がって、寛ぎながら待っていて。
   亜美ちゃんのお気に入りのクッションも、ちゃんと干してあるから。


   ……。


   さぁ、どうぞ。


   ……う、ん。


   ……。


   ……やっぱり、私。


   若しかして……久しぶりだから、緊張してたりする?


   そんなこと……少し、あるかも。


   うーん、そっか。


   ……ごめんなさい、行きたいと言ったのは私なのに。


   ううん、それは別に気にしないけど。


   ……ここで、待っているわ。


   ん……分かった。


   ……。


   ねぇ、亜美ちゃん。


   ……なぁに。


   取り敢えず、一歩だけでも良いから入ってみない?


   ……一歩?


   若しかしたら、それで緊張が和らぐかも知れない。


   ……然う、かしら。


   勿論、無理にとは言わない。


   ……。


   ……どうかな。


   ねぇ、まこちゃん。


   なんだい?


   ……上がっても、良い?


   うん、勿論。


   ……はぁ。


   ……。


   ん……お邪魔します。


   はい、いらっしゃい。


   ……。


   どうだい?


   ……うん、大丈夫かも。


   ふふ、そっか。


   ……。


   ん?


   ……やっぱり、然うだわ。


   うん、何が?


   ……まこちゃんのお部屋の匂いが、久しぶりだったから。


   あ、臭い?


   ううん……臭くない。


   大丈夫そう?


   ん……大丈夫。


   あぁ、良かった。


   ……ちょっと、落ち着かないけど。


   あー……それは、どういう意味で?


   ……教えない。


   教えて欲しいな。


   ……だめ、教えない。


   どうしても?


   ……そんなことよりも。


   ん。


   お弁当の支度をした方が良いと思うわ。
   朝の時間は、あっと言う間に過ぎていくから。


   おっと、確かに。
   それじゃ、好きなように寛いでて。


   ……うん、お勉強してる。


   お茶は、要るかい?


   お茶は、流石に。


   はは、然うだよねぇ。


   ……また今度、来た時に。


   今度?


   ……だから、今はお構いなく。


   ふふ、分かった……じゃあまた今度、来た時にね。


   ……うん。


   さて、と。
   着替えるのは、後で良いとして。


   ……。


   亜美ちゃん。


   ……なに?


   久しぶりのあたしの部屋、匂い以外に気になるところはある?


   ん……以前に来た時とは、お部屋の「季節」が変わっているわ。


   然う、最近やっと「夏」から替えられたんだ。


   若しかして、今年は「秋」にしなかった?


   うん、今年は「秋」に出来なかったんだ。
   暑い最中に「秋」にするのもなぁなんて考えてたら、それどころじゃなくなっちゃって。
   秋も、亜美ちゃんのお誕生日があるから好きな季節なのに。


   ……美奈子ちゃんのお誕生日も、秋よ。


   夏の明るさに比べて、秋は色調が落ち着いているところが好きなんだ。
   勿論、夏の明るさも好きだけどね。夏の色には夏の色の、特に青なんだけど、良さがあるから。


   ……まぁ、良いけれど。


   夏の終わり頃から忙しくなり始めて、二学期に入ってからは部屋の掃除すらろくに出来なくてさ。
   面接が終わって、ついでに二学期の期末も終わって、そこでやっと本格的な掃除が出来たんだ。


   「現実逃避」はしなかったの?


   流石に、出来なかったかな。そんな暇があるなら、目の前にあるものに取り組んだ方が良いし、何よりも将来がかかっているし。
   今思えば、今年だけはさっさと替えちゃえば良かったんだよね。おかげで、ちょっと前まで「夏」のままだったんだよ。


   確かに、暑い最中にお部屋を「秋」に替えるのは少し抵抗があるわよね。


   今年は残暑が長引いただろう?
   だから、余計にね。


   9月に入ってからも暫くは暑いままだったわ。


   亜美ちゃんのお誕生日を過ぎても暑かったもんね。


   私の誕生日頃は、未だ暑さが残っていることが多いから。
   それでも、朝晩はましだったと思うけれど。


   お彼岸頃からかな、昼間でも少しずつ落ち着き始めたのは。
   まさに、暑さ寒さも彼岸までだ。


   ……お彼岸。


   ん?


   ……今年のお彼岸は。


   うん、今年のお彼岸は行けなかった。
   だけど、お盆に色鮮やかなお花を持って行ったからさ。


   ……。


   父さんと母さんはあたしが進路で忙しいことくらい、ちゃんと分かっていると思うんだ。
   だから天(そら)の星に戻る時、自分達には構わず、まずは自分のことを優先しなさいって言い残して呉れたような気がして。


   ……まこちゃんのご両親なら、屹度。


   それに、今年のお盆は亜美ちゃんが来て呉れたし……両親に改めて紹介出来て、嬉しかった。


   ……不躾で。


   亜美ちゃんが不躾だったら、あたしなんてもっと不躾になっちゃうよ。


   ……次はいつ行くの。


   うん……冬休みに入ったら、報告を兼ねて行ってくる。


   然う……行ってらっしゃい、気を付けてね。


   うん、ありがとう。


   ……。


   ん、亜美ちゃん?


   ……今日のご挨拶が、未だだったから。


   あぁ。


   お久しぶりです……昨日は忙しい中、まこちゃんが予備校までお迎えに来て呉れました。


   ……。


   まこちゃんは私を家まで送って呉れて……別れを交わしたのにも関わらず、私が引き留めてしまいました。


   ……うん?


   ゆうべ、まこちゃんがお部屋に戻れなかったのは、私のせいです……ごめんなさい。


   父さん、母さん。


   ……まこちゃん。


   分かっているとは思うけど、あたしが離れたくなかっただけなんだ。
   合格通知もひとりで確認出来なくて……だから、亜美ちゃんを絶対に責めないでね。


   ……。


   天の星に居る父さんと母さんには、嘘は吐けないからさ。


   ……だったら。


   ゆうべは、あたしの我侭だよ。
   ね、父さんと母さんも然う思うだろう?


   ……ねぇ、まこちゃん。


   ん、なに?


   ……やっぱり、見えているのかしら。


   幾らかは、見えているんじゃないかな。
   全部だと……流石に、困る。


   ……。


   ただいま、父さん母さん。今は学校に行く支度をする為に帰ってきたんだ。
   だから、支度が終わり次第、また行ってくるよ。勿論、遅刻はしない。


   ……。


   よし、それじゃあ支度を。


   良いの?


   ん?


   今、報告しなくても。


   ……。


   見ているとは、思うけれど……お墓参りの時でも、良いとは思うけれど。


   ……確かに、然うだ。


   ……。


   父さん、母さん。昨日、志望校からの合格通知が届きました。
   通知は、この封筒に入っています。後で良いので、ゆっくりと見て下さい。


   ……。


   来年の四月から、夢を叶える為に製菓学校に通います。
   どうか、天の星から見守っていて下さい。


   ……。


   ……ありがとう、亜美ちゃん。


   ううん……余計なことを、言って。


   余計なことじゃないよ。


   ……。


   亜美ちゃん、いつもありがとう。
   両親に手を合わせて呉れて。


   ……私がしたくて、していることだから。


   相変わらず亜美ちゃんは良い子だなぁって、今頃、ふたりで話しているかも知れない。
   若しかしたら、まことには勿体ないぐらいの子だって……言われていたら、どうしよう。


   ……ふ。


   亜美ちゃんみたいな素敵な子が恋人で、ましてや、お嫁さんになって呉れるかも知れないだなんて。
   亜美ちゃんに考え直して貰うのなら、今かも知れない……まことには可哀想だけれど、亜美ちゃんにはもっといいひとが


   ふふ、ふふふ……。


   ……あれ。


   もう、まこちゃんったら。
   朝から何を考えているの。


   いやぁ、まぁ……妄想?


   妄想するのなら、良いことの方が良いと思うわ。
   それに、まこちゃんのご両親はまこちゃんが悲しむようなことは望まないと思う。


   ……。


   まこちゃん?


   ……例えば、亜美ちゃんのウェディングドレス姿とか?


   ……。


   あ、それは未だ早い?


   ……別に、構わないけれど。


   実は、もうしているんだ。


   ……知ってる。


   亜美ちゃん、とてもきれいでさ……早く、現実になれば良いなって。


   ……まこちゃんのお父さま、お母さま。


   ん……?


   ……私の方こそ、まこちゃんは勿体ないと思います。


   え。


   ですので……私がまこちゃんに相応しくないと少しでも思っているのでしたら


   待った、待った。
   朝から何を言っているんだい、亜美ちゃんは。


   ……妄想?


   いや、するならもっと良いことを……ん?


   ……今日もまた、頑張って参ります。


   亜美ちゃんが、妄想?


   ……。


   亜美ちゃんって、妄想するの?


   ……願望を含んだ想像くらい、私だってするわ。


   た、例えば……。


   ……ウェディングドレスを纏ったまこちゃんの隣に立ちたい、とか。


   ……!


   まぁ、これは今思い付いたことなのだけれどね。


   それでも。


   ……ん。


   それでも……すっごく、嬉しい。


   ……まこちゃん、ご両親が見ているわ。


   あ……えと、恋人同士だし。


   だとしても……離れて?


   ……今更、だし。


   ……。


   ……。


   ……そんなことを言うのなら、


   はい、今直ぐ離れます。


   ……。


   父さん、母さん、今日もあたしは亜美ちゃんと仲良しだよ。


   ……全く。


   はは……。


   ……いい加減、支度しないと。


   うん、直ぐに。


   ……。


   亜美ちゃん、時計代わりにテレビを点けても良いかい?
   音は、消すから。


   音があっても気にしないから、消さないで良いわよ。


   ん、ありがとう。
   だけどやっぱり、音は消すよ。


   ……ん。


   お、丁度天気予報だ。


   ……今日も、天気は良さそうね。


   然うみたいだね。


   ……。


   じゃ、亜美ちゃん。


   ん、また後で。


   うん。


   ……。


   それじゃあ、さっさと支度しちゃおうかな。


   ……まこちゃんのお誕生日も、晴れ。


   お弁当箱は、ふたつ。
   今日のごはんはチキン、もとい、ウィンナーライス。


   ……お義父さま、お義母さま。


   ごはんにウィンナー、ミックスベジタブル、それからケチャップ……これを、電子レンジで加熱して。
   その間にゆうべのうちに作っておいた、きのこのソテーと切り干し大根を詰める。


   まこちゃん……まことさんは、本当に素敵なひとです。


   グリーンリーフを敷いて、もうひとつ緑でブロッコリー、それとプチトマトをひとつ……はい、ひとつ温まった。
   次のごはんを、と……夏と違って気温が低いから、冷めやすくて良いな。


   ……未だ早いですよね、ごめんなさい。


   ~~♪


   ……あ。


   ~~~♪


   ……まこちゃんって、機嫌が良いと鼻歌を歌い出すんですよ。


   ん、呼んだ?


   ううん。


   お勉強、しないで良いのかい?


   今からするところよ。


   ん、そっか。
   でもまぁ、両親と話したかったらそのままで。


   ……。


   違った?


   ……違わない。


   父さんと母さんも、応援しているよ。


   ……然うだと、嬉しい。


   然うに決まってるさ。
   ん、またひとつ温まった。


   ごはん、冷ましてから詰めるのよね。


   うん、然うだよ。
   夏とは違うから、比較的冷めるのが早いんだ。


   今日のお弁当は……チキンライス?


   ううん、チキンの代わりにウィンナーライス。
   昨日のうちに斜め切りにしておいたんだ。それをごはんにのせて、レンジでね。


   ふふ、お手軽ね。


   お手軽でも、美味しいよ。


   ん、知ってるわ。


   はは。


   ……。


   今は……と。


   6時50分になるところ。


   ん、ありがとう。
   未だ、余裕があるね。


   ええ、早めに出てきて良かったわ。


   それじゃ、ごはんが冷めるのを待っている間にあたしもお勉強をしようかな。


   するの?


   え、しちゃだめかい?


   まさか。
   でも、お勉強をするとは思っていなかったの。


   いや、実はさ。


   うん?


   今日、指されそうなんだよね……。


   ……復習、していないの?


   うん……してない。


   教科は、なぁに?


   ……英語。


   然う……なら、復習した方が良いわね。


   ん、然うする。


   ……。


   クッション、どう?


   ええ……心地が好いわ。


   ふふ、それは良かった。


   ……干しておいて呉れたのね。


   うん、亜美ちゃんがいつ来て呉れても良いように。


   ……ありがとう、まこちゃん。


   こちらこそ、来て呉れてありがとう……。


   ……ん。


   ……。


   ……もう、浮かれすぎ。


   はい、ごめんなさい。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ。


   ん……なんだい。


   ……やっぱり、私はまこちゃんのお部屋が好き。


   ……。


   ……心が、落ち着くの。


   また。


   ……


   泊まりに、おいで……ううん、来て。


   ……ん、必ず。


  22日





   ……ん。


   ……。


   んー……。


   ……目が覚めた?


   うん……おはよう、亜美ちゃん。


   おはよう……まこちゃん。


   ……早いね。


   ん……ゆうべは、良く眠れたから。


   ……寝不足には、なってなさそう?


   目覚めは悪くなかったわ……ここ何ヶ月かで、最も良かったと言っても良いくらい。


   ……そっか。


   良かったら、もう少し眠っていて……起きるには、未だ早い時間だから。


   ううん、もう良いや……あたしも、良く眠れたから。


   ……授業中に、眠くなったりしない?


   ならないよ……目覚めすっきりだから。


   ……なら、良いけれど。


   お勉強は、捗っているかい……?


   ええ……おかげさまで。


   ……それは、何より。


   やっぱり、休ませてあげた方が効率が上がるわね。
   澱むことなく、頭に流れ込んでくるから。疲れ気味だと、こうはいかない。


   ふふ、だろう……?


   ……休んでばかりでは、怠け癖が付いてしまうけれどね。


   亜美ちゃんの場合は、そんなことにはならないさ。
   自分を律することにおいては、亜美ちゃんが一番なんだから。


   ……レイちゃんは、厳しいひとよ。


   それはまぁ、確かに。


   ……今は特に、誰とも会わないようにしているみたいだから。


   然ういや、うさぎちゃんも暫く会ってないって言ってたな。
   電話をしても、あまり話さないうちに切られてしまうって……少し、寂しそうに見えたっけ。


   ……私とは、違う。


   うん?


   ……まこちゃんに逢いたいと、どうしても思ってしまう私とは。


   ……。


   ごめんなさい……引き留めてしまって。


   いや……あたしが帰りたくなかっただけだよ。
   だから、謝らなければいけないのはあたしの方だ……ごめんね、亜美ちゃん。


   ……。


   ……眠る前に、お勉強する筈だったのに。


   その分を、今しているから……さっきも言ったけれど、今朝は調子が良いの。


   澱むことなく、流れ込んできて……だったね。


   ……そして、乾いたスポンジに水が染み込むように。


   お……。


   ……今朝は、本当に頭の調子が良い。


   顔が、明るい。


   ふふ……でしょう?


   うん……とても良い顔をしているよ。


   ……多分ね。


   多分……?


   眠る前にお勉強していたら、未だ、起きていないと思うの。
   そして、目覚めもここまで良いものではなかった……疲れが、抜けなくて。


   ありがとう……然う言って呉れて。


   ……私こそ、ありがとう。


   躰は、重くないかい……?


   ん……今朝は、重くないわ。
   寧ろ、すっきりして軽く感じるくらいなの。


   ……すっきり?


   もやもやしたものが、すっかり抜けて。


   ……。


   だめね……私。


   ……どうして?


   レイちゃんのように、自己抑制することが出来なくて。


   ……久しぶり、だったから。


   ……。


   ……最後にしたのは、夏休みだったろう。


   残暑が、厳しい日だったわ……。


   ……人間なんだ、たまには理性の箍が外れてしまうことぐらいあるさ。


   ……。


   ……なんて、勉強の邪魔をしてしまったあたしに言われたくないか。


   邪魔だなんて……そんなこと、言わないで。


   ……。


   言わないで……お願い。


   ……分かった、もう言わない。


   ……。


   ……亜美ちゃん。


   気持ち……良かったの。


   ……うん、あたしもだ。


   思っていた以上に……欲は、私の中で。


   ……あたしも、感じていた以上に。


   ……。


   忙しいからって、好きなひとを忘れることはないし……欲が、なくなってしまうこともない。
   考えてしまうと、どうにもならなくなってしまうから……どうにかして、考えないようにしていただけなんだ。
   例えば……夜空を、見上げて。水星は、見つからないけれど。


   ……然ういえば、木星は見えるのよね。


   うん……良く見えるよ。


   ……今夜にでもまた、見上げてみるわ。


   空を見上げて、ぶつからないように。


   心配しないで……歩きながらは、見ないから。


   ……傍に、あたしが居れば良いんだけど。


   ゆうべのように……?


   ……然うすれば、見上げて歩いていてもぶつかることはないよ。


   ……。


   ……毎日とは、言わない。


   あまり、甘えられない……。


   ……あたしは、甘えて欲しい。


   ……。


   一週間に、数度……一度だけでも良い。
   亜美ちゃんと、夜の散歩がしたい。


   ……夜の散歩。


   なんだったら、二週間に一度でも……。


   ……。


   ……あたしは、迷惑ではないから。


   ……。


   ……。


   ……一度だけ、なら。


   それは……二週間に?


   ……まこちゃんさえ良ければ、一週間に。


   良いに決まってる。


   ……。


   亜美ちゃんの都合が良い日に……迎えに行くよ。


   ……ゆうべみたいに、泊まることは。


   出来なくても良い……亜美ちゃんを送ったら、あたしはそのまま帰る。


   ……。


   迷惑なんかじゃ、ないから。
   あたしが、然うしたいんだ。


   ……分かっているつもり。


   なら……。


   ……次は、来週に。


   ……!
   やった……!


   しぃ。


   ……あ。


   未だ、早いから。


   ん……ごめん。


   ……。


   ……ねぇ。


   なぁに……。


   今日から、また……気持ちを引き締めて、頑張るんだろう。


   ……ええ。


   あたしも……それまで、我慢するよ。


   まこちゃん……うん。


   ……けど、若しも我慢出来なくなったら、直ぐに言って。


   屹度もう、大丈夫……。


   ……。


   ……だと、思う。


   うん……?


   まこちゃんの……お誕生日があるし。


   ……然ういや、来週だ。


   期待は、しないでね……。


   ん……いや、どうだろ。


   ……だめ。


   はい……。


   ……。


   5時ちょっと過ぎか……朝ごはんには、未だ早いかな。


   ……一度、お部屋に戻るのでしょう?


   うん……学校に行くのに、何にも用意していないから。
   お弁当も、作りたいし……昨日のうちに作っておいたからさ、あとは詰めるだけなんだ。


   ……制服もないものね。


   いっそのこと、制服で行けば良かったな……あの時間にうろうろしても、予備校生だと思われたかも知れないし。


   ……それでも、良かったかも。


   だけど、教科書もノートもお弁当もないから……やっぱり、部屋に戻らなきゃ。
   学校に手ぶらで行くわけにはいかないしさ……次があったら、持って来ようと思うけど。
   お弁当は、亜美ちゃんの家で作って……その時は、亜美ちゃんのお母さんの分も。


   ……。


   それは、受験が終わってからかな……。


   ……私も、行っても良い?


   え……?


   ……まこちゃんのお部屋。


   それは、良いけど……。


   ……早めに出れば、十分に間に合うから。


   付いてきて呉れるの?


   ん……付いて行きたい。


   分かった……なら、一緒に行こう。


   ……うん。


   家が近くて、良かったなぁ……。


   ……ふふ、本当に。


   あと、電車通学でないから。


   その分、時間にゆとりがある。


   ……定期券も、持ってみたかったけど。


   来年の春には、持てるわ……。


   ん……然うだね。


   ……ね。


   うん?


   シャワー……使うでしょう?


   ……良いかな。


   ん、勿論……タオルは用意してあるから。


   ありがとう。


   ……。


   亜美ちゃんは、もう?


   ……起きて、直ぐに。


   ……。


   まこちゃん……?


   ……亜美ちゃんちの石鹸の匂いが、微かに。


   もう……嗅がないで。


   ……良い匂いだからさ。


   まこちゃんだって、同じに匂いになるのだから。


   ……然うなんだけど。


   それ以上は、言わないで良いわよ。


   ……亜美ちゃんの匂いは、その中に甘さが混じるから。


   まこちゃん。


   ……はい、もう言いません。


   ……。


   そろそろ、お母さん帰ってくる?


   ううん……未だ、大丈夫よ。


   ん、そっか。


   ……。


   ……朝ごはん、食べるかな。


   余計なことは、言われたくないから。


   だよね……じゃあ、また今度に。


   ……。


   先ずはシャワーを浴びてこようか……。


   ……着替えは、傍に。


   ん……ありがとう。


   ……。


   備えって、やっぱり大事だな……。


   ……本当に、然う思うわ。


   ……。


   ……まこちゃん、どうしたの?


   ん、いや……着替え、気付かれてはいないかなって。


   ……母には、気付かれていない筈。


   一応、洗濯物は持って帰っているからね。


   だけど、分からない……あのひとのことだから、言わないだけで。


   ある意味、亜美ちゃんよりも勘が良さそうだもんな……。


   ……はぁ。


   ん……?


   ……無駄に、勘が良いの。


   曰く、母の勘だっけ……?


   ……でも、お付き合いしているとは未だ言っていない。


   仲が特に良い親友……?


   ……嫌なの、色々詮索されるのが。


   うん……。


   ……けど。


   なんとなく、気付かれていそうではある……。


   ……今の所、口出ししてくることはないから。


   あぁ……。


   ……その点は、感謝しているわ。


   うん……あたしもだ。
   亜美ちゃんのお母さんに、亜美ちゃんとの付き合いを反対されたら……。


   ……反対されたところで、私は別れない。


   ん。


   ……母だって、然うだったのだから。


   お母さんも……?


   ……画家と一緒になるなんて、と。


   反対された……?


   ……らしいわ。


   だけど、亜美ちゃんのお父さんって有名な画家さんになったんだよね……?


   ……それは結果論、結婚する時はまだ無名だった。


   無名じゃ、やっぱり難しいか……。


   ……どうせなら、結婚相手も医者にして家に入れと。


   む……。


   ……入っていたら、別れなかったかも知れない。


   ……。


   いいえ……やっぱり、分かれていたかも。
   あのふたり、私から見ても合っていなかったから。


   ……それでも、反対を押し切って結婚したんだよね。


   結婚と生活は、別物。


   ……お母さん?


   コーヒーを飲んでいる時に、さらっとね。


   ……。


   ……男女でも、難しいのに。


   応援、して呉れないかなぁ……。


   ……期待はしない方が良い、知ったら変わるかも知れないから。


   女同士……認められるのは、難しいかな。


   ……笑いものにされるんだもの。


   笑いもの……?


   ……。


   何か、見た……?


   ……とても不快なものが、目に入った。


   ……。


   ……愛し合うのに、異性も同性もないのに。


   それがいつのことかは聞かないけど……話す時間が、あれば。


   ……今、話せたから。


   ……。


   シャワー……行ってきて。


   ……じゃあその間、ゆっくりとお勉強していて。


   ふふ……然うする。


   ……ね、亜美ちゃん。


   なに?


   卵、あるかな。


   卵はあるわ。朝食に良く食べるから、買ってあるの。
   あとは、食パンと……母が気紛れに買ってきたバター。


   ……気紛れ?


   値段は、聞いていない。


   ……。


   良かったら、使って。
   まこちゃんに食べてみて欲しい。


   い、良いのかな。


   どうせ、母は大して食べないから。


   ……紅茶も、あったりする?


   ええ、あるわ。
   最近、また買ってきたの。


   ……淹れても良いかな。


   淹れて欲しい……まこちゃんが淹れて呉れたお茶が飲みたい。


   うん……なら、淹れよう。


   あとは、確認してみて。


   ん、分かった。


   シャワーの前にでも。


   ふふ、うん。


   ……。


   それじゃあ、シャワーを浴びながら今朝の献立を考えよう。


   ……楽しみにしてる。


   うん、楽しみにしていて。


   ……。


   ふぅ……うん、躰の調子が良い。


   ……疲れ、残っていない?


   全然、残ってない。
   今朝のあたしは好調、ううん、絶好調だ。


   ……良かった。


   ……。


   ん……まこちゃん。


   ……見えないところに、残しておいた。


   知ってる……。


   ……三か所。


   違う……五か所。


   ……。


   胸にふたつ、背中にもふたつ……そして。


   ……太腿に、ひとつ。


   ……。


   亜美ちゃんは……。


   ……さぁ、幾つでしょうね。


   あとで、数えてみよう……。


   ……まこちゃんよりは、少ないわ。


   ……。


   ……あ。


   いいにおい……。


   ……もぅ、まこちゃん。


   うーん……相変わらず難しくて、あたしには分かりそうにない。


   ……教えてあげましょうか、登校中にでも。


   ……。


   理解してしまえば、然程難しくないから。


   ……理解するのが、大変そうだなぁ。


   あら、今のまこちゃんなら……。


   と言うわけで、冷蔵庫の中を確認してからシャワーに行ってきます。


   ……どういうわけ?


   亜美ちゃんちのキッチンを使わせて貰うのは久しぶりだから、楽しみだ。


   ……全く。


   行ってきます、亜美ちゃん。


   ん……行ってらっしゃい、まこちゃん。


  21日





   こんなに明るくても、オリオン座は良く見えるな……。


   ……。


   ベテルギウス……リゲル……木星は、向こうか。
   キンモク星は、どの辺りなんだろう……屹度もう、会うことはないだろうけど。


   ……。


   水星は、見えない……次はいつ、見えるんだったっけ。
   明け方か、夕方か……難しいんだよなぁ、水星を見るのは。


   ……。


   キンモクセイの時期も、過ぎちゃったし……。
   今年は、ふたりで見られなかったな……。


   ……。


   水星……マーキュリー……メルクリウス……神話では、商人と旅人の守護神とされる。
   他にも色々あるみたいだけど……性質は、亜美ちゃんに全く似ていない。
   そりゃ然うだ……あたし達には、全く関係ないんだから。


   ……。


   関係ないけど……商人の守護神ってところは良いな。
   あたしが将来、自分のお店を持つようになったら……どんな商売の神さまよりも、頼りになりそうだ。


   ……。


   木星……ジュピター……ユピテル……神話では主神であり、天空神でもある。
   その性質は……男神に良くある浮気症で、子を数え切れないほど多く作り、非常に腹が立つ。


   ……。


   あたしは、確かに惚れやすかったけど……だけど、それだけだ。
   浮気症なんかじゃない……前世なんて、好きになったのはマーキュリーだけだったんだぞ。
   正直、そこだけは負けた気がする……いや、ジュピターは小さい頃からマーキュリーと一緒だったじゃないか。
   あたしだって、子供の頃から亜美ちゃんと一緒だったら……屹度、亜美ちゃんだけを一途に。


   ……。


   マーキュリー……ジュピター……前世では月の言葉で呼んでいた筈だけれど、記憶ではいつもこの呼び方で再生される。
   ジュピターはいつだって彼女のことをマーキュリーと呼び、ジュピターはどんな時だってマーキュリーにジュピターと呼ばれて。
   今のあたし達が使う言語に自動的に変換されているのは、今のあたし達が前世の言葉を良く知らないからか……或いは、誰かの思惑によるものか。


   ……あ。


   どうせだったら、マーキュリーが良い……けどどうせ、ジュピターなんだろうな。
   あいつ、無駄に思考力が高いからな……全部、マーキュリーのおかげなんだろうけど……て、今のあたしと大して変わらないな。


   ……。


   はぁ……亜美ちゃん、未だかな。


   まこちゃん。


   わっ。


   ごめんなさい、待たせてしまって。


   ん、いや、大丈夫だよ。
   ちょっとした天体観測をしていたから。


   天体観測?


   その前に。


   ん。


   良いだろう?


   ……いつも、ありがとう。


   ううん、あたしが持ちたいだけだから。


   ……重くない?


   ん、鈍った躰を刺激するのには丁度良い。


   ……鈍っているの?


   うん、ずっと忙しかったから。


   ……。


   平和なことは、良いことなんだけどね。


   ……このまま、続いて欲しいわ。


   あぁ、全くだ。


   ……。


   と言うわけで、改めて。


   うん。


   見て、オリオン座が良く見えるよ。


   オリオン座……?


   然う、オリオン座。


   あぁ、本当……もう、そんな季節だったのね。


   あれ、今年は未だ見ていなかった?


   夜空を見上げる余裕がなくて。


   あまり下を向いていると、背中が丸くなってしまうよ。


   大丈夫よ、下ばかり見ているわけではないから。


   ん、なら良いけどさ。たまには、夜空を眺めるのもお勧めだよ。
   お勉強で疲れ切った頭を、ほんの少しだけでも休ませることが出来るかも知れないから。
   休まれば効率が上がって、お勉強により集中することが出来ると思うんだ。


   ふふ、然うね……これからは意識的に、然うしてみるわ。


   偉そうにごめんね?


   ううん、まこちゃんが言葉にして呉れることで、改めて然う思えるから。
   でないと私のことだから、屹度、無理ばかりしてしまうと思うの。疲れていないと、思い込んでね。


   ……否定は、出来ないな。


   ふふ、でしょう?


   ……笑いごとでは、ないんだけれど。


   それにね……まこちゃんの言葉なら、素直に聞けるから。


   ……お母さんの言葉は、聞けない?


   母は……出さないで。


   はい……ごめんなさい。


   ……また、微笑ましいと思っているでしょう。


   ん、いや、別に?


   ……思ってる。


   思ってないよ。


   ……どうだか。


   亜美ちゃんのお母さん、今夜は?


   今夜も、夜勤。


   そっか。
   相変わらず、忙しそうだ。


   母はいつだって忙しいわ。


   亜美ちゃんも、お医者さんになったら然うなるのかな。


   ……。


   夜勤も、多くて……。


   私は……どうかしら。


   ……。


   医者と言っても、私は母とは違う道を選ぶと思うの。


   ……違う道?


   仕事は、辞めない……だけど、家族も大事にしたい。


   ……家族。


   持てるのならば……持ちたいと、思っているから。


   ……。


   まこちゃん……。


   ……素敵なひと、居るよね。


   ……。


   亜美ちゃんに……相応しいひと。


   ……ええ、居るわ。


   大学だけでなく……お医者さんに、なってからも。


   ……ここに。


   ……。


   大学生になっても、医者になれたとしても……私が素敵だと思うひとは、ここに居る。


   ……亜美ちゃん。


   私には、勿体ないひと……。


   ……。


   子供は、望めないと思うけど……。


   ……亜美ちゃんは、それでも良いの?


   私は……それでも、構わない。


   ……。


   ……あなたとお付き合いし始めた頃から、然うなれば良いと。


   中学生の頃は、流石に考えてなかった……?


   ……そもそも、恋人同士になれるなんて思っていなかったもの。


   ん、そっか……。


   ……まこちゃんは。


   ……。


   ……子供が、持てなくても。


   あたしの、もうひとつの夢。


   ……。


   それは、お嫁さんになること。


   ……製菓学校には、まこちゃんと同じ夢を持っているひとが多く居る。


   うん、いっぱい居ると思う。


   その中には……まこちゃんに、私なんかと比べられないくらいに相応しい人が。


   あたしは、亜美ちゃんのお嫁さんになって。


   ……。


   亜美ちゃんと、家族になりたい。
   ずっと然う思っていたし、今でも思っている。


   ……まこちゃん。


   改めて、伝えておくよ。


   ……うん。


   夢が現実になったら、何よりも大事にしたいと思っているんだ。


   ……ふたりで、大事にすれば。


   屹度、離れることになんてならない。


   ……。


   ……亜美ちゃん。


   私……改めて、頑張るわ。


   受験?


   ……受験も、だけど。


   ……。


   これからのこと……色々と。


   ……ふたりで、頑張ろう。


   うん……まこちゃん。


   それじゃ、行こうか。


   あ、待って。


   うん?


   寒かったでしょう?


   あぁ……夜はやっぱり冷えるね。


   缶のミルクティーを買ってきたの。
   良かったら……若しかしたら、少し冷めているかも知れないけど。


   ありがとう、貰うよ。


   ……どうぞ。


   うん……お、結構温い。
   これなら屹度、飲み頃だよ。


   ん。


   亜美ちゃんは?


   私の分は、買っていないの。


   ん、どうして?


   私は、ついさっきまで中に居たし。


   んー……なら、はんぶんこだ。


   ……。


   亜美ちゃんが要らないのなら、ひとりで飲むけど。


   ……。


   一口だけでも、どう?


   ……一口だけなら。


   なら、お先にどうぞ。


   ううん……まこちゃんが、先に。


   間接キス。


   ……。


   なんて、中学生みたいか。


   ……もぅ。


   はは。


   恥ずかしい。


   ごめん、ごめん。


   ……。


   亜美ちゃん。


   ……まこちゃん。


   取り敢えず、歩きながらで良い?


   ……飲まないの?


   うん……飲むよ。


   ……。


   今は、手を温めようと思って。


   ……然う。


   良かったら、腕を。


   ……だめ。


   予備校の前だから?


   ……だから、もう少し離れてから。


   ふふ……うん、分かった。


   ……。


   はぁ……未だ、白くないや。


   ……未だ、早いと思う。


   12月になったら、白くなるかな。


   ……今冬は、例年よりも気温は低くなると予想されているから。


   雪、降るかな……試験の日前後は、降らないで欲しいな。


   ……。


   三学期は、あんまり学校に行くことがないんだよね。


   ……学年末テストが終わったら、自由登校になるわ。


   そっか、未だテストがあるんだっけ。


   一応ね。


   高三の三学期は、何かと忙しいんだし……なくても良いのにね。


   ……気晴らしにはなるから。


   気晴らし……。


   ……まこちゃんも、最後まで気は抜かないでね?


   あ、はい……。


   ……心配なのは、うさぎちゃんと美奈子ちゃんなのだけれど。


   亜美ちゃんもレイちゃんも、ふたりのことを見ている暇は全くないもんな……。


   それで、まこちゃんにお願いがあるの。


   あたしに?


   ふたりのこと、お願いしても良い?


   あたしが、ふたりに勉強を教えるの?


   今のまこちゃんなら、大丈夫だと思うの。


   あたしが、あのふたりに……本当に、教えられるかな。
   なんだったら、衛さんに……て、だめか。衛さんも忙しいよな。


   ……お願い、まこちゃん。


   うーん……。


   ……うっかり留年なんてことになったら。


   ……。


   ……可能性は、ゼロではないから。


   分かった……やるだけ、やってみるよ。


   ありがとう、まこちゃん。


   いや、なんだかんだ言ってもあたしも心配だしね。


   ……はぁ。


   ん、どうした?


   ……なんだか、安心して。


   そんなに、心配だったの?


   二学期になってからは、ほとんど見てあげられなかったから。


   ……赤点、いつも以上に取ってたみたいだね。


   大丈夫だとは思っているのだけど……若しものことがないとは、言い切れないし。
   レイちゃんも、心配していて……ふたりだけでお勉強をすると言っても、するとは限らないでしょう?
   何か、他のことをし始めてしまうかも知れない……。


   うん……それは、然う。
   止める人がいないと……どうしてもね。


   二学期はまこちゃんも忙しかったし。


   一応、気にはしてたんだけどさ……小論文やら面接やらで、それどころじゃなくなっちゃって。


   仕方ないわ……進路は、大事だもの。


   ……。


   ……問題は。


   あたしに、あのふたりが止められるかってことなんだけど……お勉強を教えるのと同じくらい、難しそうで。


   ……レイちゃんが、居て呉れれば。


   レイちゃんなら、ひとりでふたりを止められるもんな……たまに、美奈子ちゃんが止まらないけど。


   ……。


   ……やっぱり、あたし達は5人でないと。


   だけど……ずっと、5人では居られない。


   ……。


   ……大人に、なる為に。


   大人……か。


   ……寂しい、けれど。


   ……。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   書留、郵便局に行って受け取ってきた。


   ……それで、結果は。


   実は……。


   ……。


   未だ、見てないんだ。


   ……はい?


   大きさからして、大丈夫だとは思う。


   ……その郵便は、今どこに?


   この、トートバッグの中に。


   ……。


   ミルクティー、ちょっとだけ持ってて貰っても良い?


   ……良い、けど。


   ありがとう。


   ……。


   これ、なんだけど。


   ……確かに、大きい封筒ね。


   大きい封筒は、合格通知の他に書類が入っていると聞いたことがあるんだ。


   ……鋏は、持ってる?


   鋏?


   封を開くのに。


   ……あ。


   持っていないのね……。


   しまった……忘れてた。


   ……。


   手で、破れないかな……。


   待って。


   ん?


   ……ミルクティー、良い?


   あ、うん。


   ちょっと待っててね……カッターを持っているから。


   カッター?


   ……ん、あった。


   ……。


   これなら。


   ありがとう、亜美ちゃん。


   はい、まこちゃん。


   え。


   まこちゃんが、開けて。


   ……。


   まこちゃんへの通知なのだから。


   ……うん、分かった。


   一度、止まって。
   手を切ってしまうかも知れないから。


   そ、然うだね。


   ……。


   はぁ……よし。


   ……。


   ん……あれ。


   ……あ。


   真っ直ぐに……ん。


   ……貸して、まこちゃん。


   え、と……良い?


   ……ただし、開けるだけよ。


   うん……分かってる。


   ……。


   ……わ、きれい。


   ん……これで、良いわ。


   ……。


   まこちゃん……確認して。


   ……う、ん。


   ……。


   ふぅ……。


   ……。


   ……これ、かな。


   ……。


   ……。


   ……。


   ……どうしよう。


   まこちゃん……?


   亜美ちゃん……あたし。


   ……。


   ……合格、だって。


   あぁ。


   受かった……受かった。


   良かった、まこちゃん。


   あ、あぁ……夢じゃ、ないよね。


   夢ではないわ、現実よ。


   いや、だって……支援も、受けられるって。


   支援も?


   あたしの、見間違えかな。


   見せて貰っても?


   うん、見てみて。


   ……。


   ……。


   ……あぁ。


   ど、どうかな……やっぱり、見間違えだった?


   いいえ……いいえ。


   あ。


   おめでとう、まこちゃん……本当に、おめでとう。


   ……っ。


   あなたの希望が、叶って……私は、嬉しい。


   ……あみ、ちゃん。


   ……。


   ……ありがとう、亜美ちゃん。


   ん……。


   ……。


   ん、まこちゃ……。


   ……。


   ……もぉ。


   ごめん……どうしても、したくて。


   ……特別、だからね。


   うん……ありがとう。


   ……。


   ……はぁぁ。


   安心した……?


   ……うん、した。


   ふふ……良かった。


   ……はは。


   次は……私の番ね。


   ……あ。


   必ず……。


   ご、ごめん、あたし……。


   ……どうして?


   だ、だって……。


   もっと、頑張らないと。


   ……へ。


   まこちゃんのおかげで然う思えたから、謝らないで?


   え、そ、然うなの?


   ええ、然うなの。


   そ、そっか?


   はぁ……受験まで、あと少し。


   ……。


   帰ったら、眠る前にお勉強しなきゃ。


   ……睡眠不足は、駄目だよ。


   ええ、分かっているわ。


   ……。


   ミルクティー、もう飲めそう?


   ……え?


   違った?


   ……違いません。


   ふふ。


   ……敵わないなぁ。


   ……。


   亜美ちゃん、やっぱり先に。


   ううん、まこちゃんが先に。


   ……。


   ご褒美なら、もうあげたでしょう?


   ……ん、然うだった。


   ……。


   ……うん、甘い。


   もう、冷めてしまったんじゃない?


   ううん、温くて飲みやすいよ。


   ……まぁ、良いけれど。


   ……。


   ……。


   ……亜美ちゃん。


   ……。


   ……心からの、ありがとうを込めて。


   ……。


   ミルクティーの味……?


   ……触れただけだから、甘い匂いだけ。


  20日





   最初の二年間は一般教養を学んで、それから専門的な学部に成績で振り分けられる。
   改めて聞いても大変そうだよなぁ。亜美ちゃんが志望するところは特に倍率が高いし。


   そもそも、募集人員が少ないからね。


   100人くらいだっけ。


   ええ。


   100人かぁ……うちの学年よりも、少ないなぁ。


   三類に進学出来ればほぼ確実に、医学部へ進むことが出来ると考えても良いみたいだから。
   勿論、お勉強は頑張らないといけないけれど。


   最初の二年は、医学部ではなく教養学部になるんだろう?


   ……然う、教養学部。


   リベラルアーツ、だっけ。
   専門分野だけでなく、幅広い知識を得る教育方法。


   広く深い教養と豊かな人間性を培うと共に、後期課程の専門教育に必要な基礎的な知識と方法を学ぶ。
   と、大学案内の説明には書いてあったわ。私としても、幅広い教養を学べることは望むところだから。


   教養って、何を学ぶの?


   色々、あるけれど……外国語、生命科学、哲学、経済、歴史学、環境論……。


   はぁ、やっぱり高校までとは違うなぁ。
   外国語も、英語だけじゃないんだろ?


   ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語、中国語……。


   亜美ちゃんは、ドイツ語を勉強したい?


   ん、ドイツ語を選択しようと思っているわ。


   ……。


   ……まこちゃん。


   留学……したい?


   出来るのなら……今度こそ、したいと思ってる。


   ……その時は。


   ……。


   えと……お医者さんになる為の勉強をする前に、二年間、色んな教養を学ぶんだね。


   ……教養を学ぶのは、実際は一年半なの。


   あれ、然うだったっけ。


   ん……それで残りの半年は、進学が内定した学部学科での学修の基礎となるべき専門教育科目を主として学ぶの。


   予習みたいなもの?


   基礎を学ぶから、予習と言うより。


   残り半年からは本番、と言って良いのか。


   ん。


   それで、前期課程が終わったらいよいよ。


   後期過程。
   専門学部で、医学部は四年間だけれど、専門的なことを学ぶことになるわ。


   希望する学部学科に進学出来ないこともあるんだろう?


   成績によっては、入学時には思っていなかった学部学科に進学することになる。
   だから、良い成績……平均点を取り続けることがとても大事になってくるの。


   大変さは、高校の比じゃないなぁ。
   医学部は理科三類から進むひとが多いんだよね。


   ほとんどが然うよ。


   他からでは、絶対に進めない?


   ううん、理科二類から数名、全科類から若干名、進学することが出来るわ。


   全科類……て、文系も入るんだっけ。


   ええ、理科だけでなく文科も入るわ。
   全科類からの進学を希望する場合、前期課程で必要な科目、要求科目と言うのだけれど、それを履修して単位を取らなければ進学することは出来ないの。
   仮令内定を貰えたとしても、単位を取っていなければ取り消されてしまう。


   うわ、狭き門だ……。


   他にも要望科目というものがあって、これは履修しておくことが望ましい科目のこと。
   こちらは単位が取れなくても進学は出来るけれど、授業についていけなくなる可能性があるから、出来るだけ取っておいた方が良いとされているわ。


   はぁ……なんだか、気が遠くなってきちゃった。


   兎に角、入学してからもお勉強しないといけないことは確か。
   まぁ、それはどこの学校に行っても言えることなのだと思うけれど。


   そんな学校が、亜美ちゃんが子供の頃から目指している場所なんだ……すごいなぁ。


   ……製菓の専門学校だって、私から見ればすごいわ。


   ん、然うかな。


   だって、製菓のプロになる為の学校だもの。
   知識もだけれど、何より、技術がなければプロにはなれないでしょう?


   まぁ然うだね、作る技術がなかったら流石にプロにはなれないかな。


   まこちゃんが志望している学校は、授業の約9割が実習って言っていたわよね。


   曰く、どこの学校よりも作って腕を磨くんだ。だから毎日、作って、作って、繰り返し作り続ける。
   腕を磨く為に、兎に角練習をする。いっぱい失敗はするだろうけどそれを経験として、プロで必要な技術、正確さ迅速さを学ぶ。
   寧ろ、失敗しなければそれらは体得出来なくて。まさに、失敗は成功のもとなんだ。


   どこの学校よりも作るから、まこちゃんはその学校を志望した。


   魅力的な学校は他にもあったけど、あたしはやっぱり、技術を磨きたいからさ。
   その為にはいっぱい作って、いっぱい失敗して、いっぱい教わって、いっぱい経験を積んで学びたい。
   そんな希望が叶いそうだったから、あたしはあの学校を志望したんだ。


   夏には、体験入学にも行って。


   そうそう、体験入学には行って良かったと今でも心から思ってる。
   パンフレットだけでは、どうしても分からないことが多いからさ。


   実際に自分の目で見て確かめてみないと、分からないことはあるわよね。


   然うなんだよ。
   パンフレットには写真や説明、在校生の言葉なんて載ってるけどさ、やっぱり実際に行って見てみないと。
   まさに、百聞は一見に如かずってやつだ。


   ふふ……うん。


   施設や設備をしっかり見学して、仕込みから仕上げまで体験出来る本格的な実習をして、あとは在校生の話を聞けたのも大きかった。
   他の学校の体験入学やオープンキャンパスにも行ってみたけど、あの学校ほど、あたしの夢を叶えられるって感じた学校はなかったんだ。


   ……やっぱり、すごいわ。


   少し、似ているかもね。


   ……?


   お医者さんに。


   ……医者に?


   知識と技術、どちらも必要だからさ。
   なんて、似てないか。全然、違うもんな。


   ううん……少し、似ているかも。


   然う?


   学ぶ内容は異なるけれど、でも、知識と技術が必要というところにおいては良く似ていると思う。
   医者やパティシエに限らず……専門職は、皆、然うなのかも知れない。


   専門職、か。


   ……私ね。


   うん?


   まこちゃんのコックコート姿、楽しみにしているの。


   え。


   学校では、コックコートを着て実習するんでしょう?


   うん、学校指定のね。
   若しかして、見たい?


   ……見せて呉れるのなら。


   んー……ちょっと、照れ臭いな。


   ……見られたくない?


   さて、どうしようかな。


   ……駄目なら。


   でも、亜美ちゃんだけ特別。


   ……。


   あたしの恋人だから……皆には、内緒だよ。


   ……皆には、見せてあげないの?


   出来れば、亜美ちゃんだけが良いな。


   ……。


   内緒に出来る?


   ……分かった、皆には言わないわ。


   ん……じゃあ、約束。


   ん……約束。


   ……。


   ……。


   ……受かったら、コックコートを作るから。


   うん……。


   でも、見せるのは……亜美ちゃんの受験が終わってからの方が良いよね。


   ……仕上がるのは、来年?


   多分……。


   ……なら、受験の後の楽しみにしておく。


   ん……分かった。


   ……。


   こんな約束をしておいて、受かってなかったら格好悪いなぁ。


   ……然うしたら、他の学校のコックコート姿でも。


   えー。


   なんて……私は、受かっていると信じているわ。


   亜美ちゃん……。


   ……ごめんなさい。


   ううん……ありがとう。


   ……。


   ……結果が出る前から、こんなことを言うのは気が早いんだけどさ。


   うん……?


   ……受かっていたら、奨学金を受けられるかも知れない。


   奨学金……?


   国のではなくて、学校独自の支援制度でさ……若しも受けることが出来たら、結構なお金が減額されるんだ。


   ……それは、誰に聞いたの。


   面接が終わって、担任に報告した時に教えてもらったんだ。
   あたしの全教科目の平均評定は3.5以上、欠席日数も5日以内だから、受かれば若しかしたらって。


   ……そんなことを。


   糠喜びになるかも知れない……でも、先生はうちの事情を知っているから。


   ……。


   減額されるのは入学金なんだけど、若しも支援を受けられたら……正直、すごく助かる。
   両親が遺して呉れたものと祖父からの援助があるとは言え、余裕はあまりないから。
   勿論、アルバイトはするつもりだけど……受かっていたら、お花屋さんに復帰しようと思っているんだ。


   ……。


   亜美ちゃん……怒ってる?


   ……先生は、無責任だわ。


   あ……。


   まこちゃんが、あの学校にどれだけ行きたがっているか……受かってからでも、良いのに。


   先生のことを、どうか責めないであげて欲しい。


   ……まこちゃん。


   あたしは、気にしていない。
   だから、亜美ちゃん。


   ……うん。


   ごめんね……こんな話をして。


   ……ううん。


   でさ……やっぱり、気が早いんだけど。


   ……なに。


   亜美ちゃんに、改めて感謝がしたかった。


   ……感謝?


   あたしの全教科目の成績が良かったのは、全部、亜美ちゃんのおかげだから。


   ……。


   お勉強を頑張って良かったって、心の底から思えた。
   仮令、受かってなかったとしても。


   ……あぁ。


   若しも、亜美ちゃんが居て呉れなかったら……あたしも、うさぎちゃんや美奈子ちゃんのように、赤点ばっかりだったと思う。
   テストの後は毎回、補習を受けることになって……留年はしなくても、いつもぎりぎりで。


   ……。


   ありがとう、亜美ちゃん……心から、愛しているよ。


   ……ん、まこちゃん。


   ……。


   ……だめ。


   む。


   ……ここは、学校の屋上。


   ごめん……つい。


   ……。


   ……。


   ……私、まこちゃんの役に立てた?


   感謝しても、しきれないくらいに……。


   ……。


   亜美ちゃん……。


   ……嬉しい。


   ……。


   ん……だから。


   ……誰も、見ていない。


   もう……然ういう問題ではないわ。


   ……ほっぺたに、軽く触れただけだし。


   だから……然ういう問題でも、ない。


   はい……。


   ……合格通知は、書留で送られてくるのよね。


   うん……配達が平日だったら、不在届が入ってると思う。


   ……再配達を依頼するの?


   いや……学校の帰り、郵便局に直接取りに行こうと思う。


   ……。


   本局の窓口なら、遅くまでやっているから。


   ……然う。


   亜美ちゃんは……忙しいよね。


   ……。


   ……合否を確認したら、少しだけ電話しても良いかな。


   待ってる。


   ……。


   待ってるから。


   ……ありがとう。


   ……。


   予備校が終わってからだから……ちょっと遅い時間になっちゃうけど。


   ……。


   なんだったら、予備校まで行っちゃおうかな。
   なんて、迷惑か。


   ……来て、呉れるなら。


   ……。


   ……だけど、遅い時間だし。


   行くよ。


   ……。


   行っても良いのなら……あたしは、行く。


   まこちゃん……。


   あたしなら、然う言うと思っていただろう?


   ……う、ん。


   行くよ……迎えを兼ねて。


   ……終わる時間を、知らせるから。


   その前に、受け取りに行く日を伝えるよ。


   ……うん。


   通知……今月中には必ず、届くと思うんだ。


   ……若しかしたら、今週中に。


   うん……届くかも知れない。


   ……。


   ……。


   ……若しも。


   ん……?


   ……ううん、なんでもない。


   そっか……。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   なんだい……?


   ……おだしがごはんにも具材にもしっかりと染みていて、とても美味しい。


   ……。


   鶏肉としめじの炊き込みご飯にしたのね……。


   久しぶりだから変わったものにはせず、王道のものにしてみたんだ……と言いつつ、きのこは舞茸と悩んだんだけど。


   ……しめじの風味も、好きだから。


   ん……。


   ……。


   ね、甘い卵焼きは……?


   ……ほんのりと甘くて、私好みで美味しいわ


   ……。


   ……他のおかずも。


   良かった……どれも、美味しく食べてもらえて。


   ……。


   ……。


   ん……。


   ……こうしていられるのも、あと。


   ……。


   ううん……今は、そんなことは考えない。


   ……。


   ……雨が降らなくて、良かったね。


   うん……本当に。


   ね……今日は、一緒に帰れるかい?


   ん……帰れると、思う。


   なら……教室の前で。


   ……うん。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ。


   ……。


   あたし……本気なんだ。


   ……お弁当、だけでも。


   ……。


   ……。


   ……迷惑だったら、


   言わないで。


   ……。


   ……それだけは、言わないで。


  19日





   あれ。


   あ、まこちゃん。


   亜美ちゃん、早いね?


   着いたのは、今から3分くらい前かしら。


   ……3分。


   だから、ほぼ変わらないわ。
   まこちゃんこそ、約束の時間より早いけど。


   あたしは……少し、早いかも。


   ううん、少しではないわ。
   いつもよりも、30分は早い。


   そんなに?


   もぅ、分かっているくせに。


   はは。


   理由を聞いても良い?


   じゃあ、あたしからね。


   うん。


   実はいつもよりも早く目が覚めちゃってさ。そしたらその分、早く支度が出来ちゃって。
   家で時間になるのを待っていても良かったんだけど、なんだか落ち着かないし、だったらもう出ちゃおうかなって。
   いつもの場所で、亜美ちゃんが来るのを待っていようと思ったんだ。空でも眺めながらね。


   然う。


   それで、亜美ちゃんはどうして?


   私も同じ。
   いつもよりも早く、目が覚めたの。


   ゆうべは、早く寝たの?


   ん……12時までにはベッドに入っていたわ。


   そっか。
   朝ごはんは、食べたかい?


   今朝は、ハムチーズトーストとトマトサラダ、それとコーンスープ。
   参考書を読みながら、ゆっくりと食べたの。ね、悪くはないでしょう?


   うん、良いと思う。
   参考書を読みながらってあたりが、亜美ちゃんらしい。


   朝の支度を終えて改めて時計を見たら、家を出るには未だ早くてね。
   時間になるまで朝のお勉強をしていても良かったんだけど、なんだか落ち着かなくて。


   それで、早いと分かりながらもいつもの場所に来ちゃった?


   まこちゃんを待ちながらお勉強をしても良いと思って。
   寧ろその方が、家でするよりも、頭に入ると思ったの。


   ふふ、そっか。


   結果的には、出来なかったけれどね。


   えと、ごめん?


   ううん、良いの。
   まこちゃんに早く会えて、嬉しいから。


   あたしも、嬉しい。
   いつもの時間よりも早く、亜美ちゃんに会えて。


   ん。


   だけど


   ねぇ、まこちゃん。


   ん、なんだい?


   まだ、挨拶をしていないわ。


   あ、然うだった。


   おはよう、まこちゃん。


   おはよう、亜美ちゃん。
   今朝は良い天気で、良かったね。


   ふふ、然うね。


   じゃあ、行こうか。


   ええ、行きましょう。


   7時だっけ、開門時間。


   ええ、7時。


   今は……大体、7時。


   丁度、開く頃かしら。


   学校が近いって、こういう時良いよね。
   電車通学だったら、もっと早く起きないといけないし。


   然うね。


   ゆっくり行く?
   それとも、いつもの速さで行く?


   まこちゃんは、どちらが良い?


   あたしは、どちらでも。
   亜美ちゃんが早く学校に行ってお勉強がしたいというのなら、それに合わせる。


   なら……気持ち、ゆっくり行きましょう。


   良いのかい?


   こんな朝、久しぶりだから。


   ん、そっか。


   まこちゃんは、良い?


   勿論、あたしも気持ちゆっくり行きたいと思っていたから。


   然う、良かった。


   ……。


   ……。


   ……ふ。


   ふふ……。


   幾ら、楽しみだったからってさ。


   ふたりして、いつもの時間よりも早く来るだなんてね。


   だけど亜美ちゃんの方が少しだけ早かった、悔しい。


   早いと言っても、ほとんど変わらないじゃない。
   私がほんの数分、早かったというだけで。


   だからこそ、悔しいんだって。
   走れば、あたしの方が先だったかも知れない。


   然ういうもの?


   然ういうもの。


   ……待たせてしまうのが嫌なのよね、まこちゃんは。


   うん、嫌だ。特に、こんな寒空の下では。


   ……真夏の太陽の下でも。


   然うなると悔しいと言うよりも、もっと早く出れば良かったって。


   後悔?


   うん。


   未だ、真冬ではないのに。


   それでも、今朝は風が冷たいだろう?


   然うね、冬を感じるわ。


   真冬ではないけれど、冬はもうそこまで来ている。
   冬を孕んだ風は、躰を冷やしてしまうのに十分だ。


   大袈裟。


   大事な躰なんだ。


   ……。


   あ、変な意味ではないよ?


   ん……分かってる。


   いつだって大事だけれど、今は特に。


   ……ありがとう、まこちゃん。


   ううん。


   ……。


   ともあれ、今朝は久しぶりだったからさ。


   ……明日は、まこちゃんが先かも知れない。


   よーし、負けないぞ。


   私は、どちらでも良いけれど。


   冗談だよ。


   本当に?


   明日は、出来るだけいつもの時間に。


   ……出来るだけ、ね。


   ねぇ、亜美ちゃん。


   なぁに、まこちゃん。


   明日は、今日よりも早く来ては駄目だからね。
   流石に早すぎると思うから。


   早ければその分、静かな学校でお勉強が出来て良いのだけれど。


   然うは言っても、門が閉まっていて入れなかったら意味がないだろう?
   まさか、寒空の下でお勉強をするつもりかい? そんなことしたら、風邪をひいてしまうかも知れないよ。


   ふふ、それも然うね。


   風邪は受験生の天敵のひとつだ。寒さもだけど、冬の乾いた風にも気を付けないと。
   喉がやられると、熱、鼻、それから咳。他にも、症状が出るかも知れないからさ。


   取り敢えず、熱が出なければ。


   然うは言ってもさ、咳が止まらないのもとても辛いだろう?
   頭痛も、鬱陶しい。どうやっても、痛みで集中出来なくて。然うなると、大人しく休むしかない。


   鎮痛剤を飲めば、抑えることは出来るわ。


   一時的にね。だけど、治ったことにはならない。
   結局のところ、さっさと休んで、早めに治すのが一番良いんだ。


   それは、分かるのだけれど。


   時間が勿体ない、だろう?


   ええ、然うなの。
   だから、気を付けるわ。


   うん。


   私ね。


   うん?


   まこちゃんがお勧めして呉れた加湿器、今年もまた使っているの。


   それは、嬉しいなぁ。


   10月の半ば頃から使っているのだけれど、今の所、喉の調子が悪くなることは一度もないわ。


   残暑が過ぎた頃から、少しずつ乾燥し始めるからね。
   特に今年は、早めに対策をして正解だと思う。


   そろそろ、暖房を使い始める頃だから……乾燥には、本当に気を付けないと。


   暖房を使うと、どうしても部屋の空気がからっからに乾燥してしまうからね。
   そんな中で何も対策をしないで寝てしまうと、次の日の朝に酷い目に遭ったりするんだ。


   私の場合、お勉強に集中しているとうっかりしてしまうこともあるから。


   あぁ……亜美ちゃんには、それがあるんだよね。


   気を付けては、いるのだけれどね……。


   高一の秋……美奈子ちゃんのお誕生日会が終わって直ぐに、喉を酷くやられちゃったことがあっただろ?
   咳も止まらなくて、まるで喘息のようでさ、咳をする度に亜美ちゃんの細い躰が揺れて、酷く辛そうで。


   そんなことも、あったわね。


   あたしは、忘れないよ。
   あんなに酷い風邪をひいた亜美ちゃん、初めてだったから。


   熱は出なかったのに、喉の痛みと酷い咳、それから吐き気で学校を暫くお休みすることになってしまって。
   期末試験には間に合ったのだけれど……あまり、お勉強が出来なくて。


   それでも、ほぼ満点だったけどね……。


   ……しっかりお勉強出来ていれば。


   お勉強は兎も角、あの咳で授業を受けるのは、流石の亜美ちゃんでも無理だよ。
   電話越しだったけれど……体育を休めば良いっていうレベルじゃなかった。


   あの時の風邪は、なかなか治らなくて……まこちゃんに、酷く心配させてしまったわ。
   うつしたくなくて、家にも来ないように伝えておいたから、余計に。


   最終的には我慢の限界を迎えて、亜美ちゃんの部屋に行った、と言うより乗り込んだもんな。
   ごはんの材料やら、ゼリーやら、果物の缶詰やら、スポーツドリンクやらを買い込んで。


   山のように持って来て呉れたのに、足りなかったら買いに行くって言ったのよね……。


   本気で行こうと思っていたんだ。
   足りないよりは、ずっと良いだろうと思って。


   然うだけど……治ってからも暫く、ゼリーと果物の缶詰には困らなかったわ。
   スポーツドリンクは、飲んでしまったけれど……飲みやすいのよね、水よりも。


   然う、なくなっていたから買いに行こうと思ったんだ。
   亜美ちゃんに、止められたけど。


   その頃にはもう、ほぼ治っていたし……他のも、飲みたかったら。


   一週間以上、寝込んでいたんだよね。


   然うなの……熱はない筈なのに、躰が重たくて。


   喉は腫れているだけでなく、口内炎まで出来ていたんだっけ。


   ……痛みが酷くて、何も喉を通らなくなってしまって。


   うん……。


   母が診ると言って聞かないから、診て貰ったら口内炎が出来ているって。
   これで痛くないわけがないって言われたわ。あと、我慢しないで直ぐに言いなさいとも。
   然うは言っても、母だって忙しかったから……。


   亜美ちゃんのお母さんはお医者さんだけれど、亜美ちゃんのお母さんでもあるからね。


   ……。


   娘の心配はするさ。


   ……然うみたい。


   もう、亜美ちゃんは。


   それでも、耳鼻科にはちゃんと行ったのよ……お薬も、貰わないといけなかったし。


   亜美ちゃんのお母さんが務める病院の?


   ……かかりつけだから。


   そっか。


   ……あんまり、笑わないで。


   ん、笑ってる?


   ……にこにこしてる。


   なんか、水野母子は微笑ましいなって。


   ……もう。


   ははは。


   ……。


   風邪が治って……久しぶりにお茶が飲みたいって、言って呉れたんだよね。


   うん……あの時飲んだお茶も、とても美味しかった。


   味覚がおかしいと、どんなに美味しいお茶でも不味く感じる時があるから。


   ……不味いと言うより、渋くて。


   まぁ、そんな時は大人しくスポーツドリンクが良いと思う。
   水よりも、飲みやすいから。


   ……本当に、助かったわ。


   あのさ、亜美ちゃん。


   なに?


   改めて、思ったんだ。
   もっと甘えて欲しいって。


   それは……時と場合による。


   あたしも、亜美ちゃんに助けて貰うことはあるし……それに将来、一緒に暮らすようになったら。


   ……。


   ……余計に、何もしないなんて出来ないよ。


   部屋、分けないと……うつったら、大変だから。


   寝る部屋は分けるけど……世話は、焼くよ。


   ……。


   それは、亜美ちゃんも同じだろう……?


   ……だって、心配だもの。


   ……。


   何もしないなんて……出来ないわ。


   ……うん。


   ……。


   ……。


   ……ぼんやりしている私を横目に。


   ん……?


   ……まこちゃんは、ごはんを作って呉れたのよね。


   あぁ、然うだったね。
   様子を見てから作るかどうか決めるつもりだったんだけど、何か食べたいと言って呉れたから。


   確か、柔らかいおうどんだったと思う。


   然う、柔らかいうどん。
   喉が痛くても食べやすいように、兎に角煮込んでさ。


   ……味は、良く分からなかったけど。


   でも、少し食べて呉れた。


   ……躰が求めていたのだと思う。


   風邪はさ……ごはんが食べられそうだったら少しでも食べて、ゆっくり休むのが一番だと思うんだ。
   もちろん、お薬も大事だけれどね……。


   ……ずっと、まこちゃんが傍に居て呉れたら良いのにって。


   思った……?


   ……。


   思って呉れたんだ……。


   ……その時よね、まこちゃんが新しい加湿器をお勧めして呉れたのは。


   え。


   ……。


   あーうん、然うだったね。


   ……加湿器を一緒に選んで呉れて、嬉しかった。


   楽しかったな、亜美ちゃんと加湿器を選ぶの。


   私ひとりだと細かいところばかり気になってしまって、なかなか決まらなかったと思うの。


   色々見ていたよね。


   あれはあれで、興味深かったわ。


   ふふ、そっか。
   面白かったようで、何より。


   ……。


   ……亜美ちゃん?


   いつか、まこちゃんと。


   ……。


   ……ふたりで暮らせるように、なったら。


   ふたりの家に必要なものを、ふたりで見に行こう。


   ……ふたりの家。


   然う、ふたりの家。


   ……まこちゃんのお部屋?


   いや、もう少し広いところに引っ越そう。
   部屋は、場合によっては分けなければいけない時もあるから、二部屋はないと。


   ……。


   どんな家に住むか、ふたりで話して決めよう。
   ね、亜美ちゃん。


   うん……まこちゃん。


   ……。


   ……まこちゃん?


   あたしとしては、高校を卒業してからと思っているんだけど。


   ……それは。


   うん、それは現実的じゃない。


   ……未だ、難しいわ。


   だから、あたしが専門学校を卒業して、働き出してからでも良いかなって。
   然うすれば、お給料も入ってくるし。生活は、それなりに出来ると思うんだ。


   ……。


   支えるよ、亜美ちゃんのこと。


   ……でも、まこちゃんは働いているのに。


   一緒だと、頑張れると思うんだ。


   ……ううん、だめよ。


   やっぱり、難しいかな……。


   ……ふたりで暮らせたら、私も嬉しい。


   ……。


   だけど……私が就職してからの方が良いと思う。


   ……そっか。


   ……。


   確かに、あたしの給料だけでは……貧乏生活、かな。


   ……あのね、まこちゃん。


   う、うん。


   ……貧乏とか、然ういうのは別に構わないの。


   ……。


   だけど……生活は、現実そのものだから。


   ……現実。


   まこちゃんばかりに、負担を掛けることになってしまったら……破綻、してしまうかも知れない。


   ……亜美ちゃん。


   だから……私が、就職したら。


   ……分かった。


   まこちゃん……。


   ……だけど、お泊まりはありだろう?


   それは……うん、勿論。


   うん、良かった。


   ……ごめんなさい、まこちゃん。


   ん、どうして?


   ……色々、考えて呉れているのに。


   あたしの場合は……妄想にも、近いから。


   ……だとしても、ふたりの将来のことだと思うから。


   ……。


   ……。


   ……早く、その日が来て欲しい。


   うん……。


   だけど……今は、取り敢えず。


   ……ん。


   受験に向けて、お世話をさせて欲しいな。


   ……お世話?


   ごはんの、ね。


   ……ごはん。


   お弁当二人分、ちゃんと作って持ってきたから。


   ……あ。


   炊き込みご飯と甘い卵焼きの他にも、色々入っているからさ。


   ん……楽しみにしてる。


   うん、してて。


   ……あの。


   お昼休み、一緒に食べられる?


   うん……一緒に。


  18日





  -Eighteen Years Old(現世2)





   あと二週間で、亜美ちゃんと同い年だ。


   ……もう、12月なのね。


   ね、早いよねぇ。


   ……。


   年が明けたら……いよいよ、だね。


   ……その前に、まこちゃんの合否の結果があるわ。


   あたしは、上手に話せなかったかも知れないけど、それでもやれることはやった。
   あとは体調に気を付けて、それまでの日々を過ごすだけだ。


   ……面接の練習は、先生としたのよね。


   うん、担任とね。
   まぁ、やらないよりは良かったよ。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   ん?


   試験は終わったけれど、お勉強は止めないでね……入学してから、きっと、役に立つと思うから。


   うん、止めないよ。お勉強は、これからも続けていく。
   ケーキ屋さんになる為には技術だけでなく、知識も必要だからさ。


   ……うん。


   それに、今回がだめだったら他の学校を受けなきゃいけないからさ。
   一応、推薦は貰っているけれど……万が一ってことも、あるから。


   ……軽はずみなことは、言えないけれど。


   亜美ちゃんなら良いよ。
   美奈子ちゃんだったら、全く当てにならないけど。


   ……屹度、大丈夫だ思う。


   うん、ありがとう。


   ……ごめんなさい、確かな根拠もないのに。


   あたしの勉強を、中学生の頃からずっと見て呉れていた亜美ちゃんの言葉だから。
   いつも、根気良く教えて呉れてさ……高校三年間、あたしが一度だって赤点を取らなかったのは亜美ちゃんのおかげなんだ。


   それは……まこちゃんが、頑張ったから。


   頑張れたのは、亜美ちゃんが居て呉れたから。
   だから、誰よりも信用出来るんだ。


   ……。


   仮令外れたとしても、それはそれで構わない。あたしの実力や頑張りが足りなかったってだけだから。
   めげずにまた、頑張れば良いんだ。だってケーキ屋さんになるのは、あたしの夢のひとつだからさ。
   めげてる暇なんて、どこにもないんだ。諦めずに、前を見て進んでいかないと。


   ……。


   でもさ、その時は少しだけ慰めて欲しいな。
   然うしたら、もっと頑張れるから。


   ……その時は、必ず。


   ん……。


   ……でも、今は受かっていることを信じましょう。


   うん、然うする。
   あたしは屹度、受かってる。


   ん。


   ……。


   ん……まこちゃん。


   少しくらいなら、良いだろう?


   ……帰るまで?


   出来れば。


   ……。


   うん……ありがとう。


   ……久しぶりね。


   ん、然うだねぇ。


   ……相変わらず、冷たいでしょう?


   大丈夫、直ぐにあったかくなるよ。


   ……。


   亜美ちゃんの手は、相変わらず、柔らかい。


   ……まこちゃんの手は、相変わらず温かくて、柔らかい。


   熱かったら、言ってね。


   ……熱かったらね。


   ……。


   ……。


   ……亜美ちゃんは。


   ん……?


   小論文なんて、どう書いて良いか分からないあたしに……書き方を教えて呉れるだけでなく、丁寧に添削までして呉れた。
   自分のお勉強で忙しいというのに、あたしの為に時間を作って呉れて……亜美ちゃんには本当、感謝してもしきれない。


   ……私は、自分に出来ることをしただけ。


   先生よりも、分かりやすくてさ……。


   ……何か、したかったの。


   ……。


   良かった……大きなお世話にならなくて。


   そんなの、なるわけないだろう……?


   ……。


   改めて、ありがとう……亜美ちゃん。


   ……ん。


   ……。


   ……。


   はぁ……冬の匂いがするな。


   ……もう、立冬は過ぎているから。


   暦の上では、冬か……本当、早いな。


   ……まこちゃんにとって、高校三年間はあっという間だった?


   振り返れば、あっと言う間だったと思う。
   亜美ちゃんと同じクラスになれたら良いなって思ってたのになれなかった一年生。
   今度こそはと思った二年生も、文理分けでなれなくて、結局三年生でもなれなかった。
   あたしの頭が理系に強かったらって、何度思ったか。


   ……そこ?


   同じクラスだったら修学旅行も一緒に回れたし、文化祭も一緒に準備することが出来ただろ?


   ……修学旅行は比較的自由だったから、違うクラスでも回ることが出来たわ。


   然うなんだけど……叶うなら、同じ部屋で寝たかったんだ。


   ……。


   修学旅行だから、別に何もしないけど。


   ……当たり前です。


   修学旅行先とあたしの部屋では、雰囲気が全然違うだろう?
   それを、感じたかったんだ。


   然うね……他の子も居るしね。


   若しもふたり部屋だったら、同じ部屋の子にお願いして亜美ちゃんと換わって貰ったかも。
   いや、あたしが亜美ちゃんの部屋に換えて貰っても良いな。


   叱られるわよ、先生に。


   見つかるかな。


   見てるから、先生って。


   ん、そっか。
   まぁ、然うだよなぁ。


   ……それに、また噂になるかも知れない。


   また?


   ……わざわざ、換わったりなんかしたら。


   然うかな……あたし達が仲が良いってのは、わりと有名だったみたいだし。
   だからってまさか、付き合ってるなんて思わないだろう?


   ……聞いたことないの?


   ん、何を?


   ……私達の噂。


   んー……。


   ……あるわよね。


   まぁ、ね。
   後輩に、水野先輩と付き合っているんですかって聞かれたこともあるし。


   あるの?


   あれ、言わなかったっけ。


   ……聞いていないわ。


   あー……どうでも良かったから、そのまま流しちゃったのかも。


   ……言って欲しかった。


   ん、ごめん。


   ……それで、なんて答えたの?


   昔からの特別な親友だよって。
   ね、間違ってはいないだろう?


   ……。


   そしたら、きゃあきゃあ言ってたっけ。
   可愛いよね、後輩って。


   ……聞かれたのは、ひとりではないのね。


   その時は、何人だったかな……三人くらい、居たかも。


   ……まこちゃんは、下級生にもてるから。


   まぁ、身長が大きいからねぇ。


   ……男子にも。


   あー……お菓子作りが得意だからかな。


   ……それだけではないわ。


   うん?


   ……分かっているくせに。


   亜美ちゃん。


   ……別に、嫉妬ではないから。


   うん、分かっているよ。
   だってあたし達は、恋人同士だから。


   ……。


   難しそうな顔、してる。


   ……。


   亜美ちゃん……あたしは、亜美ちゃんだけだよ。


   ……分かっていても。


   然うだよねぇ……すごく、分かるよ。


   ……。


   亜美ちゃんは、もてるからさ……それこそ、一年生の頃から。


   ……私は、まこちゃんだけよ。


   分かっているんだけど……ね。


   ……心は、儘ならないわね。


   ん、本当に。


   ……。


   ねぇ。


   ……何。


   今度は、ふたりだけで行こうか。


   ……何処に?


   修学旅行で行った場所。


   ……泊まるところは、別が良いわ。


   ん、然うだね。あたしも、違うところが良いや。
   旅館かホテルか、あたしは美味しいごはんと広いお風呂があるところが良いな。


   ……お風呂は、まこちゃんとふたりでゆっくり入りたい。


   ……。


   ……大人数で入るようなところは、苦手なの。


   なら……ふたりで入れそうなところを探そうか。


   ……あるかしら。


   探せば、あるさ。


   ……。


   亜美ちゃんの受験が、終わったら……ふたりだけで、どこかに行こうか。


   ……卒業旅行?


   うん……みんなと行く旅行とは、別に。


   ……。


   行かない……?


   ……行く。


   うん……じゃあ、行こう。


   ……。


   ね、亜美ちゃんにとってもこの三年間は早かったかい?


   ん……早かったと思う。


   そっか。


   ……心残りは、中高通して、まこちゃんと同じクラスになれなかったこと。


   ……。


   私が文系クラスを選んでいたら、なれたかしら……。


   ……亜美ちゃんの夢は、お医者さんになることだから。


   ……。


   あーぁ。


   ……まこちゃん?


   ついこの間だと思ってたんだけどな、高校受験が終わったの。
   みんなとお勉強会をして、亜美ちゃんとふたりだけのお勉強会もして。
   大変だったけど……あれはあれで、楽しかった。


   ……然うね、楽しかったわ。


   受験は、嫌だけれどね。


   ……ふふ、然うよね。


   中学生の頃は、みんなと一緒に居ることが多くて楽しかったなぁ。


   ……。


   亜美ちゃんとふたりきりになるのは、別の意味で楽しかったよ。


   ……別の意味って?


   んー、言えないかな。
   中学生特有の、所謂、思春期のときめきって奴だからね。


   もぅ……何よ、それ。


   へへ。


   ……ふふ。


   ……。


   ……本当、あっという間だったわね。


   うん……三年って、早いね。


   大人になれば……もっと、早くなるみたい。


   ……お母さん?


   あのひと、本当に余計なことしか言わないから。


   ……お母さんは、元気かい?


   ええ……まこちゃんに会いたいって、たまに大きな独り言を漏らしているわ。


   ふふ、そっか。


   ……まこちゃんも、母に会いたい?


   然うだなぁ、会いたいかな。


   ……伝えておくわ、屹度喜ぶと思うから。


   だけど一番逢いたいのは、亜美ちゃんだよ。


   ……。


   亜美ちゃんに、もっと逢いたい。
   逢って、他愛ない話がしたい。一緒にごはんを食べて……一緒に、眠りたい。


   ……。


   受験が終わるまで……分かっては、いるんだけど。


   ……あと、もう少し。


   うん……あともう少し。


   ……。


   まぁ、全く逢えないわけではないし……。


   ……。


   ……こんな風に逢うことも、出来るようになったしね。


   ……。


   ……ねぇ、亜美ちゃん。


   ……なに、まこちゃん。


   さっきから、なんとなく口数が少ないように思えるんだけど……どうかした?


   ……別に、どうもしないわ。


   もっと言えば浮かない顔をしているけど……若しかして、あたしとふたりではつまらない?


   ……わざと、言っているの?


   つまらなかったら、どうしようかと思って。


   ……まこちゃんとふたりきりなのは、久しぶりでしょう。


   うん、久しぶりだ。
   あたしもここのところ、面接やら何やらで忙しかったら。


   ……私は、予備校で。


   だから、あたしは嬉しくて仕方ないんだ。
   亜美ちゃんと、短い時間かも知れないけど、ふたりきりになれて。


   ……。


   高校受験の時とは違って、皆、進路がばらばらだからさ。お勉強会も、出来ないし。
   大学に行くのは亜美ちゃんとレイちゃんのふたりで……そうそう、レイちゃんとは会ってるのかい?


   ん……最近は、レイちゃんも忙しそうで。


   そっか……然うだよな。
   レイちゃんも、これからが本番だもんな。


   ……。


   ねぇ、亜美ちゃん。本当にどうした?
   若しかして、あまり体調が良くない?


   ……ううん、体調は大丈夫。


   若しも、然うなら……無理はしないで、帰った方が良いよ。


   本当に、大丈夫よ……なんでもないわ。


   ……。


   予備校に行かないといけないし……休んでなんて、いられないもの。


   ……これからは。


   ……。


   これからは、これまで以上に体調管理に気を使わないといけなくなるだろう?
   冬は風邪だけでなく、インフルエンザも流行るし……少しの体調不良でも、無理はしない方が良いと思うんだ。


   ……食事には、気を付けているつもりよ。


   ……。


   ……忘れずに、ちゃんと食べているの。


   バランスは……?


   ……一応、野菜は食べているわ。


   野菜……。


   ……出来るだけ、偏らないように。


   睡眠不足も、心配なんだ……遅くまで起きて、勉強しているだろうから。


   ありがとう……だけど、大丈夫。
   睡眠時間も、ちゃんと取っているから。


   ……。


   顔色、そんなに悪くないでしょう?


   ……でも、疲れてる。


   それは……受験生だもの、仕方がないわ。


   ……。


   ……そんなことよりも。


   ……。


   まこちゃんの、今年のお誕生日のお話を


   今年は、流石に無理だろう。


   ……え。


   そんな時間、ないと思う……だから、考えなくて良いよ。


   ……本当に、然う思っているの。


   思ってる。
   亜美ちゃんの邪魔はしたくないんだ。


   ……邪魔だなんて。


   少しの時間でも、惜しいと思うから。


   ……。


   今年はさ、おめでとうって。
   一言言って貰えるだけで、良いんだ。


   ……私の誕生日の時は。


   亜美ちゃんは、9月だからね。


   でも、まこちゃんも忙しかったわ。


   あたしの場合は、実技も兼ねているからさ。
   ケーキのデザインを考えるのは、とても有用な時間だったよ。


   ……。


   と言うのはただの口実で、亜美ちゃんのお誕生日ケーキがどうしても作りたかったんだ。
   出逢ってから毎年、作っていたから……今年は受験だから作らないなんて、考えられなかった。


   ……私も、同じよ。


   ……。


   まこちゃんに出逢ってから、ずっとお祝いしてきた……だから、今年も。


   ……けど、今年は亜美ちゃんにとって、すごく大事な年だ。


   ……。


   あたしの誕生日よりも……自分のことを、優先して欲しい。


   ……まこちゃんは、それで良いの。


   来年の誕生日は、お祝いして呉れるだろう?
   だったら


   分からない。


   え。


   ……大学は、今よりもずっと忙しいと思うから。


   ……。


   まこちゃんだって、屹度……。


   ……然う、なのかな。


   高校生までとは、違う……然う、思う。


   ……そっか。


   ……。


   ……。


   ……。


   ねぇ、亜美ちゃん……今夜も、星がきれいだよ。


   ……もう、冬の空ね。


   うん……もう、冬の空だ。


   ……。


   ……亜美ちゃん。


   今夜は……ここまでで。


   ……うん。


   送って呉れて、ありがとう。


   これからは……いつでも、送るよ。


   ありがとう……でも、無理はしないでね。


   しないさ……無理なんて。


   ……。


   じゃあ……また。


   うん……また。


   ……。


   ……


   亜美ちゃん……別れる前に、少しだけ。


   ……。


   ……キス、しても良い?


   外、だから……。


   ……外、だけど。


   ……。


   軽く、触れるだけで良いんだ……。


   ……。


   ……ごめん。


   ねぇ、まこちゃん……。


   ……引き留めて、ごめん。


   ……。


   また、今度……。


   ……待って。


   ん。


   ……待って、まこちゃん。


   亜美ちゃん……でも。


   ……もうすこし、だけ。


   ……。


   あと、5分だけ……。


   ……5分。


   ごめんなさい……。


   ううん……嬉しいよ。


   ……。


   ……亜美ちゃん。


   ん……まこちゃ、ん。


   ……。


   ……。


   ……やっぱり、甘いね。


   もう……。


   ……どんなケーキよりも。


   まこちゃんの……ばか。


   ん……ごめん。


   ……。


   ……あたしさ、考えてることがあるんだ。


   何を……。


   ……あたしの進路が、決まったら。


   ……。


   亜美ちゃんの……サポートが、したい。


   ……私の?


   と言っても、ごはんを作ることぐらいしか出来ないと思うけど……バランスを考えて、作るつもりだから。


   まこちゃん……。


   ごはんで、亜美ちゃんを支えられたら……なんて、余計なお世話か。


   そんなこと……。


   ……。


   ……本気で、考えて呉れているのでしょう?


   うん……本気で、考えてる。


   ……。


   あたしの部屋に来るのが難しければ……亜美ちゃんの家に。


   ……。


   ……それも、難しいか。


   ごめんなさい……。


   ……あたしに何か出来ることがあったら、遠慮なく言って欲しい。


   まこちゃんは……。


   ……何も、ないか。


   居て呉れるだけ、良いの……。


   ……。


   ……あなたに、逢えるだけで。


   そっか……。


   ……。


   ……そろそろ、かな。


   う、ん……。


   ……久しぶりのキス、嬉しかった。


   私も……。


   ……じゃあ、また学校で。


   うん……また、学校で。


   ……。


   ……。


   ……然うだ、学校。


   ……。


   亜美ちゃん!


   ……え?


   お弁当、また作っても良いかな。


   お弁当……?


   忙しくて、暫く作れなかったけど。
   だけど、今なら。また、作れるから。


   ……あぁ。


   お弁当ならさ、学校で。


   ……作って、呉れる?


   うん、作りたい。


   ……。


   取り敢えず、明日。明日、作って持って行くから。
   楽しみにしてて、亜美ちゃん。


   うん……まこちゃん。


   何にしようかな、何か食べたいの……あ、もう時間ないか。


   炊き込みご飯。


   え。


   それと、甘い卵焼き。


   炊き込みご飯は、何が良い?


   なんでも、良いわ。
   まこちゃんの炊き込みご飯なら。


   なんでも、か。


   困る?


   然う言いたいところだけど、今回は特別だ。


   ふふ、ありがとう。


   然うと決まれば、買い物をして帰ろう。


   気を付けてね。


   うん、亜美ちゃんも。
   くれぐれも、無理だけはしないでね。


   ん。


   じゃあ、また明日。


   ねぇ、まこちゃん。


   ん、なに?


   明日の朝、いつもの場所でね。


   いつもの……。


   然う、いつもの場所。


   ……。


   いつもの時間に、またふたりで。


   ……良いのかい?


   ええ、良いの。


   じゃあ……いつもの場所で、いつもの時間に。


   待ってるわ。


   待ってるよ。


   ……。


   ……。


   ……ふふ。


   はは……。


   ……じゃあ、まこちゃん。


   うん……また明日ね、亜美ちゃん。


   うん……また、明日。


  17日





   ねぇ、亜美ちゃん……。


   ……なに。


   寝る前に、少しだけお喋りしてもいいかな……。


   ……もちろん。


   ん……ありがと。


   ……ううん、私もしたいと思っていたから。


   ……。


   それで……なぁに?


   ……うん。


   まこちゃん?


   ……答えたくなかったら、答えないでいいからね。


   え……。


   ……無理強いは、したくないから。


   ……。


   ……。


   ……言って、まこちゃん。


   うん……。


   ……。


   今日の、帰り……どうして、急にひとりで帰ろうとしたの。


   ……。


   やっぱり、気になって……だけど、言いたくなければいいんだ。
   ごめんね……亜美ちゃん。もっと、他の話を……。


   ……私が好きなことは、お勉強。


   うん……?


   将来の夢は、医者になること……その為にも、お勉強をしなければならない。
   毎日のように、塾に通って……学校で習うことよりも、難しいことを学ばなければならない。


   ……。


   だけど、それを苦だと思ったことは一度もない……だって、お勉強が好きだから。
   むしろ、もっと学びたい……中学レベルではもう、物足りない……特に数学や、物理、生物……だから、高校レベルの参考書を買って。


   高校レベル……亜美ちゃんがたまに読んでる、難しい参考書だね。


   ……今は、高校二年生のものなの。


   高校二年生……か。


   模擬試験を受けることだって、楽しいわ……どんな問題が出るのか、考えるだけでも心が弾むの。
   難しければ難しいほど、楽しくて……許されるのなら、高校生が受ける試験も受けてみたい。


   ……亜美ちゃんなら、高校生の試験だって出来そうだ。


   ううん、そんなことはないわ……だからこそ、私はお勉強をするんだもの。


   ……そっか。


   私には、お勉強がある……特に数学は、いつだって、私の心を癒してくれる。


   ……数学が。


   おともだちなんて、いなくてもいい……そう、お勉強さえすることが出来れば。
   ひとりだって、構わない……だって私には、学びたいものがいっぱいあるから。
   他のことに使っている時間なんて、どこにもないの。


   ……。


   それに、お勉強は私を決して見捨てたりはしない。
   すれば、するほど……お勉強は、私の一部になっていく。


   ……。


   ずっと、そう思ってた……小さい頃から、ずっと。


   ……亜美ちゃん。


   だから今度の土日、まこちゃんに盆踊りに誘われれても……私は、塾を選んで。


   ……うん。


   だって塾の方が、お勉強の方が、大事だから……大事、だったから。


   ……ん?


   盆踊りよりも……おともだちである、まこちゃんよりも。
   そんな時間、私には、ないから……。


   ……あたしとの、時間よりも。


   まこちゃんは、優しいから。


   ……。


   だから、私を誘ってくれたのだと……。


   ……違うよ。


   ……。


   亜美ちゃんとふたりで行きたいって……そう思ったから、誘ったんだ。
   だから、優しいとかじゃないんだよ……あたしが、そうしたかっただけなんだ。


   ……。


   でも……そんなことよりも、亜美ちゃんは。


   ……ひどく、悲しかった。


   え……?


   ……まこちゃんに、私は塾の方が大事なんだと、はっきりと言われて。


   あ。


   本当のことなのに……今更、なのに……悲しいなんて……ばかみたいでしょう?


   ……ばか、なんて。


   ずっと、自分がしてきたこと……お勉強ばかり優先して、まこちゃんにそう思われていたって仕方がないのに。
   言われて、言葉にされて、悲しくなって……距離を、取ろうと思って……ひどく、子供染みていて……本当、ばかみたい。


   ……。


   私ね……期待、していたの。


   ……期待?


   まこちゃんが、追いかけてきてくれること……そんなわけないって、思いながらも。
   でも、まこちゃんなら……追いかけてきてくれるかもしれないって……勝手に。


   ……良かった。


   ん。


   ……迷ったんだ、追いかけてもいいか。


   ……。


   だけど……どうしても、放っておけなかった。
   今の亜美ちゃんをひとりには出来ない、させたくないって……強く、思ったんだ。


   ……期待していたのに、いざとなったら、私は逃げたの。


   うん……まさか、本気で逃げられるとは思ってなかった。


   ……。


   亜美ちゃんは、足が速いよね。


   ……まこちゃんの方が。


   ううん、亜美ちゃんの方が速いよ。
   特に、小回りが利くからさ。それをされると、あたしは追いつけない。


   ……だけど、追いついてくれたわ。


   うん、どうしても追いつきたかったから。
   掴んだら離すなって、あたしの心が叫んだんだ。


   ……心が。


   ジュピターじゃない、あたしの心だ。


   ……。


   だけど……やっと、分かった。
   亜美ちゃんに教えてもらわなければ……きっと、分からないままだった。


   ……それでも。


   ううん、だめだ……亜美ちゃんを傷付けたんだから。


   ……私が、勝手に。


   改めて、ごめん。


   ……。


   本当に、ごめんなさい。


   ……謝らないで。


   ううん、ちゃんと謝らないと。


   ……だって、私が悪いのに。


   亜美ちゃんは悪くない。


   ……まこちゃんよりも、塾を。


   でも、期待してくれたんだろ?


   ……。


   だったら……そうでも、ないさ。


   ……そうでも、ない?


   今は……もしかしたら、同じくらいなのかも。


   ……。


   いや、ベクトルが違うんだ。
   多分。


   ……ベクトル。


   そう言うだろ?
   例えば……仕事とあたし、どっちが大事なのって言われたら。


   ……両方、大事ではないの?


   そうなんだけど、大人は比べるらしい。


   ……でも確かに、分かるわ。


   分かる?


   ……両親が、そうだったから。


   あ、あぁ……。


   ……少し、違うかもしれないけど。


   ……。


   ……難しいわ。


   うん……難しいね。


   ……。


   とにかく……ごめんね、亜美ちゃん。


   私こそ……ごめんなさい、まこちゃん。


   盆踊りは……来年、行こう。


   ……。


   来年も、無理そう……?


   ……今年、行きたいと言ったら。


   え。


   ……連れて行って、くれる?


   そ、それは、もちろん。


   ……。


   だけど、塾は……?


   早めに、行って……早めに、切り上げる。


   早めに……?


   ……そうすれば、お勉強の時間は変わらないから。


   教えてもらえるの……?


   ……講師は、いるから。


   ……。


   だから……まこちゃん。


   ……一緒に、行ける?


   うん……一緒に、行きたい。


   じゃあ、行こう。
   一緒に。


   うん。


   ね、土日のどっちだい?


   ……日曜日でも、いい?


   あたしは、どっちでもいいんだ。
   亜美ちゃんと行けるなら。


   ……。


   はぁ……やった、やった。


   ……私も。


   ね、塾まで迎えに行くよ。
   時間、教えて。


   詳しくは、近くなったらでいい?


   ん、いいよ。


   ……。


   楽しみだね、亜美ちゃん。


   ……ん、楽しみ。


   ふふ……亜美ちゃんと盆踊り。
   一緒に、踊るんだ。


   ……踊るの?


   そうだよ。


   ……踊れるかしら。


   大丈夫さ。間違っても、別に誰も気にしない。
   盆踊りなんて、そういうもんだよ。まぁ、練習しているひと達は間違えずに踊ってるけどね。


   ……。


   あたしと一緒なら、恥ずかしくないよ。


   ……ん。


   ふふ……。


   ……嬉しい?


   うん、すごく。
   亜美ちゃんは?


   ……私も、嬉しい。


   うん……良かった。


   ……誕生日の後に、こんな楽しみがあるなんて。


   ね……この辺りは、9月に盆踊りをするんだね。


   ……まこちゃんが前に住んでいた場所では。


   お盆の頃、だったかな。
   なんせ、盆踊りだからね。


   あ。


   ふふ、だろ?


   確かに……9月だと、お彼岸だわ。


   お彼岸踊りじゃなぁ。
   でもまぁ、それはそれで、両親も楽しくていいかもしれないけど。


   ……ご両親。


   お彼岸にも、行くんだ。


   ……そう。


   亜美ちゃんも……いや、なんでもない。


   ……うん。


   ……。


   ……。


   ……そういえばさ。


   なに……?


   亜美ちゃんって今、15歳なんだよね。


   ん……誕生日、過ぎたから。
   だけど、それがどうかした……?


   いや、今はあたしよりもひとつ年上なんだなって。


   年上と言っても……三ヶ月くらいしか違わないわ。


   うん……三ヶ月経ったら、また同い年だ。


   ……まこちゃんのお誕生日の頃になったら。


   いよいよ、ラストスパートだ……今年は、誕生日どころじゃないなぁ。


   ……ケーキを、用意して。


   ん……。


   ……みんなで、お祝いしましょう。


   いいのかい……?


   だって……一年に一度の、お誕生日だもの。
   みんなの時はお祝いしたのに、まこちゃんだけしないなんて……そんなの、不公平。


   そっか……そうしたらあたし、ご馳走を作るよ。


   自分のお誕生日なのに……?


   ……みんなの、あたしが作った料理を美味しそうに食べている顔が見たい。


   ……。


   それもまた、あたしにとっては……プレゼントなんだ。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   なに……?


   ……私も、作りたいわ。


   亜美ちゃんも……?


   だから……一緒に作っても、いい?


   ……でも。


   その時は、お勉強のことは考えない……まこちゃんのことだけを、考えたい。


   ……あたしのことだけ。


   そう……まこちゃんのことだけ。
   だって、まこちゃんは……私の大切な親友だもの。


   ……あぁ。


   何を作るか、まこちゃんが決めて……でも、少しだけでいいから、ふたりで話したい。


   じゃあ……ふたりで話して、何を作るか決めよう。


   ふたりで、決めるの……?


   うん……ふたりで決める。
   なんだったら、亜美ちゃんが決めてくれてもいい。


   私が……ううん、私では。


   全部じゃなくてもいいんだ……何品か、考えてくれれば。


   ……。


   ね、楽しそうだろ……?


   ……楽しい、かも。


   あたしは、今から楽しい気持ちになっているよ……。


   ……もう?


   流石に、気が早いかな……。


   ……ううん、楽しみがあることはいいことだと思うから。


   亜美ちゃんは、違う?


   ……。


   亜美ちゃんも……楽しみにしてくれたら、嬉しい。


   ……私は。


   ……。


   ううん……私も、楽しみ。


   ほんと?


   ん……本当。


   ふふ、やったぁ。


   ……ん。


   ね、今だけお姉ちゃんって呼んでみてもいい?


   それは……だめ。


   あ、やっぱり?


   私のことをそう呼ぶのなら……みんなのことも、そう呼ばなきゃ。


   みんなのことも?


   だってまこちゃん……一番、年下だもの。


   ……あー。


   美奈子ちゃんだって、一ヶ月くらいしたら、まこちゃんよりも年上になるのよ。


   ……美奈子ちゃんのことは、お姉ちゃんとは呼べないな。


   どうして?


   ……絶対、調子に乗って、付け上がるから。


   ふふ、そうかしら……。


   ……また、喧嘩になっちゃうかもしれないだろ?


   それは……だめね。


   受験前に、美奈子ちゃんと喧嘩をしている暇はないよ。


   そうね……全く、ないわ。


   うさぎちゃんとレイちゃんのように、すぐに仲直り出来れば違うんだろうけどさ。
   あたしと美奈子ちゃんは、そうじゃないから。そんなことに、気を取られたくないんだ。


   ……うん。


   気を取られるのは、受験勉強と……亜美ちゃんのことだけで、いい。


   ……私の?


   ……。


   ……まこちゃん?


   恋愛も、高校に受かるまで封印する。


   ……え、出来るの?


   出来る出来ないじゃない、するんだ。
   今は恋愛よりも……亜美ちゃんと同じ高校に行きたい。


   けど、まこちゃんの場合……一目惚れが、多いから。


   離れたくないんだ、亜美ちゃんと。


   ……。


   高校から先は、離れることになる……だからこそ、高校では離れたくない。
   離れたら……ともだちではいられると思うけど、でも、中学のようには付き合えないと思うんだ。
   亜美ちゃんにもきっと、新しいともだちが出来て……あたしよりも、そっちを優先するかもしれない。


   そんなこと……むしろ、まこちゃんの方が。


   あたしは……亜美ちゃんを優先するよ。


   ……私だって、そうよ。


   ……。


   ……まこちゃん。


   やっぱり、離れたくない。
   だって亜美ちゃんは、その為にレベルをあたし達に合わせてくれたんだ。
   亜美ちゃんなら、もっともっといい学校に行けるのに……先生にだって、そう言われたのに。
   担任や学年主任だけじゃない、校長や教頭にまで言われて……それなのに、十番高校を選んでくれたんだ。


   ……お勉強は、どこの高校に行っても出来るわ。


   だけどさ、やっぱり違うと思うんだよ。高校は中学と違って、学力、偏差値? それが似たようなひとたちが集まると思うから。
   レベルの高い学校に通う子達なら、もしかしたら亜美ちゃんと難しい話が出来るかもしれない。ううん、出来ると思うんだ。
   あたしとは、違って……難しい数学や理科、それから……えと、アイ……アイス……アイス?


   ……アインシュタイン?


   そう、そのひと。
   そのひとが考えた……えと……そう、そうた……なんたら、りろん?


   ふふ……相対性理論?


   の、話も出来るかもしれない……話せたら、亜美ちゃんはきっととても楽しいんじゃないかな。


   だとしても、私は。


   ん。


   まこちゃんと他愛ないお話をする方が、楽しい。


   ……。


   たとえ、会話が途切れたとしても……まこちゃんとなら。


   ……言い切っちゃって、いいの?


   うん、いいわ……だって、言い切れるもの。


   ……もしも、学校が離れても。


   出来れば、離れたくない。


   ……ん。


   だから……お勉強、頑張りましょうね。


   うん、頑張る……亜美ちゃんと。


   ……うん。


   ……。


   ……お姉ちゃんは、やめてね?


   ちょっとだけなら、と思ったのに……。


   ……ちょっとだけでも、だめ。


   はぁい……。


   ……たかが、三ヶ月。


   されど、三ヶ月だよ……。


   ……大人になってしまえば、大した差ではないのに。


   まだ、中学生だからさ……。


   ……高校生になっても。


   まだ、高校生だからさ……。


   ……学生のうちは、そうなのかしら。


   どうだろ……でも、あたしはそうかも。


   ……二十歳を過ぎたら。


   亜美ちゃんが二十歳になっても、あたしは19歳だよ?


   ……。


   ……結構、違うだろ?


   うん……実際は、三ヶ月なのに。


   やっぱり、二十代だからね。
   より、お姉さんって感じが


   やめてね?


   はーい。


   ……。


   ん、亜美ちゃん?


   ……私が二十歳になっても、まこちゃんはすぐには二十歳にならないのよね。


   三ヶ月、待って。


   ……私が30歳になった時、まこちゃんはまだ二十代なのね。


   うん、そうだよ。
   あたしがみんなの中で、最後に30歳になるんだ。


   ……。


   30歳の亜美ちゃん……ものすごく大人って感じがする。
   美人で、お医者さんの白衣がとっても似合ってそう……。


   美人ではないと思うし……白衣が似合うかどうかも、分からないわ。


   いや、似合うと思う……見たいな、白衣姿の亜美ちゃん。


   ……今でも、着ようと思えば着られるけど。


   え、そうなの?


   ……まぁ、母のが何枚か家にあるから。


   見たい。


   ……でも、まだ30歳じゃないし。


   今の亜美ちゃんでも見たい。
   絶対かっこいいし、かわいいと思うから。


   ……やっぱり、だめ。


   え、なんで。


   ……なんでも。


   ちょっとだけ、一瞬でもいいから。


   一瞬では、見たことにならないと思うわ。


   一瞬だけ見て、あとは想像する。


   ……想像出来るのなら、着なくても良くない?


   いやいや、やっぱりちゃんと見ないとね。
   イメージってのが、あるからさ。


   ……イメージ、ね。


   一瞬でも見ることが出来たら、イメージが広がるんだ。


   ……出来なかったら?


   広がらない、どうしたって限界があるんだ。


   ……そういうもの?


   うん、そういうもの。


   ……じゃあ。


   じゃあ?


   ……高校受験に


   受かったら?


   ……どうしようかしら。


   なんだったら、あたしの誕生日でも。


   ……。


   だ、だめだよね、うん。


   ……みんなには、言わないでね。


   へ。


   ……絶対に、言わないで。


   う、うん、言わない。


   ……揶揄われるのは、苦手なの。


   だから、言わないよ。
   絶対に。


   ……。


   そ、そしたらさ……ふたりきりにならないとだめだよね。
   誕生日会……その前か、その後か。


   ……。


   あたしは、どっちでもいいよ。
   亜美ちゃんは、どっちがいい?


   ……私は。


   うん。


   ……後、で。


   後?
   ん、分かった。


   ……。


   ね、良かったらその日は。


   ……だめよ。


   ん、そっか。
   受験前だもんね。


   ……でも、だめじゃない。


   うん?


   ……その日だけは、まこちゃんを優先したいの。


   あたしを?
   優先、してくれるの?


   うん……だから、お泊まりしても。


   もちろんさ!


   ……ん、まこちゃん。


   嬉しいな……誕生日の夜に、ひとりじゃないなんて。


   ……あぁ。


   早く来ないかな……誕生日。


   ……あと、三ヶ月。


   短いようで、長いや……。


   ……お勉強していれば、すぐに来るわ。


   そうかな……。


   ……それまでに、ちゃんと。


   うん……一、二年生の復習をばっちりにする。


   そして、受験対策のお勉強を。


   頑張るよ、亜美ちゃんと。


   ……必ずよ。


   うん、必ずだ。


   ……じゃないと、着ないから。


   うん、分かってる。


   ……。


   ……?
   亜美ちゃん……?


   ……ん、なんでもない。


   腕……痒いの?


   ……少し。


   大丈夫?


   ……これくらいなら、大丈夫。


   もしかして、蕁麻疹?


   ううん……違いと思う。


   ……そう?


   恋愛が、絡んでいないから……。


   なら……もしかして、疲れた?


   ん……そう、かも。


   そっか……じゃあ、もう寝よう。


   ……ごめんなさい、話の途中なのに。


   ううん、いいんだ。
   亜美ちゃんの方が大事だから。


   ……。


   それじゃあ……おやすみ、亜美ちゃん。


   うん……おやすみなさい、まこちゃん。


   また、明日ね。


   ん……また、明日。


  16日





   ん、なんだい?


   ……いつも言っているけれど、ベッドはまこちゃんが使うべきだと思うの。


   んーん、ベッドは亜美ちゃんが使って?
   特に今夜は、あたしが急に誘ったんだからさ。


   ……毎回、使わせてもらっているから。


   いいから、いいから。あたしは亜美ちゃんがいてくれるだけで、ご機嫌だから。
   床で寝るのだって悪くない、むしろ楽しいくらいなんだ。寝る前に亜美ちゃんとお喋り出来ると思うと、さ。


   ……どれだけ、ご機嫌なの。


   んー、にこにこが止まらないくらい?
   どうしても、顔が緩んじゃう。


   ……。


   言われてみれば、だろ?


   ……まこちゃんは大体、にこにこしていると思う。


   そうでもないさ。


   ……そうでもあると、思うけど。


   ひとにもよるよ。
   誰彼構わず、にこにこなんてあたしはしない。


   ……ひと。


   それに床と言ってもさ、この長座布団があるし。寝心地、意外と悪くないんだよ。昼寝する時にも使ってたりするしね。
   だからさ、あたしのことは気にしないで。今夜もベッドを使って欲しいな。ね。


   ……気にしない、なんて。


   あたしは、本当に大丈夫だから。


   ……。


   納得、出来ない?


   ……いつも、使わせてもらうばかりで。


   あたしが構わないのだから、亜美ちゃんは気にしなくてもいいんだよ。


   ……。


   でもやっぱり、そうはいかないか……亜美ちゃん、優しいもんな。


   ……別に、優しいわけじゃない。


   ……。


   これはひととして、当たり前のことだと思うの。


   ……ひととして?


   そう、ひととして。
   してもらってばかりじゃ、だめなの。


   ……あたしも、してもらっているけど。


   だから私は、今夜こそ床で


   今までは、ともだちの亜美ちゃんを床で寝かせるなんてだめだよなぁって、思ってた。


   ……。


   お父さんとお母さんも、折角来てくれたともだちを床で寝かせるなんてって、きっと言うだろうし。
   みんなとともだちになってさ、ともだちは大事にしなさいって、小さい頃に教わっていたのを思い出したんだ。
   ともだちは、一生の宝物なんだって。だとすれば、親友は……。


   ……私だって、おともだちのまこちゃんを。


   今はね、親友の亜美ちゃんを床で寝かせるのは嫌だって。そう、思ってるんだ。
   だからやっぱり、亜美ちゃんを床で寝かせるわけにはいかない。どうしても、嫌なんだ。


   ……どうしても。


   どうしても。


   ……だけど、それを言うのだったら。


   うん?


   ……私だって、親友のまこちゃんを床で寝かせるのは嫌だわ。


   ……。


   寝かせるわけには、いかないの……ましてや、このベッドはまこちゃんのものなのだから。


   そっか……そうなっちゃうか。


   そうよ……そうならない方が、おかしいわ。


   ……。


   だからお願い、今夜はまこちゃんがベッドを使って。
   どうしても使って欲しいの。いつも、私ばかりだから。


   ……あたしとしては、本当にいいんだけどな。


   まこちゃんの気持ちは嬉しい。だけど、思いやりは一歩通行ではだめだと思うの。
   それではきっと、関係は続かない。どこかで歪んで、崩れて。そうして終わってしまう、続かなくなってしまう。


   ……そう、なのかな。


   私の両親が、そうだった。


   ……あ。


   気付いた時には、取り返しがつかなくなっていて……ふたりは結局、終わりを選んだの。
   始まりがどんなに良くても、ずっとそれを続ける為には、お互いの不断の努力が必要になってくる。
   一方通行の努力なんて……そんなの、ずっとは続かない。どこかで必ず、疲れてしまう。嫌になってしまう。


   ……そうか、亜美ちゃんのお父さんとお母さんは。


   ひととの関係を続けることは、とても難しいことだと思うの。
   どちらか片方が甘えて、寄り掛かってばかりでは……もう片方はいつか、潰れてしまうかもしれない。
   私はこれからも、まこちゃんと……まこちゃんと、親友でいたいの。


   ……。


   ねぇ、まこちゃん。


   ……じゃあさ。


   ……。


   こうしようよ。


   ……どうするの。


   あたしがいつか、亜美ちゃんの部屋に泊まるようなことがあったら、その時は亜美ちゃんのベッドを使わせてよ。


   ……。


   それならさ、おあいこでいいだろう?
   うん、我ながらナイスアイディアだ。


   ……それは、今後の提案であって。


   ん?


   今夜の解決策には、なっていないわ。


   そ、そうかな。
   なってると、思うけど。


   一番の解決策は、まこちゃんが自分のベッドで眠ること。
   それしかないと思うの。


   それは、亜美ちゃんがそういう風にしたいというだけで……あたしとしてはあくまでも、亜美ちゃんに使って欲しいから。


   ……。


   あたしの部屋では、亜美ちゃんがあたしのベッドを使う。
   亜美ちゃんの部屋では、あたしが亜美ちゃんのベッドを使わせてもらう。
   だから今夜はとりあえず、亜美ちゃんはあたしのベッドで寝る。
   ね、そうしよう?


   ……。


   やっぱり、納得出来ない……?


   ……もしも、聞いてくれないのなら。


   う、うん……。


   ……まこちゃんのお部屋にお泊りすることを、今一度、考え直さなければならなくなるわ。


   え。


   ……回数を減らすか、或いは。


   そ、それって、と、泊まりに来なくっちゃうかもしれないってこと?


   ……それも選択肢のひとつとして、十分にあり得るわ。


   そ、それは、それだけはいやだ。


   ……私も、いや。


   だったら、それはなしにしてよ。何もそこまでしなくたっていいじゃないか。
   ね、亜美ちゃん。回数を減らすのだっていやだけど、それはもっといやだよ。


   ……私だって。


   ね、ねぇ、亜美ちゃん?
   そこまで深刻に考えなくても……た、たかが、ベッドのことじゃないか。


   たかがじゃないっ。


   ……っ。


   たかがじゃ、ないの。


   ……亜美ちゃん。


   ねぇ、お願い……まこちゃん。
   今夜は……まこちゃんが、ベッドを使って。


   ……そんなに、気にしていたの。


   まこちゃんの気持ちは、本当に嬉しいの。
   とても、とても、嬉しいの。だからこそ、甘えてばかりではだめだと思うの。
   じゃないと……。


   ……あたしは。


   まこちゃんのそういうところ……私は、好きよ。
   だけど、床で寝るのは……やっぱり、良くないと思うの。
   疲れが取れないと思うし、躰だって痛くなってしまうかも知れない。


   ……その良くないことを、あたしは亜美ちゃんにさせたくないんだ。


   ……。


   たった一晩……たった一晩ぐらい、あたしはなんでもない。


   私だって


   だけど、そう言ったら……亜美ちゃんも、同じ言葉を返してくるんだろうね。


   ……。


   ……これを、平行線って言うのかな。


   ……。


   あたしが、折れれば……でも 


   ……いつも、貸してもらっているから。


   ……。


   私が折れれば、この場は収まる……それは、分かっているの。
   だけど……何度も、同じことを繰り返しているから。


   ……うぅ。


   ……?
   まこちゃん……?


   ……亜美ちゃんが、泊まりに来なくなっちゃうのは。


   どうしたの……?


   それだけは、いやだ……いやだよぅ。


   あ。


   ……いやだ、そんなのは、いやだ。


   ま、まこちゃん……。


   ……う。


   落ち着いて、まこちゃん。


   ……あみ、ちゃん。


   どうしたの……?


   ……ね。


   なぁに……?


   ……今のあたし、すごくみっともないだろ。


   みっとも……なにを言っているの?


   ……わかってるんだ、ただのくそがきみたいだって。


   そんなこと、思っていないわ……。


   おもうように、いかなくて……だだを、こねてる……ただの、くそがきなんだ……。


   ねぇまこちゃん、私はそんなこと思っていないから……だから。


   ……だめだ、こんなの、だめだ。


   聞いて、まこちゃん。


   ……やればやるほど、いなくなる。


   え……。


   あたしは、おもたい……だから、あたしのこいは、かなわない。


   ……!


   ……しんゆうの、あみちゃんも。


   私は、まこちゃんを振ったりはしない。


   ……ぁ。


   私は、まこちゃんの恋人ではないけれど……なれない、けれど。
   でも私は、許されるならば、まこちゃんの傍にずっといたい。


   ……ずっ、と?


   そう、ずっと……ずっと、まこちゃんの傍に。


   ……。


   落ち着いて、まこちゃん……あなたが言った通り、たかがベッドのことじゃない。


   ……ベッド。


   ごめんなさい……まさかあなたが、そんなに思い詰めるとは思っていなかったの。


   ……あたしも、ごめん。


   ……。


   ……すごく、かっこわるい。


   ううん……かっこ悪くなんて、ないわ。


   だって、こんな……小さな子供みたいだ。


   ……安心した。


   え……?


   まこちゃんも……大人のように見えていたまこちゃんも、私と変わらない、子供なんだって。


   ……。


   ……ね、まこちゃん。


   なに……。


   ……今夜は、一緒に寝ない?


   いっしょ、に……?


   そう……ベッドで、一緒に。


   けど……狭いよ。


   ……まこちゃんは、いや?


   ……。


   私と一緒に眠るのは……いや?


   ……ううん、いやじゃない。


   ん……まこちゃん。


   ……とても、うれしい。


   うん……。


   ……いっしょにねても、いい?


   うん……一緒に。


   ふふ……やった。


   ……。


   だけど、狭かったらごめんね……?


   ……狭かったら、床で寝る。


   ……。


   なんて、言わないでね……?


   ……うん、言わないよ。


   ……。


   ……。


   ……ふふ。


   はは……。


   ……。


   ……ごめん、しがみついちゃって。


   ううん……大丈夫、気にしないで。


   ……。


   まこちゃん……さぁ、ベッドに。


   うん……亜美ちゃん。


   ……あなたのベッドなのにね。


   ふふ……でも、すごく嬉しいよ。


   ……。


   ……ひとりじゃないのが、本当に嬉しい。


   うん……私も。


   ……亜美ちゃんも?


   私が、まこちゃんのお部屋に泊まる理由のひとつ……。


   ……。


   ……ひとりでは、ないから。


   ……。


   ……慣れていて、なんでもないと思っていたのに。


   忘れていたことを、思い出しただけなんだと思う……。


   ……。


   ……きっと、亜美ちゃんも。


   そうかしら……。


   ……。


   私は、小さい頃からひとりで寝ていたから……。


   ……ごめん、知らないのにいい加減なことを言って。


   ううん……いいの。


   ……。


   もしかしたら……憶えていないだけで、そうだったのかもしれないから。


   ……うん。


   先に……。


   ……ううん、亜美ちゃんが先に。


   ん、分かったわ……。


   ……。


   ……これで、どう?


   だめ、かな……。


   ……まだ、狭い?


   そんなに端っこにいたら、亜美ちゃんが寝辛いだろ……?


   ……。


   もう少し、こっちに。


   ……けど。


   あたしは、大丈夫だよ……。


   ……。


   大丈夫だから……もう少し、こっちに寄って。


   ……狭かったら、すぐに。


   落ちそうなくらいに、狭かったら……ね。


   ……。


   ……入るよ。


   うん……来て。


   ……。


   ん、まこちゃん……?


   ……なんだか、どきっとしちゃった。


   どきっと……?


   ……なんでもない。


   ……。


   よいしょ、と……うん。


   ……もう少し、壁際に。


   へへ……。


   ……ん、まこちゃん。


   ごめん……暑いよね。


   ……。


   すぐに、離れるから……。


   ……もう、秋なのよね。


   へ……。


   ……夜風が、大分涼しくなって。


   ちょっと前までは、あんなに暑かったのにね……。


   ……本当に。


   ……。


   ……んっ。


   え……。


   ……。


   あ、亜美ちゃん……?


   ……あまり、なでないで。


   なで……あっ。


   ……。


   ご、ごめ……っ。


   ……う、ううん。


   な、なんで……。


   ……。


   て、手が……勝手、に。


   ……とくに。


   ご、ごめん……ほ、ほんとに。


   ……とくに、いみはないのよね。


   いみ……?


   ……ただ、てがうごいてしまっただけなのよね。


   う、うん、そうなんだ……かってに、うごいて。
   て、なんで勝手に動くんだ……。


   ……ぜんせの、きおく。


   そ、そんな……今のあたしは、ジュピターじゃない。


   ……私も、マーキュリーではないわ。


   ……。


   ……。


   ……ベッドから、出た方がいいよね。


   ううん……出ないで。


   だ、だけど……。


   ……まこちゃんはまこちゃんだって、信じているから。


   ……。


   ね……そうでしょう?


   ……うん、あたしは木野まことだよ。


   なら……このままで。


   ……。


   ……あなたが、どきどきしたのも。


   亜美ちゃん。


   ……なぁに。


   ありがとう。


   ……。


   ……一緒に、寝てくれて。


   こちらこそ……ありがとう、まこちゃん。


   ……。


   ……私ね、思うの。


   何をだい……?


   ……まこちゃんが、私の部屋に泊まることよりも。


   ……。


   私がまこちゃんのお部屋に泊ることの方が、きっと……ううん、絶対に多いって。


   ……あたしは、それでもいい。


   まこちゃんが、良くても……。


   ……なら今度、泊まらせて。


   ……。


   亜美ちゃんの都合がいい日に……。


   ……分かったわ、まこちゃん。


   やった……楽しみ。


   ……。


   ね……その時も、一緒に寝ようよ。


   ううん……まこちゃんが、ひとりで。


   ひとりよりも、ふたりがいい。


   ……。


   ……ね、亜美ちゃん。


   じゃあ……また、その時に。


   ……その時に?


   話しましょう……ふたりで。


  15日





   ……ん!


   ……。


   よし、解けた!


   ……どれ、見せて?


   うん、見て見て。


   ……。


   ね、ばっちり解けてるだろ?


   ……答え、だけでなく。


   うん。


   途中式も、合っているし……うん、ばっちり解けているわ。


   ふふ、やったぁ。
   ね、丸をつけてよ。


   丸?


   赤ペンで。


   いいわ、ちょっと待っててね。


   ん。


   ……はい、これでいい?


   うん、いい。
   ありがと、亜美ちゃん。


   どういたしまして。
   まこちゃんのやる気に繋がってくれるなら、いくらでも丸をつけるわ。


   じゃ、また解けたらつけてもらおうかな。


   ふふ、いいわよ。


   やった。


   ただし、正解していたらね。


   ふふ、分かってるよ。
   よし、それじゃ次もがんばろ。


   ん、頑張って。


   ねぇ、亜美ちゃん。


   ……なぁに、まこちゃん。


   あたしはやっぱり、亜美ちゃんに教わる方がいいみたいだよ。


   ……そうかしら。


   説明がすごく分かりやすくてさ、ちゃんと頭に入ってくるんだ。
   この問題の解き方もあんなに分からなかったのに、亜美ちゃんに教わったらすんなりと……でもないけど、解けたし。


   ……レイちゃんの教え方も無駄がなくて、端的で、とても分かりやすいわ。


   レイちゃんも上手だとは思うんだけど、合う合わない、なのかな。レイちゃんの説明は、あたしにはちょっと難しいんだよね。
   まぁ、先生にも合う合わないがあるしさ。あたしに合うのは、亜美ちゃんってことで。


   ……私の教え方は、うさぎちゃんと美奈子ちゃんには分かりづらいみたい。


   美奈子ちゃんは、レイちゃんの説明でも難しいって言ってるからなぁ。数学も国語も、でもって理科も、どれもこれも難しいって。
   挙句の果てには、これ大人になって役に立つの? 使わなくない? だったらもっと有効なお勉強をした方が良くない?
   例えば、恋のお勉強とか! 今の私達に必要なのは素敵な恋人なんだから! って、言い出す始末だし。


   美奈子ちゃんの場合は、やる気が問題なのよね。
   多分、やる気さえあれば……それか、土壇場でなんとかするか。


   土壇場で、なんとかしそうだな……頭に無理矢理、詰め込むかして。
   で、試験が終わったら、きれいさっぱり忘れてるとかね。


   ……ないとは、言えないわね。


   覚えたことがそのまま残っていたら、毎回とは言わないけど、平均点以上は取れそうな気がするんだよなぁ、美奈子ちゃん。


   ……どこまで行っても、やる気次第なのよね。


   でもさ、受験でもなんとかなるものかな……試験勉強ってやっぱり、積み重ねが大事なんだろ?


   そうだと、思っていたのだけれど……美奈子ちゃんを見ていると、ひとそれぞれなのかもしれないって。


   亜美ちゃんの考えを揺るがすなんて……すごいな、美奈子ちゃん。


   でもね、まこちゃん。


   ん、なに?


   まこちゃんには、積み重ねが大事だと思うの。
   だからね、諦めないで、やけにならないで、一緒にお勉強を続けましょうね。


   あたしにも、美奈子ちゃんのような莫迦力があればなぁ。


   まこちゃん……。


   なんて、さ。
   水野先生とお勉強が出来るなら、あたしは頑張るよ。


   ……本当に、一緒に頑張ってくれる?


   うん、頑張るし、頑張れる。
   解けると、亜美ちゃんはその都度褒めてくれるし。


   ……。


   あたしはさ、単純だから褒められるとすぐに調子に乗っちゃうんだ。


   ……ケアレスミスには、気を付けてね。


   うん、気を付ける。
   そんなんで点数を落とすのはつまらないって分かったからさ。


   ……ん。


   やっぱりね、分かりやすいとやる気が違うんだよね。解けなかったのが解けるようになると、やっぱり嬉しいし。
   分からないのがずっと続くと、やる気がなくなってしまってさ。どうしても、投げ出してしまうんだよ。


   はぁ……良かった。


   なになに、心配してくれた?


   ……まこちゃんまで、美奈子ちゃんのようになってしまったら。


   大丈夫、あたしは美奈子ちゃんのようにはなれないよ。
   詰め込むのは苦手だし、それに、亜美ちゃんの影響だと思うんだけどさ。


   ……なに?


   積み重ねが、大事。最近は、そう思えるようになったんだ。
   お勉強ってさ、どれもこれも大体繋がってるだろ? 例えば、国語が出来なきゃ他の教科どころじゃないし。


   ……。


   因数分解とか図形証明とか、たとえ、大人になって使わなくても……全く、無駄ではないと思うんだ。


   ……まこちゃん。


   あたし、間違ってるかな。


   ううん……私は、間違っていないと思う。


   ほんと?


   ん……本当。


   へへ、良かった。


   因数分解や図形証明……数学は、問題解決能力や論理的思考を養うのに良いとされているから。
   それ自体は使うことが少ないとしても、決して役に立たないわけではないと思うの。


   ろんりてきしこう?


   そう、論理的思考。


   じゃあやっぱり、無駄なお勉強はないってことだね?


   そう、そうなの。


   お。


   お勉強は大人になっても、そういくつになっても出来るけれど、子供の頃に学校で学ぶこと、それにも意義があると私は考えているの。
   だって大人になってしまったらきっと、お勉強ばかりに時間を使うことは出来なくなってしまうだろうし、だとしたら、今のうちにって思うでしょう?
   もっともっとお勉強がしたいって思ったって、おかしくはないでしょう?


   う、うん、そうだね。


   私は確かに医者になる為にお勉強をしているけれど……でも、それだけじゃない。
   もっと知りたいし、分かりたい。その為に、お勉強したい。知らないことを、今よりももっと知りたい。


   ……。


   何事においても理というものがあってね、私にとってお勉強とは……?


   ……ふふふ。


   まこ、ちゃん?


   亜美ちゃんは、本当にお勉強が好きなんだなぁって。


   ……あ。


   亜美ちゃん、目がすごいきらきらしてた。


   ……。


   亜美ちゃんと一緒なら、あたしのろんりてきしこうも養えるかな。
   諦めずに続けていれば、きっと、養えるよね。


   ……ごめんなさい。


   ん、どうしてだい?


   ……ひとりで、勝手に喋ってしまって。


   それのどこが悪いんだい?


   ……お勉強のことばかりで、鬱陶しいでしょう?


   全然?


   ……でも。


   好きなお勉強のことを話す時の亜美ちゃん、あたしは好きだよ。


   ……!


   まるで、うさぎちゃんが衛さんのことを、美奈子ちゃんが追っかけているアイドルのことを話している時みたいでさ。
   とても楽しそうで、生き生きとしていて。そんな亜美ちゃんを見ているの、あたしは好きなんだ。


   ……お勉強のこと、ばかりでも?


   お勉強のことばかりでも、だよ。
   だって、亜美ちゃんが好きなのはお勉強なんだから。


   ……またお勉強のこと話してるって、思わない?


   特に思わないかな。
   だって、好きなんだろ?


   ……うん、好き。


   なら、それでいいじゃないか。
   あたしは、どこまで行っても、亜美ちゃんが楽しそうに話している時の顔や声が好きなんだ。


   ……。


   あたしはさ、亜美ちゃんはそれでいいと思ってる。
   他の誰かがなんて言おうが思おうが知らないし、知ったことじゃない。


   ……。


   だけど、そうだな……。


   ……あ。


   たまには、あたしのことも考えて欲しいかな。


   まこちゃんの、こと……?


   ……ともだち、だし。


   ともだち……。


   ……あたしはさ、亜美ちゃんのことが好きなんだ。


   ……。


   ともだちだから、わざわざ言わなくてもいいことなのかもしれないけど、でも、言っておこうと思って。
   恥ずかしがらずに、聞いてくれると嬉しいな……。


   ……う、ん。


   ……。


   ……まこちゃん。


   もう一度言うけど、あたしは亜美ちゃんのことが好きだ……でも。


   ……。


   亜美ちゃんは……あたしのこと、好きかい?
   ともだちだって、思ってくれてるかい……?


   ……わたし。


   もしも、一方通行だったら……その、寂しいなって。


   ……思ってるわ。


   うん……?


   まこちゃんのこと……誰よりも仲がいい、おともだちだって。


   ……誰よりも?


   勝手に、ごめんなさい……でも、まこちゃんと一緒にいると安心するから。
   一番、安心出来るから……。


   ……。


   その……だから……好き、よ。


   ……亜美ちゃん。


   め、迷惑かしら……迷惑、よね。


   ありがとう、すごく嬉しい。


   ……ぁ。


   誰よりも仲がいいかぁ……じゃあ、親友だね。


   しん、ゆう……?


   そう、親友。
   一緒にいて、安心出来るならさ。


   ……まこちゃんは。


   あたしも、亜美ちゃんと一緒にいると安心する。
   ほら、言ったろ? 亜美ちゃんとは会話がなくても、一緒にいるだけで落ち着くって。


   ……。


   だから……その、親友じゃだめかなぁ?


   ……じゃ、ない。


   え、なに。


   ……。


   ごめん、聞こえなかった。
   もう一度、いい?


   ……だめじゃ、ない。


   だめじゃ、ない?


   ……私も、嬉しい。


   亜美ちゃん……。


   ……まこちゃんと親友だって、思ってもいい?


   うん……思って、欲しい。


   ……。


   あたしも、思ってもいいだろ……?


   ん……思って。


   ……。


   ……。


   ……どうしよう、嬉しくて泣きそう。


   え……。


   へへ……涙が出てきちゃった。


   ま、まこちゃん……。


   ……亜美ちゃんもね。


   私……?


   ……涙ぐんでるように、見えるよ。


   ……。


   見間違えだったら、ごめん?


   ……ううん、見間違えじゃない。


   ん……そっか。


   ……こんなこと、初めてで。


   あたしも、初めてだ……。


   ……。


   ずっと、恋人が欲しいって思っていたけど……ともだちも、いいなって。
   こっちに引っ越してきて、みんなと仲良くなって、そう、思うようになってさ……。


   ……うん。


   親友は……もしかしたら、恋人と同じくらい……いや、それ以上に。


   ……それは、言い過ぎだと思う。


   そうかな……。


   ……私には恋人の良さが分からないけど、でも。


   あたしは、そうでもないと思うけどな。


   ……。


   でさ……もしも、もしもだよ。


   ……うん。


   親友から、恋人に……。


   ……え。


   ……。


   ……まこちゃん?


   あたし、今……なんて、言おうとした?


   ……親友から、恋人に。


   ……。


   ……それ以上は、分からないわ。


   あたし、なんでそんなことを……?


   ……私に、聞かれても。


   え、いや、なんでだろ……親友は親友で、恋人は恋人なのに。


   ……多分、だけれど。


   う、うん。


   まこちゃんに親友の男のひとがいたとして、そのひとが恋人になったら……とても、素敵なことなのではないかしら。


   ……。


   ……私には、分からないけど。


   ……。


   ……あの、まこちゃん。


   ごめん、亜美ちゃん。


   え、何が?


   変なこと、言って。


   変なことなんて……。


   ……とにかく、ごめん。


   ううん……謝らないで。


   ……。


   ……お勉強の続きをしましょう?


   ん……そうだね、そうしよう。


   ……分からなかったら、また聞いてね。


   うん……考えて分からなかったら、聞く。


   ……。


   ……ね、少し何か飲まない?


   ……。


   お勉強の続きって、言ったばかりなんだけど……。


   えと……もらっても、いい?


   ん、いいよ。
   冷たいのとあったかいの、どっちがいい?


   えと……温かいので。


   分かった、ちょっと待っててね。


   ……ありがとう。


   ん……。


   ……。


   ……ねぇ、亜美ちゃん。


   なに……。


   ……いつか、亜美ちゃんに。


   ……。


   その……恋人が、出来たら。


   まこちゃん。


   ……あたしは、ちゃんと。


   私に、恋人が出来ることはないわ。


   ……そんなの、分からないよ。


   ううん、分かるの……。


   ……ひとは、変わるものだよ。


   それでも……私は。


   ……。


   ……きっと、欲しいと思うことはないから。


   そっか……。


   ……まこちゃんに恋人が出来たら、お祝いするわね。


   ……。


   ……されたく、ない?


   ちょっと、分からない……。


   ……分からない?


   欲しいとは、思っているんだけど……。


   ……。


   ……まぁ、こんなあたしに恋人が出来るかどうか分からないしさ。


   出来るわ。


   ……。


   まこちゃんは、素敵なひとだもの……だから、いつか必ず。


   ……そうだと、いいな。


   ……。


   ……そのひとが、……のようなひとだったら。


   ……。


   ごめん……なんでもないよ。
   さっきからずっと変なことを言ってて、ごめんね。


   ……ううん、別に変なことではないから。


  14日





   あ、おかえりー。


   えと……ただいま?


   服、どうだろ。
   サイズ、大きくない?


   ん……少し、大きいかも。
   でも、これくらいなら大丈夫、なんでもないわ。


   着心地は、どう?
   悪くない?


   うん……ゆったりしていて、全然悪くない。


   生地はどう?
   不快じゃない?


   ん……不快じゃない、むしろ気持ちいいわ。


   合わなかったらすぐに言ってね、違うの出すから。


   ありがとう……まこちゃん。


   んーん、いいんだ。誘ったのはあたしだし。
   それにね、亜美ちゃんがいてくれて、今夜のあたしはご機嫌なんだ。
   着替えを貸すくらい、なんでもないよ。


   お風呂も……先に使わせてもらって。


   ゆっくり出来た?
   うちのお風呂、狭いからさ……って、もう慣れたか。


   ……いつだって、ゆっくりすることが出来るの。


   そう?


   ……ね、まこちゃん。


   なに?


   ……今度、ね。


   うん。


   ……。


   なんだい、亜美ちゃん。


   ……お風呂用の本を、まこちゃんのお部屋に置いてもいい?


   お風呂用の、本?


   うん……お風呂で読みたいの。


   いいけど……うちのお風呂で、読める?


   ん……読めるわ。


   狭くて……足、伸ばせないよ?


   足が伸ばせるかとうかは、問題ではないの。
   それに……私の足は、まこちゃんのように長くないから。


   え、亜美ちゃんの足は長いよ?
   すらっとしていて、おまけに肌は白くて、とてもきれいだよなぁって思ってるんだ。


   ……。


   あ、や、別にじっと見ているわけではないからね?
   ほら、変身するとスカートが短いだろ? だから、意識をしてなくても目に入ってくるんだ。


   ……戦闘中なのに?


   や、戦いが終わってもすぐには変身を解かない時もあるじゃない?
   そういう時に……ね?


   ……まぁ、そうね。


   うん、そうなんだ。


   ……私も、意識して見ているわけではないし。


   え?


   えと……私は、まこちゃんよりも身長が低いから。


   身長?


   だから……足の長さがまこちゃんと同じだったら、おかしいでしょう?


   あ、そっか……それは、そうだね。


   まこちゃんのお部屋のお風呂は、いつだっていい香りがして、リラックス出来るから……きっと、集中出来ると思うの。


   ねぇ、亜美ちゃん。
   ちょっとだけ、思ってることがあるんだけどさ。


   ……なに。


   お風呂で本を読んで、本が湿っちゃったりしない?
   うっかり、湯船に落としちゃうとかさ。


   湿度が高い場所に持ち込むわけだから、いくらかは湿ってしまうわ。


   それって、いいの?
   本、だめになっちゃわない?


   私の中ではお風呂で読む本という分類があってね、それらの本には予め防水カバーをしておくの。
   例えば、英単語や英熟語、古文単語と文法、数学や理科の参考書……。


   ……お勉強の本ばかりだ。


   お勉強の本は、復習をする為に読むの。
   あとは、そうね……ちょっとした物理の専門書かしら。


   ……ちょっとしたぶつりのせんもんしょ。


   他にも新書、たまに小説も読んでいるわ。
   小説はハードカバーではなく、持ちやすい単行本が多いわね。


   んと……つまり、なんでも持ち込むわけではない?


   うん、大事な本は持ち込まない。と言っても、お風呂で読む本も大切なのだけれどね。
   あとは乾いたタオルを何枚か用意しておいて、手が湿ってきたら拭くようにする。
   完全に防ぐことは出来ないけれど、それでもある程度は防げるから。


   湯船は?
   防水カバーをしていても、流石にだめだよね?


   湯船には……お風呂の蓋を使うようにして、落とさないように気を付ける。


   ……。


   ……何度か、落としたことがあって。


   やっぱり、あるんだ……。


   ……読み終わっていない新書を落としてしまって買い直したこともあるから、気を付けているの。


   んー、そっか。


   集中していれば、落とすことはないんだけど……たまに、うとうとしてしまって。


   うん、そんな時はお風呂で本を読むのは中止にした方がいいんじゃないかな。


   そうは思っているんだけど……読んでいるうちに、目が覚めるかと思って。


   いや、覚めないんじゃないかな……多分、お風呂から出た方が覚めると思うよ。
   お風呂が快適で、眠くなっているんだろうから。


   ……大丈夫だと、何故か過信してしまうのよね。


   あー……まぁ、分からなくもないけど。


   ……あまり、持ち込まないようにするから。


   いつも何冊くらい持ち込んでいるの?


   ……最低でも、三冊。


   三冊……何時間、湯船に浸かってるの?


   ぬるま湯で……長くて、一時間くらいかしら。


   ふ、ふやけない?


   ……ふやけない、けど。


   まぁ、一時間くらいなら……大丈夫か?
   亜美ちゃんは、プールで泳いでいるし……。


   ……どうしても、気になるようだったら。


   え?


   その……声を、かけてくれると。


   声?


   ……たまに、時間を忘れてしまうことがあるから。


   たまに……?


   ……本当に、たまになのだけれど。


   分かった……予定の時間を過ぎたら、必ず、声をかけるようにするよ。


   ……。


   亜美ちゃんの本か、今度の休みにでも置く場所を作ろうかな。


   ごめんなさい……手間、よね。


   手間?


   ……受験生に、そんな無駄な時間はないし。


   大丈夫さ、そんなにはかからないと思うから。


   ……やっぱり、止める。


   なんで?
   あたしは構わないよ。


   ……でも、面倒事を増やしてしまうと思うの。


   面倒も何も、面白いじゃないか。


   ……面白い?


   亜美ちゃんと、その、暮らしているみたいで。


   ……。


   あ、暮らしているは、言い過ぎか。
   は、はは。


   ……お勉強の合間に、置き場所を作ってくれるの。


   うん、そうするつもり。じっとしてると、どうしても体が硬くなっちゃうからさ。
   少し躰を動かした方が、色々と効率がいいんだ。


   ……。


   亜美ちゃんも、知ってるだろ?


   ……ん、知ってる。


   と言うわけだから、気にしないでね。


   ……うん。


   ね、本はどれくらい置きたい?


   ……5冊、くらい。


   5冊でいいの?


   ……定期的に、取り替えるようにする。


   10冊くらい、置いてもいいよ?


   ……いいの?


   うん、いいよ。


   ……ありがとう。


   だからさ、亜美ちゃん。


   なに?


   毎週とは言わないから、気軽に泊まりに来てね。


   ……。


   ごはん、一緒に食べよう。
   あ、勿論、お勉強の邪魔はしないからさ。


   ……まこちゃんに、教えることも出来るわよね。


   へ。


   その……お泊まりすれば、帰る時間を気にしなくてもいいし。


   じゃあ、お泊まりの勉強会だ。
   ふふ、いいねぇ。あたしと亜美ちゃんだけの勉強会。


   あの……良かったら、まこちゃんも読んでね。


   本を?


   ……ん。


   あ、あたしは……。


   ……。


   うん、読んでみようかな。
   あんまり難しいと、読めないかもしれないけど……がんばって。


   ……そんなに難しい本は、置かないから。


   そ、そうかい?


   ……あくまでも、リラックスして読む本だもの。


   そっか。


   ……。


   あ、お茶を淹れたんだ。
   お風呂上りに、どうだい?


   ありがとう……もらうわ。


   ん。


   ……まこちゃんも、お風呂に入るわよね。


   うん、ちょっと入ってくるよ。


   ……。


   ん、どうした?


   ……下着、どこに干せばいい?


   洗濯ハンガーに干していいよ。好きなところに干して。
   あ、もしかして、出てなかった? ごめんよ、すぐに出すから。


   ……。


   亜美ちゃん……?


   ……。


   えと……洗濯ハンガーは、いや?


   ……いやでは、ないの。


   けど……抵抗が、ある?


   ……。


   あたしの洗濯物と一緒に干されるのが、いや?
   だったら、別にするよ。それなら、


   あ、あの。


   う、うん。


   ……見られたこと、ないから。


   うん?


   ……恥ずかしくて。


   ……。


   ……変、よね。


   あ、いや、変ではないよ。
   確かに、自分の洗濯物を他人に見せることってないもんな。


   ……まこちゃんは、気にしない?


   あたしは……まぁ、亜美ちゃんなら。
   洗濯してあれば、わりと平気かな。


   ……。


   そ、そんな、目を丸くしなくても……。


   ……他のひとでも、平気?


   うーん……うさぎちゃんとレイちゃんはいいけど、美奈子ちゃんは場合によるかな。


   ……場合?


   下着のことを、あれこれ言われるのはいやだ。
   あたし、苦手なんだ。そういうので、揶揄われるの。


   ……。


   あとは、そうだな……よっぽどじゃなければ。


   ……よっぽど?


   汚れてる、とか。


   ……っ。


   あ、亜美ちゃん?


   ……。


   わ、分かった、あんまり、見ないようにするよ。
   出来るだけ、目に入らないように……そうだ、あたしのは別に干そう。
   それなら、目にも入らないと思う。ね、どうだろう?


   ……ごめんなさい。


   ん、気にしないで。いやなものは、いやだからさ。
   あたしも、亜美ちゃんが嫌がることはしたくない。だから、言ってくれてありがとね。


   ……慣れて、いなくて。


   慣れ?


   ……おともだちが、ずっと、いなかったから。


   ……。


   ……おともだちが、いれば。


   いても、苦手なひとはいると思うよ。ともだちと言っても、慣れている家族ではないし。
   下着なんてさ、ともだちにだってそうそう見せることはないだろ? 体育の授業かなんかの着替えで見えちゃうことはあってもさ。


   ……。


   だから、気にしない。
   ね?


   ……うん。


   うん。
   それじゃ、お茶でも飲んで?


   ……ありがとう。


   でさ、あたしがお風呂に入っている間、好きにしててよ。
   お勉強でも、なんでもさ。


   うん……お勉強、してる。


   ん。


   ……。


   ……ねぇ、亜美ちゃんさ。


   なに……?


   その服……良かったら、亜美ちゃんにあげるよ。


   ……え?


   上下……そんなに、着ていないし。


   ……上下って。


   良かったら、だけど。


   ……でも。


   その服さ、着る予定がないんだ。
   あたしにはもう、サイズが合わなくて。


   ……サイズ。


   まさかさ、身長が170cmを超えるとは思っていなくてさ。
   身長だけじゃない、肩幅とかも、少し大きくなっていて。


   ……。


   小学生の時に大きい子って、中学に行ったらそんなに伸びないって聞いてたんだ。
   だからいい加減、止まるだろうと思って買ったんだけど、いまだもって伸び続けてて。
   いつまで成長期が続くんだって話だよね。バカでっかい女って言われた時よりも大きくなってるなんてさ。
   その頃は170cmなかったんだよ。なんかもう、信じられないよね。


   ……本当に合わないの?


   まぁ、着られないことはないんだけど……でも、あたしにはやっぱり小さいんだよ。
   このまま身長が伸び続けたら、もっと、着られなくなっちゃう。だったら、亜美ちゃんに。


   ……。


   て、おふるはいやだよね。
   うん、ごめん。聞かなかったことにして。


   ……まこちゃん。


   な、なに?


   ……気に入っていたの?


   ……。


   ……この服。


   うん……まぁ、ね。
   部屋着で、誰かに見せるわけではないんだけど……それでも、気に入ってた。


   ……もらってしまっても、いいの?


   亜美ちゃんが、着てくれたら……嬉しいな。


   ……。


   だけど、おふるだし……好みだって、あるよね。


   ……まこちゃんのお部屋に来た時に、着てもいい?


   え。


   ……特に、今夜みたいに何も用意していない日に。


   あ、あぁ……もちろん、いいよ。


   ……なら、もらう。


   あ、ありがとう。


   ……私こそ、ありがとう。


   ……。


   ……ふふ。


   ん、亜美ちゃん……?


   ……まこちゃんのにおいがする。


   え……っ。


   ……。


   ご、ごめっ、もしかして臭いっ?


   ……はい?


   せ、洗濯はちゃんとして……あ、しまっておいたからかな。
   ごめん亜美ちゃん、取り替えるよ。それはまた、洗濯しておくから


   まこちゃん。


   ほんと、ごめん……。


   ……臭いわけでは、ないわ。


   けど……あたしのにおいがするって。


   ……臭いわけではないの。


   え、と……。


   言い方が悪かったわ……ごめんなさい。


   ……。


   その……まこちゃんのにおいは、私にとって、落ち着くことが出来るにおいなの。


   ……落ち着く?


   だから……どちらかと言うと、いい匂い。


   ……っ。


   ……ありがとう、大事にする。


   う……うん。


   ……?
   まこちゃん……?


   ……。


   どうしたの……?


   ……ちょっと、どきどきしちゃって。


   どきどき……?


   あ、あたし、な、何言ってんのかな。
   ちょ、ちょっとお風呂に行って、お、落ち着いてくるよ。


   まこちゃん……。


   着替え、着替えと。


   ……。


   じゃ、行ってきます。


   ん……行ってらっしゃい。


   ……。


   あの、まこちゃん。


   な、なんだい?


   洗濯物……一緒に、干して。


   え、なに?


   一緒に、干して……まこちゃんの洗濯物と。


   ……いいのかい?


   うん……まこちゃんなら。


   あたしなら……。


   ……大丈夫だと、思えたから。  


  13日





   それで、今日も喧嘩になったんだ。
   そこからはもう、勉強会はなぁなぁになっちゃってさ。


   そう。


   あのふたり、顔を合わせると必ずと言っていいほど言い合いの喧嘩になるけど、よくそんなに出来るよなぁって。
   そんな言い方をしたら相手は怒るって、いい加減、分かると思うんだけど。


   喧嘩するほど仲がいいと言うから。あのふたりはまさに、それを体現しているんだと思う。
   だけど、確かに言い方はあると思うわ。もっと言い方を考えれば、あんな言い合いにはならないと思うし。


   きついんだよね、言葉が。


   そう……きついの。


   レイちゃんってさ、今更だけど素直じゃないよね。


   ……うさぎちゃんには、特にね。


   思うに、レイちゃんってうさぎちゃんのことが大好きなんだと思うんだ。
   でさ、大好きだからこそ、ついきつく言っちゃうのかなって。


   レイちゃんは……私達以上に、うさぎちゃんに寄り添っていると感じることがあるの。


   うん、分かる。真っ先に動くのは、いつだってレイちゃんだし。
   きつく言うけど、その分、行動もするんだ。


   レイちゃんは……衛さんとは違った寄り添い方をしているのだと思う。


   あぁ、なるほど……確かに、そうかもしれない。


   ある意味、うさぎちゃんには欠かせないひとなのかもしれないわね。


   そうだね。
   でも、それにしたってさ。


   うん?


   喧嘩をしている時は、お互い、ものすごいイキオイで言葉を投げ合うだろ?
   うさぎちゃんもレイちゃんも言葉のキャッチボールと言うより、デッドボールを狙いにいっているようなさ。


   それでも、ちゃんと打ち返しているのよね。


   そうそう、そうなんだ。打ち返した上で、また、投げるんだ。
   お互いがピッチャーで、パッターでもあるんだよ。


   分かるわ……器用よね、ふたりとも。


   本当、器用だよね。


   ……まこちゃんと美奈子ちゃんも、そういうところがあると思うけど。


   え、なに?
   美奈子ちゃんがどうかした?


   ううん、なんでもないわ。


   ん、そう?


   ……うん。


   美奈子ちゃんはさ、たまに、あたしに失礼なんだよ。


   ……聞こえてる。


   美奈子ちゃんって聞こえたから、そうなのかなって。


   ……まこちゃんと美奈子ちゃんもたまに喧嘩するわよね。


   それは大体、美奈子ちゃんがあたしに失礼なことを言うからだよ。
   この間なんて、恋愛狂いなんて言ってさ。冗談だって言ったけど、流石にかちんと来ちゃって。
   あたしは、そこまでじゃないよ。惚れやすいかもしれないけど、狂ってはいない。


   うん……狂っては、いないわよね。


   ……亜美ちゃん?


   まこちゃんの場合は、ただ、一目惚れしやすいってだけで。


   ……言っておくけど、かなり違うからね?


   ええ、分かっているわ……。


   ……亜美ちゃん。


   狂っていたら……きっと、今頃。


   え、やめて。


   ……ん。


   変な想像をするのはやめて。
   亜美ちゃんにだけは、されたくない。


   ……。


   勘弁してよ、亜美ちゃん。


   ……ふふ、ごめんなさい。


   もー、亜美ちゃんは。


   ……怒った?


   怒ってはいないよ。
   本当に想像しようとしたわけじゃないんだろうから。


   ……。


   だろ?


   ……そうだけど、どうして分かるの?


   亜美ちゃんは、お調子者で、口を滑らせるようなタイプじゃないから。


   ……。


   ん?


   ……私、暗いかしら。


   え、なんでそうなるの?


   ……たまに、そうかなって。


   いやいや、別に暗くはないよ。
   ただ、考え過ぎるところはあると思うけど。


   ……美奈子ちゃんのように、


   あたしは、今の亜美ちゃんが好きだよ。


   ……え。


   だから、美奈子ちゃんのようにはならなくていいよ。
   寧ろ、ならないで。お願いだよ、亜美ちゃん。


   え、えと……そこまで?


   考えてみて……亜美ちゃんがいなくて、美奈子ちゃんがふたりいたらって。


   ……。


   レイちゃんがふたりいても、間に合わないと思うんだ。
   特に暴走している時は……うさぎちゃんだって、振り回されてしまうくらいなんだよ。


   ……そう、かも。


   だろ……だから、亜美ちゃんはこのままで。
   亜美ちゃんは、あたしの心の癒しでもあるから……。


   ……。


   ん、あれ。


   ……私、まこちゃんの心の癒しなの。


   あっ。


   ……そう、なの?


   あ、や、その……あーー。


   ……。


   じ、実は……そう、なんだ。
   隣にいてくれると、その、落ち着くし……。


   ……知らなかった。


   いや、だって、言えないし……。


   ……。


   ……恥ずかしくて。


   まこちゃん……。


   ……ごめん、勝手に癒しにして。


   う、ううん……別に、気にしないわ。


   そ、そう……?


   ……うん。


   こ、これからも、心の癒しでいい……?


   ……いい、けど。


   あ、ありがとう……。


   ……私で、いいの?


   うん……亜美ちゃんが、いい。


   ……私、まこちゃんと一緒にいても、お勉強しているのに。


   そ、それも、いいんだよ……。


   ……その間、会話もしないし。


   その時間が……とても、いいんだ。


   ……つまらないと、思うの。


   あのね、亜美ちゃん。
   途切れずに、ずっと話していればいいってわけじゃないんだよ。


   ……。


   会話がなくても、落ち着く……それが一番いいと、あたしは思っているんだ。


   ……まこちゃん。


   あ、亜美ちゃんは……違うかも、しれないけど。


   ……私も、まこちゃんが隣にいてくれると、落ち着いてお勉強することが出来るの。


   そ、そうなの?


   ……ん。


   そ、そっか……。


   ……でも、退屈だったら言ってね。


   う、うん……退屈、だったらね。


   ……。


   ……えと、なんの話をしてたんだっけ。


   まこちゃんも、美奈子ちゃんには遠慮をしないわよね。


   ……へ。


   喧嘩をしている時に、限らず。


   あ、あぁ……そりゃあ、言われたらちゃんと返すさ。
   じゃないと、そのままになっちゃうと思うから。あたしから言うことは、あまりないよ……多分。


   ……少し、羨ましい。


   え、羨ましい?
   どこが?


   ……言い合えるところ。


   えー……でも、失礼なことは言われたくないよ?
   面白くないし、腹が立つし。仲直りするまで、ぎくしゃくするし。


   そう、まこちゃんと美奈子ちゃんは少し時間が必要なのよね。
   感情の冷却期間と言うのかしら……。


   だから、うさぎちゃんとレイちゃんとは違うんだ。
   あたしとしては、出来るだけ、喧嘩はしたくない。誰であろうともね。


   ……。


   まぁ、前の学校での喧嘩は……その、消しようがないんだけどさ。


   ……まこちゃんが、望んだ喧嘩ではない。


   ……。


   ね……そうでしょう?


   亜美ちゃん……うん、そうなんだ。


   ……なら、いいの。


   やっぱり、好きだな……。


   ……あの、まこちゃん。


   ん、なに?


   ……少し、恥ずかしいわ。


   少し……?


   ……大分。


   んー……。


   まこちゃん……その、あまり。


   好きだよ、亜美ちゃん。


   ……っ。


   ふふ。


   も……もぅ。


   ……赤くなった?


   し、知らない。


   はは。


   ……あまり、揶揄わないで。


   揶揄ってはいないけど。


   ……嘘、揶揄ってる。


   でも、好きだというのは本当のことだよ。


   ……!


   あたしは、亜美ちゃんが好きだ。


   ……もう、やめて。


   うん、もうやめる。
   亜美ちゃんが茹でダコみたいになっちゃうかもしれないから。


   ……。


   え、と……うさぎちゃんとレイちゃんの話に戻そうか。


   ……戻して。


   ん、分かった。


   ……はぁ。


   昔は、さ。


   ……昔?


   うん……ダークキングダムと戦ってた頃。


   ……あぁ。


   慣れないうちは、喧嘩が始まると止めなきゃって思ってたんだ。


   ……私も、そうだったわ。


   だけど、止めなくても勝手に仲直りしてるから別にいいのかって思うようになってさ。
   ふたりと付き合いが長い亜美ちゃんは、特に気にしていなかったし……美奈子ちゃんなんて、最初からあまり気にしてなくてさ。


   美奈子ちゃんは……あまり、気にしてなかったわね。


   本当にね……。


   ……。


   ふたりの喧嘩には慣れたけど、ふたりの速さには今でもついていけなくてさ。


   ……ついていく気、まだあるの?


   いや、もうないかな。
   放っておけば、そのうち終わるし。


   ……デッドボールかもしれないけど、ビーンボールは投げないのよね。


   ビーンボール?


   ええ。


   ……。


   ……ピッチャーがバッターの頭を狙って投げる、いわゆる危険球のことなんだけれど。


   あぁ、危険球。
   亜美ちゃん、よく知ってるねぇ。


   うん……まぁ。


   はぁ、亜美ちゃんは野球も詳しいのかぁ。


   ……あまり詳しくはないわ、たまたまよ。


   たまたまで、ビーンボールなんて知ってる?


   ……ビーンって、頭の俗語でもあるの。


   うん?


   ……辞書に載っていたから、知っているだけ。


   あー、そっか。
   亜美ちゃんの辞書って、中学生が使うやつじゃないもんなぁ。


   ……。


   あたし、高校生になったら亜美ちゃんと同じ辞書を持ってみようかな。
   それで頭が良くなるわけじゃないんだけど、なんとなく、同じものを使ってみたい。


   ……じゃあ、一緒に選ぶ?


   ん、買い替えるの?


   ……そのつもり。


   多分、あたしは選べないと思うから、亜美ちゃんに選んで欲しいな。


   ……好みの出版社は、ない?


   え、えと……ない、かな。


   ……そう、よね。


   ね、一緒に買おうよ。


   ……まこちゃんが、それで良ければ。


   うん、それがいい。


   ……。


   て、受かるつもりで話しているけど、その前に受験勉強を頑張らないとね。


   ……食べ終わったら、数学のお勉強する?


   ん、少し。
   分からなかったところを、聞きたい。


   ……ん、分かった。


   ね、今夜は泊っていくんだろ?


   ……。


   カレーが残ったら明日の朝、食べてくれるって言ったし。
   それってつまり、泊っていくってことで……。


   ……。


   え、あれ……だめ?


   だめじゃ、ない……。


   ……なら、いい?


   ……。


   あ、着替え……?


   ……考えてみれば、何も、用意していない。


   きゅ、急だったからね……。


   ……着ないわけには、いかないし。


   か、貸すよ。


   ……上は、大丈夫だけど。


   上……?


   ……下、は。


   ……。


   ……何も、履かないのは。


   あ。


   ……その、こういう時はどうしたらいいのかしら。


   あ、あぁ……そ、そうだな。
   え、えと……買いに行く?


   ……どこに?


   ……。


   ……やっぱり、帰


   待って。


   ……まこちゃん。


   ん、んー……。


   ……そんなに、考え込まなくても。


   が、我慢、出来ない?


   ……は。


   なんて、出来るわけないよね。
   ばかかな、あたしは。


   ……。


   だ、だからって、あたしのを……いやいや、嫌だろ。
   それは、嫌だろ。ないないないない、絶対にない。


   ……あ、あの。


   ねぇ、亜美ちゃん、今度はうちに置いておくってどうかな。
   そうすれば、こんな時でも……て、問題は今だよ、今の話なんだよ。


   ……。


   ……そうだ、新しいのなら!


   新しいの……?


   ま、まだ、使ってない下着なら……それなら。


   ……。


   あ……。


   ……借りられないわ。


   あ、あぁ……そう、だよね。


   ……。


   その……やっぱり、帰っちゃう?


   ……一晩、くらいなら。


   え。


   ……。


   あ、亜美ちゃん……?


   ……手洗い、させてもらってもいい?


   手洗い……あ。


   ……明日までには、乾くと思うの。


   う、うん……大丈夫だとは、思う。


   ……。


   洗濯機で、一緒に洗うよ……?


   ……。


   う、わ……。


   ……、いい?


   え、な、なに……。


   ……部屋着、借りてもいい?


   ……。


   なるべく……汚さないようには、するから。


   き、気にしないよ。


   ……。


   気にしないから……借りて。


   ……ありが、とう。


   ……。


   ……あの、まこちゃん。


   な、なんだい、亜美ちゃん。


   ……替え、置いておいてもいい?


   い、いいよ、是非、置いておいて。


   ……。


   ……ごめん、ばかみたいで。


   う、ううん……私の方が、ばかみたいだから。


   あ、亜美ちゃんは、ばかじゃないよ。


   ……まこちゃんだって、ばかじゃないわ。


   ……。


   ……。


   ……え、えと。


   ……。


   無事? 亜美ちゃんが、泊ることになったところで。


   ……。


   カレー……なんのカレーか、分かった?


   え、と……鶏肉と……トマトだと思う。


   そう……当たり。


   ……トマトのカレーは初めてだけど、さっぱりしていておいしいわ。


   うん……意外と合うんだ、トマト。


   ……ゆで卵も。


   ね、あ、合うだろ……?


   ……ん、とても。


  12日





   いらっしゃい、亜美ちゃん。


   ん……お邪魔します、まこちゃん。


   適当に上がって、寛いでてよ。
   あたしは、ごはんの支度をしちゃうからさ。


   ……その前に。


   うん?


   ……。


   んー……。


   ……なに?


   いや、やっぱり丁寧だなぁって。


   ……靴?


   や、一連の流れ、かな。


   ……ただ、靴を揃えているだけなのに。


   持っている鞄を一旦床に、静かに置いて、それからしゃがんで真っ直ぐに靴を揃える。
   亜美ちゃんのひとうひとつの仕種が、とても丁寧に見えるんだ。


   ……まこちゃんも、丁寧だと思うわ。


   あたしは、まぁ、わりといい加減だから。


   ……そうかしら。


   ひとりの時は、足で揃える時もあるし。


   足で?


   そう、足で。
   こんな風にね。


   ……。


   荷物を両手に持ってて、手で揃えるのが面倒な時はこうすることが多いんだ。
   とは言え、このやり方だと、きれいには揃えられないんだけどね。ちょっと曲がっちゃう。


   ……足が、長いわ。


   え、なに?


   う、ううん、なんでもない。


   そう?


   ……うん。


   うーん、まぁいっか。


   ……。


   亜美ちゃん、鞄はここでいいかい?


   ん……ありがとう。


   クッション、好きなの使ってね。


   ……ん。


   それじゃ、と。


   ……まこちゃん。


   ただいま、父さん、母さん。
   亜美ちゃんが来てくれたよ、嬉しいね。


   ……。


   ん、亜美ちゃん?


   ……私も、いい?


   え。


   その……ご挨拶を、しても。


   あ、あぁ……うん、いいよ。


   ……まこちゃんのお父さん、お母さん。


   ……。


   まこちゃんには、いつもお世話になっています……。


   ……お世話になってるのは、あたしの方だよ。


   改めまして、水野亜美と言います。


   ……姿勢が、いいな。


   あの、今夜は急にお邪魔してしまって……その、ごめんなさい。


   ……いらっしゃい、亜美ちゃん。


   ……?


   て、父さんと母さんが言ってる。
   にこにこしながらね。


   ……。


   ……ありがとう、手を合わせてくれて。


   うん……。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、亜美ちゃんさ。


   ん……なに。


   良かったら……その。


   ……まこちゃん?


   父さんと、母さんにさ……お線香を、あげてくれないかな。


   ……え。


   と言っても、今日はもう時間が遅いから、あげられないんだけど……。


   ……お線香を、私が?


   うん……亜美ちゃんがあげてくれたら、父さんも母さんもきっと喜ぶと思うんだ。
   あげるひと、今となってはあたししかいないからさ……。


   ……。


   親戚は、一応、いるんだけど……みんな、疎遠になっちゃって。
   お墓も、親戚の家からは遠いからさ……お墓参りの為になんて、わざわざ来てくれないんだよ。
   まぁ、当然と言えば、当然だよね……お金も、かかるし。そんなことに使うんだったら、他に使った方がいいんだろうし。


   ……お仏壇は。


   お仏壇は、ないんだけど……お線香は、出来るだけあげるようにしてるんだ。


   ……。


   小さくてコンパクトなのもあるんだけどさ、あたしではまだ買えないから。


   ……お位牌も、ないの?


   位牌は……。


   あ、ごめんなさい……。


   ううん……位牌は、母さんの実家のお仏壇に。
   あたしが持っていても良かったんだけど、むしろ、持っているべきだったんだけど……。


   ……今も、お母さまの実家に?


   いや、おじいちゃんが亡くなって……そのどさくさで、どこかに行っちゃった。


   ……そんな。


   気付いた時には、遅かったんだ……親戚が、勝手に片付けてしまっていて。


   でも、待って。
   おばあさまは? おばあさまはご健在なのよね?


   おばあちゃんは……施設に、いれられちゃった。
   元々、軽度の痴呆症だったんだけど……おじいちゃんが死んで、進んでしまって。


   ……。


   介護をするひとはいないし、だからってひとりで暮らすことも出来ないってことで……施設に。
   言ってくれれば、あたしがしたのにさ……だけど、おばあちゃんはあたしのことも、忘れちゃったからって。


   たとえ、そうだとしても……まこちゃんには、言うべきじゃない。
   まこちゃんのご両親のお位牌なのだから、勝手に片付けるなんて、そんなことあってはならないわ。


   そんなことは、考えなかったみたいだよ……。


   ……ひどい。


   位牌どころか……なんにも、なかった。祖父母の家も、土地も……何もかも。
   だったら、父さんの方のおじいちゃんに預けた方が良かったんじゃないかなって……思わなくも、なかったよ。
   今でもまだ、家に住んでるみたいだし……会ったことは、ないんだけど。


   ……。


   父さんとおじいちゃん、仲が悪かったみたいでさ……。


   ……親子であっても、仲がいいとは限らないから。


   うん、そうだね……親戚だって、そうだもんね。


   ……。


   ……あたしは言われるがまま、はんこを押したんだ。


   はんこ……相続の、印鑑?


   うん……そうじゃないかな。
   弁護士だかに、言われて……それで。


   ……。


   でね、遺言書って言うんだっけ。それで、ここをもらったんだ。
   あたしが自立する時の為に、祖父母が用意してくれていたみたいで。
   新しくはないけれど、古くもない……管理費も高くないし、丁度いいだろうって。


   ……。


   相続税……だっけ。


   ……払ったの?


   ううん……控除内だから、かからないって。


   そう……良かった。


   説明されたんだけど、結局、控除って何なのかよく分からなくてさ。


   ……良かったら、今度説明するわ。


   うん……お願い、しようかな。


   ……。


   お金も、遺してくれて……それも、控除内だからって。


   ……ちゃんと、計算してくれたんだわ。


   おばあちゃんは、責められたかもしれない……勝手に、そんなことをして。


   ……。


   あとね……相続に使う印鑑も用意してくれてたんだ。
   あれ、普通のはんことは違ってすごく立派なんだよね……。


   ……一生使えるように、良いものを作ってくれたのかもしれない。


   相続って、そんなにあるもの?
   そんなの、なくてもいいんだけど……。


   ……相続の他にも、使う場面はきっとあると思うから。


   ん、そうなんだ……。


   ……私が言うべきことではないけれど、大事にした方がいいと思う。


   うん……大事にするよ。


   ……ごめんなさい。


   どうして謝るんだい……?


   ……差し出がましいことを、言って。


   ううん、いいんだ……亜美ちゃんの言う通りだから。


   ……。


   ごめん……こんな話、つまんないよね。


   ううん……ありがとう、話してくれて。


   ……あのさ。


   うん……?


   ……急にお線香をあげてほしいなんて言って、ごめんね。


   ……


   普通、そんなこと言われないよね……ほんと、ごめん。


   ……あげても、いいの。


   え。


   ……お線香、私なんかがあげても。


   亜美ちゃんさえ良ければ……どうか、あげて欲しい。


   ……。


   亜美ちゃんがあげてくれたら……父さんと母さん、絶対に喜ぶと思うから。


   ……なら、今度。


   ありがとう……亜美ちゃん。


   ……こちらこそ、ありがとう。


   え、どうして……?


   ……お線香を、あげさせてくれて。


   あたしがお礼を言うのは、分かるけど……。


   ……柔らかく、笑っていて。


   ……。


   まこちゃんに、似ていて……とても優しそうなご両親ね。


   うん……優しかったよ、父さんも母さんも。


   ……。


   ……。


   ……あのね。


   ん……?


   ……いつも、思っていたの。


   いつも……?


   ……優しそうな笑顔が、まこちゃんによく似ているって。


   そう、なんだ……ありがとう、そんな風に思ってくれていて。


   だから、だからね……お線香をあげられて、嬉しい。


   亜美ちゃん……。


   ……まだ、あげてもいないのに。


   ううん……あたしも、嬉しい。


   ……。


   ……ね、亜美ちゃん。


   なぁに……まこちゃん。


   ……もう少し、話してもいい?


   もう少し……?


   ……両親の、ことなんだけど。


   私は、構わないけれど……いいの、私が聞いても。


   うん……亜美ちゃんに、聞いて欲しい。


   ……。


   楽しい話では、全然ないから、迷惑かもしれないけど……亜美ちゃんにだけは、知って欲しいって思ったんだ。


   ……迷惑だなんて、きっと、思わない。


   勝手に、ごめんね……。


   ……気にしないで。


   ……。


   聞かせて……まこちゃん。


   うん……あたしの、両親はさ。


   ……うん。


   ……。


   まこちゃん……?


   ……ん、なんでもない。


   話すのが……辛い、ようなら。


   ……。


   今日でなくても……あ。


   ……ううん、今日がいい。


   ……。


   いつでも、話せる……亜美ちゃんが、聞いてくれるって言ったから。


   ……私は、いつでも聞くわ。


   でも。


   ……まこ、ちゃん。


   参ったな……手、ふるえてるだろ。


   ……う、ん。


   ごめん、痛いよね……今、離すから。


   ……汗が。


   ん……亜美ちゃん。


   ……無理だけは、しないで。


   ありがとう……心配、してくれて。


   ……だって。


   はは……かっこ悪いったら、ないよね。


   そんなこと、思わないわ……ちっとも、思わないから。


   ……。


   ゆっくりで、いいから……今日でなくても、いいから。


   ……手、このままでもいい?


   ん……いいわ。


   ……はぁ。


   ……。


   ……あたしの両親は、飛行機事故で死んだんだ。


   飛行機、事故……?


   ……何年か前に、大きな飛行機事故があったんだけど、知ってるかな。


   大きな……あ。


   ……知ってる?


   憶えているわ……だって、ずっとニュースでやっていたから。


   ……亜美ちゃんなら、憶えてると思った。


   あの、飛行機に……まこちゃんの、ご両親が。


   ……うん、乗ってたんだ。


   ……。


   本当はね……あの飛行機には、乗る予定じゃなかったらしい。
   だけど……どういうわけか、乗ることになって。多分、空きがあったからだと思うんだけど。


   ……詳しくは、知らないのね。


   うん……知らない。


   ……。


   もしかしたら、聞いたかもしれないけど……憶えていないんだ。


   ……そう。


   両親が、事故に遭った時……。


   ……。


   あたしは、どこかの家にいた……多分、母さんの方の祖父母の家に預けられていたんだと思う。
   いつも優しかったおじいちゃんの怖い顔は、今でも思い出せる……おばあちゃんの、そんなわけないと言っていた声も。


   ……。


   あの飛行機事故で、生き残ったのは……500人以上乗っていたのに、たったの、数人で。
   あたしの両親は、その数人に含まれなかった……遺体も、損傷が激しくて、幼いあたしは見せてもらえなかったんだ。


   ……。


   父さんと、母さんは……すぐには、見つからなくて。
   おじいちゃんとおばあちゃんが墜落場所の傍まで行った時に……安全姿勢をとった状態で、見つかった。


   ……安全姿勢。


   最後まで、諦めずに……生きようと、生き残ろうとしてたみたいだ。


   ……。


   でも、即死だったって……お医者さんが、判断して。


   ……あぁ。


   けどさ、即死で良かったなって……だって、そうだろ。
   父さんと、母さんは……怖い思いは、したと思うけど……でも、死ぬまでに、苦しまなかったと思うから。


   ……。


   苦しいのは……嫌だろ。
   絶望しかないのは……辛いだろ。


   ……。


   なんであの日、あたしは両親とは別の場所にいたんだろう……もしも、一緒にいたら。


   まこちゃん。


   ……亜美、ちゃん。


   ……。


   ごめんよ……こんな話、やっぱり聞きたくなかったよね。


   ううん……ありがとう、まこちゃん。


   ……。


   知れて、良かった……まこちゃんの、ご両親のこと。


   ……ありがとう、そう言ってくれて。


   ……。


   父さんと、母さんも……天国で、きっと喜んでいると思う。


   ……そうだと、嬉しい。


   そうだよ……父さんと母さんは、そういうひとだったんだ。


   ……。


   ……ふぅ。


   その……大丈夫?


   ん……大丈夫。


   ……。


   ……ごはんに、しようか。


   今夜は……。


   ……お腹は、空くんだよ。


   ……。


   実はさ……あたし、まだ食べてないんだ。


   ……え。


   亜美ちゃんと一緒に食べられたらなって、そう思って。


   ……お腹、空いているでしょう?


   うん、空いてる。


   ……。


   ね……一緒に、食べてくれるだろ?


   うん……一緒に、食べたい。


   あぁ……良かった。


   ……。


   ね……においで、分かった?


   ……におい?


   今日の夕ごはん。


   えと……カレー、かしら。


   そう、カレー。


   ……どうして、カレーにしたの?


   そうだ、今日はカレーにしよう。


   ……。


   そう、思ったからだよ。


   ……テレビのCMみたいね。


   ふふ、そうだろ? でも、ごはんの献立なんてそんなもんだよ。
   食べたいのがすぐに思い付いてくれればいいけど、そういう時ばかりじゃないから。


   ……そんな時は、どうするの。


   そんな時は、あるもので食べちゃうんだ。
   手抜きなんて、しょっちゅうだよ。


   ……手抜き?


   そう、手抜き。
   毎日、手の込んだものなんて作っていられないからさ。


   ……どんなカレーを作ったの?


   んー……それは、後のお楽しみかな。


   ……。


   亜美ちゃん、カレーは嫌いではないよね。


   うん……嫌いではないわ。


   ふふ、良かった。


   ……でも、あんまり辛すぎると食べられないかもしれない。


   甘めの中辛にしたんだけど、どうかな。


   甘めの中辛なら……大丈夫。


   ちょっとだけ、ぴりっとするかもしれないけど。


   ん……それくらいなら、平気よ。


   そっかぁ、良かったぁ。


   ……。


   辛めの中辛か、甘めの中辛か。どっちにしようか迷ったんだ。
   辛すぎても、甘すぎても、きっとだめだよなって。


   ……辛めでも、辛すぎなければ食べられるわ。


   分かった、覚えとく。


   ……覚えて?


   また、カレーの日があるかもしれないからさ。
   いや、絶対にあると思うんだ。


   ……絶対、なの?


   ほら、カレーが食べたい日って一年に何回かはあるだろ?
   そんな日に、亜美ちゃんが来てくれる日が重なったら……?


   ……。


   あれ、ない?


   ……あまり。


   そっか……亜美ちゃんは、ないか。


   ……けど。


   けど?


   下校時にかぐ、カレーのにおいは……悪くないと、思う。


   ……食べたくなる?


   そこまでは、考えないけど……。


   ……レトルトカレーって、食べない?


   あまり、食べないわ……そもそも、ごはんを炊くことがあまりないし。


   あー、そうか。
   ごはんがなかったら、食べたいってあまり思わないか。


   ……パンと一緒に食べてもいいんだけれどね。


   あ、それもおいしいよ。
   あたしもたまにやるんだ。


   ……まこちゃんが?


   なんだったら、それが朝ごはんの時もある。
   ゆうべのカレーと、食パンってね。


   ……手抜き?


   そう、手抜き。
   頑張りすぎると、いくら好きでも、続かないから。


   ……そう、なのね。


   うん、そうなんだ。


   ……。


   ね、ゆで卵もあるよ。


   ……ゆで卵?


   うちはカレーと言ったら、ゆで卵なんだ。


   ……。


   食べたこと、ない?
   おいしいよ、カレーにゆで卵。


   ……おいしい、かも。


   目玉焼きでもいいんだけどさ、あたし、苦手で。
   ベーコンエッグとかハムエッグとかなら、作れるんだけど。


   ……まこちゃんでも、苦手なものがあるのよね。


   そりゃあ、あるさ。


   ……。


   お代わりしてね、いっぱい作ったからさ。


   そ、そんなには……。


   ん?


   ……明日の朝も、食べていい?


   ふふ、いいよ。


   ……ん。


   よし、それじゃあごはんの支度をしよう。


   ねぇ、まこちゃん。


   なんだい?


   その……本当に、大丈夫?


   ……。


   ……ぁ。


   大丈夫だよ……ありがとう。


   まこ、ちゃん……。


   ……ごめん、暑い?


   う、ううん……平気。


   ……汗臭いかも。


   わ、私の方が……。


   ……亜美ちゃんは、いいにおいだよ。


   う……。


   ……心配してくれて、ありがとね。


   う、ん……。


  11日





   ~~♪


   ……。


   風が涼しい……秋だなぁ。


   ……まこちゃん。


   あ。


   ……お待たせ。


   亜美ちゃん、お疲れさま。


   うん……まこちゃんも。


   あたしは、そんなに疲れていないから。


   ……待たせてしまって、ごめんなさい。


   そんなに待っていないよ、気にしないで。
   夜風も真夏のと違って、涼しいしさ。


   ……先生に質問していたの。


   ん、そっか。


   ……来てくれて、ありがとう。


   約束、したからね。


   ……。


   何よりさ、あたしが迎えに来たかったんだ。
   亜美ちゃんと一緒に、歩きたくて。


   ……うん。


   さぁ、帰ろうか。
   鞄、持つよ。


   ありがとう……でも、大丈夫。


   ひとつ、持たせて欲しいな。
   そっちの、辞書が入ってる方。


   ……ううん、本当に。


   あたし、手ぶらだからさ。
   その、なんだ、ちょっと筋トレがしたくて。


   ……きんとれ?


   そう、筋トレ。


   ……筋力、トレーニング?


   敵に勝つ為に、何より、みんなを守る為に。
   あたしは強くなりたいんだ。その為には、鍛えなくちゃ。


   ……私の鞄を持つことで、筋力トレーニングになるの?


   なるよ。


   ……。


   日頃の訓練? 鍛錬? そういうのも大事なんだよ。
   最近のあたしには、そういう意識が抜けていると思うんだ。
   こんなんじゃみんなを、亜美ちゃんを守れない。そんなの、嫌なんだ。


   ……前から、そうだった?


   そうだったよ。


   ……初めて、聞いたけど。


   うん、初めて言ったから。


   ……思いつき?


   え。


   待っている間……ううん、ついさっき思いついた?


   え、いや、ち、違うよ?


   ……本当に?


   ほ、本当だよ。


   ……。


   つ、強くなりたいのは、本当のことだから。
   ほら、最近のあたしって、あんまり役に立ってないだろう?


   ……そんなこと。


   そ、そういうわけだからさ、あたしに持たせて欲しいな。
   ね、いいだろ? お願いだよ、亜美ちゃん。


   ……お願いなんて。


   さぁ、亜美ちゃん。


   ……分かったわ、まこちゃん。


   じゃあ?


   ……お願い、する。


   ん、お願いして。


   ……。


   こっちじゃなくて、そっちがいいな。


   ……こっちの鞄は、重いから。


   重いから、いいんだよ。
   軽かったら、筋トレにならない。


   ……辞書と参考書が、入っているの。


   うん、なかなかいい筋トレになりそうだ。


   ……まこちゃんって、そんなに筋力トレーニングが好きだったかしら。


   筋トレが好きなわけじゃないよ。
   あたしはただ、亜美ちゃんを守れる力が欲しいだけさ。


   ……。


   その為に、出来ることをしたいんだ。
   だから遠慮しないで、あたしに持たせて。


   ……そこまで、言うのなら。


   ん、ありがと。


   ……お礼を言うべきは、私ではないかしら。


   じゃあさ、ふたりで言えばいいじゃないかな。


   ……ふたりで?


   亜美ちゃんはあたしに鞄を持ってもらって。
   あたしは亜美ちゃんに鞄を持たせてもらって。


   ……どう考えても、私だけでいいと思うの。


   あー……うん、確かにそうかもしれない。
   だけど、それではあたしの気が済まない。


   ……まこちゃんの?


   そう、あたしの。


   ……そう。


   さぁ、帰ろう。
   今日は


   まこちゃん。


   うん?


   ありがとう。


   ……。


   迎えに来てくれて……鞄も、持ってくれて。


   うん……どういたしまして、亜美ちゃん。


   ……。


   ねぇ、亜美ちゃん。


   ……なぁに。


   お母さんは……今夜も、夜勤だったよね。


   うん……今夜も、夜勤。
   暫くの間、夜勤が続いているの。


   えと、大変だね。


   うん……色々、大変みたい。


   夜中に仕事をするんだもんな……そりゃ、大変だよね。


   ……母は、夜中に働くのは苦ではないみたいなの。


   え、そうなの?


   うん……寧ろ、生き甲斐を感じているくらいで。


   そ、そうなんだ……すごいなぁ。


   ……ねぇ。


   ん、なに?


   ……母の仕事、まだ話したことはなかったわよね。


   お医者さんなのは、聞いてるよ。
   亜美ちゃんがお医者さんになりたいのは、お母さんの影響だってことも。


   ……母は、救急病棟の医者なの。


   きゅうきゅう、びょうとう?


   ……そう。


   それは、どんなところなの?
   いや、救急って言うくらいなんだから……救急車の対応とか?


   ……それも、勿論あるわ。


   それも……他には、何があるの?


   母が務めている病院は……経過観察や全身管理が必要な重症患者さんを、24時間体制で管理しているの。


   24時間……丸一日?


   ……夜間や休日でも、観察入院から急性期の全身管理まで幅広く対応しているわ。


   休日……あぁ、だから。


   より効果的な治療を施すことを目的としている病棟なの。


   そうなんだ……大変そうだね。
   いや、大変だよな……夜も休みも関係なくて。


   ……。


   亜美ちゃん……?


   ……母は元々、別の病院の救命救急センターに勤めていて。


   救命、救急……センター?


   ……救急医療体制は一次、二次、そして三次と分けられているのだけれど。


   う、うん……。


   手術や入院を伴わない初期治療を行う一次救急、手術や入院を伴う重症患者を受け入れる二次救急……。


   三次は、なにをするんだい……?


   ……一次や二次では対応できない重篤なケースに対応するのが、三次救急。


   じゅうとく……。


   ……中には、心肺停止状態で搬送されてくる患者さんもいるわ。


   え、えぇ……。


   一分一秒を惜しんで的確な救命処置や初療を施すなど、きわめて迅速な対応を迫られる……時には、トリアージを迫られることだってあるの。


   と、とりあーじ……って?


   ……優先順位を決めること。


   優先順位……。


   つまりは……命の、選別。


   せんべつ……それって、命を選ぶってこと?


   ……救急患者さんは、時なんて選んでくれない。


   選ばれなかった患者さんは、どうなるんだい……?


   ……全てを、救うことは出来ない。


   ……。


   そう、判断したら……救える可能性が少しでも高い患者さんを優先して、治療や看護を行う。


   ……全ての命を、助けることは。


   どんなに優秀な医者であっても……不可能なことは、あるわ。


   ……そう、なんだ。


   救急救命センターは……この三次救急を担っているの。


   ……亜美ちゃんのお母さんは、そんな大変な仕事をしていたんだね。


   うん……私が、お腹に宿るまで。


   あ。


   妊娠した母は……異動せざるを得なくなった。
   妊娠した躰では、とてもじゃないけれど、耐えられないから。


   ……うん、かなり厳しいと思う。


   それでも、ぎりぎりまでは働いていたみたいなのだけれどね……。


   ……亜美ちゃん。


   両親は……私を、子供を作るつもりではなかったみたい。


   え……。


   ……それなのに、私が出来てしまって。


   出来てしまって……別に、亜美ちゃんは悪くないだろ?


   ……私が出来なければ、母はキャリアに空白期間を作らずに済んだの。


   全っ然、悪くないだろ?


   ……。


   お母さんが妊娠したのは、亜美ちゃんのご両親が、亜美ちゃんが生まれてくるのを望んだからだろう?
   そうじゃなきゃ、


   ……失敗、したんですって。


   失敗……?


   ……避妊。


   ひ……っ。


   ……避妊リングを入れるつもりだったらしいのだけれど。


   ……。


   そうこうしているうちに、私が出来てしまって……?


   ……。


   ……?
   まこちゃん?


   ……でも、亜美ちゃんのお母さんは、亜美ちゃんを大事にしてると思うんだ。


   ……。


   あ、あたしが、なんにも分かってないあたしが、こんなことを言っちゃだめなんだろうけど……。


   ……大事にされていないとは、思わない。


   そ、そうだろう?


   ……だけど、考えてしまうの。


   な、なにを……。


   ……私が、出来ていなかったらって。


   ……。


   仕事が生き甲斐だと感じている母を見ていると……どうしても、考えてしまうの。


   ……そんなの。


   ごめんなさい、話が逸れてしまったわ。


   ううん……構わないよ、全然。
   話してくれて、ありがとう。


   まこちゃん……。


   ……お母さん、今も選別しているの?


   うん……しているみたい。


   ……そっか。


   ……。


   お母さん……体を、壊さないといいね。


   ……体?


   いくら生き甲斐だって言っても、すごく大変なことには変わりないだろう?
   無理を続けていたら、いつか、体を壊してしまうと思うんだ。


   ……あ。


   お母さんはお医者さんだから、分かっているとは思うんだけど……でも、亜美ちゃんも気にしてあげた方がいいかもしれない。
   な、なんて、あたしが言うことじゃないよね……ごめん、偉そうに。


   ……ううん、まこちゃんの言う通りだわ。


   そ、そうかな……。


   ……母と時間が合うことが、あまりないから。


   ……。


   考えなくても、分かることなのに……私、自分のことばかりで。


   あ、亜美ちゃん……。


   ……私、本当にだめね。


   だ、だめじゃないよ、亜美ちゃんは全然だめじゃない。


   ……けど、思い至らなかった。


   そ、それは……ほら、あたしは家族ではないだろ?


   ……家族?


   家族じゃなくて、他人だから。
   だから、その……なんて言えばいいのかな。


   ……他人だから、見えることがある?


   そう、それだ。


   ……。


   あのね、亜美ちゃん。


   ……う、ん。


   気にしてあげた方がいいとは、言ったけど……まずは、自分だと思うんだ。


   ……自分?


   そう、自分。


   ……どうして?


   亜美ちゃんのお母さんは、亜美ちゃんを大事にしてると思う。


   ……。


   大事にしている亜美ちゃんが、元気じゃなかったり、それこそ病気になったりでもしたら、心配すると思うんだ。


   ……!


   だから、だからさ……え。


   ……。


   あ、あ、あああ亜美ちゃん……???


   ……。


   ご、ごめん、あたし、ま、また何か……あぁ。


   ……わたし。


   えと、えと……ごめん、ごめんよ。


   ……私、母に心配をかけたくなくて。


   う、うん、分かっているよ。
   亜美ちゃんはいつだって……あ。


   ……。


   ……いつだって、我慢をしている。


   ……っ。


   そっ、か……。


   ……我慢、するのは。


   ……。


   当たり前の、ことなの……小さい頃から、ずっと。


   ……。


   母に、心配を……母の邪魔に、なりたくないから。


   ……お母さんが、言ったの。


   え……?


   ……亜美ちゃんに、そう言ったの?


   ……。


   邪魔だって……一度だって、言われたことがあるの?


   ……ない、けど。


   なら、さ。


   ……だけど、思われたくないの。


   思うかな。


   ……分からないわ。


   うん……確かに、分からないね。


   ……もしかしたら、


   分かった。


   ……ぇ。


   亜美ちゃん、今夜はうちにおいでよ。


   ……は。


   おいで、亜美ちゃん。


   どうして……そう、なるの?


   放っておけないから。


   ……。


   ひとりに、させたくないから。


   ……あまりにも、急だわ。


   急だけど、あたしは構わない。
   あたしは、ひとり暮らしだから。


   ……ぁ。


   だから……来てよ、亜美ちゃん。


   ……けど。


   話したいことが、あるんだ。


   ……はなしたい、こと?


   今日のお勉強会のこととか。
   うさぎちゃんとレイちゃんが言い合いを始めて、美奈子ちゃんがまんがを読み始めて。


   ……お勉強、出来たの?


   それを聞いて欲しい。
   なんだったら、教えて欲しい。


   ……。


   数学を。


   ……すうがく?


   やっぱり亜美ちゃんがいなくちゃだめなんだ、あたし。
   レイちゃんに教えてもらったんだけど、いまいち、分からなくて。


   ……。


   お願いだ……亜美ちゃん。


   ……いいの。


   うん?


   ……行っても、いい?


   うん、来て欲しい。


   ……こんな、急に。


   亜美ちゃんなら、あたしはいつだって大歓迎だよ。


   ……。


   来てくれるかい……?


   ……ん、行きたい。


   うん……なら、決まりだ。


   ……。


   ごはん、まだだよね。


   ……あの、お構いなく。


   それは、無理。
   実はね、期待して作っておいたんだ。


   ……きたい?


   亜美ちゃんが、うちに来てくれること。


   ……期待、してたの?


   うん、してた。
   だから、とっても嬉しい。


   ……まこちゃん。


   と言うわけだから、食べてね?


   ……ん。


   ん……それじゃあ行こっか、あたしの部屋に。


   うん……まこちゃん。


  10日





  -Fifteen Years Old(現世1)





   あ、櫓が建ってる。


   ……うん?


   見て、亜美ちゃん。
   櫓が建ってるよ。提灯も。


   櫓……盆踊りの準備?


   うん、櫓と言えば盆踊りだよ。へぇ、こんな時期にやるんだ。
   去年は気付かなかったな。亜美ちゃんは知ってた?


   ううん……知らなかった。


   そっか。


   ……今週末に開催されるのかしら。


   うん、今週の土日だって。
   ここに書いてある。


   ……盆踊りって、混むの?


   んー、どうだろ。
   前の町の盆踊りは、そこそこ集まってたけど。


   ……子供?


   子供だけでなく、気合いが入ってるおじいちゃんとかおばあちゃんとかもいたよ。


   ……そうなのね。


   多分だけど、納涼祭りほどではないとは思うな。
   あくまでも、町内会のお祭りみたいなものだと思うから。


   ……。


   ねぇ、亜美ちゃん。


   ……なに、まこちゃん。


   土日のどっちかでいいからさ、一緒に来てみない?


   ……土日。


   受験生って言ってもさ、息抜きは大事だろう?
   今年の夏休みはお勉強ばっかりだったし……少しくらいは、いいと思うんだ。


   ……。


   て、息抜きはいつもしてるか……はは。


   ……。


   だ、だけどさ、盆踊りは今しかやらないだろ?
   この機会を逃したら、来年になっちゃう。


   ……そうね。


   なんだったら、早めに待ち合わせをしてもいいと思うんだ。
   盆踊りが始まるまで、あたしの部屋で……その、お勉強をしてもいいし。
   ううん、むしろお勉強しよう。楽しみがあれば、より、がんばれると思うから。


   ……ごめんなさい。


   あ……どっちも、塾かい?


   ……10時まで。


   そっか……受験生、だもんな。
   今更、だった……。


   ……せっかく、誘ってくれたのに。


   あ、あぁ、いいんだ。
   気にしないでよ。


   ……ごめんなさい、まこちゃん。


   本当に気にしないで。
   亜美ちゃんにとっては、盆踊りよりも塾の方が大事だろうしさ。


   ……っ。


   みんなを誘ってみようかな、でも、盆踊りなんて来ないかな。
   あたしは、好きなんだけどな……雰囲気とかさ。


   ……。


   あたし、ね。


   ……うん。


   小さい頃は、櫓の上に立ってみたくてさ。


   ……もしかして、太鼓を叩いてみたかったの?


   え、どうして分かったんだい?


   ……そうかなって。


   亜美ちゃんは、なんでも分かっちゃうんだな。


   ……ううん、なんにも分からないわ。


   太鼓を叩いているひとが、あの頃のあたしには格好良く見えてさ。
   まぁ、単純に櫓の上に行ってみたいという気持ちもあったけど。


   ……ひとめぼれ?


   いや、その頃はまだ、そういうんじゃなかったよ。
   男のひとだけなく、女のひとも、子供だっていたしね。


   ……。


   今思えば、女のひとの方が格好良く見えていたかもしれない。
   太鼓を叩く力強さとか、男のひとに負けていなくてさ……すごいなって。


   ……まこちゃんなら、和太鼓だって叩けると思うわ。


   そうかな。
   だけど、いいや。


   ……いいの?


   うん、今はもう。


   ……そう。


   でも、そうだな。
   亜美ちゃんが傍でカンカンを鳴らしてくれるなら、叩いてみたいかも。


   ……カンカン?


   太鼓の傍で鳴らしてるやつ。


   ……。


   あれ、知らない?


   ……摺り鉦なら、分かるけれど。


   すりがね……?


   ……当たり鉦ともいうわ。


   あたりがね……。


   ……チャンチキという名前でも呼ばれていて、独特なリズムを刻むの。


   多分、それだ。


   ……。


   あれ、すりがねって言うのかぁ。
   なんだか、大根おろしが作れそうな名前だな。


   ……それは、おろし金。


   けどさ、大根をするともいうだろ?


   ……言うけど、本来ならば摺り下ろすが正しいと思うの。


   ま、まぁ、今は大根はどうでもいいんだけどさ。


   ……摺るという言葉を嫌って、当たり鉦と呼ぶらしいわ。


   へぇ、そうなんだ。
   亜美ちゃんはやっぱり、なんでも知っているなぁ。


   ……たまたま、知っていただけよ。


   で、どうだい?


   ……どうって。


   亜美ちゃん、すりがねを叩いてみようとは思わない?


   ごめんなさい……思わない。


   う……だよね。


   ……リズミカルになんて、叩けないと思うし。


   そうかなぁ。


   ……。


   亜美ちゃん、音痴ではないし……練習すれば、出来るようになると思うんだ。
   だからさ、あたしと一緒に……。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   なんだい?


   ……私達は今、なんのお話をしているの?


   へ。


   ……確か、まこちゃんが櫓の上に立ってみたかったというお話だったわよね。


   あー……えと。


   ……結局、立つことは出来なかったの?


   うん……出来なかった。
   太鼓を叩くひとしか、櫓の上には上がれないから。


   ……今はもう、いいの?


   うん……今はもう、いいや。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ。


   な、なに?


   ……盆踊り、一緒に行けなくてごめんなさい。


   あ、いや……それはもう、いいんだ。


   ……帰りましょう。


   う、うん……そうだね。


   ……。


   ……亜美ちゃん。


   なに……。


   ……もしかして、怒ってる?


   どうして……?


   ……なんとなく、そうかなって。


   怒ってないわ……。


   ……。


   ……ありがとう、まこちゃん。


   え……?


   ……ここからは、ひとりで。


   いや、塾まで送っていくよ。


   ……用事があるの。


   用事……。


   ……だから、ここまでで。


   そんなこと、言ってなかったじゃないか……。


   ……忘れていたの。


   亜美ちゃんが、忘れる……。


   ……私だって、忘れることぐらいあるわ。


   その用事は……。


   ……母のお使いなの。


   お母さんの……。


   ……もう、行かなきゃ。


   あ。


   ……また、明日ね。


   待って、亜美ちゃん。


   ……。


   だったら、そこまで……。


   ……これから、レイちゃんのお家でお勉強会でしょう?


   そうだけど……。


   ……もう、行った方がいいと思うの。


   まだ、大丈夫だよ……多分、美奈子ちゃんもうさぎちゃんも遅れてくると思うし。


   ……レイちゃんが、待っているわ。


   今日は学校の用事で遅くなるって言ってたような気がするんだ。
   レイちゃんが帰ってなかったら、外で待ってなきゃいけないだろう?


   ……レイちゃんのおじいちゃんか、雄一郎さんに言えば入れてくれると思うから。


   ……。


   どちらかは必ず、いらっしゃるでしょうし……だから、大丈夫よ。


   そうかも、しれないけど……ひとりじゃ。


   ……もう、行かなきゃ。


   ねぇ、そんなに急いで行かなきゃいけないの?


   ……塾の前に、用事を済ませないと。


   ……。


   ……さようなら、まこちゃん。


   うん……またね、亜美ちゃん。


   ん……また、明日ね。


   明日の朝も、いつもの時間で。


   ……ん。


   ……。


   ……じゃあ。


   うん……。


   ……。


   ……レイちゃんちに、行こう。


   ……。


   (今日は、数学でもやろうかな……でも、亜美ちゃんがいないしな。
   分からなかったら、レイちゃんに聞けばいいか……けど、うさぎちゃんとまた、言い合いになるかもしれないし。
   美奈子ちゃんは……いい加減なことわざを言って、レイちゃんに突っ込まれそうだし……亜美ちゃんが、いないから)


   ……。


   ……亜美ちゃん。


   ……。


   ……失敗、した。


   ……。


   (あたしが、何か言ったんだ……でも、何を言ったんだろう。
   亜美ちゃんが、気にすること……今度の土日も、塾……だから、盆踊りには行けない。
   他には、太鼓……すりがね……くそ、分からない。分からないけど……このままでいいわけ、ない)


   ……まこちゃん。


   (そうだ、いいわけない。いいわけないけど……あたしが追いかけたら、きっと、亜美ちゃんは困る。
   亜美ちゃんを、困らせてしまう……そんな気がする)


   ……お勉強、しなきゃ。


   でも……。


   ……私にとって、塾は大事だから。


   ……。


   (まこちゃんと一緒に行く盆踊りよりも……お勉強の方が、大事だから)


   ……あぁ、くそっ。


   (そう……私にはやっぱり、お勉強しかないの。
   どれだけ、みんなと……まこちゃんと、親しくなったとしても)


   いいわけないと思っているのなら、追いかければいい。
   お勉強会なんて行ってる場合じゃないだろ、まこと。


   ……私の思い込みかもしれない。


   そうさ、追いかけるんだ。
   今すぐに、今なら間に合う。


   (ずっと、そうだったじゃない……今更、じゃない。まこちゃんは、優しいから……私を、誘ってくれただけで。
   きっと、みんなのことを誘って……私である必要なんて、どこにもないもの)


   あたしの足なら、きっと間に合う。
   ううん、間に合わせる。


   (私は……塾を、休むわけにはいかないの。
   受験だけじゃない……医者になる為に、今からお勉強をしておかないといけないの)


   ……行け、まこと。


   (だから、盆踊りなんて……)


   亜美ちゃんを、放っておくな。
   ひとりにしたくないと思うなら、行け。


   ……。


   はぁ。


   ……ふたりで、行ってみたかったな。


   よーい……。


   ……まこちゃんと、盆踊り。


   どん……っ。


   ……自分で、塾だと言ったくせに。


   ふ……っ。


   ……ばかみたい、本当に。


   ……。


   ばか……私の、ばか。


   ……んっ。


   ……。


   (亜美ちゃん、走って……ええい、それがなんだっ)


   ……。


   (速く……もっと、速くっ)


   (……自習室で、お勉強しよう。他に、なにも考えられないように)


   (どっちだ……)


   (……数学はいつだって、私の心を慰めてくれる)


   (多分、塾だ……用事なんて、きっとない)


   ……。


   でも……っ。


   ……そんなことはないと、思っているのに。


   (確信なんて、どこにもないけど……っ)


   ……期待、しているなんて。


   (きっと、いつもの道じゃない……っ)


   ……捻くれているにも、ほどがあるわ。


   ……。


   はぁ……。


   ……!


   ……。


   いた、見つけた……っ!


   ……え。


   亜美ちゃん……っ。


   ……どう、して。


   待って、亜美ちゃんっ。


   ……。


   て、あ……っ。


   ……。


   走らないで、亜美ちゃん……っ。


   ……来ないでっ。


   はぁ……っ?


   来ないで、まこちゃん……っ。


   やっぱり、言われた……っ。


   (……やっぱりって)


   でも、ごめん……聞けないっ。


   ……。


   絶対に、追いつく……っ。


   (……どうして)


   雷を、なめるなぁ……っ。


   (……変身、してないじゃないっ)


   うぉ、ぁぁぁ……っ。


   ……。


   追いつ……へぇっ?


   ……。


   ちょ、嘘だろ……っ?


   ……ごめんなさい、まこちゃん。


   亜美ちゃ……っ。


   ……鬼ごっこをしてる暇は、ないの。


   あたしも、ないんだ……っ。


   ……まこちゃんは、お勉強会に


   悪いけど……諦めないからなっ。


   ……は。


   小回りでは、敵わないかもしれないけど……っ。


   ……く。


   ……。


   (……もう、一度)


   残念……っ。


   ……あ。


   当たり、だ……っ。


   ……や、来ないで。


   亜美ちゃん……!


   ……だめ。


   ……。


   あぁ……。


   ……捕まえた。


   ……。


   捕まえたよ……亜美ちゃん。


   まこちゃん……どうして。


   放っておけない……そう、思ったんだ。


   ……。


   それにしても……はぁ、亜美ちゃんは……はぁ、足が、速いな……はぁ……。


   ……まこ、ちゃん。


   ちょっと、待って……息、が……。


   ……はなして。


   それは……できないよ……また……いっちゃうかも、しれないから……。


   ……。


   息、切れてない……とか……。


   ……泳いで、いるから。


   はぁ……なる、ほど……。


   ……まこちゃんだって、これくらいの距離なら。


   ちょっと……むりを、したみたいで……。


   ……無理って。


   へんしん、してないと……きっついね……。


   ……ばか。


   え……なに……?


   ……私なんか、追いかけて来なくても良かったの。


   それは……むりだよ……。


   ……。


   ……ごめんよ、亜美ちゃん。


   なん、で……。


   なにか……言っちゃったんだろ……あたし……亜美ちゃんが、気にするようなこと。


   ……。


   はぁ……うん、落ち着いた。


   ……まこちゃんは、何も。


   ううん、あたしは言った。


   ……。


   ごめん、亜美ちゃん。


   ……わかって、ないのに。


   うん……それも、ごめん。


   ……。


   ……。


   ……用事、あるんだよね。


   ……ないわ。


   ……。


   ない、の……。


   ……そっか。


   ……。


   ……塾まで、送っていくよ。


   まこちゃん……。


   ……どうしても、嫌なら。


   ……。


   ……ん、亜美ちゃん。


   ごめんなさい……。


   ……。


   ごめんなさい……まこちゃん。


   ううん……謝らないでいいよ。


   だけど……。


   ……いいんだよ、亜美ちゃん。


   ……。


   ね……塾が終わる頃に、迎えに行ってもいいかい?


   ……。


   ……だめなら、行かない。


   来て、くれるの……。


   ……うん、亜美ちゃんさえ良ければ。


   ……。


   だめ、かな……。


   ……ううん、だめじゃない。


   ……。


   迎えに、来て……まこちゃん。


  9日





   ……。


   ……くすぐったい。


   お、と……。


   ……おはようございます、まことさん。


   うん……おはよう。


   気分は、如何ですか……?


   ん……悪くは、ないかな。


   然うですか……良かったです。


   亜美さんは……?


   私は……私も、悪くありません。


   然うか……何より、だ。


   外……今日も、雪でしょうか。


   さて、どうだろう……一緒に、確認してみるかい?


   ……まことさんは、駄目ですよ。


   うん、どうしてだい……?


   ……未だ、躰が熱いからです。


   熱いと言っても……病によるものではないし、大丈夫じゃないかな。


   ……。


   ……亜美さん?


   確認するのならば、後でにしましょう……。


   ……今直ぐでなくても、良いのかい?


   はい……冬の挨拶のようなものですから。


   冬の挨拶……ふふ、然うか。


   ん……なに。


   ……すっかり、元気になったなって。


   はい……お蔭様で。


   ……あたしにも、大してうつらなかった。


   微熱を二日程。


   ……。


   出しました。


   あたしの場合は……然う、心身の疲れによるもので。


   然ういう時が、最も、良くないのです。


   まぁ、微熱くらいなら……咳も、出なかったし。


   ……然ういう問題では、ありません。


   三日で、治った……体力も、問題ない。


   そもそも、罹らないのが一番なんです。


   其れは、まぁ、然うだけど。


   ですので……次は、ないです。


   次は、ない……?


   ……ありません。


   ならば……体調を、崩さないようにしないといけないね。


   ……今まで以上に、気を付けようと考えています。


   うん……あたしも、今まで以上に協力するよ。


   ……。


   あたしが出来ることなんて、たかが知れているけれど……取り敢えず、体力に関しては任せて欲しい。
   美味しいごはんと、適度な運動……あとは、ちゃんとした睡眠かな。


   ……夜更かしは、あまり。


   たまになら……今なら、朝寝坊も出来るしさ。


   ……もぅ。


   ん、駄目かい……?


   ……駄目では、ありませんけど。


   ふふ……なら、良いよね。


   ……調子に、乗らないで。


   あう。


   ……最近のまことさん、直ぐに調子に乗るんだから。


   はい……ごめんなさい。


   ……ふふ。


   はは……。


   ……今朝のごはんは、どうしましょうか。


   んー……然うだな、芋粥にでもしようか。


   お芋のお粥……ふふ、良いですね。


   ……。


   ん……まことさん。


   ね……ゆうべの鍋は、どうだった?


   ……。


   亜美さんの希望通り、味噌味にしたけれど……。


   ……美味しいと、ゆうべも言いました。


   聞いたけど……もう一度、聞きたいんだ。


   ……お野菜とお味噌が合っていて、とても美味しかったです。


   野菜と、味噌と……?


   ……躰も、温まって。


   他にも、入っていたと思うけれど……。


   ……冬山茸も、美味しかったですよ。


   そうそう、また貰ったんだっけね……。


   ……。


   ねぇ……他は?


   ……ばか。


   あ。


   ……わざと、多めに入れて呉れて。


   病み上がりだし……精を、付けて欲しくて。


   ……あなたも、然うです。


   あたしよりも、亜美さんだ。


   あまり、残っていなかったのに……自分の分まで、私に呉れようとして。


   ……結局、食べては呉れなかったけれど。


   当たり前です……まことさんだって、精を付けなければいけないのですから。


   あたしは、食べなくても問題ない。
   其処までは、落ちなかったし。


   ……私には、多かったの。


   ん……。


   お野菜も、食べたいのに……あれでは、食べられない。


   ……然うだった。


   お出汁だけでも、私には十分なんですからね……。


   ……だけど、肉も食べて欲しい。


   だから……ちゃんと食べましたよ。


   ……。


   ん……もぅ。


   ……可愛かった。


   ……。


   また、作るよ……。


   ……暫くは、作れません。


   肉は、猪だけじゃないさ……。


   ……。


   春になったら、山鳥を捕まえてくる……然うしたら、鳥鍋にしよう。


   ……鳥なら、猪程ではありませんから。


   其れでも……精は、付く。


   ……。


   猪肉程では、なくとも。


   ……山鳥を、捕まえに行くつもりなら。


   うん……?


   ……犬を、必ず連れて行って下さいね。


   あぁ……うん、勿論。


   ……。


   犬か……若しも子犬が生まれたら、貰って育ててみようかな。


   ……猟犬にするのですか。


   どちらかと言うと、番犬かな……ちゃんと躾けられた犬は、家の者を守って呉れる。


   ……躾けられるのですか?


   うん、まぁ……出来なくも、ないだろう。


   ……私は、出来ませんよ。


   ……。


   飼ったこと……ありませんし。


   ……躾のやり方は、知っていそうだけれど。


   残念ながら……あまり、知りません。


   亜美さん……大夫にも、あまり知らないことがあるのか。


   ……私は、どちらかと言うと猫が好きなんです。


   猫か……猫も、可愛いよな。


   ……子猫も、老いた猫も、猫は可愛いものです。


   大夫は、うさぎちゃんの家の黒猫に懐かれているもんなぁ。


   ……可愛いですよね、あの子。


   あたしは、あまり懐かれていないから。


   然うでしょうか?


   うん……あまり、ね。


   ……。


   大夫が此の村に来て暫く経った頃、大夫の膝の上で当たり前のように丸くなってさ、気持ち良さそうに寝てることが多々あったろう?


   あぁ……ありましたね。
   いつの間にか、懐かれていて。


   今でも、たまに。


   たまに、遊びに来て呉れるんですよね。
   多分、お散歩の途中だと思うのですが。


   正直……すごく、羨ましくて。


   ……。


   ……代わって、欲しくてさ。


   今でも、然う思うのですか……?


   今は……今でも、思う。


   ……ふたりだけの時間になれば、いつだって出来るのに。


   然うなんだけど……。


   ……まことさんは、猫が苦手なわけではありませんよね。


   うん……まぁ、苦手ではないよ。


   ……撫でている時、優しそうな顔をしていましたし。


   え、然うだったかな。


   ……はい、とても優しそうでした。


   自分では、分からないけど……大夫が、然う言うのなら。


   ……羨ましいと。


   え。


   ……優しく、撫でられていて。


   ……。


   ……深くは、聞かないで下さいね。


   聞きたい、けど……。


   ……聞かれても、言いません。


   ……。


   ん……もぅ、まことさん。


   今なら……いつでも、言って呉れれば。


   いつでもなんて……言えません。


   ……ふたりの時、ならば。


   ……。


   ん、大夫……?


   ……幼い頃、追い掛けられたことがありました。


   え、猫にかい……?


   ……いえ、野犬にです。


   野犬……都にも居るのか。


   ……都の外で飼われていたものが、何らかの形で野良になり、群れを作るんです。


   群れ……然うなると、なかなか厄介だ。
   並のひとのこでは、手に負えない。


   ……大事になる前に、戦人が数人で掃討して呉れます。


   まぁ、然うだろうな……。


   ……野犬に限らず、犬に噛まれたことが原因で命を落とす方が未だに絶えることはなく。


   噛まれることもだが、何より、病が怖い。
   あれに罹ると、まず、助からない。


   ……遭遇した時はたまたま、一匹だけだったのですが。


   一匹とは言え、野犬だ……逃げるのは、大変だったろう。
   無事で、本当に良かった……。


   壁際に、追い詰められて……。


   壁際に……そんな状態で、良く。


   ……どうにも出来なくなっていた時に、助けて貰ったんです。


   然うか、助けて呉れたひとが居たのか。


   はい。


   誰が、助けて呉れたんだい?


   未だ年若い戦人で、少年だったと聞いています。
   其の方が、ひとりで助けて呉れたんです。


   少年……其れは、若いな。


   野犬の前に飛び出して……あっと言う間に、斬り伏せて呉れたそうです。


   ……少年の戦人、か。


   気を失ってしまったので、はっきりとは憶えていないのですが……たまたま、お休みの日だったとか。


   ……。


   まことさん……?


   ……まさか、な。


   ……。


   少年だし……流石に。


   ……今思えば、腐れ縁は其処から始まったと。


   うん……?


   ……隊長さんと学姐の馴れ初めです。


   ……。


   ……私のことだと、思いましたか?


   うん……思った。


   ……ふふ、だとしたら思っていた通りです。


   だけど、どうしてそんな話を……。


   ……さぁ、どうしてでしょうね。


   む……。


   ……。


   ……都と、言えば。


   なんでしょう……?


   小麦の粉があればな、と思う。


   ……小麦の?


   大夫が作って呉れた、麦粉の餅が久しぶりに食べたい。


   麦粉のお餅……あぁ。


   あれは……美味しかった。


   ……懐かしいですね。


   思い出したんだ……また。


   ……。


   確か……薄麦餅、と言ったか。


   ……はい、然うです。


   結局、都での名は聞かず仕舞いだったけど。


   ……知りたいですか?


   いや、あれはあたしの中ではもう、薄麦餅だから。


   ……食べて呉れて、嬉しかった。


   ……。


   ん……。


   ……お前、自分の分も己に食わしただろう。


   どうして……然う思うの。


   ……勘だ。


   ……。


   違うなら、良い……。


   ……違わない。


   然うか……ばかだな。


   ……でも、全く食べなかったわけではないから。


   ……。


   あなたと、生き残る為に……。


   ……あれは、本当に美味かった。


   食べるものが、他になかったから……。


   ……其れだけではないさ。


   ……。


   もう一度、お前が作った薄麦餅が食べたい……。


   ……小麦の粉が、手に入れば。


   行商に、頼んでみるか……また。


   ……或いは、春が来たら町に。


   なんにせよ……春が来たらの話だ。


   ……今から話しておいても、良いと思うわ。


   うん……然うだな。


   ……。


   春は、もう直ぐ其処まで来ている。


   ……春が、来たら。


   ふたりの弔いに行こう。


   はい……必ず。


   足元のことを考えると、雪解けを待つことになってしまうけれど……構わないかい?


   ……構いません。


   うん……。


   ……。


   お守り……ふたりに、返すのだろう?


   はい……其のつもりです。


   亜美さんのことだから、忘れないとは思う。


   まことさんも、憶えておいて下さいね。


   ん……憶えておく。


   ……。


   ……亜美さん。


   若しも。


   ……。


   若しも、ふたりが……お守りを、持っていたら。


   ……お守りは、気休めに過ぎない。


   ……。


   気持ちは、分かるが……お守りを持っていても、命を落とす時は落とす。


   ……病には、気休めが必要な場合もあります。


   病は、然うかも知れない……けれど。


   ……。


   ……あの戦でも、持っていた者は居たと思う。


   母から、贈って貰ったものだと……。


   ……。


   ……血染めのお守りを、私に見せて呉れて。


   亜美さんは、其の時……。


   ……気休めであっても、心を慰めて呉れるのならば。


   ……。


   ほんの一時でも、正気で居られるのならば……お守りは、必要なものだと。


   ……然うか、然う考えることも出来るのか。


   ……。


   お守り……ふたりに、返そう。


   ……はい。


   ……。


   ……。


   ……ところで、亜美さん。


   今朝のごはんのことでしょうか。


   え……あぁ、うん。


   ……私が、作ります。


   いや、あたしが作るよ。


   ……


   亜美さんは、休んでいて。


   ……。


   ……躰、重たいだろうから。


   ……。


   ね……。


   ……。


   ……あと、鳥鍋も楽しみにしておいて欲しい。


   もぅ……。


   ……あたしも、楽しみにしているから。


   まことさんのばか……。


  8日





   ……。


   うん……此れならば。


   ……お前、いつも居るな。


   あ、目が覚めましたか?


   ……別に、眠ってはいない。


   鼾を


   かいてない。


   心配だから、定期的に確認しているんです。


   いびきなど、かいていない。


   はい、掻いていませんでした。


   ……確認なぞ、いちいちするな。


   呼吸音が、あまりにも静かなので。


   ……熱は下がった、もう、心配は要らない。


   熱は下がりましたけれど、未だ、動かない方が良いですよ。


   ……毒ももう、残っていない筈だ。


   然うとは、限りません。


   ……いつになったら。


   躰は、重くありませんか。


   ……別に、重くはない。


   然う言うと思っていました。


   ……なら、聞くな。


   聞きたかったんです。


   ……。


   あなたの躰は、常人より……ずっと、回復が早いようです。


   今更……其れが、何だ。


   あなたにとっては、今更なのですね。


   ……分かったのなら、とっとと


   けれど、回復する為には睡眠が必要なことも分かりましたので。
   であるならば、私がすべきことはあなたの傍で、あなたの眠りを見守ることです。


   ……。


   未だ、眠れるということは……つまり、然ういうことなんですよ。


   ……じっとしているせいだ。


   やっぱり、眠っていたのですね。


   ……だとしても、浅い眠りだ。


   浅かろうが、深かろうが、睡眠は睡眠です。


   ……。


   医生のたまごとして、毒を甘く見ることは出来ませんから。


   ……で。


   はい。


   ……何を、しているんだ。


   何だと思いますか。


   ……聞いているのは、己だ。


   食事の支度をしています。


   ……。


   そろそろお腹を空かせて、目を覚ます頃合いではないかと思いまして。
   大丈夫、お薬ではありませんよ。


   ……もう、慣れた。


   もう、慣れて呉れたのですね。


   ……嬉しそうに、言うな。


   なら、食後に


   要らぬ。


   然う言うと思っていましたけれど、ごめんなさい。


   ……眠れば、治る。


   完全に、毒を解す為に。


   ……慣れたからと言って、好き好んで飲みたいとは思わぬ。


   其れは、然うですね。
   苦くて、美味しいものではありませんから。


   ……。


   でも、お願いします。
   未だ、飲んで下さい。


   ……。


   もう少しの、辛抱ですから。


   ……飲めば、良いのだろう。


   はい、ありがとうございます。


   ……礼を言われることではない。


   其れでも、です。


   ……いつ、出来る。


   ん、お薬ですか?
   お薬ならば、


   薬では、ない。


   あぁ、食事の方ですね。


   ……。


   若しかして……。


   ……なんだ。


   匂いに釣られて、呉れましたか?


   ……そもそも、食べるものなど本当にあるのか。


   はい、今はありますよ。


   ……どこから、盗ってきたんだ。


   輜重人から、配給されました。


   ……はいきゅう?


   輜重隊が来て呉れたんです。


   ……どうして、こんなところに。


   持って来て呉れた物資は決して多くはありませんが、其れでも。


   ……こんな、寄せ集めの隊に。


   此れは、私の聞き間違いかも知れません。


   ……構わない。


   あなたが、居るからです。


   ……己が?


   あなたは……あなたの力は、此の戦にとても有用だと。


   ……隊長か。


   実際、あなたは多くの戦果を挙げています。


   ……。


   例えば……たったひとりで、敵の小隊を壊滅させました。
   こんなことは……並のひとのこであれば、有り得ないことです。


   ……雷公の生まれ変わり、か。


   ……。


   別に良いさ……もう、慣れている。


   ……けれど、其れだけでは物資は届かないでしょう。


   ……。


   あなたが言うように……此の隊は、多くの防人で編成されています。
   しかも、此の隊を率いる者は正式な都の戦人であるとは言え、地位のある都人ではありません。


   ……ちい、など。


   何も、役に立たない。
   全くもって、あなたの言う通りです。


   ……。


   貧しい生まれでありながらも、其の実力だけでのし上がり、隊長と言う地位を手に入れたと聞きました。


   ……寄せ集めの小さな隊の、だけどな。


   だとしても……並の努力と苦労では、得られないと思うのです。其れは、今も尚。
   上下関係だけでなく……特に生まれによる差別は、相当なものだと聞いていますから。


   ……くだらぬ。


   ……。


   生まれよりも……実力で決めれば良い。


   本来ならば、然うあるべきです。
   私も、然う思います。


   ……都も都人も、己は嫌いだ。


   ……。


   ……?


   然う、ですよね……。


   ……お前も、都人だったな。


   はい……残念ながら。


   ……物好きな奴だ。


   え……?


   ……都人のくせに、こんな汚い、何処ぞの馬の骨かも分からぬ防人の面倒を見ているなんてな。


   あなたは、汚くなんかないですよ……其れに、馬の骨でもありません。


   ……。


   私のこと……嫌い、ですか?


   ……。


   嫌い、ですよね……。


   ……言わぬ。


   ……。


   見ていても……言わぬものは、言わぬ。


   ……然うですか。


   ……。


   隊長さんは……快活な方ですよね。


   ……知らぬ、どうでも良い。


   ふふ……。


   ……何が、可笑しい。


   いえ……なんとなく。


   ……然し、良く知っているな。


   はい?


   ……なんぞ、思っていることでもあるのか。


   何を、言っているのですか?


   ……隊長のことをどうして知っているんだ、と、言っている。


   師長から、聞かされました。


   ……。


   あなたの傍に置かれる前に。


   ……あまり、良くは思っていないようだな。


   ……。


   あた……己の傍にお前を置いたのも、自分の為だろう。


   ……否定は、しません。


   はぁ……ひとのこと言うのは、つくづく、糞のようだ。


   ……糞ばかりでは、ありませんよ。


   ……。


   なんですか……?


   ……お前でも、そんな言葉を吐くのか。


   あなたの影響です。


   ……む。


   他では、言いません。


   ……言いたければ、言えば良いだろう。


   いいえ……あなたの前でしか、言いません。


   ……お行儀良く、か。


   此方も此方で……色々と、面倒なんです。


   ……。


   ……。


   ……聞かないぞ。


   はい、聞かないで下さい。
   どうせ、くだらぬ話なので。


   ……。


   ところで、良いですよね?


   ……は、何が。


   あなたの前でなら……お行儀が、良くなくても。


   ……別に、お前の好きにすれば良い。


   はい……ならば、好きにします。


   ……。


   然ういうわけですから、此の食べ物は、誰かから盗んできたわけではありません。


   ……。


   忘れていましたか?


   ……お前はそんなこと、出来そうにないもんな。


   そんなこと?


   ……盗み。


   以前の……都で学んでいる頃の私だったら、出来なかったと思います。


   ……今は、出来るとでも言うのか。


   其れをしなければ、あなたを生かすことが出来ないのだったら……私は、しますよ。


   ……。


   若しも然うなれば、私は医生への道を断念します。


   盗むなら……自分の為に、盗め。


   ……では、あなたと自分の為に。


   ……。


   良いでしょう……?


   ……己が何を言ったところで、お前は譲らないだろう。


   はい、譲らないと思います。


   ……厄介な女だ。


   ところで、お腹は空きましたか?


   ……もう、食えるのか。


   はい、食べられますよ。


   ……何を作っていたんだ。


   小麦の粉と野菜を焼いたものです。


   ……其れは、何だ。


   都では……ううん。


   ……は?


   然うですね……麦の粉と野菜を混ぜて、薄く焼いたものですから……薄麦餅、で良いのではないでしょうか。


   ……都では、なんと言うんだ。


   お餅では、駄目ですか?


   ……別に、駄目ではない。


   ならば、


   駄目ではないが、都ではなんと呼んでいるんだ。


   ……どうしても、知りたいですか?


   ……。


   どうしても、どうしても、知りたいですか?


   ……別に。


   なら、言いません。


   ……お前。


   都のものだと知ったら、食べて呉れないかも知れませんし。


   ……もう、言っているだろう。


   名前は、言っていません。


   ……名前は言ってなくても、だ。


   ……。


   はぁ……まぁ、良い。
   己は、食えれば其れで良いんだ。


   ふふ、良かった。


   ……。


   どれくらい、食べますか?


   ……お前、笑うと可愛いな。


   え。


   ……いや、可愛くないか。


   ど、どちらなのですか……。


   ……分からない。


   わ、分からないって。


   ……そもそも、可愛いとはなんだ。


   はい……?


   ……己はどうして、お前を可愛いと。


   そんなこと……私が、分かるわけ。


   ……。


   私は、可愛くはありません。
   あなたは屹度、熱の後遺症で然う言っているだけです。


   ……。


   なんですか……あまり、見ないで下さい。


   ……良く分からないが、あたしはお前を可愛いと思っている。


   未だ、言うのですか……。


   ……なんだ、此れ。


   知りません。


   ……。


   其れより、初めて言いましたね。


   ……何を。


   自分のことを……己、ではなく。


   ……。


   あた


   止めろ。


   ……。


   ……くそ、口が滑った。


   言っては、駄目なのですね。


   ……駄目だ。


   ……。


   聞いても、言わぬぞ。


   ……聞きません。


   ……。


   其れもまた、私があなたの傍に置かれた理由のひとつなのだと。


   ……。


   今まで、どうしていたのですか……?


   ……何をだ。


   例えば、誰かに治療して貰ったことは


   ない。


   そんな……一度も、ですか。


   強いて言えば……隊長だ。


   ……他の誰かに、気付かれることは。


   死んだ。


   ……え?


   戦場に出れば、死ぬこともある。
   だから、死んだ。


   ……あなたが、何かをしたわけでは。


   己は、何も出来ないようにしただけだ。


   何も……命を。


   ……一応、決まりごとというものがある。


   ……。


   其れを、破ろうものならば……隊長が、容赦しない。


   ……成程。


   向こうから、因縁をつけてきた……だから、大人しくした。
   己がしたことは、其れだけだ。


   ……然う、ですか。


   ……。


   あの……もうひとつ、良いですか。


   良くない。


   大事なことです。


   ……お前にとって大事でも、己にとっては然うではない。


   月経が来た時は、どうしているのですか。


   ……。


   其の……躰が、然うならば。


   己には、ない。


   ……ない?


   そんなものは、来ない。


   ……そんな筈は。


   来ていないものは、来ていない。


   ……年齢を、聞いても。


   聞いて、どうする。
   お前なら、知っているだろう。


   知っては、います……けれど。


   ……兎に角、己には来ていない。


   ……。


   ……。


   ……心配では、ありますが。


   要らない。


   ……安心、しました。


   は……?


   ……あんなもの、煩わしいだけなので。


   お前……お前には。


   あります。


   ……。


   ……けれど、堪えなければ。


   ……。


   幸い、此方は女性が多いので……。


   ……辛いのか。


   ……っ。


   ……其れは、辛いのだな。


   防人の皆さんに比べれば


   辛さは、比べるものではない。
   お前が辛いのならば、辛いのだ。


   ……あなた。


   ……。


   ありがとう、ございます……。


   ……無理は、するな。


   はい……。


   ……しなければならない時は、しろ。


   はい……命に係わる時は、然うします。


   ……。


   食事に、しましょうか。


   ……あぁ。


   躰を、


   頼む。


   ……。


   ……でないと、五月蠅いからな。


   ふふ……はい。


   ……。


   では、参りますね。


   ……。


   ……ん。


   ……。


   あなた……?


   ……お前が、傍に居るから。


   迷惑、ですよね……でも、あともう少しなので。


   ……良く、眠れた。


   え……。


   ……。


   あなた……。


   ……腹が、空いた。


   ……。


   ……早く、食いたい。


   はい……直ぐに。


   ……。


   ……体勢は、どうですか。


   いつも通りだ……悪くない。


   ……良かった。


   ……。


   少しずつ、食べましょうね。


   ……言われなくても、分かっているよ。


   では……。


   ……自分で


   口を、開けて下さい。


   ……。


   ……。


   ……。


   ……ゆっくりと、噛んで下さいね。


   ……。


   ……。


   ……。


   ……どうでしょうか。


   ……。


   美味しく、ありませんか……?


   ……美味い。


   然うですか……え。


   美味いから……次を、呉れ。


   ……っ。


   ……どうした。


   いいえ……なんでも、ありません。


   ……。


   では、次を……。


  7日





   ……はぁ。


   ……。


   亜美さん……。


   ……


   ごめん……。


   ……まこと、さん。


   ごめんよ……亜美さん。


   ……うう、ん。


   ……。


   ……私なら、大丈夫。


   でも……。


   ……其れより、も。


   ……。


   ……どうか、私から離れて。


   其れは……。


   今直ぐ……あなたの為にも。


   あたしは……出来れば、離れたくないと思っている。


   ……いけません。


   どうしても……。


   ……どうしても。


   ……。


   ん……まことさん。


   ……構わない。


   だめ……。


   ……離れたくない。


   ……。


   我侭を言って、ごめん……臭いのに、ごめんよ。


   ……臭いは感じない、消す為に躰を丹念に拭いたのだから。


   わ、我侭は……。


   ……まことさん。


   ……。


   ……私こそ、ごめんなさい。


   亜美さんが、謝る必要はない……全部、あたしがしたことだ。


   ……うつして、しまうかも知れません。


   大丈夫……あたしには、うつらないさ。


   いいえ……疫病に、例外は、ありません。


   仮令、うつったとしても……直ぐに、治す。
   亜美さんのお薬があれば、ただ寝ているよりも早く、治る。
   心配は、要らない。


   ……仮令、然うだとしても。


   だから、亜美さん……。


   ……うつれば、あなたは、苦しむことになる。


   だとしても、大したことではない。
   熱も、咳も、ほんの一時だ。


   ……。


   最後には、ちゃんと治る。


   ……若しも。


   然う、あの時のように。


   ……っ。


   其れに、あの時程の熱は出ないだろう……?
   ならば……なんてこと、ないさ。


   ……私は今、医生として、してはならぬことをしています。


   え……。


   医生ならば、許してはいけない……流されては、いけない。
   毅然とした態度で、突き放さなければならない……疫病をうつす可能性があるのなら、尚のこと。


   ……。


   命を守る為、救う為、物事を決して曲げず、強い意志をもって行動する……其れが、医生に課される使命。
   医生が、己の病をうつすなど……あっては、絶対にならない。


   ……亜美さん。


   けれど……けれど、私は。


   ……。


   医生の前に、ひとりのひとのこ……其れも、不完全なひとのこでしかない。
   あの頃の私も、いけないことなのに、あなたに心を寄せて……こんな私に、医生になる資格なんてない。なかった。


   ……そんなに、医生と言う存在は完全なものなのか。


   少なくとも、母は……。


   完全でなければ、いけないのか……だとするのならば、誰も医生になんかなれないのではないか。
   心がある限り……不可能では、ないのか。


   ……医生としての、使命を果たす為に。


   ……。


   心を律し……時には凍らせる……情に流されては、決してならない。
   情に流されて選ぶことが出来ず、救える筈だった命を……むざむざ、と。


   亜美さん。


   ……ぅ。


   使命は、分かる……けれど、其れだけでは心に穴を開けたあたしと……己(おれ)と、大して変わらないのではないか。


   ……。


   いや、あたしとは全然違うな……あたしは、使命の為なんかではなかったから。
   ただ、目の前に在るものを……殺していただけなのだから。


   ……あなたは、殺していただけではないわ。


   どんな理由を、付けても……。


   ……殺さなければ、守れないのであれば。


   ……。


   防人と、医生……何処か、似ているところがあるのかも知れませんね。


   ……あたしは。


   ん……まことさん。


   亜美さんの病がうつるのならば……あたしは、本望だ。


   ……言わないで。


   言わせて欲しい……。


   ……流されて、しまうから。


   良いじゃないか……流されても。


   ……あなたのことが、大切なの。


   ……。


   大切なのに……抗えない。
   何処までも、矛盾している……。


   ……そんな亜美さんのことを、あたしは愛おしく思う。


   ……。


   とても、ひとのこらしくて……誰よりも、愛おしい。


   ……。


   亜美さんが考える医生としては、駄目なのかも知れない……だけどあたしは、駄目だとは思わない。


   ……あなたが、認めて呉れるのなら。


   認めるも、何も……最初から、あたしにとっての医生は亜美さんだけだったよ。
   他は、藪ばかりで……仮令、藪でないとしても、信用など出来なかった。
   ましてや、此の身を委ねるだなんて……出来る筈もない。


   ……。


   亜美さん……大夫だけだ、信用出来たのは。


   ……うつったと、しても。


   治して、呉れるだろう……?


   ……はい、必ず。


   うん……なら、大丈夫だ。


   ……。


   済まない……。


   ……其れは、何に対して。


   躰に、負担を掛けてしまって。


   ……ううん、平気です。


   未だ、体力が戻っていないというのに。


   ……本望、だから。


   ……。


   あなたの熱を、此の身で受け止めることは……私の喜び、だから。


   ……。


   ん……。


   ……本当はね。


   はい……。


   躰の熱が、冷め切るまで……留まるように、言われたんだ。


   其れは……あの子に、ですね。


   ……けどあたしは、亜美さんに早く逢いたくて、亜美さんの声が聞きたくて。


   ……。


   亜美さんの顔を見た時は、心の底から安心して……抱き締めたいとも、思ったけれど。


   ……直ぐには、して呉れませんでした。


   臭いを気にして、抱き締めるどころか……いつまでも中に入ろうとせずに、愚図愚図としてしまった。


   ……全然、入ろうとして呉れないから。


   途中で、亜美さんが袖を掴んでいることに気が付いたんだ。


   ……。


   ……其の手が、寒さで震えていることも。


   寒さは、感じなかった……。


   ……。


   ……ただ、あなたが無事に帰ってきて呉れたことに。


   亜美さん……亜美。


   ……まこと。


   許して呉れて、ありがとう……。


   ……私も、あなたを求めていたから。


   ……。


   ん……ぁ。


   ……もう、一度。


   未だ、足りませんか……。


   ……足りない。


   未だ、冷めそうにはありませんか……。


   ……躰の奥が、未だ熱い。


   熾火のようですね……。


   ……あたしの中には、消すことの出来ない熱がある。


   あ……。


   だけど……冷ますことは、出来る。


   ……。


   亜美さんを、好きになっていなければ……屹度、気付くことはなかった。
   こんなに……狂おしい程に、誰かを求める熱情を。


   ……私以外の。


   其れは、ない……。


   ……。


   ……厄介なのは、戦の熱と結び付いていることだ。


   いくさ……。


   ……全く、違うものに。


   戦の熱は……どうやって。


   ……防人だった頃は、戦をやり切ることで冷ますことが出来た。


   ……。


   だけど、今は……。


   ……私を、抱いて。


   ……。


   其れで……あなたの熱を、一時的でも、冷ますことが出来るのなら。


   ……いつか、壊してしまうかも知れない。


   本望……と、言ったら?


   ……あたしは、壊したくないんだ。


   なら、大丈夫……私は、壊れないわ。


   ……。


   あなたが本気で私を壊そうとしない限り、私は壊れない……壊されない。


   ……。


   私だって、あの戦を生き残ったのだから……。


   ……あぁ。


   忘れていたの……?


   ……いや、忘れるわけがない。


   本当に……?


   ……でも、此処に居るのが当たり前になっているのかも知れない。


   当たり前……。


   ……亜美さんが居ないのは、もう、考えられない。


   ……。


   あたしは、忘れているんだ……そんな当たり前なんて、本当はないこと。


   ……ねぇ。


   なんだい……。


   私の中にも、熱はあるわ……消せない、熱が。


   ……亜美さんの中にも?


   然う……医生の使命なんて、容易く燃やしてしまうような。


   ……。


   あ、ん……。


   ……やわらかい。


   生きて、いるから……。


   ……もっと、確かめたい。


   なんど、でも……。


   ……だけど、壊したくはないから。


   ふふ……。


   ……おかしい、かい?


   あなたは……やっぱり、やさしい。


   ……やさしい、かな。


   やさしいわ……。


   ……あたしは。


   なぁに……?


   ……自分が優しいとは、思ったことがない。


   ……。


   だけど……お前には、然う見えないらしい。


   ええ、然うよ……ちっとも、然う見えないわ。


   う……。


   ……不器用な、あなた。


   其れは……今も?


   然うね……昔とは、違った意味で。


   違った、意味……。


   ……だけど、私もあなたのことは言えないから。


   其れ……前も、聞いた。


   ……だって、言ったもの。


   ……。


   ……ね、咳は治まったでしょう?


   あぁ、良かったよ……だけど。


   ……だけど?


   油断は、駄目だ……無理も。


   ……ふふ。


   おかしいことは、言ってないだろう……?


   ……うん、言っていないわ。


   ……。


   ……ね、ぇ。


   もう、しない方が良いか……?


   ……そんなことは、言わない。


   じゃあ……なんだ?


   ……うれしい。


   うれしい……?


   ……あなたに、求められて。


   ……。


   ……ありがとう、まことさん。


   あたしも……嬉しいよ。


   ……。


   亜美さんに、求められて……。


   ……こんなに嬉しいことが、生きていればあるんですよね。


   うん……あの頃は、知らなかった。


   ……。


   ん……亜美さん?


   ……然うなったら、良いと。


   え、と……。


   ……鈍いひと。


   あー……。


   ……。


   ……わ。


   あと、もう一度くらいなら……。


   ……ゆっくり、する。


   もう、がっつかない……?


   ……。


   ……ねぇ?


   で……出来るだけ。


   ……ふふふ。


   亜美さん……其の。


   ……謝らないで下さいね。


   ……。


   今は、ただ……あなたの思うように、して。  


  6日





   ……。


   まことさん……。


   ……ただいま、亜美さん。


   お帰りなさい……まことさん。


   ……湯は一応、借りてきた。


   然うですか……。


   其れでも未だ、臭いと思う……どうか許して欲しい。


   ……石鹸の香りが、微かにします。


   ……。


   石鹸も、使わせて頂いたのですね。


   使えと、投げつけられたんだ……あたしは、要らないと言ったのに。


   ……。


   石鹸なんて、滅多に使うことがないから……使い慣れていないんだ。
   躰を洗う時は、灰汁を使っているし……。


   以前から、思っていたのですけれど……石鹸の、何が苦手なのですか。


   ……。


   香り、でしょうか……?


   ううん……香りは、悪くないんだ。
   嫌いではないし……寧ろ、好きだと思う。


   ……。


   石鹸は……其の、泡が立つだろう?
   あの泡が……うっかり目に入ったりすると、染みて痛い。


   ふふ……分かります、染みますよね。


   ……。


   えと……其れだけですか?


   ……うん。


   使い慣れてしまえば、問題なさそうですね……。


   ……慣れるまで、使うのが。


   苦手意識があると、難しいですか……?


   ……怖くて、顔が洗えない。


   ……。


   ……。


   ふふふ……。


   えと、可笑しいかな。


   ……まことさん、可愛い。


   う……。


   大丈夫……洗い流すまで、目をきゅっと閉じていれば良いの。
   髪の毛を洗う時も同じよ……あとは然うね、石鹸のついた手で目をこすらないことかしら。


   はい……水野大夫。


   ふふ……ふふ。


   亜美さんも……石鹸を使っているよね。


   はい……医生は、清潔さも求められるので。


   清潔さ……。


   長年の習慣となっているので、変えることがなかなか難しく。


   都では、当たり前なのかい……?


   ……。


   いや……やっぱり、良い。


   ……石鹸で手を洗うと良いと、されていたんです。


   手を……?


   流行り病の感染を防ぐ為に……其れで、安価なものも作られるようになりました。


   では、都人にとっては石鹸は当たり前なんだね……。


   ……其れでも、手に入れることが出来ない人々は居ます。


   ……。


   石鹸よりも……今日、食べるものを。


   ……石鹸は、食べられないもんな。


   だから……まことさんのように灰汁を使ったり、中にはお米の研ぎ汁を使っているひとも居ます。


   米の研ぎ汁……へぇ、其れでも洗えるのか。


   ……米糠でも、良いと言います。


   米糠……?


   ……米糠で床を掃除すると、艶が出てとてもきれいになるとか。


   米糠で、床がきれいになるのかい?


   ……はい。


   ふぅん、然うなんだ……でも、米糠は勿体ないな。
   世話を続ければ、美味しい漬物が漬かるから。


   ……まことさんの糠漬けは、いつだって美味しく漬かっていて。


   好き、かい……?


   ……とても。


   また、出すよ……然うだな、明日の朝ごはんにでも。


   ……楽しみにしています。


   うん……。


   ……。


   然し……使い方は、色々あるものなのだね。


   ……どれも、先人からの知恵です。


   知恵……?


   ……まことさんも、誰かに教わったのではないですか?


   うん……?


   躰を洗うのに……灰汁を、使うこと。


   あたしは……母、かな。
   でも、直接ではなくて……母が使っていたと、父が教えて呉れたんだ。


   でしたら、御両親に教わったのですね。


   うん……然うなるかな。


   伝えることによって、知恵は誰かに、延いては次の世代に引き継がれていくのです……。


   あたしの場合は、灰汁で躰を洗う知恵か……そんなこと、考えたことなかった。


   ……。


   ん……亜美さん。


   ……美奈子ちゃんは、香り付きの石鹸がお気に入りですよね。


   うん、然うみたいだ……だから毎回、行商の者に頼んでいるという話だよ。


   ……今回の石鹸も、良い香りです。


   亜美さんは、石鹸の話も美奈としていたね。
   いや、せがまれていたと言った方が正しいか。


   はい……だけど、いつも気の利いた返事が出来ず。


   でも、亜美さんの話を聞いている時の美奈は楽しそうに見える。
   亜美さんの知恵……いや、この場合は、知識と言うのだろうか。


   ……。


   其れが美奈に伝わっているようで……あたしも、見ていて楽しく思う。
   話している内容は、良く分からないけれど……。


   ……まことさん。


   亜美さん……改めて、此れからも。


   はい……私の知っていることであれば。


   ……ん。


   いつか。


   ……。


   いつか……都に、連れて行ってあげられたら。


   其の時は、あたしも付いて行くよ。


   其れは、勿論……あなたなしでなんて、考えられません。


   然うか……良かった。


   ……。


   ……ところで、此れは何の香りだろう。


   然うですね……恐らくは、花の香りだと思うのですが。


   花……然ういえば、そんなことを言っていたような気がする。
   さて、なんの花と言っていたか……。


   ……若しかして、聞いていなかったのですか。


   いや……さっさと洗い流して、早く帰りたかったから。


   気になるようでしたら……後日、聞いてみましょう。


   ……忘れていなかったら。


   私が、憶えておきましょう……。


   ……。


   ……まことさん、そろそろ中に。


   今になって、借りて良かったと思う。


   ……。


   臭いが、消せなくても……誤魔化すことが、出来れば。
   あぁ……だから、美奈は使えと言ったのか。


   ……私のことは、どうか気になさらないで下さい。


   其れは……無理だよ。


   ……。


   ……今はもう、無理なんだ。


   お顔が。


   ……ん。


   腫れています……。


   ……石を投げつけられて、避け切れなかった。


   後で、冷やしましょう。


   ん……然うする。


   ……痛みは、ありますよね。


   ううん……今は、分からない。


   今は未だ、感じなくても……。


   だから、ちゃんと冷やそうと思うんだ……お願いしても、良いかい?


   はい……任せて下さい。


   ……ん、ありがとう。


   少し、切れていますね……此方も、処置します。


   ……うん、全部亜美さんに任せる。


   ぶつかった場所が、頭や目でなくて良かったです……。


   ……其れは、避けられたんだ。


   ……。


   そうそう、また着物を借りたんだよ……襤褸だからと、言われて。


   ……相変わらず、襤褸には見えませんね。


   全くだ……。


   ……其のお着物は。


   野暮に、なるから……。


   ……分かりました。


   だけど、勿体ないから……何かに使えたらとは、思っている。


   ……何に使えるでしょう。


   雑巾……。


   ……雑巾は、流石にどうかと。


   然うだよなぁ……。


   ……美奈子ちゃんの家に、置かせて貰ったらどうでしょう。


   美奈の家に……だけど。


   返すのでは、ありません……着替えとして、置かせて貰うのです。


   ……。


   どうでしょう……?


   其れは、良い考えだと思う……うん、とても良い考えだ。
   けど、置かせて貰えるだろうか。


   一度、美奈子ちゃんとお話してみましょう。


   亜美さんが?


   はい……あなたの連れ合いとして。


   ……。


   叶わなかったら……ごめんなさい。


   ううん……其れでも、良いよ。


   ……。


   ねぇ、亜美さん……。


   ……はい、まことさん。


   少し、休もうと思う……。


   ……何か、お腹には入れますか。


   いや……未だ、良い。


   ……何か、ご馳走になったのですか。


   ううん……用意されてはいたが、断った。


   ……。


   中には、持ち帰れるものもあったみたいだけど……持って帰って来た方が、良かっただろうか。


   ……いいえ、まことさんが望まないのなら。


   美奈に、言われたんだ……待って呉れている亜美さんに、持って行けと。


   ……。


   仮令、今は食べられなくても……必ず、腹は減る。
   今直ぐ、食べなくても……時が経てば、食べられるようになる。


   ……今から、作り始めても良いのです。


   ……。


   寧ろ、其の方が丁度良いかも知れませんよ……。


   作っている間に、腹が空く……ふふ、然うかも知れない。


   ……喉は、乾いていませんか。


   喉は……少し。


   ……ならば、潤して下さい。


   ……。


   寒くても……脱水症状には、なりますから。


   ……お願いしても、良いかな。


   はい……勿論です。


   ……ありがとう。


   さぁ、中に……。


   ……いや、此処で良い。


   ですが……。


   ……やっぱり、臭うから。


   ……。


   夜が明けるまで、此処で……。


   でしたら……躰を、改めて拭きませんか。


   ……え。


   其の為のお湯を、沸かしてあるんです。


   お茶を淹れる為に……ではなくて?


   ……其れとは、別に。


   ……。


   其れくらいならば、今の私にでも出来ると。


   ……水で、良いのに。


   此の季節にお水では……躰を冷やしてしまって、良くありませんから。


   ……。


   躰を浸す程のお湯は、用意出来ません……ですが、躰を拭くだけのお湯ならば。


   ……実は躰の中が熱いんだ、だから水でも問題ないよ。


   ……。


   ……躰の奥が、未だ、冷めないんだ。


   躰の、奥……。


   ……亜美さんなら、分かるだろう。


   お水の方が、良いですか……。


   ……若しも、躰を拭くのならば。


   分かりました……では、お水の用意を致します。


   ……手間を掛けてしまって、済まない。


   いえ……私が勝手にしたことです。


   ……。


   直ぐに、用意しますので……。


   ……待って、亜美さん。


   ……。


   ……やっぱり、湯を使わせて貰うよ。


   良いのですか……?


   うん……今はただ、臭いを取りたい。


   ……お着替えは、どうしますか。


   着替え……?


   ……必要は、ありませんか。


   いや……着替えたい。


   ……。


   良いかい……用意して貰っても。


   ……もう、出来ています。


   え……?


   ……要らなければ、片付ければ良いだけのことですから。


   用意周到と、言うんだっけね……。


   ……私には、此れぐらいしか出来ません。


   そんなことは、ない……。


   ……まことさん。


   自分の帰りを待っていて呉れるひとが居る……其れだけで、あたしは十分なんだ。


   ……あなたにとっては十分でも、私の気持ちが収まらないのです。


   ……。


   さぁ……躰を拭きましょう。


   ……あぁ。


   ……。


   ん、亜美さん……?


   ……お拭きします。


   え、いや、自分で……。


   ……せめて、お背中だけでも。


   あ、や……。


   ……躰を、診たいのです。


   ……。


   お願いします……まことさん。


   ……その、「みる」は。


   医生として、です……。


   ……分かった、其れならば。


   ……。


   軽い傷くらいは、負ったと思う……。


   ……骨の様子も、診させて頂きます。


   あ、うん……分かった。


   ……あなたは折れていても、こんなものなんでもないと言うから。


   ……。


   まことさん……若しも、ご自分で脱げないようでしたら。


   ……いや、自分で脱ぐ。


   ……。


   美奈の家で湯を使う時も、誰の手も借りなかった……だから。


   ……お借りしても、良かったのに。


   誰かに見られるのも、嫌なんだ……昔から。


   ……昔。


   亜美さん……お前には、何度も見られたが。


   ……何度も、触れてしまいました。


   お前は、遠慮をしないからなぁ……。


   ……怪我をしているひとに、遠慮なんてしないわ。


   ふふ……然うだな。


   ……あなたが、女性だったこと。


   ……。


   誰にも見せたくないと思うのは、当たり前のことです……。


   ……厄介なんだ、知られると。


   ……。


   隊長も、女で良かったよ……。


   ……はい、本当に。


   お前も、女で良かった……。


   ……だから、委ねて呉れたのだと。


   然ういうわけでは、ないが……。


   ……私は、然う思っています。


   む……。


   ……さぁ、まことさん。


   ……。


   ……良いですよね。


   お前は……昔から、然うだ。


   ……今だけ、ですよ。


   然うかな……。


   ……。


   ……はぁ。


   うん……思っていたより、酷くはないようです。


   ……だろう。


   けれど……手当ては、しなければ。


   放っておいても、治るのだけれど……。


   いけません。


   ……はい。


   ……。


   ……。


   ……背中。


   新しい傷は、あるかい……?


   ……いえ。


   然うか……良かった。


   ……。


   ……ねぇ、亜美さん。


   はい……なんでしょう。


   ……無事で、良かった。


   あなたが……守って呉れたから。


   ……今は、あたしひとりではないよ。


   ……。


   亜美さんが……然うして呉れたんだ。


   ……あなたが、ご無事で。


   ……。


   帰ってきて、呉れて……本当に。


   ……あたしは。


   本当に、良かった……。


   ……あたしは、必ず帰ってくる。


   ……。


   亜美さんの……お前の、傍に。


   ……は、い。


   拭いて貰っても、良いだろうか……。


   ……はい、任せて下さい。


   ……。


   ……。


   ……亜美さん。


   痛いですか……。


   ……いや、気持ち良い。


   痛かったら、直ぐに言って下さいね……。


   ……石鹸の香り。


   はい……?


   嫌いではなく……寧ろ、好きだと思うのは。


   ……。


   ……亜美さんの、香りでもあるからなんだ。


   私の……。


   ……美奈のものよりも、亜美さんの方が好きだ。


   まことさん……。


   ……好きなんだ、とても。


   今度……。


   ……ん。


   今度、あなたも……。


  5日





   ……。


   ……まことさん。


   ん……。


   ……ごはんのしたくを、しているのですか。


   うん……そろそろ、作っておこうと思って。


   ……。


   大丈夫……ちゃんと、休めたよ。


   ……美奈子ちゃんの家に行くのは。


   食べて、少し休んでからにしようと思っている……どうかな。


   ……良いと、思います。


   うん……では、然うしよう。


   ……お着物は。


   襤褸だから、返さなくて良いと……。


   ……襤褸には、見えませんね。


   見えないけど……野暮になるからね。


   ……取っておきますか。


   いや……もう、着ない。


   然うですか……分かりました。


   お腹は……未だ、空かないかい?


   ……私は、未だ。


   然うか……まぁ、作っておけば食べられるから。


   ……お味噌汁を、作っているのですか。


   うん……きのこのね。


   きのこ……。


   ゆうべ、美奈の家で分けて貰ったんだ。
   此の時期にしか採れないきのこで、名前を冬山茸と言う。


   冬山茸……其のまま、ですね。


   ふふ、然うなんだ。


   とても分かりやすい名前です。


   大夫は、初めてだったね。


   はい……初めてです。


   冬に採れる、きのこのことは。


   ……書物で。


   ふふ、然うか。


   けれど、冬山茸と言う名は見当たらなかったと思うので……後で、良く見てみようと思います。


   うん、見てみて欲しい。
   若しかしたら、見たことがあるかも知れない。


   ……はい。


   此のきのこは、冬の間の貴重な食べ物のひとつなんだ。
   採りに行っても良いんだけど、ひとりではなかなか骨が折れてさ。


   雪山にひとりで行くのは危ないですから。
   美奈子ちゃんの家の方は、何人かで採りに行くのでしょう?


   あぁ、三人くらいかな。
   此れも、あの親子に食べてもらう為に採ってきたものらしい。


   ……然う、ですか。


   どうやら、子が特に気に入ったらしくてね……ごはんに出すと、とても喜んだそうだよ。


   ……余程、美味しかったのでしょうね。


   あぁ……実際に美味しいんだ、此のきのこは。
   風味が良くて、柔らかい……特に、煮て食べると美味しい。


   ……。


   美奈の家の者は、此のきのこが良く生える場所を知っていてね……毎年、採りに行くんだよ。
   多く採れると、お裾分けをして貰える……あたしは、後回しで良いと言ってあるから、回ってくることは稀だけれど。


   ……まことさんらしいです。


   一度、きのこ採りに付いて行ったことがあるんだ。
   美奈がどうしても付いて行くと言って聞かなくて、お守りのような形でね。
   レイでも良かったのだけれど、雪山のことはあたしの方が良く知っているし、体力もあったから。


   ……美奈子ちゃんは、大丈夫でしたか?


   はしゃいで足を滑らせては、周りをひやひやさせていたよ。うっかり、斜面を滑り落ちそうになった時は肝を冷やしたな。
   そんな調子だったから帰りは疲れ果ててしまって、あたしが背負って家まで連れて行ったんだ。
   あいつ、家に着く頃にはすっかり寝てたっけ……。


   屹度、安心したのでしょう……。


   其れは、どうかな……ただ、疲れただけだと思うけど。


   ……若しかしたら、美奈子ちゃんなりに気を張っていたのかも知れません。


   気を……?


   ……家のことならば、尚更。


   ……。


   其れを引き継ぐのも……美奈子ちゃんでしょうから。


   ……然うか、然ういう考え方も出来るのか。


   きのこを見つけた時の美奈子ちゃんの様子はどうでしたか……?


   んー、どうだったかな……。


   嬉しそうでは、ありませんでしたか……?


   言われてみれば……そこまででは、なかったと思う。
   もっと、喜ぶかと思っていたのに……反応が、どこか薄くて。


   ……。


   思い返せば……こんなものか、と言いたげな顔をしていたような気がする。


   ……其れに、気付いた方は居ましたか。


   どうだろう……一瞬だったから、若しかしたら居ないかも知れない。
   其の後は一応、喜んでいるような素振りはしていたし。


   ……では、美奈子ちゃんの様子に気が付いたのはまことさんだけかも知れないのですね。


   或いは、見たところで、大して気に留めなかったのかも知れない。


   ……若しくは、気にするひとが特に居ない。


   其れは……。


   ……ない、ですよね。


   いや……全くないとは、言い切れない。


   ……。


   あいつは……正妻の腹から生まれたわけではないから、色々あるとは思う。


   ……生んで呉れたお母様は、亡くなられているのですよね。


   あいつが、三つになる前に……と、聞いている。
   あたしは未だ、此の村には居なかったから……。


   ……。


   正妻には、子が居ない……だからこそ、あいつは大事に育てられている。
   正妻もまた、腹を痛めて生んだ子のように慈しんでいると……皆は、然う思っている。


   まことさんは……。


   ……。


   ……いえ、なんでもありません。


   可愛がられているとは、思う……が、何処か、隙間があるようには感じられる。
   其れは元々、家の者に過ぎなかった母親の……あの家での扱われ方が、尾を引いているのかも知れない。


   ……どういう、扱われ方を。


   あたしも、詳しくは知らないんだ……村の者も、仮令知っていたとしても、あの家のことは話さないだろう。


   ……まことさんが、知っていることは。


   ただ、産後の肥立ちが悪くて亡くなったと……。


   ……産後の肥立ち。


   其の躰は、とても、痩せ細っていたらしい……。


   ……病の可能性は。


   ないとは、言えないだろう……。


   ……産褥熱、子宮の不全、或いは、心の。


   其の頃、此の村には医生が居なかった……だから、知りようがなかった。


   ……連れて来ることは。


   其れも、しなかったらしい……兎に角、あいつの母親に関しては、分からないことばかりなんだ。


   ……。


   あぁ、然うか……だから。


   ……まことさん?


   だから、亜美さんを……此の村に。


   ……。


   あいつなりに、考えていたんだな……。


   ……あなたを、利用してまで。


   まぁ、あたしとしては良かったけどね……亜美さんと、こうして連れ合いになれたし。


   ……私も、追い出されなくて良かったと。


   若しも然うなっていたら、あたしは、亜美さんに付いて行ったと思う……。


   ……。


   め、迷惑だろうとは、思いつつ……。


   ……いえ、喜んで受け入れたと思います。


   そ、然うかな……。


   ……口では、断りの言葉をしつつ。


   ……。


   そして……あなたと、連れ合いに。


   ……うん。


   ……。


   ……。


   ……あの子は。


   ん……?


   ……誰も見ていないような時に、酷く、冷めたような顔をするんです。


   ……。


   其れは、一瞬のことで……次の瞬間には、いつものあの子の顔に戻っている。
   だから、注意深く見ていなければ……気が付けないかも、知れません。


   ……あぁ。


   あの子が、あの子で居られる時は……恐らく、うさぎちゃんと一緒の時だけなのでしょうね。


   ……亜美さんは、良く見ている。


   ただの、癖のようなものだと……。


   ……亜美さんは良い医生だと思う。


   ……。


   たまごの頃から……あたしを、見ていて呉れた。
   勿論、あたしだけではなかったけれど……ね。


   ……あなたの傍に居た時は、あなただけでしたよ。


   え……?


   ……見ていたのは。


   ……。


   医生の……たまごとは言え、良くないことです。
   個人的な感情を優先するだなんて……許されることではない。


   あたしとしては……己としては、とても嬉しいが。


   ……そんな素振り、最後まで見せて呉れなかったくせに。


   其れは、見せられない……。


   ……防人だから、ばかりで。


   防人とは、然ういうものだ……。


   ……あなたは特に、其ればかりだったと思うわ。


   なんせ、お前とこうなれるとは、思っていなかったからな……。


   ……いつだって、朴訥としていて。


   今は、違うつもりだ……よ。


   ……ふふ。


   はは……。


   ……あの頃から、あなたは。


   亜美さん……。


   ……私に、優しくして呉れたの。


   突き放すようなことばかり、言っていたと思う。


   其の中に……あなたなりの、優しさを感じていたのよ。


   ……。


   ね……不器用、だったの?


   ……己に、聞くか?


   ふふ……然うよね。


   ……全く、敵わない。


   然う……?


   ……あぁ、然うだ。


   ふふふ……。


   ……お前も、己に優しかった。


   鬱陶しいと、思っていたくせに……。


   ……思っていても、嬉しかったんだよ。


   見せて呉れれば、良かったのに……。


   なんせ……己は不器用、だからな。


   ……。


   お前は……亜美さんは今も、あたしに優しくして呉れる。


   ……大切なひと、だから。


   ……。


   優しくしたいし……優しくされたい。


   ……あたしも、同じだ。


   ……。


   ……美奈のお守りをした、あの日は。


   はい……。


   本当に疲れたよ……体力だけでなく、気力も使った。
   消耗したのが体力だけだったなら、あそこまでは疲れなかったと思う。
   やっぱり、美奈のような子供は雪山に連れて行くものじゃない。


   ……ご無事で、本当に良かったです。


   くたくたになって家に帰ってきても、今みたいに亜美さんは居ないし……。


   ……居たら、少しは違いましたか?


   違うさ……居て呉れるだけでも、全然、違う。


   ……。


   お帰りなさいって言って貰えて……心配、して貰えて……家の中が、温かくて。
   其れだけでも、十分なのに……抱き締めることが出来たら、疲れなんて、何処かに行ってしまうんだ。


   ……ね。


   ん……?


   それは、いつ頃の話なのですか……?


   あぁ……亜美さんが此の村に来た春の、直ぐ前の冬だよ。
   美奈はもう、数え十だからと言ってさ……どうしても見ておきたいと、譲らなかったんだ。
   其れで、あたしに声が掛かった。礼はするから、子供のお守りをして欲しいと。


   其のお礼を……まことさんは、冬山茸しか受け取らなかった。


   ん、どうして分かるんだい?


   あなたのことだから……屹度、然うだと思って。


   ……。


   違いましたか?


   いいや……亜美さんの言う通りだ。
   あたしは、冬山茸を分けて貰えれば、其れだけで十分だった。


   そして、其れは今も変わらない……。


   ……。


   ……。


   ……ね、亜美さん。


   なんでしょう……?


   冬山茸……都には、あったかい?


   いえ、其れらしききのこはありませんでした。
   恐らく、此の時期にしか採れないからでしょう。


   冬山茸の木があれば、生えてくるが……まぁ、何処にでもあるものではないかも知れない。


   雪山に入って採ってくる者は、そうそう居ないでしょうし。


   ましてや、都に運んでくる者も居ないか。


   見合った利益は、出ないかと。


   利益、か……まぁ、出なければやらないよな。


   冬山茸は、お味噌汁の具にするのですか。


   鍋の具にしても、美味しいよ。


   お鍋……。


   其れこそ……猪鍋でも。


   ……。


   大夫のお腹の調子が整ったら、作ろうと思っている……肉は未だ、残っているから。


   ……。


   食べたいと、思ったら……其の、言って呉れれば。


   ……今は、未だ。


   う、うん……今は、流石にね。


   ……。


   良し、味噌汁は此れくらいで良いな。
   次は、粥を作ろう。


   ……ねぇ。


   粥の具は……大根で、良いか。


   ……ねぇ、あなた。


   え。


   ……。


   あ、亜美さん……?


   ……。


   あ、う……。


   ……食べたい。


   な、何を……。


   ……今は未だ、食べられないけれど。


   ぅ……。


   ……食べられるように、なったら。


   なったら……?


   ……。


   亜美、さん……?


   ……作って。


   ……っ。


   ……。


   つ、作るよ……お、美味しいのを。


   ……お味噌が、良いです。


   わ、分かった……。


   ……。


   ……亜美さん。


   ごめんなさい……。


   ……なにが、だい。


   邪魔を、してしまって……。


   ……邪魔なんかでは、ないさ。


   ……。


   ない、から……。


   ……ぁ。


   ……。


   ん……まことさん。


   ……作ったら、沢山、食べて欲しい。


   そんなには……食べられません。


  4日





   ……


   ……。


   ……はぁ。


   まことさん……。


   ……あみ。


   少しでも、お休み出来ているでしょうか……。


   うん、出来ているよ……今も、僅かだとは思うけれど、眠れていたと思う。


   良ければ……もう暫し。


   あぁ……もう暫し、こうしていようと思う。


   ……。


   あたしは……少しの眠りでも、躰を休ませることが出来るんだ。
   昔から、然うだった……どうやら、あたしの躰は生まれつき然う出来ているらしい。


   ……其れでも、無理はしないで下さい。


   ん……もう、しないよ。


   ……もう?


   今は、大夫……亜美さんが、あたしの傍に居て呉れるからね。


   ……。


   あたしはもう、ひとりではない……だから、己(おのれ)を痛めつけるようなことは、したくないんだ。
   亜美さんと、約束もしたし……出来るだけ、亜美さんと共に長く生きていたいと。
   其の為には……自分のことも、大切にしなければならない。


   ……其の気持ちを、どうか忘れないでいて。


   忘れない……もう、忘れなくても良いのだから。


   ……。


   憶えていたくても、底に穴が空いた鍋のように……いや、自分で穴を空けたんだ。
   留まることなく、零れてしまうように……大きくもないが、小さくもない、そんな穴を己の心に。


   ……防人、だったから。


   忘れた方が……出来るだけ、空っぽの方が楽なんだ。
   特に、特定の誰かのことは、憶えておかない方が良い……どうせ、二度と生きては逢えぬのだから。
   無用な希望は、抱かない方が良い……若しかしたら、其れが弱さとなって、殺せなくなるかも知れぬから。


   ……私達は再び、出逢うことが出来ました。


   あぁ、出逢えた……。


   ……あなたを見た時、どこか懐かしいような。


   あたしは、一目で好きになった……大夫の顔を見た瞬間に、惚れてしまった。
   今思えば、記憶から零れ落ちてしまっていたから……然うなったのかも、知れない。


   ……記憶から零れ落ちていなかったら、惚れては呉れませんでしたか。


   違うよ……あたしはあの頃から、大夫のことが、気になっていたんだ。
   だから、然うだな……記憶から零れ落ちていなかったら、夢にまで見た再会に喜んで、改めて惚れ直していたと思う。


   ……夢にまで、見て呉れたと。


   そりゃあ、然うさ……夢でも良いから逢いたいと願うのは、ひとのこの常だろう?


   ……其れは、誰に。


   小生意気な、あいつに。


   ……あの子は、良く知っていますね。


   あぁ、全くだ……。


   ……私も、あなたのことは言えません。


   うん……?


   ……記憶から。


   忘れろと言ったのは、あたしだ……。


   ……本当に忘れてしまうなんて。


   生き残る為に、無用な記憶はない方が良い……いざという時に、重荷になるだけだからな。
   心は、出来るだけ、軽い方が良いんだ……心を縛るものは、戦場では妨げにしかならない。


   ……其れでも、あなたのことだけは。


   あたしが、言ったんだ……だから、其れで良かった。
   亜美さんが、生き残る為に……あたしが、邪魔にならなくて良かった。


   ……邪魔なんて。


   亜美さん……お前が、初めてだったよ。


   ……あなた。


   己(おれ)の……最初で、最後の……特定のひと、だった。


   ……隊長さんは。


   隊長は……どこまで行っても、隊長だ。
   特定の……特別なひと、というわけではない。為り得ない。


   ……憶えているからこそ、力に変えることだって出来るのだと。


   逢いたいと、願う気持ちか……?


   ……綺麗事だと言われれば、其れまでですが。


   綺麗事……確かに、然うだ。
   特定の誰かを想うだけで、生き残ることが出来るならば……出来たのならば。


   ……。


   隊の防人が……あんなに、死ぬことはなかっただろう。


   ……最期に、何を思うか。


   ……。


   せめて……せめて、しあわせな記憶の中で。


   ……しあわせが分からない、そんな者ばかりだったからな。


   ……。


   でも、まぁ……そんな記憶を抱えて死ねた者は、良かったと思うよ。
   或いは、此れで腹を空かせることはない、空腹に耐えることもない……とか、な。


   ……然う、ですね。


   とは言え……そんな者は、極めて稀だ。
   死にたくないと思いながら、死んでいった者がどれ程居たか……あの頃の己には、分かりようもない。


   ……お母さん、と。


   ……。


   言い残して……其のまま、事切れた方も居ました。


   ……然うか。


   ん……あなた。


   ……今は、お前で良い。


   いいえ……今でも、言えません。


   ……相変わらず、強情だな。


   然うですよ……私は、強情なままです。


   そんなお前だから……己は、気になったんだ。
   放っては、おけなかったんだ……。


   ……私は、あなたとお話がしたかった。


   ふ、迷惑な話だ……。


   ……ふふ、本当に。


   ……。


   ……私は、憶えていた以上に、あなたの傍に居たみたいです。


   あぁ……どうやら、然うだったみたいだな。


   ……少しだけ、憶えていて呉れているのですよね。


   ……。


   ……あなた?


   お前が、己の傍に居て呉れたことを……思い出した。


   酷い高熱を出した時、ですね……。


   いや……其の他の時も、だ。


   あ……。


   細かいことは、思い出せないままだが……お前は己の傍に居て呉れた、此の記憶は本当のことだと。


   ……また、忘れてしまいますか。


   いいや、もう忘れない……お前が、己の傍に居て呉れる限り……いや、居なくなっても。


   ……死が、ふたりを分かつまで。


   ……。


   いえ……死ですら、私達を引き離すことは出来ないと。


   ……あぁ、己は死んでも離れるつもりはないよ。


   私も、離れるつもりなんて……もう二度と、ないの。


   ……お前。


   だから……私が、あなたの傍から居なくなることもないわ。


   ん……。


   ……名前を、呼んで。


   お前の、名前……亜美。


   ……私は生まれ変わっても、まことさんの傍に。


   あぁ……あたしも、亜美さんの傍に。


   ……。


   然うなると、良い……。


   ……はい、まことさん。


   ……。


   ……。


   はは……。


   ……何ですか?


   名を教えるのは、死んだ後だと……そんなことを、言ったような記憶が。


   ……ふふ。


   言った、か……?


   ……地の下でなら、考えてやっても良い。


   ……。


   付いて来るつもりならばな……と。


   やっぱり、言っていたか……思い違いでは、なかったな。


   ……生きているうちに、知ることが出来て良かったです。


   亜美さん……。


   ……お前で。


   ん、どうしてだ……?


   ……なんとなく、然う呼ばれたいの。


   名前で呼んで欲しいと、言ったばかりではないか……。


   ……駄目ですか?


   お前が、望むのなら……仕方がない。


   ……だって、久しぶりなんですもの。


   久しぶりだから、なんだ……?


   ……嬉しくて。


   む……良く、分からないな。


   ……ありがとうございます、あなた。


   まぁ、良いが……。


   ……ふふふ。


   其れで……お前は、其れでも良いと、言わなかったか。


   ……。


   向こうに言った後でも……良いと。


   言いましたけれど……でも、生きている間の方が、もっと良いですから。


   ふ……やっぱりお前は、面白いな。


   面白い、ですか……?


   面白い、医生のたまご……いや、女だと。


   莫迦だと、言われた記憶があるわ……。


   其れは……面白いとは、言えなかったからだ。


   莫迦とは、言えたのに……?


   ……然うだよ。


   言って呉れても、良かったのに……。


   言ったら……お前のことだから。


   よりあなたに興味を持って、気に掛けることになっていたかも知れない。


   ……其れは、困る。


   けれど……どう呼ばれようとも、結果は同じだったわ。


   ……ん。


   どうしても、放ってはおけなかったの……。


   ……其処は莫迦だな、お前が助けるべき者は他にも居たのに。


   あなただけだったの……。


   ……。


   ……私が、助けることが出来たひとは。


   そんなことは、ないさ……お前は、良くやっていたと思うよ。


   ……。


   死んでしまうのは、仕方がない……其れが、其の者の運命だったのだから。
   お前はどんな者に対しても、懸命に尽くしていた……其れだけでも、駒のように使われるだけだった防人には、十分だっただろう。


   ……私は、己の無力さを痛い程に思い知りました。


   其れでも、懸命に尽くすことは止めなかった……大したものだよ。


   まこ……あなた。


   あぁ、然う考えてみると、お前は己だけではなかったな……。


   ……いいえ、特別なひとはあなただけでした。


   ……。


   改めて……白いお花を贈って呉れて、ありがとう。


   ……弔いでは、ないぞ。


   ふふ……分かっています。


   ……。


   あなた……?


   ……名前で。


   まことさん……。


   ……。


   ごめんなさい……休んでいるのに。


   いいや……亜美さんと話すことも、心の休息になっているから。


   ……。


   膝を……ほんの少しだけで良い、貸して欲しい。


   ……はい、分かりました。


   済まない……我侭を、言って。


   ううん……此れくらい、我侭でもなんでもないわ。


   ……ありがとう、亜美さん。


   さぁ……。


   ……うん。


   ……。


   はぁ……やっぱり、良いな。


   ……あの頃は、しませんでしたよね。


   と、思うけど……さて、どうだろう。


   ……どれだけのことを、忘れているのでしょうか。


   分からない……でもまた、思い出すことはあるかも知れない。


   ……全ては、難しくても。


   ん……。


   まことさん……何処か、痛む場所はありませんか。


   今は未だ、感じない……若しかしたら、後で出てくるかも知れない。


   ……此の後に、診せて貰っても。


   此の後……?


   ……出来れば。


   其れは、有り難いけど……亜美さんも、休んだ方が。


   ……私は、眠っていましたから。


   ……。


   レイさんが、傍に居て呉れたおかげです……改めて、お礼を言わないと。


   ……美奈の家に行った帰りにでも、寄ろうか。


   良いでしょうか……。


   まぁ……少しくらいなら、レイも聞いて呉れるだろう。


   ……はい。


   ……。


   手の届く範囲で、触っても良いですか……。


   うん……宜しく頼む。


   ……。


   ……ほっぺた?


   手の届く範囲です……。


   はは……確かに。


   ……。


   ……頭は、大丈夫だと思うんだ。


   衝突は、なかったんですよね……。


   うん……止めを刺す以外には。


   ……。


   ……気にしては、いない。


   え……?


   ……だけど、生きたいと思う気持ちは分かる。


   ……。


   本当に、心を入れ替えたいと思っていたのならば……ああなる前に、入れ替えれば良かったんだ。


   ……道を変えることは、難しいのでしょうね。


   難しいが……やろうと強く、心に決めれば。


   ……。


   出来たかも知れない……然うすれば、あの親子を襲って殺めることも……あたしに、殺されることもなかった。


   ……まことさんが、止めを刺さずとも。


   ……。


   其の方の命は、絶えていたでしょう……。


   ……然うだとは、思う。


   屹度、助けには来ない……然う、思うのです。


   あたしも、然う思ったよ……だから、あわれだとも、思った。


   ……あはれ。


   歩む道は、ひとつだけではない……でも、歩けるのはひとつだけだ。


   ……。


   防人崩れ……あたしが歩くかも知れなかった、道。


   ……若しも、まことさんが防人崩れになっていたら。


   亜美さんと、こんな風にはなれなかっただろう……。


   ……他の、ひとと。


   どうだろう……あたしは朴念仁で、人嫌いだから。


   ……。


   野垂れ死ぬ前に……医生のたまごを、思い出したかも知れない。
   出逢えていたら、だけれど……。


   ……出逢えていたら、然うはさせません。


   ん……?


   ……私が、させない。


   ……。


   面白いでしょう……?


   ……本当に、面白いな。


   ……。


   少し、熱い……休んだ方が、良い。


   はい……ですが、もう少しだけ。


   ……。


   ……ねぇ、まことさん。


   なんだい……。


   ……賊は、防人だったのでしょうか。


   さぁ、どうだろう……誰だって、真っ当な道から外れる可能性はあるから。


   ……医生でも。


   然う……医生でも。


   ……。


   ……ひとつ、思い出した。


   あまり、良い思い出ではなさそうですね……。


   あぁ……まさに、其の身を外道に堕とした医生のことだ。


   ……良くある話です。


   良くあるのかい……?


   ……お金を巻き上げる為に。


   ……。


   まことさんが思い出したのは……賊の道を選んだ医生でしょうか。


   ……ろくでもない、藪だったけどね。


   藪……。


   ……藪は藪なりに、尽くせば良いと思うんだけど。


   面白くないと思ってしまったら……そして、其れが積み重なってしまったら。


   ……浚った女達を、食い物にしていたよ。


   ……。


   と言っても、本当に食うわけではなく……。


   ……ろくでもない薬を打って、頭をおかしくさせる。


   ……。


   無駄に、薬の知識があるから……女、いいえ、男すらも玩具にするんです。


   ……性質が、悪いな。


   ええ……本当に。


   ……。


   ……ねぇ。


   ん……あぁ、もう退けた方が。


   ううん……気持ち良い?


   ……。


   気持ち良いですか……?


   うん……とても。


   なら……もう少しだけ。


  3日





   済まない……帰りが、遅くなった。


   ……。


   亜美さ……大夫は、今、眠っているんだな。
   いや、ただ眠っているだけならば、良いんだ……夜になると、咳き込むことがあるから。


   ……。


   連れて戻ることは、出来なかったから……其の場で、弔った。
   時がなかったから、雪を軽く被せるだけになってしまったが……いずれは、降り積もって呉れるだろう。


   ……。


   恐らくは、ひとりではあるまい。あぁ、仲間が居ると考えるのが妥当だろう。
   此の雪の中で、動きは鈍いだろうが……暫くは、厳重に警戒せねばならぬ。奴らは獣と変わらない、いや、獣よりも始末が悪い。
   ん、美奈の家には報告したよ。大夫の薬も渡したから……なんとか持ち堪えて呉れれば良いが。


   ……まこと、さん。


   ついでに、湯も借りた。洗い流したから、臭いと共に穢れは落ちた筈だ。
   此の着物も、借りた。洗って返すと言ったら、もう襤褸だから要らぬと言われたよ。
   襤褸には、見えぬのだが……然う言うのなら、返すのも野暮だろう。


   ……。


   あぁ、血の跡が残されていたから、其れを追って……ひとりは、潰した。仲間が助けに来ないとは、限らないからな。
   傷は浅く大したことがないようだったが、雪に足を取られて体力が尽き、まんまと動けなくなっていたよ。
   念の為、あの親子を殺したのはお前かと問うたら、素直に白状した。傷は、親の必死の抵抗で負ったらしい。
   仲間の数も聞いたが、其れは吐かなかった。曰く、数が数えられないと。


   ……。


   腹が減り、どうしようもなくなっただけだと、命乞いをしてきたが……聞くわけもない。
   傷が治れば、必ず……必ず、恩を仇で返してくる。心を入れ替えるという者程、信用出来ぬものはない。


   ……。


   来なければ、其れで良い……が、若しも、此の村に近付くようなことがあれば。
   あたしは……己は、ひとり残さず、潰す。容赦など、せぬ。


   ……あなた。


   万が一の時は、レイ……まことに済まないが、大夫の傍に居て欲しい。
   近付けさせるつもりは、毛頭ないが……其れでも、誰かに傍に居て欲しい。然うだ、あたしの為だ。
   美奈の家でも良いのだが……大夫は、若しかしたら、聞き入れて呉れないかも知れない。


   ……あぁ。


   強情……?
   あぁ……其処もまた、良いんだよ。


   ……。


   ありがとう、レイ……良かったら、飯でも。ん、然うか……送ってはやれぬが、あ、要らない?
   まぁ、然うだな……くれぐれも、気を付けて帰って呉れ。何かあれば、笛を鳴らして呉れ。


   ……ふえ。


   然うだ、レイ。折角だから、大根の漬物でも持って行かないか。
   朝餉にでも食って呉れ、美味いぞ。粥にも合う。大夫が、好きなんだ。
   なに、今更? まぁ、然う言うなよ。


   ……。


   然うか、ならば直ぐに用意しよう。
   なに、直ぐだ。座って、待っていて呉れ。


   ……わたしが、すぐにうごければ。


   レイは、変わりないか。体調は、崩していないか。
   崩していたら、此処には来ないか。まぁ、然うだな。あたしも、頼まないよ。


   ……ん。


   因みに、飯はちゃんと食っているんだろう?
   腹は減らぬだろうが、二食は食った方が良いぞ。寒さでも、体力は削れるからな。
   あ、要らぬ世話? 然うは言うが、此れは大夫の為でもあるんだよ。


   ……。


   皆が体調を崩さず、元気で過ごしていて呉れたら。
   其の分、大夫の心は穏やかで居られる。心配はするだろうが、誰かが寝込んでいる時よりはずっと良い。
   吹雪いていても、飛び出して行こうとするんだ……命が、縮むようだよ。


   ……。


   薬は、いざとなれば、あたしが届ければ良い……けれど、診ることは大夫にしか出来ない。
   大夫の代わりは居ない……誰にも、大夫の代わりにはなれない……だから、大夫には自分を大切にして欲しいと思っている。


   ……あなたの、かわりも。


   良し、此れで良い。
   さぁ、持っていて呉れ。


   ……いない。


   雪は、今日は、止みそうにない。だけれど、春は確実に近付いてきている。
   はは、全くだ。近付いてくるのは、春だけで良い。


   ……。


   なぁ、レイ……あたしが居ない間、大夫は……書物を、読んでいた?
   具合の方は……ん、然うか。其れならば、良いんだ……良かった。


   ……。


   あたしの帰りを……あぁ、分かっている。
   謝るのなら、大夫に。


   ……まって、いたのに。


   改めてありがとう、レイ。
   あぁ、またな。


   ……。


   なぁ、止みそうにないだろう? 滑って、転ばぶように……余計な世話?
   お前が怪我をしたら、大夫の心配事と仕事が増えるだろう?
   あぁ、然うだ。お前の為でもあるが、大夫とあたしの為でもある。精々、気を付けて欲しい。


   ……。


   ん、其れではな。


   ……まことさん。


   ふぅ……空が、明るくなってきたな。
   雪は、止みそうにないが……雲の向こう側には、お日様が居る。


   ……。


   さて、中に入って少し休もうか。
   眠っても、良いけど……頭が冴えて、眠れそうにない。


   ……。


   お茶でも飲んで……少し、横になろうか。
   眠れなくても、躰は休めなければ……。


   ……。


   ……全く、絶えることがないな。


   まことさん……。


   ……ん。


   かえってきて、くれたのですね……。


   大夫。


   おかえりなさい、まことさん……。


   あぁ、ただいま。


   ……。


   起こしてしまったかい?
   ごめんよ。


   ……まって、いたんです。


   あ。


   あなたの、かえりを……それなのに、わたし。


   大夫……。


   ごめんなさい……おむかえが、できなくて。


   ううん、良いよ……気にしないで欲しい。


   ……ねむるつもりなんて、なかったんです。


   良いんだ……。


   ……。


   躰に負担を掛けて、ぶり返してしまうことの方が事だ……だから、休んでいて呉れて良かったよ。


   ……。


   大夫……帰りが遅くなって、済まない。


   ううん……かえってきて、くれましたから。


   ……大夫。


   ん……まことさん。


   ……布団に、戻ろう。


   せっかく、あなたがかえってきてくれたのに……。


   うん……だから、大夫の傍に居るよ。


   ……。


   然うだ……お茶でも、飲むかい?
   今、淹れようと思っていたんだ……レイが、湯を沸かしておいて呉れたから。


   ……いっしょに、のんでくれますか。


   あぁ……大夫と、一緒に飲みたい。


   ……ん。


   大夫……ちょっと、ごめんよ。


   え……あ。


   ……布団は、直ぐ其処だけれど。


   まこと、さん……。


   ……大夫は、やっぱり軽いね。


   ……。


   ん……大夫。


   ……こんなこと、だめです。


   うん……ごめん。


   ……もしも、うつってしまったら。


   其の時は……大夫の薬湯を飲んで、直ぐに治すよ。


   ……。


   ……。


   ……だめ。


   どうしても……。


   ……くちづけは、まだ。


   ……。


   このむらを、だれが、まもるのですか……。


   ……聞いていたんだね。


   きこえて、いました……。


   ……どこから。


   あなたが、いま、たおれたら。


   ……。


   だから……くちづけは、だめです。


   ……分かった、今は我慢する。


   はい……。


   ……一番守りたいものを守れないなんて、ごめんだ。


   ぁ……。


   ……。


   ……も、ぅ。


   はは……。


   ……ひたいも、だめなのに。


   ……。


   まことさん……。


   ……大夫。


   はい……。


   ……伝えなければ、ならないことがある。


   はい……かくごは、できています。


   ……。


   ……おしえてください、まことさん。


   先ずは……布団に。


   ……。


   ……名残惜しい、けど。


   ずっと、このままでは……おちつきませんから。


   ふふ……然うか、然うだな。


   ……。


   ……。


   ……はぁ。


   大丈夫かい……?


   はい、だいじょうぶです……。


   ……うん。


   どうぞ……まことさん。


   ……。


   ……。


   ……親と子は、あたしが着いた時にはもう、事切れていた。


   ……。


   どちらも、背中から斬られていた……。


   ……せめて、苦しまずに。


   子は……即死だったと、思う。
   背から胸にかけて、貫かれていたから。


   ……。


   親は……背中を斬られても尚、抵抗した形跡が残っていた。子を守る為に、持っていた刃物で……相手の、目を突いた。
   賊のひとりは、子を背中から突いたが為に、次の動作が遅れたのだろう……其処を、突いたんだ。


   ……目。


   其れ以外には、腹を。
   腹の傷は浅かったが……兎に角、死に物狂いだったのだと。


   ……見たのですね。


   ……。


   子を、殺した者を。


   あぁ……雪と傷で、動けなくなっていた。


   ……其の者は。


   あたしが、止めを刺した。


   ……。


   生かしておいても、


   仲間が助けに来る可能性が、ほんの少しでもあるのならば。


   ……潰しておかなければならない。


   命乞いは、しましたか。


   した、けれど、聞かなかった。


   仮令、助けたところで……其の道を選んで生きてきた者は、恩を仇で返すでしょう。
   数え切れぬ程、殺した者ならば尚のこと……で、あるならば、まことさんの取った行動は、村を守る為には必要だったと私は考えます。


   ……大夫が、其の場に居たら。


   私は……私も、然ういった者は助けません。
   私にも、守るべきものがあります……。


   ……。


   薄情かも知れませんが……私には、彼らの運命を背負う責任はないのです。


   ……医生と、雖も。


   医生と雖も……全ては、救えません。
   ただのひとのこでしか、ないのですから。


   ……あぁ、然うだな。


   ……。


   ……合わせて、ふたり潰した。


   ふたり、ですか……。


   ……他にも、居るかも知れない。


   警戒は、厳重に……ですね。


   だから……大夫も、笛を。


   ……肌身離さず、持っています。


   離れる気はないが……万が一のこともある。


   はい……分かっております。


   ……。


   まことさんは。


   ……暫く、得物を傍に置く。


   ……。


   嫌かも知れぬが、どうか、


   嫌では、ありません。


   ……。


   守る為、ですから。


   ……暫く、宜しく頼む。


   はい……心得ました。


   ……。


   ……疲れていると、思います。


   疲れては、いるのだけれど……頭の中が、冴えてしまって。


   眠れずとも、どうか、休んで下さい……傍に、居ますので。


   大夫……うん。


   ……お湯を借りたと、言っていましたね。


   あぁ、美奈の家で。


   ……朝になったら、連れて行って呉れますか。


   うん……約束、したからね。


   ……。


   だけど、熱が


   其の時は、連れて行かないで下さい。


   ん……分かった。


   ……。


   ……お茶を飲んだら、少し休もうと思う。


   ええ……どうか、休んで下さい。


   ……大夫の、傍で。


   私の、傍で……。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、大夫。


   なんでしょう……。


   頬を……いや、手を。


   頬を、撫でて欲しいのですか?


   ……。


   ……違っていたら、ごめんなさい。


   ううん……違わない。


   ……。


   ……撫でて、呉れるかい。


   はい……喜んで。


   ……。


   顔を……もう少しだけ、傍に。


   ……ん。


   ……。


   ……はぁ、気持ちが良い。


   手、冷たいですよね……?


   ……冷たくて、気持ちが良いよ。


   ……。


   温かくても、気持ち良いけれど……今は、冷たい方が良いんだ。
   火照った躰を、冷やして呉れるから……。


   ……役に立つのですね。


   いつも、有り難く思っているよ……。


   ……。


   ……。


   ……ね、まことさん。


   なんだい……大夫。


   あのお守りを……。


   ……。


   ふたりに、お返ししたいと……。


   ……今は。


   春に、なったら。


   ……。


   ……弔いを、したいの。


   大夫……ならば、春になってから。


   ……ありがとう、まことさん。


   ……。


   ……。


   ……手は、合わせてきたんだ。


   然うですか……。


   ……冥福も、短いけれど、祈ってきた。


   屹度、慰められていると……。 


  2日





   ……。


   ……。


   ……他に道があれば、こんなことはしなかった。


   ……。


   助けてさえ呉れれば、必ず心を入れ替える。
   もう二度と、こんなことはしない。


   ……。


   此れからは、真っ当に生きていく。
   約束する。だから、助けて呉れ。


   ……。


   はぁ。


   ……。


   そんなものは、全部、嘘だ。
   本当のことでは、ない。


   ……どう、して。


   お前も、聞いたろう。
   殺したのは、自分だと。


   ……けれど、他に道があれば。


   本当に、然う思うのか。


   ……戦時で、なければ。


   然うだとしても、其れが何だと言うのだ。お前が助けたところで、次はお前を襲う。
   襲って、犯して、そして、殺す。お前をさんざ、踏み躙ってな。


   ……動ける、状態では。


   今は、動けずとも……動けるようになれば、あれは必ず恩を仇で返す。
   お前にではなくても、他の者に……お前に生かされたことによって、他の者が命を奪われる。
   然う、お前が助けたせいで。お前が言う、善良な民が殺される。


   ……若しも。


   見たろう、惨たらしく殺されて転がっていたふたつの屍(かばね)を。
   あれは、此処まで誰かのものを奪って生きてきた……もっと言えば、あれは仕方なく賊になった者ではない。
   其の方が、全うに生きるよりも楽だったからだ。


   自分は、防人だったと……其れが嫌で、こうなったのだと。


   逸れ防人……良くある話だよ。
   然し、くたばり損ないが良く喋ったものだ。
   人殺しなどと……どの口が、言う。


   ……本当に、善人に。


   賊とは、然ういうものなのだ。
   いい加減、理解しろ。


   ……自業、自得だと。


   そんな言葉は、知らない。


   ……このひとにも、かぞくが。


   居たところで、なんだ?
   そんなこと、己(おれ)が知ったことではない。


   ……あなた、が。


   襲ったところを、返り討ちにあったのだろうな。
   けれど、其の前に子を殺した。爺さんは、さぞかし死に物狂いだっただろうさ。
   殺せはしなかったが、痛手を喰らわすことは出来たのだから。


   ……止めを、刺さずとも。


   苦しみのうちに死なせたかったのならば、其れでも良かったよ。
   人殺しと、罵しられながらな。


   ……っ。


   お前。


   ……わたし、は。


   医生のたまごだか、なんだか、知らないが……全ての者を、生かそうと思うな。


   わたしの、しめいは……


   お前の使命の為に、此の爺さんと子のように、惨たらしく殺される者が幾人も出ても良いのか。
   お前は、其の全てを、助けられるのか。出来ないのなら、こういった輩は、助けるな。


   ……。


   そろそろ、動けるか。
   陣に、戻るぞ。


   ……あなたが、わたしのかわりに。


   あ?


   ころして、くれたのですか……。


   何を、言っている。
   己はただ、目の前に居る賊を殺しただけだ。


   あなたの、てを……。


   己の手?


   よごして、しまいました……。


   は、今更だよ。


   ……。


   もう、数え切れない。
   だから、己もいつか……屍のひとつに、なるだろう。


   ……させ、ません。


   は、何を言っている?


   私が……あなたを、死なせない。


   ……。


   必ず……。


   心臓を、一突きにされてもか。


   ……!


   頭を、潰されてもか。
   首を、落とされてもか。


   ……。


   然うなれば、生かすことは不可能だ。
   なんせ、即死なんだからな。


   ……あなたは屹度、然うはならない。


   莫迦か、お前。


   ……莫迦です、私は。


   ……。


   どのみち、今の私ではあのひとを救えはしなかった。


   ……あれはもう、ひとではなかった。


   あなたが、来て呉れなければ……私はあのひとを、死なせていたでしょう。


   死なせるのではない、あれは勝手に死ぬんだ。
   見たろう、あの腹の傷を。流れた、血を。


   ……見ました。


   もう一度、見るか。獣に喰われる前に。
   ほら、未だ其処に転がっているぞ。


   ……。


   お前が何かをしたところで、あれは勝手に死んでいただろう。
   強いて言えば、爺さんが殺した。言わば、子の……いや、孫の仇討ちだ。
   だから、お前が死なせるわけではない。


   ……どうして、止めを刺して呉れたのですか。


   お前が、余計なことをしそうだったからだ。
   万が一、生かすようなことになれば、余計な犠牲を生むことになる。


   ……どうせ、死んでしまうのならば。


   余計な犠牲の中には、お前も入っている。


   ……。


   無駄なこと、余計なことは、するな。
   お前がすべきことは……生きて、帰ることだけだ。


   ……其れは、あなたも。


   己は、良い。


   ……良く、ありません。


   はぁ……そろそろ、戻るぞ。
   お前のような者でも、居なければ、労力が減るからな。


   ……待って、ください。


   待たない。
   立てるなら、早く立て。


   ……。


   まさか……漏らしたか。


   も……。


   我慢し


   も、漏らしてなんかいません……っ。


   ……。


   な、何を、い、言うのですか……。


   ……大丈夫そうだな。


   だ、大丈夫も、何も……わ、私は。


   腰を抜かして、動けないか。


   そ、其れも、違います……っ。


   なら、さっさと立て。
   置いて行っても良いが、どういうわけだが、気が引ける。


   ……。


   ほら。


   ……腰が、抜けているわけではありません。


   其れは、さっき聞いた。
   腰が抜けていなければ、立てるだろう。


   ……。


   どうした、立たないのか。
   お前が立たないと、戻れぬだろう。


   ……私のことは。


   まさか、弔うつもりか。


   ……。


   はぁ……そんなことは、しないで良い。


   ……せめて。


   駄目だ。


   ……此のままになんて。


   可哀想、か。


   ……ふたりが、あまりにも、あはれではありませんか。


   あはれ?


   然うです。


   だとしても、どうしようもない。
   お前の細い腕では、弔えない。


   ……あなたも、居ます。


   は……?


   其れに……土に還すだけが、弔いではありません。


   ……何をするつもりだ。


   お花を。


   ……花?


   供えるお花を


   そんなものは、此処にはない。


   ……ないのなら、手を。


   手を、どうすると言うのだ。


   ……合わせます。


   合わせて、どうする。


   ご冥福を、祈るのです。


   そんな暇はない。
   今、こうしているだけでも


   お願いします。


   ……。


   お願い……私と。


   ……すれば、戻るのか。


   ……。


   戻ると、言え。


   戻ります……あなたと。


   ……。


   だから……だから。


   分かった。
   手を合わせれば、良いのだな。


   出来れば、祈って下さい。


   何を祈れば良い?


   ……ふたりの福を、祈って。


   ふく……。


   向こうでも……しあわせに、なれるように。


   ……しあわせ?


   然うです……。


   ……そんなものが、あるのか。


   あります。


   此の世でも、ないのに。


   ……。


   そんなもの、ありはしない。


   ……今は、然うでも。


   ……。


   生きてさえ、いれば……。


   ……向こうでも、なれるのだろう?


   ……。


   あぁ、己は無理だな……どうせ、地の下で焼かれるんだろうから。


   ……其の時は、私も一緒に行きましょう。


   ……。


   御迷惑でしょうが……。


   ……どうして、然うなる。


   放って、おけないのです。


   ……。


   あなたの、こと。


   ……意味が、分からないな。


   あなたの、名前は。


   何度も言っているが、防人の名なぞ知らなくて良い。


   ……私は、諦めません。


   ……。


   いつか……必ず、教えて貰います。


   ……そんないつかは、来ないさ。


   いいえ……生きてさえ、いれば。


   地の下でなら、考えてやっても良い。


   ……。


   付いて来るつもりならばな。


   ……約束ですよ。


   約まで、結ぶと言うのか。


   然うです……大事なことですから。


   は……つくづく、変わった奴だ。


   ……あなたも、相当です。


   ……。


   私を……助けて呉れたのですから。


   己は、お前を……。


   ……。


   ……そんなことは、どうでも良い。


   聞かせては、呉れないのですね。


   弔うのだろう、さっさと終わらせよう。


   はい……でしたら、手を合わせて下さい。


   ……。


   目を、瞑って欲しいところですが。


   其れは、しない。


   其れでも、構いません。
   祈る心さえ、あれば。


   ……。


   ……どうか、安らかに。


   向こうで、食えれば良い。


   ……。


   飢えることなく。


   ……はい、然うですね。


   此れで、良いか。


   ……十分です。


   ならば、戻ろう。


   ……。


   ……おい。


   あの……少し、良いですか。


   未だ、何かあると言うのか。


   腰は、抜かしていません。


   もう、聞いた。


   でも……足に、力が。


   ……あ?


   其の……入らなくて。


   ……。


   ん。


   ……何処か、痛むのか。


   い、いえ……傷は、負っていないと思います。


   負っていなくとも、捻ったかも知れぬだろう。


   だ、大丈夫です……痛みは、ありませんから。


   ……。


   本当に、力が入らないだけで……立てたところで、歩けるか、どうか。


   其れを早く言え。


   ……う。


   お前は、本当に莫迦だな。
   其れが、一番だろうが。


   ……一番、とは。


   己に言うことだ。
   一番に、言え。


   ……言ったら、どうして呉れるのですか。


   ……。


   もう、言ってしまいましたが……。


   背負うしか、ないだろう。


   ……。


   抱えても良いが……若しもの時は、投げることになるからな。


   ……背負っていても、落とされることになると思いますが。


   お前は、どちらが良い。


   投げられるのなら……落とされた方が、良いです。


   然うか、分かった。
   ならば、乗れ。


   ……。


   はぁ……乗れないか。


   いえ、其れくらいならば。


   ……ならば。


   ……。


   乗れ、早く。


   ……私、重たいかも知れません。


   そんなに細くて、重いわけがない。


   ……。


   さぁ、早く。
   どれだけ時を使うつもりだ。


   ……ん。


   ……。


   えと……どうすれば。


   ……躰を、己の背に乗せろ。


   こう、でしょうか……。


   其れでは、落ちる……腕を、己の首の前に回せ。


   ……。


   言っておくが、締めて呉れるなよ。


   ……締めません。


   ……。


   此れで、良いでしょうか……。


   ……立つぞ。


   あ。


   しがみ付け。


   しがみ……。


   決して、落ちて呉れるなよ。


   は、はい。


   ……直ぐに、大丈夫にはしてやるが。


   え……きゃっ。


   ……きゃっ?


   な、なんでも、ありません。


   ……意外に、あるのな。


   な、何がでしょうか。


   力。


   ……医生の、たまごですから。


   ふぅん……然うか。


   ……此の姿勢ならば、しがみ付かずとも。


   ……。


   ……きゃあっ。


   五月蠅い、耳元ででかい声を出すな。


   だ、だって、急に足を……足に。


   背負うのだから、当たり前だろう。


   ……。


   お前、背負われたことはないのか。


   ……ありませんが、知っています。


   ならば、狼狽えるな。
   意味が分からない。


   ……だって、初めてだから。


   歩くぞ、良いな。


   は、はい……お願い、します。


   ……。


   ……


   揺れるが、我慢しろ。


   だ、大丈夫です……なんでも、ありません。


   ……。


   ……。


   ……血の臭いは、諦めろ。


   問題、ありません……。


   ……ふん。


   ……。


   ……。


   ……意外に。


   うん?


   ……快適、です。


   ……。


   ……。


   ……二度は、ないぞ。


   ないのですか……?


   ……ない。


   然う、ですか……。


   ……。


   ……。


   ……どうしてもと言う時は、してやる。


   ふふ……。


   ……どうして、笑う。


   ごめんなさい……つい。


   ……。


   ありがとうございます……あなた。


   ……は?


   だって、名前を教えて呉れないから……。


   ……お前は、名を知らぬ者を、あなたと呼ぶのか。


   いえ……初めてです。


   ……他にも、あるだろう。


   然うですね……あなた様、でしょうか。


   言ったら、落とすぞ。


   ……言いません。


   ……。


   ……照れて、いるのですか。


   そんなわけ、ない。


   ……ですよね。


   ……。


   ……はぁ。


   少しは、落ち着いたか。


   はい……あなたの、おかげで。


   ……お前で良い。


   嫌です。


   ……己が、良いと。


   あなたが良くても、私が嫌です。


   ……。


   ……絶対に、言いません。


   強情だな……。


   ……医生の、たまごですから。


   然ういうものか……厄介だな。


   ……。


   ……。


   ……ありがとうございます。


   今度は、なんだ……。


   ……私を。


   ……。


   ……人殺しに、しないで呉れて。


  1日





   大夫。


   ……はい、まことさん。


   お茶を淹れようと思うのだけれど、大夫も飲まないかい?


   ありがとうございます……いただきます。


   うん。


   ……。


   あの親子、今日、出立する予定だったね。


   ……然うでしたね。


   朝一で発つと、言っていたが……もう、出たのだろうか。


   どうでしょう……お天気は、どうですか。


   天気は、まぁ、悪くはない。
   見たところ、夕方までは持って呉れるだろう。


   夕方まで、ですか。


   何事もなければ、子を背負っていたとしても、裾野の町には着くと思う。
   美奈の家の者も、付いているようだし……まぁ、大丈夫だろう。


   ……。


   やっぱり、心配かい?


   ……何事もなければ、良いと。


   あぁ、然うだね。


   ……。


   あたしとしてはさ。


   ……はい。


   出立は、もう少し先に延ばしても良かったと思うんだ。
   此方としては、幾らでも居て呉れて良かったのだから。


   ……どうしても、気兼ねをしてしまうのだと思います。


   親父殿は、雪掻きを手伝って呉れていると聞いた。
   ならば、気兼ねなどせずとも。


   ……落ち着かないのでしょうね。


   まぁ、分からないわけではないのだけれども……慣れぬ、土地だし。


   ……何よりも、命が優先です。


   ……。


   ……幾ら、歩ける程の体力が戻ったと雖も。


   雪の山道を行くのは、未だ早いと……然う、何度も言っていたね。


   ……もっと、強く言った方が良かったのでしょうか。


   いや……其れでも、聞き入れなかっただろうと思う。


   ……私が、こんな状態でなければ。


   あたしも、止めたんだ。
   大夫の言葉に従った方が良いと。


   ……命の、代わりはない。


   だからこそ、何よりも優先しなければならない。
   けれど……雪の道を歩いて此処まで来られたのだから、もう、帰れると。


   ……まことさんが、裾野の町まで。


   ……。


   いえ……。


   ……どうぞ、大夫。


   ……。


   熱いから、気を付けて。


   ……ありがとうございます。


   どういたしまして。


   ……。


   ……。


   ……家族が家で待っていると、言っていましたね。


   あぁ……年老いた母がひとり、家で待っていると言っていた。


   ……。


   妻を、早くに亡くして……今は、三人で暮らしていると。
   どうやら、後添えを貰うつもりでは居るらしいが……。


   ……母君を安心させる為に一刻も早く帰りたい、其の気持ちは分かるつもりです。


   知らせを飛ばすことが出来たなら……また、違ったかも知れない。


   ……季節が、冬でなければ。


   村の者は、己の家のこともあって動けないし……動けたとしても、精々、途中までだ。外から来る者も、此の時期はなかなか居ない。
   せめて、雪が降っていなければ……あたしが一走り、知らせに行けたかも知れないが。


   ……でも、詳しい場所は分からないのでしょう?


   其れでも村の場所は大体分かるし、村に着いてしまえば後はどうとでもなる。
   村の者に、親子は無事であると知らせれば良いだけのことだから。


   ……知らぬ者からの言葉だけで、果たして信用して貰えるでしょうか。


   大夫からの短箋があれば、多分、信用して貰えるだろう。
   ひとりくらいは、読める者が居る筈だ。


   ……。


   ん、大夫……?


   ……ごめんなさい。


   どうして?


   ……私が、病に罹っていなかったら。


   ……。


   然うしたら、まことさんは……ん。


   ……雪が降っていたら、あたしでも無理だよ。


   ……。


   山道の途中で、吹雪かれたりなんかしたら……帰ってこられなくなってしまうかも知れない。


   ……まことさん。


   知らぬ村へ行くのに……雪の中、道に迷ったら。
   引き返す道すら、見失ってしまったら……。


   ……。


   だからこそ……あの親子は、本当に運が良かったと思う。
   此の村に来るのは初めてだろうに……大して迷うことなく、辿り着けたのから。


   ……まことさん、だったら。


   うん?


   私が、病に倒れて……貧しいが故に薬を買うことも出来ず、弱っていくばかりだったら。


   あの親と、同じことをする。


   ……。


   大夫を助ける為に、一縷の望みがあるのならば……あたしは、なんだってする。
   然う、なんだって。


   ……。


   ん、熱いかい?


   ……はい、少し。


   然うか……ならば、少し冷ましてから。


   ……昨日。


   ん……?


   ……親御さんと、お話が出来て良かったです。


   うん……向こうも、大夫に直接お礼が言えたと喜んでいたよ。


   ……子の体力も大分戻ったと、嬉しそうに話して呉れました。


   滋養のあるものを食べていたらしい。
   流石は、蓄えのある美奈の家だ。


   ……お金のことを、最後まで気にしていたようでした。


   ……。


   ……?
   まことさん……?


   ……其のこと、なのだけれど。


   どうしたのですか……?


   大夫に……此れを。


   ……まさか。


   いや、金ではないよ。


   ……。


   見せるのが今になって、済まない……。


   ……此れは。


   どうやら、瑪瑙の欠片らしい。


   瑪瑙の……。


   金にもならぬ、くず石らしいが……お守りだと、言っていた。


   お守り……どうして、そんな大切なものが此処に。


   自分達が此の村を出立して、暫くした頃に……大夫に、渡して欲しいと。


   受け取れません。


   大夫なら、然う言うだろうと思っていた。


   だったら、何故。
   何故、此処にあるのですか。


   ……世話になった大夫に、少しでも早く良くなって欲しいからと。


   私は、大丈夫です。
   まことさんも傍に居て呉れますし、薬湯だって飲んでいるんです。


   うん……あたしも、然う言ったんだ。
   だけど……どうしてもと言って、譲っては呉れなかった。


   ……まことさんが、押し切られてしまったのですか。


   ……。


   まことさん……。


   ……愛しいひとを心配に思うのは、誰しも同じだと。


   ……。


   あと、命の恩人に何もお礼が出来ないのは……矢張り、気が引けると。
   そんなことは良い、言葉だけで十分だと言ったんだけれど……どうしても、と。


   ……。


   済まない……大夫。


   ……いえ。


   怒って、いるだろう……?


   ……いいえ、怒っていません。


   では……呆れて、いる?


   ……呆れても、いません。


   ……。


   ご厚意として……有り難く、受け取りましょう。


   大夫……其れはもう、返せないから。


   ……然ういうわけではありません。


   ……。


   ……お気持ちを、無下にすることは出来ませんから。


   済まない……。


   いいえ……もう、気にしないで下さい。


   ……。


   ……おふたりが、無事に。


   ……。


   裾野の町まで……どうか、何事もなく。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、大夫。


   はい……なんでしょう。


   大夫は……何を、読んでいたんだい?


   あぁ……薬の書物を、読み直していました。


   然うか……。


   ……まことさん。


   なんだい……。


   ……お茶が、美味しいです。


   あ、うん……良かった。


   ……。


   ふぅ……。


   ……ねぇ、まことさん。


   ん……?


   ……加齢に、よるものだと。


   ……。


   彼の左足を、私は診ることなく……然う、あなたに言いましたね。


   ……見えたと、大夫は言っていた。


   はい……。


   ……何が、見えたんだい。


   気の流れです。


   ……気の?


   躰の中に、流れているもの……私は、水気と呼んでいるのですが。


   ……すいき。


   まるで、水の流れのように見えるから……。


   ……若しかして、あたしの中の水気も。


   たまに……ですが。


   ……。


   其れは、いつも見えるわけではなく……時々、ふとした瞬間に。


   ……いつ見えるかは、分からないのかい?


   ある程度は……けれど、特定は出来ていません。


   ……例えば、どんな時に。


   例えば、誰かが……死に瀕している時です。


   ……。


   ……まるで、命の残りを見せつけてくるように。


   親は、然うではなかったが……。


   はい……ですから、見えるのは其の時ばかりではないのです。


   ……。


   今回は、子の死が直ぐ傍にあった……其のせいかも知れません。


   ……子の気の流れは。


   もう、少しで……。


   ……。


   ……水気は、何事もなければ、澱むことなく流れています。


   親の左足は……。


   ……彼の左足は、慢性的に流れが滞っているようでした。


   其れは……加齢によるものだと。


   慢性的だと、濁って見えるのです……新しい傷が原因だと、急性的なものだから、濁っては見えない。
   よって、加齢によるものだと判断しました……。


   ……古傷ということは。


   其の可能性は、否定しません……。


   ……どのみち、新しい傷ではないと。


   若しも、お灸治療を施すことが出来ていたら……。


   ……流れは、幾らかでも良くなっていた?


   一時的とは言え……良くなったかも、知れません。


   ……。


   お灸をさせて欲しいと……伝えれば、良かったのでしょうか。


   いや……屹度、遠慮するだろう。


   ……其れでも、尚。


   ……。


   でも、此処で何を言っても……もう。


   ……大夫は、出来る状態ではなかった。


   けれど、今なら……。


   ……今も未だ、完全には治っていない。


   ……。


   夜になると、咳き込むことがある……昼間は、治まっているけれど。


   ……。


   大夫……。


   ……。


   ……ん?


   ……。


   なんだ……外が、騒がしいな。


   ……誰か、来たのでしょうか。


   急患……いや、違う。
   何か、様子がおかしい。


   何か、あったのでしょうか……。


   大夫……少し良いかい。


   はい……私のことは、構わず。


   ……直ぐに戻る。


   お願いします……まことさん。


   ……。


   ……。


   どうした、急患か。


   ……なに、か。


   急患ならば……は。


   ……何か、胸の奥で。


   なんだって……。


   ……。


   どうして、こんな時期に……一体、何処から来た。


   ……そんなわけ、ない。


   分かった……直ぐに、向かおう。
   大夫のことは、宜しく頼む。


   ……。


   ……大夫。


   何が、あったのですか……。


   ……。


   まことさん……。


   ……襲撃を、受けたらしい。


   え……。


   ……親子ともども、賊らしき者に。


   そん、な……。


   あたしは、此れから……其の場所に、向かわければならない。


   ……まこと、さん。


   レイが、来て呉れた……だから、大丈夫だ。


   ……私も、直ぐに。


   駄目だ。


   直ぐに、向かいます……急いで、ふたりのもとに向かわなければ。


   大夫は、此処に居て欲しい。


   そんなこと、出来ません。
   私は、行かなければ。


   駄目だ、大夫。


   未だ……未だ、生きているかも知れないではないですか!


   そんな躰で……雪の山は、無理だ。


   無理では、ありません。
   熱だって、下がっています。咳だって、今なら。


   けれど、外気に触れたら咳が出るかも知れない。


   口を覆って


   体力だって、未だ戻っていない。


   だとしても、行かなければ。
   私は、医生として


   絶対に、駄目だっ!


   ……っ。


   大きな声を出して、済まない……だけど。


   でも、だって……だって。


   ……実際、直ぐには立ち上がれなかったろう。


   ……。


   足元だって……少し、ふらついている。


   ……どうして、こんな時に。


   いつもの大夫だったら……直ぐに立ち上がって、支度を始めていた筈だ。


   ……私は。


   状況が状況なだけに……背負って、連れて行くことも出来ない。


   ……あしで、まとい。


   若しも、ふたりが……どちらかでも、生きていたら。


   ……。


   あたしが、必ず……連れて、帰ってくる。


   私が、居れば……其の場で。


   応急処置くらいならば……あたしでも、出来るよ。


   いいえ、私なら……。


   ……頼む、大夫。


   ぁ……。


   ……聞き分けて、欲しい。


   手遅れだと、言いたいのですか……。


   ……。


   然う、なのですね……。


   ……美奈の家の使いは、ふたり。


   ……。


   そのうちひとりは、やられた……どうやら、刺し違えたらしい。


   美奈子ちゃん……の。


   戻ってきたひとりは……傷を、負っている。
   傷の状態は、分からない……恐らく、軽いものではないだろう。


   ならば、私は……。


   ……。


   其の、方を……。


   !
   大夫!


   ……どう、して。


   やっぱり、無理だ。


   どうして、こんな時に……私は。


   ……。


   また……また、何も出来ない。


   そんなことはない……だから。


   私……わたし……。


   落ち着いて欲しい、大夫。


   あぁ……あぁぁ。


   大夫……大夫。


   あぁぁぁ……っ。


   ……。


   あ……。


   ……大夫は、傷の薬を。


   きずの、くすり……。


   ……応急処置を、する為に。


   ……。


   其れから……熱の薬を。


   ね、つ……。


   若しかしたら、傷が元で熱を出すかも知れない。


   ……。


   其れ以外にも、必要だと思う薬があるのなら。
   支度をして呉れたら……美奈の家にも、あたしが持って行く。


   ……。


   大夫……此れは、大夫にしか出来ない。


   ……診て、いないのに。


   其れでも……薬の支度を、して欲しい。


   ……。


   ……帰ってきたら、大夫を美奈の家に連れて行くよ。


   ……。


   約束する……だから。


   ……わかり、ました。


   ……。


   すぐに……したく、します。


   ……ありがとう、大夫。


   ……。


   レイ……大夫を、どうか宜しく頼む。


   ……まこと、さん。


   なんだい。


   ……はやく、もどってきて。


   ……。


   もどって、きて……。


   ……必ず、戻ってくるよ。


   やくそく、ですよ……。


   ……あぁ、約束だ。


   ……。


   ……亜美さん。


   ん……。


   ……あたしは、帰ってくる。


   は、い……。


   ……。


   ……いま、くすりを。