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日記
2025年・12月

  16日





   ……少し、楽になられたようですね。


   ……。


   高い熱が出ますと眠れなくなってしまうことは屡々ありますので、然ういう時は無理に眠ろうとしなくても良いですよ。
   目を瞑って、ただ、横になっているだけでも……私ですか? はい、私にも然ういった経験はあります。
   ですので、眠れなくて不安になるお気持ちは分かるつもり……はい、其れは歳を重ねても変わらぬものですよ。


   ……ふぅ。


   おふたりに飲んで頂いたお薬と同じものを三日分、出しておきます。一日三回、食事の後に飲んで下さい。
   食欲はないかも知れませんが、成る可く、一口だけでも良いので召し上がって頂ければと思います。
   はい、水分も出来るだけ取って下さい。飲まずにいますと、其れもまた、躰には良くありません。


   ……水は、良し。


   では明日、様子を伺いにまた参りますね……いえ、お気になさらず。
   今夜はとても冷えそうです。どうぞ暖かくしてお過ごし下さい。


   ……お湯も、此れくらいで良いか。


   お気遣い、ありがとうございます。
   はい、気を付けて帰ります。


   ……うん、粥も此れで良い。


   まことさん。


   ……うん?


   どうでしょうか。


   あぁ、此方は万端だ。
   いつでも飲めるし、食べられるよ。


   ありがとうございます、助かります。


   いや、役に立てて嬉しく思う。


   ……。


   あぁ、どういたしまして。粥は一口だけでも良い、好きな時に食べて呉れ。若しも口に合わなかったら、其の時は済まない。
   いや、気にしないで良い。こういう時はお互い様だ。あぁ、あぁ、起きなくて良い。其のままで。あたし達は構わぬから。


   ……。


   うん、此れを?
   いや、でももう……本当に良いのか。


   ……。


   大夫。


   ……はい。


   此れを頂くことになった。


   ですが、お礼ならもう……本当に、宜しいのですか。
   あぁ、ありがとうございます……では、有り難く頂戴致しますね。


   ありがとう、美味しく頂くよ。


   では、私達は此の辺りで御暇致します。
   どうぞ、お大事になさって下さいね。


   お大事に……あぁ、気を付けて帰るよ。
   大夫のことなら心配要らない、家まであたしがちゃんと連れて帰る。


   ……まことさん。


   ん、間違ってはいないだろう?


   ……いませんが。


   明日は用があるので無理だが、良かったらまた粥を作りに来る。
   なに、遠慮は要らないさ。


   ……もう。


   では帰ろうか、亜美さ……いや、大夫。


   ……はい、帰りましょう。


   じゃあ、また。


   では、また明日に。


   ……。


   ……。


   ……ん。


   空気が、冷たいですね。


   あぁ、来た時よりも冷えているな。
   此れだと明日の朝は、雪が降らずとも、水が凍るかも知れない。


   ……より一層、足元に気を付けないといけませんね。


   うん、気を付けよう。


   ……。


   日がすっかり、暮れてしまったね。


   ……でも、雪が降っていなくて良かったです。


   あぁ、然うだね。


   火は大丈夫でしょうか。


   あぁ、大丈夫だ。


   早めに……


   と……風が、時折強く吹くな。


   ……。


   大丈夫かい、亜美さん。


   ……大丈夫です。


   寒かったら、あたしに。


   ……まことさんは、火を持っていますので。


   腕ならば、問題ない。


   歩き辛いですし……何かがあった時に、直ぐに対応出来ませんから。


   亜美さんが歩き辛いのなら、諦め……いや、無理にとは言わない。


   ……。


   せめて、鞄を持とう。


   ありがとうございます、でも。


   ならば、こうしよう。


   ……どうするのですか。


   火は、亜美さんが。
   鞄は、あたしが。


   ……。


   其れなら、良いだろう?


   ……良いのでしょうか。


   さぁ。


   ……お願いします。


   此方こそ、火を頼む。


   ……はい。


   う……。


   ……。


   あぁ、風が本当に冷たいな。


   ……大丈夫ですか。


   ん、然うだな……大丈夫ではないかも知れない。


   ……。


   亜美さん……少しだけならば、どうだろう?


   ……そんなことを言って。


   直ぐ、其処まで。


   ……あまり意味がないと思いますが。


   然うでもないさ。


   ……。


   あ。


   ……早く、家に帰りましょう。


   うん、然うしよう……ちびも、腹を空かせて待っているだろうから。


   ……屹度、待っています。


   ……。


   ……。


   ……あぁ、腕が温かい。


   冬は、此れから……。


   ……今冬は、長くなりそうだ。


   今年も、多めに用意しておいて良かったです……。


   然うだね……備えあれば、憂いなしだ。


   ……ねぇ、まことさん。


   なんだい……?


   ……雪が降っていないからと、縁側でお昼寝をして、風邪を引かないようにして下さいね。


   流石に、此処まで冷えてくると……。


   ……昼間は、分かりませんから。


   うん……気を付けるよ。


   ……星は、見えませんね。


   雲ばかりだからね……暫くの間は、見えないかも知れない。


   ……。


   ……寒いかい?


   いえ……大丈夫です。


   もう暫く、良いかい?


   ……家まで、こうして


   あたしは、構わない。


   ……何事もなければ、ですよ。


   あぁ……なければ、家まで。


   ……。


   亜美さん。


   ……なんでしょう。


   帰ったら、熱いお茶を。


   ……はい、飲みましょう。


   うん……あぁ、然うだ。


   ……何か良いことでも思い付いたのですか。


   どうして分かったんだい?


   ……声が弾んだので。


   ふふ、然うか。


   ……何を思い付いたのですか。


   あぁ、此れを使おうかと思って。


   ……生姜をですか?


   此れをお茶に入れて飲めば、躰がより温まる。


   ……でも、まことさんは苦手ですよね。


   苦手だけれど、飲めなくはない。


   ……確かに、飲めなくはないようですが。


   あくまでもお茶であって、薬湯ではないから。
   ほら、薬に使うものとは違うだろう?


   ……お薬に使う生姜は辛味性の強いものが多いです。


   食べる生姜は其処まで辛くない。
   もっと言えば料理に使う分には大丈夫なんだ、だからお茶に入れても。


   ……。


   ……あまり、量を入れなければ。


   搾り汁を数滴加えれば、其れで足りると思います。


   ……うん、然うする。


   ……。


   生姜は、入れるかい……?


   然うですね……摺り下ろしたもの、少しだけ。


   ん、分かった。


   ……。


   はぁ……吐く息が、白いな。


   ……ねぇ、甘くしましょうか。


   うん?


   ……生姜茶。


   ……。


   ……然うすれば、飲みやすいでしょう?


   甘くなくても、飲めなくはないが……入れると言っても、汁を数滴だし。


   ……でも、甘い方が飲みやすい。


   うん……飲みやすい。


   ……ふふ。


   子供、かな……。


   ……良いと思いますよ、其れでも。


   本当に、良いかい……?


   ……はい、良いです。


   良かった……。


   ……そんなあなたも、可愛いですから。


   む……。


   ふふ……ふふ。


   ……はは。


   ……。


   ん……ちび、か?


   ……迎えに来て呉れたのでしょうか。


   其れか、腹が空き過ぎて待ち切れなくなったのか……。


   ……其れは、ないと思いますが。


   亜美さん……念の為、あたしの後ろに。


   ……鞄を。


   ん……。


   ……はぁ。


   ……。


   あぁ、うん……やっぱり、ちびだ。


   ……。


   ただいま、ちび。
   迎えに来て呉れたのか。


   ちび、来て呉れたのね。


   ちび、帰ったら直ぐにごはんの支度をするからな。
   今夜は魚入りの大根粥だぞ。楽しみにしていて呉れ。


   家には、誰も来なかった?
   然う……ありがとうね、ちび。


   亜美さん、もう一度。


   いえ、ちびが居ますから。


   む。


   ふふ……はいはい、早く帰りましょうね。


   ……まぁ、良いか。


   大丈夫よ、ちび。
   心配は要らないわ。


   ……あまり、良くないな。


   まことさん、どうしましたか。


   鞄、持とう。


   あぁ、お願いします。


   あ、うん。


   ねぇ、ちび。


   ……。


   明日は、お願いね。


   ……。


   まことさんのこと……。


   ……亜美さん。


   今、言うことではないかも知れないけれど……あなたが、頼りなの。


   ……。


   私なら、大丈夫よ……何かあったら、引っ張ってでもまことさんを連れて帰って来てね。


   ……。


   ん、まことさん。


   然うやって、いつもちびにお願いしていたのかい?


   ……いけませんか。


   いや、いけないことではないよ。


   明日だって……本当なら、私が行くべきなの。


   ……あたしでは、不足かい?


   まさか……。


   ……大丈夫、必ずちびと一緒に帰って来る。


   ……。


   何か、買って来て欲しいものはあるかい……?


   ……あなたとちびが無事に帰って来て呉れるのなら、其れだけで。


   甘いものでも、買って来よう……。


   ……甘いもの。


   飴売りがまた、来て呉れていたら良いのだが……。


   ……。


   帰って来たら……亜美さんが淹れて呉れた、美味しいお茶が飲みたい。


   ……美味しく淹れられるかは、分かりませんが。


   ふふ……亜美さんが淹れて呉れたお茶は、いつだって、美味しいさ。


   ……。


   飴でなくても、甘いものが買えたら……其れと一緒に、お茶を飲もう。


   ……はい、まことさん。


   うん……。


   ……明日は、大根餅を作ろうと思います。


   大根餅……?


   ……どうぞ、持って行って下さい。


   お弁当、かい……?


   ……其のつもりです。


   ありがとう……大事に持って行くよ。


   ……お昼でなくても良いので、何処かの機会で食べて下さいね。


   あぁ……必ず、食べる。


   ……ちびの分も、作るからね。


   良かったな、ちび。


   ……其れと、生姜も持って行って下さい。


   生姜も……?


   ……火に掛けて細かく刻んだものを、大根餅と一緒に入れておきます。


   ……。


   ……ちびに与える場合は、少なくお願いしますね。


   うん……分かった。


   ……。


   亜美さん、生姜はあたしが……。


   ……いえ、私にやらせて下さい。


   けど……。


   ……お願いします。


   分かった……ならば、頼む。


   はい……任せて下さい。


   ……。


   ……雪。


   降らないと、良いな。


   ……せめて、あなたが帰って来るまで。


   其れと、返信が届いていると良い。


   ……。


   然うだろう?


   ……母からでも、学姐からでも構わない。


   ……。


   届いていて欲しい、と……。


   ……若しもの時は、また、あたしが取りに行く。


   まことさん……。


   ……でも、吹雪いている時は無理しない。


   吹雪いていなくても……少しでも危ないと感じたら、無理はしないで。


   ……。


   お願い……まことさん。


   ……万が一。


   止めて。


   ……明日帰って来られなくても、明後日には帰って来る。


   明後日……。


   ……空を見上げて帰ることは難しいと判断した場合は、無理はせずに町で一泊してくる。


   ……。


   其の時は、一晩、ひとりにしてしまうが……どうか、許して欲しい。


   ……構いません。


   ……。


   あなたが、帰って来て呉れるのなら……私は、大丈夫です。


   ……。


   あ……。


   ……亜美さん。


   まことさん……ちびが。


   ……ちびは、分かって呉れる。


   吠えて、いますが……。


   ……頼むちび、分かって呉れ。


   ……。


   今だけ……今だけだから。


   ……。


   ……ぐ。


   まことさん……離れた方が。


   ……ちび、どうして。


   多分、ですが……。


   ……ちび、あたしは。


   然ういうことは、家に帰ってからにしろと……。


   ……家に?


   寒空の下で、するものではないと……ちびは、思っているのかも知れません。


   ……然うなのか、ちび。


   ……。


   うん……然うだと、思っておこう。


   ……今は兎に角、帰りましょう。


   あぁ、然うしよう……。


   ……ちび、先に行って家の周りを確認しておいて。


   ……。


   大丈夫、私達も直ぐに帰るわ……ねぇ、まことさん。


   ん、直ぐに帰るよ。
   夕餉を作らないといけないし、明日にも備えないといけないからな。


   お願いね、ちび。


   さぁ行け、ちび。


   ……うん、良い子。


   ……。


   ……ん、まことさん。


   此れくらいなら。


   ……家に。


   あぁ、急ごう。


  15日





  -布瑠(パラレル)





   乾燥は喉に良くありませんので、定期的に白湯かお茶を飲むようにし、成る可く、乾かぬようになさって下さい。
   お薬は一日三回、食事の後に。此のお薬は喉の痛みに効きますので、忘れずに飲んで下さいね。


   ……。


   はい、お躰は冷やさぬよう、どうぞ暖かくしてお過ごし下さい。冷えも、喉には良くありませんので。
   では、お大事になさって下さいね。帰り道、足元にはくれぐれもお気を付けて。


   ……ん。


   まことさん。


   あぁ、終わったのかい?


   はい、終わりました。


   然うか、ならばほんの少しだけ待っていて呉れないか。
   なに、そんなには掛からない。直ぐだ。


   ……。


   此れ、今朝獲れた魚なんだが、良かったら持っていて欲しい。
   あぁ、今朝は珍しく、獲れ過ぎてしまってね。然う、珍しいだろう。こんなことは滅多にない。
   故に、ふたりと一匹では食べ切れぬから、こうしてお裾分けをしているんだ。


   ……ふぅ、より冷えてきましたね。


   や、此方こそ、世話になっている。だから、此れを食べてどうか精を付けて呉れ。
   雪が降り始めれば、また、総出で雪掻きをせねばならないからな。はは、然うだろう?


   ……。


   あぁ、引き留めてしまって済まない。うん、気を付けて帰って呉れ。
   どうも雲行きが怪しくなってきたから、今日はもう、外には出ぬ方が良いだろう。
   流石に、出る気はないか。まぁ、然うだな。あたしも、滅多なことがない限り、出る気はないよ。


   ……。


   大夫。


   ……はい?


   改めて、お礼が言いたいらしい。


   あぁ……いえいえ、お気になさらず。こういうことは、お互い様ですから。
   其れにまことさんも言っていましたが、こんなことは滅多にありませんから……ねぇ、まことさん。


   獲れたとしても、大体、あたし達が食べる分くらいだからな。
   煮るなり焼くなり、好きなようにして食べて呉れ。


   どういたしまして。
   はい、さようなら。


   ん、また。


   ……。


   ふぅ……いよいよ、冷えてきたな。


   ……空気の中に、雪が降り出しそうな冷たさを感じます。


   うん、然うだな……。


   ……。


   ……亜美さん?


   外の様子を……。


   ……躰を、冷やさぬ程度に。


   はい、分かっています……直ぐ、ですから。


   ……うん。


   ……。


   あたしは、熱いお茶でも淹れようか。


   ……ありがとうございます。


   ん。


   ……。


   今日はもう、誰も来ぬだろうか。


   どうでしょう……。


   ……風邪を引く者が増えてきた。


   今年は、喉の痛みと咳を訴える方が多い傾向です……。


   ……あたし達も、気を付けないといけないね。


   はい……。


   ……。


   ……今にも、雪が降ってきそうな曇天ですね。


   若しかしたら、今夜にでも降り始めるかも知れない。


   ……今夜。


   冷たい空気の中に、雪の匂いが微かに混じっている。


   ……向こう側はもう、降っているかも知れません。


   向こう……。


   ……未だ、大分離れているとは思いますが。


   ……。


   ……ん。


   亜美さん、そろそろ。


   ……はい。


   ……。


   ……まことさん、明日は。


   心配は要らない。


   ……。


   明日の朝に降っていたとしても、其れでも行ってくるから。


   ……ですが。


   降り始めならば、問題ない。
   明け方に出て、遅くとも日が沈む頃までには必ず帰ってこよう。


   ……。


   亜美さん。


   ……危険だと感じたら、必ず引き返して下さいね。


   あぁ、危ないと感じたら直ぐに引き返してくる。


   必ず、ですよ。


   うん、必ずだ。


   ……。


   亜美さん……。


   ……ついこの間、季節外れの嵐が来て。


   あの嵐は、特に雷が酷かったね……。


   だから……今年の降り始めは、若しかしたらと、思っていたの。


   あぁ、あたしも思っていたよ……若しかしたら、もう少し待って呉れるかも知れないと。


   其れなのに……まさか、いつもよりも早いなんて。


   天気は、読めない……此の歳になっても。


   ……せめて、もう一日。


   此ればかりは……いや、然うだね。


   ……。


   封信を出してから、二週間だ……そろそろ、返信がある頃かも知れない。


   ……どうか、届いていますように。


   其れを、願っている。


   ……はい。


   ……。


   ……此のままだと、此の冬を越すことは限りなく難しいと思います。


   年を越すことは……。


   ……。


   然うか……。


   ……ほんの少しだけでも、食事を取って下されば違うと思うのですが。


   食事、か……。


   ……体力が、落ちてゆくばかりで。


   今は、布団の中でぼんやりとしていることが多いみたいだね。


   ……意識を、かろうじて繋ぎ止めているような状態だと。


   美奈が、言っていた。


   ……。


   明日は、目が覚めることはないかも知れないと。


   ……聞かなかったことに、しますね。


   うん……済まない。


   ……いえ、お気持ちは分かるつもりですから。


   ……。


   息遣いが、日に日にか細くなっていく……。


   ……辛いものだ。


   ……。


   亜美さん……お茶を。


   ……ありがとうございます、まことさん。


   躰を、温めて欲しい……。


   ……まことさんも。


   あぁ……あたしも。


   ……。


   お茶を飲んだら、夕餉の支度をしようと思う。


   ……今夜のちびのごはんは。


   魚の身を解して、大根粥に入れる……猪肉ほどではないが、ご馳走だろう?


   ……ちびは、お魚も好きですから。


   あいつは、なんでも食べて呉れる……。


   ……好き嫌いがないことは、良いことです。


   犬にも好き嫌いはあるのだろうか。


   ……あるかも知れません。


   食べさせてはいけないものがあるくらいなのだから、好き嫌いもあるか……。


   ……屹度。


   ん……。


   ……ふぅ。


   ……。


   ……ん、美味しいです。


   うん……良かった。


   ……。


   ……。


   ……あの子の湿疹のことなのですが。


   今日は、どうだった……?


   ……紅斑は大分、治まってきました。


   あぁ、然うか……良かった。


   ……治りかけなので、油断は出来ません。


   うん……然うだった。


   ……食欲も問題なく、良く飲んで呉れていると。


   何よりだ。


   ……此のまま、何事もなく。


   あぁ……何事もなく、冬を越して欲しい。


   ……冬を越して、命が芽吹く春を迎えて、初めての夏を感じ。


   二度目の、秋を……。


   ……其の繰り返しを、何度でも。


   ……。


   ……一週間では、返ってきませんでした。


   うん……?


   ……一週間半経っても、返信は。


   返事を書くのが、難しいのだろうか……。


   ……其れも、あると思います。


   ……。


   ……お薬も一緒に送って呉れるとなると、手続きなどで、余計な時間が掛かってしまうかも知れません。


   薬を送るのは、やっぱり難しいものなのかい……?


   ……都からお薬を持ち出すとなると、其れなりに面倒なんです。


   面倒……。


   ……殊、瘡毒などの特定の病のお薬となると、都外に持ち出す為により詳しい理由が必要になってくる。


   より詳しい理由……とは。


   ……例えば、患者の素性など。


   素性……。


   ……簡単に言ってしまえば、とても高価なお薬なので。


   あぁ……。


   ……与えることが出来る者は、限られているのです。


   然ういうことか……だから、亜美さんは。


   ……そんなもの。


   ……。


   そんなもの……ひとりのひとの命が、懸かっているというのに。


   ……亜美さんのお母さんでも。


   仮令、宮の医生だとしても……例外は、ありません。


   然うか……都は面倒、いや、難しいな。


   ふふ……面倒で良いですよ、私も然う言ったのですから。


   ……大変なんだな、色々と。


   はい、しがらみばかりで……。


   ……しがらみ、か。


   若しも、送れたとしても……。


   ……。


   ……大切に運んでこなければならないので、其処もまた、時間が掛かってしまう要因に成り得ます。


   大切……。


   ……道中、何かあったら台無しになってしまうかも知れませんから。


   若しも、うっかり落としたなんてことになったら……。


   ……拾い集めることが出来れば、良いのですが。


   拾い集める……。


   ……粉状、或いは液体だと難しいですよね。


   落としたら、仕舞いだな……。


   ……粉状のお薬は兎も角、液体のお薬は割れない器に入っていれば良いのですが。


   割れない器……そんなものが、都にはあるのかい?


   ……まぁ、ないことはないです。


   竹、ではないな……。


   ……竹が使えたら、良いのですが。


   其の割れない器に……。


   ……割れない器に入れて、母が持って来て呉れれば手っ取り早いのです。


   ……。


   まぁ、無理でしょう……母は、都から離れることなど出来ない。
   都外の、其れも流れの者と其の子供を救う為になんて……母の立場が、許すわけがない。


   ……しがらみばかりで面倒だな、都は。


   医生とは、なんなのでしょうね……。


   ……。


   ……。


   ……大夫のようなひとを、あたしは医生なのだと思っている。


   まことさん……。


   ……明日は、ちびを連れて行く。


   はい……どうぞ、連れて行って下さい。


   其の為に、今夜はたらふく食わせてやりたい。
   然うすれば……明日は屹度、頑張って呉れるだろうから。


   ……たらふく食べさせずとも、ちびは頑張って呉れます。


   ん、然うか……。


   ……あの子は、あなたに忠実ですから。


   忠実、かな……。


   ……忠実ですよ。


   まぁ、亜美さんが言うのなら……。


   ……ですが、今夜は少し多めに食べさせてあげましょう。


   うん……然うしよう。


   ……早めに、ですよね。


   あぁ……明日は早いから。


   明日のちびの朝ごはんの量は、いつも通りで良いですか。


   うん、いつも通りで。


   ……食べさせる時間は、いつもより早めに。


   ちびも初めてではないから、其処までの心配は要らないだろう。


   ……あの子はちゃんと理解していると思います。


   ちびは、賢い子だから。


   ……はい。


   あたしも、今夜は早めに休もうと思う。


   どうぞ、ゆっくり休んで下さい。


   ……。


   ん、まことさん……。


   ……ゆっくり、休みたい。


   ……。


   ……良いだろうか。


   早めに、明日の支度を済ませます……。


   ……ありがとう。


   ……。


   ……今夜は、何もなければ良い。


   然うですね……。


   ……。


   ……しんしんと、冷えてきましたね。


   少し、火を強くしようか……。


   ……ちびは大丈夫でしょうか。


   中に入れてやるかい?


   ……いいえ、屹度嫌がるでしょうから。


   然うかな……亜美さんが呼べば、あいつは喜んで入ってくると思うよ。


   ……嵐でもないのに。


   ちびに後で聞いてみよう。
   然うだな、ごはんの後にでも。


   ……もう、まことさんは。


   ははは。


   ……ふふ。


   ……。


   ……。


   ……いよいよ、今年の冬が始まる。


   一年、早いですね……。


   ……もう少し、ゆっくりで良いんだが。


   本当に……。


   ……年々、早くなってきているような気がするよ。


   せめて、変わらずに居て呉れれば良いのに……。


   ……。


   ん……。


   ……亜美さんと、少しでも長く。


   ……。


   ……過ごしたい。


   私も……。


   ……ん。


   ……?


   ……。


   まことさん……?


   ……誰か、来た。


   誰か……。


   ……患者さん、かな。


   まことさん。


   ……気配が、少し弱い。


   お願いしても、良いですか。


   ……あぁ、出てこよう。


   はい、宜しくお願いします。


   ん……では、行ってくる。


   お気を付けて、行ってらっしゃい。


   うん。


   ……。


   お、と。


   風が。


   出てきたな。


   ……ちび、あなたも。


   いや、大丈夫だ。


   でも。


   ちび、亜美さんを頼む。
   なに、直ぐに戻ってくるよ。


   ……。


   じゃあ。


   はい……まことさん。


   気配は……向こうからか。


   ……。


   ……む。


   ……。


   少し、まずいな。


   ……ちび、あなたも行って。


   おい、大丈夫か!
   いや、大丈夫ではないな。


   ……。


   此処まで、ひとりで来たのか。家の者は……あぁ、然うか。
   うん、もう心配は要らないよ。直ぐに大夫が診て呉れる。


   ……足取りに、ふらつき。


   あたしの背中に……あぁ、うちはもう直ぐ其処だ。
   あなたを診たら、家にも向かおう。


   ……発熱の恐れ。


   さぁ、早く。


   ……恐らく、家の者も。


   大夫、大夫。


   はい、此処に。


   躰が熱い。


   分かりました。


   家の者も然うらしい。


   今は、兎に角中へ。


   応。


   ちび、ありがとう。


   ん、ちびも来て呉れたのか。


   念の為に。


   然うか。


   まことさん、寝かせてあげて下さい。


   ん、分かった。


  14日





   雷乃発声。


   かみなり、すなわち、こえを、はっす。


   雷乃収声。


   かみなり、すなわち、こえを、おさめる。


   水始涸。


   みず、はじめて、かる。


   水泉動。


   しみず、あたたかを、ふくむ。





   ……。


   ちびも大分、難しい言葉を覚えてきたなぁ。


   ……あなたよりも、ずっと、優秀。


   うんうん、あたしに良く似ているな。


   ……良かったわ、頭の出来は似ていなくて。


   ところで、あれは何を唱えているんだ?


   ……さぁ、なんだったかしらね。


   はて、何処かで確かに聞いた覚えがあるんだが。


   ……嫌いになっても良いかしら。


   何をだい?


   今から、あなたを嫌いになるわ。


   え、なんで。


   丁度良い機会だから。


   ど、どんな機会だ?


   じゃあ、丁度良い頃合いだから。


   いや、待って呉れ。


   嫌よ、待たないわ。


   マーキュリー。


   上の歯を、ついうっかり、放り投げて呉れたし。


   ……う。


   結局、見つけられないし。


   ……。


   久しぶりだったから……なんて、言い訳をする始末だし。


   ……申し訳、


   忘れていたのなら聞いて確かめれば良いだけの話なのに、其れを怠って。
   久しぶりだからと、其れはもう張り切って、思い切り放り投げて呉れた。


   ……ない。


   ねぇ、嫌いになるなら今でしょう?


   ……どうか、ならないで頂きたく。


   じゃあ、歯を見つけてきて。


   ……さんざ、探したんだ。


   然うね、時間を掛けていたわね。


   ……其れでも、どうしても、見つけることが出来ず。


   なら、許しは得られないわね。


   ……他のことで


   暫くの間、接触は許さない。


   ……どうしても。


   どうしてもと言うのなら、今直ぐ見つけてきて?


   ……もう一度、行ってくる。


   あぁでも、そろそろ夕ごはんの頃合いねぇ。


   ……作ってから。


   ジュピター。


   ……はい。


   ユゥの抜けた乳歯は、あなたが今回放り投げたものを含めて何本目?


   ……。


   憶えているわよね、可愛がっている弟子の歯なんですもの。


   え……え、と。


   まさか、憶えていないの?
   薄情なお師匠さんね。


   ……。


   乳歯は、全部で何本?


   ……確か、じゅう


   十?


   ……いや、二十。


   へぇ?


   ち、違う、か?


   いいえ、違わないわ。


   ……はぁ、良かった。


   其れで、ユゥの抜けた乳歯は全部で何本かしら。


   ……今回投げた歯は、右上の奥のものだった。


   然うね。


   ……前歯はすっかり生え揃って、第二なんたらが生えてきている。


   報告?


   ……。


   然う、忘れてしまったのね。


   ……ひぃ、ふぅ、みぃ。


   うん?


   ……よぉ、いつ、むぅ、なぁ、やぁ。


   ……。


   こぉ、とお……。


   ……ふ。


   とお、あまり、ひとつ……とお、あまり、ふたつ……。


   十一、十二と数えれば良いのに。


   ……十三、十四、十五、十六、十七。


   ……。


   ……十八、だ。


   十八?


   今回、放り投げてしまった歯を含めて十八。
   残る乳歯は、あと、二本。其のうちの一本が、ぐらつき始めている。


   ……ふぅん。


   ち、違ったか?


   残念ねぇ。


   ……うぅ。


   正解よ。


   ……え。


   合っているわ。


   ……あぁ。


   土壇場で思い出したのか、其れとも、当てずっぽうなのか、其れは分からないけれど。


   お、思い出したんだ。


   本当に?


   ほ、本当だ。


   然う。


   ……お。


   良く思い出したわねぇ。


   ……へへ。


   だけど、其れで許されると思う?


   ……思いません。


   うん、ならば良いわ。


   ……どうして、聞いたんだい?


   聞いてはいけないの?


   い、いけなくはない……。


   あなたがちゃんと憶えているか、確かめてみただけ。


   そ、然うか。


   ……。


   ……あの、マーキュリー。


   なぁに?


   暫くの間って……其の、どれくらいだい?


   あの子の歯が全て生え揃うまで、かしら。


   ……。


   あと、もう数ヶ月は……ん。


   マーキュリー。


   ……接触は許さないと、言った筈よ。


   も、もう一度、探してくる。


   ……探したいのなら、止めないけれど。


   若しも、見つけたら……どうか、許して欲しい。


   見つければ、ね。


   ……良し、夕ごはんの支度をしてから。


   温かいものが食べたいわ。


   温かいものだな、分かった。


   ……。


   然うだ、麦団子入りはどうだろう?


   ……別に構わないけれど。


   ん、ならば作ろう。


   ……。


   明日は、麦団子入りの汁豆を……。


   ねぇ。


   ……なんだい?


   久しぶりに、甘豆を摘みながら書物が読みたいわ。


   甘豆だな、明後日までには作ろう。


   明後日?


   あれを作るには、どうしても時間が必要になる。
   今夜から作り出しても、明後日になってしまうと思うんだ。


   ふぅん。


   だから、待って


   一度煮上がったら、一晩置く。


   ……ん?


   置いたら。


   ……次の日にもう一度火にかけて、汁がなくなるまで煮詰める。


   煮詰めたら、熱湯をかけてべとつきを取る。


   そして、乾燥させる。
   乾燥したら、糖をまぶして出来上がりだ。


   気が変わってなければ良いけれど。


   変わっていても、あれは暫くの間、食べられる。
   いざとなったら、ちび達に


   別に、作ってあげて。


   あ、はい。


   豆は……然うね。


   折角だから、全種類の豆で作ろう。


   ええ、然うして。


   応。


   ……。


   マーキュリー。


   なに、ジュピター。


   其れで、許して貰おうなんて下心は持っていない。


   どうして、わざわざ言うのかしら。


   言葉にしておこうと思って。


   言わなければ良いのに。


   言葉にした方が、残るんだ。


   あなたに?
   其れとも、私に?


   ……どっちにも。


   どっちにも、ね。


   若しも、今日中に。


   今夜?


   ……出来れば。


   見つかると良いわね。


   ……うん、頑張るよ。


   まぁ、夕ごはんの後だから、難しいでしょうけれど。


   ……。


   あなたは、ひとりで食べるの?


   ……いや、一緒に食べる。


   そ。


   ……今夜が無理でも、明日の夜なら。


   ……。


   必ず……。


   ……はぁ。


   うん?


   ……何か、意味を持たせましょうか。


   意味……?


   上の歯を、高く遠く放り投げた意味。


   ……。


   元々は、子の成長を願うおまじないらしいから、


   ……成長?


   其れらしき意味は、あなたでも考えられるでしょう。


   ……然う、だったのか。


   ジュピター?


   歯を放り投げたり、埋めたりするのは、ちび達の成長を願ってのことだったのか。


   言っていなかったかしら。


   い、言っていないと思う。


   憶えていないだけではないの?


   いや、おまじないとしか聞いていない。
   其の意味までは、マーキュリーは、確かに言わなかった。


   ……。


   あ、あたしの、記憶違いか……また、憶えていないのか。


   言っていないわ。


   ……え。


   教えていないのだから、あなたが知らなくても当然よ。


   ……教えて呉れなかったのは、どうして。


   一言で言えば、忘れていた。


   マ、マーキュリーが、忘れていた?


   然う。


   そ、そんなこと、


   ないわよ。


   ……。


   ただ、なんとなくね。


   なんと、なく?


   ……然う、なんとなく。


   マーキュリー……?








   東風解凍。


   はるかぜ、こおりを、とく。


   霜止出苗。


   しも、やんで、なえ、いずる。


   紅花栄。


   べにばな、さかう。


   雪下麦出。


   ゆきした、むぎ、いずる。








   ……。


   ……本当、良く覚えたものだ。


   ええ……あなたと違って、ユゥは覚えが良い。


   ……あたしに、似ていないか。


   ……。


   ……あたしの頭は、


   全く、似ていないわけではないわ。


   ……マーキュリー。


   然ういうことに、しておく。


   ……うん。


   ……。


   ……つい此の間、メルの下の歯を放り投げたな。


   あの子の乳歯は……残り、一本。


   ……第二、なんたらは。


   大臼歯、ね。


   ……然う、だいきゅうし。


   今、左上に三本目が生えてきている……いずれ、右上に四本目が生えてくるでしょう。


   ……揃うんだな。


   ええ……やっと、揃うわ。


   ……あれから、二重になることもなく。


   歯並びも、悪くない。


   ……噛み合わせも、悪くなさそうだ。


   生え揃ったとしても、生えたばかりの頃は未だ、柔らかいから。


   ……もう少しだけ、掛かるか。


   ……。


   ……今思えば、早かったな。


   いいえ……然うでもないわ。


   ……然う、か。


   ……。


   ちびも、大きくなった……今はもう、あたしによじ登ることもない。


   ……そんなの、疾うの昔にしなくなったわ。


   はは、然うだったな。


   ……あの子も、薬茶の煎れ方を幾つか覚えた。


   やっぱり、優秀だな……メルは。


   ……だけど、あの子は然う思っていない。


   うん……?


   ……自信がないみたいなの。


   自信が……?


   ……私に似れば良かったのにね。


   お前も、昔は……いや、止めておこう。


   ……。


   ……なんにせよ、未だ時間はあるさ。


   ええ……未だ、伝えるべきことは残っているわ。


   ちびは未だ、雷気を。


   ……あの子も未だ、水気を。


   思うように、扱うことが出来ない。


   ……他にも、学ぶべき事柄は幾つもある。


   ちびも、もう少し鍛えてやらないとな。


   ……頭もね。


   あぁ、頭もだ。


   ……あの子は、躰が小さい。


   うん……メルも、もう少し鍛えないとな。


   ……。


   ……。


   ……ひぃ、ふぅ。


   ん……?


   ……みぃ、よぉ、いつ、むぅ。


   ……。


   なぁ、やぁ……ここの、たり。


   ……ちび達と過ごした時間、か。


   もう、此れだけでは足りないけれど……。


   ……あぁ、足りないな。








   ユゥ。


   メル、どうだった?
   間違ってなかったかな。


   うん、間違っていないわ。
   文字も、正しく書けている。


   あぁ、良かったぁ。


   もう少し、続けましょうか。


   うん、もう少し頑張るよ。


   その前に、ユゥ。


   なんだい、メル?


   この言葉は、青い星のどこの地域のものだと思う?


   どこの?


   ある地域の言葉なのだけれど。


   んー、どこだったろう。


   先生から、言葉と一緒に教えてもらって。


   え、と……確か。








   ……。


   思い出した。


   ……何を。


   あの言葉は……然う、青い星の極東の地の言葉だ。


   ……。


   マーキュリーが、気に入って。


   ……思い出したのね。


   あぁ、思い出した。


   ……。


   あたしに教えて呉れたんだ。
   だから、あたしは何度も唱えて。


   ……其れなのに、忘れていたなんて。


   う……。


   ……あなたの頭は。


   ごめん、よ……。


   ……ユゥは屹度、然うならない。


   ……。


   けれど、なるかも知れない。


   ……いや、ならないで欲しいな。


   良いの?


   あぁ……あたしと同じになる必要なんて、何処にもないからさ。


   ……。


   あいつは……あいつなりの、ジュピターになれば良い。


   ……知識は、己の身を助けて呉れる。


   ……。


   あなたにとっても、然うだったのなら……。


   ……あたしにとっても、然うだった。


   ……。


   お前が居て呉れなかったら……お前があたしに教えて呉れなかったら、あたしは此処に居なかっただろう。


   ……一応、信じてあげるわ。


   うん……信じて呉れ。


   ……。


   なぁ、マーキュリー。


   ……なに。


   上の歯を、高く遠く放り投げた意味。


   ……何か思い付いたの。


   あいつがもっと、生きる為の知識を得られるように。


   ……。


   なんて、どうだろうか。


   ……悪くはないわね。


   うん……じゃあ、其れで。


   ……。


   ん……マーキュリー?


   ……。


   許して……。


   ……そろそろ、休憩にしましょうか。


   休憩……?


   ……皆で。


   あぁ、良いな……然うしよう。


   ……たまには、ね。


   うん?


   ……私から言っても。


   たまにで、なく……。


   ……たまにだから、良いのよ。


   ……。


   ……でしょう、ジュピター。


   ふふ……あぁ、然うだな。


  13日





   ……麦団子。


   豆乳汁豆だけだと、ちょっと足らないかと思ってな。


   ……ユゥには?


   あいつに合わせたから、いつもの麦団子よりも柔らかくしてある。


   ……だから、大きさも小ぶり。


   前歯だからあまり問題はないと思うが、念の為、な。


   ……なかなか、手間が掛かっているわね。


   此れくらいでないと、ご褒美と労いにはならないだろう?


   ……まぁ、然うね。


   其の為の手間ならば、なんでもない。
   もっと言えば、作っていて楽しかったくらいだ。


   然う……其れは、何より。


   とは言え、お前には物足りないかも知れないが。
   どちらかと言えば、団子は弾力がある方が好みだもんな。


   ……麦団子は、未だ残っているの。


   あぁ、未だ残っているぞ。
   ちびが食べると思ったから、多めに作ったんだ。


   ……其れでも未だ、残っていると。


   もっと食うと思ったんだが……豆も、なかなか腹にたまるらしい。


   ……明らかに、作り過ぎね。


   まぁ、夕ごはんにまた食べても良いからさ。


   ……汁豆?


   いや、夕ごはんは塩味(えんみ)の団子汁にしようと思っている。


   ……私は、ただの汁豆でも構わないのだけれど。


   ただの……あぁ、豆乳なしか。
   其れでも、良いな。食後のおやつとして出すか。


   ……其れだと、多い。


   だよな。


   ……ん。


   どうだ?


   ……いつも通り、悪くはないわ。


   メルも喜んで食べて呉れたよ。
   久しぶりだ、メルがあたしの前で笑って呉れたのは。


   ……然う、目に浮かぶようね。


   だろう?


   ……あなたの緩み切った顔が。


   ん、あたしか。


   ……勿論、ふたりの顔も浮かんでいるけれど。


   ……。


   ……なに。


   お前も一緒だったら良かった。


   ……どうしても眠たかったのだから、仕方ないわ。


   珍しいな、昼寝なんて。


   ……誰かのせいでね。


   ……。


   ……惚けるの。


   いや、ゆうべは……。


   ……何も、しなかったとでも?


   何も、ではないな……。


   ……。


   だけど、其処までは……。


   ……あぁ、誰かのせいで躰が重たいわ。


   ……。


   歯は一応、見届けることが出来たけれど。


   ……其の時も、眠たそうだったな。


   今日はもう、あの子を診ることと、ふたりのお勉強を見てあげることぐらいしか出来そうにない。


   ……あたしを、構うことは。


   当然、一切出来ない。


   ……あたしが作ったものを食べることは。


   別に、食べなくても良いのだけれど。


   ……躰が重たくても、腹は減るだろう?


   其処までは、減っていないわ。


   ……ありがとう、マーキュリーのお腹。


   何処を見ているの。


   ん……ちょっと、お腹をな。


   ……。


   えと……お腹は、大事だろう?


   さんざ、撫で回して呉れて。


   ……。


   たまにあるのよね。


   ……たまに、無性に撫で回したくなるんだ。


   しつこいのよ。


   ……ごめん、暫くはしないから。


   暫く?


   ……定期的に、どうしても。


   ゆうべは、まさに然うだったと。


   ……うん。


   知ってはいるけれど、唐突なのよ。


   ……自分でも、然う思うよ。


   昔からずっと然う、何度言っても変わらないの。


   ……だからって、唐突でなければ良いというわけでもない。


   当たり前でしょう。


   ……悪いわけでは、ないんだよな。


   は?


   あ、いや……其の、撫でられる感触は。


   悪いわよ。


   ……う。


   居心地が悪いの。


   ……気持ち、悪いか。


   ……。


   気持ち、悪いのなら……。


   ……其れも、何度も言っているけれど。


   ……。


   気持ちが悪いようだったら……一切、触らせない。


   ……うん。


   とは言え、いつも唐突だから。


   ……時たま、無性に触りたくなるんだ。


   其れは先刻聞いた、と言うより何度も聞いてる。


   ……発作に近いと思う。


   発作ね……。


   ……マーキュリーに教わった言葉だ。


   前触れは、ないのよね。


   ……あるような、ないような。


   ずっと、其の調子。


   ……抱きたいと思うこととは、少し違うんだ。


   少し、ねぇ。


   ……うん、少し。


   ……。


   ……ゆうべは、少し、抱いたけど。


   少し?


   ……昼寝が必要になるくらい。


   おかげで、今日の予定が台無しだわ。


   ……労いと、お詫びも兼ねて。


   此れだけで?


   ……他にも。


   何も、入っていないわよ。


   ……え。


   お腹の中。


   ……。


   臓器は入っているけれど。


   ……臓器は、大事だ。


   だから、撫でたくなるの?


   ……ずっと、考えてはいるんだよ。


   何を?


   ……大事なのは、臓器だけなのかって。


   他に何かあると?


   うん……でも、ずっと分からないままなんだ。


   ……。


   ……あのさ、マーキュリー。


   なに……ジュピター。


   ……こんなのも作ってみたんだ。


   此れは?


   ……豆の甘煮を入れた麦団子。


   へぇ……。


   良かったら、食べて欲しい。


   ……ふたりには?


   ちびには未だ早いと思ったから、作らなかった。


   ……確かに、早いわね。


   だからふたりには、ちびが食べられるようになったら、改めて作ってやろうと思っている。


   ……。


   食べたくないか……?


   ……いっそのこと、此れを夕ごはんにしたら?


   うん?


   此れを汁物に入れてみたらどうなの?


   ……。


   ふたりの頃、何度か作って呉れたでしょう。


   ……あぁ、作ったな。


   塩味の中に、甘味……あれも、悪くはないわ。


   うん、良いかも知れないな。
   良し、今日の夕ごはんは此れの汁物にしよう。


   ただ、ふたりが気に入るかどうかは別問題だけれど。


   んー……まぁ、大丈夫だろう。
   マーキュリーが好きなんだ。


   好きとは、言ってない。


   あたしもわりと好きだ。


   複雑な顔をしていたと思うけど。


   最初だけだよ。


   そもそも、良く作ったわよね。
   塩味の汁物に、甘い麦団子を入れるだなんて。


   何代前のかは忘れたけど、日記に書いてあったんだ。
   マーキュリーがあまりにも飯を食わない。故に、元々細かった躰は益々細くなってきてしまった。此れ以上痩せてしまったら、折れてしまうかも知れぬ。
   どうにかして、なんとかして、何か食わせなければ……然う思いながら藁にも縋る思いで、マーキュリーが好きな甘い麦団子を入れた汁物を作ってみたが、思いの外食べて貰えた。
   とても嬉しい。折角だから、書き残しておこうと思う。後のジュピターは、良かったら参考にしてみてほしい。腹の調子にもよるが、お代わりもして呉れる一品だ、と。


   其れで、あなたも試してみたと。


   あたしのマーキュリーも食べて呉れたら、


   あなたのじゃない。


   嬉しいなぁ、と思ったんだ。


   私は、其のマーキュリーとは違うのだけれど。


   あたしのマーキュリーも、甘味が好きだったから。


   別に、他のものよりは食べると言うだけ。
   其処まで、好きというではないわ。


   ……。


   なに。


   ……いや、なんでも。


   笑っているのだけれど。


   お前と居る時のあたしは、大体、笑っているよ。


   然ういう笑いではないわね。


   ふふ、然うかい?


   鬱陶しい。


   んん。


   ……。


   ん、マーキュリー?


   折角だから、食べてあげるわ。


   ……応。


   ……。


   ……どうだ?


   汁物に入れる時は、溶けない程度に煮た方が良いわね。


   少し硬いか?


   今のユゥにはね。


   ん、然うか。
   じゃあ、溶けない程度に煮よう。


   ……。


   どうした?


   ……別に、なんでも。


   何か、気になることでもあったか?


   ……。


   マーキュリー?


   ……今日は少し、寒いわね。


   え、大丈夫か。


   ……大丈夫よ、気のせいかも知れないから。


   ……。


   なに……。


   ……熱なら、無駄にあるんだ。


   知ってる……。


   ……良かったら。


   今は、必要ないわ。


   ……ん。


   豆乳汁豆が温かいから。


   ……。


   あなたは、ふたりと食べたのでしょう?


   ……少しだけ。


   然う。


   ……だから、残りはお前と食べるよ。


   ひとりで食べたら?
   どうせ、夕ごはんは一緒なのだし。


   お前と、食べたい。


   ……。


   な、良いだろう?


   ……良くない。


   然う言わず……な?


   ……。


   マーキュリー。


   ……ふ。


   やった。


   良いとは、言ってない。








   ~~♪


   ……。


   かけた!


   ん。


   ね、ね、メル。


   なぁに、ユゥ?


   みて。


   どれ?


   これ。


   これは……先生?


   うん、せんせ!


   先生は……なにか、食べているの?


   ししょうがつくった、ごはん!


   あぁ、おししょうさんの。


   どう、どう?


   うん、上手。


   どこ、じょうず?


   全部上手だけれど、特に先生の顔が上手。
   おししょうさんが作ったごはんを、先生がとてもおいしそうに食べているのが伝わってくるの。


   へへ。


   ね、先生はどんなごはんを食べているの?


   んとね……せんせが、すきなごはん。


   先生が好きな……ということは、甘いもの?


   そう!


   ふふ、やっぱり。


   せんせ、あまいのがすき。


   そうね、大好きよね。


   ししょうがつくったのが、すき!


   いつでも、作ってもらうのに。
   おいしいも好きも、言わないの。


   せんせ、いわないけど、すきなの。
   だって、おいしそに、たべてる。


   ユゥにも、そう見える?


   みえる!
   メルも、みえる?


   うん、見える。


   あのね。


   うん。


   ししょうのごほーび、おいしかった。


   あぁ……うん、おいしかったね。


   せんせも、たべる?


   必ず、食べると思う。


   へへ、うん。


   もしかしたら。


   もし?


   今ごろ、食べているかも。


   たべて?


   おししょうさん、先生の分も作ったと思うから。


   せんせのぶん?


   ううん、作らないわけない。


   ししょう、せんせのぶん、つくるよ。
   つくらなく、ないよ。


   ユゥも、そう思う?


   おもう!


   ふふ、そうよね。


   ししょう、うれしそうなの。


   うれしそう?


   せんせが、たべると。
   にやにや、わらうの。


   にやにや……にこにこ、ではなくて?


   にこにこ?


   多分、にこにこだと思う。


   じゃあ、にこにこ!


   ……。


   にこにこ。


   ……ユゥとおししょうさん、にてる。


   う?


   ユゥも、にこにこするから。


   あたし、ししょう、にてる?


   ん、にてる。


   ……えへ。


   ふふふ。


   メルは、にてる。


   私?


   せんせに。


   ……似てる?


   うん、にてるよ。


   ……そうなの。


   にてない?


   ……わからない。


   わからない?


   ……私は、先生と。


   メル……いや?


   ……え。


   せんせ、にてるの、いや?


   ……ううん、いやではないわ。


   ほんと?


   ……うん、本当。


   ……。


   ん……ユゥ。


   にてない。


   え……。


   でも、にてる。


   え……と。


   どっちでも、いい。


   ……どっちでも。


   メルは、メル。


   ……あ。


   あはっ。


   ……。


   ね。


   ……うん。


   あはは。


   ……ふ。


   う?


   ……ユゥ、かわいい。


   かわ?


   ……痛み、おさまって良かったね。


   いたみ……。


   ……ここ。


   ん。


   ……もう、あまり痛くない?


   うん、あまりいたくない!


   でもまだ、触ったりなめたりしてはだめ。
   ね。


   うん、さわらない!
   なめない!


   うん。


   ね、メル、もっとみて。


   うん、もっと見るね。


   えへへ。


   ねぇ、ユゥ。


   なぁに?


   また、飲む?


   のむ?


   ……薄荷水。


   はっか……。


   ……薬茶。


   あ。


   飲む?


   のみたい!
   メルの、くりちゃ!


   ん。


   ね、またいれてくれる?


   うん……また、煎れる。


   へへ、やった。


   ……がんばるね。


   がんば?


   ……先生みたいに、薬茶を煎れられるようになるために。


   せんせ、みたい……。


   ね、ユゥ、見て。


   なに?


   これ。


   あ、メルのもじ!


   これが、ユゥ。
   これが、


   メル?


   そう、私。
   それから、


   ししょうと、せんせ!


   そう、あたり。


   やった!


   他にも、色々書いてみたの。
   ユゥが、色々書けるように。


   なに、かいたの。


   なんだと思う?


   んー……なに?


   ふふ……答えは薬茶を飲んでから、ね。


   くりちゃ、のんでから?


   そう、飲んでから。
   それまで、待ってくれる?


   まる!


   ……待つ?


   まつ!


   ふふ……うん。


   ねぇねぇ、メル。


   なぁに?


   あのね。


   うん。


   かけっこ、できるようになったら、してくれる?


   ん、もちろん。
   また、一緒にしようね。


   えへへ、やったぁ!    


  12日





   ……。


   マーキュリー、少し良いかい。


   ……何。


   ん……済まない、眠っていたか。


   ……今日の夕ごはんのことなら、私はなんでも良いわ。


   ちびが食べやすいように、柔らかいものにしようと思っている。


   ……然うして。


   メルも、其れで良いだろうか。


   ……あの子は恐らく、ユゥと同じものを望む筈よ。


   ん、然うか。


   ……気になるようなら、後で聞けば良い。


   あぁ、後で聞いてみよう。


   ……。


   起こしてしまって、ごめん。


   ……謝る必要はないわ、目を閉じていただけだから。


   然うか。


   ……あの子達の様子は?


   薄荷水を作って、飲んだみたいだ。


   ……然う。


   お前が言った通りだったな。


   ……痛み止めは切れるもの、寧ろ切れない方が問題。


   ちびには未だ、耐えられないか。
   前歯ならじんわりとするくらいで、大した痛みではないと思うが。


   ……あなたにとってはね。


   ん。


   ……今は未だ、我慢をする必要はない。


   幼体、だからか?


   ……いずれ、嫌でも覚えるし慣れるわ。


   まぁ、然うだな。


   ……血が沸騰している時は、痛みも何も感じることはない。


   とは言え、雷気が暴れている時だけだ……感じないのは。


   ……なんにせよ。


   うん?


   ……ただの気休めよ。


   薄荷水には、炎症を抑える作用がある……だったよな。


   ……たかが知れているわ。


   たかが知れているとしても、今のちびには十分だ。


   ……。


   メルが煎れて呉れたんだ、さぞかし美味かったと思う。


   ……だと、良いけれど。


   マーキュリーが教えたんだろう?
   だったら、間違いないさ。


   ……あの子次第。


   初めてだな。


   ……何が。


   メルがちびに薬茶を煎れてやったのは。


   ……薬茶なんて、大層なものではないわ。


   薄荷も一応、薬葉だ。


   ……料理にも使える、ね。


   其れを言うのなら、生姜も然うだろう?


   ……結局のところ、繋がっているのよ。


   医と食、か。


   ……。


   マーキュリーも薄荷水、飲むかい?
   丁度、支度が整っているんだ。


   ……わざわざ、持ってきたのね。


   ついで、だからな。


   ……ついで?


   様子を窺いに行った。


   ……二回目は、何も持って行かなかった筈だけれど。


   別に用意しておいたんだ。


   ……あ、然う。


   飲むかい?


   ……然うね、温かいお茶なら飲んであげても良いわ。


   温かいお茶か……うん、分かった。


   ……。


   其れ、ちびの歯か?


   ……他に、ないでしょう。


   まぁ、然うだ。


   ……。


   根がついているな。


   ……途中で折るわけにはいかないから。


   あぁ……。


   ……。


   根が、ついていても……。


   ……小さいわね。


   小さいが、なかなか頑固な奴だった。


   ……其れでも、あなたの歯の頑固さに比べればずっと脆い。


   あたしの歯は頑丈だからな。


   ……其の頑丈な歯を噛み砕くのだから、莫迦よね。


   其れだけ、踏ん張りどころだったんだ。


   ……。


   お前のもとに、帰れるか帰れないかの瀬戸際だったこともあるし。


   ……あの子も、然うなるのね。


   なると思うか。


   ……なるんじゃないの、あなたの弟子だもの。


   弟子……?


   ……師匠と呼ばせているのだから、然うなのでしょう。


   然うか、然うなるのか。


   ま、あなたのことだから、適当に決めたのでしょうけど。


   なんとなく、良いと思ったんだ。


   ……なんとなく、ね。


   月にはない響きだろう、師匠って。


   ……そもそも、師弟関係が発生しないから。


   青い星で見聞きしたものが、珍しく、あたしの中に残っていた。


   ……興味を示していたものね。


   どんなものだったかは、忘れたけどな。


   あれは……然う、鍛冶師だったわ。


   かじし……?


   ……金属を鍛錬して、製品を製造する者のこと。


   んー……。


   ……其の鍛冶師はあなたの腰のものに興味を示して、どうしても見せて欲しいと頼んできたのよ。


   あー……そんなことも、あったかも知れない。


   ……けれど、あなたは見せなかった。


   見せるものではないからな、こいつは。


   ……特殊な鉱石。


   らしいな。


   ……。


   あたしにとっては、ジュピターに代々、受け継がれているものでしかない。


   ……あなたは其れに、何度助けられたことか。


   あたしだけじゃないさ……歴代のジュピターも然うだったろう。


   ……刃こぼれをすることもない。


   然うでもないぞ、こいつだって刃こぼれぐらいはする。


   ……微細だけれど。


   青い刃……まるで、マーキュリーが造って呉れたような輝きだ。


   ……だとしても、私ではないわ。


   お前にしか、此の刃を研ぐことは出来ない。


   ……どういうわけだか、マーキュリーに受け継がれているのよね。


   マーキュリーとジュピターが番である証なのかも知れないな。


   ……受け継がなければ良かったわ。


   でも、頭の中に入っていて、躰が勝手に動いてしまうものなんだろう?


   ……言えることは。


   言えることは?


   ……守護神には、必要のない業だということ。


   然うでもないさ、「ジュピター」の得物なのだから。
   戦に行く時、こいつは欠かすことが出来ないんだ。


   ……結果的に、然うなっているだけ。


   まぁ、「ジュピター」の役に立っている……其れだけで、理由は十分だよ。


   ……いずれ。


   ちびに、渡す……。


   ……すんなり、受け取って呉れれば良いけれど。


   嫌でも、渡すさ……。


   ……。


   こいつの柄は、あたし達の手に吸い付くように出来ている……一度でも握れば、嫌でも持たざるを得ない。


   ……素直に握って呉れれば、良いけれど。


   刀身が、青いだろう?


   ……其れに、釣られると?


   現に、あたしは釣られた。


   ……どれだけ単純なのかしら。


   あいつも、然うさ。


   ……単純かも知れないけれど、あなた程じゃないと思いたいわ。


   難しいと思うな、殊、マーキュリーのことになると。


   ……。


   マーキュリー。


   ……ジュピターは、マーキュリーを放っておくことが出来ない。


   他は知らないが、あたしはお前を放っておくことなんて出来なかったし、今も出来ない。


   ……厄介。


   ちびも、然う言われるようになると良いな。


   ……良いの?


   メルに言われれば良い、ジュピターは厄介だと。


   ……ユゥを、あなたと同じにしないで呉れるかしら。


   マーキュリーに厄介と言われるのは、結構、嬉しいものだぞ?


   ……あなたの頭がどうかしているだけ、よ。


   ははは。


   ……ところで。


   ん?


   何を持っているの。


   あぁ、然うだった。
   此れ、見て呉れ。


   嫌よ。


   聞いたのにか。


   何を持っているのか、聞いただけ。
   見たいとは言っていないわ。


   まぁ、然う言わず。
   ちび達からなんだ。


   然う。


   だから一緒に見よう、マーキュリー。


   嫌。


   でも、気になるだろう?


   ならない。


   本当か?
   本当にならないか?


   どうせ、絵か文字でも書かれているのでしょう。
   ふたりで遊ぶ元気が戻ったようで何よりだわ。


   どうやら、あたし達に見て欲しいみたいなんだ。


   そんなこと、どうして分かるの。


   部屋の前に置かれていたんだよ。


   だから?


   此処、見て呉れ。


   だから、嫌よ。


   ししょうと先生へ、と、メルの字で書かれている。
   こう書くということは、あたし達に見て欲しいからだろう?


   然うとは限らないわ。


   いやいや、然うだって。
   でなければ、ししょうと先生へなんて書かない。


   然うかしら。


   マーキュリー、此処は素直にな?


   私はいつだって自分の心に素直よ。


   いやぁ、いつもではないかな。


   兎に角、無理に見せようとするのなら


   分かった、なら、見なくて良い。
   此れはあたしだけで


   然うしたいのなら、然うすれば良いわ。


   ……あれ。


   お茶は未だなの。


   マ、マーキュリー……?


   何。


   ……やっぱり、見たくなったなんてことは。


   あると思うの。


   ……あー。


   どうぞ、ひとりで見て頂戴。


   い、いや、あれはただの冗談でな?
   あたしはマーキュリーと見たいし、ちび達だってお前に見て欲しいと思っている。


   ……。


   お前が見ないのならば、あたしも見るわけにはいかない。
   ちび達の思いを裏切ってしまうかも知れないから。


   大袈裟、あの子達は其処まで考えていないわ。


   いや、分からないだろう?
   若しかしたら、あたし達ふたりで一緒に


   別々に見たとしても、見たことにはなるわね。


   屹度、一緒に見て欲しいのではないかと……あたしは、然う思う。


   其れは、あなたの願望でしょう。


   ……然う、だけど。


   お茶は、未だかしら。


   ……取り敢えず、お前が元気になったようで良かった。


   何を言っているの、私はとっても元気よ。


   うん……然うだな。


   ……。


   ……まぁ、後でも。


   ジュピター。


   ……うん?


   其れ、見せて。


   一緒に見るか?


   ……。


   うん……物凄く、嫌そうだな。


   ……はぁ、仕方ないわね。


   い、一緒に見ても、良いか……?


   ……言っておくけれど。


   お、応。


   あなたの為ではないわよ。


   ……。


   あくまでも……あの子達の希望に応えてあげるだけ。


   あぁ……其れでも、良いさ。


   ……ふ。


   折角だし、お茶を飲みながら見るか?


   いいえ……今、見るわ。


   ん、然うか。


   ……折角の手紙を、うっかり汚したくないもの。


   手紙?


   手紙、でしょう?


   ……。


   考えなかったの。


   いや……言われてみれば、然うだな。


   なんだと思っていたの。


   ちび達からの……手紙?


   間抜けね。


   ……。


   ジュピター?


   ……ちび達、手紙を書けるようになったんだな。


   言っておくけれど、あの子は書かなかっただけよ。
   文字は、まだまだではあるけれど、一応は書けるから。


   ……嬉しいな。


   嬉しいかしら。


   ……嬉しいよ。


   ……。


   いや、本当に嬉しいな……。


   ……私からの手紙よりも?


   其れは、別格だ。


   ……無駄に早いわね。


   や、だけど……うん、嬉しい。


   ……良いわね、単純で。


   お前は……うん、止めておこう。


   良いわよ、言っても。


   今は、止めておく。


   今は?


   後で、言うかも知れない。


   良いわよ、忘れて呉れても。


   どうだろうな、忘れない可能性の方が高いと思うな。


   然ういうことばかり。


   マーキュリー。


   ……なに。


   見ようか、一緒に。


   ……仕方ないわね。


   うん。


   ……。


   どれどれ……。


   ……。


   ……此れは、なんだ。


   あなたね。


   此れ、あたしか?


   此処にあの子の字で書いてあるでしょう?
   おししょうさん、と。


   でも、目が飛び出ているぞ?
   耳も、左右で大きさが違うし、口なんかもやたらにでかいし。


   ジュピターが笑っている顔ね。
   うん、良く描けているわ。


   描けて、いるのか?


   顔の輪郭内に全て収まっているのだから、良く描けているわ。


   ……あたし、こんな?


   表情も、結い上げた髪の特徴も、ちゃんと捉えている。


   ……髪の毛は、飛び跳ねているようだ。


   あなたの頭はいつだって、飛び跳ねているもの。


   ……其れ、髪の毛のことだよな?


   まぁ、然うね。


   ……うーん。


   ね、良く描けているでしょう?


   ……。


   其れとも何、笑うの。


   ……え。


   あの子の絵を、笑うの。


   え、いや、笑いはしない。
   ただ、じっと見ていただけで。


   ……。


   見れば見る程、あたしに似ているな……と。


   本当に、然う思っているのかしら。


   思っているよ、此の目が飛び出ているところなんて、あたしがマーキュリーに逢いに来た時の目のようだ。


   然うなのよね。


   ……然うなのか。


   兎に角、笑うのなら。


   笑わない、笑うわけない。
   絵は、良く描けているから。


   ……。


   ちびも、こんなに描けるようになったんだな……で、隣のがマーキュリーか。


   先生と書かれているから、然うなのでしょうね。


   ……。


   ……。


   ……小さいな。


   小さいわね。


   ……なんで、こんなに小さいんだ?


   あなたと比較して、なのかも知れないわね。


   小さくて……なんだか、可愛いな。


   可愛いかしら。


   ……可愛いよ、良く描けている。


   ……。


   笑っているところなんて、特に。


   ……大きさは関係ないわね。


   気に入らないか?


   いいえ。


   ……。


   ふ……。


   ……面白いか。


   やっぱり、ユゥは絵が上手。


   ……上手。


   何。


   い、いや……まぁ、お前が先生だからな。


   当然よ。


   ……メルの字も、きれいだ。


   まぁまぁね。


   ……形が良い、お前の字に似ている。


   あなたは、字も絵も、苦手だけれど。


   ……今度、マーキュリーを描いてみようかな。


   描いても見ないわよ、目が顔の輪郭から飛び出していそうだから。


   いや、流石に其れはないと思う……。


   思う、なのよね。


   ……ちびの絵、良く見ると上手だな。


   ふふ、でしょう?


   ……。


   其れ。


   ……ん?


   あなたが、持っていたら?


   いや、でも。


   どうせ、度々見せて呉れるのでしょうから。


   ……。


   違う?


   ……違わない、な。


   ……。


   マーキュリー。


   ……取り敢えず、良かった。


   あぁ……然うだな。


   ……。


   歯は、いつ……?


   ……明日にでも。


   応……分かった。


   ……。


   ……もう、乳歯よりも先に出てきて欲しくないな。


   ええ……然うね。


   ……やっぱり、あたしとは違ったか?


   いいえ……大して、違わないわ。


   ん……然うか。


   ……夕ごはんは。


   何か、希望はあるか……?


   ……美味しいものを。


   美味しいものか……うん、任せて呉れ。


   ……。


   ……ちび、大人しくしていたな。


   あの子なりに、我慢していたわね……。


   ……あぁ、良く頑張ったと思うよ。


   ……。


   明日は、ご褒美を作ってやれたら良いな……。


   ……何を作るつもりなの。


   然うだな……若しも、作れたら。


  11日





   ……ユゥ。


   ……?


   ユゥ……。


   ……ししょうじゃ、ない。


   ……。


   メル……?


   ……うん。


   ふふ……やっぱり、メルだ。


   ……いま、いい?


   うん……いいよ。


   ……あの、ね。


   うれしいな……。


   ……あ。


   メルが、きてくれた……。


   ……おししょうさんと、こうたいしたの。


   ししょうと……?


   ……本当はもっと、早く来たかったのだけれど。


   そうなんだ……。


   ……。


   どうしたの……?


   ……そば、に。


   どうして、こないの……?


   ……行っても、いい?


   うん……きて。


   ……。


   メル……。


   ……ごめんなさい。


   ごめ……?


   ……ごめんなさい、ユゥ。


   どうして……?


   ……大丈夫なんて、言って。


   ……。


   まさか、抜くことになるなんて……思って、なくて。


   ……。


   ……乳歯。


   あたし……は、ぬいた。


   ……っ。


   でも、だいじょーぶだよ……せんせだから、だいじょーぶ。


   ……。


   ね……こっちに、きて。


   ……ユゥのそばにいても、いい?


   きて、きて……。


   ……ほんとうに。


   あそぼ……。


   ……え。


   ね、あそんで……。


   ……。


   あそぼ、メル……。


   うん、遊びましょう……ユゥ。


   ……えへへ。


   ……。


   メル……きた。


   うん……来たわ。


   へへへ……。


   ……。


   ん。


   ……少し、腫れてる。


   はれてる……?


   ……いい加減なことを言ってしまって、ごめんなさい。


   メルは、ちっともわるくないよ……。


   ……。


   あのね……あたし、こわくなかったよ。


   ……怖く、なかった?


   ん、へーき……。


   ……。


   だって、メルとせんせがだいじょうぶだって、いったから……だから、へーき。


   ……もう、言わない。


   う……?


   ……いい加減な、ことは。


   なんで……?


   ……。


   メルは、いいかげんじゃないよ……。


   ……ありがとう、ユゥ。


   ね……なにして、あそぶ?


   ……ユゥは、何がしたい?


   ん、とね……かくれんぼ。


   かくれんぼ?


   ……やっぱり、かけっこ。


   かけっこ……。


   ……したい。


   ユゥ、かけっこは……。


   ……でもね、だめなんだって。


   ……。


   きょうは、あまりうごくなって……ししょうが、いったの。


   ……安静にしていないと、いけないから。


   せんせも、きょうはおとしなく、しててって。


   ……おとなしく?


   うん……おしとなく。


   ……。


   おとしな……おとなく……。


   ……おとな、しく。


   おとな、しく、あそぶの……。


   じゃあ……文字を、書く?


   ……もじ?


   それか、絵を描く……?


   んー……どっちも、かく。


   どっちも……?


   メルと、かきたい。


   うん……じゃあ、どちらも。


   ふふ……うん。


   ねぇ、ユゥ。


   ……なぁに、メル。


   私、ユゥが描いた絵が見たい。


   あたしが、かいた?


   ユゥが描いた、おししょうさんと先生が見たいの。


   んー……。


   ……描きたくない?


   メル、みたい……?


   うん、見たい……ユゥは、絵が上手だから。


   あたし、じょうず……?


   ん、とっても。


   ……へへ。


   先生もね、ユゥの絵は上手だって。


   ほんと……?


   ん、ほんと。


   かいたら、せんせにもみせる……。


   おししょうさんにも。


   ししょうは……いい。


   どうして?


   ……わらうから。


   ううん、笑わないわ。


   ……わらうよ。


   ユゥ……。


   ……だから、みせたくない。


   ……。


   メルと、せんせに……やっぱり、メルだけみせる。


   おししょうさんは、本当に……ううん。


   ……。


   ねぇ、ユゥ。


   ……なぁに。


   私、怒るから。


   ……おこる?


   そう、怒る。


   ……あたしに、おこるの?


   ううん……ユゥじゃなくて、おししょうさんに。


   ……どうして、おこるの?


   おししょうさんがもしも、ユゥの絵を見て笑うようなことがあったら。


   ……ししょうがわらったら、メル、おこるの。


   だって、ユゥが一所懸命に描いた絵だから。


   ……。


   笑ったら、許せないの。


   ……ゆるせない。


   たとえ、おししょうさんであっても……許さない。


   ……そう、なんだ。


   でも、ユゥがいやなら……怒らない。


   うー……。


   ……ユゥ?


   おこって、メル。


   ……あ。


   ししょうに、おこって。


   ……うん、笑ったら怒る。


   ふふ……ふふ。


   ……けど、笑わなかったら、怒らない。


   うん、わらわなかったら、いいよ……。


   ……。


   ん……メル?


   ……ユゥが描いた絵、おししょうさんと先生にも。


   うん、みせる……メルと、いっしょに。


   ……ん、一緒に。


   ふふ……。


   ……ありがとう。


   どうして、ありがとう……?


   ……私のお願い、聞いてくれたから。


   いくらでも、きくよ。


   ……いくらでも?


   メルのおねがいなら……あたし、いくらでもきくんだ。


   ……どうして、聞いてくれるの?


   どうして?


   ……私の、お願いなんて。


   メル、だからだよ。


   ……私だから?


   だいすきな、メルだから……。


   ……。


   ききたいの。


   ……私のこと、好きなの。


   うん、だいすき。


   ……ぁ。


   ふふぅ……。


   ……ねぇ、ユゥ。


   なに……。


   ……痛くは、ない?


   ……。


   痛み止めはまだ、効いている……?


   ……わかんない。


   分からない……?


   ……なにも、ないの。


   何も、ない……感覚?


   さわっても、なにもない……。


   ……触ったの?


   うん……ほっぺた。


   あぁ、ほっぺた……。


   ……くちのなかに、てはいれるなって。


   おししょうさん……?


   ……あと、せんせ。


   そう……。


   ……なめえも、だめだって。


   なめえ……なめても。


   ね……メルも、いう?


   私も……?


   ……くちのなか、て、いれちゃだめ?


   ……。


   ……いわない?


   私は……私も、言うわ。


   ……だめ?


   治療はされているけれど……触っては、だめ。


   ん、わかった……あたし、さわらないよ。


   うん……さわらないで。


   あと、なめないよ……。


   ん……なめないで。


   ……いいこ?


   うん、とても……。


   ……ふふ、メルにほめられた。


   ……。


   ねぇ、メル……。


   ……なぁに。


   メルは、なにをかくの……?


   私は、文字を。


   もじ?


   ん。


   じゃあね……あたしのなまえ、かいて。


   ユゥの名前?


   うん、あたしのなまえ。


   分かった……ユゥの名前を、一番に書くわ。


   へへ……やった。


   ……他に書いて欲しい文字はある?


   んとね……メルのなまえも、かいて。


   私の名前……うん、分かった。


   それから……それから。


   ……。


   せんせと、ししょうのなまえも……。


   ……先生と、おししょうさんの名前。


   うん、かいて……。


   ……。


   ……?
   メル……?


   ……ふたりの、名前は。


   まーきゅりーと、じゅぴたーだよ。


   ……その、呼び名は。


   ちがうの……?


   ……。


   メル……。


   ……ううん、ちがわない。


   あ……。


   ごめんなさい、ユゥ……ふたりの名前も書くね。


   うん、メル……。


   ……。


   そうだ。


   ……ん、なぁに?


   メルのえも、かく。


   私の絵?


   いい……?


   えと……私のことも、描いてくれるの?


   うん、かく、かきたい。


   ありがとう、ユゥ。


   いい、いい?


   もちろん、いいわ。


   やった!


   ……。


   メル、いっぱいかくね……たのしみに、してて。


   ん……楽しみにしてるわ。


   へへ。


   ……ふふ。


   ……。


   ……ねぇ、ユゥ。


   なになに……。


   ……今夜のこと、なんだけどね。


   こんや……?


   ……ユゥのそばに、いてもいいって。


   そうなの……?


   ……うん。


   ……。


   おししょうさんに、お願いされたの。


   ……ししょう、に。


   先生も、ユゥのそばにいてもいいって。


   せんせ……。


   ……だから、今夜は。


   う……。


   ……?


   ……。


   ユゥ……どうしたの?


   ……うえぇぇ。


   え……。


   メル……メル。


   ユ、ユゥ……?


   ……うぅぅぅ。


   ご、ごめんなさい、泣くほど、いやだった……?


   ……。


   じゃあ、どうして……あ、もしかして。


   ……。


   痛い……?


   ……ちょっと、いたい。


   あぁ……。


   ……じんじん、するの。


   痛み止めが、切れたんだわ……。


   ……たすけて、メル。


   先生を……あ。


   ……いたいよ、メル。


   ユゥ……私では。


   ……だめ?


   ……!


   ……せんせ。


   ううん……今は、私に出来ることを。


   ……ししょう。


   ユゥ、口の中を見せてもらってもいい?


   うん……いいよ。


   ありがとう。


   ……。


   ……出血は。


   ……。


   落ち着いている……。


   ……。


   ユゥ、血の味はする?


   ……うん、すこしする。


   ……。


   ちのあじ、きもちわるい……。


   ……腫れを抑える、お茶なら。


   おちゃ……。


   温かいものではなく……そう、冷たい薬茶。


   ……。


   ユゥ、喉は乾いてる?


   ……わかんない。


   何も、飲めない……?


   ……のめなく、ない。


   少しだけなら?


   ……のめる。


   そう……。


   ……。


   ……どのみち、あまり多くは飲めないから。


   メル……おちゃ、いれてくれるの。


   あのね……薬茶を煎れようと思っているの。


   ……くり、ちゃ?


   大丈夫、苦いものではないから。


   にがく、ない……?


   少しだけ、口の中がひんやりするだけ。


   ひんやり……。


   そのひんやりが、ほんの少しだけど、痛みを和らげてくれる。


   ……。


   先生に、教わったの。
   私でも煎れられる、薬茶を。


   ……のみたい。


   すぐに用意するわ。


   ……ん。


   待っていてね、ユゥ。


   ……?


   まずは先生に、それからお水を。


   メル、どこにいくの。


   ここにはお水も薬葉(やくよう)もないから、取りに


   や。


   え。


   メル、どこにもいかないで。


   でも……。


   ……やだ、いかないで。


   でも、それだと……煎れられない。


   ……だったら、いらない。


   ユゥ……。


   ……いたいの、がまんする。


   だけど……。


   ……メル、ここにいて。


   ……。


   ひとり、やだ……ここに、いて。


   ……う、ん。


   メル、メル……。


   ……。


   ……メルゥ。


   ユゥ……。


   ……だいじょうぶ、だいじょうぶ。


   痛みが出たとしても、そこまでは長引かない……先生は、そう、言ってた。


   ……。


   けど……痛いものは、痛いわ。


   ……はぁ。


   でも、だからって……。


   ……メル、あったかいね。


   ユゥも、あったかいわ……。


   ……。


   ……どう、すれば。


   ん……。


   ……他に、何か。


   ししょう、きた……。


   ……え?


   いま、きた……。


   ……おししょうさんが。


   でも、もういない……いっちゃった。


   ……。


   ……ん、メル?


   私は、どこにも行かない。


   ……うん、いかないで。


   ユゥ。


   ……う?


   私は、部屋の外を見てこようと思う。


   ……そと?


   そう、外……だけど、部屋からは出ない。


   ……。


   だから、ほんの少しの間、ユゥから離れてもいい……?


   ……や。


   どこにも、行かない……外を見たら、すぐに戻ってくる。


   ……うー。


   お願い、ユゥ……。


   ……あたしも、いく。


   ユゥも?


   ……それくらい、へーき。


   ……。


   メル、あたしもいく。


   ……ん、分かった。


   ん。


   ……立てる?


   ん、たてるよ……。


   ……。


   ……ね?


   ん……。


   いこ、メル……。


   ……うん、行きましょう。


   ん、しょ……。


   ……。


   ……。


   ……開けるね。


   うん……。


   ……。


   ……あ?


   これは……。


   ……。


   ……お水と、薬葉?


   ししょう……?


  10日





   ……。


   マーキュリー、話ってなんだい?


   ……来たわね。


   マーキュリーに呼ばれたら、あたしは喜んで来る。


   ……ふたりは?


   文字を書いて、楽しそうに遊んでいるよ。


   ……然う。


   ちびの奥歯は、問題なかったかい?


   奥歯は今のところ、問題ないわ。


   ん、良かった。


   注意と手入れは、くれぐれも、怠ることないよう。


   応、ちゃんと磨いてやるつもりだ。


   ……。


   マーキュリー、どうした?


   ……問題は、下の前歯。


   あぁ、メルが言っていた歯のことか。
   乳歯の後ろに新しい歯が生えてきているって。


   ……あなたは気付いてなかったのね、どうりで言われないわけだわ。


   ちびの口の中を見ることは、ちびが自分で歯を磨くようになってから大分減ってしまった。
   あいつが何か気になる仕種でもしない限り、見てやることはほとんどないんだ。


   ……其れでも、全く見ていないわけではないのでしょう。


   たまに口を開けて寝ている時に覗くことはあるが、奥ばかりを見て手前はあまり見てなかった。
   ましてや、前歯の後ろなんてなぁ……磨いてやっていた時なら、気にして見ていたけど。


   ……。


   マーキュリーだって、然うだろう?
   メルの口の中を、今となっては、見ることなんてあんまりないだろう?


   ……一週間に、一度程度。


   あたしも其れくらいだ。


   ……今日まで、様子を見ていたのよ。


   様子?


   ……乳歯と新しい歯。


   言って呉れれば、


   ……磨き方に、問題がなかったから。


   磨き方……?


   ……あなたが磨いていたわけではないのよね。


   あぁ、最近はずっとひとりで磨いているよ。
   あたしとお前が教えた通りに。


   ……。


   然うか……あいつはちゃんと磨いていたのか。


   ……今は、磨けているけれど。


   此れ以上、生えてきたら……まずいか。


   ……取り敢えず、奥歯はあなたが。


   前歯も、今日からは気にする。


   ……然うして。


   其れで、どうすれば良いんだ。
   メルは気にしていたようだが。


   ……。


   やっぱり、あまり良くないんだろう?


   ……此のままだと、乳歯が抜けないかも知れない。


   と言うことは、新しい歯と二列になってしまうのか?


   抜けなければ二列、もっと言えば新しい歯は正しい歯列から外れて生えることになるわ。


   外れてしまうのは良くないことだと分かるが、二列もまずいのか?


   良くはないわね。


   傷みやすい?


   ええ、とても。


   ん、其れは良くないな。


   歯がない場所にずれてしまう可能性もある。


   歯がない場所?


   丁度、隣が空いているでしょう?


   あぁ……丁度、空いているな。


   ないとは、言えない。


   ……。


   然うなると……言わなくても、分かるわね。


   あぁ……分かる。


   ……歯根吸収がうまくされていないのだわ。


   しこん?


   ……乳歯は何故、抜けると思う?


   其れは、新しい歯が生えてくるからだろう?
   曰く、歯の生え変わりだ。


   けれど新しい歯は、ユゥの乳歯が抜けていないのにも関わらず、生えてきてしまっているわ。
   本来の生え変わりならば、乳歯が抜けたところに新しい歯が生えてくる筈なのにね。


   ん、確かに然うだな。
   なんで、生えてきたんだろう。


   ……二重歯列は、特に前歯に多く見られる。


   若しかしたら、気が早い奴なのかも知れないな。


   ……。


   だって、然うだろう?
   上の歯が抜けていないのに、生えてくるなんてさ。


   ……はぁ。


   あれ。


   ……良いわね、あなたは。


   えと……どうしたら、良い?


   ……元々、歯を弄るような癖はなかったわよね。


   あぁ、なかったよ。


   ……最近は?


   歯のぐらつきは多少気になるようだが、へたに触るなと言ってある。


   ……指を咥えたり。


   其れもないな。
   あいつが口の中に入れるのは、今となっては、食べ物だけだ。


   ……。


   マーキュリー?


   ……此のまま様子を見ていても、抜けるどころか、ぐらつくことすらないかも知れない。


   ……。


   少しでもぐらついて呉れれば、経過観察を続けるつもりだった。


   ……じゃあ。


   乳歯を、抜く。


   ……抜くのか。


   出来るだけ、自然に任せたかったけれど……仕方ないわ。


   順調だと思っていた矢先に、な……。


   ……思っていた以上に、速いのよ。


   速い?


   ……生えてくる速度。


   何処までも、気の早い奴だ……上の乳歯が抜けていないのだから、もう少しゆっくり生えてくれば良いのに。


   ……此れもユゥの歯の為、放っておくよりはずっと良い。


   ん、然うだな……。


   ……抜歯を行う時は、必ず痛み止めを打つ。


   応、然うしてやって呉れ……流石に痛み止めがないと厳しいだろうから。


   ……とは言え、痛み止めを打つにも軽度の痛みは伴う。


   ……。


   ……其の時は、抑えていて。


   あぁ、分かった……其の時は、任せて呉れ。


   抜歯は……一週間後。


   ……。


   ……いえ、明後日にでも。


   なぁ、マーキュリー。


   ……何。


   ふと思ったんだけど、其れは後でなんとかする方が手間になるのか?


   ……新しい歯が生え切ってしまってから、ということ?


   うん。


   ……先刻も言ったけれど、二列になってしまうのは歯にとっては良くないことなのよ。


   便利、とはならないか。


   全く、ならない。大体、痛んでしまったら元も子もないでしょう。
   今は未だ磨けているけれど、あれ以上生えてきてしまったら、其れも難しくなる。


   ……あたしが、磨いても。


   乳歯と新しい歯が重なってしまったら、あなたでも難しいわ。


   ……あぁ、然うか。


   そもそも、生えるべきでない場所から生えてきているのだから問題しかない。


   ……やっぱり、然うだよな。


   どのみち、抜かなければならないことには変わりないの。
   であるならば、早い方が良い。


   然うか……其れじゃあ、致し方ない。


   ジュピター。


   ……ん?


   生え切ってしまってからの治療の方が、時間も手間も掛かる。
   残すべき新しい歯が、完全にずれてしまっているのだから。


   うん……やっぱり、早めに抜いてしまった方が良いな。


   ずれてしまった歯の治療法は、矯正すること。


   矯正?


   ……本来の場所に、歯を戻す。


   例えば、時間はどれくらい掛かるんだ……?


   ……先ずは歯を動かす治療期間、凡そ二年。


   二年か……生きていれば、あっという間ではあるが。


   次に、歯並びを安定させる保定期間……此れも大体、二年。


   合わせて、四年か……マーキュリーの言う通り、時間も手間も掛かるな。


   今、乳歯を抜いてしまえば、新しい歯は移動して本来の場所に戻って呉れる可能性があるの。


   となると、さっさと抜くべきだな。


   四年なんて、私達の生の時間を考えたら、細やかかも知れないけれど。


   だけど……生きていれば、の話だ。


   ……。


   然うなってしまったら……いっそのこと、新しい歯も抜いてしまって、代わりを入れた方が手っ取り早いかも知れないな。


   ……ええ、手っ取り早いでしょうね。


   其れは、出来れば避けたい……。


   ……いずれ、嫌でも然うなるのだから。


   其の時は……メルが、あいつにしてやることになるんだな。


   ……他の者で良いのなら。


   いや……あいつも、マーキュリーが良いだろう。


   ……水星の民でも、出来ないことはないわ。


   一部、だろう?


   ……十分よ。


   マーキュリー程の腕を持つ者は居ない。


   ……。


   己の躰を任せられるのは……任せたいと思うのは、マーキュリーだけなんだ。


   ……遠征時は、無理だけれどね。


   マーキュリーが、一番なんだ……。


   ……。


   でないと……。


   ……ジュピターって。


   幻滅、するか……?


   ……本当に我儘よね。


   我儘……。


   ……然う、我儘。


   はは……。


   ……何が可笑しいの?


   いや、今更だけど、其の通りだな……と。


   ……。


   だけど、譲れないんだ……どうしても。


   ……知ってる。


   ん……。


   ……生え切っていない今なら、新しい歯を抜く必要はない。


   今なら、抜くのは乳歯だけで済むか……。


   ……ええ、済むわ。


   然うか……ならば。


   矯正は、若しかしたら必要になるかも知れないけれど……其処までの手間と時間は掛からない筈。


   一思いに、抜いてやって呉れ。


   ……明後日にでも。


   明後日か。


   ……早い方が良い。


   明日、ではないんだな……。


   ……。


   じゃあ、明後日で。


   ……ぐらつくことは、もう、望めない。


   ぐらついているのは、上の歯なんだよな……。


   ……。


   今からでも良いから、下の歯もぐらついて呉れれば良いんだが。


   ……私としても、其れを望むわ。


   ん……マーキュリー?


   ……ぐらついて呉れれば、もう少し。


   大丈夫か?


   ……何が。


   いや……なんとなく、な。


   ……なんとなくって?


   えと、然うだな……。


   ……。


   マーキュリーは、あたしの折れた歯を、何度も抜いたことがある。


   ……何度もね、だけど其れが何。


   けれど、ちびの歯はないだろう?


   ……大したことではないわ、いつも通りにするだけ。


   ……。


   ん……なに。


   無理はするな……と、言いたいが。


   ……安心して、無理など初めからするつもりはないから。


   ……。


   ……小さな歯だから、難なく抜ける。


   ご褒美を、作ってやらないとな。


   ……ご褒美?


   あぁ、ご褒美。


   ……せいぜい、美味しいおやつでも作ってあげて。


   お前にもだよ、マーキュリー。


   ……私にも?


   あぁ、ご褒美には甘いものが一番だからな。


   ……私には、必要ないわ。


   いや、必要だと思う。
   とびきり美味いご褒美が。


   ……そんなもの。


   ご褒美でなければ、労いだ。


   ……は。


   良いだろう、労いなら。


   ……まぁ、どうでも良いけれど。


   何が良い?


   ……何でも良い。


   何でも良い、か……。


   ……抜いた当日は、様子を見ないといけない。


   次の日なら、良いか?


   ……診てから、判断する。


   分かった。


   ……どうせだから、あの子にも。


   勿論、作る。
   多分、ユゥの傍に居て呉れるだろうから。


   ……。


   大丈夫だ、マーキュリー。


   ……当たり前でしょう。


   あぁ、当たり前だ。


   ……。


   何か、飲むか?


   ……熱いお茶。


   熱くて、甘いお茶だな。


   ……甘いとは言っていない。


   はは。


   ……ジュピター。


   なんだい?


   ……何故、乳歯が抜けるか。


   うん?


   ……説明を、していなかったわね。


   あぁ……然う言えば、然うだったな。


   ……どうせ、聞きたくないでしょうけれど。


   聞くよ……いや、聞かせて欲しい。


   ……。


   ……お茶は、聞いてからで良いかい?


   あなたが其れで良いのなら。


   ……あたしは、其れで良い。


   然う……。


   ……。


   ……乳歯が抜けるのは、歯根吸収が起こるから。


   しこん、きゅうしゅう……其れは、なんなんだい?


   ……新しい歯が、乳歯の根を溶かすのよ。


   根を溶かす……?


   ……然う。


   ……。


   ふたりの抜けた歯は……こんな形をしていたでしょう?


   あぁ……していた。


   ……歯には、本来。


   ……。


   ……ジュピター?


   いや、上手だなぁって。


   ……其れは、どうでも良い。


   あぁ……ごめん。


   歯には、根がついていて……本当は、こういう形をしているの。


   ん……全然、違うな。


   ……抜けた乳歯になかったものは歯の根、つまり歯根。


   抜ける前の乳歯の根は、何処にあるんだ……?


   ……根は、顎骨の中に埋まっている。


   顎の骨に……。


   ……顎骨に埋まっていることで、歯を支えているの。


   成程……どことなく、作物に似ているな。


   ……まぁ、然うね。


   根が溶かされると……。


   ……根が溶かされることで、歯は支えを失う。


   其れで、乳歯が抜けるのか……うん、良く出来てる。


   ……今回の場合とは、異なるのだけれど。


   ん……?


   ……此れもまた、乳歯が抜けないことで起こり得ることのひとつ。


   ……。


   ……生えるべき場所に乳歯があるが為に、新しい歯が、先に生えている隣の新しい歯の方に向かって生えることがある。


   新しい歯が、新しい歯の方に……?


   ……。


   そんなことも、あるのか……。


   ……然うなると、先に生えている新しい歯の歯根を溶かしてしまう。


   然うしたら……先に生えていた新しい歯は。


   ……根が溶かされてしまうのだから、抜けてしまうわ。


   ……。


   然うなってしまったら……造った歯を入れるしかない。


   ……厄介だな。


   ええ……本当に、厄介。


   ……あたし達にはなかったから、余計だ。


   あなたには、あったわ。


   ん……然う、だったか。


   憶えているもの。


   ……。


   其れとも……記憶違いだと言いたいの?


   いや、マーキュリーに限って其れはないな。


   ……あなた、私に見せに来たのよ。


   え。


   ……歯が抜けたぞ見て呉れって、笑いながら。


   あー……。


   ……莫迦かと思ったわ。


   其れは……莫迦、だな。


   ……抜けた場所には、新しい歯の冠が見えていた。


   ……。


   ……やっぱり、ごはんを食べている時に抜けたのよ。


   ん……うっかり、飲み込まなくて良かった。


   ……。


   お茶、淹れようか。


   ……ええ、淹れて。


   ん、直ぐに。


  9日





   ……ぅ。


   メル?


   ……ん。


   メル。


   ……ユゥ?


   えへへ。


   ……どうしたの、ユゥ?


   おきた。


   ……あぁ。


   メル、まだねる?


   んー……ううん、もう起きる。


   へへ、そっか。


   ユゥも、起きるの?


   うん、おきる!


   じゃあ、一緒に。


   ん!


   ……。


   う?


   ……ふぁ。


   メル、あくび?


   ……あ。


   あ?


   ……な。


   な?


   ……なんでも、ない。


   なんでもない?


   ……気にしないで、ユゥ。


   んー……。


   ……。


   ……メル、はがないの、いや?


   ……っ。


   あたしも、ないよ。


   う、うん……そうだね。


   ……。


   あの……あまり、見ないで。


   うん、わかった。
   あまり、みない。


   できれば……ずっと、見ないで。


   ずっと?


   歯が……生えて、くるまで。


   わかった、ずっとみない。
   はが、はえてくるまで。


   ……ごめんね、ユゥ。


   んーん、いいよ、メル。


   ……ありがとう。


   ねぇねぇ、みて。


   ん、なぁに?


   おく、しろいの。


   ……奥?


   くちのおく、しろいのでてきた。


   白いの……新しい歯?


   うん、ししょうが、たぶんそうだって。


   そう……良かったね、ユゥ。


   いいこと?


   ん、とてもいいこと。


   ふふ、そっか。


   ……ね、ユゥ。


   なぁに?


   ……今、抜けている歯は一本だけなの?


   いっぽん?


   歯は何本、抜けたの?


   ん、と……。


   ……え。


   ほほ。


   ……前歯、一本?


   ごはんたべてたら、ぬけたの。


   痛くはなかった?


   ん、へいき。


   そう、良かった。


   たべてるとね、ここからでちゃうの。


   ……出ちゃう?


   ごはん。


   ……出ちゃうの?


   ひゅって!


   ……ひゅ?


   たまにね!


   ……ふっ。


   ししょうに、くちのおくでたべろって、いわれるの。


   ……奥で?


   まえでたべるな、かむなって。


   食べ物は大体、奥歯でかみつぶすものだけれど……ユゥは、口いっぱいにほおばることがあるから。
   だから……もしかしたらそのせいで、歯のすきまから食べ物が出てしまうのかもしれない。


   くちのなかに、あまりごはんをいれるなっていわれた。
   こぼすとよごれるし、もったいないんだって。


   ろくにかまないで飲む込んでしまうこともあるかもしれないから、おししょうさんの言うことは聞いた方がいいと思う。


   のみこむの、だめ?


   うん、だめ……。


   どうして?


   良くかまないで飲み込んでしまうと、喉につまらせてしまうかもしれないから。


   たまに、つまる。


   ……え。


   はきだして、ししょうにおこられる。


   うん……やっぱり、口の中にいっぱい入れるのは止めた方がいいわ。


   ん、わかった。
   もう、やめる。


   あとね。


   うん。


   あまりかまずに飲み込むと、えと、消化に良くないの。


   ……しょーか?


   ユゥが食べたものはね、お腹の中で消化されるの。


   ……。


   えと……お腹の中でとかされて、ユゥのからだの栄養になるの。


   ……。


   ん……え、と。


   ……しょーか、よくない?


   う、うん、良くないわ。
   よくかんで食べないと、あまり良くないの。


   わかった、よくかんでたべるね。


   ん、そうして。


   ん!


   ……ねぇ、ユゥ。


   なぁに、メル。


   今……抜けかかっている歯はある?


   ぬけ、かってる……?


   ……ぐらぐらしている歯は、ある?


   あるよ。


   ……どこの歯?


   んとね、まえのは。


   ……前?


   ほほ!


   ……上の歯。


   ここ、ちょっとぐらぐらしてる。


   ……下の歯ではないのね。


   したはもう、ぬけたよ。


   抜けたけれど、また抜けるの。


   そうなの?


   うん……今生えている歯は全部抜けて、新しい歯に生え変わるの。


   ししょうも、おなじこといってた。
   ほんとうだったんだ。


   歯の、生え変わりのこと……先生に、教えてもらわなかった?


   せんせ?


   ……先生のことだから、教えていると思うのだけれど。


   あ。


   ……教わってた?


   うん、おそわった、おそわってた。
   でも、ししょうがいうから。


   ……先生に教わったこと、忘れちゃった?


   ししょう、てきとーなんだ。
   せんせも、いってる。


   ……いつもでは、ないと思うわ。


   いつもじゃ、ない?


   ……たまに、いい加減なことはあるかもしれないけど。


   たまにじゃないよ。


   ……そうなの?


   うん、そうなの。
   せんせも、いってた。


   ……もう、先生は。


   ん、メル?


   あのね、ユゥ。


   うん、なぁに。


   ……。


   メル?


   ……先生も、おししょうさんと似ているところがあるから。


   せんせ、ししょうと、にてる?


   ……私達に適当なことを言うところなんて、特に。


   せんせ、てきとー?
   ししょうと、おなじ?


   ……むしろ、先生の方が。


   せんせ、ししょうとおなじじゃないよ。


   ……あ。


   ししょうと、おなじじゃない。


   ……そう、よね。


   うん。


   ……ごめんなさい、ユゥ。


   どうして?


   ……先生のこと、悪く言って。


   わるく、いったの?


   ……適当だなんて、言って。


   ……。


   ……?
   ユゥ……?


   せんせ、てきとー。


   ……はい?


   でも、ししょうとおなじじゃない。
   ししょうはししょう、せんせはせんせ、なんだ。


   ……ユゥ。


   せんせとあそぶの、たのしい。


   ……おししょうさんと、遊ぶのは?


   んー、たのしい。


   おししょうさんと先生、どちらが楽しい?


   せんせ!


   ……。


   でも、ししょうもたのしい。


   ……同じでは、ない?


   うん、おなじじゃない!


   ……うん、そうよね。


   メルとあそぶのが、いちばん、たのしい。


   ……私と?


   そう、メルと!


   ……ユゥ。


   ね、また、もじ、かいて?
   みよう、みまね、するから。


   ……うん、書くわ。


   やった。


   ……。


   ん……メル?


   ……ユゥは、怖くない?


   こわい?


   ……歯が、生え変わるの。


   んー……わかんない。


   そ、そう……。


   ししょうはね、あんまりさわるなっていうの。


   ……ぐらぐらしている歯に?


   あんまりさわると、だめだって。はに、よくないって。
   しぜんにぬけるのが、いいんだって。


   ……抜けた歯は、ごはんを食べている時に抜けたのよね。


   うん、そうなんだ。


   ……抜けた時、痛くなかった?


   んー……うん、いたくなかったよ。
   ごはんをたべてたら、ぬけたから。


   ……良かった、飲み込んでしまわないで。


   それ、せんせにもいわれたよ。


   ……もしも飲み込んでいたら、喉につまらせていたかもしれない。


   のどに、つまらせて?


   ……それは、とても危ないことなの。


   そうなんだ……。


   ……これからも、気をつけてね。


   わかった、きをつける。


   ……。


   ねぇ、メル。


   ……なぁに、ユゥ。


   メルは、こわいの?


   ……。


   はが、ぬけるの。


   ……少しだけ、怖い。


   そっか。


   ……ユゥは、怖くないのにね。


   あたしはこわくないけど、メルはこわい。


   ……。


   べつに、いいとおもう。


   ……いい?


   うん、いいよ。


   ……。


   こわいときは、あたしにいって。


   ……ユゥに?


   ふたりなら、こわくないよ。


   ……ユゥは、ひとりでも怖くないのに。


   はがぬけるのは、こわくない。
   でも、こわいのは、あるよ。


   ……何が、怖いの?


   んとね……。


   ……。


   ……。


   ……ないの?


   わすれちゃった。


   ……あぁ。


   けど、おもいだすよ。
   こわいときに。


   ……。


   ね、こわかったらいってね。


   ……。


   やだ?


   ……私。


   やだったら、いわないでいいよ。
   ししょうが、むりじい? は、だめだっていってたから。


   ……むりじい?


   やなのに、いわせるのは、だめなんだって。
   それを、むりじいっていうんだって。


   ……それは、適当ではないの?


   てきとー?


   ……おししょうさん。


   うん、てきとーじゃないよ。
   たまに、まともなことをいうんだ。


   ……それは、先生が。


   うん。


   ……本当に、先生は。


   だからね、いわないでいいからね。


   ……言っても、いい?


   う?


   ……怖かったら、言っても。


   うん、いいよ。


   ……ありがとう。


   どういたまして!


   ……どういたしまして、ね?


   ん、どうたしまして!


   ……ふふ。


   へへ。


   ……私ね。


   うん。


   ……歯が生え変わるのが、少しだけ怖いの。


   そっか。


   ……歯が生え変わることは、成長の過程において必要なことなのに。


   ね、あたらしいはがはえたら、みて。


   ……え?


   あたらしいの、みてほしい。


   ……私に?


   メルに!


   ……。


   そうだ、おくの。


   ……ユゥ?


   おくの、しろいの。
   あたらしい、あたしのは。


   ……。


   みて、メル。


   ……いいの、見ても。


   うん、みて。


   ……。


   あー……。


   ……ん。


   ひへふ?


   ……ごめんなさい、良く見えない。


   ひへはい……。


   一番、奥だから……そうだ、横になってもらってもいい?


   ……よこ?


   うん。


   わかった、よこになる。


   ごめんね。


   なんで?


   ……ううん、なんでもない。


   そっか、じゃあ、よこになるね。


   ……うん。


   ん、しょ……こう?


   それで、もう一度口を開けてもらってもいい……?


   あー。


   ん。


   ……。


   え、と……どこ?


   ひひ、ほ、ひは。


   ひひ、ほ、ひは……右の、下?


   あ!


   ……右の下、一番奥。


   ……。


   ごめんなさい、顔を動かしてもいい?


   ひひほ。


   ……えと、これくらいかしら。


   ……。


   何か、灯りがないと……少し、待っていてもらってもいい?


   ひひほ!


   あ、口は閉じていて。


   うん、とじる。


   ……何か。


   ふふ~。


   ……ユゥ、楽しいの?


   うん、たのしい。


   ……。


   メルに、あたらしいはをみてもらうの!


   ……ふふ。


   メルも、たのしい?


   うん……楽しい。


   へへ、よかった。


   ……うん、これなら。


   あった?


   ん、あった。


   また、くちあけるね。


   ん、お願い。


   あー……。


   ……これで、照らせば。


   ……。


   ……見えた。


   ひへは?


   うん、見えたわ。
   一番奥に、ちゃんと白いのがある。


   はははひい、は。


   ユゥの新しい歯、大臼歯。


   は?


   大臼歯って、言うの。


   へー。


   この歯はとても大事な歯でね。


   はいひ?


   ユゥが大きくなった証でもあるの。


   ほーはんは。


   だから、ちゃんと磨いて……ん、あれ。


   ……。


   ごめんなさい、ユゥ。
   前歯も見てもいい?


   ん!


   ……。


   ……。


   ……もしかして、これ。


   へふ?


   ……先生に、伝えないと。


   へんへ?


   ユゥ、もう閉じてもいいわ。


   ……せんせに、いうの?


   うん、言わないと。
   大丈夫だとは思うけど、念の為に。


   なにを、いうの?


   ……。


   メル?


   ……ユゥの下の前歯、二列になっているかもしれない。


   まえば……にれつ?


   ……放っておいたら、良くないかもしれないの。


   よくない……。


   ……だけど大丈夫、先生がちゃんと診て判断してくれるから。


   よくない……こわい。


   あ……。


   ……よくないの、こわい。


   ユ、ユゥ……。


   ……うぅ。


   ご、ごめんなさい、余計なことを……。


   ……メルゥ。


   あの、放っておいたら良くないということで、先生なら、放っておかないから。


   ……だいじょ、ぶ?


   うん、大丈夫。
   早めに気づいたと思うから。


   ……そっか。


   それに、もしかしたら、先生も気づいているかもしれない。
   気づいていて、様子を見ているのかもしれない。


   ようす……。


   ……とにかく、大丈夫。


   うん、メル……。


   ……あ。


   だいじょうぶ……だいじょうぶ。


   ……うん、大丈夫。


   メル……。


   ……なぁに。


   あったかいね……。


   ……あったかい?


   うん……メル、あったかい。


   ……ユゥの方が、あったかいわ。


   メルも、あったかいよ……。


   ……。


   ……ね、またかいて。


   文字……?


   ……あそぼ。


   うん……遊ぼ。


   ……へへへ。


   ふふふ……。


   ……そうだ。


   なに……?


   おやつ、おいしかった?


   うん……とても、おいしかった。


   わらびもちって、いうんだよ。


   蕨粉で、作るのよね。


   そうなの……もちもちっとしてて、おいしいの。


   ……おししょうさんが作ってくれるおやつは、どれもおいしい。


   どれも……?


   ……そう、どれも。


   あたしも、つくれるようになるんだ。


   ……ユゥも?


   うん……つくって、メルとせんせにたべてもらうんだ。


   ……おししょうさんには?


   ししょうは……。


   ……私は、みんなで食べたい。


   じゃあ、ししょうもたべていい。


   ふふ……うん。


   たのしみ?


   ん、楽しみ。


   ……。


   ん、ユゥ……。


   ……はやく、あたらしいは、はえてこい。


   ……。


   はえてきたら、おやつ、つくれるようになってるんだ。


   ……そうなの?


   おおきくなってるから、つくれるんだ。


   ……ふふ、そうかも。


   ね。


   ……ん、ユゥならきっと。


   ね、メル。


   ……遊ぶ?


   ん、メルとあそぶ!


  8日





   歯茎に白いもの?


   朝ごはんを食べていたら、ちびがまた、口をもごもごし始めたんだ。


   其れで?


   此れはまた歯が抜けるんじゃないかと思って構えていたら、あいつ、口の中に指を入れてさ。
   うーうー言いながら弄り出したから、取り敢えず止めさせて、確認してやったんだ。


   良く素直に応じたわね。


   不満そうだったが、そんなことはどうでも良い。
   あいつの反抗的な態度より、あいつの歯の方が重要だからな。


   まさか、無理矢理?


   少しぐらいなら、良いだろう?


   少しとは、どれくらい?


   好きなおやつで釣るぐらい。


   其れは無理矢理とは言わない。


   ん、然うか?


   目の前に置いて、口を開けさせたの。


   いや、そんな行儀が悪いことはもうさせない。


   もっと小さい時は然うしていたけれど。


   最近のあいつは其れくらいじゃ口を開けなくなってきたんだ。
   どうもメルの影響らしい。ほら、メルは目の前に食べ物を置かれても口を開けたりしないだろう?


   じゃあ、どうしたの。


   ちゃんと我慢出来たら、後でメルと一緒に食わせてやると言ったんだ。
   然うしたら、渋々ではあったけど、ちゃんと応じたよ。


   あの子を巻き込まないで。


   最近のちびさ、今日もメルと一緒に文字を書くんだって張り切っているんだ。


   へぇ?


   どうやら新しい遊びだと思っているみたいなんだ。
   蚯蚓が這いつくばったような字だろうと、メルは褒めて呉れるからさ。


   其れは、興味深いわね。


   そろそろちびにも、本格的にお勉強を教え始めても良いかも知れない。


   大人しく座っていられるかしら。


   試してみても良いと思うな。
   今のあいつなら、


   ならば早速、今日から始めましょうか。


   今日?


   お昼寝から起きたら。


   マーキュリーが一緒だと知ったら、喜ぶぞ。


   言っておくけれど、あなたもよ。


   あたしもか?


   然う、あなたも。


   分かった、マーキュリーに教えて貰えるのなら喜んで。


   寝そうだけれど。


   寝ないよ、ちび達が居るからな。


   若しもの場合は、ユゥを捕まえて。


   応、分かった。


   蚯蚓が這いつくばったような字と言っていたわね。


   見様見真似で書いてはいるんだが、なかなか形にならないんだ。


   其れなのに、あの子は褒めると。


   メルに褒められることで、少しずつだけれど、書けるようにはなってきているんだよ。
   まぁ、甘いかも知れないが。


   甘いわね、ちゃんと正してあげないと。


   メルは褒めつつも、ちゃんと正してやるんだ。
   然うすると、ちびは上機嫌になってまた書く。メルはあいつを乗せるのが上手だな。


   其れでは、上達が亀の速度だわ。


   かめ?


   蚯蚓と共に、青い星の生物。


   んー、どんなだっけ。


   蚯蚓は憶えているの?


   確か、畑に居ると良い奴だ。


   月の畑には必要ないけれどね。


   其れで、かめは?


   後で自分で調べて、子供達がお勉強をしている間にでも。


   ん、分かった。


   話が大分逸れてしまったわ。


   うん?


   あなたがあの子をおやつで釣って、口の中を確認した。


   あぁ、然うだった。


   で?


   確認したら、歯茎に白いものが見えていたんだよ。


   食べ残しではなく?


   念の為、触ってみたが、食べ残しではなかった。
   硬い感触で、触れてもなくならなかったから。


   わざわざ触ったの?


   まずかったか?
   ちゃんと、手は洗ったけど。


   さぞかし、嫌がったでしょうね。


   嫌がって不機嫌になったが、おやつを増やすと言ったら大人しくなった。


   機嫌は?


   あっさり直った。


   あなた達は簡単で良いわねぇ。


   然うでもないぞ。
   なんせ、美味いおやつでなければならないんだからな。


   其れで、蕨餅を?


   応、蜜と黄な粉をたっぷり掛けてやった。


   手間が掛かるものを、つくづく甘いわね。


   たまたま、蕨粉の蓄えがあったんだ。


   作っておいたのでしょう、然ういう時の為に。


   お前にも、久しぶりに食べさせたかった。


   不味くはないわ。


   ん、然うか。


   其れで、白いもののことなのだけれど。


   うん。


   新しい歯で間違いないわ。


   やっぱり、然うか。


   まぁ、後で確認はするけれど。


   うん、頼む。


   ええ。


   ん、良かった。


   此処までは、順調。


   此の調子で残りの歯も生え揃って欲しいものだ。


   然うね。


   でさ、マーキュリー。


   なに。


   新しい歯は、抜けたところから生えてきたわけではないんだ。


   何処?


   右下の、一番奥。


   あぁ、其れは下顎第一大臼歯だわ。


   か、かがく、だ、だいいち、だ?


   乳歯の生え変わりの頃に生えてくる、新しい歯。


   そんな歯もあるのか……?


   因みに、上下左右で第三まである。


   第三……。


   第一大臼歯が生えてきたということは、顎骨がちゃんと成長している証左。
   其れまでは、生えてくる場所がなかったから。


   其れは、あたし達にもあるのか?


   なければ、奥歯がある場所は歯茎だけになるけれど、あなたはない方が良い?


   いや、あった方が良いな。


   特に、第一大臼歯は重要な歯なの。


   どう重要なんだ?


   また質問?


   し、調べた方が良いか?


   どうやって?


   書物を読んで。


   なら、然うして。


   ……やっぱり、教えて呉れると嬉しい。


   蕨餅、悪くないわ。


   良かったら、あたしのも食うか?


   いいえ、そんなには要らない。


   じゃあ……また、作ろう。
   其れで、どうだ?


   第一大臼歯が、何故、重要かと言うと。


   うん。


   新しい歯の中で最も噛む力が強く、歯並びや噛み合わせの中心となる歯だから。
   あなたが歯を食いしばる時に、最も負荷が掛かっている歯とも言えるわ。


   あぁ。


   だからこそ、損傷が最も多かった。
   砕けたり、割れたり……ね。


   確かに、然うかも知れない。


   其の歯がないと、食べ物を細かく咀嚼して消化する効率が下がったり、嚙み合わせが不安定になってしまうこともあるわ。
   他にも、周囲の歯が傾いたり、隙間が出来たり、歯並びの均衡が崩れることもあるわね。


   大分、重要な歯だな。


   なければ、力も入らないかも知れない。


   言われてみれば……然うだったかも知れない。
   なんだか、どうにも力が入らないような、抜けてしまうような。


   だから、大事にするべき歯とも言える。


   どうすれば良い?
   あいつのは未だ、頭がちょこっと見えているくらいなんだが。


   痛まないように、良く磨くこと。


   然うか、良く磨けば良いんだな。
   分かった、後でちびに


   とは言え、あの子では磨けないと思うから、あなたが磨いてあげた方が良いわね。


   あたしが?


   恐らく、あの子では上手に磨くことは出来ない。
   故に、磨き残しがどうしても多くなってしまう。


   ……然うなると、痛んでしまう可能性がある。


   磨いてあげる時は、出来るだけ優しく磨くこと。
   生え始めの歯は柔らかいから。


   ……どうやって、磨いてやるか。


   私から言うわ。


   マーキュリーから?


   理由を話して、暫くの間は我慢して貰う。
   勿論、自分で出来るようになったら、後は任せれば良い。


   お前の言うことなら、あいつは素直に聞くだろう。


   不機嫌には、なるかも知れないけれど。


   あたし相手にな。


   いずれ、自分で出来るようになる。


   ……。


   今だけよ。


   ……然うだな。


   淋しいの?


   ん……なんだろうな、此れ。


   さぁ、分からないわ。


   ……。


   なに。


   ……全く、分からないか?


   分からないと、言ったら?


   ……然うか、と、返す。


   ……。


   マーキュリー……?


   ……今がずっと、続くわけではない。


   ……。


   いつか、其の日は必ず来る……だから。


   ……悔いがないように、か。


   は……。


   ……ん、違ったか。


   いいえ……其れで良いわ。


   ……うん。


   ……。


   然ういえば、メルには生えているのか?
   其の、なんとかなんとか。


   全く、言えていないわね。


   第一……奥歯。


   あの子にも生えてきているわ。


   じゃあ、お前が


   いいえ、あの子は自分で磨いている。
   やり方を、ちゃんと理解して。


   ……流石、マーキュリーのたまご。


   其れも、つまらないものよ。


   然うだよな……って、ん?


   ま、手間が掛からないで良いけれど。


   ……マーキュリー、お前。


   私は顎が小さくて、第二までしか生えていないけれど。


   ……なんの話だ?


   大臼歯の話。
   言ったでしょう、第三まであると。


   あ、あぁ、言っていたな。


   そもそも、歯胚自体がないの。


   しはい……。


   顎の中にある歯の素、と言えば分かりやすいかしら?


   歯の素……あぁ、成程。
   でも、なくて良いのか?


   二十八本もあれば、事足りるから。


   不便ではないんだな。


   生えてくる場所がないのだから、不便も何もない。


   ……。


   見せないわよ。


   ……どうして分かった?


   そんな顔をしていたから。


   ……あたしの奥歯は、第三まであるんだよな。


   ええ、確りと生えているわよ。


   ということは、あたしの顎はマーキュリーのより大きいんだな。


   誰よりも頑丈で確りしているわよ、あなたの顎は。


   へへ、然うか?


   照れるところ?


   マーキュリーに褒められると、顎でも嬉しい。


   あぁ、然う。


   応。


   第三は第一よりも傷みやすいから、厄介なのだけれど。


   ……え。


   だけれど、あなたの場合は確りと生えているから、ちゃんとした歯磨きさえしていれば、早々痛むことはない。


   ……確りと生えていないと、傷みやすいのか?


   顎の大きさの都合で真っ直ぐに生えてこず、斜めや真横に生えてくることがある。
   然うなると、隣にある歯を圧迫したり、歯磨きが非常にし辛くなるの。


   ……。


   そんな状態だと、どんなに丁寧に磨いたとしても届かないか、磨き切れない。


   ちびの奥歯のようだ。


   然うすると、


   歯は、痛んでしまう。


   場合によっては治療ではなく、抜歯しないといけなくなる。


   あー……新しいのと入れ替えか。


   いいえ、抜歯したら新しい歯は必要ないわ。


   え、良いのか?


   ええ、良いの。
   元々、其れだけの空間がないのだから。


   敢えて、か。


   また、痛んでしまうかも知れない。


   ならば、入れない方が良いな。


   然ういうこと。


   意外に面倒なんだな、歯って。


   あなたは歯並びも噛み合わせも、悪くないから。


   うん、然うみたいだ。


   其れに、歯磨きが丁寧なのよね。


   わりと得意なんだ。


   其の代わり、負荷で痛めるけれど。


   口の中は清潔にしておかないと、マーキュリーに口付け出来ないだろう?
   だから丁寧に、時間を掛けて磨くんだ。


   下心もたまには役に立つわね。


   然うだろう?
   悪いものではないよな。


   向けられる私としては、鬱陶しいこと此の上ないけれど。


   ……ちびにも、生えてくるかな。


   生えてくると思うわ。
   あの子もあなたに似て、大きくなるだろうから。


   然うか……じゃあ今のうちに、ちゃんとした歯磨きを教えておいてやらないといけないな。


   下心があれば、自ずとするようになるかも知れない。


   ……下心?


   持たないとは、到底、言えない。
   なんせ、ジュピターのたまごだから。


   ……確かに。


   寧ろ、あの子に教えておくわ。


   メルに?


   口の中が不潔な者は相手にしない方が良い、と。


   其れは……あたし達には、効くな。


   でしょう?


   ……あたしには、効果覿面だ。


   ええ、然うなの。


   ……うっかり歯磨きをしていない状態で口付けをしたら、一度、本気で刺されそうになったし。


   だから、するようになると思うわ。


   ……でも、ちゃんと教えておくよ。


   然うね、然うしてあげて。


   ……。


   蕨餅、ご馳走さま。


   お、きれいに食べて呉れたな。


   嬉しい?


   嬉しいから、必ずまた作るよ。
   蕨餅に合うお茶も忘れない。


   ふ……せいぜい、期待しているわ。


   応、していて呉れ。


  7日





   上の歯は埋める。


   上の歯は、埋める。


   下の歯は高く放り投げる。


   下の歯は、高く、放り投げる。


   覚えた?


   上の歯は埋めて、下の歯は高く放り投げる、だな。


   もう一度。


   上の歯は埋める、下の歯は高く放り投げる。


   後でもう十回程、復唱しておいて。


   十回もか?


   十回でも足りないかも知れないわ。


   十回も復唱すれば、あたしの頭でも完璧に覚えるな。


   復唱。


   上の歯は埋める、下の歯は放り投げる。


   高く。


   高く、放り投げる。


   間違えたら、許さない。


   間違えたら、許されない。


   は。


   大丈夫だ、マーキュリー。


   取り敢えず。


   後で復唱しておく。


   忘れないで。


   応、忘れないよ。


   ……。


   だけど、どうして埋めたり放り投げたりするんだい?


   なんとなく。


   なんとなく?


   ただのおまじないよ。


   おまじない?
   お前が?


   悪い?


   いや、悪くはないが……お前が、まじないなんて。


   ただの気紛れ。


   気紛れか。


   其れ以外、ないわ。


   んー……まぁ、然ういうこともあるか。


   ジュピター。


   ん?


   今回、あの子の抜けた歯は?


   前の下の歯だ。


   だったら?


   埋める!


   はぁ。


   あ、違う、高く放り投げるんだった。


   復唱、二十回。


   増えた……。


   と、数を増やしたところで良いとは限らないのよね、あなたの頭の場合は。


   ……途中で、ごちゃごちゃに混ざってしまう可能性が。


   混ざりようがないのだけれど。


   ……其れでも、な?


   はぁ……本当に厄介な頭だわ、もう少しなんとかならないのかしら。


   此れでも大分、なんとかなってきたんだ。


   回線不良にも程がある。


   マーキュリーが幾度も試行錯誤を重ねて繋げ直して呉れたから。
   だからあたしの頭は、初めの頃から比べると随分とまともになった。


   いい加減、飽きてきたわ。


   然う言いながらも、マーキュリーはずっと、あたしを見捨てないでいて呉れた。


   見捨てようにも、何処までも追い掛けてくるんだもの。
   まるで、諦めなんて言葉は知らないみたいに。


   あぁ、知らなかったよ。


   今は?


   今も、知らない。


   然うよね、知ってる。


   マーキュリーを諦めたら、其の時点であたしはあたしでなくなるからさ。


   ……どうしてこんな脳無しが私のジュピターなのか、何度考えたことか。


   考えて呉れたのか、あたしのこと。


   聞こえたの。


   あぁ、聞こえた。


   其の耳の良さを、少しでも頭に回せないものかしら。


   なぁなぁ、本当に何度も考えて呉れたのか?


   考えたわよ、どうせならもっと


   然うか、マーキュリーにとっても、あたしはマーキュリーのジュピターだったんだな。


   喜ばないで、鬱陶しい。


   ずっと然うだとは思っていたけれど、マーキュリーに言葉にされるとやっぱり嬉しいよ。


   忘れるから、今は喜ばないで。


   此れからは、遠慮なく言って呉れて良いからな。
   なんだったら毎日、毎晩でも構わない。


   大体、己の都合良く捉えているようだけれど


   なぁマーキュリー、早速今夜にでも……。


   ……本当に、どうしてこんなのが私のジュピターなのかしら。


   ん……?


   ……ほとほと、嫌になるわ。


   マ、マーキュリー……?


   どうせならもっと理知的で鬱陶しくなく、常に冷静で、私の邪魔はせず、部屋には勝手に押し掛けて来ず、然ういった行為も求めず、兎にも角にも、成熟しているジュピターが良かった。


   あ、あの……。


   ……どう、落ち着いた?


   ……。


   ……未だ?


   うん……落ち着いた。


   然う、良かったわ。


   な、なぁ、マーキュリー……あたし、そんなに駄目か。


   今に始まったことではないから。


   ……あたしが、マーキュリーの。


   もう、慣れたから。


   ……慣れた


   今更、成熟したジュピターを用意されても面倒なだけ。


   マーキュリー……。


   いちいち、喜ばないで。


   ……応。


   顔、緩んでる。


   ……どうしようもないんだ、許して欲しい。


   忘れないでね。


   ん、忘れない……あたしが、マーキュリーの


   然うじゃない。


   ……うん?


   歯。


   は?


   ……。


   あ、あぁ、歯だな。
   うん、歯だ、歯。


   ……然うやって、忘れていくのよね。


   いや、忘れないよ。


   ……本当に、然うだと良いのだけれど。


   若しも間違えたら、許さないで呉れ。


   ええ許さないわ、一生。


   ある程度のところで、許して貰えると。


   然うね。


   然うだよな、うん、良かっ


   間違えた場合は、歯を見つけてきて。
   然うしたら、許してあげる。


   ……は?


   埋めた分には、掘り返せば良いだけ。


   掘り返すと言うことは、埋めた場所を憶えておかないと駄目だな。


   勿論、憶えておけるでしょう?


   め、目印を付けておけば……。


   歯を埋めた場所に、わざわざ目印を付けるの?


   其の方が、


   そもそも其れは憶えたとは言わないわ。


   歯を埋めたことを憶えておく、では駄目か?


   駄目ね、埋めた場所まで憶えておかないと。


   ま、まぁ、間違えなければ良いだけの話だしな。


   ええ、其の通りよ。


   因みに、放り投げてしまった場合は……。


   大変よね、あんなに小さな歯を探し出すのは。


   ……軽く、


   放り投げる時は、くれぐれも、手は抜かないように。
   其れでは意味がないの。思い切り、放り投げて呉れないと。


   お……応。


   まぁ、間違えなければ良いだけの話だから。
   ね、然うでしょう? ジュピター。


   そ、然うだな……マーキュリー。


   うん。


   ……後で、何かに書いておこう。


   何?


   後で、何かに書いておくよ。


   書くことを忘れそうね。


   ……なぁ、マーキュリー。


   なぁに、ジュピター。


   何か、書くものは持っていないか。


   持っているけれど、どうするの?


   えと……手に、書いておこうかと。


   手に?


   手に書いておけば、直ぐに確認出来るだろう?


   ……然うかしら。


   書いたことさえ、忘れなければ


   忘れるのが、あなたなのよね。


   ……。


   でもまぁ、良いわ。


   ……貸して貰っても、


   けれど残念、手に書けるようなものは持っていないの。


   え。


   だから、刻んであげましょう。


   刻んで?


   手の甲と手の平、どちらが良いかしら。


   ど、どちらも遠慮したい……。


   痛みで、忘れないかも知れないわ。


   忘れないかも知れないが、痛いのはちょっと。


   あなたはジュピターでしょう?


   ジュピター、だけど。


   ならば、痛みは平気よね。


   時と場合による……かな。


   今は、平気?


   へ、平気じゃないと思う……痛くて、マーキュリーに泣きつくかも知れない。


   泣きつくの?


   ……ないとは言えない。


   そんな情けないあなた、見たくないわ。
   一瞬で幻滅して


   こ、こらえる。


   ……ふ。


   た、頼む、マーキュリー。


   刻んであげても?


   あ、あたしが、うっかり忘れてしまわぬように……。


   ……。


   ……?
   マーキュリー……?


   ばかねぇ、真に受けるなんて。


   ……え。


   そんなこと、本当に私がすると思ったの?


   あ、や……。


   だとしたら、


   お、思わない、思わないよ。


   然う?


   わざわざ、あたしの躰を傷付けるなんてこと……マーキュリーが、するわけがない。


   本当に然う思ってる?


   お、思ってる、よ……。


   どうして、しどろもどろになっているのかしら。


   な、なってないさ。
   あたしはいたって、落ち着いているよ。


   心当たりがあるから、ではないの?


   こ、心当たり?


   然う、心当たり。
   何かあるのではないの?


   そ、そんな心当たりは、ないよ。


   ジュピター。


   な、なんだい?


   正直に。


   ……本当に、すると思った。


   はぁ。


   い、いや、するわけがないとは思っているんだ。
   だけど、マーキュリーが一度すると決めたら……其の、するだろう?


   ねぇ、ジュピター。


   な、なに、マーキュリー。


   復唱。


   ……へ。


   歯は?


   あ、あぁ。


   一度で良いわ。


   えと……上の歯は埋める、下の歯は高く放り投げる。


   うん、未だ憶えているわね。


   うん、ちゃんと憶えているよ。


   ならば、手に書かなくても良いわ。


   ……今は、憶えていても。


   手に書いたところで、どうせ見ない。


   ……。


   其れこそ、痛みでもない限りね。


   ……其れで、刻む。


   実際には、しないけれど。


   ……。


   あなたはされると思ったのよね。


   ……ごめん。


   あなたが其れを望んだとしても、私はしないわ。


   マーキュリー……。


   無駄に手間と時間が掛かるだけだもの。


   ……然うだよな。


   安心した?


   いや、あたしこそごめん。


   私は謝っていないわよ?


   うん、然うだった。


   ……。


   ん、マーキュリー……?


   ……あなたの手はただでさえ、傷だらけなのだから。


   ……。


   ……此れ以上、無駄に増やす必要はないわ。


   うん……。


   なんて、言うと思う?


   ……思う。


   然う……なら、真に受けておいて。


   ……応。


   ……。


   ……メルの歯、小さいな。


   可愛い……?


   ……あぁ、可愛い。


   此れで、二本目……。


   ……二本目、か。


   先に抜けた場所が、未だ、生えてきていないから。


   ……更に食べ辛い上に、話し難いだろうな。


   筆談、試してみたのでしょう?


   あぁ、試してみたよ。


   結果は聞かないわ。


   ん、どうして?


   心が沈んでいないようだから。


   ……。


   でしょう?


   ……少し戸惑っていたみたいだけど、応じて呉れたよ。


   聞いてないのに。


   最近、文字を書いていないから、復習がてら練習がしたいと書いたんだ。
   然うしたら、良いですよって返して呉れた。ちょっと、笑っていたな。


   然う。


   ついでに、ちびも巻き込んでやった。


   其れは良いわね。


   と言っても、見様見真似だけどな。


   あなたも然うだったでしょう。


   懐かしいな。


   昔話をしたいわけではないの。


   お前が教えなくても、ちびは文字を覚えるかも知れないぞ。


   其れなら其れで構わないわ。


   ふふ、然うか。


   とは言え、あなたが書く文字なんてたかが知れているから。


   ……難しい言葉も、覚えるかも知れないぞ?


   あなたが其の言葉を知っているのならば、ね。


   此れでも、色々書いてきたんだ。


   くれぐれも、間違った文字と意味を覚えさせないように。


   ……。


   まぁ、あの子が居るから心配は要らないでしょうけど。


   ……実はさ。


   早速、あの子に正されたの?
   流石ね、ジュピター。


   ……自信、あったのに。


   ふむ。


   ……ん?


   暫く、続けたら?
   復習になって良いかも知れないから。


   ……一応、メルの歯が生え揃うまで、と思っているんだけど。


   良いじゃない、続けても。


   あたしは、良いけど……メルが、迷惑じゃないか。


   其れは然うね。


   ……メルはちびに、あたしはお前に。


   何処まで、私にやらせるつもりなの……?


   ……文字は、未だに難しいんだ。


   文章もね。


   ……日記と、マーキュリーへの手紙は書ける。


   ふ……。


   ……はは。


   ……。


   ……ん、何も言われない。


   言われたいの……?


   ……いや、良いや。


   然う……残念。


   ……なぁ、早速放り投げるか。


   然うね……。


   改めて、高く放り投げるのはあたしに任せて欲しい。


   ……ええ、あなたに任せるわ。


   応、任せて呉れ。


   ……高い程、良いらしいから。


   へぇ、然うなのか……良く分かんないけど、良いな。


   ……分からないくせに。


   マーキュリーは分かっているのか?


   ……所詮は、おまじないだもの。


   ……。


   ……なに。


   そもそも、なんのまじないなんだ?


   ……さぁ。


   マーキュリー?


   ……青い星の、おまじない。


   青い星の?
   そんなまじないがあるのか?


   ……あるのよ。


   ふぅん……面白いな。


   ……でしょう。


   然し、お前が青い星のまじないなんてなぁ。


   ……月のものよりは、ずっと、まし。


   ん……まぁ、然うだな。


   ……明日、投げるわ。


   明日……?


   ……然う、明日。


   うん、分かった……ちゃんと、憶えておくよ。 


  6日





   ……ん。


   お前、今回は手加減なしなんだな。


   ……全くではないわ。


   見つけたぞ、マーキュリー。


   ……どうして、あなたが?


   書物はゆるりと読めたか?


   ……鬼はあなたではなかった筈よ。


   ちび達が必死になって探したんだけれど、あまりに見つからないからさ。


   ……鬼はあの子だったわよね。


   あぁ。


   ……ユゥに手伝って貰っても尚、見つけられない。


   メルはひとりで頑張っていたよ。
   あたしなんか、あっさり見つかったからな。


   ……だから?


   ちびが手伝ったと言っても、やったことはお前の名前を呼びながらうろうろとするだけだ。
   あれでは到底、お前を見つける為の手助けにはならない。


   ……。


   ちびは未だ、目で見つけることしか出来ないんだ。
   メルが見つけられないのに、ちびに見つけられるわけがない。


   はぁ……まだまだね。


   そりゃあ、なぁ。
   己の気も未だまとめられないようなちび達だ、仕方ないさ。


   ……其れなのに、あなたはあっさり見つかったのね。


   まぁ、加減したしな。


   ……。


   ちびの声は、聞こえなかったか?


   ……うっすら、聞こえていたわ。


   でも、出てこなかったんだな。


   ……此れは、かくれんぼだから。


   まぁ、然うだ。


   ……返事など、しないでしょう。


   うん?


   ……壊れた人形は。


   お前は壊れた人形ではないよ。


   ……。


   其れに、壊れた人形を探すことなんてないだろう?
   壊れかけ、なら、いざ知らず。


   ……壊れかけも、場合によっては探す必要はないわ。


   あぁ、寧ろ探さないな。
   作戦行動中行方不明と処理されて終わる。


   ……。


   あたしも何度か


   ジュピター。


   ん。


   ……。


   あぁ、済まない。


   ……はぁ。


   当時のお前の心を思うと、胸が痛む。


   ……ジュピター。


   もう、言わないよ。


   ……。


   大分読めたか、書物。


   ……もう少し、読んでいたかったのだけれど。


   はは、然うだろうと思った。


   ……あなたが来なければ、もう少し読んでいられたのに。


   そろそろ、ちび達を安心させてやって欲しい。


   ……安心?


   お前を見つけるという意欲が、今や、お前が見つからないという不安に変わっている。
   見ていて、流石に放っておけないと思ってな。


   ……あの子も。


   あぁ、メルも。


   ……落ち着きは?


   流石にない。


   ……。


   そわそわ……とは、違うな。
   なんて言うのかな……焦り、とも違うし。


   ……駄目ね、話にならない。


   仕方ないさ、幾らお勉強が出来たってメルだって未だちびなんだ。


   ユゥは兎も角、あの子は其れでは駄目なのよ。


   見つからずとも、落ち着いていなければならない、か。
   マーキュリーのたまごとは言え、あの子には未だ厳しいと思うぞ。


   厳しくなんか、全くないわ。


   兎に角、お前は見つかった。
   此れでちび達も安心するだろう。


   ……何処まで心配していたの。


   お前が何処かに行ってしまったと……ちびなんか、半泣きになっていた。
   メルもそんなちびに釣られて、今にも泣き出してしまいそうな表情を浮かべてさ。
   其れで、代わりにあたしが探すことになったわけだ。


   何処かって……何処。


   さぁ、何処だろうな。
   多分、何処か遠いところじゃないかな。


   ……。


   青い星よりも、ずっと遠く……銀河の果て。


   行くわけがない。


   まぁ、然うなんだが。


   全く……あなたに似て、大袈裟ね。


   其れだけ、不安が強かったのだろうさ。


   ……。


   お前が、あまりにも見つからなくて。


   ……何処までも大袈裟、私は何処にも行かないというのに。


   あいつには未だ、其れが分からないんだよ。
   どうか、大目に見てやって欲しい。


   ……仕方ないわね。


   うん。


   ……。


   さぁ、ちび達にお前の顔を見せて安心させてやって呉れ。


   どうしようかしら。


   おいおい。


   自分達で見つけたわけではないし。


   此処は素直に、だな?
   相手は、あたしではないのだから。


   其れも然うね。


   ん。


   ふたりは?


   向こうで、あたしが作ったおやつを食べているよ。


   おやつ?


   不安やらで疲れ果ててしまっていたから、ちょっと休ませてやろうと思ってな。


   甘いわね。


   兎に角必死だったんだ、ちび達。
   お前を見つけたくて、途中からは、お前が心配で。


   ……。


   お前の分もあるぞ。


   ……あぁ、然う。


   食べるだろう?


   食べてあげても良いわ。


   うん、なら一緒に


   行かない。


   あー。


   けど、顔を見せてあげないといけないみたいだから。


   お茶は、お前の好きな


   あなたの好きなお茶で。


   ん、良いのか?


   然ういう気分なの。


   ん、分かった。


   あの子達が飲んでいるものは?


   青い実で、甘い果汁を作ってやった。


   然う。


   お前も飲むか?


   今は温かいものが良い。


   じゃあ、また今度な。


   ええ。


   手を。


   要らない。


   疲れてはいないか?


   平気よ。


   然うか。


   未だ、衰えてはいないわ。


   お前に衰えはあるんだろうか。


   其の時は、終わる時よ。


   なら、まだまだ先だな。


   は。


   ははは。


   ……水気よ。


   ……。


   ……ふぅ。


   うん、此れならちびの目でも見ることが出来る。


   ……うっすらと、見えていると思ったのだけれど。


   うーん、未だ難しいなぁ。


   はぁ……本当にまだまだね。


   水気で姿を隠されては、な。


   ……完全には隠れていないわ。


   メルなら、落ち着いて目を凝らせば見えたかも知れないが。


   ……結果的には、全く見えていなかった。


   今のちびには無理だ。
   あいつの目はあたしと同じでとても良いが、水気の先を見ることは今は未だ出来ない。


   ……あの子は不完全な水気ならば、見ることが出来る。


   あ?


   ……まぁ、良いわ。


   ところで、動けるか?


   動けるわよ。


   ひとつのところで、じっと書物を読んでいたのだろうから。


   問題ない。


   良かったら後で


   要らない。


   最後まで言ってないぞ?


   必要ない。


   ところで、今日のおやつはなんだと思う?


   薄麦餅に甘い煮豆でしょう。


   と、思うだろう?


   別に教えて呉れなくても良いわ。
   どうせ、後で分かるのだから。


   いや、然うなんだけどな。


   言いたいのなら、早く言えば?


   聞き


   聞きたくはないわ。


   聞いて欲しい。


   さっさと言えば、聞いてあげないこともない。


   今日のおやつは、ぼうろなんだ。


   ぼうろ?


   書物を読みながら、気軽に片手で食べられる。


   あぁ、そんなものもあったわね。


   青い星で食べて、お前が気に入った


   気に入ってはいないわ。


   豆乳があるからさ、手軽だし作ってみたんだ。
   まぁ、卵は相変わらずないが。


   久しぶりね。


   どうだ、食べたくなったか?


   然う言われると、食べたくなくなる。


   だよな、だから言わない。


   もう、言ってる。


   聞かなかったことにして呉れ。


   間抜けなひとね。


   ははっ。


   喜んだでしょう。


   ん?


   ふたり。


   あぁ……なんだか、ほっとしているようだったな。


   然う……何よりだわ。


   柔らかくて優しい甘みだから、今のちび達には合うと思ったんだ。


   ……。


   ん、マーキュリー?


   今度、作って。


   今度?


   書物を読みながら、食べるから。


   あぁ、分かった。
   幾らでも


   そんなには要らない、たまにで良い。


   応、分かった。
   たまに、だな。


   忘れなければ良いけれど。


   忘れないよ。


   其のわりには、久しぶりだけれど。


   今回は間が空いてしまったけど、次はそんなに待たせない。


   待ってはいない。


   好きだよな、ぼうろ。


   然うでもない、手軽に食べられるから良いというだけの話。


   甘い方が良いか?


   程々。


   程々、か。


   ……。


   なぁ、マーキュリー。


   ……何。


   かくれんぼ、またしよう。


   ……良いわよ。


   ちび達が、本気のお前を見つけられるようになるまで。


   ……いつのことに、なるかしらね。


   取り敢えず、直ぐにでなくて良い。


   私としては、直ぐにでも良いのだけれど。


   あたしは、先の方が良い。


   あなたはね。


   直ぐに出来てしまったら、なんとなく、淋しいと思う。


   ……淋しい?


   ん。


   ……変なことを言うわね。


   然うか?


   然うよ。


   然うか。


   鬱陶しいわね。


   うん、ごめん。


   ……。


   んー……。


   ……なに。


   いや、なんでもない。


   ……。


   あのさ、マーキュリー。
   次のかくれんぼは、いつ……


   ……ジュピター。


   ん、どうした?


   ……ユゥ。


   あ?


   ……なんだか、取り乱しているようね。


   は、なんで?


   知らないわよ。


   あいつ、ひとりで何をやっているんだ。
   メルと一緒におやつを食べていたんじゃないのか。


   食べていたのだけれど、何かあったのでしょう。


   何が。


   直接、聞いてみれば良い。


   あぁ、確かに。


   ほら、向こうに行ってしまうわよ。


   待て待て、そっちじゃない!


   ……余程、ね。


   おい、ユゥ!
   あたし達はこっちだ!


   ……ジュピター、早く行って。


   応、じゃあ先に。


   ええ。


   ユゥ!


   ……。


   お前、ひとりか?
   メルは、どうした?


   ……。


   取り敢えず、落ち着いて話せ。
   あぁ、分かった、分かったから。


   ……今のところ、分からないわね。


   歯? 歯がどうした?
   また、抜けたのか? え、違う?


   ……若しかして。


   若しかして、メルの歯か?
   あぁ、抜けたのか。


   ……ひとつ、抜け掛かっていたわね。


   落ち着け、其れくらいで壊れはしない。
   お前だって、抜けているだろう?


   ……。


   メルも同じだ……いや、だからだな。


   大丈夫よ、ユゥ。


   ……お。


   あなたと同じように、あの子の歯も生え変わるの。
   だから、壊れない。心配は要らない。


   ……。


   落ち着いて……然う、良い子ね。
   此れは……あの子の歯? 然う、持って来て呉れたの。
   ありがとう、ユゥ。


   ……落とさなくて、良かった。


   あの子は今、何処? おやつを食べていたところ?
   然う、分かった……直ぐに行くわ。


   マーキュリー。


   大したことではないけれど、急ぐわよ。


   応。


  5日





   はい。


   ……ん。


   たまには。


   ……ありがとう。


   味の保証はしないけれど。


   ……マーキュリーが淹れて呉れたんだ、美味しくないわけがない。


   然う、なら残さず飲んで。


   ……勿論、残さず飲むよ。


   どんなに渋くて、苦くても。


   ……若しかして、薬茶か。


   お茶はお茶でしょう?


   うん……まぁ、然うだな。


   ……。


   此れは、何の薬茶なんだい……?


   飲んだら、分かるわ。


   ……然うか。


   ……。


   何処か、爽やかで……良い香りだな。


   ……香りはね。


   はぁ……。


   溜息を吐いてしまう程に飲みたくないのなら、


   いや、然うじゃないんだ。
   お茶は飲みたい、出来れば。


   出来れば?


   必ず。


   薬茶なのに?


   ……お前が淹れて呉れたものは、一滴(ひとしずく)も残さない。


   ……。


   ん……なんだい。


   背中が丸まってる。


   ……結構、丸まっているか。


   伸ばして。


   ……お。


   早く。


   ……応。


   ……。


   此れで、良いかい?


   無駄にでかい。


   あー……あたしがでかいのは、お前を抱き締める為だよ。


   ふ。


   ……鼻で笑われた。


   自分で言っていて、恥ずかしくないの。


   ……。


   ジュピター?


   ……全ては、お前を守る為。


   ……。


   だから……恥ずかしくはないよ。


   私が恥ずかしい。


   ……え。


   何。


   お前でも恥ずかし……痛い。


   冗談よ。


   ……冗談?


   他にあると思っているの。


   ……ないな。


   ……。


   お前も、同じものを飲んでいるのか?


   教えない。


   ……同じ香りがする。


   ……。


   マーキュリー、もう少し傍に。


   嫌よ。


   ……だよな。


   分かりやすく、心が沈んでいるわね。


   ……聞いて呉れるか。


   いいえ。


   ……あからさまに、顔を背けられたんだ。


   私は、拒否したのだけれど。


   ……しかも、何度も。


   聞くとは言ってないわよ。


   ……ちびにぷいっとされたことは何度もあるが、メルにされたことは一度もない。


   ……。


   どうしてだ……どうして、急に。


   あの子は、然ういうことが下手だから。


   ……下手?


   はぁ。


   ん……マーキュリー。


   仕方ないわね。


   ……聞いて、呉れるか。


   顔を背けるのなら、気付かれないように、もう少し上手くやれば良いのに。


   其れは……メルのことを言っているのか。


   あなたが背けたわけではないでしょう。


   ……あたしは、背かない。


   知ってる。


   ……。


   あなたは真っ直ぐに見てくるから。


   ……見ない方が、良いのか。


   だけど、出来ないでしょう?


   ……難しい。


   だから、背けるのよ。


   ……お前も、わりと分かりやすいよ。


   ……。


   お前の場合は……すっと、目を逸らす。
   或いは、初めから顔を合わせない。


   あなたにだけよ。


   あたしだけ……?


   他の者が相手ならば、もっと上手くやるわ。


   ……。


   あからさまなことはしない。


   ……でも、しているんだよな。


   ええ、しているわよ。


   ……気付かれないものか?


   そんなへまはしないわ。


   ……あのふたりには。


   気付かれたって構わない。
   やるべきことは、ちゃんとやっていたのだから。


   ……確かに、言われる筋合いはないな。


   話を聞くぐらいなら、相手の顔を見なくても出来る。


   ……お前は昔から、誰かの顔、いや目を見るのが苦手なんだ。


   だから?


   ……だけど、あたしの顔と目は苦手じゃないんだ。


   ……。


   ……と、勝手に思っている。


   今更ね。


   ……うん。


   冷めないうちに飲んだら?


   うん……飲む。


   ……。


   ……ん。


   どう?


   此れ……生姜茶か?


   然うよ。


   ……確かに、薬茶でもあるな。


   だから、然う言った。


   ……ほんのり甘くて美味い、蜜を入れて呉れたんだな。


   残念だわ。


   ……うん?


   お茶が美味しくて。


   ……はは。


   ……。


   ……はぁ、マーキュリーの優しさが腹に染み渡る。


   気色悪い。


   なぁ……お代わり、しても良いか。


   お代わりがしたいのなら、自分で。


   ……マーキュリーに、淹れて欲しい。


   淹れられるでしょう、自分で。


   ……マーキュリーのようには、淹れられない。


   別に良いじゃない、自分の味でも。


   ……癒して


   鬱陶しい。


   ……マーキュリーが淹れて呉れた生姜茶が飲みたい。


   今、飲んで


   二杯目も。


   ……。


   マーキュリーが淹れて呉れた生姜茶が、どうしても、飲みたい。


   ……。


   ……お願いだ、マーキュリー。


   そもそも。


   ……ん。


   其処まで、沈むこと?


   ……なんだか、とても堪えたんだ。


   過去形ならば、


   其れは……今も、続いている。


   ……。


   ……「マーキュリー」に顔を背けられるのは、心が辛い。


   大袈裟ね……。


   ……理由が分かれば、なんとかなる。


   ……。


   だけど、今回は……。


   ……言ったでしょう、歯の生え変わりが関係していると。


   歯の生え変わりのせいで、あたしはメルと話すことが出来ず、挙句、顔まで背けられるのか……。


   ……まぁ、然うね。


   生え変わり……。


   ……歯が揃えば、屹度、収まると思うけれど。


   其れは、いつ……。


   ……少なくとも、前歯が揃うまで。


   前歯……。


   ……まぁ、気長に待てば良い。


   気長……。


   ……ぼんやりとしているのは、得意でしょう。


   待てない……。


   ……。


   待てないよ……。


   ……無駄に楽観的なあなたは何処に行ったのかしら。


   何処だろう……あたすにも分からない。


   ……あたす?


   教えて呉れ、マーキュリー……あたしは、どうすれば良い?


   ……どうしようもないわ、此れはあの子の問題なのだから。


   うー……。


   ……うーって、まるでユゥみたいね。


   あたしは、躰のでかいユゥだよ……。


   ……いつ、顔を背けられたの。


   いつ……。


   ……まぁ、歯を埋める時にだとは思うけれど。


   然う……ちびの歯を、メルと一緒に埋めようと思って。
   いつものように、声を掛けたら……はっとした顔をされて……其れから、きゅっと口を結んで。


   わりと良く見ているわね。


   ……あたし、メルに何か悪いことをしたか。


   別に、何もしていないわ。


   ……どうして、メルはあたしと話して呉れないんだ。


   話したくないから、でしょう。


   ……どうして。


   嫌だから。


   ……嫌。


   あなたの前で、口を開くのが。


   ……やっぱりあたし、メルに何かしたんだな。


   先刻も言ったけれど。


   ……。


   歯の生え変わり、其れがあの子があなたと話したがらない理由。


   ……ちびは、話すぞ。


   ユゥはね、全く気にしていないようだから。


   ……メルは、気にしているんだな。


   何を気にしていると思う?


   ……歯の生え変わり、だろう?


   ……。


   う。


   ねぇ、ジュピター。


   ……なんだい、マーキュリー。


   前歯のないあなたは、いつも以上に、間抜けな顔をしていたわ。


   ……うん、知ってる。


   其れで?


   ……其れで?


   あなたにとっても、ユゥにとっても、歯が抜けることは、特段気にする事柄ではない。


   ……歯が、一時的に抜けているだけだしな。


   けれども、皆が皆、然ういうわけではない。


   ……皆が、皆。


   此処まで言っても分からないのなら、駄目ね。


   ……間抜け。


   ……。


   歯がないと、間抜けな顔……。


   ……。


   ……分かっ、た。


   どう、分かったの?


   ……歯がないことを、メルは、気にしているんだな。


   どう、気にしているの?


   ……間抜けな顔、だと。


   ……。


   然うなんだな、マーキュリー。


   直接、あの子に聞いてみたら?


   其れは出来ない、メルを傷付けてしまう。


   ならば、どうするの?


   どうもしない、いつものように接する。


   顔を背けられても?


   嫌われていないのなら、平気だ。


   分からないわよ。


   ……え。


   嫌われている可能性は否定出来ない、余りにも鈍過ぎて。


   ……どうすれば。


   なんにせよ、気付いたところで、あの子があなたと話して呉れるかは分からない。


   ……だから、気付いても意味がない。


   意味が全くないわけではないわ。
   少なくとも、無駄なことではない。


   ……無駄ではないのか。


   多分ね。


   ……。


   冷めたわね。


   ん……あぁ、大丈夫だ、問題ない。


   然う。


   ……ありがとう、マーキュリー。


   お茶のお礼なら、先刻言われたわ。


   ……話を、聞いて呉れて。


   私は聞きたくなかったのだけれど、勝手に話し出すから。


   ……。


   ん、なに。


   ……抱き締めても


   どうして然うなるの。


   ……抱き締めたい。


   嫌よ。


   ……理由が分かって、安心した。


   良かったわね。


   ……だけど、心は未だ沈んでいる。


   理由が分かったのに?


   ……嫌われている可能性があるから。


   ……。


   マーキュリー……。


   私を抱き締めたところで、気休めにしかならないわ。


   ……気休め以上だよ。


   ……。


   お願いだ、マーキュリー。


   ……嫌よ。


   む……。


   ……私は、あの子の代わりではないわ。


   代わり……?


   ……慰めてなんか、やらない。


   あぁ……。


   ……ユゥがお昼寝から起きたら、あの子のことを考えられないくらい、ひたすら遊んだら?


   うん……然うするよ。


   ……。


   メルは……お勉強か。


   予定としては。


   ……然う、か。


   ……。


   一緒に遊ぼうと思ったんだが……。


   ……ばかね。


   ん……。


   ……其れでは、考えてしまうでしょうに。


   ちびは……メルと遊ぶのが、好きなんだ。


   ……。


   マーキュリーも、一緒にどうだい?


   ……私は、遠慮しておくわ。


   然うか……然うだよな、遊んでいる暇があるのなら、書物を読みたいよな。


   けれど、かくれんぼなら付き合ってあげても良い。


   ……かくれんぼ?


   隠れている間、書物が読めるから。


   其れは……鬼はやらないということか?


   鬼だと、書物が読めないでしょう。
   其れに、直ぐに見つけてしまうから、面白くないわ。


   ん、確かに。


   どう?


   あぁ、かくれんぼにしよう。ちびは、かくれんぼも好きなんだ。
   マーキュリーが一緒だと知ったら、とてもはしゃぐだろう。


   可愛いわね。


   可愛いか?


   ええ、可愛いわ。
   素直で、単純で。


   まさに、あたしだな。


   ばかなの?


   はは。


   ……。


   ……マーキュリー。


   取り敢えず。


   ……取り敢えず。


   筆談でもしてみたら?


   ……ひつだん?


   文字で話すの。


   ……もじ。


   読み書きは一応、出来るでしょう。


   ……筆談か、良いかも知れない。


   応じて呉れたら、嫌われていないかも知れないわ。


   うん、やってみるよ。


   ええ、やってみて。


   ありがとう、マーキュリー。


   別に、お礼なんて要らな……。


   ……大好きだ。


   ちょっと……。


   ……お礼に、今日の夕ごはんは任せて呉れ。


   今日の夕ごはんだけではないでしょう。


   ……良かったら、明日の朝も。


   間に合っているわ。


   ……まぁ、然う言わず。


   ……。


   あぁ……安心する、安心した。


   ……私は、あなたの心の安定剤ではないのだけれど。


   あたしは、お前なしでは無理なんだ……。


   ……重い。


   ん、重たかったか……ごめん。


   ……離れて。


   もう少し……。


   ……。


   ……ん。


   刺されたい?


   ……離れる、今直ぐに。


   直ぐにね。


   ……。


   ……ふ。


   なんだい……?


   ……少し、ましになったわ。


   顔……?


   ……背筋が伸びた。


   マーキュリーのおかげだ。


   ……お礼はもう、要らないわ。


   ん、分かった。


   ……。


   お茶のお代わり、要るか?


   私でなくて良いの?


   うん、もう大丈夫だ。


   ならば、他のものが良いわ。


   他のもの?


   生姜茶はもう、要らない。


   分かった、ならばお前が好きなお茶を。


   ……。


   然し、生姜茶は腹の中があったまるな。


   躰の中が温まると、心が落ち着く。


   ……。


   だから、もう要らないのよ。


   うん……然うだな。


  4日





   ……はぁ。


   悪くないか?


   ……。


   ん、良くないか?


   ……。


   分かった、淹れ直そう。


   ……待って。


   ん。


   ……味は悪くない、甘みが欲しい。


   甘みだな、ちょっと待ってて呉れ。


   ……少しで良い。


   匙一杯ぐらいで、良いかい?


   ……二杯。


   良し、二杯だな。


   ……。


   なんだか、疲れているみたいだ。


   ……ただ、甘みが欲しいだけよ。


   夜はちゃんと眠れているか。


   ……眠れている。


   と言うより、ちゃんと睡眠時間を取っているか?


   ……取ってる、余計な詮索はしないで。


   うん、今夜は早めに寝た方が良いな。


   ……書物。


   明日の朝、メルよりも早く起きて読めば良い。


   ……夜が好きなのだけれど。


   知っているよ。


   ……だったら。


   じゃあ、ちび達と一緒に昼寝でもするか?


   ……しない。


   昼寝も、たまには良いものだぞ。


   ……其れよりも、甘み。


   此れでどうだい?


   ……。


   もう少し、入れるか?


   ……此れくらいで良い。


   ん。


   ……。


   お茶のお代わりが欲しかったら、遠慮なく言って呉れ。


   ……乳歯。


   ん?


   あの子の歯を見せて。


   今?


   今。


   お茶を飲みながら、歯を眺めるのか?


   ……然うだけれど。


   飲み終わってからの方が……。


   ……。


   分かった、見せる、見せよう。


   ……早く。


   確か、此処に……ん?


   ……落としてきたの。


   いや、そんな筈は。


   あなたのことだから、其のまま隠しに入れてきたのでしょう。


   其れだと失くすだろうと思ったから、小袋に入れておいたんだ。


   其の小袋ごと落としたと。


   若しかしたら、忘れてきたのかも知れない。


   ないのなら、取ってきて。


   え、今から?


   然う、今から。


   あ、明日では駄目か。


   駄目。


   ど、どうしてもか。


   どうしても、よ。


   ……。


   ジュピター。


   ……分かった、取ってくるよ。


   上衣の隠しは?


   ……え。


   下衣の隠ししか確認していない。


   ……然うだ、上衣。


   其処になければ、


   あったぞ、此れだ。


   ……然う、残念。


   はぁ、良かった。


   ……。


   ありがとう、マーキュリー。
   おかげで取りに帰らずに済んだよ。


   ……どうせ、居ても立っても居られなくて此処に来たのでしょう。


   其れで、上衣の隠しだと思ったのか?


   ……考えている余裕もなかったのだろうと、然う思っただけ。


   流石、あたしのマー


   あなたのではない。


   ……此の中に、入っているよ。


   本当に入っていれば良いけれど。


   濯いでから此処に入れたんだ、間違いない。


   ……一応、濯いだのね。


   歯だからな、一度濯いだ方が良いと思ったんだ。


   ……。


   入ってたろう?


   ……残念ながら。


   まさか、入ってなかったか。


   ……入っていたわ。


   ん、良かった。


   ……。


   な、小さいだろう?


   ……小さいわね。


   やっぱり、小さいよな。


   ……小さいからこそ、躰に合った歯が生えてくるのだけれど。


   小さいままだと駄目なのか?


   ……小さいままだと、隙間だらけになってしまうわ。


   隙間だらけ?


   躰に合わせて、顎骨も大きくなる……けれど、歯は大きくならない。


   小さいままだと、どうして隙間だらけになるんだ?


   少しは、自分の頭で考えたらどうなの?


   ん、然うか……じゃあ、考える。


   ……。


   んー……。


   ……土台が大きくなるのに、其の上のものが小さいままだと。


   どだいが、おおきくなる……。


   ……。


   でも、うえのものはちいさいまま……。


   ……。


   ……。


   ……未だ、分からないの。


   だから……歯と歯の間に、隙間が出来てしまう?


   ……。


   あぁ然うか、うん、分かった。


   ……其れに伴って、歯並びも悪くなってしまうかも知れないわね。


   其れは良くないな、噛み合わせが悪くて食べ辛い。


   ……話し難くもなる。


   話すのも?


   ……空気の漏れが起こって、発音し辛くなるのよ。


   空気の漏れ……発音。


   ……歯がない時のあなたの発音は、とても聞き取り辛かったわ。


   言われてみれば、話し難かったような気がするな。


   ……其れは、空隙歯列弓でも同じ。


   くう、げ……?


   ……歯と歯の間に隙間があること。


   はぁ、難しい言葉だ……。


   ……前歯がないと、更に間抜けな顔になる。


   其れは分かるぞ、自分でも然う思ったからな。


   ……まさに、あなたのことよ。


   はは、然うか。


   ……歯並びは、出来るだけきれいな方が良い。


   うん、良く分かった。
   歯と歯の間に隙間はない方が良い。


   ……其のままね。


   然し。


   ……何。


   最初から大きい歯が生えてくれば、生え変わる必要なんてないのにな。


   ……莫迦ね、最初から大きな歯では顎に合わないでしょう。


   あー、然うか。


   ……どうせだから、一度と言わず、何度でも生えてきて呉れれば良いのに。


   然ういや、然うだな。


   ……不便。


   何度でも生えてきて呉れるなら、新しい歯を宛がわなくても良くなる。


   ……然うすれば、必要な部品が減る。


   手間も減るな。


   ……他のことに使えるわ。


   一度でぴったり合って呉れれば、まだ良いのだろうが。


   ……まず、有り得ない。


   そんなこと、滅多にないよな。


   滅多にどころか、一度もない。


   型取りをしてもどういうわけかしっくりしない、微妙に合わないんだ。


   ……毎回、何処かしら必ず細かい調整が必要になってくる。


   同じようでも、毎回違うんだろう?


   ……ええ、違うわ。


   大変だよな。


   特に、あなた。


   あたし、か?


   毎回と言っていい程に、失くしてくる。


   や、好きで失くしているわけじゃないんだ。
   出来れば、失くしたくない。お前の仕事を増やしてしまうから。


   ……失くすだけじゃ飽き足らず、中途半端に折ってくることもあるの。


   やっぱり、まるごと失くした方が調整は楽か?


   ……どちらも楽だけれど、どちらも面倒。


   中途半端に残っていると、形によっては抜かないと駄目だろう?
   まるごと失くした方が、其の手間が省けると思ったんだ。


   大して変わらないわ。


   ……自分で抜けば


   何度も言っているけれど、其れは止めて。
   場合によっては、治療が必要になる。


   ……元々、治療は必要だろう?


   あなたは強引に引き抜くだろうから、歯茎に余計な損傷を与えることになって手間が無駄に増える。


   ……。


   私が抜歯した方が治療に手間が掛からない。
   だから余計なことはしないで良いし、考えないで。


   ……分かった。


   ……。


   お代わり、要るか?


   ……もう良いわ。


   然うか。


   ……。


   いっそのこと、戦の時は歯がない方が良いのかも知れないな。


   ……其の理由は?


   初めからなければ、失くすこともない。


   戦が終わった後はどうするの。


   其の時は


   全部、入れ直せと?


   いや……其れも、手間だな。


   ……其れならばいっそのこと、取り外し可能な入れ歯にでもすれば良い。


   取り外し可能?


   作れなくもないわ。


   其れって、どうするんだ。


   必要な時に取り付ける。


   あぁ……其れも、良いかも知れないな。


   本当に良いと思うの?


   其れでマーキュリーの手間が省けるのなら。


   莫迦ね。


   うん?


   歯がないと、今度は踏ん張りが利かなくなるわよ。


   踏ん張り?


   あなた、力を入れる時に歯を食いしばるでしょう?


   あぁ、然うかも知れない。


   然うなの、其れが原因で歯が折れることもあるのだから。


   歯がないと、踏ん張れないものか?


   何処に力を入れるの。


   何処に……口に?


   歯がないと、力を受け止めるものは歯茎になるでしょう。


   まぁ、然うだな。


   でも、其れで本当に力が入ると思うの。


   んー……分からない、試したことがないから。


   試してみたいの。


   ……しない方が、若しかして良いのか。


   あなたがしてみたいのなら、全部、抜いてあげるわ。


   ……う。


   だって、先ずは抜くところからでしょう?


   ……。


   どうしたの?
   面白い顔をしているようだけれど。


   考えただけで……歯が、むずむずする。


   入れ歯にすれば、なんにも感じないわ。


   なんにも?


   例えば、歯の痛み。


   ……確かに、歯は痛まないだろうが。


   入れ歯には歯髄がないから。


   ……しずい?


   分かり易く言えば、神経。


   歯にも、神経があるのか?


   だから、痛むのよ。
   前にも言ったと思うけれど。


   あぁ、然うだった。


   入れ歯には神経がない。であるならば、痛みも感じない。
   但し、歯茎には痛みが残るけれど。


   ……。


   どうする?
   叶えてあげても良いわよ。


   ……いや、やっぱり良い。


   良いの?


   マーキュリーには、此れからも手間を掛けさせてしまうかも知れないが……あたしは、此のままで良い。


   知れない、ではなく、確実に掛かる。


   ……済まない。


   別に良いわよ、今更だもの。


   ……マーキュリー。


   何、此の手は。


   ……触れたい。


   嫌。


   ……駄目か?


   駄目。


   ……然うか。


   ……。


   ……マーキュリーのおかげで、今日もちゃんと飯が食えた。


   良かったわね、食べられて。


   ……応。


   ちゃんと磨いているのでしょうね。


   勿論だ。


   今は?


   今は……。


   ……。


   ……眠る前に、もう一度磨く。


   然うして。


   ……其れまで、口付けは出来ないな。


   何か言ったかしら。


   ……口付けするなら、歯磨きをちゃんとした後に。


   歯磨きをしようが、許さないわ。


   ……うん。


   ……。


   ……其の歯、どうするんだ?


   さて、どうしようかしらね。


   何かに使えないか?


   ……何かって?


   例えば、ちびが歯を失くした時に此れを元に新しい歯を作る……。


   ……。


   いや……やっぱり、良い。


   ……保存しておいても仕方ないから、処分。


   処分……まぁ、妥当か。


   ……。


   然ういえば、メルはどうなんだ?


   ……どうって?


   メルの歯は抜けたのか?


   ……聞いてどうするの。


   どうもしないけど……ちびが抜けたのだから、メルも抜けたのではないかと思ったんだ。


   ……。


   マーキュリー……?


   ……最近のあの子は、いつにも増して口を開けなくなったでしょう。


   え。


   ……ユゥと話している時でさえ、あまり口を開かない。


   ……。


   気付いていないのね。


   ……メルは、あまり話さない子だから。


   其れにしたって、おかしい。


   ……どうして、開けなくなったんだ。


   気付いていないひとに教える必要はないわ。


   ……。


   ……。


   ……表情が、硬い気がする。


   ……。


   何か、あったのか。


   ……本当に、気付いたの。


   あぁ、本当に気が付いた。此のところ、メルの様子がおかしい。
   いつにも増して話さないし、何より、笑顔がぎこちない。


   ……。


   マーキュリー、メルはどうしたんだ。
   何処か、悪いのか?


   ……生え変わり。


   生え変わり……。


   ……あの子も。


   メルも……。


   ……だから。


   あぁ、然うか……。


   ……見られたく


   歯の生え変わりと、関係があるんだな。


   ……。


   だけど、其れと何の関係が


   鈍い。


   え。


   ……。


   マ、マーキュリー……?


   ……生え変わりが終わるまで、あの子はあなたと話さないかも知れないわ。


   え、なんで。


   ……。


   あたしと話さないと言うことは、ちびとも


   其れは、ない。


   ……どうして?


   あの子とあなたは違うから。


   ……ちびと話すなら、あたしとも。


   今のままだと、ない。


   ……。


   ところで、此の歯のことなんだけど。


   ……あぁ。


   埋めるわ。


   ……埋める?


   然う、埋める。


   ……。


   良いわね。


   応……分かった。


   ……其の時に、あの子のも一緒に。


   一緒?


   ……。


   マーキュリー、何処に?


   ……もう、寝る。


   ならば、あたしも。


   歯を磨いてきて。


   分かった、直ぐに磨いてくる。


  3日





  -ひふみ(前世・少年期)





   ……何の用。


   今、良いか……?


   良くない、帰って。


   少しだけで良いんだ、頼む。


   明日の食事なら間に合ってる、帰って。


   明日の食事のことじゃないんだ。
   でも、然う言われると、作りたくなる。


   ……あなたを構っていられる程、暇ではないのだけれど。


   知ってる。


   ……ユゥは?


   此処に。


   ……置いて来たわけではないのね。


   そんなことはしない。


   ……ふぅん。


   良く眠っているだろう?


   ……良く眠っているのに連れ出したのね。


   ひとりにすることはないよ、夜泣きをしなくなったとは言え未だちびだから。


   ……。


   マーキュリー?


   ……であるならば、こんな夜更けに訪ねて来ないで。


   メルも寝ているのか。


   其れで漸く、ひとりでゆるりと過ごせる時間となったの。


   然うか。


   分かったのなら、帰って。
   ユゥが起きてしまう前に。


   お前にとって、ひとりで過ごす時間はとても大事なものだということは分かっている。


   頭ではね。


   聞いて欲しいことがあるんだ。


   明日なら。


   ……。


   明日では駄目なの。


   ……駄目では、ないが。


   ……。


   出来れば……今夜が良い。


   ……聞いて欲しいことは、あなたのこと?


   いや……。


   ……今一度、ユゥを見せて。


   あぁ……。


   ……。


   涎、垂らしていないか?


   ……口が開いているから、時間の問題。


   まぁ、涎ぐらいならば構わない……。


   ……具合が悪いわけではないようね。


   昼寝時間を除いて、今日も朝から晩までずっと動き回っていたし、飯もたらふく食った。
   だから、悪くはないと思う。其れこそ、寝るまで元気だったよ。


   ……せいぜい、食べさせ過ぎないように。


   分かってる……食い過ぎると、腹を壊すからな。


   ……。


   マーキュリー……何か、気付かないか。


   歯が抜けているわね。


   然うなんだ!


   声が大きい、子供達が起きる。


   ……飯を食っていたら、突然、止まったんだよ。


   其れで?


   口の中をもごもごさせたと思ったら、歯を吐き出した。


   吐き出した歯はどうしたの。


   一応、持ってきた。


   然う。


   其れでマーキュリー、話というのは此の歯を元に


   戻すことは出来ないわね。


   ……出来ない?


   ええ、出来ないわ。


   ……マーキュリー、でもか。


   出来ない。


   ……どうしても、か。


   寧ろ、戻さない方が良いの。


   ……どうしてだ、歯がなかったら食い辛いだろう?


   其のうち、新しい歯が生えてくるから。


   ……。


   生えてくるの、新しい歯が。


   ……歯が、生えてくるのか。


   然うだと言ってる。


   ……生えてくるのか、歯が。


   しつこい。


   ……あたしは、生えてこないぞ。


   あなたの歯は乳歯ではないから。


   ……にゅうし?


   幼歯、と言い替えても良いわ。


   ……ようし。


   幼体の頃に生えてくる歯のこと。


   ……其れは、抜けても良いものなのか。


   何度も言わせないで。


   新しい歯が生えてくるから……抜けたところで、問題はない。


   全くないわ。


   ……然う、か。


   但し、乳歯の下、つまり顎の中に新しい歯が形成されていなければ生えてこない。


   ……。


   然うなると、問題がある。


   だ……大丈夫なのか。


   大丈夫だとは思うけれど。


   け、けれど、なんだ。


   声を抑えて、子供が起きる。


   ……ちびは、大丈夫なのか。


   はぁ……仕方ないわね。


   マーキュリー……。


   改めて、診てあげるわ。


   あ、あぁ、頼む。


   ユゥを此方に。


   応。


   あなたは、帰っても良いわよ。


   いや、帰らない。


   結果なら、明日にでも。


   明日ではなく、今、知りたい。


   ……。


   でなければ、こんな夜更けに訪ねては来ない。


   ……常習のくせに、良く言う。


   あたしが素直に帰ると思うか。


   思わない。


   だろう?


   静かにね。


   分かってる。


   ……。


   少し、重いぞ。


   ……見れば分かる。


   体重も分かるのか。


   凡その見当くらいはつく。


   流石だ。


   ……。


   ん、マーキュリー?


   どうせだから、運んで。


   応、分かった。


   あなたは、適当なところに。


   一緒に居ても良いか。


   ……駄目だと言っても。


   頼む。


   ……終わったら、さっさと帰ってね。


   努力する。


   ……努力することではないわ。


   折角だから、ちびをメルと寝かせてやりたい。
   こいつはメルのことが大好きだからな。


   あの子を驚かせたいの。


   うん、どうして驚くんだ?
   メルもちびのことが好きだろう?


   目が覚めて、眠る前には居なかった筈のユゥが隣に居たら驚く。


   お前は、あたしが隣で寝ていても然程驚かないよな。


   今更。


   いや、最初から。


   間抜けな顔で眠りこけるあなたに、何度、氷の刃を突き刺してやろうと思ったか。


   うん?


   あなたが守護神でなかったら、一思いに。


   言葉、だけだろう?


   は。


   殺気は、一度も感じたことがないぞ。


   殺気など発しなくても、私は刺すことが出来る。


   突き刺さるような冷気を放って、か?


   其れも一瞬のこと。
   気付いた時には終わっているわ。


   あたしに向けられたことは、ただの一度もない。


   あなたが鈍いだけ。


   鈍くて良かった。


   いっそ、本当に刺してやれば良かった。


   お前はしないよ。


   しなかっただけ。


   誰よりも優しいんだ、お前は。


   私の中に優しさなんてものは存在しないの。
   あるのは打算と


   マーキュリーは、あたしと民達には優しい。


   然う思っているのはあなただけ、何度言わせれば気が済むのかしら。


   何度だって、言うさ。


   私が民達にどう思われているか、


   お前は民達の真意を知っているし、民達もまた、お前の真意を知っている。


   だとしたら、何。


   だから民達は、敢えてお前の重荷にならないように振る舞っている。
   おかげで火星や金星、月の民達からは、とても冷え込んでいるように見えているみたいだが。


   知った口を。


   民達から聞いているからな、直接。


   余計なことを。


   マーキュリーは代々、心優しいらしい。


   歴代は然うだった、其れだけの話。


   先代は特に心優しかったと聞いたよ。


   単に、弱かっただけ。


   犠牲が出るたびに、心を痛めていたらしい。


   気にしていたら、マーキュリーなんかやっていられない。


   あぁ、然うだな。


   心穏やかな「ジュピター」が忘れやすく造られているのは、其のせい。


   其のせいで、民達が犠牲になることで痛む心というものがいまいち分からないんだ。


   然うでもない。


   ん?


   忘れてしまうけれど、痛まないわけではない。


   顔の見分けもつかないのにか?


   其れでも、よ。


   やっぱり、マーキュリーには敵わないな。


   こんな会話、何度すれば気が済むの。


   たまに、思い出した時に。


   あなたは良いわね、忘れやすくて。


   ごめん。


   ……。


   「マーキュリー」の優しさは……変わらず、お前に引き継がれている。


   ……言っていれば良い。


   今はちび達にも優しい、甘さもある。


   良いわね、頭が緩いと。


   うん、其れもあたしの良い所のひとつだ。


   莫迦で厄介。


   はは。


   響く。


   ……。


   入って。


   ん、お前の部屋ではないのか。


   だから、なんだと言うの。


   お前の部屋では診られない?


   診られないわけではないわ。


   だったら、お前の部屋の方が


   私の部屋だったら、あなたは外で待っていることになる。


   ……ユゥは、何処に。


   其処に寝かせて。


   分かった。


   あなたは


   あたしは、此処に。


   床には座らないで。


   椅子に座っても良いか?


   椅子が不服ならば、立っていれば良い。


   じゃあ、座らせて貰う。


   邪魔にならぬよう、離れたところで。


   此の辺りで良いか。


   診ている間は、決して、近くには来ないよう。


   分かった、動かず此処に居る。


   ……。


   なぁ、直ぐに終わるか。


   ……大して掛からないわ。


   然うか、良かった。


   ……。


   口が開いているから、丁度良いだろう?


   ……。


   お……。


   ……目視では確認出来ないわね。


   生えてくれば、見えるようになるのか?


   生えているのに見えなかったら、あなたの目の異常を疑うわ。


   確かに。


   ……。


   其れ……。


   ……黙っていて。


   ……。


   ……。


   ……お、映った。


   ……。


   どう、だ……?


   ……問題はないようね。


   ないか、問題。


   ないと言った。


   な、どれが新しい歯なんだ……?


   ……此処、白いものが見えるでしょう。


   応……見えるな。


   ……目に異常はなさそうね。


   良く見えているぞ……其れが、新しい歯なんだな。


   ……ええ、然うよ。


   けど、ひとつだけじゃないな……。


   ……当たり前でしょう、歯は何本あると思っているの。


   ……。


   ……乳歯は、全て、生え変わるわ。


   す、全て?!


   声が大きい。


   ……全て生え変わるってことは、今生えている歯は全て抜けるのか。


   でなけば、生え変わることが出来ないでしょう。


   ……ついこの間、やっと揃ったのに。


   然ういうものなの、諦めて。


   ……抜けても


   生えてくる。


   ……なら、良いか。


   良しとしておいて。


   取り敢えず……抜けて、良かったんだよな?


   新しい歯が見えているのだから、成長過程において問題はない。


   若しも見えなかったら、問題あるのか。


   其の場合は、乳歯を使うしかない。


   抜けた歯を、元に戻すのか。


   いいえ……抜けた歯に関しては、新しいものを用意するわ。


   ……。


   出来れば、したくない……だから、良かった。


   ……うん。


   此れで、お仕舞い。


   ん、ありがとう。


   安心した?


   うん、した。
   此れで今夜も良く眠れそうだ。


   ……甘いのはどちらかしらね。


   ん、なんだ?


   其れは良かった、と言っただけ。


   うん、良かった。


   ……。


   はぁ、本当に良かった……良かったな、ユゥ。
   歯が全部抜けるのは大変だと思うが、乗り切るんだぞ。


   ……大袈裟。


   で、新しい歯はいつ生えてくるものなんだ?


   其のうち。


   其のうち?


   少しずつ生えてくる。


   少しずつ……其れまで、どうするんだ?


   其のままよ。


   其のまま?


   何もしない。


   な、何もしなくて、大丈夫なのか。
   其処だけ、歯がないのに?


   心配なの?


   いや、心配しなくて良いのか?


   しなくて良いわ。


   ……本当に。


   分かった。


   ……え?


   念の為、保隙の処置をしておいてあげる。


   ほげき……?


   新しい歯が生えてくる場所を確保しておくの。


   成程……て、結局、隙間のままなんだよな?


   其れは仕方ない、諦めて。


   ……然う、なのか。


   若しも、生えてくる場所に余計なものがあったら?


   ……生えてこられない?


   生えてくるべき場所ではないところから生えてくる。


   ……。


   其れは其れで問題なの、だから諦めて。


   ……分かった、諦める。


   其のうち、生えてくるから。


   ……。


   ところで、此の子は歯が抜けたことを気にしているの。


   ……其れが。


   気にしていないのでしょうね。


   ……どうして分かるんだ?


   分かるでしょう、此れだけ気持ち良さそうに眠りこけていたら。


   ……確かに、然うだな。


   ユゥは此のまま置いていって呉れても構わないわ。


   あたしも、今夜はマーキュリーの部屋で。


   帰って。


   然う、言わず。


   ……。


   然うだ、お茶でも飲むか?
   お前の好きなお茶を


   淹れて。


   分かった、少し待っていて呉れ。


   其の前に。


   ん?


   ユゥを、メルの寝室に。


   ……良いのか。


   良いわ、声を掛けるから。


   ……メルを起こすのか。


   ええ、然うよ。


   ……良く眠っていても、か。


   直ぐに眠るわ。


   ……。


   知らずに驚くよりも、ずっと良い。


   ……然ういうものか。


   ええ、然ういうものよ。


   まぁ……お前が、然う言うのなら。


   ……驚くだけならば、まだ良い。


   ん……?


   ……混乱状態になりかねない。


   混乱……ユゥ、でもか。


   ……状況把握能力が、未だ弱いから。


   然うか……でも、仕方ないさ。


   ……ユゥは良いわね。


   うん?


   教えなくても。


   あぁ、ちびには良い。
   少しは驚くだろうが、直ぐに喜ぶ。


   ……緩いわね。


   ジュピターは、其れくらいで良い……。


   ……ま、やるべき時にやってさえ呉れれば。


   あたしも、然うだろう……?


   ……否定はしないわ。


   応……。


   ……運んであげて。


   ん……直ぐに。


   ……待って。


   え……?


   ……雑。


   然うか……?


   ……いい加減。


   そんなに……。


   ……荷物ではないのよ。


   ん……此れで、どうだろうか。


   ……今は、たまたま見ていたけれど。


   ……。


   ……見ていないところでは、雑なの。


   いや、変わらないと思うけど……。


   ……改めて。


   分かった……気を付ける。


   ……。


   ……やっぱり、ちびには甘い。


   何か?


   いや……なんでもない。


  2日





   ……。


   ふぅ……確かに、此れは気持ちが良いなぁ。


   ……。


   ねぇ、メル……とても、気持ち良いよ。


   ……少し熱いけれど、悪くはないわ。


   然うは言うけれど、メルは未だ、浸かってないじゃないか……指先をほんの少し、入れただけで。


   ……腰掛ける場所を決めかねているだけよ。


   あたしの隣に……。


   ……。


   ふふ……待っていても、冷めないよ?


   当たり前でしょう。


   さぁさ……あたしの隣においで。


   嫌よ。


   あー……。


   ……。


   そんなに、離れなくても……。


   ……私の勝手。


   然うだけど……。


   ……此方に来ないで。


   メルが来て呉れないなら、あたしから行く……。


   ……来ないで良い。


   あたしが隣に居た方が、寄り掛かれて良いと思うんだ……ね、其の方が良いだろう?


   ……足、湯冷めするわよ。


   メルこそ、冷えてしまうよ……さぁ、覚悟を決めて。


   足湯をするのに、覚悟など必要ない。


   ……足湯?


   足だけ浸かるのだから、足湯というのが妥当でしょう。


   んー……確かに。


   ……。


   ふふ……。


   ……あまりくっつかないで。


   然うだね……あんまり近いと、寄り掛かり辛いよね。


   ……寄り掛かるとは言っていない。


   言わなくても、良いよ……好きな時に寄り掛かって欲しい。


   ……。


   慣れてしまえば、熱くないから……。


   ……分かっているわよ。


   ふふふ……。


   ……ユゥ。


   なんだい……?


   ……あなた、酔っているでしょう。


   えー、酔ってないよ……?
   大地も、揺れていないし……。


   ……酩酊状態。


   めーてー……?


   ……まるで、酒精に酔っているかのよう。


   酒精は……メルも、良く知っていると思うけど。


   ……頭の中が、ふわふわしてる。


   ふわふわ……?


   ……していない?


   ああ、其れはしてる……。


   ……そんなに気持ちが良いの。


   うん、とても気持ちが良い……足先から、溶けてしまいそうだ。


   ……溶ける前に、冷やしてあげるわ。


   あはは……其の時は、お願いするよ。


   ……何かしらの物質が影響しているのかしら。


   メル……?


   ……はぁ。


   お……。


   ……水気よ。


   待った、待った……水気を使っては、駄目だって。


   ……初めだけよ。


   此の熱さが良いんだ……だから。


   ……押し付けないで。


   ん……。


   ……。


   メル……。


   ……つ。


   ん……やっぱり、使った方が良いかな。


   ……あなたが押し付けたせいよ。


   ごめんよ……。


   ……。


   ……ん?


   ん……


   ……う、わ。


   なに……。


   いや……なんでもない。


   ……言わないのなら、怒る。


   言っても、怒りそう……。


   ……言わなければ、確実に怒る。


   あー……其の、漏れる声が色っぽいなぁって。


   ……。


   ごめんなさい……。


   ……くだらない。


   あれ……。


   ……其のうち、慣れるのでしょう。


   慣れると、思う……。


   ……其れまで、待つことにするわ。


   ……。


   ……いっそ、海の傍にあったなら。


   海に、冷やしに行く……?


   ……。


   ふふ……其れも、良いかもなぁ。


   ……慣れてきたわ。


   え、もう……?


   ……然うよ。


   無理、してない……?


   ……してない。


   む……。


   ……顔が、赤い。


   メルの……?


   ……あなたの。


   そんなに、赤いかな……。


   ……まるで、何かに酔っているよう。


   躰が温まっているからじゃないかなぁ……。


   ……湯浴みをしていても、然うはならない。


   まぁ、湯浴みよりも熱いし……。


   ……。


   若しかしたら、成分が違うのかも知れないね……。


   ……。


   月の、水とは……だから、顔が赤くなっているのかも。


   ……。


   なんて、そんなわけ……。


   ……月の水は、主に水星の民の水気だから。


   あ……。


   ……同じなわけ、ない。


   ……。


   ……同じにしないで。


   ごめん……。


   ……どうして謝るの。


   気分を悪くするようなことを言った……だから、ごめん。


   ……別に、今に始まったことではないもの。


   其れは、あたしのこと……だよね。


   ……いいえ、違うわ。


   ……。


   ……月にも、水がないわけではない。


   でも……水星の民の水気を利用した方が、手っ取り早く得られる。


   ……結果的に、水星の民は搾取され続ける。


   月の水を利用することは……。


   ……出来なくはないけれど、許されない。


   ……。


   月の水は、無限に存在するわけではないから。


   ……水星の民だって。


   だから、無駄遣いはしないで。


   ……其れは、勿論。


   ……。


   ん……メル。


   ……月の民が皆、あなたのようだったら良いのに。


   ……。


   ……水は、大切に。


   うん……此れからも、大切にする。


   ……少し、赤みが引いたかしらね。


   顔……?


   ……「冷や水」の効果があったのかも知れない。


   冷や水……メルは、あったかいよ。


   ……。


   あ……。


   ……良いのでしょう、寄り掛かっても。


   うん、良いよ……。


   ……悪くないわね。


   うん……?


   ……熱さに、慣れてくれば。


   ふふ……だろう?


   ……ふぅ。


   ずっと浸かっていたら、眠くなってくるかも知れないなぁ……。


   ……寝たら、置いて帰るわよ。


   メルはそんなことを言うけれど、実際にはちゃんと声を掛けて呉れるんだ……。


   ……掛けるのは、冷や水かも知れないわよ。


   あったかい、ね……。


   ……氷かも知れないわ。


   然うしたら、直ぐに目が覚めるなぁ……。


   ……良いの、氷で。


   出来れば、あったかい方が良い……。


   ……ならば、寝ないように。


   眠るなら、帰ってからにするよ……。


   ……然うして。


   今夜も、メルと眠りたい……。


   ……深くは眠れないだろうけど。


   其れでも、良い……メルと、ふたりで眠れるのなら。


   ……。


   然うだ……眠る前に、ごはんを食べないと。


   ……ある程度温まったら、帰るわよ。


   うん……日が沈み切る前にね。


   ……。


   気持ち良いかい……?


   ……悪くはないと言ったわ。


   足湯、たまには良いかも知れないね……。


   ……然うね。


   ……。


   ……。


   ……然ういえば。


   なに……。


   成分、調べたんだったよね……結果は、どうだったんだい?


   ……。


   未だ、かな……?


   ……化石潮水。


   かせき……?


   ……此の湯には、塩分が含まれているの。


   塩分……つまり、潮水?


   ……けれど、現在の潮水とは成分組成が明らかに異なっている。


   どう、異なっているの……?


   ……物質の濃度や含有量など。


   例えば、塩分……?


   ……現在の潮水の塩分濃度より低い、此れは地下水と混合しているからだと思われる。


   へぇ……然うなんだ。


   ……火山の岩漿に含まれる成分の中で塩が卓越して生じる非潮水起源の塩化物泉もあるけれど、此処は海に近いから十中八九古代の潮水が起源だと思うわ。


   そもそも、化石潮水ってなんだい……?


   ……古代の潮水が地層の隙間などに閉じ込められたもの。


   古代の……。


   ……もう少し、詳しく聞きたいというのならば。


   眠くならないかな……。


   ……なるかも知れないわね。


   うーん……。


   ……どうするの?


   聞かせて、欲しいな……。


   然う……分かった。


   頑張って、聞くよ……。


   ……寝たら、放っておくから。


   大丈夫……寝ないから。


   ……。


   ん……メル?


   ……手を、握っていてあげる。


   手を……?


   ……気休め。


   ありがとう……。


   ……。


   ……。


   ……海底に地層が出来る時に。


   うん……。


   礫や砂などある程度大きい粒、或いは珊瑚や貝殻などの堆積物の隙間に潮水が取り残される。


   ……。


   此れを、海底堆積物間隙水と言うのだけれど……其れは、まぁ、良いわ。


   ……海底堆積物間隙水、だね。


   ……。


   多分、今だけだと思う……。


   ……其れで構わない。


   ん……。


   ……取り残された潮水は、通常は其の上に堆積した地層の重さで押し出されるなどして、ほとんどなくなると考えられているのだけれど。


   だけど、なんらかの理由で残る……?


   然う……なんらかの条件が揃うと、堆積当時の潮水が其のまま閉じ込められることになる。
   或いは、成分が砂などに張り付く形で残留することになる。


   ふむ……其れが、化石潮水と呼ばれていると。


   ……理解した?


   つまるところ、古代の潮水が堆積物に挟まれて、今まで残っていたんだね……。


   ……然ういうこと。


   そっか……そんな昔の湯なのか。


   ……其れこそ、ひとのこが生まれるよりも前の。


   となると、大分昔だ……まぁ、気は遠くならないけど。


   ……戻ったら、調べてみたら?


   調べる……?


   ……ひとのこが生まれたのは、何代前の頃か。


   其れは、今の……?
   其れとも、猿人の頃も含む……?


   ……現生人類。


   となると、現在棲息しているひとのこか……忘れなかったら、調べてみよう。


   ……忘れそう。


   はは……。


   ……。


   然し、ひとのこはどんどん増えていくね……。


   ……中央から離れた地域は、今でも其のほとんどが多産傾向だから。


   然うやって、青い星に広がったのか……。


   ……多産ではあるけれど、多死でもある。


   育っても、金に交換させられたりね……。


   ……だからこそ、ひとりの女が何人も産む。


   躰が持つ限り、だろう……?


   ……持たなければ、其処でお仕舞いだもの。


   まぁ、然うだ……。


   ……あの子は今のところ、五人産んでいる。


   いずれ、六人目……若しかしたら、七人目も。


   ……歳の頃を考えれば、未だ産めるかも知れない。


   躰が持てば、だろう……?


   ……他に、快楽を得られる手段がなければ。


   快楽……?


   ……なんでもない。


   そっか……。


   ……。


   夕焼けが、きれいだ……。


   ……ひとのこが増える速度には。


   え……?


   ……脅威を感じる。


   脅威……?


   ……世代交代を重ねて、尚且つ、増えていくでしょう。


   減りも、するけれど……其れでも、増える数の方が多いか。


   青い星の民は、今や月の民の数十倍。数倍だった頃はもう、大分昔のこと。
   若しも、其れらが月に攻め込むようなことがあれば……恐らく、押し返すのは困難。


   ……数だけの問題じゃない。


   ……。


   今の月の民は、戦えない……あっと言う間に、殲滅させられるだろう。


   ……木星と水星で、どこまで抑えられるか。


   難しいかな……火星も、踏ん張っては呉れるだろうけれど。


   ……。


   金星は、分からない……読めない。


   ……クイーンの傍に居るでしょう。


   あいつは、ね……。


   ……。


   ……然うならないことを、願っているよ。


   なったら、なったで……全てが、終わって呉れる。


   ……メル。


   ……。


   メルは……何も、言ってない。


   ……ユゥ。


   此の地のひとのこだったら、月に攻め込むなんてことは考えないだろう。


   ……心が、闇に染まらなければ。


   闇、か……。


   ……きれいな心ほど、闇に染まりやすい。


   賊に、身を落とすような……。


   ……。


   ……一応、然うなった場合のことは考えられているのだろう。


   ええ……一応ね。


   ……歴代が調査を続けてきたのは、其れを更新する為でもある。


   月から眺めているだけでは、実情は分からない……。


   ……。


   ……此れからも、増えていくでしょう。


   此の星は、大きいけれど……溢れたりは、しないのかな。


   ……其の時が怖いのよ。


   ……。


   此方に、目を向けられるかも知れないから……。


   ……然うか、然ういうことも考えられるのか。


   ……。


   長命だから増えない種族と、短命だからこそ増やす種族と……どちらが良いのかな。


   ……より生物らしいのは、短命種族。


   ……。


   ……だと、思わなくもないわ。


   そっか……確かに、然うかも知れない。


   ……あの子供達は、どうなるかしらね。


   育てば、良い……。


   ……。


   ……取り敢えず、月に来なければ其れで良いさ。


   楽観的……。


   ……来て欲しくないだけだよ。


   ……。


   そろそろ、帰るかい……?


   ……ええ。


   分かった……。


   ユゥ。


   ……ん?


   もう一度、くらいなら。


   ……足湯に、来ようか。


   来ても、良いわ……。


   うん……なら、来よう。


   ……ん。


   メル……。


   ……。


   ……。


   ……こんなところで、ばかなの。


   ん、ごめん……。


   ……唇、無駄に熱かったわ。


   メルの唇も、熱かった……。


   ……。


   帰ったら、あたしはごはんの支度をするよ。


   ……私は、調査記録の続きを。


   出来れば、早く寝よう……。


   ……周囲に、雷気を張るのを忘れずに。


   勿論……忘れないさ。


  1日





   ……ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、い。


   ……。


   むぅ、なぁ、やぁ、ここの、たり……。


   ……。


   ……ふるべ、ゆらゆらと。


   ……。


   ふるべ……。


   メル。


   ……。


   外に出ていたのかい?


   ……なんとなく、潮風に当たりたい気分だった。


   気分転換?


   然うとも言う。


   後で、湯浴みをしないといけないね。


   ……躰を拭くだけでも、十分よ。


   肌だけでなく、髪もべたべたになってしまうから。


   ……。


   出来ることなら、したいだろう?


   ……出来ることなら、したいわね。


   夕暮れ時になったら、ふたりで湧湯に行こう。


   ……あの地震の後に湧き出したという?


   海から少し離れている場所だから、潮水は混ざっていないみたいなんだ。
   子供ら曰く、少し熱いけれどなかなか気持ちが良いらしい。


   ……いいえ、少し混ざっているわ。


   調べたのかい?


   私が調べないと思うの。


   いつ?


   あなたが子供達と遊んでいる間。


   言って呉れれば、


   湧湯では採取しただけ、其の場で成分を調べたわけではないわ。


   ……ゆうべ、調べていた水って若しかして。


   湧湯から採取したお湯。


   ……潮水かと思ってた。


   今更?


   ……メル、何も言ってなかったから。


   敢えて、言わなかったの。


   ……ひとりでは危ないよ、若しかしたら獣と遭遇するかも知れないだろう。


   心配は要らないわ、何かあったら呼ぶつもりだったから。


   だったら……最初から、付いていくよ。


   此の辺りには、凶暴な獣は棲息していないようだし。


   若しかしたら、野犬が居るかも知れないだろう?


   然うかしら。


   野犬でなくても、何か居るかも知れない。


   賊?


   居ないとは限らない。


   ……。


   マー……メルは、力が強くないんだ。
   子供達だって、ひとりでは決して行かないと言っていた。
   だから、行くのならあたしを連れて行って欲しい。


   一度調べたから、もう行くつもりはないわ。


   今は行くつもりがなくても、帰るまでに気が変わるかも知れないだろう?


   ……。


   メル。


   ……分かった。


   絶対だ。


   ……はいはい、絶対ね。


   む。


   ……行くことがあったら、付いてきて。


   付いていくから、必ず、声を掛けて。


   ……必ず、掛けるわ。


   うん。


   ……全く、普通のひとのこを演じるのも面倒ね。


   何か言ったかい?


   言ってない。


   ……。


   今の私はただのひとのこ、改めて然う思っただけ。


   然うだよ、水気なんて力は今のメルにはないんだ。


   ……あるけど。


   メル?


   はいはい、然うね。
   あなたにも、雷気なんて力はないものね。


   うん、あるけどないんだ。


   ……うっかり、使わないように。


   ん、気を付けているよ。


   ……使うなら。


   見えないところで、目立たぬように。


   ……。


   其れで湧湯のことなんだけど、行くかい?
   あたしは、メルと夕焼けを眺めながら、ふたりでゆっくり浸かれたら良いなと思っているんだけど。


   ……外なのよね。


   うん、外。


   行かない。


   行かない?


   外で肌をさらすのは、嫌。


   大丈夫だよ、夕暮れ時ならば誰も


   居なくても、嫌。


   なら、何か遮るものを作って


   其れでも、嫌。


   なら……然うだな、此処まで汲んでこようか。
   浸かることは出来なくても、躰を拭くぐらいならば出来る。


   運んでいる間に冷める。


   えと……やっぱり、浸かりに行くのは。


   行くのなら、ひとりで行って。


   ……ひとりで行っても。


   然う然う、ひとりでは危ないのよね。


   然うなんだ、だからふたりで。


   折角だし、子供達と一緒に浸かれば良いのではないかしら。


   子供達と?


   すっかり、懐かれているようだから。


   懐かれているのかな。


   懐いていなければ、肩の上で眠ったりなんかしないわね。


   ……あぁ。


   何よりの証左。


   ……気付いたら、眠っていたんだ。


   其の子は?


   よじ登ってきて……離そうとすると、泣くものだから。


   懐かれて、良かったわねぇ。


   此れでも結構、困っているんだ……メルは、どうしたら良いと思う?


   眠っている間に、親に返す。


   ……。


   今ならば泣かれない。


   ……あ。


   ばかね。


   返してくる。


   もう、遅い。


   え。


   起きてしまったみたいだから。


   ……あー。


   何処の子?


   ……歯がなかった子の。


   あぁ、此の子が……へぇ、やっぱり何処となく似ているわね。


   ……其れ、あたしも思った。


   此の子は何番目?


   ……うん?


   子供、産んだのはひとりではなかったのでしょう。


   んー、何番目かな。
   もっと小さいのを抱いていたから、一番下ではないと思うけど。


   五人だったわよね、産んだのは。


   五人産んで、一番上の子は父親と海に出ているらしい。


   男の子だったわね。


   うん、確か然うだったと思う。


   憶えていないの?


   いや、子供が多過ぎて……前よりも、増えているよね?


   増えているわね。


   あの後、生まれたのかな。


   其れしか考えられない。


   こんなに生まれるもの?


   実際に生まれているのだから、然うなのでしょう。


   ん、何だ。


   親を探しているのかも知れない。


   わぁ、泣くな泣くな。
   今直ぐ、親のもとに


   行かなくても良いみたいよ。


   え。


   あれ。


   どれ。


   此の子の親。


   あぁ。


   迎えに来たのかも知れない。


   然うだったら、とても助かる。


   ……確かに、此の子よりも小さい子を抱いているわね。


   だろう?
   あの子が一番下だと思うんだ。


   ……お腹が膨らんでいるような気がするわ。


   お腹が?


   ……また、生まれるのかも知れないわね。


   六人目ってこと?


   七人目も考えられる。


   七人目?


   双子。


   ふたご……つまり、お腹の中にふたり、子供が入っている。


   あくまでも、可能性のひとつだけれど。


   ふたり……はぁ、ひとのこの腹はすごいな。


   ユゥ。


   ん、何?


   お腹は、大丈夫?


   お腹?


   痛くなってない?


   んー……うん、大丈夫そうだ。


   気持ち悪くは?


   ん、平気だ。


   然う……なら、良い。


   心配して呉れたの?


   一応、ね。


   へへ、ありがとう。


   想像妊娠という症状があるようだから。


   ……は。


   実際は妊娠していないのにもかかわらず、妊娠における兆候が見られる心身症状のこと。


   ……。


   所謂、悪阻の症状が


   ないよ。


   ……。


   ない。


   ……然う。


   うん。


   あったら、調べてみたかったのだけれど。


   ……。


   まぁ、あなたにそんなことがあるわけないわね。


   メルには、


   あるわけないでしょう。


   ……。


   ユゥ?


   ……うん。


   来たわよ。


   ん。


   ……。


   やぁ、此の子を迎えに来て呉れたのかい?
   然うか、助かるよ。いや、此方こそ済まない。


   ……目元が、似ているのかしら。


   離そうとすると泣いてしまって……え、いっそ此のまま預かって欲しい?
   いや、其れは……あたしにも、仕事が……冗談? 然うか、冗談……え、やっぱり本気?


   ……顔の輪郭、髪質。


   見て呉れるお礼に生姜って……あたしには、子供の面倒は見られないよ。
   見たことがないんだ……ん、懐かれてる? だとしても、どうしたら良いか……メルとふたりで?
   いや、メルも仕事で忙しいし……メル、然うだろう?


   ……遺伝情報の保存、そして、発現。


   メル、メルからも言って呉れ。
   流石に、預かることは出来ないと。


   良いわよ、預かっても。


   ……は?


   と言っても、面倒を見るのはあなただけど。


   無理だよ、メル。
   あたしには、子供の世話は無理だ。


   先代……親があなたにして呉れたことをすれば良いのではないの?


   親……て。


   じゃあ、私は仕事に戻るから。


   待って、メル。


   ……。


   あたし達の親は……うん、もう居ないんだ。
   あたし達を、其の、産んで……其れで、暫くは元気だったんだけど。
   え、と……父親? は……食べ物を、食べ過ぎて。


   ……ふ。


   母親は……えーと、本の読み過ぎで。


   ……そんなわけないでしょう、忘れてしまったの。


   え、いや……うん。


   はぁ……仕方がないわね。


   ……メル。


   私達の親は、私達が家を出る少し前に亡くなったの。
   然う、ふたりとも。父親は働き過ぎ、母親は躰を壊してしまって。


   ……。


   家? ふたりが住んでいた家なら未だ、残してあるわ。
   若しかしたら、帰るかも知れないから。ええ、今のところ、誰かに譲る気はないの。


   ……流石、メル。


   此の子はあなたに返すわ。あなたを探して泣き始めてしまったから。
   やっぱり、私達では面倒を見ることは出来ない。ごめんなさいね。


   ……。


   生姜? 貰っても良いのかしら?
   然う。ならば、遠慮なく。ありがとう。


   ……。


   ユゥ、あなたも。


   あ、あぁ……ありがとう、後で生姜茶にして飲むよ。
   此処の生姜はあまり辛くなくて美味しい……と、両親から聞いているんだ。


   ……然う、其れで良い。


   此処に? 然うだな、もう暫くは居るつもりだ。
   然うだろう、メル。


   ……ええ、あと三日くらい。


   うん、湧湯? 其れが未だ、行っていないんだ。
   あぁ、今日の夕暮れ時にでも行ってみようと思っているよ。


   私は


   うん、ふたりで。


   ……。


   ただ、外だから……全身でなく、足だけ浸かるのも良いのかい?
   足が温まるだけでも、全然、違う……成程、其れは良いかも知れない。
   なら、足だけ浸かることにするよ。ね、然うしよう、メル。


   ……あなたひとりで。


   大丈夫、場所は子供らに教えて貰った。
   其れに、メルも知っているみたいだから問題ない。


   ……。


   ん、気を付けて。


   ……ええ、また。


   良かったな、ちび。
   「おふくろさま」が迎えに来て呉れて。


   ……。


   お。


   ……懐かれてる。


   また明日、遊ぼうな。


   ……明日も、遊ぶのね。


   ……。


   まぁ、午前中だけならば良いわ。


   ……はい、分かってます。


   ……。


   ん、何か可笑しかったかい?
   え、両親に良く似てる?


   ……。


   父親も母親の尻に敷かれていた?
   まぁ、あたしもメルの……う。


   弟は姉に頭が上がらないものなのよ。


   ……おとうと。


   ユゥ、私は先に戻るわ。


   あたしも戻るよ。
   じゃあ、また。


   然う然う。


   ……ん?


   体調が悪いようだったら、声を掛けて。
   少しくらいだったら、診てあげることが出来るから。


   ……あ。


   矢張り、お腹に子が居るのね。
   無理はしないで、お大事に。


   ……やっぱり、居るんだ。


   何事もないことを祈っているわ。


   か、躰には気を付けて。


   ユゥ、私は先に。


   あたしも。


   どうせだから、途中まで。


   でも。


   遠慮しないで良いわよ。
   ねぇ、ユゥ?


   んー……じゃあ、途中まで。


   私はお湯でも沸かして待っているわ。


   ……お湯?


   帰って来たら、生姜茶を淹れて。


   分かった。


   じゃあ。


   うん、ちょっと行ってくる。


   行ってらっしゃい。


   行ってきます、メル。