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日記
2025年・10月

  31日





  -こうみょう(仮・現世2)





   ……つ。


   ごめんよ、痛かったかい?


   ん、大丈夫……ごめんなさい。


   ううん……あたしこそ、ごめん。


   ……腫れてる、わよね。


   ん……腫れてるかな。


   ……。


   うん、これで良いかな……貼れたよ、亜美ちゃん。


   ありがとう、まこちゃん……助かったわ。


   ……湿布、二週間分なんだね。


   ん……恐らく、それくらいは掛かる思う。


   そっか……でもさ、骨折じゃなくて良かったよ。
   骨折していたら、治るのに時間が掛かるから。


   ……。


   亜美ちゃん?


   ……軽度の打撲くらいなら、お医者さんに行かずとも自分で対処出来たのに。


   仕方ないさ……若しかしたら、骨折していたかも知れないんだ。


   ……痛みで、大体分かるから。


   だけど、万が一の場合もある。


   ……だとしても、早退までしなくても良かったわ。


   然うかな。


   ……意識は、あったのだし。


   動けなくて、担架で保健室に運ばれたんだろう?


   ……然うだけど、直ぐには動けなかっただけで。


   壁に衝突した時、かなり痛がっていたと聞いたよ。
   表情が歪んで、脂汗をかいていたとも。


   ……表情は歪んでいたかも知れないけれど、脂汗まではかいてなかった。


   痛みで表情が歪んでいるだけでも、早退してお医者さんに行くのは妥当だと思う。


   ……確かに痛かったけれど、戦闘の痛みに比べれば。


   比べては駄目だよ。
   今のあたし達はあくまでも、ただの高校生に過ぎないのだから。


   ……。


   亜美ちゃんも、あたしに良く言うだろ?


   ……言うけど、普段でもあなたは無理をしがちだから。


   念の為、お医者さんに診て貰って欲しいという気持ちは分からなくもないんだ。


   ……学校が終わった後でも。


   いや、あたしが先生だったら直ぐに病院に行って欲しいな。


   ……。


   だって先生は、あたし達がセーラー戦士だなんて知らないんだからさ。


   ……戦闘中ではなく、授業中に負傷するだなんて。


   然ういうこともあるさ。


   ……初めてなの、こんなこと。


   どうしても、避けられなかったんだろう?


   ……暫く何も起こらなくて、感覚が鈍っているのかも知れない。


   平和なことは、良いことなんだけどね……。


   ……バスケットボールって、結構危険なスポーツなのね。


   うん、まぁ、バスケに限らずどんなスポーツでも危ないことはあるけれど。


   ……。


   でもまさか、相手が足を滑らせてぶつかってくるとは思わないからなぁ。
   しかも、シュートの体勢に入っていたんだろ? 流石の亜美ちゃんでも、空中じゃあ避けられないよ。


   ……それでも、躰を捻って。


   いやいや、無理だって……。


   ……。


   亜美ちゃん。


   ……ごめんなさい、愚痴を聞かせてしまって。


   いや、別に構わないよ。
   あたしで良いなら、幾らでも聞くから。


   ……保健室に様子を見に来て呉れた時は嬉しかった。


   あぁ……亜美ちゃんが保健室に運ばれたらしいってうさぎちゃんから聞いた時は、うさぎちゃんが話し終わる前に保健室に走っていたよ。


   ……それで、先生に注意されたのよね。


   うん、された……でも、それだけ心配だったんだ。


   ……分かっているわ。


   中学生の時のように、体育の授業が一緒だったらな……然うしたら、あたしが保健室に連れて行ったのに。


   ……でも、直ぐに来て呉れたから。


   お医者さんにも付いて行きたかった。


   ……部活を休んで、様子を見に来て呉れただけでも嬉しいから。


   部活どころじゃないからね。
   まぁ、買い物はしてきたけど。


   ……。


   とりあえず、軽い打撲で良かった。


   ……うん。


   ただ、利き腕なのが……ね。


   ……。


   利き腕が使えなかったら、かなり不便だと思うんだ。


   ……大丈夫よ、こんなこともあろうかと左手も使えるように練習していたから。


   然うなのかい?
   なら、少しは良いかな。


   ……問題があるとすれば。


   うん。


   ……右手のように動かすには、もう少し練習が必要なこと。


   え、と……。


   ……右手は無理をしなければ使えないこともないから、日常生活はなんとかなると思うの。


   んー……でもなぁ、やっぱり不便だと思うんだよなぁ。
   痛みが全くないわけではないだろうし……ちょっとした弾みでも、痛いと思うし。


   ……あまり、


   あたしが心配しないでいられると思うかい?


   ……思わない。


   ねぇ、亜美ちゃん……良かったら、なんだけどさ。


   ありがとう、その気持ちだけ受け取っておくわ。


   うん、未だ言い終わってないかな。


   ……まこちゃんのことだから。


   治るまで、お世話をさせて欲しい。


   ……然う言うと思って。


   お世話と言っても軽くで、ずっと付きっ切りというわけではないから。
   ごはんを作ったり、着替えを手伝ったり、湿布を張り替えたり……あとは、えと。


   ……私の部屋に、泊まったり?


   あたしの部屋に来て欲しいとは、言えないかな……。


   ……行けないこともないわ、学校を休むわけではないのだし。


   自分の部屋の方が良いかなぁって。


   ……私はどちらでも良いの。


   なら……亜美ちゃんのお母さんが居る時は、とりあえず、なしにして。


   ……居ても、私は構わない。


   いや、お母さんも心配していると思うから。


   ……するかしら。


   するよ……亜美ちゃんのお母さん、亜美ちゃんが思う以上に亜美ちゃんのことを心配していると思うんだ。


   ……どうして分かるの?


   それは……。


   ……まこちゃんの勘?


   うん、まぁ、そんなところ……。


   ……分かった、母が家に居る時はなしで。


   あとは……ノート、書ける?


   書けそうになかったら、左手で書くわ。


   ……書けそう?


   読めるくらいの字は書けると思うの。


   ん、そっか。


   ……いざとなったら、暗記すれば良いし。


   そんなこと、出来るの?


   最近、出来るようになったの。


   最近……実は、結構前から出来るようになっていたとか。


   ……どうして?


   いや、なんとなく然う思って……。


   ……でも、授業一日分は未だ難しいわ。


   一時間分だけでもすごいと思うよ……。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   なんだい?


   ……若しかしたら、清書をお願いするかも知れない。


   清書……ノートの?


   ん……右手で書けたとしても、字が歪んでしまうかも知れないから。


   任せて、何時間分でも清書するよ。
   清書することで、復習にもなるかも知れないし。


   ……。


   ならない、かな。


   ううん……なると思う。


   うん、なら一石二鳥だ。


   ……清書と、復習?


   亜美ちゃんも然う思うだろう?


   ……うん、思う。


   じゃあ、決まりだ。


   ……ありがとう、まこちゃん。


   出来ることがしたいんだ、だからやらせて呉れてありがとう。


   ……お礼を言うべきは、私なのに。


   ははは。


   ……もぅ、まこちゃんは。


   あたしは、亜美ちゃんの為ならなんでもしたいんだ。


   ……ん。


   あたしの……大切な、大切な恋人。


   ……二度も、言わなくても。


   ふふ……。


   ……。


   あ……服、着る?


   ……ひとりで。


   手伝えることがあったら言ってね。


   ……うん、その時は言うわ。


   ん。


   ……。


   それで、早速なんだけど。


   ……うん?


   夕ご飯、どうしようか。


   ……一応、サンドイッチは買ってきたんだけど。


   サンドイッチか……今夜は、お母さんは帰ってくる?


   うん……今日は日勤だと言っていたから。


   然うか……なら、何かひとつだけでも作って帰ろうかな。


   あの、まこちゃん。


   ん、なに?


   折角だから……一緒に。


   一緒に食べても良いのかい?


   ……わざと言っているの?


   わざとって?


   ……一緒に食べて。


   ふふ……うん、分かった。


   ……もぉ。


   お母さん、何時頃帰ってくるかな。


   分からないけど……日が変わる前には帰ってくると思うわ。


   夕ご飯は家で食べる?


   どうかしら……。


   一応、お母さんの分も作っておこうかな……ん、電話?


   ……母からかも。


   出ようか?


   ううん、大丈夫よ。


   ん、そっか。


   ……はい、もしもし。


   ……。


   診断は右肩の軽度の打撲、医師からは暫くは無理をせずに安静にするようにと……ええ、帰りはいつも通りで大丈夫よ。
   夕ご飯も、ちゃんと食べるわ……カップラーメン? それでも良かったけれど、帰りにサンドイッチを買ってきたの。


   ……今日は寒いから、サンドイッチにも合うシチューを作ろうかな。


   え、まこちゃん?


   ……うん?


   今日は、来ていないけれど……まこちゃんがどうかしたの。


   ……あたし?


   少し話したいと言われても、今日は来ていないから。
   まこちゃんにも、都合があって……部活もやっているし、帰ったら家のことだってやらなければいけない。
   だから、私にばかり時間を使うことは……ええ、然うよ。まこちゃんだって、忙しいの。


   ……亜美ちゃんばかりに、か。


   本当に居ないわ……若しかしたら買い物帰りに少し寄って呉れるかも知れないけど、今は居ないから。
   とりあえず、私の怪我は大丈夫……だから私のことは気にしないで、帰りはいつでも……遅くなるようなら、それはそれで構わないわ。
   帰りは、タクシーでしょう? 心配なんてしてないけれど、一応気を付けて。


   ……。


   寄って呉れるようなことがあったら、伝えておくから……そろそろ、仕事に戻って。
   休息時間ならば、ちゃんと休んだ方が良いわ……うん、それじゃ。


   ……亜美ちゃ


   来て呉れたらちゃんと伝えると言っているじゃない……じゃあ、切るから。


   ……。


   はぁ……。


   あの……お母さん、なんて?


   その前に……居ないなんて言って、ごめんなさい。


   いや……別に、構わないけど。


   ……母がまこちゃんに宜しく、と。


   うん、そっか。


   ……。


   あの……亜美ちゃん?


   ……居たら、代わって欲しいと。


   ……。


   ごめんなさい……嘘を吐いて。


   大丈夫……あたしは気にしてないよ。


   ……ありがとう。


   うん……。


   ……はぁ。


   ねぇ、亜美ちゃん……夕ご飯のことなんだけどさ。


   ……サンドイッチ。


   も、良いんだけれど……寒いから、シチューを作ろうと思っているんだ。


   ……シチュー?


   材料も、買ってきたし……どうだろ。


   ……。


   サンドイッチとも合うと思うんだ。


   ……なんのシチューを作るの?


   粗挽きソーセージと豆のトマトシチュー。
   ね、サンドイッチとも合いそうだろう?


   ……。


   大丈夫だよ、あたし達二人分しか作らないから。
   でさ、食べ終わったら、きれいに片付けるよ。


   ……ごめんなさい、気を遣わせてしまって。


   ううん、別に良いさ。


   ……くだらない嘘なんて吐くから。


   色々、思うことがあるんだろ……?


   ……まこちゃん。


   だから、気にしないで良い……。


   ……うん。


   オリーブオイルは、あったよね?


   ん、残っているわ。


   それ、使わせて貰っても?


   使って、母とふたりだけだとあまり使うことがないから減らないの。


   なら、今日はたっぷり使わせて貰おうかな。


   ……。


   あ、大丈夫かい?


   ん……大丈夫。


   やっぱり、不便だろう?


   ……左手、もっと使えるようにならないと。


   それも良いけど……あたしのことも、使って欲しいな?


   使うだなんて……。


   今夜は、お風呂に入らない方が良いんだよね?
   良かったら、躰を


   ありがとう、でも大丈夫よ。
   お風呂には入れないけれど、シャワーなら使えるから。


   ひとりで大丈夫かい?
   右肩が使えないと、何かと不便だと思うんだ。


   なんだったら……今日一晩くらい、入らなくても。


   だけど、さっぱりしたいだろう?


   ……。


   少し手伝うよ、外に居るから必要な時は声を掛けて。


   ……いつ、入るの。


   食べ終わって、片付けが終わってからでどう?
   それぐらいなら、良い頃合いだろう?


   ……まこちゃんは、いつ帰るつもりなの?


   亜美ちゃんのお母さんが帰ってくる頃までには帰るつもりだよ。


   ……。


   遅くなりそう?


   ……多分。


   そっか、ならそれまで。


   ……。


   それとも、もっと早く帰った方が良いかい?


   ……意地悪。


   ん。


   ……。


   亜美ちゃん……。


   ……まこちゃんのお部屋に行きたい。


   来るかい……って、言いたいところだけど。


   ……今日は我慢するわ。


   あたしも、我慢する……。


   ん……まこちゃん。


   ……肩の怪我が治るまで、誠心誠意、亜美ちゃんに尽くしたいと思います。


   ……。


   ふふ……。


   ……もう、ばか。


   ごめん……。


   ……。


   ……。


   ……まこちゃんの唇、熱いわ。


   亜美ちゃんへの想いが、込められているからね……。


  30日





   ……いや、だから。


   うん……?


   ……あー。


   まこちゃん……?


   ……。


   おはよう……目が覚めた?


   おはよ……うん、覚めた。


   声が聞こえたような気がするのだけれど、何かあった?


   うん……多分、寝言だと思う。


   寝言?


   自分の寝言で、目が覚めた。


   ……そういうこと、良くあるの?


   いや、初めてかな……。


   ……夢でも見てた?


   なんか、変な夢を見ていた気がする……。


   変な……怖い夢ではなくて?


   怖い夢では、なかったかな……。


   ……どんな内容か、憶えている?


   はっきりとは憶えていなんだけど……亜美ちゃんが見たことのないカードでしゅっと改札を通ってた。


   見たことのないカード……その夢に出ていたのは私だけで、まこちゃんはいないの?


   あたしも、いたかな……やっぱり、カードでしゅっと改札を通っててさ。
   見たことも聞いたこともない筈なのに、あたしはそのカードを当たり前のように使っているんだ。


   それはどんなカードなの?


   どんな?


   見た目……例えば、大きさはどれくらい?


   んー……テレホンカードよりは大きかったかなぁ。


   しゅって、なに?


   え、と……そのカードを改札の一部にしゅっとかざすとゲートが開くんだ。


   改札を通るのに切符ではないのね。


   うん、切符じゃなかった。


   そして、そのカードは切符のように改札に挿入するわけではない。


   うん、しゅっとかざすんだ。


   ……もしかして、前もってそのカードに入金しておくのかしら。


   カードに?


   そうだとしたら、とても便利だけれど。


   ……そういや、残りの金額が表示されていたような。


   だとしたらやっぱり、前もってお金を入れておくんだわ。


   どうやってカードにお金を入れるんだろ。


   券売機……かしら。


   券売機……。


   或いは、クレジット機能がついているのかもしれない。


   クレジット?


   クレジットカードの機能を持たせるの、そうすればカードにお金を入れる必要はなくなるから。
   とは言え、引き落とし用の口座にはお金を入れておかなければいけないけれど。


   ……。


   私達は、今の私達だった?


   うん、多分。


   となると、前もって入金しておくタイプかしら……クレジットカードの申し込み資格は18歳以上だし。


   亜美ちゃんはクレジットカード、持ってる?


   ううん、私は持っていないわ。


   お母さんは持ってる?


   持ってる、母は現金ではなくクレジット払いをすることが多いの。


   そっか。


   入金しておく手間はあるけれど、その都度わざわざ切符を買う必要はないから、そのカードが現実世界にもあったら便利ね。


   うん、便利そうだった。
   でも、もしかしたらカードじゃないかもしれない。


   カードじゃない?


   なんだろ、カードみたいな形なんだけど……なんとなく、厚みがあったような気する。


   ……厚み。


   亜美ちゃん、改札を通ってからそれでなんかしていたような……そうだ、画面があった。
   その画面に指で触って、何かしていたような気がする……。


   画面……端末、とか。


   たんまつ……?


   ……携帯端末かしら。


   けいたい、たんまつ……。


   ……いずれにせよ、今の世界にはないアイテムだわ。


   うん、ないよね……そう思うと、不思議な夢だったなぁ。
   熱を出して、あんな夢を見たのは初めてだよ。


   ……もしかしたら、未来の夢なのかも。


   未来……もしかして、30世紀?


   いえ……もう少し、近い未来かもしれない。


   近い未来……。


   ……それこそ、20年はかからない。


   それは、近いなぁ。


   ……あぁ、でも。


   ん?


   そんな未来は、この世界には来ないかもしれないわ。


   ……。


   うさぎちゃん……クイーンが即位したら。


   ……分からないよ。


   ……。


   もしかしたら、この世界が続くかもしれない……ただ、治めるひとが変わるというだけで。


   治める者が変われば……少なくとも、この国の形は変わる。


   国の形……?


   ……それは、それまでの世界が変わると言っても過言じゃない。


   そこまで……?


   クイーンが統べるということは、選挙で選ばれた国民の代表が政治を行うシステムではなくなる。
   クイーンとその一族という王族が出現することで明確な身分社会になり、国民主権でなくなる可能性は高い。
   ある意味、江戸以前の世界に近いかもしれない。


   江戸……えと、上様?


   ……江戸よりも、ずっと広い世界を支配する。


   世界……。


   ……今でも、独裁のような国はあるけれど。


   もしも、そうだとしても……あのカードみたいなのは、作られるかもしれないよ。


   ……クイーンが、これ以上の技術進化を望まなければ。


   それを、うさぎちゃんが望むかな……。


   ……30世紀には、そういったものがないように思えるの。


   ……。


   ……考え過ぎかもしれないけどね。


   そこまでは、しないと思うけどな……。


   ……そう、よね。


   何か思うところでもあるのかい……?


   ……月の世界。


   月……。


   ……あの世界は、もうずっと長い間、停滞していたように思える。


   ……。


   朝から、ごめんなさい……考えすぎよね。


   ……ううん。


   まこちゃんが見た夢の世界、私も見てみたいわ。


   見せてあげることは出来ないけど……また、何か思い出したら。


   ん……聞かせて。


   ……うん。


   それで……気分と体調はどう?


   不思議な夢は見たけれど、気分は悪くない。
   体調も、昨日よりはいいよ。


   躰は重くない?


   うん、重くはないかな。
   いつも通りではないけど、それでも昨日よりはずっといい。


   そう、とりあえず良かった。


   熱は、どうだろ。


   さっき額に触った時は、下がっていたみたいだったけど。


   計ってみるよ。


   ん……はい、体温計。


   ありがとう。


   どういたしまして。


   そういえば亜美ちゃん、体温計がある場所良く分かったね。


   救急箱が丁度、見えるところにあったから。
   それで、まこちゃんのことだからちゃんとしまってあると思ったの。


   あぁ、そっか。


   もしも見つからなかったら、着替えと一緒に家から持ってこようと思っていたのだけれどね。


   着替え……そうだ、持ってきたんだね。


   うん、買い物に行った時に。


   いや、亜美ちゃんは一度決めると行動するのが早いなぁ。


   私に出来ることをしたかっただけ。


   でも、なかなか出来ないと思うんだ。


   そうかしら……うさぎちゃんもレイちゃんも美奈子ちゃんも、そしてまこちゃんも。
   私よりもずっと、行動力があると思うわ。


   ……。


   まこちゃん……?


   ……でも、あたしは亜美ちゃんに敵わないと思う。


   え……?


   ううん……やっぱり、亜美ちゃんはすごいなって。


   ……そんなこと、ないわ。


   そんなことあるよ。


   ……まこちゃん。


   そんな亜美ちゃんのことが、あたしは好きだな。


   な。


   ふふ。


   ……冗談?


   では、ないよ。
   本当に好きなんだ。


   ……。


   ん、亜美ちゃん?
   もしかして、照れてる?


   まこちゃんが……その、急にそんなことを言うから。


   あはは、亜美ちゃんかわいいなぁ。


   ……もぅ。


   ね、元気になったと思うだろ?


   ……。


   あたし。


   ……確かに、昨日よりは軽口を叩けるようにはなっているけど。


   調子に乗ったりね。


   ……だからって、完全に治ったとは言えません。


   言えない?


   言えない、だからあまり調子に乗らないで。


   はい、ごめんなさい。


   ……。


   今、何時だろ。


   ……まだ、6時前。


   6時前か……亜美ちゃん、起きるの早いね?


   ……ゆうべは寝るのが早かったから、その分、早く目が覚めたの。


   眠れた?


   ん……一応。


   そっか、良かった。


   ……。


   もしかしてだけど、夜中に何度か様子を見てくれたりした?


   ……気付いていたの?


   そんな気がしたんだ、やっぱりそうだったんだね。


   ……。


   ありがと、亜美ちゃん。


   ……したかったから。


   それでも、ありがとう。


   ……。


   今は……。


   ……今は、朝ごはんの支度をしようと思って。


   朝ごはん?


   ゆうべは泊ることになって、作り置きをしなかったから。


   お勉強じゃなくて?


   お勉強はいつでも出来るもの。


   ……そうかもしれないけど。


   熱を計り終わったら、また寝ていて。
   出来たら、声をかけるから。


   あたしも


   ううん、まこちゃんは休んでいて。


   ……でも。


   今朝は私に作らせて欲しいの。


   ……うん、分かった。


   ん。


   ……。


   まこちゃんは、ゆうべは良く眠れた?


   うん、眠れたと思う。
   重苦しかった躰も、大分すっきりしているし。


   無理はしないでね、ぶり返してしまうかもしれないから。


   うん、無理はしないよ。


   食欲はどう?


   ある、かな。


   お腹の具合は?


   ん、空いてるかも。


   ふふ、そう。


   亜美ちゃん、朝ごはんは何がいい?


   ……え?


   今朝はやっぱり、あたしが作るよ。


   ううん、今朝は私が。


   でも、昨日も作ってもらったしさ。


   ……。


   亜美ちゃんはごはんが出来るまで、お勉強を……。


   ……私が作ったものでは、いや?


   ……。


   いや……?


   そんな……いやなわけ、ないじゃないか。


   なら、お願い……今朝は私に作らせて。


   亜美ちゃん……。


   ……お粥でいい?


   え、えと……。


   ……それとも、他のものがいい?


   ん……出来れば、お粥よりも白米がいいな。


   白米?


   う、うん……。


   白米……それなら、何かおかずを作らないと。
   そうね、何がいいかしら……。


   あの、亜美ちゃん……やっぱり、あたしが。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   な、なんだい?


   簡単なものになってしまうけれど、それでもいい?


   簡単なもの……て?


   ぱっと思いついたのは、鶏そぼろと豆腐の卵とじ。


   え、それは簡単ではないような。


   鶏ひき肉を炒めて豆腐と一緒に卵でとじるだけだから、すぐに出来ると思うの。
   多分、20分もあれば作れるわ。


   ……時間、大丈夫かい?


   大丈夫よ、心配しないで。


   朝の時間は、あっという間になくなるし……。


   だって、まだ6時前だもの。


   ……6時前。


   そう、6時前。
   今から作り始めれば、6時半前には作り終わるわ。


   ……それなら、まぁ。


   でしょう?


   じゃあ……任せちゃうけど、いいかい?


   うん、任せて。


   ……。


   まこちゃん、しょうがを入れてもいいかしら?


   うん、いいよ。


   ん。


   ……そろそろ、いいかな。


   熱?


   うん……。


   ……どう?


   えと……36度9分。


   37度は、切ったけれど……。


   うん、平熱だ。


   一時的に下がっただけで、また上がることはあるから。


   ……ねぇ、亜美ちゃん。


   なに。


   今日は学校に行くんだろう?


   まこちゃんの体調次第。


   あたしならもう、大丈夫だよ。
   だから、一緒に。


   ……。


   ほ、本当に大丈夫だよ……?


   熱を出した後で、躰は怠くない?


   良く寝たからだと思うんだけど、本当にすっきりしているんだ。


   ……。


   今日は午前中で終わりだし、明日は休みだし。
   ねぇ、いいだろう?


   ……大事を取って、今日もお休みした方がいいと思うの。


   ……。


   ……無理はしないと、約束してくれる?


   しない、絶対にしない。


   ……。


   亜美ちゃん……。


   ……朝ごはんを食べてから、決める。


   朝ごはん?


   ……食べられなかったら、お休みして欲しい。


   分かった、じゃあそうしよう。


   ……。


   よし、そうと決まれば着替えようかな。


   横になっていなくて、平気?


   ん、へーき。


   ……。


   洗濯は、学校から帰ってきたからだな。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   ん、なんだい?


   ……躰の奥はもう、熱くない?


   躰の奥?


   ……熱は、籠っていない?


   ん……うん、大丈夫そうだよ。


   ……もしも、また。


   その時は、無理しない。
   また、ゆっくり休むよ。


   ……絶対よ。


   うん、絶対だ。


   ……。


   ……亜美ちゃん?


   ん……ごめんなさい、何でもないわ。


   うん……。


   ……ごはん、すぐに作るから。


   ん……ありがと。


  29日
   今日は先代のちょっとした短い話です。




  -先代、令和の時代に来る。





   なぁ、マーキュリー。


   ……なに。


   先刻から四角いのが沢山歩いて、いや、走っているのか?
   まぁ、あたしよりは遅いが、あれはなんだ?


   ……自動車、ひとのこを乗せて移動する乗り物。


   ふぅん、じどーしゃか。
   な、あれは中のひとのこが走ってるのか。


   ……エンジン。


   えんじん?


   ……自動車の動力源であり、心臓部でもあるそうよ。


   ふぅん、つまり其のえんじんとやらが、あれを走らせているんだな。


   ……あなたのわりには、理解が早いわね。


   今日のあたしはいつもと違うんだ。


   ……いつも然うであって欲しいのだけれど。


   じどーしゃか、まぁ悪くはないな。


   ……別に残念ではないけれど、あなたより速いわよ。


   は、まさか。あたしの方が速いに決まってる。
   見ろ、あんなにとろとろしてるぞ。あれじゃ、歩いたって負けないな。


   ……其の気になれば、あの十倍以上の速度を出せる。


   十倍?


   十倍。


   へぇ、其れはなかなか面白い。


   あなたの足よりも、ずっと、速い。


   まぁ、少し速い程度だな。
   なぁ、あれはどうやったら乗れるんだ?


   ……乗るだけならば、タクシーかバスでも。


   たくしー? ばす?


   タクシーは、見合った代金さえ払えば何処へでも連れて行って呉れるらしいわ。
   バスは予め決められたルートを走行し、停留所と呼ばれる場所で乗り降りする。
   代金は決められた分だけ払えば良い。


   るーと?


   路線とも言うみたいね。


   ろせん……うぉ、なんかでかい四角いのが来たぞっ。


   あれがバス。
   あなたよりもでかいわね。


   はぁ、あたしよりずっとでかいな。
   ひとのこも沢山載ってるな。


   バスを含め、自動車は此の時代の移動手段として使われているそうよ。
   まぁバスの場合は、人手不足で運転手が足りず、路線が廃止されたり減便されたりしているらしいけれれど。


   ひとでぶそく?


   運転手になるひとのこが足りていないこと。


   こんなに、わさわさ居るのにか?
   月よりも多くないか、此れ。


   拘束時間が長く且つ休日が少ないバスの運転手は若者に人気がないらしいわ。
   あと多く感じるのは密度の問題。つまり、観光客と呼ばれる存在が多い都市部だけの現象。


   ふぅん、面白そうなんだけどな。
   あんなでかいのを動かすなんてさ。


   昔の子供にとっては、憧れの仕事のひとつだったみたいだけれど。


   だよなぁ、あんなでかいのを動かすんだもんなぁ。
   ちっこいのを動かすより、遥かに楽しそうだ。


   ……あなたが運転したら大惨事になるでしょうけど。


   なぁ、じどーじゃはあたしでは動かすことは出来ないのか?


   公道で運転するには免許が必要。


   めんきょ?


   免許。


   其れは、どうやって……うぉっ。


   なに。


   見ろ、マーキュリー。なんだか長いのが動いているぞ。
   あれは、なんだ……おいおい、まだ途切れないぞ。どうなってるんだ。


   あれは、電車。


   でんしゃ?


   あれもまた、ひとのこの移動手段のひとつ。


   あれにもひとのこが乗っているのか?


   然う、乗っているの。
   あなたの目なら此処からでも見えるんじゃない?


   どれ……あぁ、確かに乗っているな。
   なんだか喰われて腹の中に居るみたいだ。


   ま、然う見えなくもないでしょうね。


   あれは、どうやって動いてるんだ?
   やっぱり、えんじんか?


   電気……雷気の力で動いているの。


   はっ、雷気で?


   然う、雷気。
   因みに自動車のエンジンを動かしているのは従来はガソリンと呼ばれる石油製品だったのだけれど、近年では雷気で動かすことも増えたみたいね。


   はぁ……ということは、木星の民が使われているのか?
   でんしゃだったか、あれだけのものを動かすとなると……あたしならひとりで良いが、民達だと十人で足りるか。
   いや、全く足りないかも知れないな……五十、いや百か。


   此の時代には木星の民は居ない。


   ……居ない?


   居ない、だから雷気は発電所というところで作られているの。


   ……はつで?


   あなたでは数え切れない程の木星の民分の雷気が其処で作られる。
   今、こうしている間にも作られているわ。止まることはないの。


   ……。


   空に線が走っているでしょう、あれは雷気が伝わる線。


   ……木星の民は、使われていないのか。


   ええ、此の時代では必要ないの。


   ……然うか、良い時代だな。


   一概には言えないけれど……まぁ、苦役からは解放されているから。


   ……。


   ところで、ジュピター。


   ん、なんだ。


   此のひとだかり、どうにかして呉れないかしら。
   いい加減、鬱陶しいのだけれど。


   あたしもどうにかしたいんだが、しても良いものなのか?
   中には手を伸ばしてお前に触ろうとする奴も居て、うっかり圧し折ってしまいそうなんだけど。


   そもそもどうしてこんなに集まってきているの。
   スマホの操作をするのに気が散って仕方ないわ。


   分からない。


   物珍しいことなど、ひとつもないのに。


   物珍しいと言えば、変わった衣を着ているよな。
   しかも、皆がばらばらで、統一性がひとつもない。


   然うかしら、何処かしら似通っているところもあるわよ。
   おまけに顔も似たり寄ったりで、血の繋がりでもあるのかしら。


   顔は最初から区別がつかない。


   でしょうね。


   な、先刻からしゃしんしゃしんとうるさいんだけど、しゃしんってなんだ。
   すまほをあたし達に向けている奴も居て、なんだかすごく不快なんだが。


   ジュピター。


   なんだい、マーキュリー。


   鬱陶しいから、雷気で壊して。


   応、分かった。


   言っておくけれど。


   壊すのは、あいつらが持っているすまほだけだな。


   ええ、然うよ。


   良し、少し待ってろ。


   直ぐにね。


   ……爆ぜろ。


   ……。


   うん、壊れたな。


   ご苦労様。


   な、ご褒美は


   此のあんみつとやらが食べてみたいわ。


   あんみつ?


   たい焼きでも良い。


   たいやき?


   取り敢えず、移動しましょう。


   応、然うだな。
   どっちに行けば良い?


   向こう。


   ん、分かった。


   此のスマホ、月に持ち帰って改良したいわ。


   良いんじゃないのか、持って帰っても。


   出来れば、もうひとつあれば良いのだけど。


   もうひとつだな、待ってろ……ほれ。


   何故か、あなたに持たされていたものね。


   お前に贈り物だ。


   気付いたら、持っていただけなのだけれど。


   あたしが持っていても、使えそうにないからな。


   無理でしょうね、あなたの頭では。


   だから、お前に。


   貰ってあげるわ。


   応、貰って呉れ。


   其れにしても、騒がしくて落ち着かない場所ね。


   ひとのこが沢山居るからな。


   建物も、無駄に多いし。


   なんだか息が詰まるな。


   月宮よりはずっと良いけれど。


   其れは、然うだな。


   ……。


   ん、どうした?
   若しかして、疲れたか。


   ……此処は、色んな言語が飛び交っているのね。


   言語?


   月より多いわ。


   然うなのか?


   私達が話す古代月語を解せる者は居ないみたいだけれど。


   古代月語?


   此の時代では然う呼ぶらしいわ。
   と言っても、然う呼んでる者は今の所居ないようだけれど。


   へぇ、其れは知らなかったな。


   本来ならば、私達が来る筈のない時代だもの。


   此の時代は、一体いつなんだ?


   私達の世界が終わって、新しく生まれた世界の未来の姿。


   はぁ、其れはまた。


   見て、ジュピター。


   ん?


   月。


   ふぅん、此の時代にもあるんだな。


   なくても良いのに。


   あの月には誰か居るのか?


   居ないみたいね。


   は、其れは良かった。


   本当に。


   然し、色んな奴が居るな。


   然うね。


   木星の民が居ないということは、水星の民も。


   居ない。


   他は?


   勿論、居ない。


   然うか、じゃあやっぱり此処はあたし達が居るべき場所ではないんだな。


   どうして然う思うの?


   なんとなく、然う思う。
   マーキュリーは?


   癪だけれど私も然う思うわ、興味深くはあるけれど。


   あんみつを食ったら帰ろう。


   帰れるのならばね。


   帰れないのか?


   さぁ、どうかしら。


   ま、なるようになるだろう。


   ええ。


   ところで、マーキュリー。


   なぁに。


   こいつらが話しているのは古代月語ではないんだろう?


   ええ、然うよ。


   聞こえてくる言葉、知らない筈なのにどういうわけか分かるんだ。


   ご都合的だから。


   ごつごうてき?


   つまり、深くは考えるなということ。


   ふぅん、まぁ良いけれど。


   日本語、英語、中国語にスペイン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ベトナム語、韓国語……。


   そんなにあるのか?


   もっとあるらしいわよ。


   気が遠くなるな。


   今も尚、青い星は多様なままなのでしょう。


   そんなに言葉があって、分かり合えるのか?


   ま、無理でしょうね。


   然うだよなぁ。


   因みに私達が解しているのは日本語だけよ。


   然うなのか?


   何を言っているのか、理解出来ない言語も聞こえてくるでしょう。


   言われてみれば……然うだな。


   それも、ご都合的。


   なんだか、いい加減だな。


   仕方がないわ、賢くないのだから。


   其れは誰の都合なんだ?


   さぁ?


   知らないのか?


   知らないし、どうでも良いわ。


   お前が然う言うのなら、あたしもどうでも良いな。


   其れよりも、早くあんみつが食べたいの。


   応、食おう食おう。


   そろそろ、あんみつのお店が見えてくる筈なのだけれど。


   楽しみだ





   あ、見つけた!


   どこ?





   ……あ?


   あぁ。





   向こう、あからさまに怪しいふたりが歩いてるよ!


   急ぎましょう!





   なんだ?


   どうやら、見つかってしまったみたいね。


   誰に。


   あの子達の生まれ変わりとやらに。


   あの子達……ちび達?


   然う。


   生まれ変わり……と、言うことは。


   考えなくても良いわ、今は。


   分かった、ならば考えない。


   ……。


   ふむ……似てるな。


   あんみつだけは、食べたいのだけれど。


   食えば良いさ、あいつらと一緒に。


   許されれば、ね。


   ごつごうてき、なんだろう?


   其の筈だけれど。


   なら、食えるさ。


   相変わらず、楽観的ね。


   良いだろう?


   ま、悪くないわ。





   ジュピターとマーキュリーだな!
   やっと見つけたよ!


   とりあえず、私達と一緒に来て。
   あなた達は、ここではあまりにも目立ちすぎるから。





   お、来たな。


   名はなんと言うのかしらね。


   ユゥとメルじゃないのか?


   生まれ変わっても其の名だったらどうかしているわ。


   まぁ、然うか。


   先ずは、然うね。


   名を、聞いてみようか。


   どうせ、忘れてしまうと思うけれど。


  28日





   ……。


   ……でんき、けすの?


   ん……。


   ……びっくりした?


   ごめんなさい……起こしてしまった?


   ううん……あみちゃんのせいじゃないよ。
   あさから、ずっとねてるから……さ。


   ……。


   でんき、けす……?


   ん……もう、寝ようと思って。


   おべんきょうは、もういいのかい……?


   うん……今日はもう、おしまい。


   あたしのことなら、きにしないでいいよ……あかるくても、ねられるからさ。


   ううん……暗い方が、眠りの質がいいから。


   ねむりの、しつ……?


   ……母が教えてくれたことのひとつなの。


   あかるいと、ねむりのしつがわるくなるの……?


   明るい光は、睡眠ホルモンの分泌を抑制するんだって。


   すいみん、ほるもん……?


   メラトニンのこと……それが分泌されることで、睡眠を促してくれるの。


   へぇ、そうなんだ……ほるもんっていうから、おにくかとおもった。


   お肉?


   みなこちゃんがたまに、おとうさんからおさけのおつまみのほるもんをもらうって……それがまた、おいしいらしい。


   あぁ、内臓肉のことね。


   ……ないぞうにく。


   もつとも言うけれど。


   もつ……そっちのほうが、ききおぼえがあるなぁ。


   もつ鍋が好きだと言っていたわ。


   あたし、もつなべ、というより、もつもたべたことがないんだけど、おいしいのかなぁ。


   私もないから、分からないのだけれど……美奈子ちゃんにとっては、美味しいのだと思う。


   こんど、つくってみようかなぁ……つくったら、あみちゃん、たべてくれる?


   ……。


   あ、たべたくない……?


   ……ううん、そんなことはないわ。


   でも、やっぱりたべたくない……?


   ……まこちゃんが作ったものなら、食べられると思う。


   うん……?


   ……生臭いと、聞くから。


   なまぐさい……それは、ちゃんとにおいをとってやらないとだめなやつだ。
   にざかなみたいに、しょうが……にくなら、にんにく……ながねぎも、いいかもなぁ。


   ……作り方、調べてみる?


   うん、しらべてみたい……だからこんど、ほんやさんにつきあってもらってもいい?
   あみちゃんとふたりでしらべれば、まちがいないとおもうんだ……。


   うん……私で良ければ。


   ふふ、ありがと……。


   これからお鍋の季節だから、そういった本も多く並ぶと思うの。
   だから何冊か読んで、比べてみるのもいいかもしれない。


   そっか……ざいりょうだけでなく、つくりかたもちがうかもしれないもんな。


   もつ鍋と言えば……九州。


   ……きゅうしゅう?


   確か、そうだったと思う。


   きゅうしゅう……きゅうしゅう、か。


   でも、どこの県までかは……福岡、だったかしら。


   ふくおか……ふくおかといえば、はかたらーめんだ。


   博多ラーメン?


   たしか、とんこつ……あみちゃん、とんこつのかっぷらーめんはたべたことない?
   さいきん、よくみかけるんだけど……。


   豚骨はないわ。


   ん、そっか……まぁ、あたしもないんだけど。


   あまり、馴染みがなくて。


   そうだよね……あたしも、あまりたべたいとはおもわないよ。


   ……もつ鍋って、豚骨の味なのかしら。


   ん、どうだろ……そもそも、とんこつのあじってなんだろ?


   豚骨……豚の骨?


   ぶたのほね……ううん、ますますわからないや。


   とにかく、調べてみましょう。


   そうだね……まずは、しらべてからだ。


   あ。


   え?


   美奈子ちゃんに聞けば分かるかも。


   ……あぁ。


   どうする、聞いてみる?


   うーん……きいたら、おしかけてきそうで。


   ……。


   そんなこと、ない……?


   ……ありそう。


   だろ……だから、まずはほんでしらべよう。


   うん……そうしましょう。


   みなこちゃんがくるとなったら、うさぎちゃんも、れいちゃんも、きそうだな……。


   ……それはそれで、楽しいと思うの。


   たのしいけど……あたしとしては、あみちゃんとふたりだけでつつきたい。


   ……つつく?


   あ、きいたことない……?


   ……お鍋を食べること?


   そう……おなべをたべることを、おなべをつつくって、いうんだ。


   つつく……面白い表現だわ。


   ふふ……おもしろくて、よかった。


   ……まこちゃんも、ご両親と。


   ん、なに……?


   ……ううん、なんでもない。


   そっか……。


   ……電気、消すわね。


   あ、まって……。


   ……ん。


   あのさ、あみちゃん……。


   ……なぁに、まこちゃん。


   ねつはさっき、はかったけど……おでこ、さわってもらってもいい?


   あぁ……うん、いいわ。


   へへ……やった。


   ……。


   おねがい、します……。


   ……はい。


   ん……。


   ……冷たい?


   きもち、いい……。


   ……。


   ……どぉ?


   ん……少し、下がっていると思う。


   そっか、よかった……これなら、あしたにはさがっているかも。


   下がっていても、体調が悪かったらお休みしてね。


   えぇ……。


   だぁめ。


   ……はぁい。


   ただの風邪とは言え、無理はしないでね……母も言っていたけれど、こじらせてしまうかもしれないから。


   ……むりじゃ、ないんだけどな。


   まこちゃん?


   ……だめそうだったら、おやすみする。


   うん。


   ……。


   ん、なに……?


   ……ん-ん、なんでもない。


   そう……?


   ……うん。


   電気、消してもいい?


   ……。


   ……まだ?


   あのね……いま、なんじ?


   今は、9時。


   くじか……あみちゃんのおかあさん、もう、びょういんについたかな。


   ……もう、着いていると思うわ。


   わざわざ、きてもらったのに……ちゃんと、おれいできなかった。


   気にしないで……母はただ、まこちゃんのことを心配して来てくれただけだから。


   でも、かみんのじかんをけずって、きてくれたんだろ……せめて、おれいはちゃんといわなきゃ。


   ううん、まこちゃんはちゃんとお礼を言っていたわ。ありがとう、ございます……て。
   だから母は、まこちゃんのことをいい子ねって。


   あたしは、いいこなんかじゃないけど……。


   まこちゃんは……とても、いいひとよ。


   ……え。


   優しくて、穏やかで、朗らかで……ちょっと、調子に乗るところはあるけれど。


   え、えぇ……ほめすぎだよ、あみちゃん。


   本当のことだから。


   ん、んん……。


   ……まこちゃん?


   はずかしい、な……そんなに、ほめられると。


   ……ふふ。


   もしかして、からかってる……?


   ううん……からかってない。


   ……ほんと、かな。


   本当よ……。


   ……。


   まこちゃん……?


   ……やっぱり、にてるね。


   似てる……?


   ……あみちゃんのおかあさん、と。


   母と……。


   ……あみちゃんも、おいしゃさんになったら。


   ……。


   あみちゃん……?


   ……なれたとしても。


   う、うん……。


   ……母のような、優秀な医者には屹度なれない。


   え、なんで……?


   ……私では、母のようにはなれないと思うの。


   そんなこと、ないよ……いっしょうけんめい、おべんきょうしてるじゃないか。


   ……お勉強だけが、出来ても。


   あみちゃん……。


   ……ごめんなさい、変なことを言って。


   へんじゃ、ないけど……。


   ……もう、寝ましょう。


   うん……。


   ……真っ暗で、いい?


   ……。


   それとも、今夜は常夜灯をつけておいた方がいい?


   ……まっくらで、いいよ。


   ……。


   まっくらでも、だいじょうぶだ……。


   ……怖くない?


   まさか……こわくなんて、ないよ。


   ……。


   へーき……へーき。


   ……じゃあ、真っ暗にするけど。


   うん……。


   ……。


   ……まっくら、だ。


   今夜は、新月だから。


   しんげつ……じゃあ、そとも。


   ……電灯がなければ、真っ暗だと思うわ。


   ……。


   電灯で……ぼんやりとだけれど、明るいから。


   ……う、ん。


   何かあったら、声をかけてね。


   ……だいじょうぶ、なにもないよ。


   何もなくても……かけてくれて、いいから。


   ……だいじょうぶ、さ。


   ん……じゃあ、おやすみなさい。


   え……。


   ……。


   ……うん、おやすみ。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   な、なに……。


   ……私、いつもだったらまだ起きている時間なの。


   おべんきょう、してるんだよね……。


   ……12時頃までしていることもあるわ。


   あたしはもう、ねてるなぁ……。


   ……だから、ね。


   うん……。


   ……ねむれなかったら、こえをかけて。


   ……。


   眠れなくて、不安になる……そんなことも、あるから。


   ……あみちゃんも。


   ええ……あったわ。


   ……いまは、ない?


   今は……。


   ……ない、か。


   ううん……今も、あるわ。


   ……。


   ね……誰にも言わないって、約束してくれる?


   ……うん、やくそくするよ。


   ……。


   ……あみちゃん。


   小さい頃は…………あまりにも眠れないと、ベッドの中で泣いていたの。


   ……ないて。


   昼間には、眠れたのに……夜になると、眠れない。明るくても、眠れていたのに……真っ暗になると、眠れない。
   眠らなければ治らない……だから、眠らなければ……そう思うほどに、眠れなくなる……誰かに甘えたくても、自分しかいない。
   そうして不安ばかりが募って、最後には怖くなって……涙が溢れて、止まらなくなる。


   ……。


   静かな部屋に響くのは、自分のしゃくりあげる音だけ……誰も、声をかけてくれない。
   父も母も私の傍にいてくれない、手を差し伸べてくれない……たったひとりで、夜を乗り越えなければならない。
   ひたすらに、耐えて、耐えて、耐えて……そうしているうちに、いつの間にか眠りに落ちる……だけどね、せっかく眠れても、今度は怖い夢を見るの。
   怖い夢を見て……目が覚めてしまうの。


   ……あぁ。


   体調が悪い時って、どうして怖い夢を見るのかしら……夢なんて、見たくないのに。


   ……こころをえぐってくるような、ゆめなんだ。


   日常では、起こり得ないような……。


   ……きがつくと、まっくらなところで、ひとりだけでたっている。


   ……。


   まわりを、みると……たくさんのひとが、ぼろぼろになって、たおれていて。
   あたしだけが、たっているんだ……ちまみれに、なって。


   ……赤だけが、鮮明に。


   わかるの……?


   ……私も、同じような夢を何度も見たから。


   ちまみれになったあたしは、だれかをさがしはじめるんだ……だれかのなまえを、よびながら。
   いっぽ、あしをまえにだすたびに、たおれているだれかをふむ……ふみつけて、ころびそうになりながら、あたしはすすむ。
   だれかを、みつけるために……そのときのあたしのめには、そのだれかしか、うつってないんだ……だから、たおれているひとたちのことなんて。


   ……その、誰かは。


   わからない……わからないんだけど、あたしにとって、とてもたいせつなひとだということはわかる。


   ……。


   にくやほねをふみつける、かんしょくがね……ゆめだとはおもえないくらいに、なまなましくて。
   あと、ちのあかも……じぶんのか、まわりのひとのものか、わからないけど。


   ……私は、待っているの。


   まって……?


   ……真っ暗なところで、誰かが私を見つけてくれるのを、探し出してくれるのを。


   ……。


   歩きたくても、足が動かない……周りには、沢山のひとが血塗れになって倒れていて。
   そこから動きたいのに……その誰かを探しに行きたいのに、私の足はちっとも動いてくれないの。


   それは……とっても、こわいゆめだね。


   うん……とても、怖いの。


   ……。


   まこちゃんの、夢も……酷く、怖い。


   ……うん、こわいんだ。


   ……。


   だから……まっくらは、こわい。


   ……あかりを、つけるわ。


   だけど……。


   ……枕元の、小さなあかりを。


   まくらもと……。


   ……それを離れたところに置いて、つけておくの。


   あ……。


   ……それならば、あまり強い光ではないから。


   そう、か……そんなほうほうも、あったんだ。


   ひとりだと、不便かもしれない……でも、今夜はふたりだから。


   ……あみちゃんが、いてくれる。


   うん……。


   ……おねがいしても、いい?


   ええ……もちろん。


   ……ありがと。


   一旦、電気をつけてもいい……?


   ん……つけて。


   ……。


   ……これを。


   テーブル……キッチンの方がいい?


   ……キッチンが、いいかも。


   分かったわ……。


   ……。


   ……このあたりで、いい?


   うん、ばっちりだ……。


   ……これを、つけて。


   ……。


   ……電気、消すわね。


   ん……。


   ……。


   ……あぁ、いいかも。


   なら、今夜はこれで……。


   ……かって、よかった。


   かわいい灯りよね……。


   うん……きにいっているんだ。


   ……。


   ありがと……あみちゃん。


   ……ううん、役に立てて嬉しい。


   へへ……。


   ……ん?


   あみちゃんがもしも、ねつをだしたら……そのときは、あたしがそばいるね。


   ……え。


   いるから……。


   ……。


   ……いやだったら、いないけど。


   ううん……いやじゃ、ない。


   ……ほんと?


   うん……ほんと。


   ふふ……よかった。


   ……今は、もう。


   ん……。


   泣くことは、なくなったけれど……心細くなることは、今でも。


   ……あたしも、おんなじだ。


   ……。


   おなじだね……あみちゃん。


   ……うん、同じ。


   はぁ……。


   ……眠れそう?


   ねむれると、おもうけど……ねむれなくても、だいじょうぶだ。


   ……。


   だって、あかりがあって……あみちゃんが、そばにいてくれるから。


   ……願わくば、怖い夢を見ることがないよう。


   きっと、だいじょうぶ……だいじょうぶさ。


  27日





   ……。


   ……うどんと、くりのすーぷ。


   ……。


   ほんとうに、おいしかったなぁ……。


   ……まこちゃん。


   あみちゃん……。


   ……どう?


   うん、ねてた……。


   ……そう、良かった。


   まだ、いてくれた……。


   ……まだ、いるわ。


   うれしいけど……かえらなくて、だいじょうぶ?


   大丈夫……まだ、夕方にもなっていないから。


   え、そうなの……?


   学校の授業で言えば、丁度6時間目あたり。


   ろくじかんめ……。


   ……だから、まだ大丈夫よ。


   きょう、じゅくは……。


   ……。


   あたしのことは、きにしないで……じかんになったら、いって。


   ……今日は、行かない。


   だめだよ……じゅくは、いかなきゃ。


   ……ううん、いいの。


   でも……。


   ……もう、決めたの。


   ほんとうに、いいのかい……?


   ……ええ、本当にいいの。


   ……。


   お勉強なら、今までずっとしていたし……これからも、するつもりだから。


   ……いまも、してた?


   うん、今も……まこちゃんの傍で、ずっと。


   ……なんのおべんきょうを、してたの。


   今は、英語。


   えいご……。


   今日の時間割に合わせて、それから、授業の進捗を考えて、お勉強をしていたの。


   えいご、かぁ……あたしも、ふくしゅうしないとなぁ。


   体育の時間は……。


   ……たいそう?


   ううん、塾で学んだことの復習。
   流石に、ここで体操は出来ないわ。


   ふふ、そっか……。


   ねぇ、まこちゃん。


   ん、なに……?


   良かったら、6組の今日の時間割と授業の進捗状況を教えて。


   ……しんちょく?


   もしかしたら、力になれるかもしれないから……もちろん、元気になってからだけれど。


   ……じかんわりは、せーとてちょうに。


   鞄の中?


   うん……どっかにはいってるとおもうから、てきとーにさがしてみて。


   ん、分かったわ。


   しんちょくは……のーと。


   ノート……?


   よかったら、のーとをみてみて……あたし、こくばんにかかれたものはぜんぶ、のーとにかきうつしているから。


   ……今、見せてもらってもいい?


   うん、いいよ……でも、あみちゃんのおべんきょうはいいの?


   ここからは、6組のお勉強をするわ。


   ……ろっくみの?


   と言っても、5組とあまり変わらないと思うけど……。


   ……せんせ、いっしょのじゅぎょうもあるもんね。


   一緒だと、進み具合も似たり寄ったりだから……あ、そうだ。


   ……?
   あみちゃん……?


   ……水枕、取り替える?


   みずまくら……?


   そろそろ、取り替えた方がいいと思って。


   ……え、と。


   遠慮しないで……?


   ……とりかえて、ほしい。


   ん……頭、ごめんなさい。


   ……ん。


   汗は、結構かいた……?


   うん……かいたとおもう。


   ……寒くはない?


   ん、へいきだよ……もしかしたら、こんやにはねつ、さがるかも。


   ……だとしても、今夜はゆっくり休んでいてね。


   ふふ……はぁい。


   ……。


   あみちゃんは……やさしいね。


   ……そう、かしら。


   うん、やさしいよ……なんで、そんなにやさしいの?


   ……なんでって。


   あたしなんかにも、やさしくしてくれて……。


   ……まこちゃんは、なんかではないわ。


   え……。


   ……私の、大切なおともだちだもの。


   ……。


   え、と……まこちゃんと私の仲でしょう?


   ……あ。


   だから……あたしなんか、なんて言わないで?


   ……。


   まこちゃん……?


   ……ううん、なんでもない。


   ごめんなさい……私、言い方が強かった?


   んーん、つよくないよ……。


   ……。


   もう、さ……うれし、すぎて。


   ……まこちゃん。


   は、はは……もう、やだなぁ。


   ……体調が悪い時は、不安になるもの。


   ……。


   静かな家の中に、自分ひとりしかいない時の心細さ……。


   ……わかって、くれるの。


   小さい頃から、ひとりの時が多かったから……。


   ……あみちゃんは、いつから。


   両親が離婚して……ううん、離婚していない頃から、ひとりで過ごすことが多かったわ。
   小学校に上がる前には、部屋を与えられていて……気付いたら、ひとりで眠るのが当たり前になってた。


   ……。


   父は画家、母は医師……ふたりとも忙しくて。
   父はアトリエに籠りがち、だから度々、家に帰ってこないことがあって……母もまた、休日出勤や夜勤、泊まりで家にいない時間の方が長かった。
   私が体調を崩すと母に連絡が行くようになっていたから、一応は帰ってきてくれたけど……だけど、それでもずっと傍にいてくれるわけではなかったの。


   ……しごとは、やすめない?


   うん、休むのは難しかったみたい……絵に集中している時の父は、描いているものの前から片時も離れることが出来ない性分で。
   帰ってきてくれた母は、後で聞いたのだけれど、一時的に帰宅していただけだった。だから本当に様子を見るくらいで……あぁ、一応診察もしてくれたわ。


   ……おくすりは。


   市販薬を常備しておいたから、それで問題ないようなら、そのお薬を。
   母は飲み方を教えてくれて、母に忠実な私は、それを固く守って……。


   ……あみちゃんは、ひとりで。


   物心が付く頃には、ある程度のことは、ひとりで出来たから。
   母の言い付けさえちゃんと守っていれば、大丈夫だと思っていたの。


   ……だとしたって、げんかいがあったろう?


   どうだったかしら……その頃のことは、良く憶えていないから。


   ……。


   ごはんを一口でもいいから食べて、それからお薬を飲んで……あとは、大人しく寝ていれば、躰が治してくれる。


   ……ごはんは、だれが。


   ごはんは、母が……と言うより、一時的に雇ったひとが何食かまとめて作ってくれて……それを分けて食べるの。
   でも、全部は食べ切れなくて、いつも残してしまって……だから、出来るだけ無駄にならない、かつ、手軽に食べられるものを好むようになった。


   それで……さんどいっち。


   パンに野菜かハム、火を使わなくても食べられるものを挟むだけで……なんだったら、バターを塗るだけでもいい。
   具沢山にしたり、手のかかるようなものを作ろうと思わなければ、サンドイッチは手軽に食べられる。


   ……かたてでも。


   そう……お勉強をしながら、でもね。


   ……。


   ……まこちゃんは、熱を出すと怖い夢を見ることはない?


   ある……。


   ……私にも、あったわ。


   そのときは……どうしたの。


   ……深呼吸をして、まずは自分を落ち着かせるの。


   ……。


   あれは、夢だと……私がいる場所は、自分の部屋、自分のベッドの中だと、ゆっくり考える。


   ……あたしには、できそうにないや。


   それも慣れ、かしら……小さくても、意外に慣れてしまうものなの。


   ……。


   ……?
   まこちゃん……?


   ……すこしだけで、いいから。


   なぁに……?


   ……てを、にぎってほしい。


   ……。


   すこしだけで、いいんだ……。


   ……少しだけなんて、言わないで。


   え……。


   ……まこちゃんがもういいって、思うまで。


   あぁ……。


   ……私の手、冷たいと思うけどそれでもいい?


   うん、いい……あみちゃんのてに、ふれたい。


   ……うん。


   ……。


   その前に、水枕を……。


   あ、うん……ありがと。


   ……どういたしまして。


   ……。


   冷たすぎない……?


   ん……へーき、きもちいい。


   ……額、いい?


   うん……さわってみて。


   ……。


   どう……?


   ……まだ、熱いみたい。


   そっか……。


   ……あとで、汗を拭いてもいい?


   あせ……?


   ……顔だけでも。


   ……。


   あ、嫌なら……。


   ……ちっとも、いやじゃない。


   ……。


   ふいて……あみちゃん。


   ……うん、まこちゃん。


   ……。


   手……これで、いい?


   ……うん、ありがとう。


   まこちゃんの手、いつもよりも……。


   ……あつい?


   熱が籠っているみたい……。


   ……あたしは、あつくかんじないんだ。


   え……?


   ……なんだか、ゆびさきまでひえているようで。


   こんなに熱いのに……。


   だから、よかった……あついって、かんじてもらえて。


   ……。


   そういえば、おひるごはんはたべた……?


   ……うん、お弁当のサンドイッチを。


   ふふ、そっか……よかった。


   ……。


   ……ねぇ、あみちゃん。


   なに……。


   ……じかんになったら、かえっていいからね。


   ……。


   くらく、なるまえに……くらくなったら、あぶないから。


   ……ひとりで、大丈夫?


   だいじょうぶだよ……もう、なれたから。


   ……。


   こんなだから、おくっていけない……だから、あかるいうちに。


   ……でも。


   ゆうはんは、つくってくれたうどんと、くりのすーぷがあるから……。


   ……明日の朝ごはんは。


   ごはんが、あるよ……。


   ……。


   それに、あみちゃんがいろいろかってきてくれたろ……それを、たべるよ。


   ……お粥を、作ってもいい?


   おかゆ……?


   作って……冷蔵庫に、入れておくから。


   あぁ、ありがとう……。


   ……ううん、私がしたいの。


   はは……。


   ……可笑しい?


   あみちゃんは、かてーかもできるなぁって……。


   ……まこちゃんの方が、ずっと出来るわ。


   あたしは……。


   ……。


   ……。


   ……まこちゃん?


   なんだか、あついな……。


   ……もしかして、熱が上がった?


   そうじゃないと、おもうんだけど……くすりも、のんだし。


   ……躰全体が熱いの?


   う、ん……て、いがい。


   ……救急車を。


   きゅうきゅうしゃは、いいよ……そこまでじゃ、ない。


   だけど。


   だいじょーぶ、だいじょーぶ……。


   ……大丈夫では、なかったら。


   よく、なるんだ……からだが、あつくなると。


   ……よく?


   かぁっと、あつくなって……そうすると、ねつがさがるんだ。


   ……。


   ちいさいころの、あたしはそうだった……こんども、きっと、そうだ。


   ……まこちゃん。


   そんなかお、しないで……あたしは、だいじょうぶだよ。


   ……帰らない。


   へ……。


   ……今夜は帰らない、まこちゃんの傍にいる。


   え、でも……。


   ……いさせて。


   あみちゃん……。


   ……ごめんなさい。


   な、なにが……?


   ……母に、まこちゃんの事情を話してあるの。


   あたしの……?


   まこちゃんが、ひとり暮らしだということ……。


   あぁ……なんだ、そんなことか。


   だから、ごめんなさい……勝手に、まこちゃんのことを話して。


   きにしないで、いいよ……。


   ……けど。


   べつに、いいさ……あみちゃん、なら。


   ……。


   かえらなかったら……おかあさん、しんぱいするよ。


   ……もしもの時は、そばにいるように。


   ……。


   言われて、いるから……。


   ……それは、ほんとうのこと?


   ええ……本当のことよ。


   ……。


   ……まこちゃんには、言ってなかったのだけれど。


   う、うん……。


   ……夜になったら、母が来てくれるわ。


   え、お、おかあさんが……?


   ……診てくれるって。


   で、でも……え、えぇ?


   ……お願い、診てもらって。


   ば、ばしょは、わかるの……?


   ……住所を伝えたから、タクシーで来ると思う。


   たくしー……。


   ……勝手に、ごめんなさい。


   ……。


   ……まこちゃん。


   は、はは……。


   ……おこっ、た?


   ねぇ、あみちゃん……。


   な、なに……。


   ……ちゅうしゃ、されるかな。


   注射……?


   ……すると、おもう?


   しないと、思うけど……。


   はぁ……そっかぁ。


   ……もしかして、苦手?


   あまり、とくいじゃない……。


   ……。


   ちくっとするのは、へーきなんだ……。


   ……尖ったものが刺さるのが苦手?


   ……。


   そうなのね……。


   ……だから、みないようにする。


   大丈夫……注射はしないと思うわ。


   ……そう?


   もしも注射をすることになったら、まこちゃんの傍にいるわ。


   ……いてくれる?


   ん。


   ……なら、いいや。


   ね、まこちゃん……。


   ……ん、なに。


   傍にいても、いい……?


   ……。


   もしも、だめなら……母と、帰るわ。


   ……いて、くれるなら。


   ……。


   ……よるも、そばにいてほしい。


  26日





   ……。


   ……


   ……。


   ……おかあ、さん。


   ん……。


   ……はぁ。


   まこちゃん……?


   ……あみちゃん。


   眠れた……?


   ん……ねてたとおもう。


   そう……。


   ……なんか、なつかしいゆめをみたようなきがする。


   夢……?


   ……りょうしんが、いたころの。


   ……。


   ね……。


   ……なぁに。


   みずまくら、つくってくれたんだね……。


   ……うん、あった方がいいと思って。


   ありがと……きもちいいよ。


   ……温くはない?


   だいじょぶ……まだ、ひんやりしてる。


   ……確認はするけど、替えて欲しかったらすぐに言ってね。


   うん……。


   頭、お腹、喉……どこか、痛いところはない?


   ……ん、と。


   筋肉や関節も……そろそろ、インフルエンザが流行り出す頃だから。


   へぇき……どこも、いたくないよ。


   ……少し鼻声だけれど、鼻は詰まってない?


   つまっては、いないとおもうけど……。


   ……一応、ティッシュは手の届くところに置いておいたから。


   ての……あぁ、ほんとだ。


   ……今は必要なくても。


   なら、さっそく……。


   ……え。


   なんて……まだ、だいじょうぶ。


   ……鼻をかむ時に、私がいない方が良かったら言ってね。


   え、なんでだい……?


   ……私がいたら、いやかと思って。


   ぜんぜん、きにしないよ……だって、あたしとあみちゃんのなかだもん。


   ……。


   あ、でも、あみちゃんがいやだったら……えんりょしないで、みみをふさいでね。


   ……嫌ではないわ。


   そう……?


   ……だって、まこちゃんは。


   う……。


   ……まこちゃん?


   ごめん、すこしはなれ……


   ……。


   ……くしょいっ。


   大丈夫……?


   ん、だいじょうぶ……でもさっそく、はなをかむときがきちゃった。


   ふふ……気にしないで。


   へへ……うん。


   ……ゴミ箱は、ここに。


   ありがと……たすかる。


   ……。


   うー……やっぱり、かぜなのかなぁ。


   季節の変わり目でもあるから……。


   ……きせつのかわりめって、かぜをひきやすいんだっけ。


   あと、急に寒くなったでしょう?
   それも良くないと思うの。


   じゅうがつなのに、じゅうにがつのきおんは……きが、はやいよねぇ。
   じゅうにがつじゃあ、あたしのたんじょうびだよ……や、もしかしたら、すぎてるかも。


   上旬頃の気温と言っていたから、まこちゃんのお誕生日前後かもしれないわ。


   もうすこし、あきでいてほしいなぁ……あきは、すごしやすくて、たべものがおいしくて、すきだからさ。


   ん、分かるわ……お勉強も捗るから。


   あみちゃんはいちねんじゅう、はかどってそうだけど……。


   そんなことない……特に真夏の暑い日は、集中力が途切れやすいの。
   冷房が効いている部屋でお勉強をすればいいんだろうけど、そうすると、今度は冷え過ぎちゃって。


   あは、そうなんだ……いいこと、きいちゃった。


   いいこと……?


   うん……あみちゃんでも、おべんきょうのしゅうちゅうりょくがとぎれるんだなぁって。


   ……誰にも、言わないでね。


   え……?


   うさぎちゃんにも、レイちゃんにも、美奈子ちゃんにも……内緒にして欲しいの。


   ふふ、わかった……なら、ふたりだけのひみつにしよ。


   ……秘密?


   そう、ひみつ……いいだろ、ふたりだけのひみつ。


   ……うん。


   ふふ、うれしいなぁ……。


   ……嬉しい?


   ん、うれしい……しんゆう、みたいで。


   ……親友。


   らいねんのなつは、ふたりでうみにでもいっちゃおうか……。


   ……私と、ふたりでも。


   きっと、たのしいよ……ううん、ぜったいにたのしい。


   ……そうだと、いいな。


   あ、でも。


   ……?


   あたしとふたりだと、あみちゃんがたのしくないかも……。


   そ、そんなことない。


   そう……?


   ……まこちゃんとふたりで、楽しくないわけがない。


   ほんと……?


   ……嘘なんて、言わないわ。


   そっか……なら、ふたりでいこ。


   ……うん、まこちゃん。


   たのしみだなぁ……。


   ……私も。


   ふ……。


   ……うん?


   ふゆのようなあきのはなしから、らいねんのなつのはなしになっちゃったなって……。


   ……あぁ。


   おにが、わらう……?


   ……ここまで来たら、笑わないと思う。


   ふふ、そうだよね……。


   ……。


   しばらく、さむいんだっけ……。


   うん……そうみたい。


   ふゆもの、ほんかくてきにださないとだ……。


   ……寒くなるなら、少しづつがいいわよね。


   ほんとに……きゅうにさむくなるのは、やめてほしいよ。


   ……。


   あみちゃんも、きをつけてね……なんて、あたしにいわれなくてもわかってるか。


   ううん、ありがとう……。


   ……。


   ……ねぇ、まこちゃん。


   なんだい……あみちゃん。


   ……喉は、痛くないのよね?


   いまんとこ、へーき……。


   ……。


   ねぇ、あみちゃん……。


   ……なぁに。


   さっきから、きになってたんだけどさ……なんとなく、いいにおいがするようなきがするんだ。


   ……おうどんを、作ったの。


   うどん……?


   ……簡単なものだけど。


   ありがとう……とっても、うれしいよ。


   ……それと、もうひとつ。


   もうひとつ……?


   ……栗のスープを。


   くりのすーぷ……わぁ、おいしそうだなぁ。


   それで……まこちゃんに、謝らないといけないことがあって。


   うん、なんだい……?


   調味料だけでなく、はちみつと牛乳も使ってしまったの……。


   あぁ……。


   ごめんなさい……許可も取らず、勝手に使ってしまって。


   んーん、かまわないよ……だって、あたしのためにつくってくれたんだろ。


   ……まこちゃんに、食べてもらえたらと思って。


   だから、ぜんぜん、かまわない……むしろ、つかってくれてありがと。


   まこちゃん……。


   ぎゅうにゅう、しょうみきげんがちかかったとおもうんだ……だから、たすかった。


   ……うん。


   うどんと、くりのすーぷかぁ……。


   ……あの、食べられそう?


   たべたいな……ねたら、しょくよくがもどってきたようなきがするんだ。


   ……無理はしないでね。


   うん、しないよ……。


   それじゃあ……おうどんと栗のスープ、どちらが食べたい?


   んー、そうだなぁ……どっちも、たべたいな。


   ……どちらも?


   すこしずつ、たべたい……。


   ……。


   あ、でも、めんどうだよね……。


   ううん、面倒ではないから気にしないで。
   温めるから少し待っていてね。


   ……ん、まってる。


   ……。


   あみちゃん……。


   ……なぁに、まこちゃん。


   めがさめても、あみちゃんがいてくれて……すっごく、うれしい。


   ……どうしても、放っておけなくて。


   おかあさん、ゆるしてくれたね……。


   ……。


   がっこうにも、でんわをかけてくれたんだろ……こんど、おれいをいわなきゃ。


   ……医師を志すのならば。


   うん……?


   ……ひとに寄り添う気持ちを、忘れてはならない。


   それは……。


   ……母の言葉。


   そう、なんだ……。


   ……多くの患者さんに接していると、どうしても機械的になってしまうこともあるんだって。


   きかいてき……。


   ……でも、患者さんは心を持ったひとりの人間だから。


   ……。


   信用出来ないお医者さんに、自分の躰を任せるなんて……怖くて、出来ないと思うの。


   ……あぁ、たしかに。


   ……。


   ん……あみちゃん。


   ……38.5度。


   え……?


   ……寝ている間に、計らせてもらったの。


   あぁ、そっか……。


   ……まこちゃんは、平熱が高いけれど。


   さんじゅうはちどをこえたら……ちょっと、つらいかな。


   ……お薬。


   ん……?


   一応、買ってきたの……。


   ……そうなんだ。


   無理に飲ませるつもりはないの……ただ、あった方が熱が上がった時に対処出来ると思って。


   ……ごはんをたべたら、のもうかな。


   あの、飲みたくなかったら……。


   あたし……くすり、にがてなんだ。


   苦手……?


   だって、にがいだろ……?


   ……良薬は口に苦し、と言うから。


   わかってるんだけどね……。


   ……錠剤だから、まだ飲みやすいと思う。


   こなぐすりじゃないんだ……じゃあ、のめるなぁ。
   まぁ、こなぐすりでも、のむけど……。


   ……喉に張り付くのが、いや?


   そうそう、そうなんだ……にがいのが、のこっちゃってさ。


   ……私も苦手だから、分かるわ。


   あみちゃんも、にがて……?


   ……においも、残るし。


   あは……。


   ……おかしい?


   いや、あみちゃんもにがてなんだなって……ちょっと、うれしい。


   ……。


   ……ひみつ?


   出来れば……。


   ……じゃあ、ふたりだけのひみつだ。


   ふたつめ……ね。


   うん、ふたつめ……だ。


   ……。


   ね、くすりってなにでのむほうがいいんだっけ……やっぱり、みずかな。


   ……白湯でも。


   さゆかぁ……じゃあ、さゆにしようかな。


   ……。


   くすりをのんで、はやくなおすんだ……あみちゃんとまたいっしょに、がっこうにいけるように。


   うん……少しでも早く、治るように。


   ……ありがとね、あみちゃん。


   ううん……。


   ……あぁ、もっといいにおいがしてきた。


   分かる……?


   うん、わかる……うどんのにおいと、くりのあまいにおい。


   ……鼻、詰まってなくて良かった。


   はながつまってると、いきぐるしいよね……。


   そう……それで、どうしても口呼吸になってしまうでしょう?


   くちだと、よくない……?


   ……口呼吸だと、喉を痛めてしまうの。


   それは、どうして……?


   口で呼吸をすると、喉が乾燥してしまうから……。


   ……。


   喉が乾燥すると防御機能が低下して、ウイルスや細菌に感染しやすくなるの……。


   はぁ……それで、のどがいたくなっちゃうのかぁ。


   ……私は空気が乾燥してくると、マスクをして寝るようにしているの。


   ますく……ねるときに?


   そうすると、寝ている時に口呼吸になっても乾燥するのを防げるから……。


   へぇ……。


   ……以前、母に教えてもらって。


   でもさ、くるしくない……?


   ん、慣れていないと苦しいと思う……慣れると、平気。


   やっぱり、なれか……ちょっと、やってみようかな。


   ……気が向いたらで、いいから。


   うん、わかった……。


   ……ん、出来た。


   あ、できた……?


   よそるから、もう少しだけ待っていてね。


   わぁい、まってる……。


   ……とりあえず、少なめに。


   たのしみ……たのしみ。


   ……。


   ……こんなあったかいの、いついらいだろう。


   ん……これで。


   ……。


   まこちゃん、お待たせ。


   ……ん。


   少なめにしたんだけど……食べられそうだったら、言ってね。


   うん……おかわりしたいときは、いうよ。


   ……飲みものは、何がいい?


   のみもの……さゆ、かな。


   ん、分かった。


   うどんは、はくさいと……とりのつくね?


   ……つくねは、消化にいいから。


   はぁ、おいしそうだ……。


   ……塩麹で味付けして、柚子の皮を入れたの。


   わぁ、たべたらげんきになれそう……。


   ……そうだったら、嬉しい。


   こっちが、くりのすーぷ……。


   ……前に、まこちゃんのお部屋で読んだ雑誌に載っていたのを思い出して。


   みきさーで、つくったんだね……。


   うん……はちみつと牛乳はそれに。
   本当は生クリームも入れるんだけど……消化にはあまり良くないから。


   じゃあ、つぎにつくってくれるときは、いれてほしいな……。


   ……次?


   ねつが、さがったら……もちろん、あみちゃんのきがむいたら、だけど。


   ……作るわ。


   つくって、くれる……?


   ん……約束する。


   やった……。


   それでね……。


   ……なに?


   その時は、一緒に甘栗を買いに行ってほしいの。


   あまぐり……?


   ……だめ?


   ううん、いいよ……いっしょにいこう。


   ……うん。


   そっか、あまぐりなんだ……じゃあ、あまくておいしいな。


   ……白湯、ここに置くわね。


   ん、わかった……。


   ……どうぞ、まこちゃん。


   ありがと、あみちゃん……いただきます。


   ……。


   まずは、そうだなぁ……なやんじゃうな。


   ……あの、悩むほどのものではないから。


   えぇ、なやむよぉ……。


   ……いえ、本当に。


   じゃあ…………くりのすーぷから。


  25日





  -はやめの(現世1)






   まこちゃん。


   あ……おはよ、亜美ちゃん。


   おはよう。


   ごめんねぇ、遅くなっちゃって。


   ううん、それは構わないのだけれど……何か、あった?


   うん、別に何もないんだけど……起きた時から、躰が少し怠くて。


   ……怠い?


   多分、なんでもないと思うんだ……ただ、怠いだけだから。


   熱はないの?


   んー……どうだろ。


   計っていないの?


   別に、躰は熱くないし……本当に、ただ怠いだけなんだ
   ほら、昨日は戦いで帰るのが遅くなっちゃったろ……そのせいで、疲れているのかなって。


   ……冷たい雨にも降られたわ。


   あぁ、そうだったねぇ……。


   ……それなのに、私を送ってくれて。


   だけどあたし、雨に打たれたくらいじゃ風邪なんて引かないからさ……あぁ、そうだ。
   傘、ありがとう……乾かしたら返すから、少し待っててね……。


   傘はいつでも……それよりも、寒くはない?


   ん……少し、寒いかな。


   ……少し。


   でもほら、今朝は気温が低いから……知ってるかい、今日は12月並の冷え込みなんだって。
   まだ、10月だって言うのにさ……気が早いよねぇ。


   ……寒気は感じていない?


   寒気……寒気って、なんだっけ。


   ごめんなさい、まこちゃん。


   ……ん。


   今は確かに、熱はなさそうだけれど……これから、発熱する可能性は高い。


   亜美ちゃん、学校に行こう……こんなことをしていたら、遅刻しちゃうよ。
   今日はいつもよりも、遅いから……少し、急がないと。


   遅刻のことなら、心配しないで。


   ……え。


   まこちゃん、今日はお休みしましょう。


   ……お休み?


   折角来てくれたけれど、お部屋に帰って。


   なんで……。


   今日は暖かくして、ゆっくり休んだ方が良いと思うの。


   心配してくれて、ありがとう……でも、あたしなら大丈夫だよ。


   熱が出てからでは、もっと辛くなるわ。


   へーき、へーき……熱なんて、出ないよ。
   自分の躰のことだから、あたし、分かるんだ……。


   まこちゃん……。


   昨日はさ、帰るのが遅かったから、宿題が出来なくて……だから、教えてくれたら嬉しいな。
   あぁでも、もうそんな時間ないか……じゃあ、仕方ないや。素直に、怒られよう……。


   帰りましょう、まこちゃん。


   ん……。


   私も一緒に行くから。


   ……亜美ちゃん。


   お願い……私と一緒に帰って。


   ……あたし、そんなに具合悪そうに見える?


   ……。


   ん、そっか……大丈夫だと、思ったんだけどな。


   ……行きましょう、まこちゃん。


   ありがとう、亜美ちゃん……ひとりで、帰れるよ。


   ……。


   亜美ちゃんは、学校に行って……あたしの部屋に来てからじゃ、本当に遅刻しちゃうからさ。
   こんなことで、遅刻するなんて良くないよ……その気持ちだけで、あたしは嬉しいから。


   遅刻なんて、どうでもいい。


   や……どうでもよくは、ないんじゃないかな。


   遅刻をしたとしても理由をちゃんと話せば、先生は分かってくれる筈よ。
   体調が悪いおともだちをひとりで帰したなんて、そっちの方が許されないわ。


   ……そう、かな。


   だから、ね……一緒に帰りましょう?


   ……本当に、大丈夫?


   大丈夫……だから、今は自分のことだけを考えて?


   ……ありがとう、亜美ちゃん。


   まこちゃんっ。


   ……はは、安心したら力が。


   やっぱり、無理をしていたのね……。


   ……しているつもりは、なかったんだけど。


   歩ける……?


   うん……まだ、歩ける。


   ゆっくりでいいから……。


   ……ありがとう。


   朝ごはんは、食べた……?


   ……実は、食べてない。


   作れなかったのね……。


   ……躰が、どうにも怠くて。


   ということは、お弁当も……。


   ……食欲が、なくてさ。


   ……。


   だから……お腹、空かないかなって。
   作れそうにないから、丁度いいかなぁ……なんて。


   ……どうして、来たの。


   うん……?


   そんなに体調が悪いのに……お休みするべきなのに。


   どうしてって……学校に、行きたかったからだよ。


   ……私が、待っているから?


   ん……。


   ……待ち合わせを、しているから。


   それも、あるけど……。


   ……私のことなら気にせずに、体調が良くない時は休んで。


   亜美ちゃんに、無性に会いたかったんだ……。


   ……私に?


   だから、来たんだ……亜美ちゃんの顔を見れば、元気になれると思ってたんだけどな。


   そんなわけ……。


   ……なかった、ね。


   ……。


   はは……はぁ。


   ……少し、熱くなったわ。


   ん、熱かな……。


   ……部屋に、常備薬はある?


   うん……ない。


   ……。


   まぁ、寝ていれば治ると思うから……。


   ……今から、母の病院に。


   ごめん……ちょっと、無理かも。
   行けたとしても、待っているのが辛い……。


   ……後で、買ってくるわ。


   あぁ、いいよ……買ってこなくても。


   ……でも、お薬があった方が。


   いいんだ……寝てれば、治るから。


   ……。


   動けるようになったら、何か食べるからさ……食べられれば、治ったようなものなんだ。


   ……すぐに食べられるような食べ物はあるの。


   うん……食パンがある。


   ……食パン。


   あと、ごはんはゆうべのうちに炊いておいたから……。


   ……食パンとごはんがあるのね。


   うん……それだけあれば、十分だと思うんだ。


   ……他に何かある?


   一応、あるけど……作るのは、難しいかな。


   ……冷凍食品は?


   冷凍食品……。


   ……買ってない?


   こんなことなら……ひとつかふたつ、買い足しておけば良かったな。


   ないのね……。


   また、今度と思って……うどんだけでも、買っておけば良かった。


   そう……分かった。


   実はさ……今日、買い物をして帰ろうと思ってたんだ。
   こんなことになるのなら、昨日のうちに買っておけば良かったよ……。


   ……戦いがなければ。


   でもまぁ、何もないわけではないから……とりあえず、食パンでもかじってるよ。


   ……おうどんは、食べられる?


   うどん……うん、少しなら。


   お粥は?


   ……食べられると、思う。


   ……。


   だけど……。


   ……私が作る。


   ……。


   だから、心配しないで。


   ……え、と。


   私も学校をお休みする。


   ……は。


   まこちゃんをお部屋まで送ったら、買い物に行ってくるわ。


   だ、だめだよ……亜美ちゃんは、学校に行かないと。


   行かない、もう決めたの。


   え、えぇ……。


   お部屋に着いたら、電話を借りてもいい?


   い、いいけど……どこにかけるんだい?


   まずは、母に。


   ……お母さん?


   理由を説明して、休みの許可をもらう。


   お母さん、許してくれるの……?


   母なら許してくれるわ。
   と言うより、許してもらう。


   あ、あぁ……。


   その後、学校に。


   あ、あたしなら、自分でかけるよ……。


   出来る?


   電話をかけるくらいなら……亜美ちゃんがかけたら、怪しまれるかもしれないからさ。


   ……だとしても。


   あたしのせいで、迷惑をかけたくないんだ……って、もうかけてるか。


   ……。


   え、えと……ありがとう、亜美ちゃん。


   いいの、私がしたいだけだから。


   ……。


   まこちゃん、お部屋の鍵はすぐに出せる?


   ん……コートのポケットに入ってると思う。


   コートね……。


   ……自分で、開けるよ。


   ……。


   あと、もう少しだ……がんばろ。


   ……私に、まこちゃんのような力があったなら。


   あたしの……?


   ……そうしたら。


   あー……そしたら、あたしはいらなくなっちゃうかもなぁ。


   ……いらなく?


   亜美ちゃんに、あたしみたいな力があったら……ジュピターは、いらないだろう?


   ……そんなわけ、ない。


   そう、かな……。


   ……ばかなこと、言わないで。


   あ……。


   ……。


   ……ごめんね。


   ううん……私こそ、ごめんなさい。


   亜美ちゃんは、悪くないよ……あたしが、変なことを言ったから。


   ……まこちゃんが。


   うん……。


   ……ジュピターが要らなくなるなんてこと、絶対にないから。


   ……。


   力があるから、必要なのではないの……あなただから、必要なの。


   亜美ちゃん……うん、ありがと。


   ……。


   はぁ……部屋、二階で良かったなぁ。


   ……あと、もう少し。


   大丈夫かい、亜美ちゃん……。


   ……。


   ここまで来たら、ひとりで……。


   ……大丈夫、気にしないで。


   ……。


   ……お部屋の鍵は。


   あの、亜美ちゃん……。


   ……うん?


   やっぱり、開けてもらってもいいかい……?


   ええ、もちろん……鍵は、コートのポケットの中なのよね?


   だと、思うんだけど……なかったら、鞄の中に。


   分かったわ……。


   ……。


   ……ん、ない。


   じゃあ、鞄の中だ……。


   ……開けてもいい?


   うん、亜美ちゃんなら……大したものは、入ってないけど。


   ……大したものって、なに?


   んー……なんだろ。


   軽いとは思ったけれど……また、学校に置きっぱなしにしているの?


   ……。


   ……そうなのね。


   はは……。


   ……もぅ。


   ごめんなさい……。


   ……ん、あった。


   ん、良かった……。


   ……鍵、開けるわね。


   うん、お願い……。


   ……。


   ふぅ……。


   ……うん?


   ……?
   亜美ちゃん……?


   ……もしかして。


   どうした……。


   ……あぁ、やっぱり。


   な、なに……?


   ……開いてた。


   え……。


   ……鍵。


   え……え?


   ……忘れてしまったのね。


   う、うそだろ……。


   ……残念ながら。


   あ、あきす……。


   ……中の様子を見てみるわ。


   あ、亜美ちゃん……。


   ……まこちゃんは、ここで。


   け、けど……あ。


   ……これなら、平気よ。


   マーキュリー……。


   ……大丈夫、誰も見ていないわ。


   そ、それならあたしも……。


   ううん……まこちゃんは、ここにいて。


   ……けど。


   大丈夫……ほら。


   あ……。


   何かあったら、すぐに対応出来るから……だから私に任せて、まこちゃん。


   う、うん……。


   はぁ……お邪魔します。


   き、気を付けてね……。


   ……。


   ……何も、ないように。


   ……。


   ……。


   ……うん。


   どう、だい……?


   ……誰もいないわ、誰かが入った形跡もない。


   あぁ……良かったぁ。
   ありがとう、マー


   ……。


   亜美ちゃん。


   ……こんなこと、滅多にないとは思うけれど。


   ん、気を付けます……。


   ……ごめんなさい、先に上がってしまって。


   いいよ……あたしの代わりに、確認してくれたんだから。


   ……。


   えと、ただいま……。


   ……お帰りなさい、まこちゃん。


   うん、ただいま……。


   ……鍵を。


   ん……これで、良し。


   着替える……?


   出来れば、着替えたいな……制服のままだと、落ち着かないと思うから。


   ……着替えは。


   ベッドの上に……脱ぎっぱなしになっていると思う。


   ……本当。


   たたむのが、面倒でさ……。


   ……仕方ないわ。


   ぱぱっと、着替えちゃおうかな……。


   ……喉は、乾いていない?


   喉……?


   ……熱が出てきているようだから、水分が取れそうなら。


   ん、そうだな……熱いお茶が飲みたいかも。


   ……熱いお茶ね。


   あ、でも、今日はお湯を……。


   ……ん、なに?


   ううん……お願いしても、いい?


   ん。


   ……ありがと。


   着替えたら、ベッドに。


   うん……そうする。


   ……。


   ……はぁ。


   ……。


   ……ねぇ、亜美ちゃん。


   なぁに……あ、どこか悪い?


   ううん、だいじょうぶ……。


   ……なに。


   あのさ……。


   そうだわ、電話……電話をかけないと。


   ……。


   あ、ごめんなさい。


   ……ううん、いいんだ。


   もう一度、聞いてもいい……?


   もちろん……えと、ね。


   うん。


   ……亜美ちゃんがいてくれて、うれしいな。


  24日





   んーー…………はぁ。
   空気は冷たいが、今日の天気も良さそうだ。


   ……。


   おはよう、ちび。今日も元気そうだな。
   ゆうべは何も来なかったか? うん、然うか。


   ……。


   なぁ、ちび、一昨日の嵐はなんだったんだろうな?
   雷まで鳴り響いて。お前も然う思うだろう?


   ……。


   お前は雷が鳴っていても涼しい顔をして……あぁ分かった分かった、朝ごはんだな。
   ちゃんと喰わせてやるから、もう少し待っていて呉れ。


   ……ちび。


   ん。


   おはよう、ちび……今日も元気ね。


   ……やっぱり、亜美さんの方が良いか。


   朝ごはんはもう少し待ってね……大丈夫、ちゃんと用意するから。
   昨日の猪肉、少しだけれど残してあるの……あなたの朝ごはんにする為にね。


   意外と取れたからな……うり坊からでも。


   ふふ、嬉しいのね……私も嬉しいわ。


   あたしも嬉しいよ。


   ……まことさん。


   忘れていた?


   ……未だ居たのですね、


   う。


   今日は朝一で川に行くのではなかったのですか。
   昨日は結局、行けなかったから。


   い、今から行ってくるよ。
   ちび、朝ごはんが出来るまで


   ちびも行く?
   然う、行かないのね。


   ……ひとりで、行ってくる。


   はい、行ってらっしゃい。


   ……行ってきます。


   ちび、あなたもまことさんのお見送りをして?


   ……応、行ってくるよ。


   ふふ、良い子ね。


   ……まぁ、良いか。


   ちび、顔を洗ってからごはんを作るから。


   ……魚、獲れたら良いな。


   ……。


   獲れたら、今日の夕餉に……ちびにもやろう。


   まことさん、待って。


   ……ん?


   冗談ですよ。


   ……冗談?


   未だ薄暗いから行かなくても良いです、危ないですから。


   ……良いかな。


   どうしても行きたいのならば、どうぞ、行って来て下さい。
   ですが、ちびは連れて行かないで下さいね。ごはんが未だですから。


   やっぱり亜美さんと朝餉を食べてからにしようと思う。


   然うですか……なら、然うして下さい。


   うん、然うする。


   ……ふぅ。


   躰、重いかい?


   ……お陰様で。


   ならば、ちびのごはんはあたしが……ん、なんだ、ちび。
   どうして、唸ってる……?


   ……。


   なんだ、どうした?


   ……まことさんが私に何かをしたのではないかと、疑っているのかも知れません。


   え、どうして。
   あたしは別に何も


   ……していないわけでは、ないですよね。


   し、していないわけでは、ないが……ちびに、疑われるようなことは何も。


   ……ですって、ちび。


   あ、亜美さん?


   ゆうべ……若しかして、私の苦しそうな声でも聞こえたの?


   ……あ。


   心配しないで……私は苦しかったわけではないから。
   ただ……ただ、躰が熱かっただけなの。


   ……ちび、聞いていたのか。


   ちびは耳が良いですから。


   ……。


   まことさんはただ、私を冷やして呉れていただけ……だから、疑わないであげて?
   私なら……躰は少し気怠いけれど、大丈夫だから。


   ちび、あたしはお前が思っているようなことはしていないからな。
   確かに亜美さんと、何かはしたけれど、だけど


   まことさん。


   ……。


   一言多いですよ。


   ……はい、すみません。


   ほら、またちびがあなたのことを疑い始めてしまったではありませんか。


   ちび、ゆうべはあたしも躰が熱くて……其れで、ふたりで冷やしていただけなんだ。
   時折、苦しそうな声が聞こえたかも知れないが、其れは、冷やしていたからで……悪いことをしていたわけではない、決してない。
   寧ろ、あたし達にとっては良いことで、とても必要なことで、若しかしたらお前にもいつか


   まことさん?


   ……。


   余計ですよ?


   ……はい。


   ちび、まことさんは私に何もしなかったわけではないけれど、あなたが思っているようなことではないから。
   然う、私なら本当に大丈夫……少し躰が重たいだけで、問題ないから。


   ……ごはん、作ろうかな。


   ほら、ちび。まことさんがあなたのごはんを作って呉れるんですって。
   屹度美味しいごはんを作って呉れる筈だから、楽しみにしていてね。


   ちび、ごはんが出来たら呼ぶから、其れまで朝の見廻りを頼むぞ。


   お願いね、ちび。
   うん、行ってらっしゃい。


   ……ふぅ、良かった。


   疑われてしまいましたね。


   ……初めてでは、ないんだけどなぁ。


   また暫くの間、お休みしましょうか。


   え。


   あの子にまた、疑われても良いのですか?


   いや、でも……えぇ。


   ……。


   ……ちびに遠慮していては、一ヶ月に一度くらいしか。


   足りないですか?


   足りないよ、全く足りない。


   ……。


   ……せめて、一週間に一度くらいはしたいです。


   まぁ、然うですよね。


   ……亜美さんは、一ヶ月に一度くらいで。


   ちゃんと、教えてはいるんです。


   ……教えて?


   私は大丈夫だと……だけど、あの子は然う感じないみたいで。


   ……。


   あの子は確かに賢い子ではあるけれど……流石に、ひとのこの営みを理解するのは難しいのでしょうね。


   ……ちびが唸るようになったのは、一年を過ぎた頃からだろう。


   然うですね。


   何か、切っ掛けになるようなことでもあったのだろうか。


   切っ掛けですか……さて、どうなのでしょう。


   ……亜美さんを痛めつけるようなことは、していないし。


   一度もしたことがありませんね。


   ……するわけがない、大切なひとを痛めつけるなどと。


   一年を過ぎたことで、何か感じるものがあったのかも知れません。


   ……犬で、一年と言うと。


   ひとのこの歳に換算すると、曰く、思春期頃だとも。


   ……思春期。


   まぁ、犬にも依るそうですが。


   あたしには、其の、思春期と言うものが良く分からないのだが。


   まぁ、反抗期とも重なりますね。


   反抗期……反抗期?


   犬にもあるそうですよ、興味深いですよね。
   若しもちびにもあるのなら、観察したいと思っているのですが。


   ……。


   あの子はとても従順で賢い子だから、若しかしたら、ないかも知れません。


   いや……ちびのあたしへの態度は、反抗期に近いような気がする。


   でも、ちゃんと言うことは聞きますよ。


   聞く時もあるが、聞かない時もある。


   まぁ、然うですね。


   反抗期だと思えば……唸るのは、分かる気がする。


   私には唸りませんよ。


   ……ちびは、亜美さんにはべったりだから。


   まことさんにも、良く懐いていると思います。


   ……然うか、反抗期か。


   ……。


   ちびはあたしが亜美さんと仲睦まじくしているのが面白くないのだな。
   うん、其れならば分かる。此れで合点がいった。


   ……然うなのでしょうか。


   ちびは分かっているのかも知れない。
   あたしが亜美さんを痛めつけているわけではなく、亜美さんと


   分かりました、ならば然ういうことにしておきましょう。


   というわけだから、亜美さん。
   あまり気にしなくても


   気にします。


   ……。


   気にしますよ?


   ……どうすれば、良いですか。


   取り敢えず、反抗期が過ぎるまで控えましょうか。


   ……其れは、いつまで。


   分かりません、ちび次第ですので。


   ……。


   此の世の終わりのような顔をしています。


   ……終わらないが、終わりのような気分だ。


   大袈裟です。


   ……然うだ、猪肉を食べれば。


   生憎、そんなに量はありませんから。


   ……雪が降るまでに、もう一頭くらい。


   難しいと思います。


   ……はぁ。


   溜息を吐く程、ですか?


   ……ですよ。


   ……。


   けど、仕方ないな……あいつの反抗期が終わるまで。


   ……多分、ですけれど。


   ん?


   反抗期が終わっても、次の反抗期が来るかも知れません。


   ……は。


   何度かあるそうです。


   ……然うなの。


   然うらしいですよ。


   ……其の時も、また。


   唸るかも知れませんねぇ。


   ……。


   まことさん、今はあの子にごはんを作ってあげて下さい。
   でないと、待ち切れずに、帰って来てしまうかも知れませんから。


   ……うん、作ろう。


   ……。


   犬は、なかなか難しい……。


   ……犬にも、心はありますから。


   然うだね……。


   ……私は、犬の生態には詳しくはないのですが。


   うん……。


   ……なんでも、ひとのこの病を感知することが出来るとか。


   かんち……?


   病に因って躰から発せられる特有のにおいを、犬はひとのこ以上の精度で識別出来るそうです。


   はぁ……其れはすごいな。


   ちびも、若しかしたら。


   ……賢い子だから?


   賢くて……心有る子だから。


   ……亜美さんの傍に居れば、出来るようになるかも知れない。


   若しも、然うなったら……。


   ……。


   ……ごめんなさい、余計な話をして。


   ううん、とても興味深い話だったよ……。


   ……。


   さて……残りの猪肉は、と。


   ねぇ、あなた。


   ……ん?


   私が、宥めるから。


   ……うん。


   二週間に、一度くらいなら。


   良いかい?


   ……三週間に一度の方が良い?


   いや、二週間に一度……なんなら、一週間に一度でも。


   其れは、欲張りです。


   ……はい、ごめんなさい。


   ……。


   二週間に一度でも……一ヶ月に一度よりは。


   ……此処のところ、ずっと忙しくて。


   え、なに……?


   ……其れも、回数が減っている理由のひとつだと思うの。


   ……。


   息抜きも、大事だから……。


   ……亜美さん。


   だから……出来る時は。


   良いかい……?


   ……但し。


   は、はい。


   ……あの子やあのひとのことが、今はあります。


   ……。


   優先すべきは……。


   ……ふたりのことだ。


   特にあのひとは……いつ、どうなるか分かりません。
   夜中に呼ばれることも、屹度あるでしょう……。


   ……其の時はあたしも行こう、夜中にひとりは危険だ。


   いざとなったら、ちびが居ます。


   ちびには、家を任せたい。


   ……家を?


   家を守って貰う。
   あたし達が帰る家を。


   ……。


   今のちびは、家の守犬でもあるから。


   ふふ……然うでしたね。


   うん。


   ……。


   亜美さん。


   ……また、近いうちに。


   近いうちに……。


   ……猪肉が獲れたら良いですね。


   獲ってくる、雪が降る前に。


   ……冗談です。


   いや、本当に


   猪肉が、なくとも。


   ……あ。


   熱くなる時は……なりますから。


   あ、あぁ。


   ……。


   ……亜美さん。


   だめ……今は、ちびのごはんを作らないと。


   少しだけ……。


   ……。


   ……亜美。


   まこと……。


   ……。


   ……ちび。


   ……。


   ごめんなさい、ごはんは未だ出来ていないの。


   ……今、作るから。


   ……。


   分かった分かった、だから唸るな。
   今、作ってやるから……いや、吠えるな。


   ……ふふ。


   亜美さん、ちびに言って欲しい。


   ちび、あともう少しだけ時間を頂戴?
   直ぐに作って貰うから……ね?


   今朝は、特別に味噌入りだ……な、良いだろう?


   ……。


   ……。


   ……うん、良いみたい。


   はぁ……やれやれ。


   まことさん。


   ……ん?


   また後で……ね。


   ……後で?


   私は、顔を洗ってきます。


   あ、うん、分かった。


   ……。


   ……また後で、か。


   はぁ……今日も、良い天気になりそうね。


   ……へへ。


   封信は今頃、どの辺りまで……出来れば今日辺り、ふたりに。


   ……良し、美味しいごはんを作るか。


   どうか、何事もなく……。


  23日





   ……。


   ……


   亜美さん……。


   ……まことさん。


   何を考えているんだい……?


   ……特段、何も。


   本当に、何も……?


   ……ただ、ぼんやりとしていただけ。


   ふふ、然うか……。


   ……あなたは?


   うん……?


   ……あなたは、何を考えていたの。


   あたしも、何も……ただ、亜美さんの温もりを感じていた。


   ……然う。


   寒くはない……?


   ……暖かいわ、とても。


   寒かったら、直ぐに言って欲しい……。


   ……多分、言うことはないと思う。


   ふふ……。


   ……ねぇ。


   ん、なんだい……?


   ……明日の朝は、雑炊?


   其のつもりだよ……。


   ……然う、よね。


   亜美さんも、食べるだろう……?


   ……食べる、けど。


   朝だから、大丈夫さ……。


   ……肉も少し、残っているわ。


   少しくらいなら……。


   ……脂も、溶け込んでいるし。


   一日の始まりに食べるものならば、其の日を過ごす活力になって呉れる……だから、大丈夫さ。


   ……分かってはいるの。


   其れに、冬籠り中ではないし……。


   ……雪が降っていたら、頭を冷やすことが出来るのに。


   薄着で外に出るのは駄目だよ……躰を冷やして、風邪を引いてしまうかも知れないから。


   ……火照った躰を冷やすには、其れが手っ取り早いの。


   そんなことをするよりも……あたしと。


   ……きりがないから。


   きりなら、ちゃんとあるさ……冬籠り中は、雪掻きをしないといけないから。


   ……まことさんって。


   元気、だろう……?


   ……腰には、気を付けてね。


   ふふ、分かっているよ……。


   ……はぁ。


   ん……息が熱い。


   ……もう、しないから。


   然うか……残念。


   ……あっさりとしていた筈なのに。


   うん、あっさりしていたね……。


   ……其れなのに、どうしてこうなってしまうのかしら。


   あたしは、嬉しいよ……。


   ……知っているわ、まことさんはいつだって然うだもの。


   亜美さんは……嬉しくない?


   ……。


   今夜は、嫌だった……?


   ……嫌ではないから、ぼんやりしていたの。


   ……。


   ……つまり、余韻に浸っていたのよ。


   今夜も、可愛かった……。


   ……言わないで。


   濡れた瞳で、見つめられたら……我慢なんて、出来るわけがないんだ。


   ……此れでも。


   此れでも……?


   ……今夜は、大丈夫だと思っていたの。


   うり坊だったから……?


   ……思っていたのに。


   まぁ……久々、だったからね。


   ……山鳥は、平気なのに。


   猪の肉には、亜美さんを然うさせてしまう何かがあるのかも知れない。


   ……或いは、脂に。


   脂、か……都に居た頃は、猪肉は食べたことがなかったんだっけ。


   ……ないわ。


   若しも、食べていたら……。


   ……同じようになるかは、分からない。


   分からない……?


   だって……あなたが獲ってきた猪肉ではないもの。


   ……。


   其れに、都で売られているものは雪猪ではないし……。


   ……雪猪が、都の店に並ぶことはないか。


   私は、見たことがないわ……。


   ……亜美さんは、食べ物にあまり興味がないひとだったからなぁ。


   都に居た頃の私は……生命維持に必要な分だけ食べることさえ出来れば、其れで良かったの。


   でもまぁ、うっかり食べるようなことがなくて良かったよ。
   若しも、あたし以外の者と食べていたら……。


   ……多分、だけれど。


   ん……?


   雪猪のお肉を都で食べていたとしても、問題はなかったと思うの。


   ……然うかい?


   先刻も言ったけれど……あなたが獲った雪猪ではないもの。


   ……ん。


   何より……あなたが、居ない。


   ……あたし?


   然う……あなた。


   ……ふふ、然うか。


   ん……もう、駄目よ。


   ……火照りはもう、取れたのかい。


   もう、十分にしたもの……。


   ……もう一度、くらいなら。


   其れよりも、今は話がしたいの……。


   ……話?


   然う、話……。


   ……分かった、もう少し話そう。


   話し終わった後のことを、期待しているの……?


   ……していないと言えば、嘘になる。


   まことさんは、若い頃とちっとも変わらない……。


   ……亜美さんも、変わっていないよ。


   私は……其れなりに、歳を重ねたわ。


   ……亜美さんの魅力は、変わらない。


   ……。


   寧ろ……出逢った頃よりも、もっと魅力的になっている。


   ……其れは、変わっているのではないの?


   む、然うか……でも、良い方にだから。


   ……ね、出逢った頃っていつ?


   其れは、勿論……。


   ……初めての出逢い、其れとも。


   お前が、医生のたまごだった頃に決まっている……。


   ……あの頃の私に、魅力なんて感じて呉れていたの?


   無意識のうちに、な……。


   ……然うは、思えなかったわ。


   言ったろう……無意識のうちだと。


   ……表情が、分かり辛くて。


   仏頂面、だったからな……。


   ……何を考えているのかも、分からなくて。


   其れは、お前もだ……己は、お前のことがさっぱり分からなかった。


   ……だからこそ、あなたに興味を抱いた。


   ……。


   他人が苦手で……出来るだけ、関わりを持たないようにしていたのに。


   ……選りにも選って、己なぞに興味を持つなんてな。


   曰く、変わっているから……。


   ……本当に、お前のことが分からなかったよ。


   分からないから、私は知りたかったの……。


   ……。


   そして、あなたにも……私を、知って欲しかった。


   ……明日をも知れぬ、防人に。


   だからこそ、よ……。


   ……ん、お前。


   あなたが若しも、私を求めて呉れていたら……私は、応じていたかも知れない。


   ……まさか。


   残念ながら、そんなことはなかったけれど……。


   ……考えられない、考えられるわけがない。


   ふふ、然うよね……。


   ……。


   今だから、言えるのよ……。


   ……あの頃に言われていたら、己はどうしていたか。


   多分……二度と、口を利いて呉れなかったと思う。


   ……然う思うか。


   思うわ……だってあなたは、然ういうことを極端に嫌がっていたもの。


   ……。


   一度だって、望んだことはなかったのでしょう……?


   ……そもそもお前は、宛がわれる女ではなかっただろう。


   然うだけど……。


   ……触れるのも、触れられるのも、気持ちが悪い。


   ……。


   其れと……女であることを、知られたくなかった。


   ……ずっと、隠して生きていたのよね。


   あぁ、然うだ……知られたら、面倒だからな。


   ……其れなのに、私に知られてしまって。


   全くだ……挙句、命を拾われて。


   ……誰にも、言わなかったわ。


   みたいだな……。


   ……嫌われるのは、嫌だったの。


   嫌うも何も……。


   ……私のことなんて、どうでも良かった。


   どうでも良かったら……探したりはしなかっただろう。


   ……探す?


   傍に居ないと……な。


   ……。


   言わなかったか……?


   ……聞いて、いないわ。


   ならば……今、言ったから良いだろう。


   ……もう。


   ……。


   ねぇ、あなた……。


   ……なんだ。


   いつ頃から、私のことを意識して呉れたの?


   ……。


   ……探して呉れる程に。


   其れは……。


   ……其れは?


   分からない。


   ……。


   無意識だったんだよ……何処まで行っても。


   ……ふふ。


   可笑しいか……。


   ……そんなあなたのことが、好きよ。


   ……。


   口元が、緩んでいる……?


   ……まさか。


   嘘……。


   ……どうして然う思う。


   だって、今のあなたは……まことさんだもの。


   ……。


   ねぇ……?


   ……あの頃のようには、いかないな。


   ふふ……やっぱり。


   ……あの頃は、名も知らなかった。


   私は……知っていた筈なのに、忘れてしまった。


   ……お前が忘れるなんて。


   一度だけでも、呼んでおけば……。


   ……忘れなかった、か。


   ううん……其れでも、忘れてしまったかも知れないわ。


   ……だとしても、仕方ないことだ。


   ずっと、不思議だった……。


   ……不思議?


   どうして、忘れてしまったのか……あれは間違いなく、私の初恋だったのに。


   ……そんなもの。


   其れで、ふと気が付いたの……。


   ……何に。


   私の中に、もうひとりの私が居ること……。


   ……もうひとりの?


   然う……もうひとりの、私。


   ……どういうことだ。


   もうひとりの私は、痛みを……然う、痛みを引き受けて呉れた。


   ……痛みを?


   戦から戻った戦人、防人、医生……大抵の者は、心に深い傷を負っていた。
   中には立ち直ることが出来なくて……自ら、命を絶つ者さえ居たわ。


   ……。


   当然よ……悲惨で残虐、そんな言葉では到底言い表せない程の光景を、目の当たりにしてきたのだから。


   ……食うものも、ないしな。


   食べるものがなくて……中には。


   ……言わなくて良い。


   ん、ごめんなさい……。


   ……責めているわけじゃない。


   ……。


   其れで……?


   ……私は、思う程に、傷を負っていないことに気が付いたの。


   ……。


   確かに……確かに、痛みは感じていたのに。
   其れなのに……心を壊してしまう程ではなかった。


   ……其れで、もうひとりの自分か。


   可笑しな話でしょう……自分でも、分かっているわ。


   ……分からないわけではない。


   良いの……無理に、分かろうとしなくても。


   ……己の中にも、居る。


   あなたの中にも……?


   ……もうひとりの自分、雷公が。


   雷公……。


   そいつは……己の中でいつも、いつでも、笑っているんだ。
   痛みの大体はあたしが引き受けてやる、然う言いながら。


   ……あなたにも。


   だから、己は……あたしは。


   ……まことさん。


   思えば、そいつが記憶を抱えて込んで隠していたのかも知れない……亜美さんのことも。


   ……。


   うん……意味が、分からないなぁ。


   ……でも、分かるわ。


   亜美さん……。


   ……屹度、もうひとりの私が、痛みと共にあなたのことを抱えて隠していたの。


   ……。


   やっぱり、可笑しな話ね……。


   ……でも、分かるよ。


   うん……。


   ……。


   ……ねぇ、まことさん。


   なんだい……亜美さん。


   ……医生のたまごでしかなかった私を、魅力的だと。


   ……。


   いつ、感じて呉れたの……?


   ……其れは。


   今なら、言える……?


   其れは……思い出した時に。


   思い出した時……?


   ……防人だった頃の自分を。


   ……。


   亜美さんに一目惚れをして……結ばれて。亜美さんと過ごす時間が増えて……共に、生きるようになって。
   少しずつ、防人だった頃の自分が戻って来た……其の頃には、分からなかった感情を連れて。


   ……感情。


   其れでやっと、意識したんだ……。


   ……つまり、いつかは分からない。


   うん……ごめん。


   ……ううん、良いの。


   あたしは……己は、医生のたまごに惚れていた。


   ……どのたまご?


   此の流れで、聞くか……。


   ……駄目かしら。


   お前だよ……。


   ……。


   ……お前以外、居ないだろう?


   あぁ、良かった……。


   ……。


   ん……まこと。


   ……誰よりも魅力的だ、亜美。


   あ……。


   ……。


   ……したいの?


   したい……。


   ……あなたは、誰?


   あたしは……木野まこと。


   ……防人だった、あなた?


   然うだよ……防人だった、あたしだ。


   ……。


   ん……亜美。


   ……大好きよ。


   ……。


   大好きだったの……あの頃から。


   ……あたしも、大好きだ。


   愛しているの……。


   ……愛している、誰よりも。


   ねぇ……。


   ……なんだい。


   今のあなた……まことさんのまま、私のことをお前と呼んでみて。


   ……。


   ……呼ばれてみたい。


   でも……。


   ……嫌?


   お前だなんて……偉そうで。


   ……ふ。


   さんざ、呼んでいたのに……。


   ……呼んで呉れたら、しても良いわ。


   む……。


   ……だから、呼んで?


   亜美……お前。


   ……。


   呼んだ、けど……。


   ……ふふ、ぎこちない。


   ……。


   ……ねぇ。


   なに……。


   ……ちび、喜んでいたわ。


   猪肉……?


   ん……だからまた、あの子に獲ってきてあげてね。


   ちびと、ね……。


   ……うん。


   亜美……良いかい?


   ……。


   ……だめ?


   良いわ……。


   ……。


   来て……まこと。


  22日





   亜美さん。


   ……まことさん?


   今、少し良いかい?


   大丈夫ですよ。


   然うか。


   どうしました?


   うん、ちょっと戻って来た。


   何か、忘れ物でもしましたか?


   いや、忘れ物はしていない。


   ……何かあったのですか?


   実は。


   ……はい。


   うり坊が、獲れた。


   ……はい?


   うり坊が獲れたんだ。


   ……遅い朝ごはんを食べて、畑に行ったのですよね?


   うん、畑に行った。


   山ではなく。


   間違いなく、畑に。
   然うしたら、うり坊が獲れた。


   ……兎。


   背中にうり坊特有の縞模様があって、鼻は前に長く大きかったが、耳は長くはなかった。
   躰も兎より大きくて、跳ねることなく、とことこと歩いて、いや小走りと言うのだろうか。


   ……菠菜を、収穫したのではなく。


   菠菜は未だ、収穫していないんだ。


   ……全く、ですか?


   うん、全く。
   つい先刻まで、捌いていたから。


   ……だから、入って来ないのですね。


   一応洗っては来たけれど、家の中に入る時は改めて濯いでくる。


   ……どのようにして、狩ったのですか?


   ちびとあたし、一匹とひとりがかりで狩ったんだ。
   ちびが威嚇をしてから咬み付き、あたしが止めを刺した。


   ……。


   本当にうり坊だったんだ。
   とことこと畑に来て、菠菜をもしゃもしゃ食べていた。


   ……親は。


   警戒しながら様子を窺っていたのだけれど、其れらしきものの気配はなく、姿も見えなかった。
   恐らくは、逸れうり坊だろう。親と逸れたか、或いは、亡くしたか。


   ……きょうだいも。


   居たのは、一匹だけだった。


   ……お怪我は。


   ちびもあたしも、大丈夫。ちびが上手くやって呉れたんだ。
   あいつは狩りも優秀で、とても勇敢な子だ。


   本当に、獲れたのですね。


   うん、本当に獲れた。
   というわけで、今夜は猪鍋にしようと思う。


   はぁ……。


   ……嫌かい?


   いえ、驚いてしまって……そんなことも、あるのですね。


   あたしも驚いたよ。本当に久しぶりなんだ、あたしの畑に猪が来たのは。
   ましてや、うり坊が一匹だけで来るだなんて。そんなことは一度もなかった。
   猪は本来、臆病で警戒心が強い獣だから……まぁ、数匹で来ることは、たまにあったが。


   数匹……うり坊だけで来たのですか?


   あぁ、一列に並んで、とことこと小走りで来たんだ。
   其の時も、親の姿は見当たらなかった。やっぱり、逸れたのだろう。


   成獣よりも、警戒心が薄いのでしょうね……其の時も、捕まえたのですか。


   残念ながら、全ては捕まえられなかった。
   一匹を仕留めている間に、まんまと逃げられてしまって。


   ……然うですか。


   今朝のうり坊は、躰が未だ小さかったから秋子だと思う。
   だから、余計に警戒心が薄かったのかも知れない。


   ……其れで、たまたままことさんの畑に。


   畑の周りにちびが居れば、近寄ることもなかったんだろうが。
   今日はたまたま、離れている時間が長かったから。


   ……傍に居なくても、ちびのにおいは残っているだろうに。


   鈍かったのか、犬のにおいを知らなかったのか。
   なんにせよ、ちびに向かって来たのがまずかった。


   ちびに向かって来たのですか?


   威嚇されて一瞬怯んだのだけれど、体勢を整えて頭から突っ込んで来たんだ。
   怯んで、其のまま山に逃げ帰ってしまえば……まぁ大して食われていなかったし、見逃しても良かったんだけど。


   ……うり坊の頃から、猪突猛進ということでしょうか。


   若しかしたら、ちびとあたしを見て混乱していたのかも知れない。


   あぁ……其れは十分に有り得ますね。


   勢い良く突っ込んできたものだから、ちびの本能に火が着いてしまってね。
   こうなってしまったら仕方ないと思って、ちびと其の場で仕留めた。
   ちびは肉が食えると思ったんだろう、尻尾を振りながら嬉しそうに吠えてさ。


   でしたら、夕ごはんに食べさせてあげますか?


   食べさせなかったら、機嫌を損ねてしまうだろうから。


   確実に損ねると思います。
   うり坊を仕留めたのは自分の手柄、だと思っているでしょうし。


   あぁ、思っているだろうなぁ。
   あたし達の取り分は減ってしまうけれど、良いかい?


   勿論、構いません。


   と言うわけだ、ちび。
   良かったな。


   夕ごはんがご馳走になって良かったわね、ちび。


   良し、ちび。先に畑に戻って呉れ。
   若しかしたら、また来るかも知れないからな。


   お願いね、ちび。


   ……。


   ……まことさん、うり坊は何処で。


   うん、畑から離れた場所で。
   今日は何故か、獣用の鉈を持っていたから。


   珍しいですね。


   ん……なんとなく、持って行こうと思って。


   ……予感めいたものでも、あったのでしょうか。


   然うかも知れない。


   ……。


   取り敢えず、肉は塩水に付けて土間に置いておく。
   寒いから、其れで大丈夫だろう。


   はい、お願いします。


   ……患者さんは、居ない?


   今は。


   然うか。


   ……少し、休んでいきますか。


   ん……少しだけ。


   ……分かりました。


   ふぅ……。


   ……お茶でも飲みますか。


   ありがとう、でも大丈夫だ。


   ……飲みたくなったら、言って下さいね。


   ん。


   ……。


   ……。


   ……ねぇ、まことさん。


   なんだい……?


   ……風邪が、本格的に流行り出したようです。


   然うか……あたし達も、気を付けないといけないな。


   ……はい。


   朝の患者さんは未だ、熱は出ていなかったようだが……。


   ……喉の痛みと、寒気を感じているようだったので。


   出るかも知れないな……。


   ……発熱しても、酷くならないように。


   うん……。


   ……。


   然し……本当に久しぶりだ。


   ……。


   まさか、うり坊に菠菜を食われるとは……芋や豆ならば分かるが。


   ……若しも。


   うん……?


   ……朝餉が、いつも通りだったら。


   今夜の夕餉は、魚か大根だっただろう。


   ……。


   猪は何でも喰うと言うから、山に居れば、うり坊でも喰うことには困らない筈だ。


   ……雪が降れば、其れも困難になります。


   ……。


   本来、猪は降雪地帯には生息しません……雪にとても弱い獣と言われていますので。


   ……此の辺りの猪は、雪が降る頃になると穴倉で眠るんだ。


   雪猪……とても稀で、珍しい種です。


   然うか……眠る為には、喰っておかなければならないのか。


   ……或いは、他の獣に追われた可能性もあります。


   然うなると……喰うものだけあっても、か。


   親と逸れたのならば、守って呉れる存在が居ないわけですから。


   ……親が傍に居なければ、狙われてもおかしくはないものな。


   秋子ならば、躰もまだまだ小さいでしょうし……。


   ……。


   ……山で、うり坊を襲う存在と言えば。


   鷹……猪も、うり坊を喰うと聞いたことがある。


   ……子殺し、ですね。


   雌は生まれたばかりの仔を喰うが、雄はうり坊でも喰うと。


   ……雄の場合は捕食以外にも、雌の発情を促すということもあるのかも知れません。


   発情?


   子育てをしている雌は発情しない……獣の世界ではよくあることです。


   雌が傍に居ない場合は。


   ……ただの餌に過ぎないのでしょう。


   雄とは兎も角として……雌が産んだ仔を喰うのはなぁ。


   ……其れもまた、自然の摂理でしかないのだと。


   自然の摂理か……。


   ……うり坊が、親と逸れたのも。


   そして、あたし達に食べられるのも。


   ……有り難く、頂きましょう。


   あぁ……然うしよう。


   ……喉は、乾いていませんか。


   ん、平気だ……ありがとう、亜美さん。


   ……いえ、しつこいようで。


   そんなことはないよ。


   ……。


   なんだか、今日は落ち着かない日だなぁ……。


   ……未だ、お昼にもなっていないのに。


   ふふ、然うだねぇ……。


   ……レイさん曰く。


   ん……?


   ……親子猪に畑を荒らされて怒ったまことさんが、雷公の如く、怒りの鉄槌を喰らわしてからと言うもの、まことさんの畑にだけは近寄らなくなったと。


   そんな大仰なものではないが……罠を仕掛け、夜も見張り、捕らえた猪は片っ端から肉にし、そんなことを繰り返していたらいつの間にか来なくなったんだ。
   其の代わり、他の畑に多く出るようになってしまったが……防人の能力が役に立つとは、よもや、思っていなかったな。


   ……他所の畑に行った猪達に対しても、まるで殲滅するかの如く、捕まえてお肉にしたそうで。


   うん、其処までではないかな……現に、今でも猪は居るし。
   まぁ、罠を仕掛けて捕らえた猪は、片っ端から肉にして、村の者に分けてはいたけど。


   ……やっぱり、片っ端からお肉にしていたのですか。


   勿論だ、畑を荒らすことに味を占めてしまった猪は、放っておけば何度でも来る、親子で来る、子が親になったら子を連れて来る。
   なんせ、絶好の餌場だからね。其れこそ、畑の作物が全滅するまで。であるならば、片っ端から捕まえて肉にするしかない。


   ……其れでいつの間にか、近寄ることもなくなった。


   あたしはただ、対処をしていただけなんだ。猪が捕まれば肉が食えると、村の皆も喜んでいたし。
   特に冬籠り前の猪肉は重宝されたよ。あれ程、精力が付く食糧はないからさ。


   ……あとは、弓で射ったとも。


   あたしも、若かったから。


   ……今も尚、弓を使って狩りをしています。


   腕と感覚が鈍らないように、ね……。


   ……此の村に来なくなった猪は、今。


   美奈曰く、他の村により出るようになったらしい。


   ……猪の知能は思いの外高くて、学習能力があると言いますものね。


   だから、わざわざ山に入って狩ってくるんだけど……最近はあまり、姿を見せて呉れないんだよ。


   まさに、天敵ですね……。


   天敵? あたしが?


   猪の天敵は人間と言いますが……此の辺りの猪にとっては、まことさんが天敵なのでしょう。


   でも、あたしひとりではないしなぁ……美奈の家の者も狩りに行くし。
   なんだったら、村に来る猪も狩っていたし。猪肉は食えるだけでなく、金にもなるからさ。


   猪にとって、此の村は最早天敵だと認識されているのだと思います。
   其の中でも特に、まことさんが……恐れの対象かと。


   他の村も、似たようなものだと思うけれど……猪肉は、美味いし。


   ……確かに、美味しいですが。


   まぁ、絶えてはいないから。


   ……猪の繁殖速度は、ひとのこの其れよりもずっと早いので、絶滅したら其れは其れで凄いことかと。


   若しも絶えていたら、ちびに食べさせることも出来なかったな……。


   ……あの、まことさん。


   うん?


   ……しつこいようですが、本当に猪の子なのですよね?


   あぁ、本当に猪の子だよ。
   確かめて見るかい?


   いえ……もう、お肉になっていますし。


   うり坊だから、肉が少ないんだ。


   ……其れは、仕方がありません。


   どうせ来るのなら、一匹だけでなく何匹かで来て欲しかった。
   今ならちびが居るから二匹、いや三匹でも対処出来る。


   ……一頭だけでも、有り難いですから。


   ん、然うか。


   然うですよ。


   うん、然うだね。


   ……。


   さて……そろそろ、戻るか。
   いい加減、菠菜の収穫をしなければ。


   今日は、川には。


   一応、仕掛けだけ見てくるよ。


   ……どうします、大漁だったら。


   其れは……然うなったら、笑ってしまう気がする。


   数年に一度、あるかどうか。


   あったとしても、滅多にないな。


   ……くれぐれも、気を付けて。


   うん、ありがとう。
   では、また行ってくる。


   はい、行ってらっしゃい。


   あぁ、然うだ。


   はい、なんでしょう。


   亜美さんは往診、いつ頃行くんだい?


   お昼を過ぎたら、行ってこようと思います。


   お昼は、食べていく?


   そのつもりで居ます。


   ならば、一緒に食べよう。


   はい、一緒に食べましょう。


   昼は、朝の残りの粥に菠菜でも入れようか。


   其の為には、今度こそ、収穫してこないといけませんね。


   はは、確かに。


   ……。


   其れじゃあ亜美さん、また後で。


   はい、また後で……まことさん。


  21日





   ……。


   ……ちび?


   ……。


   ありがとう……迎えに来て呉れたのね。


   亜美さん。


   ……まことさんも。


   鞄、持つよ。


   ……ありがとうございます。


   うん……。


   ……ちびはもう、ごはんを食べたのですか。


   あぁ、今朝もちゃんと食べた。
   相変わらず食べるのが早くて、あっという間に器の中がきれいになってしまったよ。


   然うですか……ちび、まことさんが作って呉れたごはんは美味しかった?
   満足……? ふふ、然う……良かったわね。


   ちび、亜美さんが帰って来るのを待っていたみたいなんだ。


   私を?


   食べ終わったら、寝床に行って休む……其れは、いつもと変わらなかったのだけれど。
   横になって目を瞑っていても、耳が立っていて、じっと辺りの気配を探っているようだった。


   ……元々、警戒心が強い子ではありますが。


   あたしには、亜美さんが帰って来る足音を、匂いを、ひとつたりとも逃すまいとしているように見えたんだ。


   ……然うなの、ちび。


   起きても、未だ亜美さんが帰って来ていなかったからか、家の周りをひたすらにぐるぐると走り回ってさ……兎に角、落ち着きがなかったんだ。
   でも急にぴたっと止まって、あたしに向かって一声吠えたと思ったら、うさぎちゃんの家がある方角へ駆け出した。
   其れで、亜美さんが帰って来たのだと思って、ちびを追い掛けたんだ。


   ……まことさんも、待っていて呉れたのですか。


   あぁ、あたしも待っていた。
   亜美さんが帰ったら、朝ごはんを一緒に食べようと。


   ……食べずに、待っていて呉れたのですか。


   いつもなら先に食べて畑に行くのだけれど、今朝は待っていようと思ったんだ。


   ……畑には、未だ。


   未だ、行っていない。
   食べたら、行こうと思っている。


   ……大丈夫なのですか。


   あぁ、大丈夫だ。
   今日は収穫だけだから、なんとでもなる。


   ……お腹。


   待っている間は、感じなかった。
   でも、今は感じている。亜美さんの顔を見たから。


   ……早く、帰りましょう。


   うん、帰ろう。
   ちび、行くぞ。


   ……診療所には、誰か来ていますか。


   いや、未だ誰も。
   でもそろそろ、誰か来るかも知れない。


   ……。


   亜美さん……。


   ……歩きながらでも、話を聞いて呉れますか。


   あぁ、勿論だ……。


   ……初めに、あの子のことですが。


   どうだった……?


   ……見られた症状は、主にふたつ。


   ふたつ……。


   ……先ずは、食欲不振。


   食欲……あまり、飲まないのか?


   ……全く飲まないわけではないようなのですが、飲む量が普段よりも少ないと。


   其れは、何が原因で……。


   ……恐らく、ふたつめの症状が関係していると思われます。


   ふたつめ……其れは、なんだい。


   ……黄色がかった紅斑が、特定の場所に広がるようにして出来ていました。


   紅斑……まさか。


   いえ……症状としては、赤子湿疹によく見られるものだと。


   あかご、しっしん……ということは、あれとは違うのかい?


   ……瘡毒の場合だと、手の平や足の裏に特徴的な水疱性発疹、又は銅色の斑状皮疹、鼻及び口の周囲やおしめの当たる部位の丘疹状病変、点状出血性病変などが出現します。


   う、うん……。


   あの子は、頭部の生え際から額全体、其れから、鼻の横から口角にかけて、乾燥し黄色がかった紅斑が広がるように出来ていた……此れは、瘡毒のものとは違うものです。


   ……つまり。


   瘡毒では、ありません。


   そ、然うか……良かった。


   ……。


   其れは、ちゃんと治るんだろう?


   成る可く肌を清潔に保ち、保湿、つまり乾燥させぬようにしていれば、自然に治癒しますが……念の為、お薬も煎じておきました。
   少し苦味がありますが、うさぎちゃんのお母さんなら上手に飲ませて呉れると思います。


   食欲不振が其れから来ているのならば、治れば元に戻る?


   元に戻るかは当面の間、様子を見てからの判断になります……若しかしたら、他の要因があるかも知れませんから。


   ん、然うか……ないとは、言えないものな。


   季節の変わり目で、体調を崩し易くなっています……其れは、赤子も例外ではありません。


   毎日、診てあげるのかい?


   ただの赤子湿疹ならば定期的でも良いのですが、あの子の場合は出来るだけ……二日に一度程度は、診ておこうと。


   其れは、他の者に伝染る?
   例えば、弱っている者に伝染り易いとか。


   いえ、其れはありません。


   だったら、いつものように預かっても良い。
   今年の畑も落ち着いて、此れからは家に居る時間を増やせるから。


   其れでも構わないと、うさぎちゃんのお母さんには伝えてきました。


   うん。


   ……。


   ……亜美さん。


   あのひとの、ことですが。


   ……うん。


   今朝は……自分が何処に居るのか分からなくて、錯乱状態に陥ったようなのです。


   錯乱状態……。


   ……兎に角暴れて、ふたりがかりで漸く抑えたと。


   ふたりがかりで……躰が弱っているのにかい?


   然うです……そして其の挙句、下女から力尽くで櫛を取り上げたそうです。


   櫛を……?


   ……髪を梳いて貰うことが、朝の日課となっているそうで。


   ……。


   取り上げた櫛を、振り回して……最終的には、自分に向けた。


   櫛を向けたところで……いや、まさか柄で。


   ……喉を、突こうとしたと。


   な……。


   櫛を見せて貰ったのですが、柄の先は其れ程尖っているものではなく……其れでも、其れで喉を突くのは非常に危険です。


   ……ふたりがかりで抑えたということは、暴れる力は尋常なものではなかったのだな。


   箍が、外れていれば……所謂、火事場の底力に近いものがあるのかと。


   ……成程、其れなら分かる。


   刃物、尖ったもの……兎に角、躰を傷付けるようなものは傍に置かないよう、言っておいたのですが。


   ……奪われたら、どうしようもないな。


   今後は此のようなことがないよう、十分に努めるとは言っていましたが……。


   ……今は、どうしている?


   今は、落ち着いて眠っています。


   ……薬は。


   ……。


   ……亜美さん?


   心の平静を取り戻し……もう一度、良く眠れる薬を。


   ……あぁ。


   とは言え、本来の用途は眠り薬ではないので……。


   ……取り敢えず、一時だけでも落ち着いて呉れれば良い。


   はい……。


   ……躰の発疹の方は。


   変わらず……です。


   ……精神状態にも、影響が出て来たと言えるのかい。


   然うですね……言えると思います。


   ……一昨日までは、然程でもなかったのに。


   少しずつ……けれど、確実に。
   心を蝕まれているのでしょう……。


   ……あの子と会わせるのは。


   今は……あの子も赤子湿疹の症状が出ているので。


   ……然うだな、其の方が良い。


   赤子湿疹は……心に掛かる負荷に因っても、発症すると言われています。


   心の……?


   ……赤子とは言え、心はちゃんとありますから。


   確かに……機嫌の良し悪しもあるしな。


   心に負荷を掛けるようなことがあれば、今よりも紅斑が、其れこそ躰中に広がり、症状が悪化してしまうかも知れません。
   悪化すると皮が剥がれ、痒みを伴うようになります……然うなると、食欲不振だけでなく、夜も眠れなくなってしまうでしょう。
   であるならば、治癒するまで会わせるべきではない。其れは、美奈子ちゃんにも伝えておきました。


   ……然う、か。


   今は、あのひとの精神状態も良くありません……尚更、同じ場所に居るべきではないのです。


   ……若しかしたら、傷付けてしまうことも考えられると。


   残念ながら……ないとは、言えません。


   ……。


   分からなくなってしまうのです。


   ……子供のことも。


   忘れてしまうと言った方が正しいのかも知れません。
   瘡毒の恐ろしい症状は、躰だけではなく……其の心も、蝕んでいくこと。
   弱る程に、どんどん分からなくなっていく……見知った者、自分の状態ですらも。


   ……酷いものだ。


   ……。


   亜美さん……。


   ……生きる為に、躰を削るのに。


   ……。


   結局、命を削ってしまう……。


   ……然ういう女は、多く居る。


   ……。


   ん……ちび、なんだ?


   ……どうしたの?


   若しかして、早く帰ろうと言っているのか……然うか、然うだな。


   ……然うね、早く帰りましょう。


   亜美さん、ごはんは食べられそうかい?


   ……はい、食べられそうです。


   ん、良かった。


   今朝は何を作って呉れたのですか。


   今朝は大根粥と大根と芋の煮物、其れから大根の葉の味噌汁だ。


   あぁ、美味しそうですね。


   お腹、空いているだろう?
   力を付ける為にも、たんと食べて欲しい。


   ……。


   ん?


   ……どうやら、思い出したようです。


   思い出す?


   ……空腹を。


   ……。


   良かった……思い出して呉れて。


   ん……本当に。


   ……封信。


   ……。


   未だ、届かないと思いますが……。


   ……一刻も早く、届いて欲しい。


   祈るような、気持ちで……。


   ……。


   祈りなど……医生には、相応しくないとしても。


   ……医生と雖も、ただのひとのこでしかないよ。


   ええ、然うね……。


   ……。


   此の祈りは……あなたが、防人だった頃にも。


   ……亜美さん。


   はぁ……。


   ……お前。


   ん……。


   己(おれ)の無事を、祈って呉れていたのか……?


   ……然うよ、悪い?


   いや、悪くはないが……駒でしかない防人の無事を祈るだなんて、奇特な奴だな。


   ……だって、あなたは私の特別だったんだもの。


   特別……。


   ……そんな感情、本当は抱いてはいけなかったのに。


   お前は、変わっていたからな……。


   ……あなたには、言われたくないわ。


   何を言う……。


   ……あなたこそ、何を言っているの?


   ……。


   ……ふ。


   はは……。


   ……。


   ……お前の祈りが、届いたな。


   然うだったら、嬉しいわ……。


   ……然ういうことに、しておけ。


   あなたが、言うのなら……。


   ……。


   ……あなた。


   お前の……亜美さんの祈りが届くように、あたしも祈ろう。


   ……。


   祈ったことなど、ろくにないから……大した力には、ならないかも知れないけれど。


   ……そんなことは、ないわ。


   然うかな……。


   ……然うよ。


   なら、亜美さんと一緒に……。


   ……ええ、一緒に。


   ……。


   ……今日は、良い天気になりそうですね。


   あぁ、然うだな……。


   ん……なぁに、ちび。


   分かってる、早く帰ろうと……うん?


   ……まことさん?


   患者さん、か……?


   ……え。


   ちび、然うなのか?


   ……だとしたら、急がないと。


   先に行く、亜美さんは後から


   いえ、私も行きます。


   ん、然うか。


   急ぎましょう。


  20日





   ちび、良かったな。嵐は何処かに行ったぞ。
   あぁ、分かった分かった。今外に出してやるからな。


   ちび、外は雨上がりで濡れているから、足元には十分に気を付けて。
   汚れてしまうのは仕方ないけれど、滑って転がり落ちないように。
   あと、朝ごはんはもう少し待っていてね。


   今日のお前の仕事は、家や畑の見廻りだ。
   何かあったら直ぐに鳴いてあたしに知らせるんだぞ、良いな。
   良し、行け。今日も宜しく頼むぞ、ちび。


   行ってらっしゃい、ちび。
   ごはんが出来たら、呼ぶからね。


   ふふ、嬉しそうだな。


   あの子は家の中より、外の方が良いようですから。


   まぁ、犬だしなぁ。


   家の中は、今のあの子には狭いですよね。


   狭い上に、大人しくしていなければならないから、息苦しさを感じるのかも知れない。


   連れて来た頃は土間に居たのに。


   暫くの間は、うろうろとして落ち着かなくてね。
   やっぱり外の方が良いのかと思って外に出せば、ちょこっと歩いたくらいで戻って来てしまってさ。


   外は未だ、怖かったのでしょう。
   慣れない場所、ということもありましたし。


   其のくせ、家の中では落ち着かない。
   うろうろしたり、ひぃひぃ鳴いたり、兎に角落ち着きがなかった。


   また、切ない声で鳴くんですね。
   構ってあげないといけないような。


   然うなんだよなぁ、だけど、そんなことをしている暇もなくてなぁ。
   いっそのこと、畑に連れて行こうと思って外に出したら、直ぐに亜美さんの所に戻ってしまって。


   畑は、流石に早かったのでしょう。


   あの頃のちびは、外から戻ると必ず、亜美さんの足元に行って甘えるんだ。


   あら、まことさんの傍にも行きましたよ?


   においを嗅ぎにね。
   どういうわけだか、あたしはにおいを嗅がれてばかりいた。


   仔犬の頃から、まことさんのにおいが好みだったのかも知れません。


   あたしは、亜美さんのにおいの方が好きだけどなぁ。


   まことさんの話はしていません。


   はい。


   其れに私も嗅がれていましたよ。
   においを嗅ぐことは犬の習性なのでしょう。


   ……。


   まことさん。


   ん、なんだい?


   今、何か考えていましたね。


   いや、別に何も。


   本当に?


   ……亜美さんは良い匂い。


   はぁ。


   ……ごめんなさい。


   まぁ、良いですけれど……。


   ……ん。


   考えてみれば、まことさんも犬のようなところがありますしね。


   ……え?


   直ぐに、私のにおいを嗅ごうとしますし……実際、嗅ぎますし。


   いや、其れは……犬とは、違うと思うんだ。


   然うでしょうか。


   然うだよ。


   大して変わらないような。


   いやいや、そんなことはない。
   ちびには、然う、下心がないだろう?


   ……。


   あれ。


   ……もう少し、違う言い訳があると思うのですが。


   あ、えと……。


   ……全く、まことさんは。


   はは……面目ない。


   ……。


   ……亜美さん?


   ちびの寝床、直してあげないといけませんね。


   あぁ、ゆうべの雨でやられてしまったか。
   取り敢えず、筵を乾かしてやらないと。


   今更ですが、屋根のような雨避けを作ってあげることは出来ないでしょうか。


   屋根……?


   一応、軒下にはありますが……もう少し、寝床を守って呉れるような。


   寝床の雨避け、か……確かに、あると良いかも知れない。


   ……作れないでしょうか。


   作れなくもないけれど、作るには手頃な材料が必要になってくる。
   其の材料を、どう集めるか……山に行けば木はあるけれど、あたしでは切り出せないし。


   ……矢張り、難しいですよね。


   筵でも雨避けにはなるが……うん、少し考えてみるよ。


   本当ですか。


   うん。


   ありがとうございます、まことさん。


   亜美さんも何か良い案が浮かんだら、教えて欲しい。


   はい、勿論です。


   美奈の家に何か良いものでもあれば良いんだけどな。


   今度、さりげなく聞いてみましょうか。


   頼めるかい?


   はい、勿論です。


   では、あたしも村の者に聞いてみよう。


   診療所に来る人達にも聞いてみますね。


   ん、亜美さんの方が良い話が集まりそうだな。
   ならば、あたしは良いものがないか探してみるか。


   まことさんはレイさんに聞いてみて下さい。


   レイ?


   レイさんは診療所に来ることが滅多にありませんから。


   あぁ、然うか。
   滅多に診療所に来ない者には、あたしが聞けば良いのか。


   お願いします。


   うん、分かった。


   ……思えば。


   うん?


   ……土間の片隅の寝床も、まことさんが作ってあげたんですよね。


   あぁ、筵と藁を敷いた簡単なものだったが。


   ……そして、此処がお前の居場所だと優しく言い聞かせた。


   初めの頃は、なかなか聞いて呉れなくて大変だったよ。
   夜になると、亜美さんの布団に入ろうとして。何度、駄目だと言い聞かせたことか。


   未だ、仔犬でしたから。


   とは言え、ひとのこでも話を聞かない奴はごまんと居る。
   であるならば、仔犬の方が良いかも知れない。


   仔犬だと思えば、諦められるからですか?


   其れもある。


   も?


   ちびは、可愛いだろう?


   あぁ。


   余程のことをしなければ、許せる。


   私のお布団に入るのは、決して許しませんでしたが。


   布団が汚れてしまうからね。
   其処は、ちゃんと分けないと。


   其れでも、近くに筵を敷いて寝かせてあげましたね。


   亜美さんから離すと、夜泣きをするから仕方なく。


   仔犬も夜泣きをするものなのだと、驚いたものです。


   また放っておけないような声で鳴くものだから、本当に仕方なく。


   今思えば、まことさんを呼んでいたのかも。


   いや、あたしではないな。
   ちびはあたしの布団には入ろうとしなかったから。


   素直ではないんです。


   犬にもあるのか……。


   夜泣きをするのですから、あると思います。


   今は、どうだろう?


   今も、素直ではありませんね。
   仔犬の頃からなので、一朝一夕で変わるのは難しいかも知れません。


   はぁ……。


   けれど、言うことを聞くべき時はちゃんと聞くでしょう?


   あぁ、ちゃんと聞く。


   賢い子です。


   ……。


   何です?


   いや……まるで、本当の子供のようだなって。


   私はもう、其のつもりです。


   え?


   だって、可愛いですから。


   そ、然うか……まぁ、良いけれど。


   まことさんは、然う思っていませんよね?


   あたしは……ちびは、ちびかな。


   別に良いんです、同じでなくても。


   ……。


   ちびという名前……今思えば、安直過ぎたかも知れませんね。


   ……小さかったから。


   もう少し、考えても良かったと。


   ……今だったら、なんと名付けたい?


   然うですね……ころころしていたから、ころでしょうか。


   ころ……。


   ……おかしいですか?


   いや、此処に来た頃は、そこまでころころはしてなかったなぁと。
   どちらかと言うと、痩せていて……ひょろっとしていたような。


   ころころと走り回って、ちゃんとごはんを食べるようになったら、躰もころころとして。
   仔犬の頃のちびは全体的に、丸っこい印象だったんですよね。顔も丸かったし。


   ころころ……言われてみれば、ころころしていたかも。


   けれど今更、変えようとは思っていません。
   ちびも、自分の名前はちびだと思っているでしょうから。


   ……。


   まことさんが呼ぶと、直ぐに反応するんですよ。


   ……然うかな。


   然うです。


   ……亜美さんが呼ぶと、直ぐに駆け寄って来るけれどね。


   可愛いですね。


   ……子供、か。


   良いんです、同じでなくても。


   いや……亜美さんの子ならば、あたしにとっても。


   無理はしないで?


   無理は、していない。
   言われてみれば、あたしも子のように接していたかも知れないし。


   ……。


   夜泣きまでされたら、ね。


   ……はい。


   赤子と言うのは、然ういうものなのだろうか。


   猫の仔も夜泣きをすると聞いたことがありますから、然うなのかも知れません。


   え、猫の仔もかい?


   以前、うさぎちゃんから聞いたことがあるんです。
   なんでも、不安になると鳴くのだとか。


   はぁ、然うか……。


   ……曰く、あまり構ってはいけないそうです。


   ひとのこの赤子のように……?


   ……構って貰えると思ってしまうそうで。


   はぁ……でも、言われてみれば然うだな。


   ……暫くの間は、あやしていましたものね。


   だって……あまりにも、寂しそうに鳴くものだから。


   若しかしたら、体調が悪くて鳴いているのかも知れませんしね。


   然う、然うなんだ。


   まことさんも、十分に甘いです。


   ……うん、然うだね。


   いつからでしょうか……夜泣きをしなくなったのは。


   うーん、然うだな……躰が、ころころしてきた頃からかな。


   ……ころ。


   変えるかい?


   ……いいえ、ちびで。


   ふふ、然うか。


   ……。


   ……ちびは、今日も元気だ。


   はい……とても元気そうです。


   犬は、元気に走り回っているくらいで丁度良い。


   でないと、心配になってしまいますものね。


   其れは、お互いさまだろう?


   ふふ……はい。


   あとは、ごはんを食べなくなっても心配だ。


   食欲低下は体調不良の前触れである可能性が高いですから。


   ずっと、良く食べて、良く走り回っていて欲しい。


   ……。


   ん、なんだい?


   ……親のようですね?


   亜美さんも、ね。


   ……ふふ。


   はは。


   ……。


   さて、先ずはちびの朝ごはんを作ろうか。


   ……はい、然うしましょう。


   今朝はどうするかな、やっぱり大根雑炊かな。


   良いと思いますよ、あの子もまことさんが作ったお大根が好きですから。


   大根ばかりで、飽きないだろうか。


   大丈夫です、他のものも入れていますから。


   然うだな、今朝は卵がないから芋を入れよう。


   あの子は、お芋も好きですよ。


   あぁ、良く食べて呉れる。
   でも一番は、肉だな。


   お肉だと、兎も鳥もよく食べて呉れますが、特に猪肉が好きみたいですね。
   食べ終わると、もっと欲しいという顔をして。


   なかなか贅沢な子だ。


   なかなかあげることは出来ないので、たまのご馳走ということで良いのではないでしょうか。


   あぁ、其れで良いと思う。
   と言うより、然うでないと困る。


   ふふ。


   明日は、兎でも狩りに行こうかな。


   行きますか?


   昨日頑張って呉れたから、肉を食わせてやりたい。


   ……干し肉なら、ありますよ。


   其れは、冬籠りの為の食糧だから今は未だ駄目だよ。


   はい、然うでした。


   うり坊でも獲れれば良いんだけれど、親が居ると厄介だからな。


   ……うり坊。


   亜美さん?


   ……。


   ……狩らない方が、良いかい?


   いえ……あっさりしていて、食べ易いと。


   ……。


   ……躰が熱くなってしまうことも、あまりありませんし。


   干し肉……。


   駄目ですよ、其れは冬籠りの為のものなので。


   ……はい、其の通りです。


   話は変わりますけれど、今日は菠菜の収穫をするのですか。


   あぁ、其のつもりだよ。
   今日全て、収穫してしまうつもりだ。


   然うですか。


   其の後、川に行ってこようと思う。


   お魚、掛かっていると良いですね。


   あぁ、掛かっていたら今日の夕餉は魚だ。


   ちびも?


   骨を取るのが面倒でなければ。


   少しくらいなら、食べさせてあげましょう。
   今日も、働いて呉れているのですから。


   うん、然うしよう。
   亜美さんは、今日は往診はあるのかい?


   はい、一件だけ。


   然うか。


   ……此の時期は。


   ん?


   ……少しだけ、朝がゆっくりで。


   ……。


   ん……まことさん。


   ……冬籠りが始まったら、もっとゆっくり出来る。


   朝は、ゆっくり出来るかも知れませんが……雪掻きがあります。


   ……また、頑張らないとなぁ。


   腰には気を付けて下さいね……。


   ……何かあったら、ちびに亜美さんを呼んで来て貰うから大丈夫だ。


   もぅ……其れは、大丈夫だとは言いません。


   ……。


   まことさん……そろそろ。


   うん……ん?


   ……何ですか。


   ちびが、戻って来た。


   え。


   どうした、ちび。
   何かあったのか?


   若しかして、ごはん?
   ごめんなさい、未だ作っていないの。


   出来たら呼ぶから……ん、なんだ?


   向こうに、誰か居るのでしょうか。


   また、美奈か?


   ……。


   いや、違うな……あれは。


   ……うさぎちゃんのお母さん。


   こんな朝からどうしたんだ。
   まさか、あの子に何かあったのか。


   ……或いは、あのひとに。


  19日





   ちび、卵入りの大根雑炊は美味かったか……ん、然うか。
   一応は、満足したか……其れは、良かった。


   あっと言う間に食べてしまいましたね。


   腹が減っていたのだろう……と言いたいところだが、普段から早いからなぁ。


   見ているとあまり噛まずに飲み込んでいるようなので、いつか喉に詰まらせてしまわないかと。


   たまに咽ている時があるから、詰まらせないということはないかも知れないな。


   ちび、あなたが食べ易いように細かくはしているけれど、出来ればもう少しゆっくり食べてね。


   然うだぞ、ちび。此処には、お前のごはんを奪う奴は居ない。
   お前を狙う奴も居ない。だから、ゆっくり食べても良いんだ。


   兎に角、喉に詰まらせるようなことがないように……。


   ……。


   ……。


   ……返事はしたが、あれは分かっていないな。


   然うですね……あの返事は分かっていないと思います。


   咽ると言えば、ひとのこは歳を重ねる程に飲み込む力が弱くなっていくと言うだろう?
   お茶を飲むだけで咽てしまう、酒も満足に飲めないと……美奈の親父殿が、そんな愚痴をよく零していたと聞いた。


   とろみを付けると飲み易いのですが……とても、嫌がっていましたね。


   犬も、然うなのだろうか。


   犬、ですか。


   犬だって、歳は取るだろう?
   聞いた話では、最後は満足に食べられなくなってしまうと。


   ……犬もまた、加齢に伴って嚥下機能が低下してしまうのかも知れませんね。


   ちびもいずれ、然うなってしまうのだろうか……。


   ……長く生きれば、然ういうこともあるかも知れません。


   犬の命の時間は、ひとのこよりも短い……思う以上に、早く。


   まことさん。


   ん?


   ……ちびが、聞いています。


   あ……。


   ……。


   ちび、お前はあたし達の大事な家族だ。
   だからどうか、怒って呉れるなよ。


   ……ひとのこがひとつ歳を重ねる間に、犬は其れ以上の歳を重ねる。


   其れ以上……?


   はい……ですので、ちびはもう、立派な成犬なのかも知れません。


   うちに来て、未だ二年も経たないが……まぁ、躰は大きくなったけれど。


   ……出来れば、いつまでも元気良く食べていて欲しいものです。


   あぁ……然うだね。


   ……ちび、新しい布の具合はどう?


   ……。


   悪くない?
   然う、良かった。


   ……思い出すな、ちびが亜美さんに付いて来た日のこと。


   いいえ……ちびは、まことさんに付いて来たんですよ。


   いや、亜美さんにだよ……小さな躰で懸命に、亜美さんに付いて来たんだ。


   ……然うなの、ちび?


   ほら、鳴いた……やっぱり、亜美さんだ。


   ……まことさんでなく?


   ……。


   ……鳴かない。


   ね、あたしの言った通りだろう……?


   ……ちびは、素直ではないところがあるから。


   ん、犬に素直も何もあるもの……?


   ……あります、屹度。


   はは、あったら面白いな……。


   ……途中から、まことさんが背負う籠の中に入れられて。


   うん?


   ……帰り道。


   あぁ……小さな躰で山道を歩くのは、流石に辛かろうと思ったんだ。
   おかげで、薬の束を手で持つことになってしまったが……。


   ……私も持つと言ったのに。


   幸い、鞄もあったし……。


   ……もぅ。


   ちびは思いの外、大人しく入っていて呉れた。


   ……抱き上げる時に、咬み付かれなくて良かったです。


   ……。


   仔犬とは言え、咬まれたら危険ですから。


   ……あの時は、何も考えていなくて。


   然う思うと、ちびはまことさんにも懐いていたのだと。


   ん、然うか……。


   ……懐いていなければ、屹度、咬み付いていたでしょうから。


   然うなのかい、ちび。


   ……。


   うん……ちらっと、見ただけだ。


   ……肯定の返事だと思いますよ。


   然うだと、嬉しいけれど。


   ……若しかしたら、眠いのかも知れません。


   あぁ、其れはあるな……今日は昼寝をしている暇もなかったし。


   ……ちび、今はゆっくりとお休み。


   家の中なら、嵐の心配も要らないからな……。


   ……。


   布、枕のようにしているな……まぁ、気に入って呉れて良かったが。


   ……屹度、まことさんの匂いがするからだと思いますよ。


   あたしの……?


   ……元は、まことさんの手拭いですから。


   あたしは、亜美さんの匂いの方が良いな……。


   ……まことさんのことは、話していません。


   はい……。


   ……籠の中に入れられたちびも、ああやって丸くなって眠っていました。


   嫌がられなくて、良かったと思う……。


   ……入れられた直後は、落ち着かないのか、鳴いたり動いたりしきりにしていましたけれど。


   ん、然うだったか……?


   はい……暫くしてから、大人しくなったんです。


   ……。


   忘れてしまいましたか……?


   ……大人しくなったことに心配した亜美さんが籠の中を確認したら、丸くなって眠っていたんだっけ。


   多分、安心したのでしょう。


   ……ちびも、苦労していたみたいだからな。


   若しかしたら、まことさんの歩みの律動が心地好かったのかも知れません。


   ……然うなのだろうか。


   然うだと、私は思っています……。


   ……亜美さん。


   はい……。


   ……あたし達が食べる雑炊には、味噌を入れようか。


   今夜も冷えますし……何より、躰を温めるのにお味噌は良いと思います。


   うん、なら入れよう。


   ……。


   ……あの日は。


   ……。


   季節のわりに肌寒くて、小雨が降っていたんだ……。


   ……然うでしたね。


   ……。


   ……ちびは、子供達に追いかけ回されて。


   未だ小さな仔犬にむごい仕打ちをするものだと……思い出しただけでも腹が立つ。


   ……母犬の姿は、何処にもなくて。


   或いは、主に捨てられてしまったか……今となっては、分からない。


   ……ひとには、ある程度慣れていたと思うのです。


   其れでも、大分怯えていた……今でも、縮こまって震えていた姿をはっきりと思い出せる。


   ……余程、怖かったのでしょう。


   子供は、残酷だ。


   ……大人も、言えませんが。


   餌で、誘い出して……ちびにしてみれば、ごはんを貰えると思ったんだろう。


   ……。


   あぁ、やっぱり腹が立つな……。


   ……。


   ……亜美さん、どうした?


   いえ……涙が、出てきてしまって。


   ……。


   どうして、あんなことが出来るのでしょう……。


   ……よってたかって、石を投げつけるだなんてな。


   たまたま……本当にたまたま、当たらなかっただけで……若しも、当たっていたら。


   当たり所が悪ければ……大怪我だけでは、済まなかっただろう。


   ……。


   ……本当のことを言うとさ。


   はい……。


   ……怒りのあまり、殴り飛ばしてしまうところだったんだ。


   ……。


   すんでのところで、踏み止まったが……。


   ……まことさんの雷が落ちたような声で、かなり怯んでいました。


   ……。


   腰を抜かして動けなくなっている子も……。


   ……あれで、反省していれば良いが。


   中には、懲りない子も居るでしょう……。


   ……か弱い仔犬を痛めつけて、何が楽しいのだろうか。


   私には、理解出来ません……したく、ありません。


   ……。


   ……。


   ……亜美さん、そろそろ卵を。


   はい……直ぐに。


   ……此の卵は、美奈の家から?


   いえ、レイさんからです……。


   ……然うか、今はレイの家にも鶏が居るんだったな。


   うさぎちゃんが名前を付けて、可愛がっていた子です……。


   ……名はこっこ、だったか。


   はい……こっこ、です。


   ふふ……何度聞いても、其のままだ。


   でも、今となってはこっこ以外の名は浮かびません。


   ん、然うだね。


   お鍋……ぐつぐつと、美味しそうですね。


   ……うん、今夜も美味しく出来そうだ。


   ……。


   ……。


   ……ちびは、可愛い子です。


   うん……とても可愛い。


   ……若しも、付いて来て呉れなかったら。


   どうにかして、連れて帰って来ただろう……。


   ……。


   雨の中で、震えている姿を見てしまったら……。


   ……偽善、かも知れません。


   ぎぜん……?


   ……ちびのような仔犬は、他にも居るかも知れない。


   だとしても、あたし達の前に居たのはちびだよ……。


   ……可哀想だと、思ってしまったんです。


   可哀想……?


   ……仔犬一匹では、生きてはいけないだろうと。


   一匹で生きるのは、かなり難しいと思う……餌もだけれど、あの時のようにまた、ひとのこに痛めつけられることはあるだろうから。


   ひとのこだけでなく、他の獣にも……他の犬との縄張り争いだって、屹度あるでしょう。
   犬は縄張り意識が強い動物だと言います……特に野犬の場合だと、群れで生活をしていることが多いのでより危険だと。


   ……うん。


   どうしても、放っておけなかった……だから、付いて来て呉れた時は驚いたけれど、嬉しくもあったんです。


   ……屈んで、優しく声を掛けて。


   反応が、薄かったから……付いて来ては呉れないと思った。


   ……そんな時に、小さな声で鳴いたんだ。


   とても、か細い声で……今でも、耳に残っているの。


   ……恐る恐る亜美さんに近い付いてきて、試しに離れてみたら付いて来た。


   まことさんの足元にも近付いて……。


   ……においを嗅がれたよ。


   ふふ……然うでしたね。


   ……。


   ……あれからもう、一年半近く経つのですね。


   早いものだ……。


   ……狂犬病にも、罹ることなく。


   此のまま、罹らないで欲しい……若しも、罹ってしまったら。


   ……。


   ……ちびに、刃は向けたくない。


   あ……。


   ん、どうした?


   ちびが。


   ……ちび?


   お腹を、見せて。


   ……なんて、寝様だ。


   あ、元に戻りました……。


   ……なんだったんだ。


   犬も、寝返りをするのでしょうか……。


   ……腹を見せて寝ているのは、初めて見たが。


   お腹……冷えていないでしょうか。


   え、と……其れは、どうだろう。


   ……。


   ……。


   ……ふふ。


   はは……。


   ……無防備でしたね。


   全くだ……犬とは思えない。


   ……急所を見せるなんて、安心しきっているのでしょうか。


   然うかも知れない……いや、然うだと良い。


   ……はい。


   ……。


   ……。


   ……さて、あたし達のごはんもそろそろ良いだろう。


   然うですね……美味しそうに煮えています。


   食べようか、亜美さん。


   はい、頂きましょう。


   今となっては、ちびのごはんを先に作るんだもんな……。


   ……犬に、ひとのこと同じものを食べさせては良くないそうですから。


   まぁ、其れなら仕方ない……。


   ……あ。


   ん、今度はなんだい……?


   ……ちびが、見ています。


   ……。


   ちび、此れはあなたのごはんではないわ。


   此れは駄目だぞ、ちび。
   あたし達が食べるごはんだからな。


   ……。


   ……。


   ……伏せてしまいました。


   うん……。


   ……見ていただけ?


   利口……いや、少し変わった犬かも知れないな。


   ……ちびは賢い子なんです。


   あ、はい……。


   ……どうぞ、まことさん。


   うん、ありがとう……。


   ……。


   ……亜美さんは、ちびに甘い。


   何か言いましたか……?


   ……ちびに優しいと。


   まことさんも、優しいですよ……。


   ……ん。


   其れでは、まことさん……。


   ん……いただきます。


   ……いただきます。


   ……。


   ……。


   ……雷、遠くなったかな。


   はい、大分離れたかと……。


  18日





  -有機(パラレル)





   戻ったよ、亜美さん。


   あ。


   え。


   まことさん。


   亜美さん、どうした。


   いえ……ごめんなさい、驚かしてしまって。


   若しかして、外に出ようとしていた?


   ……今、まさに。


   ちびの声が聞こえたのかい?


   はい……其れで、まことさんが帰って来たのだと。


   然うか……。


   ……屹度、濡れてしまっただろうと思って。


   まぁ、少し……でも良かったよ、出なくて。
   亜美さんまで濡れる必要はない。


   ……どうぞ、中に。


   うん……ただいま、亜美さん。


   お帰りなさい……まことさん。


   然し参ったよ、まんまと降られてしまった。


   笠を此方に。


   うん。


   其れから、此れを。


   あぁ、ありがたい……ん、ほんのり温かい気がする。


   屹度、火の傍に置いておいたからだと思います。


   然うか……まるで、亜美さんの優しさのようだ。


   何処で降られてしまったのですか?


   もう直ぐ山を下りると言うところで、まんまと。


   あぁ。


   もう、家が見える所まで来ていたんだ。ちびも無事に帰れると思ったのだろう、あたしの顔を見て嬉しそうに一声鳴いてね。
   あたしもどうにか間に合うと思って、更に足を早めたのだけれど、あともう少しの所で降られてしまった。


   然うだったのですね……ちびは今、どうしていますか。


   あいつなら軒下で、お気に入りの布の上で躰を休めているよ。
   念の為、家に入る前に様子を見たが、尻尾を振っていたから大丈夫だとは思う。


   後でもう一度、様子を見てみましょう。


   あぁ、然うしよう。


   今回も頑張って呉れたのですよね。


   だから美味い飯を食わせてやると、帰り道に約束してしまった。


   では、若しもうっかり忘れたなんてことになったら。


   機嫌を損ねてしまうだろう。
   約束したことはちゃんと憶えているからなぁ、あいつは。


   ふふ、ならば美味しいごはんを用意しましょう。


   肉はないが、良いかな。


   お肉がなくたって、美味しい筈ですよ。
   毎回、残さず綺麗に食べていますから。


   ん、確かに。


   ……。


   ……。


   ……雨脚が強まってきましたね。


   あぁ……場合に依っては、ちびを中に入れてやらないと。


   ……はい、其の方が良いと思います。


   風が出て来なければ良いが……。


   ……今頃の雨のわりには、降り方が強いですよね。


   然うなんだ、今頃でこんな降り方をするのは珍……


   ……きゃっ。


   雷、か……。


   ……あぁ、吃驚しました。


   突然だったな……大丈夫かい、亜美さん。


   はい、大丈夫です……。


   いよいよ、珍しいな……ともあれ、家で良かった。


   ……はぁ。


   亜美さん……?


   まことさんが、帰って来ていて……良かったと。


   済まない……心配させてしまったね。


   ……謝らないで下さい、まことさんが悪いわけではないのですから。


   此の時期に、こんな雨が降るとは考えもしなかった……。


   ……私も同じです。


   油断と言えば、然うなのだろう……だから、済まない。


   ……良いのです、無事に帰って来て呉れたのですから。


   亜美さん……うん。


   ……若しかしたら、嵐になるでしょうか。


   ならないとは言えないから、ちびを土間に入れておいた方が良さそうだ。


   然うですね……入れてやりましょう。


   どれ……。


   あ、まことさん、私が。


   いや、あたしが。


   ……でも。


   亜美さんまで、濡れないで欲しい。


   ……。


   冬の前の雨で、本当に冷たいんだ。


   ……分かりました。


   ちび、おいで。雨が止むまで、お前の寝床は土間だ。
   嫌かも知れないが、雨が通り過ぎるまでどうか我慢して呉れ。


   ……。


   良し、良い子だ。
   お気に入りの布もちゃんと持って来たんだな。


   ちび、お帰りなさい……後で、ごはんをあげるわね。


   はは、良い声だ。
   でも、出来れば大人しくしていて呉れよ……と。


   ふふ……隅に行ってしまいましたね。


   利口な奴だ。


   ……良い子です、とても。


   あぁ……本当に。


   ……寒くは、ないでしょうか。


   あいつは寒さに強いから、大丈夫だとは思うが……心配かい?


   ……予期せぬ冷たい雨に打たれたので。


   若し良かったら、もう一枚布をやろう。
   確か、


   はい、然うしましょう。


   お。


   気に入って呉れると良いのですが。


   亜美さんがあげれば、気に入るんじゃないかな。


   私よりも、まことさんの方が。


   見てごらん。


   はい?


   ちびの奴、耳を立ててあたし達の話を聞いている。


   ……確かに、立っていますね。


   亜美さんの方が良いかい、ちび。


   ……。


   うん、やっぱり亜美さんの方が良いらしい。


   ……もう、ちびは。


   はは。


   ……もう少し、待っていてね。


   良い返事だな。


   ……ふふ。


   ……。


   ……まことさん?


   ちびと、帰途に就いて。


   ……はい。


   ふと空を見上げたら、村の方に向かって黒い雨雲が広がっていて……其処からは、雲との競争だった。


   ……雨宿りをすることは、考えていなかったのですか。


   いざとなったら雨宿りをすることも考えたが、出来るだけ、早く帰りたいと思って。
   だけど、急いで正解だった……まさか、雷まで鳴り出すとは。


   ……雨宿りをする前提で動いていたら、今頃、雷の下に。


   然うなったら、身動きが取れなくなっていた……急いで、良かったと思う。


   ……ご無事で、本当に良かった。


   亜美さん……。


   ……拭き終わったら声を掛けて下さいね、足を洗いますので。


   うん……ありがとう。


   着替えも用意してあります……冷えていると思いますので、どうぞ火の傍で着替えて下さい。


   あぁ、然うさせて貰うよ……。


   ……では、私はお湯の支度をしますので。


   亜美さん。


   ……はい、なんでしょう。


   ありがとう、とても助かるよ。


   ……私は、家で待っているだけでしたから。


   亜美さんが家で待っていて呉れる……然う思ったから、帰って来られたんだ。


   ……まことさん。


   改めて……ただいま、亜美さん。


   はい……お帰りなさい、まことさん。


   うん……。


   ……。


   ……患者さんは。


   雨が降る前に……。


   ……然うか、其れは良かった。


   雨は、いつまで降るのでしょうか。


   分からない……若しかしたら、今日はもう止まないかも知れない。


   ……外、真っ暗ですね。


   日が暮れる前に、帰って来た筈なんだが……と。


   ……。


   一瞬、昼間のようになったな……。


   ……地響きまで、感じます。


   いずれ流れて行くとは思うが……用心は、しておこう。


   ……はい、まことさん。


   ふぅ……。


   ……拭き終わりましたか。


   あぁ、拭き終わった。


   ……髪が、湿っていますね。


   何、火の傍に居れば其のうち乾く。


   ……風邪を、引くようなことがないように。


   兎に角、躰を温めよう。


   ……落ち着いたら、熱いお茶を淹れましょう。


   ありがとう、亜美さん。


   いいえ……どういたしまして。


   ……靴も、乾かさないとな。


   まことさん、此方に。


   ん。


   どうぞ、座って下さい。


   では、お言葉に甘えて。


   両足を


   あぁ、然うだ。


   ……はい?


   其の前に、亜美さん……此れ、お土産。


   お土産、ですか……。


   飴菓子だ。


   飴菓子……。


   飴菓子売りがたまたま来ていてね……珍しいと思って、四粒入りをひとつ買ったんだ。


   ……まさか、此れを買うのに悩んで。


   いや、悩んではいない。
   見掛けた時にはもう、買おうと決めていたから。


   ……。


   封信を配達人に届けて、其れから直ぐに飴菓子売りへ引き返したんだが。


   何かあったのですか?


   見掛けた時よりも買う者が増えていて、其処で時間を使ってしまったんだ。


   ……珍しいから、ですね。


   見掛けた時に直ぐ、買っておけば良かった。
   然うすれば、雨に濡れずに済んだかも知れない。


   ……一休みすることなく、町を出たのですか。


   どうしても、直ぐに帰りたかったから。
   ちびは、あたしが用を済ましている時に休んでいたよ。


   ……躰は、大事ないですか。


   疲れは感じていないが、今夜はゆっくり休もうと思う。
   出来れば、亜美さんと一緒に。


   ……。


   駄目、かい?


   ……いいえ、駄目ではありません。


   ん……良かった。


   ……両足を、お湯に。


   うん……。


   ……お湯の加減は、如何でしょうか。


   あぁ……あったかくて、気持ちが良い。


   お湯が冷めてしまう前に……先ずは、右足から。


   うん……頼む。


   ……。


   ……ん。


   掠り傷が、出来ています……。


   ……足元には気を付けていたんだが、其処までは気を回せなかった。


   仕方がありません……後で薬を塗っておきましょう。


   ……うん。


   ……。


   はぁ……気持ちが良い。


   ……。


   ねぇ、亜美さん……。


   ……はい、なんでしょう。


   飴菓子……硬くなってしまう前に食べよう。


   ……はい、熱いお茶と一緒に頂きましょう。


   あ……。


   ……どうかしましたか。


   濡れては、いないだろうか……一応、懐には入れてきたんだが。


   ……見た所、大丈夫だと思います。


   ……。


   ……しっかりと、竹の皮に包まれていたので。


   然うか……其れならば、大丈夫だな。


   ……左足を。


   ん……。


   ……。


   ……ふぅ。


   ねぇ、まことさん……。


   ……なんだい。


   医生速達便は、使えたでしょうか……。


   あぁ、然うだった……未だ、報告していなかったね。


   ……駄目でしたか。


   其れが……。


   ……やっぱり、もう。


   ちゃんと、引き受けて呉れたよ……。


   ……え。


   大帳のようなもので、確認してから……亜美さんの名で、今でも使えると。


   ……。


   使えないと、思っていた……?


   ……私はもう大分前に、都の医生であることを辞めたから。


   お義母さんだ……。


   ……母が、どうかしましたか。


   亜美さんのお義母さんの名前を聞かれた……。


   ……母の。


   答えたら……医生速達便で、届けて呉れると。


   ……。


   若しもの時の為に……亜美さんの名を消させることなく、残しておいて呉れたのかも知れない。


   ……そんなこと、一言も。


   不器用なひと、なのだと思う……。


   ……不器用、ですか。


   あたしには、然う見える……。


   ……まことさんが然う見えるのならば、屹度、然うなのでしょうね。


   亜美さんには、然う見えないかい……?


   ……私には、見えません。


   然うか……。


   ……まことさんから見て、母は。


   其れは、難しいなぁ……。


   ……。


   亜美さんが今日までに話して呉れたことは、嘘偽りではなく、本当のことだと思う……。


   ……でも、母には母の事情があったと。


   で、あろうとも……亜美さんが寂しい思いをしていたことは、決して拭い去ることは出来ない。


   ……。


   だから……ただただ、不器用なひとだと。


   ……然う。


   封信……いつ頃、届くだろうか。


   ……早ければ、三日程で。


   三日か……其れは、かなり速いな。
   普通の封信だと、一ヶ月は掛かる……。


   ……返信も、医生速達便を使って呉れれば。


   使って呉れるだろう……お義母さんなら。


   ……其れ以前に、受け取って呉れるでしょうか。


   あたしは、受け取って呉れると思う……でなければ、亜美さんの名を残したりはしないさ。


   ……。


   学姐も……。


   ……学姐は、受け取って呉れると思います。


   ん……?


   ……学姐ならば、若しかしたら。


   薬を、作って呉れる……?


   ……或いは、もう手元にあるかも知れません。


   あぁ、然うだと良いな……。


   ……。


   ……亜美さん、そろそろ。


   あ……。


   ……亜美さんのおかげで、さっぱりしたよ。


   ごめんなさい……左足ばかり。


   はは、構わないさ……とても気持ち良かった、ありがとう。


   ……。


   兎に角、封信は出した……。


   ……あとは、返事が来て呉れることを。


   大丈夫だ、亜美さん……屹度、大丈夫。


   ……。


   今日は、あのひとを診たのかい……?


   ……はい。


   状態は……。


   ……精神状態は、落ち着いていたと思います。


   然うか……あの子は。


   ……うさぎちゃんのお母さんと暫し、傍に。


   ……。


   触れることは、叶いませんが……同じ部屋で、同じ時を過ごしていました。


   ……記憶には、残るかな。


   難しいと思います……未だ、赤子ですから。


   ……然うだよな。


   まことさん、先に上がって着替えて下さい。
   私はお湯を片付けてから参ります。


   分かった……じゃあ、先に上がっているよ。


   ……はい。


   よ、と……。


   あ、飴菓子も中に。


   あぁ、忘れずに持って行こう。


   はい。


   ……待っているよ、亜美さん。


   待っていて下さい……まことさん。


   ……。


   ……。


   ……雨は。


   止みそうに、ありませんね……。


  17日





   なぁ、マーキュリー。


   ……何。


   あたしは足の上に座るよりも、座らせる方が好きかも知れない。


   ……今更。


   向きには特段、拘りはないんだけどさ、向かい合っているのが一番好きだ。


   ……拘りはないかも知れないけれど、細かい好みはある。


   お前を足の上に乗せていると、お前の方が頭一つ分くらい高くなるだろう?


   ……だから、何。


   上からの目腺がまた、堪らないんだ。


   ……見下されているようで?


   見下ろす、だろう?


   ……物は言いよう。


   まぁ、見下されるのも……場合によっては、良い。


   ……あなたの好み、やっぱり私には理解出来ないわ。


   物好き、だろ?


   ……物好きの範疇を超えている。


   好みは、其々だ。


   其々だけれど、其の中でもあなたの好みは異常者に近いような気がするわ。


   異常者?


   ……通常の者だったら、私に執着など持たない。


   ジュピターでもか?


   ……ジュピターでもよ。


   然うかな、あたしは然うは思わないけどな。


   ……先代のジュピターは。


   マーキュリーに対しても、仏頂面をするような奴だったんだろう?


   ……朴訥で、不器用なひとだったらしいけれど。


   マーキュリーに仏頂面なんて、あたしには考えられないな。
   顔に表情の筋肉がついてなかったんだろうか。


   ……緩みっぱなしのあなたとは大違いね。


   あたしの顔の筋肉が緩むのは、お前と一緒に居る時だけだからな。
   お前以外の奴には、


   子供達の前でも、緩んでいると思うけれど。


   ちび達は、月宮に蔓延る人形達とは違うだろう?


   つまり、今となっては私だけではないと。


   緩み方が違うぞ……ちび達には、下心なんて持ってないからな。


   持っていたら、許さないわ。


   ちび達は……あたし達の子供みたいなものだから、持ちようがないさ。


   ……子供?


   お前にしてみれば、有り得ないことだろうが……。


   ……あの子達は、私達の子供ではないわ。


   ……。


   あの子達は……「私達」の、次の「器」に過ぎない。
   ジュピターとマーキュリーの「器」……「私達」、其のものなのよ。


   ……器であろうとも、子供のように思っても良いと思うんだ。


   人形でしかないのに……?


   ……心が宿っているのなら、其れはもう、人形ではない。


   ……。


   であるならば、ちび達が子供で、あたし達が……。


   ……。


   ……なんて、言うんだっけ。


   決まらないわね……相変わらず。


   うーん……憶えていたんだけどな。


   ……親よ。


   然うだ、親……あたし達は、親子だ。


   ……まるで、青い星のひとのこのよう。


   腹を痛めて産んでいなくても、血の繋がりとやらがなくても、親子にはなれる……だったよな?


   皆が皆、ではないようだけれど……大体、私達とは成り立ちがまるきり違うわ。


   ……しっくりくるんだ。


   親子という関係性が……?


   ……こんなことを考えるなんて、あたしは益々異常者かも知れないな。


   月の民として見れば、然うでしょうね……青い星の真似事と見られても、おかしくはないし。


   ……生憎、あたしは月の民であって月の民ではないんだ。


   然う……あなたは、あくまでも木星の民。


   ……であれば、異常者ではないだろうか。


   ……。


   ……いや、木星の民其のものが


   ジュピター。


   ……ん。


   あなたが然う思いたいのなら、然う思えば良い。


   ……異常者?


   違う……。


   ……異常者ではない?


   其れは……あくまでも、好みの話。


   ふふ……然うか。


   ……。


   ……ちび達と。


   ……。


   なぁ、マーキュリー……マーキュリーは、嫌か。


   ……あなたが、其れを望むのなら。


   望む……。


   ……まぁ、付き合ってあげても良いわ。


   本当か……?


   ……嘘の方が良い?


   いや、本当が良い……。


   ……ならば、本当で。


   お前は、嘘を吐くのが上手だから……。


   ……いつ、嘘になるか分からないわよ。


   其れは、困る……ずっと本当であって欲しい。


   ……あなた次第ね。


   あたし次第……?


   ……然う、あなた次第。


   じゃあ、大丈夫だ……。


   ……自信があるの?


   ある……。


   ……今度ばかりは、根拠があるのかしら。


   あたしの気持ちは、揺らがないからな……。


   気持ちは不安定なもの、だから、根拠になんて為り得ないのだけれど。


   何百年と生きてきて、一度だって揺らいだことはなかった。


   ……。


   つまり、あたし自身が根拠其のものだ。


   ……毎度のことだけれど、意味が分からない。


   然うは言うが、本当は分かっているんだろう?


   ……其れもまた、意味が分からない。


   分かっていることが、か?


   ……積み重ねって、厄介なものね。


   はは、然うかもなぁ。


   ……昔の私だったら、跳ね除けたかも知れない。


   跳ね除けても……最後には、受け入れて呉れそうだけどな。


   ……あなたが一番、厄介。


   あれよりもか?


   ……。


   う。


   ……此処で、あれを出す?


   あ、あぁ……。


   ……かなり不愉快。


   そ、然うだな……本当に、悪かった。


   ……調子に乗るからよ。


   悪い癖なんだ……。


   ……今は、出さないで。


   ん、もう出さない……。


   ……あれは厄介なんて言葉では片付けられない、まさに悪辣の塊。


   ……。


   ……なに。


   いや……話を戻そう。


   ……何処まで?


   ちび達とあたし達は、親子……。


   ……其の話を続けたいの?


   ん、然うだな……続けても、良いかな。


   ……。


   ん……マーキュリー。


   ……あなたは、私以外の者には本当に興味がなさそうな態度を取る。


   だって、本当に興味がないからな……。


   ……仮令其れが、青い星からの特使の前であろうともね。


   そもそも、あたしには向いていない……ああいうのは、外面が良いヴィナか、堅苦しいマーズの方が向いている。


   ……其れは、然う。


   マーキュリーも、合わないだろう?


   ……合わないわね。


   はは、似た者だ。


   一緒にはしないで。


   あまりにも態度が悪いと、何度もマーズに説教されたよな。


   あなたと一緒にね。


   いつもふたりだったよなぁ。今日こそは大丈夫だろうと思っていても、お説教が待っていてさ。
   毎回毎回同じようなことを言っていて、よくも飽きないものだと途中からは感心していた。


   あなたのせいで、余計にお説教時間が伸びたりもしたわ。


   別に聞いていないわけではないのにな。
   ただ、心に留めていないだけで。


   其れを見抜くのがマーズなのよ。


   マーキュリーなんて、ほぼほぼ聞いていなかっただろう?
   聞いていた分だけ、あたしの方がましだと思うんだが。


   目糞鼻糞だと言われたわ。


   最早、真っ直ぐな悪口だよなぁ、其れ。


   マーズに毎回毎回、お説教されるのはかなり心外だったわ。
   あなたよりは態度が柔らかく、表情も仏頂面ではなかった筈なのに。


   いつも思うんだけどさ、あれの何処がだ?
   とても退屈そうな態度で、表情も氷のように無表情だぞ?


   とても退屈だったのは其の通りだけれど、外には出していなかった。
   表情だって氷と水の間くらい、液晶ぐらいの心持ちで居たわ。


   液晶……って、なんだったか。


   たった今言ったでしょう、氷と水の間くらいだと。


   あの顔は、液晶の顔だったのか。


   いえ、粘性はないから、やっぱり氷で良いわ。


   なんだ、やっぱり氷だったんじゃないか。


   マーズは、堅苦しい上に暑苦しいのよ。


   火気だけに。


   詰まらない。


   応。


   取り敢えず、粗相がないようにしていれば事足りるでしょうに。


   曰く、あたし達には愛想が全然足りてなかった。


   心外でしかない、あなたなんかと一緒にされて。
   私は愛想が溢れていたのに。


   何処が?


   あなたよりは、と言っているでしょう。
   あなたなんて、今にも鼻をほじりそうな態度で。


   いや、流石に其れはしないぞ。


   本当にするわけではなく、今にもしそうという話。


   マーキュリー……あたしのこと、然う思っていたのか。


   いいえ、ヴィナが言っていたわ。


   ……。


   其れもまた、糞餓鬼みたいで面白いと笑っていたけれど。


   ……あいつ。


   マーズには、今にも横になって、お腹を掻きながら眠りそうだと言われていたわよね。


   ヴィナもマーズも、あたしのことをなんだと思っているんだ。


   ……糞餓鬼?


   守護神とは思えぬ口の悪さだな。


   私以上にね。


   いや、其れは


   ない、なんて、言わないでしょう?


   あぁ、言わないよ。
   あのふたりは本当に口が悪かった、其れこそマーキュリー以上に。


   ええ、本当に。


   あたしがどれだけ、手を大事にしているか。ヴィナは全く、分かっていない。
   ごはんを作るのに、マーキュリーに触れるのに、手を汚すようなことはあまりしたくないんだ。
   こう見えて綺麗好きなんだよ、あたしは。


   然う言って、私の寝台の上を勝手に片付けるの。


   寝る場所は大事だからな。


   他は?


   他は、まぁ、足の踏み場がなくなったら片付ければ良い。


   其の割には、こまめに片付けて呉れたけれど。


   万が一、転んで怪我でもしたら大変だからな。


   そんなへまはしないわ。


   疲れ切っていたら、足元が疎かになる。


   然うなったら、床で寝れば良いだけ。


   然うならないように、あたしは片付けるんだ。


   今も?


   然う、今も。
   見て呉れ、綺麗になったろう?


   元から綺麗だった。


   綺麗な部屋の床には、書物が重なって置かれていることはない。


   置かれているわよ、あなたが知らないだけで。


   前にも聞いたが、書物を積み重ねるのは水星の民の特性なのか?


   前にも言ったけれど、木星の民は書物を読むことなんてまずないから、分からないでしょうね。


   水星の民でも、綺麗にしている奴は結構居ると聞いたぞ?


   一部よ。


   一部か。


   中には私以上に散らかっている者も居るわ。


   まぁ、あたしには関係ないから良いんだけどな。


   私にも然うであって呉れたら良かったのに。


   其れは無理だ。


   は。


   因みに、木星の民は書物に縁がない分、他のものを散らかす。


   知ってる。


   なんで知っているんだ。


   以前、あなたが言っていたから。


   あぁ、然うか。
   はぁ、良かった。


   どんな勘違いをしているの。


   勘違いと言うより、気のせいだった。


   片付けてあげなかったのね。


   あたしはそんなに暇ではないからな。


   私にも、然うであって呉れたら、良かったのに。


   ははは、は?


   何も面白くない。


   ……ひゃい。


   はぁ。


   ……。


   ん、なに……。


   ……可愛いなと思って。


   脈絡がない。


   ……そんなものは、なくても良いんだ。


   然ういう気分じゃない。


   ……うん。


   ジュピター。


   ……マーズはマーズで、あたしが横になって腹を掻くのはマーキュリーとふたりで居る時だけで、他の奴らの前では絶対にしないということを知らない。


   一度でもあの姿を見たら、其れ見たことかと思われただろうに。


   ……然うしたら、マーキュリーの前でだけだと言えば良い。


   あまりにも、くだらない……。


   ……。


   ……ジュピター。


   やっぱり、足の上に座らせるのは良い……距離が、近くて。


   ……そろそろ、下りたいのだけれど。


   もう少し……。


   ……。


   ……然うしたら、ふたりで甘いお茶を。


   全く……とんだ、甘えたね。


   ……うん、然うなんだ。


   ……。


   ……青い果実、まだまだ沢山あるぞ。


   知ってる……。


   ……食べて呉れて、ありがとうな。


   目に良いから。


   ……。


   ……心なしか、水気の巡りも良いみたいなの。


   え、本当か……。


   ……嘘。