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日記
2025年・12月

  

  31日





   ……。


   ……。


   ……マーキュリー。


   ……。


   ありがとう……手当て、してくれて。


   ……私には、これぐらいしか出来ないから。


   ううん、そんなことはないよ……。


   ……私に、もう少し戦う力があったなら、ジュピターは。


   マーキュリーにだって、ちゃんとあるじゃないか……あたしの怪我がこんなもんで済んでるのは、全部、マーキュリーのおかげだよ。


   ……もう、庇わないで。


   それは、無理だ……あたし達の頭脳であるマーキュリーを失うわけにはいかない。


   ……ジュピターだって。


   今夜はもう、遅いからさ……。


   ……。


   今日も夜食、食べていくだろ……?


   ……ううん、今夜は帰るわ。


   だけど、時間を考えたら……やっぱり、うちで夜食を食べた方がいいと思うんだ。


   ありがとう……でも、気持ちだけで。


   もしかして……お茶漬けばかりで、飽きてしまった?


   そういうわけではないの……。


   ……サンドイッチの方がいい?


   ジュピターとふたりで食べるお茶漬けは、とてもおいしい……だから、飽きることなんてない。


   ……じゃあ、今夜も一緒に。


   だけど……いつも、ご馳走になってばかりだから。


   お茶漬けくらいで、ご馳走だなんて……。


   ……。


   マーキュリー……。


   ……ねぇ、ジュピター。


   なんだい……?


   ……最近、どう?


   最近……?


   ……記憶。


   あぁ……戻った頃よりは、ましになったような気がするよ。
   ぐちゃぐちゃにもなっていないし……ちょっとずつ、整理整頓されていると言うかさ。


   ……整理整頓。


   マーキュリーは……?


   ……整理整頓は、自分でしているの。


   え……?


   ……ジュピターが、自分で。


   あ……いや、気付いたら整理整頓されているような感じかな。
   昨日よりも今日、今日よりも明日……ちょっとずつ、整っていくんだ。


   ……眠ることで、整理整頓されている?


   うん、そうかもしれない……。


   ……夢は、見る?


   夢は……まぁ、たまに。


   ……。


   マーキュリー……何か気になることでも、あるのかい?


   ……前のジュピターと、重なることがあるの。


   前のあたしと……何が重なるんだい。


   ……今のジュピター。


   今の……。


   ……どちらと話しているのか、分からなくなるの。


   そんな……あたしは、あたしだよ。
   前のあたしじゃない……間違いなく、今のあたしだ。


   ……。


   マーキュリー……どうして、そんな悲しそうな顔をするんだい。


   ……悲しそうな顔。


   うん……今にも、泣き出してしまいそうな。


   ……私は、悲しいなんて思っていない。


   だけど……。


   ……消えかかっているのか。


   消えかかって……?


   ……それとも、完全に重なってしまうのか。


   何を言っているんだい……?


   ……遥か昔の前世よりも、たちが悪いわ。


   ……。


   現世を、やり直すだなんて……本当だったら、やってはいけなかったの。


   ……どうして。


   齟齬が、生まれるから……。


   ……そご。


   もしも、やり直すのなら……取り戻すのは、力だけで良かった。


   ……だけど、それは無理だから。


   記憶を戻す必要なんてなかった……なかったのよ。


   ……。


   ねぇ、ジュピター……。


   ……消えかかっているの。


   分からないの……。


   ……マーキュリーは、マーキュリーだよ。


   だけど、この意識は……ん。


   ……前のマーキュリーとは、違うよ。


   ……。


   重なるにしたって……この躰は、今のあたし達のものだ。
   前のあたし達は、もういない……だから、なりえないんだ。


   ……多分、ね。


   多分……なに。


   ……気付くことなく、それは進行してゆくのだと思う。


   ……。


   これは……そう、言わば意識の上書き保存。
   だから、全てが終わった時には違和感すらも残らない……。


   ……前の記憶に、塗り潰されてしまうということ?


   ううん……恐らく、記憶は塗り潰されないと思う。
   ほら、前世の記憶が戻った時に、そんなことは起きなかったでしょう……?


   前世の記憶では起きなかったけど……今は、どうだろう。


   今と前……ふたつの記憶をひとつの意識で共有するのだと、私は思う。


   ……意識。


   その意識が……前の私になるだけ。


   ……そんなのは、駄目だ。


   ジュピター……。


   ……今を生きているのは、今のマーキュリーなんだ。


   ……。


   それなのに……勝手に、塗り潰すだなんて。


   ……もう、良く分からないの。


   え……?


   ……ジュピターも、当たり前のように、私のことを亜美ちゃんと呼んでくれる。


   それは……。


   ……名字で呼ばれること、今の私は好きだった。


   だ、だったら、戻すよ……戻すから。


   ……。


   マーキュリー……。


   ……馴染んできているの。


   馴染んで……。


   ジュピター……きのさんに、下の名前で呼ばれること。


   ……。


   少しずつ、少しずつ、仲良くなって……いつかは、下の名前で呼ばれるようになって。
   だけど、名字のままでも……親しさは、変わらないと……今の私は、そう、考えていたのに。


   ……みずのさん。


   ふふ……。


   ……どうして、笑うんだい。


   前と、違うから……。


   ……違わないよ、全然。


   でも、不慣れな感じがするでしょう……?


   ……前だって、出逢った頃は。


   けど……終わる頃はもう、「亜美ちゃん」と呼ぶことが、あなたの中では当たり前になっていたから。


   ……こんなのは、おかしい。


   ……。


   あたしは……こんなの、望んでいなかった。亜美ちゃ……水野さんと仲良くなりたいとは、思っていたけど。
   こんな……こんな、一足飛びのような……積み重ねを、すっ飛ばしたような。


   ……私の中でも、「まこちゃん」と呼ぶことが、当たり前にようになってきている。


   ……。


   だけど……だけど、今はまだ、そう呼びたくない。だって……だってあなたはまだ、私の中では、木野さんなの。
   おともだちになって、少しずつ慣れてきて……練習をすることも、やっとなくなったの。


   ……練習?


   笑うと思う……。


   ……笑わないよ。


   ううん、きっと笑うわ……だって、おかしいもの。


   勝手に決めるな。


   ……あ。


   おかしいなんて……勝手に決めては、駄目だよ。


   ……きのさん。


   なんの練習をしていたんだい……?


   ……。


   どうしても、言いたくない……?


   ……きのさんの、名前を呼ぶ、練習。


   あたしの名前を……?


   ……ずっと、おともだちがいなかったから。


   ……。


   ね、おかしいでしょう……どうか、笑って。


   ……おかしくなんて、ないさ。


   ううん、おかしいわ……おともだちの名前を呼ぶのに、練習が必要だなんて。


   ……ありがとう、みずのさん。


   きのさん……?


   ……こんなあたしのこと、ともだちと思ってくれて。


   ごめんなさい……。


   え……なんで?


   ……勝手に、おともだちだなんて。


   あたしは、うれしいよ……?


   ……ちゃんと、確認もしないで。


   あー……みずのさんって、わりと難しく考えちゃうタイプ?


   ……難しい?


   そんなことを言ったら、あたしも勝手に思ってたことになっちゃうんだけど……。


   ……。


   みずのさんのこと、ともだちだと……ひとりで思い込んで、勝手にうれしくなってる。


   ……。


   うん……目が、丸くなっているね。


   ……おともだちって、わざわざ、確認するものではない?


   分からないけど……多分、そうなんじゃないかな。


   ……だけど、違うこともあるかもしれないし。


   それを言ったら……悲しく、なっちゃうよ。


   ……悲しく?


   あたしは、みずのさんとともだちだと思っていたけど……みずのさんはあたしのこと、ともだちと思ってなかったってことだろ?


   私はきのさんのこと、おともだちだと思っているわ……むしろ、きのさんがわたしのこと。


   それは、ないよ……。


   ……私も、ないわ。


   ……。


   ……きのさん。


   ともだちだと思っていたら、実はともだちだと思われていなかったなんて……そんなの、悲しい。
   考えただけで、気分が落ち込む……もしかしたら、ちょっとやそっとじゃ、立ち直れないかもしれない。


   ……。


   みずのさんは、どう……?


   ……私なんかに、ともだちなんて出来るわけない。


   ……。


   私の思い違い……悪いのは、勝手に勘違いした私……だから、分かって良かった。
   これからは、ただの……ただの、知り合いとして……いえ、知り合いですら、なかったとしたら。


   ……そう、言い聞かせるの?


   私には……それしか、出来ないと思う。


   ……。


   ……。


   ……ともだちで、いい?


   きのさんさえ、良ければ……。


   ……いいに、決まってる。


   きのさん……うん。


   ……みずのさんは、いい?


   え……?


   ……あたしが、ともだちで。


   ともだちで……いて、ほしい。


   ……ともだちだと、思ってくれてる?


   思って、いるわ……勝手に、だったけど。


   ……あたしも、勝手にだった。


   ……。


   ね……あたし達は、ともだち?


   ん……おともだち、だと思う。


   ……思う、なの。


   あ、いや……おともだち、です。


   ……ですって。


   こういう時、どう言っていいか……。


   ……。


   ん……きのさん。


   ……あたし達の意識が、たとえ、塗り潰されたとしても。


   ……。


   でも……この記憶は、きっと、消えない。


   ……消えないで、欲しい。


   だけど……抵抗は、するんだ。


   ……抵抗?


   そう、抵抗……最後まで、この躰は今のあたしのものだと。


   ……。


   簡単には、塗り潰されてなんかやらないんだ……。


   ……私も。


   うん……みずのさんも。


   ……慣らして、やるの。


   慣らして……。


   ……今の、私に。


   ……。


   ……ん。


   慣らしてやろ……ふたりで、さ。


   ……ふたりで?


   そ……ふたりで。


   ……。


   ふたりの方が……力は、倍になるだろ?


   ……私で、倍になるかどうか。


   なるよ……ともだちは、すごいんだ。


   ……すごいの?


   と、あたしは勝手に思ってる……。


   ……恋人より?


   恋人は……また、違うんじゃないかな。


   ……どう、違うの?


   それ、あたしに聞く……?


   ……え。


   恋人なんて、いたことがないあたしに。


   ……その、想像で分かるかなって。


   想像と言うより、妄想かなぁ……。


   ……おともだちなら、分かるの?


   う……。


   ……う?


   ……。


   え、と……ごめんなさい。


   ……ううん、いいよ。


   ……。


   勝手に、思っているだけだから……妄想、なのかもしれない。


   ……もうそう。


   にんげんって、むずかしいね……。


   ……うん、むずかしい。


   とにかく、ふたりでさ……がんばろ?


   うん……倍にはならないかもしれないけど、ふたりで。


   なるさ……妄想だけど。


   ……ふふ。


   ん……?


   ……ありがとう、きのさん。


   みずのさん……どうして?


   ……きのさんがおともだちで、うれしいから。


   あぁ……だったら、あたしもありがとう。


   ……。


   みずのさんと……うさぎちゃんよりも先にともだちになれて、うれしい。


   ……わたし、も。


   ……。


   ……。


   ねぇ……マーキュリー。


   ……なに、ジュピター。


   夜食……やっぱり、食べていきなよ。


   ……でも、いつも。


   ふたりで食べたいんだ……だから、いつもでも構わないんだ。


   ……。


   お母さん……帰ってる?


   ……ううん、今夜も帰ってない。


   そっか……なら、ね。


   ……。


   今日はさ、うどんもあるんだよ……。


   ……おうどん?


   みずのさんの、好きな方を夜食にしよう……。


   ……。


   ね……どっちが、いい?


   ……私は。


  30日






   ……。


   ……。


   ……マーキュリー。


   ……。


   立てそうかい……?


   ……大丈夫、立てるわ。


   無理そうだったら、あたしの背中に。


   ありがとう、ジュピター……だけど、大丈夫よ。


   ん……そっか。


   私よりも、ジュピターの方が……。


   ……あたし?


   傷だらけだわ……出血もしているようだから、止血しないと。


   血……あぁ、まだ止まってなかったか。


   ……気が付いていたの?


   ん、いや……言われるまで、分かんなかった。


   ……応急処置だけでも。


   ありがとう……でも、いいよ。
   あたしのことよりも、早く家に帰った方がいい。


   なら……うちに、来て。


   マーキュリーの家に?


   ……嫌かも、しれないけど。


   別に、いやではないけど……こんな薄汚れた格好では、行けないかな。


   そんなこと……気にしないで。


   ……家には、家族がいるだろう?


   家族……?


   ……お母さん、とか。


   ううん……いないわ。


   ……いない?


   母は、仕事だから。


   仕事って……結構、遅い時間だけど。


   ……夜勤なの。


   やきん……じゃあ、お父さんは。
   お父さんは、帰ってきて……。


   ……。


   マーキュリー……?


   ……父は、家を出ていった。


   え……。


   ……だから、いないの。


   ご、ごめん……。


   いいの……謝らないで。


   だけど……あたし、無神経なことを。


   木野さ……ううん、ジュピターは忘れていたのだし。
   そんなこと、思い出す必要もないから……。


   ……マーキュリー。


   とにかく、家には誰もいないから……ジュピターが来ても、大丈夫よ。


   ……。


   傷の手当てをしたいの……私を庇って出来た傷だから。


   ……それだけでは、ないよ。


   ん、そうね……だから、まとめて。


   ……。


   ジュピター……?


   ……やっぱり、行けないよ。


   どうして……?


   ……どうしても。


   ……。


   マーキュリー……ううん、水野さん。


   ……木野さん。


   早く、帰りな……今は、女の子がうろついていい時間じゃない。


   ……木野さんだって。


   あたしは、慣れているから。


   ……慣れて?


   うん……。


   ……木野さんは、夜中に。


   ちょっとした、夜の散歩だよ……。


   ……。


   眠れないと……星を眺めながら、散歩をするんだ。


   女の子ひとりでは、危ないわ……。


   大丈夫さ……あたしは、ただの女の子ではないからね。


   だけど……大人の男性には。


   ……殴って、気絶させたことがあるよ。


   え……。


   酔っ払いか、なんなのか……気安く、声をかけてきてさ。
   いや、声なんてかけられたっけかな……後ろから、急に抱き付いてきたような気もする。


   ……。


   あたし、でかいだろ……どうも、子供に見えないらしくて。
   それで、あわよくば……と、思ったみたいなんだ。多分、だけど。


   ……乱暴、されそうに、なったの。


   そうかもね……。


   ……子供でも、被害に遭う子はいるわ。


   あぁ、ロリコンって奴……?
   あれ、気持ち悪いよねぇ……。


   ……中には、子供ばかりを狙う者もいるらしいから。


   だとしたら、殴って良かったな……いや、大人の女を狙う奴も絶対に赦せないけど。


   ……殴って、気絶させたのよね。


   うん……あまりにも気持ち悪かったから、とっさに地面に叩きつけて、その後に顔だか腹だかに一発お見舞いしたら動かなくなったよ。
   大人の男であろうと、あたしの方が強いんだ……まぁ、自衛隊とか有段者とかだったら、敵わないかもしれないけど。


   ……その後、どうしたの。


   その後……?


   ……気絶させた後。


   あぁ……一応、息をしているかどうかは確かめたけど、それだけ。


   ……警察は。


   呼んだら面倒なことになるのは分かっていたから。
   親はどうした、こんな時間にひとりで何をしている、とか色々聞かれてさ、最後には補導されるんだ。
   連絡したところで、迎えに来てくれる家族なんていないのにね。


   ……。


   救急車くらい、呼んだ方が良かったかな。
   だけどそんな親切心、その時のあたしの中にはほんの少しもなかったんだ。
   大体、公衆電話も見当たらなかったし。お金も持ってなかったし。


   ……気絶しているひとを放置して、家に帰ったの。


   流石に、夜の散歩を続ける気にはなれなかったかな……すっかり、気分を台無しにされちゃったから。


   ……。


   幻滅したかい……?


   ……いいえ、自業自得だから。


   自業自得、か……。


   ……。


   そういうわけだから、あたしのことは心配しないでいいよ……手当ても、帰ってから自分でやるからさ。


   ……だめよ。


   うん……?


   ……放っては、おけないわ。


   マーキュリー……うーん、参ったな。


   ……うちに来て、ジュピター。


   でも、なぁ……マーキュリー、あたしにまだ慣れていないだろ?


   ……そんなことない。


   いや、そんなことあると思うけどな……最近、どこかよそよそしいし。


   ……先に、あなたと知り合ったの。


   先に……?


   月野さん……うさぎちゃんよりも、先に。


   ……。


   前は、違ったけど……今回は、あなたの方が先。


   とは言え、知り合ったきっかけは月野さん……うさぎちゃん、だけど。


   ……。


   んー、どうにも呼び慣れないな……前のあたしは、親しかったんだろうけど。


   ……前は親しかったとしても、今は違うわ。


   うん、違うね……だから正直、戸惑っているよ。


   ……。


   そういえば、前のあたしは月野さんに教科書なんて貸したことなかったな。
   そもそも、こっちに来たのは二学期が始まってからだったし。


   ……どの教科書を貸したの。


   なんだったかな……忘れちゃった。


   ……私は、黒猫が降ってきたの。


   黒猫……ルナ、だったか。


   そう、ルナ……月野さんが飼っている、ひとの言葉を話す黒猫。


   ……前も、そうだったんだろ?


   うん……だけど、今の私は何も感じなかったわ。


   ……あたしも、何も感じなかったよ。


   ……。


   記憶が混乱している……今はまだ、前のようにはいかない。


   ……ジュピターも、そうなの。


   あたしは……あたしも、そうだよ。
   すぐになんて、慣れない……もうね、ぐちゃぐちゃなんだ。


   ……。


   水野さんとは少しずつ、仲良くなっていけたらいいなって……ゲーセンに、一緒に行った時は思っていたのに。
   楽しかったんだ……5組の、あの有名な水野さんとゲーセンで遊んで。勉強ばかりしているって聞いていたのに、そんな風には、全く感じなくて。


   今はもう、思っていない……?


   ……。


   ……私と仲良くなれたら、って。


   うん……今でも、思っているよ。
   水野さんと仲良くなれたらって……今でも。


   ……本当?


   あぁ……本当だよ。


   ……記憶が、戻ってから。


   ……。


   よそよそしくなったような、そんな気がしていたの……。


   それは……水野さんもだ。


   ……ぶっきらぼうに、なったし。


   それは、元々かな……。


   ……。


   水野さんも、どこかひんやりするようになったよ……初めて話した時は、そんなこと、なかったのに。


   ……ねぇ、木野さん。


   なに……水野さん。


   ……私に、そっけない態度を取るのは。


   それは……どっちのあたしか、分からなくなるから。


   ……どっちの?


   今のあたしか……前のあたしか。


   ……。


   前のあたしは、どうやら、亜美ちゃ……水野さんとは仲が良かったらしい。


   ……。


   と、あたしは勝手に解釈しているのだけれど……水野さんは、どう?


   ……私も、そう思ってた。


   ふふ、そっか……じゃあ、同じ解釈でいいかな。


   ……うん。


   う……。


   ……痛むの?


   ん、平気、平気……こんなの、痛みのうちに入らない。


   ……そんなことは、


   ねぇ、水野さん……。


   ……今はとにかく、傷の手当てを優先するべきよ。


   水野さんはどうして、あたしによそよそしくするんだい……?


   ……。


   やっぱり、前の記憶のせい……?


   ……分からなくなるの、今の私は誰なのか。


   水野さんは、水野さんだよ……。


   ……もしかしたら、前の私かもしれない。


   ……。


   ……木野さんと仲良くしたいという気持ちも、本当は、前の私が抱いていたもので。


   思い出す前は、どうだった……?


   ……。


   思い出す前に……あたしと仲良くなりたいと、少しでも思ってくれていたのなら……その気持ちは、今の水野さんの。


   ……木野さんは、そう思えないから。


   ん……。


   ……私に、そっけない態度を。


   ……。


   ……前の記憶なんて、いらなかったのに。


   だけど……力を取り戻すには、こうするしかなかったみたいだから。


   ……。


   前の記憶は、あたしのものなのかもしれないけど……でも、やっぱり、あたしのものだとは思えない。
   だって、そうだろ……記憶にないことを憶えているだなんて、どう考えてもおかしい。ましてや、自分が死んだなんて。
   今のあたしは、死んだことなんてないのに……死んだことを、憶えているなんてさ……どうかしてるよ。


   ……そうね。


   亜美ちゃん……水野さんも、前の水野さんとは少し違う。
   何が違うのかって聞かれたら、上手くは言えないけど……でも、違うんだ。


   ……木野さんも、少し違うわ。


   ……。


   違うの……だから。


   ……水野さんは頭がいいから、余計に混乱してしまうのかもしれない。


   ううん、頭なんて関係ないわ……。


   ……そうかな。


   ……。


   さぁ、お帰り……ひとりが嫌なら、途中まで送っていくからさ。


   ……行く。


   ん、なんだい……あ、どこか痛むのかい?


   ……家に、行くわ。


   家に、行く……帰る、ではなくて?


   ジュピター……木野さんの家に。


   あたしの……?


   ……あなたの家に、行く。


   あたしの家って……マーキュリー。


   ……私の家に、来てくれないなら。


   いや、でも……うちに来ても、何もないよ。


   ……何も?


   う、ん……。


   お構いなく……傷の手当てが終わったら、帰るから。


   そんなことをしたら、水野さんの帰りが遅くなってしまう……だから、いいよ。


   ……連れて行って。


   だけど……。


   ……なら、勝手に付いていく。


   付いていくって……困ったな。


   ……いくらでも、困ってくれていい。


   水野さんって……わりと、頑固?


   ……ただ、譲れないだけ。


   ねぇ、水野さん……あたしなら、本当に大丈夫だから。
   あたしは、水野さんが心配なんだ……こんな遅い時間に、出歩いて。


   ……塾で遅くなることも、あるから。


   でも、今は夜中だ……こんなに遅くなることは、流石にないだろ?


   ……。


   送っていくよ、さぁ、家に帰ろう。


   ……どこまで。


   途中……いや、家の前まで。
   だから、ね?


   だったら、そのままうちに。


   そ、それは……いい、よ。


   良くない。


   う……マーキュリー。


   お願い、ジュピター……。


   ……あ。


   うちに来て……それか、あなたの家に連れて行って。


   ……その顔は。


   お願い……あなたを、放っておけないの。


   ……反則、だ。


   反則……?


   ……あぁもう、くそぅ。


   ジュピター……。


   ……どうやらあたしは、その顔に弱いらしい。


   顔……。


   ……今の、あたしも。


   ……。


   ええ、と……どうしようか。


   ……どうしようかって。


   水野さんの家に行くか……それとも、うちに来てもらうか。


   私はどちらでも構わない、あなたを手当て出来るなら。


   あー……うー……。


   ……木野さん?


   本音を、言うと……。


   なに?


   ……うちに、来て欲しい。


   分かった、行くわ。


   ……そんな、簡単に。


   さぁ、行きましょう。


   えー……。


   ……やっぱり、うちに来る?


   ……。


   ジュピター……?


   ……なんだかもう、記憶も感情もぐちゃぐちゃだ。


   どうした、きゃっ。


   ね、マーキュリー……いや、水野さん。


   な、なに……。


   お腹、空いてない?


   お、お腹……?


   そう、お腹。


   す、空いてない……。


   ……。


   ……と、思う。


   夜食、一緒にどう?


   夜食……?


   そう、夜食。
   良かったら、一緒に食べよう。


   で、でも……。


   何もないのは、嘘。
   ごはんが残っているから、お茶漬けぐらいなら作れる。


   お茶漬け……。


   夜中だからね、お腹に軽い方がいいと思うんだ。
   それで、それを食べたら、今夜はもう寝よう。


   え……え?


   寝て、明日早く起きて、それで家に帰ろう。
   送って……いや、そのまま学校に行ってもいいかな。


   き、木野さん?


   ねぇ、そうしようよ、水野さん……いや、亜美ちゃん。


   あ……。


   亜美ちゃん。


   ……まこ、ちゃん。


   決まりで、いい?


   う、うん……。


   よし、じゃあ行こう。


   あ、あぁ……。


   と、その前に変身を解かないとね。


   ……あの。


   なんだい?


   ……ううん、なんでもない。


   そう?


   ……うん。


  29日





   ……。


   ……。


   ……あみちゃん。


   ごめんなさい……。


   ……どうしてだい?


   今、どけるから……。


   ……いいよ、そのままでも。


   でも、重いでしょう……すぐに、どけるから。


   ……おもくなんて、ないさ。


   ……。


   だから……このままで。


   ……まこちゃん。


   どうだった……?


   ……私が、聞かれるの。


   あたしが、きかれることかな……。


   ……だと、思うけど。


   んー……そっか。


   その……どうだった?


   ……なんと、いうか。


   良く、なかった……?


   ……それは、ないかな。


   少しずつ、慣れていくから……。


   ……あみちゃんのことだから、すぐになれてしまいそうだ。


   う、ううん、そんなことないわ……。


   ……そうかな。


   けど、早く慣れないと……。


   ……どうしてだい?


   まこちゃんに……それだけ、負担が掛かってしまいそうだから。


   ……べつに、ふたんはかからないとおもうけど。


   でも……その……いたずらに、するだけでは。


   ……たぶん、ね。


   多分……?


   あみちゃんが、おもっているほど……あみちゃんは、へたではないとおもうよ。


   ……え。


   こんなかんじ、なんだねぇ……。


   ……まこちゃん?


   あはは……。


   ……大丈夫?


   あたま……?


   その……混乱、していない?


   こんらんは、してないよ……ただ。


   ……ただ?


   んーーー……。


   ……まこちゃん、やっぱり。


   けっこう、はずかしいね……これ。


   ……は。


   だかれてみて、はじめてわかった……みたいな?


   ……。


   しょうじきなことをいうと……あみちゃんのかお、まっすぐみられない。


   ……まこたん。


   たん……?


   ……まこちゃん。


   あは、めずらしいね……。


   ……私の気持ち、分かって呉れましたか。


   ん……どうして、ていねいご?


   ……あぁぁもぅ。


   な、なに、ど、どした……。


   ……然うです、恥ずかしいんです、とても。


   だ、だから、なんで、ていねいご……。


   ……顔なんて、見られないんです。


   う、うん、それは、わかったよ……。


   ……それなのに、まこちゃんは、覗き込んでくるんです。


   ご、ごめん……ここまではずかしいものだとは、おもわなんだ。


   ……おもわなんだ?


   ん……あれ。


   ……。


   あみちゃん、そのままでいてほしいな……。


   ……まこちゃんに、負担は掛けたくないので。


   だいじょうぶだよ、ふたんになんてならないから……むしろ、いてくれたほうが、ここちよいから。


   ……私が、抱いたのに。


   んー……まぁ、そうなんだけど。


   ……然うなんです。


   あ、あの、あみさん……?


   ……さん?


   え、えと……あみ、ちゃん。


   ……なんですか。


   いつもの、はなしかたに……もどって、くれませんか。


   ……。


   あみちゃん……?


   ……いやです。


   な、なんで……?


   ……なんとなく、です。


   なんとなくって……。


   ……然ういう気分なんです。


   き、きぶんなの……?


   ……だから、然う言っています。


   そ、そうか……では、仕方ないかな。


   ……まこちゃんだって。


   あ、あたし……?


   ……そうか、なんて、普段は言わない。


   え、そうかな……言ってると、思うけど。


   ……言ってません。


   お、おぉ……。


   ……兎に角、どきます。


   いや、どけないでほしい……。


   ……離して下さい。


   いやだ……絶対に、離さない。


   ……。


   どうか、このままで。


   ……はぁ。


   は、はは……。


   ……大丈夫なの。


   ん……?


   ……からだ。


   あぁ……大丈夫だよ。


   ……本当に。


   うん、本当に。


   ……。


   ……亜美ちゃんは、大丈夫?


   私は……。


   ……結構、疲れるだろ?


   ……。


   お……。


   ……たまに、どうして苦しそうな顔をするのか。


   不思議だった……?


   ……分かったような気がする。


   ふふ……そっか。


   ……どうして、嬉しそうなの?


   どうしてかな……。


   ……はぐらかそうとしている?


   してないよ……。


   ……じゃあ、教えて。


   良いけど……ちゃんと言葉に出来るかどうか。


   ……やっぱり、はぐらかそうとしているのね。


   してない、してない……誤解だよ。


   ……まこちゃんは、疲れているように見えない。


   体力が、無駄にあるからね……あたしは。


   ……。


   ね……もう一度、してみるかい?


   ……しても、いいの。


   うん……亜美ちゃんがしたいのなら、あたしは構わないよ。


   ……ばか。


   ん、なんで……?


   ……まこちゃんのようには出来ないこと、分かっているくせに。


   別に、あたしのようにしなくても……。


   ……今は、休みたい。


   じゃあ、休んだ後に……?


   ……腕が、重いの。


   腕……?


   ……躰も。


   躰も……。


   ……繰り返さないで。


   若しかして……体力、使い切った?


   ……そこまでじゃない。


   ……。


   ……でも、すぐには無理。


   亜美ちゃんは、定期的に泳いでいるから……体力は、ある方だと思っていたんだけど。


   ……だとしても、まこちゃんほどじゃない。


   あたしは、亜美ちゃんのように、長い距離を泳げないけどなぁ……。


   ……まこちゃんは、平気そうね。


   いや……これでも結構、疲れてる。


   ……私が、上手じゃないから。


   んーん……その逆だよ。


   ……逆?


   然う……逆。


   ……。


   ……思っていた以上、だった。


   まこちゃん……。


   これ以上は、言わない……恥ずかしいから。


   ……。


   ……亜美ちゃんの場合、配分だと思うな。


   配分……?


   そ……体力の配分。


   ……。


   ん……あまり、見ないで呉れると嬉しいな。


   ……まこちゃんは、見るわ。


   あぁ、うん……然うだね、あたしは見るね。


   ……どうして、見るの。


   見たいから、かな……。


   ……私も同じよ。


   然う、だよねぇ……。


   ……。


   ん……亜美ちゃん。


   ……している時は、良く見られなかったから。


   ん、そっか……。


   ……まこちゃんは、見ているけど。


   余裕は、未だにないけどね……。


   ……ふふ。


   はは……。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   なんだい、亜美ちゃん……。


   ……ん。


   然ういえば、言葉遣いが元に戻っているね……良かった。


   ……腰。


   どけられてしまわないように……。


   ……撫でなくても。


   好きなんだ……亜美ちゃんの腰のくぼみ。


   ……。


   ん、気付いてなかった……?


   ……嫌いな場所って、あるの。


   嫌いな場所……?


   ……私の躰の中で。


   うん、ないね。


   ……。


   全部、好きだけど……特に好きなところ。


   ……違いが、分からない。


   違いなんて、ないのかも知れない……。


   ……いい加減?


   んーん、いい加減じゃない……。


   ……ん、もぅ。


   ふふ……可愛いね。


   ……これじゃ、どちらが抱かれたのか。


   分からない……?
   でもまぁ、良いじゃないか……。


   ……。


   ん……なに。


   ……まこちゃんの胸。


   あたしの胸……。


   ……柔らかくて、その。


   触り心地、良かったかい……?


   ……どうして、そんなことを聞けるの。


   ん、いや……然うなのかなって。


   ……。


   蕁麻疹は、大丈夫かい……?


   ……大丈夫、だけど。


   でも、油断は出来ないかな……。


   ……胸に触れるのって、気持ちが良いのね。


   分かる……あたしも、然うだから。


   ……分かるの?


   分かるよ……。


   ……私の、胸で?


   柔らかくて……とても気持ちが良い。


   ……柔らかいなんて、感じられるほど。


   亜美ちゃん……?


   ……私は、自分の胸に触っても気持ち良いとは感じないわ。


   んん……?


   ……まこちゃんの胸の方が、ずっと。


   あの、亜美ちゃん?


   ……なに。


   あたしも、自分の胸に触って気持ち良いとは思わないよ……?


   ……。


   いや、それは然うだろう……?
   好きなひとの胸に触るから、気持ち良いのであって……。


   ……然ういうもの?


   然ういうもの、だと思うけど……違うのかなぁ。
   自分の胸に触って、柔らかい、気持ち良いって……余程、自分の胸が好きでないと思わないと思うんだけど。


   ……。


   抱かれる方だとしても、微妙なんじゃないかな……いや、どうなんだろう。
   それはそれで、違うのかな……そんなこと、考えたことなかった。


   ……抱かれる方?


   ひとにもよるか……だとしても、聞けないしな。


   ……抱かれる方って?


   ……。


   ……。


   ……つまり、自分ですること。


   自分で、する……?


   なんて言うんだっけ……ちょっと、思い出せないや。


   ……自分で。


   抱くのは、ひとりでは出来ないだろう……?
   でも、抱かれるのは……ね?


   ……あ。


   分かる……?


   わ、わか……。


   でも、言わなくて良いよ……寧ろ、言わないで欲しい。


   い、言わないわ……だ、だって、分からないもの。


   そっか、亜美ちゃんも分からないか。


   ……。


   兎に角……自分の胸に自分で触っても気持ち良いとは、あたしは、思わないから。


   ……。


   あたしが気持ち良いと思うのは……亜美ちゃんの胸に、む。


   ……もう、良い。


   もう、良い……?


   ……もう、止めましょう。


   ……。


   じゃないと……蕁麻疹が、出そうで。


   ……うん、もう止めよう。


   ……。


   はぁ……良いな、こういうのも。


   ……あの、まこちゃん。


   なんだい……亜美ちゃん。


   ……これから、も。


   うん……これからも。


   ……良い?


   良いよ……。


   ……良かった。


   けど、次は……。


   ……え。


   あたしが、抱きたいな。


   ……。


   だめかい……?


   ……だめじゃ、ないわ。


   じゃあ……二度目は。


   ……二度目?


   休んだら……ね。


   ……え?


   え?


   ……す、するの?


   うん、したい。


   で、でも……。


   ……今夜は、一度でおしまい?


   あ、や……。


   ……ふふふ。


   ま、まこちゃん……。


   ね……亜美ちゃんに抱かれてみて、分かったことがあるんだ。


   な、なに……。


   あたしは……やっぱり、抱くことも好きだって。


   そ、それは……今に、始まったことでは。


   然うなんだけどね……。


   ……あっ。


   だから……改めて、なんだ。


   ……や、だめ。


   まだ、無理そうかい……?


   ……まこちゃんは、もう。


   あたしは……もう、いつでも。


   ……体力。


   あと、性欲かなぁ……。


   ……せいよく。


   あたしはさ、亜美ちゃんにだけ……欲情、するんだ。


   ……わたしに、だけ。


   然う、亜美ちゃんにだけ……だからかなぁ、余計に性欲が強いのかも知れない。


   ……は、ぁ。


   亜美ちゃんに対する性欲……ごめんね、大変だと思うけど。


   ……なにが、たいへん、なの。


   受け止めるの……多分、全部は無理だと思うんだ。


   ……ぜんぶ。


   そ……全部。


   ……っ、……あっ。


   あぁ……好きだな。


   ……まこっ、ちゃん。


   待って、欲しい……?
   それとも、だめ……?


   ……。


   ねぇ……亜美ちゃんは、気持ち良くないと言うけれど。


   ……だめ。


   あたしは、気持ち良いよ……とても。


   だめ、まこ……あっ。


   ……。


   ……まだ、だめ。


   まだ……?


   ……もうすこし、やすませて。


   もうすこし……うん、分かった。


   ……。


   ……あ、嫌だったら言ってね。


   いやじゃ、ない……でも、いまはまだ。


   そっか……ありがと。


   ……。


   ……かわいいな。


   かわいい……。


   ……かわいいよ。


   ……。


   ……たまらなくなる。


   ジュピター……。


   ……。


   ……みたい。


   あたしは……まことだよ。


   ……。


   ジュピターじゃない……。


   ……おこった?


   怒ってはいない……。


   ……。


   ん……。


   ……ちゃんと、のこせたかしら。


   あと……?


   ……じょうずに、つけられたようなきがしなくて。


   なんども、していれば……つけられるようになるよ。


   ……なれる?


   きっと……あみちゃんは、きようだから。


   ……。


   お……。


   ……ついた。


   ……。


   ……かしら。


   ふふ……。


   ……。


   ついたんじゃないかな……。


   ……あとで、かくにん。


   するのかい……?


   ……したいの。


   じゃあ、あとで……ふたりで、ね。


   ……まこちゃんはだめ。


   あたしはだめなの……?


   ……だめ。


   あたしも、かくにん……。


   ……だめなものは、だめ。  


  28日





   ……。


   ……。


   ……亜美ちゃん。


   ……。


   あたしは、こっちだよ……。


   ……なに、してるの。


   亜美ちゃんが目が覚めた時の為に、何か温かいものを用意しておこうと思って。


   ……目が覚めなかったら、どうするつもりだったの。


   その時は……どうしようかな。


   ……その時は、起こして。


   起こしても、良い……?


   ……放置されている方が、嫌なの。


   放置していたわけでは……。


   ……その温もりを期待して、手を伸ばしたのに。


   放置するつもりは、なかったんだ……。


   ……ん。


   ごめんよ……。


   ……何を、用意して呉れたの。


   紅茶……ミルクティーにも、レモンティーにも出来るよ。


   ……ミルクティーが良いわ。


   お砂糖は、ひとつ……?


   お砂糖は……ひとつで。


   ん、分かった……じゃあ、直ぐに用意するね。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   なんだい……?


   ……折角、起きたことだし。


   うん……。


   ……お勉強でも、する?


   え……。


   ……一時間くらい。


   えー……と。


   どうしたの……目が泳いでいるようだけれど。


   ……お勉強も、良いけれど。


   けれど……?


   ……叶うなら、続きがしたい。


   続き……?


   ……然う、続き。


   続きって……お勉強以外に、何かあったかしら。


   ……亜美ちゃん。


   なぁに……?


   ……もう、ひとりにしないから。


   ……。


   はい……どうぞ。


   ……ありがとう。


   ゆっくり、楽しんでね……。


   ん……然うするわ。


   ……。


   まこちゃんは……?


   あたしは……あたしも、ミルクティー。


   ……お砂糖の数は?


   ひとつ……程良い、甘さで。


   ……やっぱり。


   やっぱり……?


   ……お勉強がしたいわ。


   ん……そっか。


   ……一緒に、どう?


   あたしは……。


   ……ひとりで、ベッドに戻る?


   お勉強、しようかな……亜美ちゃんと一緒に。


   ……良いのよ、もう少しベッドで楽しんでいても。


   ひとりで……?


   ……ひとりは、嫌?


   やっぱり、亜美ちゃんの温もりがないと……。


   ……暫くは、残っていると思うわ。


   いずれ、消えてしまうだろう……?


   温もりは、消えてしまっても……匂いは、残っていると思うから。


   余計に、切ないかな……。


   ……まさに。


   まさに……?


   ……さっきの私が、然うだった。


   あー……。


   ……ところで。


   うん……?


   ……ひとりだとしたら、何を楽しむの?


   うぇ……。


   ……私は、惰眠という意味で言ったつもりだったのだけれど。


   それは、楽しむと言うより……貪る、かな。


   ……ふふ。


   正解、だろう……?


   ……ええ、正解。


   あたしは、惰眠よりも……。


   ……良いと思うわよ、たまには。


   亜美ちゃんがお勉強をしている傍で……?


   ……あなたの寝息をBGMにするつもり。


   じゃああたしは、亜美ちゃんがシャーペンを走らせる音をBGMにするのかな……。


   ……悪くはないと思うの。


   確かに、あの音は好きだけど……。


   ……。


   亜美ちゃん……?


   ……今。


   時間……?


   ……ん。


   そろそろ、おやつの時間……かな。


   ……おやつの?


   うん……結構、楽しんでいたみたいで。


   ……。


   まぁ、折角のお休みだし……。


   ……折角のお休みが、これで終わるなんて。


   他に、何かしたいことがあった……?


   んー……然うね。


   若しも、あるのなら……お茶を飲んだ後にでも。


   ……それが、お勉強でも?


   うん……それが、お勉強でも。


   ……。


   ……亜美ちゃんのしたいこと、なら。


   ねぇ、まこちゃん……。


   ん……?


   ……ちょっと、こっちに。


   あぁ……うん。


   ……その前に、ミルクティーを置いて。


   ん、分かった……。


   ……顔を。


   こう、かな……。


   ……。


   ん……。


   ……まこちゃんの匂いがするわ。


   亜美ちゃんの、匂いも……。


   ……ミルクティーの香りでなくて、ごめんなさいね。


   謝る必要はないよ……。


   ……。


   ねぇ、もっと感じたいな……。


   ……だーめ。


   む……。


   ……零してしまうわ。


   サイドテーブルに置けば、良いさ……。


   ……電話。


   退かせば、良い……。


   ……そこまで、しなくても。


   そこまで、するよ……。


   ……冷めてしまう前に、飲みたいわ。


   大丈夫……この後に、飲めるから。


   ……本当に、飲める?


   飲めるよ……。


   ……。


   ……亜美ちゃん。


   ……。


   ……亜美ちゃんの、甘い匂い。


   ミルクティーの方が、甘いわ……。


   ……ミルクティーの香りも、甘いけれど。


   ……。


   ねぇ……やっぱり、さ。


   ……もう、しなくなった。


   ん、何を……?


   ……心配。


   心配……あぁ、蕁麻疹の?


   ……前は、良くして呉れたのに。


   今も、しているよ……。


   ……本当に?


   だけど、あの頃よりはしていないかも知れない……。


   ……。


   あの頃は……触れる度に、してた。


   ……直ぐに、反応してしまうから。


   だから、少しずつ、少しずつ……慣らしていって。


   ……いつの頃からか、出なくなった。


   嬉しかったなぁ……。


   ……どんな時でも、嬉しそうだったけれど。


   ふふ……うん、亜美ちゃんに触れるのはいつだって嬉しかった。


   ……あの頃の私は、もう、居ないのかも知れない。


   うん……どういうことだい?


   ……あんなに、恥ずかしいと思っていたのに。


   ……。


   ……恋愛も。


   慣れてしまった……?


   ……少なくとも、あの頃よりは。


   うーん……。


   ……まこちゃん?


   とりあえず、ミルクティーを飲もうか。


   ……はい?


   冷めてしまう前に。


   ……飲んだら、まこちゃんは何がしたいの?


   あたしは……ベッドで、亜美ちゃんを抱きたい。


   ……さんざ、したのに。


   したけど……まだ、したい。


   ……。


   ねぇ、亜美ちゃん……あたしは自分で思っていたよりも、性欲が強いのかも知れない。


   ……然うなの?


   あれ、亜美ちゃんは思っていなかった……?


   ……他を、知らないから。


   あたしも、知らないよ……だから、あくまでも自分を基準にして言ってる。


   ……まこちゃんの基準だと、強いことになるのね。


   なると思う……。


   ……私は。


   亜美ちゃんは、普通……いや、弱いかも知れない。


   ……弱い?


   だって、亜美ちゃんから求めて呉れることなんてあまりないし……いつも、あたしからだし。


   それは……だって。


   ……まだ、恥ずかしい。


   ……。


   となると……まだ、慣れたとは言い難い。


   ……然うなのかしら。


   然うだと思うよ……。


   ……まこちゃんは。


   あたしは……あたしも、まだだと思う。


   ……。


   ……あたしは基本的に、抱くことが多いだろ?


   逆は、あまりないわ……。


   ……あまり、と言うより、一度もないかな。


   ……。


   今のところ、現状に満足はしているけど……。


   ……まこちゃんも、抱かれてみたい?


   ……。


   然うなの……?


   ……どう、かな。


   それは……誰に。


   誰にって……亜美ちゃんしか、居ないよ。


   ……私しか。


   他の誰かになんて、絶対に嫌だ……。


   ……。


   亜美ちゃんは、良いの……?
   あたしが……亜美ちゃん以外の。


   ……いや。


   だろ……?


   ……。


   ……ねぇ、亜美ちゃん。


   考えてみれば……。


   ……考えてみなくても、良いよ。


   まこちゃんの恋人が、異性だったら……。


   ……うん、そこまでで。


   ……。


   ……目が、丸くなっているね。


   私……して、みたいかも。


   ……。


   ね……どうして、言って呉れなかったの?


   言ったろ……今のところ、現状に満足しているって。


   ……でもいずれ、しなくなるかも知れない。


   まぁ、その可能性はないとは言えないかな……。


   ……。


   亜美ちゃんを好きになるまでは……同性を抱くなんてこと、考えたこともなかったんだ。


   ……抱かれること、ばかり?


   まぁ……だからって、そんなことばっかり、考えていたわけではないよ。


   ……。


   もっと言えば、夢見がちだったし……生々しいことなんて、ちっとも分からなかった。


   ……生々しい。


   なんだろう……亜美ちゃんに触れるようになってからかな、生々しく考えるようになったのは。


   ……。


   亜美ちゃんの躰は……。


   ……ぁ。


   思っていた以上に……柔らかくて。


   まこ、ちゃん……。


   ……良い匂いがして、熱くて、声は艶めかしくて。


   ミルクティー……。


   ……酷く、淫らだと思った。


   ……っ。


   亜美ちゃんを知ってから、自分が抱かれることよりも……亜美ちゃんを抱くことに、夢中になってしまった。


   ……も、ぅ。


   だから……次もまた、抱きたいな。


   ……抱かれたいという話では、なかったのね。


   いつかは……抱かれてみたい、と。


   ……。


   ……亜美ちゃんは、あたしのこと。


   分からない、わ……。


   ……分からない?


   今は……まだ。


   ……してみたいと、言ったのに?


   それは……だって。


   ……それどころじゃ、なくなった?


   ……。


   ……あは。


   な、に……。


   ……まだ、慣れてなんかいない。


   まだ……。


   ……まだまだ、これからだ。


   そう、なの……。


   然うだよ……だから、蕁麻疹の心配もしておかないと。


   ……。


   それに、ね……してみたいことが、あたしにはあるんだ。


   ……してみたい、こと?


   然う……してみたいこと。


   ……なに。


   今は、言わない……言ったら、嫌がると思うから。


   ……いやがることなの?


   慣れないうちは、嫌がることが多いのかなぁ……。


   ……。


   あたしも、分からないんだ……。


   ……まこちゃん、だったら。


   あたしだったら……抵抗感は、あるかな。


   ……。


   ……亜美ちゃんが嫌がるようだったら、しないよ。


   まだ、あるのね……。


   ……うん?


   してない、こと……。


   ……まだ、あるよ。


   もう、ないかと……。


   ……何度か、肌を重ねたけれど。


   ……。


   ……それでも、まだまだだよ。


   まこちゃん……。


   ……恥ずかしいって、思わせたいな。


   なにを、いっているの……。


   ……でも、思ったら、蕁麻疹が出ちゃうかも知れないから。


   ……。


   ね……亜美ちゃん。


   ……じゃ、ない。


   うん……なに?


   ……思っていないわけじゃ、ない。


   ……。


   今もまだ……恥ずかしいわ。


   ……然うなのかい?


   肌を、見られるのは……触れられるのだって。


   ……もう、慣れたと。


   今だって……まだ。


   肝心なところは……ちゃんと、隠しているね。


   ……。


   ……肩、きれい。


   ミルクティーが……冷めてしまう。


   ……もう、冷めているかも。


   ……。


   つまり、飲み頃だ……。


   ……も、ぅ。


   ん……?


   ……ばか。


   起こそうか……?


   ……自分で、起きる。


   ふふ、そっか……。


   ……。


   飲んだら……どうする?


   ……飲んだら。


   亜美ちゃんの好きなことをしよう……。


   ……。


   ……?
   亜美ちゃん……?


   ……かゆい。


   え……。


   ……久しぶりに。


   ど、どこだい?


   ……くびのうしろ。


   首の後ろだね……分かった。


   ……はぁ。


   薬は、と……うん、あった。
   使用期限は……まだ、大丈夫だ。


   ……すぐに。


   塗れるように、してあるよ。
   言ったろう、心配はしているって。


   ……ぬって、くれる?


   勿論。


   ……。


   亜美ちゃん、良いかい?


   ……ふふふ。


   ん……どうした?


   ……まだ、出るんだなって。


   ……。


   かゆいわ……。


   ……あぁ、もう。


   ……。


   ……これ以上、広がらないように。


   ねぇ、まこちゃん……。


   ん……他も痒いかい?


   ……むなもと。


   胸元だね……。


   ……。


   ……ん?


   ……。


   ……これは、あたしがつけたものじゃ?


   ふふ……。


   ……騙したな?


   かゆいなんて、言ってないもの……。


   ……言ってないけど、然うだと思うだろう?


   だから……あなたの、勘違い。


   ……全く、亜美ちゃんは。


   私が、なぁに……。


   ……可愛いな。


   ん……。


   ……とても、可愛い。


   まこちゃんの方が……ん。


   ……だから、したい。


   ……。


   ミルクティーを飲んだら……もう一度だけ。


   ……一度だけ?


   出来れば……二度でも、三度でも。


   ……。


   ん……亜美ちゃん。


   ……一度だけなら、いいわ。


  27日





   ……。


   ……。


   ……亜美ちゃん。


   ん……。


   ……蕁麻疹、大丈夫かい?


   うん……だいじょうぶ。


   そっか……じゃあ、続けても良い?


   ……え、と。


   続けない方が、良い……?


   ……キス、だけなら。


   キスだけ……。


   ……ごめんなさい、その先は未だ。


   ううん、良いよ……謝らないで。


   ……。


   亜美ちゃん……。


   ……まこ、ん。


   ……。


   ……まこちゃん。


   どきどき、してる……?


   ……心拍数が、普段よりも上がっているわ。


   はは、心拍数か……亜美ちゃんらしいや。


   ……変?


   んーん、変じゃないよ……ちっとも、変じゃない。


   ……ぁ。


   ……。


   ……あ、の。


   うん……?


   ……そろそろ。


   そろそろ、限界……?


   ……う、ん。


   ん、分かった……なら、ここまでにするね。


   ……まこちゃんは、もっと。


   本音を言えば、もっとしたいし……もっと、先に進みたい。


   ……。


   だけど……亜美ちゃんの速度に、合わせたいんだ。


   ……私の。


   蕁麻疹のこともあるし……亜美ちゃんに、負担を掛けたくない。


   ……。


   ……ほっぺたが、赤い。


   未だ、慣れないの……。


   ……あたしも、慣れてはいないよ。


   ……。


   なんせ、手を繋ぐより先は進んだことがなかったからさ……。


   ……私は、手を繋ぐことも初めてで。


   うん……。


   ……おともだちとは、違うのよね。


   うん、違うかな……。


   ……。


   おともだちであるあたし、恋人であるあたし……同じのようで、同じではないんだ。


   ……。


   亜美ちゃん……?


   ……まこちゃんとは、ずっと、おともだちでいたいと願ってた。


   ……。


   ずっと、おともだちでいようって……隣には、いられなくても……それでも、おともだちでいられれば、関係が切れることはないと思ったから。


   ……亜美ちゃん。


   だけど……まさか、まこちゃんが私のことを好きになって呉れるなんて。


   ……おかしいことでは、ないだろう?


   まこちゃんが好きになるひとは、いつだって、異性だったし……同性である私は、その対象ではないと。


   亜美ちゃんを好きになるまでは……いや、なっても、同性はその対象ではないよ。


   ……私、だけ。


   同性を好きになるのは、亜美ちゃんだけだし……亜美ちゃんと恋人同士になった今、異性に恋をすることもないんだ。


   ……。


   亜美ちゃんと……考えるだけでも悲しいから、あまり言いたくはないのだけど……若しも、亜美ちゃんとお別れすることになったら。


   ……また、異性に恋をする?


   かも、知れない……だけど、そんな時は来て欲しくないと、強く思ってる。


   ……あ。


   ずっと……ずぅっと、亜美ちゃんの傍に居たい。
   亜美ちゃんに、未来の先まで、傍に居て欲しい……。


   ……私では、まこちゃんの夢は叶わない。


   いいや、叶うよ……あたしが望むのは、法律婚ではないんだ。


   ……。


   あたしが望むのは……好きなひとと、しあわせな結婚をすること。
   確かに、法律婚でないと色々面倒なことが多い……みたいだけど、だからって、大好きな亜美ちゃんとお別れするのは絶対に嫌なんだ。


   ……まこちゃん。


   愛してるんだ……亜美ちゃんのこと。


   ……。


   好きになったひとと、相思相愛になりたいって……ずっと、夢見てた。


   ……それは、私でなくても。


   亜美ちゃんを、好きになるまでは……。


   ……。


   だけど、あたしを心から想って呉れるひとなんて誰ひとり居なかった……相思相愛なんて、夢のまた夢だったんだ。


   ……どのひとも、見る目がなさ過ぎるのだと思う。


   はは……。


   ……本当よ。


   ということは……亜美ちゃんには、見る目があるんだね。


   ……私は。


   ありがとう、亜美ちゃん……。


   ……ん。


   あたしを、見て呉れて……想って、呉れて。


   ……まこ、ちゃん。


   亜美ちゃんの言葉に、優しさに、思い遣りに……あたしが、どれだけ救われてきたか。
   きっと、亜美ちゃんは分かっていないと思うんだ……。


   ……私に、そんな大それたことは。


   出来ない……?


   誰かを救うなんて……私は、そんな人間ではないから。


   ……亜美ちゃんはいつだって、あたしに一生懸命になって呉れたろう?


   一生懸命……?


   誰かの為に一生懸命になれるひとなんて、実はそんなに居ないんだよ……。


   ……まこちゃんは。


   あたしは……下心があったしね。


   ……。


   亜美ちゃんは……その、あたしに下心なんて持っていたかい?


   まこちゃん、に……。


   ……多分、おともだちでいたい、くらいだと思うんだ。


   それだって……その、下心には違いないと思う。


   然うだけど……でも、あたしと恋人同士になりたいとか、あたしとキス以上のことがしたいとか、そんなことは考えたことなかったろう?


   ……。


   ん……?


   ……良く、分からなかったから。


   あぁ……然うだったね。


   ……だけど、知られてはいけないと。


   同性同士……世間では、どういう扱いを受けるか。


   ……私は、世間にどう思われたって構わないの。


   そんなことはないと思うよ……息苦しくなってしまうかも知れないし。


   ……世間、よりも。


   あたしに、どう思われるか……?


   ……。


   然うだよね……怖いよね……分かるよ。


   ……まさか、まこちゃんに恋愛感情を抱くなんて。


   それまで、誰にも恋をしたことがなかったんだっけ……。


   ……私は恋なんてしない、するわけがないと。


   だけど……違った。


   ……誰かと深い関係になりたいなんて、思ったことはなかったの。


   でも、あたしに対して初めて然う思った……。


   ……知らない感情に、戸惑って。


   それで……その感情に、そっと蓋をした。


   ……蓋。


   恋人になるのは望まない……ずっと、ともだちでいたい……と。


   ……。


   ……ね、初めてキスをした時のこと、憶えているかい。


   うん……憶えているわ。


   ……あの時に初めて、亜美ちゃんがあたしに告白して呉れたんだよね。


   言うつもりなんて、なかった……だけど。


   亜美ちゃん……マーキュリーの意識が戻ったら、あたしは告白するつもりだった。
   だけど、先に告白されてしまって……まさか、告白されるなんて思っていなかったから。


   ……キス、されたの。


   嬉しくて、躰が勝手に動いちゃったんだ……キスなんて、したことなかったのに。


   ……私ははじめ、まこちゃんに何をされたのか理解出来なくて。


   目が覚めたばかりだった……というのも、あったのだろうけど。
   なんせ、三日も意識が戻らなかったんだ……あの時の恐怖は、今でも思い出せる。


   ……思い出さないで。


   ん……思い出さない。


   ……。


   若しかしたらって、思ってた……だけど、確信はなかったんだ。


   ……私の気持ち、漏れてた?


   漏れてると言うより……傍に居て欲しい時に、いつも居て呉れたから。


   ……。


   ただの、おともだちかも知れない……だけど、違うかも知れない。
   あの時は、同性とか、考えてなかった……亜美ちゃんがあたしのこと、好きだったら。
   若しも然うだったら、心の底から嬉しい……然うだったら、良いのにって。


   ……それで、告白しようと。


   告白されることも、期待したけど……待っているよりも、あたしから告白しようって。
   思い切って、告白する……その方が、あたしらしいと思ったんだ。


   ……。


   だけど、告白しようと心に決めた時、然ういえばあたし達は同性同士なんだなって気が付いて……同性であるあたしに告白されたら、亜美ちゃんはどう思うだろうって。
   亜美ちゃんがあたしに恋愛感情を持っていなかったら……最悪、嫌われる? いや、困らせてしまうかも知れない……。


   ……。


   あの穏やかで優しい顔を、曇らせてしまうのは嫌だ……違う、戸惑ったような目で、見られたくない。
   気持ち悪いって、思われるかも……だめだ、そんなの、耐えられない。


   ……。


   若しかしたら、本気だと思われないかも知れない……或いは、あまりにも恋が上手くいかないものだから、誰でも良いのではないかと誤解されてしまうかも知れない。
   若しも、恋が実らなくても、亜美ちゃんは優しいから、ともだちでいて呉れるかも知れない……だけど、ぎくしゃくしてしまって、結局は離れることになってしまうかも知れない。


   ……まこちゃん。


   亜美ちゃんを失うことは……今まで味わった失恋の痛みなんかと比べ物にならないくらい、苦しいものだと。
   亜美ちゃんが、居なくなる……居なくなってしまう。想像しただけで、酷く苦しくなって……汚い話、お腹の中のものを戻してしまったこともある。
   男の子との恋愛が失恋に変わったところで、落ち込むはすれど……そんなことは、ただの一度もなかったのに。


   ……。


   同性であることと、自分の惚れっぽさ……あの時ほど、恨めしいと思ったことはなかったよ。


   ……いつかのあなたの夢を見たの。


   夢……?


   ……意識が戻る前。


   あぁ……うん、聞いた。


   そのひとと、何か話したとは思うのだけれど……会話の内容は、今でも思い出せない。


   ……良いよ、思い出さなくて。


   ……。


   ……なんとなく、面白くないから。


   ふふ……然う。


   ……あ、少し嬉しそう。


   そんなこと……あるかも。


   かも、じゃなくて……あるんだろう?


   ……うん、ある。


   ……。


   ん……まこちゃん。


   ……可愛いなぁ。


   そんなこと……。


   あるよ……亜美ちゃんは世界で、ううん、宇宙で一番、可愛い。


   ……言い過ぎ。


   いいや、言い過ぎじゃない……。


   ……もぅ。


   ふふ……。


   ……もうひと押しだったのだと思う。


   うん……?


   ……あなたに、自分の想いを告白すること。


   ……。


   ……使命のこと、未来のこと、同性同士であること、色々、考えて。


   亜美ちゃんは、難しく考えてしまうから……。


   ……まこちゃんだって。


   あたしの場合は、面倒と言うか……。


   ……私も、大概に面倒だと思う。


   ……。


   ……もっと早く告白していれば、もっと早くキスして貰えたのに。


   うん、してたと思う……。


   ……。


   然ういえばあの時、蕁麻疹は出なかったよね……。


   ……ん、出なかった。


   どうしてだろう……?


   ……今でも、良く分からないの。


   然うなんだ……不思議だね。


   ……。


   ん……亜美ちゃん。


   ……キスなら、もう、出ない。


   だったら……今まで以上に、出来るようになるかな。


   ……今まで以上?


   然う……今まで以上。


   ……。


   む……。


   ……あの。


   出なくなったとは、言え……調子に乗っては、だめ?


   ……少しずつ、慣らして。


   ならし……?


   ……私の、躰。


   え……。


   ……まこちゃんの、手で。


   あ、あたしの手……?


   ……キスだから、唇?


   う、ぁ……。


   ……?
   まこちゃん……?


   ……。


   どうしたの……?


   ……ん、ちょっとね。


   私、何か間違ったことを言った……?


   ……間違ったことは、言ってない。


   じゃあ……。


   ……ちょっと、いや、大分。


   ごめんなさい、私……。


   ……。


   未だ、良く……ん。


   ……刺激が、強過ぎて。


   しげ、き……?


   ……慣らして、なんて。


   若しかして、言葉を間違えた……?


   ……今のあたしには、刺激にしかならない。


   ご、ごめんなさい……んっ。


   ……ね、亜美ちゃん。


   な、に……。


   ……あたしが、亜美ちゃんの躰を、慣らしても、良い?


   ま、まこ、ちゃん……。


   ……少しずつ、だけど、確実に。


   あ……ぁ。


   ……正直なことを言えば、触りたくて仕方ないんだ。


   さわ、り……。


   ……亜美ちゃんの躰、全部。


   ……っ!


   だけど……今直ぐにじゃ、ない。


   ……。


   ちょっとずつ、慣らして……亜美ちゃん?


   ……かゆい。


   あ。


   ……ごめん、なさい。


   あ、亜美ちゃん!


   ……。


   ご、ごめん、ごめんよ!
   あたしが、余計なことを言ったから!


   ……ううん、謝らないで。


   だけど……いや、今は薬を!


   ……慣らしてと、言ったのは、私なのだから。


   どこが、痒い……あ、自分で塗る?


   ……おねがい、してもいい?


   い、良いよ、ど、どこだい?


   ……せなか。


   背中……分かった、背中だね。


   ……あなたが、ふれたところ。


   あたしが……。


   ……やさしく、ぬって。


   ……!


   ……おねがい、まこちゃん。


   わ、分かった……。


   ……。


   服……。


   ……だいじょうぶ、きにしないで。


   す、直ぐに塗るからね……。


   ……ん。


   ……。


   ……あっ。


   あ、ご、ごめ……。


   ……きに、しないで。


   亜美、ちゃん……。


   ……あまり、みないで。


   耳、まで……。


   ……はずかしい、から。


   ……。


   ……まこちゃん。


   塗るよ……亜美ちゃん。


   ……


   下着は、外さなくても良さそうだから……。


   ……。


   若しも、不快だったら……直ぐに、言って。


   ……う、ん。


   ……。


   ……けっこう、でてる?


   いや……思ったよりは、出てないかな。
   だけど……油断は、出来ないから。


   ……ん……ん。


   ……。


   ……。


   ……はい、おしまい。


   ありがとう……。


   ……早く、治まって呉れると良いね。


   だいじょうぶだと、おもう……。


   ……。


   ……あの、まこちゃん。


   なんだい……。


   ……もういちど、その。


   抱き締めても、良い……?


   ……たぶん、それくらいなら。


   別の場所が痒くなったら、直ぐに言って……。


   ……ん、いう。


   ……。


   ……。


   ……きれい、だった。


   きれい……?


   ……亜美ちゃんの、背中。


   きれい、なんかじゃ……。


   ……見るのは、初めてではないのに。


   ……。


   とても……どきどき、してる。


   ……。


   大丈夫、かい……?


   ……うん、だいじょうぶ。


   そっか……良かった。


   ……いつか。


   いつか……?


   ……あなたに、もっと。


   少しずつ、慣れていこう……。


   ……ならして。


   ……。


   あなたの、てで……。


   ……他の手になんて、触れさせはしない。


   ……。


   あたし、だけだ……。


   ……あなた、だけ。


   ね、亜美ちゃん……。


   ……なぁに、まこちゃん。


   キスを、しても良いかい……。


   ……うん、いいわ。


   少し、長めのキスを……。


   ……ながめの。


   嫌だったら……触れるだけの、キスを。


   ……して。


   ……。


   して……まこちゃん。


   ……息が、出来ないかも。


   いき……?


   ……それでも、良いかい?


   して、ほしい……。


   ……。


   ……おしえて、まこちゃん。


   あぁ……。


   ……。


   未だ、慣れる程していないから……下手かも、知れないけど。


   ……いいじゃない。


   いい……?


   ……すこしずつ、ならしていくの。


   ……。


   ……あなたとわたし、ふたりで。


   うん……然うだね。


   ……。


   ……慣らしてね、亜美ちゃんの唇で。


   わたしの……。


   ……だって、然うだろう?


   ……。


   ……恥ずかしくなった?


   へい、き……。


   ……ね、結構刺激が強いだろう?


   ……。


   ふふ……。


   ……キス。


   ……。


   ……しないの。


   するよ……今から。


   ……。


   ……誰よりも愛してるよ、亜美ちゃん。


   わたし、も……ん。


  26日





   ……。


   ……。


   ……亜美ちゃん。


   ……っ。


   そこにいるんだろ……こっちに、来てよ。


   ……まこちゃん。


   はは、やっぱりいた……。


   ……どうして、分かったの。


   どうしてかな……なんとなく、そこにいると思ったんだ。


   ……ごめんなさい、私。


   ん、どうして謝るんだい……?


   ……。


   気にしてくれたんだろう……ありがとうね。


   ……今日ね、塾がお休みなの。


   へぇ、そうなんだ……。


   だから……その。


   ……そばに、いてくれる?


   わ、私でいいのなら……。


   ……ふ。


   あ……。


   ……。


   私じゃ、だめよね……ごめんなさい。


   ……ううん、うれしいよ。


   やっぱり、うさぎちゃん達の方が……。


   ……今は、亜美ちゃんにいて欲しい。


   まこちゃん……。


   ……そういうわけだから、そばにいてもらおうかな。


   うん……。


   ……それで、さ。


   なに……?


   ……あたしの言うこと、なんでも聞いてくれたらうれしいな。


   な、なんでも……?


   そう……なんでも。


   ……なんでもって、例えば。


   安心して……めちゃくちゃなことは、言わないから。


   ……。


   とりあえず、こっちに来てくれないかな……?


   ……う、ん。


   はぁ……。


   ……まこちゃん。


   ねぇ、亜美ちゃん……。


   ……なに。


   あたし、また、ふられちゃった……。


   ……。


   面倒だってさ……ちょっと前までは、都合がいい女って言ってたのに。


   ……知っていたの。


   うん、知ってたよ……男子ってさ、基本的に分かりやすいよね。


   ……。


   だけど、それでもいいと思ってた……だって、楽しかったから。


   ……まこちゃんは一度好きになると、一途に尽くすきらいがあるから。


   きらい……?


   えと……一途に尽くす傾向があるから。


   傾向……。


   ……きらいとも、言うの。


   あぁ、そうなんだ……うん、またひとつ、覚えた。


   ……。


   ……ばかなあたしのことなんて嫌いって、そう言われたのかと思った。


   そ、そんなこと、言わないわ……。


   ……言葉にしないだけで。


   思ってもいない……。


   ん……そっか。


   ……本当よ。


   うん……。


   ……。


   ねぇ、都合がいいってさ……考えてみれば、ただそれだけの意味なんだよね。
   ただただ都合がいいだけで……要するに、利用価値があるってことなんだ。
   そんなのは、愛じゃない……。


   ……あの、まこちゃん。


   ん……?


   ……ごめんなさい、なんでもないわ。


   実は本命の彼女がいるんだろう……知ってるよ。


   ……。


   あたしの告白よりも、後に……あれで、分からないわけがないよね。


   ……最低だと、思ったわ。


   うん……あたしも、思うよ。


   ……。


   でも、言わないでいてくれたね……。


   ……この場合、どちらが正しいのか。


   みんなは言うべきだと言ったろう……?


   ……。


   だけど、亜美ちゃんだけは言わなかった……どちらが正しいか、分からないから。


   ……もしも、まこちゃんの身に何かあったら。


   何かって……?


   ……。


   言いにくいかい……?


   ……まこちゃんが、同意の上なら、それでいいの。


   同意、か……。


   ……。


   ……代わりにされるのは、まっぴらごめんだと思ったよ。


   代わり……。


   ……彼女の。


   ……。


   あぁ、こいつはつまり、そういう奴なんだなぁって……それで、一瞬で冷めた。


   ……あぁ、良かった。


   ふふ……。


   ……あ。


   あたしも良かったと思っているよ……そんな奴に、自分をくれてやる必要なんて全くないからさ。


   ……。


   手を繋いだだけ……今回も、それぐらい。
   その先に進むのは、あたしには難しいみたいだ……。


   ……望んで、いるのよね。


   まぁ……相思相愛の関係ならば、ね。


   ……。


   都合がいい女かもしれないけど……それくらいは、あたしだって選ぶよ。


   ……うん、選んで。


   ……。


   ……。


   面倒で、邪魔になったら……さっさと、捨てるんだ。


   ……そんなの。


   まぁ、いいけどさ……一瞬だけでも、楽しかったし。
   ふられたって言っても、あたしからもふってやったようなもんだし。


   ……。


   だから……この恋はもう、おしまい。
   今から、いつものあたしに戻る。


   ……今から?


   そう、今から。
   失恋モードは、おしまい。


   ……。


   ん……亜美ちゃん?


   ……今日、くらいなら。


   ううん……いいんだよ、もう。
   全部、終わったことなんだ……。


   ……。


   正直……あんな奴のことなんか、考えたくない。
   一秒だって、無駄にしたくないんだ……。


   まこちゃん……


   こんな話を聞いてくれて……ありがとね、亜美ちゃん。


   ううん……私で良ければ。


   ……ふふ。


   まこちゃん……?


   ……亜美ちゃんはただ、静かに寄り添ってくれるよね。


   あ……。


   ……これがうさぎちゃんやレイちゃん、美奈子ちゃんだったら怒ってくれると思うから。


   わ、私だって、怒っているわ……。


   ……そうかい?


   私の、大切なお友達を傷つけて……出来ることなら、社会的におしおきしてあげたいと。


   おしおき……。


   ……セーラームーンでは、ないけれど。


   亜美ちゃんの場合は……水を被せる方じゃないかな。


   ……社会的に。


   うん、社会的というのがちょっと分からないけど……亜美ちゃんはそんなこと、しなくていいよ。


   ……。


   怒ってくれるのは、嬉しい……だけど、寄り添ってくれるのは、もっと嬉しい。


   ……私、まこちゃんの為に何も出来ないから。


   そんなことないさ……今だって、そばにいてくれてるだろう?


   ……恋愛の話も、良く分からないし。


   無理して分かろうとしなくてもいいよ……あたしは、そんな亜美ちゃんのことが、好きだから。


   ……好き?


   うん……好きだよ。


   ……。


   亜美ちゃんはさ……その、あたしのこと、好きかい?


   ……うん、好きよ。


   そっか……へへ、うれしいな。


   ……私はまこちゃんのこと、誰かの代わりになんてしないわ。


   ……。


   まこちゃんは、まこちゃんであって……うさぎちゃんやレイちゃん、美奈子ちゃんの代わりになんてならない。
   みんなもまた、まこちゃんの代わりにはなれないし、私も求めない……だって、どうしたって、為り得ないから。


   亜美ちゃんは……大人だなぁ。


   ……大人?


   うん……あたしよりも、ずっと、大人。


   ……そんなこと。


   亜美ちゃんはきっと、恋人の代わりなんて求めないんだろうな……。


   ……恋人。


   そ……恋人。


   ……恋人なんて。


   いつか、出来るかもしれない……そのひとはきっと、亜美ちゃんにとって、とっても大切なひとになると思う。
   もちろん、そのひとも……亜美ちゃんのことを、大切に想ってくれると。


   ……。


   でなきゃ……あたしが、赦さない。


   ……まこちゃんが。


   あたしは……怒ってしまう方かな。


   ……まこちゃんは、寄り添ってくれると思う。


   そうかな……。


   ……怒りながら、かもしれないけど。


   はは……そうかも。


   ……私も、怒ってはいるのよ。


   ん……分かっているよ。


   ……。


   よし……とりあえず、帰ろっか。


   ……うん。


   今日は塾、お休みだって言っていたよね。


   ……うん、言ったわ。


   じゃあ……あたしの言うこと、聞いてもらおうかな。


   ……なんでもは、その、難しいと思うけど。


   今夜は、あたしのそばにいて欲しい。


   ……。


   だめかな……。


   ううん……私で良ければ。


   亜美ちゃんがいい……今夜は、静かに過ごしたいんだ。


   ……静かに?


   みんなだと、楽しく盛り上げてくれそうで……うれしいけど、今はそんな気分じゃない。


   ……もしも、そんな気分だったら。


   亜美ちゃんにも、いて欲しい。


   ……。


   それで……出来ればみんなが帰った後、亜美ちゃんだけ残って欲しい。


   まこちゃん……。


   木には……水が必要なんだ。


   ……。


   ね、なんて言ったっけ。


   ……なんて。


   ほら……んー、なんだっけな。木には水が……いや、水が木を育てるだっけかな。
   なんか、そんな言葉があったような気がするんだ。


   ……もしかして、五行の相生の関係のことかしら。


   ごぎょー?


   水生木……木は水によって養われ、水がなければ木は枯れてしまう。


   あぁそれだ、多分。


   五行説なんて……まこちゃん、どこで。


   あー……まぁ、前に好きだったひとがね。


   ……あぁ。


   あたしにとって……亜美ちゃんは、必要なひとなんだと思う。


   ……。


   なんて、ごめん……迷惑だよね。


   ううん……迷惑ではないわ。


   勝手に、必要なひとなんて言っちゃって……すごく、鬱陶しいと思うんだ。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   な、なんだい……。


   ……水は、木を枯らすこともあるわ。


   ……。


   だから……良いとは、言い切れない。


   ……なんでもそうだけれど、適度というものがある。


   適度……。


   ……あたしは、求めすぎてしまうきらいがあるから。


   ……。


   もしも木が枯れてしまったら……亜美ちゃんが悪いというより、あたしが悪いんだ。
   亜美ちゃんは、きっと、適度にお水をくれようとしてくれる筈だから……。


   ……私。


   あ、や、ごめん……すごい、面倒臭いこと言ってるよね。
   あぁ、だめだな……ともだちにまで、こんな。


   ……好きなひとにも、言うの?


   え……?


   ……曰く、面倒臭いこと。


   あー……え、と。


   ……。


   自分では、言ってないつもりなんだけど……。


   ……自覚、してない?


   みたい……。


   ……今回のひとには、なんて言ったの。


   今回の奴には……何を言ったっけな。


   あの……心当たりがなかったら。


   ……夢は、お嫁さん。


   ……。


   こんな家に住みたいとか……。


   ……そう、分かったわ。


   面倒、だよね……。


   ……たかが学生の男子に、そこまで考える頭はないと思うわ。


   お……。


   いやらしいことは、考えるでしょうけど……結婚生活を考えられるひとなんて、きっと、いない。
   もしも考えられたとしても、たかが知れている……大したことなんて、思いつきもしない。


   ……。


   結婚をすればそこでおしまい、なんてわけがない……結婚は始まり、その先もずっと、続いていく。
   つまり、現実問題でしかないの……生活やお金、子供の問題だってあるわ。全てが思い描いたようになんて、絶対にいかない。いくわけが、ない。
   そこまで考えられる男子、親に養ってもらっている分際で、どこまでいるか。余程のことがない限り、いないわ。


   ……亜美ちゃん。


   うん……?


   結構、怒っているね……?


   ……え。


   考える頭はないって……うん、かなり厳しい言い方だ。


   あ、私……。


   ……だけど、その通りだ。


   ……。


   けど、男子だけじゃない……あたしも、夢に描いているだけで……現実のことなんて、考えられていないから。
   あたしにもさ、そんな頭はないんだ……ただ、お嫁さんになりたい……しあわせな結婚がしたいって、だけで。


   ……。


   生活とか子供とか、本当に結婚したいのならしっかりと考えるべきだし……ただの夢だけじゃ、どうにも出来ないんだよね。


   ……ごめんなさい、私。


   ううん……。


   ……。


   ……やっぱり、夢見がちなあたしには亜美ちゃんが必要なんだなぁ。


   ……。


   ね、今夜は話を聞いて欲しいな。


   ……うん、幾らでも聞くわ。


   あ、お勉強もした方がいい……?


   出来れば……でも、今夜は。


   数学を教えて欲しい。


   ……数学?


   なんかさ、失恋したくらいで勉強が出来なくなるって、なんだか癪じゃないか。


   ……。


   あいつよりも、良い成績を取って……特に、数学が得意みたいだからさ。


   ……いいと思うわ。


   そう?


   ええ……必ず、彼よりも良い成績を取れるように。


   お願いします……水野先生。


   ……付いてきてね、木野さん。


   ふふ……はい、付いていきます。


   ……。


   ねぇ、今日は何が食べたい?


   今日は……まこちゃんが食べたいもので。


   そうかい?
   じゃあ、亜美ちゃんの手料理。


   ……え?


   え?


   わ、私の……?


   うん、亜美ちゃんの。
   なんでも聞いてくれるんだろ?


   で、でも、私の手料理なんて……。


   作れない?


   ……まこちゃんのようには。


   あたしは亜美ちゃんの手料理が食べたいんだ、あたしが作るようなごはんが食べたいわけじゃない。


   ……。


   じゃあ、こうしようかな。


   ……あの、簡単なものでいいのなら。


   もちろん、いいに決まってる。


   ……。


   と言っても、料理に簡単なものなんてないから。
   亜美ちゃん、希望を変えてもいいかい?


   いい、けど……。


   ふたりで、作ろう。


   ……ふたりで?


   そう、ふたりで。
   それなら、どうだい?


   ……私は、構わないわ。


   うん、じゃあ決まり。
   スーパーに寄って帰ろう。


   ……。


   スーパーでさ、何が食べたいか決めようよ。
   材料を前にした方が、食べたいものが浮かぶかもしれないから。


   ……うん、分かった。


   じゃ、行こう。


   うん、行きましょう。


   ……へへ。


   ん、なに?


   なんだか、もうすっきりしちゃったかもしれない。


   すっきり?


   失恋。


   ……。


   亜美ちゃんのおかげだ。


   ……私は、そんな。


   ありがとう、亜美ちゃん。


   ……その。


   ね、受け取って欲しいな。


   ……。


   お願いだよ、亜美ちゃん。


   ……その、どういたしまして。


   ……。


   ……受け取った、わ。


   ふふふ。


   ……おかしかった?


   んーん、おかしくない。
   大好きだ、亜美ちゃん。


   え……え?


   今夜は、楽しみだなぁ。
   亜美ちゃんとふたりきりだ。


   ま、まこちゃん……。


  25日





  -Chronicle(現世1)





   ……ただいまー。


   お帰りなさい。


   ん……亜美ちゃん?


   ついさっき、目が覚めて。


   然うなんだ。
   躰を起こしていて、大丈夫なのかい?


   ん、少しくらいなら。
   外は寒かったでしょう?


   うん、寒かったかな。


   濡れなかった?


   大丈夫、あまり濡れてないよ。
   ちょっとそこまで行ってきただけだから。


   でも、風邪を引いてしまうかも知れないから。


   手洗いうがいをしっかりして、躰を温めます。


   ……うん。


   そうそう、雨が雪に変わったよ。


   雪に?


   だから、今年はホワイトクリスマスだ。
   レイニークリスマスも悪くはなかったけど。


   ……珍しいわね、クリスマスに雪だなんて。


   ね。


   ……。


   外、見てみるかい?


   ……でも。


   亜美ちゃんさえ良ければ、換気も兼ねて窓を開けようと思うんだけど。


   でも、まこちゃんは帰ってきたばかりだし……今は、躰を温めないと。


   少しくらいなら大丈夫さ。
   それに、コートとマフラーがあたしを守って呉れるから。


   ……。


   亜美ちゃんも、何か羽織って。
   そこにあたしのパーカーがあるから、それでも良いよ。


   ……パーカー?


   ん、持ってきたんだ。


   ……借りても良いの?


   勿論、その為に置いておいたんだからさ。


   ……。


   ん?


   ふふ……まこちゃんったら。


   はは。


   ……ありがとう、借りるわね。


   うん、どうぞ。


   ……。


   後で柚子茶を淹れようと思うんだけど、飲むかい?


   ……ん、飲む。


   ん、分かった。


   ……こほっ、こほっ。


   あ、大丈夫かい?


   ん……平気。


   熱は下がったけれど、咳がなかなか取れないね。


   ……。


   ん、どうした?


   ……ごめんなさい、まこちゃん。


   え、なんで?


   ……折角のクリスマスなのに。


   あぁ……もう、それで何度目だい?


   ……ん。


   クリスマスは、今年でおしまいなわけじゃない。
   あ、だからって、今年のクリスマスは今日しかないなんて、言わないでね。


   ……。


   あたしは、亜美ちゃんと過ごせればそれで良いんだ。


   ……私も、楽しみにしていたの。


   うん……知ってる。


   ……チキンとクリスマスケーキが、おうどんとお粥になってしまって。


   チキンとケーキは、亜美ちゃんが元気になってから食べよう。
   なんだったら、お正月に食べたって良いさ。あけまして、おめケーキってね。


   ……おめケーキ?


   おめでケーキの方が良いかな。


   ……どちらも、あまり語呂が良くない気がするわ。


   うーん、そっか。じゃあ、普通に。
   あけましておめでとう、今年も仲良く過ごせるようにケーキとチキンでお祝いしよう。
   なら、どうだい?


   ……。


   ん、此れも変かな。


   ううん……良いと思う。


   ふふ……それじゃあ、それで。


   ……それまでには、必ず治すわ。


   無理のないようにね。


   ……。


   そろそろ、良いかい?


   ん……良いわ。


   ……よ、と。


   ……。


   ほら、雪が降ってる。


   あぁ……本当。


   粉雪ではないけれど、それでも、ホワイトクリスマスには違いないから。


   ……きれいね。


   きれい?


   ……今は、きれいに見える。


   そっか……。


   ……風が冷たい。


   もう、閉めようか。


   ううん……もう少しだけ。


   ……。


   まこちゃんと……外で、見たかった。


   ……また、見られるさ。


   うん……。


   ……。


   ……ありがとう、まこちゃん。


   閉めても良いかい?


   ……ん、閉めて。


   分かった。


   ……ふぅ。


   ……。


   ん……まこちゃん。


   ……うん、熱くないね。


   一応、平熱には戻ったから……。


   ……だけど、夜になったらまた出てくるかも知れないから。


   ん……無理はしない。


   ……今日のお夕飯はどうしようか。


   今日のお夕飯は……ごめんなさい、まださっぱりしているものの方が。


   そっか……じゃあ、ほうとうにしようか。


   ほうとう?


   うどんでも良いけど、たまには違ったものをと思ったんだ。


   ……あぁ。


   具は南瓜や白菜、それから茸、味はお味噌。
   ほうとうを入れて、柔らかくなるまでじっくり煮込む……どうかな。


   美味しそう……。


   食べたいかい?


   ん……食べたい。


   なら、決まりだ。


   ほうとうは売っていたの?


   うん、もう棚に並んでいたよ。
   寒い日に食べると美味しいからさ、ほうとう。


   ……お味噌の味が染みていると、特に美味しいの。


   うんうん、然うなんだ。


   ……お鍋に入れても、美味しいわ。


   味噌でなくても、美味しいんだよね。


   ……ふふ、楽しみ。


   お、良いね。


   ……え?


   楽しみに思えるということは、食欲が戻ってきた証だと思うから。


   ……然うかも。


   美味しく作るからさ、楽しみにしていてね。


   ふふ……うん。


   お肉は、どうしようか。


   ……豚肉?


   鶏肉もあるよ。


   んー……どちらも、少しなら食べられると思う。


   入れても良いかい?


   ん、入れて……お肉の出汁が出て、もっと美味しいと思うから。


   入れるのは、どちらでも良い?


   うん……まこちゃんが食べたい方を入れて。


   あたしが食べたい方か……だったら、然うだな。


   ……やっぱり、豚肉?


   いや……今日は、鶏肉かな。


   ……クリスマスだから?


   クリスマス?


   ……チキン。


   あ、そっか。


   ……考えてなかった?


   うん、ただ鶏肉が良いかなぁって。


   ……然う。


   鶏肉でも美味しいだろう?


   ……うん、美味しい。


   ん。


   ……ふぅ。


   疲れたかい?


   ……体力が少し、落ちてしまったみたい。


   熱が出たんだ、仕方ないさ。
   咳も、なかなか体力を削って呉れるしね。


   ……。


   さぁ、横になって……折角良くなってきているんだ、無理は良くない。


   ……お勉強も、出来なくて。


   治ったら、またすれば良いさ。
   冬休みは未だ、始まったばっかりなんだから。


   ……。


   ねぇ、亜美ちゃん。


   ……治ったらまた、一緒にお勉強、して呉れる?


   それは、勿論。


   ……今も、してる?


   え。


   ……してない?


   いや、してるよ。
   とりあえず、二学期の復習をしてるんだ。


   ……二学期。


   でも……正直なことを言うと、亜美ちゃんが隣に居ないから捗らなくて。


   ……。


   だから……治ったらまた、一緒にお勉強して欲しい。


   ……うん、しましょう。


   その時は、宜しくお願いします……亜美ちゃん。


   ……こちらこそ、お願いします。


   ……。


   ……ん、まこちゃん。


   亜美ちゃん……。


   ……駄目よ、移ってしまうから。


   ん、然うか……残念。


   ……治ったら、ね。


   ……。


   なに……?


   ……良いの?


   ……。


   キスだけで、終わらないかも。


   ……もぅ、まこちゃんは。


   あはは……。


   ……ふふ。


   今は……。


   ……


   お大事に……。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   なんだい……。


   ……来て呉れて、ありがとう。


   お礼なんて……。


   ……ううん、言わせて。


   言いたい……?


   ん、言いたい……だから。


   ……分かった。


   ありがとう、まこちゃん……あなたが来て呉れて、とても心強い。


   ……気ばかり急いて、買い忘れがあったりもしたけれど。


   いつもはそんなこと、ないのにね……。


   ……それだけ、亜美ちゃんのことが心配なんだ。


   ……。


   今夜はお母さん、夜勤なんだよね……。


   ……うん、夜勤。


   それでさ、亜美ちゃん……。


   ……傍に、居て呉れる?


   居ても、良いのなら……傍に居たい。


   ……だけど、移ってしまうかも知れないわ。


   亜美ちゃんから離れて、マスクをして寝るよ……換気も忘れない。


   ……。


   ね、それなら良いだろう……亜美ちゃん。


   ……若しも、まこちゃんが風邪を引いてしまったら。


   その時は……亜美ちゃんに看病してもらおうかな。


   ……。


   なんて……ん?


   ……私で、良ければ。


   亜美ちゃんが、良い……。


   ……美奈子ちゃんだと、お粥が焦げてしまうものね。


   余計に、熱が上がってしまうよ……。


   ……。


   でも、亜美ちゃんが良い理由は、それじゃない……。


   ……まこちゃん。


   好きなひとに、傍に居て欲しい……だから、美奈子ちゃんには悪いけど。


   ……う、ん。


   ……。


   ……だめ、移ってしまうから。


   だから……手で触れるだけ。


   ……後で、良く洗ってね。


   うん……良く洗うよ。


   ……。


   手……冷たいかい。


   ……ん、少し。


   ……。


   外……本当に寒かったのね。


   ……寒かったけど、あたしの心の中は熱かったよ。


   ……。


   なんて……。


   ……また、熱が出てしまうかも。


   え……。


   ……まこちゃんの熱に、中てられて。


   ん……それは良くないな。


   ……ねぇ。


   今、離れるよ……。


   ……好き。


   ……。


   ……言いたくなったの。


   そっか……嬉しいな。


   ……まこちゃんは。


   好きだよ。


   ……。


   ……大好きだ。


   ……。


   嬉しい……?


   ……嬉しい。


   ふふ、良かった……。


   ……早く、あなたと。


   早く、一緒に暮らしたいな……。


   ……。


   ……あ、然うだ。


   なに……。


   こんなの、貰ってきた。


   ……これ。


   結婚と家族生活をはじめるブック、だってさ。


   ……。


   未来、生活、お金、結婚式、手続き、届け出……が、書いてあるんだ。


   ……こんなものが、あるのね。


   うん……面白いなって、思って。


   ……夫婦になるなら、読んでおこう。


   治ったら、読んでみないかい……?


   ……。


   興味、ないかな……。


   ……読んでみる。


   ……。


   ……まこちゃんと。


   じゃ、ふたりで読もうか……。


   ……まこちゃんはもう、読んでいるのよね。


   ぱらっとしか、未だ見てないんだ。


   ……先に。


   んーん、楽しみにしておく。


   ……。


   ね、良いだろう……?


   ……待ってて呉れる?


   勿論……待ってるよ。


   ……。


   ……早く、キスしたいなぁ。


   もぅ……まこちゃんは。


  24





   ……はぁ。


   寒いか。


   ……寒くないわけがないわね。


   ま、こんな雪が降る夜に外を出歩いていればな。


   ……温めて。


   喜んで、と言いたいところだが、今はちと難しい。
   歩みを止めても良いと言うのなら、叶えてやれるが。


   ……言ってみただけ、本気にしないで。


   懐炉はもう、冷めてしまったか。


   ……いいえ、未だ温かいわ。


   となると……ただ単に、あたしの温もりが


   黙って。


   応。


   ……ふぅ。


   雪が大分、弱まってきたな。
   此れならば、予定よりも早く着くかも知れん。


   ……然う願いたいわ。


   明日でも良かったんだぞ、今夜はあの町で宿を取ってさ。
   取っていたら今頃、温かい湯に浸って、あったかい飯を食って、一組の煎餅布団でふたり仲良く寝てただろう。


   ……。


   ん、否定されないな。
   良いのか、一組の布団で?


   ……あなた、無駄に熱いから。


   今も熱いぞ。


   ……知ってる、汗の匂いがするから。


   臭いか?


   ……もう慣れてる。


   着いたら、躰を拭かせて貰おうかな。


   ……せいぜい、風邪を引かないように。


   ん、気を付けよう。


   ……。


   なぁ、後でうんとあっためてやるからな。


   ……止むかどうか、分からないでしょう。


   うん?


   ……雪。


   其れでも、お日さんが沈んでいなければ問題


   吹雪いて、前が見えなかったら?


   其れは……流石のあたしでも難しいな。


   ……であるならば。


   まぁ、然うだな。
   お前の判断はいつだって正しいから。


   ……あなたは寒くないのよね。


   足を動かしているからなぁ、でも、汗が冷えたら凍えると思う。


   ……当たり前。


   凍えないように、お前に温めて貰わないと。


   ……私よりも、火の傍に居た方が余程有効的だわ。


   いや、寒い夜は火よりもひとの温もりの方が良い。


   ……私でなくても。


   お前が良い、お前の温もりでなきゃ駄目だ。


   ……たまには、他の温もりも良いかも知れないわよ。


   あたしは、然うは思わない。


   ……まぁ、どうでも良いけれど。


   あたしは、お前だけだ。
   ずぅぅっと、な。


   ……鬱陶しいわね。


   ははは。


   ……。


   あまり、響かないな。


   ……雪が音を吸収しているから。


   こういう夜は、夜襲を仕掛けるのにうってつけなんだ。
   相手も大体、油断しているしな。


   ……あなたは然うでしょうけれど。


   お前だって、然う考えるだろう?


   ……戦力による。


   あたしと……ちびが居れば、成り立つ。


   ……ちび、ね。


   あの頃はちびだった。


   ……今はもう、違うわ。


   いや、案外ちびのままかも知れぬ。


   ……躰は大きくなっているでしょうから。


   なっているかな。


   ……初めて見た時よりも、大きくなっていたのでしょう。


   うん?


   ……戦が終わった頃には。


   あぁ……まぁ、然うだな。


   ……。


   ……生き残って呉れて、良かったと思う。


   其れなりに、可愛がっていたようだものね……。


   んー……然ういうつもりでは、なかったんだが。


   ……少なくとも、他のむさ苦しい者共よりは。


   あれはあれで……だけど、然うだな。
   ちびが一番、放っておけなかったな……。


   ……戦力として考えても、おちびちゃんを失ったら大きな影響が出る。


   良くて、半壊……悪くて、あたし以外全滅だ。


   ……あなたも、ただで済まなかったと思うわ。


   あたしは……ひとりでも生き残って、お前のもとに帰って来ていたさ。


   ……此れでも、感謝しているのよ。


   感謝……誰に?
   若しかして、あ


   おちびちゃんに、よ。


   む。


   ……曰く、雷公の生まれ変わり。


   ……。


   ……何も言わないの。


   つくづく、利用されただけだった。


   ……其れは然う、所詮は駒だもの。


   胸糞悪いな。


   ……あなたは生き残って、愚かなる帝は藻掻き苦しんでくたばった。


   其れでも、戦が終わってからだ。
   どうせくたばるなら、戦の発端を作る前にくたばって欲しかった。


   ……臆病な王は戦をするべきではないけれど、勇猛果敢なだけの莫迦もするべきではない。


   今は、どうだ?


   ……さぁどうかしら、先のことなんて分からないわ。


   お前でも分からないか。


   ……突然、色狂いになるかも知れないし。


   色狂いと言えば、娘が酷いらしいな。


   ……余程、男が良いのでしょうね。


   腐っても皇女が、外の男と通じるか。
   そんなだったら、皇女なんて止めちまえば良いのにな。


   止めたら、衣食住が保障されないでしょう?
   貧民のように、餓えて野垂れ死ぬことなんて考えたこともないでしょうから。


   知る為に、お勉強をするのだろう?


   お勉強が嫌いな莫迦に幾ら教えても、其の頭にはほぼ残らない。
   他のこと、例えば悦楽で、頭の中はいっぱいだから。


   無駄に金が掛かるなら……居ない方が良いな。


   瘡毒に罹ったのは、折角の機会だったのけれど。


   お前の学妹の母親に治療されてしまった、か。


   ま、仕方ないわ。
   立場、というものがあるから。


   立場か……面倒だな。


   ええ、面倒よ。
   其れに縛られると、自由に身動きが取れなくなってしまうから。


   然ういう意味では、莫迦な皇女も同じだな。
   縛られて、何も出来ない……からこそ、外の男と通じた。


   男を通じて触れる外の世界は、さぞかし、欲や心を満たして呉れたでしょう。


   然し、其処までだらしない皇女は聞いたことがないな。


   外に出ないだけだったのかも知れないわ。
   今回のことだって、口外無用……外に漏らしたら、首を刎ねられるかも知れない。


   はぁ、嫌だな。
   そんな莫迦の為に首が飛ぶのは。


   ……あの子からの封信だけで、十分だった。


   ……。


   其れなのに……わざわざ、速達便まで使って寄越して。


   でなきゃ、間に合わないと踏んだんだろう。
   実際、あたし達が出立するまでに間に合わなかっただろうし、だから、判断は正しい。


   ……封信は要らないという話。


   あぁ、そっちか。


   ……あの子にも屹度、母親からの封信は届いているでしょう。


   状況を詳しく記した……か。


   ……口外したのが知られたら、ただでは済まされないだろうに。


   なかなか度胸のある者だ……あたしは、嫌いではない。


   ……あぁ、然う。


   うん、嫉妬か?


   莫迦なの?


   大丈夫だ、あたしが然ういった意味で好きになるのはお前だけだから。


   はいはい、然うね。


   はは、否定されなかった。


   莫迦の相手をするのも、なかなかの労力なのよ。


   温まって良いだろう、頭と口が。


   は。


   はは。


   ……。


   な、向こうの方が先に届いたんだろうか。


   ……向こうは都の宮中医生だもの、私なぞの方が先なわけないでしょう。


   薬と言えば、お前だったのになぁ……。


   ……所詮、宮の者ではないから。


   お前が居なくなるのは、都にとって、大きな損失だ。


   じゃあ、残っても良かったの?


   あ?


   都に、私が。


   お前が残るのなら、あたしも残る。
   ただ、其れだけの話だ。


   ……残っていたら、あなたはずっと戦人であることを強要されるでしょう。


   ……。


   ねぇ……先の戦での、英雄さん?


   そんなの、腹の足しにもならない。


   あら、然うでもないわ。
   其れなりの身分は保障されていたようだったから。


   窮屈なのは、嫌いなんだ。


   知ってる、あなたは無駄に躰が大きいから。


   躰も然うだが、心が窮屈なのも嫌なんだ。


   ……。


   お前も、然うだろう?


   ……そろそろ、見えて来る筈。


   ん?


   ……と言っても、今時分に灯りを灯す家などないでしょうけれど。


   どれどれ……。


   ……。


   ……いや、ひとつだけ灯っているぞ。


   へぇ……。


   ちび達
の家かな。


   位置は。


   村の、奥だな。


   ならば、違う。
   あの子達の家は入口に近い、もっと言えば村が良く見える小高い場所にあるらしいから。


   防人、か。


   地理的には悪くないわ。


   低いよりも、高い方が有利だ。
   あいつは、なかなかの弓取りでもあったから。


   ……。


   ん、寒いか。


   ……寒くないわけ、ない。


   抱き締めてやりたいが……。


   ……今は、そんな時間すら惜しいの。


   ん、分かってる……だから、着いたら抱き締める。


   ……別に、火の傍に居られれば其れで足りる。


   其処にあたしが居れば、もっと温まる。


   ……暑いくらいだわ。


   良し、もう少しだ。


   ……行けそうなの。


   応、問題なく行ける。


   ……元気そうで何より。


   此れでも衰えたんだがなぁ。


   ……流石、雷公の生まれ変わり。


   其れはもう、あたしのことではないぞ。


   ……何を言っているの。


   そんなものは、ちびに。


   二代目。


   ん?


   あなたは、初代。


   んー……。


   だから、あなたのことでもある。


   英雄やら、雷公やら……ひとを好き勝手に呼んで呉れるな。
   あたしにだって、ちゃんとした名前があると言うのに。


   ……名を呼ばれたら、吐きそうな顔をしていたわ。


   ん、誰に?


   ……ただ死ぬよりも苦しいくたばり方をした、愚かなる帝に。


   あー……あったかも知れないが、忘れた。


   ……良いわね、単純な頭で。


   どんなくたばり方をしたんだっけか。


   毒。


   あぁ、毒か。


   少量ずつ盛られて、仕舞いには寝たきり、自力では動けなくなった。
   毒見もろとも、ね。


   糞尿も垂れ流しだったみたいだな。


   世話係も大変だったでしょうね。


   色にも耽ることが出来なくなって、さぞかし、楽しかっただろうさ。


   周りが?


   本人は其れどころではないだろうから。


   ……ざまぁないわね。


   応、全くだ。


   ……。


   どうした?


   ……月が出てきたわ。


   月……お、本当だ。


   ……半分の月。


   半月か……なかなか、明るいな。


   ……いつまで出ているか、分からないけれど。


   気付いたら、雪も止んでいるし。
   お前の言った通り、今夜で良かったな。


   ……。


   良し、月が出て呉れたらこっちのものだ。


   ……出ていなくても、見えているようだけれど。


   明るいに越したことはないんだ。


   ……。


   もう少し、辛抱して呉れな。


   ……辛抱だなんて。


   ん?


   ……あなたが居なければ、来られなかったもの。


   お前……。


   ……着いたら、温かいお茶が飲みたいわ。


   応、着いたら飲もう。
   柚子茶を持って来たんだろう?


   ……其れはあの子達と飲む分よ。


   あたしも、一緒に。


   考えておくわ。


   応、考えておいて呉れ。


   ……。


   なぁ、生姜はもうなくなったか?


   ……未だあるわよ、食べる?


   口の中に入れて呉れ。


   生憎、私の腕は其処まで長くないの。


   躰を捻れば、届くだろう?


   寒いから、成る可く、動きたくない。


   動いた方が、温かくなる。


   あなたの口の中に放り込むくらいで?


   動かないでいると、凍っちまうかも知れん。


   ……。


   呉れないか?


   ……一旦、止まって。


   ん、分かった。


   ……顔を。


   応……。


   ……。


   ……ん。


   はい、前を見て。


   ……んー、美味いなぁ。


   じゃあもう少しだけ、宜しくね。


   応、任せ


   私の、あなた。


   ……っ。


   私も、ひとかけ。


   い、今、私のあなたって。


   ……。


   あたしの聞き間違えか?


   ……言ったわよ、だから頑張って。


   後でもっと、


   考えておくから、ゆっくり急いで。


   応、ゆっくり急ぐ。
   待ってろ、直ぐに温めてやるからな。


   ……。


   良し、行くぞぅ。


   ……薬、間に合えば良いのだけれど。


   間に合うさ。


   ……。


   間に合う。


   ……良いわね、楽観的で。


   お前が来たんだ、間に合わないわけがない。


   ……だと、良いけれど。


   赤子の方は屹度、大丈夫さ。
   未だ、症状が出ていないんだろう?


   ……みたいね。


   親は、難しいな。
   其処まで進んでしまったら、先ず、無理だ。


   ……あなたの然ういうところ。


   うん?


   ……嫌いではないわ。


   ふふ、然うか。


   ……。


   確りと、掴まっていて呉れ。


   ……。


   ん……なんだい?


   ……頬が、冷たい。


   まぁ、な。


   ……後で。


   応……後で。


  23日





   ……はぁ。


   戻ったよ……。


   ……ん。


   ただいま、亜美さん……。


   お帰りなさい、まことさん……其の、どうでしたか。


   うん……家は、大丈夫そうかな。


   囲炉裏は、問題ありませんでしたか……?


   うん、問題なく使えた……定期的に、世話をしていたから。


   然うですか……取り敢えず、良かったです。


   ……あたしが種火を持って行かずとも、持って来た火打石で火を熾していたよ。


   でも、薪と炭はまことさんが用意したものですから……。


   ……まぁ、然うなんだけど。


   お鍋などは、私が使っていたものを其のままにしてあるので……。


   ……躰が温まるようにと、今夜は鍋を作るみたいだ。


   お鍋、ですか……。


   ……材料は大根と生姜、其れから、茸。


   お肉があると良いですね……。


   ……此れから、兎を狩りに行くらしい。


   兎……。


   ……だから、上手くすれば今夜は兎鍋になると思う。


   なりそうですか……?


   ……足跡を見つけたらしいから、十中八九、なるんじゃないかな。


   然うですか……狩りもお上手なのですね。


   ……あぁ、とてもね。


   ……。


   ……取り敢えず、あまり心配はしないで良さそうだよ。


   食糧と薪くらいでしょうか……。


   ……長くは居ないと、言っていたけれど。


   雪が降っている間は、身動きが取れないと思うので……。


   ……。


   まことさん……?


   ……ゆうべは、本当に驚いた。


   ……。


   まさか、隊長と亜美さんの学姐が訪ねて来るだなんて……しかも、冬の夜に。


   ……学姐らしいと言えば、らしいです。


   速達便を使うよりも、自分で動いた方が早いからと言っていたが……本当に、然うなのだろうか。


   ……恐らく、ただの口実だと思います。


   速達便の方が早い……?


   支度や手続きのことを考えても、速達便の方が……いえ、若しかしたら然程変わらないかも知れません。


   ……変わらない?


   学姐達は、封信を直ぐに差し出せる場所に住んでいない……そして私達もまた、直ぐに受け取れる場所に住んでいない。
   もっと言えば、今は冬……町まで取りに行かなければならない。其れを含めて考えると……学姐の言う通り、自分の足で届けに来た方が早いかも知れない。


   ……。


   とは言え、ひとりならばそんな選択はしないだろうに……隊長さんが、傍に居て呉れるから。


   ……学姐はなかなか健脚だね。


   隊長さんの背に負われて来たのだと思います……見たところ、背負子に乗り慣れているようだったので。


   ……然うか。


   学姐の我儘に振り回されて……申し訳なく、思います。


   いや、隊長は楽しそうだったから……亜美さんは気にしないで良いと思う。


   ……まことさんにまで、ご迷惑をお掛けして。


   あたしに……?


   ……長く居ないのなら私達の家か、或いは、美奈子ちゃんの家に。


   ……。


   其れなのに……私が診療所として使っていた家で、寝泊りがしたいだなんて。


   ……うちは兎も角、美奈の家でも良かったと思う。


   ……。


   まぁ、うちでも良いけれど……。


   ……まことさんは隊長さんに、ちびと呼ばれていたんですね。


   う……。


   ……初めて知りました。


   うん……知らないままでいて欲しかった。


   ……名前で呼ばれているとばかり。


   周りに誰も居ない時は、ちびと呼ばれていたんだ……。


   ……そんなに小さくはありませんでしたよね。


   隊長に比べれば、小さかったからさ……。


   其れは……然うですね。


   ……あたしだけだと思う、ちびと呼ばれていたのは。


   まことさんのことが、可愛かったのでしょうか……。


   ……違うと思う。


   違う……?


   ……違うと思いたい。


   ……。


   亜美さんは……学姐に、名前で呼ばれているんだね。


   私は……まぁ、然うですね。


   ……しかも、呼び捨て。


   だけど、あなたと呼ばれることの方が多かったですよ……。


   ……あなた?


   はい……。


   ……。


   ……思えば。


   なんだい……?


   ……まことさんは、可愛かったかも知れません。


   うん……?


   ……私より躰は大きくて、仏頂面ではありましたが。


   亜美さん……其れ、本気で言っている?


   ……半ば。


   半ば……。


   ……隊長さんから見れば、まことさんは幼かったのでしょうね。


   其れは、然うだ……あたしは、隊長よりも歳下なのだから。


   ……。


   ……亜美さんも、学姐から見れば


   ないと思います。


   ……うん、言い終わってないかな。


   私のことを、可愛いだなんて……。


   ……わざわざ、此処まで来て呉れた。


   ……。


   若しかしたら、亜美さんに会いたかったのかも知れない……。


   ……然うだとしても、雪が降り始める頃に来なくても。


   ……。


   ん……なんですか。


   ……何処となく、嬉しそうに見える。


   そんなことは……嬉しいとすれば。


   ……薬が、届いたこと?


   然うです……。


   ……折角、来て呉れたんだ。


   ……。


   帰るまでに何度か会って、話をすれば良いんじゃないかな……熱いお茶でも飲みながら。


   ……まことさんは、隊長さんとお話しますか。


   あたしは……まぁ、どちらでも。


   ……そんなことを言っていたら、隊長さんの方から来るかも知れませんよ。


   いやいや、ごはんやら何やらの支度もあるだろうし……今日は、来ないだろう。


   ……今日は来なくても、明日来て呉れるかも知れません。


   ……。


   ……まことさんは、隊長さんと話したいことはないのですか。


   此れと言って……。


   ……帰るまでに、お話すれば良いと思います。


   ……。


   次、いつ会えるか分からないのですから……。


   ……亜美さんも。


   薬のことを聞こうと思っています……ゆうべは受け取るだけで、あまり話せませんでしたから。


   ……其れだけで良いのかい。


   私は……時間があれば、話す機会を作っても良いと。


   ……ならば、作れば良いさ。


   ……。


   隊長曰く、一度は四人で飯が食いたいそうだから。


   ……四人で、ですか。


   もう、さ……。


   ……はい。


   ちびのくせに、良い連れ合いを貰ったな……なんてさ。


   ……言われたのですか。


   うん、言われた……。


   ……。


   お前がひとりでなくて良かった、とも、言われたよ……。


   ……然う、ですか。


   一生、大事にしろ……とも。


   ……。


   そんなこと、隊長に言われなくても……大体、あたしだって良い歳だと言うのに。


   ……悪くはないわね。


   え……?


   ……然う、学姐に言われました。


   悪くない……って。


   ……まことさんのことです。


   悪くはない……と言うことは、良くもない。


   いいえ……学姐は、いつだって、然う言うんです。


   ……。


   例えば、好きなものを食べても悪くはないと言います……本当は、とても良いのに。


   ……つまり。


   まことさんは……私の連れ合いとして。


   ……。


   顔が、緩んでいます……。


   ……嬉しくて。


   ……。


   亜美さん……?


   ……私だってもう、良い歳なのに。


   ふふ……。


   ……何ですか。


   亜美さんは学姐の、可愛い学妹なのだなぁって。


   其れは違うと思います。


   ん、早い。


   ……。


   四人でごはんを食べるとしたら……いつに、しようか。


   ……いつ帰るかにもよりますが。


   今日は……いや、今日の夕餉かな。


   ……来そうですか。


   兎鍋を持って、来そうな気もしなくはない……。


   然うなった場合、私達はどうしましょうか……何も作らないわけにはいきませんよね。


   けど、食べ切れないかも知れないし……いや、其の場合は、明日の朝餉にすれば良いのか。


   ……良かったら、持って行って貰いましょう。


   ん、其れは良い……然うしよう。


   ……今日の夕餉は、何にしましょうか。


   今日の夕餉は……大根。


   ……お大根。


   まぁ、大根は幾ら食べても良いし……駄目かな。


   ……勿論、駄目ではありません。


   隊長は良いとして、学姐はどうだろう……?


   ……あのひとは取り敢えず、お腹に収まれば良いので。


   けれど、悪くはないと言って貰えないのでは……。


   ……お腹に収めるだけの時は、何も言わずに黙々と食べていますね。


   其れだと……其の、折角、食べて貰うのに、申し訳なく。


   ……言われたいのですか?


   ……。


   学姐に、悪くはない……と。


   ……出来れば、言われたいと思っている。


   何故……?


   な、何故って……亜美さんの連れ合いであるあたしが、美味しくないごはんを亜美さんに食べさせているとしたら、其れは良くないことだろう?


   生憎……学姐は、そんなことは気にしません。


   そ、然うかな……。


   ……然うですよ、だから気にしないで下さい。


   ん、でも……。


   ……大体。


   うん……?


   どうして美味しくないごはんという話になっているのですか。
   大根が被ってしまうことを気にしていた筈なのに。


   ……。


   ……そもそも、まことさんが作ったお大根が美味しくないわけない。


   あ……。


   ……まことさんのお大根の味が分からない方が悪いの。


   ……。


   ……ん、まことさん。


   今日は……大根と芋を煮ようと思う。


   ……とても良いと思います。


   残ったら、明日に……。


   ……はい、然うしましょう。


   ……。


   はぁ……柔らかい。


   ……もう、ゆうべから其ればかり。


   ゆうべは……結局、続きが出来なかったから。


   ……今夜。


   しても、良いかい……?


   ……さぁ、どうでしょうね。


   ……。


   足の傷の様子を見つつ……考えておきます。


   うん……。


   ……。


   亜美さん……?


   ……此の後、学姐と薬の話をして来ます。


   ……。


   成る可く、早く……。


   ……あたしも、行っても良いかい。


   まことさんも……?


   うん……駄目かな。


   ですが、帰って来たばかりなのに。


   ……あたしも、聞きたいんだ。


   ……。


   分からないと、思うけど……其れでも。


   ……ならば、一緒に行きましょう。


   うん……行こう。


   ……。


   行くまで、夕餉の支度をしておこうかな。


   ……はい、お願いします。


   ん……。


   ……。


   ……ん、誰か来たな。


   患者さんでしょうか。


   ……いや、違う。


   ……。


   ……亜美さん。


   はぁ……。


   ……。


   ……学姐、ですか。


   うん……多分。


   ……もう、あのひとは。


   ……。


   仕方がないので、出迎えてあげようと思います。


   ふふ……うん、良いと思う。


   ……可笑しいですか。


   ん……少し。


   ……。


   んにぃ……?


   ……まことさんの、ばか。


   え、なんで……。


   ……なんとなく。


   あ、あぁ……。


   ……然ういう時もあります。


   まぁ、然うだね……。


   ……よいしょ、と。


   ……。


   ……。


   ……へへ。


   抓られた頬が、緩んでますよ。


   ……ん。


   もぅ……。


   ……然ういや、ちびが鳴かないな。


   ちびはまことさんに似ていますから。


   ……んん?


   学姐。


   ……。


   わざわざ来て呉れなくても、私から……柚子、ですか。


   ……ゆず?


   あぁ、ありがとうございます……はい、一緒に飲みましょうか。


   ……ゆず茶。


   まことさんも、一緒に。


   う、うん、喜んで。


   ……。


   あ、えと……ありがとうございます。


   ……学姐、隊長さんは一緒ではないのですか。


   ……。


   後から、鍋を持って……あぁ、然うですか。


   ……やっぱり、今日だった。


  22日





   ……。


   ……ちび。


   ……。


   ……いや、違うか。


   ちびが、どうかしたのですか……。


   ちびの声が聞こえたような気がした……屹度、風の音だろう。


   ……若しかしたら、ちびの声かも知れません。


   様子を見た方が良いかな……。


   ……念の為に。


   ん、分かった……ならば。


   ……私が。


   亜美さんは……。


   ……ん。


   布団の中に。


   ……でも。


   様子を見たら、直ぐに戻って来る……。


   ……何か、羽織って。


   大丈夫だよ……。


   ……直ぐに戻って来られないかも知れません。


   ……。


   ……まことさん。


   此れで、良いかな……。


   ……足元にお気を付けて。


   ん……。


   ……。


   雪は、降っているだろうか……。


   ……止んでいて呉れたら、良いのですが。


   亜美さんとまた、月見がしたいな……今だったら、熱い生姜茶でも飲みながら。


   ……いつかまた、晴れた夜に。


   うん……。


   ……。


   ……あ。


   どうしましたか……?


   ……月の光だ。


   え……。


   ……ほら、明るいだろう?


   確かに、明るいですね……。


   ……半分の月が、雲の合間から見える。


   ……。


   一時だけかも知れないけれど……。


   ……ちびは。


   ん……なんでもないみたいだ。


   ……寝ていますか。


   うん……寝ていたみたいだけど、気配で起こしてしまった。


   ……あぁ。


   ちび、起こしてしまって済まない……なんでもないから、おやすみ。


   ……吠えてはいないみたいですね。


   ん、然うみたいだ……。


   ……。


   さて、戻ろう……うん、亜美さん?


   ……月が見えるようなので。


   少しだけ、眺めるかい……?


   ……ほんの少しだけ、若しかしたら暫く見られないかも知れませんから。


   ならば、何か羽織ってからおいで……。


   ……はい。


   ふぅ……。


   ……冷えますね。


   ん、冷える……だから。


   ……ぁ。


   傍に……。


   ……。


   どうだい……?


   ……まさに、半月ですね。


   あぁ、まさに半分だ……。


   ……ちび、起こしてしまってごめんなさいね。


   亜美さんが来たら、尻尾を振り始めた……素直な奴だ。


   ……張り詰めたような、冷たい空気。


   ……。


   けれど、湿り気を感じる……乾き切った都の空気とは、全く違う。


   ……此の村では久しく、火事はない。


   ……。


   が、全くないわけではない……。


   ……矢張り、あるのですね。


   あたしが未だ、此の村に来る前の話だ……だから、聞いた話になる。


   ……聞かせて下さい。


   其の前に、中に入ろうか……此処では、冷えてしまう。


   ……。


   もう少し、眺めていたいかい……?


   ……ううん、中に入りましょう。


   ……。


   ちび、おやすみ……。


   ……また、明日な。


   ……。


   布団は未だ、冷え切ってはいないと思うが……どれ。


   ……どうでしょうか。


   うん、未だ温い……亜美さん、先に。


   いえ……まことさん、どうぞお先に。


   ……でも。


   先に入って……。


   ……うん、分かった。


   ……。


   よ、と……うん、やっぱり温もりが残っているな。


   ……。


   おいで……亜美さん。


   ……はい、まことさん。


   ……。


   ん……温かい。


   ……亜美さんは、柔らかい。


   もう……何度目ですか。


   ……だって、安心するから。


   帰って来て、良かった……?


   ……うん、良かった。


   ……。


   ……ふふ。


   ね、まことさん……。


   ……なんだい。


   お布団は、良いですよね……。


   ……あぁ、亜美さんとふたりだと特に良い。


   もぅ……。


   ……布団で寝られることは、ある意味、しあわせなことだ。


   独り寝でも……?


   独り寝は……淋しいな。
   もう、戻りたくない……。


   ……私も。


   でも……紙衾よりは、良い。


   紙衾……。


   ……防人の頃は、紙衾を使っていたんだ。


   あぁ……然うでしたね。


   ……藁すら入っていなかったけれど、何もないよりかは良くてさ。


   私も、使いましたが……どうしても、躰が痛くなってしまって。


   ……慣れないと、どうしてもね。


   ……。


   ごめん……ふと、思い出してしまった。


   ……お布団は良いものだと、しみじみと思いました。


   はは……分かるよ、布団はやっぱり良いものだ。


   ……。


   さて、話の続きをしようか……。


   ……お願いします。


   季節は、冬……其の日も、雪が降っていた。


   ……。


   火が上がった原因は、不始末……と、言われていたが、実際のところは、全部燃えてしまったから分からない。


   ……住んでいたひとは。


   夫婦と子供、家族三人で暮らしていたのだが……其の日は、雪掻きをする為にたまたま外に出ていた。


   ……皆で、雪掻きをしに?


   いや、雪掻きをするのは夫ひとり。けれど、其の日に限って、妻子を連れ出していた。
   いつもだったら、妻と子は家に残して来るのだけど、其の日は父親に付いて行きたいと、子供が駄々を捏ねたらしい。
   だから、妻は子の手を引き、夫に付いて行った……其の日もまた、酷く冷え込む日だったのだけれど、子供は両親と一緒でとてもはしゃいでいた。


   ……冬籠りで、退屈していたのでしょうね。


   うん、然うだと思う……。


   ……躰を動かすことが好きな子は、特に。


   まさに、村の中を走り回っているような子だったらしい……だから、体力は余っていただろう。


   ……。


   危ないから傍に近付かないよう、寒くなったらいつでも家に戻って良い……妻と子供に然う言って、夫はいつものように皆と雪掻きを始めた。
   子供はそんな父親の姿を上機嫌で見ていた。時折、父親の動きを真似ては、母親にあまりはしゃがないように諫められたりもしたが。


   ……家を空けなければ。


   ……。


   ……火事には、ならなかったかも知れません。


   だけど……家を空けていたから、助かったとも考えられる。


   ……家の消火は。


   黒煙が上がっていることに誰かが気が付いて、皆で其の家に駆け付けた時にはもう、手の付けようがなかった。
   家全体に火が燃え広がり……ただ、見ていることしか出来なかったんだ。


   ……。


   雪が降る中でも、こんなに燃えるものなのかと……皆、呆然としていたらしい。


   ……火事の後、家族は。


   帰る家を失った家族は、暫くの間、美奈の家に身を寄せることになった。と言っても、美奈は未だ赤子だったが。
   ただで置いて貰うわけにはいかないと、夫は雑用、妻は主に美奈の母親の身の回りの世話をしたらしい。
   子供は、美奈の子守り……まぁ、遊び相手として。其れはもう、良く働いたと。


   ……其の家族は、今。


   村を出て行ったよ。


   ……何故ですか。


   ……。


   まことさん……。


   ……妻は若く、とてもきれいなひとだったらしい。


   ……。


   其の頃の村には、空いている家がなかった……だから、雪が融けたら新しい家を建てる予定だった。
   村の皆とも話し合って、協力して……そして、家族はまた三人で、新しい家で暮らすつもりだった。


   ……。


   だけど、家族は……夫と子は、春が来る前に此の村を出て行った。


   ……妻は。


   暫くは、美奈の家に……けれど。


   ……出て行ったのですか。


   姿を、晦ましたらしい……。


   ……。


   村の者総出で、山の方まで捜したが……とうとう、見つからなかった。
   だから……夫と子のもとへ行ったのだろうと、村の者は然う結論付けた。
   或いは、知らぬ間に夫が迎えに来たのだろうと……。


   ……。


   けれど、実際は……。


   ……何故、夫は妻を置いていったのでしょうか。


   ……。


   ……置いてさえ、いかなければ。


   どうしてかは、分からない……が、妻を金で売ったとも、言われている。


   ……お金で?


   あたしは、然うは思わない……思いたくない。


   ……他に言われていることは、ないのですか。


   ……。


   ないのですか……。


   ……耐え切れなかった、と。


   ……。


   多い時は、毎晩のように……だから。


   ……。


   其の家から、火が出たのは……雪掻きをしない者が、付け火をしたのではないかと。
   此の村で雪掻きをしない者は、力の弱い女、子供、年寄り……そして。


   ……ありがとうございます、まことさん。


   亜美さん……。


   ……全てを、失ってしまうかも知れない。


   ……。


   ……火事とは、恐ろしいものです。


   うん……とても。


   ……。


   ごめんよ、上手く話せなかったかも知れない。


   ……いいえ、そんなことはないですよ。


   あたしは、思うんだ……。


   ……何をでしょう。


   本当は何処かで、家族三人で暮らしているのだと……いや、子供は大きくなって家を出ているかも知れないな。


   ……。


   あたしは、聞いただけだ……だから、此の話が何処まで本当のことなのか分からない。


   ……其の頃のことを知っているひとは。


   詳しく知っている者は、もう……。


   ……ならば、何処かで仲良く暮らしているかも知れません。


   ……。


   本当のことなんて、今となっては、分からないのですから……。


   ……うん、亜美さん。


   雪に覆われていても、火事にはなる……改めて、火の取り扱いには気を付けないと。


   ……然うだね。


   ん……まことさん。


   ……あたしだったら、赦さなかっただろう。


   え……。


   ……亜美さんには、何人たりとも。


   ……。


   赦すわけがない……。


   ……あなたに、見初められて良かった。


   ……。


   ……村の防人である、あなたに。


   あたしで、本当に良かった……?


   ……はい、本当に良かったです。


   然うか……。


   あなたに見初められたら……屹度、誰も私に手を出せないと思うから。


   ……と言うより、出させない。


   まぁ、そんな奇特なひとはなかなか居ないと思いますが……。


   ……そんなことはない、此処に居る。


   ふふ……。


   ……はは。


   ね、若しかして……。


   ……うん?


   脅したり、しましたか……?


   さぁて……其れは、どうだろう。


   ぁ……。


   ……若しかしたら、したかも知れぬ。


   まこと、さん……。


   ……。


   ん……もう。


   ……胡桃の柚餅子、また買って来よう。


   ゆべし……。


   ……亜美さんに、気に入って貰えたから。


   あ……ん。


   ……いや、町で食べるのも良いな。


   まこ、と……。


   ……亜美。


   こんやはもう、おやすみしないと……。


   ……しているよ。


   これ、は……。


   ……求めて呉れて、嬉しかった。


   ……。


   だから……もう一度だけ。


   ……。


   そして……明日の朝は、ゆっくりしよう。


   ……まこと。


   亜美……。


   ……。


   む……。


   ……ち、び。


   ……。


   ……ねぇ、ちびが。


   風……。


   ……では、ないわ。


   ……。


   ……たしかに。


   獣か……其れとも。


   ……。


   ……ひとの、気配。


   患者さん……。


   ……では、ないな。


   ……。


   未だ、離れている……今のうちに、着物を。


   ……はい、まことさん。


   家の、正面……真っ直ぐ、か。


   ……まことさんも、着物を。


   うん……ありがとう。


   ……ひとり、でしょうか。


   ひとり……いや、ふたりだ。


   ……ふたり。


   ふぅ……。


   ……。


   ……うん?


   ……?


   ……いや、まさかな。


   まことさん……?


   ……亜美さんは、此処に。


   はい……。


   ……。


   ……。


   ……ちび、足音は聞こえるか。


   ちび……。


   知らない音か……然うか。


   ……。


   ちび……亜美さんを頼むぞ。


   ……。


   ……矢張り、ふたり。


   夜盗……。


   ……で、あるならば。


   ……。


   ……ん、声?


   声……?


   ……女、か。


   女性……だとしたら。


   ……いや違う、此の村の者ではない。


   ……。


   ……まさか、本当に。


   まことさん……聞き覚えが、あるのですか。


   ……いや、そんな筈はない。


   ……。


   ……来た。


   早い……。


   ……慣れているんだ。


   慣れて……。


   ……雪の夜であろうとも、月の光が半分でもあれば。


   ……。


   けれど……もうひとりは。


   まことさん……。


   ……然うか、背に負っているのだな。


   ……。


   ……隊長。


  21日





   お代わりは、もう良いですか。


   うん、もう大丈夫だ。
   ご馳走様、とても美味しかった。


   はい、御粗末さまでした。


   はぁ……やっぱり、帰って来て良かった。


   ……無理はして欲しくなかったのですが。


   ……。


   ん……まことさん。


   ……へへ。


   もぅ、子供みたいですよ……。


   ……ごはんを食べたら、疲れが取れた。


   だとしても、ちゃんと横になって躰を休めて下さいね……。


   うん……亜美さんと一緒に。


   ……。


   ……改めて、ただいま。


   お帰りなさい……まことさん。


   ……では、柚餅子を。


   ……。


   食べる前に、此れを。


   ……届いていたんですね。


   うん、届いていた。


   ……どちらから。


   お義母さんからだ。
   学姐からは未だ、届いていなかった。


   ……然うですか。


   今、読むだろう?


   ……少しの間、待っていて貰っても良いですか。


   あぁ、あたしは構わない。


   ……ありがとうございます、直ぐに目を通してしまうので。


   いや、ゆっくりで良いよ。
   あたしは腹休めに、ぼんやりしながら待っているから。


   ……では、暫し。


   ん……。


   ……。


   ……。


   ……。


   ……明日の朝は、ゆっくりしようかな。


   ……。


   雪は、降っているだろうが……少しくらいなら、良いだろう。


   ……。


   布団の中で、亜美さんと……。


   ……まことさん。


   ん、もう読み終わったのかい……?


   ……明日の朝は、お布団の中でゆっくりしましょう。


   え……。


   ……声が漏れています。


   あ……ごめん。


   ……ううん、大丈夫ですよ。


   ……。


   ……。


   ……。


   ……はぁ。


   ……。


   ……お待たせしました。


   ん、読み終わったのかい……?


   ……はい。


   然うか……やっぱり、早いな。


   ……。


   其れで……なんて、書かれていたんだい?


   ……結論から先に言えば、都の管轄下に置かれているお薬を都から遠く離れた山村に送ることは難しいと。


   其れは、とても高い薬だからかい……?


   ……いえ、お金だけの問題ではないようです。


   他に、どんな問題が……?


   ……私達が求めているお薬は西から齎されたものだと、以前に話しました。


   うん……聞いた。


   ……都でも精製されているとは言え、未だに希少なもので其の価値は高いと。


   希少……。


   ……先ずは、都人が優先ということでしょう。


   余ってはいないのかい……?


   ……仮令余っていたとしても、未だに外に流すつもりはないようです。


   帝は……。


   ……時期尚早、と。


   じき、しょうそう……。


   ……外に流したところで扱える医生は居ないという考え方が都では主流なのです。


   亜美さんは、扱えるだろう?


   ……知識はあります。


   であるならば……。


   ……だとしても、考え方は直ぐには変えられません。


   然う、か……。


   ……けれど。


   けれど……?


   ……母が、個人で所有しているものならば。


   お義母さんが……?


   ……決して多くはないようですが、幾つか在庫があったようです。


   ならば、其れを送って貰えれば……其の時は、あたしが取りに行こう。


   ……いいえ、其の必要はありません。


   ん、どうしてだい……まさか、村まで届けて呉れるのか?


   ……母は特殊な医生速達便を用いて、此の封信と共にお薬を送る手筈を整えていました。


   ……。


   時間を掛けて、漸く整った頃……今回は、断念せざる得なくなった。


   断念……其れは、どうして。


   ……。


   亜美さん……?


   ……折り悪く、瘡毒の患者が出てしまったと。


   ……。


   ……宮からも。


   其れは、都の薬を使えば良いだけの話じゃないのか……?


   ……本来ならば、然うなる筈でした。


   若しかして……其れだけでは足りない程、患者さんが出ている?


   あぁ……なんてこと。


   ……亜美さん?


   お薬の、保管庫……瘡毒の薬が保管されていた場所が、焼失、してしまったと。


   しょうしつ……火事?


   出火原因は恐らく、火付け……。


   火付け……薬を置いてある場所に、付け火をされたということか。


   いえ……出火した場所は、どうやら薬の保管場所ではないようです。
   火元は、保管場所から離れた……普段は、人気(ひとけ)がないような場所だと。


   だったら、何故……。


   ……今頃の都は、空気がとても乾燥しています。


   空気が、乾燥……?


   ……冬の間、都は雪どころか雨もあまり降らないのです。


   乾燥していると、どうなるんだい……?


   ……空気が乾燥していると、火がとても付きやすくなります。


   火……。


   此の村の冬は雪に覆われることが多く、空気が乾燥することは滅多にないと思います……。


   ……此の村では、滅多にないが。


   知っていますか……?


   ……あぁ、知っている。


   ……。


   空気が乾燥していると火が燃え広がりやすい……だから、火矢を有効的に使える。


   ……其の日の都は、特に乾燥していたらしく。


   ……。


   故に、広範囲に燃え広がり……薬の保管場所も、巻き込まれて。


   ……大火。


   逃げ遅れて、亡くなられた方も多く……保管場所を管理していた方も亡くなられたそうです。


   ……其のひとも、逃げ遅れたのか。


   いえ、一度は避難したようなのですが……火の中に、戻ってしまったようで。


   どうして、そんなことを。


   恐らく、少しでも良いから希少な薬を持ち出そうとしたのでしょう……けれど、思っていた以上に火の回りが早く。


   ……なんてことだ。


   薬も、大事だけれど……命の方が、もっと大事なのに。


   ……。


   あぁ、でも……気持ちは、分かる……分かってしまう。


   ……あたしは、行かせない。


   まことさん……。


   薬は、生きてさえいればまた作れる……然うだろう。


   ……けれど、精製している間に。


   然うだとしても……あたしは今、目の前で起こっていることを優先する。


   ……。


   ……。


   ……此のような事態に備えて、薬の保管場所は一か所だけではなく、幾つか設けられています。


   其れは……。


   ……薬は其々に分けられて、保管されているのです。


   ならば、他の場所に。


   けれど……最も多く保管されている場所が燃えてしまった。


   最も、多く……。


   ……つまり、今の都は薬が足りていません。


   然う、か……。


   となれば、新たな薬の精製が終わるまで……医生個人が所有している薬を出さざるを得なくなる。


   ……瘡毒の薬も。


   母が所有していた薬は……宮の者に使われたそうです。


   ……宮の者って。


   此れは、本当に此処だけの話です……良いですか。


   ……あぁ、分かった。


   其の者は、外の男と通じて……其れで、瘡毒に。


   ……宮の女は、そんなに軽いのか。


   いえ……固く禁じられています。


   ……其れが故に、羽目を外したか。


   ……。


   ……亜美さん?


   賢き帝の娘が、何故……。


   ……は。


   有り得ない……有り得てはいけない、こんなことは。


   ……。


   帝の娘は、最良の者と結ばれるまで、清らかでいることを……。


   ……所詮は、ひとのこなんだ。


   ……。


   ……然し、大騒ぎにはなっただろうな。


   いえ……其れは当然、口外無用となりました。


   ……。


   ……皇女を診たのは、母だったそうです。


   お義母さんが……いや、待て。
   其れは、あたし達に口外してしまって良いのか?


   当然、問題です……ですので、封信にも私にしか分からぬように書かれています。


   ……亜美さんにしか?


   母は、宮のことを鳥籠……皇女のことを、籠の中と書きます。


   籠……うん、分からないな。


   どうも、皇女は……色を好む傾向があったようで。


   ……。


   言葉は悪いのですが……此れがただの宮の女だった場合、処分されてしまいます。
   ですが、此度は……帝の、娘だったから。


   ……賢き者が親だとて、子もまた然うだとは限らない


   宮に縛られるのが嫌で、常日頃から、外に出たがっていたと……噂では、聞いたことがあります。
   けれど、其れは皇女が未だ幼い頃の話で……今も尚、然うだとは。


   ……挙句、色を好むか。


   ……。


   ……ひとの性分は、早々、変わらぬ。


   皇女としての自覚はないのでしょうか……。


   ……あったとしても、欲を抑えられなかったのだろう。


   ……。


   賢き帝の子だからと言って、愚かではないとは言い切れぬ……。


   ……幸いと言って良いのか、分からないのですが。


   なんだい……。


   ……帝には、他にも子が居られます。


   と言うことは、其の皇女は外れると……。


   ……間違いなく、外れるでしょう。


   色でしくじる、か……。


   ……先代と同じ悪癖を、今一度、外に出すわけにはいきません。


   色を好んでも、賢明ならば良いのだが……どうも、暗愚そうだ。


   ……学びよりも、豪奢な遊びを好むとも。


   先の戦を憶えている民にしてみれば、冗談にもならないな……其れは。


   ……帝が選んだ后もまた、聡明な方だと。


   ……。


   だけど……考えてみれば、子が引き継ぐものは、親からだけではないですものね。


   あぁ……よくよく考えてみれば、祖父母、曾祖父母、其の前からもずっと続いている。


   ……はぁ。


   然し……生まれというものは、怖いな。


   ……届いていたのは、母からの封信だけですよね。


   うん……何度聞いても、学姐からは届いていなかった。


   ……屹度、学姐でもどうしようもないのでしょう。


   未だ、分からない……若しかしたら、届くかも知れない。


   ……まことさん。


   近いうちに、また町へ……。


   ……駄目です。


   亜美さん……。


   ……雪が降り出してしまった、だから。


   だけど……。


   ……あなたは足に傷を負い、しかも其れは縫合を必要としたんです。


   傷ならば、三日もあれば……。


   ……いけません。


   ……。


   足を滑らせたと、言っていましたね……。


   ……次は、ちびを置いていく。


   ……。


   ちびを置いて、ひとりで……ちびが居ない頃は、然うしていた。


   いいえ、ひとりではありません……犬を借りていたではありませんか。


   ……借りない時も。


   借りていた犬が、亡くなり……そんな時に、ちびが家に来て呉れた。
   まことさんは、喜んでいましたよね……。


   ……。


   私は、ただ……出来ることを、するだけ。


   ……薬がなければ。


   あの子の母親に出来ることは、成る可く、苦しませずに……眠らせてあげること。


   ……あの子には。


   症状が未だ、出ていません……ですので、経過観察を続けることになります。


   ……。


   雪が融けて春になったら、改めて母に封信を出します……其の頃には、なんとかなっているかも知れません。


   ……こういうことか。


   ……。


   薬を、失うということは。


   然うです……だからこそ、保管者は戻ったのでしょう。


   ……だけど、あたしは其れでも。


   此れが、此の国で賄える生薬ならば。
   或いは、罹っている病が瘡毒でなければ。


   ……。


   ……間に合ったかも、知れない。


   ……。


   其れか……学姐が、都に居て呉れたなら。


   ……。


   学姐ならば……若しかしたら。


   ……亜美さん。


   ごめんなさい、まことさん……あなたに、御苦労を掛けるばかりになってしまって。


   いや……あたしならば、どうってことはない。


   ……傷まで、負わせてしまって。


   亜美さんが悪いわけではない……。


   ……。


   折りが悪かった……ただ、其れだけだ。


   ……命の価値とは、なんなのでしょう。


   うん……?


   ……皇女には薬を与えられ、流れの女と其の子には与えられない。


   ……。


   権力や富を持つ者は、誰よりも何よりも優遇され……貧しき者は、捨て置かれる。


   ……。


   あぁ、だけど私も……私も、まことさんを。


   ……隊長が、言っていた。


   なんて……。


   ……ひとのこの命は皆、同じ価値ではないと。


   ……。


   無碍に扱われる命があれば、駒のように使い捨てられる命もある、餓えて野垂れ死ぬ命もあれば、戦場で惨たらしく散る命もある……そして、宝玉のように大事にされる命もある。
   どの命も、其の価値は等しく同じ筈なのに、決して然うは為り得ない……ひとのこの場合、其れは生まれや境遇などで決まってしまうことが多いのだと。


   ……学姐と、同じことを。


   学姐も……?


   ……全く、同じことを言っていました。


   だとしたら……隊長は、学姐の受け売りだろう。


   ……然うとは限りません。


   どうして、然う思う……?


   ……散った命を多く見ていたのは、戦人である隊長さんでしょうから。


   ……。


   ……明日もまた、往診に。


   あたしも……。


   ……まことさんは。


   ゆっくりになってしまうが……許して欲しい。


   ……いえ、家に。


   ……。


   ……お願いします。


   分かった……家で、待っていよう。


   はい……宜しくお願いします。


   ……。


   ……。


   ……柚餅子、どうしようか。


   頂きましょう……。


   ……。


   ……まことさんと、食べたいです。


   ん……ならば、熱いお茶と共に。


  20日





   ……胡桃の柚餅子、ですか。


   食べたことはあるかい?


   いえ、ないです……まことさんは、ありますか?


   一度だけ、ある。


   ……美味しかったですか。


   あぁ、美味しかったよ。
   ほんのり甘くて、もちもちとしていて、胡桃の風味もまた良かったかな。


   ……何処で食べたのですか。


   今日、町で。


   ……今日?


   うん、味見と言って小さく切り分けたものを配っていたんだ。
   ただで呉れると言うだけあって、老若男女、兎に角ひとが群がっていてね。


   ……其処に、まことさんも?


   どんなものか、気になって。
   美味しいものならば、亜美さんと食べたいと思ったし。


   ……其れを買う為に、時間を。


   確かに時間は使ったけれど、其処までは使っていない。
   と言うのも、売りに来た者はひとりだけでなく、何人も居たんだ。しかも、ひとを捌くことにとても慣れていてね。
   多くの者が集まって来ても、あっという間に配ってしまうんだ。あたしの手の中にも、気付いたら、入っていたよ。


   気付いたら、ですか……。


   あれは、相当慣れていると思う。聞けば、国を越えて、色々なところに売りに行っているみたいなんだ。
   だけど、裾野の町には初めて来たと言っていた。だから、多めに配っているとも。


   ……此の国の外にまで、胡桃の柚餅子を売りに行くのですか?


   と言うより、売りに来たらしい。


   ……其の方達は、何処から。


   北からと言っていたよ。


   北……言葉は、分かったのですね。


   どうやら、此の国の者を幾人か雇っているらしい。


   ……此の国の者を?


   もっと言えば、主も此方の言葉がある程度分かるみたいなんだ。
   だから、取引とやらも、基本的には己でするらしい。


   ……商いには学びも必要とは言いますが、まさにですね。


   今回は新しい場所を増やすべく、足を伸ばして、此の辺りまでやって来たと言っていた。


   ……新規開拓、でしょうか。


   あぁ、そんなことも言っていたな。


   柚餅子を多く配るのは、味を知って貰う為……成程、其れはかなり慣れていると言っても過言ではないですね。


   だろう?


   気付いたら、あなたの手の中に入っていただなんて……相当の手練れだと思います。


   一応、動きは見えていたのだけれどね。


   ……商人は侮れませんから。


   ん、全くだ。


   ……品物を売買する為ならば、戦場(いくさば)にさえ。


   曰く、嗅ぎ分けるのが上手いらしい。


   ……其れは。


   隊長から。


   ……隊長さんは、何か買い求めたりしたのでしょうか。


   いや、どうだろう。
   あの隊は金にならぬ者ばかりだったろうから、商人も近寄らなかったかも知れない。


   ……。


   知らなければ、買っては貰えぬ。


   ……?


   だから、遠慮なく、食って呉りょ。さぁさぁ、食って呉りょ。
   男も女も、年寄りも、童も、さぁさぁ、食って呉なんせ。


   ……其れは?


   誰も彼もが、然う歌いながら配っていたんだ。
   あの様は……然う、さながら祭のようだったよ。


   ……興味がなくとも、巻き込まれてしまいそうな。


   然う、然うなんだ。
   ただの通りすがりでも引っ張り込まれてしまうような、そんな熱気があった。


   ……季節が冬、ということも関係しているかも知れません。


   あぁ、冬に祭はないからね。
   此れから雪が多くなる此の季節に、ああも楽し気にされたら、つい寄って行ってしまうだろう。


   ……まことさんも、其のひとりだったのですね。


   あたしは……ただ、どんなものか知りたくて。
   美味しいものならば、亜美さんとふたりで食べたいから。


   ……まことさんが柚餅子を求める間、ちびはどうしていたのですか。


   ちびは、少し離れたところから眺めていたよ。


   ……ひとのこの熱気に、驚いてはいませんでしたか。


   いや、欠伸をしていたから……寧ろ、のんびり休んでいるようにも見えたかな。


   ……。


   誰彼構わず威嚇していたのに、いつの間にか大らかになったものだ。


   ……泰然としている様は、あなたに似たのでしょう。


   あたしに?


   ……欠伸をしていても、警戒は解いていなかったのでしょう?


   あぁ、解いてはいないようだった。


   どんな時でも、耳を立てて辺りの様子を窺っている……本当に、頼りになる子になりました。


   まるで、亜美さんのようだ。


   ……まことさんではなく、私ですか?


   亜美さんは、あたしにとって、とても頼りになるひとだから。


   私は……然うとは思いませんが。


   あたしにとっては、然うなんだ。


   ……。


   ……傷の手当ても、手際良くやって呉れた。


   其れは……医生、ですから。


   当然だと、亜美さんは言う……けど、誰もが当たり前のように出来ることではない。


   ……医生であれば。


   医生であっても、ひとによるよ。


   ……。


   傷は深くはなかったけれど……思っていたよりも、大きかった。


   ……応急処置は、適切に行われていました。


   ……。


   でも……大丈夫と言える傷では、決してありません。


   ……縫われるとは、思わなんだ。


   あなたでなければ……途中で、動けなくなっていたでしょう。


   ……治りが早いことは、取り柄のひとつだから。


   然うだとしても。


   ……ん。


   ……。


   ……亜美さん。


   暫くの間……無理は、しないで下さい。


   うん……しない。


   ……明日、また診ます。


   分かった……。


   ……ふぅ。


   ありがとう。


   ……痛くはありませんでしたか。


   ん、少し……だけど、大丈


   ……。


   ……少し、痛かった。


   然うですか……でしたら、お大事にして下さいね。


   ……はい。


   ……。


   ……ねぇ、亜美さん。


   はい……なんでしょう。


   ……国を越えて、ものを売るだなんて。


   ……。


   ……戦をしていた頃には、考えられないことだね。


   私が未だ、都に居た頃。


   うん……。


   ……商いの為の通行許可証が発行されるかも知れないと、そんな話を小耳に挟みました。


   彼らにも、発行されたんだろうか……いや、売りに来ているのだから、発行されたんだね。


   ……でも、発行して貰うには多額のお金が必要だと。


   金……。


   ……国の財政の為でもあったのでしょう、立て直すにもお金は必要ですから。


   金の為に、他の国の者を入れる……其れは、どうなのだろうか。


   ……得られるものは何も、お金や商品だけではありません。


   ……。


   外の国の知識や情報も得ることが出来ます……中には、喉から手が出る程のものもあるでしょう。


   ……成程、確かに情報を得ることは大事だ。


   はい……。


   ……今のは、上手くやっているらしい。


   願わくば、其の治世が続くことを願っています……。


   ……先代は。


   最期は、病で……。


   ……結局、最後まで出てこなかったな。


   都では……戦を呼び込んだだけの、愚帝と。


   ……其れは、大きな声では言えないだろう。


   ですので、此処だけの話です……。


   ……あぁ、此処だけの話にしておこう。


   と言いつつ……諡は、「虚帝」なのですが。


   ……虚帝?


   色にも耽りましたので……分かりやすく、悪諡を贈られています。


   ……虚ろなる、か。


   親と子……違うものですね。


   ……うん?


   親は愚かなる帝……けれど、子は賢き帝と。


   ……まぁ、子はひとりでは出来ないしな。


   ひとり……?


   ……男と女が居なければ、子は女の胎に宿らない。


   ……。


   先代は、男だったか。


   ……はい。


   ならば、后が良かったのだろう。


   ……子は生まれて直ぐ、后から取り上げられますが。


   其れでも……消えない何かがあったのかも知れない。


   ……。


   其れか、単に育てた者が賢かったのか。


   ……聞いたことがあります。


   うん?


   ……我欲に走ることなく、民を想い憂う、そんな帝に育つよう、后が賢き者を傍に付けたと。


   ……。


   真偽の程は、分かりません……。


   ……今の様を聞くに、偽りとも思えない。


   ……。


   少なくとも、今代は平穏であって欲しいと願う。


   ……はい。


   ところで、柚餅子はいつ食べようか。


   ……。


   夕餉の後に食べようか。
   其れとも、前に食べようか。


   然うですね……後にしませんか。


   ん、分かった……ならば、後に。


   ……。


   ……楽しみかい?


   あなたと食べるものなので……。


   ふふ、然うか……其れだけで、買ってきた甲斐があったな。


   ……都には、柚子の形をしたものがありましたが。


   ゆず……?


   柚子の中身をくり抜いて作るそうなのですが……其れは、どちらかと言うと甘味と言うよりも珍味の扱いでした。


   ……珍味。


   あぁ、でも、甘味のものもあったと思います……どうやら、中に詰めるものが違うようで。


   何を詰めるんだい?


   珍味とされている柚餅子は、お味噌や山椒を詰めると聞いたことがあります。
   甘味の柚餅子は……矢張り、お砂糖を入れるのでしょうか。でないと、甘くないでしょうし。


   味噌と、山椒……味噌は分かるけど、他はどんな味か分からないなぁ。
   山椒は確か、辛いものだったよね。


   曰く、痺れるような辛さだそうです。


   痺れ……どんな辛さなんだ。


   ……実は、山椒も生薬のひとつなのですが。


   え、然うなのかい?


   ……腹の中の冷えや痛み、間歇熱を治し、また、回虫を殺し、脾胃を温めて寒を散ずる。


   冷えにも、効く……?


   ……其れもまた、辛味成分によるものです。


   ……。


   ……因みに芥子菜の種子を乾燥したものも生薬となり、矢張り、辛味成分が含まれています。


   辛味成分は……薬になるんだね。


   ……面白いですよね。


   面白い……。


   ……芥子菜の種子の粉末を微温湯で練ったものを芥子泥と言い、例えば、神経痛や捻挫などの痛みを抑える為に使われます。


   余計に、痛くなりそうだけれど……。


   ……ひとによってですが、効能はちゃんとあるんですよ。


   はぁ……面白いな。


   ふふ……でしょう?


   ……。


   ……ふふ。


   亜美さんに、似てきてたのかな……。


   ……ん、まことさん。


   取り敢えず、食べるのは苦手だと思うけど……薬ならば。


   ……大丈夫ですか?


   我慢、する……。


   ……ふふ、然うですか。


   ね、亜美さん……亜美さんは珍味と甘味、どちらも食べたことがない?


   ……柚餅子、ですか。


   うん……。


   どちらも、ないです……いつもながら、ごめんなさい。


   ううん、良いよ……いつか、ふたりで食べれば良い。


   ……辛くても良いのですか。


   ……。


   中には、お味噌だけのものもあるそうです……食べるのなら、其方を食べましょう。


   うん……然うしよう。


   ……では、食事の支度に。


   ねぇ、亜美さん……ひとつ、良いかい。


   ……痛みますか?


   いや……。


   ……なんでしょう。


   えと……ゆずとは、なんだい?


   ……はい?


   野菜……いや、果物だろうか。


   ……分からないまま、話していたのですか。


   うん……珍味に、気を取られてしまって。


   ……柚子とは柑橘類のひとつで、果実には酸味があり、香りは爽やかで、其の果皮は料理の香り付けに使われることが多いです。


   料理の香り付けに? へぇ、其れはどんなものか興味があるなぁ。
   亜美さんは、其の、ゆず? の香り付けをされた料理は食べたことがあるのかい?


   食べたことは、ありますが……。


   ……口に、合わなかった?


   いえ、美味しかったと思います……多分。


   ……。


   其の……出されたものを、ただ、食べただけなので。


   ……いつか、ふたりで食べよう。


   はい……。


   ……楽しみがまたひとつ、増えた。


   行商の方に、お願いしてみましょうか……若しかしたら、持って来て呉れるかも知れません。


   行商に……あぁ、良いかも知れない。


   ……黄色い柚子の収穫時期は秋でしたので、春にお願いしておけば。


   良し、ならば次の春にお願いしてみよう……。


   ……。


   因みに、亜美さん……柚子も、薬だったりするのだろう?


   ……白綿や果汁、果皮、果実が生薬となります。


   ほぼ、全部だね。


   ……ふふ、然うですね。


   ゆず、か……。


   ……柚子茶は美味しいですよ。


   ゆず茶……?


   ……柚子の果皮や果肉を砂糖漬けにして、其れをお湯に入れて飲むんです。


   ……。


   ……学姐が好きで、たまにふたりで飲んでいたことを思い出しました。


   然うなのか……良いな、ゆず茶。


   ……手に入ったら、一緒に飲みましょう。


   うん、飲もう……ふふ、楽しみだ。


   ……。


   ん……亜美さん。


   ……頬に、幾らか赤みが戻ってきました。


   亜美さんも……。


   ……夕餉を食べれば、もっと。


   うん……。


   ……ん。


   ……。


   ……まことさん。


   唇は未だ少し、冷たいかな……。


   ……もう。


   はは……。


   ……。


   ……亜美さん?


   胡桃の柚餅子は……柚子の形をしているわけではないのですね。


   ……ゆずは、平べったくはない?


   はい、柑橘類なので……。


   ……ゆずは、どんな?


   小形で、色は黄、丸みがあり……あ。


   ……。


   ……まこと、さん。


   もう、一度……。


   ……ごはんも未だ、食べていないのに。


   手当ては、終わったから……。


   ……一度、だけですから。


   ん……一度、だけ。


  19日





   ……ちびの声。

   未だ、少し遠いけれど……あの声は、屹度、然う。

   ……雪が、しんしんと降る中で。

   ちゃんと、帰って来て呉れたのね……まことさんと、一緒に……ふたりで。

   だって、あなたはとても賢い子だから……私との約束は、ちゃんと守って呉れる。

   ……帰って来たら、沢山褒めてあげないと。

   ちびが居て呉れて、本当に良かった……ありがとうって。

   ねぇ、ちび……ちびのごはんも、もう作ってあるのよ……だから、無事に帰って来てね。

   ……明日は未だ、雪掻きをする必要はないかしら。

   必要となるようだったら、まことさんとふたりでしないといけないわ……。

   ねぇ、まことさん……一年が過ぎるのは、どうしてこんなに早いのかしらね。

   あなたが言うように、もう少しゆっくり過ぎて呉れても良いのに……。

   ……ちびの声が、聞こえない。

   聞こえるのは、風と……雪のこすれる音。

   ……ねぇ、まことさん。

   あなたが帰って来たら、ふたりで今日の話をしたいのだけれど……でも、疲れているわよね。

   話は、また明日……今夜は、ゆっくりとお休みしましょう。

   ……お腹は、空いているかしら。

   屹度、空いているわよね……。

   ……ちび。

   未だ、見えない……私の目では、未だ。

   でも、また聞こえた……微かにだけれど、雪に吸われることなく。

   まことさん……まことさん。

   ……帰って来て。

   早く……姿を、見せて。

   ……早く。

   早く、あなたに……。

   ……逢いたい。








   ……はぁ。


   ……。


   良し、村の入り口まであともう少しだ……ちび、大丈夫か。
   ん、然うか……ならば、もうひと踏ん張りだ。然し、お前は良い返事をして呉れるなぁ。
   若しかしたら、雪の中でも、亜美さんの耳に届いているかも知れないぞ。
   ん、家の中に居るから聞こえないだろうって? はは、然うだな。此の雪の中、外に居るわけないよな。
   あぁ、あたしとしても、暖かい家の中で待っていて欲しいと思うよ。こんな日に外で待っていたら、躰を冷やしてしまうから。


   ……。


   なぁ、ちび……雪、此処まで持って呉れて良かったな。
   一時、降りが強くなって前が見えなくなったこともあったけれど……そんな時に、お前が居て呉れて良かったよ。
   ん、あたしだけでも問題なかったろうって? はは、そんなことはないさ。
   雷公の生まれ変わりだなんて言われても、あたしは所詮、ひとのこでしかないなんだ。犬のお前には敵わない。耳も、鼻も……遠く、及ぼない。
   だからこそ亜美さんは、あたしにお前を付けるんだよ。亜美さんはお前のことを、とても信用しているんだ。
   あぁでも、目はひとのこの方が良いんだっけか。まぁ、ひとつくらいは勝っているものがないとな。


   ……。


   あたしはもう、防人ではない……暗く雪深い中を、強行するような。
   確かに、あの頃の感覚はあたしの中に未だに残っている……残っては、いるけれど。


   ……。


   然うだな……亜美さんと村を守る為ならば、あたしはあの頃の防人に戻れるだろう。
   いや……たまに戻っているからこそ、あの感覚は鈍ることがないんだ。
   ん、今か? 今はどうだろうな……若しかしたら、半分、戻っているかも知れない。


   ……。


   ……まさか、足に傷を負うとは思わなんだ。


   ……。


   大丈夫だ、ちび……今となっては、寒さで痛みは然程感じない。
   帰れば、亜美さんが手当てをして呉れる……其れまで、持って呉れれば良い。
   なぁに、簡単なことさ……あたしはただ、足を止めることなく、歩き続ければ良いんだ。
   然うすれば、いずれは村に……亜美さんのもとに、帰れるだろう。


   ……。


   此れくらい、なんでもない……だから、必ず、帰れる。
   いや、帰る……亜美さんのもとに。あたしは、帰る……ん?


   ……はぁ。


   ちび、どうした……?何か、あるのか……?
   ちび、待て、あまり先に行くな。また、足を滑らせて……。


   ……まことさん。


   ん……?


   まことさん!


   ……え。


   ちび、まことさんは?
   まことさんは、何処?


   ……亜美さんの声?


   此の先に居るのね、
   然う、分かったわ。


   ……亜美さん。


   ちび、私を連れて行って。大丈夫よ、もう近くまで来ているのでしょう?
   あなたがまことさんから遠く離れるわけないもの。


   ……あぁ。


   此処よりも少し先ぐらいならば、私でも問題なく行ける。
   だから、連れて行って。私を、まことさんの傍に


   亜美さん!


   ……あ。


   亜美さん、其処に居るのかい!
   居るのなら、其処で待っていて呉れ!


   まことさん……!


   直ぐに行くよ!
   だから、其処に居て欲しい!


   でも……!


   大丈夫だ、もう直ぐだから!
   ちび、亜美さんを其処に止めておいて呉れ!


   まことさん……。


   直ぐに、あたしが持つ灯が見える……亜美さんの姿が、見える。


   ……こんな暗い中。


   ふぅ……さぁ、もう少しだ。


   ……やっぱり。


   亜美さん……。


   ……やっぱり、待ってなんか。


   亜美さんが持つ、灯が見える……。


   ちび、私を……ん。


   ……。


   灯……まことさんの、灯。


   ……あぁ、早く抱き締めたいなぁ。


   然うよね、ちび……あれは、まことさんが持つ灯りよね。


   ……。


   ちび、まことさんの傍に……大丈夫、私は此処で待っているから。


   ……。


   だから、行って……。


   ……其れには、及ばない。


   あ……。


   ……亜美さん。


   まこと、さん……。


   ……戻ったよ、亜美さん。


   まことさん……っ。


   ……遅くなって、済まない。


   あぁ……あぁ。


   ……ただいま、亜美さん。


   まことさん……お帰りなさい、あなた。


   日が沈んだのに帰って来ないから、迎えに来て呉れたのかい……?


   ……私。


   けれど、日が暮れたら山の中に入ってはいけないよ……危ないからね。


   ……だから、此処で待っていたんです。


   うん……?


   ……私が夜の山になんて入ったら、帰って来たあなたと擦れ違って、会えないと思ったから。


   入って暫くは一本道だから、会えなくはないかも知れないけど、足元が見えなくて危ない。


   ……道から外れてしまったら、会えない。


   若しも擦れ違って会えずとも、ちびが気が付いて呉れる……ちびの鼻は、とても利くから。
   現に、迎えに来ていた亜美さんの匂いもちゃんと嗅ぎ付けたしね……。


   ……。


   だけど、其れでも駄目だ……危ないから。


   ……。


   良かった……此処に、居て呉れて。


   ……。


   寒かったろう……?
   いつから、待っていて呉れたんだい……?


   ……少し前からです。


   少し……?


   ……日が暮れる、少し前。


   ん……其れは。


   ……大丈夫です、温石を持っていますから。


   温石……。


   ……ほら。


   ん……あったかい。


   ……ね。


   けど、其れだけじゃあ足りないだろう……?


   ……寒さなんて。


   帰って、温まろう……。


   ……。


   然うしよう、亜美さん……。


   ……はい、まことさん。


   うん……ちび、もう少し頼むぞ。
   良し、良い返事だ……。


   ……ちび、お願いね。


   く……。


   ……?
   まことさん……?


   ん……なんでもないよ。


   ……。


   今は兎に角、家に帰ろう……。


   ……待って下さい。


   待たない……もたもたしていたら、もっと躰が冷えてしまう。
   雪も、強くなってきている……一刻も早く、帰らなければ。


   ……血の臭いがします。


   ……。


   足ですね。


   ……。


   気付くのが遅くなって、ごめんなさい。


   ……あぁ、やっぱり分かってしまうか。


   ……。


   亜美さん……?


   ……寒さで、感覚が鈍っているのですね。


   応急手当はしたんだ……。


   ……止血は。


   幸い、深い傷ではないから……。


   ……家まで、堪えられますか。


   あぁ、堪えられる……。


   ……誰かを呼んでくるよりも。


   自分で歩いた方が、早い……。


   ……。


   亜美さん……さぁ、帰ろう。


   ……分かりました、帰りましょう。


   ん……。


   ……痛みは。


   亜美さんの言う通り、寒さで……だけど、痛みがあろうが、此れくらいの傷ならばどうってことはない。
   骨が折れているわけではないし……靭帯、だったか……其れを、切っているわけでもない。
   血も、止まっている……だから、心配は。


   ……しないわけ、ない。


   ん、然うか……然うだよな、済まない。


   ……私に、あなたを背負う力があれば。


   はは……然うしたら、あたしは不要になってしまうなぁ。


   ……不要?


   亜美さんに、あたしを背負う力があったら……昨日のように、あたしが患者さんを背負う必要もなくなってしまうかも知れない。


   不要になんて、なりません。


   ……。


   ……其れだけで、好きになったわけではないのだから。


   ん……ごめん。


   ……。


   ねぇ、亜美さん……。


   ……なんでしょう。


   今回も、ちびを連れて行って良かったよ……ちびが居て呉れたから、雪の中でも良い話し相手になった。
   山の道も、良く覚えているから……犬とは、本当に賢いものだね。とても、頼りになる……改めて、然う思ったよ。


   ……。


   亜美さん……若しかして、怒っているのかい。
   あたしが、自分のことを不要になるだなんて言ったから……。


   ……。


   其れとも、あたしが無理に帰って来たと……然う、思っているのかい。


   ……。


   だけど、亜美さん……あたしは、無理だとは思わなかったんだよ。
   泊まることも、一瞬だけ、考えたけれど……此れくらいならば問題なく帰れると、判断したんだ。
   ちびにも聞いた……然うしたら、力強く吠えたんだ。だから……。


   ……。


   ごめんよ、亜美さん……どうしても、帰って来たかったんだ。
   此の雪は恐らく、止まないだろう……止まなければ、積もってしまう。


   ……。


   積もれば、道が塞がってしまうかも知れない……だから、亜美さん。


   ……ごめんなさい。


   うん……?


   ……ごめんなさい、まことさん。


   どうしてだい……?


   ……。


   うん……家で、話さそうか。


   ……。


   家まで、あと少し……。


   ……お腹は、空いていますか。


   お腹……うん、亜美さんの顔を見たら、思い出したよ。


   ……今日は、お大根を生姜で煮たんです。


   あぁ、美味しそうだね……早く、食べたいなぁ。


   ……大根餅は。


   食べたよ、とても美味しかった……。


   ……生姜煮は。


   全部、食べてしまった……美味しい上に、躰が温まって、本当に助かった。
   なぁ、ちび……お前も、全部、食べてしまったよな。


   ……間違えませんでしたか。


   あぁ、間違えなかったよ……。


   ……良かった。


   はは……。


   ……良かった、本当に。


   えと、そんなに心配だったのかい……?


   ……。


   んー……。


   ……こんなに取り乱すなんて、思っていなかったの。


   とり……?


   ……。


   ……。


   ……。


   亜美さん……ちょっと、良いかい。


   ……はい、なんでしょう。


   顔を、上げて貰っても……。


   ……。


   ……ちび、ほんの少しだけだから、許して呉れ。


   まことさん……?


   ……亜美。


   あ……ん。


   ……。


   ん……ん……。


   ……。


   ……なに、を。


   くちびるが……冷たい。


   ……其れは、まことさんだって。


   けれど……確認は出来た。


   ……確認?


   あたしはちゃんと、亜美さんのもとに帰って来た……其の、確認。


   ……。


   ん、ごめん……?


   ……もう、まことさんは。


   ばか、かな……。


   ……家まで、あともう少しです。


   ん……然うだね。


   ……帰ったら、傷の手当てと。


   其の後に、ごはん……?


   ……熱い生姜茶を淹れて。


   あぁ、早く飲みたいなぁ……。


   ……ごはんを、食べ終わったら。


   今日の話を、しよう……勿論、ごはんを食べている時にも。


   ……躰が、温まったら。


   眠ろうかな……今夜は。


   ……私と一緒に、休みましょう。


   ……。


   駄目ですか……?


   いや……駄目なわけない、嬉しい。


   ……。


   ……然う、お土産を買って来たんだ。


   お土産……甘いもの?


   何を買って来たか……其れは、帰ってから教えるよ。


   ……。


   ……亜美さん。


   ……。


   顔が、凍ってしまうよ……。


   ……然うしたら、あなたが融かして。


   あたしが……?


   ……あなたの、熱で。


   あぁ……うん、分かった。


   ……ごめんなさい、帰って来たばかりのあなたに。


   良いんだ……あたしも、あっためて貰うから。


   ……。


   ね……温めて、呉れるだろう?


   ……私で、良ければ。


   亜美さんしか、居ないよ……。


   ……ちびも、居ますよ。


   ちびは……亜美さんの方に、行ってしまうだろうから。


   ……そんなことはないわよね、ちび。


   然うか……ちび。


   ……。


   ……うん、お腹が空いたな。


   夕餉は、多めに作ったので……。


   ん……ゆっくり、味わって食べるよ。


  18日





   痛みを感じる時は、成る可く、温めるようにして下さい。痛みの原因が冷えだった場合、温めることが一番ですから。
   はい、お大事になさって下さい。帰り道にはどうか、お気を付けて……はい、さようなら。


   ……。


   ……ふぅ。


   亜美さん。


   ……。


   こんばんは。


   ……こんばんは。


   どうかしら。


   ……はい、落ち着いたところです。


   然う、其れは良かった。


   レイさんは、何処か気になる所はありますか。


   いいえ、ないわ。
   お気遣い、ありがとう。


   いえ……何よりです。


   未だ、戻っていないようね。


   ……はい、未だです。


   然う。


   雪は未だ、降っていませんか。


   ええ、未だ降り出してはいないわ。
   けれど、時間の問題かも知れない。


   ……然うですか。


   ……。


   レイさん、どうぞ中にお入りください。
   戸口では、冷えると思いますので。


   様子を見に来ただけで、直ぐに帰るつもりだったのだけれど。


   折角ですので、お茶でも如何ですか。


   然うね……折角だし、頂くわ。


   でしたら、どうぞ火の傍へ。


   ……。


   ……レイさん?


   予定では、遅くとも日が沈む頃までには帰って来ると言っていたのよね。


   ……何事も、予定通りには行かぬものです。


   其れは、然う。


   其れに、何かあれば帰るのは明日になるとも言っていましたから。


   つまり、向こうで泊まり、今日中には帰らないと。


   天気の動向如何では、然うなります。


   直に、日が沈む。
   となると、今日は帰って来ないと考えていた方が気は楽かも知れないわね。


   ……然うですね。


   向こうでは降り出したのかしら。


   降っていなくても、途中で降り出してしまうこともあります。
   であれば、


   此れぐらいならば問題ないと、町を出ていることも考えられる。
   あなたも知っていると思うけれど、まことにとって、降り始めの雪ぐらい何でもないから。


   ……。


   心配性なのね。


   ……其れが、私の性分なのです。


   然ういうところも、似ているわ。


   ……さぁ、どうぞ中へ。


   ええ。


   ……夕餉は、どうされるのですか。


   家で済ますから、お構いなく。


   宜しければ……ご一緒に如何でしょう。


   ありがとう、けれど気持ちだけで。


   ……。


   其れは、まことの分でしょう?


   ……レイさんの分を用意すれば良いだけの話なので。


   大根?


   はい……生姜と一緒に煮込みました。


   然う、美味しそうね。


   ……でしたら。


   だけど、良いわ。
   大根は嫌いではないけれど、うちにもあるの。


   ……然うですか。


   まことが居ないだけで、此の家の中は暗いわね。


   ……。


   其の逆もまた、然り。


   ……逆?


   まぁ、灯が消えたわけではないから、真っ暗ではないけれど。


   ……。


   あなたが此の村に来るまで、此の家は真っ暗だったの。
   闇、とまでは、言わないけれど……でも、其れに近いものがあったわ。


   ……真っ暗とは。


   夏の明るい時分でもね、辛気臭くてどんよりとしているのよ。
   まるで、何かに祟られているかのように。


   ……其れは、言い過ぎでは。


   実際、衰氣がどうしようもなく停滞していたから。
   あれでは祓うことも出来ないわ。


   ……。


   けれどあなたが此の村に来て、まことがあなたに一目惚れ? をしてから、がらりと変わった。
   真っ暗な衰氣の中に一筋の光明が差したように、小さな灯りが灯ったの。


   ……けれど其の頃の私は、まことさんに何もしていません。


   何も?


   慣れぬ頃は、一言二言言葉を交わすくらいで……そんな私に、まことさんは親切にして下さって。
   ご自分で作られたお野菜をお裾分けだと言って、分けて下さったり……診療所となる家も、まことさんが修繕して下さったと。


   大根、だったわよね。
   初めてお裾分けして貰った野菜は。


   ……はい、お大根でした。


   ふ。


   ……可笑しいですか。


   まことは、とても気に入っているようだから。


   ……何をでしょう。


   あなたが、自分の作った大根に「お」を付けて呼ぶこと。


   ……まことさんから、聞いたのですか。


   今更。


   ……。


   わざわざまことから聞かなくとも、目に入ってくれば嫌でも気が付くわ。


   ……私とは限りません。


   大根に「お」を付けて呼ぶひとなんて、此の村ではあなた以外居ない。
   まことから言われたことはないの?


   ……。


   あなたは、お育ちが良い。
   其れとも、都では大根に「お」を付けるものなのかしら。


   ……都でも、付けませんよ。


   其れなのに、あなたは付けているのね。
   都に居た頃から付けていたの?


   ……いえ、大根には然程興味がありませんでしたから。


   食べることが出来れば、其れで良い。


   ……其の通りです。


   まことが、特別だったのね。


   ……。


   慣れぬ頃はと言ったけれど……其れはまことに対してではなく、己の気持ちにでしょう。


   ……私は。


   ……。


   私は、衣食住に於いては、とても恵まれていました。
   けれど、其れで育ちの良さが決まるわけではないと思っています。


   然うかしら。


   ……いつも、ひとりで過ごしていましたから。


   其れは良かったわね。
   おかげで自分のことは自分で出来るようになったでしょうから。


   ふふ……其れは、確かに。


   歳を重ねるばかりで、自分のことすら満足に出来ない。
   其れは育ちが良いとは言えないのよ、決してね。


   レイさんは厳しいですね。


   其れ、まことにも言われるわ。
   私はそんなに厳しいかしら。


   特に自分に対して厳しい方だと、ずっと思っていました。


   ずっと?


   年に一度、食事を一切取らぬ日があると知った時に、より一層、然う思うようになりました。


   あぁ……一日ぐらい、なんてことはないわ。
   一日食べなかったとしても、命を落とすことはないもの。


   命を落とすことはないですが、お腹は空きます。


   あなただって、一日くらい食べずともなんともなかったでしょう?
   空腹を感じず、だから食事を抜くことに抵抗がなく、抜いたことすら忘れるような。


   ……どうして、然う思うのですか。


   とても失礼なことを言うけれど。


   ……構いません。


   来た頃のあなたは病的に細くて、青白くて……とてもじゃないけれど、診て貰いたいだなんて到底思えない有様だったわ。


   ……否定はしません、自分でも然う思いますから。


   当時のあなたは、兎角、生きる為の力が弱かった。
   投げ遣りとまでは言わないけれど、遣る瀬無いような無力感を纏っていて。
   或いは、寄る辺のない子供のような心細さ。若しくは、ひとのこであることの虚しさ。
   笑っているつもりなのだろうけれど、其の顔に温かみはない。まるで、凍て付いた炎のよう。


   ……炎?


   私達の中では、命のこと。
   心、でも良いわ。


   ……。


   然ういうところにも、まことは惹かれたのかも知れないわ。


   ……何故か、分からなかったのです。


   分からない?


   ……どうして、こんな私なんかにと。


   もどかしいと。


   ……はい?


   美奈が良く言っていたわ。
   ま、半分は面白がっていたけれど。


   ……。


   似ていたのよ、あなた達は。
   其れもまた、惹かれ合った要因。


   ……。


   実際は、もっと前に出逢っていたようだけれどね。


   ……。


   勘よ、ただの。


   ……あの、レイさん。


   何。


   ……そろそろ、火の傍に来ませんか。


   あぁ、然うだった。


   ……忘れていたのですか?


   火の傍に行く程、寒くないのよ。


   ……大分、冷えていますが。


   私はあまり寒さを感じないの。
   まことから聞いていない?


   ……まことさんではなく、美奈子ちゃんから。


   其れと、うさぎ?


   ……はい、うさぎちゃんからは特に。


   本当、良く喋る子供。


   ……レイさんの家の中は、常にひんやりしていると。


   一応、火はあるわよ。
   煮炊きするには必要だから。


   ……思えば、私はあなたをほとんど診たことがありません。


   必要ないもの。


   あの……冬に、風邪を引くことは。


   ないとは言わない、けれど問題ないわ。


   其れは……寒いのでは。


   感覚の問題なのよ。


   感覚、ですか。


   然う、感覚。


   ……レイさん、其れは。


   良いわよ、言わなくて。
   自分でも分かっているから。


   ……。


   感覚で寒さを感じなくても、躰は感じている。
   言いたいことは、其れでしょう?


   ……風邪は、油断出来ません。


   然うね、命を落とすものね。


   ……無理だけは、決してしないように。


   生姜。


   ……生姜?


   生姜湯を飲めば、私の風邪は治るの。


   ……え、と。


   私のことは、此の辺りで。


   あ……はい。


   ……。


   ……微かに鼻声ですよね。


   分かるの。


   ……分かります、一応、医生なので。


   一応、ではないわね。


   ……え?


   あなたのような医生が此の村に来て呉れて、感謝しているの。


   そ、然うなのですか。


   何、そんなに驚くこと?


   あ、いえ……然う思われていたことに、驚いてしまって。


   其れくらい、私でも思うわよ。
   あなたのおかげで、心配事が減ったのだから。


   ……心配事?


   風邪は、子供を容易に殺す。


   ……あ。


   違う?


   ……はい、其の通りです。


   だから、良かったわ。


   ……子供だけではありませんよ。


   分かっているわ。


   ……レイさん。


   何。


   ……レイさんも、無理だけはしないで下さいね。


   しないわよ、無理なんて。


   ……ひとりなので、心配しているんです。


   まことと?


   ……はい、まことさんと。


   其れで時々、様子を窺いに来るのね。


   ……やっぱり、気付いていますよね。


   あれで、気付かないわけがない。


   ……まことさんは、誤魔化すのも苦手なひとで。


   あなたへの気持ちも、分かりやすく、漏れていたものね。


   ……然うだったみたいですね。


   あの様では、気付かぬ者は居ないわ。


   ……ごめんなさい、気付きませんでした。


   自己肯定感が低いと、相手の好意に鈍くなる。
   分からなくはない。


   ……。


   昔のことよ、気にしないで。


   ……然うですか。


   はぁ……。


   ……レイさん、そろそろ。


   雪が、降ってきた。


   ……え。


   とうとう、降り出したわね。


   ……。


   ……帰りは、明日になる可能性もあるんだったわね。


   はい……私としても、危険を冒すくらいならば、其の方が良いと。


   其の理屈だと、まことは雪が止まなければ帰って来られない。


   ……。


   此の雪は、暫く、止まない。日によっては、吹雪くこともあるでしょうね。
   そして、日を重ねれば重ねるほど、雪は積み重なっていく。雪は水とは違うから。


   ……。


   だから、まことは今日中に帰って来るわ。此れくらいの雪如きで、まことの足を止めることなど出来ない。
   あなたのもとに帰って来ようとする、まことの意志を曲げることも。其れは言わば、帰巣本能のようなものだから。


   ……。


   優秀な犬も付いて行っているのでしょう?
   ならば、余計に帰って来ないという選択肢はないわね。


   ……。


   あなたも其れを望んでいるのではないの?


   ……私の望みよりも、まことさんの方が大事です。


   あなた、優等生と言われたことがあるでしょう。


   ……どうして然う思うのですか。


   答えが模範的だから。


   ……頭に、日陰の、が付きますが。


   日陰……ふ、其れは其れで良いじゃない。


   ……あの、レイさん。


   あなたの存在が、此の家を変えた。


   ……。


   まことも……いえ、あれがまこと本来の姿なのかも知れないわね。
   となると、元に戻したと言った方が妥当なのかしら。


   ……分かりませんが。


   亜美さん。


   ……はい。


   お茶を貰っても。


   あ、はい……。


   ……。


   ……あの、少々冷めてしまったので淹れ直しますね。


   いいえ、其れで良いわ。


   ……ですが。


   冷めていて、飲みやすいでしょうから。


   ……本当に良いのでしょうか。


   構わない。


   ……では。


   ありがとう。


   ……どういたしまして。


   ……。


   あの、火の傍に……。


   ……此処で良いわ。


   ですが……。


   ……。


   レイさん……?


   ……ほら、帰って来たわよ。


   え……。


   ……お茶、ご馳走様。


   え……?


   じゃあ、私は帰るから。


   レイさん、もう飲んでしまったのですか……?


   程良く冷めていて、美味しかったわ。


   は、はぁ……。


   じゃあ、また。


   レイさん。


   あと四半刻くらいで帰って来る。


   来て下さって、ありがとうございます。


   どういたしまして。
   あなたと話せて、楽しかったわ。


   良かったら、また話しましょう。


   然うね。


   今度は、まことさんが居る時に。


   考えておくわ。


   其の時は熱いお茶をお出しします。


   ありがとう、でもあまり熱くない方が良いわね。


   若しかして、熱いものは。


   誰だって、熱いものは冷ましてから飲み食いするものでしょう?


   其れは、然うですが。


   ……。


   ……?
   レイさん……?


   ……部屋を出来るだけ暖かくして、躰を温めるものを。


   ……。


   私に言われなくても、分かっているでしょうけれど。


  17日





   どうでしょうか。


   うん、美味しい。


   辛みは少しあると思うのですが。


   此れくらいならば、問題ないよ。
   寧ろ、此の辛みが良いとさえ思っている。


   やっぱり、お薬とは違いますか?


   うん、違うかな。
   もう一口、良いかい?


   はい、どうぞ。


   ……。


   どうですか?


   うん、やっぱり美味しい。
   後を引く味で、大根餅とも合うだろう。


   矢張り、甘みがあると食べやすいみたいですね。


   甘みを足すと、ぴりっとした辛みではなくなるんだ。
   もっと言うと、とても美味しく感じるようになる。


   屹度、辛みが円やかになるからだと思います。


   丸やか、か。
   確かに、棘ではなくまぁるくなっているな。


   まことさんは生姜だけで食べることはあまりなかったのですよね。


   生姜はあくまでも料理に入れるもので、其のまま食べようとは思わなかった。
   何度か生で食べたことはあるけれど、其の頃に食べたものは美味しいものではなかったし。


   其れで苦手意識を持ってしまったのでしょう。


   取り敢えず、生で齧るものではなかったよ。
   辛くて、とてもじゃないけれど食べられたものではなかった。


   ……其れでも、食べたのですよね。


   食べるものがないと、毒でない限り、食べるしかないから。


   ……以前に。


   うん。


   薬湯ではありますが、生姜のぴりっとした辛さのせいで喉がちくちくと痛み、出来ることなら服用したくないという方が居ました。


   あぁ、其れは分かる。
   齧った時に、あたしも同じようになったから。


   其の時は先ず、躰が感作状態なのかを疑ったのです。


   かんさ?


   私達の身の回りには食物、花粉、壁蝨などの多くの抗原が存在します。
   生姜もまた、其のひとつです。


   ……こうげん。


   生体に免疫応答を引き起こす物質のことなのですが……此処は単純に、然ういったものがあると思って聞いていて下さい。


   ん、分かった。
   あたし達の身の回りには、こうげん、というものがあって、生姜もそのひとつなんだね。


   はい、然うです。


   其れで、かんさとは。


   抗原が躰の中に入ると異物と見做して排除しようとする、免疫機能というものが働きます。


   めんえき……いつか、聞いたような。


   免疫機能とは躰を悪いものから守り、健やかな状態を維持する、言わば躰の防人のようなものです。


   あぁ、然うだった。


   此の免疫機能が抗原に働くと、躰の中に抗体という物質が作られます。
   此れを感作状態と言います。因みに、免疫は「疫」を「免」れると書くんですよ。


   疫を免れる、つまり、病にならない……うん、思い出した。


   感作が成立した後に再び抗原が躰の中に入ると、免疫機能が異常を起こし、くしゃみや発疹、呼吸困難、喉の痛みなどの症状を引き起こします。
   つまり、生姜で喉の痛みを訴えるということは、躰の中で免疫機能が異常を起こしている可能性があると考えられるのです。


   其れは……良くないことだよね。


   場合によっては重度の呼吸困難を引き起こし……命に係わってしまうこともあります。


   食べ物で、そんなことになるなんて……大変だ。


   はい……ですので、まことさんにも其れを疑ったのですが。


   え、あたしかい?


   生姜を摂取すると、喉が痛むと言っていましたので。


   ……其の患者さんは結局、どうだったんだい?


   喉の痛みの他にも其れらしき症状が見られたので、薬を変えることになりました。


   ……あたしは。


   お話を伺い、観察していた結果、辛みに弱いのだと判断しました。


   ……辛みでも、喉は痛くなる?


   なります。


   ……然うか。


   以前に生の生姜を齧ってしまったことも、苦手意識を持つには十分な理由になります。


   取り敢えず、良かったのかな。


   然うですね、良かったと思います。
   若しかしたら、生姜が食べられなくなっていたかも知れませんから。


   食べられずとも、搾り汁数滴くらいならどうなんだい?


   感作状態になっていますと、仮令臭み消し程度だったとしても、反応を起こすことは大いに考えられます。


   臭み消しに使えないのは困るな……。。


   まことさんの場合は、感作状態ではありませんでした。
   其れで、飲みやすくする為に、甘みを足したんです。


   ……。


   子供は甘みを加えることで、飲めるようになることが多かったんですよ。


   ……子供。


   勿論、大人も。


   ……若しも、生の生姜を齧っていなければ。


   其れでも、苦手だったと思います。


   ……然うかな。


   どのみち、辛みが苦手なことは変わらないと思いますので。


   ……生姜って、どうしてあんなに辛いのだろうか。


   どうして、ですか?


   あんなに辛くなくても良いと思うんだ。


   ……敢えて、言うのなら。


   うん。


   其れが生姜にとって、必要だったからだと思います。


   ……。


   他の生物に食べられないようにする為の、ひとつの生存戦略だったのかも知れません。


   然うか……生存戦略なら、仕方がないな。


   はい、仕方がありません。
   其れは生姜が、進化の過程で得たものでしょうから。


   ……あんなに辛いものは、他にあるのだろうか。


   生姜とは辛みの趣が少し違うかも知れませんが、山葵や辣椒、山椒の実、芥子菜も辛いと言われています。


   ……なんとなく、知っているような気がする。


   辣椒には種類があり、とてつもなく辛いものもあるそうですよ。


   ……うん、無理かな。


   私も無理です。


   ……亜美さんは、辛いものは。


   生姜は慣れていますが、他の辛いものは恐らく苦手だと思います。


   ……良かった。


   良かった、ですか?


   ……食べることが、なさそうだから。


   あぁ……ふふ、然うですね。


   ……うん。


   でも、分かりませんよ。
   何処かで食べる機会があるかも知れません。


   ……辛いと分かっていても、食べるかい?


   分かっていれば、避けるかも知れませんね。
   だけど、試してみたいとも思うかも知れません。


   ……ちてき、こうきしん。


   其の時は、一緒に試して呉れますか?


   も、勿論だ、あたしも一緒に試そう。


   ふふ。


   む、無理をしない程度に。


   頼りになるまことさんにも、苦手なものはあるんですよね。


   う。


   ふふ……。


   ……出来れば、甘いものの方が良いな。


   はい、私もです。


   ……今度、一緒に町に行ったら。


   甘味を食べましょう、一緒に。


   うん、食べよう。
   春になったら。


   年も明けていないのに、気が早いですよ。


   けれど、楽しみになるだろう?


   はい、なります。


   ならば、幾らでも考えて良い。


   ふふ、然うですね。


   此の冬も、色々考えよう。


   ……はい、まことさん。


   うん。


   ……。


   生姜は。


   ……。


   臭い消しや味付けに使う分には気にならないけれど、其のものを食べる時は甘みがあった方が食べやすいな。
   あと、甘みのある生姜茶は、特に寒い夜に飲むと良いかも知れない。


   ……多く頂きましたし、今冬は飲む機会が増えそうですね。


   早速だけれど、明日の夜にまた飲みたいと思っている。


   明日の夜、ですか。


   うん……駄目かな。


   いいえ……駄目ではありません。


   ありがとう。


   ……。


   そっちは、ちびの分かい?


   ……はい。


   んー……。


   ……折角ですので、味見してみますか。


   うん?


   ……いかがでしょう?


   え、と……試しに、してみようかな。


   ……でしたら。


   ……。


   どうぞ、まことさん。


   ……うん。


   ……。


   ……ん。


   少し辛いですか?


   ……少し、辛い。


   ふふ……然うですよね。


   ……でも、食べられなくはない。


   念の為……まことさんの分も、入れておきます。


   ……うん、頼む。


   ……。


   ……。


   ……まことさんのものには、味を付けていますが。


   ……。


   ちびのものには付けていません……ですから、味が付いているものはちびに食べさせないで下さいね。


   ……ちびには味が濃すぎる、だね。


   はい……然うです。


   うん……間違えないよう、気を付ける。


   其れと……うっかり、ちびの分を食べないように。


   ん……其れも、気を付けよう。


   ……寒さを感じたら食べて下さい、少しは躰が温まると思います。


   ありがとう……直ぐに食べられるようにしておく。


   ……直ぐに。


   寒さを、少しでも感じたら。


   大根餅と一緒にしておこうと思いましたが……別の方が良いでしょうか。


   然うだなぁ、別の方が良いかも知れない。


   ……。


   お弁当はいつも通り腰に下げて……刻み生姜は、懐の隠しに入れておこうと思う。
   其れならば、直ぐに取り出して食べられるだろうから。


   分かりました……では、其の様に。


   あぁ、其れはあたしがやろう。
   亜美さんに作って貰ったんだ、其れくらいはしたい。


   ですが、朝の支度があるかと思います。


   大丈夫だ、支度と言ってもそんなにはないから。


   忘れ物はしないように。


   取り敢えず、金の入った巾着は忘れないようにしよう。


   ……お金は、大事ですからね。


   金がなければ、甘いものが買えないからね。


   其れだけでなく、宿に泊まることも出来なくなります。
   雪が降っているかも知れぬ寒空の下で野宿だなんて、命に係わります。


   いざとなったら、軒下を借りて


   駄目です、軒下と雖も外は外です。


   防人の頃に


   雪がなければ、雪洞は作れません。


   ……他の方法で、冷気を防ぐことが出来れば。


   そもそも火がなければ、暖を取ることが出来ません。
   雪洞などで冷たい風を防げたとしても、冷えた躰を温めることまでは出来ないのです。


   ……冷たい風さえ防げれば、ちびも居るし。


   ちびが居るから温かいかも知れませんが、其れでも危ないことには変わりありません。


   ……。


   危ないのはまことさんだけでなく、ちびもです。
   分かっていますよね。


   ……はい、分かっています。


   お金がなければ、温かいごはんを食べることも出来ないのです。
   言っておきますが、一食くらい抜いても……なんて、考えないで下さいね。
   抜くことになるのは夕餉だけではなく、朝餉も……ひょっとしたら、昼餉さえも。


   ……三食は、流石に辛い。


   ですので、決して、くれぐれも、忘れないように。
   幾らまことさんがお金に興味がないと言っても、お金はあるに越したことはないのです。


   ……はい、其の通りです。


   ……。


   ん……亜美さん。


   ……あなたはもう、防人ではないのですから。


   ……。


   村の防人であっても……。


   ……金は、忘れずに持って行く。


   はい……必ず、持って行って下さい。


   ……なくさぬように、気を付ける。


   山に、落としていかぬように……。


   ……うん、確りと仕舞っておこう。


   ……。


   ……毎回、言われている。


   だって。


   ……だって?


   心配なんですもの……。


   ……ふふ、然うか。


   もう……私にとっては、笑いごとではないんです。


   ん……済まない。


   ……。


   ……ちびの生姜。


   ……。


   ちゃんと別々にして、間違えないようにしないと。


   ……お願いしますね。


   うん……。


   ……。


   ……ん?


   ……。


   亜美さん……何処に。


   ……ちびに。


   あぁ……。


   ……ちび、おいで。


   ……。


   生姜……ほんの少しだけ、食べてみる?
   然う……なら、味見してみて。


   ……。


   ……どう?


   うん……美味しそうに食べている。


   ……美味しそう、ですか?


   なぁちび、亜美さんが作って呉れた生姜煮は美味しいだろう?
   然うか然うか、美味しいか。良かったなぁ、ちび。


   ……。


   はは、もう一口欲しいみたいだ。


   もう一口だけよ、ちび。
   残りは、明日の分だからね。


   何事も、食べ過ぎは良くないからな。


   まことさん。


   うん?


   まことさんも、ですよ。


   あたしは……あと、一口だけ。


   駄目です。


   ……はい。


   ちび、明日はまことさんから貰ってね。
   大丈夫、うっかり食べてしまわないようにちゃんと伝えておいたから。


   ……うっかり食べてしまったら、ちびに怒られるな。


   ちび、戻るの?
   然う……其れじゃあ、おやすみ。


   明日は早いから、今夜は良く眠るんだぞ。


   明日はお願いね。


   おやすみ、ちび。


   まことさんも、そろそろ。


   あたしは……もう少し。


   ……。


   もう少しだけ、起きていたいと。


   ……あまり、遅くならないようにして下さいね。


   取り敢えず、いつでも眠れるようにはしておく。


   ……はい。


   ……。


   ……ねぇ、まことさん。


   なんだい……?


   ……明日の夜は。


   ……。


   ……あ。


   亜美さんの傍に、帰って来ていたい……。


   ……。


   ……明日のことは一応、レイも知っているから。


   レイさん……。


   ……何かあったら、レイに。


   ないことを、祈っています……。


   ……。


   ……ねぇ。


   ん……?


   ……先に、お布団に。


   ……。


   私も……明日の支度が出来次第、直ぐに。


   ……あぁ、布団で待っているよ。


   ……。


   だけど……もう少しだけ。